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三大秘法について考えるスレッド
31
:
沖浦克治
:2009/06/15(月) 06:34:01 ID:AJ3hr85o0
雨煽りさん、おはようございます
文証を出せない人たちですよ。
だから眺め人なんですね。
御書を知識として読む。
マグマグ教学、天城邪説共通です。
一大事因縁。
御書に明確です。
諸仏出世の本懐。
書かれています。
読めない。
辛い人生ですね。
32
:
雨煽り
:2009/06/15(月) 16:01:45 ID:NjA8zkPc0
沖浦さん
ほ〜んと、困った人達ですね。
日寛教学で一大秘法本尊義が戒壇本尊を指すことも知らなくて
一大秘法云々するのですからね。
もう一度一から教学をやり直した方がいいのではないでしょうか。
坊主教学では無く、創価教学をね。(笑)
理の教学では無く、事の教学をという意味です。
せめて、自分が引用する文言の理解くらいはしてから引用してほしいものです。
「山は三角だ」と子供が言ってるような論ですから
私は、あほらしくて相手しませんが…((笑))
33
:
雨煽り
:2009/06/18(木) 17:37:50 ID:NjA8zkPc0
御書に『一大秘法』とあるのは一編二箇所だけです。
この御書を切り文にして、宝塔が書いてあるから本尊と解釈する…
それも解釈のひとつですから間違いだとは思いません。
ただし、「題目義」を間違いだ。と言う事が間違っている。と主張しているのです。
『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』を、題目と読むのが普通で常識だと思いますが…
上記、宝塔は「付属された処の説明」と、私には拝せます。
『大覚世尊仏眼を以って末法をかん知し此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏・高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べ敷き衆星の如く列座したもう、四百万億那由多の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は華厳寂場の華蔵世界にも優れ真言両界の千二百余尊にも超えたり一切世間の眼なり、此の大会に於いて六難九易を挙げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諌暁せしむ、』
『所謂』から『一切世間の眼なり、』までが宝塔の説明で、
『四百万億那由多の大地に三仏二会に充満したもうの儀式』の具体的な状況説明になります。
この『一切世間の眼なり、』で切り文にすれば、本尊の説明になり、
一大秘法は本尊と解釈できるでしょう。
が、『此の大会に於て』と続きます。
『此の大会に於て』ですから、『此の大会』は単なる背景説明である。と私には拝せます。
この宝塔という儀式の場で行われた、地涌の菩薩への付属、
『四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり、』
『此の一大秘法を持して』
と、『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』が一大秘法と書かれているのです。
宝塔を背景として付属された『何物』だから宝塔とは別物です。
つまり、一大秘法は題目だと拝される訳です。
解釈は自由ですから、本尊と拘って(笑)解釈するのも自由でしょう。
が、「一大秘法題目義」を間違いだと言う事が間違いなのです。
間違いだと言いたければ、間違っているという証拠を出せばいいのです。
証拠も無く、間違いだと言ってる人は御書を否定している事になるのです。
私は、「題目義」でも「本尊義」でも御書によってどちらも解釈できますから、どちらも間違いではない。と断じているのです。
「題目義」は、明確に御書に書かれている。
「本尊義」は、明確には書かれていないが、道理として解釈できる。
これが理由です。
「題目」と「本尊」は対向するものではなく、どちらも『南無妙法蓮華経』ですからね。
一大秘法という文言は曾谷入道殿許御書一編だけしかありませんから、この御書を無視して、「一大秘法義」は判じられません。
この御書に、どう書いてあるのか。を元にして、意味の解釈を他の御書に依る訳です。
故に、『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』が、他で、どう用いられているのかも問題になります。
他御書で、明確に題目意で書かれている箇所もあれば、明確では無い箇所もありますが、
少なくとも、本尊意の明確な箇所はありません。
『出世の本懐』は釈尊出世の本懐と諸仏出世の本懐と大聖人出世の本懐の三通りありますから、
ただ単に『出世の本懐』と書かれている御書では、三通りの解釈をしてみる必要が生じてきますが、
『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』は題目で良いのではないでしょうか。
五重玄ですから、本尊は体になりますからね。
「題目」を、ただの教題だ。とか、口唱の題目だ。とかの、偏狭な思考ではなく、
法としての「題目」で良いと思います。
くれぐれも、「一大秘法題目義」が「邪義」だと言う人は
「一大秘法は題目ではない」という文証を上げてくださいね。
35
:
山口
:2011/09/17(土) 11:19:35 ID:18A/XbaoO
■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳
"一閻浮提第一の本尊"とは文字通り、「ただ御一幅の本尊」
ということである。
"第一"とは二もなく三もなし。との意である。
■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 661)
"一閻浮提第一の本尊"とは文字通り、「ただ御一幅の本尊」
ということである。
"第一"とは二もなく三もなし。との意である。
学会員には理解できない御文でしょうな。
36
:
沖浦克治
:2011/09/17(土) 12:12:32 ID:AJ3hr85o0
山口さん、今日は
自己紹介のスレッドがありますので、そこで自己紹介をしてください。
学会員には理解できないとのことですが、そもそもそう言うことを理解する必要がありません。
そのあたりの屁理屈は、寛師教学の範疇で、現在では既に過去の遺物です。
どうぞ、日蓮正宗辺りの、法主能化レベルの低俗任せておいていいのです。
37
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/09/17(土) 17:03:52 ID:Gb1LY/Uc0
こんばんは
末法本未有善説の正宗曲解教義をきれいさっぱり捨て去り、
久遠即末法の日蓮大聖人仏法に立ち返ることができました
38
:
沖浦克治
:2011/09/17(土) 18:00:42 ID:AJ3hr85o0
某男子部員さん、今晩は
日蓮正宗って、釈迦仏法の入り口なんです。
駄目ですね。
39
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/09/17(土) 18:32:21 ID:LI1uqzVg0
沖浦克治さん、こんばんは
そうですね。釈迦仏法にも無いことをのたまわっていますね
40
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/09/17(土) 19:41:57 ID:Fl7H4pK20
大集経と、十六王子に下種した大通仏や、日月燈明如来等をモチーフに創作されたのが末法本未有善説なんでしょうね
41
:
山口
:2011/09/17(土) 22:10:26 ID:18A/XbaoO
某男子部員さん はじめましてm(__)m山口と申します。
ところで
>釈迦仏法にも無いことをのたまわっていますね
↑
とは?
何を指して言われているのでしょうか?
具体的にお教え願えれば幸です。
42
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/09/18(日) 02:14:55 ID:Fl7H4pK20
山口さん、はじめまして。よろしくお願い致します
末法本未有善のことです
43
:
山口
:2011/09/18(日) 08:23:04 ID:18A/XbaoO
>>42
おはようございます
末法本未有善??
は?
その言葉だけでは、某男子部員さんの言われた
>釈迦仏法にも無いことをのたまわっていますね
に、対する説明になりません。
もう少し具体的に、お馬鹿な私に分かりやすく説明願えればと思います。
44
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/09/18(日) 13:30:36 ID:/cSBvAqY0
山口さん、おはようございます
「末法本未有善」なる文言は釈迦仏法には無いということであります
45
:
臥薪嘗胆
:2011/09/18(日) 14:45:32 ID:TySxh7y60
山口さん毎度!
あんさんの知識では無理!!
沖浦さんには、太刀打ちでけません!!去りなはれ!!
以上横レスすまそ。さいなら〜〜
46
:
沖浦克治
:2013/02/11(月) 15:10:54 ID:S/8Rcgto0
あげます
47
:
沖浦克治
:2013/03/09(土) 05:29:06
富士ボ〜からです。
>法華開会の絶待妙により、所対の仏教一切の法門がその体内に帰一して絶待妙の用となる如く、絶待妙の「本門戒壇の大御本尊」より開会すれば「各個別々ノ本尊及ビ血脈付法ノ本尊」は、「本門戒壇の大御本尊」の体内に帰一し、絶待妙の用となる道理である。何故なら、大聖人の全ての御本尊は、究意中の究寛、本懐中の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」から顕れた法体だからである。御歴代上人もその御内証の上から御書写遊ばされるのであるから同じである。
〜引用終わり〜
寛師教学の発展形ですね。
戒壇本尊が本懐と言う思想は大聖人にはございません。
寛師の邪義です。
邪義を元にして、どれほど論を組み立てても、無意味です。
48
:
沖浦克治
:2013/03/09(土) 05:39:36
戒壇本尊が大聖人のご真筆でないことは、ほとんど常識化しております。
更には、歴代日蓮正宗の法主達は、戒壇本尊を書写しておりません。
何度も書きましたが、頭破作七分、福十号がありませんし、滅度にも10年の異なりがあります。
もし、法主の権能とやらで、変えているなら、信徒に対して、法主には説明責任がありますが、答えた人はいません。
答えることが出来ない。
これが真実でしょう。
更には、大聖人は曼荼羅原理主義ではございません。
戒壇本尊を、一大秘法の当体として、人の上に据えることは、偶像崇拝であり原理主義です。
そう言う思想は仏法にはございません。
49
:
沖浦克治
:2013/03/09(土) 07:54:19
阿部日さん、マグマグさん
戒壇本尊本懐論をキチンと破折なさい。
そして、大聖人戸田先生が仰せにように、ご本尊は私共が信心をするための道具なのです。
そう言う事実をキチンと認識でない限り、貴方方の教学は曼荼羅原理主義の寛師の域を脱しません。
いくら日蓮正宗を破折したかっても、寛師の邪義を捨てない限り、永久に同じ土俵でせめぎ合うだけです。
そう言う惨めで無駄な、論争はお止めなさい。
曼荼羅は大聖人が発明された、幸福製造機という道具です。
戸田先生がキチンとご指導でしょう。
何故理解できませんか?
50
:
沖浦克治
:2013/04/25(木) 06:26:50
本尊に迷う人が多いですね。
人間革命にキチンと載っていますが、何故読まないのでしょう?
読めば何方でも、大聖人仏法での本尊とは何か?が分かります。
引用致しますから、お読み下さい。
新・人間革命第19巻・297Pから、抜粋引用。
『大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば 『本尊』 であります。『本尊』 とは、『根本として尊敬すべきもの』 です。人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。ゆえに、いちばんの根本となる 『本尊』 を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
では、その 『本尊』 の内容とは何か」
「それは、『御本尊七箇相承』 に 『汝等が身を以って本尊と為す可し』 (富士宗学要集・第一巻) とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』 ということであります」
「つまり、大聖人の仏法は 『一切の根源は “生命” それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに “人間生命” そのものである』 という哲理であり、思想なのであります」
伸一は、さらに、「御本尊七箇相承」の 「法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」 の文を引き、こう語った。
「宇宙を構成している要素である地・水・火・風・空という、同じ五大種によって、人間も構成されている。大聖人は、『宇宙法界の全要素』 と 『日蓮という一個の生命体の全要素』 とは、全く同じものであると断言されているのであります。これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
わが身は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を 『本尊』 として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』 の原点を見いだすものであります」
伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。
日蓮大聖人は、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244P) と仰せになっている。
また、法華経に説かれた宝塔について、「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(797P) とも言われている。
仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ) ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための 「明鏡」 こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。』
〜引用終わり〜
51
:
沖浦克治
:2013/04/25(木) 06:33:16
少し説明致します。
『仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ) ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための 「明鏡」 こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。』
私共の命が本尊で、それを映し出し湧現させる手段として、大聖人が明鏡として御本尊をご図顕なされた。
音楽に喩えるなら、楽器が手段で曼荼羅本尊。
弾き手がメロディーを創りだす本体。
双方が境智冥合するなら、素晴らしい音楽が生まれます。
拝む私共の信力行力が、曼荼羅本尊を通じて大宇宙の仏界に冥合し、仏力法力を引き出します。
これが、大聖人ご図顕の曼荼羅本尊と、拝む私共の関係です。
ですので、何処まで行っても、拝む私共が主体なのです。
52
:
沖浦克治
:2013/04/25(木) 06:35:08
マグマグさん、おはようございます。
貴方に最も欠けているのが、この大聖人仏法の基本思想です。
真面目に勉強しませんか?
私共に怨嫉して、福運を消すより、真面目に創価思想を学ぶ方が、一億倍はいいですよ。
53
:
沖浦克治
:2013/04/27(土) 06:32:43
マグマグさん、おはようございます。
少し本来の宗門教学を学びましょう。
寛師の害毒に犯されていない部分もあります。
堀上人が引用されておられますが、この人はかなり正しいご意見をお持ちの先ず少ない宗門の法主だった方です。
御本尊七箇相承
二、真実の十界互具は如何、師曰はく唱へられ給ふ処の七字は仏界なり・唱へ奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち四教の因果を打破つて真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり秘す可し秘す可し。
私どもが、実仏、
出世の応仏は垂迹施権の権仏なり。
読めますね??
本来の興師門流は、私どもが実仏(本仏)で、私共に応じて出現する仏は権仏(迹仏)なのです。
それを、寛師という習い損ないが戒壇本尊本懐をでっち上げて、曼荼羅を人の上に置く邪義を広め覆したのです。
では、応じて出現する仏が迹仏なら、大聖人のお立場はどう言うものなのか?
思索なさい。
54
:
沖浦克治
:2013/05/21(火) 06:25:57 ID:U7nVm6lA0
天城さん、マグマグさん、愚壮さんなどは、
三大秘法が全く理解出来ませんね。
55
:
沖浦克治
:2013/07/04(木) 06:46:13 ID:lHNUoBrE0
若鷹のナナシさんや、おはようございます。
寛師お好きなんですね。
それは結構です、貴方個人のご趣味です。
タダね、私は福島さんが好きです。
これも私個人の趣味ですから、他人が文句言うことないです。
勘違いしてはいけませんよ。
貴方が寛師が趣味、私が福島さんが好み。
これはね、あくまでも私と貴方の主観です。
他人に強制したらいけません。
同じく、私は寛師は習いそこ無いと思っていますが、好きな部類の人です。
でもね、彼は曼荼羅を三大秘法の当体だというミスを犯しています。
大聖人仏法から逸脱した人。
ですので、好きでも邪義は邪義。
更には、国家諫業をしていません。
目師まででそこから先、国家諫業は、牧口先生までないのです。
ですから、目師まではなんとか大聖人門下です。
その後は、大聖人門下ではあり得ません。
好きだから、生き様認めるわけには行かないのです。
河井継之助が、山田ホウコクサイ(多分この方です)を尊敬し、師事したことは有名です。
ある人が師匠の評価を聞きました。
山田先生は素晴らしいが、惜しむらくは人物が小さい。
友人が、それは少し酷い評価だと言うと。
金魚が好きでも、鯨ほど大きいとは言えない。
と、答えました。
寛師は好きでも習い損ない。
福島さんは好きでも、裏切り者。
認識と好き嫌いを同一にしてはいけません。
それは、賢人ではありませんよ。
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