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藍物語(投稿・感想・雑談専用=隔離)スレ

1枯れ木も山の賑わい:2014/03/26(水) 23:49:11 ID:sdeCrXLs0
藍 ◆iF1EyBLnoU の 投稿と
投稿に対する感想・雑談の為に立てた専用スレです。
レスの都合上コテハン推奨ですが、匿名の書き込みも勿論OK。
非難の書き込みは「作品に関する話題・雑談」スレで存分に。
こちらへ書き込まれた場合は(可能ならば)削除します。

855 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 22:57:33 ID:hNLskE2c0
 俺の前、2m程先。姿を現しつつある悪霊と俺の丁度真ん中に女性が立っていた。
水色のパーカー、紺のジーンズ。見覚えのある後ろ姿。
そう、あの御方だ。 降りしきる雪のような、無数の白い光。 その中に佇む美しい御姿。
両膝をついたまま、深く頭を下げた。

 「愚かな...折角の信心が心の闇を増幅し、
終にはこんなモノまで呼び出す『通い路』を作ってしまうとは。」

 突然現れた御姿。その御方が人間でないことは直感で理解できた筈。

856 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:00:12 ID:hNLskE2c0
 「これが、あなたの言う異教の悪魔、なのか。」
その御方は振り返り、その老人に視線を移した。微かな笑み。
「私を、悪魔と...発した言葉は、どれ程後悔しても取り消すことは出来ないのに。」
その御方はパーカーのフードを脱ぎ、軽く束ねた長い髪を背中に垂らした。
その御方の全身を仄白い光がゆらゆらと包む。 そして何よりその両肩から天井へ。
「燃える、身体...光り輝く、6枚の翼。まさか、Seraph」
「お前達がそう呼ぶ者は私と同種の存在。」 小さな笑い声。
「つまり私が悪魔なら、お前は悪魔崇拝者と言う訳だ。」
古来から、仏像の光背や宗教画の光り輝く翼として表現されてきた『後光』。
両肩から3方向に枝分かれしたそれは、確かに6枚の翼のようにも見えた。

857 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:02:28 ID:hNLskE2c0
 『主は聖なる傷跡を示して言われた。
「おまえは見たから信じるのか。見ないのに信じる者たち、彼らは幸いである。」
その職にあるなら、当然諳んじているのだろう?』
「ヨハネによる福音書、第20章29節。何故、その御言葉を...悪魔では、ないのか?」
『不思議だが、異教徒は力を持つ者ほど、信じる根拠を、理由を欲しがると聞く。
この国に生きる人間は、己が生きていることだけで、私たちの力を信じてきたのに。』
そうだ、俺がSさんや姫を信じるのに根拠など要らない。もちろん当主様も、桃花の方様も。
会えたから信じたのではない。きっと、信じていたから会えた。
Sさんと姫に出会う前、俺は自分が生きている意味を理解出来なかった。
世界はまるでTV画面の向こうに広がっているように空虚で、
過ぎていく時と次々に起こる出来事は、いつもどこか他人事だった
でも俺はじっとTVの画面を見つめ続けた。そうしていれば、何時か、
こんな俺にも生きている理由があると、その理由が分かると信じていたから。

858 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:04:35 ID:hNLskE2c0
 「いや、悪魔は天使にすら擬態する。悪魔の王は堕天した天使の長だった。
それにこの国の神話においても、神と人の契約はありふれたものではないか。
信じるのに理由が必要なのはこの国の人間も同じ。」
『その通りだ。自分で言っていて気付かないのか?
お前にはお前の神との契約、異教徒には異教の神との契約があるのなら、
「唯一絶対の神」とは何だ?』
「それは...」
『唯一絶対であるが故に、異教徒の、当然同胞の偶像崇拝を認めない。
しかしお前の傍らにあるその書物は、お前の首にかかるその印は、お前の崇拝の対象。
しかし、それは神の姿そのものではない。つまり、偶像。』
「違う!偶像とは、例えば木像に金箔を貼った」

 ごう、と風の鳴る音を聞いた。続いて部屋のあちこちで倒れたり落ちたりするものの音を。
寒い。昔風の暖炉に似せたストーブはそのままなのに、部屋の中に満たす冷ややかな空気。
「お義父様!」 ドアの向こう、気配が駆け寄るより早く、ドアの鍵が掛かった。

859 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:06:40 ID:hNLskE2c0
 『古来、この国に生きる人々は世界のありとあらゆるものの中に高次の力を感知して
畏怖の対象とした。希な豊作や豊漁だけで無く、多くの犠牲を伴う天災にも。
時には人知れず咲く花や路傍の小さな石ころの中にさえ。
もちろん人々が関知した高次の力を擬人化した像も数知れず造られた。
しかし、森羅万象の『全て』が畏怖と崇拝の対象になるのなら、偶像など存在し得ない。』
その御方は、一瞬俺に視線を投げた。
『高次の力と人々の間を取り持つ者たちも存在するが、
それらの役割はあくまで道標。力を持たない者たちを光に導くだけ。
もし、自分の力を崇拝の対象にしようと望めば、それらも早晩自壊する。』

 突然、部屋に舞い続ける白銀の光が数と輝きを増した。その御方の、微笑。
『無駄だ。既に退路は断った。この部屋からは出られない。』
そう言えば、今にも圧倒的な質量を伴って物質化するかに思われた悪霊は。
『この傷跡を刻んだ鏃、それを作ったモノたちを唆した首謀者。』
その御方の姿はゆらりと薄れ、人の形を失いつつあった。
『千載一遇、術者の適性が現出した奇跡。長居し過ぎたようだし、そろそろ』

860 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:09:41 ID:hNLskE2c0
 「私は、間違っていたのだろうか。」 その老人は体を起こし、ベッドに腰掛けていた。
瞳という名の女性は、老人の傍らに跪いてその両手を握っている。
深呼吸、最後まで、俺に出来る限りのことをする。それが受けた依頼の『契約』。
「私は、間違った『信仰』があるとは思いません。
とんでもない教義を掲げる邪教でもなければ、
どんな宗教にも、人々の魂を導く役割がある筈です。」
「しかし、先ほどの、あの御方は私を『愚か』だと。」
「愚直という言葉があるように、愚かさそれ自体は間違いではありません。
『見ないのに信じる幸いな者たち』も、見方によっては愚かでしょう。しかし間違いではない。
信仰が間違いを生むとすれば、自分の信仰を唯一の正義とし、
異教徒を排斥しようとする衝動に囚われた時です。例えば、魔女狩りのように。」

861 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:12:24 ID:hNLskE2c0
 「『違和感』。Rさん、あなたは先刻そう言いましたね?」 「はい、確かに。」
「正直に告白すれば、『違和感』、その通りです。
世界に不幸をもたらす争いの根底に宗教対立があると、それを思い知る度に疑念が生じた。
私が信じているのは、本当に唯一無二の絶対神なのか。
異教徒は本当に、邪神に惑わされた罪人なのか。
でも私が関わってきた異教徒の子供たちの眼は...」
その老人の心が大きく揺れ動いている。それこそ自我の維持すら危うくなるほどに。
今なら、持続性の後催眠暗示も簡単。だが、それは決して『救い』ではない。
俺に出来ることは全てやった。願いは叶えられ、あの御方の助力を得る事も出来た。
しかし、この老人が自ら乗り越えなければ、また同じ事が繰り返される。
暗示がもたらす偽の幸福の彼方にあるものは、きっと魂の破滅。

862 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:24:09 ID:hNLskE2c0
 「依頼された仕事、私に出来る事は全てやりました。
これからは貴方自身の問題です。幸い、貴方の傍には義娘さんがおられる。
沢山、話をして下さい。きっと得られるものがあるでしょう。
ゆっくりと時間をかけて、より良い答えを見つけられるように、祈っています。」

 面倒でややこしくて、時間がかかり、どちらかというと救いの無い仕事。
しかし、その場で答えの出る仕事ばかりではない。それは重々承知している。
屋敷の門を出た。寒い。時計を見る。 予想はしていたが、どうやら遅刻だ。
今夜は『聖夜』。○△ホテルでチーム榊の忘年会、今頃、姫とSさんは翠と藍を連れて、もう。
きっと幹線道路は渋滞している。どうせ遅刻なら、バスやタクシーより、近道を歩こう。
そして○△ホテルについたら屈託無く笑えるように、心の整理をしよう。
肩に白いものが舞い降りて、消えた。 積もる事は無いだろうが、きっと聖夜にふさわしい。
賑やかな雑踏を抜け、川沿いの裏道に向かう。
吐く息が白い。頬を刺すような冷たい風が、不思議に気持ち良かった。


『異教徒』 完

863 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/06(水) 23:31:28 ID:hNLskE2c0
皆様今晩は。再び藍です。

日付の変わらぬ内に『異教徒』の投稿を終える事が出来ました。
お付き合い頂いた皆様に心からの感謝を。

それぞれが信じる宗教を互いに尊重し、生きる事が出来たら良いですね。
この作品は公開されないと思っていたので少々複雑な気持ちです。
では、また。 きっと何時か此所で。 ご機嫌良う。

864名無しさん:2016/01/07(木) 04:42:27 ID:pPryZLNMO
藍さん、PCが壊れたり大変だったのに投稿ありがとうございます。とても面白かったです。
道具や手法に善悪はなく、それらを使う人の心が善悪の色付けをするんでしょうね。

865名無しさん:2016/01/07(木) 08:12:22 ID:0WnhUte.0
藍さんお疲れ様でした。
いつもありがとうございます。

今回の作品、なんだか難しかった…
もう一度時間をおいて熟読します。

866 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/07(木) 20:57:36 ID:LQnv805k0
皆様今晩は。藍です。
微妙な題材なのに早速のコメントを頂き感謝致します。

>>864
〜それらを使う人の心が善悪の色付けをする〜
『曲解』を恐れずに投稿して、本当に良かったと思いました。
まさにそのお言葉は、知人の思いに添うものだと存じます。
有り難う御座いました。

>>865
折角お読み頂いたのに申し訳有りません。
宗教対立という微妙な題材のため、
投稿前に行った書き換え等の作業が作品を読み難くしてしまったのでしょう。
事情をお察し頂き、再度お読み頂ければ嬉しいのですが、
どうぞ無理はなさらないように。有り難う御座いました。

867名無しさん:2016/01/07(木) 22:18:05 ID:2c7pTgEA0
 並大抵ではない,非常に深いお話だと思います。
 それだけに,「曲解」や反発という形で,人の心の闇があらわれることもあるでしょうね。それを恐れずに投稿していただき,本当にありがとうございました。
 自分がなぜこの藍物語に惹かれるのかがわかりました。読み続けてきて本当によかったと思います。

868名無しさん:2016/01/07(木) 22:59:15 ID:2H/pir4I0
人は一度高まると、ぶれてはいけない存在になるという事か・・
日本の神様や精霊にも反転があるという事は興味深かった・・
求る先は同じとて、また分たれたのも一つの試練。
全ての物に感謝するって深くて難しいものだな。

869名無しさん:2016/01/08(金) 06:07:40 ID:EaQ4h7N6O
神話は遡れば繋がる気がするので自分では分けて考えてないです。
日本の昔話の「隣のいじわるな老夫婦」は隣国を暗示しているのではないかと仮定したスケールで見ると、桃太郎の鬼が荒らす都は米大陸で、鬼ヶ島は…。とか妄想。
観測者の文化圏で見え方や受け取り方が変わり、同じものを見ているのに「表現」が違うということで摩擦が起きてるんじゃないかという気がずっとしてます。
負も極まれば正となるはずなので、どちらでも良い気がしていたけれど、どちらでも良いにしては地球のダメージが酷すぎて、どちらでも良いわけではなかったのか?と悶々してます。
感想から脱線してごめんなさい!

871 ◆iF1EyBLnoU:2016/01/10(日) 08:39:14 ID:p5..m6qM0
皆様お早う御座います。藍です。
引き続き『異教徒』へのコメントを頂き感謝いたします。

>>867
『自分がなぜこの藍物語に惹かれるのかがわかりました。』
投稿する立場からすれば、最高の賛辞を頂いたと感じます。
知人にも伝え、次作の準備を進めます。有り難う御座いました。

>>868
本当に深いコメント、私がどれだけ理解できているか分かりませんが、
この国の神様や精霊には常に『両面』があり、それ故、人に近しいのだと思います。
不謹慎の誹りを覚悟の上で言えば『不完全』なのかも知れません。

>>869
この地上に最初の人が生まれたとき、『国』は有りませんでした。
ですから『神話は遡れば繋がる』という感覚は、まさにその通りだと思います。
では一体何が、文化や宗教、見え方や受け取り方の違いを生んだのでしょう?
嬉しい『感想』、有り難う御座いました。

872名無しさん:2016/01/10(日) 11:51:47 ID:qZQ.4lA6O
869です
日本みたいな狭い国土でも方言がたくさんあるように、「場」が人に影響を与え、その「場」から特有の文化が形成されるように思っていましたが、
藍さんから頂いたコメントを読ませて頂き、「文化の違い」は「場の違い」だけではないのかな?と視野が広がりました。
ありがとうございます。
次作も楽しみにしています(^o^)/

873:2016/01/10(日) 14:16:01 ID:CdyoHDR.0
実話です
夜寝ようとして廊下を歩いていたら
ガラス越しに黒髪に白いワンピースの女性が
普通だったら恐怖ではありませんがその窓の下は
ごつごつした石が並んでいて
その女は頭を全く動かさずに歩いて行ったんです無い足で
その場所は雑木林があって昔たくさんの人が首を吊ったとか吊ってないとか

874名無しさん:2016/01/10(日) 23:45:30 ID:KDuQVKyY0
寄生する妖の目的は何だろう?
力をためた後はその体から出て行き次の段階に進むのか?
いわゆる成りすましとは違う感じがするな

875名無しさん:2016/01/30(土) 23:05:55 ID:OHyr6PIYO
д`)チラッ

876名無しさん:2016/02/02(火) 10:50:23 ID:oxmL/bfEO
エミシはシュメール語のエンシ(王)で陰陽師はその血筋
ずっと求めてきた答えは合ってますか…卒業したいです

877名無しさん:2016/02/03(水) 23:45:59 ID:tZxAa8M60
忌部も高加茂(神門)・下加茂(磯城)も元を正せば出雲に当たる。その考え方によると、阿部(大彦)は東北〜青森にも存在する。

878 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:31:41 ID:w2AYPIJ.0
テスト中です。

879 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:46:28 ID:w2AYPIJ.0
皆様今晩は、藍です。

突然ですが、次作の冒頭部を投稿致します。中々込み入った事情がありまして、
お話の全部が仕上がった後では、投稿の許可を頂けるかどうか分かりません。
知人と相談の上、少々強引な策を取ることに致しました。

完成してからではなく、作業の進捗状況をそのまま読んで頂く形になります。
これで、知人と私は『確信犯』・『共犯者』。
どうか気長に、生温く、もし投稿が途中終了した場合は事情をお察し下さい。

では以下『契』、お楽しみ頂ければ幸いです。

880『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:48:14 ID:w2AYPIJ.0
『契(上)』

 皆で午後のお茶を飲んだ後、俺は庭の落ち葉を掃き集めた。
やや力を失った陽光に、秋の気配を感じる。もうすぐ、紅葉と落葉の季節。
出来ればこまめに庭の手入れをするのが理想。しかし。

 翠、藍、丹。

 小さな子が3人もいればさすがに忙しい、どうしても庭の手入れは後回しになりがち。
もちろんSさんの式に手伝ってもらう事もできるが、出来ればそれは避けたかった。
珍しく子供達3人が揃って機嫌が良い。一種奇跡的な、穏やかな、ある日の午後の事。

881『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:51:44 ID:w2AYPIJ.0
 突然の違和感。胸騒ぎのような、嫌な予感のような。何だろう、これは?
庭の掃除をしながら突然感じた理由のない焦燥、掃除を切り上げて玄関へ急いだ。
「Rさん!」 玄関のドアを開けた姫は丹を抱いていた。緊張した顔。まさか子供達に何か?
「Rさん、お母様から電話が有りました。成る可く早く電話して欲しいって。」
違和感と胸騒ぎの原因はこれか...ケイタイのボタンを押す間がもどかしい。

 「犬のことで大げさだけど、御免ね。雪が、もう長くないみたい。
でも、お前にはあんなに懐いていたから、せめて知らせるだけでもと思って。」
雪は俺の実家で飼っている雌の秋田犬、今年で15歳になる。
今年の正月、家族揃って実家を訪れた時、老いて衰えた様子を心配したのだが。
覚悟していた時期が、かなり近いらしい。
「大げさって、雪は俺を...知らせてくれて本当にありがとう。今仕事はそんなに忙しくないし、
多分時間は作れる。様子を見に行けるようにみんなと相談してから、また電話するよ。」
「ありがとう、お願いね。」

882『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:55:07 ID:w2AYPIJ.0
 「雪ちゃん、もう長くないかもって、どんな様子なんですか?」
丹を抱いた姫は、とても心配そうだ。
「エサをほとんど食べないって言ってましたから...あと数日、ですかね。」
俺が子供の頃に貰われてきた雪は、まだほんの小さな子犬で、とても寂しがり屋だった。
夜、勝手口の三和土で心細そうに鳴き続ける雪が可哀相で、
枕と毛布を持っていって勝手口で一緒に寝たことが何日もあった。
それからの色々な思い出が一気に蘇り、胸が詰まる。
「今急ぎの仕事はないし、一週間くらいなら何とでもなる。
家の事は私とLに任せて行ってらっしゃい。大事な、家族なんでしょ?」
「有り難う御座います。取り敢えず3日間の予定で行って来ます。その後は様子を見て。」
「みどりもいっしょに行く。お父さん、つれていって。」
ソファの上で翠が上体を起こしていた。さっきまで、藍の隣でぐっすり寝ていたのに。
「みどりも、ゆきちゃんに会いたい。」

883『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:56:58 ID:w2AYPIJ.0
 正月、翠はすぐに雪と仲良くなった。撫でてやったり、狭い庭を一緒にゆっくりと散歩したり。
雪も翠に良く懐き、お屋敷に戻る時には翠の後を付いてきて、俺たちの車を見送っていた。
話を聞かれてしまった以上、翠をお屋敷に残して出掛けるのは難しい。
Sさんは微笑んでソファに歩み寄り、翠を抱き上げた。

 「遊びに行くんじゃなくてお見舞いよ。御祖父様と御祖母様の御迷惑にならないように、
お父さんの言う事をちゃんと聞けるって、約束出来る?」
「うん、約束する。」
「お父さん、翠も一緒に連れて行って。お願い。ほら、翠も。」 「おねがい、します。」
父と母は翠を猫可愛がりだから問題は無いだろう。
それに翠がいれば、もし『その時』が来ても皆の気が紛れるかも知れない。父母も、勿論俺も。
「分かった。今夜準備して明日の朝早く出発するから、早起きしてね。」
「うん、早起きする。」 真剣な表情。思わず小さな肩を抱き締めた。

884『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:58:39 ID:w2AYPIJ.0
 翌朝、少し早起きをして軽い朝食を食べた。翠もしっかり起きている。
実家までは車で約半日。7時にお屋敷を出れば、昼過ぎには到着出来る筈。
Sさんが作ってくれたサンドイッチを持って、予定通り7時丁度に出発した。
途中で一度サンドイッチ休憩を挟み、実家に着いたのは1時半過ぎ。
車の音を聞きつけて母が玄関から顔を出した。翠が母に駆け寄る。
母は微笑んで翠を抱き上げた。
「いらっしゃい、翠ちゃん。雪のお見舞いに来てくれて、有難うね。」
「おばあさま、ゆきちゃんは?だいじょうぶ?」
「今、寝てるけど。やっぱりエサを食べなくて...。」 「そうなの。心配、だね。」
トランクから荷物を降ろし、2人に続いて玄関のドアをくぐる。
車はあとで移動するとして、取り敢えず雪の様子を。廊下から台所の勝手口に急ぐ。
...三和土にぐったりと横たわる雪の体。目を閉じて、寝ているようだ。
想像以上に痩せた姿に、言葉が出ない。これではあと数日どころか、今日明日も。
寝ているのを起こすのは可哀相なので、そっと居間へ移動した。
「今の内に車を移動してくるよ。いつもの所でしょ?」 「そう。今朝電話しておいたから。」

885『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 22:59:57 ID:w2AYPIJ.0
 馴染みの有料駐車場に車を移動して戻ってくると、雪は起きていた。
勝手口の床に頭をもたせかけ、翠が頭を撫でている。俺もそっと背中を撫でた。
雪は俺と翠の顔を交代で見つめていたが、暫くすると安心したのか、また寝てしまった。
「お医者さんは『老衰だから治療は出来ない。』って。
頭はしっかりしてるみたいだし、朝と夕方は自分でトイレに行って、水も、飲むんだけど。」
母はハンカチで目尻を押さえた。
「どこか痛がったり呼吸が苦しそうなら可哀相だし、こっちも辛い。
でも、そんなんじゃないから少し気が楽だね。でも、あの様子だと今夜を乗り切れるかどうか。」
「夜はみどりがゆきちゃんのおうえんするから大丈夫。」
「応援?」 「そう、ここでいっしょにねるの。ゆきちゃんも、みどりといっしょにいたいって。」
母は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「お父さんもね、此処に寝て雪を応援したことがあるの。今度は翠ちゃんも、お願いね。」

886『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 23:01:23 ID:w2AYPIJ.0
 夕方6時前、母の言葉通り雪はふらふらと立ち上がった。
勝手口のドアに頭を擦りつけた後、俺たちの顔を見つめる。
見慣れた、『外へ出たい』という意思表示。翠を連れ、庭から勝手口へ廻った。
外からドアを開けると、雪は少しよろめきながらドアをくぐり、ゆっくりと歩き出す。
元気な時は外階段を上った屋上がトイレの場所だったが、もう階段は上れないと聞いていた。
庭の外れでオシッコをしたあと、自分用の水桶へ向かう。
専用の水桶に新しい水を入れると、少し多めに水を飲んだ。
その後暫く庭の方を見つめていたが、勝手口へ歩き出そうとしてよろめいた。力無く座り込む。
俺が手を出すより早く、翠がしゃがんで雪の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、ゆきちゃん。ここで少し休んで、それからかえろう。
みどりが、ずっと一緒にいる。大丈夫だよ。おうえんも、たのむから。ね。」
まるで頷くように俯いた後、雪は暫く目を閉じた。

887『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 23:03:57 ID:w2AYPIJ.0
 「オシッコの量は普通、かな。でも、戻る途中でよろけて。体力がかなり消耗してる。」
「何か食べてくれたら良いのにね。一応エサは用意するけど。」
7時前に父が帰って来ると雪は目を開け、小さく尻尾を振った。しかしエサは食べず、
俺たちが夕食を食べている間も、目を閉じて三和土に横たわっていた。
三和土からじっと母を見つめる『ご飯頂戴』アピールはあんなに必死で可愛かったのに。
翠と母がお風呂に入っている間、俺は台所のテーブルと椅子を移動して布団を敷いた。
雪はじっと横になったままでピクリとも動かない。何度も呼吸を確かめる程だった。
翠が布団に入ったのは9時前。
『今夜はずっとおうえんしてるからね。』と声を掛けた後、10分もしないうちに寝息が聞こえた。
母は洗い物を終えて明日の準備をしている。俺は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した。
ナイトゲームの実況が、居間から微かに聞こえて来る。

888『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 23:06:12 ID:w2AYPIJ.0
 「何だ、巨●、負けてるじゃない。」
缶ビールを一本父の前に置き、もう一本のプルタブを開ける。
父は薄く笑った。「まあ見てろ、次の回に逆転する。△伸が、打つからな。」
表情と声がいつもより控えめなのは、やはり雪のことが気に掛かっているからだろう。
父の斜め向かい、一人がけのソファに腰を下ろした。缶ビールを半分程、一気に飲む。
「で、どうだ?何か、分かったか?」 「何かって、何?」
「雪の寿命とか、延命の方法とか。色々あるだろ。お前は陰陽師、なんだから。」
「人の寿命も分からないのに犬の寿命が分かる訳ないよ。
それに医者も老衰で手の打ちようが無いって言ってるんだから、延命なんて無理。」
父は俺の眼をじっと見つめた。TVの明るいCMソングは、場違いなBGM。
「それは、Sさんでも、Lさんでも同じか?」
「死期が予測できるのは特別な場合だけ。雪の正確な寿命は、多分2人にも予測出来ない。
それより今夜を乗り切れるかどうかが心配な位なんだけど。」
「そうだな。」 父は中継が再開された画面に視線を移した。
ポツリと呟く。 「もう15歳。仕方、ないか。」 寂しそうな、横顔。
雪の死、その実感がじわりと胸にのしかかってくる。

889『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 23:09:47 ID:w2AYPIJ.0
 「あ、でも、今夜は多分大丈夫だよ。」 「何故分かる?」
「翠がそう言ってたからね。あの子が鋭いのは特別だから、信じても良いと思う。」
半分は親父への、残り半分は俺自身への、気休め。
「そう願いたいな。今夜を乗り切ってくれたら、明日と明後日は俺も一日家にいられるし。」
沈黙。静かな居間に、歯切れの良い実況だけが小さく響いている。
突然、鋭い打球音が響いた。興奮したアナウンサーが叫ぶ。
「ほら。言った通りだろ?」
いつもなら派手なガッツポーズが出る場面だが、父は微笑んだだけだった。
空き缶を持って台所へ戻ると、母が翠の枕元に座り雪の頭を撫でていた。
「この頃、あんまり寝てないでしょ?今夜は翠と俺に任せてゆっくり寝てよ。」
いくら雪が俺に懐いていて、父には絶対服従だとしても、
一番長い時間を雪と共有したのは母だ。今の雪の姿を見て一番辛いのも母だろう。
「そうだね。そうさせて、もらおうかな。」 母は手を洗い、そっと翠の頬を撫でた。
「お休み。雪のこと、お願いね。」 「うん、お休みなさい。」
寝室に向かう母を見送った後、缶ビールをもう一本飲んだ。
やはり落ち着かないが、翠の言葉通り今夜を乗り切れば、『その時』は多分明日。
今は体を休めておいた方が良い。翠の隣、布団に入ったのは10時半を過ぎていた。
半日運転した疲れとビールの酔いのせいか、俺はすぐに眠りに落ちた。

890 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/08(月) 23:15:02 ID:w2AYPIJ.0
皆様今晩は。再び、藍です。

今夜は此所まで。
お付き合い頂いた方々に心からの感謝を。
続きを投稿できる時期も、そもそも投稿ができるかどうかも分かりませんが、
気長にお待ち頂ければ幸いです。有り難う御座いました。

891名無しさん:2016/02/09(火) 00:44:30 ID:Eg5vyTH60
ああ、もう続きが気になって仕方がありませんよ(チラッ)
もう眠れそうにありませんよ(チラッ)

892名無しさん:2016/02/09(火) 02:04:58 ID:xvMf8f.EO
(;´д`)き、来てた!
覗いた私はラッキー〜

しかし…


この切り方は…

893名無しさん:2016/02/09(火) 05:43:33 ID:HdRzDYFg0
契、だから、雪が死んで、翠の使い魔?にでもなるのかな?
つづきが気になる。

894名無しさん:2016/02/09(火) 18:28:27 ID:MdLtaSwUO
大切な飼い犬の死に際に会いに行ける仕組みのあったことも凄いですが、Rさんのご家庭の温かさも凄いです。
投稿ありがとうございました。

895 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/09(火) 20:32:06 ID:KLqQfkWY0
皆様今晩は、藍です。

確信犯とはいえ、知人も私も出来れば円満な投稿を望む立場。
今夜中に禁止の通達がなければ、『契(上)』と『契(中)』までは
明晩以降、問題なく投稿できると思います(あとは私の作業次第ですね)。
藪蛇を避けるため、今回は投稿終了まで個別の返信は控えさせて頂きます。

では、明晩、此所でお合いできることを楽しみに。ご機嫌良う。

896名無しさん:2016/02/09(火) 22:58:03 ID:Eg5vyTH60
・・昨年はSさんと知人さんの文章表現には皆してやられましたね。
  ちょい悪のイメージが何と一目惚れに近かったとわ。
  これからもビックリ展開を希望いたしますね。

897名無しさん:2016/02/10(水) 08:56:46 ID:2jvkazs.0
去年12年一緒に暮らしたワンコ看取ったから
真面目に涙が出ちゃったよ。
序章でこんななら、本編はどうなっちゃうんだろう…

898 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:23:47 ID:C/Dvoyfo0
テスト中です。

899 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:31:52 ID:C/Dvoyfo0
皆様今晩は、藍です。

『契(上)』後半を投稿いたします。
お楽しみ頂ければ良いのですが。

900『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:33:40 ID:C/Dvoyfo0
 全身に感じる、風の圧力。 体に粘り着く空気を力尽くで切り裂く。
これは、夢? はるか空の高みから見下ろす夜景が凄い勢いで後方へ流れ去っていく。
『もう目的地は目の前。一刻も早く姫君の下へ。』
その時、少し前方の夜景の中に徴が見えた。 『あれだ。』
気配を消しつつ、徴を目掛けて急降下。 夜景がどんどん大きくなる。
四角い屋根の縁に向けて着陸体勢。注意深く、速度を殺す。
梟や木菟たちとは違うし、翼の細かな制御は不得手。
抑え損ねた風が、庭の木々を揺らす音を聞いた。

901『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:34:56 ID:C/Dvoyfo0
 「お父さん。お父さん、おきて。外に、何かいる。」
...翠の声、これも夢? いや、違う。慌てて上体を起こした。
翠は布団から出て勝手口の三和土に足を下ろし、庇うように雪の背中を擦った。
ドアの向こう。憎悪に満ちた、低い唸り声。 全身が総毛立つ。 これは、何だ?
深呼吸、感覚を最大限に拡張する。激流のように流れ込む、激しい感情と映像。

 地面すれすれの視点。目の前に数頭の犬。その背後から此方を見下ろす男。
耐えがたい痛み、断末魔の苦しみ。 犬たちと男に対する激しい憎悪。
...狩りの情景?
男が携えた銃に見覚えがある。いつか読んだ本の旧い写真。確か、●田銃。
大きな破裂音と同時に、暗転。

902『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:37:03 ID:C/Dvoyfo0
 「ゆきちゃんはずっとこのうちでそだったから、動物たちをころしてない。
それに、ゆきちゃんが年をとってからこんなこと、ひきょうだよ。
ゆきちゃんが元気なあいだは何もしなかったのに。」
?? 翠がドアの向こうに語りかけている。 唸り声の意味を感知しているのか?
再び唸り声。苛立ったような調子が不吉だ。そっと翠の肩を抱いた。
翠は俺に頓着せず、ドアの外の気配に語りかける。
「それにね。くまさんだってほかの動物をたべるでしょ?
思い出して。たべられた動物たちはよろこんでいた?」
ドアの向こうの気配が大きく揺らいだ。しかし唸り声が含む憎悪は増している。

903『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:39:28 ID:C/Dvoyfo0
 言語を伴う思考が伝わってこないのだから、気配の主は人間ではない。
翠の言葉からすると、猟師に撃ち殺された熊の、幽霊?
いや、動物でも幽霊に成り得る霊質を持つのは稀な筈だし、
狩りで殺された動物たちが幽霊になって祟るなら、猟師や猟犬はとうに絶えている。
恐らく妖。狩りで殺された熊や、その他の動物たちの怒りや苦しみ。
山の妖の1つがそれらと共振し、強い憎しみと悪意を宿した存在へと変化したモノ。
父方の祖父は、若い頃猟師だったと聞いた。雪は祖父の飼っていた猟犬の子孫にあたる。
その体に流れる濃い猟犬の血が、血迷った妖を引きつけた。それが何時かは分からない。
雪が元気な間は何も起きなかったのだから、猟犬や猟師に対する恐怖は残っていたのか。
雪の寿命が尽きかけたのを察知して恐怖は薄れ、憎しみが恐怖に勝った。だから、今夜。
母が張った結界を越えられないようだが、結界越しの妖気でも弱った雪には毒だ。

904『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:41:25 ID:C/Dvoyfo0
 「お父さんがいってたよ。動物はほかの生きものの命をいただいて生きてるって。
動物はみんな同じことしてるのに、うらむのはおかしい。ずっとこのうちにいて、
動物たちをころしたことがないゆきちゃんをうらむのは、もっとおかしい。」
ドアの外の気配は益々濃く、既に実体を現出したのでは無いかと感じる程だ。
残念ながら翠の説得は効果を上げていない。というか、むしろ逆効果。
このままでは濃度を増す妖気が雪の体を更に弱らせる。
この執着の強さからして、結界越しに祓うのは難しい。
だからと言って、相手の正体や力が分からない状態で母の結界を解くのは危険過ぎる。
鎮魂の詞歌で慰める方法はあるが、相手を特定できなければ効果は薄い。
何種類もの動物の魂を引き寄せ混ざり合い、妖を芯として寄り集まった集合体。
1つ1つ特定するなんて、俺には無理...いや待て、さっき翠は『くまさん』と。それなら。
「翠、外の妖、どんな動物の魂を取り込んでるか分かる?くまさんの他に。」
「うん、分かる。どうして?」
「憎しみに狂った動物たちに普通の言葉は通じないから、『言霊』で慰めてみるよ。
でも相手がどんな動物か分からないと効き目がない。
お父さんの術が始まったら、どんな動物たちの魂を感じるか教えてくれる?」
「分かった。」

905『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:46:22 ID:C/Dvoyfo0
 深く息を吸い、下腹に力を入れた。心を込めて鎮魂の詞歌を詠唱する。
動物の姿を強く、鮮明に想い浮かべ、そのイメージを歌詞に織り込む。
最初は熊。ツキノワグマだ。大きく、力強い姿。その魂を慰め、憎しみと執着を解く。
植物から草食動物へ、さらに肉食動物へ。繋がる命の道理。
猟師達を始め、人間も動物の命を有り難く頂いて生きている。感謝と、鎮魂の祈り。
詠唱は一区切り、其処此処に浮かぶ色とりどりの花が見えた。次々に開いては散る。
散った花びらは光る軌跡を残して...大丈夫、『言霊』はちゃんと。
「しかさん。」 翠は俺の意図を理解していた。 詞歌の一区切り毎に動物を。
「きつねさん。」 「うさぎさん。」 「たぬきさん。」 「いのししさん...」
何度繰り返したか分からない。しかし確実に、ドアの外の悪意は薄れている。
? 翠はドアの向こうを凝視したまま、黙っている。
一区切りついたタイミングなのに?? 取り敢えず詠唱を中断する。
「お父さん、分からない。あれは、見たことない、から。」
見たことがない? そうか! これが最後。もう鎮魂でなく、祝詞を奉る時。
泣きそうな顔の翠をしっかり抱き締めた。
「翠のお陰で助かったよ。大丈夫。残ってるのはきっと、山の妖だから。」

906『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:48:00 ID:C/Dvoyfo0
 動物たちを愛するが故に、猟師に殺された動物たちの怒りと共振し、
我を忘れて同じような魂を次々に取り込んだ妖、外の気配の『芯』。
しかし、それは事故のようなもの。本来は人に災いをなす事を意図する存在ではない。
動物たちの憎しみが解けた今こそ、元の姿で野山に帰って頂くのが筋。
「其処に座って。これで最後だよ。」 ドアに正対し、翠と並んで座る。
眼を閉じて背筋を伸ばした。深呼吸。

 『詫びに1つ、礼にもう1つ。』

 澄んだ声に続いて、俺たちの目の前に青い小さな鬼火が2つ、並んで浮かんだ。
そうか、憎しみと悪意が消えたから結界を抜けて。 しかしそれなら何故家の中へ?

907『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:49:11 ID:C/Dvoyfo0
 『その名に縁ある季節を二度、迎えられるように。』
次の瞬間、気配が消えると同時に鬼火も消えた。 『雪』に縁の有る? 二度の、冬?
「お父さんすご〜い。あれも、ことだまの術なんだね?すごく、きれいだった。」
「そうだけど、翠だってあの妖と話をしてたでしょ。怖くなかったの?」
「ぜんぜんこわくなかったよ。だって、お父さんがいっしょだし。」
翠は目をぱちぱちと瞬いて、如何にも眠そうだ。
「それに、みどりのお友だちは、とっても、つよい、から。」
お友達???
「ちょっと翠、お友達って。」 翠の体から力が抜けた。完全に熟睡している。
直後。窓ガラスが大きく揺れた。 突然の強い風。 空気を震わせる、羽音?
そうか、鵬。 きっとSさんが。

908『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:53:44 ID:C/Dvoyfo0
 「お前が一人前の術者だなんて。SさんとLさんには本当に感謝しなきゃね。」
振り向くと台所の入り口に母が立っていた。
「私の力では、お前をそこまで導くなんて到底出来なかった。」
「もちろん2人には感謝してるよ。ただ俺なりに、長い間修行してきた。
でも、翠は修行する前から、俺には関知できない妖の気配を感知してた。どういうことかな?
翠はまだ5歳だし、得体の知れない人外との接触が多過ぎるのは、ちょっと心配なんだ。」
「『式使い』の適性を持っていれば、修行と関係なく、どうしても人外との接触は多くなる。
親がしっかりと見守れば良い。恐れず気を抜かず、親の義務を果たすだけ。
それより、きっとその子は並外れた術者になる。
あの妖が説得に応じなかった時に備えて、式をこの家の屋根に配置した。
妖が勝手口に近づく前にね。それからその子の『●識△』。
融合した多くの魂を1つ1つ見分ける力。そしてお前の『言霊』。
2人の力と術が補い合い高め合って『分業』の術が発動した。
未熟ではあるけれど、あれは紛れもなく『分業』の術。」

909『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:55:13 ID:C/Dvoyfo0
 『分業』? その術を使える術者は限られる。いわゆる、『奥義』の1つ。
恐らく現在は、当主様と桃花の方様のみ。Sさんでさえ。それを、俺と翠が??
「実際に見たのは初めて。『●識△』はその基になる力だけど、
お前の助けを借りたとは言え、あの歳で...本当に、驚いた。」
母はゆっくり、深く息を吸った。

 『R。』

 これは、言霊...そうか、俺の適性は母から。
「何だよ、急に改まって。わざわざ言霊を使わなくても俺は。」
『きっとこれが、私が今生で使う最後の術。心して、聞きなさい。』
今まで見た事のない、母の表情。台所の空気が凍った。
『遠からず、お前にこの子を支える資質が有るかどうかが問われる。
この子はお前の子であると同時に、優れた術者の命脈を繋ぐ一族の子。』
翠を支える資質を問われる? それは。

910『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:56:30 ID:C/Dvoyfo0
 「あら、雪、どうしたの?」
母の視線を辿り、勝手口を振り返る。雪がお座りをして母を見つめていた。
ついさっきまで、ぐったりと横になったままだったのに。
「もしかして、何か食べたいのかな?」 「そうね。雪、ちょっと待って。」
母は作り置きのお粥を冷蔵庫から取り出した。鍋に水を加えて少し温める。
母の作ったお粥に一握りの削り節、それは雪の大好物。
少しずつ、なめるようにお粥を食べる雪の背中をそっと撫でる。
俺の顔も母の顔も、涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 翌朝、雪はしっかりとした足取りでトイレに行き、水を飲んだ。
それからまた少しエサを食べ、昼過ぎまで寝ると、見違えるように元気になった。
夕方前には翠と一緒に庭を歩き回り、エサもいつもの半分ほどの量を完食。
更に翌日、朝から近くの公園へ散歩が出来るまでに回復した。
俺と翠が実家を後にしたのはその日の昼過ぎ。雪は最後まで俺たちを見送っていた。

911『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 20:59:09 ID:C/Dvoyfo0
 深夜のリビングに涼しげな音が響く、Sさんが作ってくれたハイボール。

 Sさんが夕食の後片付けをしている間、Sさんの部屋で翠と藍を寝かしつけた。
その後、丹が熟睡するまで姫の部屋にいて、リビングに戻ったのが10時少し前。
今夜はどうしても、Sさんと話がしたかった。もちろん『分業』の術、そして母の言葉の意味。

 「美味しい。喉が渇いてると、気分良く話が出来ないし。」
ハイボールを一口、もう一口、Sさんは俺の隣で微笑んだ。
「『分業』の術の基本は寄り集まった『業』や『魂』を見分けること。
それをもとに『業』の一部を別人に分けたり、迷った『魂』を中有に誘導する。
だから、あなたと翠が使ったのは確かに『分業』の術の1つ。
ただ、術者2人の力と術を組み合わせてそれを発動するなんて、聞いたことも無い。
普通の父娘以上の絆で結ばれた2人だからこそ、よね。ちょっと、妬けちゃうかも。」
Sさんは悪戯っぽく笑って俺の肩に頭を預けた。
「冗談は止めて下さい。その絆を結び合わせたのはSさんの術なんですから。
それより、翠と僕が使ったのが本当に『分業』の術なら、
母の言葉はそれと関係してるのかも知れませんね。」

912『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 21:02:54 ID:C/Dvoyfo0
 「お母様は何て?」
「『僕に翠を支える資質が有るかどうかが問われる。』って。
「翠が最後まで式に指示を出さなかったのは、あなたへの信頼が深かったから。
『お父さんなら何とかしてくれる。』 『お父さんがどうしようもないって言うまでは。』
その抑制が効かず、一度でも力が暴走したら、翠は即『上』の監視対象になってしまう。
あの歳で式の使役を許されたのは、あの子が『私とあなたの子』だからよ。
私もあなたも、『上』から範士として認定されている。翠の教育を任せても良いって事。
ただ、その力が暴走するのを防ぎつつ、あの子の資質を全て実現するのは並大抵じゃ無い。」
Sさんは体を捻って俺の唇にキスをした。
「でも、それがあなたと私と、そしてLの望み。それで良い?」
僅か5歳の子。もし...いや、怖れることなどない。母はそう言った。

913『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 21:04:41 ID:C/Dvoyfo0
 「『子供を作ろう』って相談した時のこと、憶えてますか?」
Sさんは小さく頷いた。出会った時と変わらない、いや、もっと美しい横顔。
「あなたは『力があろうとなかろうと、持って生まれたものと向き合う人生以外有り得ない。
幸せになる方法を2人で教えてあげれば良い。』って。私、本当に泣きそうだった。」
「それは今も変わりません。ただ、変えなきゃいけないことがあって。」 「何?」
「『僕は少し頼りないかも知れないけど、Sさんが母親だから絶対に大丈夫。』そう言いました。
でもSさんに頼り切りじゃなく、僕も少しは父親らしい父親になりたいんです。
今なら少しは術者としても、そして父親としても。」
Sさんはハイボールのグラスをテーブルに置いて、俺の左隣に座った。
俺を見つめる、黒い双眸。
「あなたはもう一流の術者。名指しの仕事、増えてるでしょ?
それに、父親としては超一流。丹が生まれた時のことも式のことも、
翠があなたを信頼しきってるからこそ上手くいった。ただ...あの術だけは。」
突然、Sさんの眼から涙が零れた。俯いて、両手で顔を覆う。 ??? 一体これは。

914『契(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 21:13:02 ID:C/Dvoyfo0
 いつの間にか、姫がリビングの入り口に立っていた。雰囲気が、いつもとは全然違う。
「『奥義』を使う術者には、その結果に責任を負う覚悟と、ふさわしい『器』が求められます。
翠ちゃんは子供ですから、この場合は翠ちゃんを支え、その力を補う術者に。」
そういう、事か。
俺の評価が多少上がったとしても、当然Sさんや姫の評価には遠く及ばない。
俺と翠、二人でその『奥義』を使ったとして、その結果の責任を俺が負うのは当たり前。
「つまり、今後も翠を育てる資格があると、僕自身が証明しなければならない。」
「3日後、です。明日から食を絶って準備を整えた後、『上』が迎えが。
『五日行』。それを成就出来れば、Rさんは今まで通りに翠ちゃんと...」
その時、姫がお盆を持っていることに気が付いた。小さなガラスの御猪口が3つ。
「Rさんの五日行が成就する事を願って乾杯しましょう。どうぞ。」

 一口飲んだ後、俺は事態の重さを理解した。


『契(上)』 了

915 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/10(水) 21:19:01 ID:C/Dvoyfo0
皆様今晩は、再び藍です。

『契(上)』は無事投稿終了出来ましたが、
(中)以降の投稿時期は明言出来なくなりました。
投稿に向け、出来るだけのことをするつもりですので、
事情をお察し頂き、気長にお待ち下さい。

此所までお付き合い頂いた皆様、有り難う御座いました。

916名無しさん:2016/02/10(水) 22:07:02 ID:zCrWz3h6O
続きの投稿をありがとうございました。
仕事もプライベートも厳しく大変ですね。尊敬します。
大きな力を持つと責任も大きくなるんですね。

917名無しさん:2016/02/11(木) 01:28:47 ID:4c2sqVSY0
・・やはり業は転嫁する術があるのか。
お母様の言ってた業の秘密とは。

918名無しさん:2016/02/11(木) 01:28:54 ID:x5E3YsCYO
投稿お疲れ様です


雪が式になって
その次に猿が式になって
翠ちゃんが
鬼退治に行くのかと

チョッとふざけた
妄想しました
申し訳

919名無しさん:2016/02/11(木) 12:17:23 ID:kTfGgKg20
五日行の成就を祈って,次を待ってます!

920名無しさん:2016/02/12(金) 23:53:29 ID:cAkdpj9A0
三七日ではなく5日か。神仏が出てくるレベルじゃないのコレ。

921 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:09:07 ID:IsAY9Ieo0
テスト中です。

922 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:20:48 ID:IsAY9Ieo0
皆様今晩は、藍です。

投稿には常に色々な事情が有るのですが、結局は皆様から頂くコメントが
知人と私の努力よりも大きな力を持っているのだと感じます。

お陰様で、『契(中)』、投稿の許可を頂きました。
たとえ大幅な書き換え等が有っても、物語の『芯』は変わっていません。
では、後ほど。お楽しみ頂けると良いのですが。

923『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:47:47 ID:IsAY9Ieo0
 『上』が用意した車がお屋敷に着いたのは、ピッタリ打ち合わせ通りの午前九時。
大きな黒塗りのワゴン。運転していたのはサングラスとマスクの男性。
術者なのだろうが、身振りで俺を促しただけ。何だか話しかけちゃいけない雰囲気。
ただ、行の内容についてはSさんや姫も知らないと言っていたから、この術者も多分知らない。
行を修めるのは山の中の小さな庵、そこに案内と指南の術者待っているらしい。
事前に知らされた情報はそれと、あの乾杯。
とんでもない重圧をひしひしと感じている状況で、あれこれ話す気にもなれなかった。
数時間の後、着いたのは寂れた登山口のような場所。濃い霧。重い湿気が辺りを覆っている。
県境を越えてからは俺の知らない道を通ってきたので、ここが何処なのか分からない。
車を降りて数歩。霧の向こうに人影が見えた。背後で、車が走り去る音。

924『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:49:50 ID:IsAY9Ieo0
 『久しいな。』 柔らかな声、いや、それより『久しい』って...
「R、です。宜しくお願いします。」 声を掛けてさらに数歩。その姿がハッキリと見えた。
アオザイ?に似た服。上着は漆黒の生地に、艶やかな、黒い絹糸の刺繍。
ズボンはネットとかTVで見るより細身で、活動的というか実用的。
それに何より、キリリと結い上げた髪が印象的な美形。
姫よりは年上で、Sさんより年下。なら多分、二十代後半。
これが、案内&指南役? まさか、女性とは思わなかった。
でも、何だか、懐かしい雰囲気。 『久しいな』という言葉通り、初めてという気がしない。
それはこの女性のまとうオーラなのか、それとも声の響き、か。

925『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:50:55 ID:IsAY9Ieo0
 「あの、以前何処かで。」
「御影、だ。この姿で会うのは初めてだから、分からなくても無理はないな。」
!? まさか...一族最強の式。それにどうして、人の姿?
「この場所は特級の霊域、今様に言えば最高のパワースポット。」
確かに。車を降りた瞬間から、この辺りに満ちる濃厚な気に圧倒されていた。
「しかし『聖域』とは違う。『聖域』を支配しているのは『秩序』だが、
この場所を支配しているのは『混沌』。だから正邪・陰陽を問わず、全ての怪異が力を増す。
ここでなら、我も人の姿に化生することが出来る。
ただ、もう二度と、人の姿を取る事など無いと思っていた。」
その女性、御影さんは少し寂しそうに見えた。
「さて、着いて参れ。」 「あ、はい。」

926『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:52:14 ID:IsAY9Ieo0
 濃い霧の中、御影さんの背中を追いかける。
細い砂利道は段々と傾斜がきつくなる。やはり登山道?
15分ほど歩いた所で、御影さんの足が止まった。 「あれ、だ。しかし、何故。」
白い手が指し示す先に小さな建物が見える。古い、庵? しかし、あの気配は。
さらに数分、その建物から20m程の距離。
やはり、そうだ。建物の周りにも中にも、かなりの数の気配を感じる。
これでは修行場と言うより、妖の巣窟。人はとても、こんな所に長くは居られない。
「あの年寄りは、何故管理を怠っているのだ。今回の話も通っている筈なのに。」
御影さんは薄く笑った。 「人の身では...面倒だな。」
面倒も何も、これだけの数を祓うには下手をすればそれだけでゆうに3日。
すい、と前へ踏み出した。2歩、3歩。其処此処で妖の気配がざわめく。

927『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:53:43 ID:IsAY9Ieo0
 御影さんは立ち止まり、そのまま右足を横に踏み出した。両足の幅は、肩幅くらい?
深く息を吸いながら右手が肩の高さに...天に向けた掌が反って地面に向かい、
右足は地面を掃きながら左足に揃った。御影さんの体が膨らんだように見える。
次の瞬間。重力に逆らうように軽々と、ゆっくりと、その右足が高く上がった。
ぴいんと伸びた右足のつま先はほぼ真上を、天を指している。
そして掴むようにしっかりと、地面を踏みしめた左足。
天と地から、『正気』が御影さんに集まるのを感じる...これは、四股。 
「... ..」 微かな呟きが聞こえた後、右足が落ちてきた。

928『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:55:03 ID:IsAY9Ieo0
 そう、切られた大木が倒れるような、圧倒的な迫力と重量感。
地面が揺れる。 Sさんより少し背が高い分体重は、しかし幾ら何でもこんな。
続いて左足。地面を踏みしめる地響きが、完全に空気を変えた。
まるで嘘のように庵の周りの霧が晴れ、妖の気配も一つ残らず消えている。
小さな庵はしん、と静まって、先程までとは全く違う建物のように見えた。
「5日は楽に保つだろう。何をボンヤリしてる。行くぞ。」
「あの、御影さん。今の四股は。」
「元々我は一族で武術を指南していた家の出。
だからこそ当主様は我に任せたのだ。5日間この庵を護り、お前の世話をし、
更に修行の相手をする。そんな事が出来る人間は、術者は、もう3人といないから。
荷物を解いたら直ぐに行を始める。5日はあっという間だ。」

929『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:56:42 ID:IsAY9Ieo0
 ...痛、息が出来ない。思わず膝をつく。
「我は武門の出と言った筈だ。こと武術に関して、他人に遅れを取ったことはない。
女子だと思って甘く見ていると、そのうち死ぬぞ。」
それは古武術で言う当て身の一種、左脇腹へのボディーブロー。
襟元で艶やかに光る瑪瑙の飾り細工。 「これを取れ。」と御影さんは言った。
「そのためなら何をしても良い」と。 ただし御影さんの反撃は投げと
腹への打撃だけと言われていて、当然警戒していたのに、為す術がない。
その動きはあまりに迅く、強かった。
これでは瑪瑙を取るどころか、触れる事すら出来る気がしない。
「御影さん、相手に、甘く見たりなんか。」
まだ、まともに息も...
「なら、少しは工夫する事だ。参れ。」 涼しい顔で、御影さんは構えを取った。

 裂帛の気合いと共に、御影さんが視界から消えた。
派手に視界が回転し、腰から床に叩き付けられる。まともに受け身も取れない。
もう何度目? 3日前から始めた絶食のせいにする気にもなれない程の、技量の差。
「今日はこれで終いだ。今夜まで食を絶って此所に体を慣らせば、
明日の朝からは食事を取れるだろう。それで少しは。風呂を沸かしておく。」
最初の修行は『体』。3段階の行の内、第1段階からこれでは、先が思いやられる。

930『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 22:58:55 ID:IsAY9Ieo0
 小さな湯船に浸かっていると、不思議な事に気付いた。
あれだけの打撃と投げ、でも体の何処にも痛みがないし、痣もない。
道着を着ていても、肘や膝に擦り傷の一つくらいは出来る筈なのに。
ふと、微かな声が聞こえた。 澄んだ、優しい声。 歌、だ。
風呂場を出る。声の聞こえる方へ、庵の奥へ進む。
台所らしい土間、障子を開け放った大きな窓に、御影さんが座っていた。
「何か、用か?」 「ああ、いや。あの、歌が。とても良い声だったので。」
少し照れたような微笑。何だか、可愛い。 「昔、習った。遠い、遠い昔に。」
しかし、御影さんの微笑みはすぐに陰った。
「今夜は早く休め。明日中に進展がなければ、行の完成自体が危うい。」
そうだ...『五日行』。既にその一日は過ぎてしまったし、未だ何の進歩も。
御影さんが用意してくれたのだろう。俺の部屋には布団が敷かれていて、
潜り込むと途端に眠くなった。やはり、疲れてる。布団の中は、少しだけ黴臭かった。

931『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:00:15 ID:IsAY9Ieo0
 2日目の行が終わっても目立った進歩は無かった。
自分なりに色々工夫しているつもりだが、伸ばした腕を取られて投げ飛ばされるか、
そうでなければ腕を弾かれて腹に打撃をくらう。これでは昨日と何も変わらない。
行を成就出来なければ、俺は『失格』だ。それでは今後、翠の...
暗い気持ちで夕食を食べ終わり、風呂に入った。やはり気持ちは晴れない。
風呂から出ると、歌が聞こえてきた。心を決めて台所へ向かう。
「何か、用か?」
「はい。助言をしてもらおうと思って。」 「助言?」
「どうしたら、御影さんの動きに対応できるのか。助言は、禁止されていませんよね?」
「助言、か...」 御影さんは窓の外の景色に視線を移した。遠い目。

 「お前の適性を活かす方法を考えろ。
前にも言ったように、此所では正邪・陰陽を問わず、全ての怪異が力を増す。
勿論お前の体も、その適性も。さて、明日も早い。もう休め。」

932『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:01:43 ID:IsAY9Ieo0
 そうは言われたものの、明日中に進展が無ければ行の完成が危うい状況。
到底寝付ける筈もない。布団の中で考えを巡らす。俺の適性を活かす方法とは。
どの位そうしていたのか。
自分の呼吸音がやけに大きく聞こえてきた。やがて、心臓の音も。
他にほとんど音がない場所、例えば砂漠の真ん中で野宿すると、
そんな風に感じると聞いたことがある。確かに此所は、いや、幾ら何でも音がデカい。
そうか。『此所では正邪・陰陽を問わず、全ての怪異が力を増す。』
此の場所の力を得て聴覚が力を増し、普段は聞こえない音を捉えているのか?それなら...
やはりそうだ。『気配』を探る時のように、チャンネルを合わせるイメージ。
まるで俺の聴覚が庵全体に拡大したように、注意を向けた場所の音を聞くことが出来る。
『言の葉』の適性を持つ術者が力を発揮できるのは『会話』が成り立つ場面。
だから『話す』前に『聞く』ことが不可欠。そして、それは俺の何よりの得意分野。
思わず上体を起こした。右手に注意を向ける。深呼吸、そっと眼を閉じた。

933『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:03:46 ID:IsAY9Ieo0
 拳を握る...聞こえた。種々の雑音に混じって、何かが軋むような、微かな音。
拳をゆっくりと正面に突き出す。雑音に続いて、今度はもっと低い、大きな、音。
もう一度、今度は思い切り拳を突き出そうとした時に、
『それ』が雑音の中からハッキリと聞こえた。
チューニングがズレたラジオのような音。 多分、これだ。 もう一度。
『それ』の後に、軋むような音や低い音が混じって聞こえてくる。
軋むような音や低い音は筋肉と関節が発する音。なら、『それ』は神経が発する音だ。
最初の行は『体』。御影さんが術を使うのでは『体』の行にならない。
それに化生している以上は、此所では御影さんも生身。
それなら幾ら技量の差が有っても、体を動かすしくみは俺と同じ。
つまり筋肉が動く前に...次の瞬間、俺は音の洪水に飲み込まれた。
神経を流れる電流、筋肉の動き。体中を巡る血液の音は、まるで滝の音のようだ。
体全体を震わせる心臓の拍動、それから嵐のような呼吸音。
信じられないほど多彩に、絶え間なく変化する音は『意識』そのものか。
体中の細胞が『生きている!!』と叫んでいる。
まるでそれらは、全ての生命活動が渾然一体となって織りなす、音の、極光。
『生きている』とはどういうことか、それをまた1つ体得したのかも知れない。
それだけで、此所に来た意味がある。

934『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:06:44 ID:IsAY9Ieo0
 構えを取った御影さんの体に、注意を向ける。深呼吸。
...聞こえた。音の高さは俺と違うが、組み合わせは大体同じだ。
そして『それ』が聞こえた直後。
「どうした。じっとしていては、進歩は無いぞ。」
間違いない。これが、鍵。
それからの約一時間、俺は繰り返し『チューニング』を続けた。
投げと打撃、左構えと右構え。注意深く、御影さんの音を俺の音からより分ける。
「駄目、だな。むしろ昨日より反応が遅い。昼食の後で休憩、続きはその後だ。」
「ちょっと、待って下さい。」 振り向いた御影さんは怪訝な顔をした。
「昼食の前に、あと1回だけ。やっと、分かった事があるんです。」
少し目を細めた後、御影さんの表情が引き締まった。
「良いだろう。参れ。」

935『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:08:50 ID:IsAY9Ieo0
 深呼吸、肩の力を抜いて右腕を軽く振る。
全速で右足を踏み込みながら右腕を伸ばした。勿論これはフェイント。
御影さんがフェイントに反応しないのを確かめてから左腕を。 『それ』に耳を澄ます。
聞こえた! この音は、俺の左腕を弾いて、右拳の打撃。思い切り体を左に捻った。
腹をかすめた右拳を、右手で。速い、僅かに上方にずらすのが精一杯。
ずらして出来た隙に左腕を伸ばす。しかし、瑪瑙の冷たい感触で無く、柔らかで温かな。
予想以上の力で左手が巻き取られ、跳ね上げられる。投げ。
堪えて距離を詰めれば背後から右手で。踏み込んだ分、投げの形が崩れた。
しかし、バランスが。まずい。

936『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:10:01 ID:IsAY9Ieo0
 右のこめかみと肩に鈍痛。少し、吐き気がする。

 「大事ないか!」 珍しく、御影さんの声が慌てていた。それが何だか可笑しい。
「大、丈夫です。でも、もう少し。」
「受け身も取らずに、敵を庇うなど...馬鹿か、お前は。」
「いや、御影さんは敵じゃ無いし。それに、御免なさい。あの、さっき、胸に。」
御影さんはそれを俺の右掌に握らせた。冷たく、硬い感触。瑪瑙の、飾り細工。
「適性を活かした、見事な工夫。第一段階は終了だな。今日は、もう休め。」
御影さんは軽々と俺を立たせ、肩を貸してくれた。

937『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:11:43 ID:IsAY9Ieo0
 夢を、見ていた。
旧いお屋敷の庭に咲き誇る赤い花。咽せるような、良い香り。
眼が、覚めた。枕元、すぐ傍に人影。 誰?
その人は俺の枕元に膝をついた。帯を解いて黒い着物をするすると脱ぐ。真っ白な素肌。
何の躊躇も無く、その人は布団の中に滑り込んできた。
滑らかな、暖かい感触が俺の頬を包む。大きな、黒い瞳が俺を見詰めていた。
...御影さん。
「あの、どうして?」
「健康な男子が此処にただ1人。過ごす内に肉欲が積もるのは当然。
そこにつけ込まれぬように。夜伽も、仕事の内だから。」
...ちょっと、待って。確かに、先刻胸に触れた時は少しだけ、でも。
「夜伽って、そんな。」 「気に病むことはない、何も。」
「いや、でも。」 「我では、不足か?」
「不足だなんて。御影さんはとっても綺麗だし魅力的です。
だけど、いくら仕事だからって、御影さんが望んでもいないことを。
御影さんにも、好きな人がいるかも知れないのに。」

938『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:12:57 ID:IsAY9Ieo0
 御影さんは動きを止めた。ホッと息をつく。ギリギリ、セーフ。
『ならば、今、我がそれを望んでいると言えば良いのか?』
...全然、セーフじゃない。
『望むとか望まないじゃなくて。仕事でも、こんなことしちゃ駄目なんです。
それに、御影さんは凄く綺麗だから、御影さんに恋人がいたら、
その人はそれをとても誇りに、幸せに思ってる筈です。なのに、こんな...』
『御前は真の、言霊遣いなのだな。
以前、お前と同じ適性を持つ術者に出会った時と同じだ。
その言葉を聞くと不思議に温かく、同時に不安な心持ち。』
褒められてるのか貶されてるのか、俺は。
『我は口下手だし、未だ旧い想いの熱も冷めぬ。
だから我の記憶を御前に見せる。お前と同じ適性を持つ術者に出会った時の記憶。
その上での判断は、御前に任せよう。』

939『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:18:04 ID:IsAY9Ieo0
 目の前の、澄んだ瞳。細い腕が俺の頭を抱く。
閉じた瞼にキスの感触を感じた後、意識が遠のいた。

 頭が、痛い...召喚?
随分と長い間、寝ていたような気がする。最後に働いたのは何時だったろう。

940 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/15(月) 23:19:55 ID:IsAY9Ieo0
皆様今晩は。再び、藍です。

今夜は此所まで、お付き合い頂いた皆様に心からの感謝を。
有り難う御座いました。

941名無しさん:2016/02/16(火) 05:41:25 ID:nxJaLFJIO
投稿ありがとうございました!続きを読めると思ってなかったので嬉しいです^o^-
Rさんモテモテですね。認められなかったらRさん一家が可哀想だと心配になりましたが、大丈夫そうで良かったです。
続きありがとうございます。

942名無しさん:2016/02/16(火) 20:32:52 ID:O9neFNdMO
御影さんまでRさんに…うらやましい…。Rさんもある意味、一族最強ですね。

943 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 20:53:58 ID:scfGdIuY0
テスト中です。

944 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:01:20 ID:scfGdIuY0
皆様今晩は、藍です。

以下、『契(中)』の残りを投稿致します。
お楽しみ頂ければ良いのですが。

945『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:02:17 ID:scfGdIuY0
 呪文は続いている。止めてくれ。頭が、割れるようだ。
正直、これなら死んだ方が余程...鬱陶しいが、『契約』は全てに優先する。

 「契約に基づき、汝に命ずる。」
見たことの無い顔。という事は、長の代替わりがあったのか。では、○明は。
「我が契約したのは●◇の家。お前と契約したのではない。」
「私は◆明、●◇の家の長だ。●◇の式を使役する正統な権限を継承している。」
やはり、○明は死んだのか。なかなかに力のある術者で、見所のある男だったが。
「話は聞くが、受けるかどうかは私が決める。」
「もしも、契約に基づく依頼を断ればどうなるか」
「何時でも消える覚悟はある。式となっても、我は殆ど一族の為に働いていないから。
契約に背いた罰則で我を縛れるなどと、思わない方が良い。」
男の右頬がピクリと動いた。伝わってくる、荒い波長。 こんな男が●◇の家の長とは。
暫く寝ている間に、一族には何が起こっていたのだろう。
「その、まさに一族の為の仕事だ。一族の命運を左右する、重要な任務。」
「他の式でなく、我を召喚したのだから、相応の覚悟があるのだろうな。」
「次の当主が決まった。しかしその男は、術者を軽んじ一族の未来を危うくする
危険な思想の持ち主だ。術者の誇りを、一族を守るために、その男を殺して欲しい。」

946『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:03:19 ID:scfGdIuY0
 「そんな思想を持つ者を、『上』と『眼』が次期当主として認証するとは思えないが。」
「術者の育成を巡る考えの違いで、●◇の家は一族を離れた。
その後、奴等の中で術者を軽んじ、力を持たぬ者を重視する輩が力を増した。
『新しい時代に対応した一族の在り方』などと詭弁を弄して、な。
私は、術者の力を尊重し、術者の力で一族の未来を開きたい。力を貸してくれ。」
「次の当主となれば相応の力、返り討ちになる可能性も有るだろう。
しかも式を使って一族の者を殺めれば、お前には血縁相克の大罪。
どちらにとっても割に合う仕事では無いな。」
「割に合う、報酬を約束しよう。成功すれば、契約を解く。つまりこれが、最後の仕事だ。」
「我自身が、報酬か。面白い。」
今更自由を得ても人の身には戻れない。だが、面白いのは、依頼の対象。
それがどんな人間なのか、何故術者を軽んじるのか、知りたい気もする。
そう、今のままではあまりに、退屈だから。
「依頼を受けよう。しかし勝負は時の運。成功の保証は出来ない。

947『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:04:38 ID:scfGdIuY0
 日が沈む。完全に夜の帳が下りるのを待って目的地に移動した。夜こそ、我の時間。
小さな、屋敷。2階建て、部屋の数はせいぜい8つ...本当に、次の当主が、此所に?
屋敷を護る結界はなく、護衛の姿もない。あまりに不用心ではないか。
罠? いや、我に罠など。 笑止...返してみせる。
灯りの点る窓は3つ、2階にはそのうちの1つ。あれが、仕事の舞台。
闇に融けて壁を抜け、家の中に入り込む。そして部屋へ。部屋の中にも護衛はいない。
大きな机、革張りの椅子に背中を預けた後ろ姿。この時間、護衛なしで暢気に本を?
気配を抑えたまま、ゆっくりと近付く。やはり罠ではない。
少なくとも、相応の警戒をするように『上』からの指示があった筈だ。何故、この男は?
じりじりと、距離が詰まる。もう、十分。万が一にも

948『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:05:29 ID:scfGdIuY0
 「少しだけ、待ってくれないかな。」
!? 今、我に、呼びかけたのか? この男は。
「そう、君だよ。どうして僕を殺すのか、理由を聞いてみたいと思ってね。」
その男は椅子ごと、くるりと体を回した。人の良さそうな顔に、悪戯っぽい笑顔。
その目はしっかりと我を見つめている。 閉じた本を机の上に。
『見えるのか、我が?』
「ああ、見えるよ。僕はそういうのが、ちょっと得意なんだ。だけど、『◇話』は苦手。
だから出来れば、声を出して話してくれると有り難い。このままだと、疲れる。」
夜、侵入してきた式と対峙して、それが自分を殺しに来たと知っていながら...『疲れる』?
「自分の置かれた状況は、理解している筈だが?」
「勿論理解してるさ。あっさり君の侵入を許し、その気になれば君は僕を殺せるかも。」
その男は笑った。押し殺した声で、如何にも可笑しそうに。
「これ、かなりマズいよね。」

949『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:06:22 ID:scfGdIuY0
 「何故、笑う?」 罠も、護衛もなし。この状況からどうやって我を。
「だって、僕が今夜あっさり殺されたら、僕を次の当主に選んだお偉い方々の間違いだろう?
だから、『なんであんなのを選んだ?』って大騒ぎになるよ。笑っちゃうね。」
「他人事だな、まるで。」 本当に、その神経は一体どんな。
「確かに、今でも他人事みたいだ。僕が次の当主だなんて。」
また、男は笑った。去勢を張っているようにも、自棄にも見えない。晴れやかな笑顔。
「あ、それで君も此所へ来たんだろう?
僕が次の当主に決まったから、僕を殺せと頼まれた。ね、君にそれを頼んだのは誰だい?」
「馬鹿げた質問だ。その質問には答えを得られないと、分かってるだろう。」
「そう、だね。まあ、大体予想は付いているし。ただ、確かにその人の指示なら、
おとなしく殺されても良いかなと思ってて、だから確かめたかった。」
この家に結界がなく、この部屋に護衛がいないのは。
「わざと、我を侵入させたのか?」
「わざとって言われると心外だな。かなりの手間をかけて君を止める結界を張っても、
ずっと結界に閉じこもる訳には行かない。そして僕が結界を出て襲われれば他人を巻き込む。
それに、無駄死にになるって分かってるのに護衛の術者を置くのは可哀相だろう?
あ、ちょっと失礼。」
ドアの外、廊下を近づいてくる気配...とうに気付いていた。恐らく高位の術者。
もしこの男がそれを隠していたら、術者が加勢に入った瞬間に、まとめて殺すつもりだった。

950『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:08:22 ID:scfGdIuY0
 「○さま、凪です。先程から微かに不審な気配が。念のためお部屋の警戒を。」
「ああ、来客だよ。心配要らない。下がって休みなさい。」 「しかし、今夜来客の予定は。」
男は我を横目で見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「妙齢の美しい御婦人でね。夜の密会という訳だ。後は察してくれ、朝まで。」
溜息、遠ざかる気配。我の気配に気付くなら相当な術者だが、それよりも。
「本当に、見えているのだな。我の姿が。『妙齢の』と『美しい』は余計だったが」
「見えるって、はじめにそう言ったろ。それに、僕は余計な事なんて言ってない。
僕たちとは年の取り方が違うから、見かけで判断するしかないんだけど。
そうだな、二十代前半、第一級の美人。まあ、勇ましすぎる服が玉に瑕かな。」
「...お前と話してると妙な気分だ。何だか自分の感覚に、自信が持てなくなる。」
「いや、君は自信を持って良い。僕は美人が大好きで、要求水準がかなり高いからね。
あ、そうだ。」 男はまた椅子ごと体を回して机の上から写真立てを取った。
「ほら、凄い美人だろう?これが僕の妻で、娘のSが3歳の時の...御免、脱線し過ぎた。」
「分かれば良い。それで、もう一度聞くが。」 「何、かな?」
「わざと、いや、分かっていて我を侵入させたのは、
本当に『おとなしく殺されても良い』と思ったからか?」
「そうだよ。今も、そう思ってる。」
「当主なら、一族の為に、自身の命を大切にするべきだろう。お前が死ねば、それは。」
駄目、だ。やっぱり感覚がおかしくなってる。我はこの男を殺しに来たのではなかったか。

951『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:10:10 ID:scfGdIuY0
 「僕はまだ当主じゃ無い。それに、君を寄越した人が僕の予想通りなら、
僕が殺される事でその人の憎しみが少しは緩むんじゃないかと思ってね。」
「本家と分家の争いは承知している。普通に考えて、分家に勝ち目はない。多勢に無勢。
戦いを長引かせるだけで、分家はやがて瓦解する。憎しみを緩める目的が分からない。」
「憎しみが緩み争いが終わるなら、それこそが望むべき結果。
一刻も早く争いを終わらせ犠牲者を減らす。それより優先すべきものが有るとは思わない。」

 ...『犠牲者を減らす。』 前に、同じ言葉を聞いた事がある。何時?

 「争いを終わらせるために、お前自身が最後の犠牲者に、なると言うのか?」
「僕たちがどんなに手を尽くしても争いを終わらせる事が出来ないのは、
あの人の憎しみが解けないことも大きな原因だろう、だから。
勿論死ぬのは怖いし、未練もある。特に妻と娘を残していくのは...娘は、まだ6歳だ。」
愛する妻と大切な娘を残して、それでも自らの命を捧げて、争いを終わらせると?

 頭が、痛い。心の底に沈んでいた記憶が浮かび上がり、心の旧い傷が。

952『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:11:14 ID:scfGdIuY0
 「何故だ?言っただろう。戦うなら夜を、我の帰りを待てと、あれ程。」
弱々しい咳。我の腕の中で、その人は真っ赤な血を吐いた。
「太陽が地平線に隠れた直後、敵襲...夜まで待てば、村に残った人達を、だから。」
黄昏時に力を発揮できる亡者が混じっていたのか。一体、どうやって?
「でも、村の人々に、被害は出なかった。力を持たぬ人々の、犠牲を増やしてはならない。
成る可く早く戦いを終わらせ、彼我の、力を持たぬ人々の犠牲を最小限に。
だから、俺と共に戦った術者達は納得してくれたと思う。だが。」
「だが、何だ?」
「お前は、褒めてくれるか?俺たちは村の人々を守ったと。」
「ああ、お前達は、お前は良くやった。お前の力も我が教えた術も、全て越えて。良くやった。」
「そうか、なら」
我の腕の中で、あっけなく、その人の体から力が抜けた。
何故だ? 何故だ...
村の人々を守っても、お前を失ってしまったら、我はどうすれば良い? これから。

953『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:12:16 ID:scfGdIuY0
 「今、一体何と?近しい者を奪われた憎しみに呑まれれば、結局お前も闇に。」
「いいえ。憎しみに呑まれてなどおりません。ただ、あの御方の言葉を実現するために。」
そう、あの人は言った。『成る可く早く戦いを終わらせ、彼我の犠牲を共に最小限に。』と。
「どうか『黒の宝玉』を我に。宝玉の力で変化し、成る可く早くこの戦を終わらせましょう。
敵味方に関わらず、力を持たぬ人々の犠牲を最小限に、それが、あの御方の願いでした。」
「いくら類い希な『適性』を持つとは言え、女子の身で、其処までせねばならぬとは。
それにもし失敗すれば其方は、それではあまりに、過酷な...」
「女も男も、問題ではありませぬ。当主様のお慈悲は、どうか、あの御方と我の菩提の為に。」
「承知した。戦が終わったら◎✕とお前を偉大な先達の列に。」
「有り難う、存じます。」

954『契(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2016/02/16(火) 21:13:23 ID:scfGdIuY0
 遠い、記憶。あれから、どれだけの時が流れたのか。
まさか今また、同じ言葉を。ならば我は。
「家族の話を聞いたから言うのではないが、犠牲などという考えは止めた方が良い。
あの男の頭の中には争いを終わらせるなんて考えは全くない。
あの男は本家の人間を殲滅して争いに勝つ事しか考えていないから。
それはあの男が組織した戦闘集団の術者たちも同じ。完全に洗脳されている。」
「そうか、なら別の手を...あれ?
君は僕を殺しに来たんだろう?どうして僕にそんな事を。」
「お前を殺すのは、気が進まない。正直に言えば、お前を殺したくない。」
「でも、契約に基づく仕事だから、もし違反したら君は。」
「我が消えても大した影響はないが、お前が死ねば、一族は未来を失う。そんな気がする。」
そう、もう潮時かも知れない。あの戦いの為に変化したが、
戦いの後、人外と成り果てた我が身を式としたのは、偏に一族を守るため、それなのに。
我の力を恐れる術者は、我に任務を与えることをも恐れた。
大した仕事も出来ず、挙げ句の果てに、一族の者の暗殺を請け負うなど、本末転倒。
長い時間の内に、我の感覚は曇っていたのだろう。


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