したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

藍物語(投稿・感想・雑談専用=隔離)スレ

1枯れ木も山の賑わい:2014/03/26(水) 23:49:11 ID:sdeCrXLs0
藍 ◆iF1EyBLnoU の 投稿と
投稿に対する感想・雑談の為に立てた専用スレです。
レスの都合上コテハン推奨ですが、匿名の書き込みも勿論OK。
非難の書き込みは「作品に関する話題・雑談」スレで存分に。
こちらへ書き込まれた場合は(可能ならば)削除します。

229 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:44:42 ID:76T7LtyE0
 「式の始末は、私に策があるわ。でも、式を排除しても彼女自身を救えなければ意味がない。
何時までも過去ばかり見ているのでは結局彼女も、そして娘さんも幸せにはなれない。
だから、あなた自身が彼女を助ける。それなら、私も力を貸す。それでどう?」
「全力で、頑張ります。」 「うん、良い返事。L、その間翠と藍をお願いね。」
「勿論です。任せて下さい。」

『贐(中)』 了

230 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:07:17 ID:fXUecUhQ0
テスト中。

231『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:08:48 ID:fXUecUhQ0
『贐(下)』

 前日の打ち合わせ通り、翌日の早朝、女性の携帯に電話を掛けた。
「昨夜はコンビニで買った弁当とお茶。今朝は駅で何か買う。全部あなたの言う通り。」
「昼食も外食で。夕食は打ち合わせをしながら一緒に。退勤時間に車で迎えに行きます。
職場か駅の近くにコンビニはありませんか?駐車場が広いと良いんですが。」
「え〜っと、駅の近くのファミマ。○▲駅店、知ってる?」 「調べます。時間は?」
「そうね。5時、40分でお願い。」 「了解、じゃ5時40分に。」

232『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:09:32 ID:fXUecUhQ0
 約束の時間。待ち合わせたコンビニの駐車場に着くと、女性は既に店の外で待っていた。
車を降り、手を上げて合図をする。助手席のドアを開けた。
「どうぞ。」 「...ありがとう。」 助手席のドアを閉め、運転席に戻る。
「あの2人、お友達ですか?」 コンビニの店内で女性が2人、こちらを見ながら話をしている。
「凄〜い、やっぱり分かるんだ。今日、居酒屋に誘われたのを断ったら、もう根掘り葉掘り。
2人とも勘が良いから誤魔化しきれなかったの。だからせめて店の中にって言ったんだけど。」
「『誰』が迎えに来るって言ったんですか?まさか、陰陽師?」
「そんなこと言えないでしょ。弟。一緒に娘の見舞いに行くからって。」
「ちゃんと紹介すれば良かったのに。あれじゃ逆効果です。あの人達、絶対信じてませんよ。」
「だって、紹介したら色々聞かれる。年の差とか仕事とか。
それに、今更どんな噂が立っても構わない。それより、凄い車ね。ビックリしちゃった。」
「お客様の送迎用にはいつもこの車です。じゃ、まずは夕食。
お寿司で良ければ御馳走しますよ。美味しいお店を知ってますから。」

233『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:10:09 ID:fXUecUhQ0
 馴染みの寿司屋、藤◇。榊さんとの打ち合わせでも良く使う店だ。
電話して小さな座敷を予約してあった。夕食を済ませた後で打ち合わせ。
「部屋に戻ったらすぐお風呂。最後に浄めの水を全身にかけます。」 「髪も洗うの?」
「そうです。タオルと着物は僕の用意した物を使って下さい。
僕が用意した着物以外は何も身につけないこと。」
「下着も?」 「勿論。普段あなたが身につけているものは全部ダメです。化粧品も香水も。」
「マニキュアも落とさないといけないってことね。完全なすっぴん。ちょっと、恥ずかしいな。」
「『弟』なら、すっぴん見られたって恥ずかしく無いでしょ。
それに、女性の術者に繋ぐのを嫌だと言ったのはあなたなんですからね。」
「...分かった。それで、着替えた後は?」
「普段夜はベッドですか?それとも布団?」 「ベッドよ。娘と二人で。」
「ソファはありますか?横になれるくらいの。」 「ある。」
「じゃ、ソファに新しいシーツを敷きます。準備が出来たら横になって下さい。
その後であなたの周りに結界を張ります。そして、あなたが寝たら僕の出番。
式が活動出来るのは、あなたが寝た後ですから。」

234『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:11:00 ID:fXUecUhQ0
 「どうやって式を始末するかは教えてくれない訳?」 「いわゆる、企業秘密です。」
実際、俺は術の準備のための簡単な指示を受けただけ、子細はSさんしか知らない。
正直、俺はそれよりも『宿題』で手一杯だった。この人を、救う方法。
「それとね、本当に必要経費は要らないの?此処のお勘定も高そうだし。」
「それも、病院との契約に含まれてます。」 「何だか、割に合わないような、気がするけど。」
「全て上手くいったら、病院の宣伝をお願いします。陰陽師の話は抜きで。」
「それは勿論、でも私一人じゃそんなに。」 まだ、納得していない表情だ。
「地道に広告塔を増やすのは大事です。それと、今回は別の思惑もあるのでVIP待遇で。」
「別の、思惑って?」 「スカウト、です。」 「スカウト? 私を?」
「はい。前にあなたの言葉に宿る力の話をしたでしょう?
あれは『言霊』。実はお兄さんだけでなく、あなたにも力があります。気付いてないだけで。」
深く息を吸い、下腹に力を込めた。俺の『宿題』を解く、鍵。
『だからあなたが無心に、心から発する言葉には言霊が宿る。
すると、言葉の真の意味が、聞く人の心に強く作用する。その心の有り様を変える程に。』
「こと..だ...ま?」 数秒間、『言霊』が彼女の心にその意味を届けるのを待つ。
「はい、言霊です。あなたには力があって、その適性は『言葉』。
この適性の持ち主はとても数が少ないみたいなので、あなたをスカウトできれば、と。」
「私が、陰陽師になるってこと?」
「術者になれるかどうかは分かりません。でもあなたの力を活かす仕事は沢山ありますよ。
一族は慢性的な人手不足ですから、スカウトが成功したら僕は表彰ものです。
勿論今はそんなこと考える余裕はないでしょうけど。じゃ、いよいよあなたの部屋へ。」

235『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:11:47 ID:fXUecUhQ0
 ソファの周りに代を配置する。式はこの中から出られるが、一旦出たら入れない。
誘い出した式が彼女の中に戻るのを防ぐ結界。あとはSさんに任せれば良い。
結界を張り終えて、テーブルの上にペットボトルのお水を置いた。
「ありがとう。でも、喉は渇いてないし、トイレに行きたくなったら困るから。
それより、こんな時間に寝たこと無いから、全然眠くない。」
「思っていたよりあなたの手際が良くて、時間が余りました。
手持ち無沙汰ですが、眠くなるまで気長に待ちましょう。あ、トランプも持ってますよ。」
女性は黙って首を振った後、何か言いたげに俺を見つめた。
「もし時間があるなら、聞きたい事があるんだけど。」 「何でしょう?」
「一昨日聞かせてくれた話。あなたの一族では兄と妹の結婚が禁忌ではないって、本当?」
Sさんの、予想通りだ。 彼女自身の心の動きで、術の支度が調いつつある。

236『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:12:28 ID:fXUecUhQ0
 「本当です。もちろん法律上は夫婦と認められないので、一種の事実婚。
遺伝的な条件とかの縛りがあって、子供を作るのを避けることはあるようですが、
本人達の希望なら普通に結婚式も挙げるし、親族も皆二人を祝福するんですよ。」
「何だか、羨ましいな。もし、兄と私があなたの一族に生まれていたら、
私たちも、みんなに祝福されてそんな風に。事実婚でも、きっと幸せになれた筈。」
そう思うのも無理は無い。
でも一族に生まれていたら、この女性もその兄も幼い頃から然るべき修練を積んだ筈。
だからその関係自体が、有り得なかった。
「生まれ変わりたいですか?」
「え?」
「生まれ変わって、新しい人生をやり直したいですか?
本当にやり直したいなら、お手伝いしても良いですよ。」
女性は曖昧な笑顔を浮かべた。

237『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:13:12 ID:fXUecUhQ0
 「それは...本当に、やり直せたら。どんなにか。」
「じゃあ、僕にあなたの名前を預けて下さい。明日の朝、陽が昇るまでの間。
夜が明けたら、名前を返します。そしてあなたは新しい人生を踏み出す。素敵でしょ?」
女性は半分嬉しそうに、半分怪訝そうに、俺を見詰めた。冗談だと、思っているのだろう。
「面白そうね。でも、どうやって名前を預けるの?」 これで、支度は調った。
「これに、名前を書いて下さい。フルネームを。」
Sさんが取って置きの鋏で切り出した白い蝶、それと、筆ペン。
「ねぇ、幾ら何でも用意が良過ぎる。一体何をするつもり?」
「生まれ変わるお手伝いです。僕を信じると言ったでしょ?どうぞ、名前を。」
女性は背中を丸めて紙の蝶に名前を書いた。 「これで、良いの?」
「結構です。」 紙の蝶を受け取ると、指先に火花が散った。
「あっ!」 女性が手を引っ込める。 まるで静電気。この痛みは、やはり苦手だ。
「有り難う。準備が、調いました。あなたの名前を、聞かせてください。」
「私の、名前...嘘、私の名前は」 女性はボンヤリと俺を見詰めた。
あとは俺の『宿題』。 昨夜からずっと考えて、考え抜いて出した答。
心の中で練った言葉を、血液に載せて左手に送り込む。簡潔に、そして単純に。
『眠る。目覚める前に夢を見る。兄と結婚式を挙げる夢。』
左手の薬指を舐め、女性の額にそっと触れる。
力なく頽れた女性の体を抱き留めた。

238『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:13:47 ID:fXUecUhQ0
 既に近くで待機していたのだろう。電話を掛けて10分もしない内にSさんがやって来た。
「うん、上出来。準備は完璧ね。早速用意するから手伝って。」 「はい。」
Sさんが持ってきた大きめのバッグ、いつもの『お出掛けセット』ではない。
Sさんは手早く小さな祭壇を組み立てた。火を付けた蝋燭を大きな貝殻の端に立てる。
鮮やかな朱塗りの杯。日本酒を注いだ同じ朱塗りの銚子に、Sさんは綺麗な飾りを付けた。
「Sさん、それって。」 「三三九度の用意。婚礼の手順をなぞるけど、冥婚だから略式で、ね。」
冥婚、それは死者同士の婚礼。まさか、Sさんも。
「彼女の希望に添う形でないと成功率は低いから、これが一番確実な方法、多分。
それにこの部屋にはまだ、彼女の兄の気配が残ってる。最高の条件。」
「え〜っと、僕の『宿題』の答えも結婚関係なんですけど、障りは無いですか?」
「ふ〜ん、やっとR君にも女の気持ちが分かるようになったのかしら。大丈夫、全然平気。」
Sさんは鮮やかな色と模様で彩られた台紙を一枚、祭壇の前に置いた。
中央の赤い文字を挟んで、白い枠が二つ。台紙の隣に朱墨の筆ペン。
最後に玉串を祭壇に置き、Sさんは微笑んだ。「じゃ、部屋の電気を消して頂戴。」

239『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:14:27 ID:fXUecUhQ0
 「・・・の御前に、祭主S、怖れ慎みて・・・○村美枝子、冥府に赴くにあたり・・・
先に冥府に入りし○村健一と、御前にして婚嫁の礼・・・もって迷いを断ち・・・とせん。」
Sさんは朱墨の筆ペンで台紙の白い枠に『○村健一』と書き込んだ。恐らく彼女の兄の、名前。
続いて胸ポケットから紙の蝶を取り出し、同じ名前を書き込む。
それを右掌に置き、目を閉じた。 深呼吸、Sさんの集中力が更に高まっていく。
「外法の始末よ、力を貸して。」 呟いて目を開け、そっと、掌の蝶に息を吹きかけた。
掌から白い蝶が飛び立ち、ひらひらと部屋の中を飛び回る。相変わらず、見事な術だ。
「彼女の蝶を、玉串の上に。」 Sさんが小声で囁く。
一礼。玉串の上に彼女の蝶を置くと、台紙の残った白い枠にSさんが朱墨で名前を書き込んだ。
そう、『○村美枝子』。 俺が彼女から預かった、名前。
祝詞が再開された。 Sさんの澄んだ声が、古い言葉を紡いでいく。
ゆっくりと、白い蝶が部屋の中を飛び続ける。 まるで誰かを待ち続けるように。

240『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:15:03 ID:fXUecUhQ0
 ふと、Sさんが言葉を切った。部屋に満ちる気配。式だ。血の臭いは消えている。
直後、玉串の上から白い蝶がふわりと飛び立った。彼女の蝶。そうか、あの蝶に式を。
Sさんは恭しく銚子を頭上に捧げた後、朱塗りの杯に日本酒を注いだ。
続いて床に両手をついて一礼。慌てて俺も倣う。 これは。
俺たちの目の前。三三九度の杯に、二片の蝶が並んで舞い降りた。
成る程。彼女の一番の望みが兄との結婚なら、式はこれでその望みを叶えた事になる。
「御目出度う御座います。」
Sさんが声を掛けると、蝶は飛び立った。 絡み合うように飛び回る、二片の蝶。
Sさんは台紙を折り畳み、蝋燭の炎にかざした。部屋の壁と天井が朱に染まる。
そして燃える台紙を貝殻の上に置いて深く一礼、目の高さで手を叩いた。
蝶が空中で動きを止め、炎に包まれる。 二片とも、灰も残さずに燃え尽きた。
何かが床に落ちる音。Sさんが拾い上げる。
古ぼけた、銀色のハート。ペンダントトップ?
「これが、式の代。高校生だったとしたら、お小遣いでは精一杯の真心ね。」
Sさんは銀色のハートを俺の右手に握らせた。ハートを握った俺の右手をポンと叩く。
「これでお終い。さて、翠がぐずってたから急いで帰らなきゃ。」
「あの、翠がぐずってたって。」 祭具の片付けをしながら、翠の事がやはり気になる。
「大好きなお父さんが今夜はいないんだから、仕方ないわ。
それより、ちゃんと朝まで彼女を護って。名前を返すのは陽が昇ってから。
絶対に手を抜いちゃ駄目よ。」 Sさんはイタズラっぽく笑った。
「分かってます。」

241『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:15:47 ID:fXUecUhQ0
 翌朝。カーテンの隙間から朝陽が差し込むのを確認し、念のために更に10分待った。
「美枝子...美枝子。」 軽く肩を揺する。これで名前は元通り。そして俺の術が、発動する。
『目覚める前に夢を見る。兄と結婚式を挙げる夢。』 昨夜、彼女の心に送り込んだ言葉。
暫くして、彼女の目から一筋の涙が零れた。そっとタオルで拭う。
悲しみの涙か、嬉しさの涙か。それでこの人を救えるかどうかが、決まる。
涙の痕が乾いてから、もう一度声を掛けた。
「美枝子さん、起きて下さい。式の始末は上手くいきましたよ。
起きて下さい。ほら、朝ご飯のお粥も、作りましたから。」

242『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:16:38 ID:fXUecUhQ0
 お粥を食べている間も、女性は時折涙を拭った。彼女が自ら話すのを待つ。
食後のお茶を飲み終えて、ようやく女性は口を開いた。
「昨夜、夢を見たの。」 「どんな、夢ですか?」
「結婚式の夢、兄と二人で式を挙げる夢。私、とても嬉しかった。でも。」
『それで』ではなく、『でも』、それなら望みがある。
しかし、こみ上げる感情を抑えた。出来るだけ、そう平静に。
「でも?」
「兄は、笑ってなかった。凄く真剣な表情で。何だか、とても辛そうだった。」
『結婚式を挙げる夢』、そう指定したが、細かい内容は指定していない。
だからこれは、彼女自身の洞察。それを、確かめる。
「あなたが本当に大切だから、これからの事を色々考えて。男は色々と」
「慰めは聞きたくない。ね、私の言葉には言霊が宿るって、そう言ったでしょ?」
「はい、あなたが無心に、心から発する言葉なら。」
「じゃあ、やっぱり私のせいだわ。いつも『大好き』って言ったから、
私の言霊が兄を。兄は、本当は私の事なんか...」
女性の頬を大粒の涙が伝う。 それは嬉しさでなく、深い悲しみの涙
本当に、良かった。 この人なら、きっと気付く。そう、信じていた。

243『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:17:14 ID:fXUecUhQ0
 兄と妹。人目を忍んで続いた2人の関係は、この女性が力を持つが故の、
そして力をコントロールする訓練を受けられなかったが故の、不幸な事故。
残酷かも知れないが、自分でそれに気付かなければ、彼女は過去を清算できない。
「お兄さんもあなたが大好きだった。それは確かですよ。
だからこそあなたの言霊がお兄さんの心に強く作用して、『好き』の種類を変えてしまった。
元々それは、体の関係に繋がる『好き』ではなかったのに。それが、不幸の始まり。」
「『不幸』だなんて、酷い言い方。本当に遠慮がないのね。」
「その言葉の意味が、今のあなたになら良く分かる筈です。そうでしょ?」
十年以上、誰にも相談出来ず1人で耐えてきた苦しみと哀しみ。
今まで何処にも吐き出せなかった苦い思い。それらの堰が一気に切れたのだろう。
女性は俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
しっかりと肩を抱き、背中をさする。大声で泣くことが、今この人には必要なのだ。

244『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:17:46 ID:fXUecUhQ0
 どうすればこの人を救えるか、昨日の夕方ギリギリまで必死で考えていた。
この人の記憶の一部を書き換える。当然それも考えた。
しかしそれで兄への否定的な感情が生じ、娘さんへの愛情が変化したら最悪の結果を招く。
結局小細工では何も解決しない、そう思った。
彼女の力と適性について真っ直ぐに伝え、彼女が兄と結婚する夢を見せる。それが俺の答え。
思慮深く、俺と同じ適性を持つ彼女なら、きっと気付くと信じていた。
自分で気付けないのなら、たとえ俺がそれを伝えても信じてはくれないだろう。
その時は、Sさんに頭を下げて、彼女を託すつもりだった。しかし、例えSさんでも、
縁の無い者を助ける事は難しい。それが、いつもSさんと姫が強調する、人助けの鉄則。
今回は縁が有った。そうでなければ俺の術など何の力も無い。
女性は泣き続けた。思いを全て流してしまうまで、その涙は止まらないだろう。
涙が止まった時、この人は新しい人生に踏み出せる。
これからの長い人生に比べたら、例え1日泣き続けても大した時間じゃない。
このまま泣き止むまで、彼女の肩を抱いたまま傍にいる。そう、決めた。

245『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:18:30 ID:fXUecUhQ0
 「ありがとう。いっぱい泣いたら、スッキリした。兄が死んだ時にも泣けなかったのに、
あなたといると、泣くのが怖くない。自分の心に、素直でいられる。不思議ね。」
10歳も年上。でも、泣きはらした目で、時折しゃくり上げながら話すその人を可愛いと思った。
「スカウトの話、憶えてますか?」 「え?」
「昨夜も言いましたが、僕たちの一族はあなたを必要としています。
もしあなたが自分の力を誰かのために役立てるなら、いつも自分の心に素直でいられますよ。
僕自身がそうだから間違い有りません。それは、保証します。」
「私が引っ越しを考えてるって話、憶えてる?」 「はい、娘さんの中学入学を機に、と。」
「娘の怪我の事で色々有ったし、今の職場、少し居辛いの。
引っ越しに合わせて転職出来たらって、ずっと思ってた。
だからスカウトの話、とても有り難いけど。本当に私なんかが役に立つの?」
「心が決まったら電話して下さい。新しい職場、御紹介致します。」
「...心を決められるように、お願いがあります。」 「何でしょう?」
「もう少しだけ、このままでいて。涙が、出なくなるまで。」
「お安い、御用です。」

『贐(下)』 了

246『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:19:22 ID:fXUecUhQ0
『贐(結)』

 昼寝から覚めて時計を見ると窓の外は既に暗くなっていた。もう7時過ぎだ。
着替えて顔を洗い、飛びついてきた翠を抱きしめる。温かい、命の感触。
「夕食、出来てますよ。」 姫がダイニングから顔を出した。

247『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:26:12 ID:fXUecUhQ0
 「スカウトの件、上手くいきそう?」
ダイニングで食器を洗っていると、Sさんがハイボールのグラスを持って来てくれた。
姫はリビングで翠と藍の相手をしてくれているのだろう。
「う〜ん、五分五分、ですかね。心が決まったら電話して下さいって言っておきました。」
「美人で、頭も良い。あなたへの信頼と依存も深かった。今朝、ソファに押し倒しちゃえば
スカウト成功確実だったのに、変な所で律儀なんだから。ホント難儀な性格よね。」
Sさんお得意の憎まれ口には慣れている。
彼女と兄の関係を知ってから、彼女と接する時、俺はいつも彼女の弟の立場を意識した。
あくまで模擬、それでも異性の友人や姉弟同士、体の繋がりのない絆を実感することが、
彼女が生まれ変わるには是非必要だと思ったからだ。
そしてそれは、Sさんも同じ意見だったのに。つまり俺の心を読むのが怖いから、
鎌をかけて俺の口から聞きたいってこと。全く、難儀な性格はどっちなんだか。

248『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:28:13 ID:fXUecUhQ0
 「彼女が泣き止むまで、ずっと肩を抱いて背中をさすってました。それだけです。
まさか外法に手を染めた術者と同じ事をしても良いなんて、まさか本気じゃありませんよね?」
Sさんは両手で俺の頬を挟み、唇にキスをした。
「冗談よ、怒らないで。愛する夫が綺麗な女性の部屋にお泊まり。
しかも帰ってきたのはお昼前。ちょっと位、愚痴を言っても良いでしょ。機嫌直して、ね。」
小さく溜息をつく。やっぱり心にもないことを。
「怒ってなんかいませんよ。それよりスカウトの件、どうなったんですか?」
「心当たりに電話したら、乗り気だった。スカウトが失敗して断るのが怖いくらい。」
「もう、おとうさん!あらいもの、まだおわらないの?」
頬を大きく膨らませた翠の後ろで、姫が笑いを堪えている。
「あ、御免。もうすぐ終わるから、それから一緒に絵本読もうね。」

249『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:28:57 ID:fXUecUhQ0
 数日後、夕方5時過ぎに市内の総合病院を訪ねた。
ロビーを見回す。その女の子は、すぐに分かった。ベンチに座り、外を見ている。
誰かを待っているような、何かを怖れているような、寂しげな表情。 胸が、痛い。
ゆっくりと歩み寄り、その子の隣に座った。怪訝そうに俺を見た女の子に声を掛ける。
「君は○村佳奈子ちゃん、でしょ? お誕生日、御目出度う。」 女の子は目を丸くした。
「どうして私の名前を?それに、誕生日も?」 背中を丸めて、女の子と視線を合わせた。
「僕は魔法使いなんだよ。君のお父さんの古い友達で、だから仕事を頼まれたんだ。」
「でも、私のお父さんは。」
「9年前、お父さんが亡くなる前に約束した。とても大事な約束。
「どんな、約束?」 声を潜め、女の子の耳に囁く。
「君には、邪悪な妖怪が取り憑いてる。その妖怪は、君の大事な人に化けて君の命を狙う。
しかも、君が成長するにつれて妖怪の力も強くなる。このままだと君はいつか妖怪に。
それで、君を護ってくれって頼まれた。今日が、その約束を果たす日だ。」
「大事な人に化けるって...お母さんとか?」
やはり、この子は自分を襲ったモノを見ている。まるで母親そのものの、式の姿。
自分を襲ったのが、大好きな母親だと信じたくない。
それで、子供心に必死で自分の記憶を。だから3度とも怪我の原因は不明。
「油断させて、襲うんだ。ほら、その足の怪我にも妖怪の気配が残ってる。
原因の分からない怪我をするのはこれが初めてじゃないよね?」
女の子の表情が、突然ぱっと明るくなった。
「うん、3回目。でも、私の怪我は悪い妖怪のせいだったんだね。」

250『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:29:37 ID:fXUecUhQ0
 「そう。だから、これを持ってきた。これ以上無い、強力な御守り。」
女の子の視線を十分引きつけて、それをポケットから取り出した。
銀のハートを、細いプラチナのチェーンに通したネックレス。
「ほら、綺麗でしょ?これをあげる。そしたら、もう二度と邪悪な妖怪は君に手を出せない。」 「でも、そんな綺麗なもの貰ったら、きっとお母さんが。」
「大丈夫、お母さんにはこう言えばいい。
『この御守りはお父さんのお友達だった魔法使いから貰った』、
そして、『ずっとこれが私を護ってくれるって言ってた。』って。ちゃんと言える?」
女の子は大きく頷いた。
「じゃ、かけてあげよう。お父さんとお母さんの想い、大事にするんだよ。」
白く、細い首の後ろで留め金を留めた。ゆっくりと、立ち上がる。
「良く似合う、これで大丈夫。僕はもう行くよ。次の仕事が、あるからね。」
「あの、名前。お兄さんの名前を、お母さんに。」
「R。それで、分かるよ。さようなら。」
「さようなら。」

251『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:30:12 ID:fXUecUhQ0
 それから三ヶ月程が過ぎ、お屋敷の周りには秋の気配が漂っていた。
榊さんに依頼された仕事を終え、お屋敷に戻ると玄関先に見慣れた軽トラ。 『藤◇』の文字。
「あざっした〜。」 配達の人の元気な声。すれ違いながら声を掛ける。「いつも御苦労様。」
ドアを開けた。 何だ、これは?
差し渡し1m近い舟盛りが二艘。豪華な寿司とお造り。そして紅白の紙で包まれた日本酒。
「おかえり〜。おとうさん、こんやはごちそうだよ。」 翠と、その後ろにSさんと姫の笑顔。
「これ、みどりの。きれいでしょ?」 「美味しそうだね。全部食べられるかな?」 「うん!」
翠が持っている折り箱には色とりどりの小さな手鞠寿司。 藤◇の大将の、心遣いだろう。
「もう少し早かったら、電話で話せたのに。残念ですね。」
「あの、今日って何かの記念日でしたっけ?全然、憶えてなくて。」
姫とSさんは顔を見合わせて微笑んだ。 「結納のお祝いよ。美枝子さんから『弟君』に。」
美枝子...あの女性の、結納?
「相手は私の従兄。彼女より2つ年下で、きっとお似合いだと思ってたの。」

252『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:31:36 ID:fXUecUhQ0
 彼女を引き受けたのがSさんの叔母夫婦だという話は聞いていた。
『お似合いだと思ってた』ということは、最初からこれも狙いの1つだった訳だ。
「式は来月、是非家族みんなで出席して欲しいそうです。電話、かけ直しましょうか?」
「あの、娘さん、加奈子ちゃんは?」
「叔母と従兄が加奈子ちゃんをすごく気に入ってて、加奈子ちゃんも懐いてるみたい。」
それなら、心配ない。安心したら腹が...空腹で倒れそうだ。
「もう、式には出席するって返事したんですよね?」 Sさんと姫は声を合わせた。 「勿論!」
「じゃ、まずはその御馳走を。もう、お腹ペコペコで。電話はその後に。」
「了解です。それにしても、Rさんて。」
「え?」 姫が真っ直ぐ俺を見つめている。
「最近、何だかとても頼もしい感じで、素敵です。」 「あ、そ、そうですか。え〜っと。」
「何赤くなってるのよ。全く、デレデレしちゃって見てられないわね。」

『贐』 完

253 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:33:24 ID:fXUecUhQ0
皆様今晩は、藍です。
無事『贐』の投稿を終える事が出来ました。
有り難う御座いました。

254名無しさん:2014/06/10(火) 22:57:56 ID:V7Sj6eOU0
藍様、作者様、弟様、有難うございました!
そして、投稿作業お疲れ様でした。
今回のお話も興味深く拝読させていただきました。
新規の投稿を、もうなされないのではと危惧しておりましたが、こうして新作を読ませて頂き、心よりの感謝を申し上げます。
出来る事でしたら、また新しいお話の投稿を願っております。

255名無しさん:2014/06/10(火) 23:14:16 ID:jGb.UW5QO
とてもとても面白かったです。知人さん藍さん、本当にありがとうございました!!

256名無しさん:2014/06/11(水) 14:52:59 ID:zO.9f2AU0
藍さま、作者さま、楽しく拝読させて頂きました。
有難うございました。
美枝子さんも今後話しに絡んでくるんでしょうね、陰陽師として。
Rさんのお子さん2人に美枝子さんが面倒をみる姪御さんたちも
今後陰陽師としての才能を開花させていくのでしょうか・・・
さらに楽しみが増えました。
この作品を拝読させて頂くのが私の数少ない楽しみの一つです。
次作がとても楽しみですが、あまりご無理をなさらぬように・・
藍さま、稀代のストーリーテラー作者さま本当に有難うございます。

257名無しさん:2014/06/14(土) 18:39:36 ID:Hpd3syqU0


これなんて読むの?

258名無しさん:2014/06/14(土) 18:43:40 ID:SnZ43S6M0
>>257
はなむけ
新しい出発を祝う贈り物のこと。

259名無しさん:2014/06/17(火) 19:43:11 ID:8vjEjl2g0
>>257
コピーできたなら、Google開いてペーストして、検索ボタンもクリックしてみようよ。

260名無しさん:2014/06/17(火) 21:17:57 ID:oCcb1r3c0
>>259
まあ、良いじゃありませんか。
本当は分かっていたのかもしれませんよ。
258のレスで、この作品の深みが増す訳ですから。
まったりいきましょう。

261名無しさん:2014/06/18(水) 16:55:07 ID:WdUwr52o0
というか 今回のお話と題名が本当にベストマッチだと思います。
貪欲ではありますが 次の作品も心待ちにしています

262 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/18(水) 21:33:27 ID:H0buFQH.0
テスト中です。

263 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/18(水) 21:43:29 ID:H0buFQH.0
 皆様今晩は、藍です。

 色々な事情を鑑みて個別のレスは控えておりますが
全てのコメントを、有り難く拝読しております。

 さて本日、知人から新作の連絡が届きました。
次作は掌篇らしいので近い内に投稿出来ればと存じます。
完結編が近づくのは複雑な思いですが、私自身『次』を切望しています。
どうかもう暫く、お待ち下さい。

264名無しさん:2014/06/20(金) 23:55:34 ID:iI9RQMkw0
楽しみにしてました。
ありがとうございます。

265 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/24(火) 23:54:11 ID:rfVDjrLE0
テスト中です。

266 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/24(火) 23:56:33 ID:rfVDjrLE0
皆様今晩は、藍です。
以下、新作の掌編『花詞』を投稿致します。
お楽しみ頂けると良いのですが。

267 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/24(火) 23:59:44 ID:rfVDjrLE0
『花詞』

 爽やかな風が木々の枝を揺らしている。もう秋も深い。翠と2人で辿る、細い散歩道。
...やはり有った。葉脈が深く刻まれた濃緑色の葉と、鮮やかな赤い実。
隣の○×県。『その県民公園には、幼児でも歩ける散歩道が整備されていて、
すぐ脇にその木が何本か生えている。』 事前に調べておいた情報の通りだ。
近づくと、小さな鳥が数羽飛び立った。鳥たちは美味しい実の在処を良く知っている。
「御免よ。少しだけ、実を分けておくれ。」
呟きながら母の口調を思い出す。良く熟した実のついた枝を探した。
鳥たちや散策の人々の取り残しだろう。実の数は少なかったが、これで、十分だ。
蘇る、遠い記憶。

268 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:01:44 ID:yWHXq0Qo0
 母の白く細い指が水筒の水を赤い実にかけ、ぴぴっと水を切る。
「R。ほらこれ、ガマズミの実。美味しいよ。食べてごらん。」
「がまずみって、へんななまえ...でも、あまくて、おいしい。」
「秋の山には、食べられる実が他にも色々有るから。一緒に、探そうね。」 「うん。」

 色とりどりの果実、野趣溢れる甘酸っぱい味の思い出。
幼い頃、父と母は代わる変わる俺を野外に連れ出した。
父は釣りとキャンプ、河や海。母は野原や山、今で言うならライトトレッキング。
父はともかく、頻繁に俺を野外に連れ出した母の意図を、今にして思う。
俺の感覚の一部を封じて、でも季節の移り変わりを感じる感受性はしっかり育てたい。
きっと、そういう思いから。自分の子をもって、初めて知る母の愛情。

269 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:04:44 ID:yWHXq0Qo0
 「お父さん、どうしたの?」
小さな体を抱き上げる。 「ほら、あそこに赤い実があるでしょ?」 「うん。」
程度の差はあれ、翠も俺と同じだ。翠が一歳半の時、Sさんはその感覚の一部を封じた。
あまりに強過ぎる感受性が、後の災いを招かないように、と。
お屋敷は一種の閉ざされた環境。しかも感覚の一部を封じられて翠は育つ。
もちろんSさんと姫は普段から翠の情操教育に心を尽くしている。沢山の絵本や音楽。
ただ、この国の美しい四季に感じる心を育てるには、実体験が何よりも必要だ。
ある程度の距離を歩けるようになった頃から、
出来るだけ翠を野外に連れ出すように心がけていた。
それは勿論父親である俺に与えられた大切な、役目。
ガマズミの実を一房取り、ペットボトルの水をかけた。ぴぴっと水を切る。
「食べてごらん。甘酸っぱくて、美味しいよ。」 「ホントだ。あま〜い。」
何時の日か、翠が子供を産み、その子にこの実を食べさせる日が来るだろうか。
屈託のない笑顔を見ながら、そんな事を考えていた。

270 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:06:20 ID:yWHXq0Qo0
 「お父さん、これで良い?」 「OK、次はマットレスと毛布を運ぼうか。」 「うん!」
穏やかな日差しの中、お屋敷の庭に翠と2人でテントを張っている。
最近読んだ絵本の影響だろう。翠がキャンプをしたいと言い出し、
どうしてもテントで寝たいと言って聞かなかったからだ。
実家には昔俺と父親が使っていたテントがある筈だが、
取りに帰るとそれだけで丸1日かかる。街で新しいテントを買ってきた。
余裕を見て3〜4人用、テントで寝るのは翠と俺だけだから広さは十分。
今夜の天気予報も問題ない。冷え込みに備えて温かい上着と毛布を用意すれば準備は万全。
まずはみんなで夕食、庭に設置してあるグリルで魚介類のバーベキュー。
後片付けをしてから一度お屋敷に戻る。翠を風呂に入れてパジャマを着せた。
その後いよいよ翠と2人、テントでお泊まり。もちろんSさんと姫と藍はお屋敷の中。
テントで寝るとはいえ、トイレや翠がぐずった時にはお屋敷に戻れる。お気楽なキャンプ。

271 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:09:52 ID:yWHXq0Qo0
 テントの天井から吊したランタンのスイッチを入れた。
勿論ガス式の方が風情は有る。しかし、翠の火傷など万一を考えて蛍光灯式。
LED式は懐中電灯には良いのだが、明るさの割に眩しくて室内の照明には向かないと思う。
テントを張ったのはガレージの裏。初めはウッドデッキの上を提案したが、即却下された。
確かにウッドデッキではあまりに雰囲気がない。やはりこれで正解だった。
広い庭の外れはそれなりに暗いし、これなら翠にとってかなり本格的なキャンプの気分だろう。
「かんぱ〜い。」 「乾杯。」
翠は麦茶、俺はビール。 夜食とつまみもあるし、小さなクーラーボックスは満杯。
「どう?もう外は真っ暗だけど、怖くない?」
「ぜんぜんこわくない。とってもたのしい。それにね、もう少ししたらお客さんたちが来るよ。」
「お客さん?」 「そう、山のどうぶつたち。くまさんとか、ぴっぴちゃん(※鳥)とか。」
!? しまった、キャンプしたい理由はそれだったのか。

272 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:11:50 ID:yWHXq0Qo0
 多分、絵本の内容が幾つか、ごっちゃになってる。
これはさすがに予想してなかった。 ちょっと、マズイ。
この辺りにクマはいない。キツネはいるが、絵本のように訪ねてくる筈がない。
でもそれじゃ翠の機嫌が。一気に大ピンチ、それとなく、客は来ないと説得しないと。
「この辺にクマはいないし、夜は鳥たちも寝てると思うな。
あ、でも前に夕方キツネを見たことがあるよ。山道で自転車に乗っている時。」
「え〜、いいなあ。かわいかった?」
「可愛いっていうか、綺麗で、強そうだったよ。目が、きりっとしてさ。やっぱり野生、だからね。」
「じゃあ、こんやのお客さんはきつねさんかな?たのしみだね。」
あ、いや、そうじゃなくて...
相性の問題で、翠には俺の術が効かない。
Sさんにそれっぽい式を寄越してもらうしかないだろう。あとでトイレに行くふりをして。
その時、テントの入り口を叩く音がした。

273 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:14:45 ID:yWHXq0Qo0
 「やっぱり来た。お客さん。」 「翠、待って!」 慌てて抱き止める。
お屋敷の周りの土地は巨大な結界になっていて、悪しきモノたちは近づけない筈だ。
今頃このテントを訪ねて来るとしたら多分...だが、用心するに越したことはない。
翠の手を握ったままテントの入り口をから様子を伺う。小さな、白い影。やっぱり。
「な〜んだ、くださんかぁ。お客さんだと思ったのに。」
「姫、なんだとはあんまりな。管が、せっかくこの仮屋を訪ねて参りましたのに。」
さすがにSさん、用意が良い。まあ、一応キツネだし。
管さんは何故か翠がお気に入りで、しかも敬語だ。俺にはずっとタメ口なのに。
するりとテントに入り込んで入り口のジッパーを閉めた。相変わらず律儀なことで。
「秋の夜は長いもの。退屈しのぎに昔話などお聞かせしましょう。」
「うん、聞きたい聞きたい。はやく、はなして。」
管さんは翠の膝の上に丸くなって話し始めた。
もちろん、管さんの話は面白い。これで翠の気が紛れれば、本当に助かる。
紙コップにチューハイを少し注いで翠の傍に置いた。そういえば鮭冬葉も買ってあったっけ。
あれは小さくちぎって紙皿に。どちらも管さんの好物。

274 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:17:16 ID:yWHXq0Qo0
 管さんは昔話を続け、翠は眼を輝かせて話に聞き入っている。
既に11時過ぎ。ビールとチューハイが数本ずつ。
陶器のワインクーラーに赤ワインも1本冷やしてあるが、
翠を残してトイレに行くのも気が引けるし、立ちションは教育上宜しくない。酒量は控えめ。
それより問題は翠が一向に眠そうな素振りを見せないことだ。
術で寝かせることは出来ないし、うっかり俺が先に寝てしまったら、
明日Sさんと姫にこっぴどく怒られるだろう。
やはり翠を管さんに任せて、一度Sさんか姫に相談を。いや、2人はきっともう寝てる。
その時、翠が振り向いた。微笑んでテントの入り口を見詰める。

275 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:23:19 ID:yWHXq0Qo0
 「お父さん、ほんもののお客さんだよ。やっぱり来たね。」
テントの入り口を叩く、小さな音。一体...。
管さんが翠の膝を降り、俺の肩に駆け上がった。小さな声で囁く。
「かなり古い妖だが、意図が読めない。力が強いから失礼の無いように、対応を誤るな。」
再び入り口を叩く音。
「妖をテントの中に入れろ、ということですか?」 「そうでないと収まらん。」
そっと入り口ににじり寄り、声を掛けた。
「はい。どちらさま、でしょうか?」
「○×の山中に住む、◇◆○の使いの者で御座います。
先日お見かけした姫君に是非お目通りしたいと訪ねて参りました所、丁度この仮屋で宴が。
僭越ながら、宴の末席に加えて頂きたく、お願いに上がりました。」
○×? ということは、先日翠と2人で県民公園に行った時か、しかし特に変わった気配は。
「いらっしゃいませ、どうぞ。」 あ、翠、まだ。

276 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:25:33 ID:yWHXq0Qo0
 するするとジッパーが開き、入り口の布がめくれ上がる。 これは。
狩衣のような着物を着た、小さな、人。いや、人の形をした、一体、何?
それは深く一礼した後、入り口をくぐった。
「有難う存じます。姫君への贈り物と、父君へは酒肴を御用意致しました。」
「ありがとう。」 いや、翠、だからまだ。
まあ、物心ついたときから式を見慣れているから無理もない。
でも、せめてもう少し警戒心ってものが。それとも、これは夢か?
小さな人が手を叩くと、めくれ上がった入り口からもう1人、また、1人。
荷物を捧げ持った小さな人が次々とテントに入ってきた。どれも背丈は40cm程。
先頭の1人は木の枝を捧げ持っている。 満開の白い花、テントの中に微かな芳香が漂う。
素朴な一重咲き、この辺りでは見かけない花だ。 しかし、この香りは何処かで。
続く2人の荷物は小さな三方。でも、それらの背丈に比べればかなり大きい。重そうだ。

277 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 00:33:36 ID:yWHXq0Qo0
 三方の1つには秋の果実。アケビとヤマブドウ、ガマズミ?
もう1つの三方には小さな銚子と杯。それと、赤っぽい干し肉。
「大したものでは御座いませんが、どうぞお納め下さい。」
最初のと合わせて小さな人が合計4人(?)、揃って手を付き頭を下げた。
満開の枝を受け取った翠は上機嫌だ。
「きれいなお花、いいにおい。お父さん、これ、いけて。」
陶器のワインクーラーに水を張り、枝を活けた。即席の花器。
白い花弁が一枚、ひらりと散る。 「これ、なんていうお花かな?」
そうだ、まだ花の名を。 「宜しければ、花の名前を教えて頂けませんか?」
「はて、主自ら用意した花ですが名前までは。」 「その花は『さんか』であろう。」
「いや、『さんさ』だ。」 「我らは無粋者にて、花の名は。申し訳ありません。」
さんか? 山花か? 秋から冬の、山の花と言えば...藪椿? 確かに葉は似ているが。
「ボンヤリするな。礼の口上を。」 管さんが囁く。 これは夢じゃ、ない?
「花の名は家の者に聞けば分かるでしょう。」 そう、Sさんなら多分。
「それより、どれも季節の瀟洒な品々。有難う御座います。」 手をついて一礼。
「気に入って頂けて、何より。では、まず父君に。」
「杯を持て。一口で飲み干したら返杯。そうだな、紙コップに葡萄酒を。」

278 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:13:14 ID:yWHXq0Qo0
 淡く黄色味がかったその酒は甘味が強く、不思議な香りがした。
深い山に満ちる気のようなものが、喉から鼻に抜けてくる。 本当に、旨い。
「これは、美味しいお酒ですね。初めての味ですが、とても良い香りです。」
「椎と栗で醸した酒で御座います。昨年は山が豊かで、殊の外に良い出来でした。」
猿酒、か。手軽に果汁を発酵させた酒でなく、
本来はドングリなどの澱粉から手間暇かけて醸した酒をそう呼ぶのだと、
父から聞いたことがあった。しかし、実際にそんな酒を醸し干し肉を作るとは。
随分と風雅な生活をしているモノたちらしい。返杯の用意を。
紙コップを4つ並べ、少しずつ赤ワインを注いだ。紙皿に鮭冬葉を一掴み。
「では御返杯。舶来の葡萄酒です。皆様、どうぞ。」 「有り難く、頂きます。」
「あま〜い。これ、とってもおいしいよ。」 翠が食べているのはアケビの実。
椎と栗で醸したという酒と、赤っぽい干し肉との相性は抜群。
何杯でも飲みたいが、相手の意図が分からないのだから正気を保たねば。
そんな俺を尻目に、翠は果実をほとんど食べ尽くしている。
深夜のテントに不思議な客。奇妙な宴会が続いた。

279 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:15:18 ID:yWHXq0Qo0
 その酒の醸し方、山の果実の味。話題は尽きない。
一体、どのくらい経ったろう。お客が来て満足したのか、翠がウトウトと居眠りを始めた。
「失礼、娘を。」 翠をマットレスに寝かせて毛布をかける。首筋に、寒気。
振り向くと、小さな4人が揃って翠の寝顔を見詰めている。
「寝てしまわれたか。本当に愛らしく、美しい姫君。」 「未だ幼く、術も修めておられぬのに。」
「既にその御魂も御力も。」 「人にしておくのが勿体ないほどの御方。」
まさか、将来翠を妖の嫁にと。異類婚説話、そんな言葉が頭をよぎる。
「頃合いだ。そろそろ本題に。」 耳許で管さんの声。
確かに、もし翠に聞かせたくない話だとしても、今なら。
「ところで皆様方は、今宵どのような用件でこちらに?」
それらは一斉に俺を見た。まん丸な目、何だか怖い。

280 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:22:16 ID:yWHXq0Qo0
 「実は、我が主から仕官の件を言付かりまして。」 「仕官、ですか?」
「はい。元々我が主は京の都で高名な術師に式として仕えておりました。
しかし術師の死を境に主は○×の山地に隠遁致しました。もう400年程も前の事です。
時折気が向けば、修行のため山中に入った行者や術師と交わることは有りましたが、
我らがどれ程勧めても、仕官する気にはなれないようで御座いました。
更に時は移り、この数十年は行者や術師が修行に来るのを見たこともありません。
今の世では主が優れた術師に仕えることもあるまいと、我らは常々嘆いておりましたが、
先日姫君と父君をお見かけした主が、突然『是非もう一度仕官を。』と。
気が変わらぬ内にと、慌てて支度を調えましたような訳で。」

281 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:25:29 ID:yWHXq0Qo0
 俺の知る限り、式には2つの系統がある。
代に術者の力を封じた式は、主に短期間の使役に用いる。
何かの方法で力を補充し続けなければ活動できるのは数日がせいぜい。
当然使役する術者を越える力を扱うことはないし、それ自身の意思もない。
しかし管さんや御影は違う。それらは元々独立した妖で、契約に基づいて術者に仕えている。
自身の意思を持っているから、普通は式の同意を得ずにその契約が成立することはない。
契約の効力によって『良き理』から流れ込む力を使えるようになれば、
式の器によっては、使役する術者よりも遙かに強い力を扱うこともあり得る。
およそ400年もの間、自らの意思で○×県の山中に隠遁していたというなら、間違いなく後者。
そして、初めに『姫君に是非お目通りしたい』と。
「つまりその御方を娘の式に、ということですか?」 「左様、是非そのように。」

282 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:30:10 ID:yWHXq0Qo0
 さすがに今は危険過ぎる。しかし将来、強力な式を使役出来れば間違いなく翠に有利。
断るのは如何にも惜しい。しかし、素性が分からない妖を俺の独断では。
こんな時、Sさんがいてくれたら。
「その御方は、一体どのような。出来れば、実際に御目にかかってからお話を。」
「我らは主に仕官しております故、このような化生も自在ですが、主はそうも参りません。
今この場で姫君への仕官を許して頂ければ主の化生も叶いましょうが、
例え化生致しましてもこの仮屋に入れるものかどうか。」
どんな大きさ?一体何の妖だよ。それに、もしそんな相手を無下に断ればどんな。
「父親なら、腹を括れ。本意ではないが、ここはお前の判断に従うしかない。」
囁く声。管さんの言う通りだ。深く息を吸い、下腹に力を込める。
『仰せの通り、娘は未だ術の基本も修めておりません。
しかも私たちの一族では、式の使役を許されるのは術者が13歳になってから。
それまでお待ち下さるなら、改めてお話を伺いましょう。それで、如何ですか?』
断るのでなく、何とか話を先延ばしに。それが出来れば、Sさんの意見を聞くことも可能だ。
「あと8年と少し...人の身には長く、あまりに惜しい時間でありましょうに。
しかし、それが父君の御考えとあれば我らに異存は御座いません。」
そっと息を吐き、それとなく額の汗を拭う。どうやら収まりが付きそうだ。
「では、姫君への忠誠の証として、今夜と同じ贈り物を毎年お届け致します。
今夜の約束、どうかくれぐれもお忘れ無きよう。」

283 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:31:53 ID:yWHXq0Qo0
 『それでは足りない。』
鈴を振るような声。振り返ると、翠がマットレスの上で上体を起こしていた。
「姫君は、今何と?」 『毎年の贈り物だけでは足りない、そう、言ったのだ。』
場の空気が、一瞬で張り詰めた。 違う、これは翠の話し方じゃない。
「心を込めて贈り物を御用意致しましたし、誠を尽くして仕官の御願いを致しました。
これ以上、姫君には一体何の御不満が?」
言葉は丁寧なままだが、篭もる力は先程までと段違い。この後の言葉によっては。
慌てて翠を抱き上げ、膝の上に座らせた。耳許で囁く。
「駄目だよ。お客さんを怒らせちゃ。」
翠はじっと俺を見つめた。吸い込まれるような、黒い瞳。
『私に、任せろ。半端に道を付ければ、むしろこの子に災いを招く。』
言い終えて、ゆっくりと小さな客たちに視線を移した。
ぴいんと伸びた背筋、威厳に満ちた横顔。やはり、翠ではない。

284 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:45:00 ID:yWHXq0Qo0
 『仕官を望む気持ちが誠なら、お前の名を、名告れ。』
テントの中、彼方此方で、チリチリと金色の火花が散った。鼻の奥で火薬の臭いがする。
管さんは黙って俺の肩から飛び降り、翠の直ぐ横に蹲った。最高レベルの、臨戦態勢。
「御影」や「管狐」はあくまで通称。真の名は、契約した術者だけに明かされる秘密。
それを俺と管さんの前で...もし最悪の事態を招いたら、翠を守る方法は。

 『私に仕えるというなら、一族にも忠誠を誓うが道理。
そしてその日が来るまで、私の父母がお前の主。何故隠す必要が有る?
何度も言わせるな。 お前の名を、名告れ。』
新しい絵本を手にした時のように、大きく目を見開いた、翠の笑顔。
何もそんな、挑発的な言い方をしなくても。冷や汗が流れる。
小さな客たちの姿がゆらりと薄れ、蛍光灯式のランタンが頼りなく明滅した。
凝縮する気配...姿は見えないが、間違いなく目の前に、それは、いる。

285 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:46:24 ID:yWHXq0Qo0
 『我が名を名告れとは。今此の場で姫君と契約を結べとの仰せか?』
テント全体に響く、太く低い声。 もう、俺の手には負えない。しかし、翠は。
『当然だ。契約もしていない妖の出入りを許す法など有るものか。
しかし、此の場で契約を結び忠誠を誓うなら、『良き理』への道が開く。
それで元の姿と力を取り戻すかどうか。全てはお前次第。分かっている筈だ。』
『我が想いを...有り難い。では、我も誠を尽くそう。我が名は。』

286 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:48:23 ID:yWHXq0Qo0
 目が覚めると、明るい日差しがテントの布地を照らしていた。 朝、か?
入り口に丸くなった管さんの後ろ姿と、紙皿に残った赤っぽい干し肉は、
昨夜の出来事が夢でない事を示している。 一体、あれは?
「やはり○△姫の娘御。大した姫君よ。」
「でも、あれは翠の話し方じゃ。」
「どんな御加護も、御本人の希望がなければ力を持たぬ。
忘れたか?この仮屋で客を迎えるは、姫御自身が望んだこと。」
...あの公園で過ごした時、既に翠には俺に見えないモノが見えていたのか。
その一部を封じてもなお、俺には感知出来ない存在を感知する感覚。
完全に信頼して任せた事ではあるが、やはりSさんの判断は正しかった。
「とまれ、契約は成立した。新たに式を迎えたのは随分と久し振りだ。
まあ、姫君が実際にあれを使役するのは、もう少し先のことになるだろうが、な。」

287 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 03:58:15 ID:yWHXq0Qo0
 紙皿に残っていた干し肉の欠片を1つ食べて、Sさんは微笑んだ。
「少し塩辛いけど、美味しい。多分、熊の肉。鹿とか猪の肉とは違うと思う。」
「この辺りにクマはいませんよね。じゃあ、本当に古い妖が○×県から翠ちゃんに?」
「契約していた術者との心の繋がりが余程深かったのね。だから敢えて他の術者との間で
契約の『引き継ぎ』をせず、式としての力を失い、元の妖に戻って○×県の山中に身を潜めた。
素のままでさえ易々と熊を屠るほどの力を持つ妖。
しかし人々に害をなすこともせず、新しい契約を結ぶこともなく、ひっそりと暮らしていた。
そこにR君と翠が。だからこれも他生の縁。きっと、遠い約束の1つ。」
「易々と熊を屠るって、どうしてそんなことが分かるんですか?」
「苦しんで死んだ動物の肉は肉質が落ちるし獣臭がきつくなるって聞いたことがある。
この干し肉、旨味は濃いけど匂いは殆どない。だから。」
昨夜、そんな妖を相手にあの口調で...少し目眩がした。
御加護がなくても、強力な式を正しく使役する。そんな術者に、翠は成長するだろうか?
不安はあるが、正直先のことは分からない。
ただ、翠は式を使役する適性をSさんから受け継いでいる。それは確かだ。

288 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 04:08:34 ID:yWHXq0Qo0
 「でも、何故翠なんでしょう?適性は別にしても、未だ式を使役する力は無いのに。」
「一目惚れ、じゃないですか?翠ちゃんはとても可愛いから。」
「へ?一目惚れって。」 少なくとも400年は生きている妖が、3歳の女の子に?
藍を抱いたSさんは優しく微笑んだ。
「有り得るわね。式が仕える術者を選ぶ基準は好き嫌いであって損得勘定じゃない。」
「いや、だからって。翠は3歳ですよ?」
「基本、術者と契約を結ぶような妖は人が好きだし、特に小さい子は好きよ。」
そう言えば管さんは翠がお気に入りで、それに敬語だ。
「もちろん人間の恋愛感情とは違う。自分たちよりもずっと短い命が放つ輝きに、
畏れや憧れを感じているのかもしれない。この花を贈ったのも、きっとそういう意味。」
Sさんはテーブルに散った白い花びらを一枚摘まんだ。ワインクーラーの花器に活けた枝。
「これは山茶花。園芸品種は幾らも有るけど原種は滅多に見かけない。
もとは漢字の通り山茶の花で『さんさか』、それが訛って『さざんか』。受け売りだけど。」
サザンカ。 そうか、この香りは。 一枚ずつ散る花弁、艶のある濃緑色の葉。
八重咲きの、色とりどりの花を見慣れていたから、まさかサザンカだとは思わなかった。
「白いサザンカの花言葉は、確か『理想の恋』。出来過ぎ。偶然、ですよね?」
姫の言う通り。それは、幾ら何でも。

289 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 04:10:32 ID:yWHXq0Qo0
 「山茶花は日本が原産だけど、花言葉はそうじゃない。
それに花言葉自体の歴史がせいぜい200年。面白いけど、偶然でしょうね。
さて、400年位前、京の都、高名な術者に仕えていた。手がかりは十分。」
Sさんは藍を姫に託して立ち上がった。行き先は、多分図書室の記録庫。
翠はソファで昼寝をしている。あれだけ夜更かしをしたのだから暫くは起きないだろう。
本人には一体何処まで昨夜の記憶があるのか。さらさらの髪を、そっと撫でる。
10分程でSさんが戻ってきた。A3の紙をテーブルに置く。
大きく、クッキリとした筆文字。かなり古い資料のコピー。
「これかも。もし、本当にこの記録の通りなら、大変だけど。」
『大変』とは言うが、Sさんの目は笑っている。急いで資料に目を通した。
古い筆文字、全て読める訳ではない。しかし、ある文字が浮き上がるように目に入った。

290 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 04:13:34 ID:yWHXq0Qo0
 『鵬』
おおとり? それは古来、世界各地で目撃され、様々な名で呼ばれてきた。伝説の猛禽。
確か1800年代の終わりには、日本でも射殺された記録がある。
鵬にしては小型なのかもしれないが、記録によれば体長3m弱、両翼の差し渡し6m強。
猛禽ならば、アホウドリの大型個体の誤認などでは有り得ない。
「でも、この名前じゃありませんでした。確か」
Sさんは俺の唇を人差し指で押さえて首を振った。『黙って』の合図。
「駄目よ。それは翠だけの秘密。気を付けて。」
成る程、『鵬』もあくまで通称。その姿と性質をおおまかに示すだけだ。

291 『花詞』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/25(水) 04:16:46 ID:yWHXq0Qo0
 それから毎年、決まって10月の終わりには、お屋敷の玄関に贈り物が届いた。
満開の、白い山茶花の枝。山盛りの果実と熊の干し肉。椎と栗で醸した香り高い酒。
そして、その前後数日、お屋敷の遙か上空を舞う巨大な猛禽の影。
それらは、お屋敷に秋の深まりを告げる、新たな風物詩になった。

『花詞』 完

292名無しさん:2014/06/25(水) 13:21:39 ID:SHKj7Uok0
フォークロア的な内容、面白かったです。ありがとうございました。

293名無しさん:2014/06/25(水) 21:19:44 ID:WOyYMiB.O
大変面白かったです!
それにしても、翠ちゃん凄いです!

294名無しさん:2014/06/25(水) 23:41:35 ID:gwp7/WwE0
とても美しい物語を、ありがとうございました。

295名無しさん:2014/06/26(木) 23:41:50 ID:rbvhvdSo0
ふう。。。一揆に読ませる筆力、凄いです!
とても面白いお話でしたね。
また、次の作品に多いに期待してます。
藍さん、投稿作業お疲れ様でした!!

296車の手の跡:2014/07/02(水) 22:06:08 ID:KlgSPJIk0
自分が専門学校時代の話です。
一人暮らしだったのでよく宅飲みや溜まり場になってたんですけど
夏休みになり友達2人が泊まりに来てTVで心霊特集やってて観てたんです。
そしたら友達の一人がこの辺の心霊スポット行こうという話になって行くことになりました。
まあ地元じゃなかったんでネットとかで調べて行ったんです。

297名無しさん:2014/07/03(木) 08:43:48 ID:i0UQNgTkO
>296
ン? 誤爆でしょうか?ここは藍物語スレですが…。

298 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:30:06 ID:vzjMFSWg0
テスト中です。

299 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:37:20 ID:vzjMFSWg0
以下、新作『禁呪(上)』を投稿致します。
都合上、作中の人物名について伏せ字でなく書き換えで対応致しました。
あくまで仮名です、くれぐれもご承知置き下さい。

300『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:40:07 ID:vzjMFSWg0
『禁呪(上)』

 窓の外を白いものがひらひらと横切る。雪だ。冷え込むと思ったら、やはり降ってきた。
姫は暖かい上着を着ていったから大丈夫だろうが、滅多にない雪。渋滞も考えられる。
少し早目にお屋敷を出た方が良いだろう。 そんな事を考えている時、ケイタイが鳴った。
見慣れた画面表示、姫だ。 この時間の電話は大抵休講に伴う待ち合わせ時間の変更。
「はい、もしもし。」 「もしもし、Lです。」 「休講ですか?」
「それもありますけど、待ち合わせの場所を変えようと思って。」
??? いつもは大学の第5駐車場。それ以外の場所は初めてだ。妙な、胸騒ぎ。
「どうか、したんですか?」
「ええっと、買い物。そう、買い物です。それで、大学の駐車場じゃなくて
スーパーマーケットの駐車場で。そこでお願いします。時間は、そう3時過ぎに。」
「スーパーマーケットって、▲○■ですか?」 「はい。」

301『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:41:14 ID:vzjMFSWg0
 やはり、おかしい。たまに買い物をするその店は大学より遠いのだ。
それなら大学で姫を迎えてからの方が都合が良い。電話では話せない、事情?
「了解です。買い物の相談は後で。」 「はい、後で。じゃ、切りますね。」
ホッとしたような言葉を残して電話は切れた。
「どうしたの?お迎えの時間変更?」 Sさんは藍を抱いて翠と絵本を読んでいた。
「はい、休講と、スーパーマーケットの駐車場で待ち合わせしたいって。」
「スーパーマーケット?変ね、特に買い物の話はしてなかったけど。」
「何か事情がありそうなので早目に出ます。
多分Lさんは大学から歩くつもりだと思いますけど、この雪ですから。」
「そうね。寒いし、スーパーマーケットへの途中で拾えたら良いけど。でも、気を付けて。」
「お父さん、きをつけてね。」 「有り難う。気を付けるよ。」 翠の頬にキスをする。
手頃な上着を羽織り、すぐに車を出した。積もるとは思えないが、念のために、軽の四駆。

302『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:42:40 ID:vzjMFSWg0
 姫も免許を持っているが、俺は今でも出来る限り大学への送迎を続けている。
姫の希望もあるし、何より俺自身の希望。2人きり、車中で話す時間が愛しいから。
大学の正門前を通り過ぎる。ここからスーパーマーケットまで車なら5分弱。
出来ればその途中でと思ったが、姫の姿を認めたのはスーパーマーケットの駐車場。
店の入り口近く、歩み寄る俺を見つけた姫は笑顔で手を振った。
特に変わった様子はない。思わず息を吐く。
「無理に買い物しなくて良いなら、帰りましょう。体、冷えちゃったでしょ?」
「はい。少し寒いです。」 車に戻り、暫くの間細い体を抱きしめた。
「温かい。」 「良かった。」 安心して、思わず少しだけ滲んだ涙。そっと拭って車を出した。
「それで、どういう事ですか?こんな寒い日にわざわざ遠くまで歩くなんて。」
姫は俺の左手に右手を重ねた。まだ、少し冷たい。

303『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:43:49 ID:vzjMFSWg0
 「今日、告白されたんです、私。」
姫が大学で時々声を掛けられるのは知っていた。しかし、それで何故?
「でも、それだけなら大学の駐車場でも良かったんじゃないですか?」
ストーカーまがいの男でも、いざとなれば姫は自分で身を守るだけの力を持っている。
「相手が幽霊なので、もし駐車場でRさんの前に現れたらまずいかなと思って。」
「幽霊って...」 「はい、タケノブさんって言ってました。」
頭の中が整理できない。普通、幽霊の意識にあるのは過去だけ。
今生きている人に害をなす事があるのも、過去の憎しみや恨みに囚われているからこそ。
幽霊が新しい記憶を蓄積するなんて聞いたこともない。
しかし、その幽霊は姫に告白を。つまりその魂は死後に恋をしたというのか?それとも。
「あの、どういうことなのか全く分からないんですが。」
「はい、私にも分かりません。だから今夜Sさんに。一緒に話をしてくれますか?」

304『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:45:44 ID:vzjMFSWg0
 「ミスキャンパスに推薦されたのを断ったと思ったら、今度は幽霊に告白されるなんて。
L姫様は本当にモテモテね。R君も鼻が高いでしょ?」 Sさんはイタズラっぽく笑った。
翠と藍は既に夢の中。深夜のリビング、3人での作戦会議は久し振りのような気がする。
「いやあ、それは何とも。」 それ以外に答えようがない。ホットワインを一口、クローブの香り。
「それで、Lにも事情が分からないとしたら、単純に生き霊とは判断できないって事ね。」
そうか、姫に恋をした男の生き霊。でも、それなら確かに姫が。
「はい。実は『タケノブさん』って幽霊、大学では結構有名なんですよ。
噂では50年位前から現れてるようで、目撃者も沢山いるみたいです。
私も時々気配は感じてたんですけど、この数日急に気配が強くなって。
今日の昼休み、図書館で告白されたんですけど、他の学生には見えていないようでした。」
「もし50年前に入学したとしても、68歳。噂だから10年位の誤差はあるかも知れないけど、
それにしたって幾ら何でも不自然。本当に同じ幽霊?」
「はい、自己紹介で『ちょっと有名な幽霊です。』って言ってましたから。」
「待って。その人、自分が幽霊だって自覚してるって事?」 「はい。」
普通、生き霊としての記憶は本体に残らない。僅かに残ったとしてもせいぜい夢に見る位。
しかも自分が幽霊だと自覚してる幽霊なんて、あり得ない。

305『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:48:02 ID:vzjMFSWg0
 「正体が分からないとしたら、Lさんが明日以降も大学に行くのは危険じゃありませんか?」
「そうね。でもLに告白したんだから今の所悪意は無い。
ずっと大学休む訳にも行かないし...Lは何て返事したの?ミスキャンパスの時と同じ?」
「はい。『私結婚してます。御免なさい。』って。」
そう言って、姫を推薦しようとした友人たちを絶句させて以来、
姫に声を掛ける男は減ったらしいのだが、その幽霊はそれを知らないと言うことだ。
「それで、あの。」 姫は言い難そうに俺を見つめた。
「『本当ならあきらめるから、その人に会わせて欲しい。』って言われて。」
「その人にって、誰に、ですか?」
「鈍いわね。R君に決まってるでしょ。本当に夫がいるなら、会えばあきらめがつくって事よ。」
あの電話、姫の声に胸騒ぎを感じた本当の原因はこれか。
その幽霊と面会するのは俺の同意を得てからという、姫の心遣い。
「良いですよ。そういう事なら、僕が直接会って、話してみます。」
「宜しく、お願いします。」 小さな声、姫は俯いた。 胸が、痛い。
幽霊とはいえ、自分に好意を持ってくれた相手を蔑ろには出来ない。
でも、それで俺に面倒をかけるのは心苦しい。だから直ぐには言い出せなかったのだろう。
姫の優しさが胸に染みる。 そんな姫を黙って見つめるSさんも、やっぱり優しい。
しかし、言い寄ってくる相手から妻を守るのは夫の、つまり俺の当然の役目。
面倒どころか、誇らしい。自然と、気合いが入った。

『禁呪(上)』 了

306『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 19:52:42 ID:YR/48AOI0
『禁呪(中)』

 翌日の夕方、姫のお迎えで大学に車を走らせる。
いつもより少し早く大学の第5駐車場に車を停めた。20台分程の、小さな駐車場。
車を使う学生は歩くのが苦手。学部の建物から一番遠いこの駐車場はいつも貸し切り状態。
姫は更に遠回りして大学の構内を散歩するのを日課にしているので、
この駐車場が2人の待ち合わせ場所になっていた。
昨日とは打って変わった暖かい日差し。
終業までは間があるが、今日だけは姫を待たせる訳には行かない。
車を出て、駐車場近くのベンチに座る。本を持ってはいるが、単なる精神安定剤。
昼過ぎに姫から電話があり、これから会うことになっていた。そう、『タケノブさん』に。
20分程で姫の姿が見えた。いつもとは反対側。笑顔で手を振り、早足で近付いてくる。
「待たせちゃいましたか?」 「いいえ、そんなには。」 姫も俺の隣に座った。
「それで、場所は此処で良いんですね?」
「はい、『呼んでくれれば何処にでも。』って。大学の構内なら自由に移動出来るみたいです。」
「じゃあ、遅くならないうちに。」 「はい。」 姫は目を閉じて俯いた。
「いや、もう来てますから。」
視界の端に男の足が見えた。グレーのジーンズ、紺のデッキシューズ。

307『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 19:54:33 ID:YR/48AOI0
 ゆっくりと立ち上がる。その男と視線を合わせた。
爽やかな笑顔、本当に幽霊なのかと疑うほどの存在感。 しかし、この男には影が無い。
軽く一礼。「どうも、Rです。」 男は深々と頭を下げた。
「タケノブです。今日はわざわざ済みません。マドンナの隣に座っても良いですか?」
マドンナ? キリスト教の聖母。 この男が姫をそう呼んでいるなら少し気が楽だ。
「構いませんよ。」 3〜4人掛けのベンチ。左端に俺、その隣に姫。少し離れてその男。
「一応、戸籍抄本を持ってきました。」
「いや、お二人の様子を見れば分かります。まさかこんな可愛らしい女性が人妻だなんて、
とても信じられなかったので、どうしても確かめずにはいられなかったんです。
でも、あなたのような二枚目が相手では、僕など勝負になりません。得心しました。
それにRさんも僕と話が出来る人だなんて。何だか愉快な気分ですよ。」
...複雑な気分だが、姫が褒められるのはやはり嬉しい。
「それでは。」 「約束通り、マドンナの恋人になるのは金輪際諦めます。ただ。」
「ただ?」 首筋がヒヤリと冷たくなる。
「Rさんと、もちろんマドンナが許可してくれるなら、これからもマドンナと話がしたい。
僕と話が出来る人は、マドンナがやっと3人目なんです。もう52年も経つっていうのに。」
男は俯いて小さく溜息をついた。深い憂いを含んだ、寂しそうな横顔。

308『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 19:59:22 ID:YR/48AOI0
 「あなたは本当に50年も前からこの大学に?」
「そう、生きていれば僕は今年の10月に70歳。生きていればね。」
このまま話を続け、少しでも情報を得られたら、今後の方針を検討する材料になる。
そっと姫の顔を見た。姫も俺の目を見て小さく頷いた。
「失礼かもしれませんが、とても70歳には見えませんね。」
「そりゃ僕は18で死んだんだから、これより年取った姿は無理だよ。
服や靴は学生達のを見ればどうとでもなるけれど。」
黒い学生服と革靴...一瞬で。 男は学生帽を取って膝の上に置いた。
「これが当時の制服。僕はこっちの方が好きなんだが、この姿でいると時々騒ぎになる。
話は出来なくても、僕の姿が見える人は結構いるみたいだから。」
いつの間にかタメ口になっているが、考えてみれば大先輩だ。まあ仕方ない。
「あなたには、死んだ後の記憶があるんですか?」
「ああ。僕は生まれつき心臓が弱くて、風呂場で倒れたんだ。あれは、苦しかったな。
『折角大学に入ったのに悔しい悔しい。』って、そればかり考えてる内に気が遠くなって。
次に気が付いたときは此処に居た。ある教室の椅子に座ってたよ。
目の前に松田って親友が座ってて、声を掛けたけど反応が無い。
肩を叩こうと思ったら、こう、すり抜けた。
ああ、僕は死んで幽霊になったんだって、その時に分かった。」

309『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:02:15 ID:YR/48AOI0
 「それで、その後50年間の出来事も憶えているんですか?」
「もちろん。此処でずっと学生や職員の様子を眺めてきた。
学生達や職員達の人間関係、時代につれて移り変わる学生達の気質や習慣。
そういうのを観察しているのは、存外面白いんだ。
ほら、何て言うか、僕はその気になれば大抵何処にでも入れるからね。
言った通り僕は子供の頃から病弱だったから、家の窓から外を眺めるのが好きで、
特に人物を観察するのが大好きだった。まあ、この生活が性に合っていたのかな。
だけどさすがに寂しくなってきた。52年間にたった4人なんて。あ、そう言えば。」
「はい、何か?」
「4人目は君。マドンナと君が2人とも僕と話が出来るなんて奇態だ。
それにマドンナは僕に直接呼びかけることも出来る。一体君たちは、何者だい?」
...とうとう君呼ばわりだ。 それに、『何者だ?』って。聞きたいのはこっちだっての。
幽霊の自覚があって、死後の記憶があって、生きている人間にも関心があるなんて。
「陰陽師なんですよ。2人とも。」 「陰陽師?」 「はい。」
男は額に手を当てて目を閉じた。数秒間の、沈黙。
「確か、アイツもそんなこと言ってたな。2人目の...そう、○▲。面白い男だった。」
思わず姫と顔を見合わせた。 それは、俺たちの一族ではありふれた名字。

310『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:04:02 ID:YR/48AOI0
 「鳩が豆鉄砲食らったような顔だね。どうか、したかい?」
「あ、僕たちの一族ではありふれた名字なのでちょっと。」
「成る程。只の偶然か、もしかしたら君たちの一族と血縁があるのか。実に面白い。」
「それで、その○×って人はどんな?」
「入学式の翌日、僕に気付いて話しかけてきた。驚いたよ。」
男は面白そうに喉の奥で笑った。
「色々話してる内に友達になってね。初めは『いつか成仏させてやるから。』って言ってたけど、
その内『誰にも迷惑掛けないなら、そのままで良いんじゃないか?』って言うようになった。
それで、そのまま卒業。本当に良い加減な奴だよな。」
「それ、どの位前の話ですか?」
「う〜ん。30年、いやもう少し前。細かい年代は苦手だけど、頑張って思い出してみるよ。」
「もし思い出したら、聞かせて下さいね。」
まさに破顔一笑、男は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「マドンナ、これからもあなたとお話しする許可を頂いたと考えて良いんですね?」
「はい。でも、これからはマドンナは止めて下さい。私の名前は、L、ですから。」
「名前で呼ぶ事までも許して頂けるなんて...本当に嬉しい。有り難う。」
「夫もそれを、許してくれると思いますよ。ね、Rさん?」
かな〜り複雑な気分だが、姫がそう言うなら、まあ仕方がない。

311『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:07:35 ID:YR/48AOI0
 その日の深夜、再び作戦会議が開かれた。今夜の飲み物はホットウイスキー。
「大学の敷地に縛られてるなら一種の地縛霊。でもそれ以外、悉く幽霊の特徴から外れてる。
聞いた感じでは人間そのもの。LとR君の話じゃなかったら、とても信じられない。」
「はい。Rさんと話をしているのを見ていても、幽霊とは思えませんでした。
姿を現している間は、気配とか存在感も普通の人と変わりません。本当に不思議です。」
「自分が幽霊だという自覚がある幽霊の記録は残っていないんですか?」
お屋敷の図書室、その中の記録庫には様々な記録が保管されている。
其処になくても、『上』が管理する資料館にならもしかして。
「死後幽霊になり得るのは、限られた霊質をもつ人だけ。前に話したでしょ?」 「はい。」
「その霊質を持つ人の魂も、肉体を失えば存在の仕方が私たちとはズレてしまう。
そのズレのせいで自我を保つのがとても難しい。それが一般的な解釈。
ただ、強く執着してる事については、精神力がそのズレを越えて自我を保つことがある。
R君は幽霊が新しい記憶を蓄積することはないと思ってるみたいだけど、そうじゃない。」

312『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:10:36 ID:YR/48AOI0
 「強く執着したり関心を持った人については、新しい記憶を蓄積することもある。
私たちだって、関心の無い事までいちいち憶えていられないでしょ?
それがもっともっと極端になった状態を想像すれば、分かってもらえるかな。」
そうか、Sさんは幽霊になった女の子の、死後の記憶を念写した事がある。
別の件で、自殺した女子高生の霊が姫を記憶出来たからこそ、姫は彼女と友達になれた。
普段は朧に拡散している意識が何かの条件で凝縮し、その瞬間だけ自我を取り戻す。
そして自我を保っている間だけ、新しい記憶を蓄積する。それは一体、どんな感覚だろう。
「だから、術者が必要な条件を調えれば、その間は幽霊も自我を保つ事が出来る。
自分が幽霊であるという自覚を持ち、私たちと会話し、そして新しい記憶を蓄積する。
幽霊や魂と交信する術はその応用。R君も何度か、使った事があるわよね?」
そうだ、単独での初仕事。俺は交通事故で植物状態になった男の子の魂と交信した。
あの時、確かに男の子は自我を持ち、俺と会話をし、そして両親の様子を気遣っていた。
「だけどLの大学全体に、そんな条件が50年以上も存在し続けるなんて有り得ない。
第一、特殊な条件があるならLやR君がとうに気付いてる。何か、別の理由があるはず。
まあ理由はどうあれ、不思議な幽霊がいてLに好意を抱いてるのは事実。
今の所誰も被害を受けていないし、話し相手をしてる内に何か分かるかも知れない。
取り敢えずは様子見、経過観察ってとこね。」

313『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:13:28 ID:YR/48AOI0
 第5駐車場脇のベンチで姫を待っていると2人連れの姿が見えた。姫と、タケノブさん。
駐車場の入り口手前。姫が小さく手を振ると同時に、タケノブさんの姿は消えた。
タケノブさんは姫の帰りの散歩に同行することが多いが、毎日と言う訳でもない。
実際、ここ一週間程は姫の前に姿を現したという話は聞いていなかった。
「今日は一緒でしたね。タケノブさん。」
「はい、『とても面白い事を見つけたから、暫くそれを研究してた。』と言ってました。」
「研究って、人間関係の?」 「はい、助教授と学生の不倫だそうです。」 「はあ、成る程。」
何処でどんな事をしてたか知らないが、幽霊に不倫の現場を研究されるとは気の毒に。
「私が『そんな話は嫌いです。』って言ったら笑ってました。
それで今度は昔の自分の事を話してくれたんです。出身地とかお家の事とか。」
○×市で代々医者をしてきた家系だそうです。お父さんも医者だったから、
大学生になるまで生きる事が出来たと言ってました。好きな文学を勉強させてくれたし、
本当に感謝してるって。お風呂場で発作を起こして倒れたのは冬休み。
きっとお父さんお母さんが看取ってくれたんでしょうね。それが、せめてもの親孝行。」
助手席から外を見つめる姫の顔は、少し寂しそうに見えた。

314『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:19:06 ID:YR/48AOI0
 「『○△市で代々医者をしてきた家系。本当に、そう言ったの?」
Sさんの目の色が変わった。 「はい、確かに。」 「ちょっと待ってて。」 廊下を走る足音。
本当にせっかちな人だ。今夜の飲み物はカフェロワイヤル、折角の綺麗な炎を眺めもせずに。
結局Sさんが戻ってきたのは20分くらい経ってからで、
俺は新しく淹れたコーヒーでカフェロワイヤルを作りなおした。
「タケノブは名前じゃ無くて名字かも。○△市の武信姓。
その中に、もとは陰陽道、術者の家系がある。うちの一族とは系統が違うけど。」
そうか、呪術医の例に見られるように、古来、術者が医者を兼ねるのはありふれた事だった。
「もしタケノブさんの家が術者の家系だったら、
あの不思議な幽霊が存在する理由を説明出来るかもしれない。」
「もしかして、反魂の術。ですか?」 姫の顔が緊張している。
「反魂の術って、死者を蘇生させる術ですよね?確か、『泰山府君の法』とか。」
「あれは映画の中の話。その術の名前を口に出せないから、Lは反魂の術って言ったの。
一族に伝わる、門外不出の秘術。死者を冥府から呼び戻す、禁呪の中の禁呪。」
「本当に可能なんですか?死者を蘇らせるなんて。」
「全ての条件が揃えば可能な筈よ。」
「じゃあ西行とか安倍晴明の話も全くの作り話って事じゃ無いって事ですね。」
「どちらも半分ホントで半分嘘。カムフラージュのためにフェイクが混ぜてある。」
「フェイク?」 「そう、禁呪の内容や方法を全て語るわけにはいかないでしょ?」
それはそうだ。だが、語られている内容の一部は真実ということになる。

315『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:20:49 ID:YR/48AOI0
 「どこがホントで、どこが嘘なんですか?」
「L、西行の話、説明して上げて。その間にこれ、飲んじゃうから。」
「はい。」 姫は少し考えて、それから話し始めた。
「西行は人骨を集めて人間を再生した事になってますけど、あれは嘘です。
魂を入れないんですから、その術で作れるのは式であって人間じゃありません。
だから感情も言葉も持ってなかった。それはホントです。
骨を並べて云々の記述も、お香の種類や断食の話も、話をそれらしく見せるための嘘です。」
「どうしてわざわざ代に人骨を使ったんでしょうね?Sさんは紙を使うのに。」
「人の姿をした式を作る時、Sさんのように高等な術を使うなら代は紙の人型で十分。
でもそうでない時は人の一部、つまり遺体の一部を使った方が成功率は高くなります。」
姫は言葉を切ってSさんを見つめた。 少し困ったような顔。
「そう、あるいは。」
コーヒーカップを持ったSさんの目がキラキラと輝いている。本当に、綺麗な人だ。
「あるいは、何ですか?気になるじゃないですか。」
「その骨の主の姿をした式を作ろうとした。骨の主は一体誰なのか?
その人の姿をした式を作って何をするつもりだったのか?色々と事情がありそうよね。」
そうか、西行は話し相手欲しさに術で人間を作ろうとした事になっている。
しかし術で作る式は言葉を持たないのだから話し相手にはならない。
つまり話し相手欲しさに人間を作ろうとしたということ自体が、そもそも嘘。 
微かな悪寒。ブランデーとコーヒーで温まっていた体が、ゆっくりと冷えていく。

316『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:23:07 ID:YR/48AOI0
 Sさんはカップに残ったカフェロワイヤルの残骸を一気に飲み干した。
「美味しい。じゃ、次は安倍晴明の話。反魂の術を使うには、かなりの力が必要なの。
当然この術を仕える術者は限られる。だからこそ、主人公は安倍晴明って設定。」
確かに、あの話を後世の創作であると考える人は多い。
「あの話、『死者を蘇生させるのに代償が要る。』という部分はホント。
『代償が他の誰かの魂である。』という部分もホント。」
だからこそ病気で瀕死の上人を救うために僧侶が1人身代わりを志願した。しかし。
「2人とも助かったというのは嘘。不動明王が身代わりになるなんて有り得ない。
それに、どんな術者でも代償なしに高位の精霊と契約する事は出来ない。」
「その術は、精霊との契約に基づく術なんですね?」
「そう。まず蘇生させたい人の遺体の前で身代わりになる人の魂を捧げ、精霊と契約する。
ただし、既に遺体の腐敗が進んでいたら契約は成立しない。
だから、この術を使うとしたら、出来れば死亡直後。遅くとも死後1〜2時間以内。
もし契約が成立すれば、精霊はその見返りとして遺体の傷や病を癒しその腐敗を防ぐ。
術者は契約が成立した事、つまり遺体の腐敗が進まない事を確認して、
蘇生させたい人の魂を遺体に戻す。それで完成。全てが完璧なら、死者は蘇る。」

317『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:24:43 ID:YR/48AOI0
 治まりかけていた悪寒が再び全身に拡がっていく。
「じゃあ、反魂術が失敗したからあの幽霊が?」
「ご名答。遺体がまだ腐敗せずに残っているなら、その魂と私たちの存在の仕方はかなり近い。
だからその幽霊は自我を保てる。そう考えるしか、あの幽霊の説明はつかない。」
「でも、どうして失敗したんでしょう?契約が成立したなら、後は魂を戻すだけですよね?」
「魂を戻すだけって...そっちの方がずっと難しいの。だからこの術を使える術者は限られる。
というより、特殊な祭具の助けを借りずにこの術を使える術者はまずいない。」
Sさんの知る範囲にいないとしたら。当主様も桃花の方様も、勿論Sさん自身も。
それなら術者の力が足りず、術が完成しなかったのは当然の事だろう。
つまりタケノブさんの体は今も何処かに、当時のままで残っている。
「どう対処するべきなんでしょうね、僕たちは。」
放置するべきなのか。それともタケノブさんの体を探し出して葬るべきなのか。
「今は悪意のない存在でも、今後どう変化するかは分からない。
私の予想が正しいのかどうか、確かめておく必要もあると思う。」
Sさんは向き直って俺を見た。 はい、どうぞ何なりと御指示を。
「さてR君。52年前に何が起きたのか、資料を調べて頂戴。
県立図書館なら、多分記録が残ってる。」
「了解です。明日の朝一番に。」 「うん、良い返事。」

『禁呪(中)』 了

318『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:26:28 ID:YR/48AOI0
『禁呪(下)』

 『師走の怪事!?親子3人行方不明』
地元ではメジャーな新聞の縮刷版で、その記事はあっさりと見つかった。
個人病院を営んでいる医師とその妻、大学生の息子が行方不明だという記事。
半月程の間は細々と続報が載っているが、捜査が進展したという情報はない。
その後の新聞には事件に関する記事は見つからなかった。迷宮入りということだろう。
タケノブさんと、その父母。
何処からか術者を呼び、父母の内どちらかが身代わりになったのか。
いや、3人とも行方不明のままということは...
父母のうちどちらか1人が術者で、残り1人が身代わり。
しかし術は失敗し、術者も力尽きたと考えるのが筋だろう。
52年前に行われた反魂の術、その結果出現した不思議な幽霊。
帰りの車の中。お屋敷に着くまで、俺の心はもやもやと曇ったままだった。

319『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:27:57 ID:YR/48AOI0
 「多分あなたの予想通り。榊さんに調べてもらったけど、やっぱり未解決のままだった。」 
Sさんの寝室。就寝前の一時、Sさんと2人並んでソファに腰掛けていた。
藍はベビーベッドの中で寝息を立てている。翠はLさんの寝室。もう、2人とも寝ている頃。
『細かい事情を知りすぎて、もし態度に出たらタケノブさんが不審に思うから。』という
Sさんの判断と姫自身の希望もあり、今後の調査はSさんと俺が担当することになっていた。
「やっぱり行くんですか?予想通りなら確実に死体がありますよ。気が進みません。」
「52年も前だから、きっと白骨化してるわね。それより気がかりなのは白骨化してない方。」
「タケノブさんの体ですか?」
「そう、いつまでも腐敗せずに残っている体は、『器』になる可能性がある。」
「『器』って、入れ物のことですよね?」
「そう、何か悪しきモノがその中に入り込むかもしれない。
体を欲しがっているモノはいくらもいるから。」
「契約した精霊がそれを守ってくれるんじゃないですか?」
「精霊は体の準備を調えるだけ、その後体を守るとしたら別の契約が必要になる。」
「悪しきモノが入り込まないような対策を取る必要があるってことですね。」
「そう。それに、ちょっと確かめたいこともあるし。」

320『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:31:24 ID:YR/48AOI0
 「ええと、これこれ。こっちが門扉の鍵、こっちが玄関の鍵です。
定期的に草刈りはしてますが、マムシやなんかいるかもしれません。気を付けて下さい。」
武信医院の建物は52年前から空き家となり、現在は親戚から委託された不動産屋が
敷地と建物を管理している。Sさんが榊さんに頼んで話を付けて貰ったらしい。
『ある事件の犯人が○×市周辺に逃げ込んだ形跡がある。
空き家に潜伏している可能性があるから捜索させて欲しい。』という設定だった。
Sさんは車で待っている。綺麗な女性を連れた若い刑事なんて誰も信用しないだろう。
鍵を渡してくれたのは人の良さそうな初老の女性。 鍵を受け取って俺は頭を下げた
「有難う御座います。夕方までには鍵をお返しします。」
「ああ、急がなくて良いですよ。持ち主は売りたがってるけど、今の景気じゃ、
こんな寂れた街の土地を買おうなんて酔狂な人はいませんからね。しかも建物は曰く付き。」
「曰く付き?」 女性は露骨に『しまった』という顔をして、慌てて言葉を継いだ。
「あ、いや。その、前にも警察があの建物を捜索した事があって。」
「へえ、それどのくらい前のことですか?」
ホッとした表情。52年前の事件に触れずに済みそうだと思って安心したのだろう。
「私が此処に採用されてすぐだったから、もう30年くらい前ですよ。
その時も凶悪犯が隣の県からこの辺りに逃げ込んだかも知れないって話でした。
それで、2日かけて彼方此方調べたけど何にも分からなかったそうです。
あなたくらいの若い巡査で、『下っ端なんでこんな仕事ばっかりですよ。』って笑ってました。」
30年前...それ、何処かで。
「あの、どうかしましたか?」 「いいえ、何でもありません。有難う御座いました。」
もう一度頭を頭を下げて事務所を出た。

321『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:35:32 ID:YR/48AOI0
 地図を頼りに車を走らせ、10分程でその建物を見つけた。路肩に車を停める。
「何故わざわざ街の外れに病院を建てたのかと思っていたら、この辺りは龍穴なのね。
それほど力の強い龍穴ではないけど、住むにはとても良い場所なのに。」
建物の背後に拡がる森、その向こうに連なる山々が見える。あれが、龍脈。
長い歴史を持つその街は、新幹線や高速道路の整備から取り残され、
ここ20年程ですっかり寂れてしまったと聞いた。
「人間の経済活動は、龍穴の力も及ばない程の力を持ってしまったんですね。」
「じゃ、行きましょう。頼りにしてるわよ。」 「荷物持ちなら、任せて下さい。」 「馬鹿。」

322『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:37:01 ID:YR/48AOI0
 その建物は金網のフェンスで囲まれていた。これは管理の為に取り付けたものだろう。
その内側にコンクリートの低い壁。立派な門柱の看板に『武信医院 内科・小児科』の文字。
朽ち果てたのか、もとの門扉はなくなっていた。門を入ると結構広い庭、
その中を抜ける、ひび割れたコンクリートの小道。建物の玄関に繋がっている。
定期的に草刈りをしているからだろう。 フェンスの門扉、錠前はそれほど錆びていない。
2人で門扉をくぐる。白骨死体と対面するなんて気が進まないが、まあ仕方がない。
「事件の直後、当然警察は此処をしっかり捜索した筈です。ホントに此処ですか?」
「探し方が悪いとは言わないけど、何処にあるか分からないものを探すのと、
それがある場所の見当を付けてから探すのとでは雲泥の差がある。」
Sさんは小道の途中で立ち止まった。建物の中、じゃないのか?
「やっぱり有った。ほら、あれ。術者と医者を兼ねるなら、
それぞれの仕事場を分けるのは当たり前だもの。」
小道からさらに枝分かれする細い道。その先に小さな祠。
Sさんは祠に向かって歩き始めた。慌てて後を追う。

323『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:38:57 ID:YR/48AOI0
 5m四方程のコンクリートの土台。その上には更に木の土台、これは2m四方程。
湿気抜きの為か、コンクリートの土台と木の土台の間には5mm程の隙間が有った。
赤い彩色が残る木製の祠。 個人の庭の祠にしては念の入った作りだ。
Sさんは暫く祠とその周りを調べていたが、やがて祠の裏側から手招きをした。
「こんな所に、どう見ても変よね?」
それは金属製の取っ手。50cm程の間隔をおいて2個。多分真鍮、頑丈そうだ。
「何でこんな所に取っ手が?」 「押すか、引くか、どっちかに決まってる。ね、お願い。」
コンクリートの土台に片膝を付き、まずは引いてみる。
...動かない。全体が少し揺れるような感触はあるが動くとは思えない。それならあとは。
両膝を付き、徐々に力を込めながら押す。 突然、感触が変わった。
僅かだが、確かに木の土台がずれている。 もう一度、力を込める
低く唸るような音を立てて、あっけなく土台は動いた。 隠し扉と、それを挟む2本の浅い溝。
確かその溝は祠の正面にも続いていた。参道を示すしきりだと思っていたのだが。
動きの軽さからして、木の土台の下にはベアリング付きの大きな車輪が設置されている筈。
木の土台の下だから直接風雨に曝されない。単純だが優れた工夫だ。
Sさんは黙って隠し扉を見つめた。少し、目を細める。
「扉の周りに強力な結界が張ってある。かなり力のある術者だったのね。じゃ、扉を開けて。」
「大丈夫なんですか?」 「邪心の無い者には関係ない。開けて頂戴。」
Sさんは俺が持ってきたスポーツバッグの中から懐中電灯と蛍光灯式のランタンを取り出した。
「多分階段、灯りはこれで十分。さ、行きましょう。」

324『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:42:14 ID:YR/48AOI0
 扉を開けて中を覗く。1m50cm程の四角い穴。壁の一方に頑丈な梯子が組んである。
梯子を使って穴の底に降りる。Sさんの予想通り、其処から階段が伸びていた。
懐中電灯で照らしながら慎重に降りる。ランタンを持ったSさんが後に続く。
強い腐臭を覚悟していたのだが、カビ臭ささえ感じない。
微かに風が吹く。ヒンヤリと冷たい、乾いた風。奥に通風口が有るのだろう。
3m程降りただろうか。階段は終わり、開けた場所に出た。コンクリートの床だ。 これは。
男物の靴と女物のサンダル。綺麗に揃って並んでいる。
靴とサンダルの少し先、10cmほどの段差があり、其処からは板張りの床になっていた。
ゆっくりと懐中電灯を前に向ける。 襖だ。無地の、黄ばんだ襖が4枚。ピタリと閉じている。
Sさんが横に並び、ランタンの灯りも加わった。かなり、明るい。
これなら部屋の中の様子も良く見えるだろう。 つまり、いよいよご対面だ。
靴を脱いで床に上がり、襖の前に正座して一礼。 Sさんは床に立ったまま深く頭を下げた。
Sさんが俺を見て小さく頷く。それを確認した後、片膝をついて襖の引き手に右手をかけた。
するすると、思っていたより滑らかに、襖は開く。50年の歳月は感じられない。
Sさんがランタンを掲げる、その表情が変わった。
「これ、どういう事?」
恐る恐る向き直って襖の中に視線を移す。

325『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:45:56 ID:YR/48AOI0
 畳の上に大きな白い布が一枚、丁度横になった大人2人分程の膨らみを覆っている。
Sさんは畳に膝を着き、そっと白い布を捲った。ミイラのように乾涸らびた左手。
薬指に細い金色の指輪。恐らく女性の手だ。つまりタケノブさんの母親、その隣は父親だろう。
「身代わりになったのは母親。だから術者は父親ね。」
白い布を元に戻し、Sさんは立ち上がった。更に奥へ進む。もう一枚の白い布。
一瞬、微かな視線を感じた。横の壁の辺り? しかし棚のようなものが見えるだけだ。
「見て。」 振り向くと、半分程捲れた白い布、そして。
白い布団に横たわる裸身の若い男性。 その、上半身。
Sさんの隣りに膝を着く。蒼白だが、穏やかな顔。間違いない。あの、タケノブさんだ。
確かに、全く腐敗している様子はない。肌にも張りがある。
しかし、違う。 まるで大理石の彫像のような冷たい雰囲気。
「凄い。間違いなく、史上最も完全な永久死体だわ。」
でも、これは...いや、あの冷たい雰囲気。
どれ程完全であろうと、魂を失った体はやはり死体なのだ。
「家の敷地内、まさに死亡直後に術を使える最高の条件。だからこの状態は理解出来る。
でも、分からないのはこれ。」 Sさんは死体の傍らから何かを拾い上げた。
「本物は初めて見たけど、これはあの術を使う時に必要な祭具。
入り口の結界からしても、かなり力のある術者。これを使ったのに、何故失敗したのかしら。」

326『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:47:03 ID:YR/48AOI0
 Sさんは祭具を死体の傍らに置き、白い布を元に戻して立ち上がった。
更に歩を進め、ランタンを奥の壁に...壁が、ない。 ただ、深い闇が拡がっている。
「龍穴に存在する洞窟は、それ自体が特別な力を持つ。だから古来、それは異世界への、
あの世への通路だと考えられてきた。死者を蘇らせるとしたら、これ程相応しい場所はない。」
立ち上がり、Sさんの左隣りに立つ。 深い。懐中電灯の光も、その底に届かない。
この洞窟は一体何処まで続いているのか。
「黄泉比良坂。」
「そう、それもこんな洞窟の1つ。多分この家系は代々この洞窟を守り、その力を借りて
ひっそりと術を伝えてきたのね。洞窟の力と、この冷たく乾いた風のお陰で
タケノブさんの両親の遺体も腐敗を免れた。本人達がそれを願っていたかどうかは別だけど。」

327『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:47:52 ID:YR/48AOI0
 微かな、視線。
そっと囁く。 「Sさん。」 「何?」
「Sさんの右側、壁の方から視線を感じます。気を付けて下さい。」
Sさんは壁に歩み寄ってランタンを掲げた。色々な物が整然と並ぶ棚の様子が見える。
「大丈夫なんですか?」 立ち上がり、懐中電灯を持ってSさんの横に並ぶ。
Sさんの左掌、緑色の人型が載っていた。 半透明の深い緑、やや厚みがある。 翡翠?
「それは?」
「代よ。結界を抜けて入ってきた悪しきモノを始末するために配置されたのね。」
どういう事だ? タケノブさんの父親がこれを配置したなら...
敢えてタケノブさんの魂を体に戻さず、タケノブさんの体を守るための代を配置したことになる。
でも、一体何の為に? それなら何故、タケノブさんの父親の遺体が此処に?
「ふふふ。」 Sさんが、笑っていた。
笑い続ける。この部屋では不謹慎なのではと思う程、本当に可笑しそうだ。
「どうしたんです。何がそんなに可笑しいんですか?」
「これは、父が作った代よ。多分扉の周りの結界も。」
「え?当主様が?」

328『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:49:10 ID:YR/48AOI0
 「タケノブさんの2人目の話し相手、○▲。 それは即位する前の、父の名字。
父と母が出会ったのはあの大学だと聞いていたから、もしかしたらと思ってたの。」
Sさんが言った『確かめたいこと』とは、そういう意味だったのか。
「約30年前。あの幽霊に会って、話をして、当然父も不思議に思った。
そして散々考えた挙げ句、私たちと同じ結論に達した。だから。」
!! 30年程前に此処を捜索した若い巡査とは...
「まずは此処の状態を確かめて、必要な物を確認。そして次の日、必要な物を用意して
もう一度此処を訪れた。2体のミイラを供養して安置し、代を配置するために。」
もしも当主様が此処を訪れていなかったら、きっと此処の情景は...酷い目眩がした。
Sさんは緑色の人型を元の場所に戻して微笑んだ。
「さあ、出ましょう。この代は当分有効だし、私たちに出来る事は残っていない。」
『出来る事は残っていない。』って、そんな。
「あの、Sさん。」 「何?」
「Sさんなら、タケノブさんの魂をあの体に戻せるんじゃないですか?」
「死後49日を過ぎて、死者の魂が幽霊に変化してしまったらそれは不可能。
それで?見ず知らずの幽霊の為に寿命を削るなんて、まさか本気じゃ無いわよね?」
「あ、いや、聞いてみただけですよ。」 「そういう事に、しといてあげる。」
Sさんが階段を上り始めた。 息を吐き、そっと汗を拭う。 危うくとんでもない自爆を。
世界で最も奇妙な墓への出入り口。その階段は、降りてきた時よりも短く感じた。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板