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藍物語(投稿・感想・雑談専用=隔離)スレ

164 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:29:19 ID:OWZkMMAw0
 数日後。俺と姫はある場所を訪ねた。こぢんまりとした日本家屋。
俺たちを迎えてくれたのは、かなり高齢の老人。その男性が何歳なのか、見当も付かない。
「良く来て下さった。この日が来るのを、それこそ一日千秋の思いで待っていたのです。」
柔らかな声。老人が淹れてくれたお茶から、良い香りが漂っていた。
「あなたは、私たちと、それからKさんにも縁のある方だと、当主様から伺ったのですが。」
「はい。あなたがRさん、そしてこちらのお嬢さんがLさんですね。
私にとってRさんは曾姪孫、LさんとKさんは曾孫ということになります。」
では、この老人は姫とあの人の曾祖父。だが俺にとっては。
「曾孫はひまごのことですね。でも曾姪孫という言葉は初めて聞きました。」
「Rさんの曾祖母は私の姉です。父の指示で、私は家の中から、姉は家の外から、
外法に手を染めた者たちを孤立させるために活動していました。ただ私たちの力が及ばず、
LさんとKさんには辛い思いをさせてしまい、本当に申し訳なく思っています。
特にKさんには何と...」 老人の目に涙が浮かんでいた。
「何故、外法を使おうという意見が通り、一族から離脱することになったのでしょうか?
それがなければ、このように長く無益な争いは避けられた筈なのに。」
姫の口調は穏やかだったが、その声から深い悲しみが伝わってくる。
この争いが姫から父親を、そして10年以上の子供らしい日常を奪った。
『何故?』という問いは、姫の心の奥底から発せられたものだったろう。

165 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:30:54 ID:OWZkMMAw0
 「一族からの離脱を決めたのは当時の長、私の叔父です。名は●明。」
●明、その名はあの時の。つまりあの声の主は分家を離脱させた男。
「一族の中でも一二を争う力を持った術者でしたが、偏狭な考えの男でした。
一族の意志を決める時には、術者の意見を最大限に重視すべきだと考えていましたから、
当主様とも、『上』とも意見が度々衝突し、年を取るにつれますます頑迷になりました。
また、あの男は離脱の数年前から一族以外の系統から強力な術者を呼び集め、
自分に対して反旗を翻す者が出てこないような、一種の恐怖政治の体制を築いていたのです。
取り敢えず●明の決定に従って一族を離れ、その死後に家系の方針を変えて一族に復帰する。
それが嫌なら、身一つで家系を離れ、経済的な基盤のほとんど無い状態で生きていく。
当時の私たちに残された道は、その2つだけでした。」
「では先々代の当主様と復帰の約束をしたというのは。」
「私の父です。●明の死後、父は様々な手段を講じて家系の方針を変えていきました。
長い時間がかかりましたが、外法に手を染めた者たちを孤立させることに成功しました。
本当に、あと一息という所だったんです。Kさんが拉致されたのは。」
老人は言葉を切り、深く溜息をついた。
「追い詰められれば反撃に出るかも知れない。それは予想していました。
しかしまさか同じ家系の者に手をかけて、力を持つ子を拉致するなどとは...。
Kさんの奪回を何度か試みましたが、いずれも失敗。
私たちは数人の術者を失い、大きな犠牲を払う結果になりました。
その後は同じような事が起こらぬよう、残った者たちの身を護るのが精一杯で。」
老人の言葉には、深い後悔と悲しみが込められていた。

166 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:31:47 ID:OWZkMMAw0
 「今にして思えば、娘夫婦と相談をして孫を、
つまりLさんの母を当主様に託して本当に良かったと思います。
あれ程の力を持った子を奴らに奪われたとしたら、
この家系だけでなく、一族全体の運命を危うくすることになったのは間違いありません。」
まさにここ。俺がどうしても答えを得られなかった疑問が、これだ。
「あの」「でも」 俺と姫の声が全く同じタイミングで重なった。
姫が俺を見つめている。穏やかな笑顔、なら、これは俺の役目。
「はい、何でしょう?」 老人も俺を見つめていた。

167 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:34:00 ID:OWZkMMAw0
 「それ程の力を持った子供を、どうして分家は手放したんでしょうか?
分家から離れるだけならまだしも、本家の、しかも当主様に託すなんて。
分家の長が、それを黙って見過ごすとは、とても思えないのですが。」
「特に、問題にはなりませんでした。あの子は、鬼子だと思われていましたから。」
「鬼子?」 「そう、鬼子です。」 「それは、どういう、事でしょうか?」
「生まれつき、あの子の体には鱗がありました。右肩から背中、左腰から左の太腿にかけて。
母親の胎内で、重すぎる業の影響を受けると、体の一部が異形に変化した赤子が生まれる。
それが鬼子です。稀に、そういうことが起こることは知られていました。
大抵は業の重さに耐えられず、2歳になる前に亡くなる。それを避けるためには、
『分業』の術が必要です。業の一部を別人に分ける、極めて高度な術。
当時その術が使えるのは当主様と桃花の方様、そして●明の3人だけでしたから、
娘夫婦はその術を●明に依頼しました。
業を引き受ける訳ですから、引き受け手は術者でなければなりません。
娘夫婦は自分たちのどちらかで業を引き受けるつもりだったのです。
しかし、『分業』の術は成功率が低い上、業を引き受けた術者が無事に済む保証もありません。
当然●明はそれを断りました。鬼子を助けるために術者の命を犠牲には出来ないと。」
Sさんから聞いた話では、姫の母親は少なくとも21歳までは存命だった筈だ。
「Lさんの母上は、鬼子ではなかった。そういう、ことですね?」
「はい、鬼子の伝承とは異なり、あの子には一向に衰弱する様子が無かったんです。
それどころか、成長は、特に精神的な成長は眼を見張る程でした。
一歳になる頃には母親が歌って聞かせていた童謡を全て諳んじており、
二歳になる少し前には、既に、短い祝詞を幾つか詠唱することが出来ました。」
「諳んじたのではなく、詠唱出来たのですか?たった2歳で。本当に?」

168 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:35:24 ID:OWZkMMAw0
 姫が驚くのも無理は無い。本当に詠唱したというなら、その祝詞の効力を。
「はい。不用意に祝詞を詠唱するような子では無かったので問題は起こりませんでしたが。
それで私と娘夫婦は話し合い、あの子は鬼子ではないという結論に達したんです。
おそらく、自らその体の一部を異形に変えて、幼子の体には強すぎる力に耐えているのだと。
そんな伝承は聞いたこともない、しかし他には説明の方法が有りませんでした。
そして、その考えが正しければ、成長につれてあの子の力はますます強くなる。」
もし、そんな力を持っていることを分家の長に知られたら。だから姫の母親を当主様に。
「そこで、私は一計を案じました。●明の取り巻きの術者、その一人を通じて願い出たのです。
『鬼子である孫を本家の当主に託すことを許して欲しい』と。」
「でも、それが簡単に許されるなんて。」
「●明は『分業』の術を断った。それを利用したんです。
『娘夫婦は『分業』の術を断られたことをやはり恨んでいる。
どのみち助からぬ命なら、娘夫婦の願いを叶えることでその恨みを逸らせる。』

169 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:36:59 ID:OWZkMMAw0
 『もし当主が引き受けなければ恨みの対象が当主に上書きされる。
引き受けたとしても術の成功率は低い。失敗すればやはり恨みは当主に向かう。
最悪、術が成功しても、鬼子が普通の子に戻るだけ。痛くも痒くも無い。』
そう、取り巻きの術者に吹き込んでおきました。案の定、あっさり許可が降りましたよ。
もちろん●明があの子の状態を確認したいと言えば、最悪の事態になったでしょうね。
でも、そうはならないという確信が私にはありました。」
「それは何故、ですか?」
「●明は力を持たぬ普通の人間を蔑んでいました。
まして鬼子を気に掛ける事など、有るはずが無い。
あの男にとって、鬼子は普通の人間にすらなり損ねた、何の価値もない存在なのですから。」
老人は冷たい微笑みを浮かべた。その裏にあったのは皮肉ではなく、哀しみであったろう。
「あの子を当主様に託して3年後、私たちにもある噂が伝わってきました。
『本家に途方もない力を持つ術者が現れた。
それは僅か5歳の女の子で、しかも本家の当主が何処からか引き取った子。』と。」
「そんな噂が流れたら、貴方たちにも追及の手が。」
「いいえ、それは全く有りませんでした。●明はとても自尊心の強い男です。
私や娘夫婦を咎めれば、自分の失敗を認める事になる。それは許せない。
だから結局最後まで、私や娘夫婦には、嫌味の一つも言いませんでした。
勿論内心では怒り狂っていたと思いますし、それが結局はKさんやLさんの拉致に繋がった。
本当に申し訳有りませんが、あの時私たちには、それ以外の選択肢が無かったのです。

170 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:38:03 ID:OWZkMMAw0
 「それなら私の、お祖父様とお祖母様にも、お会いできるのでしょうか?」
老人は暫く姫を見つめ、それから眼を閉じた。ゆっくりと首を振る。
「娘夫婦は、Kさんを奪回しようとして犠牲になりました。
しかし娘夫婦には、きっと思い残すことは無かったと思います。
結果的には、あの時の選択がLさんと、そして一族への復帰に繋がったのですから。」
姫とあの人は又従姉妹、それなら2人が良く似ていたのは当然かも知れない。
あの人も、そして姫も、外法を使う者達にとって是非手に入れたい存在だった筈。
2人は拉致され、あの人の奪回は失敗したが、姫の奪回は成功した。
そして、あの人を奪回しようとして姫の祖父母は命を落とした。
因縁、といえばそれまでだが、何と過酷で不思議な運命なのだろう。
そして俺は、俺の曾祖母は。

171 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:38:50 ID:OWZkMMAw0
 「私の曾祖母は家を出て活動していたと仰いましたね。」
「はい、姉は父の知人の養女になり、同じように家系から離れた者たちを支援していました。
彼女の頑張りがなければ路頭に迷う者が少なくなかったでしょう。
父の顧客でもあった彼女の養父は裕福でしたが、それだけで出来ることではありません。
彼女は本当に良くやってくれたと思います。亡くなる数年前までは連絡を取っていましたよ。
彼女が体調を崩して入院してからは、それも難しくなってしまいましたけれど。」
曾祖母は早々に家を離れた、遍さんからそう聞いて以来、正直俺は負い目を感じていた。
しかし、曾祖母も必死に自分の役割を果たしていたのだ。いつか一族へ復帰するために。
今更のように、俺たちの近しい親族が辿った運命の数奇さを思う。
一族全体が時代の変化を乗り越えるためには、どうしても避け得ない争いだったのか。
争いが終わったことで、一族が再びまとまって新しい時代に向かうことができるなら、
この争いで犠牲になった数多の命も無駄ではなかったということだ。
そして、俺と姫の体の中には、犠牲になった人々と同じ血が流れている。
「その通りですよ。Rさん。」 え?今、俺は。そうか、この老人も。

172 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:41:33 ID:OWZkMMAw0
 「RさんとLさんは、私たちに残された希望です。
当主様の御慈悲によって、私たちの家系は一族への復帰を許されました。
これからは家を離れていた者たちも少しずつ戻ってくるでしょう。
しかし有力な術者の多くは世を去り、私たちの家系は以前の力を失いました。
もう、以前のような力を持つことはないかも知れません。でも、それで良いんです。
RさんとLさん、これ程優れた術者を生み出したのは、この家系の血。
それは間違いのない事実ですし、この家系の誉れとなるでしょう。
さて、話が長くなりましたが、私たちの家系が辿ってきた道はご理解頂けたと思います。
こんな、お願いが出来る立場でないのは重々承知していますが、
出来れば、これからも時々は、この年寄りに御二人のお顔を見せては頂けないでしょうか?」
姫は立ち上がり、ふわりとテーブルを回り込んだ。床に膝を付き、両手を老人の右手に添える。
「曾御祖父さま、今度は私とRさんの結婚記念に撮った写真を持って来て差し上げます。
その時は、お体に障らない範囲で、母や父、御祖父様や御祖母様の事、お聞かせ下さいね。」
「はい。はい、喜んで...」
南中の太陽を避けて鳴き止んでいたセミが、傾いた日差しの中、再び鳴き始めていた。

173 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:44:40 ID:OWZkMMAw0
 「それで、あなたはどう思ったの?何だか納得してないみたい。」
就寝前の一時、ソファで他愛もない話をしている内、何となくその話題になった。
Sさんは俺の左肩に頭を預けたまま、俺の左手に両手の指を絡めている。
『姫の母親は鬼子だと思われていたために、
すんなりと分家を離れて当主様にその身を託すことが出来た。』あの時老人はそう言った。
しかし、本当に鬼子は存在するのか。あるいは存在したことがあるのか。
強すぎる業の影響で体の一部が異形に変化して生まれた赤子、とても信じられない。
「納得していないというか、体の一部が異形に変化した赤子というのがちょっと。
その、例えば鱗だったら遺伝子異常が原因の先天的な症状かも知れないですよね?」
「そういう症状があるのも間違いないけれど。論より証拠ね、ちょっと待ってて。」
Sさんは立ち上がって机に向かった。一番下の引き出しを開けて何かを探している。
「はい、これよ。開けてみて。」
戻ってきたSさんが差し出したのは白木の小さな箱。一辺が5cmほどの立方体。
そっと蓋を取る。箱の底には濃紺の布、そしてその布の上に。これは。
鱗だ。真っ白な鱗がざっと十数枚。大きさは俺の親指の爪くらい。
真珠のような白地、微かに螺鈿のような虹色の光が見える。
形は菱形に近い。中央の筋状に盛り上がっている部分は結構尖っている。

174 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:45:59 ID:OWZkMMAw0
 「あの、これ触っても?」 「もちろん、どうぞ。」
鱗を一枚摘んでみる。魚の鱗とは全く違う。何よりもその質感。
かなり厚みがあり、硬く丈夫そうだ。灯りにかざすと光がボンヤリと透けて見える。
こんな鱗は見たことがない。ヘビやワニの鱗なら、こんな風に一枚ずつ分離しないだろう。
もちろん皮膚の異常によって生じたものとは到底思えない。これは、間違いなく鱗、だ。
「Sさん、もしかしてこれは。」
「ご名答、Lの母親の体から最後にはがれた鱗。彼女から譲り受けたの。」
「最後にはがれたって、それはどういう?」
「彼女から直接聞いた話よ。少し残念そうに話してくれたのを良く憶えてる。
鱗が初めてはがれたのは、彼女が引き取られて2年後。だから、4歳になった頃ね。
左太腿にあった鱗の一部がはがれて、はがれた痕はすぐに周りの皮膚と変わらなくなった。」
先天的な遺伝子の異常によるものなら、成長につれて症状が劇的に軽くなることはないだろう。
つまり、成長して体の抵抗力が強くなったから、異形に変化していた部分が
元に戻っていったということだろうか。それなら、本当に業の影響を受けて体の一部が。
「その後も彼女の成長につれて少しずつ鱗ははがれた。太腿から背中、そして肩へと。
彼女は鱗を嫌なものだと感じていなかったし、むしろ綺麗な鱗がはがれたのを残念がって、
はがれた鱗を大切に取ってあったの。これはその中の一部。12歳の誕生日前には、
一枚残らず鱗ははがれた。その時に起こった不思議なことも、彼女は教えてくれたわ。」
「不思議なことって?」 「話を聞くより、実際に感じた方が納得出来るでしょ?」

175 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:47:37 ID:OWZkMMAw0
 Sさんは左手の甲に鱗を二列にして並べた。まるで奇抜なアクセサリーのようだ。
「じゃ、右手をこっちに。目を閉じて、良いというまで開けちゃ駄目よ。」 「はい。」
Sさんの右手が俺の手首を取る。やがて指先が硬いものに触れた。
乾いた、さらさらした感触。この感覚は以前何処かで...あれは、何処だったろう。
「眼を開けて、どうだった?」 「この鱗、前にも一度触ったことがあるような気がします。」
「最後の鱗がはがれたのは彼女がお風呂に入っている時。
湯船の底から鱗を拾い集めていたら、彼女のすぐ前に龍が現れた。
白い、小さな龍。あなたも触ったことがある、あの龍。」
そうだ、あの時。以前、Sさんの術で俺は小さな白い龍を見て、そしてその鱗に触れた。
大きさはまるで違うが、この鱗はあの龍と関わりがあるものなのか。
「詳しくは話してくれなかったけれど、彼女はその龍と意志の疎通が出来たみたい。
彼女の鱗が全てはがれて一年後、龍はある領域で眠りについた。
私はこの鱗を譲り受けたから、これを媒にしてその領域と此処を一時的に繋ぐことが出来る。
でも、それだけ。意志の疎通も出来ないし、龍を起こしてその力を借りることもできない。」
「生まれながらにということなら、式とは違いますよね。護り神、なんですか?」
「式とは違うわね。龍が護り神として彼女の体に入り込んでいた可能性は有る。
他にも色々な解釈が出来るけれど、正解は彼女とあの龍しか知らない。
一族の歴史の中で、こんな事例は他に1つも記録に残っていないから。」
「これを、母親の形見としてLさんに渡していないのは何故ですか?」
姫がこの鱗に関わる話を知っていたなら、既に俺には話してくれていた筈だ。
「未だ迷ってるの。あの時私は、Lに渡す時までこれを預かるのだと思ったわ。
『いつかこれをLに渡して。』と言われると思ったのに、そうじゃなかった。
ただ『これをSにあげる。ずっと持ってて。』そう、言っただけ。その意味を、ずっと考えてる。」

176 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:48:31 ID:OWZkMMAw0
 Sさんは悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「ねぇ、あなたが答えを教えてくれない?」 「へ?どうして僕が。」
「あなたが赤の宝玉を身につけて」 「駄目です、絶対に。」 「ケチ。」

『邂逅(下)』 了

177 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:49:34 ID:OWZkMMAw0
『邂逅(結)』

 大きく開いた窓から吹き込む風に、未だ昼間の熱気が残っている。
Sさんと姫はダイニングで夕食の準備。翠と藍の子守が、今日の俺の当番。
子守と言っても特に面倒はない。藍は寝ているし、翠は1人遊びの達人。
俺はただリビングで2人の様子を見ながら本を読んでいれば良い。

178 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:50:58 ID:OWZkMMAw0
 「ねえ、おとうさん。」
じっと水槽の中を覗き込んでいた翠が突然振り向いた。
「どうかした?」
「きんちゃんは、どうしてときどきしゃべるの?きんぎょなのに。」
「え?」 きんちゃんは、あの日姫と2人で持ち帰った金魚の名前。
当初Sさんは『名前は付けない方が良い』と言っていたのだが、
いつのまにか翠がそう呼ぶようになった。
他の呼び方を思いつかないまま、今はすっかりその名前が定着してしまった訳だ。
「きんちゃんが、喋るって?ホントに?」 慌てて本を置き、翠の隣りに立つ。
「うん、ときどきだけど、しゃべるよ。」 翠はいたって普通の、真面目な顔だ。
「何を、喋ってるか分かる?例えば翠にご挨拶とか?」
この年頃の子供なら、金魚を擬人化し、会話をしている気になるのも珍しくはないだろう。
「しゃべるときは、いつもはじめに『K』っていうの。だれかのなまえかな?」
ざわ、と、首筋の毛が逆立った。 「『K』って...」 
「おとうさんが、しってるなまえ?」
「ええと、同じ名前の人を知ってるけど。でもその人は、そう、大人だから。」
「じゃあ、きんちゃんはみどりとだれかをまちがってあやまるんだね。」
「翠に、謝るの?きんちゃんは。」
「うん。『わたしはばかだった、ゆるしてくれ。』って。しゃべるのは、それと『K』だけ。
でも、どうしてあやまるのかな?ふしぎだよね。」
そっと翠を抱き上げた。軽い体、温もり。小さいけれど、確かな、命の感触。
翠を抱いたままソファに戻る。腰を下ろし、翠を隣りに座らせて小さな肩を抱いた。

179 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:52:00 ID:OWZkMMAw0
 「翠は『生まれ変わり』って知ってる?」
「しってる。しんだひとのたましいが、べつのひとになってうまれてくるんでしょ?」
「そう。でもね、人の魂が必ず人に生まれ変わるって決まってる訳じゃ無いみたいだよ。」
「どういうこと?」
「とても悲しい思いをした人やすごく辛い思いをした人の魂は、
他の生き物に生まれ変わることもあるんだって。
あんまり悲しかったり、辛かったりすると『もう人間は嫌だ。』って思うのかもしれないね。」
「じゃあ、きんちゃんはとてもかなしいおもいをしたから、きんぎょにうまれかわったんだね。
あやまるのは、そのとき『K』というひとにもかなしいおもいをさせたから?」
「絶対にそうだとは言えないよ。でも、自分だけじゃなく、他の誰かにも悲しい思いを
させてしまったのなら、どうにかして謝りたいと思うんじゃないかな。」
「おとうさん、みどりは、みどりはどうしたらいい?ひとちがいだから、こたえちゃだめ?」
もう一度翠を抱き上げ、頬ずりをして、その髪を撫でた。まっすぐに俺を見つめる、澄んだ瞳。

180 ◆iF1EyBLnoU:2014/04/19(土) 11:53:43 ID:OWZkMMAw0
 「翠はどうしたいの?」
「きんちゃんが、かなしくないように、したい。かなしいままなのは、いやだから。」
「きんちゃんは翠を『K』という人だと信じてるんだよね?」 「うん。」
「それなら、お父さんは、答えてあげても良いと思う。」 「なんて、こたえたらいいかな?」
「今、翠は悲しくて辛い?それとも幸せ?」
「しあわせだよ。かなしくないし、つらくないし、みんなみ〜んなだいすきだから。」
「じゃあ、そのまま答えれば良いよ。 『私は今、幸せです。安心して下さい。』って。」
「わかった。おとうさん、おろして。また、しゃべるかもしれないから、きんちゃんのことみてる。
『わたしはいま、しあわせです。あんしんしてください。』だいじょうぶ。もう、おぼえた。」

 百合の花の香り。振り向くと、すぐ後ろにSさんが立っていた。
「勝手な事をして御免なさい。でも、僕は」
Sさんは人差し指で俺の唇を押さえ、ゆっくり首を振った。
「ご名答。多分これ以上正しい答えはない。ありがとう。」
出来上がった夕食の良い匂い。Sさんは優しく声をかけた。
「翠、夕ご飯よ。こっちへいらっしゃい。」

『邂逅』 完

181名無しさん:2014/04/19(土) 16:52:22 ID:NfBVAaxI0
投稿お疲れ様です
匿名掲示板だから色んな意見あって当然だと思いますよ
誰だって自分に向けられる罵詈雑言は嫌です。
文学賞獲った作品でもボロクソに叩かれるのが当たり前
あまり気にしなさんな
楽しんでる人が多くいることをお忘れずに
再開してくれて嬉しいです

182名無しさん:2014/04/19(土) 18:44:22 ID:kIUF3Gx.0
やっぱり面白いですね。楽しく読ませてもらいました
新しい話も期待してます

183:2014/04/19(土) 22:14:00 ID:u7rPGoSU0
こんばんは、藍さん。
色々な心無い批判にさらされたにも関わらず、投稿してくださって、本っ当にありがとうございました。
今後とも、何卒よしなにお願い致します。

184名無しさん:2014/04/19(土) 23:18:51 ID:2oFQHqBgO
再開に、物語に、涙が出ました。
本当に、ありがとうございました。
いろんな意味で、新しい章が始まるのではないかと思います。読むに耐えない言葉を書き込む人たちを非難する気持ちも、すべて消えました。
感謝しています。

187浩太郎:2014/04/21(月) 12:47:09 ID:0xdrSWyQ0
藍さん 知人さん、弟さん 物語の再開 ありがとうございます。

いつものことながら 文章を読む楽しさ・心地よさを味わいながら読ませて頂きました。

荒らし(最近Lineグループでも流行っているみたいです)まがいの様々な発言は発言
として 発表を心待ちにしている方も多いはず。
一読者として、物語の継続を希望して止みません

周囲の意見に惑わされず、藍さん・知人さん・弟さんの心の赴くままに投稿して頂ければと思います。

191名無しさん:2014/04/26(土) 14:46:41 ID:FahMxYagO
これまでの物語を読み返しながら、ファンはいつまでも待っています。
これで終わりになろうと、次がいつになろうと、この掲示板に来て、この物語に出会えて、本当に良かったです。

192名無しさん:2014/04/26(土) 19:09:37 ID:fhVtiGkE0
万が一のためにまとめの作品を保存しようと思ったんだよ。
でもダメだ、途中でつい読んじゃうから全然すすまねえ〜。
今『約束』読み終わったところ。『約束』やっぱ良いね。
でも、このペースだと連休全部使っても保存が終わらんぞ。

193名無しさん:2014/04/26(土) 22:05:19 ID:1o2DhCUE0
お前は俺か?
『約束』は何とか通過したが、『遺産』と『名残雪』で渋滞が始まって
今『道標』。もう良いや、続きは読み終わってからで。

194名無しさん:2014/05/01(木) 21:59:45 ID:az1RA0u60
『邂逅』も全部まとめられたね。管理人様に心から感謝です。
まとめでしか読まない人も万歳だし、あとはゆったり新作を待つだけ。
色々あったけど、ここはやっぱり良い所だと思う。

195名無しさん:2014/05/14(水) 21:54:13 ID:2yfEXdNE0
藍してる
なんつって

196名無しさん:2014/05/16(金) 19:09:26 ID:nvzK7Ct.O
これで完結したようだけど、新作あるのかな…

197名無しさん:2014/05/26(月) 20:53:55 ID:79LDUV9I0
初めて書き込みさせて頂きます。

毎回とても楽しく拝読させて頂いております。

藍さま、知人さま他ご関係の皆様有り難うございます。

今回の『邂逅』で第一部が一応の終わりを見た様に感じております。

次回作(第二部)があるのかは存じませんが、まだまだ5人と一族の皆様のお話の続きを拝読したいと思う気持ちを禁じ得ません。

ファンの皆様同じ気持ちだと思っております。

いつの日か新作を拝読させて頂ける機会を楽しみにお待ち申し上げます。

198名無しさん:2014/05/27(火) 09:55:42 ID:BSvmmGEY0
一月以上経つのに粗大ゴミ粗大ゴミ罵ってた子の反応もないんだねぇ

199 ◆iF1EyBLnoU:2014/05/27(火) 22:27:56 ID:Mowdp9xY0
皆様今晩は、藍です。

>>194
>>195
>>196
>>197
ご期待頂き感謝いたします。
只今、新作の準備中です。まだ題名も未定ですが、
週末辺りに(上)を投稿できればと思っております。
もう暫く、お待ち下さい。

>>198
素人の作品ですから罵られても仕方有りません。
お気遣い頂き、感謝致します。

200名無しさん:2014/05/30(金) 06:57:05 ID:qf0439aU0
藍さん、ありがとうございます。もう、投稿されないと思ってました。新しいお話を、また聞かせていただけること、心から感謝致します。

201名無しさん:2014/05/31(土) 11:12:36 ID:bO/l/ukQO
心の底からうれしいです。大変楽しみにしています。

202名無しさん:2014/06/01(日) 13:28:39 ID:Cn6It1T60
藍さま

新作の情報有り難うございます!!

物語の続きがある事が純粋に嬉しいです!!

心より楽しみにしております!!

203 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:29:50 ID:cBimMlnE0
テスト中。

204 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:30:31 ID:cBimMlnE0
皆様今晩は。藍です。
新作『贐』、投稿致します。まずは(上)を。
お楽しみ頂ければ良いのですが。

205 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:32:16 ID:cBimMlnE0
『贐(上)』

 「はい、これが新規の患者さんのカルテ。宜しくね。」
碧さんは俺の机に数枚のカルテを置いてにっこり笑った。
姫と同じくらいの長身でクッキリした目鼻立ちの美人。看護師の制服が実によく似合う。
しかも病院では何故か素通しの眼鏡をかけている。全て俺の理想通り、まさに白衣の天使。
「毎回こんなに新規の患者さんがいるなら、このクリニックは大繁盛ですね。」
「そりゃ腕の良い先生と美形の言霊使い、最高の二枚看板だもの。
特に宣伝もしてないけど、口コミで良い評判が広まってるみたい。」
「言霊使いって公言してる訳じゃないし、今まで大した仕事もしてません。
どう考えても二枚看板って言葉はおかしいですよ。」
「変な所で細かいんだから、その点暁は」
「暁君が大雑把な碧さんに細か〜く気を遣ってるんですよ。
それと、仕事中にお惚気は止めて下さい。不謹慎です。」
「折角Sから情報仕入れて眼鏡かけてあげてるのに、嫌な奴〜。」
「情報って、ちょっと、碧さん。」 「残念、今仕事中ですから。」 ドアが、閉じた。
もしかしてSさんが手に入れてくれた白衣は碧さん経由...少し、目眩がした。

206 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:34:06 ID:cBimMlnE0
 一族の人が経営している心療内科。
俺は『上』の委託を受けて、月に2度、新規の患者さんのカルテをチェックしている。
いわゆる霊障の事例があれば協力するためだ。俺の力で解決出来ればそうするし、
手に負えない場合はSさんに繋いで、必要なら『上』に指示を仰ぐという段取り。
一族の人が経営している病院には、担当の術者を配置することが増えているらしい。
もちろん生命や魂の操作は禁呪だが、霊障が原因なら術を使って病を治癒出来るからだ。
病を治せない場合でも、必要なら患者さんやその家族をメンタル面でサポート出来る。
結果的に病院の評判は良くなり、担当の術者がいる病院はどれもかなり業績が良い。
時代に対応した一族のあり方、その成功例として『上』もこの事業に力を入れていると聞いた。
俺が担当しているクリニックは今年の5月に開業し、碧さんもそこで勤務している。
もちろん碧さんは『本物』の看護師。
お屋敷から比較的近いのと、碧さんの推薦があって俺が担当に指名された訳だ。
俺の適性は『言の葉』。心療内科なら協力出来ることもあるかも知れないと思って引き受けた。
しかし幽霊すらあんまり見かけないのに、霊障の事例がゴロゴロ転がっている筈が無い。
あたりまえといえばあたりまえだが、これまで霊障の事例に遭遇したことはなかった。
家族と一緒に来院したものの、頑なに心を閉ざした高齢者や子供との雑談で信頼を得て、
医師のカウンセリングに繋ぐくらいがせいぜい。そう、前回までは。

207 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:35:58 ID:cBimMlnE0
 最後のカルテを手に取った時、寒気がした。これは、マズい。
○村美枝子、34歳。カルテを通して気配が伝わってくる。
俺はカルテの束を持って部屋を出た。直ぐに碧さんに知らせなければ。
受付のドアを開け、碧さんに声を掛けようとした時。
玄関に面した窓から女性の姿が見えた。女性の姿に重なる気配。そして、血の臭い。
間違いない、あれがカルテの女性だ。
未だ事情が全く分からない。念のために『鍵』を掛ける。
「R君、どうしたの?」
俺は玄関に背を向ける位置に回り込み、唇に人差し指を当てた。声を潜める。
「このカルテの患者さん、今玄関にいる人ですよね?」
「そうだけど...もしかして。」
「かなり深刻なケースです。前回はカウンセリングを?」
「いいえ、私が大体の事情を聞いて、担当医を選んでもらって。
それで今日の日付を設定しただけ。カウンセリングは今日から。」
「受付が済んだら、カウンセリング室への案内を僕に指示して下さい。」
『了解。』

208 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:37:35 ID:cBimMlnE0
 その女性のカウンセリングが終わった後、碧さん同席で担当のA先生から話を聞いた。
A先生は碧さんの叔父にあたる人で、恰幅の良い大柄な体と穏やかな笑顔が印象的だ。
「簡単に言うと、自分の生き霊が娘を傷つけているのではという不安があるという事だった。」
「傷つけるというのは精神的な意味だけではありませんよね?」 あの時、確かに血の臭いが。
A医師は暫く俺の眼を見つめ、やがて溜息をついた。
「これが『力』か。驚いたよ。疑っていた訳ではないが、術者と仕事をするのは初めてなのでね。
そう、君の言う通りだ。これまでに3度、娘さんが原因不明の怪我をしてると言ってた。」
「原因不明というのは?」
「怪我をした時の状況を何故か娘さんが憶えていない。しかも段々と傷が深くなる。
一番最近では太腿にかなり深い傷を負って、家の近くで倒れていたそうだ。未だ入院中らしい。
こういうケースだと我々は偶然の事故や事件をもとにして
患者の自己憐憫が生み出した妄想を疑うんだが、君の意見は違うようだね。」
「自己憐憫はあるかも知れませんが、娘さんの怪我の原因が不明なのが気になります。
女の子が大怪我をして家の近くで倒れていたとしたら立派な刑事事件。
間違いなく警察に事情を聞かれた筈ですから、今も監視なしに行動できるとしたら、
彼女には完全なアリバイがあると言うことでしょう。」
「R君。じゃあ彼女の言う通り、生き霊の仕業ってこと?」
「生き霊に似ていますが、厳密には違います。
それに、とても深刻で、場合によってはSさんの力が必要かもしれません。
だから、今度来院する時、その女性と話をさせて下さい。」
「分かった。この件は君に任せよう。碧、R君に力を貸してくれるね。」

209 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:40:03 ID:cBimMlnE0
 次の木曜日、その女性が来院したのは予約の時刻5分前。
二言三言、女性と言葉を交わした後で碧さんは振り向いた。眼鏡に左手で軽く触れる。
「R君、予約のお客様よ。カウンセリング室へ御案内して。」
ちょっと冷たい感じの仕草と台詞が実に絵になる。
まさにはまり役(本物の看護師だから『はまり役』という言葉はおかしいが)だ。
「はい。」俺は受付を出て女性を出迎えた。血の、臭い。
「カウンセリング室に御案内します。どうぞ。」 軽く一礼。
二度目だからか、女性も少し微笑んで会釈をした。
先に立って廊下を進む。カウンセリング室のドアを開けた。
「どうぞ。」 「ありがとう。」 部屋の灯りが自動で点灯する。

210 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:41:32 ID:cBimMlnE0
 「そちらへお掛け下さい。」
女性がソファに座った後、俺もテーブルを隔てた向かいのソファに座った。
クリアファイルからA4の様式を取り出し、女性に手渡す。
「まずはこちらに御記入をお願いします。かなり立ち入った内容になると思われますので、
万が一のトラブルに備えて患者さんの意思確認が必要なんです。」
もちろん、碧さんが作ってくれた偽の様式だ。
カウンセリングの日付、担当の医師、簡単な同意確認の説明。そして署名欄。
「これで良いですか?」 「結構です。」 受け取った様式をクリアファイルに戻す。
「では左手を。心拍を診ます。」 「心拍、ですか?」
「はい。あまり心拍が高いと、カウンセリングに適した状態ではありませんから。」
女性が黙って差し出した左手首を左掌に置き、腕時計の秒針を見ながら薬指で脈を取る。
もちろん、術を掛けるための方便だ。Sさん直伝、直接の身体接触を伴う術。
「26だから...104。問題ないですね。」 そう、問題なく術が。息を吸い、腹に力を込めた。

211 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:42:53 ID:cBimMlnE0
 『すぐにA先生がいらっしゃいます。もう少しお待ち下さい。』
一礼して部屋を出る。廊下の数m先で碧さんが待っていた。
クリアファイルを渡し、受け取った白衣を羽織る。
「くれぐれも、気をつけて。」 カウンセリング室は防音仕様だが、碧さんは小声で囁く。
俺も声を潜めた。「頑張ります。」
カウンセリング室へ引き返し、ドアをノックした。
一呼吸置いてドアを開ける。 「Aです。○村さん、来てくれて有り難う。頑張りましたね。」
女性は立ち上がって俺を迎えた。 「A先生、宜しくお願いします。」 よし、完璧だ。
「こちらこそ宜しくお願いします。どうぞ、お掛け下さい。」
女性がもう一度ソファに腰掛けたあと、一呼吸の間を取る。
背中を深く背もたれに、両手は指を組んで太腿の上。A先生が話を始める前の仕草。
「さて、○村さん。早速ですが、前回聞いたお話。生き霊の件です。」 「はい。」
「あれから色々と調べてみたんですが、思い当たる症例が有りません。
一種のドッペゲンガーかとも考えましたが、娘さんが実際に怪我をしているのが問題です。
どうもこれは心療内科ではなく、別の領域かも知れない。私はそう考えています。」
女性の顔に警戒の表情が浮かんだ。
「警察に相談した方が良い、ということですか?」
「いいえ。娘さんが入院する程の怪我をしたのなら、
あなたは既に警察に事情を聞かれた筈です。そうでしょう?」
「はい。」 女性は小さな声で答えた後、少し俯いた。

212 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:44:13 ID:cBimMlnE0
 「本当に生き霊なら、私の親戚に専門の者がいるのでご紹介しようかと。」
「生き霊の、専門家?」
「はい、陰陽師です。陰陽師、御存知ですか?」
「言葉だけは聞いたことがありますけど。本当に、いるんですか?」
「います。娘さんの怪我が段々重くなっている事からすると、
専門家の助けが必要だと思います。勿論無理にとは言いません。
しかし正直言って、この事例はどの医者でも手に余ると思いますよ。」
「その人なら、私の生き霊から娘を守ってくれるんですか?」
「おそらく大丈夫でしょう。もし彼の手に負えなくても、もっと力のある術者に繋いでくれる筈。
ここだけの話ですが、実はこんなケースに備えて彼と契約してるんです。
ですから彼の力を借りても、通常のカウセリング以外の料金は発生しません。
正規の医療行為ではないので、その点は不問。この件は口外しない。それが、条件です。」
女性は少し黙ったが、決断は早かった。
「A先生、お願いします。その人を紹介して下さい。」
「早い方が良いと思いますが、日を改めた方が良いですか?ご判断にお任せします。」
「いいえ、もしお願いできるなら、今日紹介して頂きたいです。」
「これから、直ぐにでも?」 「はい。」
「それは良かった。では私の掌を見て下さい。」 話しながら両掌を女性に向けた。
「え?」 怪訝そうな表情。 女性の目の前で軽く手を叩く。これで、術は。

213 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:47:12 ID:cBimMlnE0
 女性はポカンと口を開けて俺を見つめた。
無理も無い。今の今まで、彼女には俺がA先生に見えていたのだ。
「あなた、さっきの。これ、どういうこと?」
「驚かせて御免なさい。僕の名前はR、陰陽師です。力を信じて協力して頂かないと、
僕たちにも出来る事は殆ど有りません。本物だと信じて頂くために、簡単な術を使いました。」
「簡単な術...あなたは本物の陰陽師で、私の生き霊を止められるの?」
此処が、山場。深呼吸、腹に力を込める。
『生き霊とは違います。それに、かなり深刻な事例なので少し焦っています。
でも、僕を信じて詳しい話を聞かせて頂ければ、きっと力になれると思いますよ。』
「深刻というのは、『次』が娘の命に関わるということですか?」
やはり。この女性は、とても聡明な人だ。
『そうです。それが何時なのかは分かりません。
でも、それほど遠くはない。あまり時間が、無いんです。』
女性は黙って俺を見つめた。深い悩みを宿した、暗い瞳。
信じてもらえるかどうか、それが全て。拒絶されては何も出来ない。
「あなたを、信じます。全部話しますから、娘を、私を、助けて下さい。」

『贐(上)』 了

214 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/01(日) 18:51:14 ID:cBimMlnE0
藍です。
現在作業中ですが、(中)以降もなるべく早く投稿したいと思っております。
では今夜はこれで失礼致します。有り難う御座いました。

215名無しさん:2014/06/04(水) 00:29:14 ID:pf4em.Gw0
藍さん知人さんありがとうございます。白衣シリーズの続きを楽しみにして待っています。

216 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:25:57 ID:76T7LtyE0
テスト中です。

217 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:29:36 ID:76T7LtyE0
皆様今晩は、藍です。
『贐(中)』を投稿致します。お楽しみ頂ければ良いのですが。

218 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:31:02 ID:76T7LtyE0
『贐(中)』

 「前回の話の内容を僕は直接聞いていないので、まずは確認させて下さい。
娘さんの怪我、それを自分の生き霊の仕業ではないかと考えたのは何故ですか?」
「3回目の怪我、娘が倒れていたのはアパートの駐車場でした。
そのすぐ後で、駐車場を出て行く人を見た人がいて、背格好や服装が私に良く似ていたと。」
「それで、警察に事情を聞かれたんですね。」 「はい。」
「なのに、あなたの行動には制約も監視もない。捜査の対象から外れた理由は何でしょう?」
「娘が怪我をしたのは5時半頃、私が5時半までにアパートに帰るのは無理です。
その日も同僚といつも通り退勤して、その時間はまだ電車の中でした。」
「小学生の女の子を狙った変質者の仕業とは考えられませんか?」
「3回目の怪我については警察もそう考えているようです。
ただ、1回目と2回目の怪我は変質者じゃありません。どちらも家の中、でしたから。」
「家の中で?」
「最初の怪我は両腕のアザです。朝起きた娘が痛がるのでパジャマを脱がせたら、
二の腕に大きなアザがありました。もの凄い力で腕を握られたようで。多分夜の間に。」
「二回目の怪我も夜、ですか?」
「夜と言うより夕方です。娘はお風呂で倒れていて、頭から血が...可哀相に。」
女性は俯いて小さく身震いをした。無理もない。相当なショックだったろう。
「意識がボンヤリしていたので救急車を呼びました。3針縫って、次の日から実家に。
念のために2日間学校を休ませました。」
「悲鳴や物音は聞きませんでしたか?」
いいえ。私、娘がシャワーを使っている間に居眠りをしてしまって。
目が覚めても娘がいなかったので様子を見に行きました。そしたらあんなことに。」

219 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:32:10 ID:76T7LtyE0
 どちらも女性が眠っている間に起きている。それで生き霊ではないかと考えたのなら、
この女性は生き霊について多少の知識を持っているということだ。
「3回目の怪我はどうです?あなたは電車の中だったんですよね?」
「はい。ずっと、考え事をしていて、もしかしたら少し居眠りをしたかも知れません。
その間に私の生き霊が、娘を。」
「○村さん、生き霊は本体が憎む相手に害をなすものです。
もちろんその憎しみを本体が意識していない場合もあります。
ただあなたには、娘さんに対する憎しみの感情を感じません。
たとえ無意識であっても、憎しみは必ず表面に滲み出てくるものですから。
それに、はじめに言った通り、娘さんの怪我の原因は生き霊じゃありません。」
「生き霊でないなら、一体何が娘を。」
「くわしいお話を聞かせて頂くのはこれからです。今はまだ結論は出せません。
次の話を聞かせて頂く前に5分程休憩しましょう。その間に飲み物を用意します。」

220 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:35:04 ID:76T7LtyE0
 一礼して部屋を出た。碧さんに飲み物を用意してもらう間、改めて精神を集中する。
それは女性の意識があるうちは活動しないはずだが、用心するに越したことはない。
飲み物を持ってカウンセリング室に戻ると、既に女性はソファに座っていた。
グラスを2つテーブルに置く。女性は飲み物を一口飲んだ。
俺も喉を湿らせる。涼しげな、氷の音。
「さて、いよいよ本題です。まずは娘さんの父親について聞かせて下さい。
その人はあなたの夫ではありません。あなたの娘さんは養子、ですよね。」
女性は息を呑んで俺を見詰めた。眼を伏せて小さな溜息をつく。
「それも、術で?」
「術ではなく、感覚です。あなたには妊娠の経験がありません。だから。」
「いきなり養子の件を話したら事前に事情を調べたと疑われる。だからさっき、あの術を。」
「ご理解頂いて有り難いです。あんな、瞞し討ちのような方法は失礼だと思いましたが、
あなたが思慮深い女性だということが分かっていましたから。」
女性は寂しそうな微笑みを浮かべた。伝わってくる深い悲しみ、そして自己嫌悪。
「私が本当に思慮深ければ、こんなことには...
娘の父親は、私の兄です。これはまだ、娘にも話していません」
「特に必要がなければ、僕がそれを娘さんに話すことはありません。どうぞ御心配なく。」
「兄は離婚して娘を引き取り、約半年後に亡くなりました。交通事故で。
娘が3歳の時です。それで私が娘を引き取りました。」
「未婚の若い女性が子供を引き取る、御身内の反対は有りませんでしたか?」
「いいえ。兄が離婚したあと、良く世話をしていたので娘は私に懐いていましたから。
もちろん最初は実家で両親と一緒に娘を育てていました。
でも、娘が小学校に入学する前に両親を説得したんです。
私が戸籍上の母親になれば、それが一番娘の為になるって。」

221 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:36:13 ID:76T7LtyE0
 「あなたの『娘』という言葉は、とても強い力を宿しています。不思議ですね。
どんな言葉でも、これ程の力を宿すことは滅多にありません。一体、何故でしょう?」
初めて見たときから、彼女に『力』があることは分かっていた。
これほど悪化した状況の中で、自分の理性を失わずにいられたのは奇跡に近い。
それは持って生まれた『力』と、力を制御する強靱な精神力がなければ絶対に無理だ。
そして彼女の言葉に宿る言霊は、彼女の『適性』が俺と同じであることを示している。
「あの子が本当に私の産んだ子ならどんなにか。いつもそう思っているからかもしれません。」
「何故そんな風に? あ、もちろん今話したくないのでしたら無理にとは言いません。」
「いいえ、あなたを信じると決めましたから、全部話します。
それに、もしかしたら私、誰かに聞いて欲しかったのかも知れません。
今まで誰にも、両親にも友達にも話せなくて、本当に辛かったから。」
女性は一旦言葉を切り、俺を見つめた。
「少し頼りない人でしたが、私は、小さい頃から兄が大好きでした。
それは何時の間にか恋愛感情に変わり、そして、大学に入学した時に。私は...」
揺れ動く心が発する言葉が宿す、微かな言霊。不謹慎かもしれないが、それは美しかった。
まるでオーロラのように、揺れ動く淡い光が彼女を包んでいる。
術者でなければこれ以上は。
「やはり無理はしない方が。」 「大丈夫です。」
彼女はもう一度俺の目を見つめた。本当に、強い人だ。

222 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:37:27 ID:76T7LtyE0
 「私は兄と体の関係を持ちました。両親が不在の夜、兄の部屋に行って、それで。」
そうか。兄への深い愛情、そして現代の倫理では許されぬ関係に対する強い自責の念。
十数年に渡る激しい想い。その膨大な精神エネルギーが、
人1人の命を奪いかねない程の存在を育ててしまったことになる。
「両親の目を盗んで、私と兄の関係は続きました。兄がとても気を遣ってくれたので
妊娠の心配はありませんでした。でも私は、本当は...」
「お兄さんの子を産みたかった。だから、娘さんが本当に自分の産んだ子ならどんなにかと。」
「結局最後まで、それは言えませんでした。口に出したら、兄を失ってしまう気がして。
だから兄が結婚した後も私を求めてくれた時、私はとても嬉しかった。」
「お兄さんが、離婚した時も?」
「はい、毎日仕事の帰りに保育所で娘を迎えて兄の部屋に通いました。
娘の世話も、家事も、とても楽しかった。私、本当に嫌な女ですね。」
「お兄さんが亡くなった後、娘さんを引き取って、本当に大切に育てて。
本当に嫌な人間ならそんな事出来ません。あなたは立派だと思いますよ。」
「でも、私と兄との関係は近親」 俺は右手で女性を制した。
「待って下さい。」

223 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:38:56 ID:76T7LtyE0
 「確かに現代の倫理では禁忌です。
でも、古い神話や伝承では、兄と妹・姉と弟の婚姻譚はちっとも珍しくない。
実際僕たちの一族では、それ自体は今も禁忌じゃありません。それよりも。」
「それよりも?」
「お兄さんがあなたの意志に反して体の関係を持ったことが問題です。」
「でも、兄の部屋に行ったのは私で、だから兄には何も。」
「確かにあなたはお兄さんが大好きで、恋愛感情を持っていた。
でも同時に兄と体の関係を持つ事は禁忌だという、現代の倫理観も持っていた。
なのに何故、それを易々と踏み越えてしまったんでしょうね?
何か思い当たるきっかけがありますか?お兄さんの縁談を知って強い嫉妬を感じた、とか。」
「いいえ、兄の縁談を知ったのはずっと後で、兄に恋人がいるとも思っていませんでした。
特に思い当たるようなきっかけは、なかったと思います。」
「初めて体の関係を持つために相手の部屋に行く。相手がお兄さんでなくても一大決心です。
それなのに特にきっかけはない。いや、きっかけを憶えていない。変だと、思いませんか?」
「何が、言いたいんです?」
「あなたは記憶を変えられたんですよ。あなたがお兄さんの部屋へ行ったのだと。
例えばさっきの術です。あの術なら、記憶の一部を変えることができます。」
「術って、一体誰が私に...まさか。」
「その、まさかです。系統は違いますがお兄さんは僕たちと同類、術者だったんですから。」
「私たちの家族でも親戚でも、そんな話は一度も聞いたことはありません。それなのに。」
「それぞれの家系の血に埋もれていた因子が御両親の結婚で1つになり、
お兄さんは『力』を持って生まれてきた。時折起こることだと聞いています。」

224 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:39:58 ID:76T7LtyE0
 「『力』は生まれつきだとしても、兄は陰陽道の術を一体誰から?」
「それは分かりません。でもお兄さんが優れた資質を持っていて、
かなり位の高い術者に師事していた。それは間違いないと思いますよ。」
「何故、そんな事が分かるんですか?あなたは兄に会ったこともないのに。」
「お兄さんの術が今も残っているからです。もともとはあなたを助けるための術。
なくした物がいつの間にかもどっていた。テストで山が当たった。
そんな経験、心当たりがあるはずです。」
女性の頬がピクリと動いた。やはり、間違いない。
「確かに、中学生になった頃から運が良くなったというか、そんな気はしてました。」
「例えば紙の人型に『力』を封じて術者の命令通りに使役する。
僕たちはそれを式と呼んでいます。式神、と言った方が通りが良いかも知れません。
お兄さんはあなたの願望を叶えるようにと、式に命じたんです。
もちろん何でも出来る訳じゃありません。失せ物探しやちょっとした予知くらい。
あなたが思慮深く、トラブルを他人のせいにしない人だと分かっていたから、
お兄さんはこの術を掛けたんでしょうね。ただ、自分が術を残して死ぬとは思っていなかった。
軽率だったと言われても仕方ありません。残されたあなたの、心のありようによっては、
娘さん以外にも被害者が出ていたかも知れないんですから。」
「...その、式が、娘を?」
「そうです。お兄さんへの深い愛情、許されない関係への強い自責の念。
それらに伴う精神的なエネルギーを吸収して式は成長し、強い力を持ってしまった。」
「でも、おかしいです。私の願望を叶えるはずなのに何故娘が。
それにあなたは『無意識であっても憎しみの感情は感じ取れない』と。」

225 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:41:10 ID:76T7LtyE0
 「娘さんが3度目の怪我をしたのとほぼ同じ頃、あなたは電車に乗っていました。
『ずっと考え事をしていた。』と仰いましたね。どんな、考え事でしたか?」
「娘が中学に入学するのを機に引っ越しをしようかと思っていて、それを。」
「何故、引っ越しを?何か不都合があるんですか?」
「初めは、兄の娘だから他人には渡したくないという気持ちが強かった。
でも、ずっと一緒に暮らして、私を慕ってくれる娘を見ていると
まるで本当に自分が産んだ子のような気がするんです。とても愛しくて。」
「お兄さんの娘というより、自分の娘という気持ちが強くなったんですね。
でも、それが引っ越しをする理由になるんですか?」
「今住んでいる部屋は、離婚した後に兄が借りた部屋です。短い間ですが、
兄と一緒に暮らした部屋を出る気になれなくて、あれからずっと住んでいました。
だから、どうしても思い出してしまうんです。あの部屋にいると、兄の事を。」
「そして時折、お兄さんの後を追いたくなる。あの、夜のように。」
「傷痕が残ってるわけじゃ無いのに、どうして。平気であの夜のこと。
遠慮なんて、無縁なのね。陰陽師には。あけすけ過ぎて、むしろ気持ちが良いくらい。」
「御免なさい。人の命に関わる仕事という自覚はありますが、遠慮している余裕はありません。」

226 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:42:02 ID:76T7LtyE0
 「処方されていた睡眠薬を、あの晩、全部飲んだ。間違いなく兄の所へ行ける筈だった。
でも、両親が虫の知らせで私の部屋に。病院に運ばれて処置されている間に夢を見たわ。
娘が、私を見つめて泣くの。『お母さん、私を一人にしないで』って。それで。
ああ、そうか。それが式の。あの時、式が私を助けてくれたのね。」
「それが、本来お兄さんが意図した式の働きです。でも、式は善悪の判断をしません。
ただあなたの願望や考えをなぞって、その通りに行動するんです。
あなたが、今も恋しくて恋しくて堪らないお兄さんの後を追えないのは何故ですか?」
「だって、私が死んだらあの子は...あ。」
「娘さんがいなければ、心残り無くお兄さんの後を追える。後の説明は要りませんよね?」
女性の目から大粒の涙が溢れた。真珠のような、美しい、涙。
「...あなたには、見えるの? その、式の姿が。」
「感じます。口元と右手が血塗れなのを除けば、あなたと寸分違わぬ女性の姿。
意識無意識に関わらず、あなたの願望を叶えようとする、もう1人のあなた。
あなたの部屋でないと、その式は始末できませんし、恐らく一晩かかります。
着替えて貰う必要もありますから、もし気兼ねが有るなら、
女性の、もっと力のある術者に後を引き継ぎましょう。」

227 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:42:44 ID:76T7LtyE0
 式の関係はSさんの領域。もともとSさんに引き継ぎをするつもりだった。
「あなたを信じると決めて話したのに、いざとなったら他の人って。酷すぎる。」
「でも、専門の術者の方が安全だし確実に」
「嫌! 私はあなたを信じると決めたの。あなたじゃないなら、絶対に嫌。」
彼女の態度や口調が変わっていた。秘密を共有する相手を近しく親しく思うのは当然の心理。
そして術者と依頼者の距離が縮まれば縮まる程、仕事の成功率は高くなる。
「分かりました。ただし、失敗したら元も子もありません。娘さんを守るのが第一ですから、
必要なら他の術者の力も借ります。それで良いですね?」
「最初から最後まで、あなたが一緒にいてくれる?」 「はい。」 「それなら大丈夫。」
「式の始末には一晩中かかるだけでなく、翌日の午前中も影響が残ります。
だから翌日仕事が休みの日で、式を始末する日を決めて下さい。
日付を決めてもらえたら、早速準備にかかります。」
「早い方が良いわ。明後日仕事が休みだから明日の夜、それでも良い?」
「OKです。では明日の夜、ただ色々準備があるので明日の午前中に連絡します。」
「じゃそれでお願い。私にはあなたしか、頼れる人はいないから。」

228 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:43:38 ID:76T7LtyE0
 「彼女を一目見て、式が原因だと分かりました。
初めからSさんに繋ぐつもりだったのに。正直、かなり困ってます。」
夕食後の一時、パジャマに着替えた翠は新しい絵本に夢中。
藍は姫の胸で安らかな寝息を立てている。
「聞けば聞くほど、重たい話ですよね。何だか胸が押しつぶされそうです。」
「R君の言うとおり、問題は兄の方。
そんな術を使う術者は普通なら問答無用で始末の対象だけど、このケースはちょっとね。」
確かに、情状酌量の余地はある。彼女には『力』があり、その適性は言霊。
彼女が無心に、心から発した言葉には言霊が宿る。
彼女の気持ちを、相手の心の奥深く、真っ直ぐに伝える力。
『お兄ちゃん大好き。』
物心ついた時から毎日のように、その言葉を聞かされていたら。
思春期、性について興味を持つ時期に、その言葉を聞かされていたら。
恐らく俺も同じ事を考えただろう。
しかし、考えるだけでなく、実際に術を使ってしまったのは、その男の罪だ
「それで、○×クリニック付きの陰陽師で彼女の救い主たるR殿は、
一体どうやってこの件の始末をつけるつもりなのかしら。」
「もう、茶化さないで下さいよ。式はSさんの領域で、僕に出来ることは殆どないんですから。」

229 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/05(木) 20:44:42 ID:76T7LtyE0
 「式の始末は、私に策があるわ。でも、式を排除しても彼女自身を救えなければ意味がない。
何時までも過去ばかり見ているのでは結局彼女も、そして娘さんも幸せにはなれない。
だから、あなた自身が彼女を助ける。それなら、私も力を貸す。それでどう?」
「全力で、頑張ります。」 「うん、良い返事。L、その間翠と藍をお願いね。」
「勿論です。任せて下さい。」

『贐(中)』 了

230 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:07:17 ID:fXUecUhQ0
テスト中。

231『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:08:48 ID:fXUecUhQ0
『贐(下)』

 前日の打ち合わせ通り、翌日の早朝、女性の携帯に電話を掛けた。
「昨夜はコンビニで買った弁当とお茶。今朝は駅で何か買う。全部あなたの言う通り。」
「昼食も外食で。夕食は打ち合わせをしながら一緒に。退勤時間に車で迎えに行きます。
職場か駅の近くにコンビニはありませんか?駐車場が広いと良いんですが。」
「え〜っと、駅の近くのファミマ。○▲駅店、知ってる?」 「調べます。時間は?」
「そうね。5時、40分でお願い。」 「了解、じゃ5時40分に。」

232『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:09:32 ID:fXUecUhQ0
 約束の時間。待ち合わせたコンビニの駐車場に着くと、女性は既に店の外で待っていた。
車を降り、手を上げて合図をする。助手席のドアを開けた。
「どうぞ。」 「...ありがとう。」 助手席のドアを閉め、運転席に戻る。
「あの2人、お友達ですか?」 コンビニの店内で女性が2人、こちらを見ながら話をしている。
「凄〜い、やっぱり分かるんだ。今日、居酒屋に誘われたのを断ったら、もう根掘り葉掘り。
2人とも勘が良いから誤魔化しきれなかったの。だからせめて店の中にって言ったんだけど。」
「『誰』が迎えに来るって言ったんですか?まさか、陰陽師?」
「そんなこと言えないでしょ。弟。一緒に娘の見舞いに行くからって。」
「ちゃんと紹介すれば良かったのに。あれじゃ逆効果です。あの人達、絶対信じてませんよ。」
「だって、紹介したら色々聞かれる。年の差とか仕事とか。
それに、今更どんな噂が立っても構わない。それより、凄い車ね。ビックリしちゃった。」
「お客様の送迎用にはいつもこの車です。じゃ、まずは夕食。
お寿司で良ければ御馳走しますよ。美味しいお店を知ってますから。」

233『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:10:09 ID:fXUecUhQ0
 馴染みの寿司屋、藤◇。榊さんとの打ち合わせでも良く使う店だ。
電話して小さな座敷を予約してあった。夕食を済ませた後で打ち合わせ。
「部屋に戻ったらすぐお風呂。最後に浄めの水を全身にかけます。」 「髪も洗うの?」
「そうです。タオルと着物は僕の用意した物を使って下さい。
僕が用意した着物以外は何も身につけないこと。」
「下着も?」 「勿論。普段あなたが身につけているものは全部ダメです。化粧品も香水も。」
「マニキュアも落とさないといけないってことね。完全なすっぴん。ちょっと、恥ずかしいな。」
「『弟』なら、すっぴん見られたって恥ずかしく無いでしょ。
それに、女性の術者に繋ぐのを嫌だと言ったのはあなたなんですからね。」
「...分かった。それで、着替えた後は?」
「普段夜はベッドですか?それとも布団?」 「ベッドよ。娘と二人で。」
「ソファはありますか?横になれるくらいの。」 「ある。」
「じゃ、ソファに新しいシーツを敷きます。準備が出来たら横になって下さい。
その後であなたの周りに結界を張ります。そして、あなたが寝たら僕の出番。
式が活動出来るのは、あなたが寝た後ですから。」

234『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:11:00 ID:fXUecUhQ0
 「どうやって式を始末するかは教えてくれない訳?」 「いわゆる、企業秘密です。」
実際、俺は術の準備のための簡単な指示を受けただけ、子細はSさんしか知らない。
正直、俺はそれよりも『宿題』で手一杯だった。この人を、救う方法。
「それとね、本当に必要経費は要らないの?此処のお勘定も高そうだし。」
「それも、病院との契約に含まれてます。」 「何だか、割に合わないような、気がするけど。」
「全て上手くいったら、病院の宣伝をお願いします。陰陽師の話は抜きで。」
「それは勿論、でも私一人じゃそんなに。」 まだ、納得していない表情だ。
「地道に広告塔を増やすのは大事です。それと、今回は別の思惑もあるのでVIP待遇で。」
「別の、思惑って?」 「スカウト、です。」 「スカウト? 私を?」
「はい。前にあなたの言葉に宿る力の話をしたでしょう?
あれは『言霊』。実はお兄さんだけでなく、あなたにも力があります。気付いてないだけで。」
深く息を吸い、下腹に力を込めた。俺の『宿題』を解く、鍵。
『だからあなたが無心に、心から発する言葉には言霊が宿る。
すると、言葉の真の意味が、聞く人の心に強く作用する。その心の有り様を変える程に。』
「こと..だ...ま?」 数秒間、『言霊』が彼女の心にその意味を届けるのを待つ。
「はい、言霊です。あなたには力があって、その適性は『言葉』。
この適性の持ち主はとても数が少ないみたいなので、あなたをスカウトできれば、と。」
「私が、陰陽師になるってこと?」
「術者になれるかどうかは分かりません。でもあなたの力を活かす仕事は沢山ありますよ。
一族は慢性的な人手不足ですから、スカウトが成功したら僕は表彰ものです。
勿論今はそんなこと考える余裕はないでしょうけど。じゃ、いよいよあなたの部屋へ。」

235『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:11:47 ID:fXUecUhQ0
 ソファの周りに代を配置する。式はこの中から出られるが、一旦出たら入れない。
誘い出した式が彼女の中に戻るのを防ぐ結界。あとはSさんに任せれば良い。
結界を張り終えて、テーブルの上にペットボトルのお水を置いた。
「ありがとう。でも、喉は渇いてないし、トイレに行きたくなったら困るから。
それより、こんな時間に寝たこと無いから、全然眠くない。」
「思っていたよりあなたの手際が良くて、時間が余りました。
手持ち無沙汰ですが、眠くなるまで気長に待ちましょう。あ、トランプも持ってますよ。」
女性は黙って首を振った後、何か言いたげに俺を見つめた。
「もし時間があるなら、聞きたい事があるんだけど。」 「何でしょう?」
「一昨日聞かせてくれた話。あなたの一族では兄と妹の結婚が禁忌ではないって、本当?」
Sさんの、予想通りだ。 彼女自身の心の動きで、術の支度が調いつつある。

236『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:12:28 ID:fXUecUhQ0
 「本当です。もちろん法律上は夫婦と認められないので、一種の事実婚。
遺伝的な条件とかの縛りがあって、子供を作るのを避けることはあるようですが、
本人達の希望なら普通に結婚式も挙げるし、親族も皆二人を祝福するんですよ。」
「何だか、羨ましいな。もし、兄と私があなたの一族に生まれていたら、
私たちも、みんなに祝福されてそんな風に。事実婚でも、きっと幸せになれた筈。」
そう思うのも無理は無い。
でも一族に生まれていたら、この女性もその兄も幼い頃から然るべき修練を積んだ筈。
だからその関係自体が、有り得なかった。
「生まれ変わりたいですか?」
「え?」
「生まれ変わって、新しい人生をやり直したいですか?
本当にやり直したいなら、お手伝いしても良いですよ。」
女性は曖昧な笑顔を浮かべた。

237『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:13:12 ID:fXUecUhQ0
 「それは...本当に、やり直せたら。どんなにか。」
「じゃあ、僕にあなたの名前を預けて下さい。明日の朝、陽が昇るまでの間。
夜が明けたら、名前を返します。そしてあなたは新しい人生を踏み出す。素敵でしょ?」
女性は半分嬉しそうに、半分怪訝そうに、俺を見詰めた。冗談だと、思っているのだろう。
「面白そうね。でも、どうやって名前を預けるの?」 これで、支度は調った。
「これに、名前を書いて下さい。フルネームを。」
Sさんが取って置きの鋏で切り出した白い蝶、それと、筆ペン。
「ねぇ、幾ら何でも用意が良過ぎる。一体何をするつもり?」
「生まれ変わるお手伝いです。僕を信じると言ったでしょ?どうぞ、名前を。」
女性は背中を丸めて紙の蝶に名前を書いた。 「これで、良いの?」
「結構です。」 紙の蝶を受け取ると、指先に火花が散った。
「あっ!」 女性が手を引っ込める。 まるで静電気。この痛みは、やはり苦手だ。
「有り難う。準備が、調いました。あなたの名前を、聞かせてください。」
「私の、名前...嘘、私の名前は」 女性はボンヤリと俺を見詰めた。
あとは俺の『宿題』。 昨夜からずっと考えて、考え抜いて出した答。
心の中で練った言葉を、血液に載せて左手に送り込む。簡潔に、そして単純に。
『眠る。目覚める前に夢を見る。兄と結婚式を挙げる夢。』
左手の薬指を舐め、女性の額にそっと触れる。
力なく頽れた女性の体を抱き留めた。

238『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:13:47 ID:fXUecUhQ0
 既に近くで待機していたのだろう。電話を掛けて10分もしない内にSさんがやって来た。
「うん、上出来。準備は完璧ね。早速用意するから手伝って。」 「はい。」
Sさんが持ってきた大きめのバッグ、いつもの『お出掛けセット』ではない。
Sさんは手早く小さな祭壇を組み立てた。火を付けた蝋燭を大きな貝殻の端に立てる。
鮮やかな朱塗りの杯。日本酒を注いだ同じ朱塗りの銚子に、Sさんは綺麗な飾りを付けた。
「Sさん、それって。」 「三三九度の用意。婚礼の手順をなぞるけど、冥婚だから略式で、ね。」
冥婚、それは死者同士の婚礼。まさか、Sさんも。
「彼女の希望に添う形でないと成功率は低いから、これが一番確実な方法、多分。
それにこの部屋にはまだ、彼女の兄の気配が残ってる。最高の条件。」
「え〜っと、僕の『宿題』の答えも結婚関係なんですけど、障りは無いですか?」
「ふ〜ん、やっとR君にも女の気持ちが分かるようになったのかしら。大丈夫、全然平気。」
Sさんは鮮やかな色と模様で彩られた台紙を一枚、祭壇の前に置いた。
中央の赤い文字を挟んで、白い枠が二つ。台紙の隣に朱墨の筆ペン。
最後に玉串を祭壇に置き、Sさんは微笑んだ。「じゃ、部屋の電気を消して頂戴。」

239『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:14:27 ID:fXUecUhQ0
 「・・・の御前に、祭主S、怖れ慎みて・・・○村美枝子、冥府に赴くにあたり・・・
先に冥府に入りし○村健一と、御前にして婚嫁の礼・・・もって迷いを断ち・・・とせん。」
Sさんは朱墨の筆ペンで台紙の白い枠に『○村健一』と書き込んだ。恐らく彼女の兄の、名前。
続いて胸ポケットから紙の蝶を取り出し、同じ名前を書き込む。
それを右掌に置き、目を閉じた。 深呼吸、Sさんの集中力が更に高まっていく。
「外法の始末よ、力を貸して。」 呟いて目を開け、そっと、掌の蝶に息を吹きかけた。
掌から白い蝶が飛び立ち、ひらひらと部屋の中を飛び回る。相変わらず、見事な術だ。
「彼女の蝶を、玉串の上に。」 Sさんが小声で囁く。
一礼。玉串の上に彼女の蝶を置くと、台紙の残った白い枠にSさんが朱墨で名前を書き込んだ。
そう、『○村美枝子』。 俺が彼女から預かった、名前。
祝詞が再開された。 Sさんの澄んだ声が、古い言葉を紡いでいく。
ゆっくりと、白い蝶が部屋の中を飛び続ける。 まるで誰かを待ち続けるように。

240『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:15:03 ID:fXUecUhQ0
 ふと、Sさんが言葉を切った。部屋に満ちる気配。式だ。血の臭いは消えている。
直後、玉串の上から白い蝶がふわりと飛び立った。彼女の蝶。そうか、あの蝶に式を。
Sさんは恭しく銚子を頭上に捧げた後、朱塗りの杯に日本酒を注いだ。
続いて床に両手をついて一礼。慌てて俺も倣う。 これは。
俺たちの目の前。三三九度の杯に、二片の蝶が並んで舞い降りた。
成る程。彼女の一番の望みが兄との結婚なら、式はこれでその望みを叶えた事になる。
「御目出度う御座います。」
Sさんが声を掛けると、蝶は飛び立った。 絡み合うように飛び回る、二片の蝶。
Sさんは台紙を折り畳み、蝋燭の炎にかざした。部屋の壁と天井が朱に染まる。
そして燃える台紙を貝殻の上に置いて深く一礼、目の高さで手を叩いた。
蝶が空中で動きを止め、炎に包まれる。 二片とも、灰も残さずに燃え尽きた。
何かが床に落ちる音。Sさんが拾い上げる。
古ぼけた、銀色のハート。ペンダントトップ?
「これが、式の代。高校生だったとしたら、お小遣いでは精一杯の真心ね。」
Sさんは銀色のハートを俺の右手に握らせた。ハートを握った俺の右手をポンと叩く。
「これでお終い。さて、翠がぐずってたから急いで帰らなきゃ。」
「あの、翠がぐずってたって。」 祭具の片付けをしながら、翠の事がやはり気になる。
「大好きなお父さんが今夜はいないんだから、仕方ないわ。
それより、ちゃんと朝まで彼女を護って。名前を返すのは陽が昇ってから。
絶対に手を抜いちゃ駄目よ。」 Sさんはイタズラっぽく笑った。
「分かってます。」

241『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:15:47 ID:fXUecUhQ0
 翌朝。カーテンの隙間から朝陽が差し込むのを確認し、念のために更に10分待った。
「美枝子...美枝子。」 軽く肩を揺する。これで名前は元通り。そして俺の術が、発動する。
『目覚める前に夢を見る。兄と結婚式を挙げる夢。』 昨夜、彼女の心に送り込んだ言葉。
暫くして、彼女の目から一筋の涙が零れた。そっとタオルで拭う。
悲しみの涙か、嬉しさの涙か。それでこの人を救えるかどうかが、決まる。
涙の痕が乾いてから、もう一度声を掛けた。
「美枝子さん、起きて下さい。式の始末は上手くいきましたよ。
起きて下さい。ほら、朝ご飯のお粥も、作りましたから。」

242『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:16:38 ID:fXUecUhQ0
 お粥を食べている間も、女性は時折涙を拭った。彼女が自ら話すのを待つ。
食後のお茶を飲み終えて、ようやく女性は口を開いた。
「昨夜、夢を見たの。」 「どんな、夢ですか?」
「結婚式の夢、兄と二人で式を挙げる夢。私、とても嬉しかった。でも。」
『それで』ではなく、『でも』、それなら望みがある。
しかし、こみ上げる感情を抑えた。出来るだけ、そう平静に。
「でも?」
「兄は、笑ってなかった。凄く真剣な表情で。何だか、とても辛そうだった。」
『結婚式を挙げる夢』、そう指定したが、細かい内容は指定していない。
だからこれは、彼女自身の洞察。それを、確かめる。
「あなたが本当に大切だから、これからの事を色々考えて。男は色々と」
「慰めは聞きたくない。ね、私の言葉には言霊が宿るって、そう言ったでしょ?」
「はい、あなたが無心に、心から発する言葉なら。」
「じゃあ、やっぱり私のせいだわ。いつも『大好き』って言ったから、
私の言霊が兄を。兄は、本当は私の事なんか...」
女性の頬を大粒の涙が伝う。 それは嬉しさでなく、深い悲しみの涙
本当に、良かった。 この人なら、きっと気付く。そう、信じていた。

243『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:17:14 ID:fXUecUhQ0
 兄と妹。人目を忍んで続いた2人の関係は、この女性が力を持つが故の、
そして力をコントロールする訓練を受けられなかったが故の、不幸な事故。
残酷かも知れないが、自分でそれに気付かなければ、彼女は過去を清算できない。
「お兄さんもあなたが大好きだった。それは確かですよ。
だからこそあなたの言霊がお兄さんの心に強く作用して、『好き』の種類を変えてしまった。
元々それは、体の関係に繋がる『好き』ではなかったのに。それが、不幸の始まり。」
「『不幸』だなんて、酷い言い方。本当に遠慮がないのね。」
「その言葉の意味が、今のあなたになら良く分かる筈です。そうでしょ?」
十年以上、誰にも相談出来ず1人で耐えてきた苦しみと哀しみ。
今まで何処にも吐き出せなかった苦い思い。それらの堰が一気に切れたのだろう。
女性は俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
しっかりと肩を抱き、背中をさする。大声で泣くことが、今この人には必要なのだ。

244『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:17:46 ID:fXUecUhQ0
 どうすればこの人を救えるか、昨日の夕方ギリギリまで必死で考えていた。
この人の記憶の一部を書き換える。当然それも考えた。
しかしそれで兄への否定的な感情が生じ、娘さんへの愛情が変化したら最悪の結果を招く。
結局小細工では何も解決しない、そう思った。
彼女の力と適性について真っ直ぐに伝え、彼女が兄と結婚する夢を見せる。それが俺の答え。
思慮深く、俺と同じ適性を持つ彼女なら、きっと気付くと信じていた。
自分で気付けないのなら、たとえ俺がそれを伝えても信じてはくれないだろう。
その時は、Sさんに頭を下げて、彼女を託すつもりだった。しかし、例えSさんでも、
縁の無い者を助ける事は難しい。それが、いつもSさんと姫が強調する、人助けの鉄則。
今回は縁が有った。そうでなければ俺の術など何の力も無い。
女性は泣き続けた。思いを全て流してしまうまで、その涙は止まらないだろう。
涙が止まった時、この人は新しい人生に踏み出せる。
これからの長い人生に比べたら、例え1日泣き続けても大した時間じゃない。
このまま泣き止むまで、彼女の肩を抱いたまま傍にいる。そう、決めた。

245『贐(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:18:30 ID:fXUecUhQ0
 「ありがとう。いっぱい泣いたら、スッキリした。兄が死んだ時にも泣けなかったのに、
あなたといると、泣くのが怖くない。自分の心に、素直でいられる。不思議ね。」
10歳も年上。でも、泣きはらした目で、時折しゃくり上げながら話すその人を可愛いと思った。
「スカウトの話、憶えてますか?」 「え?」
「昨夜も言いましたが、僕たちの一族はあなたを必要としています。
もしあなたが自分の力を誰かのために役立てるなら、いつも自分の心に素直でいられますよ。
僕自身がそうだから間違い有りません。それは、保証します。」
「私が引っ越しを考えてるって話、憶えてる?」 「はい、娘さんの中学入学を機に、と。」
「娘の怪我の事で色々有ったし、今の職場、少し居辛いの。
引っ越しに合わせて転職出来たらって、ずっと思ってた。
だからスカウトの話、とても有り難いけど。本当に私なんかが役に立つの?」
「心が決まったら電話して下さい。新しい職場、御紹介致します。」
「...心を決められるように、お願いがあります。」 「何でしょう?」
「もう少しだけ、このままでいて。涙が、出なくなるまで。」
「お安い、御用です。」

『贐(下)』 了

246『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:19:22 ID:fXUecUhQ0
『贐(結)』

 昼寝から覚めて時計を見ると窓の外は既に暗くなっていた。もう7時過ぎだ。
着替えて顔を洗い、飛びついてきた翠を抱きしめる。温かい、命の感触。
「夕食、出来てますよ。」 姫がダイニングから顔を出した。

247『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:26:12 ID:fXUecUhQ0
 「スカウトの件、上手くいきそう?」
ダイニングで食器を洗っていると、Sさんがハイボールのグラスを持って来てくれた。
姫はリビングで翠と藍の相手をしてくれているのだろう。
「う〜ん、五分五分、ですかね。心が決まったら電話して下さいって言っておきました。」
「美人で、頭も良い。あなたへの信頼と依存も深かった。今朝、ソファに押し倒しちゃえば
スカウト成功確実だったのに、変な所で律儀なんだから。ホント難儀な性格よね。」
Sさんお得意の憎まれ口には慣れている。
彼女と兄の関係を知ってから、彼女と接する時、俺はいつも彼女の弟の立場を意識した。
あくまで模擬、それでも異性の友人や姉弟同士、体の繋がりのない絆を実感することが、
彼女が生まれ変わるには是非必要だと思ったからだ。
そしてそれは、Sさんも同じ意見だったのに。つまり俺の心を読むのが怖いから、
鎌をかけて俺の口から聞きたいってこと。全く、難儀な性格はどっちなんだか。

248『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:28:13 ID:fXUecUhQ0
 「彼女が泣き止むまで、ずっと肩を抱いて背中をさすってました。それだけです。
まさか外法に手を染めた術者と同じ事をしても良いなんて、まさか本気じゃありませんよね?」
Sさんは両手で俺の頬を挟み、唇にキスをした。
「冗談よ、怒らないで。愛する夫が綺麗な女性の部屋にお泊まり。
しかも帰ってきたのはお昼前。ちょっと位、愚痴を言っても良いでしょ。機嫌直して、ね。」
小さく溜息をつく。やっぱり心にもないことを。
「怒ってなんかいませんよ。それよりスカウトの件、どうなったんですか?」
「心当たりに電話したら、乗り気だった。スカウトが失敗して断るのが怖いくらい。」
「もう、おとうさん!あらいもの、まだおわらないの?」
頬を大きく膨らませた翠の後ろで、姫が笑いを堪えている。
「あ、御免。もうすぐ終わるから、それから一緒に絵本読もうね。」

249『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:28:57 ID:fXUecUhQ0
 数日後、夕方5時過ぎに市内の総合病院を訪ねた。
ロビーを見回す。その女の子は、すぐに分かった。ベンチに座り、外を見ている。
誰かを待っているような、何かを怖れているような、寂しげな表情。 胸が、痛い。
ゆっくりと歩み寄り、その子の隣に座った。怪訝そうに俺を見た女の子に声を掛ける。
「君は○村佳奈子ちゃん、でしょ? お誕生日、御目出度う。」 女の子は目を丸くした。
「どうして私の名前を?それに、誕生日も?」 背中を丸めて、女の子と視線を合わせた。
「僕は魔法使いなんだよ。君のお父さんの古い友達で、だから仕事を頼まれたんだ。」
「でも、私のお父さんは。」
「9年前、お父さんが亡くなる前に約束した。とても大事な約束。
「どんな、約束?」 声を潜め、女の子の耳に囁く。
「君には、邪悪な妖怪が取り憑いてる。その妖怪は、君の大事な人に化けて君の命を狙う。
しかも、君が成長するにつれて妖怪の力も強くなる。このままだと君はいつか妖怪に。
それで、君を護ってくれって頼まれた。今日が、その約束を果たす日だ。」
「大事な人に化けるって...お母さんとか?」
やはり、この子は自分を襲ったモノを見ている。まるで母親そのものの、式の姿。
自分を襲ったのが、大好きな母親だと信じたくない。
それで、子供心に必死で自分の記憶を。だから3度とも怪我の原因は不明。
「油断させて、襲うんだ。ほら、その足の怪我にも妖怪の気配が残ってる。
原因の分からない怪我をするのはこれが初めてじゃないよね?」
女の子の表情が、突然ぱっと明るくなった。
「うん、3回目。でも、私の怪我は悪い妖怪のせいだったんだね。」

250『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:29:37 ID:fXUecUhQ0
 「そう。だから、これを持ってきた。これ以上無い、強力な御守り。」
女の子の視線を十分引きつけて、それをポケットから取り出した。
銀のハートを、細いプラチナのチェーンに通したネックレス。
「ほら、綺麗でしょ?これをあげる。そしたら、もう二度と邪悪な妖怪は君に手を出せない。」 「でも、そんな綺麗なもの貰ったら、きっとお母さんが。」
「大丈夫、お母さんにはこう言えばいい。
『この御守りはお父さんのお友達だった魔法使いから貰った』、
そして、『ずっとこれが私を護ってくれるって言ってた。』って。ちゃんと言える?」
女の子は大きく頷いた。
「じゃ、かけてあげよう。お父さんとお母さんの想い、大事にするんだよ。」
白く、細い首の後ろで留め金を留めた。ゆっくりと、立ち上がる。
「良く似合う、これで大丈夫。僕はもう行くよ。次の仕事が、あるからね。」
「あの、名前。お兄さんの名前を、お母さんに。」
「R。それで、分かるよ。さようなら。」
「さようなら。」

251『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:30:12 ID:fXUecUhQ0
 それから三ヶ月程が過ぎ、お屋敷の周りには秋の気配が漂っていた。
榊さんに依頼された仕事を終え、お屋敷に戻ると玄関先に見慣れた軽トラ。 『藤◇』の文字。
「あざっした〜。」 配達の人の元気な声。すれ違いながら声を掛ける。「いつも御苦労様。」
ドアを開けた。 何だ、これは?
差し渡し1m近い舟盛りが二艘。豪華な寿司とお造り。そして紅白の紙で包まれた日本酒。
「おかえり〜。おとうさん、こんやはごちそうだよ。」 翠と、その後ろにSさんと姫の笑顔。
「これ、みどりの。きれいでしょ?」 「美味しそうだね。全部食べられるかな?」 「うん!」
翠が持っている折り箱には色とりどりの小さな手鞠寿司。 藤◇の大将の、心遣いだろう。
「もう少し早かったら、電話で話せたのに。残念ですね。」
「あの、今日って何かの記念日でしたっけ?全然、憶えてなくて。」
姫とSさんは顔を見合わせて微笑んだ。 「結納のお祝いよ。美枝子さんから『弟君』に。」
美枝子...あの女性の、結納?
「相手は私の従兄。彼女より2つ年下で、きっとお似合いだと思ってたの。」

252『贐(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:31:36 ID:fXUecUhQ0
 彼女を引き受けたのがSさんの叔母夫婦だという話は聞いていた。
『お似合いだと思ってた』ということは、最初からこれも狙いの1つだった訳だ。
「式は来月、是非家族みんなで出席して欲しいそうです。電話、かけ直しましょうか?」
「あの、娘さん、加奈子ちゃんは?」
「叔母と従兄が加奈子ちゃんをすごく気に入ってて、加奈子ちゃんも懐いてるみたい。」
それなら、心配ない。安心したら腹が...空腹で倒れそうだ。
「もう、式には出席するって返事したんですよね?」 Sさんと姫は声を合わせた。 「勿論!」
「じゃ、まずはその御馳走を。もう、お腹ペコペコで。電話はその後に。」
「了解です。それにしても、Rさんて。」
「え?」 姫が真っ直ぐ俺を見つめている。
「最近、何だかとても頼もしい感じで、素敵です。」 「あ、そ、そうですか。え〜っと。」
「何赤くなってるのよ。全く、デレデレしちゃって見てられないわね。」

『贐』 完

253 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/10(火) 22:33:24 ID:fXUecUhQ0
皆様今晩は、藍です。
無事『贐』の投稿を終える事が出来ました。
有り難う御座いました。

254名無しさん:2014/06/10(火) 22:57:56 ID:V7Sj6eOU0
藍様、作者様、弟様、有難うございました!
そして、投稿作業お疲れ様でした。
今回のお話も興味深く拝読させていただきました。
新規の投稿を、もうなされないのではと危惧しておりましたが、こうして新作を読ませて頂き、心よりの感謝を申し上げます。
出来る事でしたら、また新しいお話の投稿を願っております。

255名無しさん:2014/06/10(火) 23:14:16 ID:jGb.UW5QO
とてもとても面白かったです。知人さん藍さん、本当にありがとうございました!!

256名無しさん:2014/06/11(水) 14:52:59 ID:zO.9f2AU0
藍さま、作者さま、楽しく拝読させて頂きました。
有難うございました。
美枝子さんも今後話しに絡んでくるんでしょうね、陰陽師として。
Rさんのお子さん2人に美枝子さんが面倒をみる姪御さんたちも
今後陰陽師としての才能を開花させていくのでしょうか・・・
さらに楽しみが増えました。
この作品を拝読させて頂くのが私の数少ない楽しみの一つです。
次作がとても楽しみですが、あまりご無理をなさらぬように・・
藍さま、稀代のストーリーテラー作者さま本当に有難うございます。

257名無しさん:2014/06/14(土) 18:39:36 ID:Hpd3syqU0


これなんて読むの?

258名無しさん:2014/06/14(土) 18:43:40 ID:SnZ43S6M0
>>257
はなむけ
新しい出発を祝う贈り物のこと。

259名無しさん:2014/06/17(火) 19:43:11 ID:8vjEjl2g0
>>257
コピーできたなら、Google開いてペーストして、検索ボタンもクリックしてみようよ。

260名無しさん:2014/06/17(火) 21:17:57 ID:oCcb1r3c0
>>259
まあ、良いじゃありませんか。
本当は分かっていたのかもしれませんよ。
258のレスで、この作品の深みが増す訳ですから。
まったりいきましょう。

261名無しさん:2014/06/18(水) 16:55:07 ID:WdUwr52o0
というか 今回のお話と題名が本当にベストマッチだと思います。
貪欲ではありますが 次の作品も心待ちにしています

262 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/18(水) 21:33:27 ID:H0buFQH.0
テスト中です。

263 ◆iF1EyBLnoU:2014/06/18(水) 21:43:29 ID:H0buFQH.0
 皆様今晩は、藍です。

 色々な事情を鑑みて個別のレスは控えておりますが
全てのコメントを、有り難く拝読しております。

 さて本日、知人から新作の連絡が届きました。
次作は掌篇らしいので近い内に投稿出来ればと存じます。
完結編が近づくのは複雑な思いですが、私自身『次』を切望しています。
どうかもう暫く、お待ち下さい。


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