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詩・歌・管・弦 part 2
222
:
千手
:2009/11/03(火) 18:48:09
ヘルダーリンの詩の朗読CDが手に入った。朗読はBruno Ganz。正確な韻律で読んでいるものと思う。
エリギー、とかオーデとか。
自分の思っていた読み方とずいぶん違うので、驚くと同時に、ヘルダーリンの詩が普通の詩人の詩とまったく別物なのだということがわかる。
ほとんど呪詛に聞こえるのだ。多くのドイツ人にとってもそうなのだと思う。
〜はどこにある、〜はどこにある、などということを本気で真っ正面から疑問にして問うているのだから。
たとえばあのアテナイはどこにある、等々(パンと葡萄酒)。
ほんとは呪いや呪詛ではなくて、深々と現在を問い出しているものなのだが。
だがともかくこういう詩には堪えられないドイツ人が多いだろう。
223
:
千手
:2009/11/03(火) 19:03:55
Brot und Wein
7
例えば「パンとP葡萄酒」の7の終わりのところ。
Weiß ich nicht und wozu Dichter in dürftiger Zeit?
Aber sie sind, sagst du, wie des Weingottes heilige Priester,
Weiche von Lande zu Land zogen in heiliger Nacht.
乏しいい時代に詩人が何のために存在するのか、わたしは知らない。
詩人は、酒神バッコスの聖なる司祭のように、聖なる夜の中を、国から国へと移り行くのだ。
(詩人に引き付けて意訳)
聖なる夜の中をめぐり歩くより他のことを知らない者……。
224
:
千手
:2009/11/03(火) 19:17:38
さらに、その詩の最後のところ、
8
selbst Cerberus trinkt und schläft.
これが酒神の存在の意味なのだ!!!
ツェルベルス(地獄の番犬)さえ酒を飲んで眠るのだ、と。
葡萄酒はすでにキリストの血さえをも溶解させて、ディオニュソスの酒になっているのだ。
この"trinkt"に気を止める人は少ないのではないだろうか。
いやいや、ヘルダーリンをドイツ語で読もうとするほどの人なら、深くそこに気を止めるだろう。
このさりげない"trinkt"が酒神の存在の意味なのだ。
225
:
千手
:2009/11/03(火) 19:18:47
訂正
8→9
226
:
千手
:2009/11/03(火) 23:27:30
「パンと葡萄酒」最終行
ヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」の最終行はこうである:
Selbet der neidische, selbst Cerberus trinkt und schläft.
(Brot und Wein)
ここのところ、手塚富雄氏の訳はこうである:
あの妬み深いもの、地獄の番犬ツェルベルスさえも、飲み、そして眠っている。
この訳に何の疑問があるわけでもない。問題はなぜヘルダーリンがここで妬み深い地獄の番犬ツェルベルスを登場させたのかである。
趣旨は、酒神の恩恵が、イエスを通して、ツェルベルスにまで及んでいるということである。
ツェルベルスも眠れるのである。
そして眠るのである。
そうすると「地獄」への行き来が、容易に行えるようになるのだろうか?
ということは、「地獄」が必要なくなるのだろうか。
あるいは「地獄」がなくなるのだろうか。
「地獄」といってもギリシア風の「冥界」のことだということになるのだろうが。
「パンと葡萄酒」最終行
ヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」の最終行はこうである:
Selbet der neidische, selbst Cerberus trinkt und schläft.
(Brot und Wein)
ここのところ、手塚富雄氏の訳はこうである:
あの嫉み深いもの、地獄の番犬ツェルベルスさえも、飲み、そして眠っている。
この訳に何の疑問があるわけでもない。問題はなぜヘルダーリンがここで妬み深い地獄の番犬ツェルベルスを登場させたのかである。
趣旨は、酒神の恩恵が、イエスを通して、ツェルベルスにまで及んでいるということである。
ツェルベルスも眠れるのである。
そして眠るのである。
そうすると「地獄」への行き来が、容易に行えるようになるのだろうか?
ということは、「地獄」が必要なくなるのだろうか。
あるいは「地獄」がなくなるのだろうか。
「地獄」といってもギリシア風の「冥界」のことだということになるのだろうが。
ツェルベルスも酒を飲む。
そして嫉みを忘れ、眠る。
ヘルダーリンは何を言いたかったのか?
227
:
千手
:2010/01/17(日) 00:50:13
マイ・ブログに今年初めてのUP。ヘルダーリン詩集について。
http://25237720.at.webry.info/201001/article_1.html
228
:
毛蟹
:2010/09/09(木) 16:15:20
ご無沙汰です。
このところ反射神経の顕著な衰えを自覚します。特に運転中など。ボーとしていることが多くて、事後に冷やりとすることがしょっちゅうあります。
夏の間に体内に溜まった老廃物のようなものがあって、それが精神と身体の回路をブロックしているように感じます。デトックスせねばと思うのですが、どうすればよいのか?
さて、千手さんのブログ(芭蕉の俳句についての批判)を拝読しました。
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 『奥の細道』(金沢)
この句です。恥ずかしながら初めて目にしました。
千手さんはこう述べておられます。
>だがわたしの感じでは秋を感じさせるのは決して風ではない。まず光そのものの強さだ。光の暑さ、強さにどことなく衰えが感じられるのである。そしてまた午後の二時、三時ともなれば、光が作る影の感じもどこか違っているのである。そう、照らされる草花の影が、何となく長くなったように感じられるのである。
これは一連の草叢写真の撮影経験を通して獲得された観察眼でしょう。その観察眼は確かに芭蕉よりも鋭いと思います。
しかしながら、僕が疑問に思うのは、次の箇所です。
>とすると、芭蕉はここに、この句の中に、なぜ秋風をもってきたのだろうか? 答えはおそらく、秋風がさきにあったからである。古今集の敏行の歌は、「目にはさやかに見えねども、風の音にも」と歌っていた。それが秋を感じる敏感さの証拠であるかのように。おそらくはこの秋を感じる感性の図式のなかに、芭蕉もみずからも浸かっているのである。多分すっかりと……。
「秋風がさきにあったからである」と断ずるに充分な根拠が示せているとは思えません。
「強烈な日差しの中に立っていたらひんやりした風が吹いてきた」という凡庸なシチュエーションがなぜ考慮されないのでしょうか。なぜ考慮する必要がないのでしょうか。それが疑問です。古今集の敏行に絡め取られているのはもしかすると千手さんのほうかもしれないと思ってしまうのです。
それと千手さんの俳句についてですが、
> あかあかとつれなき日にも秋はきぬ葛の葉ながき夕べの光
「夕べの光」はもう「店仕舞いの光」ではないでしょうか。
>そしてまた午後の二時、三時ともなれば、光が作る影の感じもどこか違っているのである。
そうであれば、強さの頂点をすこし過ぎた時刻の日差しを捕らえないとせっかくの観察眼が生きてこないと思います。「夕べの光」と「あきの風」に決定的な差異が感じられないのです。
229
:
千手
:2010/09/15(水) 23:47:22
>>228
謝多。
1.「つれない日」は、自分がじりじりと照らされて逃れようもない日差しのことと思います。
とすると難所を越えていた頃かなと推測するばかりです。金沢では秋風に涼を楽しんでいたようです。
2.午後二時の光(影)の長さを歌の中で表現する技法が見つかりません。
以上です。
230
:
毛蟹
:2010/10/25(月) 11:53:22
千手さんの10月24日付けブログを拝見しました。
清らさや風霧水と土の色
その場所によってしか保持し得ないような「結晶」にも似た感触が伝わってきます。
ついメンディエタの作品(土シリーズ)に重ねてしまいました。
231
:
千手
:2010/10/26(火) 07:28:29
>>230
ご高評有り難うございました。
実はこの句の実体を基に、「清明」の思想と戦っていけると考えているものなのです。
メンディエタに繋がっていればなお心強いことです。
233
:
千手
:2013/11/30(土) 09:56:19
下記の書き込みが有りましたが、営業広告でしたので削除しました。IPアドレスも晒します。
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