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エスペラント改造論

1やぱーの@管理人:2006/10/12(木) 17:46:51

申し訳ありません。すでに、このスレを立てたのですが、タイトルが「敢えて...」でした。
管理人初心者でしたので、お許しください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158318733/l50
改造論のスレを立てます。アルファングル以外は、こちらでどうぞ。

2ladio:2006/10/27(金) 23:50:01
Esperanto 2.0b
1.1 人称代名詞・草案
me(mea men)  私は(私の 私を)
mej(meja mejn) 私たちは(私たちの 私たちを)
ve あなた vej あなた達
ŝe 彼女 ŝej 彼女たち
le 彼 lej 彼ら
ce あの人(三人称中性代名詞) cej あの人達
ĝe それ ĝej それら

veajn amikojn あなたの友達達を
vejan amikon あなた達の友達を
vejajn amikojn あなた達の友達達を

発音の都合上、以下のような省略が必然的に形成される:
M'estas Esperantisto.

#Web 2.0の流行に乗って、エスペラントも2.0に!!
#文法に必要最低限の変更をちょっとづつしていこう。

3隣の隠居:2006/10/28(土) 15:03:12
「〜達」というのは、単に複数語尾を付けるというのは違うと思います。
「私たち」というのは、その場に"mi"が全員いる場合もあるでしょうが、その場に全員いない"mi kaj li"の可能性もあるでしょう。

4USoZo(JL1USZ):2006/10/28(土) 17:03:09
『(状況が)判り易いけど覚えにくい』ことにならないと良いですね。
設定が細かくなりすぎると覚え辛くなります。
私は、漢字で書く「おじ・おば」でも苦労するのでひらがなで誤魔化しますので。

5ladio:2006/10/28(土) 18:38:58
>>3
確かにその通りですね。
それでは、
「ŭe 私たちは」
に訂正(mとnは聞き分けづらいと言うイドの意見を取り入れて)。

ところで、「riisumo」運動と言うのがあるそうです。
liとŝiのように性別を区別しないriを使おう、と言うものです。
というわけで、
re あの人(三人称中性代名詞) rej あの人達
に訂正。


Esperanto 2.0b
1.2 性接尾辞・草案
-it- 男性接尾辞
-in- 女性接尾辞

patro 親
patrito 父親
patrino 母親

6USoZo(JL1USZ):2006/10/30(月) 02:41:52
>5
-it- 男性接尾辞

すでに -it- -at- -ot- がありますが、これらを他のモノに替えるのでしょうか?
すると、 -int- -ant- ont- も関連付けて変更しなければならなくなりますね。

7Nemaldekstremistocxjo:2006/10/30(月) 15:18:24
私もpatroが「親」や、instruistoなどの-istoには中性的な意味があればいいのになとは思います。
ただ、riでさえ、まだまだですし新しい接尾辞を使うのは反対意見が多いと思います。

あえて、女性教師であることを強調したいときにのみ、instruistinoを使うことにする、や
日本でも「看護婦」から「看護士」になったように、女性にもflegistoを使う(使っても良いことにする)など。
そういった自然な変化の方が受け入れられていくのではないでしょうか。

それで、父親であることを強調するときは、masklpatroとか?(笑)

8Kanva:2006/10/30(月) 22:55:28
二人称の単数・複数の区別は(特に相手を前にしていないときに)欲しい。

Riistoの提唱する男性化語尾は-iĉ-だけれども、例えば-oĉ-のように母音も
女性と違えてくれたほうがイメージしやすい。-i-自体に女性のイメージが
あるので(個人的感覚)。

9ladio:2006/10/31(火) 18:08:43
>>6
しくじりました。。。
>>8
既にあるんですね。
「-oĉ- 男性接尾辞」賛成です。

Esperanto 2.0b
1.3 冠詞
定冠詞laの使用を任意とする。
つまり、話者の母国語に冠詞がない場合、laは使わなくてもよく、
母国語に冠詞がある場合、laを使ってもよい。

#laを理解できるかできないかは文化によって違います。
#日本人にはどこにlaを使うのか分かりにくいものです。
#むしろ、必要性すら理解できないケースもあります。
#文化的差違を少なくするため、laを非推奨とします。

#現在、エスペラント改造という不純な動機のもと、エスペラントを勉強しています。
#このスレをモチベーションにしてます。
#迷惑を顧みず、勉強不足を晒しつつ改造案をほざいていきたいと思います。

10Kanva:2006/10/31(火) 22:24:59
「定冠詞を持たぬ言語を母語とする者は最初のうちlaを使わなくともよい」
とは、Fundamentoにも出ていた説明と思いますが、ladioさんの言いたい
のは、もっと減らさせようということですね。

11USoZo(JL1USZ):2006/11/01(水) 00:10:23
>8
#二人称の単数・複数の区別は(特に相手を前にしていないときに)欲しい。
同感ですね。「お前」だけに対して文句言いたいのに複数が目の前に居ると
「お前ら」全部に文句言ってると取られる場面が(英語で)以前あって
《一人対一人なら勝てるけど一人対多数では勝ち目が無いぢゃぁないか》
ってことで燻った経験があります。

 あ?これだと相手が目の前に居るときですね?
何十年も前のことなのに思い出したらまた悔しくなってきました。<`ヘ´>

>9
#現在、エスペラント改造という不純な動機のもと、エスペラントを勉強しています。
#このスレをモチベーションにしてます。
根拠は個人のそれぞれでよいですよね。
楽しめなければ学問はただの拷問だと思います。

#勉強不足を晒しつつ
自分で読書をしたり聞いたりして理解を深めていくことが勉強でしょうから、
知らないことを聞くこと(教えを請うこと)は極自然なことだと思います。
勉強完全なら教授になっているのでしょうから。
ladioさんやみなさんの勢いに乗っからせて貰いますね。(^^♪

12ladio:2006/11/01(水) 19:08:02
Esperanto 2.0b
2.1 動詞の不定形
動詞の不定形は動詞の目的語としてのみ用いる。
つまり、povi(〜できる),devi(〜しなければならない)などの後に用いる。
それ以外の場合、名詞化したり、形容詞化したり、前置詞を用いて表現する。

2.2 二重否定
二重否定、可。

13ladio:2006/11/02(木) 19:56:59
Esperanto 2.0b
2.3 能動分詞
分詞形容詞が叙述形容詞として使われるときは、分詞形容詞は動詞の不定形をとる。(-anti,-inti,-ontiを語尾にとる)
つまり、叙述修飾句の分詞は動詞の不定形を用いる。
Mi rigardis akvon falanti sur la straton.
私は水が路上に落ちつつあるのを見た。
Mi rigardis akvon falantan sur la straton.
私は路上に落ちつつある水を見た。

14ladio:2006/11/03(金) 18:38:01
Esperanto 2.0b
2.4 分詞動詞(2.3 能動分詞を破棄)
分詞動詞を作ることができる。
能動分詞動詞は-anti,-inti,-ontiを
受動分詞動詞は-ati,-iti,-otiを語尾に持つ。

E: La bebo estas dormanta.
E-2.0: La bebo dormantas.
日本語:赤ちゃんは眠っている。

E: Mi estas invitata.
E-2.0: Mi invitatas.
日本語:私は招待されています。

問題点:一つの単語で2つの時制を表さなければならない。
ただ、受動分詞動詞ではほとんどの場合、2つの時制は一致するので、問題ないと思われる。

15Kanva:2006/11/03(金) 21:17:50
そういえば、JoMoの"Suno sunu !"という曲の歌詞の最後に、
"esperantu"という命令法があるのを聞きました。
他にそういう特殊な用例をご存知の方は?

16エスペロ:2006/11/04(土) 06:45:56
>>14
La bebo dormantas. Mi invitatas.

この言い方は、Monato誌にはよく出てきます。やはり、estiが2音節で冗長
なので、estiを使いたくないという心理が働くのでしょうね・・・

17ladio:2006/11/04(土) 11:53:17
分詞動詞は使われているんですね。
私にとって、そっちの方が使いやすそうなので良かったです。
と言うか、最初に分詞について学んだとき、これは動詞として使うものだと思いこんでいました。

18松戸彩苑:2006/11/11(土) 23:36:18
「改造」のうちに入るのかどうか判りませんけど、エスペラントの単語(あるいは
語根)には、長すぎるものがあると思うんですね。

で、そういうものは合成語をつくるのにも不便だと思いますので、短い語形が
あると良いと思います。

たとえば

pantalono → panto
au'skulti → au'ski
trankvila → tranka
cirkonstanco → cirkono
impertinenta → imperta

のようにです。

19ladio:2006/11/14(火) 20:19:01
ノシロでは、単語の文字数はなるべく少なくなるようにしているみたいです。
単語が短いと合成語作りに便利なだけでなく、単語の視認性も向上しますね。

20ladio:2006/11/17(金) 18:32:31
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/nutrlg.html
良いこといってます。(もしかしたら皆さんご存じかも知れませんが)
私はほぼ同意です。

特に、「
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/trmnr.html
エスペラントでは、「生物学」「同音異義語」などの高級語を安易にラテン語からとっている。
造語法で作れるものは造語法でとことん作るべきだ。

と言う、意見です。一番下には、造語法による高級語が列挙されています。

21Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:01:05
ladioさんの斬新な発想は大好きですが、ノシロのような失敗した人工言語を参考にされる意味は、まだ私にはよく分かりません。

22Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:09:30
追伸
>>20
もちろん、私もこのページはお気に入りです。この中にもいらっしゃったり(笑)

23ladio:2006/11/18(土) 17:07:37
>>21
ノシロなどは失敗したのではなく、ただ広まらなかったのです。
あらゆる人口言語は大事な遺産であり、良いところは取り入れるべきだと思います。
新しい発想はなかなかでませんので、過去の優秀な人の思いつきをパクってしまいます。

24松戸彩苑:2006/11/26(日) 02:15:48
エスペラントというのは基本的に「書き言葉」として発達したものなので、「耳で聞いただ
けでは区別しにくい」という単語が、けっこうあるように思います。
できれば、そういうものも改善したほうが良いと思ってるんですが。

具体的に言いますと、matura と natura、multa と muta といったものです。
これらは「目で見る」場合にはまず間違えないのですが、「耳で聞く」場合には、かなり
紛らわしいと思うんですね。

で、私は matura を mjura としたら良いんじゃないかと考えています。
これはフランス語の m&ucirc;r を参考にしたものです。
ほんとは mju なんて発音じゃないほうが良いんですが、mira や mura とするわけには
いかないので、こういう語形になったわけです。
スペイン語ふうに madura とすることも考えましたが、インドネシアには「マドゥラ族(人)」
という人たちがいますので、これも不採用としました。

それから muta は mjuta としたら良いと思います。
これは言うまでもなく、英語の mute の発音を参考にしています。

しかし笑い話のようですが、結局 mjura と mjuta も似てしまってますね。
これは最終的には、しばらく試験的に(話し言葉として)使ってみないことには、「改良」に
なってるのか、それとも「改悪」なのかが判断できませんね。
こういったことを考えますと、むしろ multa のほうをイタリア語ふうに変更して molta とす
るほうが良いのかもしれません。

こういった単語のペアはたくさんありまして、ほかにも ses と sep なんかが気になるとこ
ろです。
sep をギリシア語ふうに hep あるいは ep とするのは、どうでしょうか。

それから vidi と vivi というのも、耳で聞いた場合には、区別しにくいように思います。
私は今のところ vidi を vjui とするということを考えています。

ほかにも sama-sana、ankau'-antau'、al-au'、jam-iam、se-sed、mi-ni、el-en、sub-sur
なんかも気になっているのですが、これらについては、なかなか良い代案が思いつきま
せん。
今のところは「ゆっくりと丁寧に発音する」ということを心がけるしかないでしょう。

25松戸彩苑:2006/12/09(土) 09:46:10
エスペラントに対する批判や不満のひとつに「語彙が欧米中心である」という事が
ありますね。

もちろんエスペラントは、もともとフランス語やラテン語をもとに作ってあるので
「基礎的な部分」が欧米的なのはやむを得ないのですが、しかし「基礎的な部分」
以外の語彙に、もう少し、欧米以外のものがあっても良いのではないでしょうか。

欧米以外の文明で重要なものとしては、中国を中心とした極東文明、インド文明、
それにイスラム文明などがあると思うのですが、ここでは我々にとって最も身近
な「極東文明」に由来する語彙を提案してみたいと思います。

エスペラントにおいて「漢字」を表わすさいに最もよく使われるのは cxina ide-
ogramo という表現です。
しかし、言語学にくわしい一部の人たちからは「漢字は ideogramo ではなく logo-
gramo である」という指摘がなされています。
また、このほかにも cxina litero とか cxina signo という言い方もあるわけ
ですが、しかし考えてみれば、漢字というのは、現在、十数億人が使っている
文字なのです。
こういうことを考えれば、固有の語根で表わしても良いのではないでしょうか。

ということで、「hanzo = 漢字」という語根を提案してみようと思います。
これは、中国語の hanzi(漢字) から作ったものです。

26松戸彩苑:2006/12/09(土) 10:14:09
>>25
hanzo(漢字) という語根があれば、「日本で作られた漢字」という表現も
hanzo elpensita en Japanio と表現することが出来ます。

従来の表現方法ですと、cxina ideogramo(litero, signo) elpensita en Japanio
「日本で作られた中国文字」という、少々おかしな表現になってしまいますね。

なお余談ですが、かつてのベトナムでも、ベトナム独自の漢字が使われていました
し、また朝鮮にも、朝鮮独自の漢字があるらしいです。

それから「漢字の辞書(あるいは字書)」も hanzaro と表現することが出来ますね。

27松戸彩苑:2006/12/09(土) 13:00:21
>>26 で elpensita en Japanio と書きましたが、elpensita de japano のほうが
良いかもしれませんね。

あと、>>25 で出てきた ideogramo は「表意文字」、logogramo は「表語文字」という
意味です。

28松戸彩苑:2006/12/09(土) 16:08:03
>>24 で「耳で聞いただけでは区別しにくい単語が、けっこうある」と書きました
が、そういう例は、ほかにもあります。

それは、enlitigxi と ellitigxi のような例です。
この「en〜igxi」と「el〜igxi」というのが、なんとも紛らわしいと思いますね。

それで私は「en〜igxi」のほうを「〜enigxi」に換えたら良いのではないかと
考えてるんですね。
「liten」に「igxi」をつけて「litenigxi」とするわけです。
litenigxi と ellitigxi であれば、見た目も、発音も、適度に違っていて、区別
しやすいと思うのです。

もっとも、「el〜igxi」のほうを「de〜igxi」に換えるという方法もありますが、
私は上記の方法のほうが良いように思います。

29Kia-kablo-mi-estu:2006/12/11(月) 22:37:02
松戸さんのいう事には一理ありますが、耳を慣らすことが一番の方法だと思います。
エス語の単語には音韻論的には、一子韻の違いでその意味を区別する単語がたくさんあります。
例として、
bato, dato, fato, kato, rato, k.a.
これは、発話の「省エネ化」傾向から考えるとなるべく文の単位である意味を表す最小単位の
形態素を出来る限り短くする必要から来ています。お手本となる「自然言語」がそういう傾向で
「進化?」してきているのです。

実際、特に話し言葉(言語の本源)の場合は、発声器官に掛かる負担の軽減とその代償となる
意味の不明瞭化との攻め合いで決まるものなのですね。

この省エネ化のエス語の身近な例としては、人称代名詞の mi, vi, li, sxi などがそうでしょう。
これらは多くの印欧語にある動詞の活用の不規則性が学習を難しくしている事から導入された
ものでしたが、その代償として、時として情報の不正確さをもたらすものでもあります。
エス語を聞くのが不慣れな人にとっては、時として主語がはっきりと聞き取れないこともありますね。
それに反して、活用の違いが残っている言語(例えば、スペイン語、イタリア語等)では
主語を省略しても動詞を耳にしただけで主語(人称の違い)が明瞭です。

この例のように言語を学びやすくするためには、規則性と共に簡潔さも一つの要素となりますが、
場合によっては意味は不確実になる場合もあるということだと思います。
ところで、'en-litigxi'と'el-litigxi'も確かに耳で聞いた場合には区別しにくい語だと思います。
これが改められないでいるということは、実際にはTLO(tempo, loko, okazo)でその区別を理解して
いるか、あまり実際場面では使う機会がそれほど(修正が必要なほど)も今のところはない、
という事でしょうか。denaskaj esperantistoj に伺ってみなければなりませんな。。。

30Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:23:19
エスペラントにとってマイナスのような書き方をしましたが、実は、発話の
省エネ化傾向にブレーキをかけて来たのが書き言葉なんですね。正書法とか
伝統文法の様な権力による強制がなければ、話し言葉は所詮前回に述べた様に
意味の不正確という対価を払わなくても一定の共同体の中では、ダーウィンの
自然淘汰説を待つまでもなく落ち着くところに落ち着いたわけですね。
特に英語なんかは、長期に渡ってどちらかというと被支配者たちの言語傾向が
強かったので(今とは大違い)割と省エネ化が進んでいるんですね。

ザメンホフもエスペラントの創作には英語が大いに参考になったと語っていっている
位ですから。その代償として綴りとの乖離が矯正不可能な程となってしまいましたけど。
もう一つの例として、「民族的統一」を比較的早く行ったにも関わらず常に
ゲルマン言語の影響を受けやすかったフランス語の場合は権力により正書法等の
厳格な統制が長らくありましたしその傾向は今も続いたいます。にも拘らずですよ、
話し言葉では省エネ化が例外なく進んでいます。動詞の活用などは厳密に残っているのは
書き言葉においてだけで、話し言葉では単複の一、二人称の区別に縮小しています。

そういった意味で考えるとはザメンホフは天才でしたね。現在の科学としての言語学的
見解を先取りしているのですから。
時間がなくなりましたのでこの続きはまたの機会に述べさせていただきますが、
en-litigxi, el-litigxiの違いは話すときには、ハイフンで分けたようにelとen
の次の語との間に少し時間を入れるようです。具体的には所謂「曖昧母音」を間に
入れるようです。かなで書けばエヌリティージ、エレリティージのようになります。
en-iri, el-iriの場合は、文法書に書いてある通りというより、むしろ離さないで
話したほうがむしろ分かりやすいですね。

31Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:37:33
重要な事を書き忘れました。
何も印欧語に真似なくても日本語や中国語には人称による動詞の活用は存在しませんね。
しかも主語というか主題というか、その提示は義務的ではありません。
それに対しては論理的にどうのこうのと批判めいた事を言う人がおりますが、
話し言葉でも、実際その使用場面では不便を感じた事は少なくとも私には
ありませんでした。
上述の「むしろ、はなさないではなしたほうが.....」もTLOを考えれば誤解を
生じないでしょう。

32胡人:2006/12/12(火) 11:00:20
先日新しく出版された藤本達夫さんの「エスペラント語の入門書」を読みました。
長年、世界中の高名なエスペランチスト達と交流のある彼なりの、文法等の感じ方捉え方が、分かりやすく多くの例文で示され、大変面白かったです。正直、Enkonduka;入門書とは言えないと思いますが(^^)

彼が良く言われるのは、2,3時間外国の空港で耳を澄ませていると、必ず言葉として聞こえて来る、中には内容が分かって来る言葉もある。本当にそう思います。私はちゃんとした文章を書くのは苦手ですが、会話で苦労した事はあまりありません。

本当の初心者の時、往復2時間くらい、ロシア人エスペラチスト2人を人足替りにピアノを運んだ時、運転しながらだったのもあり、母音も聞き取れず、初めは彼らが何を言っているのか全くわかりませんでしたが、帰りの1時間は結構分かる様になりました。その場で「cxf-」という言葉を理解し覚える事が出来ました。私はその様にトニカク習うより慣れろという事と思わされました。

私が習った Gvidanto は良い意味で、いわゆる16か条というモノは、エスペラントを宣伝するための、ザメンホフの天才的宣伝用のキャッチコピーという言い方をされています。

以前、Ladio さんが 字上符の方法、ri 使用について等を改造と書いておられましたが、藤本さんや私の Gvidanto 的には改造ではなく、それがエスペラント採用されるかどうかは、その使用頻度(使用者による自然淘汰・自然選択的)だという考え方です。

33Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 21:44:46
胡人さんの見解に概ね賛成です。
ただ私たちが心に留めておかねばならないのは、残念な事ですが人には個人差が
有るという事です。これを言うと直ぐ差別主義のように言う人もおりますが、
これは厳然たることで、エスペラントの聞き取りになれるのに要する時間は、人に
よってかなりの差が有ります。
私も含めて、私たちが陥りやすい傾向として仮に「言語学習に於けるエリート主義」
とでも言いましょうか。そういったものにかぶれないよう注意する事ですね。
ザメンホフの16ヶ条の文法ルールをを読んで直ぐに使いこなせるようになった
人達は、相当のインテリだったと思います。
我々(日本のエスペランティスト)の殆んどもすでに英語の洗礼を受けていたと
言うことには大いに留意すべき事だと思います。
私も小学生にエスペラントを教えた経験がありますが、とりわけ日本人であって、
平均的能力の持ち主にとっては英語の学習と同じく、エス語の習得は至難の技だ
と思っております。
主要な自然言語(歴史的に現代文明の持つ知識十分に耐えうる機能を全て有して
いるという意味で)が持っているあらゆる基本的素材を包含した言語には語彙や
その統語法において例外なくミニマム量が有るという事ですから。。。。


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