ネットより
聖イエス会(せいイエスかい、英語名称は「Congregation of Jesus」)は、1946年1月5日、大槻武二によって創立され、現在、京都市右京区に本部を置くプロテスタント系のキリスト教団である。大槻武二(1906年6月26日 - 2004年9月10日)教団内では「霊父」及び「ファーザー」を名乗り、現在に至るまでこの通称で呼ばれている。1906年、6月26日 - 現在の京都府綾部市白道路(はそうじ)に、父・清太郎、母・つるの(4男2女の)次男として誕生。1922年2月4日 、同志社にて金森通倫より受洗。1932年 、ホーリネス教会聖書学院卒業。赤尾筆子と結婚。1938年1月9日19時頃、「奉天清潔教会の台所で欄間を見上げ祈っていると忽然と言(ロゴス)という燃えるような赤い発光体が現れ、唇に触れ身体に入り内にとどまった」(本人談)。大槻はこれを神との出会い及び神の内住体験とし、以後この内住体験こそがキリスト教における唯一の、真の神の救いであると説くようになる。1936年、日本ホーリネス教会(きよめ教会)の伝道師であった大槻武二は瀋陽(中国)での開拓伝道の任命を受け、奉天聖潔教会に赴任。1938年1月9日、御名による聖霊のバプテスマを体験し、キリストの内住を確信するに至る。以降、大槻の祈りによって活発に聖書に書かれているような神癒(病の癒し)が起こるようになる。(その中には死者の復活も含まれているとされる)その後、大槻はいったん帰国。1940年、牧師按手礼を受け、翌1941年東亜伝道会から再び中国へ派遣される。同年11月の大連での神癒集会から、リバイバル運動のうねりが起こり、中国全土に一大センセーションが巻き起こったとされている。聖イエス会の記録によると1942年7月24日の旅順信義会聖会までの9ヶ月間で228回の集会が開かれ、神癒の恩恵にあずかった者の数は8025名にのぼった。一方、時を同じくして日本では「きよめ教会」が国家によって弾圧を受け、1942年にはいわゆる「ホーリネス教会弾圧」が起こり、多くの牧師が投獄されたが、大槻は中国で伝道に従事していたため難を逃れた。大槻は1942年8月帰国、その後日本国内で巡回伝道師なり、全国からの招聘を受け、教派を越えて集会をもった。このとき伝道活動を行った京都市・神戸市(兵庫県)・平塚市(神奈川県)・福山市(広島県)・福井市などが、後に聖イエス会発会の基盤となった。大槻はその後も超教派での活動の継続を考えていたが、1946年、神の導きを受け、聖イエス会創立を決意した。御名による神との出会い、すなわち聖霊の内住体験は、聖イエス会の最も特徴的なものである。御名を呼ぶという宗教実践をともなって神を礼拝する信仰は、大槻によれば、創世記にまで遡ることができる。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。ユダヤ教における神の御名に対する理解に関してはen:Names of God in Judaismを参照。 神の御名を呼ぶ行為は、旧新約聖書全般に現出しているといい、特に次の聖句などを重要な例として挙げる。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。また次の聖句にあるように、原始キリスト教徒は「この名を呼び求める者たち」として知られていたという。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」次の聖句などと合わせて、この習慣が原始キリスト教会に起源を持つ