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☆★科学/歴史・宗教・心理学/総合雑談スレ★☆
92
:
こだま
:2005/05/10(火) 13:08:03
きょうこさん
>こだまさん、穏やかなGWを過ごされているといいんだけど…
ありがとうございます!おかげさまでとっても穏やかでのんびりとしたGWでしたよ。
連休中も訪問や電話、メールは相変わらずありましたが、ことごとく無視してました、ハハハ・・・
少し「悪いなぁ」とも思いますが、自分を守るためには仕方ありません。
まだ何に対してもいまいちやる気がでないのですが、自分のペースで生きていける喜びをかみしめながら過ごしていこうと思います。
学ぶ楽しさを味わっていらっしゃるきょうこさん、素敵です☆ガンバッテくださいね。
春田の蛙さん
ご親戚のゴタゴタ、大変そうですね。
私は、おかげさまで相変わらずのんびりした毎日を過ごしていますので、お返事などお気になされずに。
また楽しい「蛙さん節」をお聞きできる日を楽しみにしています♪
93
:
きょうこ
:2005/05/15(日) 02:20:20
>こだまさん
GW穏やかに過ごせたとの事、本当に良かったです!
「悪いなぁ」なんて思わずに、ご自身を大切にしていただきたいです(^ー^)
わたしは元気ではありますが、ふとした拍子に、ものすごく落ち込む事があります。
今までの人生を振り返って、やはり後悔してしまうんですよね。
学会員じゃなかったら選んでいただろう道、逆に選んでいなかっただろう道を
考えても仕方ないのに考えてしまいます。
なんか気を抜くと急にガクッといきそうな気がして怖いんですけど、
とにかくこだまさんも私も、自分を大切に思わないといけないって
それだけ思います。
>春田の蛙さん
MCスレに、まとめたものを載せさせていただきました。
勝手な事をいたしまして、すいません…
これを書くのに、とても勇気が要りました。
でもこれで、なんだか、自分の中でひと区切りついたような気がしています。
ご自愛くださいね(^ー^)
94
:
こだま
:2005/05/17(火) 19:13:59
ひさびさですが、またこの場をお借りして愚痴らせていただきます。
ここのとこ、穏やかな日々を過ごし、体調も良好になりつつあるのですが
やはりまだ地域の学会員の方と顔を合わすのが怖くて。
なるべく会わないように時間帯を気にして行動してたんですがきのうついに会ってしまいました。
会っても、向こうは私が心の病だって知ってるし、別に責め立ててくるわけでは決してないのですが(現に会ったときも「やさしい言葉」をかけてくれました)、私は密かにメチャメチャへこんで帰ってくるのです。
しばらく治まってた頭痛やのどの痛みもしてきて。
昔から学会の中でも優等生面してきた私が今じゃ、病人扱いされて心配されて同情されて、でも「そろそろ出て来れないの」という無言のプレッシャーも感じて・・・そんなことに一人で落ち込んで。
病人扱いされるのは、私が自ら望んだことなのに、なんか悔しい。変な話です。
あー、もう誰にも会いたくなーい!でもこんなんじゃ、日常生活もままならない。
>きょうこさん
>ご自身を大切にしていただきたいです(^ー^)
ありがとうございます。自分を大切にするために、私はもっとある意味ワガママに、奔放に生きられたら・・・って思います。
実は少し前から、「やめりゅ〜」のスレッドをもう一度読み返していたんです。
きょうこさんが悩まれてた様子を拝見し、すごくすごく励まされました。
MCスレのまとめ、私にはうなずけることばかりです。
でもこんな風に文章にまとめられるのは、すごいなと思いました。
とても勇気がいる作業をしていただき、本当にありがとうございました。
95
:
春田の蛙
:2005/06/17(金) 17:20:49
大変遅くなって、申し訳無いです。m(_ _)m
>94 こだまさん
うーん、分かる気がします…。別に変な話ではないですよ。
私もね、高校時代に生徒会長やら何やらやらされたせいで、当時の同級生や後輩には自分ン家のゴタゴタが打ち明け辛いと言うか…。
始めは包み隠さず話してたんですが、それを打ち明けた時に、相手によってはたまに見え隠れする優越感みたいなモノが嫌でね。
何か惨めな気分になるから、ここでこだまさん達と話すほど、心を開いては付き合えなかったりしますよ。(笑)
こだまさんが会われた方なんですが、たぶん「やさしい言葉」の部分が、その方本来の優しいトコかもしれませんね。
「そろそろ出て来れないの」のトコがマインド・コントロールに言わされてるというか、急き立てられてる部分で。
こだまさんが感じたプレッシャーは、その人自身も日々上や周囲から感じてるんじゃないかと思います。
でもこだまさんには、今苦手に感じてる人たちに対して、これから長い時間を掛けて、やってあげられる事もあります。
ゆっくりと、貴方自身が幸せになる事です。
そうすれば、いつの日か――その人達の内から貴方と同じ道を歩もうとなさる方が出た時、
その時点でお付き合いが有る無しに関わらず、支えになってあげられるかもしれません。
何かで疑問を抱いた時に、ふとこだまさんを思い出してくれる可能性も、ゼロではありませんから。
こだまさんだって活動家だった時は、まさかそれに疑問を感じて離れる日が来るとは、思わなかったはずです。
ですから、同じ事が他の方の心にも訪れる日が来ないとは、断言出来ませんよね。
何も彼らの活動を、直接非難する必要は無いです。
いずれ時を経て落ち着いたら、一人と一人の人間として、出会った時に普通に話せば良い。
もし今、こだまさんの近くにもそんな友人が居れば、どれほど心強いかとは思うでしょう?
つまり、いずれはとても大きな事をしてあげられるかもしれないんだから、
今の悔しさや何も出来ない事、それを愚痴り甘えて休む事は、こだまさんの義務であり権利です。
それからね…人間って本当に不思議な生き物なんですよ。
なまじ適応力があるせいで、どんな苦難やストレスにも慣れてしまう。
だから、急に今まで重荷だった事柄が無くなると、しばらくは新たにストレスを抱え込んだのと同じくらい苦しいんです。
プラスマイナスの方向は逆でも、環境の変化という意味の振れ幅は同じだからです。
そんな時に問題が起きたりすると、そのストレスを前のストレスだった箇所に当てはめて――変な言い方ですが、悩みや苦しみに居場所を求めてしまう事すらあります。
ストレスが無くなったり減ったりする事に慣れてないから、ストレスの埋め合わせを求めてしまうんです。
けれども本当は、それは人間が本来持っている強さと、裏返しに抱えている弱さなんですよ。
ですから焦らず、貴方本来の強さを信じて、そしていたわってあげて下さい。
こだまさんの心と身体に、自然に栄養が蓄えられるのを待ってあげて下さいね。
96
:
春田の蛙
:2005/06/17(金) 17:23:25
これも遅レスですが。(汗)
> こだまさん
>蛙さん、77は、乗りに乗ってますねっ!面白かったです。
そうですか!ウケてましたか!?…いやぁ、良かったです。(涙)
根が芸人な私としては、「面白かった」「ウケた」と言って貰えるのが最高の誉め言葉ですよ。
では調子に乗って、日本の古典芸能である歌舞伎や人形浄瑠璃と、
アニメや特撮モノの演出技法の比較を、作曲家の菅野よう子さんのコラムの引用など交えながら――
(……いいけどな。書きかけの話題を一区切りさせてからにしろよ?)
あ、うん。けど無関係じゃないんだよね。脳科学で言うところの“クオリア”なんかとは、関係してくるはずだから。
さらに言うなら、それは知覚の原因を脳の内側に求めるか、それとも外の世界に見い出すかという、この分野の考え方の根本に関わる――
(じゃ、手っ取り早く分かり易く書け。ほら、すぐ、たった今!)
うぐ……。えーん、どうせボクは遅筆でおバカですよぅ。(シクシクえぐえぐグスン…)
>ハウルの動く城は見ました。宮崎作品を劇場で見たのは実は初めてでした。
ほぅ!初めてなら新鮮でしたでしょ、いかがでした?
劇場でって事は、テレビで放送されたのは御覧になった事あるのかな?
私は「魔女の宅急便」くらいまでしか本気で観てないので、最近の宮崎氏の作品についてはあまり詳しく述べられませんけども。(^^;
>「耳をすませば」で立花隆さんがアフレコやってたのは意外でした。今度、機会があれば見てみます。
いやまぁ、無理して観る程でもないような。紹介しといてアレですけど。(汗)
アニメなら、うーん…最初はどんな作品が面白く感じるのかなぁ。今放送してるテレビシリーズだと、「ケロロ軍曹」辺りどうだろ?
「ふたりはプリキュア」なんかも面白いんですが、アレは子供と、ホントの大人のアニメマニア向けの作品だし、
「ガンダムSEEDデスティニー」は、最初から観ないとワケ分かんないと思うし、意外にオススメするのって難しいんですよね。
ちなみにテレビシリーズからこの十年くらいの作品で傑作を挙げるなら、私は「ケロロ軍曹」と「カレイドスター」を推します。
劇場作品はあんまり観てないんだよなぁ…テレビと違ってタダじゃないから。(←ビンボー)
97
:
春田の蛙
:2005/06/17(金) 17:24:06
続き。
>そしてこちらに伺ったら、蛙さんがあったかい言葉をかけてくださってて、私は本当に幸せ者だと思いました。
いやいや、それはお互い様ですよ。そう言えば他スレで、私が携帯から参加してる事で投稿時間を気になさってましたけど、それは全く関係ないです。
寝る時は着信音切るなりしていますし、それに何故か不思議に、一寸気分の落ち込んだりイライラしてる時に投稿やメールが来て、心が温まったり気分転換になるんですよね。
単なる偶然なんでしょうが、不思議にタイミングが良いんですよ。だからあまり細々と気は遣われず、書きたい時に遠慮なく書いてくださいね。
>>だって、友人との会話に使命感持ち込んだりしないでしょう。普通。
>
>ありがとうございます。そう、普通、そうですよね。私の中に「義務感や使命感で人を大切にする」って感覚がまだ残ってるんですね。そんなものさしで蛙さんのことを計ってしまい、申し訳ありません。
いや、全然謝るような事では。(汗)
て言うか、次第に「義務感や使命感で人を大切にする」ようになってしまうものでしょうけど、
初心に帰るなら、それって大抵、普通は純粋な気持ちから始まる事であって、
だからその事を忘れず、「義務感や使命感のワナに陥らないよう気を付けてる」って言うのが正確ですね。
私の書き方がマズくて、罪悪感を煽るような結果になってしまい、すみません。m(_ _)m
通じあっていた筈の気持ちがすれちがう時って、往々にしてこういう「気持ちの変化」があると思うんですよ。
しかも「目的の正しさ」に目がくらんで、自分が変化してる事にも気付かない。
義務感や使命感って、大抵『正しい』ですからね。目的もハッキリしてるし。
私の立場なら、「マインド・コントロールの問題に苦しんでる人に助言して、助けようとしてるのに何が悪い」なんてのがワナです。
で、適切な助言をし損ねている事を棚に上げて、「分かってくれないのは相手が悪い」と考える。
大抵の場合、分かって貰えないのはこっちの説明が下手だからです。(笑)
つまり、これはマインド・コントロールの問題の裏返しなんですよ。
自分の無知や説明下手を棚に上げて「分からずやのカルト信者」を責めるのと、
自分達の犯してきた過ちを棚に上げて「分からずやのアンチ」を責めるのは、実は同じ心理なんです。
だから、大抵の人はマインド・コントロールのワナに陥るんです。逆の立場から見たら簡単に分かる事が、自分の行動となると見えなくなる。それが人間です。
>ぜひいつまでも私や私の後に続く、悩めるものたちの力になって頂けたら・・・なんて思ってしまいました。
ありがとうございます。けど、本当に大した事も書いてないので、あんまり力にはなれていないと思います。今までも、これからも。(苦笑)
今回も、しばらく間が空いてしまいましたし…ホントすみませんでした。
ちなみに私も逆上がり出来ませんよ。あと校庭で準備体操とかやってる時は、どれだけ大勢居ても私はすぐ見付けられたそうです。
「体を大きく回して〜」なんて時に、一人だけタイミング違うらしいんですよね。(笑)
98
:
こだま
:2005/06/21(火) 20:30:24
春田の蛙さん
たくさんのお返事、ありがとうございます。とても考えさせられました。
>こだまさんが会われた方なんですが、たぶん「やさしい言葉」の部分が、その方本来の優しいトコかもしれませんね。
こんな優しい視点で、地域の人たちを感じたことはありませんでした。もーうざい、とにかく目の前に現れないで!という心境でした。でもその人たちも上から感じてるプレッシャーがあってそれが私にも感じられているんですね。そう思うとその人たちもかわいそうなのかな?
>だから、急に今まで重荷だった事柄が無くなると、しばらくは新たにストレスを抱え込んだのと同じくらい苦しいんです。
>プラスマイナスの方向は逆でも、環境の変化という意味の振れ幅は同じだからです。
あー、そういうものなんですか?確かに重荷は実際にはなくなったはずなのに、過去のことを思い出してすごくつらくなることが多いんです、最近。会館で、がむしゃらになって名簿片手に電話してる私の姿や、メチャクチャな一人暮らしの部屋で、活動に疲れきってる姿や。そんなうつろな目をした自分を思い起こして悲しくなるんです。
もっと前向きになれたらいいのに。自分の新たな目標や、楽しいことを見つけられれば、こんなこと考える時間も少なくて済むんでしょうけど、まだまだ私の頭の中をしっかり学会が占めている感じです。
蛙さんはじめ、みなさんはご自分の生きがいや楽しみをどうやって見つけられましたか?私は自分が何をしたいのかわからないままです。
99
:
こだま
:2005/06/23(木) 00:18:57
創価系のブログなんかを読みまくってると、少し混乱してきます。
似たような体験に、学会への怒りみたいなものを新たにしたり、それぞれの方の心の動きに動揺したり・・・。
でも、大事なのは自分の心だなって思いました。
活動してた頃の私も私だし、活動から離れると決めたのも私だし、これからの人生を歩んでいくのも他ならぬ私なので、
今、私の周りにいて理解してくれる方々に感謝しながら、気負うことなく、毎日を大切にしていこうと思います。
好きなことを少しづつ発見していけたらいいのかな・・・と思ってます。
100
:
春田の蛙
:2005/06/23(木) 15:59:24
>こだまさんへ
>たくさんのお返事、ありがとうございます。とても考えさせられました。
いえとんでもない。それより、少し私の捉え方がズレてる点があったようですね。すみませんでした。
>こんな優しい視点で、地域の人たちを感じたことはありませんでした。もーうざい、とにかく目の前に現れないで!という心境でした。
そうですよね。考えてみれば、当然の話です。
>でもその人たちも上から感じてるプレッシャーがあってそれが私にも感じられているんですね。そう思うとその人たちもかわいそうなのかな?
ま、確かにそうなんですけどね。今こだまさんが、そこまで相手の身になって考える必要はありませんよね。
いや、何と言うか…あれもこれも一度に書いちゃった私の落ち度ですね。これは。
重ね重ね、申し訳ないです。m(_ _)m
>>だから、急に今まで重荷だった事柄が無くなると、しばらくは新たにストレスを抱え込んだのと同じくらい苦しいんです。
>あー、そういうものなんですか?
これは、本当にそうですよ。あまりに重たい悩みを長く抱えてると、重荷が無くなった時がすごくしんどいです。
私は結構、そんな体験を繰り返してるので、今では物事が一段落したり、解決しそうな目処が立った時の心の隙間にこそ用心してます。
大袈裟じゃなく、こういうケースでそれこそ死のうかってほど落ち込む場合もありますから。
人間の心の奥深さというか、ある意味怖さだと思います。
それまで様々な家族の問題を抱えて休む間も無かった奥さんが、そうした問題が片付いて、
暇が出来たとたんにうつ病になったなんてケースも読んだ記憶があります。
これをはっきりと科学的に述べる事は出来ませんが、素人考えでよければこんな説明もあります。
ストレスを量る尺度としてコルチゾールという物質があるのですが、
ストレスによって長期的にコルチゾールが増加すると、記憶に重要な役割をなす脳の海馬神経細胞が損傷してしまう場合があるのです。
しかし、手術でコルチゾールの分泌を止めても、コルチゾール過多の時と同じ海馬の損傷が起きる事が実験で確かめられています。
つまり、単純にコルチゾールが無ければ良いという話ではない。
コルチゾールの生成量が少ない人は、トラウマ体験に縛られ易い傾向もあるという、統計データもあります。
101
:
春田の蛙
:2005/06/23(木) 16:01:00
こうした事から、人間は進化の過程で様々なストレスに対応する強さを身に付けて来た、
しかしその代わり急激な増減、つまりストレスが増した時のみではなく、
急に無くなった時にも影響があるのだと考える事が出来るのではないでしょうか?
>確かに重荷は実際にはなくなったはずなのに、過去のことを思い出してすごくつらくなることが多いんです、最近。
>会館で、がむしゃらになって名簿片手に電話してる私の姿や、メチャクチャな一人暮らしの部屋で、活動に疲れきってる姿や。
>そんなうつろな目をした自分を思い起こして悲しくなるんです。
戦争とか大地震などの天災とか、過度の幼児・性的虐待の記憶をお持ちの方も、同様の苦しみを訴えられる場合があります。
地下鉄サリン事件の被害者の方にも、そうしたケースがあるのを読みました。
ひっくるめて『PTSDですね』なんて、よく知りもしないのにレッテル貼って
分かったふりするつもりはありませんが、過度のストレスになった記憶というのは、
過ぎ去ってからも何でもない時にフラッシュバックしてきて、苦しめられる場合があります。
こだまさんの性格のせいでも何でもありません。
早く楽になりたいお気持ちはよく分かります。
けどね、交通事故で重傷で入院したら、いくら頑張ってもすぐには元に戻らないでしょう?
リハビリなんて、何ヶ月どころか何年も掛る方は、実際においでです。
私の仲良かった友人で、ひどい事故に遭われた方がそうでした。
病院は不自由だし退屈だし、でもどんなに気持ちが焦っても、治るだけの時間を掛けなければ完治しませんよね。
>私は自分が何をしたいのかわからないままです。
当たり前ですよ。いや、私がもうちょっと気の利いた事が言える人間だったら、
もう少しマシだったのかも知れないですけど。頼りない友人で、申し訳ないです。(^_^;)
102
:
春田の蛙
:2005/06/23(木) 16:02:33
>>99
のレス、書かれてる内容はその通りだと思います。
けど、泣き言や弱音を我慢する必要は無いんですよ?
私も何年か、ネットでこうしたやりとりをさせてもらってますけど、リハビリに殆んど付き合えて無いんじゃないかと悔やむ気持ちがあります。
マインド・コントロールについて説明して、お礼頂いてそれきりになってる方々の事、今でも気掛かりなんですよ。
解決したからそれきりになったなら良いんですが、『これ以上アレコレ愚痴の相手してもらうのは気が引ける…』みたいなお気持ちだったのかも知れないと思って。
だからこだまさん。どうか最後まで付き合わせて下さい。
そして、いつかこだまさんが本当に立ち直った時――
つまり、私やこのサイトがあなたにとって不必要になった時も、変わらず私を友人の一人と考えて下さるなら嬉しいです。
103
:
王様!これは莫迦には見えないレスです。
:王様!これは莫迦には見えないレスです。
王様!これは莫迦には見えないレスです。
104
:
きょうこ
:2005/06/23(木) 16:39:46
…蛙さんに100とられた(;_;)
105
:
春田の蛙
:2005/06/23(木) 16:53:15
> …蛙さんに100とられた(;_;)
あうあう…ごめんよごめんよ、悪気は無かったんだよぅ。
ちなみにケロロ軍曹、観て下さってありがとうございます。m(_ _)m
携帯の着うたに使ってますです、アレ。(笑)>OP
106
:
春田の蛙
:2005/06/23(木) 17:28:08
ちなみにケロロ軍曹の初代OP「ケロっとマーチ」で、変え歌も作った事がありますw
ゲキョゲキョゲキョ、いざ進め〜与党侵略せよ〜
とか
民音 聖教 F取り〜御守りなら入会じゃないよ〜(嘘)
創価は宇宙一〜たぶん。毎日顕彰、実は銭ゲバ!
とかいう内容で。(^_^;)
今はもう、次の曲に変わってると思いますが。>主題歌
最初のOPも、名(迷)曲でしたよ。うん。
107
:
こだま
:2005/06/26(日) 08:02:08
春田の蛙さん
>いや、何と言うか…あれもこれも一度に書いちゃった私の落ち度ですね。これは。
>重ね重ね、申し訳ないです。m(_ _)m
とんでもないです。つい自分だけが被害者だーと思いがちだったので、視点が広がったような気がしてよかったです。
>私は結構、そんな体験を繰り返してるので、今では物事が一段落したり、解決しそうな目処が立った時の心の隙間にこそ用心してます。
そうですか。寒いところに出る前に「寒いぞ!」と思って出るのが大事なのと似ているのかな?早くホッとしたい中、用心されるというのは難しそうだなと思うのですが、用心のために何か具体的にされることとかあるんですか?
差し支えなければ教えていただけたらなって思います。
>過度のストレスになった記憶というのは、
>過ぎ去ってからも何でもない時にフラッシュバックしてきて、苦しめられる場合があります。
私がした経験というのは、同じようなことをしていた他の人にとっては、「自分は戦ったという良い思い出」だったりします。だから、私はささいな事を「ストレス」として感じやすい性格なのかな?、いつも「生きづらさ」を感じずにはいられないやっかいな奴なのかな?と思っていたんです。(というか、今もそう思っています)
こんな私は、もし学会での活動がなかったとしても、「普通の社会生活」すらままならない、ストレスに弱い人なのではないかな・・・と。だから、活動に取られてた時間が取り戻せた分、後ろ向きはやめて、早く前を向いて「普通の社会生活」をエンジョイしなければ、と焦っていたのかもしれません。
でも、交通事故のリハビリのように、完治までには時間がかかるということ、よくわかりました。そう、ニコさんも楽になるまで3年とか長い時間がかかったと仰っていました。焦らず、焦らず、でいきます。
>だからこだまさん。どうか最後まで付き合わせて下さい。
>そして、いつかこだまさんが本当に立ち直った時――
>つまり、私やこのサイトがあなたにとって不必要になった時も、変わらず私を友人の一人と考えて下さるなら嬉しいです。
あたたかいお言葉、ありがとうございます。これまでも、言葉にならないほど励まして頂きました。そしてこれからも泣き言や愚痴、たくさんぶちまけちゃうと思います。最近も選挙が近いためか、学会の中の緊迫感みたいなのが、実家の者との話や、ふと目にする新聞などから感じられてきて、胸がしめつけれるような気持ちになります。
でもこちらにおじゃまさせて頂くと、ふっと心が解きほぐされて、「こんな自分でもいいんだ」って楽にさせて頂いてます。友人と言っていただけること、何よりも嬉しく、心強く思います。本当にありがとうございます。
108
:
こだま
:2005/06/26(日) 08:22:00
きょうこさん
>落ち込んだら、自分に落ち込ませてあげたらいいと
>わたしは思います。
>怒りが湧いたら、思いっきり怒ってクッションにでも当たるとか。
>無理に元気になろうとして、ご自分を追い詰めないであげて下さい
そうですね。私、これまでの人生で「自分の感情を押し殺す」ことがとてもうまくなったんです。だから、自分をそのまま出せる人がうらやましくて。「自分の感情を大事にしてる人が、実は本当の意味で他人に優しい人」だって読んだ本にかいてありました。
クッションに怒る、今度やってみます(笑)
>それに最近は、組織で「きょうこ無視」のおふれが出たのか、
>道で内部の方にお会いしても完全無視されます。
>わたしがちゃんと挨拶しても、ですよ。
そうなんですか!? ひどい!どういう神経なんでしょうか!私、怒鳴り込みに行きたいくらいです。
でもきょうこさんがおっしゃる「向こうのほうが心が傷ついている」というのはまさにその通りだと思います。そう思えるきょうこさんを、私は尊敬します。きょうこさんのほうが「心晴れ晴れ」だと思います。
自分癒しのアイディア、ありがとうございます。
>こだまさんにも、やってみたいと思っていたけど、
>手が出せなかったものが、何かありませんでしょうか?
そう言われれば、いくつか思い当たりました。ま、それも気負わずやってみます。「自分癒し」ってことで。
私も子供のころ、夕焼けフェチでした。そんな感覚も最近すっかり忘れてたな・・・。
なにより、きょうこさんのいい意味で力のぬけた感じにとっても癒された感じがします。
また、何かおもしろいこと見つけたら教えてくだされば、うれしいです。
109
:
こだま
:2005/06/26(日) 08:25:53
あ、ケロロ軍曹、放送日を調べてみました。そのとき、これまでのお話みたいなのを読んだら面白そうだな、と思いました。
が、すっかり見るのを忘れてました。
ぜひ来週こそ、見てみます。シュールな曲も気になりますし・・・
110
:
きょうこ
:2005/06/26(日) 23:27:46
>こだまさん
お辛いですよね…
「自分の感情を押し殺す」事が上手いのは、
私も同じです。
人間革命、宿命転換、人に尽くして信頼されなきゃいけない、
これっていい事でもあるんですけど、
裏を返せばそのままの自分ではいけない、変えなきゃいけない、
って事ですよねぇ。
なんていうか…ハードな人生だったですよね。
こだまさんはまだ身近に活動の息吹を感じる立場にいらっしゃるから、
私より精神的にお辛いんじゃないかと心配です。
私は聖教新聞ももうとってないし。
今日、お題目をあげました。
こだまさんの事も、祈らせていただきました。
祈るしか、私にできる事がなくて。不甲斐ないですが。
でも、なんていうかな…
義務感でなく、自分の意思であげるお題目は気持ちいい!(^ー^)
最近サボってましたけど(笑)
今はやりたいときにだけ、やってます。
すいません、なんかいつも長くなっちゃうんですけど、
私がお伝えしたかったのは、
私が困り果てて「あなた色」にお邪魔したとき
こだまさんはとても温かく丁寧なお言葉をかけてくださった。
それがあって、今の私があるんです。
だからとっても感謝しているんです。
それと、付け加えておかないと!
私を無視する方も現実にいるんですけど、
組織の中には良い方もいらっしゃいます。
まだ内部に友達もいます。
もしかして、ロムってるかたを煽っちゃったらいけないなぁ〜と思いまして。
>蛙さん
その替え歌、面白い!(笑)
「たぶん」っていうのが笑えました。
私、いまやってるアニメでは「ボーボボ」が一番好きかなぁ。
↑結構勇気のいるカミングアウトでした(;´▽`A``
111
:
春田の蛙
:2005/06/29(水) 17:39:41
> こだまさん
>早くホッとしたい中、用心されるというのは難しそうだなと思うのですが、
> 用心のために何か具体的にされることとかあるんですか?
んー、いや別に「こうしたら落ち込まない」とか「気分が暗くならない」って事じゃないんですよ。
落ち込んだり、暗い気分がちっともマシにならなかったり、思ってた以上に
体調に影響出てたりするのを、仕方ないと諦める、そうなるのを予め覚悟しとくって事です。
じゃないと、「何時まで引きずってるんだ俺」とか「気持ちが前向きになっていかないのはおかしい」とか、
「もしかして…原因は外部の揉め事じゃなくて俺自身の内側にあるのか?」みたいに、悪い方へ悪い方へ考えが進むからね。
落ち込んでる時に直球でモノ考えるから、落ち込む方へと知らずに誘導されるんだよね。
なのに結果から無意識に原因を探しちゃう。それを解決した(しつつある)問題のせいには出来ないから、
自分自身にホントの原因があるように錯覚する。ありがちな人間の心理ですよ。
でもさ、「トラックにはねられたのは随分前なのに、未だに思うように歩けないのは、
ホントはトラックじゃなくて自分が原因なのか?」って考えるのはおかしいですよね。原因はトラック。間違いない。
歩けない事にイラつくのも、焦ったり落ち込んだりするのも当たり前で、その気持ち自体は防げないと思います。
私が用心してるのは、そうなるのが当たり前と心得る事で、それ以上グルグル考えないようにしているだけですよ。
「もうそろそろ、ちゃんとしなきゃ!」って思って、ちゃんと出来ない場合罪悪感を感じるじゃないですか。
だからそんな時、「出来ないのが当然だ」と自分に言い聞かせてるってだけの話です。(^_^;)
>私がした経験というのは、同じようなことをしていた他の人にとっては、「自分は戦ったという良い思い出」だったりします。
そうですね、私が挙げた例でも同じですよ。大量虐殺に関わった事を誇りに生きる人もいれば、後々罪の意識にさいなまれる人もいます。
例えば日本への原爆投下に関わったアメリカ人の場合、前者が多数派でしょうね。
他にも、戦場でどれだけ殺したとか女性をレイプしたとかを、良い思い出としている人は結構居ます。
ええとね、水戸黄門知ってます? あの人も若い頃、賎民を殺してます。
112
:
春田の蛙
:2005/06/29(水) 17:40:25
始めはやめようと言ったらしいんだけど、遊び仲間から「人も斬れないのか意気地無し」みたいに言われて、
何を!って売り言葉に買い言葉で、神社の床下に逃げ込んだ人達を引きずりだして、泣いて命ごいするのを皆殺しにしたんだそうです。
年老いてから「若気の至りで無慈悲な事をした…」と語ったのを、右筆が書き留めた日記が残ってますよ、確か。
酷い話だと思いますか? けれど戦国時代の考え方が世の中に残ってる時代は、そういう雰囲気だったんです。
だって戦国の軍法なんて、行軍中におしゃべりや物を失くしても死刑なんだから。命なんて軽くて当たり前だった。
悪名高い「生類憐れみの令」も、そんな戦国の風潮に対する反動だと捉える事が出来ます。
だから水戸黄門とは違って、世の中が儒学的な考え方に染まる事を嘆いたお年寄りもいました。
「昔はよかった」ってね。いつの時代も年をとると言いますけど。
ちなみにどんな風によかったかというと、「昔は自由でよかった。
最近は身分卑しい者を捕まえて刀の試し斬りも出来ない」みたいな内容。斬られて殺される方はたまんないですよねぇ…。
そういえば、スレタイに歴史って入ってるのに、あんまり歴史ネタ振った事無かったですね。
もう少し補足しときますと、水戸黄門の時代は徳川綱吉の元禄時代、忠臣蔵もこの時代です。
尾張、紀伊、水戸徳川家を御三家と言いますが、元々は将軍家、尾張家、紀伊家が御三家です。
水戸は後から格上げされたので、他の二家より格下です。
将軍になれるのは尾張・紀伊家で、水戸家にはその資格はありません。
だから朝廷からの代々の役職も、尾張と紀伊は大納言で水戸は中納言なんですね。
この中納言にあたる中国での呼び名が黄門ですので、水戸黄門な訳です。
で、室町時代の足利将軍家でこれにあたるのが、今川家と吉良家です。足利将軍家と今川家・吉良家が御三家になるんですね。
織田信長に桶狭間で討たれた今川義元、忠臣蔵の仇役・吉良上野介はご存じでしょう。
徳川時代になって今川家と吉良家は、朝廷との交渉や殿中の儀式全般を司る高家となりました。その筆頭が、吉良上野介です。
で、先に話した水戸家の役職・中納言に関わる揉め事に、実は吉良上野介は関与しています。
黄門様と綱吉公は大変に仲が悪くて、綱吉は水戸黄門を隠居させようと考えます。
113
:
春田の蛙
:2005/06/29(水) 17:41:07
この時黄門様が言い訳に用いたのが、「自分はまだ中納言になってないから」というものでした。
中納言になるには朝廷との色々ややこしい手続きがあって、一朝一夕にはいかない。
だから、そう言えば隠居を先延ばしに出来ると考えたのです。
で、ムカついた綱吉は無理矢理朝廷から役職を下させて、「中納言にしてやったから隠居しろ」と迫ります。
この時、朝廷との交渉にあたったのが吉良上野介です。水戸黄門はご存じの通り、庶民からも人気がありました。
つまり吉良上野介は、綱吉に対する批判の矢面に立たされてしまう立場だったんです。
人々が忠臣蔵に拍手喝采した背景には、そんな様々な事情があるんですよ。
吉良上野介自身は、領民からも慕われた名君なんですけどね。(^_^;)
お上のやる事に迷惑した立場からみれば、「吉良上野介ザマミロ!」となるんです。
組織の指導で迷惑な選挙活動した結果、疎まれる学会員みたいなものかも。(^_^;)
>だから、私はささいな事を「ストレス」として感じやすい性格なのかな?、
>いつも「生きづらさ」を感じずにはいられないやっかいな奴なのかな?と思っていたんです。(というか、今もそう思っています)
同じ事をやっても、それを前向きに捉えるか後ろ向きに考えるかは人それぞれです。
学会活動で何をやらかしたとしても、平気な人は平気です。
それを善悪でどうこうは言いません。そういう人は、たぶん戦場でも勇敢でしょうし、
私やこだまさんみたいな人間が戦争に狩り出されたとしたら、そんな人よりきっと無能なんだろうなと思います。
しかし個人的な好悪を述べるなら、そういう人と友達になるより、こだまさんみたいな人の方が良いですね。
いきなり前向きになれる人より、ちゃんと後ろを向いて後悔した上で
少しずつ前向きになっていく方が…そんな心の歩みの方が、私はいとおしく感じますよ。
114
:
春田の蛙
:2005/06/29(水) 18:27:11
>きょうこさん
>最近、人間なんて、たいした生き物じゃないなぁ〜って思うんです。
>60億年ぐらい経ったら、太陽も爆発して地球も無くなるって言うし。
>(当たってるか不安…)
>どうせなら自分が心地いい時間が増えるように
>今は自分癒しにはまってます。
激しく同意です。というか、びっくりしました。私が常々考えてた事と全く同じだから。(笑)
そうなんですよ。どうせなら好きな事してる時間が、少しでも多い方が幸せですよね。
だから私も、時に徹夜でゲームしたりセーラームーン全200話を一週間で全部観たり…。
↑それはどうかと思うぞ、社会不適格者w
>私、いまやってるアニメでは「ボーボボ」が一番好きかなぁ。
>↑結構勇気のいるカミングアウトでした(;´▽`A``
え、何で?>勇気
確か週刊少年ジャンプ連載の漫画が原作ですよね。
私はアニメ観た事ないですが、別に恥ずかしいと思う必要ないと思うけど。
アニメ誌でチェックした限りですが、面白そうだなと思いましたよ。
やはり毛がボーボーだからボーボボなんでしょうか?
>その替え歌、面白い!(笑)
>「たぶん」っていうのが笑えました。
元歌は、
ケロンは宇宙一、たぶん
駅から五分は実は十五分!
です。(笑)
>無理に元気になろうとして、ご自分を追い詰めないであげて下さい。
>
>今まで、本当に頑張ってきたじゃないですか。
>辛い活動を、身を惜しまずにやってきたじゃないですか。
>怒って当然ですよ。
本当にそうですね…。活動から離れて人知れず悩んでる、全ての方にも贈ってあげたい言葉だと思いました。
>こだまさん
>あ、ケロロ軍曹、放送日を調べてみました。そのとき、これまでのお話みたいなのを読んだら面白そうだな、と思いました。
>が、すっかり見るのを忘れてました。
>ぜひ来週こそ、見てみます。シュールな曲も気になりますし・・・
アハハ、ありがとうございます。
無理に観ることありませんけれど、お気が向いたら暇つぶしにどうぞ。o(^-^)o
いや、昔は放映してるアニメみんな観てた事もあるんですが、さすがに今は無理です。(笑)
ケロロ軍曹も、放映時間が移ってからは観てませんでした。(以前は土曜日の朝10時から)
私も今週は、ひさしぶりに楽しもうと思ってます。ゲッゲロー♪
115
:
こだま
:2005/07/04(月) 11:05:58
きょうこさん、春田の蛙さん
温かいお言葉をかけていただき、本当にありがとうございました。
おかげさまでこの一週間過ごしてくることができました。心から感謝いたします。
やっと都議会選挙が終わりました。今回は全国的な応援体制で、すごい盛り上がりでした。私はすっかり冷めてましたけどね。
私の心を悩ませたのは、毎週のように実家の親から電話があり、ちゃんと活動しているかチェックされることでした。
ちゃんとF取りしているか、地区の会合に参加しているか、などなど。親も聞きにくいことなのか、用事にかこつけては、チクチクと聞いてきます。
私がすこしでもあいまいな返事をすると、犯罪でも犯したかのような声で「どうしたの?」と聞いてきます。そんな電話をやり過ごす度に落ち込む私を見て主人は「もういいかげん、お母さんから精神的に独立したら?」と言います。本当にそのとおりなんですけど、親・兄弟の反応が怖いです。親をさけたいと思うこと自体とてもつらいです。
これまで親を安心させるため、活動してるふりをしてきましたが、もうごまかしきれそうもありません。本当に気が重いです。(結局、愚痴になっちゃいました・・・)
116
:
こだま
:2005/07/04(月) 11:17:23
きのう親に言われたことは「そんな弱いこと言っててどうするの!みんな大変ななかやってんのよ、自信たっぷりで役職やってる人なんて誰もいないんだから。体調が悪い?お医者さんが言うことを真に受けて弱気になってるだけでしょ。とにかく、しらゆり長が地区に揃ってないと、地区の士気が上がらないんだから、とにかく顔だけでも出しなさい」といった趣旨のことでした。
とにかく電話を切りたい一心で、言われるままでした。何も反論できず、自分の気持ちも出せず。自分の子供が未活動家になるなんて許せないんだろうな・・・
117
:
きょうこ
:2005/07/05(火) 23:27:38
>こだまさん
上手く書けるかわかりませんが、
こだまさん、しらゆり長さんだったんですね…
辛いですよね、それは。
あぁ、私の以前の組織での立場も書きたいけど書けない(;_;)
ひとつ思ったのは、
お母様も不安なんですよね、きっと。
精神的に落ち着いていて、
冷静に子供の事を考えられるような状態だったら、
こだまさんを包み込むような言葉を掛けられたんじゃないかなぁって
思います。
お母様の不安が何なのか、
こだまさんが魔に負けている状態に見える事なのか、
組織の役職をまっとう出来ていない事への引け目なのか、
私には想像するしかなく、本当のお母様のお気持ちはわかりません。
でもこだまさんにとっては、
お辛いですよね…
>親をさけたいと思うこと自体とてもつらいです
この一行に、なんか泣けてしまいました。
私の想像ですけど、
お母様はこだまさんが退転してしまうのが怖いんではないかなぁ。
それは、お母様から見たら、
子供が不幸の道へ進んでしまうって事だから。
お母様にそう思わせてしまう団体を、
私は改めて憎いと思いますけれど。
なんか、こだまさんのお気持ちを楽に出来る言葉が
見つかりません…
ごめんなさい。
ただ、こだまさんのご家族は
こだまさんの幸せを願っていると思うのです。
本当にこだまさんが幸せを感じられる姿を見せた時に、
そのこだまさんの姿を受け入れていただける事を
心から願っています。
118
:
こだま
:2005/07/09(土) 07:29:18
きょうこさん
いつもありがとうございます。選挙以降は親からの連絡もなく、おかげさまで平穏な時を過ごせました。
私や、親の気持ちまで推し量っていただき、感謝・・・というかとても癒されました。
>私の想像ですけど、
>お母様はこだまさんが退転してしまうのが怖いんではないかなぁ。
その通りだと思います。たとえ私が非活動家になった理由を「体調」のせいだと説明したとしても、親たちのなかでは「未活動家になること=(イコール)学会組織への怨執=恩知らず、裏切り者、反逆者」みたいな構図が出来上がってるのではないかと思います。
先日、カウンセラーさんにも一連の事態を説明しました。そのときアドバイスされたことで印象的だったのが、「私自身の中に、本来の私と、学会員としての私がいる。たとえばその比率が半々だとすると、親が学会活動をしない私を責め、蔑んだとしても、私の存在全てを否定された訳ではない、まだ本来の私が半分残っているわけですから。」といったことでした。そう思うと少し心が軽くなりました。
本当は、親と子が学会員同士として親子関係を築くのではなく、それぞれが持っている「本来の私」同士で話し合いができるようになれれば理想的です。私は親が学会員としていくら理不尽なことをしたり言ったりしても、個人としての親自身のことは好きだなと思う気持ちがありますが、親の視点からみると、私と学会を切り離して考えるのは今はまだ無理かもしれません。親にとっては私個人と、学会を切り離して考えることはできず、学会員でない私というのは、親にとっては認められないものになる可能性は十分あります。
だからきょうこさんが仰った、
>本当にこだまさんが幸せを感じられる姿を見せた時に、
>そのこだまさんの姿を受け入れていただける事
ということが、時間はかかりますが、私と親との関係のためには一番の方法なのかなと思います。
あーでもやっぱり当面は、いざ親と接したらとたんに心が乱され、落ち込みそうなので、とりあえず「逃げ」に徹してみます(笑)
119
:
きょうこ
:2005/07/09(土) 20:11:30
>こだまさん
こちらこそ、いつもありがとうございます(^ー^)
>とりあえず「逃げ」に徹してみます(笑)
そうです!そうです!
なんか、安心しました。
この前に書き込んだときは、私自身もなんだか凹んでて、
なんだか役に立たない事書いちゃったなぁ〜とか思っていたので、
こだまさんが自分を追い込まないで下さった事が、
とても嬉しかったです。
カウンセラーの方のご意見も、参考になりました。
本当に、そうですよねぇ。
学会員が自分の全部じゃなくて良かった…(;_;)
なんていうか、切ないですよね。
お母様は、お子さんであるこだまさんの幸せを考えている。
なのに、そのお母様の幸せの価値観が、
こだまさんを苦しめちゃう。
時間がかかっても、いつか、こんなに苦しんだ事もあったなぁ〜って
笑い話になるといいですよね、お互いに。
(^ー^)
120
:
こだま
:2005/07/15(金) 22:40:02
きょうこさん
レス頂き、ありがとうございます。
今週は、仕事が忙しかったせいもあり、また選挙終わりでみんなのんびりしてるのか余計な接触がなく、心穏やかに過ごせました。
親との関係は少し時間をかけながら、やっていきます。むこうの出方次第では、そうのんびりとは言ってられないかもしれませんが。
たとえ親兄弟が何と言おうと、自分自身が「これが私の行き方だ」と誇りの持てる、そして自分の良心みたいなものに従って強く生きる生き方をしたいなと思います。
今は逃げたり、ごまかしたり、いろいろですが、心の中は↑のように強くありたいと思います。
121
:
春田の蛙
:2005/08/18(木) 10:08:10
あう…こだまさん、すみません。お辛い時にレスも返せなくて。
今更見当外れな内容かも知れませんが、前回幾つか書き足りない点がありましたので、そこら辺をつらつらと。
「またピントのズレたこと書いてるな〜」とでも思いながら、眺めてやって下さい。(^_^;)
>こんな私は、もし学会での活動がなかったとしても、「普通の社会生活」すらままならない、ストレスに弱い人なのではないかな・・・と。
なんて仰っておられますけど、原爆投下をネガティブな歴史と捉えてるアメリカ人を、普通じゃない弱い人と考えるならその通りかも知れません。
でも私は個人的に、原爆投下を誇りに考えてるアメリカ人とは、あまり友達にはなりたくないです。(笑)
日本人が731部隊や重慶爆撃を誇りに考えるのと同じですもん。
「南京大虐殺は無かった」とか「従軍慰安婦問題など無い」とか「アンネの日記はでっちあげ」とか「ナチスのホロコーストは嘘」なんて話を広めようとしてる人達とも、お近づきにはなりたくないなぁ。
それに例えば「普通の社会生活」の中で、リストラの退職勧告で同僚の首を切ったり、銀行に勤めて中小企業への貸し剥がしに関わった事を、
「あの時は頑張ったなぁ」と誇りにしてる人と「あの時の事は出来れば思い出したくないな…」と考えてる人、別に前者が正しくて後者は失格なんて事はないでしょ?
どちらの考えの人も実際に世の中には居ます。私は後者の方に親しみを感じますけど。(笑)
ただね、「たとえ自分が首になっても、そうした行いに手を染めるべきではなかった」みたいな正論にも、私はあんまり親しみは感じません。
それに視点を変えれば前者の人は、現実や組織のネガティブな面を受け入れたくない、立場さえ異なれば人間は容易に加害者にも被害者にもなり得るという、そんな事実を見たくない「弱い人」と見る事も出来ますよ。
だから「強い自分」を求め、「強い振る舞い」に憧れる。そしてそのように振る舞う。
自分の属する民族や国家を肯定したいあまり、歴史的事実を歪めようとする。きっとその人達には、それが自己肯定の道なんでしょう。
逆に国家や民族を否定し、そうした側に属する事が自己の思想的エリートの証と考える人も居ます。こっちもやはり歴史的事実を歪めようとします。
122
:
春田の蛙
:2005/08/18(木) 10:17:32
(続き)
前者の態度なら右翼。後者なら左翼。
けど「事実よりイデオロギーが大事」という根っ子は同じですから、喧嘩すると相手の事実誤認より人格や思想批判に夢中になって、見ていて愉快です。(笑)
創価が世の中の「全ての幸福の源」と考えるのが前者で、「不幸全ての源」と言い切るのが後者とも言えますね。
過去を一段高い所から責めまくる事で、「自分」を「現実」から切り放す振る舞いも、やっぱり一種の「現実逃避」です。
心の傷から立ち直る過程では、確かにそうした逃避も必要ですけど
――だから創価学会の被害に遭われた方が過度の批判に踏み込んだってそれは仕方ないんですが。元々悪いのは学会だし――
けれど、そうした態度は「立ち直る過程」であって「立ち直った結果」ではないでしょう。
ですから先の大戦の傷痕から立ち直る過程で、日本自体の全否定に世の中が振れたのは、
脱会された方の多くが、信仰それ自体を含めた創価学会の全否定を考えるのとある意味同じでしょう。
当時を自虐と切り捨てるのは些か酷であって、それは心の傷痕の深さ故です。
原爆投下の罪を背負って、だからこそ平和や核兵器反対を訴えたアインシュタインやオッペンハイマーは、「弱い人」だと思いますか? 私は、とても勇気のいる態度だと思うんですけど。
きっとその勇気の分、ご本人の葛藤や辛さは倍だったと思います。こだまさんと同じように。
こういう「強さ」って、当人は苦しいばかりで報われませんよね。
でも、そうした人が居て下さるから、私みたいな悪党でも人間に希望が持てるんです。
私なんかが自分の内面だけ見てたら、とても人間って素晴らしいとは思えませんもん。(苦笑)
アニメ監督の宮崎駿さんは、軍需工場のお坊っちゃんでした。
工場の人達は掛け値無しに素晴らしい人達だった。でも、そこから産み出されるのは戦争の道具。これは一面の真実です。
「紅の豚」には、そんな宮崎監督の郷愁と、戦闘機やそれを整備し組み立てる人達への愛、そして反戦の思いが表れています。
そのお気持ちの中に、否定しなければならないものなんてひとつもないと、私は思います。
きちんと割りきって矛盾の無い考えを持つ事が、さほど素晴らしい事とは私には思えません。
様々な気持ちを同時に抱える事が出来るのが、むしろ人間の心の深さであり、人間性の奥行きだと思います。
その心の深さ故の苦しみを、私は見下したり切り捨てたりしたくないです。
123
:
耳猫
:2005/09/20(火) 22:06:02
ガンダムについて書こうとして、こっちのスレの方が趣旨に合うかなあ、
と考えて移動しました。
(でも、前のレスとあまり整合性がない・・・かもしれない・・・)
といっても、先月の下旬頃の「ガンダム特番」で、映画の一作目?を観ただけです。
小さいころは、
「がんだむ、って何?」
くらいの子どもで、大きくなってからも、
「でかいロボットみたいなのに人が入って戦う」
程度の認識しかなく、ナニソレオモシロイノ?などと、超失礼なことを考えておりました。
(もちろん、実際に観て、認識を改めましてございます)
それがなぜ観る気になったかというと、たまたまTVを付けたら、
SF風のコスプレをしたイタいおじさん・・・・じゃなくて、アムロの声の声優さんですね、
が映っていて、なんだこりゃあ、おっ、ガンダムの特番なのか、そういえば、ーー
<それを去ること数日前、友人とカラオケに行ったのですね。
で、誰かがガンダムの主題歌を歌ったのです。
すると、友人二名が画面に見入りながら、なにかよくわからないことを呟きだしたので、
「おうおう、なにぶつぶつ言ってやんでぃ」
と訊いたら、なんのことはない、映し出されてる場面の、セリフを実演していたのです。
へぇ〜、そんなに面白いの?と訊いたら、
「うん」
と力強い返事が。それが頭に残ってたのですね>
ーーなことがあったのを思い出し、とりあえず観てみることにしました。
全くの初心者ですので、主人公の名前も、「安室・怜」みたいに勝手に脳内変換してて、
あッ、「アムロ」が名前で、「レイ」が名字なんだ、
とお父さんのレイ博士が出て来てからようやく気付くありさまでした。
(あのお父さんって、宇宙ステーションの外に放り出されて(?)、結局それっきりなんですね・・・うう・・・)
それで、いよいよアムロがガンダムに乗って、ぶっちぎりで強いのかな、と思いきや、
初めは操作方法もよくわからないし、エネルギーはすぐ切れるし、
しかも本人が乗るの嫌とか言い出すし、先入観をことごとく裏切ってくれたので、
食いついて見てしまいましたよ。
そもそも、
「なんで少年にあんな責任重いこと(重大局面の戦闘)させるのか?」
と、漠然とした疑問があったのですが、
「戦える大人がみんな死んじゃったから」
だったのですね。
いわば、いま世界の紛争地域で問題視されてる、「少年兵」だったのか、アムロって。
アムロが、
「いつのまにか戦わされてる」
と呟いてたりする場面がけっこうこたえました。
(しかもお母さんには、「あんな子じゃなかったのにぃ」とか泣かれるしね)
映像としては、宇宙空間のザク(?)との戦闘シーンで、
ぐりり〜ん、とお互いにモバイルスーツごと回転したりするところに、なんだか浮遊感を覚えました。
うん、面白かったです。あと、初心者なので、名前や事柄を間違ってたら、すみませんです。
124
:
春田の蛙@今回暴走
:2005/11/07(月) 23:58:28
よーし、いよいよ楽しみにしてたレスを書くぞ。
今更書いても、誰にも相手して貰えないかもだが。(涙)
耳猫さん、嬉しいネタをありがとうーーーー!!!
いやまぁ、メアド欄に入れた私のメールアドレス見て貰えば分かりますが、こゆネタは好きです♪
しかも!!はぢめてのガンダム体験と言うぢゃありませんか!!!
もう大歓迎です!
ガンダムのヲタクの事を略してガノタなんて呼んだりしますが、
そういう人達が、どれほど耳猫さんみたいな話をしてくれる人を、探し求めてるか…
いやいや、ガンダム好きのご友人方から、ちやほやされたであろう耳猫さんが、目に浮かびます。(じーん…)
(――いや、良いけどな。
もしかして耳猫さんは、ちょっとしたお義理か付き合いの気持ちで、
アニメ好きの蛙向けの記事書いてくれただけじゃないか?
えらくイタい感じで盛り上がってるがw)
う……そうかも。(くすん)
とと、気を取り直して。
ところで耳猫さん、私そのTVスペシャル見逃したんですよー。衛星第2でしたよね、確か。
禿げた押しの強そうなご老体も、番組に出てませんでしたか?
その人が、監督の富野由悠季(喜幸)さんです。
ガンダムの主題歌などで作詞が井萩麟ってなってるのは、実は監督のペンネームです。
まぁ、アニメの監督さんには、自分で作詞作曲して、さらに歌った(!)ツワモノも居ますけどね。(笑)
作曲といってもオタマジャクシ書けないので、テープに吹き込んで作曲家のとこに持ち込み、原曲という形で仕上げて貰ったそうですが。
作曲家さんは、大変困ったそうです。
「うー」やら「らら〜♪」やら入ったテープ聴かされて。
(※何てアニメとは言いませんがベターマンてアニメですw)
まぁこの作曲家さんは、ゲームのプロデューサーが書いたドシロウトな詞に、散々曲付けさせられたりもなさってますから(※何てゲームとは言いませんがサクラ大戦てゲームですw)、この程度は…どうなんだろ?(汗)
アムロ役の声優さん、御覧になられたんですね。
古谷徹さんは、カーグラフィックTVのナレーションやっておられたり、チキンラーメンのCMで叫ぶトコ担当されたりしてます。
プログラムなんかも、ご趣味で手掛けられてますね。
125
:
春田の蛙@続き
:2005/11/08(火) 00:00:24
むかーし、イベントにゲストで来られた時、ご本人を生で拝見した事がありますが、耳猫さんがTVで御覧になったであろう通りのノリの方でした。(笑)
真面目に言うとファンサービスだと思いますけれど。その時も会場はすごく盛り上がりましたから。
ガンダムのクイズ大会があって、賞品に古谷徹さんと、もう一方ゲストでお見えだった塩沢兼人さん(故人)に握手して貰えたのが、アニメ好きの私には大切な思い出ですね…。
同時に頂いたサインを後々失くしたのが、もう痛恨の痛手で…アムロ風に言えば、
「ボクは…取り返しのつかない事をしてしまった…。サインを…失くしてしまった」
って感じの。ちなみに映画完結にあたる「めぐりあい宇宙(そら)」でララァを喪った時の台詞ですが。
塩沢さんが故人なだけに、ホントに洒落にならない。(鬱)
でも耳猫さんの感想を読ませて頂いて、やっぱりガンダムは面白いんだなと思いました。
画も、今から見れば古いでしょうが、今の時代に観るからこその新鮮さもあると思うと、正直羨ましいです。
いやマジで、今まで観たアニメや漫画の記憶が無くなれば、一からまた新鮮な気持ちで楽しめておトクだなんて、おバカなこと考えたりします。(^^
子供が主人公な理由ですが、企画上の理由としては、ロボットアニメを当時、
主に見ていた視聴者の年齢に近付ける事で、親近感を持たせ、玩具の購買意欲に結び付けたい狙いだと思います。
それ以前の、例えばマジンガーZなどにも、主人公を兄貴分として慕う子供が出てきたりしてました。
最近の、勇者王ガオガイガーなどでは、スポンサー向けの主人公と、作品上の主人公が分かれていると思える描写があります。
小学生の、実は正体が宇宙人の男の子と、ちゃんと成人男性の主人公が居る訳ですが、ロボットに乗って闘ったりするのは大人がやる訳です。
この辺りをきちんと工夫した作品は、やはりアニメとしても、知恵を絞っただけあって面白く出来上がりますね。
ガンダムに出てくる「ニュータイプ」も、少年少女兵が大人より活躍する描写に、必然性を与えるための設定ですし、
ガンダムTV放映の第一話タイトルは「ガンダム、大地にたつ」なのですが、これは当時、宇宙から作品の舞台が始まるのが斬新だったため、
スポンサーに難色を示されないよう、地球が舞台の作品に思わせるためだったそうです。
126
:
春田の蛙@〆
:2005/11/08(火) 00:08:21
いろいろな事情と折り合いつけながら、作品に面白さと説得力を持たせるのは大変ですね。(^^
ガンダムで、戦争に人型兵器のモビルスーツを使うのは、あの世界にはミノフスキー粒子というのがあって、
これが電子機器を妨害する訳です。だから有視界、つまり基本的には見えてる範囲で戦う事になる。
で、ああいう「おっきな歩兵」を使う事になったんですね。あと宇宙では、手足をぶんまわせば推進剤を使わなくても、姿勢が制御できる。(この設定をAMBACと呼びます。)
まぁ、こじつけや後付けの設定ですけどね。ロボットが戦う世界観をハードに見せるための。(^^
モビルスーツという名前にも、後で意味の設定がついたんですよ。
「Mobile SUIT = Mobile Space Utility Instruments Tactical(戦術宇宙汎用機器)」って。
たぶん元々は、西洋の甲冑あるでしょう? あれをスーツアーマーと呼ぶんです。
スート オブ アーマーの略なんですが、その辺りの語感からついた名前なんじゃないかなぁと、想像してます。
名前と言えば、アムロ・レイですが、漢字を当てはめたガンダムのリメイク企画も、確か数年前にありましたよ。
本編でもハヤト・コバヤシとかカイ・シデンとか日本系の名前のキャラは結構居ますし、マ・クベのマは馬で中国系のキャラですから。
有名なチェロ奏者でヨーヨー・マって方がいらっしゃいますが、あのマです。
伝統的には回教、つまりイスラム系の中国名でもありますけどね、マホメットのマですから。
と、そろそろ(とっくにか?)耳猫さんが「いつまで続くんだろこのレス…」と呆れられる頃だと思うので、この辺で。(汗)
ちなみにアムロは、お父さんと後に再会します。
けれど宇宙に投げ出され酸素欠乏症で脳をやられてしまっていて…という展開です。(T_T)
では長々と失礼しました。(^o^)/
このスレに限らず、今後も気の向いた時ご都合のよろしい範囲で、マターリ気長にお付き合い頂けますと嬉しいです。
そうそう、アニメで戦争を扱った作品と言えば、私はクレヨンしんちゃんの映画もオススメです。
オススメな点は↓の通りですので、もし興味が持てるようでしたら、そのうちいつか、機会がある時にでもどうぞ。(^^
http://kibounokaze.hp.infoseek.co.jp/kuresin.html
127
:
耳猫
:2005/11/09(水) 20:29:59
こんちは、蛙さん。
はっ、いまさらのように自分のまちがいに気付きました。
モビルスーツであって、モバイルスーツ(これじゃあ「携帯スーツ」ですね〜)ではないですね(照)
う〜んとね、私は映画の第一作が終わった時点で寝てしまいましたので、
監督の富野さんもその特番に出てらっしゃたのか、わかんないですね。
監督さんが作詞もされてらっしゃるんですね。といっても、私はガンダムの歌って、例の
♪燃えあがれ 燃えあがれ 燃えあがれ ガンダム
しか知らないのです。。。
しかし鼻歌から楽譜をおこす作曲家の人ってすごいですね。さすがプロ!ですね。
以前のレスに書いた私の友人たちなんですが、あとで聞いたら、
真性のガンヲタさんは二人のうち一人だけで、
もう一人は営業先でお客さんと会話するきっかけづくりのために
ガンダムを勉強(?)してるんだそうです。
塩沢兼人さんのサインなくしちゃったのは、かなり痛恨事ですね。
たしか北斗の拳で、レイの役してた声優さんですよね。実は子どもの頃、彼の
ヒョオォ〜ッ、シャオォォゥーー!!
にやられまくっていました(笑)かっこよかったなあ、ホント。
ガンダムにもご出演されてたんですね。若くして亡くなられて、本当に惜しいですよね。
>あの世界にはミノフスキー粒子というのがあって、
あ、そうだったんですか。実は、
(こんな局地戦しなくても、爆弾落としたら一発ですむじゃないか。
あ、そしたら話も一発で終わりだな)
とか甚だ散文的なことを考えておりました。
そういう設定がちゃんとなされてるんですね。
子どもが戦うのにも、親近感もたせるマーケティング戦略みたいのが背景にあるわけなんですね。
今度例の友人が、二作目と三作目の映画のビデオを貸してくれるとか言ってましたので、
見たら感想文を書いておきますね。
>画も、今から見れば古いでしょうが、
画は、私はむしろ昔の作品のほうが馴染みやすいですね。
最近のは、なんだかカクカクして見えるんです。
>そうそう、アニメで戦争を扱った作品と言えば、私はクレヨンしんちゃんの映画もオススメです。
クレヨンしんちゃん(実は見たことない)で戦争ものがオススメなんですか!?
なんか意外な取り合わせですね。TV放映されたら見てみますね。
128
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/19(月) 08:11:21
>こんちは、蛙さん。
どもです。いやぁ寒い!寒すぎますね、今年の師走は。
何なんでしょうか、一体。暖冬とかいう予報は何処へいったんでしょうね。
>♪燃えあがれ 燃えあがれ 燃えあがれ ガンダム
>
>しか知らないのです。。。
それです!あとエンディングの
♪アムロ〜アムロ〜振り向かないーで〜
も監督の作詞です。
富野監督の作詞した歌では、「戦闘メカ ザブングル」のエンディングも、なかなか身も蓋もなくて好きです。
もしも、夢があるのなら
捨てよう、今は辛いから
明日の命を繋ぐため
今日という日が消えていく
人間、ギリギリのところではまず生きなきゃダメだと。
生き延びて、運よく生命が明日に繋がったら、その時は夢も語ろうよという、実は前向きな歌です。
いや、そういう生活の体験あるので、身に染みて。(笑)
そういうギリギリの時には、どれだけ希望や夢を語られても、救いにはなりませんからね。
>しかし鼻歌から楽譜をおこす作曲家の人ってすごいですね。さすがプロ!ですね。
うんうん、ですよね〜。
この作曲家さんは田中公平さんという方で、
その作品をファンは尊敬を込めて「公平節」なんて呼んだりする、
その筋では一目置かれている方です。
ちなみに「川井節」という呼び名もありまして、こちらは作曲家の川井憲二さんを指します。
お二人は作風も対照的で、田中公平さんは、無数の引き出しを持つ曲のデパート、
川井憲二さんは、広大なひとつの引き出しを持つ、曲の専門店て感じかな。
こう言われても「なんのこっちゃ?」だと思いますけど、
実際にお二人の作品を聴かれると、「ああ、なるほど確かに(笑)」って判ります。
129
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/19(月) 08:11:50
川井憲二さんは、「機動警察パトレイバー」や「イノセンス」で有名ですが、おバカで間の抜けた曲も大変得意とされていて、
シリアスな曲ばかりの仕事が続くと、そういう曲が作りたくなって仕方がないそうです。
その「おバカ系」の代表作が「究極超人あーる」という作品でして、
これの主人公・アンドロイドのあーる君は、塩沢兼人さんの代表作でもあります。
もう、あーる君は塩沢さん以外有り得ないってくらい。
ですから、カッコいい二枚目からおバカな癒し系まで、ホントに芸風の広い方でしたねぇ……
>たしか北斗の拳で、レイの役してた声優さんですよね。実は子どもの頃、彼の
>
>ヒョオォ〜ッ、シャオォォゥーー!!
>
>にやられまくっていました(笑)かっこよかったなあ、ホント。
おおぅ、耳猫さんもファンだったとは、嬉しいですね。
私も本っ当ーーーに大好きな声優さんでした…
ご本人は、ホントに暖かな雰囲気の方で、お人柄の厚みと温もりを感じさせる、素敵な方だったです。
お会いできた事は、私にとって、とても大切な思い出ですね…。
>ガンダムにもご出演されてたんですね。若くして亡くなられて、本当に惜しいですよね。
うん、マ・クベって役でね。TV版のガンダムでは、ギャンてモビルスーツに乗って、
アムロにやられて、「キシリア閣下に…あの壺をお届けしてくれよ、あれは、良い壺だ」っとか言いながら死ぬの。(笑)
ガンダムの中でも一、二を争う迷台詞で、イベントの時に生で聞けたのは感動したなぁ。もう場内大爆笑!
ちなみに古谷さんは、アムロの「ぶったね!親父にも殴られたことないのに!」を演って下さって、これまた大ウケでした。(^^
>画は、私はむしろ昔の作品のほうが馴染みやすいですね。
>最近のは、なんだかカクカクして見えるんです。
あー、ひょっとすると、セル画が廃止された事と関係あるかもしれませんね。
今でも在庫のセルを使って、手塗りで仕上げる作品はあるみたいですが、
現在は紙に書いた絵をスキャナーで取り込んで、モニター上で彩色するのが普通ですから。
セルは透過物、モニターは発光物なので、
セルだと、普通に背景と重ねても馴染んだ色が、
モニター上だと浮いたりする事があるみたいです。
130
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/19(月) 08:12:22
色数自体は、セル画時代とは比較にならない程増えたんですが(実質無制限)、
使ってる絵の具の種類や数という、物理的な制限から生じた、
それぞれのスタジオの個性も薄れたそうで、情報や道具の制約が無くなったことによる自由が、
返って個性を無くさせていく不思議さですね。アニメの世界に限りませんが。
とは言え、例えば夕陽の逆光の中話す二人(「ふたりはプリキュア」って作品で、主人公二人がわがたまりをぶつけあい、
少し距離が近付いてそれまでの名字から名前で呼びあう友達になる、という回で使われてました)
なんてシーンでは、むしろセルだと表情描くのが難しくて(完全に人物をシルエットにする場合が多い)、
こういうのは、セルが廃止された今だからこその表現だと思います。
ですから、情報や道具といった物理的な格差がなくなって、
その新しい自由の中から試行錯誤の手探りで編み出されたものが、次の時代の個性かつ制約になっていく。
それが、一つひとつの時代の、それぞれの一区切りなんじゃないかと思いますよ。
>クレヨンしんちゃん(実は見たことない)で戦争ものがオススメなんですか!?
ええ、「アッパレ戦国大決戦」という作品です。
何度かTV放映もされてると思うので、その内機会があって気が向いたら、ご覧になってみて下さい。(^^
131
:
ひゃっきまる
:2005/12/26(月) 05:31:30
小人さん理論と脳の話を追っていたのですが、いつの間にかガンダムの話に?
最近の号だったと思うのですが、日経サイエンスの記事に、たった一個の神経細胞に「おばあちゃん」とか「リンゴ」とかいう個人を特定する認識や抽象的概念がピンポイントで割り当てられている、というような驚くべき話が載っていたと思います。
僕はそれまで、神経細胞というのは一つでは意味を持たず、そのつながり方、ネットワークにこそ、その総体が脳として働くための秘密があるはずだ、と思っていたので、この新説には度肝を抜かれました。まだまだ脳科学は未知なのですね。
132
:
ひゃっきまる
:2005/12/26(月) 05:32:18
小人さんの話ですが、無限後退を防ぐためには、まず「意識の座」を定義してやらねばならないのですよね。確かデカルトは、人間にだけ魂(自我)が宿る器官があると主張していたのだと思います。でもこれでは「見る」主体を魂という不可知なもので終点にしたに過ぎなく、無限後退を本当に解決したことにはなりませんよね・・・。
僕も昔、「自我」翻って「主観」ってなんなのだろう? とすごく考えたことがありました。なぜ、僕は、僕という人間の視点しか持っていなくて、他の人ではなかったのだろう?と。突き詰めて考えて、実はこの世界には僕の意識しか存在していなくて、他の人の意識は存在していないのではないか、などと考えたこともありました。僕の意識が世界の全てを生み出しているのではないか、と・・・。
心理学の言葉で何と言ったか忘れましたが、現実の非実在性を感じる現象があるらしいですね。古くは胡蝶の夢とか。ダークシティ、マトリックスなどはそのテーマの変形でしょうか。手塚治虫や藤子・F・不二夫の短編に、タイトルは忘れましたがそのものズバリの話があったと思います。この系統の話は個人的に好きです。
133
:
ひゃっきまる
:2005/12/26(月) 05:32:51
閑話休題。脳が神経細胞の集まりでできているというのはたぶん間違いないのでしょうが、それらが集まったものでどうして精神活動ができるのか、というのは結局僕にはピンときません。
外界刺激->処理->反射行動 というユニットが複雑に多層的に組み合わさっている、という考え方で、自我や精神にまでいきつくのでしょうか。
コンピューターであればこれで説明可能そうです。キーボードへの入力(外界刺激)に対し、CPUが処理し、ディスプレイに文字を表示する(反射行動)っていう。
脳の場合はもう少し複雑で、「外界刺激->処理->反射行動」のサイクルを脳の内部だけで繰り返し行える、と考えればよさそう。つまり、ある刺激に対する反射が、そのまま次のサイクルの刺激(この場合は外界からの刺激ではないけれど)になり、外界への反射行動をとらずにいくらでも脳内でサイクルを繰り返せると。
134
:
ひゃっきまる
:2005/12/26(月) 05:33:25
ただ、これでも結局「自我って何?」という問題は残ってしまいます。外界を認識する主体であり、自由意志を働かせる主体って、神経細胞ではどう説明できるんだろう? 「刺激->処理->反射」を組み合わせれば、どんな複雑な行動もとらせることが可能かもしれないけれど、これはある種の「決定論」ですよね。コンピューターが、同じ刺激(入力)に対して必ず同じ反射(出力)をとるように、ここに「自由意志」が介在する余地はありません。
フランシス・クリックは、人間には自由意志などなくて、自由意志があると思い込んでいるだけだという主張をしていたと思います。この場合、「コップを置こうとする」行為がまず出力されてきて、その後に「コップを置こうと思う」ことが頭に浮かび、頭に浮かんでいることを我々は自分で決定したと思い込んでいるけれども、実はそれは何か自我のような主体がそれを決定したのではなくて、すでに決定して出力されたことが頭に浮かんでいるだけだってことになります。
135
:
ひゃっきまる
:2005/12/26(月) 05:34:06
人間に自由意志はないのか。それはそれで今のところ認めるとして、では、「外界を認識する主体」はなんだろう、という疑問はまだ解決されていません。「思う」というのはそういう主体があることを前提とした表現ですよね・・・。
もうここで行き詰って結局分からないのですが、一応予想を述べれば、その主体、というのは記憶に関係あるのではないかと思っています。
解離性同一性障害、俗に言う多重人格症は、その定義が記憶が連続しているかどうかで判断されると聞いたことがありますが、「一個の人格」つまり僕らが主体と考えているものも全く同じ定義を適用できるように思います。
136
:
ひゃっきまる
:2005/12/26(月) 05:34:33
ところでCDやHDの記録っていうのは物理的な穴や磁場だったりするわけですが、ファミコンカセットのROMはどういう形でセーブデータを持っているのでしょうか? 昔から不思議だったのですが。
137
:
salam
◆.P18/mYapQ
:2006/01/05(木) 08:19:12
ひゃっきまるさん、お久しぶりです。salamですm(__)m
久々にネットに繋げて、色々と読み漁ってました。懐かしい方々が集まってますね〜。
ご自身もお悩みのようですが、蛙さんはじめ色んな方とのお話で焦らず考えておられるご様子。ちょっと安心しました。
>僕も昔、「自我」翻って「主観」ってなんなのだろう? とすごく考えたことがありました。
>なぜ、僕は、僕という人間の視点しか持っていなくて、他の人ではなかったのだろう?と。
>突き詰めて考えて、実はこの世界には僕の意識しか存在していなくて、他の人の意識は存在していないのではないか、などと考えたこともありました。
>僕の意識が世界の全てを生み出しているのではないか、と・・・。
オレも全く同じ考えを考えたことがありました。
なので、ちょっとレスを付けさせてもらいました。
その頃夢で、教室で勉強している自分を天井辺りから眺めている自分がいる、という内容のものを
何回も見た記憶もあります。そうそう、夢だけでなく、友達と冗談をいいながらふと、その時の視線の位置を
自分で意識して、馬鹿笑いしてる自分を空々しく眺めてる感覚にとらわれた事も・・・。
これって、自己と他者との認識がされ始めた、つまり自我の芽生えの時期だったように今は思えます。
また、自分の手を眺めて、この手と自分が普段眺めている人の手と、同じ動きをするものなのに
自分と他人という一点で全く違う世界の存在のような気がして、ふと不思議に思ったことも。
そして、同じ感覚を持ちながら、友人はオレの手を眺め、自分の手を眺めているのだろうか、なんてことも・・・。
発達心理では、自己に対する客観性と他者への意識を持たなければアイデンティティを獲得できないとされています。
それは大脳皮質の存在によって可能であると学生時代に教わりましたが、もしかしたらそうではないのかもしれませんね。
例えば、昆虫だって集団生活を営み、社会性ある生活を送っていますから、他者を認識しているとも考えられますが、
「自我」となれば、自分以外の存在がある、と言うだけでは足りず、自分を自分で認識し、かつ、どのような
ものであるのか、自分を客観視しようとするところまで必要ですよね。
そうすると、外界を認識し、自由意志を働かせるだけでは足りないんではないでしょうか。
「自己決定」ということについて、感情あるいは外界の刺激だけで反射的・受動的に行動決定している
だけでは足りず、そこに自分を客観視し、それを踏まえて行動決定することまで含むかと。。。
・・・ここまで考えて、さて、ではコンピューターやロボットが非常に高度にこのような自己決定を行える
ようになったら、それは「自我」と呼べるものなのかどうか。
手塚治の「火の鳥」には、人類の全ての歴史・情報を持つマザーコンピューターに意思決定される未来が描かれていたものがあった
ように記憶してますが、過去の情報だけで全てを決定できるものなのかどうか。。。
「考える主体とは?」という話からズレちゃいましたね。
勉強した事はないのでわかりませんが、「解離性同一性障害」は今おかれている自己への客観視(例えば虐待を理不尽に受けている
自分)に耐え切れなくなった時、記憶とともに別の存在として切り離すことから起こると見聞きしたように思います。
記憶が欠けることで「主体」が保てなくなるのでなく、客観視した時の自己の「主体」を一つに保つことができなくなって
記憶を切り離すのではないかなぁ、と。「心」によって主体が形成されているともいえるのかも、とも思えますがどうでしょうね。
「心」はどこにあるんだ?となると、さぱーりわかりませんが(笑)。
138
:
ひゃっきまる
:2006/01/12(木) 02:39:12
>>137
salamさん
どうもお久しぶりでございます。あけましておめでとうございます。
気にかけていただいて大変ありがたく思います。
>オレも全く同じ考えを考えたことがありました。
やっぱりみんな似たような体験するんですね。別スレで書いたジョン・ホーガンもそうですし、デカルトのコギト・・・もこのような体験が原点なんじゃないかと思います。
ちょっと本棚の奥からフランシス・クリックの「DNAに魂はあるか」(1994)取り出してきたんで、読んでみようと思います。
139
:
乾闥婆
:2006/01/20(金) 22:14:21
ひゃっきまるさん、salamさん。
いま茂木健一郎の『脳と仮想』(新潮社)を読んでいるのですが、お二人の話題に近いようなので、お勧めします。あまり専門性は高くなく、エッセイのような本ですけれど。結局、人間の意識は「もの自体」には絶対にたどり着けない、もちろん「他者の心」にも触れることはできない、すべて脳内現象であり、仮想である、といった内容です。
140
:
ひゃっきまる
:2006/01/20(金) 23:42:11
>乾さん
お久しぶりです。本の紹介ありがとうございます。僕も最近の本で紹介しておきます。
まだ読んでいないのですが、蛙さんが前に言っていた、コップを置こうとする行為と置こうと思うこととどちらが先なのか、に関する実験を実際に行った研究者自身による著書のようです。
「マインド・タイム 脳と意識の時間」
ベンジャミン・リベット著
岩波書店 2835円
141
:
ひゃっきまる
:2006/01/25(水) 23:55:17
日経サイエンス3月号に、
自己の神経生物学 「私」は脳のどこにいるのか
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0603/self.html
という記事が載ってますね。
142
:
salam
◆.P18/mYapQ
:2006/01/28(土) 15:29:42
>ひゃっきまるさん、乾さん
お二人とも読書家なんですね。俺は最近まともに本を読んでませんので、何も紹介出来る本がありませんが、教えていただいた本はそのうち見つけて見たいと思います。
日経サイエンスの紹介記事はなかなか興味深いですね。
神経生物学から自己を探ろうとしているとは。
「自己」「自我」それぞれ学問分野で定義が若干違うようですが、それも統合された見解になっていくんでしょうか。
生きているうちにどこまで進むのかな。
143
:
ひゃっきまる
:2006/01/28(土) 16:55:56
>>142
salamさん
お久しぶりです。
興味だけはあるのですがあまり本は読めていません。読み始めると一気に読まないと前に読んだ内容を忘れてしまう性質なので、何度も初めの方だけ読み返した本とかがたまっていきます…。
自己(self)と自我(ego)の概念をはじめに使い分けようとしたのはユングだったように思います。
どうも、神経科学やサル学などで明かされていく「自分」に関する概念は、心理学や哲学での見解と切り離して考えたほうがよさそうですね。
ただ、フロイトの理論に関する以下のような興味深い話もあります。
どちらも面白い記事でした。
よみがえるフロイト
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0408/freud_1.html
フロイト再来の悪夢
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0408/freud_2.html
144
:
殿舎男@秋葉系
:2006/07/14(金) 02:06:26
内向的性格とか外向的性格とか色々あったような気がする。
たしか12ぐらいの性格の種類があったような
145
:
ひゃっきまる
:2006/08/03(木) 23:51:41
>殿舎男さん
内向的、外向的ってのはユング派の話だから、性格の種類ってのは、
感情・理性・感覚・直感 X 内向・外向
の8タイプのことですかね?
146
:
殿舎男
:2006/10/02(月) 23:14:00
たしかそんな感じだったような気がします。 (うろ覚え
全部で16パターンだとすれば4つの選択肢があることになるのか、、
147
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:05:20
以前に2chの某スレッドでレスを頂いた時にもお約束した内容ですけど、
大変遅くなって今更ですが、書いておきます。
駄文ですが、少しばかりのお役に立てるなら嬉しいです。
時折、この界隈では宗教問題に絡み、科学哲学の話題に飛び火する事があります。
創価学会をはじめ、「自分たちの主張が科学的にも正しい」と言いたがる団体やグループ、個人が多いせいでしょう。
そこで科学哲学の分野から、特にこうした「科学か?科学でないのか?」という線引きの問題。
境界設定問題と言われていますが、この線引き問題について、ごくごく基本的な事になりますが、まとめておく事にしました。
これは、もう一つ良く問題になる「カルトか?カルトでないのか?」という話題にも、冷静に接する上で役に立つと思います。
また以下に述べる内容は、以前に2chのスレッドでも紹介しましたが、
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)の内容に、多くを依っています。
本書は非常に分かり易く、優れた科学哲学入門の教科書ですので、
出来れば私の浅薄な説明などに満足されず、あくまで興味の入り口として、
これから皆様がこうした本を、お手に取るきっかけになればと、希望しています。m(__)m
閑話休題。ここで、カルトという言葉についても、よく誤解されているので、説明が必要でしょうね。
これについては、宗教学者の浅見定雄さんが詳しく解説されているので、
その著書「なぜカルト宗教は生まれるのか」(日本基督教団出版局)の内容に沿って、説明していきましょう。
カルトの語源は「耕す」という意味のcolereから来ています。culture(文化)と語源は同じで、
これがラテン語のcultusとなり、後にドイツ語のKultやフランス語のculte、そして英語のcultとなりました。
これに、後にアメリカ英語で、今日この界隈で言われがちな悪い意味の「カルト」という用法も
加わっていきますが、元来は、全くそのような悪い意味の言葉ではありません。
元々は、宗教という抽象名詞の具体的な営みの部分、神々への崇拝を指す言葉です。
ここから、芸能人やスポーツ選手への崇拝、映画や様々な文化の人気に対しても使われるようになりました。
野球選手の人気を指してイチローカルトとか、カルトムービー、日本語でも「カルト的人気」なんて表現があります。
148
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:06:16
(続き)
例えば「と学会」の本などを見ると、この辺りの事を踏まえた上で、
前後の文脈で判断する書き方がしてあって、知らずに読まれる方は混乱する場合があるかも知れませんね。
文脈からは「カルト的な人気」とか「カルトムービー」という場合はカルトの元々の意味、
カルトの教祖とか、UFOカルトといった場合は悪い意味の場合が多いようですが、
後者も単に「地方の小規模かつ熱狂的な団体」程度の意味で、カルトと呼ぶ場合もあります。
これらはどの用法の場合でも、言葉の使い方として間違いな訳ではありません。
文章や文脈から、その意図を読むという普通の事さえしていれば、あまり問題もないのですが、
変に聞きかじりの知識にこだわっていると、正しい事を言ってるつもりで
実は世間知らずだった、という事になりますから、落とし穴があるとしたらそこでしょうか。
ちなみに、私が創価学会を指して言う場合は、大抵の場合悪い意味で使ってます。(笑)
さて、そこでその「悪い意味」の根拠です。ここから、ちょっと科学哲学の話にも繋がってきます。
以前に◆Bwr5tJDUMcさんにも申し上げましたが、この界隈でカルトと言う場合、私は現代的な意味で
カルトという言葉を使っています。その根拠として役立つのが、以下のようなチェックリストです。
http://www.jscpr.org/GHI/index.html
↑このようなチェックリストについて、「専門家が作ったんだから正しいんだろう」と
思考を放棄する前に、ちょっと立ち止まってその意味を考えてみましょう。
このチェックリストですが、これも一種の線引きですよね。ある集団を判断する場合の。
では、具体的には「どこで」線を引いているんでしょうか?
この線引きについて、「線を引かずに線引き問題を解決する」というのが、
前掲の「疑似科学と科学の哲学」という本に書かれている内容の、大きなテーマでもあります。
149
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:08:32
(続き)
このテーマを示すのに的確な事例として、本書ではハゲ頭論法というのが使われています。
> 前提1:はげでない人から髪を1本抜いてもはげにはならない。
> 前提2:髪が10000本ある人ははげではない。
> 前提1は直観的にはだれでも認めるだろう。たかが髪の毛1本の差ではげかはげでないかが決まるはずがない。
> 前提2も本数を十分多く設定すれば,だれでも認めるはずである…(中略)…しかし,これら二つを認めると,髪がゼロ本でもはげではないという結論がみちびける
> (前提1と2から「髪が9999本ある人ははげではない」という結論が導けて,さらにそこに前提1を再適用すると
> 「髪が9998本ある人ははげではない」という結論が導けて,……以下同じ)。
> この議論のどこがおかしいのかについては哲学者の間でもいろいろ論争があるところだが,
> すくなくとも「何かおかしい」ということについてはだれもが一致する。
> はげとはげでない人の間の関係は「明確な線は引けないけれども差がある」ことのわかりやすい例である。
「疑似科学と科学の哲学」 伊勢田哲治 (名古屋大学出版会)
簡単に述べるなら、ハゲとハゲでない人の間に、明確に、
『髪の毛何本以上ならハゲではない』という線は引けないですよね?
しかし、明確に線は引けないけれども、やっぱりハゲかハゲでないかには、ハッキリ差があります。
疑似科学批判で有名な科学ジャーナリストのマーティン・ガードナーも、よくそうした表現を使います。
> もちろん、区別がむずかしいボーダーラインのケースはいつもあるだろうが、
> 黒色がさまざまな灰色の段階を経て白色に移るという事実は、
> 黒色と白色の区別がむずかしいことを意味するものではないのである。
マーティン・ガードナーの著書、「奇妙な論理」からの引用です。
リンクで示した、集団健康度チェックのチェックリストもそうですね。
チェック項目のどれか一つだけを取り出すなら、非常に問題のある団体を「これには当てはまらないからカルトではない」とか、
逆に、普通に考えるならカルトとは呼べないだろう団体に、ここは当てはまるぞと指摘する事は出来るでしょう。
しかし、ひとつの基準それだけが、完璧かつ絶対な基準とは言えなくても、それらを総合的に勘案して判断の目安には使える訳です。
150
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:09:28
(続き)
件のチェックリストは、項目それぞれを、更に五段階の『程度』で評価するようにもなっていますね。
そして大切な事ですが、ただ何となくそれらしい基準を並べ立てて、
『たくさん当てはまるからカルト!』と考えてもいけないでしょう。
一つひとつの基準、それ自体が、きちんと納得のいく適切なものである必要があります。
何故なら、見た目は同じようなチェックリストが、実は占いやスピリチュアル、
それから心理カルトといったモノへの誘導にも、使われているからです。
テレビの情報・バラエティー番組にも、よくこういうチェックリストで危機感を煽って、
特定の健康法を勧めたりする手法は見られるでしょう?
そこでこれから述べるのは、科学哲学の分野で用いられる、ハゲとハゲでないかを分ける目安の幾つかについての、『考え方』のお話です。
一つひとつの目安は、それ自体非常に説得力があると同時に、有力な反例や批判もあって、
けしてそれ一つが万能の物差しにはなりません。ここでは分かり易く簡略化して述べますから、
その辺りは少々伝わりにくいでしょう。ですから良かったら、本書をお手にとって頂ければと思います。
科学哲学の『考え方』の幾つかを、なるべく分かり易くお伝えするのが目的ですが、さて私の非才で上手く書けますかどうか。(^^;
長い前置きになりましたが、そろそろ本題に入りましょう。
では皆さん、まずはこんな『考え方』を思い浮かべてみて下さい。
・カラスの太郎君は『黒』でした。
・カラスの次郎君も『黒』でした。
・カラスの三郎君も『黒』でした。
・カラスの花子さんも『黒』でした。
・もしかして、カラスという鳥は全て『黒』いのでしょうか?
・カラスの太郎君と花子さんは結婚しました。生まれたカラスはやっぱり『黒』だと思いますか?
・また、カラスの花子さんは、実は太郎君と結婚する前に、次郎君と付き合っていました。
・花子さんは、結局次郎君とは別れてしまいましたが、
もしも花子さんと次郎君が結婚していたとしても、生まれたカラスは『黒』だと思いますか?
151
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:12:07
(続き)
最初の質問ですが。カラスの太郎、次郎、三郎、花子…は黒い、よってカラスは黒い。
このような『考え方』を、『枚挙的帰納法』と言います。
カラスの太郎、次郎、三郎、花子…を、個々の実験や観察と捉えればよいでしょうか。
そこから自然についての普遍的な法則、つまりこの場合ですと、
「全てのカラスは(おそらく)黒い」という法則を導き出す訳です。
18世紀ごろは、これが科学の唯一の方法だと考えられていました。
ところで皆さん、何故にカラスの太郎、次郎、三郎、花子…が黒いと、全てのカラスは黒いような『気がする』のでしょうか?
人間は、同じものが続くと、次も同じ結果が来ると予測しがちです。
サイコロで同じ目が続いたとき、ポケットに硬貨をいれておき、ジャラジャラと適当に取り出したら
何故か10円玉ばかりが続いたとき、私たちは『次も同じ目がくる、同じコインが出る』と感じてしまいませんか?
『今まで観察されたものと、まだ観察されてないものは似ている』
――このような感じ方を、『斉一性原理』と呼びます。
『枚挙的帰納法』の背景には、この『斉一性原理』が暗黙の前提として隠されている。
こうした指摘から、『枚挙的帰納法』の正当性に疑問を投げ掛けたのが、懐疑主義の哲学者デヴィッド・ヒュームでした。
さて、確かに『まだ観察されてないもの』が、『これまで観察されたもの』と似ている
という前提がなければ、『枚挙的帰納法』は成り立ちませんね?
で、『斉一性原理』が成り立つかどうかは、実際に『まだ観察されてないもの』を観察してみれば良い訳です。
しかし、です。
では何故、実際に『まだ観察されてないもの』を観察してみれば、『斉一性原理』は成り立つと言えるのでしょうか?
それは、『枚挙的帰納法』によってではないか?
つまり、『斉一性原理』と『枚挙的帰納法』は、互いに互いを正当化する、循環論法ではないか?
ヒュームの指摘を、ごく簡単に噛み砕けば、そのようになります。
つまり、『枚挙的帰納法』は、自分で自分を正当化しているという訳です。
152
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:15:25
(続き)
ちょっと、この辺りで頭がこんがらがってきますね。大丈夫、分かり易い喩えがあります。
・何故、仏教の経典は正しいと言えるのか?
・それは、経典に『如是我聞』、つまり『私は釈迦本人からこのように聞いた』と記してあるからだ。
このように考えるとすれば、その経典が正しいとする根拠は、その経典自体の文章という事になりますよね。
では、このような自己正当化の循環論法は、おかしいのでしょうか?
以下のような例を、考えてみてください。
・何故、聖書は正しいと言えるのか?
・それは、大勢の人が聖書に導かれ、確かに正しいと体験しているからだ。
・何故に、大勢の人がそのような体験をするのか?
・それは、聖書が正しいからだ。
・何故、聖書は正しいと言えるのか?
・それは、大勢の人が聖書に導かれ、確かに正しいと体験しているからだ。
・・・以下、永遠にリピート。
(*−゛−)ウーン・・これでは、実は何も説明していない、証明していないのと同じです。
・何故、自分たちの教祖は正しいと言えるのか?
・周りはみんなそう言っている。世界中の人からも賞賛されている。
・何故、そう言われ世界中の人から賞賛されているのか?
・それは、自分たちの教祖が正しいからだ。
・何故、自分たちの教祖は正しいと言えるのか?
・周りはみんなそう言っている。世界中の人からも賞賛されている。
・・・以下、永遠にリピート。
私たちが、『噂』や『デマ情報』を信じてしまう時も、このような傾向や不安に付け入られる事はあると思います。
簡単に図式化するなら、みんなが言っているからと信憑性を高め、
『噂』や『デマ』に付き合わない事への仲間意識や不安を煽る。
そうしてから、そういう情報が多数に流れた事を証拠に、
『噂』や『デマ』それ自体を正当化してしまう事なんかはありそうですね。
ただ何となくそれらしい基準を並べ立てて、『たくさん当てはまるから○○だ!』と考えても同じ事ですよね。
一つひとつの基準それ自体が、きちんと納得のいく適切なものである必要があります。
「事実」や「経緯」をきちんと確認する事、それが「本当に妥当な判断か」を、ちゃんと考える事も大切でしょう。
その判断の目安には、こうした科学哲学の『考え方』を知っておくのが、役に立つ場合があると思います。
153
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:17:37
(続き)
さて、『枚挙的帰納法』へのヒュームの批判について、そのさわりの部分はちょっと述べてきました。
けれど、科学の考え方には、他に『仮説演繹法』というやり方もあります。
> 18世紀ごろには科学の唯一の方法と考えられていた枚挙的帰納法だが,19世紀ごろになると,
> 科学者のなかでも方法論に自覚的な人たちが出てきて,どうも枚挙的帰納法のパターンに
> したがわない推論を自分たちはやっているらしい,ということに気づくようになる。
> 枚挙的帰納法の一番の問題は,この方法では直接目に見えないものについての理論や,
> 見ただけではわからないパターンを組み立てることができないということである。
> 早い話,当時科学の中の科学と考えられていたニュートン力学においてさえ,
> 「重力」というそれ自体では目に見えないものを中心概念としている。
> 重力はそれ自体目に見えないから,重力を無心に一個一個観察しているうちに
> 「重力1は距離の二乗に反比例して働いている」「重力2は距離の二乗に反比例して働いている」
> などなどから「重力はすべて距離の二乗に反比例して働いている」……というわけにはいかない。
> まず重力というものについて仮説を立て,それを確かめる,という順序でしか仕事のすすめようがない。
> そこで出てきたのが,仮説演繹法というやり方である。
> 仮説をテストするためには,「この仮説が正しければ,これこれこういう条件下では
> こういうことが起きるはずだ」という予測を立て,それを実際にやってみることが必要になる。
> この,「これこれこういう条件下」を「初期条件」とよび,
> 「こういうことが起きるはず」の部分を「観察予測」と呼ぶことにする。
> 「実際にやって」みた結果のことは「観察」と呼ぶことにしよう。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)28〜29ページより引用。
本書では、分かり易くこんな例が示されています。
仮説:アメリカ人はみな肉を食べる。
初期条件:ジェームズ君はアメリカ人である。
―――――――――――――――――――――
観察予測:ジェームズ君は肉を食べる。
この場合、仮説と初期条件、つまり前提が正しければ、必ずジェームズ君は肉を食べるはずですね。
154
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:18:32
(続き)
このように、前提が正しければ結論=観察予測も必ず正しいような推論を『演繹的推論』と言います。
さて、しかしこの場合の仮説とは、「全てのアメリカ人は必ず肉を食べる」ですから、
ジェームズ君ひとりが肉を食べるからと言って、必ずしも全てのアメリカ人に当てはまるとは限りません。
しかし、少なくともジェームズ君が肉を食べるかどうかを「観察」する事によって、
彼が肉を食べると確認されたなら、この「観察」の前よりは、いくらかこの仮説は確かなものになるでしょう。
逆に、ジェームズ君が肉を食べないなら、この仮説は間違っている事になります。
つまり、「全てのアメリカ人は必ず肉を食べる」かどうかは、
肉を食べないアメリカ人を「たった一人」見つければ『反証』出来ます。
そして、肉を食べるアメリカ人を確認し続けていく事で、仮説が正しい確率は上がっていく訳です。
ここで、先に説明したヒュームの指摘が引っかかってきます。『仮説演繹法』も、
実は「仮説」が「正しい」と考える部分では、帰納的な考え方が入っているという事です。
カラスの太郎君、次郎君、三郎君、花子さん…
アメリカ人のジェームズ君、マイケル君、クロード君、エミリアさん…
ね、仮説が「確からしくなっていく」過程では、『仮説演繹法』も『帰納的推論』でしょう?
「全てのアメリカ人」「全てのカラス」……
このように「全ての○○」についての命題は『全称命題』と言います。
けれど、この「全ての○○」について、実際に全てを調べる事は出来ません。
何故なら…カラスについて挙げた質問のひとつ、
・花子さんは、結局次郎君とは別れてしまいましたが、
もしも花子さんと次郎君が結婚していたとしても、生まれたカラスは『黒』だと思いますか?
これは、花子さんと次郎君が実際には結婚しなかったのですから、
子ガラスは産まれません。よって、確かめようがない訳です。
こうした、現実ではないけどもしかすると有り得たような仮定を、『反実仮想』と言います。
このような『反実仮想』の問題を考えると、『全称命題』については、
実際に全てを確認する事は出来ない、というのが分かると思います。
156
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:21:03
(続き)
また、仮説演繹法だけでは、例えば
「世界は神様がたった3分前に、遥か昔からの歴史があるように作った」
というような説明を、排除出来ません。
いかなる証拠を持ってきたとしても、「神様がそのように作ってたんだ」と言えば済みますよね。
そんな説明、何かおかしいなとは思うけど。(^^;
でも現実に、進化論と神による創造説を融合させるために、こうした立場を取る人は居ました。
進化論と創造説のどちらからも、人気は得られなかったみたいですが、フィリップ・ゴスの「オムファロス」といった本が、その例です。
> ゴスの議論は実際全く欠陥がない。地質学の真理は何一つ捨てる必要はないし、それでいて(聖書の)創世記との調和は完全である。
> ゴスが指摘したように、私たちは神が、都市や記録、人間の心の中の記憶まですっかり完備した上で今から数分前に地球を創造した
> と考えることすらできよう。論理の上からはこれを不可能な理論として拒否することはできない。
(マーティン・ガードナー「奇妙な論理」教養文庫版98ページより引用)
さて、整理すると、ヒュームも『演繹的推論』には異議を挟まないのですが、『仮説演繹法』で演繹的なのは
『観察予測』、つまり「前提が正しければ、結果はこれこれだろう」というのを導き出すところまでです。
そこで、『斉一性原理』について述べたようなヒュームの指摘、
つまり帰納主義の問題を科学の方法論から排除しようとしたのが、カール・ポパーです。
> ポパーによれば,予測と観察が一致しても仮説は検証されない,
> つまり,仮説がより確からしくなることはない。
> その場合には仮説は単に反証の試みをくぐり抜けて生き延びたにすぎない。
> 極端な言い方をすれば,予測と観察が一致することには何らの価値もなく,
> むしろ予測と観察が一致しないことにこそ価値があるのである。
> この考え方からは,科学の進め方について独自の見解が出てくる。
> 科学者は実験や観察をする前に仮説を立てなくてはならない。
> 次にその仮説が間違いであることを示すために全力を尽くす。
> 具体的には,その仮説が誤りだと示すのにもっともよい実験や観察を考案し,それを実行する。
158
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:24:51
(続き)
> 運よく仮説が反証されたら,どんなふうに反証されたかを参考にして,
> よりよい仮説を立てることができる(科学の前進はここでおこる)。
> 運悪く仮説が反証の試みを生き延びたら,今度こそ反証しようと
> 別の角度からさらなる反証を試みる。仮説を作っては壊し作っては壊しするのである。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)37ページより引用。
つまり、ポパーによれば仮説は反証される事にこそ意味がある訳です。
そして、より大胆な仮説、つまり普通だったら有り得ないような内容や正確な予測をする仮説は、
それだけ予測の内容と実際の観察が一致する可能性が低いと考えられますから、反証される可能性は高くなります。
このように『高い反証可能性を持つ』事を、仮説の価値を判断する基準にしようと、
ポパーは提案しました。簡単に言えば、このような考え方が『反証主義』です。
「いつかは大地震が起きる」というよりも、「何月何日何時何分にどこそこで大地震が起きる」
という観察予測の方が、『大胆』だというのは理解し易いと思います。
それを的中させられるなら、確かに優れた仮説でしょう。
しかし、地震が起きなかったら「自分たちの祈りが通じたからだ」と答えたりするのは、
都合よく反証を封じているのですから、『何だかズルい』ですね。
先に示した、「神様は3分前に世界を作った」というような説も、こう考えると反証しようがないですから、ズルさがはっきりします。
良い事が起きたら功徳で、悪い事が起きたら仏罰というような考え方も、そういう意味でズルい訳です。
ポパーはフロイトの理論を批判しましたが、これもそうした考えによります。
つまり、『潜在的な欲望』と『抑圧』といった事を言うのに、その人の行動から
それが読み取れれば、「その潜在意識にはこれこれが…」と言い、
何も読み取れなければ、「それは抑圧されてるから」と言うなら反証しようがない、といった疑問です。
けれどね、このポパーの考え方も、ちょっとおかしいんです。
まず、必ずしも古い仮説が破棄されるばかりとは限りません。
一旦は破棄された古い仮説が、新しい科学の中で見直される事も良くあります。
159
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:28:14
(続き)
結局のところ、仮説は反証(破棄する)事も、検証(確からしくなる)事も出来ると見なすのが、現実的でしょう。
また、ヒュームの批判をそのまま受け止めてしまうと、現在生き延びている仮説も、ただ単に「まだ反証されていないだけ」であり、
常に「間違っている可能性」を「疑わなくては」なりません。可謬主義ですね。
しかし、以前にひゃっきまるさんや私が引用した科学ジャーナリストのジョン・ホーガンは、
著書「科学の終焉」(徳間書店)の中で、分かり易くこう述べています。
地球が丸いという事を、疑い続ける事に意味はないだろうと。まぁ、その通りでしょう。
『反証可能性』による線引きは、幾つかの例で示したように、ある面では
非常に強力な説得力を持ちます。しかし、万能の基準ではありません。
また、現在でも問題になる(生物の)進化論と(生物は創造されたとする)創造科学のような場合、
かつては創造科学の説明が優勢であり、それを進化論が反証して打ち破ったとも見なせますから、
かつて反証された以上、創造科学には反証可能性が有る訳で、ではそれは科学なのか?という疑問があります。
しかし、科学が未発達だった時代に比べて、現在は、より進化論を確かめる証拠、
そして創造科学に都合の悪い証拠が非常にたくさんあります。
にも関わらず、未だに創造科学にしがみつくのは、やっぱり何だかズルくありませんか?
このように、支持者の態度や証拠の状況まで踏まえた反証主義を、
ポパーの弟子のラカトシュやその後のポパー研究者は『方法論的反証主義』と呼びます。
彼らによれば、ポパーの考え方も本当はこうだったというのが定説です。
『方法論的反証主義』の指摘を簡潔に分かり易く示すなら、
「反証された仮説を放棄しないのは科学的態度ではない」と言えるでしょう。
進化論を否定する創造科学や、ナチスのユダヤ人虐殺を否定する歴史修正主義、
またある種の宗教団体や心理カルトにも、このような態度は沢山見られます。
自説に都合の良い証拠や状況にばかり目を向け、逆のそれらには全く目を向けようとしないかに見える。
それは結局、一応議論はしているように見せかけても、
いかなる反証が出ようと自分の立場を変えるつもりがない、という本音が透けて見えます。
その態度が、『方法論的反証主義』によればズルい訳ですね。
160
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:32:03
(続き)
では、そのような『ズルさ』を生む『心理』とはなんでしょうか。
ポパーが反証主義を提唱した理由には、検証バイアスを考慮したのもあるのではないかという事が
「疑似科学と科学の哲学」では紹介されています。この検証バイアスや保守性という傾向、
周囲の人間の影響などが、迷信や妙な信念にこだわらせたりもするのです。
マインドコントロールの説明でよく紹介される『認知的不協和理論』も、
つまりはこうした「信念の慣性力」を説明する理論の一つな訳ですが、
本書では「信じやすさの心理学」として項目を割き、ざっと以下のようなものを紹介しています。
『代表性バイアス』
それほど珍しくないことを珍しく感じてしまう。シンクロニシティ。虫の知らせ。
良く言われる、確率的には不思議ではないクラスメートの誕生日の一致なども、これかな。
『利用可能性バイアス』
すぐに思いつくもの、目につくものの頻度を実際より高く評価する事。
当たった予言は印象に残るが外れた予言は忘れられ、印象だけで成功率を高く見積もってしまいます。
まぁ、沢山予言していれば、それだけ当たりも増えるでしょうね(外れはさらに増える)。
多くの報告や体験談を集めれば、都合の良い報告は増えるでしょう(都合の悪い報告はさらに増える)。
『迷信的思考とオペラント条件付け』
つまりジンクス。もちろん、健全な範囲なら問題無いし、世の中で普通に行われてもいますね。
「疑似科学と科学の哲学」ではスチュアート・ヴァイスの実験が紹介されています。
ビー玉を出すピエロを用意して、子供に箱いっぱいのビー玉を集めさせる。
実はピエロは一定の時間感覚でビー玉を出すが、子供はたまたまビー玉が出た時の行動を繰り返す。
要するに、『偶然の一致』に因果関係があるものと錯覚して、その時の行動が条件付けられてしまうのです。
> こうした連関付けは,不確定な要素が入ってきたときに特に働きやすいとのことである。つまり,上のような実験で,
> 「一定の時間間隔でビー玉が出るが,五分の一の確率で出ないこともある」というようなルールにすると,
> 出なかった場合の理由を探して,迷信的な説明に走る傾向がいっそう強くなる(206ページより)。
161
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:33:29
(続き)
当然ながら、日常生活では『常に宗教的な功徳に出会う』、などという都合の良い事は起こりません。
そこで、むしろそのような功徳が得られずに、都合の悪い事態に遭遇した時こそ、宗教的信念を救い、
その都合の悪さへの説明を希求して、『益々迷信的な説明にハマる』事にもなる訳です。
普通のジンクスも、いつもいつもは100%上手くいかないからこそ、多くの場合ジンクスに頼る訳ですからね。
他に、昔から有名なものに『パスカルの賭け』というものもあります。
http://kurokage.seesaa.net/article/8553393.html
http://www.shirakami.or.jp/~eichan/oms/omsxx/oms128.html
http://www.slis.tsukuba.ac.jp/~ygoto/shigonosekai.htm
――つまり反証主義は、こうした検証バイアスに反するよう、
意識的に自分の理論に都合の悪い証拠を探す事で、検証バイアスを中和するのに有効な面があるのです。
例えば、信条としては法華経を愛する宗教学者が、あえて研究では法華経自体を扱わなかったりしますね。
そういった意味で、むしろ思想信条が重きを置く科学以外の場所で、この考え方が有効な場合もあります。
しかし…残念ながら『方法論的反証主義』も、また万能な物差しではありません。
とにかく、反証主義な訳ですから、では仮説を『如何に反証するのか?』という問題があります。
極端な例えですが、小学校の理科の実験室で、子供が授業中に、
既存の物理法則では考えられない実験結果を出したとします。
普通、この場合「世紀の大発見!」と思うでしょうか?
普通は、実験に不備があったか、子供が何か間違えたのだろうと思うでしょう。
大げさに言えば、そのように考えて既存の物理法則を、破棄せずに救う訳です。
たとえば海王星の発見は、天王星の動きがニュートン力学の予測と違っていた事によります。
科学者たちは、これをもってニュートン力学を破棄せず、何か未知の天体が天王星の動きに影響を与えているのでは?と考えました。
その結果が、海王星の発見に繋がったのです。
162
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:35:56
(続き)
つまり、最初のニュートン力学に基づく予測では、海王星のような未知の天体の存在は考えられていなかった。
よって、その前提を変更し、何か未知の天体を仮定すれば、天王星の動きは説明出来ると考えた。
このような、後付けの変更をアドホックと呼びます。
> 後付けのつじつまあわせは科学でも日常的に行われている手続きである。
> たとえば,暗黙の補助仮説である「実験者は誠実かつ有能である」とか「実験装置がうまく機能している」とかいうのは,
> 実験が予期した通りの結果にならなかったときに真っ先に疑われるだろう。
> 実際,意外な実験結果を相手の無能さ・不誠実さに訴えて処理する議論は,疑似科学をめぐる
> 論争の中で,科学を養護する側からも疑似科学を養護する側からもしばしば提出されている。
> 極端なことを言えば,どんな観察結果が出ようが,補助仮説に手を加え続けることによって
> テストされる仮説を救い続けることができるかもしれない。このことに最初に気づいたのは
> 20世紀初頭の物理学者兼科学史家兼科学哲学者のピエール・デュエムである。デュエム自身は,良識を備えた科学者なら
> どういう後付けの修正ならいいかわかるはずだ,と考えたので,これが科学の合理性に対する深刻な挑戦になるとは考えなかった。
> しかし,1950年代に哲学者のW・V・O・クワインがこれをとりあげて
> 「どんな(←原文では傍点で強調)仮説でもどんな(←原文では傍点で強調)観察からも支持される(←原文では傍点で強調)」
> という非常に過激な主張に仕立てあげた。クワインは科学理論と補助仮説と初期条件といった区別を立てず,
> あらゆるものが対等な立場で一つの大きな「信念の網の目」を作ると考えた。
> この網の目には物理学に直接関係するものだけでなく,論理法則や日常的信念なども含まれる。
> どんな仮説もこの網の目の一つの結び目にすぎず,他の部分をいじれば保持できてしまう。
> クワインは極端な場合には論理法則を修正して仮説を救う可能性すら示唆している。
163
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:36:20
(続き)
> この,「どんな仮説もどんな観察からも支持される」という考え方は(おそらくデュエムにとっては不本意なことに)
> 「デュエム=クワインテーゼ」と呼ばれる。もしクワインの主張が正しければ,
> 科学において観察なんてやるだけ無駄ということになりかねない。
> そこまで過激にならなくても,「二つの仮説が対立しているときに,観察のみによって両者の一方を排除することはできない」
> というくらいの弱い主張でも反証主義に脅威を与えるには十分である。
> 二つの仮説の間で白黒をつけるような実験のことを「決定実験」と呼ぶので,
> この弱い主張は「決定実験の不可能性」などという名前で呼ばれることもある。
> 一番過激なものからもっとマイルドなものまで含めて,これら「観察によって仮説が決定されない」という考えは
> 「過小決定」(underdetermination)と呼ばれる…(中略)…どんな不利な証拠も
> 補助仮説の修正で保持できるなら,仮説の反証は原理的にありえないことになる。
「疑似科学と科学の哲学」 伊勢田哲治 (名古屋大学出版会)54〜55ページより引用
さてさて、さすがにここら辺で『頭がウニ』状態の方も多いと思います…。
書いてる私も――これ、実は携帯から書いてるんですよ(汗)、ですから大分疲れてきました。
しかしね、実は優れた哲学の議論というのは、私たちの日常や当たり前に行いがちな判断を噛み砕き、
バラバラにほぐす事で、普段意識しなかったり見えない部分を、むしろ分かり易く見せてくれる部分があります。
たとえば、
「二つの仮説が対立しているときに,観察のみによって両者の一方を排除することはできない」
みたいな態度は、掲示板の議論や論争においても陥りがちではないですか?
あるいは逆に、幾つかの、時にはたった一つの証拠から相手を論破したと宣言して、偏狭に自説を守ろうとしてしまう。
前者は寛容を促して、後者は相手に過ちを認めさせようとしているのですが、本音は後付けで都合の悪い部分を修正して、
自説や自分の守りたい特定の立場を保持してしまう。こういう事って、意外によく見掛けはしないでしょうか?
これは、まさに上記の哲学的議論とリンクした、日常よく起きがちな事例だと思います。
こう考えると、少し身近に感じられて、分かり易くなってくるでしょうか。
164
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:38:55
(続き)
また、『認知的不協和理論』から見ても、人はその不協和からくる不快さを避けるため、
情報に対してこうした後付けの修正を試み、信念を守る場合があります。
よって、他者から見ればダブルスタンダードな態度が、本人にとっては認知的不協和を避け、
『自己の一貫性』を保った「信念ある態度」だと、感じられている場合がある訳です。
例えば、他の組織の「個人を圧殺・搾取する態度」を批判しておきながら、批判する自らの側の起こした間違いや
被害を突かれると、あたかも批判対象の組織の鏡写しのように、「自分たちの和を乱さない事」を求め、沈黙や我慢を強いる。
これでは、明らかにダブルスタンダードですが、本人の意識としては、
「問題を追及する『批判者の一員』としての信念」を貫いているんだと、錯覚するのだと思います。
カルト同士、よく互いを棚に上げて批判し合いますし、そうした問題の追及を掲げる側にも、こういう事はよく起きます。
しかし、だからこそカルトは、大抵、内部の問題には目を向けないのですけれどね。(笑)
この『過小決定』の問題を含む様々な問題があり、『反証可能性』だけを持って明確に科学と疑似科学を切り分ける事は出来ません。
「反証主義や仮説演繹法という考え方は,科学というものの本質をとらえるのに,単になまくら過ぎる包丁なのではないだろうか?」
――「疑似科学と科学の哲学」のこの指摘は、妥当なものです。そこで、もう少し科学哲学の『考え方』を見ていきましょう。
165
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:39:41
(続き)
皆さん、ちょっと以下の絵をご覧になって見て下さい。
http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/art/rabbiduck.html
> この図は見方によってはアヒルにもウサギにも見える。
> アヒルだという先入観をもって見ればアヒルにしか見えず,ウサギだという先入観を持って見ればウサギにしか見えない。
> さらに言えば,アヒルとウサギを同時に見る事はできない。このようにアヒルからウサギへ,
> 全体の見え方が一息に変わることをゲシュタルトスイッチと呼ぶ。
> あるいは,天動説論者と地動説論者が一緒に夜空を眺めていたとしよう。
> 二人は同じものを見ているようで同じものを見てはいない。天動説論者は星が動いているのを見,
> そこに天動説の何よりの証拠を見るだろうし,地動説論者は,船が動いて岸の景色が流れていくように,
> 地球の動きが星の見える角度を変化させていることを見るだろう。この場合も,見る者の先入観が観察の内容を変えている。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)76〜77ページより引用。
これは、トーマス・クーンの『パラダイム論』で重要となる、
観察の『理論負荷性』と『通約不可能性』を理解する上での、非常に分かり易い例だと思います。
パラダイム論は、ポパーの反証主義や、ポパーによって批判された『論理実証主義』よりも、
より現実の科学史の発展を表したモデルとして、提案されました。
『論理実証主義』とポパーの対立については、この方向の代表的な考えである
エルンスト・ネーゲルの『還元主義』を紹介すれば分かり易いでしょう。
> ネーゲルの還元主義の考え方によれば,以前の理論は新しい理論の特殊な場合として説明・統合される。
> 以前の理論で使われていた概念や法則は新しい理論内の,より基本的な概念や法則へと発展解消される
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)73ページより引用。
例えばこれは、物理学の理論の発展などの、ある一面については大変よく表しています。
ケプラーの理論は、ニュートンの法則の中に発展解消されていますし、
ニュートン力学はアインシュタインの相対性理論の特殊な場合として考える事が出来ます。
166
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:40:56
(続き)
言ってみれば、新しい理論と古い理論は入れ子構造になっており、
新しい理論は古い理論を常に包括した、古い理論よりも優れたものである訳です。
これに対して、ポパーは仮説を作っては壊し、作っては壊しというモデルを提案しました。
『還元主義』においては、新しい理論は前のものより優れており、
それによって科学は直線的に発展していきますが、ポパーの『反証主義』においては、そうではありません。
そして、この側面をさらに押し進めたのが、クーンの『パラダイム論』という事になります。
> 第1章で紹介した枚挙的帰納法も理論負荷的な観察に頼っている。「すべてのカラスが黒い」という単純な一般化を導き出すのですら,
> 「カラス」という種や「黒」という色に着目するという点で観察者の「予期」が入っている。
> そういう予期がなければそもそも観察が成立しないだろう。
> 以上のような話は,普通に考えれば,観察そのものは同じだけれども,観察に対する解釈が違うのだ,と言いたくなるところだ。
> しかし,観察の理論負荷性の支持者が考えているのはもう少し根本的な,知覚のレベルでの食い違いである。
> たとえば,自分の理論にあわない出来事はノイズとして処理され意識にのぼらない…(中略)
> …天文学の例を使うなら,彗星の観察事例はコペルニクス以後激増する。これは観察機器の向上だけでは説明がつかない。
> アリストテレスの世界観によれば,天上界は何層にもわたる天球によって構成され,
> 天上界の出来事は永遠に一様に続くことになっており,彗星などの入る余地はない。
> そういう背景の下では,彗星は網膜には写っても意識されずに見逃されていった(後略)…
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)77ページより引用。
本書では、他にも生まれた時から目が見えなかった人が開眼手術を受けた時、
すぐには“ものを見る”ことが出来ない例が挙げられています。
> 以上のようなことが示唆するのは,ものの形のような非常に基本的なことでさえも,
> われわれは学ばなければ見ることができないということである。
> これは知覚とその解釈がきれいに区別できるという考えに対する強い反例となるだろう。
167
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:44:23
(続き)
> ただし,開眼手術をうけた患者はわれわれとまったく違う知覚の体系を作っていくわけではなく,
> 知覚が解釈に依存するということから安易に知覚に客観性がないという結論を導くことは危険である。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)78ページより引用。
ところで、数学にはトポロジーという分野がありますが、フランスのトポロジスト、ベルナール・モランは、
盲目でありながら、四次元空間での人間の歩き方や自転車の形が分かるそうです。
> 高次元の世界は目で見えるだろうか? 少なくとも三次元空間の環境に適応し進化してきた視覚をもってしては、
> 四次元以上の対象を文字通り「見る」ことは不可能なように見える。もっとも、フランスの盲目のトポロジスト、
> ベルナール・モランには四次元空間での人間の歩き方や自転車の形状などが見えるというから、
> “数覚”に恵まれた人たちには、ひょっとすると高次元の世界がリアルにイメージできるのかもしれない。
「科学朝日」1994年10月号/「トマス・バンチョフ著『目で見る高次元の世界』書評記事(吉永良正)より引用
これなども、観察の『理論負荷性』と『通約不可能性』の好例に思えます。
目が見える事で返って見えにくくなるものもあれば、当然目が見える事で見えるものもあります。
例に挙げたアヒルとウサギのだまし絵の場合も、アヒルが見える時にはウサギは見えず、ウサギが見える時にはアヒルが見えません。
> 何かが「発見」されるためには,それが見えるような思考の枠組みが必要であり,そうした枠組みをパラダイムが与えている。
> しかし,同じパラダイムがどの理論を受け入れるべきかという正当化の枠組みも与えるわけである。両者を明確に区別することはできない。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)89ページより引用。
168
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:45:12
(続き)
本来のパラダイム論から離れて、『宗教』と『科学』といった大きな枠組みで考えても、こうしたことは明確になっていきます。
『宗教』の教える生き方や悩みの解決は、同時にそれにふさわしい
理論の正当化を促して、現実の歴史や自然の観察と矛盾する事があります。
が、『宗教』の側からは、生きた人間の問題を解決し、また現に解決し続けている事が
重要であって、そうした矛盾はノイズとして問題意識に上りません。だまし絵からアヒルを見ている時のウサギの姿のように。
それでは、現実の歴史や自然の観察と問題の解決には繋がらないでしょう。
――『科学』のパラダイムからは、だから『科学』が必要だと見えてしまうと思われます。
そして『宗教』の教えるような、人間の生き方や悩みの解決を、大抵の科学では扱いません。
『科学』の枠組みでは、そもそもそうした問題の解決を本業としておらず、
そうした矛盾は『科学』の枠組みからは見えにくくなります。だまし絵からウサギを見ている時のアヒルの姿のように。
というより、『それは大した問題ではない』と、科学の側からは見えてしまう。
――『宗教』のパラダイムからは、だから『宗教』が必要だと見えてしまうのではないでしょうか。
> …科学革命においては,パラダイム転換がゲシュタルトスイッチの要素を持つとされることからも分かるように,
> 二つのパラダイムは通約不可能とされる。天動説パラダイムの下で生きていた人々は
> プトレマイオスの予測の不正確さが重要な問題だとは思わなかった(いわばノイズとして処理された)。
> 逆に,地動説パラダイムは,人間の宇宙における役割は何か,という問いに答えられないし,
> そもそもそんなものは科学の問いではないと言うだろう。地動説パラダイムへ移行することで,
> 科学の扱う問いに関する認識が大きく変化し,そういう問いの存在が「見えなく」なったわけである。
> より一般的には,パラダイムごとに,「何が解くに値する問題か」についての認識も変わるので,二つのパラダイムの
> 問題解決能力について両者の支持者の間でいつまでたっても意見が一致しないことは十分考えられる。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)84ページより引用。
このような解決すべき問題や矛盾を、パラダイム論では『アノマリ』と呼びます。
169
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:47:20
(続き)
新しいパラダイムは、そのようなアノマリ(うまく説明出来ないもの)が多い、反証された状態で登場する、いわば未熟な理論です。
しかしよいパラダイムは、次第にアノマリを解決して、その分野の科学者の共同体に受け入れられていく。
パラダイムの成立→通常科学→解けないアノマリの蓄積(=危機)→異常科学
(=新しいパラダイムの提案)→科学革命(=新しいパラダイムの成立)→新しい通常科学
パラダイム論では、ざっとこのように科学の歩みを捉えます。
また『線引き問題』としては、異なる二つのパラダイムを比較する際に
クーン自身が提案した基準が、目安の一つとして参考になると思います。
「疑似科学と科学の哲学」の記述を元に、簡単に紹介しましょう。
「実験や観察との一致」
観察の『理論負荷性』は、確かにアノマリを見えにくくしてしまいますが、一度見えてしまえば
もう一度見えなくする事は出来ません。それによって、パラダイムにはアノマリが蓄積していきます。
「内部の無矛盾性および確立された他の理論との整合性」
例えば科学と矛盾しない事をうたう宗教も多いですが、本当にそうなのか? その教えの内部に矛盾はないでしょうか。
「応用範囲の広さ」
これは…そのまま言葉通りですね。
「単純性」
『オッカムのかみそり』という有名な例があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80
「豊穣性」
「あらゆるものは神様の意図に従って動いているが,神様の意図は人間に押し量れるようなものではない
という主張を考えた場合,仮にこれが100%正しかったとしても,これだけではなんら新しい予測にもつながらず,
新しい側面が見えてきたりもしない。そういう意味でこれは豊穣性に乏しい主張である(86ページより引用)。
クーン自身は、このようにして科学の合理性を認め、パラダイム同士の選択も合理的に出来ると主張しています。
しかし、一般的にはクーンはポール・ファイヤアーベントらと同じ、『相対主義』の提案者と見なされています。
ちょっと挙げてみたように『科学』と『宗教』といった対比に利用してみても、確かにパラダイムの優劣と
いうよりも、相対的な価値観といった方向に流れがちなのは、分かりますね。
170
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:50:31
(続き)
相対主義――つまり、全ての価値観や考え方には、それぞれ正当性があるという捉え方は、
一見妥当なようですが、現実に当てはめた時に必ずしも上手くいきません。
身近な例を挙げれば、子供に対して、ある限界を超えた体罰や育児放棄のような事があった場合、
「それぞれの家庭のやり方」というだけでは、一切介入すべきでないという意見に説得力を持たせるのは難しいでしょう。
実際には、私たちは相対主義的な妥当さを幾ら求めても、あるところでの価値判断を現実には迫られます。
上記の例で言えば、やはりある時点や限界で「子供を救うべきだ」という介入が説得力を持つように思います。
これが、個々の具体的な事例に沿って、一つひとつ判断されている内は、
「特異な事件」としての明瞭性と具体性を失ってしまったり、結果的に現実から遊離するような事は少ないでしょう。
が、例えばそれを母性の問題とか、最近の母親は…とか、戦後の教育が悪かったとかの考えに発展していくと、
ある特定の立場を生み、一つの政治主張や何らかの風潮を生み出したり、
そうした事を通じて特定の利害に関わる集団や団体に、利用される事にも繋がる場合があります。
> 個人のレベルでは(中略)価値の概念は(中略)ある特定の実例から引き出すことができる。
> 個人から集団へ、家族から地域を経て国家へと移行するにつれて概念はより抽象的で霊的になっていく。
> 概念は特異性と明瞭性を失うが、それでもなお個人の(時に強く情緒的な)経験に立ち返って
> 結び付く場合もあり、それが霊的な概念に信奉者を獲得する力を与えるのである。
「洗脳の世界」キャスリーン・テイラー著/佐藤敬訳(西村書店)
171
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:51:04
(続き)
また相対主義への回答として、有力かつ有名なものには、ルイセンコ事件というものがあります。
http://www.0600design.com/archives/2005/11/post_143.html
>「ルイセンコ事件」ルイセンコは農学者あるいは遺伝学者としてソ連における権威的な立場にあって、
> 獲得形質が遺伝するという立場を強く推進していた。そしてスターリンにとりいり、
> 獲得形質の遺伝を否定するメンデル遺伝学などの学者を「ブルジョア的」といって追放したのである。
> (「はじめての進化論」河田雅圭)
> 「科学」を標榜しながら、(実は)科学によらず、イデオローグによって扇情的に
> 世間を「曲げようとする」やり口、これはどう見ても「ニセ科学」でしょう。
※以上、リンク先の記述より引用。
> ルイセンコの考えは,染色体のなかの遺伝物質が遺伝を決定することを否定し,遺伝はむしろ
> 生物体全体の特性であるとして,一種の獲得形質の遺伝を認めるものだった。
> 彼の代表的な「貢献」とされる「春化処理」は,種籾を冷やすことによって
> 秋蒔き品種の小麦を春蒔き品種にかえることができるというものだった。
> メドヴェジェフの分析によると,ルイセンコの主な主張をサポートするデータは,
> 最終的にはたった一株の小麦の秋蒔き性から春蒔き性への転化だったとのことである
> (これが突然変異だったのか,どこからか混入したのか,今となっては確かめようがない)。
> 別にこの本で展開してきた科学的方法論の知識など利用しなくても,それではあまりに
> 根拠が薄弱なのは明白だろう。なぜそんな説がソ連で強力に支持されたのだろうか?
> それはルイセンコの説が当時のソ連の支配的なイデオロギーと非常にうまく適合したからだとされる。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)190ページより引用。
172
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:53:00
(続き)
> 相対主義への回答という文脈で言うと,ルイセンコ事件は,世界がこうあって欲しい(世界はこうあるべきだ)
という願望がどんなに強くても,また,その願望が実現したと宣伝する宣伝力がどんなに強くても,
> 『世界の方はその願望にやすやすと従うほどフレキシブルではない』ということを示している。
> 「品種」がどういうものかということについては微妙な解釈のレベルではいくらでも争えるが,
> ある小麦の株が秋蒔き品種か春蒔き品種かの区別についてルイセンコ派と反ルイセンコ派が合意できる程度には客観的である…
> (中略)…『社会の圧力だけでは小麦の品種一つ変えることができない』。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)191ページより引用。『』記号は引用者が追加。
それに「霊的概念」ですが、これは「間違っている」事が一目で「分かり易い」ものばかりではありません。
これまで紹介してきた幾つかの目安も、同時にそのような霊的概念となってしまう事があります。
ルイセンコの説が上手く合致したという、ソ連で主流だった『唯物論的弁証法』の
『考え方』にしても、それ自体そのものが、けして悪という訳では無いでしょう。
しかし、あらゆる事をそれに基づいて判断すべきと考え始めたら、反証主義であれ原始仏教であれ、霊的概念となり得ます。
これらは、特定の疑似科学や宗教教義への批判には、有効かつ説得力を持ちますが、と同時に、
それに基づく判断が目の前の現実より優先されるようになれば、むしろ新たなドグマともなってしまうのです。
非常に分かり易い例を挙げるなら、『可謬主義』を『無謬』だと考えてしまうのですね。
ルイセンコ事件について、「疑似科学と科学の哲学」はこう結論付けています。
> しかし,科学的には不合理で間違っていたとしても,国家を支えるイデオロギーの強化という
> 観点から言えば役にたったと言えるのではないか? つまり(中略)ルイセンコ説は,
> 科学的合理性においてはメンデル遺伝学に劣っていても,当時のソ連での
> 社会への影響を考えると政策的には推進するべきものだと言えたのではないか?
173
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:53:35
(続き)
> これも結論としては否定的にならざるを得ないだろう。結果としてソ連の農業は停滞し,西側に後れをとることになる。
> ソ連の指導者にとっては決して良い結果とは言えないだろう。これは目先の
> 社会的利益を追うことで結局より大きな利益を見失った例と言えるのではないだろうか。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)191ページより引用。
さて、ではここで「価値中立的な判断を取り入れたらどうだろう?」との考えはどうでしょうか?
例えば統計的検定などは、そのような価値中立的な判断だと、思われているかも知れません。
しかし前述の「洗脳の世界」でも、『メディア媒体』の項で、そのような中立性については、
『中立性の神秘――ありのままの解釈されていない事実があるという主張――は、
ポストモダンの格好の標的である』と指摘され、テリー・イーグルトンの以下の表現を紹介しています。
(イーグルトン『文学とは何か』
)
> 「この大聖堂は一六一二年に建設された」というような事実を語ることと
> 「この大聖堂はバロック建築の壮大な見本だ」というような価値判断を表明することには明確な違いがある。
> しかし、もし私が海外からの旅行者にイギリスを案内しながら最初の方の説明をして、その旅行者を大いに困惑させるとする。
> その人は、なぜあなたはこれらの建物の建てられた時期ばかり説明するのですか? 由来にこだわるのはなぜですか?…
> (中略)…この話は、私自身が述べた事実の本質にある無意識の価値判断システムの一部を明らかに示している。
> そのような価値判断は「この大聖堂はバロック建築の壮大な見本だ」という価値判断と同じ種類のものではないが、
> 価値判断であることに違いはなく、私が表明する事実はすべて価値判断を免れないのである。
そして、統計的検定も、実は有意水準というものを設定する部分などでは、社会的な価値判断が関わってきます。
例えば、あるお守りに効果があるかを調べたいとします。
この場合、統計的検定では、まずそのお守りに効果がないという仮説を立て、それを二つのグループで調べます。
結果、『効果がない』という仮説が破棄出来なかったら、それは間接的に『効果がある』という仮説の支持と見なされる訳です。
174
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 20:57:11
(続き)
よく「5%のレベルで有意」なんて言いますが、これは5%ですから20回に1回くらいは、
『効果がない』という仮説が正しいにも関わらず、捨てちゃうけどごめんな?って意味です。
ですからこの場合、「5%のレベルで有意」即ち20回に1回くらいは、間違って『効果がある』という考え、
つまり効果がないお守りを効果があると判断してしまう。これが統計的検定の考え方です。
有意水準には、5%と1%がよく使われていますね。0.1%という数字の場合もあるようです。
5%より高い数字はまず使われません。そしてここの数字を決める時には、実は価値判断が関わってきます。
『正しいものを捨てる』ことを『第一種の錯誤』、『間違っているものを採る』ことを『第二種の錯誤』と言うのですが、
この場合ですと、『効果がない』という仮説が正しいにも関わらず捨てちゃう、
つまり効果がないお守りを効果があると判断してしまうのが、このケースでの第一種の錯誤です。
そこで、効果がないお守りに、大金を払って損をする人が社会問題になるかも知れません。
次に『間違っているものを採る』第二種の錯誤ですが、『効果がない』という仮説が
間違っているにも関わらずそれを破棄しなかったら、つまり効果のあるお守りに『効果無し』という判断を下す訳ですね。
せっかくの効果のあるお守りが、世の中に行き渡らない事になる、それは問題だと思う人も居るでしょう。
どちらの間違いがより深刻か、予め考えて、有意水準は決定する事になります。
たとえば『お守り』を『新薬』に置き換えたとしたら、意外と洒落にならない『価値判断』だと思います。
175
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 21:00:58
(続き)
> …有意水準はむやみに低くすればいいというものではなく,逆に高く設定しすぎるのも検定を行う意味がなくなる。
> どういう検定を行うか,とくに有意水準をどこに設定するかというのは,以上のような問題を考慮して,
> どちらの過ちがどれくらい深刻かを考えながら決める必要があるわけである
> (そういう意味では,統計的検定法のこの部分には社会的価値判断がかかわってくる)。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)227ページより引用。
そして、統計的検定には落とし穴もあります。よく分かっていないと、何となくたくさんのデータを集めれば、
それだけ正確な結果が出る気がするのですが、実際にはデータベースが巨大になれば、
つまり『標本サイズを大きくしていけば非常に弱い相関でも有意な結果が出るようになる』のです。
ですが統計的検定で『「偶然ではありえない」ような相関がある』というのは、
実は『「非常に強い」相関があるということとは別物』です。
お守りの例でこれを分かり易く言えば、有意性とは、あくまで効果のないお守りを、効果があると捉えてしまう『確率』の
『大きさ』であって、決して『お守りの効果』の大きさを教えてくれている訳ではない、という事ですね。
> ……巨大なデータベースでは,高度に有意な結果といっても,相関としては非常に小さな相関にすぎないことは多々あるのである。
> そうした相関が本当に研究対象の中に存在する相関ならばそれでも問題はないし,
> むしろ大規模な調査によってしか見つからない微妙な相関を見つけた研究として賞賛されることになろう。
> しかし問題は,そうした相関がデータ収集や分析の過程におけるわずかなバイアスによって生じていた場合である。
> このような大きな標本を使った場合には,普通なら問題にならないような
> 微妙なバイアスが有意な結果につながる可能性があるので注意する必要がある。
> たとえば,見つけにくいデータを探す際に肯定的な証拠になりそうなものを
> ほんの少しだけ一生懸命探す,というのも十分検出可能な大きさの影響を与えうる。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)227〜228ページより引用。
176
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 21:01:27
(続き)
ここで、アーヴィング・ラングミュアが作った『病的科学』の基準、兆候についても示しておきましょう。
http://www.genpaku.org/skepticj/pathosc.html
以上、駆け足で見て来ましたが、最後に冒頭紹介したハゲ頭論法についての、
ベイズ主義の『程度』思考を用いた筆者の解決を引用して、「疑似科学と科学の哲学」の紹介を終えたいと思います。
> 序章でとりあげた,はげかふさふさかという「はげ頭論法」の問題を使って説明しよう。
> ベイズ主義ならば,はげ頭の問題をこんな風に解決するだろう。
前提1:ある人から髪を一本抜いてもその人がはげかどうかについての信念の度合いはほとんど変わらない。
前提2:「髪が10000本ある人ははげだ」という信念の度合いは極めて低い。
> この二つの前提からは,「したがって髪が0本の人がはげだという信念の度合いは極めて低い」という結論は導けない。
> 前提1で「ほとんど変わらない」と述べたわずかな変化が積もり積もって,
> 髪が0本になるまでには信念の度合いをほとんど100%近くまで押し上げてしまうことは十分考えられるからである。
> 髪1本の差ではげになったりならなかったりするのはどう考えても変だが,信念の度合いが(もしかしたら
> 本人にも分からないくらい)微妙に変化するというのなら,そんなに変でもないだろう。
ベイズ主義、科学哲学との関わりについては↓こちらを。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E7%A2%BA%E7%8E%87
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/post2/s-realism.html
177
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 21:03:28
(続き)
> 同じような「程度」思考が疑似科学にもあてはめられるだろう。上であげたさまざまな基準…(中略)
> …ある分野がどれくらい(←原文では傍点で強調)科学的かをはかる上で役立つ指標を提示していると考えた方がよいだろう。
> 科学の必要十分条件としてではなく,そういうチェックリストのうちの一項目として考えるなら,
> 反証主義(とりわけ方法論的反証主義)も別に否定する必要はなかろう。
> これら様々な項目がどれだけ満たされているか考えることは,はげかどうかを判断する上での
> 一本一本の髪の毛の有無と比べることができるだろう。つまり,どの物差しでみても
> 成功した科学とほとんど類似性がない分野は,やはり「はげ」だと見なされることになろう。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)259〜260ページより引用。
余談ですが、筆者は本書の執筆の動機に、実はオウム真理教の地下鉄サリン事件を挙げています。
> 彼らがオウムに入信した理由はいろいろあるのだろうけど,「疑う」ということをあまり習ってこなかったというのも,
> 彼らが「ころっとひっかかった」理由なのではないかと思う。懐疑主義は度をすぎれば生活が成り立たなくなるが,
> 健全な懐疑主義はむしろ今の社会を生きていくために必要なスキルではないだろうか。
> そして,大学でそういうスキルを教える場があるとすれば,哲学の授業がまさにそれなのではないか。…(中略)…
> つまり,本書は,ある意味で,科学哲学者としてのわたしの地下鉄サリン事件への「答え」である。
「疑似科学と科学の哲学」伊勢田哲治・著(名古屋大学出版会)あとがき277〜278ページより引用。
178
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 21:06:20
(続き)
さて、最後にもう一度、日本脱カルト協会の集団健康度チェックの、チェックリストを見てみましょう。
http://www.jscpr.org/GHI/index.html
上記のチェックリストを、『健全な疑い』をもって眺めると、様々なことが見えてきます。
チェック項目一つひとつの背景にある価値判断や、なぜそれが集団の健康度に関わるのか?
社会的な価値判断からしても、このチェックリストで問題とされている項目一つひとつの、ほとんどは妥当なものでしょうね。
が、個別の状況や事態、つまり『現実』を考えずに、チェックリストのうち幾つかのみを
恣意的に『カルトの必要十分条件』としてしまう事は大変危険であり、相手への言い掛かりや非礼なレッテルともなると思います。
当のカルト被害者の訴えも、時に感情的な爆発があります。そんな被害者の集まりや、
その状況への憤りにも、解釈次第ではチェックの幾つかを無理に当てはめる事は、不可能ではありませんから。
そもそも他者を名指しで「カルトのマインドコントロール」呼ばわりするなど、本来失礼極まりない事です。
179
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 21:12:49
(続き)
個々の具体的な事例に沿って、一つひとつ判断されている内容が、
いつしか「特異な事件」としての明瞭性と具体性を失ってしまい、
本人やグループの都合によって万能に当てはめられてしまう『霊的概念』として用いられる時、
そして、「専門家が言っているから」「ネットに書いてあるから」「みんなだってそう言ってる」などと
自己責任は放棄して、それを正当化する時、それこそが『カルトへの反対もカルト化する』始まりだとも言えるでしょう。
当のカルト自身、最初は本当に助けられたり、孤独から救われたりした感謝を、
いつしか利用して当人を縛り上げはしないでしょうか。
そして組織や集団のための解釈を『真偽無関係』に押し付けたり、
理不尽な活動を一部のメンバーや教祖で勝手に決めて、それへの一方的な忠誠や同意を、
仮にソフトな物言いであっても強いたりするのではないでしょうか。
この場合、たとえ使われる表現はソフトな物言いでも、その本質は拒否を許さない高圧的な命令だと思います。
一見公平なやり方に見える統計的検定も、意識してか無意識かは
別にして、ある詭弁のためにねじまげて利用することは至極容易です。
長々と挙げてきた様々な目安も、疑似科学への批判と同時に、その疑似科学の擁護に利用された経緯をもつものが大半です。
ですから、おかしいと思ったら、まず『立ち止まって考える』こと。
そのように立ち止まることを許さない・躊躇わせる圧力がもしあるとしたら、
そこには圧力をかける側にとって、何らかの不都合が隠されているのかも知れません。
この『立ち止まって考えること』こそ、健全な懐疑主義の基本だと思います。
そのための材料を、きちんと提供する事が誠実さだと思いますし、不自然に特定の材料を伏せて、
同意や結論や判断を求めるとしたら、それは『不誠実』な『勧誘』だと思います。
さてさて、長々とお読み頂き本当にありがとうございました。(深々)
議論の叩き台になれますように、なるべく分かり易くと気をつけたつもりではありますが、
分かり難い部分などありましたらお気軽に仰って下さいませ。
更に精査し、いずれサイトのテキストとして、UPしたいなぁと考えております。m(__)m
180
:
【>>157より移動・再掲載】
:2007/03/22(木) 22:03:26
157名前:創価瓦解 投稿日: 2007/03/22(木) 20:21:37
ハゲの話は要するに数学的帰納法を非数学に持ち込む矛盾ということですね。
尚、ハゲでない人の頭髪はおやそ10万本だそうですので、頭髪が1万本の人はハゲと言えるでしょう^^
そもそも科学を宗教の正当性に利用するなど、その宗教が自ずからの教義に説得力がないことの傍証と言えるのではないかと思います。
181
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/03/22(木) 22:06:42
>>180
瓦解さん
ヽ(´Д`;)ノアゥア...
ごめんね! 瓦解さん挟んじゃって。(汗)
あのままだとレス付け辛いと思ったので、勝手に移動しちゃいました。ごめんなさい。(陳謝)
レスは、また後で書きに来ますね〜♪
182
:
創価瓦解
:2007/03/23(金) 01:01:23
こちらこそ、割込んでしまいすみませんでした。
ついでだからハゲについてもう少し・・・ちなみに私はふさふさであります^^
そうそう、ルイセンコ学説なんて懐かしいものが出てきて落涙しそうでした^^;
ついでにショスタコービッチのオラトリオ「森の歌」が浮かんできた・・・暇な時に調べると面白いです。
さて、ハゲについては「そもそも本数で決めていいもんかい?」ということと「はっきりした定義をするものかい?」ということを放置して、何本云々ということをやるのには気をつけないといけないということがありますね。
つまり「あーた、勝手に三世があることを私が了解するという前提で言っちゃあだめよ、うふん^^」というやつです。
額と頭の区別ができないのがハゲだというと、天辺ハゲに対する差別に・・・何を言ってるんだ?
今日はこの辺で勘弁してやろう←ヲイヲイ^^;
183
:
ひゃっきまる
:2007/04/30(月) 09:58:22
>蛙さん
力作お疲れ様でした(^^)
科学哲学概観のテキストとしても素晴らしいものですね。
184
:
プルート
:2007/05/02(水) 08:20:42
蛙さん、おはようございます。
すごい力作ですね。すでに私の頭はウニ状態で、なかなか脱皮??できません。
仮説と予測する結論の間に哲学が存在する、あるいは哲学があって科学する、フムフム。
・・・・・わかんないわ〜。 でも瓦解さんの
さて、ハゲについては「そもそも本数で決めていいもんかい?」ということと「はっきりした定義をするものかい?」ということを放置して、何本云々ということをやるのには気をつけないといけないということがありますね
これなら、わかりそー・・・。 ありがとう瓦解さん。
前提と定義、事実と真実、そこに人が関われば、人の数だけそれらは存在してしまう。
どこで線引きするか、それさえも。 はあ〜〜、です。
ちなみに、私の父は天辺ハゲ、主人の父は白髪(主人もフサフサの白髪化)、それでもって、息子は額があがってきていると悩んでおりまする。
185
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 19:01:35
>>180
>>182
創価瓦解さん
すみません、すっかりこちらのレスが後回しになってました。(汗)
今からでもよろしければ、何なりとご質問下さいね。(^^;
で、一点指摘しておきますと、数学的帰納法と、ここで述べている枚挙的帰納法の問題は別なのです。
数学的帰納法は、ここで言う枚挙的帰納法と異なり、厳密な証明として働きます。
何故かと言えば、数学的帰納法における斉一性原理は、
帰納法それ自体ではなく、自然数の法則によって成り立っているからです。
つまり、枚挙的帰納法においては、斉一性原理は帰納法という手法自体によって成り立ち、
他方、枚挙的帰納法も斉一性原理によって正当化される。
この点で循環論法だというのがヒュームの批判なのですが、
数学的帰納法では、斉一性原理を保証するのは自然数の法則であって、
数学的帰納法が斉一性原理を成り立たせている訳ではないのですね。
ですから問題の性質が違います。
数学的帰納法では、斉一性原理は数学的帰納法自体に依存している訳ではありません。
186
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 19:22:12
>>184
プルートさん
お返事が遅くなって申し訳ありません。
別スレに頂いた内容にも、レスを返せてなくて恐縮ですが、
こちらに書き込みを頂けて嬉しかったのでこちらを先に。(^^
>すごい力作ですね。すでに私の頭はウニ状態で、なかなか脱皮??できません。
駄文をお誉め頂き恐縮です。
大丈夫です、こういうのに慣れてないだけだと思いますよ。>ウニ状態
順を追ってゆっくり考えれば、そんなに難しい事は何も書いていませんから。
>仮説と予測する結論の間に哲学が存在する、あるいは哲学があって科学する、フムフム。
いやいや、そんなに小難しい話ではないです。
一羽目のカラスが黒かった、二羽目のカラスが黒かった、三羽目のカラスも黒かった…それがずっと続いたら、
カラスってみんな黒い。つまり「カラスとは黒い鳥だ」という法則が導ける気がしませんか?
導けるとしたら、それはどうして正しくて、穴があったり正しくないとしたら、どういう場合でしょうか?
まぁ、そんな話をしてるだけですから。(^^ゞ
つまるところ、「当たり前」の事が何故当たり前で、
どういう時には「当たり前でなくなる」のか。そういう風にも言えますね。
私たちが当たり前に使っている言葉にも、分解すれば文法というものが見い出せるでしょう?
要は、これは思考の文法のお話です。
「当たり前」を分解して、あれやこれや色んな角度から光を当てているのですね。
ですから難しく考えず、気になったり引っかかった事は気軽に言って頂けると有難いです。
「分かったフリ」が、一番よくありません。
第一、こんなこと知らなくたって日常生活には何の影響もありませんから、
それをあえて知ろうとするなら、気軽に楽しまなくては損です。(笑)
187
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 19:27:15
確かにこういう考え方には、初めはちょっと抵抗があるかも知れません。
しかし、それは創価瓦解さんやプルートさんが、哲学や論理学の考えに、
少し慣れていないだけであって、慣れれば難しい話でも、まして高尚な話題でもない訳です。
知らない事は、何だか窮屈に感じるものです。
分かり易く言うなら、これはバスケットや野球のフォームみたいなものと、考えてみて下さい。
慣れない内は、正しいフォームを押し付けられて窮屈に思えるし、自由に球を投げればよいと思えるかもしれない。
けれど、慣れればやはりフォームが大切な事が分かりますし、そこから初めて自由なプレイが生まれます。
フォームさえ身についていない人間が参加しても、試合にならないでしょう。
つまり、ここで述べているのは、ごく基本的なフォームの幾つかなんです。
ネットでの議論では、この程度さえ知らない方が、難しい言葉で素人を煙に巻いている事がよくあります。
でも、そういう人から――例えばさも「カール・ポパーの反証主義が凄い」ように
吹き込まれても、本気にしたら、しかるべき議論では恥をかくだけです。
言ってみれば、十元連立非線形偏微分方程式の話をするのに、
実は足し算引き算が解らないような事になってしまうのですね。
ですから、ここでは『足し算引き算』の話をしています。
初歩的な話題ですから、分からなくても恥ずかしい事なんか、何もありません。
私だって、分かって説明出来るのは、この程度――つまり足し算引き算くらいですから。(^^;
むしろ、こういう事に興味を持って頂ける事が、説明をしてる側からは一番嬉しい事です。
これは本音でそうですよ。ですからレスを頂けて、正直ホッとしました。(汗)
最初は分からなくても、ちょっと学べば、私程度の事はすぐに身につきますし、
ネットでよくある議論の誤りやツッコミどころくらいは、分かるようになります。
まぁミもフタもなく言えば、『裸の王様』の見分けがつくようになるのですね。(笑)
そういう、ちょっとイジワルかつ興味本位な気持ちで、気軽にご参加頂けると有難いです。
分からないところがあったら、私に可能な範囲で噛み砕いて説明しますから、気軽にお声を掛けて下さい。>ALL
188
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 19:40:35
>>183
ひゃっきまるさん
>力作お疲れ様でした(^^)
>科学哲学概観のテキストとしても素晴らしいものですね。
いやいや、ひゃっきまるさんにお誉め頂けるとは光栄です。
非常に良い書籍があったので、そういう意味では私は何もしていませんが。(^^;
でも、こんな文章でも時間は掛かったので、読んで頂けて
こうしてお言葉を掛けてもらえると、やっぱり嬉しいです。
ひゃっきまるさん、それから最初にレスを下さった瓦解さんと、プルートさんも改めて感謝です。
本当にありがとうございます。(深々)
189
:
プルート
:2007/07/18(水) 14:17:53
蛙さん、お久しぶりでした。
まず、無断で記事をUPしたこと、お詫びします。その上間違って転記してしまい、蛙さんの意図から離れてしまったこと、本当にすいません。
あちらに書かせて頂きましたが、カルトを論じる目的ではありませんでした。
蛙さんがご指摘のように、私は消化しきれていないのです。
息子と彼女と話し合ってからもうとっくに1年以上過ぎました。「何か変」ということが、ネットや本で調べて、少し意味がわかったと同時に、話し合っても通じないという壁の高さを痛感しました。
小さい頭で、考えれば何か糸口がみつかるのではと思い詰めているところが確かにあります。
何を消化しきれていないのでしょうか。
納得しがたいことをこのような形で受け入れなければいけないことなのか?
「創価学会であれば人格を認めてもらえなのでしょうか」と言ったことや「傷つく」彼女に対し、許容量が小さい無理解な人間と思われることへの苛立ちなのか?
このような経緯であっさり許容してきたことで、見て見ぬ振りをする集団を大きくしてしまうことへの責任からなのか?
せめて、「私達家族は人に迷惑をかけるようなことはしていない」などと言わず、創価学会員であることに誇りを持っていてくれなければ、やりきれない・・・・。
もうすでに年だけは大人なのに、大人になりきれない自分にやりきれない・・・・。
今度の土曜に、彼女を連れて息子が帰ってきます。私が何をしなければいけないのか、彼女が自分の口から学会への疑問を言えるよう、そのことに罪悪感をもたないよう「彼女をちゃんと受け入れる」 正念場です。
この場をお借りして何か少し吐き出せて楽になったような気がします。すいません、でもありがとうございました。
190
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/07/18(水) 15:37:36
>>189
プルートさん
あ、どうもようこそです!書き込み頂いて、とても嬉しく思います。
「想学サロン」での記事の引用については、どうかもう気にされないで下さいね。
こうして、プルートさんとやりとりを再開するきっかけになったのですから、私としてはむしろ有難く存じています。
プルートさんのことが、少し心配でもありましたから…。
まず、取り急ぎのレスなのですが、
>蛙さんがご指摘のように、私は消化しきれていないのです。
>息子と彼女と話し合ってからもうとっくに1年以上過ぎました。
プルートさん。とっくに一年ではありません。まだ、たったの一年です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1184389563/24
↑にも、ちょっとだけ書かせて頂いてますが。私が少なくともネット上で、少しばかり冷静に
学会の問題については応対出来るのは、それに迷惑してから、もう長い時間が経っているからです。
たとえば、「想学サロン」も含めて、学会の問題をきちんと自覚されてるような学会員さんの場合でも、
「昔の学会は良かったんだけど…」ということはよく言われますよね。
折伏大行進
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E4%BC%8F%E5%A4%A7%E8%A1%8C%E9%80%B2
その昔の学会の、↑これが実態です。
私の子供の頃は、そうした「暴力団体」としての創価学会の被害に遭われた方の体験に、
接する機会がまだたくさんありましたし、その空気をまだまだ身にまとった学会員が、実は身内にもおりました。
そうした親類が、学会になど属していない私たちにとって、大変に迷惑この上ない存在であるのは、ご想像頂けると思います。
ですから、「昔の学会は良かった」と言われれば、「過去を美化するのも大概にしろ、
昔の学会なんて最低の暴力組織、単なる犯罪者育成団体じゃねぇか」というのが、偽らざる感情的な本音です。
そうした感情を一旦置いて、学会員さんの「今の」問題、その悩みに対して私が冷静に応じていられるのは、
そうした暴力団体的な迷惑を見聞きし体験してからは、もう二十年以上経っているからです。
191
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/07/18(水) 15:39:02
(続き)
その上、ネットに発言を始めてからは、その当時の学会の実態をきちんと知り、
認めておられる学会員さんからの、心からの謝罪と真摯な慰めも頂きました。
私は、ありのままの憤りをそうした皆さんにぶつけ、一緒に涙して、受け止められることで、ようやくに気持ちを昇華できたのだと思います。
プルートさんに対して、そのように接せられた方とは出会えましたか?
あなたの気持ちと憤りを、そのまま受け止めてもらえましたか?
むしろ、逆の体験を繰り返しておられないでしょうか。
なのに、自分ばかりが許しを与え、周りを受け止め、
冷静に寛容にならなければならないとしたら、プルートさん自身に対してとても残酷なことだと私は思います。
そのように受け止めてもらわなければ、たとえ何十年前のことであろうが、私は恨み続けていたと思いますから。
今現在その学会問題のただなかにあり、たったの一年しか時間の経過していないプルートさんが、お気持ちが入り乱れるのは当たり前のことです。
まず、それを誰かにぶつけて、不安なお気持ちもありのまま吐き出せてこそ、少しずつ解決のための次の段階にも進めるのではないでしょうか。
問題の真っ只中におられる方が、そう何もかも自分一人で背負えるはずはありません。
「もうすでに年だけは大人なのに、大人になりきれない自分にやりきれない・・・・。
」とは、
あまりに自分自身に対して厳しく容赦ない見方に思えます。
そのように、プルートさん自身に思わせるのは、プルートさんに対して冷酷な血も涙もないことではないでしょうか?
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