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☆★科学/歴史・宗教・心理学/総合雑談スレ★☆

191春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/18(水) 15:39:02
(続き)

その上、ネットに発言を始めてからは、その当時の学会の実態をきちんと知り、
認めておられる学会員さんからの、心からの謝罪と真摯な慰めも頂きました。
私は、ありのままの憤りをそうした皆さんにぶつけ、一緒に涙して、受け止められることで、ようやくに気持ちを昇華できたのだと思います。

プルートさんに対して、そのように接せられた方とは出会えましたか?
あなたの気持ちと憤りを、そのまま受け止めてもらえましたか?
むしろ、逆の体験を繰り返しておられないでしょうか。

なのに、自分ばかりが許しを与え、周りを受け止め、
冷静に寛容にならなければならないとしたら、プルートさん自身に対してとても残酷なことだと私は思います。

そのように受け止めてもらわなければ、たとえ何十年前のことであろうが、私は恨み続けていたと思いますから。

今現在その学会問題のただなかにあり、たったの一年しか時間の経過していないプルートさんが、お気持ちが入り乱れるのは当たり前のことです。
まず、それを誰かにぶつけて、不安なお気持ちもありのまま吐き出せてこそ、少しずつ解決のための次の段階にも進めるのではないでしょうか。
問題の真っ只中におられる方が、そう何もかも自分一人で背負えるはずはありません。

「もうすでに年だけは大人なのに、大人になりきれない自分にやりきれない・・・・。
」とは、
あまりに自分自身に対して厳しく容赦ない見方に思えます。
そのように、プルートさん自身に思わせるのは、プルートさんに対して冷酷な血も涙もないことではないでしょうか?

192春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/18(水) 15:40:37
(続き)

それでですね、他の方の話をこのように例にあげるのは恐縮なのですが(freeさん、ごめんなさい)、
freeさんはよく、いわゆる真面目に問題を考えておられる学会員さんのブログに対しても、
「遠くから見守る」というスタンスを表明されてますよね。私は、これが一つの理想的な対応だと思います。

理屈は理屈です。勉強したら感情が消える訳でも、おさまる訳でもありません。
たとえ学会員さんは学会員さんなりに、そう言ってるのは頭では分かっても、
その時にはどうにも納得出来ないし、今の気持ちの収まりがつかないことはあるのです。

それでも対話して、分かり合わなきゃいけない、大人の対応をしなければ…というのも、
一種の思い込みであり、精神的な重荷ではないでしょうか?

どうか、急ぎ過ぎないでください。
いくら解決しなければならない問題だとしても、階段は一段ずつでなければ登れません。
誰よりもまずプルートさん自身を大切にする、そのお手伝いが私はしたいのです。

正直なお気持ち、聞かせて下さって嬉しかったです。
ゆっくり一緒に考えていきましょう。どうかしばらくの間、よろしくお付き合い頂ければと思います。(深々)
まず、今は、今のプルートさんの気持ちから大切に、ゆっくりと目を向けていきませんか?

193free ◆EtDBNAuDt.:2007/07/19(木) 00:03:20
プルートさん こんばんは
>「創価学会であれば人格を認めてもらえなのでしょうか」と言ったことや「傷つく」彼女に対し、許容量が小さい無理解な人間と思われることへの苛立ちなのか? 
このような経緯であっさり許容してきたことで、見て見ぬ振りをする集団を大きくしてしまうことへの責任からなのか?

プルートさんが抱えている苛立ち、あせり、不満 やりきれなさ 私もまた抱えています。

>もうすでに年だけは大人なのに、大人になりきれない自分にやりきれない・・・・。

彼女らの無邪気さ 表面的だけの純粋さを前に ただただ脱力と無力を感じます。私が 木天蓼さんが 血を吐く思いで言った言葉は「何故 私たちだけが我慢しなければならないの? 大人で完璧でなくてはならないの?」

私は 周りに何度も言われましたよ「我慢しろ、大人になれ、みんな我慢していることだ」と。(それが賢いと私も理解しています)しかし彼らへ屈したら屈しただけ報われることもなく、次々に我慢をしいてきてエスカレートするのが 彼らのやり方です。

私は生き方が まったく下手です。しかし 力の強い者に対して 臆面もなく追従する人や巧みに自分の汚れを隠したり、むしろ優しい美麗な言葉の裏で「自分のみ」を主張する「大人」になりたくないのです。

「自分をごまかすこと、自分の汚れから目を背けること、自分のみを護ること そんなことをしたくはない。虚勢を張って誇り高く あちこちと傷つきながらも生きていたい。
器用でからっぽな 大人にはなりたくない。」誰から批判されようと、憎まれようとココだけは譲れないのです。拙く 愚か者だと自覚しています。

プルートさんの息子さんを人質に プルートさんの信念を揺らす創価の人。プルートさんだけが苦しまなくても良いのです。

少しだけ 希望があるとしたら、創価学会は確実に変わっていきます。昔のように無理な折伏は今はなくなりました。活動者の数も年々減っています。選挙で創価票の影響力が無くなった時に、何が起こってくるか?インターネットの普及で、タブーだった創価被害も隠しようが無くなっています。 今 堤防の亀裂がじわじわと拡がりつつある状況です。人もまた変わります。いつか 互いに笑いあえる日も来るかも知れません。

蛙さん 私の例ならなんぼでも、あげて下さいね。例示されて誇らしく思う気持ちもあります。^^

194プルート:2007/07/19(木) 22:06:27
>フリーさん、こんばんは
地震の影響はなかったですか?せっかく復興へ歩み始めたところへ又の大地震、本当に言葉がありません。

こちらに書き込む際、どこにしようか他のところも見てみたのです。フリーさんがお話されているのを見て少しホッとしました。私の話が辛い気持ちを思い起こさせるかもしれないと思い、こちらにしました。何だか申し訳ないような気がしてます。

でも正直なところ、お話しできて嬉しい!!

>蛙さん、フリーさん
昨夜、蛙さんから頂いたレスを見て涙がでてきました。ずっと何十分も画面だけを見続けていました。自分でも少しおかしい雰囲気を感じてましたし・・・・・(笑)。

彼女が学会3世と聞いて、手っ取り早く情報を知ろうとネットを見ました。最初はウイキペディア。結婚しようと思う当事者でない親ならば、このあたりでネットから離れるのかもしれませんが、釈然としない私は次から次へ見ることになりました。これが私の性格なのだと思います。主人の創価学会への意識は「池田大作は信用できない」だけでしたから。

創価学会の知識??を詰め込み、彼女と話して感じたおかしさこそが創価学会員であることの問題点だろうと思う私の気持ちを吐き出すことは、主人でなくても重荷に感じるのは当然だと思います。

今までの鈍い私なら「わかってもらえないんですよね」と言われたら「わかんないよ」ですんでいたのが、今ならわかってしまう。マタさんの気持ちが痛いほどわかる・・・。

5月に息子に会ったとき、息子がしきりに「彼女を守らないと・・・」と言った言葉に過敏に反応してしまいました。私が創価学会について切り出したら「言っても分からない」と知っていても自分が味方にならなければ、そう言う意味とは知っていても。

息子は彼女が好きなのでしょう。canaryさんが言ってらした、別れをきりだされるのではという気持ちと同じだなあと思いました。
私と息子の性格は他の兄弟に言わせれば”全く同じ!”。もし私だったら2年も待つことなんかしないでしょう(笑)。

あんなにイヤだと言っていた会合にも1回は行ったようですし、ネットも見たと言ってました。短気なあの子が2年も延ばしたのは、私達への気持ちなんです。

195プルート:2007/07/19(木) 23:17:17
続きです

息子が結婚したいと言ったのは、国家試験を控える11月でした。それを受けて私達家族は彼女を招いてお祝いしました。息子は性急に卒業したら結婚したいと、主人は国家試験もあるし、研修医となっても1,2年は大変だから落ち着いてからにしたらとか話しましたね。

実際、救急をやりたい息子が朝夜の区別無く病院に張り付く現実は、落ち着いてからで良かったのではと思っていますが。

CANARYさんの新しい記事に「創価学会から彼女を守る」というのがありました。
ご両親があっさり結婚に賛成してくれた事は、その前の記事に書かれてましたが、私達が反対しなければ息子もこうなったのだろうか?・・・・・。

当初、「さようなら、俺の領域に踏み込むな。立派な伴侶を得たのだから幸せになって下さい」と言っていた主人も、息子の結婚の意志が固いことを知るや、「息子を孤立させてはいけない」「息子が考える問題だ」と。前にも増して気持ちを吐き出せなくなりました。

今回来るに当たっても「覚悟して2人で来るんだからわかるよね」

わかっています。でも主人はこういう言い方をするんです。
選挙運動に入り、公明党の太田代表の演説が流れました。演説の中身は太田さんと神崎さんとでどう違うのか関心もありませんが、あの言い方がたまらなくイヤなのです。
アジテーション、同中や聖教新聞の寸鉄が思い浮かぶよう・・・・。
私:「太田さんはイヤだわ〜」
主人;「君は公明党が嫌いなんでしょう」
私:  あ・ぜ・ん

確かに嫌いです。でも学会員以外で公明党が好きな人はそうそういないのでは。

こういう言い方を結構します。私一人だけがこだわっているように感じる言い方。
「創価学会はオウムなんかとは違うでしょ」「それは息子が考えればいいこと」

そう、私は当事者ではない。
勧誘を一切やらない彼女はイヤな思いをしたことがない。「創価学会であれば人格を認めてもらえなのでしょうか」「創価学会だから反対している」そこから一歩も出てこないでしょう。

結婚の挨拶に出向くはずだったのが、前夜の「創価学会員」の知らせでとりあえず中断のまま。息子が謝りに行ったときご両親は彼女に「やめてもいいんだよ」といったそうです。そして息子に「でも、止めたくないのなら、彼女の信仰を認めて欲しい」とも

御書をほとんど読んでいないという彼女、「止めていいといってるけど、彼女が止めないことを知ってて言っている」そう言った息子。   当事者でない私。

やっぱり気持ちの行き場がないかもしれません。救いがあるとすれば、それは息子が「いい子」でないことです。
だから、「彼女を守るって、私達が何か悪いことでもしたの」なんて言えるんですね。反対したことを棚に上げて・・・・。

昨夜遅く娘から私を心配する電話がきました。創価学会の友人からコンサートに誘われたり、本を貰ったりして、創価への警戒心を持ち合わせている私が気持ちを吐き出せる子です。

蛙さんからお返事を頂いたせいか、気持ちが落ち着いていたのですね。私は彼女を認めるけれど創価学会には反対である、そういう姿勢で彼らと付き合って行こうかなと思ったりしています。

勿論、勇気を出して来るその日から、どうこうしようというのでもありません。
私のこういう姿勢だから、息子には「守ってあげなさい」と。必ずしも夫婦2人で「幸せになってね」でなくてもいいのではないかと。
また、余計なことと主人に言われるかもしれませんが、彼らが帰って私も気持ちを落ち着けたら手紙でも書いてみようか、と思っている今現在です。

息子が本当に守らなければいけないのは何からなのか、聞いてみたいです。
長くなって、文章もひどくてすいません。

196春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/20(金) 22:04:50
>>193 freeさん

レスありがとうございます。私はつい長々と細かく話してしまい、どうもダイレクトにお気持ちに届く内容が書けません。
ですから、freeさんからこうして書き込みを頂けると、私に足りないものを補って頂いてる気持ちになります。感謝です。m(__)m

>しかし彼らへ屈したら屈しただけ報われることもなく、次々に我慢をしいてきてエスカレートするのが 彼らのやり方です。

これは本当にそうですね…freeさんが体験されたケースは、ちょっと周囲の異常さの度合いも酷すぎますが、
一般的な場合でも、普通私たちが何かを譲ったり引く場合は、無意識に「お互いさま」と考えていて、
しかも双方がそうだから、改めて言語化しなくてもそれで上手くいってるケースが多いと思います。
で、学会問題の場合もそうだと思ってたら、とんだ煮え湯を呑まされてしまう。

例えば勧誘にきて、何度も断わると「なら聖教新聞だけ取って欲しい」と頼まれる。
こういう場合に、「まぁそこまで言うなら新聞だけ…」と受け入れるのは、
そこを受け入れたら折伏は諦めてくれるかな、という期待がある訳です。

ところが、折伏する側は最終的に相手を学会に入れるための、これは一歩前進だ!と捉えてしまっている。
――図式化すると、大体このような「根本的なやりとりのズレ」が、しつこい折伏に悩まれたというケースでのお話にはよくあったと思います。

一回だけ会合に来て欲しいとか、本だけ受け取って欲しいとかそういうケースですね。
そこを受け入れたら相手も何か引くだろう…そういう当たり前の期待をしてたら裏切られた、と。
これをやらかした場合に、図々しいとか無神経だと批判されるのだと思います。

>プルートさんの息子さんを人質に プルートさんの信念を揺らす創価の人。プルートさんだけが苦しまなくても良いのです。

そう!私もそう思います。

>少しだけ 希望があるとしたら、創価学会は確実に変わっていきます(中略)人もまた変わります。いつか 互いに笑いあえる日も来るかも知れません。

全く同感です。その希望をプルートさんにお届けする具体的な方法を、ご一緒に考えていきたいですね…。

>蛙さん 私の例ならなんぼでも、あげて下さいね。例示されて誇らしく思う気持ちもあります。^^

あう、恐縮です…そう言って頂けると、本当に心強いです。(深謝)

197春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/20(金) 22:06:38
>>194>>195

プルートさん。状況を詳しく教えて下さってありがとうございます。(深々)

読ませて頂きましたが…これは想像以上にお辛い毎日だと思いました。

私のレスなんて、あまりお役に立てなかったのではないかと…
なのに過分なお言葉を下さって、本当にありがとうございます。
こういうお気持ちを吐き出せずに学会問題を考える毎日、本当にしんどかったと思います…。
ここでくらい、遠慮なく何でも仰って下さいね。

>彼女と話して感じたおかしさこそが創価学会員であることの問題点だろうと思う私の気持ち

そこでプルートさんがお感じになられた当初の違和感が、やはり私は大事なような気がします。

私としては、プルートさんの周りを見る目と言いますか…ご自身の不安も大きいと思うのに、
それでも周囲の気持ちや立場について、真面目に受け止めておられる。
自分と異なる気持ちや立場へも、可能な限り理解しよう、そう努力されている思いやりをとても感じます。

ですから、そういうプルートさんが、それでもおかしいと感じ、次々と学会のことを
調べることに駆り立てられた。その違和感というか危機感を、私は信頼出来ます。

それに、息子さんの結婚に関わることなら、お母様は十分当事者だと思いますよ。

>実際、救急をやりたい息子が朝夜の区別無く病院に張り付く現実は、落ち着いてからで良かったのではと思っていますが。

これについても、私はそちらの方面は詳しくありませんが、素人目に見てもプルートさん同様に感じます。
社会人としての息子さんの出発が一段落されてから…というのは、良識的な助言だと思いますから。

ご主人のお話は…何というか、現実が予定通りにならないから自分の現状認識の方を変える、
そうすることで、現実に蓋をしてとりあえず波風を立てずに…という雰囲気は感じますね。
それでプルートさんひとりがこだわっているように言われ、
まるでプルートさんが悪役のようになってしまう。

これはかなり精神的にきついと思いました…。

198春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/20(金) 22:11:43
(続き)

それからご主人の場合にこれが当てはまるかは分かりませんが、例えば池田氏や上層部幹部に対して、
悪魔的な人格だとか、過剰にダーティなイメージを持つとか、そういう中身の無い不安を持っていますと、
それが結構あっさりとひっくり返って、逆に学会被害当事者への残酷な無理解に繋がるケースもあるように思います。

下調べをきちんとしない場合のマスコミ取材などに顕著に現れるのですが、とにかく池田氏が悪魔的なダーティな人物で、
それに率いられてる団体だから悪かろう…そういうイメージだけから学会を考えてますと、
実際に池田氏に会ったりしたらイメージが壊れてしまうのですよ。何だ思ってたより普通じゃないかとか、話が通じるとか。

言ってみればこれは、学会指導を鵜呑みにして、池田氏に過剰な期待と神格化を抱いていた会員が、
その実像に幻滅して学会正当化を辞めるような場合の、鏡写しと考えられます。
中身の無いままのイメージによる断定は、肯定であれ批判であれ、実は強硬派に見えて脆い訳です。

>私:「太田さんはイヤだわ〜」
>主人;「君は公明党が嫌いなんでしょう」
>私:  あ・ぜ・ん

こちらの食い違いにしても、プルートさんは「アジテーション、同中や聖教新聞の寸鉄」ということを踏まえて仰ってる。
そういう理解を通して、実際に太田さんの演説をご覧になり、
ご自身できちんとお調べになった学会の問題と一致するから「イヤ」な訳でしょう。

別に、オウムと同じとか宗教だからダメだなんて、決めつけておられる訳ではない。
学会のことについて、お調べになった上での疑問であり違和感だと思います。
その表明を、何となくのイメージによる偏見のように言われては、プルートさんの努力が報われませんね。

199春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/20(金) 22:12:37
(続き)

>確かに嫌いです。でも学会員以外で公明党が好きな人はそうそういないのでは。

確かに。(笑)
そうそういないでしょうね。だからこそ内部は団結するのでしょうけど。

例に挙げた、「適切な下調べ無しでの池田氏への取材」というのは、この場合では
「アジテーション、同中や聖教新聞の寸鉄」といった知識無しに、太田さんの演説を見るということにあたります。
色眼鏡無しにありのままを見る、と言えば聞こえは良いし、いかにも偏見から離れた姿勢にも見えますが、
実際にはこれじゃあ何にも分からないんです。学会のことに限らず、世の中のどんなことでも。

自分が知らないことを、知らないままに素朴な生活実感の延長で
判断したら、あまり正確な考えに至れないのは当たり前ですよね。

学会内部の方の場合にも、こういうケースはあって、
例えば地元の組織で日々接する幹部の横暴にうんざりしてたけど、
機会があってかなり上の幹部の方に指導を受けたら、結構ちゃんと話を聞いてくれたとかの場合。

それで、学会自体に対する不満は和らいだりする訳ですが、でもそういう現場の横暴って、
生み出してるのも改善する責任を負ってるのも、突き詰めれば組織上層部でしょう?

それを上層部の方は“単に話を聞いてくれた”からって、組織を変えるのは個人だとか、
自分が組織を背負ってるんだから頑張ろうとかって自己責任の方向に行っちゃうのは、ちょっと誤魔化されてますよね。

200春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/20(金) 22:16:02
(続き)

実は何にも解決していないのに、自分の考え方が変わったら解決したように錯覚してしまう。

で、このような方向での自己責任(自己責任=悪ではないですからね、こういう場合はってことです)というのは、コントロール幻想の一種です。
コントロール幻想というのは、状況に対する自己の影響力を、過大に見積もってしまうことからくる判断の狂いです。
↑では、組織に対する個人の力を、そのように非現実的なレベルにまで感じてしまってますよね。

このようなコントロール幻想が実際に実現しているのは、フィクションの主人公の場合です。
フィクションの主人公の場合、多くはその判断と行動がストーリー全体を左右します。
観客は、そのような主人公に重ね合わせて物語を見ることで、コントロール幻想の充足による、自己肯定感を追体験出来るのですね。

つまり、ストーリー全体を左右出来る実感というのは、大きな責任とともに、物語の主役となれる自己肯定にも繋がる訳です。

ですから、学会が与える強固なエリート意識や自己肯定の実感、世界に対する過剰な責任感や、その裏返しの満足感というのは、
私たちが普通に持ち、時にフィクションの世界に心を遊ばせて一時の夢に浸るコントロール幻想を、現実世界で異常に肥大させるところからきています。

ただ、このコントロール幻想は単純に悪いとか、無くなれば良いというものではありません。
むしろ私たちの心の安定には、こうした一種の精神安定剤も必要であって、コントロール幻想を失うのは鬱病の症状でもあります。

ですから、学会の活動に追われた方が鬱病になる場合には、肥大させられたコントロール幻想が、
今度は現実の前に挫折を繰り返すことになるのも、理由の一つではなかろうかと私は推測しています。
現実は、思い通りには――まして学会の指導通りにはいきませんからね。

(以下、続きます。長い上に書くのが遅くてごめんなさい。)

201T.R ◆t4OB0.UQBo:2007/07/20(金) 23:37:35
割り込み失礼m(__)m
>プルートさん
うーん、俺の親戚のパターンに似てますねぇ...。
息子が学会員の彼女をつかまえてきて、片親が無関心(つか息子大事な余り)な結果、
親も揃って入信。
結果として、建てた家もまるで騙し取られたような形で転居せざるを得なくなりました。
(途中経過は煩雑なため省略)
ここから、それまでは脳内アンチだった俺が学会とバトルを始めて今日に至ります。
これは極端な例です。
まさか、俺の親戚を脅したような学会員がザラにいるとも思えません(数の中にはいますが)。
けれど、そんな人こそが「信心強情」として褒め称えられる異常な組織が創価学会です。
そんなのと日常的に付き合うのは、俺個人は御免被ります。

関係者がそんなんじゃないことを祈ります。
が、無関係な学会幹部が事態に口を突っ込んでくる事態も十分にあり得てしまうのが、学会の
恐ろしさです。
無責任な応援しかできませんが、頑張ってください。

202春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/21(土) 02:05:13
>>197-200の続きです。遅くなってごめんなさい。m(__)m

>プルートさん
>CANARYさんの新しい記事に「創価学会から彼女を守る」というのがありました。
>ご両親があっさり結婚に賛成してくれた事は、その前の記事に書かれてましたが、私達が反対しなければ息子もこうなったのだろうか?・・・・・。

そんな風に、あれもこれも自分のせいだと考えちゃいけませんです。
何かが上手くいこうがいくまいが、そこには巡り合わせや偶然の要素も大きいんですから。

これをね、「偶然なんかない、全て因果の法則だ」みたいに捉えて、ちょっとした自然現象にまで意味を見い出す。
まぁ富士門流の教義に含まれるそういう部分が、学会のマインドコントロールに悪用されて、
先に説明したコントロール幻想の肥大をもたらす背景にも、利用されてるんだと思います。

ですから、そういう気持ちの重荷からは、少し自分を解放して差し上げてもいいんじゃないでしょうか?

私も、この問題を考える方のお手伝いを、幾度かネットを通じてさせて頂いてきましたが、
確かに、それまで学会をカルトとかマインドコントロールを用いる団体だとは
全く考えておられなかった方が、やりとりを通じてこの問題を自覚されたケースはあります。

確かに後から考えれば、自分は洗脳されていたと…
また、ご自身では迷惑行為をなさっておられなかった方が、それでも学会の問題点を考えるようになって下さったケースもあります。

端から見れば、私のやりとりが上手くいったように見えるのかもしれませんし、
また相手の方からも非常に丁重な感謝を頂く場合がありますから、余計にそのようにも見えるのでしょう。

203春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/07/21(土) 02:06:28
(続き)

けれども、やっぱりそれらは偶然や巡り合わせの要素が大きいのです。
そのように、謙虚に偶然や巡り合わせの力も借り、協力しあってことにあたった過程で、良い結果の出る場合もあるだろうというのが実感です。
また温厚なだけではなく、厳しく闘う姿勢も同じくらい必要な場合があります。

もしT.Rさんが心配されたようなケースに遭遇した場合は、それこそ闘う事こそが重要です。
温厚になんてやってたら、それこそケツの毛まで抜かれます(失礼)。

当然、全部を一人で背負ったりは出来ませんし、相談相手も必要でしょう。
それに偶然や巡り合わせの力も借りるというのは、タイミングを見極めて活かすということですから、
魚釣りでアタリを待つようなもので、ずっと自分を責めて神経を使っていたら参ってしまいます。
アタリがきた頃には消耗し疲れきっていて、せっかくのタイミングを活かせないということにもなりますよね。

上手くいこうがいくまいが、その全部がプルートさんのせいなんてことは、絶対にありません。
どうかお独りで背負わないで、辛いことはこぼしたりしながら、皆さんで一緒に考えていきましょう。

>勧誘を一切やらない彼女はイヤな思いをしたことがない。「創価学会であれば人格を認めてもらえなのでしょうか」「創価学会だから反対している」そこから一歩も出てこないでしょう。

うーん。引っ張り出す手は、幾つか思いつかないではないですが、今の状況で下手に
そういう反応を引き出すと、ボールを投げたプルートさんが悪役にさせられちゃいそうですよね。(^^;

>蛙さんからお返事を頂いたせいか、気持ちが落ち着いていたのですね。私は彼女を認めるけれど創価学会には反対である、そういう姿勢で彼らと付き合って行こうかなと思ったりしています。
>
>勿論、勇気を出して来るその日から、どうこうしようというのでもありません。
>私のこういう姿勢だから、息子には「守ってあげなさい」と。必ずしも夫婦2人で「幸せになってね」でなくてもいいのではないかと。

過分なお言葉、お気遣い頂いて恐縮です。
うん、私も当面、とりあえずはそれで良いと思いますよ。
息子さんと彼女さんに会われるのは、今日ですよね?
私も、思いついたことはまた書かせて頂きますから(いつも長くてすみません/汗)、
プルートさんもまた何なりと仰って下さいね。

204free ◆EtDBNAuDt.:2007/07/21(土) 08:37:07
目の前の 純粋な無垢 無邪気な目を見つつも あなたの抱えている創価学会は私は受け入れないと 考えてしまう苦しさ。
「何故 創価学会が受け入れてもらえないのか」そこを 心の底から考えてくれると こちらも救われるのですが。

息子さんが護りたいのは「彼女達への社会の偏見の目」でしょうね。でも 偏見ではないのです、酷い事をやってきた団体だからこそ疑い、嫌い 関わりを断ちたく思ってしまうのです。原因があって結果があるのです。

プルートさんは、私が考えていた以上に追いつめられていらしたのですね。ひとり 感情を表に出さず、耐えていらしたのではないですか? 私だったらとっくに 旦那にキレていただろうと思いますよ。「一人 私を悪者にするな! あなたは私の何処を見ている? 息子の幸せを望まない親がいるか」とね。

>私は彼女を認めるけれど創価学会には反対である
私も それで良いと感じますよ。今日 プルートさんが静かな気持ちでお二人を迎えられることが出来ればいいと願います。

こんな状態の時に 私のことまで心配下さりありがとうございます。地震は全く影響ありませんでした、避難所の方々が一刻も早く安定した日常に戻ることを願うばかりです。
創価問題については、メールでやりとりをしている方もいらっしゃいます。ただ話を聞くだけの役割ですが 創価問題は知り合いに気軽に相談できないので 話されて少しは心が軽くなられるようです。話を聞くことで私も気持ちがシャンとしますので、私のことはどうか お気遣いなく。

蛙さん
>私はつい長々と細かく話してしまい、どうもダイレクトにお気持ちに届く内容が書けません
私の方は どうも感情が先走ってしまい、うまく説明できないところを 本当に補って頂いていると思います。蛙さんのように説明できると良いだろうなぁっていつも 唸なっています。
>希望をプルートさんにお届けする具体的な方法を、ご一緒に考えていきたいですね
本当にそうですね、私だけではなく ROMっていらっしゃる方も思いついたら、お力をお貸し下さい。

205春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/08/01(水) 06:48:41
>プルートさん

私がfreeさんのお話も例に挙げさせて頂いたのは、プルートさん自身のお気持ちが落ち着くまでは、
学会員さんのサイトに乗り込んだりなんてチャレンジしないように忠告したつもりだったのですが……。
双方ともに、負担になったり傷つくだけの結果になってしまいがちですから。

そもそも、プルートさんの場合は、息子さんの彼女が学会の問題を自覚してくれるか、もしくはその彼女が
息子さんの結婚相手として問題があれば、それが周囲にもはっきりすれば済む事ではないでしょうか?
実現に伴う困難とは別にして、その根っこは至極分かり易い話であるはずです。
そのグランドプランに沿って、具体的な対処は何かを話し合うのが現実的な気がします。

色々と抱え込み、考え過ぎてはおられませんか?
学会や信仰を否定する、そのこと自体への罪悪感とか。

もしそうなら、以下の学会員さんと◆Bwr5tJDUMcさんのやりとりが、些かヒントになるかと思います。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1184344035/286-301

↑に貼らせて頂いたリンク先のやりとりから、◆Bwr5tJDUMcさんのご意見の幾つかを抜粋して引用します。
以下は、学会擁護の詭弁にだけでなく、良識的な学会員さんもその良識故に陥りがちな罠に対する、
非常に優れた指摘です。またアンチに対する示唆に富んだ警告でもあるでしょう。


>アメ玉を舐めても癌が治るという効果・効力はないと訴えることは無意味なことでは
>ありません。客観性や合理性のある(厳密には近似にすぎないとはいえ)真理・真実を
>提示するという意味があるのです。


>>彼らは信仰がしたいのです。履き違えてはなりません。
>
>その望みの重大な問題に目を向けるように訴えることは、健全な懐疑精神を育成する
>上でもとても大切なことだと私は考えます。何故、信者達は信仰がしたいのか?
>これこそが本質に関わる問題なのではないでしょうか。人の望みと真実を混同し
>履き違えてはなりません。仮に心の安定を求めているのだとすれば、特定の
>信仰以外の方法を模索できるかもしれませんし、わざわざ選択の幅を狭めることも
>ないでしょう。

206春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/08/01(水) 06:54:59
(引用続き)


>現在、創価学会には創価学会の信仰というものがあります。その信仰姿勢に問題があり
>改善すべき点があるのであれば、その根拠・理由が必要です。個人的な思い・望みを
>根拠・理由に信仰の是非を問うことの妥当性を提示してみてください。


最後の一文の問うところは、アンチやカルト問題に取り組む者も陥りがちなところへの、警告でもあると思います。
客観的かつ合理的な根拠によらなくては、自らの「思い」や「信念」と学会員さんの「思い」とのぶつかりあいになります。
それは、不毛な神学論争に発展しがちです。

信仰を否定するという罪悪感から、それを救ってくれそうなドグマに頼る。
それではカルトの鏡写しになってしまいます。批判に信念は必要ありません。
内容が適切であり、公平に客観的に問題を言い当てているなら、尚どうしてそれを行う自分を責める必要があるでしょうか?

心を砕くべきは、それが本当に客観的か、合理的な批判か否かです。それを問う議論にこそ、耳を傾けるべきでしょう。
ですから気をつけるべきは、自らの望みと現実を混同してはならないという、その一点にあります。
彼らに対して、彼らの信ずるところの不都合を認めることを要求するのですから、
自らが自らの不都合な事実から目をそらすならば、それは不公平です。

そのためには、やはり自分自身の気持ちや心に少しばかりのゆとりがなくては、辛いと思います。
それ抜きに自分を勉強に追い立てては、いつの間にか偏狭なドグマに囚われても気付けませんし、
それを指摘されても、必死の努力を否定することになりますから、素直に改めることが難しくなります。

そうすると、信者さんも批判者側も無自覚なまま、どちらも自分では公平なつもりで偏った信念や危機感に囚われてしまうことになるのです。

つまり必要なのは、彼らに対抗出来るような信仰や思想ではなく、自らも好都合・不都合を問わず、
客観的な事実や合理的な疑いに向き合おうと努力出来る姿勢だと思います。
それこそが、彼らに示す範となります。
取り組んだ問題の結果がどうであれ、そのような姿勢を身につけるのは、人生にけして損にはならないでしょう。

207春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 18:55:28
さてさて、こちらのスレに書き込むのも本当に久しぶりです。
てか久しぶり過ぎ? つか手抜きせずにちゃんとサイトを更新しろ?
あぅあぅあぅ、ごめんです。すみませんなのです。(汗)
相変わらずの怠けぶりで皆さんのハートをわしづかみ♪なのです。(意味不明)

――ということでですね、今回からは、以前に↓や乾闥婆さんのブログで予告したネタを、やっとというか今更ですが、少しずつ書かせて頂こうかなって思います。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1184389563/101
内容的には、これまた今更ですが、このスレを始めた当初にこだまさんやひゃっきまるさん、
salamさんがご参加下さった内容の続きになる予定です。つまりは人間の認知や知覚に関するお話ですね。

あと、実は↓でfreeさんと話しております問題にも、後々関わってくる内容なのですが、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1168911339/927-
まずはあまり難しいことや重いことは考えずに、気軽に楽しく話せる内容から始めたいなと考えております。宜しくおつきあい下さいませ〜

んでね、皆さん。早速ですが特撮はお好きですか? いやいや、ご自身がお好きでなくても構いません。
お子様とか親戚のがきんちょ共とかがそういえば観てるなぁーって、そういうので一向に構わないのです、はい。

最近は私、日曜日の朝にテレ朝系列で絶賛放映中の「仮面ライダー電王」にハマっておりまして、
これが特撮マニアだけでなく、一般のお子様にも好評なのですね。いやもう、かーなーりー楽しい!と。(笑)

仮面ライダー電王公式サイト
http://www.toei.co.jp/tv/den-o/

仮面ライダー電王-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E9%9B%BB%E7%8E%8B

208春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 18:58:06
>>207続き】

まぁ、日曜朝の特撮枠で放映中の作品ですから、別に難しいお話でもありません。誰もが、何も考えずに楽しく観られます。
けれども、『特撮』というテーマから考えますと、なかなかに奥深いものがあるのですよコレが。

そこで、一つコレを認知科学的な側面から考察しつつ、脳科学や心理学を含み、
仏教教理辺りまで広げた統一的な理解を促す、そんな解説に仕上げてみたいなぁなんて愚孝している訳です。
まず最初は「仮面ライダー電王」を出発点にして。(笑)

はい、そこの「そりゃ無謀だろ?」と思ったあなた。いやいや、これがね?
しちめんどくさい内容を身近に引き寄せて噛み砕くには、意外と有効な手段の一つなんですよ。
題材が特撮だったりアニメだったり、ゲームやラノベ(ライトノベル)なのは、多分に私自身の趣味ですけどね。

……ヲタクな上に、そういうジャンクフード以外はろくろく本も読まないから、それしか得意な話題がないとも言いますがね。(自嘲)

「仮面ライダー電王」に出てくる決め台詞に、「最初に言っておく! 俺はかーなーりー強い!!」という、
そう言いつつ割りとあっさりピンチになってたりする頼もしい台詞があるのですが(駄目じゃん!)、
それにちなみまして、これから述べる内容のキーワードを、最初に一つ示しておきます。
それは、『こころ』とは果たして何処から生まれるのか? という問いです。

「精神というのは私たちの頭の中、つまり『脳』によって生み出され、私たちの認識する世界というのは、そこで形造られる…」
これから述べることになるのは、おそらく通説であろう↑こうした理解とは全く異なる、その上で科学的な解説です。
私たちが一般に知る心理学とは異なる、「もうひとつの心理学」について、これから何回かに分けてお話ししていきます。

――かつて、ある有名な理論と共に、それをおぼろげながら構想していた人物が居ました。
その人物の名前は、チャールズ・ダーウィン。彼の「進化論」は有名ですが、彼の構想した「心理学」は、それに比べて一般に有名ではないと思います。

209春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 18:58:31
>>208続き】

これからお話しするのは、彼をはじめとする、分かり易い説明や理論に惑わされずに「ほんとうのこと」を見ようとした、そんな人達のお話しです。
リチャード・ドーキンズがよく引用する進化論の一節、「絡み合う土手」。その言葉でダーウィンが言いたかった「ほんとうのこと」について、理解が広まる一助になれれば嬉しく思います。

……様々な分野の話を、幾つかのスレをまたぎながらになるかも知れません。ゆっくり気長に、お付き合い下さいね。


さてと、「仮面ライダー電王」です。この作品、仮面ライダーと言いながら重要なのは電車です。
バイクはオマケというか、観てるとはっきり言って「無くても良い」としか思えません。(笑)
時を渡る電車で過去に遡ったりするのですが、ここで重要なのは「記憶」なんですね。これが一つのガジェット(小道具)になっています。

仮面ライダーシリーズにおける「怪人」は、この作品の中では「イマジン」と呼ばれておりまして、
ひょっとすると「イマジン=今人?」と掛けているのかなとも思いますが、これが毎回、どこからともなく現れては
「過去の記憶」に絡む願いを抱えてる人間にとりつき、「願いを叶える」契約と引き換えに、その願いに関係した記憶の時間・日時に遡る力を得ようとする訳です。

たいていは、イマジンはかなりデタラメでいい加減な叶え方をしては、強引に過去に遡って、そこで暴れて過去を変えようとしちゃったりします。
そういう迷惑を防いだり後始末をするのが、「電王」ら主人公たちという訳です。

主人公である「野上良太郎」にもイマジンが付いていまして、彼はその力を借りて闘います。
最近の展開では、良太郎が変身後も自分の意識のまま闘ったりしていますが、当初はほとんど、変身後は自らにとりついたイマジンに人格を明け渡していました。
この良太郎という主人公、むっちゃ気弱でしかも運が悪く、自分ではイマジンと闘ったり出来なかったんですね。

そういう彼が、でもその優しさからイマジンが自分にとりつくことを受け入れ(しかも自分の消耗も省みず何体も!)、
彼につくイマジンたちも文句言ったり仲間割れしたりしながらも、意外に仲良かったりするのが、本作品のキモだったりします。

210春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 19:00:45
>>209続き】

でまぁ、変身後の姿も、良太郎が人格を明け渡すイマジンによって見た目や武器、得意技も違います。
その数だけ、オモチャやフィギュアも売れる訳ですね。私も買いましたが。ゲフンゲフン。(笑)

それはさておき、普段の良太郎にもイマジンがとりつき、彼の身体を乗っ取って行動することがよくあります。
良太郎自身は、気弱でしかも正直者の人格者ですから、口がたつ詐欺師的なイマジンが相手を丸め込んだり、
コワモテのイマジンが押しを利かせたりして、捜査というかお話しを進める訳です。その際のドタバタも面白い作品です。

……いや、「仮面ライダー電王」の説明はまぁ分かったけど、それと現実の認知や知覚の話題に、どう関係が?
あはは、いやいや。これが実に、そういう教材としても適しているのですよ。
たとえばね、この作品のイマジンというキャラクター。
主人公にとりついているのは何体かいますが、最初から登場している「モモタロス」というキャラクターを例に説明してみましょう。

この「モモタロス」ですが、イマジンとしての本来の姿、普段の良太郎にとりついた状態の姿、そして仮面ライダー電王として変身した姿と、三通りある訳です。
普段の良太郎の場合、髪形と目の色は変わりますが、外見は良太郎のままです。んで、声を「モモタロス」役の声優さんが当てられている訳ですね。

「仮面ライダー電王」に限らず、アニメや特撮作品の場合、実写の映画やドラマと大きく異なる点があります。
その一つが、「作品に登場する一つのキャラクターを、複数の人物の手で演じる」という点です。
アニメ作品の場合、アニメーターが描いたキャラクターに、声優が声を吹き込みます。
ですから、キャラクターの「外見」をアニメーターが描いた「絵」が、そして「声」を声優が当てて、一つの「人格」を演じている訳です。

もちろん、脚本やコンテ、演出といった人が居るのは(役割は色々と違っていても)実写の場合と同じです。
ただ、実写だと「一人の役者」が演じるキャラクターを、アニメだと「アニメーター」と「声優」が分担して演じている訳です。
アニメーターが「紙の上の演技者」と言われるのは、そういうことなんですね。

211春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 19:03:42
>>210続き】

特撮作品の場合、たとえば仮面ライダーですが、変身前の役者と変身後のライダーとしての姿に分けられます。
着ぐるみやスーツの、いわゆる『スーツアクター』と変身前を演じる役者が、主人公の仮面ライダーという一つのキャラクターを分担して演じていると言えますね。

まぁ変身前の役者はぶっちゃけ大根の場合も多いし、それでも成り立つんですが(笑)、電王のような作品は、大根役者だと面白さ台無しです。
ですが主人公・良太郎役の佐藤健さんは、実に巧みに演じて、電王の人気を支えておられるように思います。
たとえば「モモタロス」だと、良太郎役の佐藤健さんと、モモタロスの着ぐるみや変身後のスーツを着るスーツアクター、
そして「モモタロス」の声を担当する声優さんが、それぞれの役割を担当するという非常に複雑なキャラクターの演じ方になっているんですね。

このスーツアクターという役割も、見ている方は意識しない場合が多いと思いますが非常に重要です。
着ぐるみやスーツを着て、顔の表情などに一切頼らずに「キャラクター」を演じなくてはならないからです。
声優が「声で演じる専門職」とするなら、スーツアクターは「身体で演じる専門職」であるのですよ。

皆さん、これから仮面ライダーとか戦隊モノの特撮をご覧になることがありましたら、スーツや着ぐるみの登場する場面を、ちょっと気をつけてご覧になってみて下さい。
たとえば仮面ライダーや戦隊モノの場合、ヒーロー側もマスクをかぶっていますから「顔」――つまり表情は無いんです。

けれども「ピンチ」とか「やる気」とか、他にも表情豊かな感情を、スーツアクターは「身体の動き」で演じています。
これは、伝統芸能である能のような仮面劇の「能面」や、人形浄瑠璃の「動き」から、
私たちが豊かな感情表現を、しかも何の疑問もなく自然に感じ取っていることと本質的に同じでしょう。

「仮面ライダー電王」に話題を戻しますと、その役割分担が実に複雑であることが分かります。

まず、「モモタロス」というイマジンの「イマジンとしての姿」である着ぐるみをスーツアクターが演じ、声優が声をあてる。
そのイマジンが人間である良太郎にとりついた姿を、良太郎役の役者が演じて、同じくモモタロス役の声優が声をあてる。
そして、仮面ライダーとしての変身した姿に、やはりスーツアクターと声優が、キャラクターとしての生命を吹き込む訳です。

212春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 19:07:14
>>211続き】

その一つのキャラクターの、それぞれを分担し演じるクオリティが高いからこそ、子供が見ていて自然に「面白い」と感じてくれるんですね。
「子供騙し」にこそ、そういう部分には「理屈で誤魔化せない自然さ」としての高いレベルとアイデアが要求されると、私は思います。

ですから「仮面ライダー電王」は、本来特撮作品が持つこうした側面に特化し、突き詰めることで成り立っている希有な作品と言える訳です。
そして、このような「キャラクターの認知」を、視聴者である私たちに、しかも子供にまで自然に感じさせる、成さしめる根本は何か? というのは知覚理論からも優れた問いになるという訳なのです。

何故なら――考えてみて下さい。「仮面ライダー電王」に登場するキャラクター「モモタロス」は、果たして「何処に居る」と皆さんは思われますか?

はいはい、「見ている私たちの脳の中に…」なんていう解釈だったら駄目です。そういうのは今回禁止です。
だってそれって、簡単かつ万能に何かを説明出来ているようで、実は何も説明出来ていない――思考停止と同じではないでしょうか?

人間、簡単で万能なものに慣れきってしまうと堕落します。
ですからそういうありきたりな解釈ではなく、普段は使わないような考え方にちょっと挑戦してみましょう。

ここで言う「モモタロス」の場合、それを構成するのは「イマジンを表す外見(モンスター)」、
「電王としての外見(ヒーロー)」、「野上良太郎としての外見(人間)」、そして声優の演技です。

私は「外見」と一言で書いてしまいましたが、良太郎には他にもイマジンがとりついていますから、
それとは異なる「モモタロスとしての個性」を、良太郎を演じる役者が演じ分けなくてはなりません。
そして、その「演技」がスーツアクターの演じる「着ぐるみ」と「スーツ」の行動、更に声優の演技と違和感なく一致したとき、
初めて「見ている子供までが」それを「モモタロスという個性」だと納得してくれるのです。

つまり、良太郎役の役者が「モモタロス」として振る舞い、スーツアクターが二体の着ぐるみとスーツで同じ「モモタロス」として振る舞い、
声優がその全てに同じ「モモタロス」としての個性を感じさせる振る舞いを吹き込んで、初めて違和感なく「モモタロス」を認知出来る訳なんですよ。

213春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 19:08:00
>>212続き】

仏教説話に、「ミリンダ王の問い」というものがあります。

ミリンダ王の問い「自己はない(名前の問い、車のたとえ)」↓携帯からも閲覧可能
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi11.htm
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi12.htm
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi13.htm
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi14.htm

↑これは、仏教の「無我説」に関する説明ですね。
仏教の僧侶であるナーガセーナはミリンダ王に対して、無我――つまり「自己」というものは無いのだということを、王の乗ってきた車(馬車でしょうか)に喩えて説明しています。


>(ナ)「大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください。大王よ、いったい轅(ながえ)が車なのですか」と。
>(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
>(ナ)「車軸が車なのですか」と。
>(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
>(ナ)「車輪が…車のかごが…車の杖が…くびきが…手綱が…むちが車なのですか」と。
>(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
>(ナ)「大王よ、いったい轅および車軸および車輪および車のかごおよび車の杖およびくびきおよび手綱およびむちが車なのですか」と。
>(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
>(ナ)「大王よ、それなら轅・車軸・車輪・車のかご・車の杖・くびき・手綱・むち以外のものが車なのですか」と。
>(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
>(ナ)「大王よ、それなら私は質問しても質問しても車を発見できません。大王よ、いったい車とは音声だけのことなのですか。それならここにある車は何なのですか。

>「大王よ、さあ今こそ、あなたは可能ならば言え」
>さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
>「尊者ナーガセーナよ、私は偽って言うのではありません。轅によって、そして車軸によって、そして車輪によって、そして車によって、そして車の杖によって、車という、名称、通称、概念、慣用、名が起こるのです」と。

214春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 19:13:17
>>213続き】

>(ナ)「実に結構です。大王よ、あなたは車を理解なさいました。まさにこのように、私もまた、髪、体毛…脳…物質…意識によって、
>ナーガセーナという名称…名のみのものが起こりますが、最上義(勝義諦)からは、ここに自己は発見されないのです。

>♪部分の集積によって車という語があるように要素があって衆生という名がある」と。

※以上、上記リンク先より抜粋引用。

↑この「ミリンダ王の問い」でナーガセーナが言う「車輪が…車のかごが…車の杖が…くびきが…手綱が…むちが」
という「車を成り立たせるパーツ」が、ここで述べている「スーツアクターや声優や役者の演技」に当たります。
それによって成り立つ「モモタロスという一つの個性」、キャラクターがナーガセーナの言う「車」、即ち「自己」です。

この「無我説」というものを頭のスミに置いて考えて頂けると、これから以降の話も飲み込み易くなると思います。
つまり、「モモタロス」を成り立たせる要素は確かに在るけれど、その核となるエッセンス、つまり本質(自己)のようなものは何処にもないという話なんですね。

じゃあ、私たちは別々の人間が分担して演じる様々な要素から、どうしてそこに「モモタロス」が在ると感じるのか?
それは、着ぐるみの外見から受けるイメージ・中に入って演じるスーツアクターの仕草・そこに声をあてる声優の演技に、統一された共通点を感じるからでしょう。

逆に演じる側の身になって考えれば分かりますが、各々が演じることになる「モモタロス」というキャラクターに対して、
多少のぶれ幅はあっても大体「こういうヤツだろう」という共通の理解がなければ、演技はちぐはぐになってしまいますよね?

ここから考えても、「声をあてているのは同一の声優だから、そこにモモタロスの本質がある!」とするのは短絡です。
実際に番組を見たり、視聴後に雑誌の特集を読めば分かりますが、番組を見てキャラクターを掴んだ後ならば、
雑誌のスチール写真で「モモタロス」が取っているポーズや仕草からも、十分に「キャラクター」を感じることが容易だからです。

215春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/16(金) 19:16:05
>>214続き】

さて、冒頭に述べた「もう一つの心理学」ですが、そこではこの「モモタロスのキャラクター、個性」のようなものを「不変項」と呼びます。
「不変項」は、「ミリンダ王の問い」の中でナーガセーナが否定した「自己」ではありません。
それは、核や「本質」として取り出されるものではなく、動きや関係性の中に存在し、そこから見い出される「性質」の一断面です。

役者やスーツアクターや声優が、別の場所では別のキャラクターを演じるように、またナーガセーナの言う車の部品が、別のものを組み立てれば別な役割を担うように、
「不変項」は「あるもの固有の本質」ではなく、「動きや変化や関係性の中に見い出される性質」です。
ちょうど、私たちが「仮面ライダー電王」を見て、スーツアクターの動きや役者の仕草、声優の息遣いの中から「モモタロス」を見出すように。

そして、このように物事を変化と関係性から捉えて考えるのが、「無常(全ては変化する)」と「縁起(全ては関係し依存しあって成り立つ)」
という仏教の考え方です。そこに自我――核となる本質は無い(無我)という訳なんですね。
現代の認知科学の示すところと仏教の考え方が、深いところで一致するとよく言われるのは、このような点を指しています。

さてと、長々と述べてきましたし、ちょっと混乱してきたかも知れませんから、一旦ここで一区切りと致しましょう。
色々とややこしい言い方をしましたが、慌てて飲み込まずにゆっくり読んで頂けたら、一つひとつはそんなに難しい話ではないと思います。

よかったら、実際に「仮面ライダー電王」をご覧になって、「そういえば、特に頭を捻らなくても自然に「これはモモタロス」って感じてるよなぁ」みたいに楽しんでみて下さいね。
観てる子供も普通に楽しんでる。ちょっと深く考えてみると、それは実は不思議なことかもしれない。
――そういう風に番組を楽しみながら考えてみると、こうした認知や知覚理論に関するお話しも、きっと身近で飲み込み易く感じると思います。

またお子様や近所のガキ様方に「仮面ライダー電王って面白い? どんな話」ってお尋ねになって頂けますと、
親子の対話やご近所ご親戚の円満なお付き合いにも、わずかなりと寄与出来るのではないかとも愚孝致します。m(__)m

216ひゃっきまる:2008/01/14(月) 22:28:28
>>春田の蛙さん

遅ればせながら(こちらでも)あけましておめでとうございます。
「電王」の話のまとめありがとうございます。

いよいよ来週最終回ですね〜(^^)

電王の設定は、「記憶」と「時間」の関係がとてもSF的に面白いと思いました。
何か元ネタがあるのかな?

217あれあれ:2008/01/15(火) 15:39:05
春田の蛙さま:

   多少僕のプライバシーにかかわる部分につきましては、勝手ながらさきほど
メールにて(このサイト冒頭に掲げられたあれです)お寄せ致しました。そちらも
併せて御参照いただければ幸いに存じます。苫米地氏、ちっとも感心しませんが、
ただ、彼にはできるという、カルトの教祖を手のひらに載せて潰しちゃうという
幻覚、すべてのカルト問題専門家がマスターできたら、どんなにかいいだろうと
思うことがございます。


   僕にも多くの責任がありますが、親鸞会被害者の掲示板、年が明けてから
はずいぶん寂しくなってしまいました。もっと早い段階から【毎日】さんを
異分子として排除してほしかった。あまりにも度が過ぎた「来る者は拒まず」
だったと思います。自己の責任は痛感しつつも…。

218ハヌマーン:2008/01/16(水) 21:48:04
■あれあれさん■
すぐ上のカキコミはこのスレとは無関係です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1195748863/
ここでやるべきだと私は思いますヨ。

【自分の意見を書きたいがために場所も状況も選ばず書き続けること】
このような行為を続けるのは他の掲示板で「荒らし」と言われて気まずくなったことの繰り返しになってしまうと思います。
あの掲示板で注意された内容があれあれさんにはわかっていなかったのかしら?
と私の目に映ってしまいます。

私はあれあれさんにたくさん助けられているので、
だからこそ、このような姿は見たくないのです。
だから、普段はマナー違反的な方に対しては静観する私ですが、そんな私が思い切って書き込みました。

このスレにこの後
「お詫びついでに…」などと謝りつつ長々と弁明を、あれあれさんが書くかもしれませんが
(どうやらそのような傾向があるようなので)、
続きは春田さんが用意してくださった
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1195748863/
こちらでどうでしょうか。

私も
あれあれさんからの私宛に書き込みがあったとしても
このスレでは返事をしない方向です。

ちょっと厳しい書き方をしてしまいましたが、あれあれさんに暴走を繰り返して欲しくないという、私なりのあれあれさんへの思いがあってのことです。

219春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:25:07
>>218 ハヌマーンさん
気持ちを汲んで頂いてのお気遣い、恐縮です。本当に助かりました……。(深謝)

220春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:28:00
>>217 あれあれさん
>   多少僕のプライバシーにかかわる部分につきましては、勝手ながらさきほど
>メールにて(このサイト冒頭に掲げられたあれです)お寄せ致しました。そちらも
>併せて御参照いただければ幸いに存じます。

了解しました。そちらにも返信は書かせて頂きますね。ただ、幾らかお時間を頂ければと思います。
ハヌマーンさんからもご指摘がありましたように、ご案内したのは↓こちらのスレだったのですが。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1195748863/

ただ、苫米地氏に関する説明に限って、ここにこのまま書きます。後述しますように内容が、偶然このスレの話題と重複していますから。

ただし、それへのレスは、交通整理の意味でも上記のスレ↑に移動お願いします。>あれあれさん

また他の方が、あれあれさん個人へのレスや話題ではなく、カルトの問題についての一般的な意見や疑問として、
苫米地英人氏の話題についてレスされる場合は、ここに引き続き書き込み頂いて構いません。
この問題は、科学や心理学の理論を用いて引き起こされる心理カルトに関わる問題として、一般的な話題でもありますから。

>苫米地氏、ちっとも感心しませんが、
>ただ、彼にはできるという、カルトの教祖を手のひらに載せて潰しちゃうという
>幻覚、すべてのカルト問題専門家がマスターできたら、どんなにかいいだろうと
>思うことがございます。

うん。まさにその点をあれあれさんは根本的に間違って、錯覚なさっておいでです。
彼について他のことに感心されるならまだしも、そのように幼稚でインチキな
手品師のペテンのことを感心されているから、そこにも苦言を申し上げたのです。

――まず分かり易く、普通の世間一般の常識で考えてみましょう。

「私は他人に思った通りの幻覚を見せる能力がある」

↑普通、こんな馬鹿なことを言う人がいたら、「それは何かの漫画かアニメ?」とアホらしく感じるのが、当たり前の大人の常識です。
まぁ事実、苫米地氏は「自分をエヴァンゲリオンとかウルトラマンになったとイメージして、洗脳から身を守れ」なんて
実に幼稚でバカバカしい主張をなさっていますが(笑)。【ソース:「洗脳護身術」苫米地英人(三才ブックス)】

221春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:29:46
>>220続き】

……ちなみにこの本で苫米地氏は、手を触れずに相手を吹き飛ばす「洗脳カメハメ波」という
技の使い方なんかを解説しています。ハッキリ言ってバカか電波か漫画の読みすぎです、この人。(笑)

まぁこういうアホな部分の紹介はさておいて、率直に申し上げれば彼の手法は、心理カルトの一種と言っても言い過ぎではありません。
カルト問題の中で取り上げられる心理カルトの手法や被害の特徴と、同一の点が幾つか見られるからです。

そして、そのバカバカしい主張の根幹にあるのが「変性意識状態」が云々といった彼の考えであり、
あれあれさんが感心されている「幻覚を見せる」という手品も、これに基づいた主張です。
……つまりですね。あれあれさんは心理カルトにも見られるありふれた手口の一つに感心して、
あろうことか「これぞカルト問題への有効な対策!」と、カルトの被害家族に吹聴してしまった訳なんですよ。

「変性意識状態」「だから幻覚も見せられます」といった、如何にも勿体つけた「専門ぽい理論の説明」で相手を信じさせ、
そこはちょっと納得かな?と思わせられていると、しまいには「自分はエヴァンゲリオンだ」とか
「洗脳カメハメ波」とか、そんな幼稚でアホな子ども騙しも、何となく正しそうに聞こえてしまう。
ね?単なる詐欺かペテン師の手品、よくあるカルトの手法とも同一でしょう?

私は彼の「洗脳原論(春秋社)」も読んでいますが、そこに書いてある説明も
最初はそう間違ったものではありません。段々おかしくなりますが。(笑)

んで、正しい説明についても一つ特徴があります。正しいには正しいんですが、
分かり易く書けば済むことをハッタリを効かせて煙に巻き、小難しく書いてある点です。

222春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:34:14
>>221続き】

>  フレームの考え方では、人間の概念理解は属性値(attribute-value)ペアによる構造体(素性構造 featurestructureともいう)として行われており、
> この構造体の各属性の値は、あらかじめデフォルトでアプリオリに与えられているものと考えられている。
> したがって、特定の属性値が情報認識時に不足であったとしても、デフォルト値が常識的推論値になると考えられた。
> このメカニズムによって、計算機に入力としては与えられていない情報であっても、常識を利用して推論することが可能になると
> 提案されたのである。その後、もうひとりの人工知能の父シャンクが提案したスクリプト理論もフレームの考え方をベースにしていた。
>
>  このフレームの概念に相当するのが認知心理学ではスキーマと呼ばれる考え方であった。特に認知心理学者のノーマンは、
> スキーマを、記憶の表層としての構造単位のモデルとして提唱しており、行動の記憶の構造単位という理論化においては、
> シャンクのスクリプト・モデルと同等であった。この用語が、のちに臨床心理の分野でミルトン・エリクソン派にとり入れられ、
> 彼らのNLP(Neuro-Linguistic Programming 神経言語プログラミング)手法において
> リフレーミング(ReFraming 再フレーム)という技術として確立されたのである。
>  NLPの解釈では、「リフレーミングとは、意味を変えること」(changing the frame in which a Perceives events in order to change the meaning)
【※引用者注:いちいた英語が本文に引用してあるのがくどいよなぁ……携帯で打つのめんどくさい(涙)】
> であり、まさにミンスキーのフレームモデルにおいて、フレーム情報の変更が意味理解を変更することに相当する。
> もともと臨床心理の現場において、症状が起きる状況(コンテクスト)を変えることで治療を試みる行動療法的手法が効果をあげていたのを受け、
> エリクソン派のバンドラーとグラインダーが六ステップ・リフレーミングとして完成させたものである。
※「洗脳原論」66〜67ページより引用。

……はい。「日本語でおk」と思った人、手を挙げて。(苦笑)

223春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:36:20
>>222続き】

いや本当。これカルトの問題を、一般向けに解説するための本の記述ですよ?
なのに、内容を噛み砕くという努力を一切してない。そういう文章だと示すために引用するのにも、私タイピングに疲れました。(笑)

こういう小難しい前置きが、「ぼくには、じゆうにげんかくをみせるちからがあります」という子ども騙しの手品に、説得力を与えてるんですね。
>>221に示した苫米地氏の解説自体は、概ね正しい内容ですが、そうした一般的な解説と彼個人の信念(思い込み)には、実は隔たりがあります。
しかしこうした知識に不案内な読者は、「一般的に正しい内容」がある時点から「トンデモ」に誘導されていても、気付かない訳です。

ちなみに、「この話題についてはこのスレで適切でしょう」と申し上げたのは、私がこのスレや2chで少しずつ解説を試みている内容が、実は>>221と同じ中身だからです。
全く同じ分野の、同じようなことを説明してきています。トンデモに逸脱しないよう注意しながら、分かり易く噛み砕く努力をしている点が違うだけです。

……ですから、私よく内容が難しいと言われるんですけど、ちゃんと分かり易く書こうと努力はしてるんですよぉ!!!(血の叫び)

…………ハァハァ、失礼。まぁ噛み砕く努力をしないで、むしろ知識を生のまま投げ出して自己顕示(の意図があったかは分かりませんが)に用いると、
>>221のような「日本語でおk」な解説になるという例です。これははっきり言って、あまり意味がないと思います。
何故なら、こうした解説が分かる人には、たぶん解説なんて必要無いと思いますから。

……普通はヘンだと誰でも分かる「当たり前の常識」なのに、上手く誘導されたり誤魔化されて「間違った子ども騙し」を
信じ込まされてしまい、次第に「当たり前の常識」まで狂ってしまう。これは、自らカルトや議論ある団体にハマっていく過程の特徴の一つです。

長くなりましたが、あれあれさんは今、言うなればこの過程の中にあって、普通の常識が分からなくなっているのだと思います。
近い例で申し上げれば、オウム真理教教祖の松本氏に取材したり、対談した文化人や宗教学者が、
心情的に取り込まれてオウムの誤った擁護をしたり、オウムの代弁をしましたよね?
あれあれさんが今ハマっている状態は、これと同じと言えば一番近いでしょう。

224 ◆bfimNvQTb.:2008/01/16(水) 22:38:58
>>222
挙げます。悪文の典型例ですな。

225春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:39:29
>>223続き】

「ちっとも感心しない」けど、彼の「人間に幻覚を見せるという能力」については「すべてのカルト問題専門家が
マスターできたら」と考えるのは、創価学会には「ちっとも感心しない」けど、やはり昔の学会は良かったんだとか、
池田氏には「ちっとも感心しない」けど、彼は側近に騙されてるだけだとか、そういう感傷と同じではないでしょうか。

大多数のカルト問題の専門家が、「カルトの教祖を手のひらに載せて潰しちゃうという幻覚」を見せる
なんて手段に頼ろうと思わないのは、そもそもくだらなくてバカバカしい上に、そんな手口で
「逆洗脳」するのは、カルトを辞めて別のカルトにハマるようなものだと分かっているからです。

――断っておきますが、そういう幻覚が本当に見えるか否かの問題ではないのですよ?
そういう安い手品に頼ってカルト問題を解決出来ると感じる錯覚が、そもそも勘違いであり間違いだという意味です。
そういう幼稚な錯覚を起こすのは、基本から物事が分かっていない証拠です。

――世の中の専門家の大多数が、実は全く正しいにも関わらず、自分の信ずる少数派の主張を重んじ、
その主張が理解されたり取り入れられれば、問題は魔法のように上手く解決すると信じ込まされてしまう。

これは自分と自分の信ずる主張者(の稚拙な手法)が、他の堅実な大多数より勝ると感じている時点で、明らかに誇大妄想です。
広宣流布によって人間が救われる、世界平和にも繋がると信ずるのも、つまりはこれと同じ誇大妄想です。

そもそも、安っぽい理屈をふりかざして「自分には自在に幻覚を見せる能力がある」などと主張し、
「洗脳カメハメ波(笑)」なんて言ってる人物は、常識的に危ないおかしな人です。(苦笑)
危なくておかしな主張を支持するという言動を続ければ、その支持する人間もおかしいと見なされます。
ですから、そういう悪夢からは早く醒めたほうが良いと思います。


……ふぅ、相当長くなりましたし、私も携帯をタイピングするのに指が痺れてきましたから(笑)、一旦ここで区切ります。
下書きはもう少し先まで書いているのですが、続きを清書してUPするのは深夜か明日になると思います。
どうかご了承下さいませ。色々とお返事や対応が遅れておりますことを、お詫び致します。(深々)

226春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/16(水) 22:42:25
>>224
◆bfimNvQTb.さんありがとう。私も全くそのように思います。
趣旨をご理解下さってのご参加、心より歓迎です。(^^;

227春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/17(木) 08:12:45
>>220-225より続き。まず前回の投稿からミスタイプを訂正します。

>>222

× 【※引用者注:いちいた英語が本文に引用してあるのがくどいよなぁ……携帯で打つのめんどくさい(涙)】

○ 【※引用者注:いちいち英語が本文に引用してあるのがくどいよなぁ……携帯で打つのめんどくさい(涙)】

>>223

× >>221に示した苫米地氏の解説自体は、概ね正しい内容ですが、そうした一般的な解説と彼個人の信念(思い込み)には、実は隔たりがあります。

○ >>222に示した苫米地氏の解説自体は、概ね正しい内容ですが、そうした一般的な解説と彼個人の信念(思い込み)には、実は隔たりがあります。

※その他、>>223文中のリンクは全て × >>221 → ○ >>222 へ訂正。


>>225続き】
悪夢と申し上げましたが、苫米地氏の「幼稚でバカバカしい部分」ばかりを紹介しても、
心理カルトとも共通する「危険性」のほうは今一つピンと来ないでしょう。それについても、少しですが触れておきます。

苫米地英人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%AB%E7%B1%B3%E5%9C%B0%E8%8B%B1%E4%BA%BA
> 身柄拘束時から自白が二転三転していた元巡査長から詳細かつ整合的な記憶の呼び起こしに成功している[要出典]。
> しかし、元巡査長については、物証にかけていたことから逮捕に至っていない。一方、K元巡査長の自白を記録した数十巻に渡るビデオは、
> スタンフォード大学の故ヒルガード教授やハーバード大学のスピーゲル教授らに検証され[要出典]、
> 記憶の埋め込みなどがないこと、問題となるような誘導がないことが確認された[要出典]。

Wikipediaの↑これらの記述に、全て[要出典]という注意が勧告されていますね?
おそらく、これらの苫米地氏を擁護する内容は、苫米地氏を信奉する人間たちによるネット対策であろうと思います。

228春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/17(木) 08:14:09
>>227続き】

何故なら、苫米地氏の手法からは以下のような疑いが濃いからです。

>  僕(=山本)は当時から、K容疑者はオウムによる洗脳を解かれたのではなく、逆に苫米地氏の
> 先入観による誘導で、誤って偽の記憶を形成してしまったのではないかという可能性を疑っていた。
> 当時すでにアメリカでは、カウンセラーの不注意な誘導が、クライアントに容易に偽の記憶(「エイリアンに誘拐された」とか「子供の頃、
> 悪魔主義者による虐待を受けた」とか)を植えつけてしまうことが問題になっていたのだが、苫米地氏はそれをご存じなかったと思われる。

「トンデモ本の世界V」(楽工社)165〜166ページより引用。


この『偽の記憶』というのが、心理カルトの問題を理解するキーワードの一つであり、
『アダルトチルドレン』云々といった説明に過度に傾倒する危険性でもあります。
おそらく、ハヌマーンさんはご職業上の職業倫理としても、これにお詳しいからブログでも非常に気を遣っておられるのだと推察します。

そして、あれあれさんがご自分の脳内の想像から、相談者の境遇や心情を決めつけて、
今のようにどんどんお話を進められるのは、この誘導をもたらす危険もあるのです。

ハヌマーンさんのように、それをよくご存じの相手だったのは不幸中の幸いかも知れませんが(と言ってしまうのはハヌマーンさんに甚だ失礼ですが)。
しかし、普通の一般の方だったら、どんどん進められるあれあれさんのお話に新たな感情をかきたてられて、
しかもそれを「以前からの本当の感情」と思い込まれてしまう危険性もありますので、どうか注意して頂きたいのです。


……あまりにも幼稚でバカバカしい主張から成り立つ、存在価値ゼロの信仰や集団や思想信条が、
しかし個人の生活の上ではあまりにも救われない、深刻な被害を引き起こす。
それがカルトやそれに類する問題に共通する、やりきれない辛い側面です。

その意味で、苫米地氏を信じるのも池田氏を信じるのも、本質的にそれほど変わりはないと私は思います。
「洗脳カメハメ波(笑)」なんて本気で言ってる人を、世間が後ろ指さして嘲笑うのは当たり前の評価です。

229春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/17(木) 08:16:21
>>228続き】

しかし彼の小難しい話に惑わされて支援者や信者となった人たちは、馬鹿にされたり笑われるのが不快です。
「洗脳カメハメ波」なんて聞いた感じはバカバカしいかもしれないが、ちゃんと納得いく理論があるんだと抗弁したくなる。

そして、そんな(非常識でバカバカしい)手段に頼ろうとしない、大多数のカルト問題の専門家のほうを、劣るように考えてしまうようにもなるのです。
こうなると、真面目なカルト問題の考察からは孤立してしまい、心理的にも抵抗を感じて、それらが理解出来なくなる。
すなわちカルトの信者が、「当たり前の正しいことを言っている大多数」にむしろ疑いの目を向けて、自分たちの殻に閉じ籠るのと同じなのですね。

――しかしやっぱりね、何と抗弁しようと「洗脳カメハメ波」と聞いて「プッ」と吹き出す一般的な感性のほうが、大抵は残酷ですが正しいのですよ。(苦笑)

230春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/17(木) 08:17:23
>>229続き】

ちなみに、以下は「洗脳護身術」苫米地英人(三才ブックス)に対する、SF作家山本弘氏のご指摘です。

>  最後に、この本の最大の欠点、著者が軽視している危険性を指摘しておこう。
>
>  自分を守るために、何者にも洗脳されないよう精神を強くする――一見、これは正しいように見える。
> だが、それはあくまで自分の信念や思想信条が正しい場合だけだ。もし間違っていたことを信じていたらどうなる?(←原文は太字) 
> 著者の推奨する方法を実践し、自分がマジンガーZやエヴァンゲリオンのように強大だというイメージを
> 構築してしまった者は、間違いを指摘されても認めようとしなくなるのではないか?
>
>  ネット上には、そうした実例がいっぱいある。「相対論は間違っている」とか「ナチのガス室はなかった」とか
> 「アポロの月面映像はスタジオで撮影されたもの」とか「ツインタワーは旅客機の衝突と火災で倒壊したのではなく、
> ビル内部に仕掛けられた爆薬で倒壊した」などと主張するトンデモさんが、山ほどいる。
>
>  どれほど論理の間違いを指摘されても、どれほど明白な証拠を積み重ねられても、彼らは決して自分の信念をあらためようとはしない。
> こうした人種はネット上では「黒騎士」と総称される。映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリ・グレイル』に
> 登場するキャラクターで、剣の勝負で両腕を切り落とされたに、「まだ負けてない」と頑固に主張する奴だ。
>
>  彼らはカルト教団に洗脳されたわけではない。この『洗脳護身術』を読むまでもなく、すでに自分を洗脳してしまっている。
> 自分がエヴァンゲリオンのように巨大で無敵だという強固な内部表現を構築してしまっているため、
> 現実が見えなくなってしまっているのだ。腕を切り落とされていることにすら気がついていないのだ。
>
>  つまりこの『洗脳護身術』とは、「トンデモさんになる方法」ではないのか?
>
>  だとしたら、そうならない方法は簡単である。この本に書いてあるのと逆をやればいい。

231春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/17(木) 08:21:02
>>230続き】
> 自分が小さな存在だとイメージするのだ。たとえば、「相対論は間違っている」という信念は、
> 言い換えれば「私は世界中の物理学者全てよりも頭がいい」という誇大妄想である。
> 「自分の頭がそんなにいいはずはない」と思っていれば、「世界中の科学者が正しいと言っているのだから、
> たぶん自分の考えがどこか間違っているのだろう」と謙虚になれるはずだ。
>
>  人を洗脳するのは簡単である。自分を洗脳するのはさらに簡単である。
> だからこそ、自分を無敵の存在だなどと思わないことだ。
>
「トンデモ本の世界V」(楽工社)170〜172ページより引用。


『心頭滅却すれば火もまた涼し』という言葉がありますが、幾らそのように精神を強く持っても、人間は火に触れば火傷するのが現実です。
熱湯に触れて「熱い!」とすぐに手を引っ込めれば大事には至りませんが、平気だと強がったり、
そもそも何かの原因で感覚が麻痺していて、熱湯に漬け続けていれば大火傷になります。

すなわち私たちに必要なのは、信仰者にありがちな硬直した心の強さではなく、
「自分は間違えることもある只の人間だ」と理解して、間違えた時には早めに引き返せる心の柔軟さではないかと思います。

それを奪って、私たちを引き返しにくくさせるもの――
例えば認知的不協和理論に示されるような、誰もが備える『心のクセ』にこそ、いつも初心に返って留意するべきなのでしょう。


――苫米地氏に関連しては、ひとまず以上です。気になった点やご質問、ご感想などありましたらお気軽にお願いします。m(__)m

232春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/17(木) 08:59:55
【訂正】

>>228に引用して紹介した山本弘氏のご指摘の、以下の部分が抜けていました。大変失礼致しました。

>  苫米地氏は、K容疑者がオウムの薬物によって記憶を消されていると考え、彼を催眠にかけることで、
> 「国松長官を撃った」という証言を引き出すことに成功した。K容疑者の催眠状態による証言の映像は、
> 九七年二月に日本テレビのニュース番組で放映され、話題となった。

>  だが結局、K容疑者は起訴には至らなかった。証言内容がコロコロ変化したうえ(最初は自分が撃ったと言っていたのに、
> 後になって実行犯は他にいると言い出した)、証言を裏づける証拠が何も見つからなかったからだ。
> 国松長官狙撃事件の真相は今も謎のままである。

>  僕(=山本)は当時から〜(以下、>>228中の引用に続く)


事実関係と時系列は↑のようであるのですから、>>227に紹介したWikipediaの記述が
苫米地氏を擁護するための、悪質な誤魔化し工作であるのはお分かり頂けると思います。

233春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/01/25(金) 02:04:40
>>216 ひゃっきまるさん
あう……せっかく書き込み頂いたのに、ご挨拶がすっかり遅くなってすみません。(涙)
いやもう、せっかく電王ネタ振ったのに全く反応がなくて、ですからひゃっきまるさんの書き込みに救われましたよ〜。

知覚理論の記事の続きもまた書きますから、是非ぜひお読みになって下さいね。
あー……それにしても電王、ひさしぶりに本当に毎週日曜日が楽しみな特撮番組でした。終わっちゃって、ちょっと虚脱状態です。
電王ネタは、色々と知覚理論の解説にも応用出来るので、番組は終わっても引き続き使いたいです。(^^

234春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 02:54:39
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1114432261/589

さてさて、↑で予告した記事なんですが、いざ手掛けてみると、何だか書いても書いても終わらない。(苦笑)
なのでとりあえず、書き上がった分から、少しずつうpしていこうかと思います。
非常に長文になっちゃいますので、皆様無理せず、おひまな時に読んでね。

また、個人の思想信条によっては些かショックを感じる内容や、そうしたスレッドへのリンクも以降の記事には頻出します。
中には宗教や特定の信仰への全否定だと、受け取られる向きもあるでしょう。
また人によっては、(自身が創価学会員であるなしに関わらず)感情を著しく害する内容であると思います。

その点を予めご承知の上で、そうした記事内容であるとご覚悟の上、以降を閲覧下さいませ。
……時には、自身を良識的と任ずる一般人と熱心なカルト信者が意見を一致させる問題について、法哲学の歴史や
現代の倫理学の知見を踏まえた私見を、それらの引用を示しながら論じてあります。

叶うならば、カルト組織に身を置いたご経験のある方ばかりではなく、そうした経験のない一般の方も、
自らが普段自然にそう思っている倫理や常識が何処からきているのかを、ご一考頂けるきっかけになれば……と希望します。

235春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 02:59:14
>>54>>55>>60-61>>77-80>>207-215>>131-179

――以下の記事は、↑の話題の続きになります。先日より私も参加させて頂いた2ch創価板の↓のスレッドでの議論を軸に、

【仏罰】本尊焼いてうpしました 61【落ちない】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/

↑のスレを適切な見解で支えてこられた◆Bwr5tJDUMcさん、法律ヲタさんの議論を支持する目的で書かせて頂きました。

まず、上記2chのスレッドをご覧になっていらっしゃらないお客様のために、幾つか説明を補足致します。
上記スレッドは、そのタイトル通り、創価学会の本尊を焼却処分し、その画像をUPしてあるスレッドです。
ですから、こうした行為に抵抗を感じられる方も当然いらっしゃらることと思います。

「信仰は個人の主観的な自由であり、それを踏みにじるような行いはよくない」

このような観点から、上記スレッドのような行いを好ましからざるものと見る方もいらっしゃるでしょう。
上記スレッドにも、そのような見解を大義名分にして、スレへの賛同者を叩くのに利用しようとする参加者がいます。

逆に上記スレッドを支持する参加者の中には、コテハンとして同一人物だと確認出来る限り、他スレにおいても
信頼出来る見解で、創価問題について悩める方々のお力になってこられた方が複数いらっしゃいます。
悪質な粘着や叩きのターゲットとされている法律ヲタさんは、そのような助言で尊敬されている代表的なお一人でしょう。

http://kibounokaze.hp.infoseek.co.jp/DB/sh_data/21_log.html

↑当サイトにまとめさせて頂いている内容からもお分かりの通り、法律ヲタさんはカルト問題に悩む方々の個々の事情に
配慮しておられ、けして創価アンチとして「脱会しなければ人間として認めない」などと暴力的な極論を強いるような方ではありません。
「◆Bwr5tJDUMc」さんも、またご自身が非活動の学会員さんである「母が熱心で困ってます」さんも、そのような極論は仰いません。
◆Bwr5tJDUMcさんとは、自称アンチの人物の「学会員である以上は全員悪人」という極論に対して、共に批判的なレスを書かせて頂いたこともあります。

236春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:05:27
>>235続き】

では、普段そうした良識的な見解をとっている人物が、上記のような「創価学会の本尊を焼却し画像をUPする」スレッドを支持するのは妥当なのか?
この問題を、現代の倫理学から特に「ケアの倫理学」の指摘を取り上げ、また法哲学の代表的な対立(自然法学と法実証主義)などを例示しながら、
道徳的価値の実在性の根源と考えられる「互酬性」の問題について、◆Bwr5tJDUMcさんが該当スレッドで再三例示されている社会心理学の知見と絡めつつ論じていきます。

あ、ちなみに一つひとつについてはこれから字数や引用のスペースを割き、私に可能な限りですが、その都度分かりやすい説明を努力致しますので、
ここまでで「難しそう」とか「何の話だか分からない」という方も、そこは気にせず読み進めて下さい。(^^;

それから、上記該当スレッドにおける◆Bwr5tJDUMcさんの議論は、簡潔かつ要点を突いた非常に適切な内容です。
以前にハヌマーンさんのブログで、カルト問題を考える際の参考書籍として私は「影響力の武器」を挙げましたが、
◆Bwr5tJDUMcさんの一連のレスは、「影響力の武器」について適切な引用を踏まえた大変分かりやすい解説にもなっています。
この記事でも、その都度触れながら進めていきますが、◆Bwr5tJDUMcさんのレスは記事を読む前にぜひ通読なさることを勧めます。

↓該当スレッドより◆Bwr5tJDUMcさんのレスを幾つか。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/21-23
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/35-37
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/46-47
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/178-185
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/218-230
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/301-302

237春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:06:03
>>236続き】

以降の記事では、◆Bwr5tJDUMcさんが「影響力の武器」(ロバート・B・チャルディーニ著/誠信書房)等から引用しつつ
論じられた社会心理学的な知見と、主観と客観の問題を倫理学の観点から論じた「善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学」
(河野哲也/講談社選書メチエ)の指摘を軸に、主にここからの引用を踏まえた議論を進めます。
では、前置きが長くなりましたが、本題に入ります。m(__)m


> その店のスペシャリティーであるあんずのカクテルを注文した。アロンは自分のコップを指して、/《ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、
> そしてそれは哲学なんだ!》/サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。
> つまり事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であることを彼は望んでいたのである。アロンは、現象学は
> サルトルが始終考えている問題に正確に答えるものだといってサルトルを説き伏せた。(S.Beauvoir『女ざかり』朝吹登水子・二宮フサ訳、紀伊國屋書店、1963:pp.125-126)
>
>  シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『女ざかり』のなかのこの一節は、実存主義という哲学的運動を紹介するときにはかならずといってよいほど引用されるエピソードである。
>  …(中略)…第二次世界大戦後の世界の思想をリードすることになる三人が、衝撃をもってフッサールの
> 現象学的哲学を受け止めたのは、それが「カクテルについて語れる哲学」だからであった。

> …(中略)…現象学の祖であるフッサールは、私たちの生活が、根本的に自然科学的世界像によって塗りつぶされていることを指摘する。
> たとえ私が自然科学に関心をもたず、自然科学の成果について何ひとつ知らないとしても
> …(中略)…このような自然科学的な理念の衣を被せられた世界のなかで、カクテルはどのように位置づけられるのだろうか。

238春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:08:57
>>237続き】

> カクテルは、化学的には、アルコールと水を主成分とした液体へと分析される。しかし他方で、カクテルは味わう対象でもある。
> 私たちは、カクテルの組み立てを味わい、その出来を評価する。またそれは文化的な対象でもある。カクテルを好むことは、
> ビールあるいはブドウ酒を好むこととは別の趣味と選択であり、それはその人のパーソナリティを表現さえしている。
【「善悪は実在するか」(河野哲也/講談社選書メチエ)より引用、改行は引用者による】

さて、ボーヴォワールだの現象学だの実存主義だのサルトルだのフッサールだの出てきて
「何のことやら???」な方、ご心配なく。ここで分かっておいて欲しいのは、簡単なことです。

「自然科学の知識では、『カクテルの成分』は分析出来るけど、『カクテルの美味しさ』は分からない」

そして、

「『カクテルの成分』の分析結果は『客観的な知識』として共有出来るけど、『カクテルの美味しさ』の感じ方は『主観的な感覚』だから、個人のプライベートに属するもの」

という、たぶん“今日の”私たちの大多数がもつ常識(ええ、“今日の”です。普遍的な常識ではありません)についての確認です。
サルトルは、現象学という当時新しかった哲学によって、カクテルの“美味しさ”について
『哲学出来る』と聞かされて驚いた、というのが↑に引用した内容の意味なんですね。

さて、では“今日の”私たちのこの常識は、何処からやってきているのでしょう?
そして、本当に正しいのでしょうか? また『主観的な多様性』を認める“一見寛容な”この常識には、危険性はないのでしょうか?
これからそれについて、まず考えていきたいと思います。

> 【世界から切り離された主観】
>  こうした感性的要素や文化的要素は、どのように科学的な世界の中に位置づければよいのだろうか。
> 近代哲学の解答は、「化学式で記述されるような対象の側面は客観的に実在しているのに対して、
> 感性的・文化的要素は、心のなかの主観的なものである」というものである。
> 化学的液体は実在しているが、カクテルは主観的な対象である。

239春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:11:07
>>238続き】

> なぜなら、あなたがあるカクテルを美味しいと感じても、それは別の人にとってはそうではなく、
> 文化を共有していない人はカクテルとはどういう飲み物であるかさえ知らないからである。

> 近代哲学では、自然科学的世界を客観的実在として、知覚的世界や文化的世界を主観的表象(内的イメージ)として二元的に割り振ってきた。
>  世界から切り離された主観の領域とは夢や幻のようなものであり、真実を追求するはずの哲学の対象にはなりえないということになるだろう。
> サルトルは、私たちの身のまわりを取り囲んでいる生活世界を、単なる夢や幻としてではなく、
> 現実の対象として論じることのできる理論をもとめていた。フッサールの現象学にそれを見出そうとしたのである。
【「善悪は実在するか」より引用】

↑このような『カクテルに対する知覚の説明』を、私たちの脳内の作用、つまり『主観的なもの』として捉える考え方は、
脳科学においても一方の雄です(一方の、と申し上げた通り、知覚理論にはこれとは別の考え方もあります)。
ここではまずフッサールと同種の考え方を、以下に一つ例示しましょう。

> 私たちの心の持つ、「何かに向けられている」という基本的な性質を「志向性」(intentionality)と呼ぶ。
> 一九世紀後半から二0世紀初頭にかけて活躍した、オーストリアの心理学者、フランツ・ブレンターノ(Franz Brentano)は、
> 志向性こそが、物質にはない、心の持つユニークな属性であると考えた。
> 「私が○○を感じる」という主観性の構造は、まさに、私たちの心の持つ志向性そのものである。
【「心を生み出す脳のシステム」茂木健一郎/NHKブックス より引用、改行は引用者による】

ちなみに、このスレッドの>>207-215で予告しました『もう一つの心理学』というのは、↑のような“ある意味常識的な”理論とは別の考え方を指します。
そして、「善悪は実在するか」の著者も、知覚をこのような主観論で捉える考え方を批判し、
この“今日の常識には反する”別の知覚理論を支持する立場です。以下にその著者の批判を引用します。

240春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:14:10
>>239続き】

> …(中略)…サルトルがフッサールの考えに満足できたかどうかは別として、実際に、(フッサールの試みた)
> 志向性による意味付与という考え方によって、カクテルについて語ることができたのだろうか。

>  私はできなかったのだと思う。ある対象を「カクテル」として意味づけるのがあくまで志向性という主観の作用ならば、
> その意味作用が仮に複数の人びとに共有されていたとしても、やはりカクテルは【主観的な意味】(←原文は傍点により強調)でしかないはずだ。
> カクテルが語られるには、主観的な意味としてではなく、客観的な存在物として存在していなければならない。

> すなわち、私がそれを「カクテル」と呼ぶことを知っていようがいまいが、それがカクテルであることに気づいていようがいまいが、
> 最初からそれはカクテルであり続けなければならないのだ。もしカクテルがひとつの意味であるとしても、それは私の心の中ではなく、
> 外界に存在していなければならないはずである。…(中略)…カクテルは、原子が存在しているのと同じ資格で実在していなければならないのである。
【「善悪は実在するか」より引用、改行と()内補足は引用者による】

カクテルが、物理的に原子が存在すると言う場合と同じ資格で実在する!? そのように言うことが、果たして可能なのでしょうか。
それを論ずる前に、何故今日の私たちが、このように「客観」と「主観」を分けた上で、
『多様な主観を尊重する態度』に“良識”を感じてしまうのかを、ちょっと立ち止まって考えてみることにします。

この場合の『主観』とは、即『個人のプライベート』『プライバシー』を指すからではないでしょうか?
その他の公共的な領域は、自然科学的な知識に基づく『客観』で埋めつくされ、個人が自由に解釈できるのは私的な領域だけ。
社会は『法律』によって規制され、そこからはみださない範囲での『私的な趣味・嗜好』が許される。
だいたいこのように感じているからこそ、その私的な領域=主観にまで踏み込み否定する振る舞いには、反射的に間違いだと感じてしまう。

ここで『カクテル』を『宗教』に置き換えても同じです。だから、創価学会員の他宗否定と同じく、学会員が“主観的に”信じている本尊を
毀損する行いに対しても、どちらも個人のプライバシーに土足で踏み込むような行いに感じてしまう。違うでしょうか?

241春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:16:24
>>240続き】

> 【郵便ポストは実在しない?】
>  たとえば「郵便ポスト」は主観的な意味であり、客観的に実在しているのは「四角い金属の箱」である。自然科学の対象は公共的であり、
> 文化や感性の対象は個人的なものである――あたりまえとも思えるこうした捉え方には、あまりに強力な弊害があることにお気づきだろうか。

> 一見するとそれは、「対象の捉え方は各人の主観にゆだねられている」という考え方につながって、個々人に解釈の自由が
> 与えられるかのように思われる。「カクテルはこう飲むべきだ」などといったように、物の捉え方を社会から強制されることに
> 嫌気を感じている人たちは、主観の中に文化的・社会的な重圧からの解放区を見つけたように思うだろう。

> だが、そうだろうか。自由なのは「主観的」とされる範囲での解釈や意味の与え方にすぎない。
> 他方で、公共的な客観的世界は相変わらず自然科学が規定しているのである。
> それは社会的・政治的文脈で言い換えれば、公共的な世界を構築するのは自然科学の専門家とその知識を利用する者であり、
> それ以外の人たちには、その出来上がった公共世界の消費の仕方だけが自由になる、ということにならないだろうか。

> …(中略)…善かれ悪しかれ私たちの生活のあり方を根本から左右する科学技術は、これまで専門家の手にゆだねられてきた。
> しかし近年、生命倫理を中心として、科学技術の生活への応用や導入を専門家まかせにせずに、
> その選択や政策に関して一般の市民が自ら決定できるように働きかける運動が広まっている。
> たとえば、インフォームド・コンセントは、これまで医師の手に一方的にゆだねられてきた医療行為を、患者がその決定過程に参加することを求めるものである。
> 科学倫理学は、テクノロジーの開発と導入と普及の過程に、非専門家である市民が参加することを求めている。

>  主観主義の哲学は、こうした運動にほとんど貢献することができないでいる…(中略)…主観主義は「それが郵便ポストであるかどうかは
> 主観の解釈次第だ」と主張しながら、そのかたわらで、専門家たちにいくらでも自由にポストの建築を許してきたのではないだろうか。

242春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:17:28
>>241続き】

> 専門家はあなたにこう言えばよい。「これがポストであるかどうかは、あなたの意識の問題です。
> 私たちが作っているのは意味や価値とは無縁な鉄の箱です」と。意味や価値の主観主義は、一見、他人の意味や価値に
> 寛容な立場に思えるが、じつは人間相互の無関心を生み、客観的で公共的な場を空白にしてしまう危険性がある。
【「善悪は実在するか」より引用】

↑著者は些か極端な喩えを用いていますが、ここで問題とされていることの深意は、
事実(カクテルの成分、郵便ポストは鉄の箱)と価値(カクテルの味、郵便ポストの役割)を区別する二元論についてです。
事実とは“客観”であり、“価値”は主観である。前者を“世界”、後者を“人間”と置き換えても良いでしょう。
著者の例に挙げた『インフォームド・コンセント』や『科学倫理学』(後述しますが、『修復的司法』なども)は、
すなわち一部の“専門家”が支配する“(と思われていた)世界”から切り離された“人間”を、世界ともう一度結び付ける試みとも言えるのです。

――そして、現代の“カルト”が発揮するあらがい難い誘惑の力も、多くはこうした二元論に由来します。
破壊的カルトの多くは、自らの組織の世界観が現代科学とも一致するのだ、と言いたがります。
これはすなわち、そのカルトに属することによって、自然科学的な“事実”の世界と、個人の持つ主観的な“価値”が
一致する生き方が出来るということです。言い換えれば、世界から切り離され孤立していた人間を、
世界と再び結び付ける。ある意味では『世界という舞台の“真の”主役になれる』という誘惑です。

カルトがよく言う“病気治し”を、インフォームド・コンセントと比較してみましょう。
現実的な病気の治療法は医師が知っている訳ですが、その治療法を理解し選択することに、患者やその家族が共に参加出来る。
それには医師の側の説明責任と共に、患者や家族側にも決定責任が生まれる。これがインフォームド・コンセントです。
医師は、素人である患者への説明努力をしなければなりませんし、患者やその家族側も、その説明を理解する努力が必要になります。

243春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:20:22
>>242続き】

しかし、患者やその家族は(実は医師も)病気を支配しているわけではありません。
治る見込みのある現実的な治療法を医師は提示出来ますが、“絶対に治せる”わけではない。
そのような客観的事実を、“本人次第で”覆せるというのが、多くのカルトの主張です。
現実にはほとんどの場合、治ったらカルトのおかげで治らなかったら本人の責任と言うだけなのですが。

ですから――カルトとは呼べないにしろ、難病を本人の責任に帰しがちな心身医学の
主張に対しても、その科学的な根拠の薄弱さ以上に私は批判的に見ています。
このような主張に人々が引き寄せられる理由にも、病気という客観的な事実に対する無力感や孤独、
また「自分にも何か出来るのではないか」「何かしたい」という願いが根底にあるのではないでしょうか?

こうした願いを健全な形で汲み上げるのがインフォームド・コンセントのような取り組みならば、
逆に付け入り、つけ込んで利用するのが破壊的カルトの特徴の一つだと、私は考えます。

では、そのように客観(事実、世界)と主観(価値、個人)を分離する二元論は、常識として流布してはいるが本当に正しいのか?
実は、それ自体が現実を無視した幻想ではないかというのが、これから本稿で問題とする主題です。

244春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/06(日) 03:21:25
>>243続き】

――主観的な見方を尊重せよという立場から、該当の本尊焼きスレを批判する人間がいます。
ならば何故、一方で創価問題に関わる人間の現実的な事情に適切に配慮している(しかも逆に「脱会しなければ人間と認めない」とか
「創価学会員は全て悪人」と主張する過激なアンチもいるというのに)、法律ヲタさんや◆Bwr5tJDUMcさんや母熱さんといった
過激なアンチへは批判さえ行う良識的なアンチ(良識的かはともかく私も)が、片方で“個人の本尊焼き”は支持するのでしょう。

私は、皆さんが共通して“自分自身と対等に他者個人の事情を尊重する”人物だからこそだと思います。
付け加えるなら、これは私も含めて物事に対する考え方が、概ね客観主義者だからでしょう。
◆bfimNvQTb.さんも、以前は統計ヲタさんと名乗っておられた通り、統計資料やその見方に詳しく、物事の判断は客観的に見受けられました。
またT.Rさんもソース至上主義という意味で客観主義者であり、本尊焼きスレを支持していらっしゃいました。

本尊焼きスレ支持者が概ね論争に強いとしたらそのせいで、議論においては“相手の意見を理解した上で”反論しなければ意味がありませんからね。
如何なるバカバカしい難癖であれ、そのバカバカしさを的確に指摘して反論出来るというのは、
どんなバカバカしい難癖もきちんと読んでいる、すなわち他者の意見に耳を傾けている証です。
結果としての痛烈な反論も、そうした誠実な態度と過程から生まれた一つであることを見逃してはならないと思います。

では、そもそもここで言う客観主義的とはどういうことか? それを論ずる前に、主観主義という態度と、
それが何故現代において概ね常識的な態度と見られるかの分析から、見ていきましょう。


(つづく)

245春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:07:26
承前。

すぐに続きを投稿するつもりが、思いのほか遅れてしまいました。申し訳ありません、
少々体調を崩していたもので……まだ下痢がおさまらなくてちょっとフラフラしてますが。(^^ゞ

では、前回予告しました通り、“主観主義という態度”についての問題から論じていきます。

> 【主観主義とプラトン主義の結託】
>  カクテルが存在するということは、人間的な意味や価値を担った事物が実在するということである。それは、物理学が見出すような性質だけではなく、
> 私たちがこれまで「主観的」と呼んできた性質も、外界に客観的に存在するのだと主張することである。

>  しかしこのように言うと、現代の多くの人は、すぐに「ある人が何に価値を感じるかは、人それぞれだ。
> だから価値は主観的なのだ」と反論したくなるのではないだろうか。そして、主観主義はすぐに道徳の領域にも拡大される。

> すなわち、「道徳はそれぞれの社会や時代、文化によって多様である。だから、道徳も人間の主観に依存する」というのである。
> 主観主義的な価値観や道徳観は、相対主義と結びついて、(少なくとも日本では)かなり広く
> 受け入れられているように思われる。だが、そこには重大な問題点がある。

>  主観主義は、価値観や道徳観の多様性を主張するためにしばしば持ち出される。主観主義の問題点は、価値がさまざまだと
> 主張するところにあるのではない。価値の多様性を、主観という狭苦しく不確かな領域に閉じ込めてしまう点にあるのだ。

246春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:07:59
>>245続き】

>  主観主義は、価値を私秘的な空間に閉じ込める一方で、公的空間を法的なもの・一般的なものに占拠させるにまかせてしまう。
> 個別的・個性的な価値は、公的空間では自分勝手なものとして排除される。公的空間を現実的に改変することは許されず、
> そのルールには異議を申し立てることはまずできない。居心地の悪い公的空間にも、
> 「心の持ちようを変えれば適応できるはずだ」と諭される。個性の主張は、「それはあなたの個人的な考え方ですね」と一蹴され、
> 共同の世界には何らの影響も及ぼさない。主観主義の問題はその無力さにあるのだ。

【※引用者注:ここで挙げられている「心の持ちようを変えれば適応できるはずだ」
  「それはあなたの個人的な考え方(=我見)ですね」という個人への批判は、創価学会内部においても信者の疑問を封じるのに、頻繁に
  用いられることに留意しておいて下さい。後述しますが、これは今日の破壊的カルトの現代性という側面とリンクしています】

>  道徳の主観主義に関してはなおさらだ。「道徳は自分個人で判断するものだ」などと言っている人も、唯々諾々として法律に従う。
> …(中略)…自分に与えられた小さな行動範囲ですっかり満足して、その外側に関心を持たない。
>  このような主観主義の問題点は、究極的には、それがプラトン主義を前提として受け入れていることから来ているように思われる。
> 言い換えるなら、主観主義はプラトン主義とワンセットであり、本書で挑戦しようとしているのはその同盟に対してなのだ。

>  ここで言うプラトン主義とは次のような考え方のことである。すなわち、あらゆる現象の背後には普遍的で抽象的なイデアが存在し、
> それらのイデアこそが真なる実在だという考えである。不変のイデアに比較すれば、具体的で変化する事物は、
> 真実性の薄まった不純な模像にすぎない。単一で、一般的で、普遍的、不変的で、抽象的なものこそが実在的(リアル)であり、
> 多数で、個別的で、特殊的で、可変的で、具体的なものは二の次で派生的であるとされ、両者は二元論的に峻別される。
> 真実在であるイデアは言語で表現され、論理や理性によって把握される。…(中略)…プラトン主義は、
> 近代自然科学のパラダイムをなしており、それを通して私たちの常識に深く浸透している。
【「善悪は実在するか」より引用】

247春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:14:31
>>246続き】

如何でしょう? 少々難しくなってきたでしょうか。
しかし、これもある意味当たり前のことを指摘しているに過ぎません。
以前>>54>>55で、私がこだまさんへのレスでリンゴの重さを例に述べたのと同じことを、ここではプラトン主義として説明しているだけです。
要は“多様な現実”の背後には“共通する本質”があり、見た目の現実や自然や個性の多様さは、
その本質を見え難くする“一種のノイズ”なんだという考え方です。そして、こういう考え方が「私たちの常識に深く浸透している」という指摘です。

そしてこうした主観主義者が、本当の意味で多様な現実を――自らの主観的な捉え方では受け入れきれない現実を――認めたり、
多様な価値観――自らとは異なる他者――を、自身と対等な“もう一つの個性”として認めることは、その建前とは逆に、実はあまりありません。
何故なら、彼らにとって(主観的に)納得がいかない“他者の意見”は、すべからく価値の低い“ノイズ”に過ぎないというのが本音だからです。

それは2ch創価板の本尊焼きスレッドにおいても、宗教的立場から本尊焼きに反対する人達や、
◆Bwr5tJDUMcさんに一連の難癖をつけた名無し氏(途中より155 ◆pO9nos8L.Q氏と名乗る)の意見を見れば分かります。
こうした人達の意見の多くには似た欠点のある傾向があり、ネットを広く見渡しても同様の問題を抱えた意見は散見されるのです。
まずはその名無し(155 ◆pO9nos8L.Q)氏の意見を、具体的に例示しながら見ていきましょう。

【仏罰】本尊焼いてうpしました 61【落ちない】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213871603/

↑上記スレッドより↓レス番号60
>正しいか正しくないかじゃねえよ。
>多数派の支持を得られるか得られないか、だよ。
>人を殺してもいい、という価値観は多数派の支持を得られないから世間に許容されない。
>しかし、人殺しを法で裁いて死刑にして殺してもいい、という価値観は多数派の支持を得ているから
>世間では許容されているわけだ。少なくとも日本では。

248春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:16:11
>>247続き】

↓レス番号90
>そんな小難しい理由で層化はカルト扱いされてるわけじゃねえよ。
>反社会行動をする(反社会行動を誘発する教義を有している)から
>叩かれてるんだよ。
>おまえの言い分だと創価が正しいのか正しくないのか、はインテリ層でないと
>判らないことになってしまう。
>
>で、何を以って反社会行動とするのか、世間常識とか社会規範とか法律とか
>に反した行動が反社会行動となるわけだが、
>このうち、法律は国会で多数決で作られてるわけだ。で、法律をつくる議員も
>多数決で選ばれてるわけだ。ということは法律は多数派の支持によって作られているわけだわな?
>また、世間常識とか社会規範も「普通の人はこういう行動をとるのが当たり前」
>という考えをもとに形成されている。
>言い換えれば「特定の行動をとらない人は普通じゃない=少数派」ということだ。
>おわかりか?

↓レス番号97
>大衆(たいしゅう)はそんな小難しいこと考えてないから。
>創価から反社会的な行為を受けてムカついた、
>何故ムカついたか、というとお前さんの言うような理屈でムカついてるわけではなくて、
>「今までこんな仕打ちを受けたことが無い」という経験則に基づいてムカついてるに過ぎない。
>で、なぜ「今までそんな仕打ちを受けることが無」かったかというと、
>そんなことをしないのが普通、というのが世間常識だからであって、
>その世間常識は多数派の支持によって形成されてるわけだよ。

↓レス番号146
>世の中で「正しい」とされていることは相対評価なんだよ。
(中略)
>時と場合と場所によって何が正しいかなんて変わるんだよ。
>アラブに行けばコーランに書かれていることは常に正しい、ということになってるけど、
>日本じゃコーランだの、アッラーだのは知ったこっちゃないからな。

【こうした↑一連の主張への、他の名無しさんによるツッコミ(レス番号148)↓】

>148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/22(日) 12:49:24 ID:???
>多数決が常に正しいならホロコーストもまた正しいということになるな。
>ナチスは極めて民主的な手続きで政権を得たことをお忘れなく。

249春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:19:34
>>248続き】

↓レス番号149(ツッコミへの反論)
>>>148
>>ホロコーストもまた正しいということになるな
>当時のドイツにおいては、な。
>
>でも当時の世界の人口の方が当時のドイツの人口より多いのは理解できるよな?
>ドイツ領内の多数決では支持されたものが、世界レベルでは支持されなかった、
>というだけの話。
>ユダヤ人排斥がいけない、というのも相対評価だから。

↓レス番号155(以降『155 ◆pO9nos8L.Q』を名乗る)
>いや、俺は正しいよ?相対的にねw
>俺の意見は多数支持を得られると思ってるから。
>俺の意見に賛成できない少数派もいるだろうね
>(↑この物言いをしてる時点ですでに自分の意見が「絶対」だとは思ってないわけ。おわかり?)
>おまえは過去スレによれば「本尊焼きという手法が多数支持を得られるとは思ってない」らしい。
>なら、自分のやってることは「正しい」はずなのになぜ多数支持を得られないのか考えてみたらどうだろうね?

↓レス番号157
>「何が正しいかなんてのは時と場合と場所によって変わる」「絶対の正義なんて無い」
>てのはよく言われる話だろ。
>なぜよく言われるのか?多数支持を得てるからだよw
>「自分らの言ってることは絶対の正義で、それが多数支持されないのは問題がある!」
>なんてのはキチガイの物言いですよ。
>まあキチガイは言い過ぎかもしれんが、柔軟性に欠けた物言いなのは間違いないね。
>創価も、Bwr5もね。

↓レス番号190(155 ◆pO9nos8L.Q)
>>Bwr5
>とりあえず、おまえの言ってることは科学等で説明がつくことに対してしか通用しない。
>世の中には正当性が科学では説明がつかないことがある。
>例えば、マナーだ。
>「女性には年齢を聞かない」のが正しいマナーとされている。
>この場合、正しい根拠は何だ?科学その他で説明がつくか?無理だわな?
>この例では「多数支持を得ているから」としか答えようがないわけだ。
>しかしこのような場合でもおまえは「その手法内容の正当性が問題なのです!」
>と言い続けるわけだ。ご苦労なこったw

250春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:22:22
>>249続き】

↓レス番号206(155 ◆pO9nos8L.Q )
>年齢なんか人間にしかないんだから女性の年齢を聞かないというマナーは
>人間の理性から来るものでしょう。
>そういう本能の話とは違うと思いますよ。

最後に引用した↑このレスは、マナーということに関して『子猫どうしじゃれあっていて爪を出して
引っかくと痛いという感覚を覚えてお互いに爪の出し入れをコントロールする』
『その根本は、基本的には 「他人の嫌がることはしない」 というもの』
『そこに大勢のコンセンサスが形成されている、それは自分も嫌だと思うことは他人からされたくない、と思っているから』
という指摘を受けたことへの155 ◆pO9nos8L.Q 氏の反論です。この指摘は先に述べた“互酬性”と関わってくる問題ですので、
ちょっと心の隅に留めておいて頂けると、以降の議論が分かりやすくなるでしょう。

“プラトン主義が染み込んだ主観論者”は、多くの方が不思議なほど共通して、こういう場合に『人間の理性』を道徳の主体として持ち出し、
“人間と動物”を区別したがります。それは各々がプラトン主義のことを意識しているか無意識かには関わらず、以下のような理由からでしょう。

>  プラトン主義は、存在論的にも価値的にも、ロゴスに優位を認める思想である。ロゴスとは、古代ギリシャ語で、
> 「言葉」「論理」「理性」を意味する。本書で言うプラトン主義は、「ロゴス中心主義」と呼び換えてもよい。ロゴス中心主義は、
> 感性的な多様性を貶める。理性によって捉えられる不変の性質に比べて、身体感覚によって捉えられる多様性は幻や夢のようなものとされる。
> たとえば、色、音、匂い、味などの感覚的性質は心の中に惹き起こされ主観的な性質にすぎない、と考えるのだ。
【「善悪は実在するか」より引用】

251春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:26:57
>>250続き】

ですがおそらくここまでの指摘を読めば、155 ◆pO9nos8L.Q 氏は『自分は“絶対的な正しさ”を否定することで多様性を認めている』
『“感性的な多様性を貶め”たりなどしていない。それをしているのは本尊焼きスレの賛同者たちのほうだ』等と反発なさると思います。

しかし、先に例に挙げた“噛まれたら噛み返される”といった原初的な応報性のルール
――すなわち“善意には親切(笑顔)”で、“悪意には抵抗(怒り)”で報いたいと感じる私たちの根底にある互酬性は、
彼の主張する“多数派”“理性によるマナー”といった主張によって確かに圧力をかけられています。
つまりそのような個々人の素朴な感情や皮膚感覚こそが貶められているのです。
そこにこそ、単純な社会的ルールでは測れない具体的個別的な、人それぞれの対立と歴史が“存在”するのに、です。

そう、私は“存在”と申し上げました。こうしたことが“物理的に原子が存在すると言うのと
同様に実在する”と考えるのが、「善悪は実在するか」の著者の提唱する倫理学での試みです。
この問題については、以降もカルトの現代性や二世三世問題、他にもケアの倫理学や法哲学における議論に関係して度々触れることになります。

ところで本尊焼きスレにおいては、『脱会者は本尊を焼くべきだ』などという論調が支配的なわけではありません。
『本尊を焼いても仏罰などない』という当たり前のことが述べられ、それに基づき個々人が自由に己れの所有物を処分しているだけです。

『俺は焼いたんだからお前も焼け』などと言われて押し掛けられている訳でもないのに、何故、わざわざ
『俺は焼かないんだからお前も焼くな』と言ってスレへ乗り込んでくる人は後を絶たないのでしょうね?(笑)
こうした点からも、主観論者は実は多様性を認めない――自分とは異なる他人の“歩んだ歴史”や“対立を含む人間関係”を圧殺する存在であるのが分かると思います。
彼らが本心関心があるのは“自らの主観”を受け入れさせ、認めてもらうことであって、そのために多様性を主張しているのです。

“プラトン主義と結び付いた主観論者”にとっては、“差異”とは私的領域にのみ存在を許されるノイズに過ぎません。そして多くの場合、
彼自身の主張する主観的見解のみが、“世界の背後にある真実”と結び付いた法則的な見解である(と思い込んでいる)のです。

252春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:31:16
>>251続き】

……一連の155 ◆pO9nos8L.Q 氏の主張は、その都度◆Bwr5tJDUMcさん法律ヲタさん両氏から、詳細に根拠を挙げた上で逐一誤りを指摘され、すでに論破されています。
そのことは元スレッドをご覧頂ければ明らかです。155 ◆pO9nos8L.Q 氏は、無理な主張を通すためにお二方のご意見を歪曲するということも行なっており、
その言動の非は明白なのですが、そうではあっても一連の彼のレスをこうして抜き出して並べてみれば、しかしそこに一定の説得力を感じる方も多いことでしょう。

その“説得力”こそが、意識するしないに関わらず、今日の我々の常識には“プラトン主義と結び付いた主観論”が浸透している証です。
だからこそ、それに基づいた主張には“説得力”が生まれるし、如何にそれへの的確かつ詳細な反論がなされたとしても、
反論に対して反射的に主張者は抵抗を感じ、自分が間違ったとは認めがたいのだと思います。根本的には“自分が正しい”はずだと思わされてしまうのですね。

そして逆にそうした主観論で批判を受けた側は、その指摘によってネットに自らの体験や感情を語ることを躊躇い、
個別的具体的な“自己の歴史”や“経験した対立”を語ることには萎縮してしまいがちになるのです。
何故ならそれは、(ネットという)開かれた公的な場所に個人の私的領域を持ち出す振る舞いにあたるからです。

【近代における法的なものの優位】
>  もちろん、実際のプラトンの著作に見られる議論は、これほど単純に割りきれるものではない。ここで問題としたいのは、
> プラトンその人の思想ではなく、不変の一般者を先に前提しておき、そこから変化する具体的現実が導出できると考える思考法一般の妥当性である。

【※引用者注:著者の言う“不変の一般者”は、“ほんとうの仏法”や“唯一の神の教え”といった教義にも、
  あるいは主観的な主張に添えるための説得力となる“大多数の平均”とか“多数派の支持”“権威者の意見”等とも置き換えて読むことが可能です。
  よって主観論者は多様性を口にしながらも、実際には自らの思想信条に基づく“正しい”原理や、
  または根拠に欠ける“こちらが多数派”“これが良識”といった主張を――つまり己れの“信仰”を、他に押し付けたがることになります。】

253春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:38:26
>>252続き】

>  ガリレオやデカルトは近代科学の基本的な枠組みを打ち立てた人たちだが、彼らは自然をプラトン主義的に把握しようと試みた。
> すなわち、自然を数学という言葉によって書かれた書物として読み解こうとしたのである。
> 神は「言葉」で世界をお造りになったが、その言葉とは数学(幾何学)であり、自然法則とは数学によって書かれた神の法である。

> こうして近代科学はプラトン主義的な想定に立って、変化する自然の中に不変の数式を見出すことで発展してきた。
> 現代でも、学校では自然法則を数式の形で表現して教える。私たちは、それら自然法則が実在し、
> その数学的抽象体が個々の出来事の中に顕現していると教えられているのではないだろうか。
> その数式の描くグラフから逸脱したデータは、本来あってはならない測定誤差や不純な攪乱にすぎないとされる。
【「善悪は実在するか」より引用】

以上のようなことでありますから、現代のカルトはほとんどが、自らの教義を現代科学とも一致するのだと主張し、
そこからはみ出ることを許さず、その法則や枠組みにメンバーをはめこもうとします。
それによって、カルトメンバーはそれ以外の人間よりも『世界の真実』に近いことになり、
世界という“客観”と、カルトメンバー個人の“主観”の深い一致が味わえるからです。

ですから“プラトン主義と結び付いた主観論”によって私的な領域での自由は味わえても、“科学の支配する客観的な”世界からの阻害を
漠然と感じていた(もちろんこれも本人の思い込みなのですが)現代人に向けて、カルトは分かりやすい答えを提供することになるのです。
……また、こうした問題がある以上、宗教カルトの場合は必然的に、“ほんとうは科学的事実こそが客観的な世界の真実なのだ”と
深層では認めてしまっていることになります。『宗教的信仰は個人の主観だから否定するな』とは、裏返せばそういうことです。

いってみれば、これは宗教や信仰の尊重どころか、宗教や信仰を科学の下位におき、その奴隷とする言動です。
このような主張が宗教との共存だというのは、見せかけの誤魔化しに過ぎません。

254春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:44:33
>>253続き】

かつて宗教的世界観は、そのいずれが真実なのかを互いに全存在を賭けて争っていました。
“プラトン主義と結び付いた主観論”は、その宗教的世界観が科学的世界観に完全敗北し、
個人の主観的な領域に追いやられたことを意味します。これは宗教の死であり奴隷化です。

そのうえ主観論というお情けをもらって生き延びるのが本当に嬉しいのなら、私はその信仰者を心から軽蔑します。
「法律ヲタさんや◆Bwr5tJDUMcさんのような人達とは、宗教者が共存出来ない」などと寝言を書く方がいますが、
お二方のような人達こそ自らの無宗教という信念を持って“宗教者に情けをかけず、対等に扱って”くれている希有な存在です。
私的領域に追いやって閉じ込め、そこでの存在を許すのではなく、かつてと同じように公の場で
議論の対象とすることが、本当の意味で“無宗教者が宗教の言い分を対等の存在として扱う”ということでしょう。

そのような“大人扱い”には耐えられない、そうされると潰れてしまうと言うのであれば、それがその宗教の限界であり、役割を終え
もうとっくの昔に死んでいるからに他なりません。引導を渡してやるのが本当の情けだと、私自身信仰者の一人としてそう思います。
逆に“大人扱い”されずに子ども料金で存在を許されるほうが、本質的には遥かに宗教そのものへの侮辱と感じます。

【プラトン主義‐主観主義的世界観の限界】
>  それを意識していようといまいと、プラトン主義は現代の私たちの考え方を根本的に規定している。
> プラトン主義において特徴的なことは「法的なもの」に、すなわち、自然法則であれ、社会の法律であれ、秩序づける力としての法に
> 優越性が与えられている点である。道徳や価値を論じる領域も同様であり、そこでは道徳的なものと法的なものが同一視されるのだ。

> こうした思考のセッティングのなかでは、「個別的なもの」「個性的なもの」「個人的なもの」は、私秘的な領域に追いやられ、その実存性は剥奪される。
>  価値や道徳の主観主義を主張する人は、すでにこの「法的なもの」の圧倒的に優位に立った世界で生きており、個人に割り当てられた
> 許容範囲の中で、価値判断や道徳判断に関する自由を与えられているにすぎない。だから、主観主義は無力なのである。
> …(中略)… そして、価値や道徳を法的なものと結びつけることも問題がある。

255春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/15(火) 22:47:16
>>254続き】

> 先に述べたように、法的なものが公共的な空間を占拠することで、個別的な価値は、私秘的な空間に閉じ込められ、
> 主観主義化されてしまう。主観主義と関連して、現在、社会に広まっている「心理主義」が問題視されている。
> 心理主義とは、人間のあらゆる行動(対人行動や社会的行動も含めて)をすべて個人の内的心理によって説明しようとする傾向である。

> 心理主義では、何かの人間の行動をめぐる問題が生じたときに、個人を取り巻くさまざまな意味での環境については
> 既定のものとして触れず、個人の心理にその原因を求め、それを変更させようとする。その社会の抱える根本的な問題をそのままに、
> 個人の内部に病因を求めて、治療しようとするタイプの臨床心理学はその典型である。
【「善悪は実在するか」より引用】

大抵の『カルト』や『議論ある団体』も、その組織の“抱える根本的な問題をそのまま”に、“個人の内部に”原因を求めて
解決せよと指導します。その意味において、カルトとは現代社会の歪んだ鏡像であり奇形児とも言えるでしょう。
こうしたカルトの主張は、現代社会の風潮やその一つである“プラトン主義と結び付いた主観論”を離れては成り立ちません。
すなわち、彼らはある種の“寄生虫”的な存在であり、その独善的な主張とは裏腹に、
カルトは現代社会という“宿主”に依存しなければ成り立たないひ弱な存在でもあるのです。

そして、そのカルトを批判する側までが、時に“デマゴーグ”や“憎悪の連鎖”や“間違った被害者意識”や
“相手への行き過ぎた自己責任の追及”といった、批判対象であるカルトと同じ欠陥を持つ鏡写しとなってしまうのも、
批判者も同様に現代社会の住人であり、カルトと同じ程度には現代社会に依存して、その“常識”に縛られているからに他ならないと思います。

従ってそうした“常識”にむなしさを覚え、あるいは現代社会からの疎外を感じて、そこからの救いを
真摯に求めて飛び込んだはずの場所が“結局カルトであった”というケースは多いでしょう。
また二世三世信者がカルトの影響から離れようと頼った先が、↑の「善悪は実在するか」で指摘される
“心理主義”的な問題を抱えていたケースも、特にネットを見る限りは非常に多いように思います。


(つづく)

256春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/07/16(水) 02:19:32
※訂正。

上記>>250-255の記事中の「主観論」「主観論者」は、
それぞれ「主観主義」「主観主義者」のミスタイプです。

大意はあんまり変わらないかもしれませんが、表現を統一して
分かりやすくするためにも気をつけるべき部分でした。申し訳ありません。

257◇Bwr5tJDUMc:2008/09/19(金) 16:28:13
以前、春田の蛙さんからこちらの掲示板に何度かお誘いを頂いたのですが、
いろいろと思うところがありまして(こちらの掲示板の運営方針や春田の蛙さんに
対して大きな不満があるというようなことではありません)こちらには顔を出さずに
いたのですが、2chで法律ヲタさんが話題にしておられたように(焼きうpスレ
prat63のレス番68)、志向性やアフォーダンスについての議論が何か大きな禍根を
残すことになってしまったのではないかととても心配であり、また残念な結果に
なってしまっているとも思いますので、今回こちらにお邪魔しようと決心しました。

私は、できれば春田の蛙さんがお暇な時にでも件の議論をこちらで再開して頂ければと
願っています。一方で、件の議論を再開するとなると膨大な議論の提示は目に見えていることから
(それが必要になると私は考えています)大きな負担を春田の蛙さんに押し付けるような
ことになってしまうのではないかと危惧しつつ、再開しない方がいいのかもしれないと
悩んでもいます。私は春田の蛙さんに対して恨みや憎しみを抱いているわけではありません。
是が非でも件の議論の再開をという趣旨でもありませんし、再開しなければ大きな禍根が
残ると言いたいわけでもありません。ただこのまま春田の蛙さんと会話することがなくなる
ようなことになれば、それはとても残念だというのが私の正直な気持ちです。

件の議論について再開しないという旨だけでもいいのでお返事を頂ければ幸いです。

258春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/09/22(月) 02:35:55
>>257 ◇Bwr5tJDUMcさん

これは、わざわざご来訪頂いて恐縮です。ずいぶん気を回させてしまったようで……本当に申し訳ありません。
少々体調が勝れないので、2chに復帰するのはもうしばらく先にさせて頂きたいのですが、取り急ぎお返事致します。m(__)m

> いろいろと思うところがありまして(こちらの掲示板の運営方針や春田の蛙さんに
> 対して大きな不満があるというようなことではありません)こちらには顔を出さずにいたのですが

ああ、それは別にお気遣いなく。というか気を遣われちゃうと、むしろ焼きうpスレの荒らしの難癖に説得力を与えちゃうので。(笑)

確かに何度かご案内はしましたが、◆Bwr5tJDUMcさんに限らず私はどなたに対しても、無理にこちらへ書き込むことを勧めたりはしていません。
こうして自サイトを持ってる訳ですから、あまりに長文になる場合は自サイトに載せて案内だけ2chに貼れば、興味のある方だけ読みに来れば済みますし、
また板違いの話題なら移動して行うのが2chの慣例にも沿うと判断しただけのことですから。他者の“行き過ぎたスレ私物化”を批判する以上、自分もそれは行わないというだけの話です。

あと普通に、親しくやりとりしてみたいなぁと感じた方には「気が向いたときにはいつでもどうぞ」とお誘いはしていますけどね。もちろん◆Bwr5tJDUMcさんに対してもそうですよ。(^^

> 2chで法律ヲタさんが話題にしておられたように(焼きうpスレ
> prat63のレス番68)、志向性やアフォーダンスについての議論が何か大きな禍根を
> 残すことになってしまったのではないかととても心配であり、また残念な結果に
> なってしまっているとも思いますので、今回こちらにお邪魔しようと決心しました。

あー…法律ヲタさんのレスも読むには読んだんですよ。ただねぇ…私は今年、夏の間は2chに限らずここの掲示板も含めて、ほとんどレス出来てないのです。

259春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/09/22(月) 02:38:56
>>258続き】

つまりネットに一切顔出してない。でね、先日ひさしぶりにまず自サイトにちょっとレスしたら↓

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1114432261/606
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1184389563/428

直後、すかさず焼きうpスレに↓こうですよ。(苦笑)

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1219754010/89

……つまり連中、私がネットに居ない間も毎日毎日、2chやここに張り付いてたんでしょう。全くご苦労さまです。いやモテる男は辛いなぁ。(爆笑)

ま、冗談はともかく↑の焼きうpスレの流れをご覧になれば一目瞭然ですが、私が自サイトで幾つかレス書いただけで大騒ぎでしょ?
だから、連中をきっちり叩き返せる体力が回復するまでは、そっちに参加するのは遠慮しとこうかなと思ったんですよ。
きちんと対処したり相手出来ないなら、そちらのスレが荒れるだけになって返ってご迷惑ですから。
そういう時の荒らしや粘着への対応は、無視が基本です。(笑)

> 私は、できれば春田の蛙さんがお暇な時にでも件の議論をこちらで再開して頂ければと願っています。

はいはい。こちらであれば構いませんよ。
ここなら連投規制もありませんし、板違いの話題でコテハンがスレを占有といった問題にも抵触しませんから歓迎です。
ただちょっと時間的体力的な余裕がありませんので、他のお返事やレスの合間合間にゆっくり…ということで宜しいでしょうか?

> このまま春田の蛙さんと会話することがなくなる
> ようなことになれば、それはとても残念だというのが私の正直な気持ちです。

それは……ありがとうございます。◆Bwr5tJDUMcさんからそう言って頂ける私は果報者ですね。
もちろん、こちらこそ今後とも宜しくお願い致します。(深々)
無論、遺恨などは一切ありませんので、お気遣いなさいませんように。

あ、それからもしお手数でなければ、法律ヲタさんにも宜しくお伝えください。あちらではずいぶんと粘着が暴れ回ってたようなので、
私なりに自分の体調等も考えてご遠慮申し上げたのですが、お二方にご心痛をおかけしてしまって本当に申し訳ありませんでした……。

260春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/09/22(月) 03:00:46
さて◆Bwr5tJDUMcさんとの議論ですけれど、2ch創価板下記スレッドでのやりとり。その続きになります。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1213814162/l50

再開にあたってまず一つ訂正します。上記スレッド・レス番号>>75。私がギブソンの実験について説明してる部分の「アフォーダンス」は、正しくは「不変項」です。
アフォーダンス理論においては、網膜画像のみが視覚の原因ではないと伝えたくて書いた解説ですが、
私のこの説明の場合は「不変項」であって、アフォーダンスではありませんね。
実際には「物理的に存在しない」「利用可能な面」を不変項として
ピックアップした場合も、動いてそれを触ってみれば分かります(アフォーダンスは知覚出来ます)から。

上記スレッド>>82 ◆Bwr5tJDUMcさん
>「座りやすそうな」椅子とか、「おいしそうな」食物とか、「握りやすそうな」
>ドアノブとか、こういった「概念」

ダウト。そこが上記スレッド>>74-78に示したように、“デザイン分野に流行したノーマンの誤用”なのですよ。
正しくは「座れる」椅子、「食べられる」食物です。↓に再度URLを貼って、今回は重要部分を引用します。

http://www.fladdict.net/blog-jp/archives/2005/06/post_86.php
>では、ノーマンはどのような誤用をしたのでしょうか?
>
>実際のアフォーダンスが、「行為者とモノとの間の行為に関する絶対的な関係性」であったのに対し、
>ノーマンの言うアフォーダンスというのは「実際のアフォーダンスを行為者に伝達する為の情報」
>あるいは「行為者が発見をした(あるいはそう思い込んでいる)アフォーダンス」のことを指していました。

>ノーマンの言うアフォーダンスは「座れそう/座れなさそう」という情報です。

>ダニエル・ノーマンは後年に、「誰の為のデザイン」で言及されているアフォーダンスは
>全て、ギブソンの言うアフォーダンスではない、と訂正を行っています。

261春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/09/22(月) 03:06:32
>>260続き】

次に以下の点について、◆Bwr5tJDUMcさんに確認致します。
おそらく、この辺りからずっと議論がズレているような気がしますので。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1216155953/124
>階段を登らそうという視点(捉え方)を持ちながら設計をしているはず

では、「ロボットに階段を登らせよう」という考え方は、「ロボットに階段なんか登らせなくて良い」という考え方とは『違う』でしょうか? 『同じ』でしょうか?

もう一つ。“人間の心のことは複雑過ぎて、人間自身には理解出来ないかもしれない。
インターネットでさえ、今は複雑になり過ぎていて、人間に理解出来るギリギリのところにきている。”
――このような考え方については、どう思われますか?

また、将来的には人間は人間を超えるために、コンピューターやソフトウェアと接続し
一体化するといったような考え方については、どうでしょうか? 古くは「銀河鉄道999」の機械の身体とか、
最近だと「マトリックス」や「攻殻機動隊」のような、フィクションではお馴染みの設定ではありますけどね。(^^;

――以上は上記スレッドでのやりとりを中断させて頂く前に準備していた内容です。
今回、こちらの掲示板での再開のお申し出を頂きましたので、お言葉に甘えて一部修正の上で投稿致します。m(__)m

262春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2008/09/23(火) 01:44:50
>粘着へ

やれやれ┐(´ー`)┌

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1219754010/89-105

以前も私がネットに復帰した途端に↑大騒ぎしてたが……

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1219754010/762-
> 763:名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/09/22(月) 07:12:09 ID:??? [sage]
> >>762
> 都合が悪くなれば「忙しい」「体調が勝れない(優れないw)」・・・
> カルト風味な言い訳だよな

今度も◆Bwr5tJDUMcさんにレスした途端にすかさず↑だな。朝早くから粘着ご苦労さん。(爆笑)


でな。もちろん私だって誤字やタイプミスはしょっちゅうある。が、「勝れない」は正しいんだよw

http://archive.mag2.com/0000262121/20080503090000000.html

正しい用法にツッコミ入れるとは恥ずかしいヤツwww

……粘着クンはバカなんだからさ、ツッコミ入れるならちゃんと調べてから書けよ。ああ、ネットの辞書検索ぐらいはやったのか?
まぁ常用漢字表以外の読み方だから、小中学校じゃ習わないもんな。粘着クンにそれを期待するほうが無理だよな。すまんすまん。(苦笑)

このレスにも反応して、また粘着クンは焼きうpスレに書き込むんだろうなァ?
私が気まぐれにレスしたら、粘着クンはすかさずいつでもどこでも反応しなきゃいけない訳か?
なら見てて笑ってやるからキリキリ動け“無能な働き者”。(爆笑)

263◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 10:32:34
>>258-261 春田の蛙さん

お返事ありがとうございます。夏の疲れが出やすい時期ですし、余り無理をなさらず、
どうかご自愛下さい。

さっそくですが、件の議論について「ズレている」のは最初から(志向性を絡めて云々の
直後)だと私は考えています。ですので、今回はその最初の部分で私が大きく首を傾げた
点について、より直接的に指摘してみます。前回は指摘が間接的になりすぎているのと、
私の説明がわかりにくかったということが重なり、指摘方法のアプローチとして問題が
あったと反省しています。

アフォーダンス理論に関するご指摘ですが、私はアフォーダンス理論を大きく誤解
していたかもしれないと不安に思っています。ただ、その場合は春田の蛙さんの主張の
柱が崩れてしまうのではないかとも思っています。私の誤解が小さい場合は議論に
重大な影響が出ることはないだろうと思うのですが、それで済むかどうか今はとても
不安です。アフォーダンス理論の部分は訂正を検討中ですので、もうしばらくお待ち下さい。
>>261の質疑については追々触れていく予定です。まずは志向性の問題から振り返ってみます。

264◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 10:35:32
>>263からの続き)

志向性とは、思考とその対象、言葉と指示対象、等々、あるものと別のものを関係づける
「〜についての関係」のことです。これは『心的』なもので、心の特徴とされています。
意味と心は不可分であるとか、心のないところに意味はありえず、意味のないところに
心はありないと哲学者達が認めるのには十分な理由があります。志向性に関する議論は
心についての議論です。

ブレンターノは信念について研究し志向的イディオムの還元不可能性を提唱しました。
クワインは根底的翻訳の研究というブレンターノとは別のところから出発して同じ命題に
辿り着きました。つまり意味に関するイディオムを自然科学の言語に厳密に還元(翻訳)
することは不可能だという命題です。

ここから志向性をどのように扱うかで、心に対する立場が分かれることになります。
概ねヒュームの窮状に対する回答の方向で議論が進むのではないかと私は考えています。

結論から言えば、デネットやホージランドは「心は『存在する』」と主張しています。
私はこの立場を支持します。

265◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 10:37:05
>>263からの続き)

前回の議論における最初の問題部分を引用してみます。

>志向性ということを論じる限り「生物の中で人間の知性だけが特別なのだ」という立場からは逃れられないのではないかと
>思います。それは必然的にホージランドの主張する“真正の志向性”といった問題、つまり「犬には道徳が無いから
>人間と同じ意味で“物を見る”ことは出来ない」という種類の考えに帰結するでしょう。
>アフォーダンス理論は、こうした考えとは真逆の立場、つまり「犬も物を見ているのだ」と捉えます。
(焼きうpスレ62のレス番79より一部引用)

「真逆の立場」ということを極端な懐疑論の表明だと捉えることもできますが、
こちらの掲示板での主張と合わせて考察すると、春田の蛙さんは『始源的志向性』と
『真正の志向性』を混同しているのではないかというのが私の印象です。

上記のレスの前に春田の蛙さんはこちらの掲示板で下記のように述べています。

>“プラトン主義が染み込んだ主観論者”は、多くの方が不思議なほど共通して、
>こういう場合に『人間の理性』を道徳の主体として持ち出し、“人間と動物”を
>区別したがります。(>>250より一部引用、改行は引用者による)

この主張と合わせて考察すれば、春田の蛙さんは、デネットを「『人間の理性』を
道徳の主体として持ち出し、“人間と動物”を区別したがる“プラトン主義が
染み込んだ主観論者”」と評価していることになりそうです。

266◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 10:38:24
>>263からの続き)

まず「生物の中で人間の知性だけが特別」ということについて考察してみます。

春田の蛙さんは上記の主張を否定的に扱っているようです。こちらの掲示板での
一連の主張と合わせて考察すると「特別」というのは「『本質的な』人間と動物の違い」という
意味になりそうです。他には「生物の中で『とても高い』知性をもっているのは人間だけだ」
という意味にも受け取れますが、この場合は何が問題なのか私にはさっぱりわかりません。
前者だと仮定した場合、人間と動物の『本質的な違い』などありませんし、デネットは
それを前提として志向姿勢を論じています。或いは、春田の蛙さんは志向性という概念に
意義などなく、心の存在も認めないという立場なのかもしれませんが、その場合は
道徳の行方がどうなるのか甚だ疑問です。

次に「犬には道徳が無いから人間と同じ意味で“物を見る”ことは出来ない」という
部分を考察してみます。

仮に『犬社会』の存在を認めたとしても、それは『人間社会』とは大きく異なります。
犬に道徳はありません。『人間社会』の中でペットとして暮らす犬を想定しても、
犬は人間と同じ意味で責任を伴う道徳的な立場から事物を『見る』ことはできません。
ですから、私にはこの部分の何が問題なのかさっぱりわかりません。

アフォーダンス理論を支持しているであろう春田の蛙さんは「こうした考えとは
真逆の立場」と主張しています。「犬は『犬の立場から』事物を『見る』」という
ことであれば、そのことをデネットもホージランドも否定しないでしょう。こちらの
掲示板の主張と合わせて考察すると道徳に重点がおかれているので、その点が
「真逆の立場」ということになりそうです。「犬も人間と同じ責任を伴う道徳的な
立場から事物を『見る』」と春田の蛙さんは言いたいのかもしれませんし、
道徳そのものを否定して「犬も人間と同じ道徳的でない立場からのみ(?)事物を
『見る』のであり道徳という概念には意義がない」と言いたいのかもしれませんが、
どちらにせよとてもおかしな主張だと私は考えます。

267◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 10:40:56
>>263からの続き)

同時に「『理論』や『法則』よりも、『現実』や『事実』の側をこそ“原因”と見なす」と
春田の蛙さんは何度か述べています。これが今回の議論の一つの主題ということに
なります。更に続けて春田の蛙さんは動物裁判と交通規則の話題が提示しています。
この部分に関しては、私は概ね同意です。「法の前における虫と獣」(「獲得と喪失」
ニコラス・ハンフリー著、垂水雄二訳、紀伊國屋書店)は、適応主義が主題になって
いるというのが私の理解です。そしてこういった方向の議論はヒュームの窮状への回答になり、
デネットを擁護することにもなると思うのですが(もっともハンフリーとデネットの立場が
同じかどうかは少々疑問です)春田の蛙さんがデネットの志向戦略を否定的に捉えるのは
解せません。

まずは『始源的志向性』という考えと、デネットの志向姿勢の違いについて論じて
みますので、この点について(双方に)誤解がないか(或いはデネットの議論に
大きな欠陥がないか)を確認することを提案します。

(つづく)

268◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 23:26:05
ホージランドのアプローチに倣って、人工物の意味という視点から始めてみます。
私達が作り出す人工物は、私達がそれに意味を与えるという意味においてのみ意味を
持ちます。乱暴な言い方をすれば、人工物の志向性は『派生的で』所詮借り物にすぎず、
それ自身では何も意味しません。一方で『本当の』志向性というのは『それ自身』
志向的であり、他に由来する志向性を持っていないということになります。

私達が使うためにデザインされ、志向されたチェス・コンピューターは、人工的で
『派生的な』目的を除いては、自分自身の目的をいっさい持っていません。チェス・
コンピューターは、戦略を練り戦術を駆使して、相手を負かすという目的を持っています。
現在の盤面の表示に関する状態や、可能な展開を調べるプロセスという内的状態は
『派生的な』志向性であり、『始源的志向性』ではありません。

そこで、どのようなコンピューター・プログラムやロボットを開発しても、それは
人工物であるが故に、人間が十分に(存分に)持っているような『始源的志向性』は
持ちえず、『本当の』合理的な行為者・思考者にはなり得ないと言う人達がいます。
これを『始源的志向性』の教説とします。

269◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 23:28:03
>>268からの続き)

デネットやホージランドがどういった立場なのかを明らかするために、自動販売機が
25セント硬貨を識別する場合を例に考察してみます。(デネットはこれを『さまよえる
25セント硬貨識別装置の事件』と呼んでいます。)

アメリカの25セント硬貨をアメリカの自動販売機に投入すると『私は本物の25セント
硬貨を知覚・受理しています』ということを『意味する』状態になります。これを
状態Qとします。硬貨識別装置はとても精巧にできていますが完全無欠というわけには
いかず、時には『間違いを犯す』こともあります。精巧な偽造硬貨が現れると予想する
こともできるので、25セント硬貨識別装置の設計者は、更に進んだ情報変換装置としての
次世代機を開発するかもしれませんが、『絶対確実』に25セント硬貨だけを識別する
装置を作ることはできません。ひとまずは不完全であっても標準的な装置でなんとか
やっていく方が効率的です。

そうすると、25セント硬貨識別装置の状態Qは通常「真」ですが(まったく合法な
25セント硬貨を受理する)、たまに「偽」になる(偽造硬貨や異物を25セント硬貨として
受理する、或いはまったく合法な25セント硬貨を受理せずに返却する)場合があります。
装置の設計者や製造者や所有者や使用者が共有する意図、その環境・文脈においてのみ、
私達は状態Qの「真偽」を断定することができます。そもそもこの装置を「25セント
硬貨識別装置」と呼ぶことを正当化すること自体、『意図の文脈』に関連させて初めて
できることなのです。

ですから、仮に「25セント硬貨識別装置1980型」という特定の製品がアメリカの工場から
出荷され、パナマのソフトドリンク自動販売機に組み込まれ、重さや厚さ、直径や物質
組成からは区別ができない(図柄や刻印は25セント硬貨と異なる)パナマの25センテシモ
硬貨の識別(知覚・受理・返却)装置として仕事を続けたとしても、驚くことはありません。
(実際に1966年〜1984年の間に鋳造されたパナマの25センテシモ硬貨は、アメリカの
造幣局でアメリカの25セント硬貨の鋳型から作られており、標準的な自動販売機では
アメリカの25セント硬貨と区別がつかないそうです。)

270◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 23:30:57
>>268からの続き)

パナマに運ばれた25セント硬貨識別装置は、25セント硬貨、パナマの25センテシモ硬貨、
精巧な偽造硬貨等のある種の異物のいずれかが投入された際には、いつでも通常は、
私達が状態Qを識別する際に手がかりにした物理的特徴を持った状態になります。
しかし、今度はその「真偽」の内容が異なってきます。パナマにおいては、25セント
硬貨はある種の異物と同様の「誤表象・誤知覚」を誘発する代用硬貨ということになります。
(現在どうなのか私は知りませんが、少なくとも以前は為替レートでパナマの
25センテシモは25セントでした。)以前は25セント硬貨が「きちんと受理される」と
状態は「真」でしたが、今度は25セント硬貨が「きちんと受理される」と状態は
「ある種の異物混入」の「偽」ということになってきます。アメリカに戻れば、
逆にパナマの25センテシモ硬貨がある種の異物になります。

25セント(そして25センテシモ)硬貨識別装置が硬貨を「知覚・受理する」状態は、
今まで状態Qと呼んできたものなのか、それとも新しい状態を「了解した」、状態QBと
呼ぶべきものなのか、これをどう捉えるのかで立場は大きく異なってきます。

結局のところ、「25セント硬貨識別装置1980型」は人工物にすぎず、その知覚・
誤知覚・状態の「真偽」(一言でいえば志向性)は『比喩にすぎない』し、『本当は
(本質的・本来的・内在的には)』「今25セント硬貨がここにあります」ということも
「今25センテシモ硬貨がここにあります」ということも意味しておらず、『本当の
ところはそれはまったく意味を持たない』と言う人達がいます。(フォーダー、
サール、ドレツキ、バージ、クリプキ達はそう主張するであろうと思われます。)

そうであったとしても、「25セント硬貨識別装置1980型」は、もともとアメリカの
25セント硬貨の識別装置として設計されたものであり、これがこの装置の『正しい
機能』であり、文字通りの存在理由だったわけで、この目的を考えつかなれば、誰も
わざわざそんな機械を作らなかったはずです。起源に関するこの歴史的事実からすれば、
(まずは)25セント硬貨を検知する機能を持つものとして特徴づけられるからこそ
『機能に照らし合わせて』状態の「真偽」を識別できるのだと言ってもかまわないでは
ないかという人達もいます。(これがデネットの立場です。)

271◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 23:33:51
>>268からの続き)

「25セント硬貨識別装置1980型」が故郷のアメリカを離れ、パナマで25センテシモ
硬貨識別装置として使われたとしても、或いはドアスップやブックエンドや凶器と
いった物理法則の範囲内で可能な新しい目的で使われたとしても、それは不思議な
ことではありません。過去の来歴を無視して考察すれば、アメリカの25セント硬貨
識別装置とパナマの25センテシモ硬貨識別装置には『内在的な』相違点が何もないのは
確かです。起源が明らかな「25セント硬貨識別装置1980型」の場合は、機能・目的・意味に
関して、状態Qなのか状態QBなのかは、新しい場所(この場合はパナマ)で、この装置が
25センテシモ硬貨を検知する能力『ゆえに選ばれている』かどうかにかかっています。
例えばペプシコーラの販売に携わる人に文字通り選ばれるわけです。こういったことが
『今の存在理由』です。25セント硬貨識別装置は人工物にすぎないのだから、始源的・
内在的志向性といった『より深い』事実もないし、これは人工物を隠喩的・擬人的に
どのように語るのがいいのかというプラグマティックな問題です。

そう主張しても、きっとフォーダーらは気にせず、特に異議を申し立てたりはしないで
あろうと思われますが、まったく同じ道徳的教訓や解釈に関するプラグマティックな規則を
人間に当て嵌めようとすると、議論が紛糾する(袂を分かつことになる)のです。
フォーダーらは(少なくとも)人間の場合には、(いつも見つかるとは限らないにせよ)
『より深い事実』が存在すると信じています。いかなる観察者や解釈者の洞察力にも
関係しない、ある人間(或いは心的状態・志向性)が『本当に意味している』のは何か
という問題について、常に真実が存在すると彼らは考えているようです。(これが
デネットが『始源的志向性』の教説と呼ぶ考えです。)

272◇Bwr5tJDUMc:2008/09/24(水) 23:36:36
>>268からの続き)

心(志向性・人間精神・意識)の『特質』をどのように特徴づけ、名付けるかは
人それぞれですが(例えば『始源的志向性』『内在的志向性』『クオリア』)、
そういったことを信じる人は、(その点において)フォーダー、サール、ドレツキ、
バージ、クリプキ、チザム、ネーゲル、ポパーとエクルズといった人達の仲間に
なれます。そういった『特質』は『胡散臭い』と思う人は(その点において)
デネット、ホージランド、クワイン、セラーズ、チャーチランド、デイヴィッドソン、
ミリカン、ローティー、スタイルネイカー、更にはホフスタッター、ミンスキー、
AI研究者の殆ど全てといった陣営の仲間になれます。

人間が今現在もっている『程度の』志向性が『真正の志向性』です。起源や機能や
目的や意味に関するこの心の問題は、ダーウィンの思想(進化論)に関する議論の
中でも度々似たような内容で繰り返されています。結局のところ私達はいつでも
ヒュームの窮状に戻ってくることになるわけです。

「志向性ということを論じる限り???(以下、>>265-266に戻る)」

273◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 09:13:20
ダーウィンの思想を考察することで『真正の志向性』と『始源的志向性』の違いについて
補足してみます。

コペルニクスやケプラーやデカルトやニュートン以降の近代科学は物質的世界への精密な
数学の応用を伴っています。事物に秘められた数学的本質を発見するには偶然的特性から
抽象を行なうことが必要です。ニュートン物理学はアインシュタインによってひっくり
返されたわけですが、今でもほとんど全ての用途においてニュートン物理学が与えてくれる
ものは優れた近似値です。NASAがスペースシャトルの軌道計算に用いることができる程の
近似値です。事物がニュートンの重力の逆二乗の法則に従っているときには(ニュートン
物理学で『事足りる』場合には)、その対象が何色であろうとどんな形をしていようと、
質量が重要なのであり、それを数学的本質(或いは万有引力)として見出すことができる
わけです。他には炭素や水素や鉄といった『不変の』元素が有限個存在するという考えを
選択した時に、錬金術は化学によって継承されることになりました。化学が見出す基本的な
構造体はその『不変の』本質的特性によって同一として扱うことができます。ここでの
『本質論』はこの世界の現実・事実(或いは真理)を(最も)力強く体系化できいると
私は思います。

しかしながら、『本質論』が、人が考案できるどのような体系・分類図式についても
同様の力を発揮してくれるとは限りません。どのような場合でも『本質論』は〈実際に〉
有用だというわけにはいきません。化学と物理学とをうまくセットにしても生物(或いは
生命)の実在的本質について『決定的な特徴』を見出すことはできないでしょう。
ダーウィンの思想がその試みに水を差すからです。

274◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 09:15:15
>>273からの続き)

『輪郭あざやかな種』という考えを持つ人達がいます。しかし進化のプロセス・
アルゴリズム群による自然淘汰は漸進的で累積的なものであるという事実が、種の
原理的な定義の前に立ちはだかります。変種というのは『発端の種』のことであり、
この発端を『輪郭あざやかな種』に変えてしまうものは、何かの存在ではなく不在です。
この不在というのは、かつて必要であった謂わば『踏み石』としての中間的な存在が
絶滅し、実際にそれぞれ形質が異なったり生殖的に隔離されたりする二つのグループが
後に残ったという意味です。種に『本質的な違い』はありませんが、『実際の違い』を
認めることはできます。

その興味深い事例として有名なのがセグロカモメとウスグロカモメが形成する広大な
分布域のリングです。英国から西の北アメリカに移動するセグロカモメは、英国の
セグロカモメとは多少形は異なるものの英国付近では(概ね)『セグロカモメに違いなく』、
分布域をシベリアからロシア、北ヨーロッパへと追跡するとどんどん英国のウスグロ
カモメに似てきます。この分布域は最後にはヨーロッパで完全なリングの形となり、
二つの『立派な(生物)種』が形成されることになります。セグロカモメとウスグロ
カモメは外見からも交雑することがないという点からも別の種として弁別可能です。

つまりセグロカモメとウスグロカモメは『輪郭あざやかではない』二つの『立派な種』
なのです。進化の系統樹について『ただ一つの種』を色分けしようとした場合も、似た
問題に突き当たります。単一種の構成員は系統樹の中で連続した領域に固まっている
はずですが、その領域の範囲を確定してくれる理論的に重要で『輪郭あざやかな』境界線は
見当たりません。ウィルスは微小な高分子の構造体ですが、細胞を構成単位としている
わけではない点において『非生物的』です。ところが他の生物の細胞を利用して増殖・
自己を複製するという点においては『生物的』です。ここでも境界がぼやけている様子を
見出すことができます。

そうであったとしても、私が人間であるのは『確か』なことです。私は『不変の』
本質的特性を持った『人間』ではなく、『正真正銘(真正)の』人間なのです。
これをどう捉えるのかで立場は大きく異なってきます。

私は春田の蛙さん(そしてたぶん茂木も?)がデネット(やホージランド)の議論を
大きく誤解していると考えています。私の立場からすれば、(変化を伴う由来をもった)
『真正の』人間という考えと『真逆の立場』というのは『不変の』本質的特性を持った
『人間』(私の立場からすればこれは人間ではなくて超越的存在)を支持することを
意味します。ダーウィンの思想を前にして、この立場をどのように貫くことができるのか
私は甚だ疑問です。はっきり言って無理があると思います。

275◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 23:36:07
『真逆の立場』パターン1(>>274の『真逆』です。)

『輪郭あざやかな種』という考えを持つ人達がいます。しかし進化のプロセス・
アルゴリズム群による自然淘汰は漸進的で累積的なものであるという『幻想』が、
種の原理的な定義の前に立ちはだかると言い張る悪魔に魂を売った愚か者がいます。
『叡知的(或いは、人格的)』な『至高の存在』によって『輪郭あざやかな種』は
『創造』されました。『不変で永遠の』『本質的な違い』があるからこそ、私達は
実際にそれぞれ形質が異なったり生殖的に隔離されたりする種として、その一端を
知ることができるのです。

『進化論が間違っていることを示す』興味深い事例として有名なのがセグロカモメと
ウスグロカモメが形成する広大な分布域のリングです。英国から西の北アメリカに
移動するセグロカモメは(中略)この分布域は最後にはヨーロッパで完全なリングの
形となり、二つの『立派な(生物)種』が形成されることになります。セグロカモメと
ウスグロカモメは外見からも交雑することがないという点からも別の種として弁別可能です。

つまりセグロカモメとウスグロカモメは『輪郭あざやかではない』二つの『立派な種』
なのです。『本質的に違うのに本質的に違わない種の存在』これこそまさに『奇跡』です。
進化の系統樹について『ただ一つの種』を色分けしようとした場合も『奇跡』を垣間見る
ことができます。単一種の構成員は系統樹の中で連続した領域に固まっているはずですが、
その領域の範囲を確定してくれる理論的に重要で『輪郭あざやかな』境界線は見当たりません。
『叡知的(或いは、人格的)』な『至高の存在』の『御業』は私達には図り知ることなど
できないという証拠です。ウィルスは微小な高分子の構造体ですが(中略)ここでも
『奇跡』が起きていることを私達は『知る』ことになるのです。

そうであるからこそ、私が『人間』であるのは『絶対的・本質的に確か』なことです。
『人間』には『不変で永遠の種』としての『本質』が備わっているのは間違いありません。
『変化の伴う由来』などという『不確か』な特徴を持った『獣』を『正真正銘(真正)の』
人間などと嘯く愚か者がいますが、このような妄言を吐く行為こそ魂を悪魔に売った
証拠なのです。

(『信仰告白』をするのは自由ですが、テニスをする時に自分がボールを打つ時だけ
ネットを下げるような人は、道徳を語ることはできないと私は思います。)

276◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 23:38:04
『真逆の立場』パターン2(>>274の『真逆』です。)

『人間』には『不変で永遠の種』としての『本質』が備わっているわけではありませんが、
その背景には『永遠の善』『永遠の美』があり、私達はその『不完全なコピー』なのです。
つまり『完全無欠の至高の世界』の陰が投影されているということです。

(以下、アリストテレスやロックやバークリーを持ち出しても同様。『はじめに
精神ありき』という考えはダーウィンの思想と『真逆』です。)

『真逆の立場』パターン3(>>274の『真逆』です。)

『輪郭あざやかな種』という考えを持つ人達がいます。進化のプロセス・アルゴリズム群に
よる自然淘汰は漸進的で累積的なものであるという事実が、種の『完全に客観的』な定義を
与えてくれます。これはプラトンが主張した『完全無欠のイデア界の投影』ということを
意味するのではなく『経験的で合理的な科学体系』によって証明されている『完全に
客観的』な現実・事実なのです。

そうであるからこそ、私が『人間』であるのは『確か』なことです。私は『不変の』
『本質的特性を持った』霊長目ヒト科の哺乳類、ホモサピエンスです。『変化の伴う
由来』などという『不確か』な特徴を『正真正銘(真正)』の『人間性』などと
嘯く愚か者がいますが、ダーウィン以降の、しかも現代の情報化社会において、
そのような『戯言』を信じるなど愚か者の極みです。

(『科学』を『科学的宗教』に貶めるのはいただけません。)

277◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 23:39:26
『真逆の立場』パターン(以下略)

もう少し穏やかな内容で『真逆の立場』を提示する人もいますし、「人間の『本質』」を
追い求めたくなる気持ちも分からないでもないのですが、そういった方向の考えを
ダーウィンの思想は突き崩してしまいます。

以下にダーウィンとハクスリーの言葉を引用してみます。

「悪魔に仕える牧師なら、ぎくしゃくし、無駄が多く、無様な、低劣でおそろしい
ばかりに冷酷な自然の所業について、どんな本を書いたことだろう。(ダーウィン)」

「初回の倫理的な進歩は、普遍的な過程を模倣することにあるのではなく、それから
逃走することにあるのでもなく、それと戦うことにかかっていることを、はっきりと
理解しようではありませんか。(ハクスリー)」

(「悪魔に仕える牧師」リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳、早川書房)

ドーキンスはそこでこう述べています「自然は親切でも冷酷でもなく、そんなことには
無頓着なのだ」と。『倫理』として『普遍的な過程を模倣しよう』としているのは誰なのか、
『それから逃げよう』としているのは誰なのか、ドーキンスやデネットやホージランドでは
ありません。

278◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 23:40:38
「安全と幸福は、安易な答えと取るにたらない快適さに満足し、温かで心地よい
偽りの人生をいきることを意味するだろう。私の成熟した悪魔に仕える牧師が
勧める悪魔的な代案は、危険なものである。それを受け入れれば、あなたは心地よい
妄想を失うことになる。すなわち、あなたはもはや、不滅への信仰というおしゃぶりを
吸うことはできないのだ。その危険に立ち向かうことで、あなたは『成長と幸福』を
獲得することになる。すなわち、自分が成長し、存在が意味するものを直視し、
それがつかの間のもので、それだけいっそう貴重なものだという事実を直視したことを
知る喜びを得るのだ。」

(「悪魔に仕える牧師」リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳、早川書房)

ドーキンスを『とても』攻撃的で無慈悲だと評価する人達もいるようですが、私は
そうは思いません。ドーキンスの主張の全てを支持できないにせよ、彼は愛情を
持って真実を語っていると、私は思います。

279◇Bwr5tJDUMc:2008/09/25(木) 23:41:45
「この『生命の系統樹』は、ひとがあがめたり、祈りを捧げたり、恐れたりすることの
できるような『神』なのだろうか。多分、そういうものではないだろう。しかしそれは、
ツタを〈嘘偽りなく〉双葉にしたり、空を〈本当に〉こんなにも真っ青にしたり〈してくれた〉の
だから、(中略)アンセルムスの『それより偉大なものは何一つ考えられないような存在』では
ないにしても、(中略)それに向かって祈ることはできないにしても、その壮麗さを
確信して立つことならできる」のだとデネットは主張しています。

(「ダーウィンの危険な思想」ダニエル・C・デネット著、青土社)

>もう一つ。“人間の心のことは複雑過ぎて、人間自身には理解出来ないかもしれない。
>インターネットでさえ、今は複雑になり過ぎていて、人間に理解出来るギリギリのところにきている。”
>――このような考え方については、どう思われますか?(>>261より一部引用)

「だがお前には、『この現象』の説明は『決してできまい』」と言うなら(或いは
言われたら)私はダーウィンの思想にベースキャンプを張るすることをおすすめします。
ダーウィンの思想(その基本的な考え)を支持する人達はその主張に『責任を持って』
今まで再三再四、懐疑論の挑戦を受け、これに応えてきました。多くの点が鮮明になり、
定量化され、拡張され、深化され、強化されてきました。これは『最終的な証明』と
までは言えないにせよ、(自然)宗教と『同程度の』証明不可能な信仰などではなく、
一つのとても強力な説得的考察なのです。

280◇Bwr5tJDUMc:2008/09/26(金) 23:52:39
ここからは件の議論(再開以前)の二回目の春田の蛙さんのレスの問題を指摘します。

> 細かいことを言えば、ホージランドがその時話題にしていたのは、彼が「真正の志向性」(authentic intentionality)
>と呼ぶ心の働きだった。ホージランドが、ただの志向性と言わずわざわざ「真正の」という形容詞をつけたのは、
>普通に言われる志向性よりもより高次の志向性、人間とはどのような存在かを考える上で本質的な意味を
>持つ志向性というニュアンスを込めたのだろうと推定される。
(学会退会をビビル人へスレのレス番37より一部引用)

これは「心を生み出す脳のシステム」(茂木健一郎著、日本放送出版協)からの引用
として提示されていますので、茂木の見解ということになりますが(そして春田の蛙さんは
この見解を支持しているようですが)、その内容は間違っていると私は考えます。
(春田の蛙さんが引用を間違えたのであろうという意味ではありません。)

ブレンターノやクワインの研究が示すように、意味の『本質』・志向性の『本質』というものを
どうにも見出すことができない(二人とも不全性のテーゼを提示しているわけです)からこそ、
ホージランドは『本質的(intrinsic/essential)』ではなくて、わざわざ『真正の
(確実な、本物の、authentic)』と述べているのであって、「本質的な意味を持つ
志向性」というニュアンスを『込めていない』と推定するのが妥当でしょう。(つまり
茂木の見解は間違い。)

281◇Bwr5tJDUMc:2008/09/26(金) 23:54:23
>>280からの続き)

更に春田の蛙さんは誤信念課題を例に挙げつて下記のように述べています。

>従って、当然デネットによれば人間と動物は異なり、人間のみが心を持つのです。
>ですからこのデネットの見解は、明らかに「ホージランドの主張する“真正の志向性”」に帰結します。
>ホージランドの見解に従うならば、デネットらの言う「心の理論」を認める限り、「犬は人間のように物を見ることができない」
>ということになるのです。デネットが“真正の志向性”という概念は受け入れなかったとしても、彼も「動物には心がない」という主張をしている以上、
>デネット自身に直接訊いたとしても、彼は「犬は人間のように物を見ることができない」という指摘は認めるでしょう。
(学会退会をビビル人へスレのレス番38より一部引用)

(現生動物に限らず)人間以外の動物にも『ほぼ心、準心(或いは『心の萌芽』といった
もの(状態)を認めることができるであろうという考えを背景として、デネットは誤信念
課題の議論を展開しているわけで、上記の文脈においては「彼も「動物には心がない」という
主張をしている以上」というのは大間違いだと、私は考えます。今のところ、人間以外の
(現生)動物に、人間程に複雑な『高次の』心・精神・意識があると実証的に認められて
いるわけではないということをデネットは認めるでしょうけれど、春田の蛙さん(或いは
茂木)が言う意味での『高次』とは意味が違うのです。

春田の蛙さんは『真正の志向性』という概念を茂木の見解をベースにして使用しています。
そうすると『高次の志向性』(『真正の志向性』)について、デネットが誤信念課題を
絡めて論じている内容は『本質的で絶対的な至高性』(至高性というのは誤変換では
ありません)の判断基準(判別方法)ということになってしまいます。デネットは
そのような判断基準(判別方法)について論じているわけではありません。

次は、誤信念課題について論じてみますので、この点について(双方に)誤解がないか
(或いはデネットの議論に大きな欠陥がないか)を確認することを提案します。

(つづく)

282◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 05:16:19
デネットが提示している誤信念課題の議論は、そもそも「信念」を問題としています。
これは志向性の問題であり心の問題でもあります。誤信念課題は、しばしば『意味論的情報』と
呼ばれる考えが前提となっています。シャノン=ウィーバーの情報理論は、情報の伝達や
貯蔵の媒介手段の『能力』を測定するものであり、そういった媒介手段の『内容』については
言及していません。『意味論的情報』の貯蔵や伝達はまた定式化されてはいませんが、
それを哲学者達が「志向的」と呼ぶ信念や欲求に関する語彙を用いることによって、
(つまり日常的な言葉で)『とても確かに』記述できるというのがデネットの立場です。

これは『とても抽象的』な『意味論的情報』を『とても確か』なものとして扱うことを
意味します。つまり『単純で素朴な実在論』と『極端な相対主義』の間に土台を築くことに
なります。この姿勢は両者の狭間でグラグラと揺れ動き、安定した有力な足場などには
なり得ない(どちらかの奈落に転落する)と言う人達もいます。そういった非難は(ひいては)
ダーウィンの思想(その基本的な考え)に対する非難に繋がると私は思います。進化論を
現実・事実の問題ではなく『単なる解釈』『単なる幻想』『単なる虚構』の問題だと
切って捨てれば、極端な懐疑論(或いは独我論)の扉が大きく開かれることになるでしょう。
私は極端な懐疑論(或いは独我論)が安定した有力な足場だとは思いません。

283◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 05:18:09
>>282からの続き)

先に述べたように(>>264以降)志向性とは「〜についての関係」のことです。
事物・状態・出来事のあるものは、別の事物・状態・出来事「についてのもの」という
特徴をもっています。『比喩的に言えば』、そういったあるものは、別のものを
「指している」ということになります。例えば、朝の六時にアラームが鳴るように
目覚まし時計を設定すれば(きちんとアラームが鳴れば)、そのアラームは六時を
「指している」ということになります。六時という時間がアラームを「指している」
わけではありません。葛飾北斎の「富嶽三十六景」は名称の一部(富岳)が「示す」
ように、富士山「についてのもの」です。富士山が「富嶽三十六景」を「指している」
わけではありません。富士山自体が富嶽三十六景「についてのもの」というわけでは
ないのです。

「〜であると信じる」「〜であると期待する」「〜であると望む」「〜であると
認識する」「〜であると知っている」といったイディオム(慣用語)を私達は
普段の生活の中で頻繁に使用しています。このイディオムが焦点を定めているのは
「〜として想像する」「〜として見る」「〜として考える」ことの意味であり、
『参照の不透明性』という問題(通常許容される置換法則が当て嵌まらない節の導入)を
抱えてはいるものの、それに対しての反発という特徴も持っています。(この現象は
『指示の不透明性』と呼ばれています。)

例えば、常識的な考えを持つAさんが、ある女性を見て「あの人はきっといい奥さんに
なるだろう」と考えたとしましょう。そして、その女性が(Aさんの知らないところで)
実は、通り魔で突然人を切り刻みその肉を食べるような猟奇的な人だったとします。
とても厳密な意味においては(『参照の不透明性』からすれば)、Aさんは「猟奇的な
人がいい奥さんになるだろう」と考えていると言えますが、別の意味においては「Aさんは
そう信じていない」と言えます。なぜなら、常識的なAさんは「そのような信念を
持ってはいない」からです。私達は『ある目的』の為には、その女性(に限らず、
カクテルや薔薇やヴェルヴェットモンキーやその他)をどう呼ぶかが大きな問題に
なるというこだわりがあるからこそ、『指示方法』に敏感なある種のイディオムに頼ります。
「心的用語」(志向的イディオム)は、その『目的や機能に照らし合わせて』『指示方法』に
敏感であるという能力『ゆえに選ばれている』(普段の生活において文字通り私達に
選ばれている)のです。

284◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 05:21:04
>>282からの続き)

「信じる」「欲する」といった「心的用語」(志向的イディオム)を試験的に用いることで、
観察対象(生物やシステム)の行動(ふるまい)を特徴づけ、予測し、説明しようとするのが
志向戦略・志向姿勢です。そしてデネットの立場は、あらゆる志向帰属の『主体』は生物
(或いはシステム)全体であり、部分ではないとする(謂わば)全体論的な論理的行動主義です。
(補足:個々の信念を外的行動に対する『個体の特質』として強引に特徴づけようとすれば
ライル流の論理的行動主義・志向システム理論ということになります。)
誤信念課題(志向戦略・志向姿勢をとるということ)は、志向的状態を帰属させる対象となる
生物(或いはシステム)が『合理性』を持つことを前提(そう仮定する)とします。
そして、論理形式として「信念」「欲望」を複数の段階に分けることからスタートします。

第一次の志向システム

XはPを信じている。

YはQを欲している。

このPやQは、それ自身に志向的イディオムをいっさい含んでいない節です。
このPやQに志向的イディオムが含まれると少々複雑になってきます。

第二次の志向システム

Xは、Xが空腹であるとYが『信じている』ことを『願っている』。
Xは、Xが食べ物を隠していることをYが『発見するだろう』と『恐れている』。

第三次の志向システム

Xは、Yは一人だとXが『信じている』とYが『信じている』ことを『願っている』。

285◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 05:22:44
>>282からの続き)

第四次の志向システムは、それが去ることをあなたが『要求している』ということが
『理解されている』とあなたが『考える』ことを『願っている』となり、第五次の志向
システムは(略)というように、レベルをどんどん上げていくことができます。私は
今回一連のレスの中で「春田の蛙さんはデネットの議論を誤解している」と言明して
いますが、春田の蛙さんは何が誤解なのか言って欲しいと春田の蛙さんが願っていることを
私が知っていると春田の蛙さんが認識できるということを私が言っているつもりかどうか
春田の蛙さんが理解していると確認するのは春田の蛙さんにとってどれほど難しいかを
私が気付いているのかどうか春田の蛙さんが心配しているのではないかと私は疑っています。
そして私は、春田の蛙さんがそろそろこんな話を止めて欲しいと願っていることを
私が知っていると春田の蛙さんが期待していることを私が気付いて(略)

カージャイルの研究によれば、普通の人は理想的な環境下でも、せいぜい第五次か
第六次までしかついていけないそうです。人間も動物だということや、他の動物の
ふるまいからすれば「せいぜい〜までしか」というより「までも!」と言ってもいい
でしょう。ヴェルヴェットモンキーはどのレベルまで許容できるのか、こういった
問題はとても興味深いと私は思います。部屋に入ってきた虫を外に逃がそうと、私が
部屋の窓を開けたからといって、虫と私がコミュニケーション(意志・感情・思考を
言語・文字・身振り・表情・声などの手段によって伝達し合うこと)を行なっている
わけではありません。羊の番をしている牧羊犬と、草を食む羊達の間には何らかの
コミュニケーションがあるのか、イルカ同士はどうなのか、そして人の赤ん坊と母親は
どうなのか、グライスによる理論的な判断基準の定義は以下のようになります。

「話者は、聞き手が応答rを示すことを話者が〈意図している〉ということを、
聞き手が〈認識する〉ことを〈意図している〉。」

(「志向姿勢の哲学」ダニエル・C・デネット著、白楊社より引用)

286◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 05:24:48
>>282からの続き)

デネットはこういったことが『本質的』で『絶対的』な『共通の尺度』を与えて
くれると述べているわけではありません。第二次の志向システムが再帰的構造への
決定的な一歩を踏み出していることや、埋め込みの原理を加えることでシステムの
根本的な洗練度の尺度というよりも『認知的作業領域』への制限のように見えてくる
こともデネットは認めています。またデネットは、赤ん坊は『人ではない』と主張して
いるわけでもありません。経験的な考察を先験的な考察で『置き換える』と主張して
いるわけでもありません。経験的な問題として、対立する解釈の集合を合理性の過程に
基づいて試験にかけることができるというのがデネットの立場です。

第0次の志向システム

Xは、A・B・C・D(以下略)の事柄に刺激される傾向がある。コミュニケーションと
呼ばれる現象は、発話者にとっても聞き手にとっても『単なる』親和性(物質の化合)に
すぎない。

『原理的には』どのような動物やどのようなふるまいも『完全に』生理学的な物語や
『ガチガチの』行動主義的な物語として語ることはできますが、そのいかなる精神性も
知性もコミュニケーションも一切の生物(或いはシステム)に帰属させない戦略・
姿勢では、志向姿勢が持つ(第0次の立場から見た)『予知能力』を説明することは
できません。

出先で友人や同僚を自宅での夕食に誘った夫に対して、その知らせを受けた妻が
『じゃあ帰る途中でワインを買ってきて、車の運転に気をつけてね。』と言った場合に、
(少々心もとないにしても)その夫が予定していた夕食時にワインを持って友人や同僚と
帰ってくると、第三次以上であろう志向システムとしての妻は『予測』しています。
運命論者は、よく人間のふるまいには『どんなことがあっても』逃れることができない
パターンがあると主張します。そこまで不可避なものでなくとも、そして星の運行を
持ち出さなくても、私達は『合理的行為者』として、信念や欲求といった「心的用語」
(志向的イディオム)を用いることで、不完全ながらも、多少の物理的ゆらぎや変化を
飲み込む程度の『強いパターン』を特徴づけています。これをどう捉えるかによって
立場は大きく異なってきます。

287◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 18:50:15
志向戦略(志向姿勢を用いた予測戦略)は、逸話的証拠に頼ることになります。
『単なる』逸話は科学における証拠の公準(或いは公理)からすれば使用不可能です。
しかしながら、逸話が語るところ大であるような場合もあるわけで、それを『単なる』
逸話として『科学的な』記述から退けてしまうのも問題です。

それまでの条件付けや、訓練や、習慣によってもっともな説明がつかないような
『目新しい』行動(ふるまい)の断片を、『目新しい』という反復不可能性を理由に
(つまり逸話的であるから)容認しないとするのであれば、観察対象の知性を認識論的に
論証することはどのようにすればいいのかという大きな問題に突き当たります。
チンパンジーが「心の理論」を持っていることを示そうとしていたプリマックと
ウッドラフが悩んでいたのもこの問題です。デネットの提案は「シャーロック・
ホームズの方法」に倣おうというものです。「秘密を暴露してしまうような巧みな
一手」を使用し、『目新しさ』を積み重ねることで「偶然の一致にすぎない」という
主張のほうがむしろ無駄の多い仮設となるような『明らかな』知性の集積を得ることが
できます。

288◇Bwr5tJDUMc:2008/09/27(土) 18:51:34
シャーロック・ホームズの方法を引用してみます。

「『ボヘミアの醜聞』でシャーロック・ホームズは、自分の敵が部屋に隠したある重要な
写真を見つけたいと考えている。敵が隣の部屋にいるときを見計らい、ホームズはワトスンに
発煙弾を問題の部屋に投げ込ませ、『火事だ!』と叫ばせ、自分は様子をうかがっている。
すると、大方の予想通り、敵は問題の部屋にかけこみ、隠してあった場所から例の写真を
取り出す。敵の行動をここまで巧みに操る方法は、誰にでも思いつくようなものでは
なかったであろう。しかしいったん条件が記述されてしまえば、敵の行動を予測することは
いとも簡単なのである。(チャルニャック)」

「この例でホームズは、写真のありかを知ると同時に、敵であるアイリーン・アドラーの
かなり細かな志向的プロフィールをも得ることになる。つまり、アイリーン・アドラーが
写真を〈欲しがっている〉こと、写真は彼女が取りに行った場所にあると〈信じていた〉こと、
『火事だ!』と叫んだ人間が本当に火事だと〈信じていた〉と彼女が〈信じていた〉こと
(中略)誰にも〈知られる〉ことなく写真を取り戻したいと彼女が〈思っていた〉こと
などが明るみに出たのである。」

(「志向姿勢の哲学」ダニエル・C・デネット著、白楊社より引用)

一定の条件の下で(それゆえに『科学的』に容認され得る)『目新しい』解釈可能な
行動を喚起する策略を用意し、その『目新しさ』を積み重ねることで、対立する解釈の
集合を合理性の過程に基づいて試験にかけることができます。劇作家の特別な才能は、
言語的・非言語的な行動が「動機・信念・誤解」等といった登場人物のプロフィールに
ついて雄弁で明瞭に語ってくれるような状況を作り出すところにあります。人を唸らせる
推理小説は新奇ではあるものの巧みで『合理的』な解釈が示されているものです。
第0次の志向システムの『単なる』親和性(物質の化合)という視点からそれを
『読み取る』ことはできません。

これをどう捉えるかで立場が大きくことなってくるわけですが、春田の蛙さんの立場では
ダーウィンの思想(その基本的な考え)を否定することになるでしょう。次は適応主義の
問題について論じます。(その次にアフォーダンス理論について触れる予定です。)

(残念ながらまだまだつづく)

289◇Bwr5tJDUMc:2008/09/28(日) 06:55:07
>「ロボットに階段を登らせよう」という考え方は、「ロボットに階段なんか登らせなくて良い」という考え方とは『違う』でしょうか? 『同じ』でしょうか?
>>261参照)

この質疑は、私にはわけがわかりません。「どのような点を問題としての質疑なのか」が
述べられていないのです。これでは同じとも違うとも答えようがありません。ですので、
この質疑はひとまず「ASIMOが階段を登る」ことについての質疑だと捉えて『自律』を
論点として回答してみます。

>それが“まるで人間のように”歩いて見えるのは、人間からは太陽が地球を回って見えるのと、
>本質的に同じ“主観による解釈”の問題ではないかと思います。
>志向姿勢に解釈の問題が含まれることは自明であり、デネットもこれを認めています。
(学会退会をビビル人へスレのレス番38より一部引用)

ASIMOは自律的な二足歩行ロボットです。話の流れからすれば、ここで問題になるのは
『自律的』という概念だと思われます。ASIMOは(一定の条件下で)歩いたり階段を
登ったりするという点において『立派な志向システム』であり、階段を登る際に、
ASIMOは『確かに』足元に段差があると『信じて』います。足を上げ、自律的に階段を
登ります。その点において「ASIMOが“人間のように”歩いている」のは現実・事実です。
そもそもASIMOはそういう目的で作られているわけです。だからといって『真正の志向性』を
持つ程の合理的な行為者として人間と同じ責任ある道徳的な立場から歩いているわけでは
ありませんし、そういう意味で「ASIMOは“人間のように”歩いて」はいません。
「太陽は、“人間のように”地球の周りを回っている」というのは現実・事実では
ありません。そもそも地球が太陽の周りを回っているというのが現実・事実ですし、
太陽も地球も何かを信じたり欲しがったりなどはしていません。

290◇Bwr5tJDUMc:2008/09/28(日) 06:58:16
>>289からの続き)

「本質的に同じ“主観による解釈”の問題ではないかと思います。」(>>261参照)

これでは極端な懐疑論の扉を大きく開いていることになると私は思います。


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