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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

297:2008/02/06(水) 07:25:29 ID:QpQGFxc6
さらに続きます。

或いは社会的な影響も有ります。
江戸時代、近松の浄瑠璃などで心中物が大当たりをしました。これは封建制の中で、身分の違いによる男女の結婚が厳しく制約されたことが背景に有ります。
武士と農民の間で結婚したら、その子供はどちらの階級に属するか、と言う深刻な問題が絡みます。そんなことを何回かやっていたら、身分制度などたちまち崩壊するでしょう。
その制約の中で男女は、心中をする主人公に自分の心を重ねたのでしょう。

こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

ここで述べたことは、ホンの一部です。
直接「愛」の感情を司っている脳の機能には触れていません。これも当然考慮されるべきでしょう。

私は精神的な「愛」も、或いは「神」と言う観念的な産物も、その寄って立つ現実的な基盤があり、当然自然科学、社会科学の対象になり得ると思うし、その意味で「私が想定している『科学』は、地下猫氏が定義する『科学』よりも広い意味で捉えています。」と言っている訳です。

それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。


>>294
>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

298NAN:2008/02/06(水) 09:20:23 ID:???
>>雄氏

>>233 >>234については?

299NAN:2008/02/06(水) 11:33:50 ID:BZb9Dt8w
正直枝葉なんだけど…あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。
というわけで>>297:雄氏

>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

誰もそんなことを云ってないよ?
「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を支持(注:引用者による修正)しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ」という指摘は、キミが発したドーキンス本に対する主張に内在する表現の曖昧さや雑さから来る誤解か語弊かあるいは、確かに「自然科学的に実在しないものは研究として意味がない」という無意識下の本音の吐露に対してなされた指摘でしょ。

>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。

それでね、
>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
勝手な解釈なんだから、勝手にすればいいんだけど、愛というのをラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)に見出すというのも…なんだかとってもげんなりというか、短絡的思考に見えるんだよね。(これは、見える、だけなので反論ってことじゃないけどさ)

そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。
で、これに遺伝や進化学的な要素を絡めると、ドーキンスの利己的遺伝子のガイネンが役に立つ。遺伝子は自分自身とそのコピーを守ろうとし、表現型が拡張されると「体外の事象を自己の財産として子孫に継承する」という複雑な進化が起き、文化や文明の理解にも役立つんだろうな、と私は納得している。血縁淘汰と遺産相続に伴う家庭内紛なんか相関してて面白いね。

地下猫氏によるテーマの提唱とはさっぱりかけ離れた議論になっちまったけど(その責任は私にもある)、もうちょっと『愛』について。(byスガシカオ…ってうまいんだかうまくないんだか良く分からないけどなにげに好きだ)

男女の愛ってのは自己愛の拡張で、配偶者を「獲得し、所有する」という行為に絡み、やがて「血縁者を保護する・共有する財産を保持する」という情動に繋がるのではないか。ヒトには社会性動物としての稀な特徴である「なにかを所有する」という行動があって、所有(獲得)することを欲望するという、さらに因果な行動動機を持ち…結果として報われない愛の方向性のひとつに破滅があるんだろうね。これはラヴアフェアだろうが経済行為だろうが消費行動だろうが同じ。羨望・妬み・嫉妬なども報われない愛のカタチの類型かな。こういう短絡的かつ還元主義的な「愛の説明」を突き詰めていくと「愛の結果=シアワセ=所有満足度」なのではないか?という結論も出てくるし、それなりの説得力もあると思う。

こういったことを論じるのは、生物学的なアプローチも出来るだろうし、心理学でもアリだと思う。実際、私の議論の大半はこの二つの知見から出発しているし。自己投影とか依存の関係なんかも遺伝子を絡めて考えることは可能だよね。(つまり、自然科学的な学問として有意と判断)

300NAN:2008/02/06(水) 11:34:16 ID:BZb9Dt8w
さて、せっかくなので議論を本筋に戻します。
>>272で私が述べた「なにか」について。実はそれは「依存」である、と私は考えています。

依存は、程度によって「依存症」とさえなるとても因果な性質ですが、親子の依存に代表されるように割とさまざまな生物に普遍的に備わる性質でもある、と私は思います。配偶者への依存、親への依存、職場への依存、金銭への依存、さらにはネット掲示板とかギャンブルにまでヒトは依存できるわけで、対象が実在するなにかであろうが仮想の存在であろうが、おかまいなしに依存することができます。こうした依存の各種は、パーソナリティを保持する上で必要なものもあれば、逆にパーソナリティに対して障害をもたらすものであるのに、依存してしまうという種類のものもあるでしょう。アルコール依存や薬物依存が典型ですが、男女の依存関係や金銭への依存も度が過ぎれば破滅を生みます。

一連の議論で問題となっているのは「宗教の弊害」ですが、これは極端な主義・主張による弊害と言い換えることができ、原理主義だとか根本主義などに傾倒するという側面には、それら信仰への極度の依存が間違いなくあることでしょう。ここで、依存の鍵となるのは快楽です。快楽には「興奮」と「沈静」の二種があり、これは自律神経の作用と相関します。
■死への不安や人生の不安→信仰により和らげられる=マイナス方向の興奮(不安)が沈静される快楽(ダウナー)
■日常への倦怠感や無気力→信仰により活力を得る=停滞した沈静から活動的興奮へ向かう快楽(アッパー)

上記のうち、問題行動と結びつき易いのは、恐らくアッパー方向への快楽を求めて「なにか」に走る機会に於いて、ではないでしょうか。これは、受験やその他試験に対する不安や対人不安、財産を失う不安や死後の不安が信仰によって癒され鎮静されたからといって、それが他者への迫害や威圧行動に繋がるとは考えにくいというのも私の中にあります。(無論、信仰者自身の中でそれが本来の問題解決になるかどうか?は分からない)

A:信仰は、獲得し、所有される。
B:信仰は、快楽である。
C:信仰は、依存である。
上記の3命題の「信仰」には「配偶者」「仕事」「カネ」「セックス」「技能」そして「愛」など、およそあらゆる対象を当てはめることができます。それだけ我々の誰もが、信仰と似たものに傾倒し、依存しているということです。また、依存の度合いが強すぎたり、歪んだものになれば、どんな対象を当てはめても弊害を生み、時には暴力にさえ繋がるでしょう。これが最近気付いた「宗教批判の難しさ」の大きな要因です。

信仰が上記3命題を満たすものである以上、一旦それを所有し依存しているひとがこれを捨てることは、私が自分のパーソナリティを捨てられないように難しいことでしょう。愛して(所有して)いるものをあなたは捨てられるのか?という問題です。(時に、信仰はそれを求めるけれど)少なくとも、自分はなにも捨てないのに、相手には捨てろと述べるというのには不公平感があり、容認されることはないでしょう。

それでは当初、後悔と懺悔さんが述べていた「これから宗教に触れるリスク回避」についてはどうでしょうか。
私はそれを「科学的方法論を浸透させていくしかない」と述べましたが、基本的には変わりません。ただ、相手が快楽を生むモノである以上、科学的方法論は甚だ抑制的で、禁欲的でさえあるため、有効に働きにくいことも想像に難くありません。しかし、宗教が悪者であることを殊更「悪い事例」ばかり列挙して説得を試みたり、間違った一般化によってその弊害を列挙したりという、詭弁的な方法論よりはマシだろう、と思うのです。

1:所有や獲得(達成)は依存に繋がる。
2:ヒトはなにかに依存するイキモノである。
3:依存の度合いが強いか間違っていると弊害を生む。
結論として、知識としての核を成すのは上記の3点ではないでしょうか。迷信や超越存在に対する強い依存が弊害を生むのは間違いないことですが、その他のあらゆるすべてに対してだって同じことが云えることを、私は強く自戒したいと思います。最後に、ブッダの原典にはこれら依存のリスクへの警鐘が強く込められていたことを、あらためて指摘します。

301:2008/02/06(水) 19:26:26 ID:QpQGFxc6
>あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。

私の表現の稚拙さをご指摘なのであれば、それは甘んじてお受けします。
……ただ、話の進め方やテーマの扱いはそれぞれの論者の問題意識と直接関連していて、つまりその辺は私の「教導権」に属する問題だと思っています。今読み返してみても本人には特に問題を感じません。
と言うことで、多分今後も直らないでしょう。悪しからず。

同時にNANさんが何を聞きたいのか、イマイチ理解できません。全体としてNANさんのご主張の展開のようで、私としては「それはそれで良いんじゃないの」と言う感じです。
そこに私の「教導権」を主張する積りも有りませんし。

>自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。(No-299)

読んで頂ければ分かりますが、私は別に地下猫氏からの「科学主義批判」に反論なんかしていませんってば。する積りも有りません。明確になっていないのは当たり前です。
No-297でも「それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。」と書いて有る筈ですが。

私はただ、地下猫氏が「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは………」と書いて来たから「そんなことは言っていませんよ」と、いわば事実関係を返しただけで、その裏に地下猫氏がどう言う思惑を込めたかなど、余計な推測をする積りはハナっから有りません。
「無意識下の本音の吐露」かなんか知りませんが、後になってあれこれ付け加えられても、
「そんなの知ったことか」ってのが本音です。だったら最初から書けばいいのに、ってね。

302:2008/02/06(水) 19:27:06 ID:QpQGFxc6
「愛」について言えば、NANさんの解釈は解釈として「それはそれで良いんじゃないの」に尽きるのですが、私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

>最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。

「自分の命を守ろうとしたり」の行動は、特に愛などと言わなくても、捕食者から反射的に身を守ったり、交通事故を咄嗟に回避するなど、ウイルスからナメクジ、コウモリやカラスまで全て、本能(最近この言葉は使わないようだ)として持っているものでしょう。いわば危機管理ですかね。ヒトにおいてもその延長として理解可能です。
勿論、NANさんがそこに「愛」を見出しても「それはそれで良いんじゃないの」なんですけどね。

生物が生物たる目的は、自己複製でしょう。単細胞から無性生殖、有性生殖を含め、全てね。
ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)と呼ぼうが何と呼ぼうが、生物は、適応度最大化の為に組織されたタンパク質だと言って、大きく間違いではないでしょう(なお、ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)が可能なのは、有性生物、つまり生物の一部です)。

実際生物の行動は全て、適応度(つまりは残した子供の数)最大化の為に特化されていると言えます(人間の場合、社会が絡みますので少し複雑になりますが、これも社会科学という科学の範疇です)。

その中で、ヒトのオスとメスは子育ての必然からペアボンドを発達させざるを得なかっし、ペアボンド強化の為に、つまりは絆を強化する為に「愛」と言う感情を発達させた個体が、オスもメスも結局適応的だった、と言うのが私の見解です。
だから人間の「愛」の契機・基本は、男女の愛からだったろうと………。
「ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です(No-237)」との、私の書き込みはその辺を歴史的に俯瞰したものです。

人間の「愛」の感情を全て、進化生物学で解釈できるとは言っていません。しかしその理解の基礎に進化生物学が関われることだけは確かです。
そしてこの掲示板で今問題になっていたのは、NOMAとの関係も含めて、そう言う「愛」とか、芸術とかを科学として扱えるかどうか?、と言うことだった筈です。

私は「扱えるんじゃないの」と言う立場で、幾つかの項目に渡って例を提示した訳です。若干中身に踏み込んでしまいましたが、兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

しかも私の「少しばかり広い意味での科学」に対する、地下猫氏の揶揄(と言うか、何というか)への反証として、丁度手ごろな教材としての意味合いも含めてのことです。

>>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。
>誰もそんなことを云ってないよ?

「愛」が科学の対象にはならない、とするどなたかの主張が有ったようなので、そのアンチテーゼとして言ってみた訳なんですがね。


>>233; は従ってコメント済みだと思います。NANさんの意には沿わないかもしれませんが。
>>234; についてはなるべくそのうちに。

303diamonds8888x:2008/02/08(金) 06:30:39 ID:jcR/Lf4.
>>302
>兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

 これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
 それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

 「基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考え(>>281)」ということでは全く異論はありません。ですが、その研究対象をどのようにして【自然科学的な意味で】の存在と【人文・社会科学的な意味で】の存在に区分けするのか、というところで、どうもしっくりこないのです。この点については考察中なので時間を下さい。


 雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。

>私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

 私の回答(>>279)では「何かを愛する」ということで、ここの何かは何でもよいと想定しています。異性愛については自然科学的研究も実際に進んでいるので例として挙げやすいことは確かです。ただ設問は「存在すると思うか?」であって、「実際に科学的に研究されているか?」ではありませんでしたから。

304:2008/02/08(金) 09:08:31 ID:QpQGFxc6
>これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
>それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

diamonds8888xさんの「突っ込み」の意図は充分理解できます。以下三点ほど言い訳です。

一つには地下猫氏の設問「「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?」が、私からすると色々な意味にとれて………。
だから一応私も、(>>296)で、「『愛』は精神的なものです。その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。」と書いては置いたのですが。つまり「愛」と言う固まりのようなものが有る訳では無いと。
だからモノとして直接「愛」を自然科学の対象には出来ないし、その意味では『自然科学的な意味で存在』しないのは当然な訳で、まさかそんな陳腐な意味での設問ではないだろうと思ってましたし。

二つ目として、元々私は地下猫氏のクイズに参加する意志は無かったのですが、猫氏から私の科学観(猫氏より少し広く、科学を見ている)について揶揄されましたので、その返答として、丁度手元に有った手頃な教材として「愛」を選んだってことで。
そんな訳で猫氏のクイズに「逐条的」に対応する形は取らなかったし、その積もりも無かった。

三つ目、このトピで一貫してNOMA的主張への適否と言うようなことが議論されていて、一部の方々は「愛」とか芸術とか、そう言ったものは科学の対象にならない旨主張されていたようなので、私はそうは思わない、と言う観点でコメントしました。
ですから「>ただ設問は存在すると思うか?」と言う枠をはみ出しました。と言うかそう言う枠は意識していなかったと言うことですね。
アプローチの仕方は異なっても、科学はどこにでも突っ込みどころは有る、と思っている訳です。
そして社会科学も又、立派な科学で有ることには、多分diamonds8888xさんと問題意識を共通にしています。


実はこれから出かけます。

>雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。
>異性愛については………、

これらについては後ほど書き込ませて頂きます。
「愛」の適応上の考察(私はそう言う問題意識で書き込んでいますが)は、非常に面白そう。
多分又、ずれまくると思うのですが、悪しからず。

305AH1:2008/02/08(金) 13:30:13 ID:zfjW98z.
「愛」と人が呼ぶ、あるいは感じる、であろうところのナニカに生物学的基盤は当然あると思いますが、
行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑

というような感じかなー、と漠然と思いました。

306:2008/02/09(土) 08:32:08 ID:QpQGFxc6
RE AH1さん
>行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑
というような感じかなー、と漠然と思いました。

どうしてどうして、感動モノですよ。
あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。

およそ15億年ほど前、性が初めて生まれたとき、それは繁殖とは全く関係なかったらしい。と言うより繁殖の効率から言うと有性は無性に勝てっこないし、利己的な自分の遺伝子を、それも繁殖に辿り着くまで勝ち抜いてきた優秀な遺伝子を、わざわざ半分他者に明け渡す行為だし。
普通なら有り得ない性が、淘汰をくぐり抜けてかくも発達したのは何故か?、とか。

遺伝情報の交換だけなら特にオスとメスに分かれる必要など無いのに、何故オス・メスか?、或いは何故、オスとメスしか無いのか?、とか。
そもそも、オスとメスの違いは何か?、とか。
何故オスとメスの性比が常にほぼ同じになるのか?

今では当たり前に理解出来ていることを、10年以上前に初めて読んで知ったオトコの子としては、一番興味のある分野での知的興奮で、その時多いに胸をドキドキさせたことを覚えています。
ハッキリ言えることは、性の始めに愛などと言うものは無かったということです。

………と言うことで、「愛(の感情)」の起源考です。
>>296;で私が、
>>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
………と書いたことへの言い訳でも有ります。


>>299;NANさん
>そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。

NANさんが「自己愛」を「愛」の感情の起源として主張しているのかどうか、或いは「愛」の発露として、基本として述べられているのか、イマイチ分からない所も有りますが、どちらにしても私は二つの意味で同意出来ません。

1)、NANさんが述べている内容は殆ど生物の行動一般と重なります。或いは生物の本能、生物そのものと言っていい。大腸菌がブドウ糖の濃度勾配を感じて移動する行為も自己愛と言うことになります。
それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

2)、自己を自己と認識するのは、相当高度で抽象的な意識の能力を必要とします。目の前に獲物が現れたのを反射的に感覚するのとは訳が違います。
鏡に映った自分の姿を自分だと理解できる動物は、類人猿でも限られているらしい。
その自己をさらに「愛する」と感情するには、多分又幾段かの意識の能力を必要としそう。
少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

307:2008/02/09(土) 08:36:58 ID:QpQGFxc6
「愛」の起源を考えるとき、やはり私は適応上の問題として考えるべきだと思います。

ヒトの近縁である類人猿にはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボがいますが、全て配偶関係が異なります。それはそれぞれが置かれた環境での、主に食料事情などの制約によるものでしょう。
ゴリラはハーレムを作るし、チンプ、ボノボは乱婚です。特にボノボはひどい。観察によると1日50数回のSexに励んだメスが居たそうです。尤もボノボのSexはオスとメスの交尾に限らず様々あるようですが。
テナガザルは生涯に渡る強固な一夫一婦制ですし、オランウータンは単独雄と、母子集団という形をとるようです。オランウータンのメスはヒトと同じく発情期が無く、オスによるレイプも有るらしい。

これら類人猿に「愛」の感情があるかどうか難しい問題ですが、ただ考えて直ぐ分かることは、若し人間がゴリラのようにハーレム型の配偶関係だったり、ボノボのように乱婚だったとしたら、「愛」の感情も今とはガラリと変わったものになっていただろうことだけは確かです。
現在の人間が持っている「愛」の感情の起源は従って、チンプなどとの共通祖先から分岐した後、ヒトとして進化してきた過程の中に見出されるのではないでしょうか。

ヒトはオス・メス共同して子育てをするという、実は類人猿の中でも珍しい動物です。その点ではツバメやミツユビカモメなど、鳥と共通点が有ります。浮気と言う点でも共通点が有るらしい。
哺乳類はその定義上、必ずメスによる子育てが有りますが、ペアを組んだオスがそれに関与すると言う種は多くないんですよね。

ヒトのメスは直立二足歩行により難産になりました。
直立することで骨盤が内臓の重みを真下で受けることになり、形もお椀型になったのですが、ここでメスにとっては宿命的な矛盾を負うことになります。
内臓を支える為には骨盤の開口部が狭いほど良い訳です。でないと臓器がその開口部からはみ出してヘルニアになってしまう。
しかし開口部が狭いと、出産のとき胎児の頭が通り抜けられなくなる。

そこに輪をかけてヒトの脳の増大と言う問題が出てきます。特にそれが顕著になったのは「賢い人」ホモ・ハビリス辺りからですかね。
この矛盾をヒトのメスは、生理的な早産と言う手段で解決しました(と言っても完全には解決される筈は無く、出産で死ぬ女性は珍しくなかったし、今でも産院に響き渡る程の叫び声で出産するのは人間の女性だけです。ゴクロー様です)。
つまり、胎児の頭が完全に成熟する前、本来の出産時期よりおよそ10ヶ月前に産み落とすことになった訳です。

その為ヒトの新生児は極端に無力です。牛や馬の子供が生まれて30分もすれば歩き出すことと比較して、ヒトの新生児はヒトの一番の特徴である直立二足歩行が出来るまで10ヶ月を要します。
又、そもそも脳の増大を招いたのは主に道具の作製・使用とコトバによるものですが、その習得の為にヒトの子供は産まれてからも長い教育訓練を必要とします。

アクア説啓蒙者のモーガン女史に言わせると、さらにヒトは無毛になった為、他のサルのように子供が自分で母親の毛をつかんでしがみつくことで、母親の両手を開放させることが出来なくなったと言うことです。
ヒトにあって子育ては、到底メスだけで手に負える仕事ではなくなってきました。

308:2008/02/09(土) 08:37:44 ID:QpQGFxc6
哺乳類はその定義上メスの子育ては必然です。若しそれだけで可能ならヒトのオスも子育てを全てメスに押し付けて、自分は次の配偶相手を探す行動を発達させたでしょう。ハーレムを巡ってオス同士争うか、チンプやボノボのように乱婚に走ったかも知れません。生物は適応度最大化に特化したシステムですから。

ヒトの場合、上記の事情でメスだけの子育ては困難になりました。オスが子育てをメスに押し付けて別の配偶相手を探したら、繁殖機会は増えるかも知れないが、生まれた子供は育たないことになるでしょう。
メスに協力して子育てに関与する行動を発達させたオスが、結局はより多くの子供を残した筈です。要するにそれがオスにとっても適応的な行動であった訳であり、更にはメスにとってもそう言うオスを選択すことがが適応的だった筈です。
類人猿の中でも、特異なヒトの一夫一妻制はこう言う背景で生じたものでしょう(テナガザルも一夫一妻ですが、これは主に食料確保の制約によるものです。多分)。

そして一夫一妻という配偶関係をより強化する為に、ペアボンドとしての「愛」の感情を発達させたオスとメスが、厳しい環境の中で協力し合い、より多くの子供を残したのではないか。その愛の感情は子供に引きつがれより強化されてきたのではないか。

私は人間の「愛」の感情の起源はこう言う経過を辿ったのだと思います。
そして何時のことか分からないけれども、そう言った感情(シニフィエ)に「愛」の語彙(シニフィアン)が割り振られ、全体で「愛」と言う言葉、概念が出来ていったのでしょう。

一旦概念が出来ると、その語彙の使い回しで、漠然とした同じような事象を同じ語彙で表現し、その範囲を他から切り分けることになります。ピン止め効果とでも言おうか。
自己愛にしろ隣人愛にしろ、物に対する愛でも何でも、私はそうした経過でその後に出来たことだと思います。
特に日本語のような膠着語は簡単に語彙を増やし易い。そしてその過程で語義の転化が起こります。愛、哀、合い、会い、相、遇いなどはおそらくそうしたものでしょう。


なお上記内容は「愛」の感情の"起源"についての私の見解です。
人間が社会を形成し、5000年程前から私有財産を持ち、階級に分かれてからは又それぞれの制約を受けることになります。
資産があって子の面倒を召使なり他人に任せられるオス、例えばオスマントルコのスルタンだったと思いますが、ムーレイ・イスマイルと言う男は多くの後宮を相手に888人の子供を成したそうですし、古代インカの皇帝も国中の処女を選別したとか。日本の大奥も同じようなものでしょう。
>>297;で述べた近松の心中物もそう言った文脈の中での例です。

「愛」の全てを進化人類学に還元することは勿論出来ないにしても、今の人間がおそらく共通に持っている愛の感情の基礎を理解するのに、進化の理論が役に立たないことは無い筈です。

309ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:47:18 ID:vUxNW.gI
AH1さん、NANさん

「水伝教」の件、くだらない仮定の話につきあってくださってありがとうございました。
雄さんの書き込みを読んで考えたのですが、「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

310ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:56:22 ID:vUxNW.gI
猫さん

レスありがとうございました。

>馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
>ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、
>敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、
>味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。

これは、耳がいたいですね。NANさんにも指摘されたことですが、確かに宗教批判するときに「最低」を基準にして「全体」を批判する傾向があります。まぁそれ以外にも「宗教全体」に対する疑問は疑問としてあり、ドーキンスを支持したくなる理由もあるのですが。

311NAN:2008/02/09(土) 19:41:37 ID:G81kGdtk
枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

>>306
>それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

>少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

自己を自己と意識する必要?キミは情緒における自己と個体認識としての自己を混同しているでしょう。愛の発現を生物学的に解明しようというのであれば、ヒトを見るよりもまず、その他の生物に普遍的に見られる行動的特徴から、我々が「愛してるっぽい」と感じる行為をピックアップし、それがどうヒトに共有され、変化したのか?を探るべきだよね。なぜなら、愛がヒトだけのものでなくてはならない理由などないのだから。
カメムシが自分の子供を背負っているのを見て、我々ジンルイは「母は子供を愛しているのだなぁ」とか云う。無論、カメムシが私たちヒトと同じ情緒的な意味で「子供を愛している」などと私は思わない。いやむしろ、子孫を守ろうとする激烈な行為の発現に於いては、彼らのそれの方が遥かにヒトを上回るだろう、と私は思う。

それでは、なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
雄クンがなにをもって「愛」と述べているのか、私にはいささかも理解できないけれど、愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。そう、なるほどヒトは複雑な情緒を持ち、さまざまな性癖を持っているけれど、なにかを守ろうとする激烈さに於いては、他の生物種に一歩も二歩も行動としては劣る。この点について私は、愛、と呼ばれる「なにか」の本来的な要求から、ヒトはむしろ離れているとさえ考えている。

さて、もう一歩議論に踏み込む前に、私から「愛」を定義してみよう。無論、私の個人的な定義なので反論も異議もあるだろう、と思う。
1:愛は平等なものである。
2:愛とは与えるものである。
3:愛は寛容である。
4:愛は普遍的なものである。

実はヒトほど「愛」からかけ離れている存在はないだろう、と私は思う。たとえば「男女間の愛」について述べるなら、ヒトは性行為を経済行為として「商品化」し、これを古代から受け継いでいる。また、所有する財産や社会的地位によってさえ、繁殖・婚姻の機会が大幅に変動し、差別的である。これは他の社会性動物にも云えないことではないが、ヒトの顕著さは目を見張るばかりだろう。これらによって「男女の愛はまやかしに過ぎない」とまで私は述べないけれど、愛に対する誠実さ・切実さに於いて、ヒトは他の動物種より劣る、と考えている。

312NAN:2008/02/09(土) 19:42:01 ID:G81kGdtk
それでは非常にチンプで破廉恥な、ヒトにおける愛とはなんだ?と考え出すと、自己愛以外のなにがあるんだ?と私は考える。先に述べたように、生物は自分の生命を守ろうとする。そのためにさまざまな防衛手段を発達させた。また、その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。これら他の生物種が行う利他的行動を、ヒトがもしも行ったのであれば(そういう実例は数多くあるけれど)、それを「愛」と賞賛しないだろうか?なぜ、ヒトと同じ情動や意識下にないものが「愛ではない」と断言できるのか?むしろヒトほど愛を理解できない生物はいないからではないか?と考えたほうがすっきりできるのではないか?さまざまな生物種が行う慈愛的だったり利他的だったりする行動を見て「いや、あれはただの本能だよ」というヒトの傲慢ぶりに、愛との断絶があるのではないのか?そう、彼らの脳裏にはヒトと同じ情緒もなければ意識もないだろう。だがなぜ「同じでなければならない?」と、私は繰り返し問おう。

次に、ヒト「だけが」持つと思われる「愛と呼んでいる不明瞭な情緒」について。
小学校に上がるか上がらないかくらいの児童でも、感動的な絵本や物語に触れて涙することがある。これは「物語の登場人物に自分を重ね合わせる」という自己投影の結果に起こる現象だろう、と私は思う。あるいは、母親が持つ、男女の愛など簡単に消し飛ぶほど激烈な子供への慈愛や寛容さは、なにに端を発するのだろう?それはやはり、自己を投影しているからではないだろうか?つまり、母親は自分を愛するのと同じか、それ以上に強い衝動的な情緒に突き動かされることがある。これが男女の愛の比ではないことは、経験して見れば誰でも理解できるはずだ。

つまり、ヒトにおける「愛とか云う情緒」は、基本的に自己とその拡張である。男女の恋愛感情などまったく発現する以前の児童でさえ、自己を投影して他人の感情や境遇を思ったり、慈しみに近い感情を持つことができる。ちなみに男女にあるのは依存関係であって、愛とは若干違うだろう、と私は考えている。

最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

313:2008/02/10(日) 11:07:10 ID:QpQGFxc6
>枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

NANさんも結構長いですよ。…まぁいいけど。
最初に事実関係を………、

>キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

私は置き換えていませんよ。
人間の「愛」の感情とその起源を理解する為に、ゴリラともチンプとも違う、ヒトだけが辿って来たであろう進化人類学的な事情を解明するのは必須です。
その事情として、直立二足歩行や難産、それに伴う新生児の無力化を挙げたのですが、これはNANさんご指摘の「ヒトの生態」です。NANさんはこれを「愛」に置き換えられると言うのですか?
多少なりとも唯物論をかじった私としては、感情である「愛」と、その実在的基盤(NANさんが言う生態)を混同するようなことは、絶対有り得ません。


既に水掛け論の様相を呈してきました。そろそろ収束の頃合いかも知れません。

>>311;>>312;でも、NANさんが延々と述べられている生物の「愛」の行動について、既に、>>306;で「生物」「生物の行動」の単なる置き換えに過ぎないと述べていますので、ここで繰り返しません。
今回気が付いたことに絞ってコメントさせて戴きます。

>なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
>愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。
>その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。

これなどドーキンスの「利己的な遺伝子」とどこがどう違うんですか?
「利己的な遺伝子」についての賛否、評価については人それぞれだろうけれども(地下猫氏も『利己的な遺伝子』に付いては一定の評価をしているようだ)、NANさんに拠ればこの本一冊、丸ごと「愛の物語」になりそうです。

ドーキンスが、或いは進化生物学全体が理論付けた内容を、愛の物語に仕立てるのはNANさんの思想信条の自由だとして、しかしそれで一体何が分かったことになるのですか?
「愛」などと言う概念を殊更に持ち込まなくても、NANさんが述べられた「自己保存」「自己防衛」「子孫の繁栄」「利他的行動」など、全て進化生物学的な適応で解釈できます。
産卵の為命を投げ出す(と言うか命を掛ける)動物などザラにいます。と言うか遺伝子を次世代に引き継ぐ、それ自体が生物の本質じゃないですか。その為に特化したシステムが生物です。
だからここでもNANさんの言う「愛」は、「生物」「生物の行動」の単なる置き換え、同義置換、トートロジーに過ぎません。

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
環境汚染や温暖化を受け入れて、ただそこに佇む、愛の存在などと詠嘆するのは結構だとして、酸素も石灰岩も鉄も、全て生物との共同制作物です。或いは温室効果ガスも然り。
大事なことはそう言う地球の危機を科学的に分析し、経済や生活と折り合いをつけながら、危機を回避する方向での自然科学的な対象として、人類の英知をそこに向けることでは無いのか?

尤もNANさんが、汎神論者を任じているのであれば、それはそれで一つの立場です。

遺伝子DNAを基礎とした(全てそれに還元される訳じゃないが)生物一般の行動様式は、当然類人猿やヒトの行動の土台です。それを「愛」と呼ぶかどうかは別として、そのことは当然私も認めます。
しかし人間の愛の感情をその生物一般の「愛」に還元することは出来ない。なぜかと言えば一番近縁な類人猿でさえ全て配偶関係が異なり、当然愛の感情(そう言うものが有るとしたら)も全て異なるだろう筈だからです。

人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、進化の歴史の過程でヒトだけが辿ってきたヒト特有の事情を、適応上の観点から見ること無しに、人間の愛の感情を理解することは絶対にできないと思う、「今日この頃」。

314:2008/02/10(日) 11:08:01 ID:QpQGFxc6
旧聞と言うことになりますが、何かのついでにと思っていた、>>229;の「妖精論議」についてもこの機会に少しばかり異議申し立てをさせて頂きますね。

>今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

本当に等価でしょうか?、妖精を神に置き換えても話の事情は同じですよね?
主にキリスト教系の神を念頭に考えて見ます。妖精で考えて貰っても同じことですが、神の方が話が分かりやすい。

私は無神論者です。精神的にも実践的にも神を必要としません。
こう言う罰当たりな者にとって、神の実在証明は勿論ですが、不在証明も実は全く必要無いのです。世界中の殆どの人が、スパゲッティモンスターの不在証明を必要としないのと同じことです。ですから殊更神の不在証明にエネルギーを割くことはしません。

しかし神を信じている人は事情が違います。
神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。
当然実在証明にも気合が入らざるを得ません。事実その為に多くの賢者と言われる人たちが、膨大なエネルギーを注いだことでしょう。

又、難易度と言う点でも雲泥の差が有ります。
実在証明は、たった一度それを示せれば良いのです。神でも妖精でも一度お出まし願って、記者会見でもテレビカメラの前でも、批判者の検証に晒せば実在を完全に証明できます。
しかし不在を証明するには、あらゆる実在の可能性をしらみつぶしに否定する必要が有ります。だからこそスパモンも不在を証明できないのです。

若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

必要度や投下エネルギー、難易度の点でこれだけの極端な勾配が有るとき、単に表面的な結果が同じだったとして、それで等価と言えるでしょうか? 私は神に対する、度外れて「不相応な敬意」だと思います。
事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

ここから論理的に導かれる結論は、神(或いは妖精など)の実在は限りなくゼロだということじゃ無いですか? ゼロと断定は絶対に出来ませんが。
その点ではスパモンと比較してさえ、神の実在は蓋然性が低いと言わざるを得ません。スパモン教はその実在証明にそれ程血道を挙げているようには思えませんからね。未だ見つかる余地を広く残していると言えます。

それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

315NAN:2008/02/11(月) 09:56:59 ID:G81kGdtk
>>313
つまり雄クンは「愛はヒトが独占的に持つ特性である」と述べているのだね。そして愛は男女間の愛に代表される、と。
>>314については特にコメントの必要なし。

316NAN:2008/02/11(月) 10:07:59 ID:G81kGdtk
ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。

差別的性向が適応度を高めるって云う議論は肯定するけれど、それを愛と呼ぶ傲慢は否定。
以上です。

317ちょちょんまげ:2008/02/11(月) 14:48:16 ID:vUxNW.gI
ちょっと酔っ払ってます。少々の失礼、トンチンカンがあってもご容赦。
まぁまぁお二人ともって、白黒つけたがる性格の私がこういうことは珍しいのですが、

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。
ニンゲンの言葉としての「愛」の定義はこれがぴったんこだと私も思う。

>地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
これはこれで素晴らしい。NANさんはあまり肯定しないかも知れませんが、私はこの「理性」部分が好きです。
(NANさんがおっしゃる「人間として良くあろう」の一つの側面として)

お二人は噛み合って無いように感じていらっしゃるかも知れませんが、少なくとも私には、お二方のご意見は極めて有意義です。

318e10go:2008/02/11(月) 19:59:29 ID:5/V6R9W6
雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

雄さんは「愛」を「異性愛」に限定して科学で説明を試みているけど、何故「異性愛」に限定するんでしょうね。
確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。
しかし、「愛」はもっと広い意味があるんだから、(現在の)科学で説明できる事とできない事があると思います。
人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。
「愛」の形には多様性があり、「セックス」と関係なく「感情」をともなう部分があり、「感情」の部分は現在の科学では解明できないものもあります。

私は、NANさんの >>312 の最後のコメントが気に入りました。
>最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
>たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

今の私は、「愛」について「Aセクシャル」の「無性愛」に興味があります。

319:2008/02/11(月) 23:21:43 ID:QpQGFxc6
>雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

錯覚では有りません。
科学によって直ぐに全てが解決できると思うほどノー天気でいる訳では無いし、科学の悪用も有るので、「科学万能主義」と言う呼び方が適切だとは思いませんが、真理への接近の道が有るとすれば、それは科学だろうと思っています。


>確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。

…ですよね。
でもこの板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、「存在しない」と言う見解が主流のようでした。
そうではないだろう、と言うのが私の主張であって、それによって『異性愛』に限定しただけにせよ「科学で研究は可能」と思って頂だけたら嬉しいことです。一角が崩れた訳ですね。


>人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。

私は「愛の感情」の起源について述べています。その点で若干問題意識のすれ違いが有るのだろうと思います。

確かにe10goさんが述べておられるように「愛」はたくさん有りますね。しかしいずれにしてもこう言った感情は人類の長い進化の過程の、どこかで獲得し発達したものである筈です。
e10goさんが挙げられた、それぞれの、似たような内容を持つ感情が、ヒトの歴史の中で全く独立に、平行してヒトの意識に発生してそれぞれ別個に発達し、それに対してたまたま「愛」と言う同じ語彙が割り振られたとは到底考えられません。

そうではなくて、ヒトが生き残る上でののっぴきならない事情によって、先ず最初に何らかの、そう言った漠然とした感情がヒトに芽生え、それが適応上有利であった為選択され、定着・発達するに従い、次第に輪郭のハッキリした感情となり、いつの頃かその感情に「愛」と言う語彙が与えられたのでしょう。

その感情を内包とし「愛」と言う語によって外延とされる、「愛」の概念が次第に形成されてきたのだと思います。
そしてその過程で、同じような内容をもつ様々な、漠然とした意識内容が、先行していた「愛」の概念に寄りかかる形で輪郭化され、同じ語で呼ばれるようになったのでしょう。それがe10goさんが挙げられた様々な「愛」のバリエーションだったのでしょうね。
私はそう思います。

問題はその最初の「愛」の感情を生み出した「のっぴきならない事情」とはなんだったか? と言うことです。それは適応度と直結したもので有る筈です。

ヒトが置かれた進化の過程で、我々の遥か祖先のオジイチャンが、パートナーと一緒に子育てすると言う行動を、若し発達させることがなかったら、その行動を強化するために「愛」の感情を発達させることがなかったら、今の我々はまず存在しなかったでしょう。とっくに人類は絶滅していたか、少なくとも今の複雑な社会を築くことは有り得なかったでしょう。

「同性愛」「無性愛」「親子愛」「隣人愛」「人類愛」「自己愛」「地球への愛」などは、その後に発達させても充分間に合うことだったでしょう。
私はそう思うのです。

320GB:2008/02/11(月) 23:40:09 ID:zXfK7pu6
>>319
たとえばドストエフスキーの言う「人類を愛するのはたやすいが、隣人を愛する
のは難しい」といった次元の愛という表現は、どう理解したらいいでしょうか。

321:2008/02/12(火) 00:02:59 ID:QpQGFxc6
>>320

繰り返し述べているように、319を含め、「愛」の感情の起源についての私の見解表明でした。
現在の既に確立した「愛」の概念を使って、それぞれの人がどう言うことを言ったかは、今度は文章の解釈、表現、或いはその人の思想とか、考えとかと言うことになるんでしょうね。

ドストエフスキーがどう言う状況で、どう言う意図で述べた言葉であるか、私には分かりかねます。

322GB:2008/02/12(火) 00:16:42 ID:zXfK7pu6
>>319
>この板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、(略

そもそも…ズレてません?

323NAN:2008/02/12(火) 03:48:32 ID:G81kGdtk
「愛について」はもうやめたつもりだったんだけど、撤回。だってさ…んなのあり得ないだろ?
生物学的議論と限定してでさえ、親子の愛が「後からでも間に合う」などと云う、バカとしか云いようがない主張まで出てきたからね。
適応度の概念を用いたとしても、配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?てめぇで書いてるよね。生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ。だったらなんで「親子の情」が配偶者の情より愛の起源として高いプライオリティになるんだ?子から親の情、親から子への情がどれほど深く永いものか、さっぱりワカランのかね。ヒトオスの愛情表現なんか、子から親への情の架け替えじゃんか。

つぅか「愛」ってなんだ?
愛の定義をおざなりにして「愛を科学で説明する」ってのがまず、ポンツクなの。だいたい想像がついてるけれど、愛のなんたるかを少しも熟慮しないで激しく偏狭な勘違いを愛と定義しているらしきところからダメダメ。オスメス共同の子育てや配偶者間の役割分担なんか他の動物種でもあるだろ。ニンゲン至上主義ってのは科学万能主義より始末の悪ぃバカ丸出しだよ。あ、ついでに男性至上主義も混ざってんのかな。愚の骨頂だぜ。

しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

324AH1:2008/02/12(火) 12:22:28 ID:sNMJ1V0Y
>どうしてどうして、感動モノですよ。
>あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。


いやそれは・・ 確かにそうなんですが、なんか話が違う。うまく言えないんだが。
漠然としたイメージだけを言えば、「知的理解や生物学的基盤は『愛を理解する』ことの一形態であろうが、それが全てじゃあるまい」という事、かな・・・ 私が感じているのは、それだけの事かもしれない。そして、生物学など何も知らない作家や詩人の、あるいは人々が日々の行動でもって描き出す「愛」に価値がないかといえば、そんな事はないと思うのだけれど。

325AH1:2008/02/12(火) 12:25:29 ID:sNMJ1V0Y
>「水伝教」の件、

いえいえ、こちらこそ。

>「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

余計なことは考えない、というのも適応的な戦略でしょうね。少なくとも節約的です。

326e10go:2008/02/12(火) 13:32:39 ID:5/V6R9W6
>>319
「愛」ってもっと広い意味がありますよ。
全ての「愛」についての「感情」の発現が同じとは限りません。
色々な「愛」に対する「感情」の発現機序を考えてみては如何でしょうか。
例として、「親子の情愛」、「ペットの愛犬を愛する」、「登山家が山に登る事を愛する」または「スキーヤーがスキースポーツを愛する」

327:2008/02/12(火) 16:41:13 ID:QpQGFxc6
>配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?

自分のコピーを守る為にこそ、ヒトは「愛」の感情を発達させたと言っているのです。その感情を発達させなかった個体は自分のコピーを残せなかったでしょう。つまりヒトにおいて、メスだけでは子育ては難しかったのです。
共同して子育てをするオスの行動、その行動を強化する為の「愛」の感情を発達させた個体が、そうでなかった個体より適応的だった、と言っているのです。
子供が残らないのに、「親子の愛」の感情が発達する筈もないでしょう。
「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

「親子の愛」の感情など一切抜きに、自分のコピーを残している生物など幾らでもいます。
大腸菌の細胞分裂、カビの胞子、タケノコ、イチョウの実、等など、etcエトセトラ。
そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。
NANさんはここでも、「利己的な遺伝子」を「親子の愛」に置き換えたに過ぎません。

ゴリラもチンプもボノボも、父親は子育てに関与しません。
そもそもチンプやボノボでは、子供の父性さえ特定できません。父性の混乱を目的にメスは乱婚を発達させたと言う説が有力です。主に子殺し防止の為に。
まして哺乳類一般では、その大半で、半分の性は「親子の愛」の感情など、殆ど発揮する余地が有りません。
NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

そもそも私は(>>313)で、
>>人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、

として、NANさんの「>生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ」は既に、私の主張に織り込み済みです。
更に繰り返し述べているように、私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。
ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。


>しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。
少なくとも私は、地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。


ところで………、
>ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。(No-316)
>314については特にコメントの必要なし。(No-315)

クゥー!!、スルーせずにコメントして欲しかったなあ!!!!

328:2008/02/12(火) 16:45:36 ID:QpQGFxc6
RE GBさん
>そもそも…ズレてません?

まあズレているのは有る程度確信犯なのですが、質問・批判・非難に応対する形なので、あの形以外今のところ考えられません。
若しズレていて興味に合わないのであれば、無視していただけると有りがたいのですが。

RE AH1さん
>なんか話が違う。うまく言えないんだが。

元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、その例として「愛の起源」を述べ始めたら、その中身が本論になってしまったと言う訳で。
内容はあくまでも私の個人的見解ですが、兎も角科学の俎上には乗ると思っています。


RE e10goさん
>「愛」ってもっと広い意味がありますよ。

ですから色々有るけれども、その似たような感情が人類の祖先の歴史の中で、全く独立に平行して発生、発達したとは考えられない。
最初はある一つの漠然とした感情が発達して、そのバリエーションとして広がったのだろう、と言うのが私の見解の訳で。それが>>319;です。

勿論e10goさんがそうでないと言うことなら、それはそれで結構ですけど。

329GB:2008/02/12(火) 19:56:08 ID:kYOag.zk
>>328
>まあズレているのは有る程度確信犯なのですが(略

あー、一言だけ質問を。

スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。

それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?
(いや、愛の起原の話自体は、興味深いし面白いですけど)

330:2008/02/12(火) 23:32:07 ID:QpQGFxc6
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。

うーん、
今一寸頭に浮かんだことを書いてみますね。だから今までの「愛」についての問題と違って、後で「訂正」と言うことが有り得ますので、その点、悪しからず。
それとGBさんの問題意識と噛み合うかどうか、それも自信は有りませんが。

愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、これら全ては「意識内容」です。そう言う点で実体ではない、つまり固まりのようなモノが有る訳ではない。
しかし愛と、妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想は明らかに違う。その違いはおそらく感覚器官を通しての意識への反映かどうか、の違いじゃないでしょうか。

唯物論の物質定義として、「意識の外にある客観的実在」と、単に言い切るだけでなく「感覚器官に与えられる」と言う条件が付きます。それは主に神に対する配慮です。
つまり、神(客観的観念論)の側は、「あなたがどう思おうが、神はあなたの意識の外に客観的に実在します」と主張する。
しかし神はどんなことをしても、どんなセンサーを持ってしても、感覚器官に与えられない。だから唯物論としては神を実在として認められない、と定義上判断・主張できるのです。

……んで、
愛の感情はその対象を、例えば恋人であろうが子供であろうが、犬であろうが物であろうが、感覚器官を通して意識に反映することで生じます。直接感覚せず頭の中で思い浮かべながら感じることも出来ますが、そのイメージは普通、過去において感覚した記憶に基づきます。
だから「愛」そのものは実体ではないが、その意識は実在的基盤を持ちます。
だから私も今まで、だらだらと人類の過去に遡って、進化人類学の知見や化石が示す実在的基盤に立ち戻って、「愛」を考察できたのです。それが正しいかどうかは又次の問題として。

勿論アプローチは色々有って、脳科学的に、ドーパミンがどうのこうのとか、心理学や様々な接近が有るでしょう。ただ私はそう言うことは全く無知で、多少知識のある進化人類学的な線から「愛」を考えてみたと言う訳で。

それは全ての自然科学の対象で共通のことではないでしょうか。
科学の仮説は全て意識内容だと言えます。しかしその対象が客観的な実在である限り、それとのすり合わせを通して真偽の検証が可能です。
唯物弁証法の「真理」の定義は、従って「客観的実在と一致した意識内容」と言うことになります。

しかし、妖精・ある特定の妄想(例えばカッパや座敷わらしなど)などは、どんなセンサーを持ってしても感覚されない。だからそれについての意識は実在的基盤を持たない。従って論じる人によって様々なバリエーションが、際限なく繰り広げられることになり、かつその検証が出来ません。

かと言ってでは妖精やカッパが全く科学の対象にならないかと言うと、民俗学や宗教学など、今私はその分野を列挙できないけれども、様々な人文科学、社会科学の対象として、例えば「そもそもそう言う意識内容は、どう言う背景の元に紡ぎ出されたのか」と言うようなことが研究されると思います。カッパの例は前に出しました。

例えば「霊」の起源は夢からだったろうと言う説が有ります。私もそれを支持します。
既に死んで肉体は無くなった筈の人、或いは遠くにいる筈の人が頻繁に「出現」する。脳や意識の働きについて全く無知だった原始時代に有って、それは肉体と同じような姿・形で、普段は肉体に付随しているが、時にそこから遊離して自由に動き回り、死んでも肉体と一緒に滅びることの無いモノとしての「霊」なるものを想定しないと、辻褄が合わなかったんでしょうね。

それは当時の人に非常な恐怖を与えたと想像されます。人は自分の与り知らぬところで、他人の夢に出てくる自分の「霊」の所業の責任を問われることになった筈だからです。
又、一度死んだ肉体との対意として考え出された霊は、その後更にもう一度死ぬとは考えられず、その霊の居場所として、冥界とか幽界とかが考案された訳です。

だから当時の人に在って霊は、決して死後のなぐさめと言うようなものではなく、逆に非常にみじめなものとして考えられていたようです。
それが古事記やギリシャ神話に共通に見られる、冥界の描写となっています。

同じように「神」についての意識も当然その背景が考えられます。これは哲学上の大きな問題でも有ります。
と言うことで、社会科学、人文科学も立派な科学だと思う私にとって、妖精や妄想であっても考察の対象にならないことはない、と言うことですね。

どうも直ぐ横道にそれてしまいます。GBさんの興味と又大きくズレてしまいましたかね。
それと上記は唯物論的な私の解釈です。哲学的立場が異なれば全く違った見解を持つでしょう。

331NAN:2008/02/12(火) 23:50:12 ID:G81kGdtk
うん、良く分かった。
アクア説議論の頃から感じていたことだけど、確定。
なにが確定したんだろうね(笑。

332GB:2008/02/13(水) 00:13:14 ID:zXfK7pu6
>>330
もう少し、じっくり考えて、ご自身で整理したうえでレスお願いします。
「実体」ではない「価値」をどう扱うか、がポイントですから。

333地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:29:41 ID:Y80wH3GM
さて、酒でも呑んでなければやってられにゃーレスでもするか(ためいき

>雄クン

>>295

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

>と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿

そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。
都合のワリイところには決してレスしにゃーのは、「と」にゃんぜ(げらげら


>同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿


>>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
>として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
>しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

馬鹿を相手に謙遜すると、馬鹿はのぼせあがるものにゃんな。
僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿
具体的な反論ができてにゃーのはどこの馬鹿だ?>馬鹿
日本大百科もひいているが、字が読めなかったか?>馬鹿
そもそも、そのウィキにすら反論できてにゃーのは誰だ?>馬鹿

>私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿
チミのような馬鹿には>>231

>○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係>においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

こんなお笑いが馬鹿にとっては「見事な反論」になるといことはわかったよ>馬鹿
(ヘーゲルは本当にこんな馬鹿なことをいっているのか、典拠をしめしてほしいにゃ)
あのな>馬鹿
どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

334地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:30:17 ID:Y80wH3GM
つづき
>>296

>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

だからな>馬鹿
僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿
科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿
聞いてもにゃーことを答えて何がしたいんだ?>馬鹿

ニンゲンは生物であり、生物の行動すべてに「生物学的・化学的・物理学的」な基盤があるなんて、ウルトラ観念論者でもにゃー限りは誰だって当然と見なすんだにゃ。
何を程度の低いねじ曲げをやってんだよ>馬鹿

ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。


>>297

>>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

>地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
>ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
>なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

開いた口がふさがんにゃーよ>馬鹿
何度でもいうけど、物自体についてはチミに論証責任があることはわかるね? 力量がにゃーのなら、特定概念を批判しにゃーほうがいいよ。
それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。
アタマを振ると、頭蓋骨の中で干からびた脳みそがカラカラ音をたててにゃーかね?


とにかくな>馬鹿
チミはこちらの問いにまったく答えようとしにゃーな。
ねじ曲げて誤魔化すことしか脳がにゃーのだろうけど、それがことごとくバレバレってのは悲しいものにゃんぞ。
チミはアタマがわりいんだから、人前でものをしゃべるのはやめとけって。

335地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:33:14 ID:Y80wH3GM
>GB
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
>それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。
>それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?

その質問には僕なりの答えがあるにゃ。
われらが雄クンが、「愛がカガクの対象か」という話に拘泥しはじめたのは>>296だにゃ
ここ前後でのやりとりに答えがあるのではにゃーかと

>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
>>225 雄

>ほほう?
>勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
>チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー
>>291 地下猫

>一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
>折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。
>>296 雄

と、ここからえんえんと雄くんの無意味なジャーゴンが続いているわけだにゃ。
これね、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」という雄ダイセンセイのカガクの定義に対して、「勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?」という突っ込みがはいり、そこに対して有効な反論ができにゃーから誤魔化しているだけのことなんですにゃ。
字の読める人なら誰でもわかることなんだけど、雄ダイセンセイの科学の定義では「おまえ、くさいよ」「ごめんなさい、この子はあなたの子ではないの」も科学になっちゃうという指摘に対し、「対象とする範囲が広い」ことを示しても何の反論にもならにゃーことはわかるよね。

そもそもさ、この出来の悪いクイズについてdiamonds8888xからの適切な突っ込みがあり、出題者である僕がその突っ込みを妥当なものと見なした上で、クイズの出題意図を明示した後に、なお後出しで突っ込むことに何の意味がある? しかも、雄クンの書いていることって、僕が明示した出題意図を完璧に無視してるもんにゃ。これ、誤魔化し以外にはありえにゃーですね。しかも、すんごく程度の低い誤魔化し。

とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

あと、愛というコトバでインスパイアされて性欲・繁殖のことをえんえんと語るところから、
・雄は童貞ではないか
という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

336地下に眠るM:2008/02/13(水) 02:03:21 ID:Y80wH3GM
さてさて、本丸の話は、ドーキンスの「神は妄想である」の書評と、神と科学との共存のお話だよにゃ。

書評については僕としては言いたいこと言ったので突っ込み待ち。

あと、「共存」のお題にゃんが、僕としてはすでに「愚行権」の話題で終わっているんだにゃ。
馬鹿であることは責められるべきことではにゃーよね。(もちろん、馬鹿なことを言ったりやったりしたら、突っ込まれるのは当然)
現実的な他害についてはきっちりとカタをつけなくてはならにゃーが、馬鹿とか気にくわないとかいう理由で他者を非難すべきではにゃーです。馬鹿宗教がおかしな真似をしてきたらそれを個別で叩くことはしなければならにゃーとして、それと宗教否定は別物にゃんね。
これは、科学の作法というよりは、自由民主主義の作法なのではにゃーでしょうか。

もっといえば、スタージョンの法則「すべてのものの90%は屑である」なのではにゃーかと大まじめにいいたいにゃんね。
宗教者「も」90%は屑だなんてことはアタリマエだにゃ。しかし、屑が目立つということをもって全否定することはできにゃー。
信仰者だろうが無神論者だろうが、90%は屑にきまってるだろ。屑ってのはあくまで屑なんだから、屑の言動でその思想や立場を判断しちゃダメだろ。雄クンの言動をみて唯物論者を判断してはならにゃーよ。

各人の思想や宗教的立場を理由とした非難は基本的に不当だと僕は思う。
他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。どう転んでもお互いに屑なんだから、実際の行動をもってしか他者を非難してはならにゃーでしょう。これこそが自由主義の作法だと僕は思うんだけどにゃ。

あ、そうそう。個人的な好き嫌いは表明しても構わにゃーかもね。
ただ、多数派とか権力者の好き嫌いのあからさまな表明はすんごく問題だけどにゃ。

337NAN:2008/02/13(水) 05:24:40 ID:G81kGdtk
2月はさぁ、やけに忙しいんだよね。忙しいとこんな時間にタイプしてて、疲れるとネットを徘徊するんだけど…一応、反論らしきことを述べてるバカ君に応じておくのも礼儀かも知れないので(実は気分転換をしたいだけという説、濃厚)、ちょっと書く。

>>327:雄クン
>「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

頭がおかしいのか?「親子の愛情など後付で十分」と述べたのはどこの誰だ?
親子の「愛情」なんだろ?どう考えてもそれはメスが先に発現させるのが道理だろ?それを愛の起源としない馬鹿説を披露してるのはキミ。
云っとくけどな、愛には必ず相手が必要だなんて定義は誰がしたんだ?そもそも普遍性があり恣意的でなおかつ広範囲な解釈があるであろう「愛」を勝手に限定しておき、さらにその具体的な「現象の特定」さえ行わない卑劣な議論を展開してるのもキミ。

>そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。

つくづくどうしようもない馬鹿。
じゃぁ生物の本質が「愛」なんだろ?愛の科学的定義ってのが存在するのか?「愛と呼ばれるヒトに占有される情緒活動について」なんて云う議題の限定は誰もしてないんだぞ?

>NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

脳が腐ってるに違いない>雄クン。
つまり私が述べる「愛」はそれほど普遍性がないものなので説得力に乏しい、と。するとオマエサンの主張する愛はもっと普遍性があるのか?より限定された現象を以って「愛の起源」とか馬鹿丸出しの疑似科学をひけらかしている馬鹿には分からないよね。

>私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。

じゃぁ「親子の愛は後回し」じゃねぇだろうが、馬鹿。
ていうかキミさ、キミが論じてるのは「オスの育児参加と勃起の正当化」だけじゃん。キミの愛は中学生を庇護するには役に立つかもね。ああ、もしかしたらキミが中学生なのか。だったらゴメン。本当のことを云えばいいってもんぢゃないよね。そして中学生をなめたらいけない。きっと雄クンより頭がいいからね。

雄理論によると、愛の起源は「男女の愛」であり、しかも、オスがメスの子育てに参加する動機として適応的だった、という説だな。しかしそれ以前にメスは子育てをしていたし、子供を守ろうとさまざまな外敵や障害と闘っていたはずだが、それは自己愛とその拡張であり生物全般に共通する行動で珍しくないから「愛ではない」と否定しているのが雄説ってことだね。
そんな小学生でも分かるくらい馬鹿な話をして恥ずかしくないんだから尊敬に値するよ。

338NAN:2008/02/13(水) 05:25:19 ID:G81kGdtk
>ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。

ひどい詭弁だし、もちろん本人は自説が破綻してることに気付いていないし一生気付こうとしないことを予言。


>期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。

予想通りのドンピシャ!この卑怯で馬鹿な屑は絶対に自分から愛の定義なんかしないことを150%予想してたんだ。
あのなぁ「漠然とした感情の起源」を科学的に探るんだったら、愛なんて難しい情緒をパネルに出さなきゃ良かったの。だいたいお前が愛を知らないじゃん。知ってんの?子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?

いぢめてばかりでも仕方ないので、私と共通しているポイントだけ指摘しよう。「子供(育児・出産・繁殖)に対する情緒的反応」という点に於いてのみ、僅かに二つの主張は被る。また、私の視点はどちらかと云えばメス視点であり、雄クンの視点はオス限定の馬鹿視点。だがしかし、育児をキーとした情緒の発現について論じるのであれば、出産を担うメスが子供に持つ感情を先にプロットしない理由は、まともな思考回路を持つモノにはまったく理解できないだろうね。

>地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。

ぢゃぁ挙げろよ。具体的な論拠も提示しないでなにが反論だよ、屑。
っていうか文章おかしいぞ。私の「愛の定義」に当てはまらない現象なんかいくらでもあるだろ?先に述べたように、私は私個人の恣意的で勝手な「表現」として愛を「文学的に」述べたんだよ、ワカランか?で、それに当てはまらない現象があるからどうだって云うんだ?ロケットが飛ぶから愛じゃないとか云い出すのか?鼻から脳が垂れてるんじゃないのか?

メスを犯したくて仕方ないから、ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ、ってのが雄クンの云う愛の起源だな。素晴らしいエレクチオン肯定理論だ。でもオマエサンがそんな馬鹿話をひねくり回してるから、段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。

339NAN:2008/02/13(水) 05:52:35 ID:G81kGdtk
馬鹿になにを云っても無駄だろうけど、本論と云えば本論なので
>>314

>神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。

鼻と耳から脳が垂れている馬鹿。
神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。神の自然科学的な実在ってのはつまり「創造科学」そのものぢゃぁねぇかよ。そんなもん主張してる教会は異端扱いされるさ。「超自然的な実在」がポイントなの。むしろ自然科学的に実在するような神じゃぁ、信仰の対象としてあまりに矮小だろ?んなことも分からないのか。

>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。しかし、客観的実体の観測証明ができない、ということ。アニメキャラだろうがダースベイダーだろうがスクリーンの中に確かに実在するだろ?

>事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

本当に、本当に、本当にバカなんだなぁ>雄クン。
いい加減あまりの脳腐れが哀れに見えてきたよ。
まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。
それを集団幻想だとか妄想だとか云うことだってできるかも知れない。しかし、彼らの『経験』を否定する論拠なんかどこにもないの。これがいわゆる自然科学の限界だろ。

科学万能主義のバカ屑に云わせれば、それは無論「幻覚」としか云いようがないかも知れない。
だからなに?って云えるのが信仰なんだぜ?

>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

どんなまとめだよ(ゲラゲラ。
事実の矮小化を勝手にすんな、屑。ある時、ミジンコ大王(仮名)の脳裏に光が瞬いた!お前は井戸を掘れ!井戸を掘った結果、鉱脈を探り当てたミジンコ大王(仮名)は莫大な財を成した。ミジンコ大王(仮名)の脳裏に瞬いた光とそのことばを自然科学的な意味で実証することは不可能だ。んなもん嘘かも知れない。だが、ミジンコ大王(仮名)の経験した「なにか」を否定することは、どんな方法でもできねぇんだよ。云っとくけどこれは心理学の基本だぜ?(心理学を科学と呼ぶかどうかは保留。しかし学問であることは間違いなく、有用である)

340NAN:2008/02/13(水) 06:00:46 ID:G81kGdtk
>>339について

アクア説議論の足跡論しかり、愛の起源しかり、物自体しかり、ポイントはスルーしまくり論理は破綻しまくりで、科学的論拠を提示されても一向に認めようとしない「一貫したバカ」を繰り返している雄クンの>>314が、あまりに薄っぺらでバカ丸出しだったので放置していた次第です。しかしバカが執拗に馬鹿なことを述べているので「お前はバカだね」と優しく返したのが>>339です。

341diamonds8888x:2008/02/13(水) 06:06:18 ID:jcR/Lf4.
>>336
> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

 おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。


 ところで雄さんは、自然科学的に存在するばかりか自然科学の対象ともなっている『愛』については詳細に立証してきましたが、それは「自然科学的には存在しない『愛』がある」という言明の否定にはなりませんし、「自然科学的には存在しない『愛』についての学問にも価値がある」という言明の否定にもなりません。ここがずれているポイントじゃないでしょうか?

342地下に眠るM:2008/02/13(水) 10:40:07 ID:cizMQ0FI
>> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

> おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。

ちゅうよりも、「我が身かわいさ」ですにゃ。
基本的人権・自然権の理屈って、非常に普遍性・有用性のある相互安全保障ツールだと考えていますにゃ。
どんな反社会的な思想であっても、考えているだけでは罰せられない、というのは僕のようなロクでもにゃーことしか考えられにゃー屑にはありがたいお話でしてにゃ。

そもそも、ある特定のAというイデオロギーとかイズムを否定するのは、他のBというイデオロギーなりイズムになるはずだと思うのですにゃ。
信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。
べつに、イデオロギー同士、イズム同士でケンカしたって構わにゃーのだけど、自然科学の名で特定のイデオロギーを否定するというのは、自然科学をイデオロギーと化してしまっていることにほかならにゃーと考えますにゃ。
で、この立場を「科学主義」というわけだろ? 科学にとって迷惑なイズムだよにゃ。

・宗教からの領域侵犯に対する各個撃破はバンバンやってくれ
・宗教そのものの否定になると、科学をイデオロギーと化すことになり、科学主義である

つまり、共存を前提としにゃー立場は科学主義だ、というところですにゃ。

343うに:2008/02/13(水) 11:31:32 ID:???
>あと、愛というコトバでインスパイア(中略)という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

おいこらしばくぞ

344AH1:2008/02/13(水) 12:32:01 ID:sNMJ1V0Y
皆さんが既に述べておられますけれど、

>元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、

ええ、そりゃ関与し得ますよ。だって生物学的な基盤の無い事を生物ができるわけがないですから。
その事に感慨なり感動を覚えるのも当然、一つの読み方でしょう。
ですが、例えば「愛」はドーキンス以前にもあったし、表現されてきたし、人間は感動してきたわけでして。

というのも何となく本論からずれた話な気がしていて、結局、diamonds8888xさんの >>341 が要諦かと思います。

345ちょちょんまげ:2008/02/13(水) 16:51:04 ID:vUxNW.gI
猫さん

>信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。

「否定」でなく「拒否」(お前さんは採用すればいい。でも俺には無用。)であるならばイズム同士の喧嘩には本来ならんわけですよね。
それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

ですかね?
それとも後者は共存まで否定してるわけではないから、非・科学主義者でしょうか。

346地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:05:49 ID:Y80wH3GM
>ちょちょんまげ

各個人は価値中立を要請されるわけではにゃーんだ。
イデオロギーが問題となるのは「党派」においてですからにゃ。

最初にいっていた通り「馬鹿を禁止すること」はできにゃー。
だから、人種差別主義者であろうと性差別主義者であろうと、個人のもつ非合理な主義とか思想を禁止することはできにゃーよね。ちゅうか、国家権力がシステマティックに洗脳でもしにゃーかぎりは禁止しようがにゃーし。
個人が何らかのイデオロギーに染まっているなんて、アタリマエもいいところだし、それは何ら責められるべきようなことではにゃーわけだ。馬鹿なイデオロギーを奉じていても、馬鹿であることそのものを責めてはならにゃー。

問題は、価値中立が要請されるべき領域で特定価値の押し付けがなされることだにゃ。価値中立が要請されてしかるべき領域とは、司法・立法・行政などの公権力の発動、あるいは教育や医療などにゃんね。たとえば公教育における特定宗教の押し付けは基本的人権のコア中のコアである良心の自由の侵害だにゃ。公的領域においては、馬鹿が許容されてはならにゃーのはもちろん、特定のイデオロギーに偏ることはダメダメだにゃ。少なくとも自由民主主義政体においては。
で、
自然科学という社会資源にも、やはり価値中立が要請されてしかるべきだと僕は思う。自然科学の価値中立とは、自然科学のもつ属性というだけでなく、社会的に要請されるものでもあるのですにゃ。

ドーキンスのまずいところは、自然科学(進化生物学)の看板を背負って宗教否定をしているところだと思うにゃ。ドーキンスは自然科学(進化生物学)を、自分好みの特定の政治的党派にしてしまっているにゃんね。
宗教が気にくわにゃーのなら、自然科学の看板なんて背負わにゃーで、個人として反宗教の活動をすればいいと思うにゃ。自らの専門領域とは別個に、自らの良心にしたがって政治的な活動をする科学者はいくらでもいるにゃ。これはまったく問題にゃーのよ。ただ、専門領域に関連して政治的な発言をする場面においては、何よりも価値中立が要請されなければならにゃーはず。

あ、いっとくけど、個人に価値中立が要請されないというタテマエはタテマエとして、友人や家族に、自らの人格をかけて特定の価値を要請するというのはもちろんアリ。親の判断でガキに洗礼をすることを僕は否定できにゃーです。

347地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:39:26 ID:Y80wH3GM
ちょっとまとめなおすと

自然科学が特定宗教と同列にあるイデオロギーのひとつであるとすると、
「仏教の見地から言って聖書はまちがい」
「共産主義の見地からいって聖書はまちがい」
「自然科学の見地からいって聖書はまちがい」
これらの言明は、各党派の言い分としてすべてなりたつ。

自然科学が特定のイデオロギーではなく、価値中立を要請されるいわばメタレベルの何かであるのなら
「自然科学の見地から」特定のイデオロギーを批判することは失当になるにゃ。

自然科学においては、思考節約の原理から神(=超自然的存在)の存在を措定していにゃーだけであり、神の存在を否定しているわけではにゃー。
だから、自然科学の名において神(=超自然的存在)を否定するということは論理的に失当であるだけでなく、無神論という特定のイデオロギーを支持する発言となり、価値中立が成立しなくなってしまうにゃ。

さらにいいかえると
神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

つまり、
神との共存は自然科学に対して要請されるべき立場だということだにゃ。

この結論はNOMA原理とはだいぶことなるものにゃんね。NOMA原理においては宗教と科学は対等にゃんが、この「価値中立の要請」の理屈では、自然科学をメタレベルに位置づけているものですからにゃ。

348地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:46:03 ID:Y80wH3GM
あ、わすれてた
>>343

僕はウソいってないもーん

349NAN:2008/02/13(水) 20:12:11 ID:G81kGdtk
>>345
>・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
>・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

「自然科学を利用して(=欺瞞)」というフレーズが頭につくかどうか、と、主張を行う発言者の社会的ニッチによって左右されることなんだろうね、多分。学者や研究者などが自身の成果をベースにして「…ゆえに宗教を否定する」と述べればまさに悪しき科学主義者の出来上がり。そういうことじゃぁないかな。

>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

その辺が「ニンゲン社会」のムツカシイ有様なんでしょうね。「私」が「私自身」の主義信条を選択するにあたって、他者への害をもたらすものでないのであればどこの誰にも遠慮や謙譲など必要ないはずですが、その「意思」をひとたび発言した途端に党派を生む契機となり得る。そこまで想像できるまともなイマジネーションを持つヒトはいろいろと悩むのでしょう。また、そういう「悩み」があることに、実はヒトとして生きる意義があるのではないでしょうか。

また「すべての宗教は否定(批判)の対象である」とするのか、個別に、しらみつぶしに否定していった結果「90%かそれ以上の宗教は否定の対象となるけれど、残り10%以下については熟慮と検討の余地がある」という(以前にも出てきたフレーズですが)フェイルセーフを心に持つという、知的なゆとりにこそ相互理解の契機が隠されている気がします。要するに『不当な一般化→イクナイ!』ってことですが(笑。ちなみにこれは、真っ当な科学的探究心そのものだ、と思います。

350NAN:2008/02/13(水) 20:20:30 ID:G81kGdtk
>>347

参った(苦笑。素直に納得してしまった。地下猫氏を褒めることはしたくないのだが…(笑。
少なくともNOMA原理というチンプンカンプンな理屈よりも、科学が科学たる所以を的確に述べているなぁ。

>神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

なるほどね。言葉にはなってなかったんだけど、そういうモヤモヤした発想が私の頭の中のどっかに常にあったので、NOMAとか宗教議論に対して「なんか違うんだよね、基本的に」という思いが吹っ切れなかったらしい。

351AH1:2008/02/14(木) 15:03:11 ID:sNMJ1V0Y
>>345
>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

あれこれ言っておいてなんなんですが(笑)、ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。
あとは・・・仰っていたフェイルセーフの感覚という奴で、自問してゆくよりないのではないでしょうか。余人があれこれ問いただしたり、ズカズカと批判するのも(それもまた自由ではあるのでしょうが)、大きなお世話であり野暮であるような気がします。
いや、こういう場で対話や議論をする場合には、言ったり聞いたりしないと始まんないんですけどね。あくまで普段の話。

352地下に眠るM:2008/02/15(金) 12:22:15 ID:Zuuc0PyM
>>347を補足

特定宗教と自然科学が同一レベルにあるイデオロギーであるのなら(つまり価値中立が要請されないのなら)、「神が存在すると主張する側に証明義務がある」という言明は正当だにゃ。
しかし
自然科学が価値中立を要請されるメタレベルにある知識体系であるとするのであれば、自然科学の側が特定宗教の教義を否定する場合はあくまで事実にもとづいて証明を行なう必要があるだろにゃ。つまり、神の不在証明をおこなう責任が自然科学の側にあることになるにゃんね。

自然科学が本当に価値中立といえるのかについては、いろいろと議論がありますにゃ。
ただ、ここで僕はその体系の属性として価値中立なのか否かではなく、価値中立が要請されるか否かという観点を導入いたしましたにゃ。
自然科学が価値中立を要請されることを是認したのなら、専守防衛に徹しなければならにゃーということも理解されるはずですにゃ。

353:2008/02/19(火) 07:25:26 ID:QpQGFxc6
既に撤収モードの様相で、今更ぶり返すのも気が引けるのですが、地下猫氏、NAN氏からスルーを激しく咎められ、レスを要求されています。
即レスが出来なかったことを詫びると共に(しばらくゲンナリして書き込む気にさえならなかった)、極力スルーの無いよう逐条的に対応してみようと思います。
おかげでえらく長くなってしまいました。その点も悪しからずご了承下さい(ホントに長くなりました。でも2人分ですし、勘弁して下さい)。

RE 地下猫氏

>>(「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明(>>219;)」…と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

>言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿
>そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。

論より証拠、「自然科学的に『実在』しないものを対象にした研究に意味はない」等という、そんな「白痴的言明」が、若し有ると言うなら私の書き込みの中から提示してみて下さいな。
言っていないことを「言っていない」と事実関係を返しただけのこと。
「学問的価値には直結しにゃー」だの「研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは『イズム』である」だのと、猫氏の特異な「論点」を持ち出せば、私の言ってもいないことが言ったことになるらしい。

こちらこそ同じことを何度も言わせないで下さい。


>だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿

私は(>>230;)で、kaさんの「よろしければソースください」へのコメントとして、
>>不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
>>「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

…と、小学生にも分かるように明確に書いておきました。「客観的なソースと言うものがある訳では有りません」とね。
更に「『完膚なきまでに論駁されている』と言うのは、私はそう思っている、と言うことです」と付け加えながら。
しかもわざわざ「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので」と、猫氏のような立場への配慮も忘れていません。

これ以上どう書けば良いんですか? ここでは自分の意見や判断を主張として述べることさえ出来ないのですか? クワバラクワバラ。

354:2008/02/19(火) 07:25:57 ID:QpQGFxc6
>>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
>もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿

NANさんの「反論」が猫さんの反論の代用になるとは、初めて知りました。麗しき隣人愛ですが、だったら最初からそう言って下さいよ。ホントに。

猫氏は関係ないとして、NANさんの「反論」も、哲学と実証科学である物理学との混同が有るのですが、しかしそれでもNANさんの物理学的「反論」は気になってはいました。
同じような問題意識からだと思うのですが、(>>280;)の、diamonds8888x:さんの問題提起は、より興味深く受け止めていました。

>「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・
>雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか? (>>280;diamonds8888xさん)。

哲学と自然科学との関係は、私にとっても面白そうなテーマでした。
diamonds8888xさんは(>>279;)で、燃焼を例にとってフロギストン説を紹介されています。
同じように、モレスコットやビュヒナー、フォークトなど、俗流唯物論者による「肝臓が胆汁を分泌するように、脳髄は意識を分泌する」とする説が主張されたこともあり、これが「タダモノ論」として、唯物論の面目を多いに失墜させた時期が有った訳です。

不可知論を巡る環境も、私の印象では19世紀までと20世紀では大きく変わったような気がします。
いわゆる「観測問題」「不確定性原理」「からみ合い」或いは、「観測の地平」「ブラックホールの内側」「宇宙誕生以前」「他世界宇宙」等など。
本当はこれらのことについて、diamonds8888xさんなどからもお知恵を拝借しながら、どのように考えてゆけばいいのか、と言うのは私にとっても大きな興味でした。

しかし如何せん、「愛」の問題だけでもこれだけ物議をかもしており、更にこの上トピズレになるようなこの問題を提起することに多いに躊躇が有った訳です。かと言って中途半端な形で論じたくもないし。
…と言うことでこの件は、NANさんからの反論も含めスルーしたままです。それは率直に認めます。

355:2008/02/19(火) 07:27:23 ID:QpQGFxc6
>どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。それと単に猫氏が理解できなかったに過ぎません。私が逃げていた訳では有りません。

猫氏お得意のWikipediaによれば(「イマヌエル・カント」の項)、
「意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。」とされています。

この「感性と悟性」によって認識されるものが、現象とか性質であると理解するのに何の不思議も有りません。それ以外に感性と悟性が何を認識するのですか?
そしてそれによって認識されない「理性的理念」をカントは『物自体』と呼んだのです。
この理解は元々猫氏が最初に持ち出したカント自身の主張ですよ。Wikiによってもね。これが哲学的立場の違いを超えたカントの「物自体」解釈です。

「僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿」とする猫氏の、Wikiとは違う「物自体」解釈をお聞きしたいものです。
そしてヘーゲルはカントの主張を受けて、「若し現象を全て知ることが出来たら、」と問題を建てたのです。ここに哲学上何の問題が有りますか?
自然科学でもよくやるでしょうよ、思考実験というのを。「若し、光の速さで走ったらどうなるだろうか?」って言うアインシュタインの思考実験は、実際に光の速さで走らなければ成り立たないのですか?


>>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。
>だからな>馬鹿
>僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿

猫氏が引用してくれた部分に、既にチャンと書いて有るじゃないですか。「その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません」と。この件、おしまい。

356:2008/02/19(火) 07:27:58 ID:QpQGFxc6
>科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿

『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。
猫氏自身(>>21;)で、
>科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?

……と述べて、自分の判断を示しています。「科学は………ノータッチであり」と言っているのは猫氏自身ですよ。
私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

>ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。

私の科学観「広く科学を捉えている云々」についての、「チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー」と言う猫氏からの揶揄に対し、その釈明の教材として述べたもので、私も猫氏のクイズと直接関係にゃーと既に述べています。単なるひとつの例としてです。一体どこが問題なんですか?
揶揄に対する反論でさえ、どこかで述べられている「僕の質問」の内容から一歩でも外れると、叱られる訳ですか?


>それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。

私のどこにそんな書き込みが有りました? わら人形はもういい加減にして下さい。

NOMAが、科学と神の間に「重複しない」と言う形で明確な線引きをし、その片方に「教導権が及ばない」とする点で、カントの物自体と同じだとする私の判断に、何の不自然が有るのですか? しかもグールド自身が自分のことを「不可知論者」だと、積極的に表明している、非常に強力な傍証もあってのことです。

不同意ならその内容に沿って、猫氏自身の見解を述べればそれでいいことじゃないですか?
猫氏は議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者だ。しかしその殆どはわら人形、良くて見解の相違に過ぎない。

「NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになる」「グールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してる」等と、私は述べていないけれども、グールドが強制していようがいまいが、その線で書かれた著作を読んで支持する人は、当然その一定の影響力を受けるだろうことは、考えて分かりません?

私が考えるNOMAの一番の問題は、繰り返し述べているように、霊感商法やマスコミでの心霊現象、スピリチュアル等の取り上げに対する、科学の側からの批判の躊躇です。或いはマスコミや「霊能者」の開き直りの根拠としてです。
だからこそ私は(>>218;)で「グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが」と書いたのです。グールドを惜しめばこそです。

357:2008/02/19(火) 07:29:45 ID:QpQGFxc6
>とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

私の方からも確認しましょう。
「王様」「あなたの子」「ブスの女性」「おまえの臭い」等など、実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わない猫氏の感覚を逆に疑います。
その時「科学」と意識するかどうかの、要するに単純か複雑かと言った、或いは先人達の「科学的」業績による知見が有って、既に日常的な常識となっている、それだけの問題に過ぎないでしょう。単純だから科学でない訳では有りません。

○王様が裸であるかどうか、普通「見て」「判断」します。そこにいちいち「俺は科学している」などと意識はしないでしょう。でもね「見る」或いは「判断」と言う現象がどう言うことか、少し立ち入ってみれば立派な科学現象だと言うことが直ぐ分かりますよ。

長くなるので関係するであろう「科学的な」概念だけ列挙してみます。
太陽・月、或いは人工照明からの電磁波、そのごく僅かな領域である可視光線、対象(この場合王様)を形成している物質の吸収・反射特性、対象から反射された電磁波、センサーである視細胞、特に特定の波長に特異的に感応する三種類の錐体、ロドプシンの化学的な変性、それらの情報を演算処理する脳、等など。

そしてこの「見る」と言う現象は、考え方としてラザフォードのα線(粒子)照射による原子核の発見、或いは粒子加速器での様々な観測と同じことです。
ただ違うのは対象の大きさと、それに伴う照射の波長の短さ、つまりはエネルギーの大きさ、及びセンサーとしての網膜と、写真乾板、或いは霧箱などの違いだけです。
その対象の大きさ(小ささと言うべきか)と照射エネルギーの大きさの問題が、量子論の不確定性問題に関わって来るんでしょうけどね。

又、対象が王様であるかどうか、裸か着物を着ているかの判断も、それまでの脳内の記憶との検証でしょう。

○子供が猫氏の子供であるかどうか、若し問題になった場合、今ではDNA検診などで多分簡単に特定できる筈です。
私は幸いそう言うややこしい問題に巻き込まれたことがないので、詳しいことは知りませんが、これって科学じゃないんですか?

○嗅覚は充分に生化学的な問題でしょう。これもいちいちその過程に科学を意識しないだけです。
最近自分の臭いを気にする人が増えているようです。深刻に悩む人はお医者さんに相談するでしょうね。本当に臭いかどうか?、それはどう言う原因か?、対策は? 等など。
医学を含めた科学以外に一体何が対応できるのですか? おまじないですか?

○順序が前後しましたが、ブスか美人か、ぶ男かハンサムかは進化生物学の適応にも絡む問題だと思うので少し立ち入ってみます。

猫氏が或る女性に対し「ブス」だと感じるとき、そもそもどう言う判断基準でそう思うのですか? 個人個人の嗜好の問題も有るでしょう。これにも色々な科学が関与できるとは思いますがその前に、ブスとか美人とか言った場合、大方の(人種や時代によって基準は異なるにしても)人類で共通の判断基準がほぼ確立されています。猫氏が美人だと思う女性は、多分私も美人だと思うでしょう。

私が思うにこの判断基準はおそらく人類の歴史の中で形成された適応的なものでしょう。つまりはダーウィンが提唱し、トリヴァースなどが拡張した「性淘汰」が基礎になっている筈です。
足の長さやその真っ直ぐさ加減、顔や体のプロポーション、シンメトリーの程度、皮膚の滑らかさ等は、その個体や血統が、充分な栄養を確保できるだけの狩猟能力を持っていること、ウイルスや寄生虫などのパラサイトに強いこと、或いは相手がメスで有った場合、多産系であるかどうか、等などのシグナルとなった筈です。
遺伝子DNAそのものは見えないが、目に見える判断基準として配偶相手に示す指標としての機能を果たして来たのでしょう。

そしてそう言う配偶相手を選択したものが、結局はより多く子孫を残し、その子孫にその遺伝子を残すことが出来たのでしょう。その子供は同じような判断基準を親から受け継いで来ただろうし、我々はその子孫で有る訳です。
今、その歴史的な経過をいちいち意識することはないが、相手を見て直ぐに美人かどうか、ハンサムかどうかを判断するその基礎に、おそらく長い生物と人類の歴史が横たわっているのでしょうね。

358:2008/02/19(火) 07:31:12 ID:QpQGFxc6
私の考えが絶対正しいなどと断言する積もりは毛頭有りません。色々な考えが有るでしょう。
しかし、進化論掲示板の常連である猫氏に、こう言った適応的な視点が若し全く無いとしたら、そのこと自体私には信じられない驚きです。
他人に対し「科学主義の病状」などと揶揄するのも結構ですが、私の心配は猫氏の「非科学的蒙昧」です。


えーと、ここで猫氏の批判については一応逐条的に対応したことになるのかな。
まあ、正解かどうかは各位の世界観や問題意識にも拠ることだし、私はその部分にまで「教導権」を発揮する積もりは有りません。つまり「正しさを独占」する積もりは有りません。全て私の考えに過ぎません。
そうでない考え方について「それはそれで、いいんじゃないの」と思うだけです。猫氏がどのように思おうがそれはカラス、じゃ無くて猫氏の勝手です。

359:2008/02/19(火) 07:31:46 ID:QpQGFxc6
RE NAN氏

NAN氏との一番の問題は「人間の『愛』の感情」についてです。この件は最後にまとめておきます。その前に………、

>神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。
>まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。

私は「自然科学的な実在」などとは言ってない筈ですがね。単に「神の実在は、」でした。
その意味で今の聖職者が「神の実在」を否定しているかどうか、それは多いに疑問です。
第一、教会が最初からそんなに物分りが良かった訳ではない。西暦の2000年間を通してみただけでもつい最近のことですよ。地動説を認めたり、かっての宗教裁判を自己批判したりしたのは。

およそ1000年間に及ぶ中世と呼ばれるヨーロッパで、何十万人もの人が、一方的な「魔女裁判」によって、考えられる限りの残酷な刑が処されましたが、それを躊躇しなかったのは、そこに神の実在と悪魔の実在を信じていたからじゃないですか? 或いはそれを煽った陣営が。
そうでなかったらとてもじゃないがそんなことを、普通の人が出来る訳がない、と私は逆に信じたいんですがね。

ガリレオの宗教裁判、ジョルダーノ・ブルーノの火刑もそんな遠い昔じゃないですよ。
そもそもダーウィンが「種の起源」の発表を延ばしたのは何故ですか? 教会への配慮でしょ?
そして今でさえアメリカ南部などでは、IDに姿を変えた「創造論」を、教育に持ち込もうとしている人が現実に大勢いるじゃないですか。

トマス・アクィナスの一生を知ってますか。
猫氏お得意のWikiに拠れば「カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人」だそうです。至って「まっとうな信仰を持つヒト」ですが、彼の一生は神の実在証明に捧げたものでした。その他大勢の賢人がそれに携わったんですよ。

今はね、そんな努力をしても報われないことが分かっちゃったんでしょうね。「まっとうな信仰を持つヒト」は。神の存在証明なんか諦めて、科学との折り合いをつけることを自覚しているだけです。
かと言ってその人たちも「実在しない」と断言する訳には勿論行かない。そのギリギリの「折り合い」の付け所として、不可知論が機能する訳です。「本当のところは分からない」として。
私はそう思っています。

360:2008/02/19(火) 07:32:13 ID:QpQGFxc6
>>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません(>>314;)。
>あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。

元々はNAN氏の「妖精はいる、いないに付いての、どちらの主張も等価」に対する、私の異議申し立ての中で述べたものです。
神は反証できないし、スパモンも同じです。「自然科学的な意味における実在」であれ「ある個人または集団内における経験としての実在」であれ、その点でも両者は等価(NANさんお得意の)なんですよ。

予め言って置きますが、NANさんがどんな理屈を捏ねようと、神とスパモン、或いは空飛ぶティーポット、そして最近私が見た「化け猫に跨って空を飛ぶ生ゴミ妖精」の区別は出来ませんよ。
神もスパモンも、信者にとって「いつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。」と言う点で等価なんですよ。

現在スパモン教(FSM教)の信者は1000万人に上るそうです。私も最近入信しました。何しろ洗礼も会費も要らない。天国にはビール火山とストリッパー工場が有るそうです。祈りの言葉は私の大好物「ラーメン」ですし。
私はスパゲッティモンスターの実在性を、少なくとも神よりは根拠を持って説明できます。


>>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

>どんなまとめだよ(ゲラゲラ。事実の矮小化を勝手にすんな

私の言う通りでしょうよ。
私は「神の不在証明」を宗教の側に向かって声高に叫んでいる訳では有りません。「私には必要ない」と言っているだけです。
私が神や宗教に対し容赦無いことを言うのは、ここが「科学系」の場だからです。宗教の座敷に上がり込んでこんな出しゃばりはしません。それは多いに失敬なことですからね。
私は科学の側に物申したいだけです。

逆に、意見の違いに対してさえ、あたかもヤクザの出入りを彷彿させるような言い回しで、血相変えて対応される御仁に、本当に「思想・信条の自由」の尊重を期待できるかどうか、私は大いに疑問です。

361:2008/02/19(火) 07:32:45 ID:QpQGFxc6
次に繰り返し問題になっている「愛」の問題です。

最初に事実関係だけ確認しておきます。私が論じているのは「人間の『愛の感情』の起源」の問題です。「人間の」「愛の感情の」「起源」です。308,313,319,321,327,330を見て貰えば分かりますが、このことは一貫しています。

既に繰り返し繰り返し述べていて、NAN氏との間でも殆ど水掛け論になっています。私はNAN氏がどのように主張されようとそれは「それでいいんじゃないの」と思っていますので、ここで特に争う積もりも有りません。
「自己愛」だか「親子の愛」だか知りませんが、そう言うものに突き動かされて大腸菌やゾウリムシが細胞分裂し、カビが胞子を作り、竹がタケノコをはやし、杉が花粉をばら撒くと理解されても、それはそれで結構です。
私はそんなものを持ち込まなくても、そのこと自体生物の本質、自然現象で、いわば利己的な遺伝子の仕業として解釈しています。

哺乳類はその定義上、全て例外なく母親の子育てが見られます。ネズミやコウモリの授乳に「母子の愛」の感情が有るかどうか、私は知りませんが、そんな感情が仮に無かったとしても、哺乳類なら必ず見られる、いわば生物としての「自然現象」です。

ゴリラやチンパンジー、ボノボに「母子の愛」の感情が有るかどうか、それは難しい問題です。しかし若しそう言う感情が有ったとしてたら、ゴリラとチンプ、ボノボでは、全く違った内容である筈です。
ゴリラはハーレムを作り、しばしばその主(ボス)が交代します。ボスの交代によって頻繁に「子殺し」が見られ、ある報告では新生児の37㌫がオスによる子殺しだとの観察が有るそうです。
ボスに子供を殺され授乳が途絶えたメスは途端に発情し、子供の仇であるオスを受け入れます。「母子の愛」が先行、優先していたら考えにくい現象です。いい悪いは別としてこれはゴリラの自然現象です。

チンプやボノボ、特にボノボは乱婚によって、子供の父親の特定が難しいでしょう。そもそも父性を混乱させて子殺しを防ぐことを目的に、メスは乱婚を発達させたと言う説が有る訳です。そしてそれに対応した「愛の感情」になる筈です。
ゴリラにしてもボノボにしても、その配偶関係は、それぞれ置かれた環境による自然的な適応であって、「母子の愛」「親子の愛」の感情が有るか無いかとは又別の問題です。

ヒトは直立二足歩行と脳の増大により、メスの難産、新生児の無力化、その後の長い子育てが必要となり、メスだけでの子育てが困難になりました。
適応上、ゴリラやチンプと又違う感情が発達したと考えるのは当然でしょう。そう言う「人間の『愛』の感情」を私は論じていたのです。
ペアボンド仮説と言うのが有って、ヒトの配偶関係とその絆の起源を、私の言うように説明する説と、もう一つ、メスだけでいるとオスからの暴力に晒されるので、特定のオスとペアを組むと言う説の二つが有るようです(「進化と人間行動」長谷川寿一・長谷川真理子−220ページ)。

本来、一夫一妻制はそれ程普通に見られる配偶関係と言う訳ではなく、どちらかと言うと特殊な形です。鳥に良く見られますが、それも抱卵、給餌、空を飛んで餌をとる訓練などなど、メスだけでの子育てが困難だからこそです。

繰り返しになりますので、これ以上は述べません。
配偶関係の研究は純粋に進化生物学的な分野だし、その中で「愛」の感情の起源を考えることは純粋に適応的考察です。
私に対し「メスを犯したくて仕方ないから」「ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ」「素晴らしいエレクチオン肯定理論だ」などと揶揄するのは勝手ですが、私からするとゲスのかんぐりとしか言いようが有りません。

362:2008/02/19(火) 07:33:11 ID:QpQGFxc6
次にNAN氏から執拗に求められている「愛」の定義です。
大昔、仲間と恋愛論などをたたかわせていた頃は「相手を独占したいと思う持続的な感情」等と理解していました。
今なら、そうですね、ヒトだけでなく広く一般的な定義としては、例えば次のように言えるかも知れません。
○肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
○配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。尤もこれだと、オランウータンなどに見られるレイプすら「愛」になってしまって………、中々難しいですね。
その他、犬に対する愛、モノに対する愛など、幾らでも有るでしょう。

人によっても解釈は違うだろうし、(>>327;)でも述べたように、既にここまで発達した人間の「愛の感情」は複雑多岐に渡っていて、それを全て定義しつくすことは私にも出来ません。
NAN氏が(>>338;)で述べている「子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?」これらも、確かに愛の発露でしょう。

問題はそれらの感情が、最初からヒトに備わっていた訳ではない、と言うことです。私はその芽生え「起源」を論じていたのです。
そしてその元々は漠然としたものから発達したであろう「愛の感情」の起源を考えるのに、現在の高度に複雑化し多岐に渡っている「愛」の全てを定義しつくさなければならないなどと言うことは有りません。
尤もNANさんが、それら愛を全て定義しつくした上で、自己愛なり親子の愛なりの起源を論じるのであれば、それはそれで結構なことです。


>>段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。 (>>338;)

包囲? 何か勘違いしていませんか? 私は別に勝ち負けでここに書き込んできた訳じゃ有りません。
NAN氏の「包囲」は殆ど参考になりませんでしたが、私の主張に対し、間違いを指摘してくれたり、教えてくれる「包囲」であれば、それは多いに歓迎するところです。その分自分の間違いを正し、利口になれることですからね。
「ヒト起源について」の中で、私の「前適応」についての間違いを地下猫氏、NAN氏から指摘してもらいました。私は自分の勘違いに気がついた時点で、直ぐに指摘を受け入れ、自説を撤回し、迷惑を謝罪した筈です。
私は勝ち負けや面子に拘って、間違いや勘違いしたまま突っぱねようとは思っていませんからね。

しかしいずれにしても既に水掛け論の様相であり、私も同じことの繰り返しです。
全体としても撤収モードのようでも有るし、ぶり返した私がこんなことを言うのもなんですが、今後同じことのやり取りは対応しかねる場合が有ります。勿論必要に応じてのコメントはしないでも有りませんが。

363NAN:2008/02/19(火) 19:59:04 ID:G81kGdtk
せっかく長々と書いたようなので、レス差し上げましょう>雄クン。

さて、ギャラリーにとっても水掛け論に見えるであろう部分は、必要に迫られるまで置いておいて、私から見てキミが決定的に間違っている、もしくは、間違い始めたポイントから指摘しよう。それは>>356が明確だ。

>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

重要な問いとは、云うまでもなくヒトがアイデンティティを確立したり失ったりという、人生において重要な岐路となるであろう様々な「問いかけ」を指すものだろう。こうした様々な問いかけは幾億通りも考えられるけれど、その代表的なものとして『私は、ヒトとして、正しく生きているだろうか?』というのがある。これは自己に問うだけではなく、社会からも常に問いかけられる。また、その答えも決して「正しいor間違っている」ではないだろう。視点、立場、思想信条、行為や動機、さまざまな状況によって変化するものでもある。

私が例示した「問いかけ」に同意しようがしまいが、それは構わない。ただ、重要な問いはおおよそ似たようなものであろう、と思う。
こうした問いに対し、科学がもしなにか答えるのだとしたら、その時点でそれは科学と云えるのだろうか?

>私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

つまりこれだね。
偉大なる雄クンは、愛の起源を科学的に解明した、と抜かしている。だがもしも万が一、それが一方的に雄クンによる正しい説明であったのだとしても、それが「問い」に答えたことになるのだろうか?「どっちの自動車を買うべきだろう?あの自動車の方が燃費もいいし価格も安いからこっちにしようか」くらいの「判断の材料」にはなる。またそれは地下猫氏も認めていることだし、私も認める。
いいかね?「判断の材料」になることくらいなら、誰もが最初から認めているのだ。ヒトの問いがすべてにおいて、いわゆる「合理」に従うのであれば、その判断材料の意義も大きいものになる「ことがある」かも知れない。しかしヒトは、すべてにおいて合理に従ったりしないし、時にはまったく勝ち目のない勝負にさえ打って出る。それは「間違い」だろうか?負けても、全力を尽くしたのであればそれで満足、という価値観だって尊重すべきだろう。これら「価値観」に対して科学はほとんど無力だ。また、無力であるべきものなのだ。(そう、その勝負にはきっと負けるだろう、という分析の手助けくらいにはなる。それだけのことだ)

364NAN:2008/02/19(火) 19:59:35 ID:G81kGdtk
■ポイント1:愛という価値観について
そして次に、再び「ヒトの愛の起源」について論じてくれたわけだけれど、私は>>311でも述べているが「ヒトは愛を持っているのか?それさえも疑問だ」と述べている。これも重要な問いだが、なにか雄クンは有効な判断材料を私にくれただろうか?雄クンが愛であると主張する情緒について、「血縁者を差別的に優遇したり配偶者を庇護したりする情緒的正当化であって愛ではない。ただしそれが適応的であることは認める」と私は述べているのだが、これにはどう答えるのだ?科学がなにか有効な知識を与えてくれるのか?「そんなの愛じゃないよ」という『価値観』を持つ相手に「愛の起源の科学的説明」をしたところで「それも価値観でしょ?」で終わりではないのか?さらに、愛はなぜ「他者に対しての感情」でなければならないのだ?

■ポイント2:愛の定義について
>>362
>○肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
>○配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。

科学がもしもこれらを定義し、それを「正しい」と主張するのであれば、それはすでに科学ではない。なぜなら科学は思想や信条ではないのだから。しかしそれは「雄クンの価値観における愛」ではあるのかも知れない。であるのなら、雄クンは、自らの価値観を「科学的に正しい」と主張している。これは悪しき科学万能主義そのものではないのか?

■ポイント3:そうした情緒の起源にまつわる科学的説明について

それが「愛であるかどうか?」はペンディングしたとしよう。そこで、とにかく好意的な情緒や感情の起源を探るのだとして、なぜそれを「自己愛」に求めないのか、私にはいまだにさっぱり分からない。ヒトが最も苦しめられる感情は、他者に対してのものではない。自分に対してのものであることを雄クンは知らないのだろうか?所有欲や繁殖独占欲を愛だなんていわないよな?無論、それらは適応的だが、暴力の芽になる。それが愛か?

また、今では複雑多岐に亘った「愛と云う情動」の漠然とした起源を辿るのであれば、どんなに辿っても構わないはずだが、なぜそれはゴリラやチンプで留まらなければならないのだ?その科学的根拠はどこにあるのだ?また「今では愛として複雑に広がったが、それ以前の漠然としたもの」であるのならば、ただの好感情で良いのではないのか?情動・感情・情緒、どれも似たようなものだが、それらが「好悪」に大別されることは科学的に説明がつく。たとえば適温下に飼育される幼獣は好感情を発現する。飢えと満腹も想像がつくだろう。つまり生理的要求と基本的な情動は密接に相関していて、個体の生存本能を表現している。それはヒトだって同じことだが、こうした情動が「漠然とした好感情の起源ではない」という説明になにか少しでも説得力があるのか?

少なくとも私は「それを愛と宣言すること」に甚だしく慎重なのだよ。私にとっての愛は、他者にとってはまったく違うものかも知れない。また、それで良いと思う。雄クンの偏狭な愛について、私がひどく憤慨しているように見えるかい?違うよ。バカを無視できない自分の在り様に苦しんでいるのだよ。つまりそれが自己愛さ。

365AH1:2008/02/20(水) 18:31:51 ID:sNMJ1V0Y
またもKYなレスをば。

雄さんが愛の生物学的基盤を理由に科学的アプローチがあり得る、というのであれば、
妖精を見たという主張や、妖精の羽を何色とするか(何色に見えたか、何色がそれらしいと思うかetc.)についても脳科学的なアプローチはでもできるわけで・・

しかしそういう話じゃなかったと思うのですね。

366GB:2008/02/20(水) 22:28:29 ID:FIGS80us
>重要な問いとは、云うまでもなくヒトがアイデンティティを確立したり失ったりという、人生において重要な岐路となるであろう様々な「問いかけ」を指すものだろう。

で、それについてはサイエンスは直には口ださねーよっていうのがNOMAだと理解してますが。

367:2008/02/20(水) 23:41:59 ID:sUQ1SW32
RE AH1さん

>雄さんが愛の生物学的基盤を理由に科学的アプローチがあり得る、というのであれば、
>妖精を見たという主張や、妖精の羽を何色とするか(何色に見えたか、何色がそれらしいと思うかetc.)についても脳科学的なアプローチはでもできるわけで・・

まあ、後はAH1さんご自身がどう思うのか? と言う問題なんでしょうね。


「私は先日『化け猫に跨った生ゴミ妖精』を見ました。羽根はしょぼくれて今にも落ちそうでした。羽根の色はドドメ色でした。ホントですよ」

この私の、妖精を見たと言う主張に対する「脳科学的なアプローチ」と、人間の愛の感情の起源に対する「進化人類学的アプローチ」が、科学的考察として同等だとAH1さんが言われるなら、AH1さんの言う「そういう話」になるんでしょうね。

でもそう言うことになると、今度は………、
まっ、それはAH1さんのコメントが有ってから考えることにしましょうか。

368NAN:2008/02/21(木) 05:10:05 ID:Th2gBHro
さてさて、夕べは書きかけだったので、もう少し詰めておこうかな。
論点を戻そう。

>>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>>3
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」

これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。
また、さらに、

>でも、これまで人類全体の学んできたことの蓄積と、それらの敷衍状況を鑑みれば、十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならば、もう、そんなモノに頼る必要もないだろう。

という後悔と懺悔さんの提示した主張に対して、私は反論したり考察したりしている。他の参加者も同様だと思う。

これほど簡単な読み違え、もしくは「本論のすり替え」を行い、自説を詭弁ではないと言い張れる心証というものを、私はまったく理解できない。これが分からないような論者を相手に礼儀など尽くす必要はない、というのが私の判断なのだ。そう「問い」は最初から「科学には答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」であるのに、いや科学は答えられるand orノータッチではない!と言い張る雄クンの馬鹿脳ぶりにはまったく感服する。

つまり、雄クンの中心主張は「科学は重要な問いに答えられる」ということだよね。しかし、科学に答えられない問いに答えた段階でそれは科学と云えるのか?「私はどのような愛を信じ、思い描き、自らに課すのだろう?」というような問いかけに、適応的意義を説くという暴力的啓蒙主義(もしくは話にならない科学万能主義)を信奉する屑脳を相手に、もっと明確に簡潔に「屑さ加減」を指摘できない私は、自分の文章力にうんざりしている。あるいは知的限界の低さにね。

369NAN:2008/02/21(木) 05:14:56 ID:Th2gBHro
もしかしたら…雄クンはこんなことも分かっていない可能性が(如実に)あるので一応指摘しておこう。

科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。
きっと分かっていないんだろうな。

370:2008/02/21(木) 09:28:31 ID:sUQ1SW32
>>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

>昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」
>これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。

その文句は(>>21;)猫氏に言ってチョ。

「科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?(>>21;地下猫氏)」

それにそもそも私は私の科学観に対する猫氏の揶揄に応対しただけ。わざわざ(>>3;)に立ち返って直接それに見解を述べた訳じゃない。
自分でレスを求めておいて、その反論の内容がどこかで述べた自分の枠組みに当て嵌まらないからと文句を付ける。
ここにも「議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者」な方が、約1名、いらっしゃるようだ。


>科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。

上記の主張が科学に対する特定のイズムだと「こんなことも分かっていない可能性が(如実に)ある」御仁が、ここでも約2名いらっしゃるようだ。

「価値中立」を放棄するかしないか? 「価値に対する問いかけ」に答えるか否か? そもそもその時そこに「価値」が有るかどうかの、その「価値判断」は一体何時、何がするんですか? 神ですか? それともそれは先見的に、或いは生得的に人類に備わっていたモノですか? ん? NANさん。

この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、「『価値に対する問いかけ』に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。」とする主張が、「それはもう科学ではなく思想や主義である」と言うことになってしまうことに、どうして分からないのか?
そんな論理矛盾の無力な「科学」だから、「王様」「誰の子」「ブスの女性」「臭い」、こんなことに対してさえ解答不能となってしまう。


科学が、対象に対する有りのままの像を意識に反映することと、そこに価値が有るかどうかは、全く次元の違うことなのに。
「この子」が猫氏の子供であるか、別の誰かの子供であるかは、純粋に事実関係の問題だ。それによってどんな悲喜劇が発生するか、それは又別の問題だ。


このような、毎度毎度のNAN氏のスコラ的アレコレに、逐一のお付き合いは致しかねるので、NAN氏がどのように思い、私を評価なさろうと「それはそれでいいんじゃないの」とだけ申し上げて置きます。
だんだん「おたっしゃでー」の世界になって来たようだ。

371ちょちょんまげ:2008/02/21(木) 11:50:10 ID:vUxNW.gI
えーっと、まず基本的に私は、雄さんの「どんな対象を考え、述べるに当たっても裏を取ろうとする態度」(証拠を求めたり合理的に考えようとすること、かな)に好意を持っています。(果たして的確に表現できたかどうかちょっと自信がないです。違ってたらごめんなさい。)
また、猫さんやNANさんが罵倒、侮蔑モードに入ってしまうことに批判的で、あまりうれしくありません。というのは、ここには私も末席を汚す他の参加者や恐らくギャラリーもいらしてる。そして、誰かが罵倒、侮蔑モードに入ってしまうと、おっそろしくて口も出せなくなってしまうからです。(特に私のように、ここで発言することに敷居の高さを感じているものには。)
批判は批判でかまいませんが、「ここがこう間違っとる!」にとどめてもらいたいなぁと、思っています。
私は、雄さんのご意見を読むのは楽しみですし、得るところも多いと思っていますので、雄さんが書き込みなさらなくなったら、やはり寂しく思います。

で、今回の書き込みなのですが、私の理解不足ゆえかも知れませんが、ちょっとよくわからないところがあったので、ご説明いただけたら幸いです。

>この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。
>そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

NANさんがおっしゃっている「価値」とは「人生の意義とはなんぞや」とか、「A女とB女では、俺に取ってはB女がよりセクシーである」とか、「俺はあの音楽よりこれのが好きや」ってなことですよね?そこで、それに対する科学的なアプローチは、私はありうるとは思っており、どうしてそういう価値観が生まれてくるのか、という説明はいずれ可能になるかも知れませんが、「じゃぁ、客観的にはどっちが価値があるのか?」には答えられないと思うのです。
その上で、後悔と懺悔さんとか私とかは、「科学は個人個人の価値観には立ち入れない」というところでは同意はするものの、「あまりにもエキセントリックで危険に思える宗教・信仰という価値観」の根拠薄弱性を指摘しようとしているんだと思うんですよね。「根拠薄弱性」そのものを指摘することは、「立ち入る」とは違うと私は考えています。
ですから、科学は「価値観の由来」みたいなことはいずれ説明可能にしちゃうかも知れませんけど、その説明とこのスレッドの話はちょっと違うように思えるのです。
科学は「価値」の一側面については何かしらの解答が出来るかもしれませんが、「価値」は科学が解答不能の側面も持ち、それに解答できるとしたならば「科学」ではない、ということではないでしょうか。

蛇足ながら、「中立」については、科学以前に人が信じてきたことを、科学は多かれすくなかれ、好む好まざるに関わらず否定してきちゃってると思うので、私にはある意味疑問符ではあります。(まぁ、あえて中立を破るかどうかの話ではあるのでしょうが。)
雄さんの本意を理解していないマヌケな書き込みであったなら、容赦なくご批判ください。

あと、これがよくわかりませんでした。

>自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、

上記のような意味の「価値」を「科学の定義に織り込んだ」書き込みがどれのことだかわかりません。おせーてください。

372AH1:2008/02/21(木) 11:55:17 ID:sNMJ1V0Y
>「私は先日『化け猫に跨った生ゴミ妖精』を見ました。羽根はしょぼくれて今にも落ちそうでした。羽根の色はドドメ色でした。ホントですよ」

さて、この言明については様々なアプローチが可能かと思います。
幻覚であった可能性が高いと考え、脳が幻覚を見せる機序と進化的基盤を考えることもできましょう。脳科学がまさにこれをやるでしょう。未知のレセプターが作用すると、天使が見えたり宇宙人が見えたりゾンビが見えたりする・・・までいくとSFですが(ブレイン・ヴァレーですね)。
何故生ゴミ?何故化け猫?といった点については、「最近、猫と関わりがあったのか」「猫は何かのメタファーか」といった心理学的な考察も可能でしょう。「しょぼくれて落ちそうなドドメ色の羽」は何かの錯覚?雄さんの心理的な状態の投影?雄さんの育った文化の影響?個人的な経験によるイメージを視覚化したもの?
また、生ゴミ妖精の目撃談を科学的事実として扱う場合、「現在の科学では到底考えられないが、そういう証言がある以上は実在の可能性もゼロとは言えない」以上の事は言えないでしょう。前に何度も書いてますが、「まずあり得ないことは重々わかってるがゼロじゃない、自分は存在する可能性に賭けてみる」という人は必ずしも「イッちゃってる人」じゃありませんよ。

こういうように、様々な考察は可能だと思います。
しかしながら、元の話題はこういう話だったのでしょうか?私は違うと思うんですが。

例えばもっと文化史的に、「妖精を見たとする例」を集めるだけでも意味はあるんじゃないですか?例えば「宇宙人と出会った」という証言がアメリカに多く、かつ近年はみんなリトル・グレイみたいな姿である事についても、妖怪談のような「ある集団に共有される恐怖の対象の姿」という歴史・文化的な解釈も可能ですね(これもブレイン・ヴァレーですがね)。宇宙人の実在は関係ないし、生物学的基盤を直接考えなくても可能でしょう。
またこれが妖精という存在になると、歴史的な自然観、宗教観、土俗宗教との関連などなど、様々な分野において解釈可能であり、それぞれが「歴史学」「宗教学」「民族学」たり得るものでしょう。
そして、最初の問い・・自称妖精学者に聞くことは馬鹿げているか?についてですが、彼が「妖精学者」と言われるくらい妖精に入れ込んだ民俗学者であった場合、全く問題はないでしょう。もし自称「妖精学者」でありかつビリーバーであったとしても、その事「そのもの」に即座に問題がありましょうか?要は役に立つ情報を与えてくれれば良いわけでしょう。

ちなみに一番最初に戻って、妖精の羽の色を知りたいとします。雄さんの見た「生ゴミ妖精」は、その一般性の位置付けができてきるのであれば使える情報でしょう。一例しかないのでは妖精一般の羽の色かどうかわかりません。
(ビリーバーさん・・というか困った自称専門家がいるとすれば、「ワシの見たのはこうだった、だからそれが全てだ!」とか言い出す場合でしょうね)

373AH1:2008/02/21(木) 13:06:14 ID:sNMJ1V0Y
連続ですいませんが補足します。
なお、歴史学、民俗学などいかなる**学であれ、ヒトという生物が行うことですから、生物学的基盤を求めることは恐らく可能でしょう。その事について異論はありません。しかし、その事「だけ」をもって全てが科学の対象である、と述べるのは違和感を覚えます。
言ってみれば「生物体は化学物質でできており、化学反応によって作動するのだから生物の振るまいは化学によって記述できる。よって化学だ。」「生物体は物質でできており、その動きは物理法則に従うのだから物理学的に記述できる。よって物理学だ。」というような感じでしょうか。
そういうアプローチがあるのは当然だけど、他のアプローチだってあるじゃん、という事ですし、もともと議論されていたのは「他のアプローチもあるんじゃね?」の部分だったのではないかと思うのですが。

374NAN:2008/02/21(木) 16:43:11 ID:7MCnS5sU
>>371

悪い、ごめんね。
私は私の「善性」を否定しているのです。私は悪しきモノだし、自分に絶望している。それはこの議論で述べてきたような意味においての絶望なんだけど、私が罵倒することによって、私自身が無数の読者から罵倒されているのだ、ということを承知しています。まぁこれは私の主義信条のひとつで、決して自分の善性を肯定してはいけない、というルールを自分に与えている、ということかな。かといって無闇に誰でも彼でも侮蔑しませんが(笑。相手は慎重に選んでいます。

まだ地下猫氏から発言がないので指摘を保留していることもあります。実はそこが根本なんだけれど、私が先に云うべき事象ではないだろう、ということですかね。さてさて、そのうえで…

>蛇足ながら、「中立」については、科学以前に人が信じてきたことを、科学は多かれすくなかれ、好む好まざるに関わらず否定してきちゃってると思うので、私にはある意味疑問符ではあります。(まぁ、あえて中立を破るかどうかの話ではあるのでしょうが。)

これは一段階メタな議論です。つまり、科学とは倫理に代表される価値観を左右するものではない(=価値に対して中立)、というコンセンサスが通じるか通じないか、という話です。
アインシュタインが物質とエネルギーの基本原理を導き、原子爆弾のアイディアが生まれ、ヒロシマとナガサキに投下されたことについて、理論そのものを非難すべきかどうか?という点に繋がります。アインシュタインを非難することも、フォン・ノイマンを非難することも、オッペンハイマーを非難することも「アリ」と私は思いますが、E=mc^2を非難することは意味のないことだ、と思います。この数式は「物質は恐ろしいほどのエネルギーに変換できる」ことを示唆し、重要な判断材料として有効ですが、それを使用したらどうなるのか?その「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当なのかどうか?ということです。

もし科学が価値中立を守らない、あるいは価値判定を行い、なんらかの「重要な問いかけ」に対する答えそのものを支持したりするのであれば、優生学なども科学は支持していることになります。よくある進化論への誤解で、「より進化した個体は優れている」とか、そういう価値判断の支持を行うのが科学でしょうか?これは特定条件化における有利・不利という科学的示唆を、そのまま価値に当てはめた例ですが、妥当でしょうか?

375地下に眠るM:2008/02/22(金) 04:57:57 ID:QQh34wwI
>NAN
思っているところが同じかどうかはわかんにゃーけど、お好きに言っちゃってくださいにゃー。
雄くんの文を読むと頭が痛くなるので、ひまーな時にレスを返すつもりですにゃ。
しかしさ、ほとんど反論する必要はなさそうなんだけどね。


>ちょちょんまげ
えとさ、「はっきりいって、おまえ、くさいよ」といってしまうことが科学だと思うのかい?
僕は馬鹿以外を馬鹿にしたことはにゃーぜ。



ああ、そうそう、雄くんによれば以下の言明も科学だよねシリーズに追加
・「なぜ、ガルマ・ザビは死ななければならなかったのか?」(←重要な問い) 「坊やだからさ」

376:2008/02/22(金) 09:17:09 ID:sUQ1SW32
RE ちょちょんまげさん


>………雄さんのご意見を読むのは楽しみですし、得るところも多いと思っていますので、雄さんが書き込みなさらなくなったら、やはり寂しく思います。

どうもこの掲示板では珍しく好意的な評価を頂き、慣れないことで逆にすこし勝手が違って………。
私も出来れば、見解の違いは違いとして、自分と違う視点も参考にさせてもらい、少しばかり背伸びしたところでの知的興奮を味わいたいものだと、まあそう言う思いも有って書き込みに参加するのですが、どうもいつも袋叩きです。
でもおかげで最近は、議論の中身での知的興奮でなく、その人となりが透けて見えると言う「知的(痴的?遅的?恥的?蜘的?稚的?血的?乳的?)興奮」を味わっています。


RE 猫氏
>雄くんの文を読むと頭が痛くなるので、
…でしょうね。
健康の為お酒の飲みすぎには注意しましょう。


>ああ、そうそう、雄くんによれば以下の言明も科学だよねシリーズに追加
>・「なぜ、ガルマ・ザビは死ななければならなかったのか?」(←重要な問い)「坊やだからさ」
私には全然重要でも何でも無いのですが、(>>357;)で私は次のように述べています。
>>実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わない猫氏の感覚を逆に疑います。
「実在的な事象に対し」とね、ハッキリ書いていますよ。
ガルマ・ザビが実在していて(そう言う名前の人も、世界には実際居るでしょうね)、不自然な死に方をしたら、当然検死の対象になるでしょう。「なぜ死ななければならなかったのか?」と。

でもホントーにこんなことも考えられなかったんですか? 信じられません。
ん? いやー若しかしたらマゾっけが有るのかな? 最初はサドか知らん?と思ったことも有ったんですが。
…って、あっ、ちょっと乳的になってしまいました。失言です。

>しかしさ、ほとんど反論する必要はなさそうなんだけどね。
出来ましたら、是非このまま捨て置いて下さいな。私ももういい加減に痴的、血的興奮からは開放されたいと思っている「今日この頃」。


実は今日から3日程、ネットから離れます。
ちょちょんまげさん、AH1さんへのコメントは、又帰ってからの仕切りなおしと言うことで、宜しくお願いします。

377ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:43:40 ID:vUxNW.gI
>NANさん
こちらこそ恐縮です。これからもよろしくです。

>まぁこれは私の主義信条のひとつで、決して自分の善性を肯定してはいけない、というルールを自分に与えている、

ゴルゴ13みたいな方ですね。(笑 そういうハードボイルドの主人公を思わせる姿勢は、自分がなかなかできないだけに私もあこがれます。

>これは特定条件化における有利・不利という科学的示唆を、そのまま価値に当てはめた例ですが、妥当でしょうか?

無論、妥当だとは思いません。E=mc^2の例も「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当ではないと思います。
NANさんは私が何が言いたかったかお解りだと思いますが、これについてはまた改めて投稿してみます。

378ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:49:48 ID:vUxNW.gI
>猫さん

>僕は馬鹿以外を馬鹿にしたことはにゃーぜ。
いや〜、私も「馬鹿」じゃ人後に落ちないので、猫さんに罵倒されたらトラウマになりそうでこわいんだもん。(笑)

379ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:53:12 ID:vUxNW.gI
レス前後しますが、
>AH1さん

>ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。

そう言われっちゃうと、今度はなにやらさみしいんですよね。(笑)

380NAN:2008/02/22(金) 20:34:55 ID:tkzlrik6
ん〜、地下猫氏の書き込みもあったので、私もさらりと書いておこう。

繰り返しになるんだけどここ。
>>217:雄クン
>この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出し>できる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
>しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

上記の疑義を持ち出しているのはやはり雄クンなのだヨ。記憶に無いのか?
「科学に答えられない問い(しかも人にとって大切な問い)」=「重要な問いに科学は関与しない」などとは、誰も述べていない。この「どんなバカにも分かる甚だしい曲解」が雄クンの間抜け議論の始点にある。

それを>>370で恥ずかしげもなく
>その文句は(>>21;)猫氏に言ってチョ。

どういうすり替えなんだ?これは。
無論、口出しとか関与という言葉にも多義性がある。また、言語自体が情報として冗長性に富んでいるのでさまざまな理解や解釈が可能だよ。だがしかし、本スレッドの冒頭で「(重要な問いに対して)科学が判断の材料を提供できる」ことはとっくに宣言されているし、もしその程度の知識を私やほかの参加者が共有していないと雄クンが考えているならば、それはとんでもない侮蔑だ、ということさ。そう文字通り一切「重要な問いに対して科学はどんな干渉もしてはならない」なんてことは、誰も考えていないんだよ。

能天気な擬似科学万能主義のカタブツ君に問おう。
・夫婦に子供が生まれようとしている。しかし、出産の事前に胎児には身体的な欠損があることが分かっていた。だがそれは、致命的であるかどうかは分からない。可能性としては4割程度の確率ですぐに死亡し、7割程度の確率で無事に生まれても障害が出るであろうことが予想される。

このようなケースを科学的に想定したとき、夫婦は医師から告げられたEBMに基づき、インフォームド・コンセントを持たねばならない。さて、夫婦は生むべきか、生まざるべきか?
これこそまさに「ヒトとしてのアイデンティティに関わる重要な問いかけ」の代表なんだが、科学は十分に口出ししているよな?賢明な医師は科学的示唆として「生むことはリスクだ」と告げるだろう。夫婦はこの科学的言明について深く思い悩み、考えに考える。だがそれでもなお、実際の結論は「自由意志」に委ねられるべきだ、ということなのだが、もし科学「だけが」重要なのであれば、夫婦は決して生むという選択肢を持てないだろう。

上記のような「問いかけ」は常に私の中にある。恐らく、他の参加者の皆さんも同じだろう。まさかこういう想定ができないほど愚かな論者はいないだろう、と私はこの場を信頼している。だから礼儀を保つことができる。だがそれがかなわないときには、それこそ「議論とは関係ない重箱の隅突きに終始するウザいハエ」に対して、礼儀なんか保つのはバカらしい。

381NAN:2008/02/22(金) 20:35:40 ID:tkzlrik6
次。
>>354から>>355にかけて、主に哲学議論についていつもの逃げ口上を書き連ねる雄クンだが、>>231の原文によると
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

「現象をすべて知り尽くし、すべて汲みつくした」んであれば、論理的になにも残るわけないだろ?トートロジーじゃんか、これ。最初からそう思ってたんだが、まぁ雄クンだって(当時は)書き損じもするだろうし、私は哲学にさっぱり興味がないし、と放置していたのだが…猫氏がこれを指摘しても撤回どころか訂正の気配さえないのはどういうことなんだ?いまだラプラスの魔が有効だったような時代にはあり得る議論かも知れないが、こんな能天気な議論が高尚な哲学なわけないだろうな、と私は思っていたのだ。だがもしも万が一、ヘーゲルがこんなことを本気で述べたというソースがあるのなら、どうしようもないバカだってことになる。物質の存在自体が「現象」であることが知られていなかった時代の話だ、というなら譲歩できなくもないが、ならば雄クンの提示したヘーゲル(が云ったことになっている)の主張は現代において無意味だな。

>>355
>哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。

あら、じゃぁ哲学なんか必要ないね。少なくとも雄クンの哲学はここでの議論にまったく有効性を発揮していないようだし。つぅかこぉいう卑怯極まりない逃げ口上を述べるのが哲学なのか?物について言及しておきながら、物理学じゃないからいいじゃん!ってんならそれこそ「不可侵原則」に守られた教条主義そのものだね。それともある種の宗教なのか?哲学って。ならそれは経典だな。

さて、話は哲学でも愛の起源でもない。
何度でも問おう。

・ここにスポーツ選手がいる。40代になった彼は定期診断で自分の脚に悪性の腫瘍があることを知らされる。生存を望むのであれば、右足を膝から切断するしかない、と医師から告げられた。数週間後、彼は自殺を遂げた。

こういう話だって想定できる。先と同様に科学は十分に関与し、彼の人生に口出ししているが、彼の自殺はどういう風に科学が価値判断するのだ?
無論彼は、医師に応じて脚を切断することもできた。あるいは、他の医師を探し別の治療法を見つけることだってできたかも知れない。彼の死に家族は悲しみ、苦しんだことだろう。また、死を決断した彼自身も、ひどく苦しみ悩んだことだろう。

科学万能主義全開こそ至上の道であるなら、彼の自殺は絶対にあり得ない。苦しむことも悩むこともない。それが雄クンの主張なんだよな?科学が倫理を左右するのであれば、彼の自殺は絶対悪だ。それでいいんだよな。同情の余地なんか少しもないよな。

382e10go:2008/02/22(金) 22:47:49 ID:5/V6R9W6
雄さん、もう答えてくれないかもしれないけど、地下ネコさんの質問に便乗して、また質問させてもらいます。

・王様は裸じゃないか!
質問.見間違いまたは勘違いの可能性はないの。
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
質問.DNA判定も血液型判定も拒む女が言った事を、どうやって証明するの。
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
質問.沢尻エリカの事を、その様に書き込んだ掲示板を見た事があるけど、これは科学的に正しいの。
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
質問.他の人が、「臭わない」と言ったら、どっちが正しいの。(しかも後から確かめようがなければ)

この質問は、現実にありえる(ある)事を想定しています。回答は期待してませんが、気が向いたらで良いです。

383diamonds8888x:2008/02/24(日) 06:09:00 ID:jcR/Lf4.
ちょちょんまげさんの発言(>>371)で、ふと思いつきました。

> ですから、科学は「価値観の由来」みたいなことはいずれ説明可能にしちゃうかも知れませんけど、
>その説明とこのスレッドの話はちょっと違うように思えるのです。

 価値観の由来の説明というと、自然科学じゃなくて社会学や民族学の最大のテーマのような。普段われわれが当然と思っている何気ない行動や慣習の中に、実はジェンダーが隠れていた、とかいう問題など。
 価値観との相克のきわどさでは社会科学はとっても厳しそう。確かに教科書検定でも世間で話題が大きくなるのは歴史や倫理社会の教科書ですからね。

384NAN:2008/02/24(日) 12:49:57 ID:CTE40lKg
>>377
>ゴルゴ13みたいな方ですね。(笑 そういうハードボイルドの主人公を思わせる姿勢は、自分がなかなかできないだけに私もあこがれます

ゴ、ゴルゴか…(涙。
極論するとそういうキャラ被りかも知れないんだけど、掲示板で発言していると、その弊害として「NANは信頼に値するまともな人物だ」と思われることがあります。しかし実像はあまりにも違う。フリーランスで働いているので、利害に対して比較的自由ではあるけれど、そういうことにさえ敏感にならざるを得ない局面は多々あります。(特定のクライアントを批判することができない、など)
ですので、恐らくそれは誰にでもある実像との乖離を「恥ずかしい」と感じる私の無節操な抵抗でしょう。むしろ、暴言、乱暴こそ私の実像そのものなので、恥ずかしげなく受け容れられるということでしょうか。

>無論、妥当だとは思いません。E=mc^2の例も「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当ではないと思います。

もっと分かりやすい喩えとして「生命は大切なものである」という倫理の根底を成す(と思われる)言明があります。倫理価値として得られる論理的解は「生命を大切にしない=悪」ですし「生命を大切にする=善」ということになります。しかし科学はそれをいささかも担保してくれません。生命とはどんなものか?地球上の生物だけが生命なのか?生命にはどんな定義が妥当なのか?生命の起源はなんだ?みたいな疑問に対してなら、著しく有効な科学なのに、それが「大切かどうか?」には答えない。せいぜいが「個体の生命を守るのは、その個体にとって適応的である」という示唆が得られる程度であって、善悪を判断する材料にさえならないでしょう。思考節約の原理に基づくとしたら、善悪の科学的考察を何百フレームにもわたって繰り返すよりも、直接的に立法や個別社会における道徳知識に従う方がずっとシンプルです。(メタな議論を個別事象に当てはめることの不適格さ)

あらゆる対象を採取し、それを吟味し、理解するためのツールが科学である、と私は思います。先に出た議論と同様に、包丁や切り出しナイフやバイクや銃と同様のものです。「なにかを大切とする倫理価値観の起源やシステム」を理解することは、知識として有効です。それはバイクやナイフのマニュアルが有効であることと同様です。しかし、バイクの行き先はマニュアルに書いてありません。また、書き記すべきでもないでしょう。

385NAN:2008/02/24(日) 12:50:33 ID:CTE40lKg
つづき…
先の議論に戻ると、「生命を無闇に滅ぼし続ければ、食物連鎖の鎖が途切れてしまい、すべての生命が途絶えてしまう可能性がある」という科学的示唆は求められます。これは倫理に対する起源の答えのひとつとして有効でしょう。しかしヒトは「それでも生命を根絶やしにしたい」とさえ考えることがあります。それが行使されるかされないかに関わらず、ヒトの思考や要求は本質的に自由であって、自らに不利益であるはずの行為でさえいくらでも選択可能なのです。また現実に、そうした行為はいくらでも観察できます。

こうしたヒトのもつ本質的な自由意志、奔放な行動力に対して抑制を司るのが倫理や道徳であるとするなら、無論、宗教にその教導権を一方的に委ねることになんら根拠の正当性はないでしょう。しかしそれが「まったくない」と主張するのも大変です。おそらく不可能でしょう。それはこれまでの議論にもあるように、倫理や道徳はそれぞれの社会が持つ歴史や文化に基づく知識ですから、宗教的歴史や民俗的歴史という「知識」との分離が甚だ難しいことに由来します。さらに、自由民主主義の原則に従うのだとしたら、特定の主義主張を無視したり排除することの正当性をどこかから導く必要性にも繋がり「発言権を一切認めない」わけにはどうしてもいかないわけです。これは「神の存在証明」だとか「経典の蒙昧さ」の議論とは本質的に異なる次元の議論です。また、本スレッドの本論を考えるときに重視すべきは、むしろこの面であり、特定宗教・教団の妄言をいくら指摘したところで、それらが存在し一定の「層」を形成している以上、発言力として無視するわけにはいかない原則が社会にある、ということです。

「ダーウィンが進化論の発表を見合わせていたのは宗教に遠慮したからだ」という主張は正しいものですが、当時の時代背景と照らし合わせれば妥当な判断です。また、これをもって「宗教の弊害」と主張し、今の宗教を批判することは明確に間違っています。なぜなら「昔はそうだが、今はそうではない」という歴史的変遷を無視したものだからです。これは過去の犯罪歴を繰り返し処罰できない原則に通じます。
ある学派の中心的主張もしくは指導者の利害に対して、その学派に所属する者が革新的理論を提唱することは、利害の不一致によって揉み消されたり、発表を遅延させられることがあるのは、時代背景に関わらずいつでもあり得る話です。大阪で阪神タイガースを批判することの弊害や、広島でカープを批判することにより生じる軋轢があるからと云って、プロ野球ファン全体を批判したり、球団を批判することは「間違った一般化」ですが、利害と利害が一致しないことによってなんらかの軋轢が生じるという事象は、さまざまな社会的属性に対して当てはめて考えることが可能です。

少し雑になりますが、無神論者と信仰者の問題も、マイノリティとマジョリティの問題と云えるでしょう。アメリカと日本では、両者の立場が逆転している、ということです。また、利害の不一致に敏感な社会と穏健な社会というセンシビティにも由来しているかも知れません。平等を原則とする社会でマイノリティに不利益があることは正しからぬことですが、残念ながら人間社会は理想にはほど遠いものです。だからといって改善を求めることは間違いではありませんが、対象を否定し敵視したような方法論では、議論(ディベート)で勝つことはできても、それがために反感を生んだり思いもよらぬ障害を生むことだって予測できてしまう。この問題(集団利害への言及)を適切に行うのは実に難しい問題ですね。

こうした考察を科学的に行うことの意義は大いにあるだろう、と私は思います。それは(たとえば)宗教の無根拠さや蒙昧さを指摘するためのものではなく、さまざまな「境界問題」がなぜ起きるのか?という大テーマを扱うのに有効だ、という意味です。また、それでもなお、結局ヒトはなにをするか分からないのですが、だからといって諦める必要はありませんね。

386AH1:2008/02/26(火) 13:45:25 ID:sNMJ1V0Y
ちょちょんまげさん
>そう言われっちゃうと、今度はなにやらさみしいんですよね。(笑)

あはは。いやまあ、私としてもそう言わないとダブスタなわけでして・・
でも全く放っておくつもりなら、ここで発言させてもらう事もないでしょうから。

387junsaan:2008/03/02(日) 16:35:44 ID:JxbYVj9s
はじめまして。
ほかの掲示板で書いたことでもあるのですが、科学に、神という存在を認めてしまうと「すべては神の御業」で終わってしまうと思います。
だから、なんというか、「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

388junsaan:2008/03/02(日) 16:36:33 ID:JxbYVj9s
はじめまして。
ほかの掲示板で書いたことでもあるのですが、科学に、神という存在を認めてしまうと「すべては神の御業」で終わってしまうと思います。
だから、なんというか、「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

389NAN:2008/03/03(月) 02:57:50 ID:CTE40lKg
>>383
『オッカムの剃刀(かみそり)』をご存知ですか?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80

思考節約の原理と云う場合もありますが、説明に不要なことは扱わない、という科学的方法論で広く浸透しています。
力学現象も宇宙創成も生物進化も「神の御業」である可能性はあります。しかし、立証の手立てがありません。立証の手立てがないということは、反証も出来ないということです。だったらそれは保留でいいじゃないか、ということです。

>「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

この部分については、どこに、あるいは、誰に書かれたのでしょう?
ちょっとスレッドの内容とはズレているように見受けられます。

390junsaan:2008/03/03(月) 18:57:03 ID:SoFKphIY
>ちょっとスレッドの内容とはズレているように見受けられます。
たしかにそうでした。
題名見ただけで投稿してしまいました。すいません。

391ちょちょんまげ:2008/04/04(金) 13:18:05 ID:vUxNW.gI
NATROMさん、もう「親子丼」の#988じぃく氏の書き込み
      ↓
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/2092/1204816736/988
は、読まれたと思います。

あの人たちは、もうダメだ。
俺、もうちょっと人間信じてたんだけど。
ドーキンスはやっぱり間違ってるわ。理を尽くしたところで、わからんやつは、ほんとにわからんのですね。
NANさん、「科学と神」の議論、俺、白旗です。

392ちょちょんまげ:2008/04/04(金) 13:24:50 ID:vUxNW.gI
って、俺なんか読んでただけだけど、ずーっとつきあってた、NATROMさんのがよっぽど脱力ですよね。
お疲れ様でした。

393NAN:2008/04/05(土) 20:46:26 ID:QrHs74qA
>>391
なぜ私に「白旗宣言」を出されるのかは良く分かりませんが(笑。
ダブスタであることを立脚点にしている論者との議論は、自身がダブスタを知ろうとしない限り、永遠に水掛け論です。
また、当然のことですが、自身に対する批判を持つこともないでしょうね。

でもそれって、普通の世の中ですよ。

394名無しさん:2008/04/28(月) 12:36:43 ID:D2PZoWjk
燃料投下(笑)
「米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望」
ttp://macska.org/article/224

macska女史のページですが、反響が大きいようです。
結構この話題、興味がある人が多いんですかね?


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