したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

神と科学は共存できるか

218:2008/01/23(水) 23:08:42 ID:QpQGFxc6
……と、ここまで書いてきて「NOMAって不可知論、それも(天真爛漫な)ヒューム型不可知論じゃないか」と思うに至りました。
急遽グールド著の「神は科学と両立できるか(原著=Rocks of Ages)」に当たってみました。冒頭の『前口上』16ページに「私は、T・H・ハクスリーが用いた、賢明な意味においての不可知論者である。」と言う告白が有り、又しばしば「ユダヤ人の不可知論者」と自認していたらしい。むべなるかな、と思った次第です。
うーん、グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが。


第二

私が思うに、天上と地上をキチンと区分けすることが出来れば、確かに神と科学の領分が重複することも無いし、NOMA原理も問題なく成り立つんでしょうね。

しかし残念ながら、神(?)もその使徒も、実際には全て地上におわします。有神論者は否定するでしょうが無神論者である私はそう断言し、話しを進めます。
「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、教義と信者の頭の中にしか存在しません。

科学の側は特に天上の世界を必要としません。この現実の世界そのものの中に、存在と連関の有り様を探求する営為です。

そう言う意味でNOMAなどと言ってみても、所詮片手落ちにならざるを得ないと私は思う訳です。科学にとって神のお慈悲を必要とすることは何も無いが、神にとって科学への依存・浸透を免れることは1日たりとも出来ないでしょう。

そう言う舞台裏がバレバレであるにもかかわらず、何でわざわざ科学の側からNOMAなどと、現実世界から超越しているかのごとく神にお墨付きを与えるグールドを、ドーキンスは、「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている(86P)」と見えたんでしょうね。

言葉のきつさは兎も角として、私もNOMAには、現実からかけ離れた神への「過剰な敬意」美化が含まれると思います。
カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

「重複することの無い教導権」なるものも、単にグールドの頭の中で(議論として)アレコレ想定されている分には特に弊害は無いかも知れませんが、実際に地上の世界に引き下ろして具体的に適用されたとき、(>>213;ちょちょんまげさん)の錬金術や妖精やカッパのような、現実の弊害が表面化するのではないでしょうか。

一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

「重複しない」とは、言葉を変えれば「立ち入るな」と言うことであり「口出し無用」と言うことです。
彼ら(或いは宗教一般)を行政権力で押さえつけることには、思想・信条の自由からも慎重でなければならないと私も思います。しかし彼らの言い分を科学の立場から理論的に批判し、理性ベースで一般国民の頭の中から非科学的妄想を駆逐することは必要でしょう。
その批判を手控えさせ或いは傍観させることに、若し「重複することの無い教導権」的躊躇が働いたとしたら、NOMAの罪は大きいと思います。

マスコミが「霊媒師」なるものの提灯持ちをし、心霊写真だの水子霊だのと騒ぐのはひとえに、雑誌の売上や視聴率の為でしょう。
しかしそう言う非科学的で愚にも付かないことを、女性誌や公共放送が垂れ流すことを躊躇させない要因として、或いは批判されたときの言い訳として、若しNOMA的心理が背景に有るとしたら、それも大きな罪です。
そして私にはそう言うことが絶対にないとは言えない様な気がします。


NANさんがNo-215の最後で仰っているように、全体的には良心的な宗教者が圧倒的なのだと思います。宗教的良心に基づく平和運動、人権擁護運動などに献身されている人も多いでしょう。
宗教は現実の世界にその精神的基盤を持っている訳ですから(私はそう考えています)、世界観の違いは違いとして、一致する行動で連帯すれば良いのだと思っているところです。

219地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:12:36 ID:9YM1mm7M
おそくなっておりますにゃー(ぺこり

>>194  カクレクマノミ

>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。

現象学的には同じですにゃ。以下はウィキの「現象学」の記述より引用
>フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。

とまあ、衒学的に誤魔化しているように思われてもなんなので以下のカクレクマノミの記述を具体的に批判すると

>>200
>妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
>僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?
すると、学問的に価値があるか否かという判断基準は、その学者の信念や世界観に依存するということになるんだけど、カクレクマノミは本当にそういうことをいいたいの? 論文の査読って思想チェックなの?
そもそも、「ビリーバー」の著述やら発言は、「民俗学」にとって無意味なの? 「里の古老(=ビリーバー)」を抜きにして民俗学が成り立つの? あるいは、「ビリーバー」は民俗学者になれにゃーの? どんな信念や世界観をもっていようが、そのガクモンにおける方法論を踏襲している研究は当該ガクモンの研究として成り立つと僕は思っていたんだけど、違うのかにゃ?

これは、ちょちょんまげ とか AH1 にも聞いておきたいところなんだけど、「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

研究者の信念や世界観とその業績を直接的にリンクする発想は、本来は馬鹿宗教の側の発想なのではにゃーのかね?
まあ、科学主義はひとつの「イズム」なので、科学主義の立場においては、研究者の世界観とそのガクモン業績はリンクすることになるだろうにゃ。

自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ。特に 雄 の病状がヒデエ。

220地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:13:04 ID:9YM1mm7M
つづき
>>194

>>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

>定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。

あのさー
「神は妄想である」において、ドーキンスは一神教を否定しているだけでなく、超越的な思考すべてを否定しているだろ?
つまり、多神教の神々も否定しているわけだよにゃ。

まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね? 宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ? 百年前の宗教史の馬鹿言説を引っ張り出す馬鹿、多神教の神々について「一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない」と無知に開き直る破廉恥野郎が、一神教と多神教をいっしょくたにして批判しているんだぜ?
繰り返し聞くけど、批判対象について明らかに無知であり関心もないと開き直るってのは、批判者としてそもそもどうよ?


ドーキンスの論理的な間違いとか捏造を晒そうと思ってたけど(僕の読んだかぎりでは、グールドに少なくとも捏造はない。また、宗教や人文科学についての明らかな無知や侮蔑はみられなかった)、その前にこんなアタリマエのことをいわなきゃならにゃーとはね。

221地下に眠るM:2008/01/24(木) 03:01:13 ID:9YM1mm7M
ちょっとつれづれと

橋本治が「宗教なんかこわくない!」という著書で
仏教を英語でBuddismとよび、イスラム教をIslamismと呼ぶことは、マルクス主義をMarxismと呼ぶことと同じ。つまり、宗教とはイデオロギーなのだ、といっておりますにゃ。

うんうん
確かに儒教はConfucianismだしにゃ。道教はTaoismで神道はShintoismですにゃ。シャーマニズムとかアニミズムもよく知られた用語にゃんね。
ただし、キリスト教はChristianityにゃんな。まあ、自分たちだけはイデオロギーではない、という態度が逆にイデオロギーであることを証明しているようなものにゃんね。

で、このあとは僕の思いつきなんだけど
ニーチェは「事実などない。あるのは解釈だけだ」といっておりますにゃ。
この言明は基本的には正しいと思うのですにゃ。個々のニンゲンにとっては、事実そのものがあるわけではなく、それぞれの体験があるのであり、体験とは何らかの解釈がなされて意味付けされているものですからにゃ。(意味付けのない体験は記憶されない)
そして、イデオロギーというのはその「解釈」あるいは「意味」を共有する社会集団といえるのではにゃーかな。そして、各々のイデオロギー間についてはそれぞれ対等だとするのが正しい文化相対主義ですよにゃ。
で、宗教とはイデオロギーであり「イズム」のひとつなんだと考えれば、当然ながら無宗教とか無神論もひとつのイデオロギーであり「イズム」であるといえるわけですにゃ。この意味で、無神論と宗教は対等ですにゃ。どっちも世界観にゃんからね。

イスラムを殺しまくるブッシュと、宗教撲滅を望むドーキンスはよく似ているわけだにゃ。


ところで自然科学ちゅうものをニーチェの言明に即して考えてみると、自然科学とはことによると「解釈」以前の「事実」を外化して共有するシステムなのではにゃーだろうか?
カントによると「物自体」は不可知だよにゃ。当然ながら、「事実そのもの」もニンゲンには本来ならば不可知といえますにゃ。しかし、事実の一部を抽象化して記述する方法論を徹底することによって、体験し解釈される前の事実そのものの一部を外在化することが可能になったのではにゃーかと。この外在化された事実の一部のことを「データ」と呼ぶわけにゃんね。

自然科学の方法論によって人類にとって初めて事実の共有が可能になったのかもしれにゃーですね。それまでは、解釈の共有以外はなかったのかもしれにゃー。

222カクレクマノミ:2008/01/24(木) 04:05:04 ID:nWqwz./A
>つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?

すみません、人を単位にして書いてしまったのが、誤解のもととなったようです。
ここで単位にすべきは、人ではなくて個々の言明です。

ここでは、「妖精は存在しない」「魚は存在する」というのを前提として話をします。
「魚には鰭がある」「魚には消化管がない」というのは、明らかに学問的に意味のある主張です。なぜなら、これらの主張は現実の存在と対応しているからです(もちろん、後者は間違った主張ですが)。

では、「妖精には羽がある」と主張したとき、いったいそれは現実世界の何を表しているのでしょう?
(「多くの伝承などにおいて」という枕詞が省略されている場合もあるでしょうが、ここではそうでない場合を考えます。)
妖精はいません。いないものに、羽があったりなかったりするというのは、いったいどういうことでしょうか?存在しないのだから、当然羽を持ってはいないし、持っていなくもないはずです。
(もちろん、民俗学などのデータとして、「このように主張する人がいる」というのは学問的に意義があります。)

妖精はいないにもかかわらず、妖精には本当に羽があるのかないのか議論するのは、はたして学問的行為と呼べるのかどうか、僕は非常に疑問だと思います。

妖精の代わりに空飛ぶスパゲッティモンスター、羽の代わりにミートボールを考えてもらってもかまいません。
スパゲッティモンスターはミートボールを持っているのかどうか議論するのに学問として意味があるとは思えません*。

ドーキンスの考えでは、ほぼ間違いなく神は存在しません(この点に関する異論もあるかもしれませんが、ドーキンスの議論を追いかけるために、仮に受け入れてください)。
では、神学などの分野で、神がどんな性質を持っているかどうか議論するのは、いったい何について議論しているのでしょうか?


>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

>宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ?

そのあたりの問題についてドーキンスの議論はかなり雑だというのは同感です。
ただし僕の能力不足で、その雑さが具体的にどのような齟齬を発生させているのか、指摘することができません。
具体的な問題があるのでしたら、ぜひ教えてください(皮肉でなく)。

ただ、多神教について(あるいはキリスト教以外の宗教について)、ドーキンスは概論としては批判しているにも関わらず、各論としてはろくに取り扱っていないというのは確かだと思います。そしてそのことはかなり問題だというのもまた確かでしょう。
キリスト教以外の宗教について考えるときには、ドーキンスの議論をそのまま使ってしまうのは危険です。(参考になる点は多々あると思いますが)

この点についてドーキンスを弁護するとしたら、多様な宗教をすべて議論し尽くすのは事実上不可能だということが言えます(リストアップだけで「神は妄想である」よりも分厚い本が必要になるでしょうし、必要な労力も現実的な量ではないでしょう。グールドだって、ほとんどキリスト教のことしか書いていないし)
でも、それならば宗教全般を射程に入れているかのように書くのは風呂敷を広げすぎだ、という批判は当たっていると思います。彼は、具体的な議論の対象はキリスト教に限られているということを、もっと強調すべきだったと思います。

223ちょちょんまげ:2008/01/24(木) 15:38:29 ID:vUxNW.gI
>>猫さん

>つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?

おっしゃるとおりだと思います。

ただ、私の上記書き込みの「錬金術」の場合で言うと、彼が錬金術の歴史や科学史における意義、術者の興味深い人間像等について語っている時「ある種の信念を強固に抱いている」かどうかは、事実に即している限り全く問題であるとは思いません。むしろ情熱的でおもしろいかも。
しかし、彼が「具体的に鉄を金に変える方法(錬金術的に)」について語りだしたとしたら、その話を真面目に聞くことに意味があるのかどうかは私には疑問です。

224AH1:2008/01/24(木) 16:49:40 ID:fKqeZx4M
>地下猫氏 

>「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

当然,同意します.最初からそのつもりで書いています.古今のカッパだか妖精だかの情報に精通しており,しかも実在すると信じてる人は存在し得ます.
ちょちょんまげ氏の書いている「ここまでは拝聴する価値あり」と同様と言ってよいかと考えます.

とりいそぎ

225:2008/01/24(木) 17:06:49 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏

地下猫氏と私の間に明らかな見解の違いが有ることは重々承知しています。それでいいのだと思っています。
例えば、私はニーチェは最悪の哲学の一種だと思っていて、どうもこれだけで地下猫氏からすれば病気に見えるかも知れません。
カントについても、その汲むべき内容が多い中で、地下猫氏が話しに出された「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いていると言う認識です。

しかしこれらは私の見解であって、神の実在性云々と同じく、ここで哲学に関して果てしない議論をしようとは思いません。
私の『科学主義』について「病状」を批判されるのも一向に構いません。

ただ一点、事実誤認が有りますので指摘させてもらいます。

>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>特に 雄 の病状がヒデエ。

骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。
と言うより………、ホントに読んでますか?

私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。
カッパを空想上の生き物として、例えば民俗学の範疇で研究すること、そしてそう言う観念がどう言う実在的背景の元で生じて伝播したのか(おそらく深い淵で水遊びする子供達を戒める為じゃないかな?とか)を研究することは多いに意義が有るだろうと思っています。

ただカッパを実在するものとして、自然科学の対象に研究するとしたら、それは違うだろうと言うことです。
カッパの皮膚の色は何色か?、若し緑色だったとしたらそれはキュウリを食っている為か?などと言う「研究成果」は、酒の席でのヨタ話としては受けるかも知れませんが、生物学の研究対象にはならないだろうし、すべきでないと言っているに過ぎません。

神そのものは空想上の産物だが、その精神的基盤は現実世界にあると思っている私は、宗教を研究することで現実社会を理解する、一つの手掛かりになるとも思っています。
聖書など教義の内容を、現実のものとして研究したり、押し付けることは問題だと言っているだけです。
古事記を国語でなく、歴史の教科書に載せようとしたり、創造論を生物進化の理論と並べて生物学の教科書に載せようとしたり、まっ、同じことですな。

ただ実在するかしないか、これもモノ(例えば神)によって見解が激しく異なることも承知しています。この点でも繰り返し「無神論の立場で」と、自分の立ち位置をハッキリさせた上で議論に参加させて貰っています。

なお、私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。時に自然を拷問(実験)に掛けて無理やり真理を白状させるようなこともしながらね。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
悪しからず。

226AH1:2008/01/24(木) 18:33:22 ID:fKqeZx4M
そもそも「妖精の羽の色」を何故知りたいと思ったのだろう?
妖精は実在し,その色が知りたいと思ったの?
伝承の中で何色とされていたのか知りたかったの?
絵を描くのにそれらしく見える色が知りたかったの?

そもそも,そんな事を本気で問う所からして間違っちょる,というレトリックかしらん?

227ka:2008/01/25(金) 00:33:00 ID:fopTCrCQ
>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
よろしければソースください

228NAN:2008/01/25(金) 00:57:54 ID:???
>>216:diamonds8888xさん
>>よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。

はい、それが「通常の常識」だろう、と私も思います。冷静に指摘していただいている通り、「狂っているかどうか即断できない」という、それらが狂気である可能性を認めていただければ十分です。

>>217:雄さん
>>私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。

「宗教」という「あまりに乱暴なひとまとめ」を支持しているでしょう?よって、私も「弊害が出るであろう一般化」でお答えしたんだけど、分からないかな?

>>カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

カッパや妖精は比喩でしょう。
「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
これらが問題とならない「機会」は、それらの「解釈」が自然科学として私たちが既に確立している知識に照らし合わせたとき、著しく現実である可能性が低いと判断された場合に限られるはずです。たとえば創造科学にしたところで、既存の論者の述べる説明があまりに幼稚であることから簡単にバカ扱いできるけれど、まったく新しい、少なくとも論理の筋道だけは通った創造科学の解釈が出てこないとは限らない。そういう言明に対してできることがあるとしたら、断定を行う前に検証する、検証できたにしても「確度の判定」ができるのみであり、絶対否定や肯定なんかできないってのが冷静な態度じゃないのかな。

なお、オッカムの剃刀で普段は切り落とされている領域にある、あってもなくても項として結果に影響を与えないパラメータとしての神については、どんな方法でも否定できない。これは私が「自分は無神論者である」とまったく思わない最大の理由です。

>>一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

永遠リフレインの世界になってきたな(苦笑。
何度でも云うけれど、そういう欺瞞的商行為に無批判であるべきはずがない。ところが、その主旨がが「超越的存在を前提としているから」だとか「宗教的だから」と云うようでは、私たちが「通常の常識」だと思い込んでいるすべての事象(つまり、私たちの生活している文化や文明のすべて)でさえ、それらは「すべて妄想であり狂気の共有ではないのか?」という再反論に晒されることになり、これに確かな証拠を提示して反証することは極めて難しいので、個別の嘘だけを指摘するべきだ、と申し上げているわけです。

自然科学で云う「実在」と、広範囲な学問(あるいは知識全体)で云う実在とではかなり隔たりがあるはずです。あるいは隔たりがなくてはならない。人間の脳は基本的に夢と現実の区別ができない。よって(地下猫氏が指摘するように)外的に知を確保・検証するための方法論として自然科学という道具があるのだけれど、ある個人の体験を自然科学の範疇で事実ではないと実証できるからと云って「現実ではなく空想や妄想、錯覚である」と切り捨てる態度は、批判されるべき科学主義と呼んで差し支えないでしょう。

229NAN:2008/01/25(金) 01:30:12 ID:???
ついでに「妖精議論」について。
>>222などに散見されるけれど、妖精はいない、という証明は自然科学的実在性でしか世界を認識しようとしない「主義」にもとづくものではないでしょうか?しかし私は、先の発言(いや、今までずっと一貫して主張していることだけど)にあるように、誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは「事実なのだろう」と考えます。それが他者にも体験可能、あるいは実測したり検証することが可能な「科学的実在」であるかどうかはその次のステップであろう、と考えます。

これはたとえば「痛い」という知覚にも同じことが云えるのではないか?と私は思います。私のような体中傷だらけの後遺症患いだと往々にしてあることですが、私が感じる「痛い」という知覚は計測不可能です。医師によって、あるいは計器によって、それを「痛覚レベル」として検証したり確認したりすることが極めて難しいので、触診したり薬液をつけたりその他の方法で「患部にアクセス」することによってなんとなく確かめるしか方法がないようです。結局のところ「これくらい痛そうな反応を示すのでよほど悪いのだろう」という、極めて不明瞭な判定しかできないのが現状のようです。(この点については、もっと確度の高い方法があるのかも知れませんが、私の経験の範囲ではこんな雰囲気でした)

このような「症状」を抱える私が各所の医院を訪ねると、その対処は千差万別です。「痛い」という私の主観的主張に基づいて適格な治療指針を探ろうとする医師もいたし、はなから「この損傷でそんなに痛いはずがない」という態度で診察に臨むような医師もいました。極端な話、治療も間違いない、検査の結果も傷みなど出るはずがない、よってこの患者(私)の痛いという主張は一種のヒステリーだろう、みたいな診断さえ「食らった」ことがあります。

しかし、患者の側からすれば確かに痛いのであり、それで困っているからわざわざ病院に出向き、長い診察待ちを経てやっと医師と邂逅しているのです。同様にして、極めて現実的であるけれど、極めて「我々が現実として認識するこの世界」とはかけ離れた「あっちの世界」を確かな現実であると主張するひともいます。彼らは通常、精神障害のあるひと、と診断されるでしょうが、彼らの言明は「空想の産物、妄想、錯覚であるので学問的意味などない」と捨てるべきでしょうか。(同様の指摘は「カールセーガン科学と悪霊を語る」がずっと詳しいし、丁寧だと思います)

「妖精はいない」という言明は「不可知であるはずのモノに対する断定」ではないだろうか?私はそう思うのです。無論、これまでのジンルイの経験において、妖精の存在は実証されていない。また、今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

230:2008/01/26(土) 11:39:55 ID:QpQGFxc6
RE kaさん
>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

NANさんからもNo-228で、
>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。
カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂かけばばあ、等など、際限が有りません。

NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。


人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

231:2008/01/26(土) 11:41:40 ID:QpQGFxc6
続きます
「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。

○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。

人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。

流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢なら無かったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

232:2008/01/26(土) 11:42:09 ID:QpQGFxc6
唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。

この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

233地下に眠るM:2008/01/26(土) 13:38:41 ID:z58pW4fo
ドーキンスの著書の批判的読解はもちろん続けるとして、参加者のみにゃさまに質問。
(ちゅうか、以下の質問はドーキンスの誤謬に直接に関連している)

1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?

3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

234NAN:2008/01/26(土) 23:05:35 ID:???
私は哲学というものに素養がなく、知識が乏しい。だから、それぞれの論者による「ここに書いてある内容」だけを読んで、図々しくも自分の考えを書いてみようと思うのだけど、よく考えると哲学論に突っ込んで論じているのは二人だけなので、まぁいいか!とか思います(笑。

さて、不可知論とか不可知性について、がテーマということでよろしいでしょうか。
>>230で雄さんは
>NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と、批判をしてくださいましたが、私は「事実」だとか「実在」と云うときに、自然科学的な事実と一般(文化)論で云う「実在」との両方を併せて述べています。この二つはきちんと峻別するべきであり、そうしないと科学議論は成り立たなくなるでしょうから。
では私の立場とはどんな立場か?それは「あるひとの体験を第三者が否定することはできない」というものであり、「あるひとの体験は科学的証明でしか客観的な知識とはなり得ない」という、もうひとつの立場となかば対立しながら私の中では矛盾なく存在しています。
つまり「妖精を見た」と主張する誰かと私が会ったときには「このひとは確かに妖精を見たのだろう」と考えますが、一方で「しかしその妖精を私が見ることは極めて難しいか不可能で、科学的な実証も同じことだろう」と考えるのです。つまり私に云えることとは「私には妖精が見えない」ということであり、もうひとつ踏み込んで「科学的方法論でも妖精の実在証明は難しいだろう」ということです。しかしどう足掻いたところで「あなたが妖精を見たという主張は嘘だ」と断定することはできません。(無論、その他の発言に矛盾やデタラメが混在しているようだと、主張の信憑性は、そのひとの主観であることを念頭に置いてでさえかなり乏しいものになるのだけれど)

それでは「不可知論」というテーマに於いて、私はどんなスタンスでいるのでしょう。カントがどうしたとかいう話は、残念ながら私は無知なのでさっぱり分かりません。しかし「ヒトが不可知であるはずのもの」についてであれば、かなり明確にお答えすることができると思います。
「物自体」というここでの説明を読んで、私は(この議論に於いては批判対象になってしまった)かのドーキンスの「盲目の時計職人」の中で、私たち地球上の生物が、壁や鉄の板を「硬くて通り抜けられないもの」と認識している、その知覚の適応についての議論を思い浮かべました。

235NAN:2008/01/26(土) 23:06:04 ID:???
もしもカントという哲学者が「人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない」と述べたのであれば、それは科学的に見ても正しいのではないか?私はそう思います。また、私が述べる「物自体」とは電子や原子格子だったりクォークだったり、極論すると「場」そのものであるような、時空そのものを指しています。私たちはその本質を知覚できないことから、現象を体験するのであり、認識します。そもそも私たちが「モノ」と知覚するすべての物質が、実は時空の振る舞いであることなど、いったいどうやって知覚すれば良いのでしょう。

まぁしかし、雄さんの議論を見ていると「現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない」というカントへの反論もあるようです。なんだか先に挙げた「物自体」の定義(概念?)とは飛躍しているようですが、私たちがいる「世界」とは現象そのものなのですから、これがなにを批判しなにを意味しているのかが私には分かりません。(そう、モノもなにもすべて現象だろう、ということならこの批判は正しいけれど、なにをもって現実と定義しているのかが分からない)

ちなみに物質の属性として最後に残るものとは、ブラックホールの属性そのものである「質量・電荷・スピン」ですね。ホーキングら宇宙論学者たちの議論によると、ブラックホールの内部(つまり事象の地平面の向こう側)に「落ちた」物質も、それらの属性だけはブラックホールが消滅するまで残り続けるとのことですが、事象の地平の向こう側に「なにか」があると云う言明はなにを意味するのでしょう。さらに困ったことに、ブラックホールは物質を吸い込むばかりでなく、えらい勢いで吐き出すことも量子論の予測することとなり、近年の観測でそれが確かめられたようです。私たちの知覚からすると、恐らくブラックホールは「ある」ということですが、事象の地平の内部は「現実世界」でしょうか?これこそ、云うなれば「現象から切り離されたモノ自体」の顕現のひとつではないか?と私は思います。

同様にして、量子論におけるエヴェレットの多世界解釈を引っ張り出すと、私たちの世界は常に確率論的な「重ね合わせ」であり、ある二つの結果を持つ事象があるならば、その結果の発生と同時に二つの世界は切り離されたことになりますが、その切り離された世界は私たちに知覚することは不可能であり、不可知であることは明確です。大統一理論や超重力理論、膜宇宙論などが展開されるn次元宇宙でさえ、数学的には実証されているようですが、これを私たちが「知覚する」ことは可能でしょうか?

最近の私が思うことですが、ある物質を見て、これはボーズ粒子であるとかフェルミ粒子であるとかという「知覚」も、結局のところ情報に過ぎなくて物質の本質でもなんでもないのではないか?かつてのクォーク発見競争がそうであったように、いつまで経っても私たちジンルイは「物自体」になど辿り着けないのではないか?それは哲学などというややこしい理屈をこねるまでもなく「あって当然の疑問である」と私は思います。

236NAN:2008/01/26(土) 23:15:30 ID:???
あと、クイズもあったね(笑。

>1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?→存在しない。


>2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?→学問と呼ぶに値する
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?→これは判断保留

>3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

どっちにしろ「価値」の話なので、最終的にはポピュラリズムに委ねられる、と私は思う。
ちなみに私個人の判断においては、自然科学における実在性の否定は、それら観念の価値の否定にはまったく繋がらない、と思う。

237地下に眠るM:2008/01/27(日) 01:43:36 ID:XBKwcxm2
ありゃ、NANに答えてもらって質問の不備を発見したにゃ。
答えてもらったNANにはすんごく申し訳にゃーのだが、書き直すにゃ。


1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 A)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していることを前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 C)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していること前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 D)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?


3)以上の質問における「愛」を、
 A)「妖精」と置き換えてみた場合はどうか?
 B)「キリスト教の教義」と置き換えてみた場合はどうか? 
 C)「ある特定の妄想」と置き換えてみた場合はどうか?



僕の答えも書いておきますにゃ。要は「存在」とは多階層にわたったものだといいたいだけなんで。

1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない

2)A)自然科学としては成り立たない。人文・社会科学としてはまあ異端の学派であろうが、当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
  B)正統的な人文・社会科学といえる。
  C)純然たる「と」自然科学
  D)意味の通じないたわごと。社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」し、人文科学的な意味では狂人の私的な妄想すら「存在している」。自然科学的に存在しないものは自然科学の対象にならないように、社会科学・人文科学的に存在しないものは社会科学・人文科学の対象にならない。

3)A〜Cすべてにおいて基本的には「愛」の場合と同じ。妄想の共有の度合いが違うので差異はあるんだけど、めんどいので突っ込まない。

問題は 2)A)の立場なんだけど、これを簡単に切り捨てるのはやっぱり科学主義なんでにゃーの? この立場が学問的貢献をなしえにゃーという理由はどこにもにゃーんだよな。この立場にいる天才的学者っているぜ。W.ライヒはオルゴン・エネルギーの自然科学的実在を信じていた「と」だけど、その著書である「ファシズムと大衆心理」は紛れもにゃー名著だったりね。確かに自然科学に対して侵犯しやすい困ったヒトタチだけど、だからといってそれが人文・社会科学としてダメだということにはならにゃー。

238ka:2008/01/27(日) 03:08:15 ID:fopTCrCQ
雄様知らないこともあったのでとても勉強になりましたご丁寧なご返答ありがとうございました。
今度ヘーゲルの本を読んでみようと思います。
それではROMにもどります。

239NAN:2008/01/27(日) 05:40:30 ID:???
ちょっとこの問題は重要な気がするので、徹夜作業の途中で書き込み…。
(部分的に雄氏にレスしているけれど、全体としては私の雑感)

>>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
>と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。

ん〜…事象の地平の内面について、すべて分かる(不可知などない)という言明は科学的なのだろうか?事象の地平を越えたモノは原理的に不可知ではないのか?あるいは「虚数時間」という数学的モデルとして「実証された世界」について、私たちは「知覚している」と明言できるのだろうか?
事象の地平の内面についての考察はホーキングが行ったEPR粒子(相関)による思考実験で「事象の地平のこっちとあっちに粒子のペアが分かれた場合、こっち側の粒子の状態が確定すれば、あっち側の状態も確定し、事象の地平の向こう側から『情報をサルベージできる』」というものがあるけれど、ホーキング自身が「だからといってブラックホールの中身がすべて分かる」と述べているわけではない(決定論の領域が少し増える)ことなども考慮すべき、と私は思うのだけれど。(さらにもちろん、そういう実験がジンルイにとって可能な実験なのかどうか?という技術的障壁も考慮すべき)

それと、上記のような「私の疑問」とは別個に「不可知であるモノを仮定した問いかけ」に対して「私は不可知論的立場はとらない」と返答することに「科学の側に立った考え」におけるなにかを示唆しているのか?そもそもダークマターなどという、宇宙に於いては圧倒的多量と予測されている「はず」のなにかさえ(現時点では)観測できないジンルイの科学において「不可知であるモノの仮定」を認めないことは、ただの思考停止か知の領域を広げることの拒否にしかならないのではないのか?

つまり「不可知であるモノを仮定すること」は、西洋哲学の流儀で云うと「それは分からないとあらかじめ決めてあることなので考えるだけ無駄だ」という思考停止に映るのだろうか?だとしたら、私の主張に対する反論の「動機」も理解できかけてくる。そう、私はこの問題を正逆に捉えていたんだよね。もちろん私は「不可知領域(面積)の絶対性」を肯定しない。「不可知である領域はいつまでも残る」と云っているだけ。
(還元主義の観点から云って、さっぱり還元してない>>232なんてのは少しも説得力がないし)
(ちなみに「物自体を作る」というのはエネルギー保存則に重大な亀裂を生じさせることになるのではないか?まさか化学物質を合成する程度のこととか、放射性物質の崩壊や核融合程度で「モノを作った」なんて認識じゃないよね?そりゃバカだぞ)

科学者でもなんでもない私が恐れ多くも勝手に標榜している「科学的な考え方」として、『今現在分からないことであっても、将来的には分かるようになる可能性が高いだろうね。それでもやっぱり、ヒトがすべてを知ることはできないだろうね…だって、すべてを知ったと判断したのと同時に知の拡大も停止するのだからね』というものがあります。また、この立場が「不可知論」というレッテルを貼られるべきものなのか、あるいは唯物論というレッテルを貼られるべきものなのか、私には分かりません。というかそもそも私は哲学に疎いし、そんなレッテルを知っていようがいまいが、これらの問題について私なりに考えることができるのでそれで十分だ、と思っているのです。

240NAN:2008/01/27(日) 05:41:20 ID:???
さて、次の問題。「カッパの生理学的研究」に果たして自然科学的な学問上の意味はないのか?少なくとも、さまざまな伝承や絵画をもとにして、カッパの実在を仮定した、まさしく科学的なモデルを構築することは可能だよね。その結果、現時点では「カッパと呼ばれている伝承上の生物は、その伝承どおりの形態で実在することはあり得ない」という結論を下すことができるかも知れない。それだって十分に意味のあることなんじゃないのかな?カッパの自然科学的実在を主張する誰かは、この結論を受け容れなくてはいけないけれど、カッパを「未知の生物」と置き換えれば、その生理学的な研究に意味がないなんて誰も云えないはずなのだけど、そもそもカッパの生理学的研究に意味がないという主張の思考停止加減のほうに私はうんざりしてしまう。(それともカッパや妖精が具象であるからダメなのか?それは想像力欠陥ではないのか?)

私に反論する多くのヒトの傾向は「自然科学的結論を無視して実在性を主張すること」についての主張だと思う。しかし私は、そんなことを肯定していない。それよりも「現存する伝承だけで、カッパについての言及のすべてが出揃ったと考えることは妥当なのか?」だとか「伝承とは違うかも知れないが、カッパとしか名付けようのない未知の生物がいる可能性は否定できるのか?」ということを危惧しているんだよね。

上記と同様の、あるいは類似した宗教への批判はあからさまに的外れだ、と私は思う。霊感商法やインチキ予言が「金になる」というのは、そもそも迷信を信じやすいジンルイブンカの体質上の欠陥であって、それはたとえば「家族」だとか「ムラ社会」だとか「国家」というレベルでヒトの文化的体質を批判しなければならないだろう、と私は思う。無論、その中には宗教だって含まれるけれど、それらの欺瞞が「宗教の属性である」という認識は対立を生むばっかりでなんの解決にもならないのではないか?というのが私の疑義だってことは何度も書いた。(だって、新しいから、という理由だけでモノを買うことだって同じだろう?)

神が自然科学的な意味で実在する、と主張するのであれば、それはあからさまに間違っているか、かなり特殊な(自然科学的に云えば、ただのヒトであることを認めた)主張であろう、と私は思う。しかしなぜ、そんなバカな主張について何度も確かめなければならないのか?ことは聖書の記述だけではない。神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?しかし「実在」とは、自然科学的な意味でだけ流通しているガイネンではない。言うなれば、言語あるいは数式で記述可能な「あらゆるすべて」が、私たちの周りに実在し、存在し、明確に影響を与えている。実在とか事実というガイネンが自然科学「だけに」許された表現であると、世界的なコンセンサスでも得られているのだろうか?

誰かが神を見たと主張する。無論、その主張は自然科学的な意味で肯定されない。しかし、それでなにか解決するのか?問題は、私たちジンルイが幻覚や妄想を(生理学的にも)現実世界と区別できないということなのではないのか?懸命になって、それは客観的事実ではないと証明することなんか必要なくて、単に「あなたには見えるし現実なんだろうが、私にはそうじゃない」で十分ではないのか。私が主張しているのは「超越存在を自然科学的な実在として扱え」という主旨ではない。ぶっちゃけ、この議論において自然科学的実在などどうでもいいとさえ思うほどだ。

批判の対象となるのは、そうした「超越存在への信用」に基づいて、他者に対してなんらかの侵害が成されるとき、だろう。しかしそれさえも、実は「規則だからと云う理由だけで貧困老人から生存権利を奪う行為」とか「軍人だからという理由だけで他者の命を奪う行為」と、狂気というモノサシでどれくらいの違いがあるのか、私にはよく分からない。増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、バイクを禁止すれば事故が減るという短絡ヒステリーとなんの違いがあるというのだろう?お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、そういうイキモノであることが明確なのだから。

241ちょちょんまげ:2008/01/27(日) 16:07:30 ID:vUxNW.gI
>猫さん

ご質問の件。
猫さんとほとんど同意見です。
2)A)については、内容次第かなぁと思います。

>当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。
まさにおっしゃる通りで、この段階で切り捨てる理由など無いと思います。

>ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
ここなんですよね。ここで「愛」の自然科学的な存在の証明とか、「愛」の物質的な組成とか、「愛」とはニンゲンとニンゲンが引き合う「力」のことで「愛波動」が脳から出てるだとか、脳と脳の間で「愛中間子」のやりとりがあって等々と始まると「と」になっちゃうんだと思います。

242ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:30:53 ID:vUxNW.gI
おぢさんは怒った。
うちのガキが小学校で「The Pledge of Allegiance」なるものを斉唱させられているのら。毎朝。
話には聞いていたけど1〜2年生の時はガキがあんまし言わなかったから気にしてなかったのら。まぬけな話なのら。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.なのら。
「one Nation under God」なのら。それも気に入らないけど、布っきれ(象徴なのはわかってるのら!)に忠誠を誓わされるのも全身に鳥肌が立つほど嫌いなのら。何に忠誠を誓うなどは誰かに強制されることではないのら。自分で決めるのら。うんこでもおしっこでも自分の決めたものならなんでもいいのら。(でも出来るだけ合理的に決めてね。)
おぢさんの怒りは当初、当該小学校のみに向けられていたのだが徐々にメリケンに対する怒り、ついには全世界に対する怒りに拡大され、凶暴な気持ちになって、「全人類の全文化をろーらーで踏み潰してでも、うちのガキにこれを言わせるのだけは勘弁してくで!」と、自暴自棄になっているのら。
「どいつもこいつもバカばかり」とおぢさんは見るもの聞くものをかたっぱしから痛罵しはじめたのである。(ウチん中で)
(以上東海林さだおさんの完全パクリでひた。)

243ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:35:39 ID:vUxNW.gI
ちゅうわけで、気分をすっかり切り替えて>NANさん(べつに怒りがNANさんに向いてるわけではないよ。)
レスあっちゃこっちゃ前後しますがご勘弁を。

>神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?
Wikiその他ネット上のソースによりますと、全世界の信仰者の数は:
キリスト教系:19億〜20億
イスラム教系:11億〜13億
ヒンドゥー教系:7.5億〜9億
仏教系:3億5,000〜6,000万

上記のトータルだけでも41億〜45.6億人が信仰者だということになります。
全世界人口が推計で66億人(Wikiによります。)だそうですから、上記だけで実に全世界人口の62%〜69%!
私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。(結果的に、現在自然科学的な意味で存在しているものの行動や思想に影響を及ぼす。)」と主張する人なりグループなりは、この中で相当な割合を占めていると思います。
(特にイスラムに多いのではないか。)

>しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、
>そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。

>宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、
>さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。

上に掲げた信じられないような数(私からすれば)の信仰者のうち多くは、NANさんの上記のケースに当てはまらないと思います。
両親を含む周囲、国家まるごとなどが信仰者の集団であった場合、「なんの疑いもいだかず」周囲同様になることは極めて自然なことではないでしょうか。(このあたりはドーキンスが強く批判するところでもあります。)
つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

続きます。

244ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:04 ID:vUxNW.gI
>増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、(以下略)

>お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?
>いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、
>そういうイキモノであることが明確なのだから。

信仰者の多くが「刷り込み」によって誕生することが事実であるとすれば、その中に社会的な抑圧により「信仰者」であることを多かれ少なかれ強制されている人が数多くいると思います。
また、その中には頭や心の中に大きな「?」を抱えながら生きている人たちも沢山いると思うのです。疑問を抱きつつも情報が届いてないケースも多いでしょう。
私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。
もし、現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。
また、かって幅を利かせていた「盲信されていたことや盲信を強制されていたこと」の「非合理性」、「根拠薄弱性」に人々が気づき、その「盲信されていたこと」の社会的な影響力が少なくなったり、その「盲信されていたこと」をいまだ信じている人たちの肩身が狭くなった例というのも歴史的に少なくはない、と思うのですが。

例:神風(うちの親父は吹く!と固く信じていたそうです。少なくとも、彼の周囲は同様であったとのこと。)、 優生思想、ルイセンコ学説、聖書の逐語解釈、等

>私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。

少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

更につづきます。

245ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:45 ID:vUxNW.gI
>しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

>私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。
>理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。

「宗教」という一般化が容易でないこと、安易にすべきではない事などは、この掲示板の猫さんやリリスさん、そしてNANさんのご意見を拝読して私なりにも多くを学ばせていただきました。
しかし、「全ての主張は等価である」というある意味無敵の理論を振りかざされたら、個別にさえ批判することは不可能なのではないでしょうか。
メリケンのバカクリに対しても、NANさんが批判の投稿をなさった「カルト」に対しても。
また、「旧約」には暴力を是とするような記述がありますし、イスラムは異教徒に対し極めて不寛容=暴力的であると思います。(国家、宗派による温度差はありますが。)
それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

この部分、私は一時全面同意だったのですが、今回の息子の「The Pledge of Allegiance」の一件で少々考えが変わりました。
「宗教が権力者の道具の一つ」であることは全くその通りなのですが、それにプラス「権力者がマジでビリーバーである」という鬼に金棒みたいなケースも多いのではないかということに気づきました。(遅いっ、て)
例えばぶっしゅはそうなのではないか。周囲の優秀な連中は計算づくで宗教を道具として使おうとしてるのかも知れませんが、ぶっしゅは危ないかも。
それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。
また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか(それまで「創造科学者」との法廷での対決等、グールドは米国の権力からにらまれるようなことをやっていますから、周囲からの風当たりは強かったのではないか)、やはり「本音」は別のところにあったのではないか、そしてそのあたりをして、ドーキンスが「仲間」の一人として、(猫さんがおっしゃるような)より「厳しい目」で批判をしているのではないかと。
この辺は私の推測ですから当たっているかどうかはなんともわかりません。証拠のようなものもあることはあるのですが、それが書いてある本を、いま人に貸してしまっているので引用不可なのが残念です。

246AH1:2008/01/28(月) 11:49:43 ID:fKqeZx4M
1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?
 脳の機能として「『愛情を感じている』に相当する状態・機構」は存在するだろう
 「これが愛」として取りだせるような存在ではないだろう

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 ここでは「取りだせるような愛」が存在しないという意味だとして,

 A)ありえなくはないが,学問と呼びうる誠実な物になるかどうかは本人の態度によるだろう
 B)ごく普通に,心理学も文学もこれだろう
 C)裏返しの超・科学主義なのではないだろうか.存在したら現実との接点を持たない単なる妄想になると思う.
 D)これも超・科学主義的かつ極度なニヒリズムになるような気がする.どんなに否定したところで「愛と呼ばれて来たところのもの」は存在しちゃう筈だし.どっちにせよ現実を説明できるものではないんじゃないか.

247NAN:2008/01/28(月) 16:04:03 ID:???
>>243>>245
>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

あのぉ…私の指摘への反論ですか、それ?「とにかく存在する」ってのは「神を認める宗教」のテーゼなんだから当たり前でしょ…。

>つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

これもね、国家社会が「刷り込み」を行うってのは代表例なので書かなかったんだけど「強い理由のひとつ」です。無論それは政教分離への批判に繋がるけれど、政治と宗教を混同するのは権利者の「獲得利益」のひとつだよね。

>私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。

確かに、無駄、というのは勇み足だったと思います。あまり有効には見えないけれど、そういう方法論もあるだろう、くらいに訂正します。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

248NAN:2008/01/28(月) 16:04:23 ID:???
>それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

可能ですよ。その主張が相手に受け容れられるかどうか?はともかく、なにに対しても批判は可能です。また、この掲示板がそうであるように、議論を取り巻く「ジャッジ」にも、主張は届くでしょう。
私はさんざん「宗教一般への批判と見受けられる文節」に対して、宗教一般を擁護する視点から反論を続けているけれど、私には「不十分で有効性が感じられない批判」であっても、その主張そのものを禁止しようだとか排除しようなんて意図はありません。イスラム原理主義者とどのような対話が可能なのか私には今のところ分からないけれど、それは「批判の正当性」というよりも「政治の世界」になりそうですね。

>それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。

いやだからね…宗教的動機を持つのは「個人」でしょ。自己正当化のための道具として宗教との同一化を図るってのが宗教的動機だと思うけれど、それはニンゲンの性質なんだよ。宗教的規範も行政による立法も同じこと。「正しいヒト」たらんとする性質に適応しているのだろうね。宗教「だけが」規範への強い同一化を求めるだとか、教義に基づいた統制を求めるというなら話は別だけれど。

>また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか

読み直して見れば明確なのですが、私は「NOMA原理」なるものについて、今初めて言及しています。
そもそも私はNOMA原理なるものをよく知りません。あまり興味もないし、さして重要なことであるとも考えていません。NOMA原理などというチンプンカンプンな原理があろうがなかろうが、宗教と科学を両立させている優れた科学者が多数存在するのが歴史的事実である以上、なに云ってんの?くらいにしか私は捉えていません。

ちょちょんまげさんはアメリカ社会になにを期待し、希望しているのですか?
アメリカの政治は政教分離が正常に成されているとはとても云えない。そんなことはアメリカの外からいくらでも分かる。だから、きちんと政治と宗教を分離すべきだ…とは云えるけれど「どうやって?」それをしましょう。

全世界の文化をローラーで潰す前に、お子さんを別の学校に移すことはできるかも知れない。そもそもちょちょんまげさん一家がアメリカを去ることだってできるはずだ。その問題がそれほど重要なことであるならば、プライオリティは明らかだ、と私は思う。しかしなぜかそうはならない。それよりも「アメリカ社会が問題だ」とか「小学校が問題だ」となる。でもその状況を選択したのは誰なのですか?あなたの不満は激しく矛盾していると私は思うのだけれど、私は間違っているだろうか?

私はサバンナに赴いて、そこが荒野だったり草原だったりすることを不満と思わない。海に出て、周囲が海水であることを不服と思わない。
毎日のように雨が降る多湿な気候に住むことが不満であれば、より乾燥した土地に移住すれば良い。関西弁や東北弁がイヤなのであれば、標準語地域に住めば良い。「私は私自身を変えたり選択することができるけれど、あなたや彼を変えることはできない」それだけのことではないのですか?

249カクレクマノミ:2008/01/28(月) 21:12:07 ID:nWqwz./A
答える前に、いくつか確認を。

>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

そして、「自然科学」vs「人文科学・社会科学」という分類がいまいちよくわからないので、確認のためいくつか質問を。
以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?
・心理学   ・進化心理学
・動物心理学 ・認知科学
・動物行動学 ・行動主義心理学
・経済学   ・行動経済学

250ちょちょんまげ:2008/01/29(火) 13:29:20 ID:vUxNW.gI
>NANさん

>>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、
>>「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、
>>あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

上記の私の記述はマヌケでした。撤回します。
ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

>>それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

甘いと断定されてしまいましたが(苦笑。ですが、カーストの最下位にいた人たちの多くがそこから抜け出すためにイスラムに改宗したのをはじめとして、自分たちに有利(に思える)な新しい考え方に触れたときに旧来の信仰を棄てたり、改宗したりした例はいくらでもあるのでは?
単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」
>であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

>>え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
>>この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

ん?このサウジアラビア人は無宗教者なんですけど? ここの設定は「私(ちょちょんまげ)が実はサウジアラビア人であった」ということで、私は無宗教者である旨明らかにしてたように思うのですが。また、そこまでは書きませんでしたが自国で不当な扱いを受けていると思っているわけです。それでも意味通じませんか?

NOMAの話は申し訳ありません。特にNANさんあてではありませんでした。勢いで書いてしまいましたが、分けて書くべきでした。

そして、愚息の話ですが、まず>242の投稿が遊びのつもりでした。「トチ狂った男」を演じてみたかったので.....投稿したこと自体が愚かでした。また、耳の痛いご指摘でもありました。
で、本件の優先順位は私としては高い方ですが、最上位ではありません。何らかの措置は取るつもりではありますが。

で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

251AH1:2008/01/29(火) 14:14:16 ID:fKqeZx4M
横レスです.
ホメイニやブッシュがビリーバーでダメダメだったとして,
それは宗教のせいですか?ホメイニやブッシュのせいですか?

ちょちょんまげさんの御意見は
「もともとダメダメな奴が悪用したがる宗教なんかイラネ」
かな?と推測するのですが.

しかし,やっぱり
「暴走族がいるからバイク禁止」
「犯罪に走るからナイフ禁止」
と同じような気がする.
まあ,結局「宗教の有用性は有害性(悪用された時の,そして悪用される頻度)と比べてどうか」という話になり,
さらに「宗教の定義って?」になる,かな?
(漠然とお地蔵さん拝むのと産婦人科を爆破するのと,どっちも宗教に起因するけど有害性が同じってこたあるまい)

252NAN:2008/01/29(火) 16:20:30 ID:???
>>250
>ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

イエスが実在したかどうか?については、まぁ実在したとしてもよろしいんじゃないですか?
問題は、聖書に記述があるような数々の奇跡を起こしたかどうか?だと思いますよ。なお、私は「聖書逐語主義や原理主義者がいない」とは述べていません。いつも私が暴言を振りまいているように、そういう手合いは山ほどいます。いますが、それが大部分の宗教者であるかないか、というと少数派でしょう。ちなみに根拠はありません(笑。
#米国に於いてそれが多数だって?それは米国の問題だよね。

>単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

ない、とは言い切れませんね。確かに。

>それでも意味通じませんか?

あ〜、なるほどね。ていうかだったら簡単でしょ?そりゃぁ国家宗教という名の「法」が求めることだし、断罪するのは「宗教」ではなく政府もしくは司法だよね。信仰の名を騙った権力の代表じゃん。

>で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
>そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

ん〜、私自身も書くべきか書かざるべきか悩んだのです。でも、繰り返し書いておられるのでこれも議論のテーマにするおつもりなのかな?と思った次第です。正直、家族ネタに冷徹なレスを返すのは気がひけます。申し訳ありません。

さて、ご自身および一般化が可能なフォリナーについて、でしたらお答えできますね。
私は海外に長期滞在したことはありますが、居住するというほど長い期間、海外で生活した経験はありません。まぁそれでも、数ヶ月に及ぶ滞在ならしている、という説明にはなるでしょう。(ちなみに英国、フランス、そして中国です)
内的に答えるなら、ニンゲン、あらゆる事象に対してなにがしかの不満を持たないことなど出来ないでしょう。また、どんなに耐えるべきことであれ、時折愚痴をこぼすくらいは多めに見るのが人情だ、と私も思っています。
次に、外的に答えるなら、つまりこれは「タテマエ」ですが、一切不満を持たないことは不可能だけれど、彼の地においては自分こそがフォリナーでありストレンジャーであることは常に念頭に置くべきだ、と思います。これは海外であろうが内地であろうが同じことではないでしょうか。

また、もし仮に、そのひとが彼の地において永住するだとか、住民として地域社会に積極的に参加し、時にはその地域に対する影響力さえ発揮しようと云う「権利と義務」を志として担うのであれば、不満があればそれを改善すべく行動すればよろしいし、相応の社会参加をすれば良いのではないか?と思います。不満があり、社会への(とても大きな意味で)参加もせずに文句だけ云うということでないのであれば、いちいち尻尾を巻くことはないでしょう。さらに、積極的に孤立する、という戦略もアリだと思います。

253ちょちょんまげ:2008/01/30(水) 07:11:05 ID:vUxNW.gI
AH1さん

すんません、正直、私もうまく考えがまとまらないのです。

実は中学生ぐらいの時に、「エホバの証人」の訪問を受けたことがあり、生意気で理屈っぽかった私は相手を叩きのめしてやるつもりで玄関口で議論を始めた記憶があります。
その際、私は過去のキリスト教国がやってきた罪状やら戦争やら並べ立てたり、アダムとイブからニンゲンが始まったのなら、その後ずっと近親相姦ぢゃないかなどと攻め立てたつもりだったのですが、相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。
「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
その時は結局「興味がないのでお引取りください」、で事なきを得たので、今こうして、立派(?)な無神論者としての私がいるわけですが(笑)。
歴史は繰り返すで、数十年後、同じ質問をくらって「うっ」とつまっている自分がここにいるわけです。中学生から全く進歩していないことが証明されてしまった。

ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。

それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

254AH1:2008/01/30(水) 13:31:05 ID:fKqeZx4M
>相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。

あー,向こうも慣れているでしょうからねえ.
最初の答えは確かに「宗教そのものの罪じゃない」とも言えるでしょうね.キリスト教マンセー!な相手を冷やかすには使えるかもしれませんが.(あるいは「正しい」キリスト教ってのが実現された例はあるんかい?という突っ込みなら可かも)
後者は「だれが言ったんじゃ!」ですなあ(笑)

>「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
確かに「にょほほ〜」ではあります.


>ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

ええ,全くその通りです.恐らく,旅客機でビルに突っ込んではいけませんとか,ネクタイで他人の首を締めるのは危険だとか,包丁は料理に使いましょうとか,そういうのと(広い意味では)同じだと思います.
旅客機はライセンスを持ったパイロットしか運行しないから一応安全,ネクタイや包丁は生活に必須な道具として認知されてるから「なくなっても良い」とは言われないわけです.
バイクは趣味性が高くなるので「あんなもん無くてもいいから乗らせるな」という意見も出て来るし,ナイフに至っては「犯罪者にしか持ち歩く必要がない」に近い扱いを受けたりするわけです(私は登山やなんかで必携なんですが).
アメリカにお住まいでしたら,銃規制がこれに近いでしょうか.銃単体が人を殺すわけではない,しかし,悪用される場合はしょっちゅうあり,その結果も非常に重大である.それでもこの社会に銃が必要か?「必要である」とする派は規制に反対し,「いっそ無い方がいい」派は規制を求めるでしょう(NRAのロビー活動なんかはちょっと置きます).

そういう点を考えると,「宗教」と一括りにされているものが包丁やカッターナイフなのか,登山ナイフなのか,ピストルなのか,そういう見極めがいると思うのです.そして,その「有害性」の判断とは「宗教だから」という括りではなく,「あまりにムチャクチャで,同じ社会として共存できないようなもの」であるかどうかに委ねられると思うのですね.(宗教ないしそれに類するものが人類の文化と抜きがたく関わっているという点は同意頂けると思います・だから今すぐ全て無くなっていい,とは言えないという意見です)
つまり,まさに
>お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。
と仰っている判断そのものであると思います.私がドーキンスの「有害で侵略性の高いものだけを宗教と呼ぶ」という意見に同意できない,としたのはそういう事です.だってお地蔵さんに手をあわせるのだって(少なくとも私の感覚では)宗教がらみには違いないのだもの.排除したいものだけを「宗教」と認定して「宗教はダメだ」と言えば,それはつまり「ダメなものはダメ」という意見になって反論のしようがないのだけれども,それって「ナチスの指導者たちだけをドイツ人と呼ぶことにする.ドイツ人は犯罪者だ」と言ってるように聞こえるわけです.

>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

問いかけておいてなんなんですが,私もいい知恵がありません.どうすれば良いのでしょうねえ・・

255NAN:2008/01/30(水) 23:03:53 ID:???
バイクにせよ、ナイフにせよ、いやいやビニール袋だろうがヒモだろうが、ヒトを殺すことが出来るわけです。ただ、それらの道具は「能動的に」ヒトを殺せません。受動です。おそらくここがポイントなのだ、と私は思います。

ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。そういう議論が起きている最中に、ノコギリによる殺人事件が起きたりする。結局「刃物は全部悪者だ」みたいな論調にさえ、メディアと視聴者が狂っていると走りがちになる。私が危惧するのはそういうことです。

信仰・宗教に対する批判は、信仰・宗教に対する包括的で正しい知識に基づいた議論でなくてはならない。私はそう思います。これは「ナイフの使用法を正しく知ること」と同様です。私ごとき付け焼刃の宗教知識しかない者に「突っ込みどころ満載」に見えてしまうような論調では、お話にもなんにもならないだろう、ということでしょうか。また残念ながら、宗教に対する知識が私には足りません。だからこそきっと、有効な宗教批判が思いつかないのでしょう。

サッカーをやっていた子供時代に、ボールに座ってコーチから怒られたことがありました。神聖なボールを尻で踏むな、というわけです。料理人が包丁を大事にすることも、きっと似たような話でしょう。とても大きな括りをすれば、これらも信仰です。信仰の根本にあるものの、もうひとつの極として「大事にすべきもの」への敬愛があることを、私は疑いません。

さて、本題。
>>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。
もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。たとえばネットの掲示板には、書き込みをしないROMというジャッジがたくさんいます。たまたま「宗教」と検索をかけたひとが、そのソースに辿り着くだけでもいいと思います。

256NORTON3rd:2008/01/31(木) 10:40:09 ID:tQvpJqX6
まじめな議論の最中に、横道への茶々で申し訳ない

>ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。

これ、実際に俺がガキのころにありましてね
当時の社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中、右翼の少年に刺殺されるという衝撃的な事件があったのですが、これを契機に『刃物を持たせない運動』が全国的に広がりました。その中にはご指摘のような『間抜けな議論』では実際になされましてね(国会でまで)・・・

んで、それまで、良い子の筆箱の中には必ずあった鉛筆削り用のペンナイフや切り出し、肥後之守追放され、各教室には鉛筆削り器が備えられるようになりました(刃物業者の中には売れ行き不振で自殺したヒトまでいたらしい)

まさしく『三ない運動』とおなじくお馬鹿な『一般化』の好例ですわ

257AH1:2008/01/31(木) 13:58:53 ID:fKqeZx4M
ガキの時に肥後守や切り出しで木を削る愉しみを覚えて以来,常に「鉛筆削り用に必要」と言い張って肥後守を持ち続けたのですが,教師も親も禁止しないでいてくれた事は幸せだったのだと思います.
とはいえ,田舎だから通ったのも事実.大都市に出て来たらいきなり職質され,ポケットナイフを没収されました(泣)
その辺りで刃物をちらつかせた事件が多発したため,警戒中だったらしい.私なんぞは格好のカモだったんでしょう.

258AH1:2008/01/31(木) 14:13:13 ID:fKqeZx4M
>テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。

より明確には「同じ土俵に上がらない相手」ということで,テーブルについたのに科学や論理学といった共通のコトバを持たない相手・・という事なんですけどね.例えば私とNANさん,ちょちょんまげさん,狡獪と懺悔さんは,意見は異なってもコトバは通じているし,「個人の意志や自由を尊重しよう」という立場も恐らく共通でしょう.
私が議論しようとしても,全く異なる立場,すなわち「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である」「神を知らぬ輩と話などしても得られるものはない」という立場の相手に対しては無力でしょう.しかし,今のところ

>もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。

と考えるしかなさそうです.少なくとも「個人の意志や自由を尊重しよう」と言ってしまった以上,明らかに他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である,と考える自由」も尊重せざるを得ないでしょう.言ってみれば,正義の味方を標榜した以上は卑怯な手は使ってはいけない,というようなジレンマですかね(笑) 
(他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,ってのも一種のコンセンサスにしか過ぎないんだろうけど)

259ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:16:29 ID:vUxNW.gI
下のブログの記事皆さんどう思われますか。ここで話していることとちょっと関連ありそうなんで。
NATROMさんのブログ1月11日付け「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」1月11日付けエントリへのトラックバックなんですけど。
ttp://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
ちょっと抜粋すると:

ここから引用:

そして疑似科学批判は、彼らにとって、
・よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・さらには自分のモノサシ(価値判断基準)まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

引用ここまで

私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。

260ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:32:29 ID:vUxNW.gI
すみません。ちょっと付け足し。

>私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。
そして、それ以上の配慮は基本的に必要ないと思いたがるほうなのです。

261AH1:2008/01/31(木) 14:42:47 ID:fKqeZx4M
疑似科学であるかどうか以前に,
「これは科学である」と称してやって来たものが全然科学でなければ
「おめー,それ科学になってねーじゃん」と批判されましょうし,当然しても良いでしょう.
また,「これは科学であるからして,**であることは科学的に証明されているのだ」と言い出せば
「んなことあるかよ,科学ならちゃんとこういう疑問に答えろやゴルァ」
と言われて当然かと思いますが.

262ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 03:42:24 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?
おぢさんはそこで混乱してまふ。

263diamonds8888x:2008/02/01(金) 06:02:48 ID:4jx.OKmA
259<< そのブログ記事はとっても正確な認識をしてますね。ではどうしたらビリーバーさんの「心に届く」のかという処方箋は、当の執筆者氏も提起していませんし、私にも絶望的に思えます。と、今はこれしか思いつきません。

264NAN:2008/02/01(金) 08:16:56 ID:???
>>262
>批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

二つの点に於いて批判されるべきです。
1:「水伝」という科学を装った疑似科学理論に対する検証という批判
2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

1については「間違いじゃないか!」という指摘、2については「けしからん!」という指摘ですね。

265ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 09:53:51 ID:EBvpLwTs
>NANさん

>2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

これが「水伝」のもともとの提唱者に向けられるのは良くわかるのですが、提唱者でなく提唱者にだまされているあるいは信じたがってる人達には?

266e10go:2008/02/01(金) 12:20:57 ID:5/V6R9W6
>>264
もう一つ付け加えるなら、

3:道徳教育に「水伝」という科学的実験結果を用いる事の批判

3は「人間の心のあり方に科学を持ち込むな!」でしょうね。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html

>>262
上の理由から、「水伝」も、それを肯定的に使う人も非難するべきでしょうね。

267NAN:2008/02/01(金) 13:47:39 ID:???
>>265
そもそもそれが科学でもなんでもなく、表現行為や信仰・信条(心情?)の一種であることを明確に主張できる相手であるのなら、「勝手にすれば?」で私は放置します。しかしそれが、客観的事実に基づく科学である、と主張するのであれば、提唱者であろうがビリーバーであろうが、科学のルールに則った批判に晒されるのは当然です。

ところで実際、ネットの議論であれば簡単に割り切れる話であっても、現実の知人や友人がこういうことを云いだして困ってしまうケースは多々あるでしょう。私自身も経験があります。

その際、これも先に書いたことですが、批判する、あるいは、批判される、というのは「それが科学である」のであれば当然のことであり、どんな理論も常に検証を繰り返し、批判に晒され続けていること、そこで間違いが判明したり理論を却下せざるを得ないことになったとしても、それが倫理的な「善悪」とは無関係であることなどを、相手に伝える段階がかなり難しいものです。

そして次の段階として、間違いであったり再検証不可能であったり、客観的事実とは云いがたい証拠の提出に基づく主張であることが明確になったのであれば、それを受け容れ、修正なり却下なりを「意地でもしない」ことは倫理的に問題であることを説明することになるのでしょう。大半の場合、これら2ステップを完了する前に会話は険悪になり(苦笑)、人間関係としてこじれます。はい、何度も何度もそれでこじれましたとも!(大笑。

だからといって私は曲げませんけどね。

268AH1:2008/02/01(金) 14:27:56 ID:fKqeZx4M
>「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

みなさまのお答えで全て言い尽くされてると思いますが,私からも重ねて.
多分,このような話の流れになると思います.
1 水伝が事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは事実かどうか疑わしいよ?
2 だって水伝は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう怪しい話を鵜のみにして事実であるかのように子供に教えるのはやっぱり問題があるな.道徳を教えるなら他にもっと適当な話を使うべきだ.

マジで信じてる人と話をしているなら,まず1の部分で言い争いになり(向こうは喧嘩売られたと思うだろう),2で決裂ですな.多分.
私が批判するのは,ド阿呆な話を科学であるかのように騙った水伝と,コロっとだまされた「大好きな人」の両方です.「大好きさん」については騙されること自体は本人の勝手ですが,学校の教材云々という所で他人への責任を持っています.また,「水伝は科学的に正しい」という部分に何らかの信頼を置いたのだとしたら,「その理解は科学として間違っている」と情報を正す意味もあります.

269ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:21:28 ID:vUxNW.gI
皆様、物分かりの悪いおやぢに辛抱強くお付き合いくださってありがとです。
それで、もうひとつだけお付き合いくださいませんか。

この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

270ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:24:07 ID:vUxNW.gI
diamonds8888xさん。

ご感想ありがとうございました。
やっぱり「絶望的」なんでしょうか。う〜む。

271AH1:2008/02/01(金) 16:48:12 ID:fKqeZx4M
水伝を「ペケ教」にしてみます.なお,水伝は最初から科学を謳っていましたが,今回は明確にするため「科学的に」などの補足を「」して若干入れています

1 ペケ教が「科学的にも」事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは「科学的な」事実かどうか疑わしいよ?
2 だってペケ教は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう「科学的には」怪しい話を「科学的に正しいから素晴らしいのだと」鵜のみにして「科学的にも事実であるかのように人に教えたり,「まして科学として教える」のは問題があるな.宗教ってそんな物じゃないんじゃないの?

となりましょうか.

272NAN:2008/02/01(金) 22:39:19 ID:???
>>269
この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

あの〜、自然科学の常識に反する内容を経典に含んでいるからと云って、すぐさまそれが疑似科学に繋がるとは思いませんけど?
なにかやはりとても失礼な疑義に感じてしまうんだよね。(無論、文脈から云って宗教的疑似科学のことを指しているのだろう、ということは参加者である私には察しがつくけれど)

ベースにあるものが宗教であろうとなんであろうと、科学を装い、証拠や実証を捏造したり、ただの迷信に過ぎないのにそれが事実だという強弁を振るうような行為が批判の対象とならないわけがありません。終末予言や末世〜来世信仰も然り。不可知であるはずの事象を可知であると断言してはばからず、なおかつ他者の危機感を煽るような扇動を批判することは積極的に行うべきでしょう。

ところで、そういう迷信に騙され、転びやすいヒトの体質が「日進月歩の科学技術」の中に生きる現代人の中でも、改善されるどころかさっぱり変化がないように見える原因はなんだろうね?それもまさか宗教のせい?そりゃぁ違うよね。もっと日常的で(この日本に於いてでさえ)誰でも触れていてほとんど空気のように存在感はないけれど確かにある「なにか」について、大半のヒトが考えようとしないからじゃないかな。

273:2008/02/02(土) 09:46:18 ID:QpQGFxc6
>テーブルにつかない相手………、

「テーブルにつかない相手」を「相手」にするのは、実際なかなか難しいでしょう。
ドーキンスも「神は妄想か」の中で、「宗教的な読者が、本を閉じるときには無神論者になっているだろう」と言う予想を「なんと言うあつかましくもずうずうしい楽天主義か!」と自嘲?しています(16ページ)。
非科学的ビリーバーやその「教祖様」には、時に「おたっしゃでー」と言うしかないと私も思います。

問題は結局、国民(…と言うか、特に国境を考えなくてもいいのですが)の科学的意識の問題になるんじゃないかと、私は思うんですよね。
ビリーバーをテーブルに付かせて、仮に批判し説得できたとしても、或いは犯罪になって取り締まっても、もぐら叩きみたいに次から次ですからね。
水伝に限らず、霊感商法、集団結婚、オウム、近いところではスピリチュアル等など。或いは振り込め詐欺も。
結局国民の問題意識、批判意識、要するに考える力を高めることが、疑似科学や霊感商法などの存在基盤を塞ぐことになると思う次第です。遠回りのようだけれどもこれしかないと言うか。

その点で、細木数子だの江原啓之だの、提灯持ちをしているマスコミは特に罪が深いと思う訳です。
そして、その批判を躊躇させたり傍観させたり、或いはマスコミ側が自分の破廉恥な行為を正当化する要因として、NOMA的な不可知論が少なからず「貢献」しているのではないか、と、No-218で述べたのですが。

「重複しない」と言う形で、科学とそれ以外の「教導権」を、明確に線引きしてしまえば、それ以上は考えてもムダ、考える必要なしということになりかねません。
ダーウィンは『種の起源』の中で、自分に未だ分かっていないこと、説明が付かないことを、隠さず誠実に列挙しています。「不可知」でなく「未知」として。
未知は科学の進歩によって既知に置き換わって行きます。ダーウィンのかっての未知は今、相当の部分が既知になっています。

しかし一旦不可知としてしまうと、そこから先の探求の道を塞ぎかねません。これは不可知論一般の弊害として言われていることです。不可知とは「知ることは出来ない」と言うことですから。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の世界と紙一重になってしまう訳です。
不可知論は普通、科学的知識に迫られての、非科学陣営の恐れとして表明されることが多いものです。よりによってグールドがNOMAなどと言う不可知論を主張することに、同じ進化生物学陣営のドーキンスは我慢がならなかったのでしょう。

横道にそれちゃいましたが、考える力を養うと言う点で特に日本では、科学の「基礎と連関」を大事にしない教育も問題有りと思っています。
おかげで日本人はどんどん「理科離れ」をし、考える力も低下しているそうですから。

うがった言い方をすれば、国民があまり考えないほうが政治はやりやすい。
昔「3S」などと言われたことが有って、スポーツ、セックス、スクリーンに国民の目を向けさせておけば、政治は安泰と言うことでした(勿論その一つひとつのSに何の罪も無い訳ですが)。
今、その3つは何なんでしょうね。

疑似科学や「霊能者」であっても、行政的な権力で規制することには問題が有るでしょう。
しかし理性レベルでの科学的な批判は必要です。少なくとも科学に携わっている方々は、No-260のちょちょんまげさんの言われるように、疑似科学への批判に二の足を踏まないで頂きたいものだと思います。

274ちょちょんまげ:2008/02/03(日) 07:36:15 ID:vUxNW.gI
「水伝」のタイプ 提唱者への    「水伝」そのものへの  ビリーバータイプ1    ビリーバータイプ2 「道徳」に採用した学校
   ↓         科学からの批判   科学からの批判                            関係者への批判
                 ↓        ↓            ↓           ↓          ↓             

タイプ1:「科学」を標榜 「ゴルァ」    「ゴルァ」      提唱者の言い分通り    よいお話だからと    「ゴルァ」
                                   「科学」を主張     飛びつく。科学か
                                        ↓      どうかなぞど〜でも
                                   科学からの批判    よい。なんも考えてまへん。
                                     「ゴルァ」          ↓  
                                                  科学からの批判  
                                                   「ゴルァ」    
タイプ2:「科学」であるとは   「ゴルァ」?   「ゴルァ」?   提唱者の言い分通り                「ゴルァ」
     主張しないが、                       科学だとはいわないが
     そういうことがある                     そういうことが無いとは      上と同じ
     と主張。現在のタイプ                    科学では断定できない     違う前提は提唱者
     がこれに近いか。                       と主張。           が科学だとははっきり
                                        ↓          言っていないこと。
                                      科学からの批判            ↓
                                       「ゴルァ」?         科学からの批判
                                                      「ゴルァ」?


タイプ3:上のタイプが       「信仰」だから 「信仰」だから  「信仰」であると主張    上と同じ        こういう宗教
     「水伝教」なる      「放置プレイ」 「放置プレイ」    ↓           違う前提は提唱者が   もあるという
     宗教だと言い出した。                      「信仰」だから     信仰」だと言ってること。紹介の仕方なら
     結晶の現象は奇跡である。                   「放置プレイ」          ↓       「放置プレイ」
     非信仰者が実験すると                                 「信仰」だから「放置プレイ」 
     結果はランダムになると
     主張。



お願いだから投稿した時にずれないでおくんなまし。
まとめると上記のような感じになるのでしょうか。「?」の部分はご意見をうかがいたいです。
ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

275NAN:2008/02/03(日) 09:46:45 ID:???
>>274
私の主張とはちょいと違うかな。
『科学とは云わないが、そういうことがないとは科学では断定できないと主張』という文節は、とても曖昧で焦点をぼかしているように見えなくもないですが、科学ではないのであればなんなのだ?科学では断定できないのであれば、なにが断定するのだ?という疑問を生むことになります。つまり主張に欠陥があります。

明確に、それが「願望」であり、一種の信仰であると主張するのであれば「そりゃまた変わったお願いなんですね」で私は放置するでしょう。しかし「今現在の科学水準および技術では証明されていないが、将来的にそうした客観的事実が見つかるかも知れないじゃないか」という主張は、まさに科学的な問いかけですので、科学議論の議題になります。

「いただきます」と手を合わせたり、「ありがとう」と声を掛けることで気分が良くなるでしょ!みたいなのを科学的に批判するのはナンセンスですよね。でも、いただきます、と声を掛けると、米や味噌の「物質としての変質」が起こるかも知れないというのは、いくらでも批判することができますね。

276diamonds8888x:2008/02/04(月) 06:01:29 ID:jcR/Lf4.
 恥ずかしながらNOMAというのが何かわかりませんで、グーグルで検索しましたら、まじめな宗教団体とまじめな経営学団体なぞがヒットしまして・・・。
 ようやく正解にたどりつきました(~_~)

ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071129

この人もドーキンス本の書評を書いていますね。
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061201
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061215
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/archive?word=Delusion

277NAN:2008/02/04(月) 09:33:54 ID:???
>>276で紹介された書評を順に読んでみたのですが、とても丁寧かつ冷静に(ご自身が宗教&哲学リテラシーに乏しいことを告白しながら)読解を原書から書かれており、秀逸だな、と感じました。

さて、事前にわかっていたことですが、問題は「宗教」ではなく「キリスト教と、その鏡となってしまったイスラム」のようです。私はさらに、経済的繁栄度とキリスト教信者との相関や、石油利権に絡んだ中東対英米の構図の中で、二大宗教の間に何が起きたのか?(これはまさに中東危機というかテロリズムというか、そういう暴力と悲劇の根源ではないか?と思うのだけど)みたいなことに興味が沸きます。また、宗教議論の一般化には強い懸念を(さらに)深めましたが、米国のバカっぷり、バカをバカと批判できないどうしようもなさについては、「もう本当にああいうバカな国を相手にするの、やめれば?」と思う次第です。(てかそれもバカな一般化なんだけどね)

「なぜキリスト教なんだ?」それは、利権だからだ、との考えも(私の中で)さらに強まります。
それはつまり支配(あるいは侵略)構造であり、なにかに忠誠してくれた方が統制し易いという単純な理由なのだろう。

278diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:36:50 ID:jcR/Lf4.
雄さん218の以下を読んで思いついてしまいました。

> 「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、
>浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、
>教義と信者の頭の中にしか存在しません。

 多くの宗教にとってみたら、科学なんぞとの折り合いよりも、経済や政治との折り合いの方が深刻で実際的な難問であることが多かったのではないでしょうか?

277でNANさんの書いている宗教の混迷も、誠治との折り合いの問題という気がしますね。さりながら、古来より宗教と政治とは分かちがたく結びついていたことも事実です。

279diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:41:54 ID:jcR/Lf4.
 地下に眠るMさんの233,237の質問を考えて見ましたが、「愛」「妖精」とはどんなものをイメージしているのかが結構多様な可能性がありますので、どのイメージを想定するかで違ってきそうですね。質問1に対する私の回答と共に示します。

 a)愛というなにかしら物体的実在物 −>No
 b)人が何かを愛するという現象 −>Yes
 c)人が何かを愛するという心 −>Yes
 d)愛というなにかしら形而上学的もの −>No

 dはそもそも形而上学的なものとは自然科学的な意味では存在しないものでしょうから、いうまでもないかも知れません。
 b,cなら、人でなくても動物の一部にも存在しますし、その進化論的起源を考察することも可能です。おっと、「心というなにかしら物体的実在物」の実在をYesとは言いませんよ。
 aは、現在の科学の知見からはトンデモに近いのですが、本当はdだけどイメージとしてa、ということもあるのかも知れませんね。そのへんはよくわかりません。

 で、aは一般論としては自然科学における仮説となりえます。有名なのは燃焼におけるフロギストン説(燃素説)です。燃焼という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、燃素という物質的実在物の存在を提唱したのです。
 人が愛を抱くのは、アモールの金の矢がハートに刺さっているからだ、という仮説は、愛という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、なにかしら物体的実在物を仮定していることになりますね。(キューピッドの方がポピュラーだけど、アモールの方が「愛っ!!」という印象が強いから)
 生命という現象を説明するために生気や生命力を仮定するとか、意識という現象を説明するのに、なにかしら物質的実在物としての魂や脳の中の小人を仮定するとかも、似たような仮説ですね。いずれも反証可能であり、科学の遡上に載せられる仮説といってよいでしょう。
 物体が互いに引き合うという現象に重力場という実在物を仮定するのも、これと似ているかも知れません。

 さて「妖精」の場合は、はじめから、なにかしら物体的実在物イメージであるといって良いと思います。とすると、この場合にありうる意味は、私の想像力の範囲では次のようなものが考えられます。再び、これらが自然科学的な意味で存在すると思うかどうかについての、私の答えと共に示します。
 a)通常の物体と同じく、客観的な実在物 −>No、ただし妖精の定義による
 b)特定の人間にしか感知できない実在物 −>No、ただし感知の定義による
 c)妖精を見たと主張する人が存在するという事実 −>Yes

 aの場合、妖精がどんなものかを描写してもらえれば、それが客観的な実在物として存在するかどうかは自然科学の土俵に乗ります。それは、雪男やネッシーやツチノコと同じことです。調査の結果、実は新種の生物だったと判明するかも知れません。

 bの場合、感知というのが通常の五感という意味であれば、「特定の人間だけが妖精を感知するという現象」は自然科学の土俵に乗ります。それは「同じ状況で特定の人間だけが痛みを感じるという現象」とか「ある周波数の音を聞かせたら、特定の人間だけが反応したという現象」などと同じです。ただ、その人が意識的、無意識的に嘘をついている可能性も考慮しなくてはいけないのがつらいのですが。
 もっと広義に、ともかく特定の人間には妖精の存在がありありと感知できる(でもそれは結局、その人が五感で検知したと感じた、ということになりますよね)ということであっても、嘘でない限りは自然科学の土俵に乗ります。これはもうcの場合に近いかな。
 いや社会科学や民族学の領域だという話も出るかも知れませんが、私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

280diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:58:27 ID:jcR/Lf4.
 「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・。

 雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか?

281地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:41:28 ID:MxpO/apg
あいかわらずだらだらと遅れてすまにゃーこってす(ぺこり

>カクレクマノミ

>>222

>>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

>同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

にゃっはっはっは(ぽりぽり
僕は精神年齢が低いので、一応、言い返しておくにゃ。
例えば「水からの伝言」を批判するのにあたって、当該著書を丁寧に読まなければ適切な批判ができにゃーと考える必要があるとは思えにゃーんだけど、どう? あれ、どうみたって明らかに馬鹿本だもんにゃ。「神は妄想である」は「水からの伝言」とたいしてレベルの違わにゃー本なので、僕の言動にそう問題があるとは思えにゃーのだが。実際に読んでみたら、思っていたよりもヒデエものでしたにゃ。
ま、ヒデエ本というものはたいてい「思っていたよりヒデエ」ものにゃんがな。


>>249

>>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

>この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
>どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

「流通」というところにポイントがありますにゃ。

>以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?

自然科学;動物行動学、動物心理学、行動主義心理学
人文・社会科学;経済学、行動経済学
学際分野;進化心理学、心理学
基礎論;認知科学

基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考えを採用しますにゃ。
ニンゲンの行動というものは、自然科学的に見ても実在する現象であり、社会的に実在(流通)する現象であり、内的な心的現実としても実在するので、それぞれの学問によるアプローチがありえるということにゃんね。

282地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:42:18 ID:MxpO/apg
さて、ドーキンスがフロシキを広げすぎていることはカクレクマノミにもご同意いただけたようですにゃ。
いわば「不誠実なフロシキの広げ方」が「神は妄想である」の一番の問題点なんだけど、そこをつつき始めてみますかにゃ。

まずドーキンスは神というものは事実とされているのだから自然科学的な仮説だといっているけど、この前提が白痴的。この前提で「超越的」なものを否定できると思っているとしたら本当にアタマがワリイ。
もちろん、聖書は自然科学的な意味で事実だと思っているメリケンの馬鹿クリに対しては有効な論点であることは間違いありませんけどにゃ。例えば、あるアボリジニは自分たちの部族の伝誦する創世神話について「そのまんま事実だなんて思ってない」と発言しているにゃ(出典忘れた)。聖アウグスティヌスも聖書の逐語解釈を問答無用でダメだししているし、古代ギリシアの賢人がエジプト神話について逐語解釈はアホの所業だといっている記述もあったっけ。もちろん、江戸時代の国学者に日本の創世神話が事実そのものであったかと聞いたら「はあ? 君はアホかね?」という返答となることは受けあってもいいにゃ。

自然科学的仮説としての神、なんてものを主張する馬鹿クリは歴史的に見ても地理的に見ても、アホ中のアホなのだにゃ。アボリジニやインディオなどに比べるのも申し訳にゃーほど知能程度が低いウルトラ馬鹿軍団。
無論、何度も何度も書いているけれど、そのようなアホが政治的に幅を利かせている事実は困ったものだにゃ。アホに対する対抗言説は必要にゃんな。
しかしさ、アホへの対抗言説を一般化するってのはどうなんだろね? この一般化の過程において、ドーキンスはずいぶんと不誠実なことをしているにゃ。

例えばユングへの言及にゃんな。日本版79〜80P。
ユングは「私は神の存在を知っている」と述べたことは事実。しかし、その神は自然科学的な仮説としての神などでは断じてにゃー。ユングの知っている神は、いわば心的現実としての神だにゃ。
自然科学的仮説としての神、などという白痴対抗フィールドを設定し、そのフィールドに心的現実としての神を想定した論者(ユング)をひっぱりあげた揚げ句に「ユングのように、信じるべき適切な理由がなくとも信念を持ち続けることができるのが信仰の本質である(ユングは本棚の中の本が突然大きな音を立てて爆発することがある、と信じていた)。」などと書く卑劣。(ついでにいうと、ユングはシンクロニシティの具体例としてナイフの爆発的破断をあげているけれど、これはユング自身が体験したものであり「信じて」いたものではにゃー。この記述は捏造の疑いが濃い)

つまり、ドーキンスは神概念を恣意的に使い分けて他者を批判するという真似をしているにゃ。

神概念の恣意的使い分けの他の例として、「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由」なんかも看板に偽りありだよにゃ。
確かに、自然淘汰によって複雑な生物が進化しえたということの証明にはなっているけれど、この論法で否定できるのは聖書逐語解釈による神概念だけだろ? 少なくとも理神論の神には傷一つつけることはできにゃーはず。進化を否定してにゃー教義に対してはまったく無意味だしにゃ。「創造論者の言う神がほとんど存在しない理由」とするならわかるんだけどにゃ。
ところがドーキンスは理神論的な噛みも否定すると以前の章ではっきりといっているにゃ。超越的存在を想定するすべての考え方を否定すると。
この理屈で超越的存在一般が否定されるなんて考えは、ほぼ創造論者並に白痴的な考えだにゃ。

宗教全般、超越的存在を想定した考え全般を否定すると威勢のいいことをいいながら、中身としてはアホへの対抗言説という特殊なものをもって恣意的で卑劣な一般化を行う白痴本、というのが「神は妄想である」への適切な評ではにゃーだろうか。

さて、次回はさらに卑劣で白痴的な一般化について踏み込んでみますにゃ。

283ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 11:23:38 ID:vUxNW.gI
>猫さん

一つ質問があるのですが、「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

284AH1:2008/02/05(火) 12:15:09 ID:fKqeZx4M
>>274

>ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

一つは本人がどの程度関わっているかという点じゃないでしょうか.主犯か従犯か,みたいな(いや,言葉が非常に悪いのは承知しています).その関わり方において「同じにゃ扱えないなあ」と思うか,「ンなもん,同罪同罪」と思うか,その辺の判断というか酌量の違いでは.

もう一つは「科学ではわからないが」という「仮説の確かさに対する理解および誠実さ」じゃないでしょうか.科学をちゃんとわかって,でも「そういうこともあるのかもしれないねえ」と考えるか,「そういうことってあるんだ」が先にたって「科学?・・・(ちょっと困ってる)・・・科学って完全じゃないでしょう?」と来るか.
ちょちょんまげさんが想定しておられる(というか,実際に遭遇されたのかな)タイプ2ビリーバーさんはほとんど後者なんでしょうけれど・・

285ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 12:26:46 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「後者」ですよね、ほとんど。うちのツレアイとか(笑)私がうるさいんで少々変わってきましたけど。
それで、「水伝教」はやっぱり放置が正解だと思われますか?

286AH1:2008/02/05(火) 13:19:50 ID:fKqeZx4M
「現在の科学としては考えられない」というのが一点ですね.
もちろん科学の進歩とは「あり得ないはずのことの発見」に他ならないので,「現在の科学では考えられないことの存在」を否定はしません.
しかしながら,「科学者は自分の見たものですら疑う」という鉄則があります.科学の誠実さはそこにあるわけです.
だからこそ,何かの間違いや偶然ではない事を確認するために条件を整え,あれこれ実験をし,統計計算をやり,ディスカッションし,論文を投稿すれば査読があり,それでやっと「単なる妄想ではない仮説として認めてもらえる」レベルなわけです.その後でさらに追試され,整合性や再現性が確かめられて「なるほど正しいようだ」と認めてもらえる.
その誠実さや厳しさを,「水伝」には感じることができない.私はそのようなものを科学と呼ぶことを拒否します.
水伝を「科学的な意味で『実際に観察された事』だと思って」信を置いている人がいれば,上のように言います.

287ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 13:34:51 ID:vUxNW.gI

>AH1さん
ん?「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。
こういう場合は信仰だから放置が正解なのかな、と。
私は批判したくなっちゃうのですが。

288NAN:2008/02/05(火) 13:57:43 ID:???
>>287
それは批判なのか、干渉なのか?がポイントだろうねぇ。
つまり、わざわざ相手のテリトリーに乗り込んで否定的言説を述べたりしないけれど、布教に来たとか友人や知人から相談を受けたなんて場合は徹底的に批判する、という感じかな。あと、表現活動の一環として自分のサイトとか作文の中で、水伝教を批判するってのはやるかも知れないなぁ。

289AH1:2008/02/05(火) 15:11:19 ID:fKqeZx4M
>「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
>その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。

ああ、なるほど。そうですねえ、私なら放置ですね。信じこんで「素晴らしい!」と言い出す友人でもいれば、「ありゃ科学っぽく見せてるだけにすぎないし、『美しい』の定義からしてサギみたいなもんだが、それでもいいか?」くらいは言うでしょう。科学だとか客観性・再現性のある事だとか言い出したらぶっ叩くと思います。

「非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまう」は「客観的な検証ができない事象」として扱うべきかと思います。観測者効果みたいなものではないかと。(例えば『霊は見える人にしか見えない』なんてのもこれに近いし、本当にそうである可能性をどうしても否定はできない)
それがわかってて利用してるなら、実に狡猾ではあります。

290地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:24:49 ID:cizMQ0FI
>>233 >>237の僕のへたくそなクイズにお答えくださった方々にお礼申し上げますにゃ。

diamonds8888xの緻密な答えは面白かったにゃ。
>私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

学際的な分野は確かにいくらでもあるけど、典型的な人文科学とか社会科学もやっぱりあるのではにゃーかと。人間社会に現実に存在する「価値」についての研究なんて自然科学には向かにゃーだろし。


僕がいいたかったのは、ある妄想の対象が自然科学的な意味で存在していると信じていようが信じていなかろうが、そのことと社会・人文系研究の学問的価値は基本的には分離しているということですにゃ。

例えば
>>237、3)C)の「ある特定の妄想」の持ち主として「イヴァン・カラマーゾフが実在の人物であると信じてしまっているけど、それ以外はいたってまともなドストエフスキー研究者」なんかを想定していただけますかにゃ。ある小説の主人公が実在していると信じちゃっているからといって、その研究者のしていることがダメになるということはにゃーわけだ。むしろ、面白いものを書いてくれることが期待できそうにゃんね、この設定なら。

もともとはドーキンスが「妖精学」と同様に「神学」が学問として成り立たないとかいうアタマのワリイ難癖をつけてきたことをとりあげただけですけどにゃ。イヴァン・カラマーゾフの実在を信じるドストエフスキー研究者のしていることを学問とみなすことのできる常識的な判断力の持ち主ならば、神学に対するドーキンスの難癖が意味のにゃーものであることはわかるだろにゃ。
まあ、ある特定の信念や世界観(ここでは自然科学的な意味で存在しているかどうかという判断)が、自然科学以外の分野における学問の判断基準となるというドーキンス先生の科学主義は唾棄唾棄唾棄で却下にゃんな。

291地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:23 ID:cizMQ0FI
ついでに
>>225 >雄

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>>特に 雄 の病状がヒデエ。

>骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。

>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。


>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー


そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。
僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど、例えばウィキペディアの「物自体」の記述を読んで「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」と思うヒトはいにゃーと思う。
ちなみに日本大百科の「物自体」の項のまとめ部分を引用すると
>物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であったともいえる。

また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。ソーカルもどっかでそんなこと書いていたにゃ。

292地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:45 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ
>>283

>「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

「すべてのものの90%は屑である」スタージョンの法則
ゆえに、クリスチャンもクリスチャニティも90%は屑。
しかし、ほとんどが屑であるという事実は、すべてが屑であるという推論を正当化できにゃー。

馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。
ドーキンスは党派的思考でガチガチだろね。

実際問題として、まともな宗派とか会派はあるんではにゃーかと思う。
メリケンの場合、反公権力・反国家権力の拠点として教会を中心とした共同体があったという事情も本来はあったのではにゃーかと思ったりもするのですにゃ。政教分離あるいは宗教と法の分離というのは、宗教保護のためという側面がたしかにあるはずなんだけど、そのあたりがマニュアル馬鹿にはわかんにゃーしね。
メリケンの国はいろいろとねじくれていてオモチロイよね。


それと
水伝が宗教を名乗ったらラッキーだろ?
理科教育現場から完全に駆逐できるじゃにゃーか。
教義としては面白みがまったくにゃー3流宗教にゃんな。

293地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:04:28 ID:MxpO/apg
では、ドーキンスの程度の低い詐術をさらに指摘しますにゃ。

第2章 神がいるという仮説 NOMA P95
>この非干渉を貫くNOMA神は、確かにアブラハム神ほど暴力的でなく、がさつでもないが、こういうタイプの神の有無でさえ、公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う。

はあ?
グールドのいうNOMA原理の前提は、宗教は事実の領域に踏み込むべきではない(神は科学的仮説ではない)というものじゃなかったのかにゃ? もちろん、本当に両者を切り分けられるのかという批判があってももっともではあるけれど、ドーキンスはしかるべき手順をふむことなしにいきなり「公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う」とちっとも公明正大でにゃーことをいっているにゃ。

ドーキンスには事実の分野(科学の分野)において神を否定する論理を宗教にそのまま適用する悪しき科学主義の論理を振り回すしかにゃーので、必然的にこういう馬鹿理屈になると考えられますにゃ。ユングを否定した知的詐術と同じ論法だにゃ。
事実の領域における論難を、そのまま価値の領域に適用して宗教を否定するというのが、「神は妄想である」の基本論法だといえるでしょうにゃ。



第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか より
>穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している P443
>「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義者を差し招いているのである P448

ドーキンスは心底から侮蔑に値すると確信した1節だにゃ。

これまでドーキンスは超越的存在を肯定する思考すべてを否定すると大見えをきり、しかしやってきたことはメリケンの馬鹿クリ対抗言説でしたにゃ。メリケンのクリは馬鹿が多いって? 宗教が不当に優遇されてるって? はいはい、お説ごもっとも。しかしドーキンスから、馬鹿宗教批判から宗教一般を否定するところにつなげるロジックは聞いていなかったにゃ。
で、これだってさ・・・・・・・。なに、これ・・・・・・。

「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」だあ?
てめーはどこの3ない運動だ? どこの行かれPTAのエロ本禁止運動だ? どこの国防婦人会だ?

この理屈が通用するのなら
「開明的・進歩的な科学者集団でさえ、それ自身には軍事にかかわりなくとも、産軍複合体に協力していることになるのだ」
とか
「本人が例え疑似科学批判に注力していようとも、科学にかかわるというだけで科学主義を助長し、疑似科学を生み出しているのである」
とかいったたぐいの
「資本主義」だの「環境破壊」だの、その他諸々の政治的仮想敵をジッパヒトカラゲにまとめて否定する粗雑で粗くて馬鹿で白痴的でアホ相対主義的で最悪の意味で政治的なガキの決めつけ理屈はすべてオッケーにゃんな。

忘れてはならにゃーのだが、進化論裁判において科学者・教育者だけでなく「まともな」宗教者も創造論を理科で教えることに反対したという事実もグールドがNOMA原理を打ち出した理由のひとつにゃんね。で、NOMAを否定するドーキンスの出してきた中二病理屈は、誠実で知的でまともな信仰者、創造論を理科で教えることにはっきり反対した宗教者も「過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」から責任があるんだってよー。現代日本で言うと、馬鹿マスコミに躍らされたお歴々の医者や教師叩きみたいにゃんなあ(げらげら


ではまとめるにゃ
1)自然科学仮説としての神、という人類史的にみても馬鹿理屈への対抗言説がこの本の内容の大半。
2)ところが、自然科学仮説としての神という神概念をもってない者(ユング、グールド)を自分の措定したフィールドで批判しているなどの不当な言説。妖精学への嘲笑もこの関連。
3)自分が批判する対象についての明らかな無知と侮蔑
4)創造論的な神がいなくても進化は成り立つという言明が、直接的にすべての超越的存在を否定することになるという、それこそ超越した論法。
5)「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」ので穏健で誠実な宗教も否定するという、3ない運動というか国防婦人会というか、その程度のレベルの言明に支えられた超越的ロジック。

結論;「神は妄想である」は知性も誠実さもみられない白痴的駄本。

「神は妄想である」についてはだいたいこんなところにしておきますにゃ。細かいところをいえばまだまだいくらでもいえるにゃんが。
このあたりについては、ブログつくってそこにまとめるつもりですにゃ。

294地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:49:11 ID:MxpO/apg
さて、とっても悪趣味な僕としては、雄クンの>>225
>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
この科学の定義をビール飲みながら考えてみたいにゃ。

雄クンによると、以下の発言を行うことは科学になるにゃんね
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ

うにゃ、雄ダイセンセイの科学の定義は僕なんかには計り知れにゃー深遠なものですにゃ。


そういえば、雄ダイセンセイはドーキンスの「3ない運動 もしくは国防婦人会」的批判と同様のロジックを>>218 >>273あたりでご開陳なされているようですにゃ。

あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、事実言明と価値言明の分離という欧米インテリの言論における作法をベースとしているのではにゃーかな? 対するドーキンスは明らかに事実一元論に近い立場にゃんな。ちゅうか、事実一元論に基づく詐術を行っているし。

295:2008/02/06(水) 07:21:33 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏
楽しく読ませて頂きました。

>>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

>空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。

仰っていることが分かりません。私はただ………、
>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。


>そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。

私は、No-225で、地下猫氏が引用されたフレーズに先立って「カントについても、その汲むべき内容が多い中で、………」と書いています。

読んでお分かりの通りカントを全否定している訳では有りません。特に「批判前期」と呼ばれる時期のカントは、有名な「カント・ラプラスの星雲説」を提唱するなど、後の弁証法的宇宙論に繋がる重要な業績を挙げています。ここで問題にしたのは「物自体」です。
何でもそうですが、新しい知見・業績と言うものは、それに先立つ先人のそれを土台に、批判的構築されるもので、カントもヘーゲルも観念論者だからと言って、私は一概に否定はしません。今の高みに立ってこき下ろすことは、そもそも私の本意では有りません。

そしてNo-230での、kaさんへのコメントの中にも「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので………」として、あくまでも私の個人的な見解表明であることを断って有ります。
「現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね」と付け加えながらね。地下猫氏のご批判はとっくに織り込み済みです。

その上で、あえて言わせて貰えば………、
「創造論」は進化生物学を中心とする自然科学陣営からは、完膚なきまでに論駁されて、自然科学的には決着が付いていると私は思っています。
しかし実際には多くの人たちの間で、創造論は生き残り、事実とされ、「省みられ」続けています。
同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

ただまあ、一言苦言を呈させて頂ければ………、
>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

>また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。

私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

296:2008/02/06(水) 07:24:32 ID:QpQGFxc6
続きます。

>>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

>ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー

一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。

なお地下猫氏の設問自体余りに漠然としているのですが、私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。

>>237;
>「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?(地下猫氏の設問)
>1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない(ご本人の答えの一部)


「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

類人猿のオス・メスの間に「愛」の感情が有るかどうか、難しい問題ですが、ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です。チンプやボノボ、ゴリラ、オランウータン、全てそれぞれ配偶システムが異なり、ヒトはヒト特有な配偶システムを発達させて来ているからです。
その理解に、適応上の淘汰を含め、進化生物学の知見が関与できない筈は有りません。

文化人類学のジョージ・マードックによる有名な統計が有ります。世界中の849の民族社会を調べての結論として、ヒトの配偶システムは全体として、ゆるやかな一夫多妻を含めて基本的には一夫一妻だと言うことです。
これは体の大きさの性的二型からも概ね裏付けられます。

それに対し、ヒトのオスの精巣はチンパンジーに次いで巨大です。
チンパンジー、特にボノボは猛烈な乱婚で殆ど挨拶代わりにSexをするようです。必ずしもオス・メス間の交尾だけではないのですが、チンプやボノボの巨大な精巣は、この乱婚による精子間競争に対応して発達したものです。
ハーレムを作るゴリラのオスでは、精巣の大きさはチンプの5分の1に過ぎません。

ヒトの進化の過程で、チンプのような乱婚の時代が有ったとは考えられないことから、ヒトの精巣の巨大さは、おそらく結構頻繁に婚外交尾、つまり浮気が有っただろうことを推測させます。
ヒトのメスに発情期が無くなり、当のメス本人にさえ判らない程に排卵時期が隠されることになった理由が、婚外交尾に関係しての「子殺し」防止では無いかと言う説も有ります。

ヒトは直立二足歩行により、メスの難産を招きました。
又、脳の巨大化によりますます難産の傾向が強まり、結果的に生理的な早産を発達させました。その為ヒトの新生児はあまりにも無力で、ヒトの基本である直立二足歩行さえ、およそ生後10ヶ月を要する程になっています。更にその後も長い間の養育が必要です。

こう言う状況下で、他の哺乳類のようにメスだけの子育ては不可能となって来ました。
オスに取ってもメスに協力して、一緒に子育てに励む行動を発達させた個体が、結局は多く子供を残したのでしょう。
更にはその絆を強くする為、お互いの「愛」を発達させた個体同士が、厳しい環境下でより多くの子供を残し、その形質がヒトと言う群れに広がってきたのでしょう。
その合間に適当に浮気を挟みながら。

こう言った進化上の要因が、人間の「愛」の考察にどうして関係しないと言えるのか。
そもそもヒトの配偶システムが、ゴリラのようにハーレムを形成するもので有ったら、或いはボノボのように猛烈な乱婚であったら、オス、メス共に今の人間の「愛」の形は、ガラリと変わったものになっていたでしょう。
愛は確かに精神的なものですが、その形成の基礎に人間の進化の過程が反映されていることは、およそ常識と言えるでしょう。

297:2008/02/06(水) 07:25:29 ID:QpQGFxc6
さらに続きます。

或いは社会的な影響も有ります。
江戸時代、近松の浄瑠璃などで心中物が大当たりをしました。これは封建制の中で、身分の違いによる男女の結婚が厳しく制約されたことが背景に有ります。
武士と農民の間で結婚したら、その子供はどちらの階級に属するか、と言う深刻な問題が絡みます。そんなことを何回かやっていたら、身分制度などたちまち崩壊するでしょう。
その制約の中で男女は、心中をする主人公に自分の心を重ねたのでしょう。

こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

ここで述べたことは、ホンの一部です。
直接「愛」の感情を司っている脳の機能には触れていません。これも当然考慮されるべきでしょう。

私は精神的な「愛」も、或いは「神」と言う観念的な産物も、その寄って立つ現実的な基盤があり、当然自然科学、社会科学の対象になり得ると思うし、その意味で「私が想定している『科学』は、地下猫氏が定義する『科学』よりも広い意味で捉えています。」と言っている訳です。

それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。


>>294
>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

298NAN:2008/02/06(水) 09:20:23 ID:???
>>雄氏

>>233 >>234については?

299NAN:2008/02/06(水) 11:33:50 ID:BZb9Dt8w
正直枝葉なんだけど…あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。
というわけで>>297:雄氏

>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

誰もそんなことを云ってないよ?
「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を支持(注:引用者による修正)しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ」という指摘は、キミが発したドーキンス本に対する主張に内在する表現の曖昧さや雑さから来る誤解か語弊かあるいは、確かに「自然科学的に実在しないものは研究として意味がない」という無意識下の本音の吐露に対してなされた指摘でしょ。

>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。

それでね、
>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
勝手な解釈なんだから、勝手にすればいいんだけど、愛というのをラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)に見出すというのも…なんだかとってもげんなりというか、短絡的思考に見えるんだよね。(これは、見える、だけなので反論ってことじゃないけどさ)

そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。
で、これに遺伝や進化学的な要素を絡めると、ドーキンスの利己的遺伝子のガイネンが役に立つ。遺伝子は自分自身とそのコピーを守ろうとし、表現型が拡張されると「体外の事象を自己の財産として子孫に継承する」という複雑な進化が起き、文化や文明の理解にも役立つんだろうな、と私は納得している。血縁淘汰と遺産相続に伴う家庭内紛なんか相関してて面白いね。

地下猫氏によるテーマの提唱とはさっぱりかけ離れた議論になっちまったけど(その責任は私にもある)、もうちょっと『愛』について。(byスガシカオ…ってうまいんだかうまくないんだか良く分からないけどなにげに好きだ)

男女の愛ってのは自己愛の拡張で、配偶者を「獲得し、所有する」という行為に絡み、やがて「血縁者を保護する・共有する財産を保持する」という情動に繋がるのではないか。ヒトには社会性動物としての稀な特徴である「なにかを所有する」という行動があって、所有(獲得)することを欲望するという、さらに因果な行動動機を持ち…結果として報われない愛の方向性のひとつに破滅があるんだろうね。これはラヴアフェアだろうが経済行為だろうが消費行動だろうが同じ。羨望・妬み・嫉妬なども報われない愛のカタチの類型かな。こういう短絡的かつ還元主義的な「愛の説明」を突き詰めていくと「愛の結果=シアワセ=所有満足度」なのではないか?という結論も出てくるし、それなりの説得力もあると思う。

こういったことを論じるのは、生物学的なアプローチも出来るだろうし、心理学でもアリだと思う。実際、私の議論の大半はこの二つの知見から出発しているし。自己投影とか依存の関係なんかも遺伝子を絡めて考えることは可能だよね。(つまり、自然科学的な学問として有意と判断)

300NAN:2008/02/06(水) 11:34:16 ID:BZb9Dt8w
さて、せっかくなので議論を本筋に戻します。
>>272で私が述べた「なにか」について。実はそれは「依存」である、と私は考えています。

依存は、程度によって「依存症」とさえなるとても因果な性質ですが、親子の依存に代表されるように割とさまざまな生物に普遍的に備わる性質でもある、と私は思います。配偶者への依存、親への依存、職場への依存、金銭への依存、さらにはネット掲示板とかギャンブルにまでヒトは依存できるわけで、対象が実在するなにかであろうが仮想の存在であろうが、おかまいなしに依存することができます。こうした依存の各種は、パーソナリティを保持する上で必要なものもあれば、逆にパーソナリティに対して障害をもたらすものであるのに、依存してしまうという種類のものもあるでしょう。アルコール依存や薬物依存が典型ですが、男女の依存関係や金銭への依存も度が過ぎれば破滅を生みます。

一連の議論で問題となっているのは「宗教の弊害」ですが、これは極端な主義・主張による弊害と言い換えることができ、原理主義だとか根本主義などに傾倒するという側面には、それら信仰への極度の依存が間違いなくあることでしょう。ここで、依存の鍵となるのは快楽です。快楽には「興奮」と「沈静」の二種があり、これは自律神経の作用と相関します。
■死への不安や人生の不安→信仰により和らげられる=マイナス方向の興奮(不安)が沈静される快楽(ダウナー)
■日常への倦怠感や無気力→信仰により活力を得る=停滞した沈静から活動的興奮へ向かう快楽(アッパー)

上記のうち、問題行動と結びつき易いのは、恐らくアッパー方向への快楽を求めて「なにか」に走る機会に於いて、ではないでしょうか。これは、受験やその他試験に対する不安や対人不安、財産を失う不安や死後の不安が信仰によって癒され鎮静されたからといって、それが他者への迫害や威圧行動に繋がるとは考えにくいというのも私の中にあります。(無論、信仰者自身の中でそれが本来の問題解決になるかどうか?は分からない)

A:信仰は、獲得し、所有される。
B:信仰は、快楽である。
C:信仰は、依存である。
上記の3命題の「信仰」には「配偶者」「仕事」「カネ」「セックス」「技能」そして「愛」など、およそあらゆる対象を当てはめることができます。それだけ我々の誰もが、信仰と似たものに傾倒し、依存しているということです。また、依存の度合いが強すぎたり、歪んだものになれば、どんな対象を当てはめても弊害を生み、時には暴力にさえ繋がるでしょう。これが最近気付いた「宗教批判の難しさ」の大きな要因です。

信仰が上記3命題を満たすものである以上、一旦それを所有し依存しているひとがこれを捨てることは、私が自分のパーソナリティを捨てられないように難しいことでしょう。愛して(所有して)いるものをあなたは捨てられるのか?という問題です。(時に、信仰はそれを求めるけれど)少なくとも、自分はなにも捨てないのに、相手には捨てろと述べるというのには不公平感があり、容認されることはないでしょう。

それでは当初、後悔と懺悔さんが述べていた「これから宗教に触れるリスク回避」についてはどうでしょうか。
私はそれを「科学的方法論を浸透させていくしかない」と述べましたが、基本的には変わりません。ただ、相手が快楽を生むモノである以上、科学的方法論は甚だ抑制的で、禁欲的でさえあるため、有効に働きにくいことも想像に難くありません。しかし、宗教が悪者であることを殊更「悪い事例」ばかり列挙して説得を試みたり、間違った一般化によってその弊害を列挙したりという、詭弁的な方法論よりはマシだろう、と思うのです。

1:所有や獲得(達成)は依存に繋がる。
2:ヒトはなにかに依存するイキモノである。
3:依存の度合いが強いか間違っていると弊害を生む。
結論として、知識としての核を成すのは上記の3点ではないでしょうか。迷信や超越存在に対する強い依存が弊害を生むのは間違いないことですが、その他のあらゆるすべてに対してだって同じことが云えることを、私は強く自戒したいと思います。最後に、ブッダの原典にはこれら依存のリスクへの警鐘が強く込められていたことを、あらためて指摘します。

301:2008/02/06(水) 19:26:26 ID:QpQGFxc6
>あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。

私の表現の稚拙さをご指摘なのであれば、それは甘んじてお受けします。
……ただ、話の進め方やテーマの扱いはそれぞれの論者の問題意識と直接関連していて、つまりその辺は私の「教導権」に属する問題だと思っています。今読み返してみても本人には特に問題を感じません。
と言うことで、多分今後も直らないでしょう。悪しからず。

同時にNANさんが何を聞きたいのか、イマイチ理解できません。全体としてNANさんのご主張の展開のようで、私としては「それはそれで良いんじゃないの」と言う感じです。
そこに私の「教導権」を主張する積りも有りませんし。

>自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。(No-299)

読んで頂ければ分かりますが、私は別に地下猫氏からの「科学主義批判」に反論なんかしていませんってば。する積りも有りません。明確になっていないのは当たり前です。
No-297でも「それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。」と書いて有る筈ですが。

私はただ、地下猫氏が「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは………」と書いて来たから「そんなことは言っていませんよ」と、いわば事実関係を返しただけで、その裏に地下猫氏がどう言う思惑を込めたかなど、余計な推測をする積りはハナっから有りません。
「無意識下の本音の吐露」かなんか知りませんが、後になってあれこれ付け加えられても、
「そんなの知ったことか」ってのが本音です。だったら最初から書けばいいのに、ってね。

302:2008/02/06(水) 19:27:06 ID:QpQGFxc6
「愛」について言えば、NANさんの解釈は解釈として「それはそれで良いんじゃないの」に尽きるのですが、私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

>最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。

「自分の命を守ろうとしたり」の行動は、特に愛などと言わなくても、捕食者から反射的に身を守ったり、交通事故を咄嗟に回避するなど、ウイルスからナメクジ、コウモリやカラスまで全て、本能(最近この言葉は使わないようだ)として持っているものでしょう。いわば危機管理ですかね。ヒトにおいてもその延長として理解可能です。
勿論、NANさんがそこに「愛」を見出しても「それはそれで良いんじゃないの」なんですけどね。

生物が生物たる目的は、自己複製でしょう。単細胞から無性生殖、有性生殖を含め、全てね。
ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)と呼ぼうが何と呼ぼうが、生物は、適応度最大化の為に組織されたタンパク質だと言って、大きく間違いではないでしょう(なお、ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)が可能なのは、有性生物、つまり生物の一部です)。

実際生物の行動は全て、適応度(つまりは残した子供の数)最大化の為に特化されていると言えます(人間の場合、社会が絡みますので少し複雑になりますが、これも社会科学という科学の範疇です)。

その中で、ヒトのオスとメスは子育ての必然からペアボンドを発達させざるを得なかっし、ペアボンド強化の為に、つまりは絆を強化する為に「愛」と言う感情を発達させた個体が、オスもメスも結局適応的だった、と言うのが私の見解です。
だから人間の「愛」の契機・基本は、男女の愛からだったろうと………。
「ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です(No-237)」との、私の書き込みはその辺を歴史的に俯瞰したものです。

人間の「愛」の感情を全て、進化生物学で解釈できるとは言っていません。しかしその理解の基礎に進化生物学が関われることだけは確かです。
そしてこの掲示板で今問題になっていたのは、NOMAとの関係も含めて、そう言う「愛」とか、芸術とかを科学として扱えるかどうか?、と言うことだった筈です。

私は「扱えるんじゃないの」と言う立場で、幾つかの項目に渡って例を提示した訳です。若干中身に踏み込んでしまいましたが、兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

しかも私の「少しばかり広い意味での科学」に対する、地下猫氏の揶揄(と言うか、何というか)への反証として、丁度手ごろな教材としての意味合いも含めてのことです。

>>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。
>誰もそんなことを云ってないよ?

「愛」が科学の対象にはならない、とするどなたかの主張が有ったようなので、そのアンチテーゼとして言ってみた訳なんですがね。


>>233; は従ってコメント済みだと思います。NANさんの意には沿わないかもしれませんが。
>>234; についてはなるべくそのうちに。

303diamonds8888x:2008/02/08(金) 06:30:39 ID:jcR/Lf4.
>>302
>兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

 これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
 それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

 「基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考え(>>281)」ということでは全く異論はありません。ですが、その研究対象をどのようにして【自然科学的な意味で】の存在と【人文・社会科学的な意味で】の存在に区分けするのか、というところで、どうもしっくりこないのです。この点については考察中なので時間を下さい。


 雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。

>私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

 私の回答(>>279)では「何かを愛する」ということで、ここの何かは何でもよいと想定しています。異性愛については自然科学的研究も実際に進んでいるので例として挙げやすいことは確かです。ただ設問は「存在すると思うか?」であって、「実際に科学的に研究されているか?」ではありませんでしたから。

304:2008/02/08(金) 09:08:31 ID:QpQGFxc6
>これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
>それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

diamonds8888xさんの「突っ込み」の意図は充分理解できます。以下三点ほど言い訳です。

一つには地下猫氏の設問「「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?」が、私からすると色々な意味にとれて………。
だから一応私も、(>>296)で、「『愛』は精神的なものです。その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。」と書いては置いたのですが。つまり「愛」と言う固まりのようなものが有る訳では無いと。
だからモノとして直接「愛」を自然科学の対象には出来ないし、その意味では『自然科学的な意味で存在』しないのは当然な訳で、まさかそんな陳腐な意味での設問ではないだろうと思ってましたし。

二つ目として、元々私は地下猫氏のクイズに参加する意志は無かったのですが、猫氏から私の科学観(猫氏より少し広く、科学を見ている)について揶揄されましたので、その返答として、丁度手元に有った手頃な教材として「愛」を選んだってことで。
そんな訳で猫氏のクイズに「逐条的」に対応する形は取らなかったし、その積もりも無かった。

三つ目、このトピで一貫してNOMA的主張への適否と言うようなことが議論されていて、一部の方々は「愛」とか芸術とか、そう言ったものは科学の対象にならない旨主張されていたようなので、私はそうは思わない、と言う観点でコメントしました。
ですから「>ただ設問は存在すると思うか?」と言う枠をはみ出しました。と言うかそう言う枠は意識していなかったと言うことですね。
アプローチの仕方は異なっても、科学はどこにでも突っ込みどころは有る、と思っている訳です。
そして社会科学も又、立派な科学で有ることには、多分diamonds8888xさんと問題意識を共通にしています。


実はこれから出かけます。

>雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。
>異性愛については………、

これらについては後ほど書き込ませて頂きます。
「愛」の適応上の考察(私はそう言う問題意識で書き込んでいますが)は、非常に面白そう。
多分又、ずれまくると思うのですが、悪しからず。

305AH1:2008/02/08(金) 13:30:13 ID:zfjW98z.
「愛」と人が呼ぶ、あるいは感じる、であろうところのナニカに生物学的基盤は当然あると思いますが、
行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑

というような感じかなー、と漠然と思いました。

306:2008/02/09(土) 08:32:08 ID:QpQGFxc6
RE AH1さん
>行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑
というような感じかなー、と漠然と思いました。

どうしてどうして、感動モノですよ。
あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。

およそ15億年ほど前、性が初めて生まれたとき、それは繁殖とは全く関係なかったらしい。と言うより繁殖の効率から言うと有性は無性に勝てっこないし、利己的な自分の遺伝子を、それも繁殖に辿り着くまで勝ち抜いてきた優秀な遺伝子を、わざわざ半分他者に明け渡す行為だし。
普通なら有り得ない性が、淘汰をくぐり抜けてかくも発達したのは何故か?、とか。

遺伝情報の交換だけなら特にオスとメスに分かれる必要など無いのに、何故オス・メスか?、或いは何故、オスとメスしか無いのか?、とか。
そもそも、オスとメスの違いは何か?、とか。
何故オスとメスの性比が常にほぼ同じになるのか?

今では当たり前に理解出来ていることを、10年以上前に初めて読んで知ったオトコの子としては、一番興味のある分野での知的興奮で、その時多いに胸をドキドキさせたことを覚えています。
ハッキリ言えることは、性の始めに愛などと言うものは無かったということです。

………と言うことで、「愛(の感情)」の起源考です。
>>296;で私が、
>>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
………と書いたことへの言い訳でも有ります。


>>299;NANさん
>そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。

NANさんが「自己愛」を「愛」の感情の起源として主張しているのかどうか、或いは「愛」の発露として、基本として述べられているのか、イマイチ分からない所も有りますが、どちらにしても私は二つの意味で同意出来ません。

1)、NANさんが述べている内容は殆ど生物の行動一般と重なります。或いは生物の本能、生物そのものと言っていい。大腸菌がブドウ糖の濃度勾配を感じて移動する行為も自己愛と言うことになります。
それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

2)、自己を自己と認識するのは、相当高度で抽象的な意識の能力を必要とします。目の前に獲物が現れたのを反射的に感覚するのとは訳が違います。
鏡に映った自分の姿を自分だと理解できる動物は、類人猿でも限られているらしい。
その自己をさらに「愛する」と感情するには、多分又幾段かの意識の能力を必要としそう。
少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

307:2008/02/09(土) 08:36:58 ID:QpQGFxc6
「愛」の起源を考えるとき、やはり私は適応上の問題として考えるべきだと思います。

ヒトの近縁である類人猿にはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボがいますが、全て配偶関係が異なります。それはそれぞれが置かれた環境での、主に食料事情などの制約によるものでしょう。
ゴリラはハーレムを作るし、チンプ、ボノボは乱婚です。特にボノボはひどい。観察によると1日50数回のSexに励んだメスが居たそうです。尤もボノボのSexはオスとメスの交尾に限らず様々あるようですが。
テナガザルは生涯に渡る強固な一夫一婦制ですし、オランウータンは単独雄と、母子集団という形をとるようです。オランウータンのメスはヒトと同じく発情期が無く、オスによるレイプも有るらしい。

これら類人猿に「愛」の感情があるかどうか難しい問題ですが、ただ考えて直ぐ分かることは、若し人間がゴリラのようにハーレム型の配偶関係だったり、ボノボのように乱婚だったとしたら、「愛」の感情も今とはガラリと変わったものになっていただろうことだけは確かです。
現在の人間が持っている「愛」の感情の起源は従って、チンプなどとの共通祖先から分岐した後、ヒトとして進化してきた過程の中に見出されるのではないでしょうか。

ヒトはオス・メス共同して子育てをするという、実は類人猿の中でも珍しい動物です。その点ではツバメやミツユビカモメなど、鳥と共通点が有ります。浮気と言う点でも共通点が有るらしい。
哺乳類はその定義上、必ずメスによる子育てが有りますが、ペアを組んだオスがそれに関与すると言う種は多くないんですよね。

ヒトのメスは直立二足歩行により難産になりました。
直立することで骨盤が内臓の重みを真下で受けることになり、形もお椀型になったのですが、ここでメスにとっては宿命的な矛盾を負うことになります。
内臓を支える為には骨盤の開口部が狭いほど良い訳です。でないと臓器がその開口部からはみ出してヘルニアになってしまう。
しかし開口部が狭いと、出産のとき胎児の頭が通り抜けられなくなる。

そこに輪をかけてヒトの脳の増大と言う問題が出てきます。特にそれが顕著になったのは「賢い人」ホモ・ハビリス辺りからですかね。
この矛盾をヒトのメスは、生理的な早産と言う手段で解決しました(と言っても完全には解決される筈は無く、出産で死ぬ女性は珍しくなかったし、今でも産院に響き渡る程の叫び声で出産するのは人間の女性だけです。ゴクロー様です)。
つまり、胎児の頭が完全に成熟する前、本来の出産時期よりおよそ10ヶ月前に産み落とすことになった訳です。

その為ヒトの新生児は極端に無力です。牛や馬の子供が生まれて30分もすれば歩き出すことと比較して、ヒトの新生児はヒトの一番の特徴である直立二足歩行が出来るまで10ヶ月を要します。
又、そもそも脳の増大を招いたのは主に道具の作製・使用とコトバによるものですが、その習得の為にヒトの子供は産まれてからも長い教育訓練を必要とします。

アクア説啓蒙者のモーガン女史に言わせると、さらにヒトは無毛になった為、他のサルのように子供が自分で母親の毛をつかんでしがみつくことで、母親の両手を開放させることが出来なくなったと言うことです。
ヒトにあって子育ては、到底メスだけで手に負える仕事ではなくなってきました。

308:2008/02/09(土) 08:37:44 ID:QpQGFxc6
哺乳類はその定義上メスの子育ては必然です。若しそれだけで可能ならヒトのオスも子育てを全てメスに押し付けて、自分は次の配偶相手を探す行動を発達させたでしょう。ハーレムを巡ってオス同士争うか、チンプやボノボのように乱婚に走ったかも知れません。生物は適応度最大化に特化したシステムですから。

ヒトの場合、上記の事情でメスだけの子育ては困難になりました。オスが子育てをメスに押し付けて別の配偶相手を探したら、繁殖機会は増えるかも知れないが、生まれた子供は育たないことになるでしょう。
メスに協力して子育てに関与する行動を発達させたオスが、結局はより多くの子供を残した筈です。要するにそれがオスにとっても適応的な行動であった訳であり、更にはメスにとってもそう言うオスを選択すことがが適応的だった筈です。
類人猿の中でも、特異なヒトの一夫一妻制はこう言う背景で生じたものでしょう(テナガザルも一夫一妻ですが、これは主に食料確保の制約によるものです。多分)。

そして一夫一妻という配偶関係をより強化する為に、ペアボンドとしての「愛」の感情を発達させたオスとメスが、厳しい環境の中で協力し合い、より多くの子供を残したのではないか。その愛の感情は子供に引きつがれより強化されてきたのではないか。

私は人間の「愛」の感情の起源はこう言う経過を辿ったのだと思います。
そして何時のことか分からないけれども、そう言った感情(シニフィエ)に「愛」の語彙(シニフィアン)が割り振られ、全体で「愛」と言う言葉、概念が出来ていったのでしょう。

一旦概念が出来ると、その語彙の使い回しで、漠然とした同じような事象を同じ語彙で表現し、その範囲を他から切り分けることになります。ピン止め効果とでも言おうか。
自己愛にしろ隣人愛にしろ、物に対する愛でも何でも、私はそうした経過でその後に出来たことだと思います。
特に日本語のような膠着語は簡単に語彙を増やし易い。そしてその過程で語義の転化が起こります。愛、哀、合い、会い、相、遇いなどはおそらくそうしたものでしょう。


なお上記内容は「愛」の感情の"起源"についての私の見解です。
人間が社会を形成し、5000年程前から私有財産を持ち、階級に分かれてからは又それぞれの制約を受けることになります。
資産があって子の面倒を召使なり他人に任せられるオス、例えばオスマントルコのスルタンだったと思いますが、ムーレイ・イスマイルと言う男は多くの後宮を相手に888人の子供を成したそうですし、古代インカの皇帝も国中の処女を選別したとか。日本の大奥も同じようなものでしょう。
>>297;で述べた近松の心中物もそう言った文脈の中での例です。

「愛」の全てを進化人類学に還元することは勿論出来ないにしても、今の人間がおそらく共通に持っている愛の感情の基礎を理解するのに、進化の理論が役に立たないことは無い筈です。

309ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:47:18 ID:vUxNW.gI
AH1さん、NANさん

「水伝教」の件、くだらない仮定の話につきあってくださってありがとうございました。
雄さんの書き込みを読んで考えたのですが、「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

310ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:56:22 ID:vUxNW.gI
猫さん

レスありがとうございました。

>馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
>ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、
>敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、
>味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。

これは、耳がいたいですね。NANさんにも指摘されたことですが、確かに宗教批判するときに「最低」を基準にして「全体」を批判する傾向があります。まぁそれ以外にも「宗教全体」に対する疑問は疑問としてあり、ドーキンスを支持したくなる理由もあるのですが。

311NAN:2008/02/09(土) 19:41:37 ID:G81kGdtk
枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

>>306
>それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

>少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

自己を自己と意識する必要?キミは情緒における自己と個体認識としての自己を混同しているでしょう。愛の発現を生物学的に解明しようというのであれば、ヒトを見るよりもまず、その他の生物に普遍的に見られる行動的特徴から、我々が「愛してるっぽい」と感じる行為をピックアップし、それがどうヒトに共有され、変化したのか?を探るべきだよね。なぜなら、愛がヒトだけのものでなくてはならない理由などないのだから。
カメムシが自分の子供を背負っているのを見て、我々ジンルイは「母は子供を愛しているのだなぁ」とか云う。無論、カメムシが私たちヒトと同じ情緒的な意味で「子供を愛している」などと私は思わない。いやむしろ、子孫を守ろうとする激烈な行為の発現に於いては、彼らのそれの方が遥かにヒトを上回るだろう、と私は思う。

それでは、なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
雄クンがなにをもって「愛」と述べているのか、私にはいささかも理解できないけれど、愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。そう、なるほどヒトは複雑な情緒を持ち、さまざまな性癖を持っているけれど、なにかを守ろうとする激烈さに於いては、他の生物種に一歩も二歩も行動としては劣る。この点について私は、愛、と呼ばれる「なにか」の本来的な要求から、ヒトはむしろ離れているとさえ考えている。

さて、もう一歩議論に踏み込む前に、私から「愛」を定義してみよう。無論、私の個人的な定義なので反論も異議もあるだろう、と思う。
1:愛は平等なものである。
2:愛とは与えるものである。
3:愛は寛容である。
4:愛は普遍的なものである。

実はヒトほど「愛」からかけ離れている存在はないだろう、と私は思う。たとえば「男女間の愛」について述べるなら、ヒトは性行為を経済行為として「商品化」し、これを古代から受け継いでいる。また、所有する財産や社会的地位によってさえ、繁殖・婚姻の機会が大幅に変動し、差別的である。これは他の社会性動物にも云えないことではないが、ヒトの顕著さは目を見張るばかりだろう。これらによって「男女の愛はまやかしに過ぎない」とまで私は述べないけれど、愛に対する誠実さ・切実さに於いて、ヒトは他の動物種より劣る、と考えている。

312NAN:2008/02/09(土) 19:42:01 ID:G81kGdtk
それでは非常にチンプで破廉恥な、ヒトにおける愛とはなんだ?と考え出すと、自己愛以外のなにがあるんだ?と私は考える。先に述べたように、生物は自分の生命を守ろうとする。そのためにさまざまな防衛手段を発達させた。また、その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。これら他の生物種が行う利他的行動を、ヒトがもしも行ったのであれば(そういう実例は数多くあるけれど)、それを「愛」と賞賛しないだろうか?なぜ、ヒトと同じ情動や意識下にないものが「愛ではない」と断言できるのか?むしろヒトほど愛を理解できない生物はいないからではないか?と考えたほうがすっきりできるのではないか?さまざまな生物種が行う慈愛的だったり利他的だったりする行動を見て「いや、あれはただの本能だよ」というヒトの傲慢ぶりに、愛との断絶があるのではないのか?そう、彼らの脳裏にはヒトと同じ情緒もなければ意識もないだろう。だがなぜ「同じでなければならない?」と、私は繰り返し問おう。

次に、ヒト「だけが」持つと思われる「愛と呼んでいる不明瞭な情緒」について。
小学校に上がるか上がらないかくらいの児童でも、感動的な絵本や物語に触れて涙することがある。これは「物語の登場人物に自分を重ね合わせる」という自己投影の結果に起こる現象だろう、と私は思う。あるいは、母親が持つ、男女の愛など簡単に消し飛ぶほど激烈な子供への慈愛や寛容さは、なにに端を発するのだろう?それはやはり、自己を投影しているからではないだろうか?つまり、母親は自分を愛するのと同じか、それ以上に強い衝動的な情緒に突き動かされることがある。これが男女の愛の比ではないことは、経験して見れば誰でも理解できるはずだ。

つまり、ヒトにおける「愛とか云う情緒」は、基本的に自己とその拡張である。男女の恋愛感情などまったく発現する以前の児童でさえ、自己を投影して他人の感情や境遇を思ったり、慈しみに近い感情を持つことができる。ちなみに男女にあるのは依存関係であって、愛とは若干違うだろう、と私は考えている。

最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

313:2008/02/10(日) 11:07:10 ID:QpQGFxc6
>枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

NANさんも結構長いですよ。…まぁいいけど。
最初に事実関係を………、

>キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

私は置き換えていませんよ。
人間の「愛」の感情とその起源を理解する為に、ゴリラともチンプとも違う、ヒトだけが辿って来たであろう進化人類学的な事情を解明するのは必須です。
その事情として、直立二足歩行や難産、それに伴う新生児の無力化を挙げたのですが、これはNANさんご指摘の「ヒトの生態」です。NANさんはこれを「愛」に置き換えられると言うのですか?
多少なりとも唯物論をかじった私としては、感情である「愛」と、その実在的基盤(NANさんが言う生態)を混同するようなことは、絶対有り得ません。


既に水掛け論の様相を呈してきました。そろそろ収束の頃合いかも知れません。

>>311;>>312;でも、NANさんが延々と述べられている生物の「愛」の行動について、既に、>>306;で「生物」「生物の行動」の単なる置き換えに過ぎないと述べていますので、ここで繰り返しません。
今回気が付いたことに絞ってコメントさせて戴きます。

>なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
>愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。
>その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。

これなどドーキンスの「利己的な遺伝子」とどこがどう違うんですか?
「利己的な遺伝子」についての賛否、評価については人それぞれだろうけれども(地下猫氏も『利己的な遺伝子』に付いては一定の評価をしているようだ)、NANさんに拠ればこの本一冊、丸ごと「愛の物語」になりそうです。

ドーキンスが、或いは進化生物学全体が理論付けた内容を、愛の物語に仕立てるのはNANさんの思想信条の自由だとして、しかしそれで一体何が分かったことになるのですか?
「愛」などと言う概念を殊更に持ち込まなくても、NANさんが述べられた「自己保存」「自己防衛」「子孫の繁栄」「利他的行動」など、全て進化生物学的な適応で解釈できます。
産卵の為命を投げ出す(と言うか命を掛ける)動物などザラにいます。と言うか遺伝子を次世代に引き継ぐ、それ自体が生物の本質じゃないですか。その為に特化したシステムが生物です。
だからここでもNANさんの言う「愛」は、「生物」「生物の行動」の単なる置き換え、同義置換、トートロジーに過ぎません。

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
環境汚染や温暖化を受け入れて、ただそこに佇む、愛の存在などと詠嘆するのは結構だとして、酸素も石灰岩も鉄も、全て生物との共同制作物です。或いは温室効果ガスも然り。
大事なことはそう言う地球の危機を科学的に分析し、経済や生活と折り合いをつけながら、危機を回避する方向での自然科学的な対象として、人類の英知をそこに向けることでは無いのか?

尤もNANさんが、汎神論者を任じているのであれば、それはそれで一つの立場です。

遺伝子DNAを基礎とした(全てそれに還元される訳じゃないが)生物一般の行動様式は、当然類人猿やヒトの行動の土台です。それを「愛」と呼ぶかどうかは別として、そのことは当然私も認めます。
しかし人間の愛の感情をその生物一般の「愛」に還元することは出来ない。なぜかと言えば一番近縁な類人猿でさえ全て配偶関係が異なり、当然愛の感情(そう言うものが有るとしたら)も全て異なるだろう筈だからです。

人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、進化の歴史の過程でヒトだけが辿ってきたヒト特有の事情を、適応上の観点から見ること無しに、人間の愛の感情を理解することは絶対にできないと思う、「今日この頃」。

314:2008/02/10(日) 11:08:01 ID:QpQGFxc6
旧聞と言うことになりますが、何かのついでにと思っていた、>>229;の「妖精論議」についてもこの機会に少しばかり異議申し立てをさせて頂きますね。

>今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

本当に等価でしょうか?、妖精を神に置き換えても話の事情は同じですよね?
主にキリスト教系の神を念頭に考えて見ます。妖精で考えて貰っても同じことですが、神の方が話が分かりやすい。

私は無神論者です。精神的にも実践的にも神を必要としません。
こう言う罰当たりな者にとって、神の実在証明は勿論ですが、不在証明も実は全く必要無いのです。世界中の殆どの人が、スパゲッティモンスターの不在証明を必要としないのと同じことです。ですから殊更神の不在証明にエネルギーを割くことはしません。

しかし神を信じている人は事情が違います。
神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。
当然実在証明にも気合が入らざるを得ません。事実その為に多くの賢者と言われる人たちが、膨大なエネルギーを注いだことでしょう。

又、難易度と言う点でも雲泥の差が有ります。
実在証明は、たった一度それを示せれば良いのです。神でも妖精でも一度お出まし願って、記者会見でもテレビカメラの前でも、批判者の検証に晒せば実在を完全に証明できます。
しかし不在を証明するには、あらゆる実在の可能性をしらみつぶしに否定する必要が有ります。だからこそスパモンも不在を証明できないのです。

若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

必要度や投下エネルギー、難易度の点でこれだけの極端な勾配が有るとき、単に表面的な結果が同じだったとして、それで等価と言えるでしょうか? 私は神に対する、度外れて「不相応な敬意」だと思います。
事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

ここから論理的に導かれる結論は、神(或いは妖精など)の実在は限りなくゼロだということじゃ無いですか? ゼロと断定は絶対に出来ませんが。
その点ではスパモンと比較してさえ、神の実在は蓋然性が低いと言わざるを得ません。スパモン教はその実在証明にそれ程血道を挙げているようには思えませんからね。未だ見つかる余地を広く残していると言えます。

それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

315NAN:2008/02/11(月) 09:56:59 ID:G81kGdtk
>>313
つまり雄クンは「愛はヒトが独占的に持つ特性である」と述べているのだね。そして愛は男女間の愛に代表される、と。
>>314については特にコメントの必要なし。

316NAN:2008/02/11(月) 10:07:59 ID:G81kGdtk
ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。

差別的性向が適応度を高めるって云う議論は肯定するけれど、それを愛と呼ぶ傲慢は否定。
以上です。

317ちょちょんまげ:2008/02/11(月) 14:48:16 ID:vUxNW.gI
ちょっと酔っ払ってます。少々の失礼、トンチンカンがあってもご容赦。
まぁまぁお二人ともって、白黒つけたがる性格の私がこういうことは珍しいのですが、

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。
ニンゲンの言葉としての「愛」の定義はこれがぴったんこだと私も思う。

>地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
これはこれで素晴らしい。NANさんはあまり肯定しないかも知れませんが、私はこの「理性」部分が好きです。
(NANさんがおっしゃる「人間として良くあろう」の一つの側面として)

お二人は噛み合って無いように感じていらっしゃるかも知れませんが、少なくとも私には、お二方のご意見は極めて有意義です。

318e10go:2008/02/11(月) 19:59:29 ID:5/V6R9W6
雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

雄さんは「愛」を「異性愛」に限定して科学で説明を試みているけど、何故「異性愛」に限定するんでしょうね。
確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。
しかし、「愛」はもっと広い意味があるんだから、(現在の)科学で説明できる事とできない事があると思います。
人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。
「愛」の形には多様性があり、「セックス」と関係なく「感情」をともなう部分があり、「感情」の部分は現在の科学では解明できないものもあります。

私は、NANさんの >>312 の最後のコメントが気に入りました。
>最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
>たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

今の私は、「愛」について「Aセクシャル」の「無性愛」に興味があります。

319:2008/02/11(月) 23:21:43 ID:QpQGFxc6
>雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

錯覚では有りません。
科学によって直ぐに全てが解決できると思うほどノー天気でいる訳では無いし、科学の悪用も有るので、「科学万能主義」と言う呼び方が適切だとは思いませんが、真理への接近の道が有るとすれば、それは科学だろうと思っています。


>確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。

…ですよね。
でもこの板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、「存在しない」と言う見解が主流のようでした。
そうではないだろう、と言うのが私の主張であって、それによって『異性愛』に限定しただけにせよ「科学で研究は可能」と思って頂だけたら嬉しいことです。一角が崩れた訳ですね。


>人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。

私は「愛の感情」の起源について述べています。その点で若干問題意識のすれ違いが有るのだろうと思います。

確かにe10goさんが述べておられるように「愛」はたくさん有りますね。しかしいずれにしてもこう言った感情は人類の長い進化の過程の、どこかで獲得し発達したものである筈です。
e10goさんが挙げられた、それぞれの、似たような内容を持つ感情が、ヒトの歴史の中で全く独立に、平行してヒトの意識に発生してそれぞれ別個に発達し、それに対してたまたま「愛」と言う同じ語彙が割り振られたとは到底考えられません。

そうではなくて、ヒトが生き残る上でののっぴきならない事情によって、先ず最初に何らかの、そう言った漠然とした感情がヒトに芽生え、それが適応上有利であった為選択され、定着・発達するに従い、次第に輪郭のハッキリした感情となり、いつの頃かその感情に「愛」と言う語彙が与えられたのでしょう。

その感情を内包とし「愛」と言う語によって外延とされる、「愛」の概念が次第に形成されてきたのだと思います。
そしてその過程で、同じような内容をもつ様々な、漠然とした意識内容が、先行していた「愛」の概念に寄りかかる形で輪郭化され、同じ語で呼ばれるようになったのでしょう。それがe10goさんが挙げられた様々な「愛」のバリエーションだったのでしょうね。
私はそう思います。

問題はその最初の「愛」の感情を生み出した「のっぴきならない事情」とはなんだったか? と言うことです。それは適応度と直結したもので有る筈です。

ヒトが置かれた進化の過程で、我々の遥か祖先のオジイチャンが、パートナーと一緒に子育てすると言う行動を、若し発達させることがなかったら、その行動を強化するために「愛」の感情を発達させることがなかったら、今の我々はまず存在しなかったでしょう。とっくに人類は絶滅していたか、少なくとも今の複雑な社会を築くことは有り得なかったでしょう。

「同性愛」「無性愛」「親子愛」「隣人愛」「人類愛」「自己愛」「地球への愛」などは、その後に発達させても充分間に合うことだったでしょう。
私はそう思うのです。

320GB:2008/02/11(月) 23:40:09 ID:zXfK7pu6
>>319
たとえばドストエフスキーの言う「人類を愛するのはたやすいが、隣人を愛する
のは難しい」といった次元の愛という表現は、どう理解したらいいでしょうか。

321:2008/02/12(火) 00:02:59 ID:QpQGFxc6
>>320

繰り返し述べているように、319を含め、「愛」の感情の起源についての私の見解表明でした。
現在の既に確立した「愛」の概念を使って、それぞれの人がどう言うことを言ったかは、今度は文章の解釈、表現、或いはその人の思想とか、考えとかと言うことになるんでしょうね。

ドストエフスキーがどう言う状況で、どう言う意図で述べた言葉であるか、私には分かりかねます。

322GB:2008/02/12(火) 00:16:42 ID:zXfK7pu6
>>319
>この板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、(略

そもそも…ズレてません?

323NAN:2008/02/12(火) 03:48:32 ID:G81kGdtk
「愛について」はもうやめたつもりだったんだけど、撤回。だってさ…んなのあり得ないだろ?
生物学的議論と限定してでさえ、親子の愛が「後からでも間に合う」などと云う、バカとしか云いようがない主張まで出てきたからね。
適応度の概念を用いたとしても、配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?てめぇで書いてるよね。生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ。だったらなんで「親子の情」が配偶者の情より愛の起源として高いプライオリティになるんだ?子から親の情、親から子への情がどれほど深く永いものか、さっぱりワカランのかね。ヒトオスの愛情表現なんか、子から親への情の架け替えじゃんか。

つぅか「愛」ってなんだ?
愛の定義をおざなりにして「愛を科学で説明する」ってのがまず、ポンツクなの。だいたい想像がついてるけれど、愛のなんたるかを少しも熟慮しないで激しく偏狭な勘違いを愛と定義しているらしきところからダメダメ。オスメス共同の子育てや配偶者間の役割分担なんか他の動物種でもあるだろ。ニンゲン至上主義ってのは科学万能主義より始末の悪ぃバカ丸出しだよ。あ、ついでに男性至上主義も混ざってんのかな。愚の骨頂だぜ。

しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

324AH1:2008/02/12(火) 12:22:28 ID:sNMJ1V0Y
>どうしてどうして、感動モノですよ。
>あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。


いやそれは・・ 確かにそうなんですが、なんか話が違う。うまく言えないんだが。
漠然としたイメージだけを言えば、「知的理解や生物学的基盤は『愛を理解する』ことの一形態であろうが、それが全てじゃあるまい」という事、かな・・・ 私が感じているのは、それだけの事かもしれない。そして、生物学など何も知らない作家や詩人の、あるいは人々が日々の行動でもって描き出す「愛」に価値がないかといえば、そんな事はないと思うのだけれど。

325AH1:2008/02/12(火) 12:25:29 ID:sNMJ1V0Y
>「水伝教」の件、

いえいえ、こちらこそ。

>「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

余計なことは考えない、というのも適応的な戦略でしょうね。少なくとも節約的です。

326e10go:2008/02/12(火) 13:32:39 ID:5/V6R9W6
>>319
「愛」ってもっと広い意味がありますよ。
全ての「愛」についての「感情」の発現が同じとは限りません。
色々な「愛」に対する「感情」の発現機序を考えてみては如何でしょうか。
例として、「親子の情愛」、「ペットの愛犬を愛する」、「登山家が山に登る事を愛する」または「スキーヤーがスキースポーツを愛する」

327:2008/02/12(火) 16:41:13 ID:QpQGFxc6
>配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?

自分のコピーを守る為にこそ、ヒトは「愛」の感情を発達させたと言っているのです。その感情を発達させなかった個体は自分のコピーを残せなかったでしょう。つまりヒトにおいて、メスだけでは子育ては難しかったのです。
共同して子育てをするオスの行動、その行動を強化する為の「愛」の感情を発達させた個体が、そうでなかった個体より適応的だった、と言っているのです。
子供が残らないのに、「親子の愛」の感情が発達する筈もないでしょう。
「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

「親子の愛」の感情など一切抜きに、自分のコピーを残している生物など幾らでもいます。
大腸菌の細胞分裂、カビの胞子、タケノコ、イチョウの実、等など、etcエトセトラ。
そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。
NANさんはここでも、「利己的な遺伝子」を「親子の愛」に置き換えたに過ぎません。

ゴリラもチンプもボノボも、父親は子育てに関与しません。
そもそもチンプやボノボでは、子供の父性さえ特定できません。父性の混乱を目的にメスは乱婚を発達させたと言う説が有力です。主に子殺し防止の為に。
まして哺乳類一般では、その大半で、半分の性は「親子の愛」の感情など、殆ど発揮する余地が有りません。
NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

そもそも私は(>>313)で、
>>人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、

として、NANさんの「>生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ」は既に、私の主張に織り込み済みです。
更に繰り返し述べているように、私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。
ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。


>しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。
少なくとも私は、地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。


ところで………、
>ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。(No-316)
>314については特にコメントの必要なし。(No-315)

クゥー!!、スルーせずにコメントして欲しかったなあ!!!!

328:2008/02/12(火) 16:45:36 ID:QpQGFxc6
RE GBさん
>そもそも…ズレてません?

まあズレているのは有る程度確信犯なのですが、質問・批判・非難に応対する形なので、あの形以外今のところ考えられません。
若しズレていて興味に合わないのであれば、無視していただけると有りがたいのですが。

RE AH1さん
>なんか話が違う。うまく言えないんだが。

元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、その例として「愛の起源」を述べ始めたら、その中身が本論になってしまったと言う訳で。
内容はあくまでも私の個人的見解ですが、兎も角科学の俎上には乗ると思っています。


RE e10goさん
>「愛」ってもっと広い意味がありますよ。

ですから色々有るけれども、その似たような感情が人類の祖先の歴史の中で、全く独立に平行して発生、発達したとは考えられない。
最初はある一つの漠然とした感情が発達して、そのバリエーションとして広がったのだろう、と言うのが私の見解の訳で。それが>>319;です。

勿論e10goさんがそうでないと言うことなら、それはそれで結構ですけど。

329GB:2008/02/12(火) 19:56:08 ID:kYOag.zk
>>328
>まあズレているのは有る程度確信犯なのですが(略

あー、一言だけ質問を。

スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。

それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?
(いや、愛の起原の話自体は、興味深いし面白いですけど)

330:2008/02/12(火) 23:32:07 ID:QpQGFxc6
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。

うーん、
今一寸頭に浮かんだことを書いてみますね。だから今までの「愛」についての問題と違って、後で「訂正」と言うことが有り得ますので、その点、悪しからず。
それとGBさんの問題意識と噛み合うかどうか、それも自信は有りませんが。

愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、これら全ては「意識内容」です。そう言う点で実体ではない、つまり固まりのようなモノが有る訳ではない。
しかし愛と、妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想は明らかに違う。その違いはおそらく感覚器官を通しての意識への反映かどうか、の違いじゃないでしょうか。

唯物論の物質定義として、「意識の外にある客観的実在」と、単に言い切るだけでなく「感覚器官に与えられる」と言う条件が付きます。それは主に神に対する配慮です。
つまり、神(客観的観念論)の側は、「あなたがどう思おうが、神はあなたの意識の外に客観的に実在します」と主張する。
しかし神はどんなことをしても、どんなセンサーを持ってしても、感覚器官に与えられない。だから唯物論としては神を実在として認められない、と定義上判断・主張できるのです。

……んで、
愛の感情はその対象を、例えば恋人であろうが子供であろうが、犬であろうが物であろうが、感覚器官を通して意識に反映することで生じます。直接感覚せず頭の中で思い浮かべながら感じることも出来ますが、そのイメージは普通、過去において感覚した記憶に基づきます。
だから「愛」そのものは実体ではないが、その意識は実在的基盤を持ちます。
だから私も今まで、だらだらと人類の過去に遡って、進化人類学の知見や化石が示す実在的基盤に立ち戻って、「愛」を考察できたのです。それが正しいかどうかは又次の問題として。

勿論アプローチは色々有って、脳科学的に、ドーパミンがどうのこうのとか、心理学や様々な接近が有るでしょう。ただ私はそう言うことは全く無知で、多少知識のある進化人類学的な線から「愛」を考えてみたと言う訳で。

それは全ての自然科学の対象で共通のことではないでしょうか。
科学の仮説は全て意識内容だと言えます。しかしその対象が客観的な実在である限り、それとのすり合わせを通して真偽の検証が可能です。
唯物弁証法の「真理」の定義は、従って「客観的実在と一致した意識内容」と言うことになります。

しかし、妖精・ある特定の妄想(例えばカッパや座敷わらしなど)などは、どんなセンサーを持ってしても感覚されない。だからそれについての意識は実在的基盤を持たない。従って論じる人によって様々なバリエーションが、際限なく繰り広げられることになり、かつその検証が出来ません。

かと言ってでは妖精やカッパが全く科学の対象にならないかと言うと、民俗学や宗教学など、今私はその分野を列挙できないけれども、様々な人文科学、社会科学の対象として、例えば「そもそもそう言う意識内容は、どう言う背景の元に紡ぎ出されたのか」と言うようなことが研究されると思います。カッパの例は前に出しました。

例えば「霊」の起源は夢からだったろうと言う説が有ります。私もそれを支持します。
既に死んで肉体は無くなった筈の人、或いは遠くにいる筈の人が頻繁に「出現」する。脳や意識の働きについて全く無知だった原始時代に有って、それは肉体と同じような姿・形で、普段は肉体に付随しているが、時にそこから遊離して自由に動き回り、死んでも肉体と一緒に滅びることの無いモノとしての「霊」なるものを想定しないと、辻褄が合わなかったんでしょうね。

それは当時の人に非常な恐怖を与えたと想像されます。人は自分の与り知らぬところで、他人の夢に出てくる自分の「霊」の所業の責任を問われることになった筈だからです。
又、一度死んだ肉体との対意として考え出された霊は、その後更にもう一度死ぬとは考えられず、その霊の居場所として、冥界とか幽界とかが考案された訳です。

だから当時の人に在って霊は、決して死後のなぐさめと言うようなものではなく、逆に非常にみじめなものとして考えられていたようです。
それが古事記やギリシャ神話に共通に見られる、冥界の描写となっています。

同じように「神」についての意識も当然その背景が考えられます。これは哲学上の大きな問題でも有ります。
と言うことで、社会科学、人文科学も立派な科学だと思う私にとって、妖精や妄想であっても考察の対象にならないことはない、と言うことですね。

どうも直ぐ横道にそれてしまいます。GBさんの興味と又大きくズレてしまいましたかね。
それと上記は唯物論的な私の解釈です。哲学的立場が異なれば全く違った見解を持つでしょう。

331NAN:2008/02/12(火) 23:50:12 ID:G81kGdtk
うん、良く分かった。
アクア説議論の頃から感じていたことだけど、確定。
なにが確定したんだろうね(笑。

332GB:2008/02/13(水) 00:13:14 ID:zXfK7pu6
>>330
もう少し、じっくり考えて、ご自身で整理したうえでレスお願いします。
「実体」ではない「価値」をどう扱うか、がポイントですから。

333地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:29:41 ID:Y80wH3GM
さて、酒でも呑んでなければやってられにゃーレスでもするか(ためいき

>雄クン

>>295

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

>と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿

そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。
都合のワリイところには決してレスしにゃーのは、「と」にゃんぜ(げらげら


>同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿


>>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
>として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
>しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

馬鹿を相手に謙遜すると、馬鹿はのぼせあがるものにゃんな。
僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿
具体的な反論ができてにゃーのはどこの馬鹿だ?>馬鹿
日本大百科もひいているが、字が読めなかったか?>馬鹿
そもそも、そのウィキにすら反論できてにゃーのは誰だ?>馬鹿

>私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿
チミのような馬鹿には>>231

>○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係>においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

こんなお笑いが馬鹿にとっては「見事な反論」になるといことはわかったよ>馬鹿
(ヘーゲルは本当にこんな馬鹿なことをいっているのか、典拠をしめしてほしいにゃ)
あのな>馬鹿
どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

334地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:30:17 ID:Y80wH3GM
つづき
>>296

>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

だからな>馬鹿
僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿
科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿
聞いてもにゃーことを答えて何がしたいんだ?>馬鹿

ニンゲンは生物であり、生物の行動すべてに「生物学的・化学的・物理学的」な基盤があるなんて、ウルトラ観念論者でもにゃー限りは誰だって当然と見なすんだにゃ。
何を程度の低いねじ曲げをやってんだよ>馬鹿

ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。


>>297

>>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

>地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
>ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
>なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

開いた口がふさがんにゃーよ>馬鹿
何度でもいうけど、物自体についてはチミに論証責任があることはわかるね? 力量がにゃーのなら、特定概念を批判しにゃーほうがいいよ。
それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。
アタマを振ると、頭蓋骨の中で干からびた脳みそがカラカラ音をたててにゃーかね?


とにかくな>馬鹿
チミはこちらの問いにまったく答えようとしにゃーな。
ねじ曲げて誤魔化すことしか脳がにゃーのだろうけど、それがことごとくバレバレってのは悲しいものにゃんぞ。
チミはアタマがわりいんだから、人前でものをしゃべるのはやめとけって。

335地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:33:14 ID:Y80wH3GM
>GB
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
>それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。
>それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?

その質問には僕なりの答えがあるにゃ。
われらが雄クンが、「愛がカガクの対象か」という話に拘泥しはじめたのは>>296だにゃ
ここ前後でのやりとりに答えがあるのではにゃーかと

>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
>>225 雄

>ほほう?
>勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
>チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー
>>291 地下猫

>一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
>折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。
>>296 雄

と、ここからえんえんと雄くんの無意味なジャーゴンが続いているわけだにゃ。
これね、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」という雄ダイセンセイのカガクの定義に対して、「勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?」という突っ込みがはいり、そこに対して有効な反論ができにゃーから誤魔化しているだけのことなんですにゃ。
字の読める人なら誰でもわかることなんだけど、雄ダイセンセイの科学の定義では「おまえ、くさいよ」「ごめんなさい、この子はあなたの子ではないの」も科学になっちゃうという指摘に対し、「対象とする範囲が広い」ことを示しても何の反論にもならにゃーことはわかるよね。

そもそもさ、この出来の悪いクイズについてdiamonds8888xからの適切な突っ込みがあり、出題者である僕がその突っ込みを妥当なものと見なした上で、クイズの出題意図を明示した後に、なお後出しで突っ込むことに何の意味がある? しかも、雄クンの書いていることって、僕が明示した出題意図を完璧に無視してるもんにゃ。これ、誤魔化し以外にはありえにゃーですね。しかも、すんごく程度の低い誤魔化し。

とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

あと、愛というコトバでインスパイアされて性欲・繁殖のことをえんえんと語るところから、
・雄は童貞ではないか
という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

336地下に眠るM:2008/02/13(水) 02:03:21 ID:Y80wH3GM
さてさて、本丸の話は、ドーキンスの「神は妄想である」の書評と、神と科学との共存のお話だよにゃ。

書評については僕としては言いたいこと言ったので突っ込み待ち。

あと、「共存」のお題にゃんが、僕としてはすでに「愚行権」の話題で終わっているんだにゃ。
馬鹿であることは責められるべきことではにゃーよね。(もちろん、馬鹿なことを言ったりやったりしたら、突っ込まれるのは当然)
現実的な他害についてはきっちりとカタをつけなくてはならにゃーが、馬鹿とか気にくわないとかいう理由で他者を非難すべきではにゃーです。馬鹿宗教がおかしな真似をしてきたらそれを個別で叩くことはしなければならにゃーとして、それと宗教否定は別物にゃんね。
これは、科学の作法というよりは、自由民主主義の作法なのではにゃーでしょうか。

もっといえば、スタージョンの法則「すべてのものの90%は屑である」なのではにゃーかと大まじめにいいたいにゃんね。
宗教者「も」90%は屑だなんてことはアタリマエだにゃ。しかし、屑が目立つということをもって全否定することはできにゃー。
信仰者だろうが無神論者だろうが、90%は屑にきまってるだろ。屑ってのはあくまで屑なんだから、屑の言動でその思想や立場を判断しちゃダメだろ。雄クンの言動をみて唯物論者を判断してはならにゃーよ。

各人の思想や宗教的立場を理由とした非難は基本的に不当だと僕は思う。
他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。どう転んでもお互いに屑なんだから、実際の行動をもってしか他者を非難してはならにゃーでしょう。これこそが自由主義の作法だと僕は思うんだけどにゃ。

あ、そうそう。個人的な好き嫌いは表明しても構わにゃーかもね。
ただ、多数派とか権力者の好き嫌いのあからさまな表明はすんごく問題だけどにゃ。

337NAN:2008/02/13(水) 05:24:40 ID:G81kGdtk
2月はさぁ、やけに忙しいんだよね。忙しいとこんな時間にタイプしてて、疲れるとネットを徘徊するんだけど…一応、反論らしきことを述べてるバカ君に応じておくのも礼儀かも知れないので(実は気分転換をしたいだけという説、濃厚)、ちょっと書く。

>>327:雄クン
>「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

頭がおかしいのか?「親子の愛情など後付で十分」と述べたのはどこの誰だ?
親子の「愛情」なんだろ?どう考えてもそれはメスが先に発現させるのが道理だろ?それを愛の起源としない馬鹿説を披露してるのはキミ。
云っとくけどな、愛には必ず相手が必要だなんて定義は誰がしたんだ?そもそも普遍性があり恣意的でなおかつ広範囲な解釈があるであろう「愛」を勝手に限定しておき、さらにその具体的な「現象の特定」さえ行わない卑劣な議論を展開してるのもキミ。

>そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。

つくづくどうしようもない馬鹿。
じゃぁ生物の本質が「愛」なんだろ?愛の科学的定義ってのが存在するのか?「愛と呼ばれるヒトに占有される情緒活動について」なんて云う議題の限定は誰もしてないんだぞ?

>NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

脳が腐ってるに違いない>雄クン。
つまり私が述べる「愛」はそれほど普遍性がないものなので説得力に乏しい、と。するとオマエサンの主張する愛はもっと普遍性があるのか?より限定された現象を以って「愛の起源」とか馬鹿丸出しの疑似科学をひけらかしている馬鹿には分からないよね。

>私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。

じゃぁ「親子の愛は後回し」じゃねぇだろうが、馬鹿。
ていうかキミさ、キミが論じてるのは「オスの育児参加と勃起の正当化」だけじゃん。キミの愛は中学生を庇護するには役に立つかもね。ああ、もしかしたらキミが中学生なのか。だったらゴメン。本当のことを云えばいいってもんぢゃないよね。そして中学生をなめたらいけない。きっと雄クンより頭がいいからね。

雄理論によると、愛の起源は「男女の愛」であり、しかも、オスがメスの子育てに参加する動機として適応的だった、という説だな。しかしそれ以前にメスは子育てをしていたし、子供を守ろうとさまざまな外敵や障害と闘っていたはずだが、それは自己愛とその拡張であり生物全般に共通する行動で珍しくないから「愛ではない」と否定しているのが雄説ってことだね。
そんな小学生でも分かるくらい馬鹿な話をして恥ずかしくないんだから尊敬に値するよ。

338NAN:2008/02/13(水) 05:25:19 ID:G81kGdtk
>ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。

ひどい詭弁だし、もちろん本人は自説が破綻してることに気付いていないし一生気付こうとしないことを予言。


>期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。

予想通りのドンピシャ!この卑怯で馬鹿な屑は絶対に自分から愛の定義なんかしないことを150%予想してたんだ。
あのなぁ「漠然とした感情の起源」を科学的に探るんだったら、愛なんて難しい情緒をパネルに出さなきゃ良かったの。だいたいお前が愛を知らないじゃん。知ってんの?子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?

いぢめてばかりでも仕方ないので、私と共通しているポイントだけ指摘しよう。「子供(育児・出産・繁殖)に対する情緒的反応」という点に於いてのみ、僅かに二つの主張は被る。また、私の視点はどちらかと云えばメス視点であり、雄クンの視点はオス限定の馬鹿視点。だがしかし、育児をキーとした情緒の発現について論じるのであれば、出産を担うメスが子供に持つ感情を先にプロットしない理由は、まともな思考回路を持つモノにはまったく理解できないだろうね。

>地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。

ぢゃぁ挙げろよ。具体的な論拠も提示しないでなにが反論だよ、屑。
っていうか文章おかしいぞ。私の「愛の定義」に当てはまらない現象なんかいくらでもあるだろ?先に述べたように、私は私個人の恣意的で勝手な「表現」として愛を「文学的に」述べたんだよ、ワカランか?で、それに当てはまらない現象があるからどうだって云うんだ?ロケットが飛ぶから愛じゃないとか云い出すのか?鼻から脳が垂れてるんじゃないのか?

メスを犯したくて仕方ないから、ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ、ってのが雄クンの云う愛の起源だな。素晴らしいエレクチオン肯定理論だ。でもオマエサンがそんな馬鹿話をひねくり回してるから、段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。

339NAN:2008/02/13(水) 05:52:35 ID:G81kGdtk
馬鹿になにを云っても無駄だろうけど、本論と云えば本論なので
>>314

>神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。

鼻と耳から脳が垂れている馬鹿。
神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。神の自然科学的な実在ってのはつまり「創造科学」そのものぢゃぁねぇかよ。そんなもん主張してる教会は異端扱いされるさ。「超自然的な実在」がポイントなの。むしろ自然科学的に実在するような神じゃぁ、信仰の対象としてあまりに矮小だろ?んなことも分からないのか。

>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。しかし、客観的実体の観測証明ができない、ということ。アニメキャラだろうがダースベイダーだろうがスクリーンの中に確かに実在するだろ?

>事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

本当に、本当に、本当にバカなんだなぁ>雄クン。
いい加減あまりの脳腐れが哀れに見えてきたよ。
まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。
それを集団幻想だとか妄想だとか云うことだってできるかも知れない。しかし、彼らの『経験』を否定する論拠なんかどこにもないの。これがいわゆる自然科学の限界だろ。

科学万能主義のバカ屑に云わせれば、それは無論「幻覚」としか云いようがないかも知れない。
だからなに?って云えるのが信仰なんだぜ?

>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

どんなまとめだよ(ゲラゲラ。
事実の矮小化を勝手にすんな、屑。ある時、ミジンコ大王(仮名)の脳裏に光が瞬いた!お前は井戸を掘れ!井戸を掘った結果、鉱脈を探り当てたミジンコ大王(仮名)は莫大な財を成した。ミジンコ大王(仮名)の脳裏に瞬いた光とそのことばを自然科学的な意味で実証することは不可能だ。んなもん嘘かも知れない。だが、ミジンコ大王(仮名)の経験した「なにか」を否定することは、どんな方法でもできねぇんだよ。云っとくけどこれは心理学の基本だぜ?(心理学を科学と呼ぶかどうかは保留。しかし学問であることは間違いなく、有用である)

340NAN:2008/02/13(水) 06:00:46 ID:G81kGdtk
>>339について

アクア説議論の足跡論しかり、愛の起源しかり、物自体しかり、ポイントはスルーしまくり論理は破綻しまくりで、科学的論拠を提示されても一向に認めようとしない「一貫したバカ」を繰り返している雄クンの>>314が、あまりに薄っぺらでバカ丸出しだったので放置していた次第です。しかしバカが執拗に馬鹿なことを述べているので「お前はバカだね」と優しく返したのが>>339です。

341diamonds8888x:2008/02/13(水) 06:06:18 ID:jcR/Lf4.
>>336
> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

 おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。


 ところで雄さんは、自然科学的に存在するばかりか自然科学の対象ともなっている『愛』については詳細に立証してきましたが、それは「自然科学的には存在しない『愛』がある」という言明の否定にはなりませんし、「自然科学的には存在しない『愛』についての学問にも価値がある」という言明の否定にもなりません。ここがずれているポイントじゃないでしょうか?

342地下に眠るM:2008/02/13(水) 10:40:07 ID:cizMQ0FI
>> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

> おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。

ちゅうよりも、「我が身かわいさ」ですにゃ。
基本的人権・自然権の理屈って、非常に普遍性・有用性のある相互安全保障ツールだと考えていますにゃ。
どんな反社会的な思想であっても、考えているだけでは罰せられない、というのは僕のようなロクでもにゃーことしか考えられにゃー屑にはありがたいお話でしてにゃ。

そもそも、ある特定のAというイデオロギーとかイズムを否定するのは、他のBというイデオロギーなりイズムになるはずだと思うのですにゃ。
信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。
べつに、イデオロギー同士、イズム同士でケンカしたって構わにゃーのだけど、自然科学の名で特定のイデオロギーを否定するというのは、自然科学をイデオロギーと化してしまっていることにほかならにゃーと考えますにゃ。
で、この立場を「科学主義」というわけだろ? 科学にとって迷惑なイズムだよにゃ。

・宗教からの領域侵犯に対する各個撃破はバンバンやってくれ
・宗教そのものの否定になると、科学をイデオロギーと化すことになり、科学主義である

つまり、共存を前提としにゃー立場は科学主義だ、というところですにゃ。

343うに:2008/02/13(水) 11:31:32 ID:???
>あと、愛というコトバでインスパイア(中略)という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

おいこらしばくぞ

344AH1:2008/02/13(水) 12:32:01 ID:sNMJ1V0Y
皆さんが既に述べておられますけれど、

>元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、

ええ、そりゃ関与し得ますよ。だって生物学的な基盤の無い事を生物ができるわけがないですから。
その事に感慨なり感動を覚えるのも当然、一つの読み方でしょう。
ですが、例えば「愛」はドーキンス以前にもあったし、表現されてきたし、人間は感動してきたわけでして。

というのも何となく本論からずれた話な気がしていて、結局、diamonds8888xさんの >>341 が要諦かと思います。

345ちょちょんまげ:2008/02/13(水) 16:51:04 ID:vUxNW.gI
猫さん

>信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。

「否定」でなく「拒否」(お前さんは採用すればいい。でも俺には無用。)であるならばイズム同士の喧嘩には本来ならんわけですよね。
それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

ですかね?
それとも後者は共存まで否定してるわけではないから、非・科学主義者でしょうか。

346地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:05:49 ID:Y80wH3GM
>ちょちょんまげ

各個人は価値中立を要請されるわけではにゃーんだ。
イデオロギーが問題となるのは「党派」においてですからにゃ。

最初にいっていた通り「馬鹿を禁止すること」はできにゃー。
だから、人種差別主義者であろうと性差別主義者であろうと、個人のもつ非合理な主義とか思想を禁止することはできにゃーよね。ちゅうか、国家権力がシステマティックに洗脳でもしにゃーかぎりは禁止しようがにゃーし。
個人が何らかのイデオロギーに染まっているなんて、アタリマエもいいところだし、それは何ら責められるべきようなことではにゃーわけだ。馬鹿なイデオロギーを奉じていても、馬鹿であることそのものを責めてはならにゃー。

問題は、価値中立が要請されるべき領域で特定価値の押し付けがなされることだにゃ。価値中立が要請されてしかるべき領域とは、司法・立法・行政などの公権力の発動、あるいは教育や医療などにゃんね。たとえば公教育における特定宗教の押し付けは基本的人権のコア中のコアである良心の自由の侵害だにゃ。公的領域においては、馬鹿が許容されてはならにゃーのはもちろん、特定のイデオロギーに偏ることはダメダメだにゃ。少なくとも自由民主主義政体においては。
で、
自然科学という社会資源にも、やはり価値中立が要請されてしかるべきだと僕は思う。自然科学の価値中立とは、自然科学のもつ属性というだけでなく、社会的に要請されるものでもあるのですにゃ。

ドーキンスのまずいところは、自然科学(進化生物学)の看板を背負って宗教否定をしているところだと思うにゃ。ドーキンスは自然科学(進化生物学)を、自分好みの特定の政治的党派にしてしまっているにゃんね。
宗教が気にくわにゃーのなら、自然科学の看板なんて背負わにゃーで、個人として反宗教の活動をすればいいと思うにゃ。自らの専門領域とは別個に、自らの良心にしたがって政治的な活動をする科学者はいくらでもいるにゃ。これはまったく問題にゃーのよ。ただ、専門領域に関連して政治的な発言をする場面においては、何よりも価値中立が要請されなければならにゃーはず。

あ、いっとくけど、個人に価値中立が要請されないというタテマエはタテマエとして、友人や家族に、自らの人格をかけて特定の価値を要請するというのはもちろんアリ。親の判断でガキに洗礼をすることを僕は否定できにゃーです。

347地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:39:26 ID:Y80wH3GM
ちょっとまとめなおすと

自然科学が特定宗教と同列にあるイデオロギーのひとつであるとすると、
「仏教の見地から言って聖書はまちがい」
「共産主義の見地からいって聖書はまちがい」
「自然科学の見地からいって聖書はまちがい」
これらの言明は、各党派の言い分としてすべてなりたつ。

自然科学が特定のイデオロギーではなく、価値中立を要請されるいわばメタレベルの何かであるのなら
「自然科学の見地から」特定のイデオロギーを批判することは失当になるにゃ。

自然科学においては、思考節約の原理から神(=超自然的存在)の存在を措定していにゃーだけであり、神の存在を否定しているわけではにゃー。
だから、自然科学の名において神(=超自然的存在)を否定するということは論理的に失当であるだけでなく、無神論という特定のイデオロギーを支持する発言となり、価値中立が成立しなくなってしまうにゃ。

さらにいいかえると
神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

つまり、
神との共存は自然科学に対して要請されるべき立場だということだにゃ。

この結論はNOMA原理とはだいぶことなるものにゃんね。NOMA原理においては宗教と科学は対等にゃんが、この「価値中立の要請」の理屈では、自然科学をメタレベルに位置づけているものですからにゃ。

348地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:46:03 ID:Y80wH3GM
あ、わすれてた
>>343

僕はウソいってないもーん

349NAN:2008/02/13(水) 20:12:11 ID:G81kGdtk
>>345
>・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
>・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

「自然科学を利用して(=欺瞞)」というフレーズが頭につくかどうか、と、主張を行う発言者の社会的ニッチによって左右されることなんだろうね、多分。学者や研究者などが自身の成果をベースにして「…ゆえに宗教を否定する」と述べればまさに悪しき科学主義者の出来上がり。そういうことじゃぁないかな。

>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

その辺が「ニンゲン社会」のムツカシイ有様なんでしょうね。「私」が「私自身」の主義信条を選択するにあたって、他者への害をもたらすものでないのであればどこの誰にも遠慮や謙譲など必要ないはずですが、その「意思」をひとたび発言した途端に党派を生む契機となり得る。そこまで想像できるまともなイマジネーションを持つヒトはいろいろと悩むのでしょう。また、そういう「悩み」があることに、実はヒトとして生きる意義があるのではないでしょうか。

また「すべての宗教は否定(批判)の対象である」とするのか、個別に、しらみつぶしに否定していった結果「90%かそれ以上の宗教は否定の対象となるけれど、残り10%以下については熟慮と検討の余地がある」という(以前にも出てきたフレーズですが)フェイルセーフを心に持つという、知的なゆとりにこそ相互理解の契機が隠されている気がします。要するに『不当な一般化→イクナイ!』ってことですが(笑。ちなみにこれは、真っ当な科学的探究心そのものだ、と思います。

350NAN:2008/02/13(水) 20:20:30 ID:G81kGdtk
>>347

参った(苦笑。素直に納得してしまった。地下猫氏を褒めることはしたくないのだが…(笑。
少なくともNOMA原理というチンプンカンプンな理屈よりも、科学が科学たる所以を的確に述べているなぁ。

>神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

なるほどね。言葉にはなってなかったんだけど、そういうモヤモヤした発想が私の頭の中のどっかに常にあったので、NOMAとか宗教議論に対して「なんか違うんだよね、基本的に」という思いが吹っ切れなかったらしい。

351AH1:2008/02/14(木) 15:03:11 ID:sNMJ1V0Y
>>345
>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

あれこれ言っておいてなんなんですが(笑)、ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。
あとは・・・仰っていたフェイルセーフの感覚という奴で、自問してゆくよりないのではないでしょうか。余人があれこれ問いただしたり、ズカズカと批判するのも(それもまた自由ではあるのでしょうが)、大きなお世話であり野暮であるような気がします。
いや、こういう場で対話や議論をする場合には、言ったり聞いたりしないと始まんないんですけどね。あくまで普段の話。

352地下に眠るM:2008/02/15(金) 12:22:15 ID:Zuuc0PyM
>>347を補足

特定宗教と自然科学が同一レベルにあるイデオロギーであるのなら(つまり価値中立が要請されないのなら)、「神が存在すると主張する側に証明義務がある」という言明は正当だにゃ。
しかし
自然科学が価値中立を要請されるメタレベルにある知識体系であるとするのであれば、自然科学の側が特定宗教の教義を否定する場合はあくまで事実にもとづいて証明を行なう必要があるだろにゃ。つまり、神の不在証明をおこなう責任が自然科学の側にあることになるにゃんね。

自然科学が本当に価値中立といえるのかについては、いろいろと議論がありますにゃ。
ただ、ここで僕はその体系の属性として価値中立なのか否かではなく、価値中立が要請されるか否かという観点を導入いたしましたにゃ。
自然科学が価値中立を要請されることを是認したのなら、専守防衛に徹しなければならにゃーということも理解されるはずですにゃ。

353:2008/02/19(火) 07:25:26 ID:QpQGFxc6
既に撤収モードの様相で、今更ぶり返すのも気が引けるのですが、地下猫氏、NAN氏からスルーを激しく咎められ、レスを要求されています。
即レスが出来なかったことを詫びると共に(しばらくゲンナリして書き込む気にさえならなかった)、極力スルーの無いよう逐条的に対応してみようと思います。
おかげでえらく長くなってしまいました。その点も悪しからずご了承下さい(ホントに長くなりました。でも2人分ですし、勘弁して下さい)。

RE 地下猫氏

>>(「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明(>>219;)」…と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

>言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿
>そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。

論より証拠、「自然科学的に『実在』しないものを対象にした研究に意味はない」等という、そんな「白痴的言明」が、若し有ると言うなら私の書き込みの中から提示してみて下さいな。
言っていないことを「言っていない」と事実関係を返しただけのこと。
「学問的価値には直結しにゃー」だの「研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは『イズム』である」だのと、猫氏の特異な「論点」を持ち出せば、私の言ってもいないことが言ったことになるらしい。

こちらこそ同じことを何度も言わせないで下さい。


>だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿

私は(>>230;)で、kaさんの「よろしければソースください」へのコメントとして、
>>不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
>>「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

…と、小学生にも分かるように明確に書いておきました。「客観的なソースと言うものがある訳では有りません」とね。
更に「『完膚なきまでに論駁されている』と言うのは、私はそう思っている、と言うことです」と付け加えながら。
しかもわざわざ「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので」と、猫氏のような立場への配慮も忘れていません。

これ以上どう書けば良いんですか? ここでは自分の意見や判断を主張として述べることさえ出来ないのですか? クワバラクワバラ。

354:2008/02/19(火) 07:25:57 ID:QpQGFxc6
>>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
>もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿

NANさんの「反論」が猫さんの反論の代用になるとは、初めて知りました。麗しき隣人愛ですが、だったら最初からそう言って下さいよ。ホントに。

猫氏は関係ないとして、NANさんの「反論」も、哲学と実証科学である物理学との混同が有るのですが、しかしそれでもNANさんの物理学的「反論」は気になってはいました。
同じような問題意識からだと思うのですが、(>>280;)の、diamonds8888x:さんの問題提起は、より興味深く受け止めていました。

>「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・
>雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか? (>>280;diamonds8888xさん)。

哲学と自然科学との関係は、私にとっても面白そうなテーマでした。
diamonds8888xさんは(>>279;)で、燃焼を例にとってフロギストン説を紹介されています。
同じように、モレスコットやビュヒナー、フォークトなど、俗流唯物論者による「肝臓が胆汁を分泌するように、脳髄は意識を分泌する」とする説が主張されたこともあり、これが「タダモノ論」として、唯物論の面目を多いに失墜させた時期が有った訳です。

不可知論を巡る環境も、私の印象では19世紀までと20世紀では大きく変わったような気がします。
いわゆる「観測問題」「不確定性原理」「からみ合い」或いは、「観測の地平」「ブラックホールの内側」「宇宙誕生以前」「他世界宇宙」等など。
本当はこれらのことについて、diamonds8888xさんなどからもお知恵を拝借しながら、どのように考えてゆけばいいのか、と言うのは私にとっても大きな興味でした。

しかし如何せん、「愛」の問題だけでもこれだけ物議をかもしており、更にこの上トピズレになるようなこの問題を提起することに多いに躊躇が有った訳です。かと言って中途半端な形で論じたくもないし。
…と言うことでこの件は、NANさんからの反論も含めスルーしたままです。それは率直に認めます。

355:2008/02/19(火) 07:27:23 ID:QpQGFxc6
>どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。それと単に猫氏が理解できなかったに過ぎません。私が逃げていた訳では有りません。

猫氏お得意のWikipediaによれば(「イマヌエル・カント」の項)、
「意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。」とされています。

この「感性と悟性」によって認識されるものが、現象とか性質であると理解するのに何の不思議も有りません。それ以外に感性と悟性が何を認識するのですか?
そしてそれによって認識されない「理性的理念」をカントは『物自体』と呼んだのです。
この理解は元々猫氏が最初に持ち出したカント自身の主張ですよ。Wikiによってもね。これが哲学的立場の違いを超えたカントの「物自体」解釈です。

「僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿」とする猫氏の、Wikiとは違う「物自体」解釈をお聞きしたいものです。
そしてヘーゲルはカントの主張を受けて、「若し現象を全て知ることが出来たら、」と問題を建てたのです。ここに哲学上何の問題が有りますか?
自然科学でもよくやるでしょうよ、思考実験というのを。「若し、光の速さで走ったらどうなるだろうか?」って言うアインシュタインの思考実験は、実際に光の速さで走らなければ成り立たないのですか?


>>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。
>だからな>馬鹿
>僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿

猫氏が引用してくれた部分に、既にチャンと書いて有るじゃないですか。「その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません」と。この件、おしまい。

356:2008/02/19(火) 07:27:58 ID:QpQGFxc6
>科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿

『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。
猫氏自身(>>21;)で、
>科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?

……と述べて、自分の判断を示しています。「科学は………ノータッチであり」と言っているのは猫氏自身ですよ。
私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

>ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。

私の科学観「広く科学を捉えている云々」についての、「チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー」と言う猫氏からの揶揄に対し、その釈明の教材として述べたもので、私も猫氏のクイズと直接関係にゃーと既に述べています。単なるひとつの例としてです。一体どこが問題なんですか?
揶揄に対する反論でさえ、どこかで述べられている「僕の質問」の内容から一歩でも外れると、叱られる訳ですか?


>それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。

私のどこにそんな書き込みが有りました? わら人形はもういい加減にして下さい。

NOMAが、科学と神の間に「重複しない」と言う形で明確な線引きをし、その片方に「教導権が及ばない」とする点で、カントの物自体と同じだとする私の判断に、何の不自然が有るのですか? しかもグールド自身が自分のことを「不可知論者」だと、積極的に表明している、非常に強力な傍証もあってのことです。

不同意ならその内容に沿って、猫氏自身の見解を述べればそれでいいことじゃないですか?
猫氏は議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者だ。しかしその殆どはわら人形、良くて見解の相違に過ぎない。

「NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになる」「グールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してる」等と、私は述べていないけれども、グールドが強制していようがいまいが、その線で書かれた著作を読んで支持する人は、当然その一定の影響力を受けるだろうことは、考えて分かりません?

私が考えるNOMAの一番の問題は、繰り返し述べているように、霊感商法やマスコミでの心霊現象、スピリチュアル等の取り上げに対する、科学の側からの批判の躊躇です。或いはマスコミや「霊能者」の開き直りの根拠としてです。
だからこそ私は(>>218;)で「グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが」と書いたのです。グールドを惜しめばこそです。

357:2008/02/19(火) 07:29:45 ID:QpQGFxc6
>とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

私の方からも確認しましょう。
「王様」「あなたの子」「ブスの女性」「おまえの臭い」等など、実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わない猫氏の感覚を逆に疑います。
その時「科学」と意識するかどうかの、要するに単純か複雑かと言った、或いは先人達の「科学的」業績による知見が有って、既に日常的な常識となっている、それだけの問題に過ぎないでしょう。単純だから科学でない訳では有りません。

○王様が裸であるかどうか、普通「見て」「判断」します。そこにいちいち「俺は科学している」などと意識はしないでしょう。でもね「見る」或いは「判断」と言う現象がどう言うことか、少し立ち入ってみれば立派な科学現象だと言うことが直ぐ分かりますよ。

長くなるので関係するであろう「科学的な」概念だけ列挙してみます。
太陽・月、或いは人工照明からの電磁波、そのごく僅かな領域である可視光線、対象(この場合王様)を形成している物質の吸収・反射特性、対象から反射された電磁波、センサーである視細胞、特に特定の波長に特異的に感応する三種類の錐体、ロドプシンの化学的な変性、それらの情報を演算処理する脳、等など。

そしてこの「見る」と言う現象は、考え方としてラザフォードのα線(粒子)照射による原子核の発見、或いは粒子加速器での様々な観測と同じことです。
ただ違うのは対象の大きさと、それに伴う照射の波長の短さ、つまりはエネルギーの大きさ、及びセンサーとしての網膜と、写真乾板、或いは霧箱などの違いだけです。
その対象の大きさ(小ささと言うべきか)と照射エネルギーの大きさの問題が、量子論の不確定性問題に関わって来るんでしょうけどね。

又、対象が王様であるかどうか、裸か着物を着ているかの判断も、それまでの脳内の記憶との検証でしょう。

○子供が猫氏の子供であるかどうか、若し問題になった場合、今ではDNA検診などで多分簡単に特定できる筈です。
私は幸いそう言うややこしい問題に巻き込まれたことがないので、詳しいことは知りませんが、これって科学じゃないんですか?

○嗅覚は充分に生化学的な問題でしょう。これもいちいちその過程に科学を意識しないだけです。
最近自分の臭いを気にする人が増えているようです。深刻に悩む人はお医者さんに相談するでしょうね。本当に臭いかどうか?、それはどう言う原因か?、対策は? 等など。
医学を含めた科学以外に一体何が対応できるのですか? おまじないですか?

○順序が前後しましたが、ブスか美人か、ぶ男かハンサムかは進化生物学の適応にも絡む問題だと思うので少し立ち入ってみます。

猫氏が或る女性に対し「ブス」だと感じるとき、そもそもどう言う判断基準でそう思うのですか? 個人個人の嗜好の問題も有るでしょう。これにも色々な科学が関与できるとは思いますがその前に、ブスとか美人とか言った場合、大方の(人種や時代によって基準は異なるにしても)人類で共通の判断基準がほぼ確立されています。猫氏が美人だと思う女性は、多分私も美人だと思うでしょう。

私が思うにこの判断基準はおそらく人類の歴史の中で形成された適応的なものでしょう。つまりはダーウィンが提唱し、トリヴァースなどが拡張した「性淘汰」が基礎になっている筈です。
足の長さやその真っ直ぐさ加減、顔や体のプロポーション、シンメトリーの程度、皮膚の滑らかさ等は、その個体や血統が、充分な栄養を確保できるだけの狩猟能力を持っていること、ウイルスや寄生虫などのパラサイトに強いこと、或いは相手がメスで有った場合、多産系であるかどうか、等などのシグナルとなった筈です。
遺伝子DNAそのものは見えないが、目に見える判断基準として配偶相手に示す指標としての機能を果たして来たのでしょう。

そしてそう言う配偶相手を選択したものが、結局はより多く子孫を残し、その子孫にその遺伝子を残すことが出来たのでしょう。その子供は同じような判断基準を親から受け継いで来ただろうし、我々はその子孫で有る訳です。
今、その歴史的な経過をいちいち意識することはないが、相手を見て直ぐに美人かどうか、ハンサムかどうかを判断するその基礎に、おそらく長い生物と人類の歴史が横たわっているのでしょうね。

358:2008/02/19(火) 07:31:12 ID:QpQGFxc6
私の考えが絶対正しいなどと断言する積もりは毛頭有りません。色々な考えが有るでしょう。
しかし、進化論掲示板の常連である猫氏に、こう言った適応的な視点が若し全く無いとしたら、そのこと自体私には信じられない驚きです。
他人に対し「科学主義の病状」などと揶揄するのも結構ですが、私の心配は猫氏の「非科学的蒙昧」です。


えーと、ここで猫氏の批判については一応逐条的に対応したことになるのかな。
まあ、正解かどうかは各位の世界観や問題意識にも拠ることだし、私はその部分にまで「教導権」を発揮する積もりは有りません。つまり「正しさを独占」する積もりは有りません。全て私の考えに過ぎません。
そうでない考え方について「それはそれで、いいんじゃないの」と思うだけです。猫氏がどのように思おうがそれはカラス、じゃ無くて猫氏の勝手です。

359:2008/02/19(火) 07:31:46 ID:QpQGFxc6
RE NAN氏

NAN氏との一番の問題は「人間の『愛』の感情」についてです。この件は最後にまとめておきます。その前に………、

>神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。
>まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。

私は「自然科学的な実在」などとは言ってない筈ですがね。単に「神の実在は、」でした。
その意味で今の聖職者が「神の実在」を否定しているかどうか、それは多いに疑問です。
第一、教会が最初からそんなに物分りが良かった訳ではない。西暦の2000年間を通してみただけでもつい最近のことですよ。地動説を認めたり、かっての宗教裁判を自己批判したりしたのは。

およそ1000年間に及ぶ中世と呼ばれるヨーロッパで、何十万人もの人が、一方的な「魔女裁判」によって、考えられる限りの残酷な刑が処されましたが、それを躊躇しなかったのは、そこに神の実在と悪魔の実在を信じていたからじゃないですか? 或いはそれを煽った陣営が。
そうでなかったらとてもじゃないがそんなことを、普通の人が出来る訳がない、と私は逆に信じたいんですがね。

ガリレオの宗教裁判、ジョルダーノ・ブルーノの火刑もそんな遠い昔じゃないですよ。
そもそもダーウィンが「種の起源」の発表を延ばしたのは何故ですか? 教会への配慮でしょ?
そして今でさえアメリカ南部などでは、IDに姿を変えた「創造論」を、教育に持ち込もうとしている人が現実に大勢いるじゃないですか。

トマス・アクィナスの一生を知ってますか。
猫氏お得意のWikiに拠れば「カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人」だそうです。至って「まっとうな信仰を持つヒト」ですが、彼の一生は神の実在証明に捧げたものでした。その他大勢の賢人がそれに携わったんですよ。

今はね、そんな努力をしても報われないことが分かっちゃったんでしょうね。「まっとうな信仰を持つヒト」は。神の存在証明なんか諦めて、科学との折り合いをつけることを自覚しているだけです。
かと言ってその人たちも「実在しない」と断言する訳には勿論行かない。そのギリギリの「折り合い」の付け所として、不可知論が機能する訳です。「本当のところは分からない」として。
私はそう思っています。

360:2008/02/19(火) 07:32:13 ID:QpQGFxc6
>>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません(>>314;)。
>あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。

元々はNAN氏の「妖精はいる、いないに付いての、どちらの主張も等価」に対する、私の異議申し立ての中で述べたものです。
神は反証できないし、スパモンも同じです。「自然科学的な意味における実在」であれ「ある個人または集団内における経験としての実在」であれ、その点でも両者は等価(NANさんお得意の)なんですよ。

予め言って置きますが、NANさんがどんな理屈を捏ねようと、神とスパモン、或いは空飛ぶティーポット、そして最近私が見た「化け猫に跨って空を飛ぶ生ゴミ妖精」の区別は出来ませんよ。
神もスパモンも、信者にとって「いつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。」と言う点で等価なんですよ。

現在スパモン教(FSM教)の信者は1000万人に上るそうです。私も最近入信しました。何しろ洗礼も会費も要らない。天国にはビール火山とストリッパー工場が有るそうです。祈りの言葉は私の大好物「ラーメン」ですし。
私はスパゲッティモンスターの実在性を、少なくとも神よりは根拠を持って説明できます。


>>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

>どんなまとめだよ(ゲラゲラ。事実の矮小化を勝手にすんな

私の言う通りでしょうよ。
私は「神の不在証明」を宗教の側に向かって声高に叫んでいる訳では有りません。「私には必要ない」と言っているだけです。
私が神や宗教に対し容赦無いことを言うのは、ここが「科学系」の場だからです。宗教の座敷に上がり込んでこんな出しゃばりはしません。それは多いに失敬なことですからね。
私は科学の側に物申したいだけです。

逆に、意見の違いに対してさえ、あたかもヤクザの出入りを彷彿させるような言い回しで、血相変えて対応される御仁に、本当に「思想・信条の自由」の尊重を期待できるかどうか、私は大いに疑問です。

361:2008/02/19(火) 07:32:45 ID:QpQGFxc6
次に繰り返し問題になっている「愛」の問題です。

最初に事実関係だけ確認しておきます。私が論じているのは「人間の『愛の感情』の起源」の問題です。「人間の」「愛の感情の」「起源」です。308,313,319,321,327,330を見て貰えば分かりますが、このことは一貫しています。

既に繰り返し繰り返し述べていて、NAN氏との間でも殆ど水掛け論になっています。私はNAN氏がどのように主張されようとそれは「それでいいんじゃないの」と思っていますので、ここで特に争う積もりも有りません。
「自己愛」だか「親子の愛」だか知りませんが、そう言うものに突き動かされて大腸菌やゾウリムシが細胞分裂し、カビが胞子を作り、竹がタケノコをはやし、杉が花粉をばら撒くと理解されても、それはそれで結構です。
私はそんなものを持ち込まなくても、そのこと自体生物の本質、自然現象で、いわば利己的な遺伝子の仕業として解釈しています。

哺乳類はその定義上、全て例外なく母親の子育てが見られます。ネズミやコウモリの授乳に「母子の愛」の感情が有るかどうか、私は知りませんが、そんな感情が仮に無かったとしても、哺乳類なら必ず見られる、いわば生物としての「自然現象」です。

ゴリラやチンパンジー、ボノボに「母子の愛」の感情が有るかどうか、それは難しい問題です。しかし若しそう言う感情が有ったとしてたら、ゴリラとチンプ、ボノボでは、全く違った内容である筈です。
ゴリラはハーレムを作り、しばしばその主(ボス)が交代します。ボスの交代によって頻繁に「子殺し」が見られ、ある報告では新生児の37㌫がオスによる子殺しだとの観察が有るそうです。
ボスに子供を殺され授乳が途絶えたメスは途端に発情し、子供の仇であるオスを受け入れます。「母子の愛」が先行、優先していたら考えにくい現象です。いい悪いは別としてこれはゴリラの自然現象です。

チンプやボノボ、特にボノボは乱婚によって、子供の父親の特定が難しいでしょう。そもそも父性を混乱させて子殺しを防ぐことを目的に、メスは乱婚を発達させたと言う説が有る訳です。そしてそれに対応した「愛の感情」になる筈です。
ゴリラにしてもボノボにしても、その配偶関係は、それぞれ置かれた環境による自然的な適応であって、「母子の愛」「親子の愛」の感情が有るか無いかとは又別の問題です。

ヒトは直立二足歩行と脳の増大により、メスの難産、新生児の無力化、その後の長い子育てが必要となり、メスだけでの子育てが困難になりました。
適応上、ゴリラやチンプと又違う感情が発達したと考えるのは当然でしょう。そう言う「人間の『愛』の感情」を私は論じていたのです。
ペアボンド仮説と言うのが有って、ヒトの配偶関係とその絆の起源を、私の言うように説明する説と、もう一つ、メスだけでいるとオスからの暴力に晒されるので、特定のオスとペアを組むと言う説の二つが有るようです(「進化と人間行動」長谷川寿一・長谷川真理子−220ページ)。

本来、一夫一妻制はそれ程普通に見られる配偶関係と言う訳ではなく、どちらかと言うと特殊な形です。鳥に良く見られますが、それも抱卵、給餌、空を飛んで餌をとる訓練などなど、メスだけでの子育てが困難だからこそです。

繰り返しになりますので、これ以上は述べません。
配偶関係の研究は純粋に進化生物学的な分野だし、その中で「愛」の感情の起源を考えることは純粋に適応的考察です。
私に対し「メスを犯したくて仕方ないから」「ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ」「素晴らしいエレクチオン肯定理論だ」などと揶揄するのは勝手ですが、私からするとゲスのかんぐりとしか言いようが有りません。

362:2008/02/19(火) 07:33:11 ID:QpQGFxc6
次にNAN氏から執拗に求められている「愛」の定義です。
大昔、仲間と恋愛論などをたたかわせていた頃は「相手を独占したいと思う持続的な感情」等と理解していました。
今なら、そうですね、ヒトだけでなく広く一般的な定義としては、例えば次のように言えるかも知れません。
○肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
○配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。尤もこれだと、オランウータンなどに見られるレイプすら「愛」になってしまって………、中々難しいですね。
その他、犬に対する愛、モノに対する愛など、幾らでも有るでしょう。

人によっても解釈は違うだろうし、(>>327;)でも述べたように、既にここまで発達した人間の「愛の感情」は複雑多岐に渡っていて、それを全て定義しつくすことは私にも出来ません。
NAN氏が(>>338;)で述べている「子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?」これらも、確かに愛の発露でしょう。

問題はそれらの感情が、最初からヒトに備わっていた訳ではない、と言うことです。私はその芽生え「起源」を論じていたのです。
そしてその元々は漠然としたものから発達したであろう「愛の感情」の起源を考えるのに、現在の高度に複雑化し多岐に渡っている「愛」の全てを定義しつくさなければならないなどと言うことは有りません。
尤もNANさんが、それら愛を全て定義しつくした上で、自己愛なり親子の愛なりの起源を論じるのであれば、それはそれで結構なことです。


>>段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。 (>>338;)

包囲? 何か勘違いしていませんか? 私は別に勝ち負けでここに書き込んできた訳じゃ有りません。
NAN氏の「包囲」は殆ど参考になりませんでしたが、私の主張に対し、間違いを指摘してくれたり、教えてくれる「包囲」であれば、それは多いに歓迎するところです。その分自分の間違いを正し、利口になれることですからね。
「ヒト起源について」の中で、私の「前適応」についての間違いを地下猫氏、NAN氏から指摘してもらいました。私は自分の勘違いに気がついた時点で、直ぐに指摘を受け入れ、自説を撤回し、迷惑を謝罪した筈です。
私は勝ち負けや面子に拘って、間違いや勘違いしたまま突っぱねようとは思っていませんからね。

しかしいずれにしても既に水掛け論の様相であり、私も同じことの繰り返しです。
全体としても撤収モードのようでも有るし、ぶり返した私がこんなことを言うのもなんですが、今後同じことのやり取りは対応しかねる場合が有ります。勿論必要に応じてのコメントはしないでも有りませんが。

363NAN:2008/02/19(火) 19:59:04 ID:G81kGdtk
せっかく長々と書いたようなので、レス差し上げましょう>雄クン。

さて、ギャラリーにとっても水掛け論に見えるであろう部分は、必要に迫られるまで置いておいて、私から見てキミが決定的に間違っている、もしくは、間違い始めたポイントから指摘しよう。それは>>356が明確だ。

>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

重要な問いとは、云うまでもなくヒトがアイデンティティを確立したり失ったりという、人生において重要な岐路となるであろう様々な「問いかけ」を指すものだろう。こうした様々な問いかけは幾億通りも考えられるけれど、その代表的なものとして『私は、ヒトとして、正しく生きているだろうか?』というのがある。これは自己に問うだけではなく、社会からも常に問いかけられる。また、その答えも決して「正しいor間違っている」ではないだろう。視点、立場、思想信条、行為や動機、さまざまな状況によって変化するものでもある。

私が例示した「問いかけ」に同意しようがしまいが、それは構わない。ただ、重要な問いはおおよそ似たようなものであろう、と思う。
こうした問いに対し、科学がもしなにか答えるのだとしたら、その時点でそれは科学と云えるのだろうか?

>私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

つまりこれだね。
偉大なる雄クンは、愛の起源を科学的に解明した、と抜かしている。だがもしも万が一、それが一方的に雄クンによる正しい説明であったのだとしても、それが「問い」に答えたことになるのだろうか?「どっちの自動車を買うべきだろう?あの自動車の方が燃費もいいし価格も安いからこっちにしようか」くらいの「判断の材料」にはなる。またそれは地下猫氏も認めていることだし、私も認める。
いいかね?「判断の材料」になることくらいなら、誰もが最初から認めているのだ。ヒトの問いがすべてにおいて、いわゆる「合理」に従うのであれば、その判断材料の意義も大きいものになる「ことがある」かも知れない。しかしヒトは、すべてにおいて合理に従ったりしないし、時にはまったく勝ち目のない勝負にさえ打って出る。それは「間違い」だろうか?負けても、全力を尽くしたのであればそれで満足、という価値観だって尊重すべきだろう。これら「価値観」に対して科学はほとんど無力だ。また、無力であるべきものなのだ。(そう、その勝負にはきっと負けるだろう、という分析の手助けくらいにはなる。それだけのことだ)

364NAN:2008/02/19(火) 19:59:35 ID:G81kGdtk
■ポイント1:愛という価値観について
そして次に、再び「ヒトの愛の起源」について論じてくれたわけだけれど、私は>>311でも述べているが「ヒトは愛を持っているのか?それさえも疑問だ」と述べている。これも重要な問いだが、なにか雄クンは有効な判断材料を私にくれただろうか?雄クンが愛であると主張する情緒について、「血縁者を差別的に優遇したり配偶者を庇護したりする情緒的正当化であって愛ではない。ただしそれが適応的であることは認める」と私は述べているのだが、これにはどう答えるのだ?科学がなにか有効な知識を与えてくれるのか?「そんなの愛じゃないよ」という『価値観』を持つ相手に「愛の起源の科学的説明」をしたところで「それも価値観でしょ?」で終わりではないのか?さらに、愛はなぜ「他者に対しての感情」でなければならないのだ?

■ポイント2:愛の定義について
>>362
>○肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
>○配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。

科学がもしもこれらを定義し、それを「正しい」と主張するのであれば、それはすでに科学ではない。なぜなら科学は思想や信条ではないのだから。しかしそれは「雄クンの価値観における愛」ではあるのかも知れない。であるのなら、雄クンは、自らの価値観を「科学的に正しい」と主張している。これは悪しき科学万能主義そのものではないのか?

■ポイント3:そうした情緒の起源にまつわる科学的説明について

それが「愛であるかどうか?」はペンディングしたとしよう。そこで、とにかく好意的な情緒や感情の起源を探るのだとして、なぜそれを「自己愛」に求めないのか、私にはいまだにさっぱり分からない。ヒトが最も苦しめられる感情は、他者に対してのものではない。自分に対してのものであることを雄クンは知らないのだろうか?所有欲や繁殖独占欲を愛だなんていわないよな?無論、それらは適応的だが、暴力の芽になる。それが愛か?

また、今では複雑多岐に亘った「愛と云う情動」の漠然とした起源を辿るのであれば、どんなに辿っても構わないはずだが、なぜそれはゴリラやチンプで留まらなければならないのだ?その科学的根拠はどこにあるのだ?また「今では愛として複雑に広がったが、それ以前の漠然としたもの」であるのならば、ただの好感情で良いのではないのか?情動・感情・情緒、どれも似たようなものだが、それらが「好悪」に大別されることは科学的に説明がつく。たとえば適温下に飼育される幼獣は好感情を発現する。飢えと満腹も想像がつくだろう。つまり生理的要求と基本的な情動は密接に相関していて、個体の生存本能を表現している。それはヒトだって同じことだが、こうした情動が「漠然とした好感情の起源ではない」という説明になにか少しでも説得力があるのか?

少なくとも私は「それを愛と宣言すること」に甚だしく慎重なのだよ。私にとっての愛は、他者にとってはまったく違うものかも知れない。また、それで良いと思う。雄クンの偏狭な愛について、私がひどく憤慨しているように見えるかい?違うよ。バカを無視できない自分の在り様に苦しんでいるのだよ。つまりそれが自己愛さ。

365AH1:2008/02/20(水) 18:31:51 ID:sNMJ1V0Y
またもKYなレスをば。

雄さんが愛の生物学的基盤を理由に科学的アプローチがあり得る、というのであれば、
妖精を見たという主張や、妖精の羽を何色とするか(何色に見えたか、何色がそれらしいと思うかetc.)についても脳科学的なアプローチはでもできるわけで・・

しかしそういう話じゃなかったと思うのですね。

366GB:2008/02/20(水) 22:28:29 ID:FIGS80us
>重要な問いとは、云うまでもなくヒトがアイデンティティを確立したり失ったりという、人生において重要な岐路となるであろう様々な「問いかけ」を指すものだろう。

で、それについてはサイエンスは直には口ださねーよっていうのがNOMAだと理解してますが。

367:2008/02/20(水) 23:41:59 ID:sUQ1SW32
RE AH1さん

>雄さんが愛の生物学的基盤を理由に科学的アプローチがあり得る、というのであれば、
>妖精を見たという主張や、妖精の羽を何色とするか(何色に見えたか、何色がそれらしいと思うかetc.)についても脳科学的なアプローチはでもできるわけで・・

まあ、後はAH1さんご自身がどう思うのか? と言う問題なんでしょうね。


「私は先日『化け猫に跨った生ゴミ妖精』を見ました。羽根はしょぼくれて今にも落ちそうでした。羽根の色はドドメ色でした。ホントですよ」

この私の、妖精を見たと言う主張に対する「脳科学的なアプローチ」と、人間の愛の感情の起源に対する「進化人類学的アプローチ」が、科学的考察として同等だとAH1さんが言われるなら、AH1さんの言う「そういう話」になるんでしょうね。

でもそう言うことになると、今度は………、
まっ、それはAH1さんのコメントが有ってから考えることにしましょうか。

368NAN:2008/02/21(木) 05:10:05 ID:Th2gBHro
さてさて、夕べは書きかけだったので、もう少し詰めておこうかな。
論点を戻そう。

>>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>>3
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」

これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。
また、さらに、

>でも、これまで人類全体の学んできたことの蓄積と、それらの敷衍状況を鑑みれば、十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならば、もう、そんなモノに頼る必要もないだろう。

という後悔と懺悔さんの提示した主張に対して、私は反論したり考察したりしている。他の参加者も同様だと思う。

これほど簡単な読み違え、もしくは「本論のすり替え」を行い、自説を詭弁ではないと言い張れる心証というものを、私はまったく理解できない。これが分からないような論者を相手に礼儀など尽くす必要はない、というのが私の判断なのだ。そう「問い」は最初から「科学には答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」であるのに、いや科学は答えられるand orノータッチではない!と言い張る雄クンの馬鹿脳ぶりにはまったく感服する。

つまり、雄クンの中心主張は「科学は重要な問いに答えられる」ということだよね。しかし、科学に答えられない問いに答えた段階でそれは科学と云えるのか?「私はどのような愛を信じ、思い描き、自らに課すのだろう?」というような問いかけに、適応的意義を説くという暴力的啓蒙主義(もしくは話にならない科学万能主義)を信奉する屑脳を相手に、もっと明確に簡潔に「屑さ加減」を指摘できない私は、自分の文章力にうんざりしている。あるいは知的限界の低さにね。

369NAN:2008/02/21(木) 05:14:56 ID:Th2gBHro
もしかしたら…雄クンはこんなことも分かっていない可能性が(如実に)あるので一応指摘しておこう。

科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。
きっと分かっていないんだろうな。

370:2008/02/21(木) 09:28:31 ID:sUQ1SW32
>>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

>昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」
>これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。

その文句は(>>21;)猫氏に言ってチョ。

「科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?(>>21;地下猫氏)」

それにそもそも私は私の科学観に対する猫氏の揶揄に応対しただけ。わざわざ(>>3;)に立ち返って直接それに見解を述べた訳じゃない。
自分でレスを求めておいて、その反論の内容がどこかで述べた自分の枠組みに当て嵌まらないからと文句を付ける。
ここにも「議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者」な方が、約1名、いらっしゃるようだ。


>科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。

上記の主張が科学に対する特定のイズムだと「こんなことも分かっていない可能性が(如実に)ある」御仁が、ここでも約2名いらっしゃるようだ。

「価値中立」を放棄するかしないか? 「価値に対する問いかけ」に答えるか否か? そもそもその時そこに「価値」が有るかどうかの、その「価値判断」は一体何時、何がするんですか? 神ですか? それともそれは先見的に、或いは生得的に人類に備わっていたモノですか? ん? NANさん。

この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、「『価値に対する問いかけ』に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。」とする主張が、「それはもう科学ではなく思想や主義である」と言うことになってしまうことに、どうして分からないのか?
そんな論理矛盾の無力な「科学」だから、「王様」「誰の子」「ブスの女性」「臭い」、こんなことに対してさえ解答不能となってしまう。


科学が、対象に対する有りのままの像を意識に反映することと、そこに価値が有るかどうかは、全く次元の違うことなのに。
「この子」が猫氏の子供であるか、別の誰かの子供であるかは、純粋に事実関係の問題だ。それによってどんな悲喜劇が発生するか、それは又別の問題だ。


このような、毎度毎度のNAN氏のスコラ的アレコレに、逐一のお付き合いは致しかねるので、NAN氏がどのように思い、私を評価なさろうと「それはそれでいいんじゃないの」とだけ申し上げて置きます。
だんだん「おたっしゃでー」の世界になって来たようだ。

371ちょちょんまげ:2008/02/21(木) 11:50:10 ID:vUxNW.gI
えーっと、まず基本的に私は、雄さんの「どんな対象を考え、述べるに当たっても裏を取ろうとする態度」(証拠を求めたり合理的に考えようとすること、かな)に好意を持っています。(果たして的確に表現できたかどうかちょっと自信がないです。違ってたらごめんなさい。)
また、猫さんやNANさんが罵倒、侮蔑モードに入ってしまうことに批判的で、あまりうれしくありません。というのは、ここには私も末席を汚す他の参加者や恐らくギャラリーもいらしてる。そして、誰かが罵倒、侮蔑モードに入ってしまうと、おっそろしくて口も出せなくなってしまうからです。(特に私のように、ここで発言することに敷居の高さを感じているものには。)
批判は批判でかまいませんが、「ここがこう間違っとる!」にとどめてもらいたいなぁと、思っています。
私は、雄さんのご意見を読むのは楽しみですし、得るところも多いと思っていますので、雄さんが書き込みなさらなくなったら、やはり寂しく思います。

で、今回の書き込みなのですが、私の理解不足ゆえかも知れませんが、ちょっとよくわからないところがあったので、ご説明いただけたら幸いです。

>この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。
>そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

NANさんがおっしゃっている「価値」とは「人生の意義とはなんぞや」とか、「A女とB女では、俺に取ってはB女がよりセクシーである」とか、「俺はあの音楽よりこれのが好きや」ってなことですよね?そこで、それに対する科学的なアプローチは、私はありうるとは思っており、どうしてそういう価値観が生まれてくるのか、という説明はいずれ可能になるかも知れませんが、「じゃぁ、客観的にはどっちが価値があるのか?」には答えられないと思うのです。
その上で、後悔と懺悔さんとか私とかは、「科学は個人個人の価値観には立ち入れない」というところでは同意はするものの、「あまりにもエキセントリックで危険に思える宗教・信仰という価値観」の根拠薄弱性を指摘しようとしているんだと思うんですよね。「根拠薄弱性」そのものを指摘することは、「立ち入る」とは違うと私は考えています。
ですから、科学は「価値観の由来」みたいなことはいずれ説明可能にしちゃうかも知れませんけど、その説明とこのスレッドの話はちょっと違うように思えるのです。
科学は「価値」の一側面については何かしらの解答が出来るかもしれませんが、「価値」は科学が解答不能の側面も持ち、それに解答できるとしたならば「科学」ではない、ということではないでしょうか。

蛇足ながら、「中立」については、科学以前に人が信じてきたことを、科学は多かれすくなかれ、好む好まざるに関わらず否定してきちゃってると思うので、私にはある意味疑問符ではあります。(まぁ、あえて中立を破るかどうかの話ではあるのでしょうが。)
雄さんの本意を理解していないマヌケな書き込みであったなら、容赦なくご批判ください。

あと、これがよくわかりませんでした。

>自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、

上記のような意味の「価値」を「科学の定義に織り込んだ」書き込みがどれのことだかわかりません。おせーてください。

372AH1:2008/02/21(木) 11:55:17 ID:sNMJ1V0Y
>「私は先日『化け猫に跨った生ゴミ妖精』を見ました。羽根はしょぼくれて今にも落ちそうでした。羽根の色はドドメ色でした。ホントですよ」

さて、この言明については様々なアプローチが可能かと思います。
幻覚であった可能性が高いと考え、脳が幻覚を見せる機序と進化的基盤を考えることもできましょう。脳科学がまさにこれをやるでしょう。未知のレセプターが作用すると、天使が見えたり宇宙人が見えたりゾンビが見えたりする・・・までいくとSFですが(ブレイン・ヴァレーですね)。
何故生ゴミ?何故化け猫?といった点については、「最近、猫と関わりがあったのか」「猫は何かのメタファーか」といった心理学的な考察も可能でしょう。「しょぼくれて落ちそうなドドメ色の羽」は何かの錯覚?雄さんの心理的な状態の投影?雄さんの育った文化の影響?個人的な経験によるイメージを視覚化したもの?
また、生ゴミ妖精の目撃談を科学的事実として扱う場合、「現在の科学では到底考えられないが、そういう証言がある以上は実在の可能性もゼロとは言えない」以上の事は言えないでしょう。前に何度も書いてますが、「まずあり得ないことは重々わかってるがゼロじゃない、自分は存在する可能性に賭けてみる」という人は必ずしも「イッちゃってる人」じゃありませんよ。

こういうように、様々な考察は可能だと思います。
しかしながら、元の話題はこういう話だったのでしょうか?私は違うと思うんですが。

例えばもっと文化史的に、「妖精を見たとする例」を集めるだけでも意味はあるんじゃないですか?例えば「宇宙人と出会った」という証言がアメリカに多く、かつ近年はみんなリトル・グレイみたいな姿である事についても、妖怪談のような「ある集団に共有される恐怖の対象の姿」という歴史・文化的な解釈も可能ですね(これもブレイン・ヴァレーですがね)。宇宙人の実在は関係ないし、生物学的基盤を直接考えなくても可能でしょう。
またこれが妖精という存在になると、歴史的な自然観、宗教観、土俗宗教との関連などなど、様々な分野において解釈可能であり、それぞれが「歴史学」「宗教学」「民族学」たり得るものでしょう。
そして、最初の問い・・自称妖精学者に聞くことは馬鹿げているか?についてですが、彼が「妖精学者」と言われるくらい妖精に入れ込んだ民俗学者であった場合、全く問題はないでしょう。もし自称「妖精学者」でありかつビリーバーであったとしても、その事「そのもの」に即座に問題がありましょうか?要は役に立つ情報を与えてくれれば良いわけでしょう。

ちなみに一番最初に戻って、妖精の羽の色を知りたいとします。雄さんの見た「生ゴミ妖精」は、その一般性の位置付けができてきるのであれば使える情報でしょう。一例しかないのでは妖精一般の羽の色かどうかわかりません。
(ビリーバーさん・・というか困った自称専門家がいるとすれば、「ワシの見たのはこうだった、だからそれが全てだ!」とか言い出す場合でしょうね)

373AH1:2008/02/21(木) 13:06:14 ID:sNMJ1V0Y
連続ですいませんが補足します。
なお、歴史学、民俗学などいかなる**学であれ、ヒトという生物が行うことですから、生物学的基盤を求めることは恐らく可能でしょう。その事について異論はありません。しかし、その事「だけ」をもって全てが科学の対象である、と述べるのは違和感を覚えます。
言ってみれば「生物体は化学物質でできており、化学反応によって作動するのだから生物の振るまいは化学によって記述できる。よって化学だ。」「生物体は物質でできており、その動きは物理法則に従うのだから物理学的に記述できる。よって物理学だ。」というような感じでしょうか。
そういうアプローチがあるのは当然だけど、他のアプローチだってあるじゃん、という事ですし、もともと議論されていたのは「他のアプローチもあるんじゃね?」の部分だったのではないかと思うのですが。

374NAN:2008/02/21(木) 16:43:11 ID:7MCnS5sU
>>371

悪い、ごめんね。
私は私の「善性」を否定しているのです。私は悪しきモノだし、自分に絶望している。それはこの議論で述べてきたような意味においての絶望なんだけど、私が罵倒することによって、私自身が無数の読者から罵倒されているのだ、ということを承知しています。まぁこれは私の主義信条のひとつで、決して自分の善性を肯定してはいけない、というルールを自分に与えている、ということかな。かといって無闇に誰でも彼でも侮蔑しませんが(笑。相手は慎重に選んでいます。

まだ地下猫氏から発言がないので指摘を保留していることもあります。実はそこが根本なんだけれど、私が先に云うべき事象ではないだろう、ということですかね。さてさて、そのうえで…

>蛇足ながら、「中立」については、科学以前に人が信じてきたことを、科学は多かれすくなかれ、好む好まざるに関わらず否定してきちゃってると思うので、私にはある意味疑問符ではあります。(まぁ、あえて中立を破るかどうかの話ではあるのでしょうが。)

これは一段階メタな議論です。つまり、科学とは倫理に代表される価値観を左右するものではない(=価値に対して中立)、というコンセンサスが通じるか通じないか、という話です。
アインシュタインが物質とエネルギーの基本原理を導き、原子爆弾のアイディアが生まれ、ヒロシマとナガサキに投下されたことについて、理論そのものを非難すべきかどうか?という点に繋がります。アインシュタインを非難することも、フォン・ノイマンを非難することも、オッペンハイマーを非難することも「アリ」と私は思いますが、E=mc^2を非難することは意味のないことだ、と思います。この数式は「物質は恐ろしいほどのエネルギーに変換できる」ことを示唆し、重要な判断材料として有効ですが、それを使用したらどうなるのか?その「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当なのかどうか?ということです。

もし科学が価値中立を守らない、あるいは価値判定を行い、なんらかの「重要な問いかけ」に対する答えそのものを支持したりするのであれば、優生学なども科学は支持していることになります。よくある進化論への誤解で、「より進化した個体は優れている」とか、そういう価値判断の支持を行うのが科学でしょうか?これは特定条件化における有利・不利という科学的示唆を、そのまま価値に当てはめた例ですが、妥当でしょうか?

375地下に眠るM:2008/02/22(金) 04:57:57 ID:QQh34wwI
>NAN
思っているところが同じかどうかはわかんにゃーけど、お好きに言っちゃってくださいにゃー。
雄くんの文を読むと頭が痛くなるので、ひまーな時にレスを返すつもりですにゃ。
しかしさ、ほとんど反論する必要はなさそうなんだけどね。


>ちょちょんまげ
えとさ、「はっきりいって、おまえ、くさいよ」といってしまうことが科学だと思うのかい?
僕は馬鹿以外を馬鹿にしたことはにゃーぜ。



ああ、そうそう、雄くんによれば以下の言明も科学だよねシリーズに追加
・「なぜ、ガルマ・ザビは死ななければならなかったのか?」(←重要な問い) 「坊やだからさ」

376:2008/02/22(金) 09:17:09 ID:sUQ1SW32
RE ちょちょんまげさん


>………雄さんのご意見を読むのは楽しみですし、得るところも多いと思っていますので、雄さんが書き込みなさらなくなったら、やはり寂しく思います。

どうもこの掲示板では珍しく好意的な評価を頂き、慣れないことで逆にすこし勝手が違って………。
私も出来れば、見解の違いは違いとして、自分と違う視点も参考にさせてもらい、少しばかり背伸びしたところでの知的興奮を味わいたいものだと、まあそう言う思いも有って書き込みに参加するのですが、どうもいつも袋叩きです。
でもおかげで最近は、議論の中身での知的興奮でなく、その人となりが透けて見えると言う「知的(痴的?遅的?恥的?蜘的?稚的?血的?乳的?)興奮」を味わっています。


RE 猫氏
>雄くんの文を読むと頭が痛くなるので、
…でしょうね。
健康の為お酒の飲みすぎには注意しましょう。


>ああ、そうそう、雄くんによれば以下の言明も科学だよねシリーズに追加
>・「なぜ、ガルマ・ザビは死ななければならなかったのか?」(←重要な問い)「坊やだからさ」
私には全然重要でも何でも無いのですが、(>>357;)で私は次のように述べています。
>>実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わない猫氏の感覚を逆に疑います。
「実在的な事象に対し」とね、ハッキリ書いていますよ。
ガルマ・ザビが実在していて(そう言う名前の人も、世界には実際居るでしょうね)、不自然な死に方をしたら、当然検死の対象になるでしょう。「なぜ死ななければならなかったのか?」と。

でもホントーにこんなことも考えられなかったんですか? 信じられません。
ん? いやー若しかしたらマゾっけが有るのかな? 最初はサドか知らん?と思ったことも有ったんですが。
…って、あっ、ちょっと乳的になってしまいました。失言です。

>しかしさ、ほとんど反論する必要はなさそうなんだけどね。
出来ましたら、是非このまま捨て置いて下さいな。私ももういい加減に痴的、血的興奮からは開放されたいと思っている「今日この頃」。


実は今日から3日程、ネットから離れます。
ちょちょんまげさん、AH1さんへのコメントは、又帰ってからの仕切りなおしと言うことで、宜しくお願いします。

377ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:43:40 ID:vUxNW.gI
>NANさん
こちらこそ恐縮です。これからもよろしくです。

>まぁこれは私の主義信条のひとつで、決して自分の善性を肯定してはいけない、というルールを自分に与えている、

ゴルゴ13みたいな方ですね。(笑 そういうハードボイルドの主人公を思わせる姿勢は、自分がなかなかできないだけに私もあこがれます。

>これは特定条件化における有利・不利という科学的示唆を、そのまま価値に当てはめた例ですが、妥当でしょうか?

無論、妥当だとは思いません。E=mc^2の例も「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当ではないと思います。
NANさんは私が何が言いたかったかお解りだと思いますが、これについてはまた改めて投稿してみます。

378ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:49:48 ID:vUxNW.gI
>猫さん

>僕は馬鹿以外を馬鹿にしたことはにゃーぜ。
いや〜、私も「馬鹿」じゃ人後に落ちないので、猫さんに罵倒されたらトラウマになりそうでこわいんだもん。(笑)

379ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:53:12 ID:vUxNW.gI
レス前後しますが、
>AH1さん

>ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。

そう言われっちゃうと、今度はなにやらさみしいんですよね。(笑)

380NAN:2008/02/22(金) 20:34:55 ID:tkzlrik6
ん〜、地下猫氏の書き込みもあったので、私もさらりと書いておこう。

繰り返しになるんだけどここ。
>>217:雄クン
>この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出し>できる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
>しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

上記の疑義を持ち出しているのはやはり雄クンなのだヨ。記憶に無いのか?
「科学に答えられない問い(しかも人にとって大切な問い)」=「重要な問いに科学は関与しない」などとは、誰も述べていない。この「どんなバカにも分かる甚だしい曲解」が雄クンの間抜け議論の始点にある。

それを>>370で恥ずかしげもなく
>その文句は(>>21;)猫氏に言ってチョ。

どういうすり替えなんだ?これは。
無論、口出しとか関与という言葉にも多義性がある。また、言語自体が情報として冗長性に富んでいるのでさまざまな理解や解釈が可能だよ。だがしかし、本スレッドの冒頭で「(重要な問いに対して)科学が判断の材料を提供できる」ことはとっくに宣言されているし、もしその程度の知識を私やほかの参加者が共有していないと雄クンが考えているならば、それはとんでもない侮蔑だ、ということさ。そう文字通り一切「重要な問いに対して科学はどんな干渉もしてはならない」なんてことは、誰も考えていないんだよ。

能天気な擬似科学万能主義のカタブツ君に問おう。
・夫婦に子供が生まれようとしている。しかし、出産の事前に胎児には身体的な欠損があることが分かっていた。だがそれは、致命的であるかどうかは分からない。可能性としては4割程度の確率ですぐに死亡し、7割程度の確率で無事に生まれても障害が出るであろうことが予想される。

このようなケースを科学的に想定したとき、夫婦は医師から告げられたEBMに基づき、インフォームド・コンセントを持たねばならない。さて、夫婦は生むべきか、生まざるべきか?
これこそまさに「ヒトとしてのアイデンティティに関わる重要な問いかけ」の代表なんだが、科学は十分に口出ししているよな?賢明な医師は科学的示唆として「生むことはリスクだ」と告げるだろう。夫婦はこの科学的言明について深く思い悩み、考えに考える。だがそれでもなお、実際の結論は「自由意志」に委ねられるべきだ、ということなのだが、もし科学「だけが」重要なのであれば、夫婦は決して生むという選択肢を持てないだろう。

上記のような「問いかけ」は常に私の中にある。恐らく、他の参加者の皆さんも同じだろう。まさかこういう想定ができないほど愚かな論者はいないだろう、と私はこの場を信頼している。だから礼儀を保つことができる。だがそれがかなわないときには、それこそ「議論とは関係ない重箱の隅突きに終始するウザいハエ」に対して、礼儀なんか保つのはバカらしい。

381NAN:2008/02/22(金) 20:35:40 ID:tkzlrik6
次。
>>354から>>355にかけて、主に哲学議論についていつもの逃げ口上を書き連ねる雄クンだが、>>231の原文によると
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

「現象をすべて知り尽くし、すべて汲みつくした」んであれば、論理的になにも残るわけないだろ?トートロジーじゃんか、これ。最初からそう思ってたんだが、まぁ雄クンだって(当時は)書き損じもするだろうし、私は哲学にさっぱり興味がないし、と放置していたのだが…猫氏がこれを指摘しても撤回どころか訂正の気配さえないのはどういうことなんだ?いまだラプラスの魔が有効だったような時代にはあり得る議論かも知れないが、こんな能天気な議論が高尚な哲学なわけないだろうな、と私は思っていたのだ。だがもしも万が一、ヘーゲルがこんなことを本気で述べたというソースがあるのなら、どうしようもないバカだってことになる。物質の存在自体が「現象」であることが知られていなかった時代の話だ、というなら譲歩できなくもないが、ならば雄クンの提示したヘーゲル(が云ったことになっている)の主張は現代において無意味だな。

>>355
>哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。

あら、じゃぁ哲学なんか必要ないね。少なくとも雄クンの哲学はここでの議論にまったく有効性を発揮していないようだし。つぅかこぉいう卑怯極まりない逃げ口上を述べるのが哲学なのか?物について言及しておきながら、物理学じゃないからいいじゃん!ってんならそれこそ「不可侵原則」に守られた教条主義そのものだね。それともある種の宗教なのか?哲学って。ならそれは経典だな。

さて、話は哲学でも愛の起源でもない。
何度でも問おう。

・ここにスポーツ選手がいる。40代になった彼は定期診断で自分の脚に悪性の腫瘍があることを知らされる。生存を望むのであれば、右足を膝から切断するしかない、と医師から告げられた。数週間後、彼は自殺を遂げた。

こういう話だって想定できる。先と同様に科学は十分に関与し、彼の人生に口出ししているが、彼の自殺はどういう風に科学が価値判断するのだ?
無論彼は、医師に応じて脚を切断することもできた。あるいは、他の医師を探し別の治療法を見つけることだってできたかも知れない。彼の死に家族は悲しみ、苦しんだことだろう。また、死を決断した彼自身も、ひどく苦しみ悩んだことだろう。

科学万能主義全開こそ至上の道であるなら、彼の自殺は絶対にあり得ない。苦しむことも悩むこともない。それが雄クンの主張なんだよな?科学が倫理を左右するのであれば、彼の自殺は絶対悪だ。それでいいんだよな。同情の余地なんか少しもないよな。

382e10go:2008/02/22(金) 22:47:49 ID:5/V6R9W6
雄さん、もう答えてくれないかもしれないけど、地下ネコさんの質問に便乗して、また質問させてもらいます。

・王様は裸じゃないか!
質問.見間違いまたは勘違いの可能性はないの。
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
質問.DNA判定も血液型判定も拒む女が言った事を、どうやって証明するの。
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
質問.沢尻エリカの事を、その様に書き込んだ掲示板を見た事があるけど、これは科学的に正しいの。
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
質問.他の人が、「臭わない」と言ったら、どっちが正しいの。(しかも後から確かめようがなければ)

この質問は、現実にありえる(ある)事を想定しています。回答は期待してませんが、気が向いたらで良いです。

383diamonds8888x:2008/02/24(日) 06:09:00 ID:jcR/Lf4.
ちょちょんまげさんの発言(>>371)で、ふと思いつきました。

> ですから、科学は「価値観の由来」みたいなことはいずれ説明可能にしちゃうかも知れませんけど、
>その説明とこのスレッドの話はちょっと違うように思えるのです。

 価値観の由来の説明というと、自然科学じゃなくて社会学や民族学の最大のテーマのような。普段われわれが当然と思っている何気ない行動や慣習の中に、実はジェンダーが隠れていた、とかいう問題など。
 価値観との相克のきわどさでは社会科学はとっても厳しそう。確かに教科書検定でも世間で話題が大きくなるのは歴史や倫理社会の教科書ですからね。

384NAN:2008/02/24(日) 12:49:57 ID:CTE40lKg
>>377
>ゴルゴ13みたいな方ですね。(笑 そういうハードボイルドの主人公を思わせる姿勢は、自分がなかなかできないだけに私もあこがれます

ゴ、ゴルゴか…(涙。
極論するとそういうキャラ被りかも知れないんだけど、掲示板で発言していると、その弊害として「NANは信頼に値するまともな人物だ」と思われることがあります。しかし実像はあまりにも違う。フリーランスで働いているので、利害に対して比較的自由ではあるけれど、そういうことにさえ敏感にならざるを得ない局面は多々あります。(特定のクライアントを批判することができない、など)
ですので、恐らくそれは誰にでもある実像との乖離を「恥ずかしい」と感じる私の無節操な抵抗でしょう。むしろ、暴言、乱暴こそ私の実像そのものなので、恥ずかしげなく受け容れられるということでしょうか。

>無論、妥当だとは思いません。E=mc^2の例も「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当ではないと思います。

もっと分かりやすい喩えとして「生命は大切なものである」という倫理の根底を成す(と思われる)言明があります。倫理価値として得られる論理的解は「生命を大切にしない=悪」ですし「生命を大切にする=善」ということになります。しかし科学はそれをいささかも担保してくれません。生命とはどんなものか?地球上の生物だけが生命なのか?生命にはどんな定義が妥当なのか?生命の起源はなんだ?みたいな疑問に対してなら、著しく有効な科学なのに、それが「大切かどうか?」には答えない。せいぜいが「個体の生命を守るのは、その個体にとって適応的である」という示唆が得られる程度であって、善悪を判断する材料にさえならないでしょう。思考節約の原理に基づくとしたら、善悪の科学的考察を何百フレームにもわたって繰り返すよりも、直接的に立法や個別社会における道徳知識に従う方がずっとシンプルです。(メタな議論を個別事象に当てはめることの不適格さ)

あらゆる対象を採取し、それを吟味し、理解するためのツールが科学である、と私は思います。先に出た議論と同様に、包丁や切り出しナイフやバイクや銃と同様のものです。「なにかを大切とする倫理価値観の起源やシステム」を理解することは、知識として有効です。それはバイクやナイフのマニュアルが有効であることと同様です。しかし、バイクの行き先はマニュアルに書いてありません。また、書き記すべきでもないでしょう。

385NAN:2008/02/24(日) 12:50:33 ID:CTE40lKg
つづき…
先の議論に戻ると、「生命を無闇に滅ぼし続ければ、食物連鎖の鎖が途切れてしまい、すべての生命が途絶えてしまう可能性がある」という科学的示唆は求められます。これは倫理に対する起源の答えのひとつとして有効でしょう。しかしヒトは「それでも生命を根絶やしにしたい」とさえ考えることがあります。それが行使されるかされないかに関わらず、ヒトの思考や要求は本質的に自由であって、自らに不利益であるはずの行為でさえいくらでも選択可能なのです。また現実に、そうした行為はいくらでも観察できます。

こうしたヒトのもつ本質的な自由意志、奔放な行動力に対して抑制を司るのが倫理や道徳であるとするなら、無論、宗教にその教導権を一方的に委ねることになんら根拠の正当性はないでしょう。しかしそれが「まったくない」と主張するのも大変です。おそらく不可能でしょう。それはこれまでの議論にもあるように、倫理や道徳はそれぞれの社会が持つ歴史や文化に基づく知識ですから、宗教的歴史や民俗的歴史という「知識」との分離が甚だ難しいことに由来します。さらに、自由民主主義の原則に従うのだとしたら、特定の主義主張を無視したり排除することの正当性をどこかから導く必要性にも繋がり「発言権を一切認めない」わけにはどうしてもいかないわけです。これは「神の存在証明」だとか「経典の蒙昧さ」の議論とは本質的に異なる次元の議論です。また、本スレッドの本論を考えるときに重視すべきは、むしろこの面であり、特定宗教・教団の妄言をいくら指摘したところで、それらが存在し一定の「層」を形成している以上、発言力として無視するわけにはいかない原則が社会にある、ということです。

「ダーウィンが進化論の発表を見合わせていたのは宗教に遠慮したからだ」という主張は正しいものですが、当時の時代背景と照らし合わせれば妥当な判断です。また、これをもって「宗教の弊害」と主張し、今の宗教を批判することは明確に間違っています。なぜなら「昔はそうだが、今はそうではない」という歴史的変遷を無視したものだからです。これは過去の犯罪歴を繰り返し処罰できない原則に通じます。
ある学派の中心的主張もしくは指導者の利害に対して、その学派に所属する者が革新的理論を提唱することは、利害の不一致によって揉み消されたり、発表を遅延させられることがあるのは、時代背景に関わらずいつでもあり得る話です。大阪で阪神タイガースを批判することの弊害や、広島でカープを批判することにより生じる軋轢があるからと云って、プロ野球ファン全体を批判したり、球団を批判することは「間違った一般化」ですが、利害と利害が一致しないことによってなんらかの軋轢が生じるという事象は、さまざまな社会的属性に対して当てはめて考えることが可能です。

少し雑になりますが、無神論者と信仰者の問題も、マイノリティとマジョリティの問題と云えるでしょう。アメリカと日本では、両者の立場が逆転している、ということです。また、利害の不一致に敏感な社会と穏健な社会というセンシビティにも由来しているかも知れません。平等を原則とする社会でマイノリティに不利益があることは正しからぬことですが、残念ながら人間社会は理想にはほど遠いものです。だからといって改善を求めることは間違いではありませんが、対象を否定し敵視したような方法論では、議論(ディベート)で勝つことはできても、それがために反感を生んだり思いもよらぬ障害を生むことだって予測できてしまう。この問題(集団利害への言及)を適切に行うのは実に難しい問題ですね。

こうした考察を科学的に行うことの意義は大いにあるだろう、と私は思います。それは(たとえば)宗教の無根拠さや蒙昧さを指摘するためのものではなく、さまざまな「境界問題」がなぜ起きるのか?という大テーマを扱うのに有効だ、という意味です。また、それでもなお、結局ヒトはなにをするか分からないのですが、だからといって諦める必要はありませんね。

386AH1:2008/02/26(火) 13:45:25 ID:sNMJ1V0Y
ちょちょんまげさん
>そう言われっちゃうと、今度はなにやらさみしいんですよね。(笑)

あはは。いやまあ、私としてもそう言わないとダブスタなわけでして・・
でも全く放っておくつもりなら、ここで発言させてもらう事もないでしょうから。

387junsaan:2008/03/02(日) 16:35:44 ID:JxbYVj9s
はじめまして。
ほかの掲示板で書いたことでもあるのですが、科学に、神という存在を認めてしまうと「すべては神の御業」で終わってしまうと思います。
だから、なんというか、「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

388junsaan:2008/03/02(日) 16:36:33 ID:JxbYVj9s
はじめまして。
ほかの掲示板で書いたことでもあるのですが、科学に、神という存在を認めてしまうと「すべては神の御業」で終わってしまうと思います。
だから、なんというか、「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

389NAN:2008/03/03(月) 02:57:50 ID:CTE40lKg
>>383
『オッカムの剃刀(かみそり)』をご存知ですか?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80

思考節約の原理と云う場合もありますが、説明に不要なことは扱わない、という科学的方法論で広く浸透しています。
力学現象も宇宙創成も生物進化も「神の御業」である可能性はあります。しかし、立証の手立てがありません。立証の手立てがないということは、反証も出来ないということです。だったらそれは保留でいいじゃないか、ということです。

>「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

この部分については、どこに、あるいは、誰に書かれたのでしょう?
ちょっとスレッドの内容とはズレているように見受けられます。

390junsaan:2008/03/03(月) 18:57:03 ID:SoFKphIY
>ちょっとスレッドの内容とはズレているように見受けられます。
たしかにそうでした。
題名見ただけで投稿してしまいました。すいません。

391ちょちょんまげ:2008/04/04(金) 13:18:05 ID:vUxNW.gI
NATROMさん、もう「親子丼」の#988じぃく氏の書き込み
      ↓
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/2092/1204816736/988
は、読まれたと思います。

あの人たちは、もうダメだ。
俺、もうちょっと人間信じてたんだけど。
ドーキンスはやっぱり間違ってるわ。理を尽くしたところで、わからんやつは、ほんとにわからんのですね。
NANさん、「科学と神」の議論、俺、白旗です。

392ちょちょんまげ:2008/04/04(金) 13:24:50 ID:vUxNW.gI
って、俺なんか読んでただけだけど、ずーっとつきあってた、NATROMさんのがよっぽど脱力ですよね。
お疲れ様でした。

393NAN:2008/04/05(土) 20:46:26 ID:QrHs74qA
>>391
なぜ私に「白旗宣言」を出されるのかは良く分かりませんが(笑。
ダブスタであることを立脚点にしている論者との議論は、自身がダブスタを知ろうとしない限り、永遠に水掛け論です。
また、当然のことですが、自身に対する批判を持つこともないでしょうね。

でもそれって、普通の世の中ですよ。

394名無しさん:2008/04/28(月) 12:36:43 ID:D2PZoWjk
燃料投下(笑)
「米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望」
ttp://macska.org/article/224

macska女史のページですが、反響が大きいようです。
結構この話題、興味がある人が多いんですかね?


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板