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神と科学は共存できるか

1 地下に眠るM :2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

199 NAN :2008/01/18(金) 02:03:39 ID:???
>>197
>神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。

ドーキンスは「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と主張しているんでしょ。ここについて私は地下猫氏の>>189
「自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?」
に同意するわけ。

フォースが自然科学として実在するかどうか?それだって「バカげたナンセンス」とは云い切れないでしょ。仮にそれらが実在するのだとしたら、現実世界でどのように振舞うのだろう?という問いかけに対して、さまざまなSFX技術やCG技術が投入されて映像化がされてるんだけど、「その生理学的機序についての研究」が仮にあったらバカげたナンセンスなの?

今は懐かしくなっちまった「バーチャファイター2」というゲームがあるんだけど、このゲームのキャラにアキラってのがいて、こいつの技に「1/60秒のタイミングでシビアにキー入力しないと発生しない」ってのがあった。幻のワザってことでみんなが夢中になったんだけど、無論そんなワザは現実世界に存在しないし、それが自由に繰り出せたとしても現実世界にはなんの影響も(一見すると)ない。ところが当時のゲーム好きはこのワザを出そうと苦心して特訓したり、その他様々なワザが発明されたりそれらをサポートする書籍もたくさんあった。
同じくゲーム「鉄拳」に出てくるキャラ、マーシャル・ロウのモデルは故ブルース・リーで、流派もリーが興したジークンドーなんだけど、この流派はリーが武道としての強さ以外に映画向けの見栄えの良さも追求したもので、現実の格闘家がそれを習得してリングで披露したりしていた。もともとが空想の産物であろうと、それをきちんと研究したり、時には現実世界に表現される「現象」として我々に影響を及ぼす「知の連携」は確かに存在するんだよね。

論点はそれが「フィクションかどうか?」ぢゃないでしょう。ある行為が、自然科学としての実在性に基づくかどうかを基準に「行為としてのナンセンスさ」を論じるのは科学至上主義に間違いない、と私は思うけどね。

>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

無論、「ひとまとめにしている」と指摘するだけで問題を指摘したことにはならないよね。ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。ところがキミは問題を再びメタレベルに戻している。それはいったいどういう理由なんだい?というのが罵倒に値するのですよ。

仮に万が一、ドーキンスが自然科学以外の知の体系について十分な尊敬と認知を行っているのだとしても、そうしたスタンスとは「真っ向から対立する主張」を繰り返している「ように見える」だけで、件の本が「読むに値しないくだらないバカ本」だってことは十分分かる。ドーキンスの真意について「苦しい解釈」をしなけりゃならないってことがそれを例証しているよね。
ある議論が論理的に正であるか誤であるかを論じるのは極めて簡単なことですよ。しかし「なんらかの知」がフィクションであるかノンフィクションであるか(実在するか妄想であるか)の境界線は極めて曖昧であり、その存在および影響について「馬鹿げたナンセンス」だとか「かかずりあってる暇はない」ってのは単に好み・嗜好の問題だよね。

200 カクレクマノミ :2008/01/18(金) 03:23:34 ID:nWqwz./A
案の定、一言でもドーキンスを擁護するとフルボッコだなあw
やっぱりドーキンス擁護はタブーなのかな。

妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

「妖精伝承において、妖精には羽があるとされることがある」という言明は、明らかに意味のあるものです。しかし、「妖精に『実際に』羽がある」とは、いったい何を意味する言明なのでしょうか?
僕には全くわかりません。

>ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。

地下猫さんの投稿を読む限りでは、「違うからだめ」としか僕には読み取れません(この点は僕の読解力不足かもしれないので、もしそうなら教えてください)。

201 NAN :2008/01/18(金) 03:59:09 ID:???
■ある議論が論理として正しいか誤っているか、を転じて『良いか・悪いか』を論じること。

なんだか結局ここに終始してしまう気がしてきました。自称宗教家が良く使う「真理」という言葉について、私は論理的な「正解」という意味以上の価値を自分の中で持たせないようにしています。ここになにか知識があり、それが「真理」であったとして、それが自身の行為の正当性を補強してくれる、と考えることは大変危険だ、と評価しているからです。

実際に私は、いくつもの矛盾や欺瞞(あるいは誤謬)とめぐり合ってきました。そして、その対処に苦慮をし、満足な結果が得られたと思ったことは、正直云ってありません。
あるひとは、「間違いは悪いことだ」と信じ込んでいました。これは「マチガイ」という日本語の多義性から来る問題と、論理的な誤りの過大評価に基づくものとの合成であったことは明確でした。しかしそれをいくら”彼”に説明しても、論理的誤=悪、という固定観念を取り払う説得ができたとは、私には思えませんでした。さらに悪いことに、私が指摘する「間違いは直せば良いだけで、別に悪いことではない」という主張が理解できないことが、二重に彼のマチガイを指摘してしまったことになり、却って彼を傷つけたかも知れません。それはたとえば「学校のテストで低い点をとることは悪いことである」と、くり返しくり返し刷り込まれてきたことの結果なのだろう、と私は思います。

宗教や信仰について、それらに興味はあるけれど宗教の危険性や欺瞞性を知り、なんらかの包括的な批判を行うべきであることに賛同するけれどその方法論について明確な指針を持てない私(あるいは、私に似たスタンスのひとたち)にとって、少しでも問題の単純化が行えるのだとしたら、たとえばこういうことなのかも知れません。

1:主張の論理的誤について、それを指摘されたり知っているのに認めない態度
2:主張の論理的正誤に基づいて、その人格的評価判断を行う態度
3:不可知である事象について、それを可知の論理であると主張し、なおかつその正しさと行為の正当性を結びつけて主張する態度

上記3点について、私は(たとえばこの掲示板に於いて)良く知っています。また、1と2については注意深く運用すべきであり、場合によってはダブルスタンダードを引き起こし兼ねないポイントであるだろう、とも思います。さらに、3については、要するに「神や死後の世界」という不可知領域から得られたとされる「知」に基づいて、教義の正当性や「聖らかさ」を主張する行為について「考える機会」を与えてくれるだろう、と思います。

それでは、このような論点はどう批評されるべきでしょうか。
4:「知」の実存性に基づいた価値判断
いわゆる科学主義はこれに類するだろう、と思います。その主張がフィクション(想像の産物)であるならば、すなわち無価値(もしくは価値が著しく低い)である、という主張です。この主張は、自然科学の範疇における創造科学に対してでさえ、慎重にならざるを得ないだろう、と私は思っています。創造科学の論理的誤りを指摘するのは簡単だけれども、その価値判断までが論理的正誤によって判断されるのかどうか?という問題です。多くの創造科学論者に対して、私は1に挙げた「論理的誤を認めようとしない態度」に基づいて侮蔑や罵倒を行います。ところが、論理的に誤りであるからと云って、それだけが「悪いモノ、ダメなもの」であることの証明になるのか?について、私はまったく同意できません。

自身の犯す過ちや誤謬についてであれば、これらを考え、過ちを認めて訂正していくことはそれほど難しくありません。しかし、他者のそれについて「なにかを指摘すること」までは一方的に行えるのですが、それが果たして相手(対象者)の「考える機会」となり得ているのかどうか?について、私はさっぱり自信が持てません。また、この点についてあまり深く傾倒すると、他者に対する過干渉にさえなり兼ねないでしょう。

この論点を突き詰めていくと、最終的に辿り着くのはヒトが持つ「根源的自由への言及」なのではないか、と私は思います。「自由という権利」はあくまで律法の中で行使されるものですが、根源的な自由とは、法や倫理とはまったく無関係に行える「すべての可能性」を指しています。ヒトは気分や興味だけで簡単に他者の生命を奪ったりその他の暴力を行使できる、恐ろしく危険なイキモノです。それらを抑制し得るものとは、云うまでもなく「知」であるだろう、と私は思いますが、決して万能ではなく、時には限りなく無力でさえあります。それでは、倫理を守る機会を与えてくれるものとはなんであるのか?もしかしたらそれも盲信の一種ではないのか?そう問われるとき、私には「違う」と結論できる根拠も自信もないのです。

202 AH1 :2008/01/18(金) 13:34:16 ID:fKqeZx4M
ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。
例えその人がカッパビリーバーだったとしても、古今の「目撃記録」「伝承」なんぞに詳しいだろうから。
ビリーバーさんなら「カッパの系統学」「カッパの生態学」なんぞを独自に展開してくれそうですが、
その辺は聞き流す(笑

別にビリーバーさんでなくても文化人類学・民俗学的に調べている人がいれば十分である・・
むしろそういう人の方が「イッちゃってない」から助かる・・
ということは、言えるかもしれませんが。

203 NAN :2008/01/18(金) 21:16:50 ID:???
いや、あのね…ちょっとちょっと待ってね。

1:「想像上の産物であることが確定的である事象」について、それを学問として研究することは、すなわち「バカげたナンセンス(無価値で意味のないこと)」である。

上記を「自然科学の一分野として」と云うなら、そりゃぁ私は同意しますよ?でも学問ってのはなにも自然科学だけじゃないでしょ?ってそれだけのことじゃないのか?カクレクマノミさんの云う「この世界のありよう」ってのは、自然科学の中にすべて含まれなければならないってことかい?ってのが私の疑義なんだよね。定量的・測定可能・実証可能なことだけで「この世界」は成り立たないし、それはたとえば「芸術性」とか「現象学」みたいな分野を侮蔑しかねない主張じゃないのかな。

2:「想像上の産物について、それらが実存するという言明」には意味がない。

ドラッグでラリって絵を描くヤツとか作曲するヤツは多いよね。倫理的にそれがどうかはともかく、そいつらにとっての「事実」をオーディエンスは共有できるわけでしょ。意味ってなに?価値ってなに?ってことだよね。そんなもん「意味があると主張するヤツには間違いなく意味がある」んだよ。これを論理で否定することなんかできるわけないじゃんか!ちなみに貨幣の価値なんてこれと同じだぜ?あんなもんニンゲンが作った最強の「想像上の産物」じゃんか。

204 カクレクマノミ :2008/01/19(土) 05:31:39 ID:nWqwz./A
質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?
(「意味があるかないか」じゃなくて「何を意味するか」)

答えてください。

205 NAN :2008/01/19(土) 11:30:35 ID:???
>質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?

その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

206 ちょちょんまげ :2008/01/19(土) 15:19:31 ID:pnH8DlR.
AH1さんがサラッと書かれた「イッちゃってない」はけっこう重要なポイントのように思えるんだよなぁ。
うまく言えるかるかどうかわからないのですが:

フィクション創作者が作品の世界観の構築や、登場させるフォースなどの小道具の設定に命をかけるのは、あくまでその作品を自分の満足のいくものにするため、ひいてはそれを持って読者なり、観衆なりに楽しんでもらったり、何かを伝えたりするためだと思うんです。(あと自分の楽しみ、ってのは大いにあるでしょうね。)
でも、そこには「この作品はフィクションである」旨の認識が存在すると思うのです。(つまりイッちゃってない。イッちゃったような状態になった方がいい作品が生まれるとか、ってのはまた別の話だと思います。)
それに比べて、例えば「水からの伝言」の提唱者は、フィクションだとも言っていないし、科学だとも言っていないようですが、この人が「水の結晶」や「水が言葉や音楽に反応すること」の「専門家」であるとか認められるのでしょうか。
この人の場合は、おそらく金儲けやらの目的があるでしょうから多分に「確信犯」だと思うのですが、もしマジだとしたら「イッちゃってる」のではないでしょうか。
私はこの人に「水の結晶」について尋ねてみたいとは思いません。変なバイアスかかってそうだし。私よりは「水の結晶」について詳しいことは確実でしょうが。

蛇足ながら、「イッちゃってる」ことが必ずしも「悪いこと」だとは申しておりません。

NANさんに伺いたいのですが、

ある作曲家の音楽をほとんど信仰するがごとく愛している男がいたとして、その男が、その作曲家の作品群は他の作曲家のどの作品よりも
価値が高いことを「論理的」に証明することに命をかけ、ガクモン的に研究し、そして彼なりに証明できたと確信し大論文を書いたとしてください。

この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

207 NAN :2008/01/19(土) 23:55:25 ID:???
う〜む…こぉいう「口語の領域の話」をきちんと書くってのは面倒臭いんだけど(苦笑)、行きがかり上これは私の責任らしいので書きます。
といわけでちょちょんまげさん。

>この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

オンガクの価値はさまざまな側面を持ちますよ。
1:意識・情動分野に明確に働きかける認知可能な質的な感動(無論、好悪のベクトルがあります)
2:楽譜、CDなどのメディアの売上(オンガク出版)枚数や量的な金額
3:楽譜(スコア)としての合理性や整合性、音楽理論的な革新性や斬新性についての質的な価値
4:その楽曲の演奏に対する観客動員数や二次演奏に関する量的な評価

ほかにもあるかも知れませんが、簡潔に述べるとこんなところでしょうか。
このうち「量的な分野」においてその楽曲が確かに数値を出しているのであれば、その論文は少なくともニンゲン社会というシステムの中で根拠を得ていることになります。しかし世の中には売上や知名度では今ひとつでも、特定分野のファン層(しかもギョーカイの一流とか呼ばれる層)にウケるオンガクなどもあり、そうした事例を根拠に「ガクモンとしてイチバンを証明すること」は難しいと思います。(ていうかオンガクとかは私にとってイチバン!ていう主張だけでそれを否定できる反論はなにもないんだけどね)
これは「オンガクの価値は論理的に証明可能かどうか?」について、できないこともない、という私の回答である、と捉えてください。

しかし、これは比喩が悪いだけで、ちょちょんまげさんの挙げた前半のくだりは的確な指摘だと思います。
疑似科学に基づいた詐欺的(に見える)商売について、私は決してそれを「認める」ことはしないでしょう。しかし、問題は「私が認めるかどうか?」ではないのです。そのような主張や商品を価値あるもの、重要なもの、大事なものとして認めるヒトは数多く存在し、中には他の分野では間違えようのない「科学の専門家」までがそれらに傾倒したり支持していることが問題なのでしょう。ただそれは「大文字ナンがへし折ったストラトキャスターのネック」に100万円払うヒトがいたとして、価値としてどう違うのでしょう。私たちは疑似科学やとんでも商売を批判することに使命感もしくはなんらかの興味を持っているわけですが、それらを「喜んで購入したり傾倒する自由」もヒトにはあり、それを否定することなんかできるわけがない、というのが私の主張です。

比喩をずらずら並べていくとなにがなにの主張に対してのメタファだったのか分からなくなるので、もともとの「妖精」について書きます。
私が「妖精を実際に見た、容姿はこんなであり、羽はこういう風に生えていた」と主張し、絵を描きました。絵は具象ですから明確な視覚情報を第三者と共有できますが、それを検証する方法はありません。するとちょちょんまげさんは「絵は分かったけれど、この実物はどこにいるんだ?」と問います。しかし私は「あなたに証拠を提出することはできないけれど、確かに私は妖精を見たのだ」と主張するでしょう。

この問答は「自然科学のテーブル」に於いて、私の完全なる敗北と云えるでしょう。あるいは、裁判をやっても負けるでしょう。
しかし、それが「計測可能な世界」において夢であれ幻であれ錯覚であれ、確かに私が認識するところの「現実世界」に於いて妖精との対面を体験し、記憶したのであれば、それをどんな方法で否定できるのでしょう?あらゆる科学的根拠を提示してでさえ、それは「正しさの要求・押し付け・強要」にしかならないのではないのでしょうか。また、そうした主張を科学者が科学的方法論に基づいていくら反証したのだとしても、私の主張に「真実」を見出してしまったり、そこまでいかなくとも「なんらかの信憑性」を得てしまう第三者は数多くいるでしょう。つまりそれが「ニンゲン社会である」ということなのだ、と私は思います。

自然科学だとか科学的方法論で否定できるモノは、この世界においてごくわずかです。このスレッドにおいて重要なテーマとして掲げられた「重要な問い」に、科学はほとんどなにも答えられないことを皆さん承知でしたよね。私の配偶者がそのひとである理由を論理的に実証することなどできるでしょうか。

208 カクレクマノミ :2008/01/20(日) 04:27:49 ID:nWqwz./A
>その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

「とって」という言葉の意味が良くわかりませんが、ある人物の精神的状態についての言明であると理解してよろしいですか?

209 名無しさん :2008/01/20(日) 11:09:36 ID:QpQGFxc6
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか?(189 地下猫氏)
>ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。(202 AH1氏)

それはそうでしょうね。私もそうすると思います。あくまで空想上の「妖精学」、「カッパ学」として。水木シゲルに期待するのも、その域をでないでしょう。
ドーキンスもそう言った「………学」まで否定したり、攻撃しているものではないと思いますよ。

しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し、皿の水が乾くと死ぬメカニズムを「科学的に」証明し、その「事実」を国語の民話としてでなく理科の教科書に掲載することを要求し、カッパの棲息環境を守る為に河川の改修や護岸工事に反対し(川をコンクリートで固めることの是非について、ここでは置いておくとして)、その工事の責任者を殺害したり工事事務所に放火したとしたら………、

アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

神の実在を主張し、そのなせる業や奇跡を証明しようとし、創造論を教科書に掲載させることを求め、少なくとも進化論と併記させようとし、一部の(でも結構な数の)家庭では子供に学校教育を受けさせることを拒否して自宅で親が「教育」し、人工中絶に反対して医院を焼いたり医師を殺害したり。

ドーキンスが批判しているのは、こう言った「神の実在性とその実際の弊害」に対してだと思います。
神の実在を信じるか信じないかは個人の自由だとして、ドーキンスが強調しているのは「宗教に対する過剰な敬意」への批判であり、その政治的な利用、弊害でしょう。特にその弊害が顕著なアメリカを主に念頭に置いて。

「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。」31ページに有るこのフレーズは、アインシュタインの神に付いての態度を吟味する過程で述べられているものですが、わざわざ「学問分野」に傍点が付いています。
私は、神の実在を前提とし、神を通して世界を解釈する、そう言う宗教教義を、「科学的な学問分野」として認める訳にはゆかないと言う、無神論者としてのドーキンスの意思表示として読みましたが。 

「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

無心論者である私には、一つひとつのフレーズは別として、ドーキンスの主張は全体として全く違和感を感じません。宗教の起源やその進化にも、淘汰の理論を強く持ち込んで解釈しようとする点などについては、些か辟易するところも有りましたが。
NOMAに関しても、若し科学が神の実在を示唆するような知見を発見したとして、宗教の側で「それは教導権が違うから」との理由で無視することは絶対無い筈だ、とのドーキンスの主張は痛く納得できるものです。

「神は妄想である」ほど感情的でなく、論理的でシンプルな論調としては「数学者の無神論」の方が抵抗が無いかも知れません。
ttp://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%F4%B3%D8%BC%D4%A4%CE%CC%B5%BF%C0%CF%C0

210 :2008/01/20(日) 11:11:25 ID:QpQGFxc6
No-209 の「名無し」は雄です。失礼しました。
続きです。

私は、宗教・神とはフォイエルバッハが喝破したように、「現実世界の裏返しが、観念に反映したもの」だと思っています。
病弱な人が神に祈るのは健康な体でしょうし、貧困で一家心中する人が行こうと願う天国は、お金の心配の無い世界でしょう。

現実世界に精神的な基盤を持つ宗教を、現実世界と切り離して幾ら非難しても宗教をなくすことは出来ないし、思想・信条の自由は守られるべきだとは思います。
同時に同じ理由で無心論者の主張・立場も、無条件で擁護されるべきでしょう。
その辺の基準が特にアメリカなどでは、宗教に過剰な敬意が払われすぎていると、ドーキンスは言っているのでしょうね。

私は宗教に関して、現実の一番の問題は、宗教の政治利用、政教一致だと思っています。
日本でも靖国の問題や、某巨大教団と政党の関係など、多いに議論になるべきだと思っています。
政教分離と言っても現実にイスラム国家などでは大変だ、と言うことは重々承知していますが。

政治利用と言う点で、一神教と多神教では事情が随分異なるんじゃないか、今回「神は妄想である」などを読んでそのことを自分なりに気が付かされました。

一神教の神(或いは教祖様、先生など)は、天国でもその教団内でも権力を一手に握っている訳ですが、地上の為政者がその権威付けに宗教を利用する場合でも、その方が都合が良いのではないかと思う訳です。
日本が宗教的に非常に雑多であり、律儀な信仰者からすれば誠に節度の無いバチ当たりの国民性なのは、仏教にしろ神教にしろ、日本の宗教がおそらく多神教のせいではないかと思っています。

仏教の教祖は本来お釈迦様と言うことだと私は考えますが、日本の寺院で釈迦如来を本尊としているところがどの程度有るだろうか?
多分観音様を本尊としているところが一番多いように、私には感じますが、弥勒菩薩であったり、日光菩薩であったり月光菩薩であったり、或いは地蔵様であったりと。
大仏様もそもそも大きいというだけで何の仏様なのか、私には分かりません。

神教も同じことで、必ずしも天照大神だけが幅を利かせている訳ではなく、様々な神様が、それも古事記などを読む限りでは人間界との境界が非常に曖昧なままおわします。その点ではギリシャ神話と共通性を感じています。
「常陸国風土記」の中で、マタチという人間が、開墾作業を邪魔するヤツの神(蛇)を追い払って、社に封じ込めたという寓話が出て来ますが、こう言ったバチ当たりな話は、一神教では到底考えられないことでしょうね。

多神教においては宗教的な権力が分散している訳で、地上の為政者が権威付けに利用しようとしてもなかなか難しかったのではないか。
逆に地上の権力者によって、特定の「神・仏」に宗教的権威付けがされ難かったのではないかと思っているところです。

392年、ローマ皇帝テオドシウスが、それまで迫害していたキリスト教を国教化したのも、神聖ローマ帝国として自分の権威付けに利用できると踏んだのだろうし、その後の歴史の中で、天上・地上、合い携えて権威の高め合いをして来たのだろうと思います。

宗教的にルーズな国民性で本当に良かったと、私個人は思っているところです。

211 NAN :2008/01/20(日) 12:58:28 ID:???
>しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し〜

カッパ学者であろうと民意に基づいたことになっているバカ市長が公約した予算消化(天下り先土建屋の売上になる)のための護岸工事であろうと、おかしな事業を批判したり非難することは当たり前でしょう。「なんらかの正当性・権威性」を根拠にありがたくない善意を押し付けること、それがエスカレートして暴力行為に及ぶことが非難されるべきなのは明確です。しかしそれが「○○学に傾倒しているせいだ」となった場合、その一般化が果たして妥当なものであるか否かは別個の問題として議論すべきです。

>アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

もちろん、そのとおりです。上記の文脈を否定したことはありません。
しかしそうすると、もっともっと広範囲に行われている威力行為に「営利拡大のために」という正当化を行った、様々な企業による乱開発や環境破壊、マイナスイオンをうたい文句にした数々の欺瞞商品が存在しますが、これは「自由経済」を批判すべきでしょうか?「国家・法の名のもとに」行われる暴力行為なんてのも数限りなくありますね。

私が一貫して主張しているのは、批判対象があまりに広範囲である場合、その範囲をもっと限定したり特定したりするという「礼儀」をわきまえないと、必要なもの、大事にすべきものまでが攻撃対象で(たとえ本意であろうとなかろうと)あるかのように見える、だから「メリケンのバカクリ」とか「○○教団」のような対象の特定をするべきだ、ということです。また、アメリカ社会が極度にクリスチャンに遠慮する社会であるなら、アメリカ社会の問題としてそれを扱いなさいよ、ということです。同じく創価学会と公明党だって名指しで批判できる根性のある(癒着のない)メディアがないのが問題なだけで、宗教というガイネンの問題ではないでしょう。

>「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

ワケの分からない一般化の事例として、我が国には「3ない運動」というのがありました。それは暴走族が社会現象と化した70年代、オートバイを諸悪の根源として一般化し、「乗らない、買わない、免許を取らない」という、さっぱり意味不明なヒステリーを正当化したものでした。(エレキギターなんてのも悪者にされたしね)

おかげで何が起きたか?隠れてバイクに乗るヤツが増え、暴走族は凶暴化し、日本のモータリゼーションはまったく寸断され、無免許でバイクに乗るからたかが一時停止も守れないせいで起きる事故が増えたりしたわけです。

つぅかね、戦争時の人殺しに代表される「平時にはあり得ないことの正当化」を行うすべての事象は批判の対象となり得るわけです。でもそれらをきちんと吟味するのが「面倒臭い」ので、とりあえず宗教でも批判しておこう、だってオレあいつらのせいで色々迷惑蒙ったし、くらいのメッセージしかドーキンスからは受け取れないのです。

212 AH1 :2008/01/22(火) 17:05:51 ID:fKqeZx4M
カッパ学と「イッちゃってる」について.前提となる私の認識としては「カッパは動物図鑑に出ている生き物のように,客観的かつ確実な記録があるわけではない」ことを前提にしています.もし「いや,俺は見たのだ」と主張される例があったとしても,それは「論文にできない程度の不確かな目撃情報」でしょう.つまり,「カブトガニの専門家」「ティラノサウルス・レックスの専門家」というような,対象をじかに研究した結果を持っている専門家はいない,と考えます.
さて,その上でカッパの色について知りたければ,そのような目撃情報(古いものであれば伝承)を集めるしかないでしょう.
情報の信憑性については,個別に判断するしかないと思います.「イッちゃってない」学者が有り難いのは,「これは**の見間違いかもね」「こうだと言われてるけど,どうかなあ」「これはこの時代のこういう文化的背景に影響されてるね」といった,否定的・客観的な情報を必ず紹介してくれるだろうという点でしょう.
対極に位置する人の場合,見間違い・勘違い・幻覚・妄信などを客観的に排除する努力をしていないかもしれません.全ての情報を出してくれればまだ良いが,恣意的な基準で勝手に取捨選択されている恐れもあります.ここに本人の妄想まで入ってるともはや利用不能.「**カッパは生命であるとの認識が大切です**」などと言いはじめた日には・・・(笑
カッパの実在を信じており,かつ使える情報を提供してくれる人は非常に少ないかもしれませんが,私としては「未知動物学」のようなものを想定しています.例えばネッシーについての目撃情報を全て集めて,その上で実在を真剣に考慮しつつ検討しているような人です.見間違い・イタズラ・伝説などなどがある事を知った上で,なお,いつか客観的な証拠が見つかる事を信じて,現在ある情報から科学的な考察を組み立てるという作業は不可能ではありません(情報不足ゆえに行き詰まると思いますが).
自称「進化の専門家」にもウィルス進化論,クラス進化論,重力進化論,新今西などが含まれている,ということでしょうか.

まあ,ここでドーキンスが言っているのは「そういうのはカッパ学じゃない,民俗学とでも言ってくれ」という意味であり,「カッパ学などと言い出した時点でイッちゃってる」というニュアンスを含めていると思います.しかし,もしそうなら,「カッパは存在しないんだからカッパ学なんてあるわけない,専門家なんているわけないだろ」というのもちょっとフライングじゃね?と思いますね.まあ,売り言葉に買い言葉的なノリはあると思いますけれど.

213 ちょちょんまげ :2008/01/23(水) 04:34:17 ID:vUxNW.gI
「イッちゃってる」のケーススタディ

ケース1.錬金術の場合

(錬金術の歴史、手法等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「で、私の結論なんですけど、いままでは術師の術前の身のお清めの方法に問題があった、という結論に達しました。正しいお清めの方法はですね、まず風呂桶いっぱいの処女の生き血を」

ケース2.妖精の場合

(妖精の歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「え?それで妖精は実際に存在するのですかって?そりゃしますとも。実際、一週間前に近所の幼稚園で2匹ばかり捕獲してきたところです。お見せしましょうか。これはニンゲンの幼児じゃないかって?何を言ってるんですか、あなたには背中の大きな美しい羽が見えないんですか?」

ケース3.カッパの場合

(カッパの歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)

「え?それでカッパは実際に存在するのですかって?いや、あまり大きな声じゃ言えないんですけどね。実は宇宙人なのです。うるとらせぶんに出てきたテペト星人とかうるとらまんえーすの超獣キングカッパーなどは、それと気づいた人たちが人々にこっそりと教えようと」
(ごめん!あんまり面白くない)

ケース4.水からの伝言の場合

(「水伝」にはまってる人。一定方向に強い思想傾向を持つ。最初からあまり拝聴する価値ナシ。)
「で、だれが美しいことばか汚い言葉か決めるかですって。そりゃ、実験者が美しい心を持ち、美しい言葉だたと思っていれば水もわかってくれるんですよ。例えば「日本人」。実に美しい結晶となります。ですが、「○○人」この結晶の醜さを見てやってください。」

で、おぢさんには上記の人たちと「宗教者」の区別があまりつかないのレス。

214 NAN :2008/01/23(水) 17:38:48 ID:???
「イッちゃってる」のケーススタディ:NAN編

ケース1.金融・証券マンの場合

(通貨の歴史、自由経済システムの発達、金融機構について講釈する。あまり興味がない)
「で、私の結論としてはですね、御社にこの金融商品をお奨めしたいのです。正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。このプランであればかなりの確率で御社に役立てると思うのです」

ケース2.とある会社員の場合

(ほとんど一人で営業のすべてを取り仕切る取締役部長に呼び出される。カリスマだが人格は最低だ)
「あ〜、キミ来月からブラジル行ってくれる?そう、ブラジル。新種のコーヒーがえらく期待できるから権利を全部引っ張ってきて欲しいんよ。え?考えさせてくれ?あ〜、残念だねぇ、ボクのお願いが聞けないなんてねぇ」

ケース3.いかにもエロいカップルの場合

(想像に任せる!)
「で、お前たちってさ、何回イっちゃうとイイわけ?へぇ、アイシテル感じがしてシアワセなの?で、そのシアワセって何回イっちゃうと感じるの?つまりお前たちのシアワセってイっちゃった回数で決まるのね?う〜ん、なにがシアワセかどうかなんてオレにもさっぱり分からないけどね」

ケース4.英雄の場合

(間もなく任務が始まる。でも大丈夫、この上陸作戦にはアノヒトが参加しているのだから)
「彼こそ英雄さ。あの不利な局地戦をひっくり返し、完璧なまでに敵を殲滅したのだから」

で、おぢさんは上記の人たちは全員狂っていると思うのです。
と、それだけでは「んなもん相対的に過ぎんよ」と述べただけなので、もう少し書きます。

215 NAN :2008/01/23(水) 17:39:11 ID:???
「信じる」こととは、言い換えると「呑み込むこと」だったり「その味に慣れること」でもあるのではないか?と私は思います。子供がさんざん発するあの「なんで?」を、私たちは年を経るごとに忘れ、「なんで?」をしないことがまるで大人であるかのように錯覚させられ、モノを買うことがシアワセであると思い込んだり、ビールの味を覚えたり、雑誌やテレビで紹介されることに名誉を感じたり、社会の一員であることが当たり前であると慣れてしまうのではないでしょうか。

このスレッドで皆さんの挙げる「宗教者」というプラカードを観察して見ると、その対象は「私たちとなにが違うのだろうか?」と思わざるを得ません。なぜなら、なにかを盲信していたり、自分に対する疑義を見失っているという点で、あらゆるジンルイはおんなじことをしているだけだ、と思うからです。また、これは根拠なく感じることですが「なぜ宗教者に対する見直しはしないのだろう?」とも思います。創造科学論者とか原理主義者とか教条主義に基づく威圧者だとか、「そんなの宗教者と云えるのか?」というダメダメなケースだけを取捨選択している、ということです。

「(一般に云う)仏教」ではなく、「釈迦(ブッダ)の言葉」として伝わるものの中には「信仰を捨てろ」とか「形而上学的領域の断定を知識として認めない」など、非常に合理的かつ科学的である教えが数多くあります。そうでなくても、世界宗教の原点には「偶像の拒否」など、皆さんが「宗教者のステレオタイプとしているモノ」とは、両極で対立するものが数多くあります。それら変化は各宗派が世俗化しスノッブと化し「ポピュラリズムという正当性」を身に付けていく過程において起きるのですが、まったく同じミーム論的現象が私たちの周りにはいくらでもあります。

このような視点に立って、私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。ところがまるで「宗教者というのはこういうおかしなヤツらで悪いことを平気で行う」という視点に立った批判しか見えて来ない。自分たちも十分狂っているのにそれはないんじゃないか?というのが私の主張なのですが、なかなかかみ合いませんね(笑。

「なぜ夕食の買い物をスーパーでするの?」
「どうして毎日仕事に行くの?」
「なぜ私の家族はこのひとたちなの?」
「私はどうやって生きていけばいいの?」

世間一般に云う「普通のひと」は、上記のような疑問を滅多に持たないでしょう。しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。私は間違っているかも知れませんが、もし私の主張が正しいのであれば、批判すべきは宗教でしょうか、それとも宗教の名を語った詐欺師でしょうか?こういうことをきちんと考えることは「不当な宗教の擁護や遠慮」なのでしょうか?私にはそうは思えません。むしろ当然行うべき配慮である、と強く思います。

216 diamonds8888x :2008/01/23(水) 21:34:08 ID:4jx.OKmA
 213番ちょちょんまげさんの挙げた例と214番NANさんの挙げた例では違いがあります。213番の例は全て世界の認識についてです。214番の例は全て何らかの行動指針です。行動指針は「こういう行動を選択すれば未来はこうなる」という予測ですから、結果的には正しいことも正しくないこともあり得ます。またどういう行動指針を取るかはまさに当人の価値観と戦略に基づくもので、完全に客観的なものではあり得ません。神頼みもサイコロ振りもありです。また信じる者は救われることも多い世界です。Qチャンみたいに。
 よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。ケース1の場合だと「正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。」というのは一般論としては間違っていません。当の証券マンの進める資産運用方法がうまくいくかどうかは別の話ですが。また絶対に正しい投資というものを誰かが知っているかどうかも別の話ですが。


蛇足) Qチャンて高橋尚子のことだよ。もう忘れている人も多いかも知れないから。

217 :2008/01/23(水) 23:07:38 ID:QpQGFxc6
NANさんから、私が言及していない問題にまで踏み込ん問題提起を頂きました。

例えば自称カッパ学者と「バカ市長の公約した予算消化」「おかしな事業」との関係。
或いは、「アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていること」と、「営利拡大の為と正当化をされた企業による乱開発」「マイナスイオンなどの欺瞞商品」「国の名のもとに行われる暴力行為」との関係。等など。

私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。
ドーキンスが、一部の急進的原理主義者による産科医院放火や、医師の殺害を批判することと、一般的に悪徳医師が批判されるべきだと言うことを混同していないのと同じように。

なお………、
>>神やその御業を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。
>???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

この辺は言葉のアヤです。……が、誤解が有りましたら訂正しておきます。
→ 「神やその御業を空想物語として『学問』する分には、ドーキンスも特に文句も無かったでしょう。」


私もドーキンスに格別に入れ込んで、「神は妄想だ」を読んだ訳では有りません。
「神は妄想である」にしても「数学者の無神論」にしても、ドーキンスやパウロスが、「神の不在証明」をどのように展開してくれるか、主にそちらに興味が有ってのことです。なかなか難しいんですよね「無いもの」を「無い」と証明するってのは。

私は「無い」と言う無神論の立場で議論に参加していますが、同じ無神論者でも内容が一様でないことは、グールドに対するドーキンスの激しい論調を見ても改めて思い知らされるところです。

と言うことで「NOMA」ですが………、NOMAに関して、私は多いに懐疑的です。

先ず第一に、

この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出しできる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

明日の渋谷の風向きを特定するだけでも、その計算には膨大なパラメータが必要で、今後も不可能かも知れません。しかしそれはあくまでも技術的な制約であり、原理的なものでは無いでしょう(量子論的制約はこの後述べます)。

人の心の問題も同じことだと私には思えるんですよね。自然現象に比べてさえ桁違いのパラメータ(環境や個々人の生まれ、育ち、脳内の状況、人と人との関係等など、etc・エトセトラ)が有って、今後どれ程コンピュータが進化してもその解明は不可能かも知れないが、それは原理的なものではないだろう、って思いが先ず一つ有ります。

全てに渡っての解明には未だ遠く及ばないからといって、それで科学が関与出来ないとは言えないし、現実に心の問題についての科学知見も相当に蓄積されていると思っています。
少なくとも若し何らかの解明が出来るとして、それは宗教でなく、社会科学や心理学、動物行動学、人間行動学、脳科学などを含めた、科学全般が担う筈だという確信が私には有ります。当然進化の理論も含めてです。

「どう生きるべきか」についても、人間の歴史や社会の構造など、人文諸科学がベースになる筈です。地球環境の変化が、人間の生き方や考え方に影響を与えない筈は無いだろうし、「より良く生きる」為に、科学技術や医学の進歩が無関係である訳が無いでしょう。

若し私が「どう生きるべきか」を他人に聞くとしたら、現実の世界から超越した神でなく、自然・社会と日常的に切り結んでいる、現実の生の人間に聞くでしょうね。その人は毎日「科学」している訳ですから。


次に若し探求の結果、原理的にもその解明は不可能だという結論が出たとしたら、その結論とメカニズムも又、多分科学自身の手によって解明される筈で、宗教から引導を渡されるものではないと思っています。自然科学ではそうでしたから。

量子論によって、自然は確率的にしか記述できないという結論が出たとして、それは科学自身の手によるものです。
「無からの宇宙創成とそれ以前」「観測地平とその向こう」「ブラックホールの内側」等など、全て事情は同じことでしょう。
科学によって得られたその知見の上に立って「だから科学には限界があって、その先は神のみぞ知る」などと宗教の側から教導権の説教をされても、私には説得力をまるで感じません。

218 :2008/01/23(水) 23:08:42 ID:QpQGFxc6
……と、ここまで書いてきて「NOMAって不可知論、それも(天真爛漫な)ヒューム型不可知論じゃないか」と思うに至りました。
急遽グールド著の「神は科学と両立できるか(原著=Rocks of Ages)」に当たってみました。冒頭の『前口上』16ページに「私は、T・H・ハクスリーが用いた、賢明な意味においての不可知論者である。」と言う告白が有り、又しばしば「ユダヤ人の不可知論者」と自認していたらしい。むべなるかな、と思った次第です。
うーん、グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが。


第二

私が思うに、天上と地上をキチンと区分けすることが出来れば、確かに神と科学の領分が重複することも無いし、NOMA原理も問題なく成り立つんでしょうね。

しかし残念ながら、神(?)もその使徒も、実際には全て地上におわします。有神論者は否定するでしょうが無神論者である私はそう断言し、話しを進めます。
「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、教義と信者の頭の中にしか存在しません。

科学の側は特に天上の世界を必要としません。この現実の世界そのものの中に、存在と連関の有り様を探求する営為です。

そう言う意味でNOMAなどと言ってみても、所詮片手落ちにならざるを得ないと私は思う訳です。科学にとって神のお慈悲を必要とすることは何も無いが、神にとって科学への依存・浸透を免れることは1日たりとも出来ないでしょう。

そう言う舞台裏がバレバレであるにもかかわらず、何でわざわざ科学の側からNOMAなどと、現実世界から超越しているかのごとく神にお墨付きを与えるグールドを、ドーキンスは、「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている(86P)」と見えたんでしょうね。

言葉のきつさは兎も角として、私もNOMAには、現実からかけ離れた神への「過剰な敬意」美化が含まれると思います。
カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

「重複することの無い教導権」なるものも、単にグールドの頭の中で(議論として)アレコレ想定されている分には特に弊害は無いかも知れませんが、実際に地上の世界に引き下ろして具体的に適用されたとき、(>>213;ちょちょんまげさん)の錬金術や妖精やカッパのような、現実の弊害が表面化するのではないでしょうか。

一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

「重複しない」とは、言葉を変えれば「立ち入るな」と言うことであり「口出し無用」と言うことです。
彼ら(或いは宗教一般)を行政権力で押さえつけることには、思想・信条の自由からも慎重でなければならないと私も思います。しかし彼らの言い分を科学の立場から理論的に批判し、理性ベースで一般国民の頭の中から非科学的妄想を駆逐することは必要でしょう。
その批判を手控えさせ或いは傍観させることに、若し「重複することの無い教導権」的躊躇が働いたとしたら、NOMAの罪は大きいと思います。

マスコミが「霊媒師」なるものの提灯持ちをし、心霊写真だの水子霊だのと騒ぐのはひとえに、雑誌の売上や視聴率の為でしょう。
しかしそう言う非科学的で愚にも付かないことを、女性誌や公共放送が垂れ流すことを躊躇させない要因として、或いは批判されたときの言い訳として、若しNOMA的心理が背景に有るとしたら、それも大きな罪です。
そして私にはそう言うことが絶対にないとは言えない様な気がします。


NANさんがNo-215の最後で仰っているように、全体的には良心的な宗教者が圧倒的なのだと思います。宗教的良心に基づく平和運動、人権擁護運動などに献身されている人も多いでしょう。
宗教は現実の世界にその精神的基盤を持っている訳ですから(私はそう考えています)、世界観の違いは違いとして、一致する行動で連帯すれば良いのだと思っているところです。

219 地下に眠るM :2008/01/24(木) 02:12:36 ID:9YM1mm7M
おそくなっておりますにゃー(ぺこり

>>194  カクレクマノミ

>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。

現象学的には同じですにゃ。以下はウィキの「現象学」の記述より引用
>フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。

とまあ、衒学的に誤魔化しているように思われてもなんなので以下のカクレクマノミの記述を具体的に批判すると

>>200
>妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
>僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?
すると、学問的に価値があるか否かという判断基準は、その学者の信念や世界観に依存するということになるんだけど、カクレクマノミは本当にそういうことをいいたいの? 論文の査読って思想チェックなの?
そもそも、「ビリーバー」の著述やら発言は、「民俗学」にとって無意味なの? 「里の古老(=ビリーバー)」を抜きにして民俗学が成り立つの? あるいは、「ビリーバー」は民俗学者になれにゃーの? どんな信念や世界観をもっていようが、そのガクモンにおける方法論を踏襲している研究は当該ガクモンの研究として成り立つと僕は思っていたんだけど、違うのかにゃ?

これは、ちょちょんまげ とか AH1 にも聞いておきたいところなんだけど、「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

研究者の信念や世界観とその業績を直接的にリンクする発想は、本来は馬鹿宗教の側の発想なのではにゃーのかね?
まあ、科学主義はひとつの「イズム」なので、科学主義の立場においては、研究者の世界観とそのガクモン業績はリンクすることになるだろうにゃ。

自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ。特に 雄 の病状がヒデエ。

220 地下に眠るM :2008/01/24(木) 02:13:04 ID:9YM1mm7M
つづき
>>194

>>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

>定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。

あのさー
「神は妄想である」において、ドーキンスは一神教を否定しているだけでなく、超越的な思考すべてを否定しているだろ?
つまり、多神教の神々も否定しているわけだよにゃ。

まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね? 宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ? 百年前の宗教史の馬鹿言説を引っ張り出す馬鹿、多神教の神々について「一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない」と無知に開き直る破廉恥野郎が、一神教と多神教をいっしょくたにして批判しているんだぜ?
繰り返し聞くけど、批判対象について明らかに無知であり関心もないと開き直るってのは、批判者としてそもそもどうよ?


ドーキンスの論理的な間違いとか捏造を晒そうと思ってたけど(僕の読んだかぎりでは、グールドに少なくとも捏造はない。また、宗教や人文科学についての明らかな無知や侮蔑はみられなかった)、その前にこんなアタリマエのことをいわなきゃならにゃーとはね。

221 地下に眠るM :2008/01/24(木) 03:01:13 ID:9YM1mm7M
ちょっとつれづれと

橋本治が「宗教なんかこわくない!」という著書で
仏教を英語でBuddismとよび、イスラム教をIslamismと呼ぶことは、マルクス主義をMarxismと呼ぶことと同じ。つまり、宗教とはイデオロギーなのだ、といっておりますにゃ。

うんうん
確かに儒教はConfucianismだしにゃ。道教はTaoismで神道はShintoismですにゃ。シャーマニズムとかアニミズムもよく知られた用語にゃんね。
ただし、キリスト教はChristianityにゃんな。まあ、自分たちだけはイデオロギーではない、という態度が逆にイデオロギーであることを証明しているようなものにゃんね。

で、このあとは僕の思いつきなんだけど
ニーチェは「事実などない。あるのは解釈だけだ」といっておりますにゃ。
この言明は基本的には正しいと思うのですにゃ。個々のニンゲンにとっては、事実そのものがあるわけではなく、それぞれの体験があるのであり、体験とは何らかの解釈がなされて意味付けされているものですからにゃ。(意味付けのない体験は記憶されない)
そして、イデオロギーというのはその「解釈」あるいは「意味」を共有する社会集団といえるのではにゃーかな。そして、各々のイデオロギー間についてはそれぞれ対等だとするのが正しい文化相対主義ですよにゃ。
で、宗教とはイデオロギーであり「イズム」のひとつなんだと考えれば、当然ながら無宗教とか無神論もひとつのイデオロギーであり「イズム」であるといえるわけですにゃ。この意味で、無神論と宗教は対等ですにゃ。どっちも世界観にゃんからね。

イスラムを殺しまくるブッシュと、宗教撲滅を望むドーキンスはよく似ているわけだにゃ。


ところで自然科学ちゅうものをニーチェの言明に即して考えてみると、自然科学とはことによると「解釈」以前の「事実」を外化して共有するシステムなのではにゃーだろうか?
カントによると「物自体」は不可知だよにゃ。当然ながら、「事実そのもの」もニンゲンには本来ならば不可知といえますにゃ。しかし、事実の一部を抽象化して記述する方法論を徹底することによって、体験し解釈される前の事実そのものの一部を外在化することが可能になったのではにゃーかと。この外在化された事実の一部のことを「データ」と呼ぶわけにゃんね。

自然科学の方法論によって人類にとって初めて事実の共有が可能になったのかもしれにゃーですね。それまでは、解釈の共有以外はなかったのかもしれにゃー。

222 カクレクマノミ :2008/01/24(木) 04:05:04 ID:nWqwz./A
>つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?

すみません、人を単位にして書いてしまったのが、誤解のもととなったようです。
ここで単位にすべきは、人ではなくて個々の言明です。

ここでは、「妖精は存在しない」「魚は存在する」というのを前提として話をします。
「魚には鰭がある」「魚には消化管がない」というのは、明らかに学問的に意味のある主張です。なぜなら、これらの主張は現実の存在と対応しているからです(もちろん、後者は間違った主張ですが)。

では、「妖精には羽がある」と主張したとき、いったいそれは現実世界の何を表しているのでしょう?
(「多くの伝承などにおいて」という枕詞が省略されている場合もあるでしょうが、ここではそうでない場合を考えます。)
妖精はいません。いないものに、羽があったりなかったりするというのは、いったいどういうことでしょうか?存在しないのだから、当然羽を持ってはいないし、持っていなくもないはずです。
(もちろん、民俗学などのデータとして、「このように主張する人がいる」というのは学問的に意義があります。)

妖精はいないにもかかわらず、妖精には本当に羽があるのかないのか議論するのは、はたして学問的行為と呼べるのかどうか、僕は非常に疑問だと思います。

妖精の代わりに空飛ぶスパゲッティモンスター、羽の代わりにミートボールを考えてもらってもかまいません。
スパゲッティモンスターはミートボールを持っているのかどうか議論するのに学問として意味があるとは思えません*。

ドーキンスの考えでは、ほぼ間違いなく神は存在しません(この点に関する異論もあるかもしれませんが、ドーキンスの議論を追いかけるために、仮に受け入れてください)。
では、神学などの分野で、神がどんな性質を持っているかどうか議論するのは、いったい何について議論しているのでしょうか?


>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

>宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ?

そのあたりの問題についてドーキンスの議論はかなり雑だというのは同感です。
ただし僕の能力不足で、その雑さが具体的にどのような齟齬を発生させているのか、指摘することができません。
具体的な問題があるのでしたら、ぜひ教えてください(皮肉でなく)。

ただ、多神教について(あるいはキリスト教以外の宗教について)、ドーキンスは概論としては批判しているにも関わらず、各論としてはろくに取り扱っていないというのは確かだと思います。そしてそのことはかなり問題だというのもまた確かでしょう。
キリスト教以外の宗教について考えるときには、ドーキンスの議論をそのまま使ってしまうのは危険です。(参考になる点は多々あると思いますが)

この点についてドーキンスを弁護するとしたら、多様な宗教をすべて議論し尽くすのは事実上不可能だということが言えます(リストアップだけで「神は妄想である」よりも分厚い本が必要になるでしょうし、必要な労力も現実的な量ではないでしょう。グールドだって、ほとんどキリスト教のことしか書いていないし)
でも、それならば宗教全般を射程に入れているかのように書くのは風呂敷を広げすぎだ、という批判は当たっていると思います。彼は、具体的な議論の対象はキリスト教に限られているということを、もっと強調すべきだったと思います。

223 ちょちょんまげ :2008/01/24(木) 15:38:29 ID:vUxNW.gI
>>猫さん

>つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?

おっしゃるとおりだと思います。

ただ、私の上記書き込みの「錬金術」の場合で言うと、彼が錬金術の歴史や科学史における意義、術者の興味深い人間像等について語っている時「ある種の信念を強固に抱いている」かどうかは、事実に即している限り全く問題であるとは思いません。むしろ情熱的でおもしろいかも。
しかし、彼が「具体的に鉄を金に変える方法(錬金術的に)」について語りだしたとしたら、その話を真面目に聞くことに意味があるのかどうかは私には疑問です。

224 AH1 :2008/01/24(木) 16:49:40 ID:fKqeZx4M
>地下猫氏 

>「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

当然,同意します.最初からそのつもりで書いています.古今のカッパだか妖精だかの情報に精通しており,しかも実在すると信じてる人は存在し得ます.
ちょちょんまげ氏の書いている「ここまでは拝聴する価値あり」と同様と言ってよいかと考えます.

とりいそぎ

225 :2008/01/24(木) 17:06:49 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏

地下猫氏と私の間に明らかな見解の違いが有ることは重々承知しています。それでいいのだと思っています。
例えば、私はニーチェは最悪の哲学の一種だと思っていて、どうもこれだけで地下猫氏からすれば病気に見えるかも知れません。
カントについても、その汲むべき内容が多い中で、地下猫氏が話しに出された「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いていると言う認識です。

しかしこれらは私の見解であって、神の実在性云々と同じく、ここで哲学に関して果てしない議論をしようとは思いません。
私の『科学主義』について「病状」を批判されるのも一向に構いません。

ただ一点、事実誤認が有りますので指摘させてもらいます。

>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>特に 雄 の病状がヒデエ。

骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。
と言うより………、ホントに読んでますか?

私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。
カッパを空想上の生き物として、例えば民俗学の範疇で研究すること、そしてそう言う観念がどう言う実在的背景の元で生じて伝播したのか(おそらく深い淵で水遊びする子供達を戒める為じゃないかな?とか)を研究することは多いに意義が有るだろうと思っています。

ただカッパを実在するものとして、自然科学の対象に研究するとしたら、それは違うだろうと言うことです。
カッパの皮膚の色は何色か?、若し緑色だったとしたらそれはキュウリを食っている為か?などと言う「研究成果」は、酒の席でのヨタ話としては受けるかも知れませんが、生物学の研究対象にはならないだろうし、すべきでないと言っているに過ぎません。

神そのものは空想上の産物だが、その精神的基盤は現実世界にあると思っている私は、宗教を研究することで現実社会を理解する、一つの手掛かりになるとも思っています。
聖書など教義の内容を、現実のものとして研究したり、押し付けることは問題だと言っているだけです。
古事記を国語でなく、歴史の教科書に載せようとしたり、創造論を生物進化の理論と並べて生物学の教科書に載せようとしたり、まっ、同じことですな。

ただ実在するかしないか、これもモノ(例えば神)によって見解が激しく異なることも承知しています。この点でも繰り返し「無神論の立場で」と、自分の立ち位置をハッキリさせた上で議論に参加させて貰っています。

なお、私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。時に自然を拷問(実験)に掛けて無理やり真理を白状させるようなこともしながらね。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
悪しからず。

226 AH1 :2008/01/24(木) 18:33:22 ID:fKqeZx4M
そもそも「妖精の羽の色」を何故知りたいと思ったのだろう?
妖精は実在し,その色が知りたいと思ったの?
伝承の中で何色とされていたのか知りたかったの?
絵を描くのにそれらしく見える色が知りたかったの?

そもそも,そんな事を本気で問う所からして間違っちょる,というレトリックかしらん?

227 ka :2008/01/25(金) 00:33:00 ID:fopTCrCQ
>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
よろしければソースください

228 NAN :2008/01/25(金) 00:57:54 ID:???
>>216:diamonds8888xさん
>>よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。

はい、それが「通常の常識」だろう、と私も思います。冷静に指摘していただいている通り、「狂っているかどうか即断できない」という、それらが狂気である可能性を認めていただければ十分です。

>>217:雄さん
>>私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。

「宗教」という「あまりに乱暴なひとまとめ」を支持しているでしょう?よって、私も「弊害が出るであろう一般化」でお答えしたんだけど、分からないかな?

>>カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

カッパや妖精は比喩でしょう。
「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
これらが問題とならない「機会」は、それらの「解釈」が自然科学として私たちが既に確立している知識に照らし合わせたとき、著しく現実である可能性が低いと判断された場合に限られるはずです。たとえば創造科学にしたところで、既存の論者の述べる説明があまりに幼稚であることから簡単にバカ扱いできるけれど、まったく新しい、少なくとも論理の筋道だけは通った創造科学の解釈が出てこないとは限らない。そういう言明に対してできることがあるとしたら、断定を行う前に検証する、検証できたにしても「確度の判定」ができるのみであり、絶対否定や肯定なんかできないってのが冷静な態度じゃないのかな。

なお、オッカムの剃刀で普段は切り落とされている領域にある、あってもなくても項として結果に影響を与えないパラメータとしての神については、どんな方法でも否定できない。これは私が「自分は無神論者である」とまったく思わない最大の理由です。

>>一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

永遠リフレインの世界になってきたな(苦笑。
何度でも云うけれど、そういう欺瞞的商行為に無批判であるべきはずがない。ところが、その主旨がが「超越的存在を前提としているから」だとか「宗教的だから」と云うようでは、私たちが「通常の常識」だと思い込んでいるすべての事象(つまり、私たちの生活している文化や文明のすべて)でさえ、それらは「すべて妄想であり狂気の共有ではないのか?」という再反論に晒されることになり、これに確かな証拠を提示して反証することは極めて難しいので、個別の嘘だけを指摘するべきだ、と申し上げているわけです。

自然科学で云う「実在」と、広範囲な学問(あるいは知識全体)で云う実在とではかなり隔たりがあるはずです。あるいは隔たりがなくてはならない。人間の脳は基本的に夢と現実の区別ができない。よって(地下猫氏が指摘するように)外的に知を確保・検証するための方法論として自然科学という道具があるのだけれど、ある個人の体験を自然科学の範疇で事実ではないと実証できるからと云って「現実ではなく空想や妄想、錯覚である」と切り捨てる態度は、批判されるべき科学主義と呼んで差し支えないでしょう。

229 NAN :2008/01/25(金) 01:30:12 ID:???
ついでに「妖精議論」について。
>>222などに散見されるけれど、妖精はいない、という証明は自然科学的実在性でしか世界を認識しようとしない「主義」にもとづくものではないでしょうか?しかし私は、先の発言(いや、今までずっと一貫して主張していることだけど)にあるように、誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは「事実なのだろう」と考えます。それが他者にも体験可能、あるいは実測したり検証することが可能な「科学的実在」であるかどうかはその次のステップであろう、と考えます。

これはたとえば「痛い」という知覚にも同じことが云えるのではないか?と私は思います。私のような体中傷だらけの後遺症患いだと往々にしてあることですが、私が感じる「痛い」という知覚は計測不可能です。医師によって、あるいは計器によって、それを「痛覚レベル」として検証したり確認したりすることが極めて難しいので、触診したり薬液をつけたりその他の方法で「患部にアクセス」することによってなんとなく確かめるしか方法がないようです。結局のところ「これくらい痛そうな反応を示すのでよほど悪いのだろう」という、極めて不明瞭な判定しかできないのが現状のようです。(この点については、もっと確度の高い方法があるのかも知れませんが、私の経験の範囲ではこんな雰囲気でした)

このような「症状」を抱える私が各所の医院を訪ねると、その対処は千差万別です。「痛い」という私の主観的主張に基づいて適格な治療指針を探ろうとする医師もいたし、はなから「この損傷でそんなに痛いはずがない」という態度で診察に臨むような医師もいました。極端な話、治療も間違いない、検査の結果も傷みなど出るはずがない、よってこの患者(私)の痛いという主張は一種のヒステリーだろう、みたいな診断さえ「食らった」ことがあります。

しかし、患者の側からすれば確かに痛いのであり、それで困っているからわざわざ病院に出向き、長い診察待ちを経てやっと医師と邂逅しているのです。同様にして、極めて現実的であるけれど、極めて「我々が現実として認識するこの世界」とはかけ離れた「あっちの世界」を確かな現実であると主張するひともいます。彼らは通常、精神障害のあるひと、と診断されるでしょうが、彼らの言明は「空想の産物、妄想、錯覚であるので学問的意味などない」と捨てるべきでしょうか。(同様の指摘は「カールセーガン科学と悪霊を語る」がずっと詳しいし、丁寧だと思います)

「妖精はいない」という言明は「不可知であるはずのモノに対する断定」ではないだろうか?私はそう思うのです。無論、これまでのジンルイの経験において、妖精の存在は実証されていない。また、今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

230 :2008/01/26(土) 11:39:55 ID:QpQGFxc6
RE kaさん
>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

NANさんからもNo-228で、
>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。
カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂かけばばあ、等など、際限が有りません。

NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。


人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

231 :2008/01/26(土) 11:41:40 ID:QpQGFxc6
続きます
「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。

○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。

人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。

流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢なら無かったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

232 :2008/01/26(土) 11:42:09 ID:QpQGFxc6
唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。

この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

233 地下に眠るM :2008/01/26(土) 13:38:41 ID:z58pW4fo
ドーキンスの著書の批判的読解はもちろん続けるとして、参加者のみにゃさまに質問。
(ちゅうか、以下の質問はドーキンスの誤謬に直接に関連している)

1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?

3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

234 NAN :2008/01/26(土) 23:05:35 ID:???
私は哲学というものに素養がなく、知識が乏しい。だから、それぞれの論者による「ここに書いてある内容」だけを読んで、図々しくも自分の考えを書いてみようと思うのだけど、よく考えると哲学論に突っ込んで論じているのは二人だけなので、まぁいいか!とか思います(笑。

さて、不可知論とか不可知性について、がテーマということでよろしいでしょうか。
>>230で雄さんは
>NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と、批判をしてくださいましたが、私は「事実」だとか「実在」と云うときに、自然科学的な事実と一般(文化)論で云う「実在」との両方を併せて述べています。この二つはきちんと峻別するべきであり、そうしないと科学議論は成り立たなくなるでしょうから。
では私の立場とはどんな立場か?それは「あるひとの体験を第三者が否定することはできない」というものであり、「あるひとの体験は科学的証明でしか客観的な知識とはなり得ない」という、もうひとつの立場となかば対立しながら私の中では矛盾なく存在しています。
つまり「妖精を見た」と主張する誰かと私が会ったときには「このひとは確かに妖精を見たのだろう」と考えますが、一方で「しかしその妖精を私が見ることは極めて難しいか不可能で、科学的な実証も同じことだろう」と考えるのです。つまり私に云えることとは「私には妖精が見えない」ということであり、もうひとつ踏み込んで「科学的方法論でも妖精の実在証明は難しいだろう」ということです。しかしどう足掻いたところで「あなたが妖精を見たという主張は嘘だ」と断定することはできません。(無論、その他の発言に矛盾やデタラメが混在しているようだと、主張の信憑性は、そのひとの主観であることを念頭に置いてでさえかなり乏しいものになるのだけれど)

それでは「不可知論」というテーマに於いて、私はどんなスタンスでいるのでしょう。カントがどうしたとかいう話は、残念ながら私は無知なのでさっぱり分かりません。しかし「ヒトが不可知であるはずのもの」についてであれば、かなり明確にお答えすることができると思います。
「物自体」というここでの説明を読んで、私は(この議論に於いては批判対象になってしまった)かのドーキンスの「盲目の時計職人」の中で、私たち地球上の生物が、壁や鉄の板を「硬くて通り抜けられないもの」と認識している、その知覚の適応についての議論を思い浮かべました。

235 NAN :2008/01/26(土) 23:06:04 ID:???
もしもカントという哲学者が「人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない」と述べたのであれば、それは科学的に見ても正しいのではないか?私はそう思います。また、私が述べる「物自体」とは電子や原子格子だったりクォークだったり、極論すると「場」そのものであるような、時空そのものを指しています。私たちはその本質を知覚できないことから、現象を体験するのであり、認識します。そもそも私たちが「モノ」と知覚するすべての物質が、実は時空の振る舞いであることなど、いったいどうやって知覚すれば良いのでしょう。

まぁしかし、雄さんの議論を見ていると「現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない」というカントへの反論もあるようです。なんだか先に挙げた「物自体」の定義(概念?)とは飛躍しているようですが、私たちがいる「世界」とは現象そのものなのですから、これがなにを批判しなにを意味しているのかが私には分かりません。(そう、モノもなにもすべて現象だろう、ということならこの批判は正しいけれど、なにをもって現実と定義しているのかが分からない)

ちなみに物質の属性として最後に残るものとは、ブラックホールの属性そのものである「質量・電荷・スピン」ですね。ホーキングら宇宙論学者たちの議論によると、ブラックホールの内部(つまり事象の地平面の向こう側)に「落ちた」物質も、それらの属性だけはブラックホールが消滅するまで残り続けるとのことですが、事象の地平の向こう側に「なにか」があると云う言明はなにを意味するのでしょう。さらに困ったことに、ブラックホールは物質を吸い込むばかりでなく、えらい勢いで吐き出すことも量子論の予測することとなり、近年の観測でそれが確かめられたようです。私たちの知覚からすると、恐らくブラックホールは「ある」ということですが、事象の地平の内部は「現実世界」でしょうか?これこそ、云うなれば「現象から切り離されたモノ自体」の顕現のひとつではないか?と私は思います。

同様にして、量子論におけるエヴェレットの多世界解釈を引っ張り出すと、私たちの世界は常に確率論的な「重ね合わせ」であり、ある二つの結果を持つ事象があるならば、その結果の発生と同時に二つの世界は切り離されたことになりますが、その切り離された世界は私たちに知覚することは不可能であり、不可知であることは明確です。大統一理論や超重力理論、膜宇宙論などが展開されるn次元宇宙でさえ、数学的には実証されているようですが、これを私たちが「知覚する」ことは可能でしょうか?

最近の私が思うことですが、ある物質を見て、これはボーズ粒子であるとかフェルミ粒子であるとかという「知覚」も、結局のところ情報に過ぎなくて物質の本質でもなんでもないのではないか?かつてのクォーク発見競争がそうであったように、いつまで経っても私たちジンルイは「物自体」になど辿り着けないのではないか?それは哲学などというややこしい理屈をこねるまでもなく「あって当然の疑問である」と私は思います。

236 NAN :2008/01/26(土) 23:15:30 ID:???
あと、クイズもあったね(笑。

>1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?→存在しない。


>2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?→学問と呼ぶに値する
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?→これは判断保留

>3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

どっちにしろ「価値」の話なので、最終的にはポピュラリズムに委ねられる、と私は思う。
ちなみに私個人の判断においては、自然科学における実在性の否定は、それら観念の価値の否定にはまったく繋がらない、と思う。

237 地下に眠るM :2008/01/27(日) 01:43:36 ID:XBKwcxm2
ありゃ、NANに答えてもらって質問の不備を発見したにゃ。
答えてもらったNANにはすんごく申し訳にゃーのだが、書き直すにゃ。


1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 A)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していることを前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 C)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していること前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 D)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?


3)以上の質問における「愛」を、
 A)「妖精」と置き換えてみた場合はどうか?
 B)「キリスト教の教義」と置き換えてみた場合はどうか? 
 C)「ある特定の妄想」と置き換えてみた場合はどうか?



僕の答えも書いておきますにゃ。要は「存在」とは多階層にわたったものだといいたいだけなんで。

1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない

2)A)自然科学としては成り立たない。人文・社会科学としてはまあ異端の学派であろうが、当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
  B)正統的な人文・社会科学といえる。
  C)純然たる「と」自然科学
  D)意味の通じないたわごと。社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」し、人文科学的な意味では狂人の私的な妄想すら「存在している」。自然科学的に存在しないものは自然科学の対象にならないように、社会科学・人文科学的に存在しないものは社会科学・人文科学の対象にならない。

3)A〜Cすべてにおいて基本的には「愛」の場合と同じ。妄想の共有の度合いが違うので差異はあるんだけど、めんどいので突っ込まない。

問題は 2)A)の立場なんだけど、これを簡単に切り捨てるのはやっぱり科学主義なんでにゃーの? この立場が学問的貢献をなしえにゃーという理由はどこにもにゃーんだよな。この立場にいる天才的学者っているぜ。W.ライヒはオルゴン・エネルギーの自然科学的実在を信じていた「と」だけど、その著書である「ファシズムと大衆心理」は紛れもにゃー名著だったりね。確かに自然科学に対して侵犯しやすい困ったヒトタチだけど、だからといってそれが人文・社会科学としてダメだということにはならにゃー。

238 ka :2008/01/27(日) 03:08:15 ID:fopTCrCQ
雄様知らないこともあったのでとても勉強になりましたご丁寧なご返答ありがとうございました。
今度ヘーゲルの本を読んでみようと思います。
それではROMにもどります。

239 NAN :2008/01/27(日) 05:40:30 ID:???
ちょっとこの問題は重要な気がするので、徹夜作業の途中で書き込み…。
(部分的に雄氏にレスしているけれど、全体としては私の雑感)

>>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
>と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。

ん〜…事象の地平の内面について、すべて分かる(不可知などない)という言明は科学的なのだろうか?事象の地平を越えたモノは原理的に不可知ではないのか?あるいは「虚数時間」という数学的モデルとして「実証された世界」について、私たちは「知覚している」と明言できるのだろうか?
事象の地平の内面についての考察はホーキングが行ったEPR粒子(相関)による思考実験で「事象の地平のこっちとあっちに粒子のペアが分かれた場合、こっち側の粒子の状態が確定すれば、あっち側の状態も確定し、事象の地平の向こう側から『情報をサルベージできる』」というものがあるけれど、ホーキング自身が「だからといってブラックホールの中身がすべて分かる」と述べているわけではない(決定論の領域が少し増える)ことなども考慮すべき、と私は思うのだけれど。(さらにもちろん、そういう実験がジンルイにとって可能な実験なのかどうか?という技術的障壁も考慮すべき)

それと、上記のような「私の疑問」とは別個に「不可知であるモノを仮定した問いかけ」に対して「私は不可知論的立場はとらない」と返答することに「科学の側に立った考え」におけるなにかを示唆しているのか?そもそもダークマターなどという、宇宙に於いては圧倒的多量と予測されている「はず」のなにかさえ(現時点では)観測できないジンルイの科学において「不可知であるモノの仮定」を認めないことは、ただの思考停止か知の領域を広げることの拒否にしかならないのではないのか?

つまり「不可知であるモノを仮定すること」は、西洋哲学の流儀で云うと「それは分からないとあらかじめ決めてあることなので考えるだけ無駄だ」という思考停止に映るのだろうか?だとしたら、私の主張に対する反論の「動機」も理解できかけてくる。そう、私はこの問題を正逆に捉えていたんだよね。もちろん私は「不可知領域(面積)の絶対性」を肯定しない。「不可知である領域はいつまでも残る」と云っているだけ。
(還元主義の観点から云って、さっぱり還元してない>>232なんてのは少しも説得力がないし)
(ちなみに「物自体を作る」というのはエネルギー保存則に重大な亀裂を生じさせることになるのではないか?まさか化学物質を合成する程度のこととか、放射性物質の崩壊や核融合程度で「モノを作った」なんて認識じゃないよね?そりゃバカだぞ)

科学者でもなんでもない私が恐れ多くも勝手に標榜している「科学的な考え方」として、『今現在分からないことであっても、将来的には分かるようになる可能性が高いだろうね。それでもやっぱり、ヒトがすべてを知ることはできないだろうね…だって、すべてを知ったと判断したのと同時に知の拡大も停止するのだからね』というものがあります。また、この立場が「不可知論」というレッテルを貼られるべきものなのか、あるいは唯物論というレッテルを貼られるべきものなのか、私には分かりません。というかそもそも私は哲学に疎いし、そんなレッテルを知っていようがいまいが、これらの問題について私なりに考えることができるのでそれで十分だ、と思っているのです。

240 NAN :2008/01/27(日) 05:41:20 ID:???
さて、次の問題。「カッパの生理学的研究」に果たして自然科学的な学問上の意味はないのか?少なくとも、さまざまな伝承や絵画をもとにして、カッパの実在を仮定した、まさしく科学的なモデルを構築することは可能だよね。その結果、現時点では「カッパと呼ばれている伝承上の生物は、その伝承どおりの形態で実在することはあり得ない」という結論を下すことができるかも知れない。それだって十分に意味のあることなんじゃないのかな?カッパの自然科学的実在を主張する誰かは、この結論を受け容れなくてはいけないけれど、カッパを「未知の生物」と置き換えれば、その生理学的な研究に意味がないなんて誰も云えないはずなのだけど、そもそもカッパの生理学的研究に意味がないという主張の思考停止加減のほうに私はうんざりしてしまう。(それともカッパや妖精が具象であるからダメなのか?それは想像力欠陥ではないのか?)

私に反論する多くのヒトの傾向は「自然科学的結論を無視して実在性を主張すること」についての主張だと思う。しかし私は、そんなことを肯定していない。それよりも「現存する伝承だけで、カッパについての言及のすべてが出揃ったと考えることは妥当なのか?」だとか「伝承とは違うかも知れないが、カッパとしか名付けようのない未知の生物がいる可能性は否定できるのか?」ということを危惧しているんだよね。

上記と同様の、あるいは類似した宗教への批判はあからさまに的外れだ、と私は思う。霊感商法やインチキ予言が「金になる」というのは、そもそも迷信を信じやすいジンルイブンカの体質上の欠陥であって、それはたとえば「家族」だとか「ムラ社会」だとか「国家」というレベルでヒトの文化的体質を批判しなければならないだろう、と私は思う。無論、その中には宗教だって含まれるけれど、それらの欺瞞が「宗教の属性である」という認識は対立を生むばっかりでなんの解決にもならないのではないか?というのが私の疑義だってことは何度も書いた。(だって、新しいから、という理由だけでモノを買うことだって同じだろう?)

神が自然科学的な意味で実在する、と主張するのであれば、それはあからさまに間違っているか、かなり特殊な(自然科学的に云えば、ただのヒトであることを認めた)主張であろう、と私は思う。しかしなぜ、そんなバカな主張について何度も確かめなければならないのか?ことは聖書の記述だけではない。神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?しかし「実在」とは、自然科学的な意味でだけ流通しているガイネンではない。言うなれば、言語あるいは数式で記述可能な「あらゆるすべて」が、私たちの周りに実在し、存在し、明確に影響を与えている。実在とか事実というガイネンが自然科学「だけに」許された表現であると、世界的なコンセンサスでも得られているのだろうか?

誰かが神を見たと主張する。無論、その主張は自然科学的な意味で肯定されない。しかし、それでなにか解決するのか?問題は、私たちジンルイが幻覚や妄想を(生理学的にも)現実世界と区別できないということなのではないのか?懸命になって、それは客観的事実ではないと証明することなんか必要なくて、単に「あなたには見えるし現実なんだろうが、私にはそうじゃない」で十分ではないのか。私が主張しているのは「超越存在を自然科学的な実在として扱え」という主旨ではない。ぶっちゃけ、この議論において自然科学的実在などどうでもいいとさえ思うほどだ。

批判の対象となるのは、そうした「超越存在への信用」に基づいて、他者に対してなんらかの侵害が成されるとき、だろう。しかしそれさえも、実は「規則だからと云う理由だけで貧困老人から生存権利を奪う行為」とか「軍人だからという理由だけで他者の命を奪う行為」と、狂気というモノサシでどれくらいの違いがあるのか、私にはよく分からない。増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、バイクを禁止すれば事故が減るという短絡ヒステリーとなんの違いがあるというのだろう?お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、そういうイキモノであることが明確なのだから。

241 ちょちょんまげ :2008/01/27(日) 16:07:30 ID:vUxNW.gI
>猫さん

ご質問の件。
猫さんとほとんど同意見です。
2)A)については、内容次第かなぁと思います。

>当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。
まさにおっしゃる通りで、この段階で切り捨てる理由など無いと思います。

>ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
ここなんですよね。ここで「愛」の自然科学的な存在の証明とか、「愛」の物質的な組成とか、「愛」とはニンゲンとニンゲンが引き合う「力」のことで「愛波動」が脳から出てるだとか、脳と脳の間で「愛中間子」のやりとりがあって等々と始まると「と」になっちゃうんだと思います。

242 ちょちょんまげ :2008/01/28(月) 09:30:53 ID:vUxNW.gI
おぢさんは怒った。
うちのガキが小学校で「The Pledge of Allegiance」なるものを斉唱させられているのら。毎朝。
話には聞いていたけど1〜2年生の時はガキがあんまし言わなかったから気にしてなかったのら。まぬけな話なのら。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.なのら。
「one Nation under God」なのら。それも気に入らないけど、布っきれ(象徴なのはわかってるのら!)に忠誠を誓わされるのも全身に鳥肌が立つほど嫌いなのら。何に忠誠を誓うなどは誰かに強制されることではないのら。自分で決めるのら。うんこでもおしっこでも自分の決めたものならなんでもいいのら。(でも出来るだけ合理的に決めてね。)
おぢさんの怒りは当初、当該小学校のみに向けられていたのだが徐々にメリケンに対する怒り、ついには全世界に対する怒りに拡大され、凶暴な気持ちになって、「全人類の全文化をろーらーで踏み潰してでも、うちのガキにこれを言わせるのだけは勘弁してくで!」と、自暴自棄になっているのら。
「どいつもこいつもバカばかり」とおぢさんは見るもの聞くものをかたっぱしから痛罵しはじめたのである。(ウチん中で)
(以上東海林さだおさんの完全パクリでひた。)

243 ちょちょんまげ :2008/01/28(月) 09:35:39 ID:vUxNW.gI
ちゅうわけで、気分をすっかり切り替えて>NANさん(べつに怒りがNANさんに向いてるわけではないよ。)
レスあっちゃこっちゃ前後しますがご勘弁を。

>神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?
Wikiその他ネット上のソースによりますと、全世界の信仰者の数は:
キリスト教系:19億〜20億
イスラム教系:11億〜13億
ヒンドゥー教系:7.5億〜9億
仏教系:3億5,000〜6,000万

上記のトータルだけでも41億〜45.6億人が信仰者だということになります。
全世界人口が推計で66億人(Wikiによります。)だそうですから、上記だけで実に全世界人口の62%〜69%!
私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。(結果的に、現在自然科学的な意味で存在しているものの行動や思想に影響を及ぼす。)」と主張する人なりグループなりは、この中で相当な割合を占めていると思います。
(特にイスラムに多いのではないか。)

>しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、
>そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。

>宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、
>さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。

上に掲げた信じられないような数(私からすれば)の信仰者のうち多くは、NANさんの上記のケースに当てはまらないと思います。
両親を含む周囲、国家まるごとなどが信仰者の集団であった場合、「なんの疑いもいだかず」周囲同様になることは極めて自然なことではないでしょうか。(このあたりはドーキンスが強く批判するところでもあります。)
つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

続きます。

244 ちょちょんまげ :2008/01/28(月) 09:38:04 ID:vUxNW.gI
>増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、(以下略)

>お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?
>いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、
>そういうイキモノであることが明確なのだから。

信仰者の多くが「刷り込み」によって誕生することが事実であるとすれば、その中に社会的な抑圧により「信仰者」であることを多かれ少なかれ強制されている人が数多くいると思います。
また、その中には頭や心の中に大きな「?」を抱えながら生きている人たちも沢山いると思うのです。疑問を抱きつつも情報が届いてないケースも多いでしょう。
私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。
もし、現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。
また、かって幅を利かせていた「盲信されていたことや盲信を強制されていたこと」の「非合理性」、「根拠薄弱性」に人々が気づき、その「盲信されていたこと」の社会的な影響力が少なくなったり、その「盲信されていたこと」をいまだ信じている人たちの肩身が狭くなった例というのも歴史的に少なくはない、と思うのですが。

例:神風(うちの親父は吹く!と固く信じていたそうです。少なくとも、彼の周囲は同様であったとのこと。)、 優生思想、ルイセンコ学説、聖書の逐語解釈、等

>私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。

少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

更につづきます。

245 ちょちょんまげ :2008/01/28(月) 09:38:45 ID:vUxNW.gI
>しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

>私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。
>理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。

「宗教」という一般化が容易でないこと、安易にすべきではない事などは、この掲示板の猫さんやリリスさん、そしてNANさんのご意見を拝読して私なりにも多くを学ばせていただきました。
しかし、「全ての主張は等価である」というある意味無敵の理論を振りかざされたら、個別にさえ批判することは不可能なのではないでしょうか。
メリケンのバカクリに対しても、NANさんが批判の投稿をなさった「カルト」に対しても。
また、「旧約」には暴力を是とするような記述がありますし、イスラムは異教徒に対し極めて不寛容=暴力的であると思います。(国家、宗派による温度差はありますが。)
それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

この部分、私は一時全面同意だったのですが、今回の息子の「The Pledge of Allegiance」の一件で少々考えが変わりました。
「宗教が権力者の道具の一つ」であることは全くその通りなのですが、それにプラス「権力者がマジでビリーバーである」という鬼に金棒みたいなケースも多いのではないかということに気づきました。(遅いっ、て)
例えばぶっしゅはそうなのではないか。周囲の優秀な連中は計算づくで宗教を道具として使おうとしてるのかも知れませんが、ぶっしゅは危ないかも。
それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。
また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか(それまで「創造科学者」との法廷での対決等、グールドは米国の権力からにらまれるようなことをやっていますから、周囲からの風当たりは強かったのではないか)、やはり「本音」は別のところにあったのではないか、そしてそのあたりをして、ドーキンスが「仲間」の一人として、(猫さんがおっしゃるような)より「厳しい目」で批判をしているのではないかと。
この辺は私の推測ですから当たっているかどうかはなんともわかりません。証拠のようなものもあることはあるのですが、それが書いてある本を、いま人に貸してしまっているので引用不可なのが残念です。

246 AH1 :2008/01/28(月) 11:49:43 ID:fKqeZx4M
1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?
 脳の機能として「『愛情を感じている』に相当する状態・機構」は存在するだろう
 「これが愛」として取りだせるような存在ではないだろう

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 ここでは「取りだせるような愛」が存在しないという意味だとして,

 A)ありえなくはないが,学問と呼びうる誠実な物になるかどうかは本人の態度によるだろう
 B)ごく普通に,心理学も文学もこれだろう
 C)裏返しの超・科学主義なのではないだろうか.存在したら現実との接点を持たない単なる妄想になると思う.
 D)これも超・科学主義的かつ極度なニヒリズムになるような気がする.どんなに否定したところで「愛と呼ばれて来たところのもの」は存在しちゃう筈だし.どっちにせよ現実を説明できるものではないんじゃないか.

247 NAN :2008/01/28(月) 16:04:03 ID:???
>>243>>245
>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

あのぉ…私の指摘への反論ですか、それ?「とにかく存在する」ってのは「神を認める宗教」のテーゼなんだから当たり前でしょ…。

>つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

これもね、国家社会が「刷り込み」を行うってのは代表例なので書かなかったんだけど「強い理由のひとつ」です。無論それは政教分離への批判に繋がるけれど、政治と宗教を混同するのは権利者の「獲得利益」のひとつだよね。

>私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。

確かに、無駄、というのは勇み足だったと思います。あまり有効には見えないけれど、そういう方法論もあるだろう、くらいに訂正します。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

248 NAN :2008/01/28(月) 16:04:23 ID:???
>それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

可能ですよ。その主張が相手に受け容れられるかどうか?はともかく、なにに対しても批判は可能です。また、この掲示板がそうであるように、議論を取り巻く「ジャッジ」にも、主張は届くでしょう。
私はさんざん「宗教一般への批判と見受けられる文節」に対して、宗教一般を擁護する視点から反論を続けているけれど、私には「不十分で有効性が感じられない批判」であっても、その主張そのものを禁止しようだとか排除しようなんて意図はありません。イスラム原理主義者とどのような対話が可能なのか私には今のところ分からないけれど、それは「批判の正当性」というよりも「政治の世界」になりそうですね。

>それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。

いやだからね…宗教的動機を持つのは「個人」でしょ。自己正当化のための道具として宗教との同一化を図るってのが宗教的動機だと思うけれど、それはニンゲンの性質なんだよ。宗教的規範も行政による立法も同じこと。「正しいヒト」たらんとする性質に適応しているのだろうね。宗教「だけが」規範への強い同一化を求めるだとか、教義に基づいた統制を求めるというなら話は別だけれど。

>また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか

読み直して見れば明確なのですが、私は「NOMA原理」なるものについて、今初めて言及しています。
そもそも私はNOMA原理なるものをよく知りません。あまり興味もないし、さして重要なことであるとも考えていません。NOMA原理などというチンプンカンプンな原理があろうがなかろうが、宗教と科学を両立させている優れた科学者が多数存在するのが歴史的事実である以上、なに云ってんの?くらいにしか私は捉えていません。

ちょちょんまげさんはアメリカ社会になにを期待し、希望しているのですか?
アメリカの政治は政教分離が正常に成されているとはとても云えない。そんなことはアメリカの外からいくらでも分かる。だから、きちんと政治と宗教を分離すべきだ…とは云えるけれど「どうやって?」それをしましょう。

全世界の文化をローラーで潰す前に、お子さんを別の学校に移すことはできるかも知れない。そもそもちょちょんまげさん一家がアメリカを去ることだってできるはずだ。その問題がそれほど重要なことであるならば、プライオリティは明らかだ、と私は思う。しかしなぜかそうはならない。それよりも「アメリカ社会が問題だ」とか「小学校が問題だ」となる。でもその状況を選択したのは誰なのですか?あなたの不満は激しく矛盾していると私は思うのだけれど、私は間違っているだろうか?

私はサバンナに赴いて、そこが荒野だったり草原だったりすることを不満と思わない。海に出て、周囲が海水であることを不服と思わない。
毎日のように雨が降る多湿な気候に住むことが不満であれば、より乾燥した土地に移住すれば良い。関西弁や東北弁がイヤなのであれば、標準語地域に住めば良い。「私は私自身を変えたり選択することができるけれど、あなたや彼を変えることはできない」それだけのことではないのですか?

249 カクレクマノミ :2008/01/28(月) 21:12:07 ID:nWqwz./A
答える前に、いくつか確認を。

>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

そして、「自然科学」vs「人文科学・社会科学」という分類がいまいちよくわからないので、確認のためいくつか質問を。
以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?
・心理学   ・進化心理学
・動物心理学 ・認知科学
・動物行動学 ・行動主義心理学
・経済学   ・行動経済学

250 ちょちょんまげ :2008/01/29(火) 13:29:20 ID:vUxNW.gI
>NANさん

>>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、
>>「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、
>>あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

上記の私の記述はマヌケでした。撤回します。
ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

>>それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

甘いと断定されてしまいましたが(苦笑。ですが、カーストの最下位にいた人たちの多くがそこから抜け出すためにイスラムに改宗したのをはじめとして、自分たちに有利(に思える)な新しい考え方に触れたときに旧来の信仰を棄てたり、改宗したりした例はいくらでもあるのでは?
単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」
>であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

>>え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
>>この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

ん?このサウジアラビア人は無宗教者なんですけど? ここの設定は「私(ちょちょんまげ)が実はサウジアラビア人であった」ということで、私は無宗教者である旨明らかにしてたように思うのですが。また、そこまでは書きませんでしたが自国で不当な扱いを受けていると思っているわけです。それでも意味通じませんか?

NOMAの話は申し訳ありません。特にNANさんあてではありませんでした。勢いで書いてしまいましたが、分けて書くべきでした。

そして、愚息の話ですが、まず>242の投稿が遊びのつもりでした。「トチ狂った男」を演じてみたかったので.....投稿したこと自体が愚かでした。また、耳の痛いご指摘でもありました。
で、本件の優先順位は私としては高い方ですが、最上位ではありません。何らかの措置は取るつもりではありますが。

で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

251 AH1 :2008/01/29(火) 14:14:16 ID:fKqeZx4M
横レスです.
ホメイニやブッシュがビリーバーでダメダメだったとして,
それは宗教のせいですか?ホメイニやブッシュのせいですか?

ちょちょんまげさんの御意見は
「もともとダメダメな奴が悪用したがる宗教なんかイラネ」
かな?と推測するのですが.

しかし,やっぱり
「暴走族がいるからバイク禁止」
「犯罪に走るからナイフ禁止」
と同じような気がする.
まあ,結局「宗教の有用性は有害性(悪用された時の,そして悪用される頻度)と比べてどうか」という話になり,
さらに「宗教の定義って?」になる,かな?
(漠然とお地蔵さん拝むのと産婦人科を爆破するのと,どっちも宗教に起因するけど有害性が同じってこたあるまい)

252 NAN :2008/01/29(火) 16:20:30 ID:???
>>250
>ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

イエスが実在したかどうか?については、まぁ実在したとしてもよろしいんじゃないですか?
問題は、聖書に記述があるような数々の奇跡を起こしたかどうか?だと思いますよ。なお、私は「聖書逐語主義や原理主義者がいない」とは述べていません。いつも私が暴言を振りまいているように、そういう手合いは山ほどいます。いますが、それが大部分の宗教者であるかないか、というと少数派でしょう。ちなみに根拠はありません(笑。
#米国に於いてそれが多数だって?それは米国の問題だよね。

>単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

ない、とは言い切れませんね。確かに。

>それでも意味通じませんか?

あ〜、なるほどね。ていうかだったら簡単でしょ?そりゃぁ国家宗教という名の「法」が求めることだし、断罪するのは「宗教」ではなく政府もしくは司法だよね。信仰の名を騙った権力の代表じゃん。

>で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
>そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

ん〜、私自身も書くべきか書かざるべきか悩んだのです。でも、繰り返し書いておられるのでこれも議論のテーマにするおつもりなのかな?と思った次第です。正直、家族ネタに冷徹なレスを返すのは気がひけます。申し訳ありません。

さて、ご自身および一般化が可能なフォリナーについて、でしたらお答えできますね。
私は海外に長期滞在したことはありますが、居住するというほど長い期間、海外で生活した経験はありません。まぁそれでも、数ヶ月に及ぶ滞在ならしている、という説明にはなるでしょう。(ちなみに英国、フランス、そして中国です)
内的に答えるなら、ニンゲン、あらゆる事象に対してなにがしかの不満を持たないことなど出来ないでしょう。また、どんなに耐えるべきことであれ、時折愚痴をこぼすくらいは多めに見るのが人情だ、と私も思っています。
次に、外的に答えるなら、つまりこれは「タテマエ」ですが、一切不満を持たないことは不可能だけれど、彼の地においては自分こそがフォリナーでありストレンジャーであることは常に念頭に置くべきだ、と思います。これは海外であろうが内地であろうが同じことではないでしょうか。

また、もし仮に、そのひとが彼の地において永住するだとか、住民として地域社会に積極的に参加し、時にはその地域に対する影響力さえ発揮しようと云う「権利と義務」を志として担うのであれば、不満があればそれを改善すべく行動すればよろしいし、相応の社会参加をすれば良いのではないか?と思います。不満があり、社会への(とても大きな意味で)参加もせずに文句だけ云うということでないのであれば、いちいち尻尾を巻くことはないでしょう。さらに、積極的に孤立する、という戦略もアリだと思います。

253 ちょちょんまげ :2008/01/30(水) 07:11:05 ID:vUxNW.gI
AH1さん

すんません、正直、私もうまく考えがまとまらないのです。

実は中学生ぐらいの時に、「エホバの証人」の訪問を受けたことがあり、生意気で理屈っぽかった私は相手を叩きのめしてやるつもりで玄関口で議論を始めた記憶があります。
その際、私は過去のキリスト教国がやってきた罪状やら戦争やら並べ立てたり、アダムとイブからニンゲンが始まったのなら、その後ずっと近親相姦ぢゃないかなどと攻め立てたつもりだったのですが、相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。
「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
その時は結局「興味がないのでお引取りください」、で事なきを得たので、今こうして、立派(?)な無神論者としての私がいるわけですが(笑)。
歴史は繰り返すで、数十年後、同じ質問をくらって「うっ」とつまっている自分がここにいるわけです。中学生から全く進歩していないことが証明されてしまった。

ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。

それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

254 AH1 :2008/01/30(水) 13:31:05 ID:fKqeZx4M
>相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。

あー,向こうも慣れているでしょうからねえ.
最初の答えは確かに「宗教そのものの罪じゃない」とも言えるでしょうね.キリスト教マンセー!な相手を冷やかすには使えるかもしれませんが.(あるいは「正しい」キリスト教ってのが実現された例はあるんかい?という突っ込みなら可かも)
後者は「だれが言ったんじゃ!」ですなあ(笑)

>「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
確かに「にょほほ〜」ではあります.


>ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

ええ,全くその通りです.恐らく,旅客機でビルに突っ込んではいけませんとか,ネクタイで他人の首を締めるのは危険だとか,包丁は料理に使いましょうとか,そういうのと(広い意味では)同じだと思います.
旅客機はライセンスを持ったパイロットしか運行しないから一応安全,ネクタイや包丁は生活に必須な道具として認知されてるから「なくなっても良い」とは言われないわけです.
バイクは趣味性が高くなるので「あんなもん無くてもいいから乗らせるな」という意見も出て来るし,ナイフに至っては「犯罪者にしか持ち歩く必要がない」に近い扱いを受けたりするわけです(私は登山やなんかで必携なんですが).
アメリカにお住まいでしたら,銃規制がこれに近いでしょうか.銃単体が人を殺すわけではない,しかし,悪用される場合はしょっちゅうあり,その結果も非常に重大である.それでもこの社会に銃が必要か?「必要である」とする派は規制に反対し,「いっそ無い方がいい」派は規制を求めるでしょう(NRAのロビー活動なんかはちょっと置きます).

そういう点を考えると,「宗教」と一括りにされているものが包丁やカッターナイフなのか,登山ナイフなのか,ピストルなのか,そういう見極めがいると思うのです.そして,その「有害性」の判断とは「宗教だから」という括りではなく,「あまりにムチャクチャで,同じ社会として共存できないようなもの」であるかどうかに委ねられると思うのですね.(宗教ないしそれに類するものが人類の文化と抜きがたく関わっているという点は同意頂けると思います・だから今すぐ全て無くなっていい,とは言えないという意見です)
つまり,まさに
>お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。
と仰っている判断そのものであると思います.私がドーキンスの「有害で侵略性の高いものだけを宗教と呼ぶ」という意見に同意できない,としたのはそういう事です.だってお地蔵さんに手をあわせるのだって(少なくとも私の感覚では)宗教がらみには違いないのだもの.排除したいものだけを「宗教」と認定して「宗教はダメだ」と言えば,それはつまり「ダメなものはダメ」という意見になって反論のしようがないのだけれども,それって「ナチスの指導者たちだけをドイツ人と呼ぶことにする.ドイツ人は犯罪者だ」と言ってるように聞こえるわけです.

>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

問いかけておいてなんなんですが,私もいい知恵がありません.どうすれば良いのでしょうねえ・・

255 NAN :2008/01/30(水) 23:03:53 ID:???
バイクにせよ、ナイフにせよ、いやいやビニール袋だろうがヒモだろうが、ヒトを殺すことが出来るわけです。ただ、それらの道具は「能動的に」ヒトを殺せません。受動です。おそらくここがポイントなのだ、と私は思います。

ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。そういう議論が起きている最中に、ノコギリによる殺人事件が起きたりする。結局「刃物は全部悪者だ」みたいな論調にさえ、メディアと視聴者が狂っていると走りがちになる。私が危惧するのはそういうことです。

信仰・宗教に対する批判は、信仰・宗教に対する包括的で正しい知識に基づいた議論でなくてはならない。私はそう思います。これは「ナイフの使用法を正しく知ること」と同様です。私ごとき付け焼刃の宗教知識しかない者に「突っ込みどころ満載」に見えてしまうような論調では、お話にもなんにもならないだろう、ということでしょうか。また残念ながら、宗教に対する知識が私には足りません。だからこそきっと、有効な宗教批判が思いつかないのでしょう。

サッカーをやっていた子供時代に、ボールに座ってコーチから怒られたことがありました。神聖なボールを尻で踏むな、というわけです。料理人が包丁を大事にすることも、きっと似たような話でしょう。とても大きな括りをすれば、これらも信仰です。信仰の根本にあるものの、もうひとつの極として「大事にすべきもの」への敬愛があることを、私は疑いません。

さて、本題。
>>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。
もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。たとえばネットの掲示板には、書き込みをしないROMというジャッジがたくさんいます。たまたま「宗教」と検索をかけたひとが、そのソースに辿り着くだけでもいいと思います。

256 NORTON3rd :2008/01/31(木) 10:40:09 ID:tQvpJqX6
まじめな議論の最中に、横道への茶々で申し訳ない

>ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。

これ、実際に俺がガキのころにありましてね
当時の社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中、右翼の少年に刺殺されるという衝撃的な事件があったのですが、これを契機に『刃物を持たせない運動』が全国的に広がりました。その中にはご指摘のような『間抜けな議論』では実際になされましてね(国会でまで)・・・

んで、それまで、良い子の筆箱の中には必ずあった鉛筆削り用のペンナイフや切り出し、肥後之守追放され、各教室には鉛筆削り器が備えられるようになりました(刃物業者の中には売れ行き不振で自殺したヒトまでいたらしい)

まさしく『三ない運動』とおなじくお馬鹿な『一般化』の好例ですわ

257 AH1 :2008/01/31(木) 13:58:53 ID:fKqeZx4M
ガキの時に肥後守や切り出しで木を削る愉しみを覚えて以来,常に「鉛筆削り用に必要」と言い張って肥後守を持ち続けたのですが,教師も親も禁止しないでいてくれた事は幸せだったのだと思います.
とはいえ,田舎だから通ったのも事実.大都市に出て来たらいきなり職質され,ポケットナイフを没収されました(泣)
その辺りで刃物をちらつかせた事件が多発したため,警戒中だったらしい.私なんぞは格好のカモだったんでしょう.

258 AH1 :2008/01/31(木) 14:13:13 ID:fKqeZx4M
>テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。

より明確には「同じ土俵に上がらない相手」ということで,テーブルについたのに科学や論理学といった共通のコトバを持たない相手・・という事なんですけどね.例えば私とNANさん,ちょちょんまげさん,狡獪と懺悔さんは,意見は異なってもコトバは通じているし,「個人の意志や自由を尊重しよう」という立場も恐らく共通でしょう.
私が議論しようとしても,全く異なる立場,すなわち「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である」「神を知らぬ輩と話などしても得られるものはない」という立場の相手に対しては無力でしょう.しかし,今のところ

>もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。

と考えるしかなさそうです.少なくとも「個人の意志や自由を尊重しよう」と言ってしまった以上,明らかに他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である,と考える自由」も尊重せざるを得ないでしょう.言ってみれば,正義の味方を標榜した以上は卑怯な手は使ってはいけない,というようなジレンマですかね(笑) 
(他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,ってのも一種のコンセンサスにしか過ぎないんだろうけど)

259 ちょちょんまげ :2008/01/31(木) 14:16:29 ID:vUxNW.gI
下のブログの記事皆さんどう思われますか。ここで話していることとちょっと関連ありそうなんで。
NATROMさんのブログ1月11日付け「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」1月11日付けエントリへのトラックバックなんですけど。
ttp://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
ちょっと抜粋すると:

ここから引用:

そして疑似科学批判は、彼らにとって、
・よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・さらには自分のモノサシ(価値判断基準)まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

引用ここまで

私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。

260 ちょちょんまげ :2008/01/31(木) 14:32:29 ID:vUxNW.gI
すみません。ちょっと付け足し。

>私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。
そして、それ以上の配慮は基本的に必要ないと思いたがるほうなのです。

261 AH1 :2008/01/31(木) 14:42:47 ID:fKqeZx4M
疑似科学であるかどうか以前に,
「これは科学である」と称してやって来たものが全然科学でなければ
「おめー,それ科学になってねーじゃん」と批判されましょうし,当然しても良いでしょう.
また,「これは科学であるからして,**であることは科学的に証明されているのだ」と言い出せば
「んなことあるかよ,科学ならちゃんとこういう疑問に答えろやゴルァ」
と言われて当然かと思いますが.

262 ちょちょんまげ :2008/02/01(金) 03:42:24 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?
おぢさんはそこで混乱してまふ。

263 diamonds8888x :2008/02/01(金) 06:02:48 ID:4jx.OKmA
259<< そのブログ記事はとっても正確な認識をしてますね。ではどうしたらビリーバーさんの「心に届く」のかという処方箋は、当の執筆者氏も提起していませんし、私にも絶望的に思えます。と、今はこれしか思いつきません。

264 NAN :2008/02/01(金) 08:16:56 ID:???
>>262
>批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

二つの点に於いて批判されるべきです。
1:「水伝」という科学を装った疑似科学理論に対する検証という批判
2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

1については「間違いじゃないか!」という指摘、2については「けしからん!」という指摘ですね。

265 ちょちょんまげ :2008/02/01(金) 09:53:51 ID:EBvpLwTs
>NANさん

>2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

これが「水伝」のもともとの提唱者に向けられるのは良くわかるのですが、提唱者でなく提唱者にだまされているあるいは信じたがってる人達には?

266 e10go :2008/02/01(金) 12:20:57 ID:5/V6R9W6
>>264
もう一つ付け加えるなら、

3:道徳教育に「水伝」という科学的実験結果を用いる事の批判

3は「人間の心のあり方に科学を持ち込むな!」でしょうね。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html

>>262
上の理由から、「水伝」も、それを肯定的に使う人も非難するべきでしょうね。

267 NAN :2008/02/01(金) 13:47:39 ID:???
>>265
そもそもそれが科学でもなんでもなく、表現行為や信仰・信条(心情?)の一種であることを明確に主張できる相手であるのなら、「勝手にすれば?」で私は放置します。しかしそれが、客観的事実に基づく科学である、と主張するのであれば、提唱者であろうがビリーバーであろうが、科学のルールに則った批判に晒されるのは当然です。

ところで実際、ネットの議論であれば簡単に割り切れる話であっても、現実の知人や友人がこういうことを云いだして困ってしまうケースは多々あるでしょう。私自身も経験があります。

その際、これも先に書いたことですが、批判する、あるいは、批判される、というのは「それが科学である」のであれば当然のことであり、どんな理論も常に検証を繰り返し、批判に晒され続けていること、そこで間違いが判明したり理論を却下せざるを得ないことになったとしても、それが倫理的な「善悪」とは無関係であることなどを、相手に伝える段階がかなり難しいものです。

そして次の段階として、間違いであったり再検証不可能であったり、客観的事実とは云いがたい証拠の提出に基づく主張であることが明確になったのであれば、それを受け容れ、修正なり却下なりを「意地でもしない」ことは倫理的に問題であることを説明することになるのでしょう。大半の場合、これら2ステップを完了する前に会話は険悪になり(苦笑)、人間関係としてこじれます。はい、何度も何度もそれでこじれましたとも!(大笑。

だからといって私は曲げませんけどね。

268 AH1 :2008/02/01(金) 14:27:56 ID:fKqeZx4M
>「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

みなさまのお答えで全て言い尽くされてると思いますが,私からも重ねて.
多分,このような話の流れになると思います.
1 水伝が事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは事実かどうか疑わしいよ?
2 だって水伝は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう怪しい話を鵜のみにして事実であるかのように子供に教えるのはやっぱり問題があるな.道徳を教えるなら他にもっと適当な話を使うべきだ.

マジで信じてる人と話をしているなら,まず1の部分で言い争いになり(向こうは喧嘩売られたと思うだろう),2で決裂ですな.多分.
私が批判するのは,ド阿呆な話を科学であるかのように騙った水伝と,コロっとだまされた「大好きな人」の両方です.「大好きさん」については騙されること自体は本人の勝手ですが,学校の教材云々という所で他人への責任を持っています.また,「水伝は科学的に正しい」という部分に何らかの信頼を置いたのだとしたら,「その理解は科学として間違っている」と情報を正す意味もあります.

269 ちょちょんまげ :2008/02/01(金) 16:21:28 ID:vUxNW.gI
皆様、物分かりの悪いおやぢに辛抱強くお付き合いくださってありがとです。
それで、もうひとつだけお付き合いくださいませんか。

この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

270 ちょちょんまげ :2008/02/01(金) 16:24:07 ID:vUxNW.gI
diamonds8888xさん。

ご感想ありがとうございました。
やっぱり「絶望的」なんでしょうか。う〜む。

271 AH1 :2008/02/01(金) 16:48:12 ID:fKqeZx4M
水伝を「ペケ教」にしてみます.なお,水伝は最初から科学を謳っていましたが,今回は明確にするため「科学的に」などの補足を「」して若干入れています

1 ペケ教が「科学的にも」事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは「科学的な」事実かどうか疑わしいよ?
2 だってペケ教は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう「科学的には」怪しい話を「科学的に正しいから素晴らしいのだと」鵜のみにして「科学的にも事実であるかのように人に教えたり,「まして科学として教える」のは問題があるな.宗教ってそんな物じゃないんじゃないの?

となりましょうか.

272 NAN :2008/02/01(金) 22:39:19 ID:???
>>269
この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

あの〜、自然科学の常識に反する内容を経典に含んでいるからと云って、すぐさまそれが疑似科学に繋がるとは思いませんけど?
なにかやはりとても失礼な疑義に感じてしまうんだよね。(無論、文脈から云って宗教的疑似科学のことを指しているのだろう、ということは参加者である私には察しがつくけれど)

ベースにあるものが宗教であろうとなんであろうと、科学を装い、証拠や実証を捏造したり、ただの迷信に過ぎないのにそれが事実だという強弁を振るうような行為が批判の対象とならないわけがありません。終末予言や末世〜来世信仰も然り。不可知であるはずの事象を可知であると断言してはばからず、なおかつ他者の危機感を煽るような扇動を批判することは積極的に行うべきでしょう。

ところで、そういう迷信に騙され、転びやすいヒトの体質が「日進月歩の科学技術」の中に生きる現代人の中でも、改善されるどころかさっぱり変化がないように見える原因はなんだろうね?それもまさか宗教のせい?そりゃぁ違うよね。もっと日常的で(この日本に於いてでさえ)誰でも触れていてほとんど空気のように存在感はないけれど確かにある「なにか」について、大半のヒトが考えようとしないからじゃないかな。

273 :2008/02/02(土) 09:46:18 ID:QpQGFxc6
>テーブルにつかない相手………、

「テーブルにつかない相手」を「相手」にするのは、実際なかなか難しいでしょう。
ドーキンスも「神は妄想か」の中で、「宗教的な読者が、本を閉じるときには無神論者になっているだろう」と言う予想を「なんと言うあつかましくもずうずうしい楽天主義か!」と自嘲?しています(16ページ)。
非科学的ビリーバーやその「教祖様」には、時に「おたっしゃでー」と言うしかないと私も思います。

問題は結局、国民(…と言うか、特に国境を考えなくてもいいのですが)の科学的意識の問題になるんじゃないかと、私は思うんですよね。
ビリーバーをテーブルに付かせて、仮に批判し説得できたとしても、或いは犯罪になって取り締まっても、もぐら叩きみたいに次から次ですからね。
水伝に限らず、霊感商法、集団結婚、オウム、近いところではスピリチュアル等など。或いは振り込め詐欺も。
結局国民の問題意識、批判意識、要するに考える力を高めることが、疑似科学や霊感商法などの存在基盤を塞ぐことになると思う次第です。遠回りのようだけれどもこれしかないと言うか。

その点で、細木数子だの江原啓之だの、提灯持ちをしているマスコミは特に罪が深いと思う訳です。
そして、その批判を躊躇させたり傍観させたり、或いはマスコミ側が自分の破廉恥な行為を正当化する要因として、NOMA的な不可知論が少なからず「貢献」しているのではないか、と、No-218で述べたのですが。

「重複しない」と言う形で、科学とそれ以外の「教導権」を、明確に線引きしてしまえば、それ以上は考えてもムダ、考える必要なしということになりかねません。
ダーウィンは『種の起源』の中で、自分に未だ分かっていないこと、説明が付かないことを、隠さず誠実に列挙しています。「不可知」でなく「未知」として。
未知は科学の進歩によって既知に置き換わって行きます。ダーウィンのかっての未知は今、相当の部分が既知になっています。

しかし一旦不可知としてしまうと、そこから先の探求の道を塞ぎかねません。これは不可知論一般の弊害として言われていることです。不可知とは「知ることは出来ない」と言うことですから。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の世界と紙一重になってしまう訳です。
不可知論は普通、科学的知識に迫られての、非科学陣営の恐れとして表明されることが多いものです。よりによってグールドがNOMAなどと言う不可知論を主張することに、同じ進化生物学陣営のドーキンスは我慢がならなかったのでしょう。

横道にそれちゃいましたが、考える力を養うと言う点で特に日本では、科学の「基礎と連関」を大事にしない教育も問題有りと思っています。
おかげで日本人はどんどん「理科離れ」をし、考える力も低下しているそうですから。

うがった言い方をすれば、国民があまり考えないほうが政治はやりやすい。
昔「3S」などと言われたことが有って、スポーツ、セックス、スクリーンに国民の目を向けさせておけば、政治は安泰と言うことでした(勿論その一つひとつのSに何の罪も無い訳ですが)。
今、その3つは何なんでしょうね。

疑似科学や「霊能者」であっても、行政的な権力で規制することには問題が有るでしょう。
しかし理性レベルでの科学的な批判は必要です。少なくとも科学に携わっている方々は、No-260のちょちょんまげさんの言われるように、疑似科学への批判に二の足を踏まないで頂きたいものだと思います。

274 ちょちょんまげ :2008/02/03(日) 07:36:15 ID:vUxNW.gI
「水伝」のタイプ 提唱者への    「水伝」そのものへの  ビリーバータイプ1    ビリーバータイプ2 「道徳」に採用した学校
   ↓         科学からの批判   科学からの批判                            関係者への批判
                 ↓        ↓            ↓           ↓          ↓             

タイプ1:「科学」を標榜 「ゴルァ」    「ゴルァ」      提唱者の言い分通り    よいお話だからと    「ゴルァ」
                                   「科学」を主張     飛びつく。科学か
                                        ↓      どうかなぞど〜でも
                                   科学からの批判    よい。なんも考えてまへん。
                                     「ゴルァ」          ↓  
                                                  科学からの批判  
                                                   「ゴルァ」    
タイプ2:「科学」であるとは   「ゴルァ」?   「ゴルァ」?   提唱者の言い分通り                「ゴルァ」
     主張しないが、                       科学だとはいわないが
     そういうことがある                     そういうことが無いとは      上と同じ
     と主張。現在のタイプ                    科学では断定できない     違う前提は提唱者
     がこれに近いか。                       と主張。           が科学だとははっきり
                                        ↓          言っていないこと。
                                      科学からの批判            ↓
                                       「ゴルァ」?         科学からの批判
                                                      「ゴルァ」?


タイプ3:上のタイプが       「信仰」だから 「信仰」だから  「信仰」であると主張    上と同じ        こういう宗教
     「水伝教」なる      「放置プレイ」 「放置プレイ」    ↓           違う前提は提唱者が   もあるという
     宗教だと言い出した。                      「信仰」だから     信仰」だと言ってること。紹介の仕方なら
     結晶の現象は奇跡である。                   「放置プレイ」          ↓       「放置プレイ」
     非信仰者が実験すると                                 「信仰」だから「放置プレイ」 
     結果はランダムになると
     主張。



お願いだから投稿した時にずれないでおくんなまし。
まとめると上記のような感じになるのでしょうか。「?」の部分はご意見をうかがいたいです。
ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

275 NAN :2008/02/03(日) 09:46:45 ID:???
>>274
私の主張とはちょいと違うかな。
『科学とは云わないが、そういうことがないとは科学では断定できないと主張』という文節は、とても曖昧で焦点をぼかしているように見えなくもないですが、科学ではないのであればなんなのだ?科学では断定できないのであれば、なにが断定するのだ?という疑問を生むことになります。つまり主張に欠陥があります。

明確に、それが「願望」であり、一種の信仰であると主張するのであれば「そりゃまた変わったお願いなんですね」で私は放置するでしょう。しかし「今現在の科学水準および技術では証明されていないが、将来的にそうした客観的事実が見つかるかも知れないじゃないか」という主張は、まさに科学的な問いかけですので、科学議論の議題になります。

「いただきます」と手を合わせたり、「ありがとう」と声を掛けることで気分が良くなるでしょ!みたいなのを科学的に批判するのはナンセンスですよね。でも、いただきます、と声を掛けると、米や味噌の「物質としての変質」が起こるかも知れないというのは、いくらでも批判することができますね。

276 diamonds8888x :2008/02/04(月) 06:01:29 ID:jcR/Lf4.
 恥ずかしながらNOMAというのが何かわかりませんで、グーグルで検索しましたら、まじめな宗教団体とまじめな経営学団体なぞがヒットしまして・・・。
 ようやく正解にたどりつきました(~_~)

ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071129

この人もドーキンス本の書評を書いていますね。
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061201
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061215
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/archive?word=Delusion

277 NAN :2008/02/04(月) 09:33:54 ID:???
>>276で紹介された書評を順に読んでみたのですが、とても丁寧かつ冷静に(ご自身が宗教&哲学リテラシーに乏しいことを告白しながら)読解を原書から書かれており、秀逸だな、と感じました。

さて、事前にわかっていたことですが、問題は「宗教」ではなく「キリスト教と、その鏡となってしまったイスラム」のようです。私はさらに、経済的繁栄度とキリスト教信者との相関や、石油利権に絡んだ中東対英米の構図の中で、二大宗教の間に何が起きたのか?(これはまさに中東危機というかテロリズムというか、そういう暴力と悲劇の根源ではないか?と思うのだけど)みたいなことに興味が沸きます。また、宗教議論の一般化には強い懸念を(さらに)深めましたが、米国のバカっぷり、バカをバカと批判できないどうしようもなさについては、「もう本当にああいうバカな国を相手にするの、やめれば?」と思う次第です。(てかそれもバカな一般化なんだけどね)

「なぜキリスト教なんだ?」それは、利権だからだ、との考えも(私の中で)さらに強まります。
それはつまり支配(あるいは侵略)構造であり、なにかに忠誠してくれた方が統制し易いという単純な理由なのだろう。

278 diamonds8888x :2008/02/05(火) 05:36:50 ID:jcR/Lf4.
雄さん218の以下を読んで思いついてしまいました。

> 「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、
>浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、
>教義と信者の頭の中にしか存在しません。

 多くの宗教にとってみたら、科学なんぞとの折り合いよりも、経済や政治との折り合いの方が深刻で実際的な難問であることが多かったのではないでしょうか?

277でNANさんの書いている宗教の混迷も、誠治との折り合いの問題という気がしますね。さりながら、古来より宗教と政治とは分かちがたく結びついていたことも事実です。

279 diamonds8888x :2008/02/05(火) 05:41:54 ID:jcR/Lf4.
 地下に眠るMさんの233,237の質問を考えて見ましたが、「愛」「妖精」とはどんなものをイメージしているのかが結構多様な可能性がありますので、どのイメージを想定するかで違ってきそうですね。質問1に対する私の回答と共に示します。

 a)愛というなにかしら物体的実在物 −>No
 b)人が何かを愛するという現象 −>Yes
 c)人が何かを愛するという心 −>Yes
 d)愛というなにかしら形而上学的もの −>No

 dはそもそも形而上学的なものとは自然科学的な意味では存在しないものでしょうから、いうまでもないかも知れません。
 b,cなら、人でなくても動物の一部にも存在しますし、その進化論的起源を考察することも可能です。おっと、「心というなにかしら物体的実在物」の実在をYesとは言いませんよ。
 aは、現在の科学の知見からはトンデモに近いのですが、本当はdだけどイメージとしてa、ということもあるのかも知れませんね。そのへんはよくわかりません。

 で、aは一般論としては自然科学における仮説となりえます。有名なのは燃焼におけるフロギストン説(燃素説)です。燃焼という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、燃素という物質的実在物の存在を提唱したのです。
 人が愛を抱くのは、アモールの金の矢がハートに刺さっているからだ、という仮説は、愛という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、なにかしら物体的実在物を仮定していることになりますね。(キューピッドの方がポピュラーだけど、アモールの方が「愛っ!!」という印象が強いから)
 生命という現象を説明するために生気や生命力を仮定するとか、意識という現象を説明するのに、なにかしら物質的実在物としての魂や脳の中の小人を仮定するとかも、似たような仮説ですね。いずれも反証可能であり、科学の遡上に載せられる仮説といってよいでしょう。
 物体が互いに引き合うという現象に重力場という実在物を仮定するのも、これと似ているかも知れません。

 さて「妖精」の場合は、はじめから、なにかしら物体的実在物イメージであるといって良いと思います。とすると、この場合にありうる意味は、私の想像力の範囲では次のようなものが考えられます。再び、これらが自然科学的な意味で存在すると思うかどうかについての、私の答えと共に示します。
 a)通常の物体と同じく、客観的な実在物 −>No、ただし妖精の定義による
 b)特定の人間にしか感知できない実在物 −>No、ただし感知の定義による
 c)妖精を見たと主張する人が存在するという事実 −>Yes

 aの場合、妖精がどんなものかを描写してもらえれば、それが客観的な実在物として存在するかどうかは自然科学の土俵に乗ります。それは、雪男やネッシーやツチノコと同じことです。調査の結果、実は新種の生物だったと判明するかも知れません。

 bの場合、感知というのが通常の五感という意味であれば、「特定の人間だけが妖精を感知するという現象」は自然科学の土俵に乗ります。それは「同じ状況で特定の人間だけが痛みを感じるという現象」とか「ある周波数の音を聞かせたら、特定の人間だけが反応したという現象」などと同じです。ただ、その人が意識的、無意識的に嘘をついている可能性も考慮しなくてはいけないのがつらいのですが。
 もっと広義に、ともかく特定の人間には妖精の存在がありありと感知できる(でもそれは結局、その人が五感で検知したと感じた、ということになりますよね)ということであっても、嘘でない限りは自然科学の土俵に乗ります。これはもうcの場合に近いかな。
 いや社会科学や民族学の領域だという話も出るかも知れませんが、私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

280 diamonds8888x :2008/02/05(火) 05:58:27 ID:jcR/Lf4.
 「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・。

 雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか?

281 地下に眠るM :2008/02/05(火) 06:41:28 ID:MxpO/apg
あいかわらずだらだらと遅れてすまにゃーこってす(ぺこり

>カクレクマノミ

>>222

>>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

>同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

にゃっはっはっは(ぽりぽり
僕は精神年齢が低いので、一応、言い返しておくにゃ。
例えば「水からの伝言」を批判するのにあたって、当該著書を丁寧に読まなければ適切な批判ができにゃーと考える必要があるとは思えにゃーんだけど、どう? あれ、どうみたって明らかに馬鹿本だもんにゃ。「神は妄想である」は「水からの伝言」とたいしてレベルの違わにゃー本なので、僕の言動にそう問題があるとは思えにゃーのだが。実際に読んでみたら、思っていたよりもヒデエものでしたにゃ。
ま、ヒデエ本というものはたいてい「思っていたよりヒデエ」ものにゃんがな。


>>249

>>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

>この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
>どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

「流通」というところにポイントがありますにゃ。

>以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?

自然科学;動物行動学、動物心理学、行動主義心理学
人文・社会科学;経済学、行動経済学
学際分野;進化心理学、心理学
基礎論;認知科学

基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考えを採用しますにゃ。
ニンゲンの行動というものは、自然科学的に見ても実在する現象であり、社会的に実在(流通)する現象であり、内的な心的現実としても実在するので、それぞれの学問によるアプローチがありえるということにゃんね。

282 地下に眠るM :2008/02/05(火) 06:42:18 ID:MxpO/apg
さて、ドーキンスがフロシキを広げすぎていることはカクレクマノミにもご同意いただけたようですにゃ。
いわば「不誠実なフロシキの広げ方」が「神は妄想である」の一番の問題点なんだけど、そこをつつき始めてみますかにゃ。

まずドーキンスは神というものは事実とされているのだから自然科学的な仮説だといっているけど、この前提が白痴的。この前提で「超越的」なものを否定できると思っているとしたら本当にアタマがワリイ。
もちろん、聖書は自然科学的な意味で事実だと思っているメリケンの馬鹿クリに対しては有効な論点であることは間違いありませんけどにゃ。例えば、あるアボリジニは自分たちの部族の伝誦する創世神話について「そのまんま事実だなんて思ってない」と発言しているにゃ(出典忘れた)。聖アウグスティヌスも聖書の逐語解釈を問答無用でダメだししているし、古代ギリシアの賢人がエジプト神話について逐語解釈はアホの所業だといっている記述もあったっけ。もちろん、江戸時代の国学者に日本の創世神話が事実そのものであったかと聞いたら「はあ? 君はアホかね?」という返答となることは受けあってもいいにゃ。

自然科学的仮説としての神、なんてものを主張する馬鹿クリは歴史的に見ても地理的に見ても、アホ中のアホなのだにゃ。アボリジニやインディオなどに比べるのも申し訳にゃーほど知能程度が低いウルトラ馬鹿軍団。
無論、何度も何度も書いているけれど、そのようなアホが政治的に幅を利かせている事実は困ったものだにゃ。アホに対する対抗言説は必要にゃんな。
しかしさ、アホへの対抗言説を一般化するってのはどうなんだろね? この一般化の過程において、ドーキンスはずいぶんと不誠実なことをしているにゃ。

例えばユングへの言及にゃんな。日本版79〜80P。
ユングは「私は神の存在を知っている」と述べたことは事実。しかし、その神は自然科学的な仮説としての神などでは断じてにゃー。ユングの知っている神は、いわば心的現実としての神だにゃ。
自然科学的仮説としての神、などという白痴対抗フィールドを設定し、そのフィールドに心的現実としての神を想定した論者(ユング)をひっぱりあげた揚げ句に「ユングのように、信じるべき適切な理由がなくとも信念を持ち続けることができるのが信仰の本質である(ユングは本棚の中の本が突然大きな音を立てて爆発することがある、と信じていた)。」などと書く卑劣。(ついでにいうと、ユングはシンクロニシティの具体例としてナイフの爆発的破断をあげているけれど、これはユング自身が体験したものであり「信じて」いたものではにゃー。この記述は捏造の疑いが濃い)

つまり、ドーキンスは神概念を恣意的に使い分けて他者を批判するという真似をしているにゃ。

神概念の恣意的使い分けの他の例として、「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由」なんかも看板に偽りありだよにゃ。
確かに、自然淘汰によって複雑な生物が進化しえたということの証明にはなっているけれど、この論法で否定できるのは聖書逐語解釈による神概念だけだろ? 少なくとも理神論の神には傷一つつけることはできにゃーはず。進化を否定してにゃー教義に対してはまったく無意味だしにゃ。「創造論者の言う神がほとんど存在しない理由」とするならわかるんだけどにゃ。
ところがドーキンスは理神論的な噛みも否定すると以前の章ではっきりといっているにゃ。超越的存在を想定するすべての考え方を否定すると。
この理屈で超越的存在一般が否定されるなんて考えは、ほぼ創造論者並に白痴的な考えだにゃ。

宗教全般、超越的存在を想定した考え全般を否定すると威勢のいいことをいいながら、中身としてはアホへの対抗言説という特殊なものをもって恣意的で卑劣な一般化を行う白痴本、というのが「神は妄想である」への適切な評ではにゃーだろうか。

さて、次回はさらに卑劣で白痴的な一般化について踏み込んでみますにゃ。

283 ちょちょんまげ :2008/02/05(火) 11:23:38 ID:vUxNW.gI
>猫さん

一つ質問があるのですが、「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

284 AH1 :2008/02/05(火) 12:15:09 ID:fKqeZx4M
>>274

>ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

一つは本人がどの程度関わっているかという点じゃないでしょうか.主犯か従犯か,みたいな(いや,言葉が非常に悪いのは承知しています).その関わり方において「同じにゃ扱えないなあ」と思うか,「ンなもん,同罪同罪」と思うか,その辺の判断というか酌量の違いでは.

もう一つは「科学ではわからないが」という「仮説の確かさに対する理解および誠実さ」じゃないでしょうか.科学をちゃんとわかって,でも「そういうこともあるのかもしれないねえ」と考えるか,「そういうことってあるんだ」が先にたって「科学?・・・(ちょっと困ってる)・・・科学って完全じゃないでしょう?」と来るか.
ちょちょんまげさんが想定しておられる(というか,実際に遭遇されたのかな)タイプ2ビリーバーさんはほとんど後者なんでしょうけれど・・

285 ちょちょんまげ :2008/02/05(火) 12:26:46 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「後者」ですよね、ほとんど。うちのツレアイとか(笑)私がうるさいんで少々変わってきましたけど。
それで、「水伝教」はやっぱり放置が正解だと思われますか?

286 AH1 :2008/02/05(火) 13:19:50 ID:fKqeZx4M
「現在の科学としては考えられない」というのが一点ですね.
もちろん科学の進歩とは「あり得ないはずのことの発見」に他ならないので,「現在の科学では考えられないことの存在」を否定はしません.
しかしながら,「科学者は自分の見たものですら疑う」という鉄則があります.科学の誠実さはそこにあるわけです.
だからこそ,何かの間違いや偶然ではない事を確認するために条件を整え,あれこれ実験をし,統計計算をやり,ディスカッションし,論文を投稿すれば査読があり,それでやっと「単なる妄想ではない仮説として認めてもらえる」レベルなわけです.その後でさらに追試され,整合性や再現性が確かめられて「なるほど正しいようだ」と認めてもらえる.
その誠実さや厳しさを,「水伝」には感じることができない.私はそのようなものを科学と呼ぶことを拒否します.
水伝を「科学的な意味で『実際に観察された事』だと思って」信を置いている人がいれば,上のように言います.

287 ちょちょんまげ :2008/02/05(火) 13:34:51 ID:vUxNW.gI

>AH1さん
ん?「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。
こういう場合は信仰だから放置が正解なのかな、と。
私は批判したくなっちゃうのですが。

288 NAN :2008/02/05(火) 13:57:43 ID:???
>>287
それは批判なのか、干渉なのか?がポイントだろうねぇ。
つまり、わざわざ相手のテリトリーに乗り込んで否定的言説を述べたりしないけれど、布教に来たとか友人や知人から相談を受けたなんて場合は徹底的に批判する、という感じかな。あと、表現活動の一環として自分のサイトとか作文の中で、水伝教を批判するってのはやるかも知れないなぁ。

289 AH1 :2008/02/05(火) 15:11:19 ID:fKqeZx4M
>「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
>その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。

ああ、なるほど。そうですねえ、私なら放置ですね。信じこんで「素晴らしい!」と言い出す友人でもいれば、「ありゃ科学っぽく見せてるだけにすぎないし、『美しい』の定義からしてサギみたいなもんだが、それでもいいか?」くらいは言うでしょう。科学だとか客観性・再現性のある事だとか言い出したらぶっ叩くと思います。

「非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまう」は「客観的な検証ができない事象」として扱うべきかと思います。観測者効果みたいなものではないかと。(例えば『霊は見える人にしか見えない』なんてのもこれに近いし、本当にそうである可能性をどうしても否定はできない)
それがわかってて利用してるなら、実に狡猾ではあります。

290 地下に眠るM :2008/02/05(火) 16:24:49 ID:cizMQ0FI
>>233 >>237の僕のへたくそなクイズにお答えくださった方々にお礼申し上げますにゃ。

diamonds8888xの緻密な答えは面白かったにゃ。
>私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

学際的な分野は確かにいくらでもあるけど、典型的な人文科学とか社会科学もやっぱりあるのではにゃーかと。人間社会に現実に存在する「価値」についての研究なんて自然科学には向かにゃーだろし。


僕がいいたかったのは、ある妄想の対象が自然科学的な意味で存在していると信じていようが信じていなかろうが、そのことと社会・人文系研究の学問的価値は基本的には分離しているということですにゃ。

例えば
>>237、3)C)の「ある特定の妄想」の持ち主として「イヴァン・カラマーゾフが実在の人物であると信じてしまっているけど、それ以外はいたってまともなドストエフスキー研究者」なんかを想定していただけますかにゃ。ある小説の主人公が実在していると信じちゃっているからといって、その研究者のしていることがダメになるということはにゃーわけだ。むしろ、面白いものを書いてくれることが期待できそうにゃんね、この設定なら。

もともとはドーキンスが「妖精学」と同様に「神学」が学問として成り立たないとかいうアタマのワリイ難癖をつけてきたことをとりあげただけですけどにゃ。イヴァン・カラマーゾフの実在を信じるドストエフスキー研究者のしていることを学問とみなすことのできる常識的な判断力の持ち主ならば、神学に対するドーキンスの難癖が意味のにゃーものであることはわかるだろにゃ。
まあ、ある特定の信念や世界観(ここでは自然科学的な意味で存在しているかどうかという判断)が、自然科学以外の分野における学問の判断基準となるというドーキンス先生の科学主義は唾棄唾棄唾棄で却下にゃんな。

291 地下に眠るM :2008/02/05(火) 16:25:23 ID:cizMQ0FI
ついでに
>>225 >雄

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>>特に 雄 の病状がヒデエ。

>骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。

>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。


>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー


そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。
僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど、例えばウィキペディアの「物自体」の記述を読んで「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」と思うヒトはいにゃーと思う。
ちなみに日本大百科の「物自体」の項のまとめ部分を引用すると
>物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であったともいえる。

また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。ソーカルもどっかでそんなこと書いていたにゃ。

292 地下に眠るM :2008/02/05(火) 16:25:45 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ
>>283

>「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

「すべてのものの90%は屑である」スタージョンの法則
ゆえに、クリスチャンもクリスチャニティも90%は屑。
しかし、ほとんどが屑であるという事実は、すべてが屑であるという推論を正当化できにゃー。

馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。
ドーキンスは党派的思考でガチガチだろね。

実際問題として、まともな宗派とか会派はあるんではにゃーかと思う。
メリケンの場合、反公権力・反国家権力の拠点として教会を中心とした共同体があったという事情も本来はあったのではにゃーかと思ったりもするのですにゃ。政教分離あるいは宗教と法の分離というのは、宗教保護のためという側面がたしかにあるはずなんだけど、そのあたりがマニュアル馬鹿にはわかんにゃーしね。
メリケンの国はいろいろとねじくれていてオモチロイよね。


それと
水伝が宗教を名乗ったらラッキーだろ?
理科教育現場から完全に駆逐できるじゃにゃーか。
教義としては面白みがまったくにゃー3流宗教にゃんな。

293 地下に眠るM :2008/02/06(水) 00:04:28 ID:MxpO/apg
では、ドーキンスの程度の低い詐術をさらに指摘しますにゃ。

第2章 神がいるという仮説 NOMA P95
>この非干渉を貫くNOMA神は、確かにアブラハム神ほど暴力的でなく、がさつでもないが、こういうタイプの神の有無でさえ、公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う。

はあ?
グールドのいうNOMA原理の前提は、宗教は事実の領域に踏み込むべきではない(神は科学的仮説ではない)というものじゃなかったのかにゃ? もちろん、本当に両者を切り分けられるのかという批判があってももっともではあるけれど、ドーキンスはしかるべき手順をふむことなしにいきなり「公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う」とちっとも公明正大でにゃーことをいっているにゃ。

ドーキンスには事実の分野(科学の分野)において神を否定する論理を宗教にそのまま適用する悪しき科学主義の論理を振り回すしかにゃーので、必然的にこういう馬鹿理屈になると考えられますにゃ。ユングを否定した知的詐術と同じ論法だにゃ。
事実の領域における論難を、そのまま価値の領域に適用して宗教を否定するというのが、「神は妄想である」の基本論法だといえるでしょうにゃ。



第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか より
>穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している P443
>「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義者を差し招いているのである P448

ドーキンスは心底から侮蔑に値すると確信した1節だにゃ。

これまでドーキンスは超越的存在を肯定する思考すべてを否定すると大見えをきり、しかしやってきたことはメリケンの馬鹿クリ対抗言説でしたにゃ。メリケンのクリは馬鹿が多いって? 宗教が不当に優遇されてるって? はいはい、お説ごもっとも。しかしドーキンスから、馬鹿宗教批判から宗教一般を否定するところにつなげるロジックは聞いていなかったにゃ。
で、これだってさ・・・・・・・。なに、これ・・・・・・。

「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」だあ?
てめーはどこの3ない運動だ? どこの行かれPTAのエロ本禁止運動だ? どこの国防婦人会だ?

この理屈が通用するのなら
「開明的・進歩的な科学者集団でさえ、それ自身には軍事にかかわりなくとも、産軍複合体に協力していることになるのだ」
とか
「本人が例え疑似科学批判に注力していようとも、科学にかかわるというだけで科学主義を助長し、疑似科学を生み出しているのである」
とかいったたぐいの
「資本主義」だの「環境破壊」だの、その他諸々の政治的仮想敵をジッパヒトカラゲにまとめて否定する粗雑で粗くて馬鹿で白痴的でアホ相対主義的で最悪の意味で政治的なガキの決めつけ理屈はすべてオッケーにゃんな。

忘れてはならにゃーのだが、進化論裁判において科学者・教育者だけでなく「まともな」宗教者も創造論を理科で教えることに反対したという事実もグールドがNOMA原理を打ち出した理由のひとつにゃんね。で、NOMAを否定するドーキンスの出してきた中二病理屈は、誠実で知的でまともな信仰者、創造論を理科で教えることにはっきり反対した宗教者も「過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」から責任があるんだってよー。現代日本で言うと、馬鹿マスコミに躍らされたお歴々の医者や教師叩きみたいにゃんなあ(げらげら


ではまとめるにゃ
1)自然科学仮説としての神、という人類史的にみても馬鹿理屈への対抗言説がこの本の内容の大半。
2)ところが、自然科学仮説としての神という神概念をもってない者(ユング、グールド)を自分の措定したフィールドで批判しているなどの不当な言説。妖精学への嘲笑もこの関連。
3)自分が批判する対象についての明らかな無知と侮蔑
4)創造論的な神がいなくても進化は成り立つという言明が、直接的にすべての超越的存在を否定することになるという、それこそ超越した論法。
5)「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」ので穏健で誠実な宗教も否定するという、3ない運動というか国防婦人会というか、その程度のレベルの言明に支えられた超越的ロジック。

結論;「神は妄想である」は知性も誠実さもみられない白痴的駄本。

「神は妄想である」についてはだいたいこんなところにしておきますにゃ。細かいところをいえばまだまだいくらでもいえるにゃんが。
このあたりについては、ブログつくってそこにまとめるつもりですにゃ。

294 地下に眠るM :2008/02/06(水) 00:49:11 ID:MxpO/apg
さて、とっても悪趣味な僕としては、雄クンの>>225
>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
この科学の定義をビール飲みながら考えてみたいにゃ。

雄クンによると、以下の発言を行うことは科学になるにゃんね
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ

うにゃ、雄ダイセンセイの科学の定義は僕なんかには計り知れにゃー深遠なものですにゃ。


そういえば、雄ダイセンセイはドーキンスの「3ない運動 もしくは国防婦人会」的批判と同様のロジックを>>218 >>273あたりでご開陳なされているようですにゃ。

あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、事実言明と価値言明の分離という欧米インテリの言論における作法をベースとしているのではにゃーかな? 対するドーキンスは明らかに事実一元論に近い立場にゃんな。ちゅうか、事実一元論に基づく詐術を行っているし。

295 :2008/02/06(水) 07:21:33 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏
楽しく読ませて頂きました。

>>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

>空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。

仰っていることが分かりません。私はただ………、
>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。


>そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。

私は、No-225で、地下猫氏が引用されたフレーズに先立って「カントについても、その汲むべき内容が多い中で、………」と書いています。

読んでお分かりの通りカントを全否定している訳では有りません。特に「批判前期」と呼ばれる時期のカントは、有名な「カント・ラプラスの星雲説」を提唱するなど、後の弁証法的宇宙論に繋がる重要な業績を挙げています。ここで問題にしたのは「物自体」です。
何でもそうですが、新しい知見・業績と言うものは、それに先立つ先人のそれを土台に、批判的構築されるもので、カントもヘーゲルも観念論者だからと言って、私は一概に否定はしません。今の高みに立ってこき下ろすことは、そもそも私の本意では有りません。

そしてNo-230での、kaさんへのコメントの中にも「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので………」として、あくまでも私の個人的な見解表明であることを断って有ります。
「現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね」と付け加えながらね。地下猫氏のご批判はとっくに織り込み済みです。

その上で、あえて言わせて貰えば………、
「創造論」は進化生物学を中心とする自然科学陣営からは、完膚なきまでに論駁されて、自然科学的には決着が付いていると私は思っています。
しかし実際には多くの人たちの間で、創造論は生き残り、事実とされ、「省みられ」続けています。
同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

ただまあ、一言苦言を呈させて頂ければ………、
>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

>また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。

私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

296 :2008/02/06(水) 07:24:32 ID:QpQGFxc6
続きます。

>>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

>ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー

一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。

なお地下猫氏の設問自体余りに漠然としているのですが、私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。

>>237;
>「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?(地下猫氏の設問)
>1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない(ご本人の答えの一部)


「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

類人猿のオス・メスの間に「愛」の感情が有るかどうか、難しい問題ですが、ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です。チンプやボノボ、ゴリラ、オランウータン、全てそれぞれ配偶システムが異なり、ヒトはヒト特有な配偶システムを発達させて来ているからです。
その理解に、適応上の淘汰を含め、進化生物学の知見が関与できない筈は有りません。

文化人類学のジョージ・マードックによる有名な統計が有ります。世界中の849の民族社会を調べての結論として、ヒトの配偶システムは全体として、ゆるやかな一夫多妻を含めて基本的には一夫一妻だと言うことです。
これは体の大きさの性的二型からも概ね裏付けられます。

それに対し、ヒトのオスの精巣はチンパンジーに次いで巨大です。
チンパンジー、特にボノボは猛烈な乱婚で殆ど挨拶代わりにSexをするようです。必ずしもオス・メス間の交尾だけではないのですが、チンプやボノボの巨大な精巣は、この乱婚による精子間競争に対応して発達したものです。
ハーレムを作るゴリラのオスでは、精巣の大きさはチンプの5分の1に過ぎません。

ヒトの進化の過程で、チンプのような乱婚の時代が有ったとは考えられないことから、ヒトの精巣の巨大さは、おそらく結構頻繁に婚外交尾、つまり浮気が有っただろうことを推測させます。
ヒトのメスに発情期が無くなり、当のメス本人にさえ判らない程に排卵時期が隠されることになった理由が、婚外交尾に関係しての「子殺し」防止では無いかと言う説も有ります。

ヒトは直立二足歩行により、メスの難産を招きました。
又、脳の巨大化によりますます難産の傾向が強まり、結果的に生理的な早産を発達させました。その為ヒトの新生児はあまりにも無力で、ヒトの基本である直立二足歩行さえ、およそ生後10ヶ月を要する程になっています。更にその後も長い間の養育が必要です。

こう言う状況下で、他の哺乳類のようにメスだけの子育ては不可能となって来ました。
オスに取ってもメスに協力して、一緒に子育てに励む行動を発達させた個体が、結局は多く子供を残したのでしょう。
更にはその絆を強くする為、お互いの「愛」を発達させた個体同士が、厳しい環境下でより多くの子供を残し、その形質がヒトと言う群れに広がってきたのでしょう。
その合間に適当に浮気を挟みながら。

こう言った進化上の要因が、人間の「愛」の考察にどうして関係しないと言えるのか。
そもそもヒトの配偶システムが、ゴリラのようにハーレムを形成するもので有ったら、或いはボノボのように猛烈な乱婚であったら、オス、メス共に今の人間の「愛」の形は、ガラリと変わったものになっていたでしょう。
愛は確かに精神的なものですが、その形成の基礎に人間の進化の過程が反映されていることは、およそ常識と言えるでしょう。

297 :2008/02/06(水) 07:25:29 ID:QpQGFxc6
さらに続きます。

或いは社会的な影響も有ります。
江戸時代、近松の浄瑠璃などで心中物が大当たりをしました。これは封建制の中で、身分の違いによる男女の結婚が厳しく制約されたことが背景に有ります。
武士と農民の間で結婚したら、その子供はどちらの階級に属するか、と言う深刻な問題が絡みます。そんなことを何回かやっていたら、身分制度などたちまち崩壊するでしょう。
その制約の中で男女は、心中をする主人公に自分の心を重ねたのでしょう。

こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

ここで述べたことは、ホンの一部です。
直接「愛」の感情を司っている脳の機能には触れていません。これも当然考慮されるべきでしょう。

私は精神的な「愛」も、或いは「神」と言う観念的な産物も、その寄って立つ現実的な基盤があり、当然自然科学、社会科学の対象になり得ると思うし、その意味で「私が想定している『科学』は、地下猫氏が定義する『科学』よりも広い意味で捉えています。」と言っている訳です。

それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。


>>294
>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

298 NAN :2008/02/06(水) 09:20:23 ID:???
>>雄氏

>>233 >>234については?


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