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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

134AH1:2007/12/18(火) 13:40:56 ID:fKqeZx4M
追記
『「恐れがないわけではない」の部分』に関して,「どこに漠然とした不安を感じるかというと,多分,この辺です.

>>2
>私たちが普通「宗教」と呼ぶモノの「良い点」とされていることのすべては、「宗教」などなくても、理性的で合理的な人間ならば同じように振る舞えるはずのことばかりに、私には思えます。

確かにそうかもしれない.宗教の種類・有無を問わず,親切や同情といった美徳はヒトに共通性が高いように思えます.
一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.
「宗教がなければ不道徳になる」などという主張は「アホか」の一言で済ませますし,「宗教がなければ道徳を失ってしまいそうだ」と言う人がいれば「しっかりせんかい」と言うでしょうけどね.

135次郎:2007/12/18(火) 13:41:23 ID:D2PZoWjk
ドーキンスが宗教にせよ科学にせよ人間理性にせよ、どの陣営に対しても正しさの独占を認めていないという事になると、当然ドーキンスは多様な価値(正しさ)が共存した社会というものを志向しているはずですよね。

で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。

「自分の価値観が一番だ」と思うのは自然ですし、他者に「自分の価値観が如何に正しいか」というのを説くのも、相手が聞きたくないと言わない限りは特に問題ないでしょう。
でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。

アマゾンの書評などを見ても、やはりドーキンスは宗教撲滅を啓蒙する書を書いたとしか私には思えません。

そしてやはり今回のドーキンスの行動(著作)は程度の差こそあれ、「今のメリケンの馬鹿クリ((C)地下猫氏)」の主張の裏返し、反動のように思えます。

136PDX.:2007/12/18(火) 15:34:20 ID:???
>アマゾンの書評など

 実際に本を読んだ上で書いた人がどれくらいいるんだろう?とか思ったり。

137次郎:2007/12/18(火) 15:50:05 ID:D2PZoWjk
>>127
>私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。

詳しくはないのですが、日本の信仰の中心は現在でも祖先崇拝なんでしょう。神道は氏神(祖先神)が中心ですし、お寺に「先祖代々のお墓」がありますよね。
先祖代々の墓なんてえのは原始仏教から考えたら????が27億6千万個位付く代物ですし。

たぶん日本は外来宗教が入りにくいのじゃないでしょうか。お隣韓国でのクリスチャンの率(30%弱)を考えると、日本の1%という数字の異常さが際立ちます。
仏教だけは国策として導入された経緯があり、また江戸時代のキリシタン禁令の時に国民全員が所属寺を持つことが強制された(宗門人別制度)結果、檀家制度が生まれ、それが現在まで受け継がれているので広く普及しているように見えるだけに思えます(僧侶の実情は仏教というより祖先祭祀と特に葬儀を司る職業になっているように思います)。

そういった強制的な普及の結果、住民に受け容れられる形(祖先崇拝教への変化)に成らざるを得なかったのでしょう。平たく言えば檀家がお金出してくれないと干上がるから、檀家が望むような形に変化したという事でしょうかね。

琉球王朝ではこのような檀家制度はなかったため、現在も仏教信者数は他県と比べて少ないようです。

まあ、横にそれすぎなんでこの位にしておきます。

それと、>>77の指摘ですが、巨人ファンとアンチ巨人ファンの例で考えると言わんとしている事がわかりやすいかもしれません。
巨人ファンとアンチ巨人ファンは、巨人に興味があるという点で同類です。好きの反対は嫌いというのが普通なのですが、本当は好きの反対は興味がないなのではないでしょうか。アンチ巨人は巨人を口汚く罵りますが、巨人の興味がない人はそもそも巨人の事を語らないでしょう。

後悔と懺悔さんがアンチなのかどうかは本当は分からないのですが、感覚的にそうであるように感じました。あくまで感覚の話しなんで、その程度と思って下さい。

138NAN:2007/12/18(火) 18:17:12 ID:???
>>131 その他:後悔と懺悔さん

あなたに対して私が批判的である主旨とは、宗教者vs無宗教者のような「枠」に基づいた議論そのものがナンセンスではないのか?という”私の”主観(もしくは基本的な考え方とかライフスタイル)に基づいてのものです。これに対し、

>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。
たとえば私は「創造論者」と「創造科学論者」はきちんと区別しなければならない、と考えています。ですのでこのサイトにおいても創造論者とおおまかにくくった批判に対しては「それは大雑把過ぎないか?」と時折クレームをつけます。それが「宗教者」となると、たとえ前書きや注釈、その他の章立ての中でいくら断りをいれたとしても「失礼で浅はかに過ぎる」と私には見えます。
#ちなみに信仰者である知人が自らの過ちや自戒について述べる機会に接したことなどいくらでもありますが、なにしろリアルな会話ですので記録やソースを提示することはできません。
#ネット上の知人にも、自らがクリスチャンだけど研究機関に於いて古生物学の学術研究に従事している者がいます。しかしここに彼を引き吊り出すことが得策であるとは思えません。

>>129

>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。

その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
私はあなたの発言に批判的であるけれど、あなたの発言を禁止しないし、できない。それはほかの誰も同じことで、ある主張に対して別の主張の存在は常に許されています。すでに実現されているものに対して「危惧」を感じ、より上位の影響力を望む行為は、なんらかの「強制力の発動を欲しているのではないのか?」と思われるに値する、と私は考えます。

もちろん私も、原理主義者によるテロや、カルトによるマインドコントロール、集金装置と化した布教や集会、利権構造や政治的圧力団体へと変容している宗教団体について「個別の批判、時には強制力」は、あって然るべきだ、と考えています。しかしそれが「宗教者への無差別な批判(たとえどこかで断りを入れていても)」となると、配慮に欠けるだろうと思うのです。


>)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。

これも同様です。私は宗教行為を個別に批判する際、まったく遠慮などしません。私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。私はこれまでも個別の信仰者に対し激しい批判や時には暴言さえ撒き散らしているけれど、相手の存在を否定したりはしていません。増してや「宗教」という大きなくくりで自分と他人を峻別したりしません。それで私は憎まれたり疎ましがられたりするだろうけれど、それも私が自由意思のもとに選んだ行動の結果であり、それを受け容れています。

まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。確かに宗教者そのものはいます。ほとんど大部分の日本人が法事に参加し、結婚式に出ています。もうそれだけでその人たちは「宗教者」なのではありませんか?違うというならそれも拒否すべきです。

あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。

139NAN:2007/12/18(火) 18:17:45 ID:???
さて、これはついでなのですが…
>>127
>仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。

どこの巨大宗教も同じでしょうが、「仏教」とくくってもあまりにバリエーションが多すぎてもはやなにが仏教なのかさっぱり分からないというのが現状ではないでしょうか。少なくとも私が仏教と「呼びたい」宗派は我が国に存在しないように思います。
#このコメントについて詳しく書くと物凄い長文になるので、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」などを参考にしてください。

とにもかくも、私は「宗教」が民間に伝承し広まりやがて国や地域そのものを覆うまでに繁栄していく過程における、無残な世俗化(スノビズムの過程)にこそ注目します。象徴や偶像を否定していたはずの経典から、まるっきりそれが抜け落ちてしまったかのようになにかを拝み、念仏を唱える。そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです。

要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。

140NAN:2007/12/18(火) 18:44:59 ID:???
ああ、そうか!とポンと手を打ちつつ…
#「分かったぞ!」とか「そうだったのか!」などと日常的に繰り返すヒトは心が病んでいたりあっちの世界にイっちゃっている可能性が高い。もちろん私もそうだ!

>>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w
私はどこの信者でもなく入信せず洗礼も受けず神を信じず来世もなく転生もないと考えているが、仏陀の思想や初期キリスト教には強い興味を覚え文献を漁り、時に僧侶や坊主と同席すれば宗教について長々と論じ、空(くう)や色について思いを馳せ、イン・ヤン模様や曼荼羅をデザインするのが好きで、気が向くと寺院や社殿で写真を撮りそれを3dsMAXでモデリングしたり禅宗用の長い数珠がファッションとしてステキなのではないか、とさえ考えている。

つまり私はどこから見ても「信者」ではないけれど「宗教者」ではあるのかも知れない、と思う。いや、時々自覚するのだけれど再び自覚させられてしまった。恐らく…多分、webに転がる真摯な宗教研究者たちのソースも後悔と懺悔さんが望む「批判に対する真摯な態度」ではないだろうか?

141地下に眠るM:2007/12/18(火) 23:47:31 ID:Ja2I4.Nc
>>127
>『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、>>112で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(>>98)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。

おっけー
それでは仕方にゃーのでカネを出して「神は妄想である」を手に入れ、目を通しますにゃ。
というわけで、今までの発言はいったん留保させていただきますにゃ。

図書館に みすず書房「社会生物学論争史-----誰もが真理を擁護していた----」上下2分冊があって、喜んで借りてきて読み始めたところなんだけどにゃ(すごくおもちろい)。
しかしまあ、自分の発言には拘束されざるをえにゃーので、届いたら優先してそっちを眺めるにゃ。

142カクレクマノミ:2007/12/18(火) 23:51:14 ID:THRtI5kM
少し援護射撃を。

NANさん
>と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。

今回の文脈で、「宗教擁護者」なる語が定義できるかどうかは本質的な問題でしょうか?
ドーキンスは宗教に対して批判的に問題提起をしているのですから、それに対して答える人は必然的に、少なくともその点においては宗教擁護者と呼べるでしょう。
もちろん、その点については宗教を擁護するが他の点に関して批判するという態度もありうるので、NANさんの主張は一応妥当ではありますが、しかし瑣末な問題にしか見えません。

誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。
もちろんNANさんによる解答でもかまいませんし、WEB上に転がっているならそのうちいくつかを紹介してもらってかまわないでしょう。

143地下に眠るM:2007/12/19(水) 00:34:21 ID:Ja2I4.Nc
>>106
>スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
>無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
>「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
>様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
>私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
>とは考えられません。いかがでしょうか。

これは答えられるので答えておきますにゃ。
スターリン、ポルポトなどの無神論的全体主義が独裁体制をしいた場合、信仰者が優先的にぶち殺されていることはよく知られていますにゃ。

ウィキの「無神論」の記述から引用すると
*****************************
逆に無神論が政権を握った場合、キリスト教徒やイスラム教徒を初めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。マルクス・レーニン主義の狂信者は虐殺も含む手段で宗教を弾圧した。宗教を無教養で非合理的と決め付けた彼等は、その信者に対しても何ら価値を認めなかった。

中略

無神論者が政権を握り、無神論を公式のドグマとした場合、宗教を信じているものは極めて厳しい迫害を受けてきた。社会主義統治下での教会などは時に虐殺なども含んだ弾圧を受けたことが知られている。しかし無神論者の中にはリチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。
*****************************
ちょっと興奮した記述なので、いまいち信頼感がにゃーけどな。
ところで「リチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。」って出典が欲しいところだにゃ。

例えば日本史上でもっとも戦闘的な無神論者というと織田信長にゃんが、信長が宗教者ぶち殺しまくりであったことは歴史的事実だよにゃ。ロベスピエールの理性信仰というのも宗教弾圧だったしにゃー。

たいていの政治的言説というのは、統治の倫理的正当性というものを必要とするものですにゃ。倫理的な正しさを具備しにゃーものには統治ができにゃーからね。無宗教を看板にするものは、自らが無宗教・無神論であることをもって倫理的な正当性と見なすわけにゃんな。
「宗教はアヘンである」のであれば、アヘンを撲滅するのは政治倫理的に必要にゃんね。

キョーサン主義の政治倫理的自己規定というのは、自らは無神論であるがゆえにキリスト教道徳より優位であるというものなんだから、キョーサン主義のしでかしたことはすべからく無神論の名の下に行われたという論法は詭弁とはいえにゃーですよ。ちなみに、キリスト教徒は数百年間かけて数億ぶち殺しているといわれているけど、キョーサン主義も20世紀だけで億単位で虐殺しているという話もありますにゃ。まあ、このあたりの数字はいくらでも突っ込みようはあるけどね。


それと>>125
あえていえば8と12。(11と答えればよかったかい?)
宗教はね、手強いんだにゃ。だから、科学主義をこそ警戒しなければならにゃー。

(だいたいね、社会生物学論争においては、僕はウィルソンやドーキンスに肩入れするにゃんぜ)

144NAN:2007/12/19(水) 11:55:57 ID:???
>>142:カクレクマノミさん

>誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。

???
ドーキンスの批判に「見えない宗教擁護者」が真摯に答える要請はどのように生まれるのかな?もしかしたら、たとえば私がここで議論しているような「姿勢とかやり方」がそういうものなのではありませんか?とすでに書いていますよね。それで不満なのでしたら私は読みたくもない本を無理やり読まされ、それについての読書感想文をwebに掲載する義務があるということですが、その義務はどのように生じるのでしょう。当初から私はここが「書評スレ限定」であるなら辞退するけれど、あくまでここに書かれた内容について触発されるものがあったので書く、と宣言しています。
#ちなみに私も書店で該当の書籍をチェックしましたが、最初の数ページを読んだところで、所有している「悪魔に仕える牧師」などに見られる「いつものアレか」と思い、買いませんでした。しつこいな、と思ったからです。

もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?

以前から私は「既存のまともな宗教者による信仰の自由は守られるべきだ」と考えていますし、無思慮な「創造論者」というくくりにクレームをつけ続けています。つまり私は「気まぐれで宗教擁護者を気取っている」わけではなく、首尾一貫して宗教を擁護する主張も繰り返していますが、議論におけるルールや科学的方法論を尊重することも忘れたつもりはありません。また、行間に「言いようのない怒りや憤懣」を挟みながら主張するドーキンスによる宗教批判に比べて、冷静な態度で説得力を持つのはカール・セーガンであろう、とも考えています。

145NAN:2007/12/19(水) 11:56:56 ID:???
この「感想」の論拠は、たとえば「悪魔に仕える牧師」の3−5「立ち上がるべきとき」(p.273〜)より
---------------------
今こそ、知識人が、信仰をもつ人々に対して、立ち上がって「もう十分だ!」と叫ぶときだ。
---------------------

件の「9.1.1」について述べた序文であり、ドーキンスの怒りと憤りがよく伝わる名文です。一方で、狂信者によるテロを憎む心情に私は十分な理解と同調を持つことができますが、もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます。(私はこの事件についての陰謀説そのものは否定するけれど、米国による情報操作については確実にあったであろう、とも考えている)

またさらに、同書のp.261〜(偉大な収斂)からは

---------------------
そのあとで私は、時空の自発的な誕生を可能にした物理法則について尋ねた。「アーそれね」と、彼は微笑んで、「もう、科学の領域を超えてしまっているよ。ここは、われわれのよき友人である牧師たちに任せるしかないところだよ」と言った。しかし、なぜ牧師なのだ?なぜ庭師やシェフじゃいけないのだ。もちろん牧師たちは、シェフや庭師と違って、究極の問いについていくばくかの見識を持っていると主張する。しかし、彼らの主張を真面目に受け止めるべきどんな理由を私たちは与えられているというのだ?
---------------------

以後、アインシュタインやホーキングが持ち出す「神のレトリック」についての批判や、ドーキンスの主張の論理的正当性についてくどくどと続くのですが、他の章にある進化論のエッセイに比べて、これらの文章は、私をうんざりさせ、啓蒙主義に基づく正当性の押し付けにしか見えないものでした。たとえば、

---------------------
さて、天球のティーポットよりももっと確実に超越的存在が見つかるだろうという理由X,Y,Zがもし実際にあるとすれば、X,Y,Zは詳しく説明されるべきである。なぜなら、もしそれが本物であれば、その長所について評価を受けるべき適切な科学的論拠だからである。
---------------------(p.262)

にあるように、仮定につぐ仮定で問題を形式論理に置き換え、超越的存在(もしくは不可知であるもの)の想定さえ認めようとしない態度はどうだろう?と思います。いわゆるこれこそ「神の論理的証明と否定」というヤツではありませんか?こんなレトリック(いや、明らかに詭弁だと思う)が許されるならば、創造科学論者の正当性さえ私は再評価しなければならない、と思います。

146NAN:2007/12/19(水) 11:57:19 ID:???
ビッグバンについて、科学はドーキンスの友人である天文学者が云うほどには不可知であることを認めてはいないでしょう。コンマ数秒どころか限りなくゼロに近い領域に至る「宇宙開闢の瞬間」への科学的説明は私を心躍らせるものであるし、インフレーションがどのように置き、ゆらぎの存在がこれほど多様な宇宙の様相を作るに至る過程はまさに科学的です。その一方、われわれが「原理的に知ることが不可能である領域」を認めざるを得ないこともまた、自明であるはずです。これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。(坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを地でいっている、ということ)

十分すぎるほどに私が能天気で楽観論者であるのなら、これらドーキンスの主張にもガンガン頷くでしょう。しかし現実はどうでしょうか。「宗教」という仮想敵国を想定するのは楽観論に過ぎる、と私はあらためて主張します。ジンルイがもしも宗教を持たなかったら、と想定することは可能だし、なるほどそうであるなら宗教問題に根ざす紛争も起きないでしょう。その代わり、非常に高い確率で別の思想的主義的「枠組み」によって起きる悲劇が必ず起きているだろう、とも云えます。これはおそらく生命の持つ本質的な「中と外、個体識別」という問題にまで還元できる、根源的な問題であると私は思っています。

一貫した私の疑義は「敵は本当に宗教なのか?」です。一部の宗教者がそうであることは間違いありませんが、そこ「だけ」をことさら主張することは、本当に大事な問題から目をそらし、スケープゴートを祭上げて満足している姿にしか私には見えません。なぜなら宗教を憎むことは非常に簡単であり、安易で、正当性を(ドーキンスがやるように)主張しやすいからです。先に述べたように、宗教を自由に批判することは、とっくにできています。必要があれば、私も遠慮なくやるでしょう。しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?ドーキンスの主張はそれらを混同しすぎているし、感情的で、安直な理想論に見えるのです。(長々と宗教を蔑視することの正当性を述べる書籍を読む気が起きない理由かな)

科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います。仮想敵国など想定する必要はありません。きちんとした検証や論拠の提示、第三者による主張の評価と批判の自由、それらを社会に定着させることこそが「見えない敵」を撃退する唯一の手段なのではないか?と私は思います。

147AH1:2007/12/19(水) 12:24:55 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>128
>>道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景(後略)
>もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう

「馬鹿」と書いたのは、「自分の主張だけが正しいと信じ、相手を封殺するためなら詭弁も恫喝も辞さない奴ら」という意味を込めています。ですから、存在しないことを望む、ではありませんが、望ましい状態とは思いません。
「相手が馬鹿なんだからこっちもやり返せ」という方法も、決して望ましいものとは思いません(実社会においてやらざるを得ない場合はあるでしょうが)。例えば対テロ、対ゲリラ戦を考えて下さい。やり放題のテロリストと、同じくやり放題の軍隊・・・例えばベルファスト・・・の光景が望ましいとは思いません。
私が理想とする「理性と自由意志を尊重する人」は、相手が原理主義バカであっても、自らが掲げる理性と自由意志の尊重を実践し、決して「科学原理主義バカ」にはならない人です。


>一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(後略)

はい、私はまさに対立が先鋭化し、その数直線の両端に分布が偏る場合を「馬鹿が二匹」としました。

>それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。

恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。
もちろん、ポアソン分布のような分布型を考えれば、両端の最先端な辺りはゴリゴリでゴチゴチになるのは仕方ない、それをいわばパイロットシップとして、多数は中庸なあたりに分布すればよい・・という考えはあり得ますが。


>どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。

もちろんです。批判すればよいと思います。私は「宗教に弱腰になれ」と言っているのではなく、「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています。
そして、「相手を批判する根拠」に関して、メタレベルで見た時に「自分が相手を批判する根拠もまた絶対のものではなく、大間違いかもしれない」という点を片時も忘れるわけにはいかないという事です。

>どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。

全く同意します。これはNANさんも書いておられる事だと思うのですが、結局、個々の事例について「それをやっちゃ良くない」と判断するしかないのではないでしょうか。科学主義に基づくものであれ**教に基づくものであれ、同じく批判されるべきことだと考えます。

>あとは、>>6の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。

これについても個々の事例およびその人の(社会の・時代の)価値観というものに大きく依存しますよね。ここでは一括りにすることは避けたいと思います。

148NAN:2007/12/19(水) 14:55:29 ID:???
瑣末な問題といえば最も瑣末な問題であると私が考える「ドーキンス評」を自発的にやっちまった反省として、このスレの「重要な問いかけ」に戻ろうと思います。なぜならいくら代弁しようとしてもドーキンスが本当はなにを考えているのかなど分からないし、翻訳の過程でさらに文章が曲解されている可能性もある。また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。

(1)宗教は道徳的価値観を独占的に扱えるのか?扱えるのであればその理由は?

道徳的価値観に限ったことではないけれど、倫理を判断するのは個人または個人の集合である社会であって、宗教は選択肢のひとつに過ぎない。また、もしもなにかが道徳的価値観を独占したりしようとしているのであれば、それは宗教というメタなガイネンではなく、個人または団体という特定の利権構造であろう。
で、この「ここでの議論」についてはなんだか水掛け論な雰囲気を読み取ります。宗教が道徳的価値観を独占しているとは思わないし、テーマそのものが「???」という雰囲気にさえ見える。

(2)ニンゲンは宗教なしに「重要な問い」に答えることはできないのか?

どこかの宗教に入信したりしなくても、そんなもん、いくらでもできるでしょ。当たり前じゃん。
しかし、仮に宗教者であろうと無宗教者であろうと、各地各文化における「宗教的な倫理価値の浸透」から逃れることもまた、恐らくはできないだろう。

しかしなぜこんな「当然のこと」が議論の対象となるのか?それはもちろんドーキンスが著書の中でそれを問題視しているからだろうけれど、宗教というメタなガイネンと宗教団体という特定利権を混同することは非常によろしくない、と私は思う。恐らく、議論上のすべての軋轢はこの混同によるものではないだろうか。そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、今は宗教よりも「情報」という単位でこれを行おうとしているものにこそキナ臭さが強い、と私は見ている。

(3)神は本当に必要なのか?

ぶっちゃけ「キリスト一神教」による神など、いらんでしょ。しかし、各人の心にあるだろう神は、必要でしょ。
そもそもこの議論をきちんとやるなら、ドーキンスの著書は捨てちまわないとできないだろう、というのが私の主張でもあるんだよね。だって、西洋的キリスト教的絶対論理というものから、私らニホンジンってのは基本的に縁遠いのだから。
まさに聖書ってのは武力行使に対しての正当性をくくりつけるために利用されてきた、権力者にとっての武器なのだから、有害であるのは歴史的事実なのです。しかし聖書に書かれていること、原点的な教えまでが有害なのだ、と論じ始めたらそれはキリスト教に対する迫害もしくは差別的見解になりますね。

149NAN:2007/12/19(水) 14:56:14 ID:???
(4)宗教は有害なものなのか?

イエス(笑。しかし、有益でもある。薬効と同じことではないのかな?
>>68:後悔と懺悔さん
>私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。

すでに分かりきったことなのだけど、私は「宗教」というとき、キリスト教もしくはそれに付随する様々な宗派や思想を「ほんの一部」としか捉えない。一方、ドーキンス及び西洋諸国に住む人々、あるいは我が国に於いてもミッションスクールや教会に多大な影響力を受けている人たちと「宗教」というガイネンに大きな断絶が生まれることは自明なんだよね。その呪縛から逃れない限り、「神は妄想である」という書籍が大事なものに見えちまう妄想からも逃げられないんじゃないかなぁ。
#宗教批判することを躊躇してしまう性向を持つヒトにとって大事なものであるという意味。

ちょっと乱暴なまとめ方をすると、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。
#ローカル事象を一般化しているってことかな。

>>73:次郎さん

>フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

の指摘にあるように、仏教も神道も権力者の道具になった歴史を持つ。だけどそれさえも「宗教の性質」なのだ、ということにしてしまうと、問題の本質であるはずの「暴力や迫害との断絶」から離れた結論しか出てこないのではないか?というのが私の主張。それは権力者の性質であって利権の要求でもある。この意味において企業論理も国策もまったく同義のものではないか?と私は見ている。

(5)宗教はなくすべきものなのか?無宗教であることは奨励されるべきか?

各個の自由、としか云えない罠。
「宗教は害悪なのでなくすべき」という主張も「宗教は有益なので奨励すべき」という主張も「無宗教であることは中立なので奨励すべき」という主張も、どれもこれも「正しさの要請」であることに変わりがないでしょう。

あらためて書くけれど「宗教擁護者」というのは実態を持つ存在なのか?幻に過ぎないのではないか。なにか不安にとり憑かれた理性とやらが生み出した仮想の標的に過ぎないのではないか。私はそう思う。

個人的なことを敢えて書くと、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」をはじめとする私の周囲に点在する原始仏教に関する書籍とその内容は、私の倫理観の根底を成すものだし、これを捨て去ることが「良い=私にとって利益をもたらす」とは到底思えない。なぜならそれは私が同じように大事にしている科学的方法論とまったく矛盾することなく共存しているし、広義における信仰と云っても差し支えないだろう、とさえ思っている。だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する。

孤独に苦しむひとと向き合うとき、今まさに死と向き合い不安におののくひとと向き合うとき、確かに経典は必要ない。しかしそこで最大の苦慮の末に出てくるであろう言葉や行動に宗教的バックボーンや観念が皆無であることなどあるのだろうか?もしもそういうものは「宗教ではない」と述べるのであれば、それは詭弁だ。ありのままを受け容れることのできない不誠実な態度だ。そんな風に私は思っています。

150AH1:2007/12/19(水) 18:08:32 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>129
>これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。

うーん・・それはそうだと思うんですがね。
ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?
しつこく書きますが、科学的および合理的な判断をすべき場面はもちろん多々有ります。ただ、そうでない面について科学や合理性が万能であるかどうかは私には自信がなく、よって「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」とは言いにくいのですね。(たとえば道徳についても宗教抜きに代替可能であろう、と後悔と懺悔さんが述べておられます・・まあ、道徳的な部分は代替可能だろうとは思うんですがね。宗教によらず共通性が高い部分があるし)

そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。

>私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。

くり返しますがその点について同意しています。「この社会において無法者を野放しにする事はできない」と最初の頃に書いています。

また「宗教は正しさを独占しがちである」という前提そのものにちょっとした異論がありますが、NANさんが書いておられる事とかぶるので、今はちょっと省きます。

151AH1:2007/12/19(水) 18:57:57 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん、

>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。
について、こう言えばいいのかな。かなり失礼な書き方になるんですが・・


宗教を愛する人が、しかしその論理的帰結によって「・・・やはり宗教は存在できない」
と苦渋に満ちた判断するなら、私は危惧を感じません。
しかし、宗教の害を説く人が「いや、弾圧などする気はありません。価値の独占もしません」
と言いつつ、「でも宗教はなくなるかもね」と言ったら、
「・・・え?」
と思うんです。非常に失礼なことを書いているだろうと思うのですが、正直に言えばこういう『感覚』です。

152atheist:2007/12/19(水) 22:06:01 ID:PqsV.DF6
地下に眠るMさん、回答ありがとうございます。これで幾分スッキリしました。
なるほど、8と12ですか。7,8,9あたりだろうなと予想はしていたのですが。(10と11はもちろん冗談ですよ。)
時間がないので、この件に関する私の見解は、また後ほど。

153chochonmage:2007/12/20(木) 14:32:38 ID:vUxNW.gI
NAN様

はじめまして。chochonmageと申します。横レス失礼いたします。
こちらでのご活躍はよく存じ上げておりますし、NANさんの深い学識、ご理解にいつも感服させられるばかりです。
今回の幾つかの書き込みもとても深い内容で感銘を受けました。
特に「絶望」のくだりはなるほどなるほどと読ませていただき、私の自分なりの世界なり社会なりに対する理解を深める
のに大いに参考になりました。
また、本掲示板の皆様の意見を読むうち、細かいところで考えをまとめている間に自分がもともと何を言いたかったのか
よくわからなくなってしまっていたところがあるのですが(なんて頭悪いんでしょう)、NANさんの記述を拝読して私が本来言いたかったことがいくらかまとまってきました。感謝いたしますです。
その上で、少々意見を述べさせていただきたく思います。


>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

同意いたします。結局私が言いたかったのもこれでありました。

>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、
>この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。

>また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、
>私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。
>だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。


私事で恐縮ですが、私は人生の半分近くを米国で暮らしています。そこで、「この日本において」とおっしゃるNANさんと
感覚の違いが当然生じるのですが、私にとってドーキンスの主張には現実的な実感があります。
「宗教者」「あるいは宗教の影響力」という存在も極めて身近なものです。

例えば、小学校三年になる息子が私の住所区域の公立小学校に通っているのですが、本年の9月11日に息子から
「God Bless America」、「My Father, God」なる文言を含む歌を歌わされたと聞かされ、大変にショックを受けました。
政教分離であるはずのこの国で(少なくとも建て前としては)公立校でかような歌をなんの説明もなしに判断力のいまだ養われてない子供に歌わせるとは何事じゃ!と早速担任の教師に文句をつけに行きました。
教師はそれらの歌はこの学校で開校以来歌われていること(実際には、米国のありとあらゆる公立校で歌われているようです。)、愛国心昂揚的かつ宗教的(はっきりとキリスト教的であること)を認めました。
私としては、人種の坩堝である米国で上記のような歌を選択するのは適当であるとは思えない旨主張し、担当教員は
私の意見にある程度同意しましたが、歌の変更は私が校長と掛け合うしかない、そして息子には2つの選択があると私に告げました。
その選択とは:

1.他の生徒と一緒に歌うが上記「宗教的」部分に関しては口をつぐんでいる。
2.歌うことを拒否し、歌が終了するまで学校の事務所で待機している。

まぁ、選択があるだけ某国のように国家を強制的に歌わされる状況よりましかと一瞬思いましたが、やはり私としては見過ごす
気持ちにはなれず、連れ合いとも相談のうえ校長に掛け合うつもりでいたのですが、何人かの米国人の友人たちの意見を求めたところ
「気持ちはわかるが絶対に学校は歌を変更しない。歌の選択はもっと上からの支持である。勝てない喧嘩はするな。
特にお前のような無神論者がどなりこむことによってお前の子供が不利益を蒙りかねない。」とのアドバイスを受け、泣く泣く交渉は取りやめました。

米国においては、「atheist」という言葉は大変にインパクトがあります。これは、ドーキンスも著書で指摘していることですが、
私の住んでいる地域ではまだしも、田舎に行けばほとんど人間扱いされないか、「まぁ可愛そうに」といった哀れみを受けるのが関の山かもしれません。
キリスト教に限らず「信仰を持っていない」と自ら述べる人間はかなり敵視され得ます。
「ヒューマニスト」という言葉でさえ、「神を第一義においていない」という意味合いがあるからあまり使うなとアドバイスされたこともあります。

てなわけで、もしNANさんが、日本以外も視野に入れた議論を今後なさってくれたら私としてはうれしく思います。
続きます。

154chochonmage:2007/12/20(木) 14:35:38 ID:vUxNW.gI
>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、
>その危惧を解消しておきたいわけです。(後悔と懺悔さんの発言)

>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり
>咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。

されていないと思います。
悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。
こういう例もあります。ビデオをご参照ください。
The Price of Atheism
ttp://www.youtube.com/watch?v=sTRDRP2n4Sk
まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。

この状況は、日本における〇皇タブーに似ているのではないかと思います。建て前として批判可能かもしれませんが、
公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?実例としては、「噂の真相」右翼襲撃事件が記憶に新しいところです。

「ドーキンス評」が瑣末かとか、なぜ宗教のみがピックアップされるのかとかもっと書きたいことがあるのですが、
眠いので今日はこれでごめんくださいませ。
乱文失礼いたしました。

155NAN:2007/12/20(木) 18:20:44 ID:???
>>153:chochonmageさん

初めまして、ご挨拶ありがとうございます。
ご指摘のとおり、私は西洋諸国、とりわけアメリカ国内の事情については少しも考慮していません。米国における宗教事情は、私が知る限りあまりに異常で、恐らくはこの日本と両極端の相似形になるのではないか?と考えるからです。件のドーキンスの本は、アメリカなど諸外国ではかなりのインパクトを持つであろうが、我が国においてはいささか見当はずれの書籍に見える(もしこの本がリチャード・ドーキンス以外の著者によるものであるなら、ここでこのような議論が起きたであろうか?という予見も含めて)現状についても指摘しておくべき、と考えていました。

恐らく、chochonmageさんが教えてくださったような事例が、かの国内では数多く、日常的に繰り返されているのでしょう。また「キリスト教」の影響も社会の隅々までに及び、特に言論・表現・研究分野で働く人々に対しては、時に深刻なストレスとなっているであろうことは想像に難くありません。(敢えて宗教とは書きません。それはキリスト教)
ドーキンスが犯した間違いは、なぜか「キリスト教の一部勢力もしくは特定できる教会に所属する会派の者たち」という標的の特定を行わず、あたかもすべての宗教が敵であるかのように問題を一般化してしまったことだ、と私は考えます。さらに「アメリカ社会のキリスト教問題における神は妄想である」くらいに事象を特定しておいてくれれば、私は興味深くその本を読んだ「かも」知れません。

さて、私も私事を書きます。
私が育った街には大きな寺社と神社があり、私はその神仏共同体が経営する幼稚園を卒園し、幼い頃から「オシャカサマ」とか「ナムカンゼーオンボサツ」みたいな言葉に触れていました。もしこのとき、私の両親がchochonmageさんのように政教分離に敏感で、子供の教育と宗教問題を厳密に捉えていたなら、そういう幼稚園に通わせることはなかったでしょう。
続いて、私は高校でとある私学に通いましたが、その学校は入学式を靖国神社で行うという素晴らしい(笑)校風を持つ学校でした。さらに私は専門学校にも通いましたが、この専門学校は母体が宗教法人であり、いわゆる神道系の新興宗教(それも”超”がつく拝金主義)に属する組織で、今ではさらに成長して某プロスポーツチームのオーナー企業と化していたり、我が地域では多大な影響力を誇る組織へと成長しています。我が国においても、かように宗教の影響はあるものです。しかし、少なくとも幼稚園以外でカリキュラムの中に宗教的な色合いが滲み出してくることはありませんでした。

我が国の国歌には誰もが知るように宗教的色合いがあります。恐らく、大半の国歌とはそういうものでしょう。私は国歌を拒否するほどに無宗教者であろう、と志したことがなく、君が代に対する嫌悪感もありません。育った街の神社も寺社も好きだし、靖国神社と政治家の問題に議論の必要はあるにしても、靖国神社そのものが「悪い」だとか「避けるべきもの」という感覚はありません。「和の思想」など持ち出すまでもなく、法事に出ては数珠を持ち、結婚式では「アーメン」と唱えている程度のことで不利益を蒙ったり表現活動における制限を受けたり迫害に合うという事態に(幸運にも?)遭遇しなかったので、場に合わせた態度でスルーしてきた、というのが正直なところです。

そんな私ですが、つい最近ひょんなことからとある宗教団体の勧誘を受けたことがあります。日蓮宗系のカルトでした。最初はそんな話に発展するとは分からず、真摯に(笑)話を聞いていたのですが、「実は…」と相手が本題に入ってからは「???」な雰囲気になり、最終的に「君とは二度と会わないし近寄らないように」と念を押すしかない状況へと発展してしまいました。ただし、それは私が無宗教者であろう、としたからではありません。むしろ、多少は宗教と経典を知る者として、あまりにも歪曲された教義や「予言」などが「許せない」と感じたからです。さらに「私はあなたをしあわせにしたい、と思っている」と云われたからには「自分をしあわせにできるのは自分の行いだけだ」と述べるしかありませんでした。

156NAN:2007/12/20(木) 18:21:14 ID:???
では、こうした事例は宗教による私への迫害でしょうか。そうとは思いません。カルト宗教が私に勧誘を仕掛けたことは迷惑な話でしたが、それは私が「彼」と人間関係を生じさせたがために起きた事例であり、もとはといえば私の不注意な人付き合いに端を発する、と考えます。つまり、私のせいです。なぜならカルト宗教はそういう勧誘をするものだ、と知っているのに、今から思えば明らかに勧誘を想起させる行動をとっていた彼の接近を許していたからです。この件について、私は該当する教団への批判をすぐに書き、某誌に掲載しました。しかし編集部の方針によって教団の固有名称を書くことはペケになり、私も合意したので「某カルト教団」と表現するにとどめました。

そこで、
>悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。

にお答えするなら、やはり問題は「個別事象」であり、一般化することは困難だ、と私は思います。その問題に苦難するひとは問題を少しでも一般化し、仲間を募り、共に戦おうみたいな意識を持つだろうと理解はできますが、それをやればやるほど事態は溝を深め、新たな迫害を生むだろう、と予想します。つまり「米国の田舎のキリスト教問題」なのです。(個別事象だから議論する必要はない、という意味ではありません。個別事象として議論すべき、ということです)

また、出版…つまり社会に対してある程度公的な影響力を持つ表現者が対象を批判する場合において、その対象がどの程度センシティブでネガティブなレスポンス(たとえば復讐行為)に及ぶだろうか?ということは、リスクとして計上し把握すべきであり、理想論や性善説に立った不用意な扇りを含むタイトル付けなどを「好ましい」と、私は思いません。それは「自由な宗教批判」ではなく、挑戦的で好戦的な宣戦布告と捉えられるだろうことが十分に予想できるからです。

>まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。

まさにテレビ報道です。スポンサーがあり、最初から制限された「シナリオどおり」の進行です。また、それらの話が「起こりえない」などと私は思いません。青臭い(ドーキンスのように)理想論を述べたり無駄な論理的正当化を行うよりも、対象の特徴性格長所短所を「科学的に」検討し効果的な戦略を練ったうえで成すべきことをするべき、と考えるのです。(一方で、青臭い理想論を知ることも悪いとは思いません)

>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?

なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。たいてい逆効果です。そういう不注意で無思慮な批判が制限されるのはむしろ当たり前であり、AH1さんが指摘するような「自戒のない」行為に妄信者がネガティブな反応を起こすだろうことは「予想できる」でしょう。自由を勘違いしてはいけません。相手が勝手な言動をしているからと云って、こっちも同じ手口でやり返すというのは対立構造を生むだけです。
#敢えて対立構造を生み、その上で治安的強制力を発動させるという戦略もありますが。

最後になりますが、この議論における最大のナンセンスは論理的正当性に結論を求めているところです。そもそも「情動分野」で起きる感情論や欲求行為に対して、論理をかざすなんて馬鹿げています。土俵が違う、ということです。「科学には答えられない重要な問いかけ」に対して、論理的に答えようなんて矛盾していませんか?宗教は必要ない、といくら論理的整合性を示したところでまったく無意味だろう、と私は思います。(その正当性とやらを見出したひとの心にはとっても有意義だろうが、現実には作用しないだろう、という意味)

157GB:2007/12/21(金) 19:52:30 ID:???
>>130 後悔と懺悔さん
まず、先日の引用部分にミスがあったこと、お詫びします。
文章をごにょごにょいじっているときに、間違えました。ごめんなさい。
(遅くなってますが、とりあえずの返信を…))

「宗教という形質のダーウィン主義的な生存価」についての説明は、それ自体興味深く面白いと思っています。宗教は、(二元論や目的論的な)人の生得的な性向の副産物なのでしょうし、それが集団の生存価を左右したり、また盲信が成員に隷属を強いたりしたことも多かっただろうとも思います。いま、「宗教」の大きな部分は、確かに「火に飛び込む蛾の天空航法の誤作動」を起こしているのでしょうね。でも、

宗教の根源(役割)の一つは、自分がなぜここで生きているのかという、ふつう答えようのない疑問に対する精一杯の解答でもあり、人類誕生の時代から現代まで、地球上のあらゆる場所でそれぞれの事情で紡がれてきたヒトの貴重な歴史だと思うのですね。
哲学や科学(理性)が、それまでの説明内容に修正を加えて人間観を変え、いま結果として宗教のカタチの多くが形骸化したとしても、ふつう答えようのない「意味」を求める人々の要求はたぶん変わらない。文化と一体化したコミュニティの価値観という形で大切にされていくのではないかと思うわけで、それはたとえば、われわれ日本人に伝統的な祖先崇拝という心性についても、同じことなのではないかと思うわけです。

そういう人の心に、「解答などない」とかんたんに言っちゃっていいんだろうか、というのが、私の気分なわけです。

158AH1:2007/12/21(金) 23:40:48 ID:fKqeZx4M
ちょっと仕切り直しというか。

「例えば『メリケンの馬鹿クリ(copryright 地下猫さん)』に文句を言うことを
控えるべきだ、などと考える人」
はこの掲示板にいるんでしょうか?

159リリス:2007/12/23(日) 16:18:36 ID:nrzx3pJo
こんにちは。

ドーキンスの「宗教」批判に対して私が感じている違和感は、NANさんが私などよりずっと丁寧に雄弁に書いておられるので、私が口を挟む余地などまったく無いようです(笑)。ですから、私自身のことを少し書いてみようと思います。

こちらの何人かの方はご存知の通り、私は無神論者であり進化論支持者であって、有神論者や創造科学論者からの批判に対しては好戦的に反応する方です。一方で私は仏教というものを敬愛しています。特定の宗教に入信する意志は無いので「仏教徒」とは名乗りませんが、書物等で接した仏教の教えは、私の倫理観や価値観の一部になっています。仏教において育まれてきた思想体系は、人類の資産だと思っていますし、キリスト教のように多くの人間によって担われてきた宗教にも、きっと尊重されるべき思想体系があるものと思います。私は一神教が好きではないのですが、だからと言って一神教が育んできた良い面を無視してしまわないよう自戒を努力しています。

つまり私は、無神論者であり反原理主義者であり「馬鹿クリ」大嫌い人間であり、かつ、安直な宗教批判に対しては宗教擁護の立場に立つわけです。(宗教を全面的に擁護できるかどうかは保留。これは余りに広範で奥の深い分野だと思うので。)また、思想体系として私は仏教に心を寄せていますが、それとは別に、人間精神への興味から世界各地の神話伝承にも関心を持っています。私から見れば、ドーキンスに賛同する方々は、「宗教」において「ヘブライの一神教」をクローズアップしすぎているのではないか、と感じられます。私自身は、このような一神教は宗教においてむしろ特殊な形態なのではないか、という印象を持っていますので。

たとえば私の手元にある「憎悪の宗教(定方晟著)」では、ヘブライ系一神教について「自分のまわりには敵がいるという意識を吹き込むことで一致している」と述べています。ニーチェもキリスト教の特徴の一つに「ルサンチマン」を挙げました。これらは「宗教」の特徴とは言えないでしょう。「一神教VS多神教(岸田秀著)」に至っては、「一神教は、ひとつの特異な現象、異常な現象として中近東だけに発生したただひとつの例外ではないか」と述べ、「癌細胞のようなもの」という表現まで用いています。世界の神話に興味がある私には、この本の「旧約聖書は、多神教の世界に一神教が無理やり押し入る物語」「自生的な神(自然発生的な多神教の神々)を必死になって排除しよう、弾圧しようとする人工的な神の物語」という観点は面白いものでした。「宗教」と一括りに言ったところで、かつて一神教と対立したのは無神論ではなく土着の宗教でしたし、多神教や汎神論に(どちらかと言えば好意的な)関心を持つ私としては、「宗教」=「ヘブライの一神教」と見なす考え方にも反感を覚えるところです。

で、
後悔と懺悔さん
>しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。

たとえば「キリスト教」という名のもとで行われていることに対しては、仏教徒が負うべき責任も、祖霊信仰家が負うべき責任も、無神論者が負うべき責任も、無宗教者が負うべき責任も、基本的に等価であろうと思います。仏教の主流は特定の対象(それが神であっても)に心を捉われることを否定しますから、キリスト教徒と仏教徒の心理的距離は、キリスト教徒とただの無宗教者の心理的距離よりも離れている可能性さえあります。そのことは考慮されているのでしょうか?

160リリス:2007/12/23(日) 16:41:35 ID:nrzx3pJo
後悔と懺悔さん
>しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。
>人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。

この点について、議論が尽くされていないと感じます。
後悔と懺悔さんやカクレクマノミさんは、倫理観・道徳観については
『宗教は実のところなんの機能も果たしていない』
『「宗教」自身の寄与はほとんどない』
とお考えであり、しかし“正しさ”を独占しようとする傾向については、
『宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり』
『「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです』
とお考えなのですよね。この不均衡はどのような理由によるものでしょうか。

私自身はNANさんのご意見に賛同します。
『正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。』

つまり、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向が宗教の周辺でよく見られるのは、宗教が「感情」や「人が生きる価値や意味」といった領域に関わるものであるからに過ぎず、宗教がそれらの傾向を助長するとは一概には言えないだろう、という考えです。(助長するケースが無い、という意味ではありません。)根拠は、宗教以外の枠組みの中にも容易に「正しさを独占しようとする性質あるいは傾向」を見出しうることです。

それに対して、「助長するものである」とする根拠はどのようなものでしょうか。勿論そのようなケースがある、というだけでは不十分です。私には、宗教全般を網羅するような考察が十分になされないままに、「宗教は人間が本来的に犯しうる過ちをこれ以上ないほど効果的に助長するモノである」と(教条主義的に)決め付けられているような気がしてなりません。

私は「宗教さん」からの批判的発言に対して、脊髄反射的に反論してしまう方なので、ヤフーでは口論に至ることがよくあります。その経験から、「宗教さん」と呼びたくなるような人たちは、逆説的ですが「宗教」に対して真摯でない、という印象を受けました。たとえば猫さんが否定神学で述べられたような「知解されざる神」の概念、人間は神の意図を知りえるのかといった問題や、神とははたして人間が「存在する/存在しない」といった言葉で認識できるような存在かといった問題は、「神」と真剣に向き合うならば不可避なものに思えます。しかし私が対論した(罵倒したとも言う)「宗教さん」達は、そのような事をまったく考えていないようでした。その経験も、私がドーキンスの「宗教」批判よりも、グールドの『敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である』に賛同する理由です。

161リリス:2007/12/23(日) 16:48:09 ID:nrzx3pJo
また、
>その意味で、ドーキンスが「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と述べたのも一理あると言えるかも知れません。

ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか。「宗教≒ヘブライ系の一神教」であるかのような社会状況に大きく影響を受けた、恣意的な見解ではないのでしょうか?
たしかに『仏教の思想1―知恵と慈悲―』には次のような文章があります。
『仏教はキリスト教が、そういわれるような意味で宗教ではありません。それを、宗教だというならば、極度に思想的な宗教であります。十九世紀のヨーロッパにおける仏教学者は、そこに、驚くべき宗教を見ました。いっさいの迷信から自由な、純粋倫理的な宗教。ヨーロッパの仏教学者は、仏教の中にキリスト教とまったく違った宗教を見て、驚いたのは、彼らがむしろキリスト教というものを基準にして、宗教を考えたゆえかもしれません。』

キリスト教やイスラム教と、仏教や儒教との違いに意識を向けたとき、なぜ「宗教」というものの幅広さに思いを馳せるのではなく、「そうしたものは宗教ではまったくなく」という方向に行ってしまうのでしょうか。ドーキンスの批判対象である「宗教」が、ごく狭い範囲の限られたものを指すのならば、それに「宗教」という呼称を用いることは不適切であり、批判されてしかるべきでしょう。その論法は、創造科学者たちが「進化」という言葉で大進化のみを表そうとするのに似てしまわないでしょうか?

NANさんが書いておられる『「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています』という視点が大切なのであり、ドーキンスが批判対象に対して『宗教』という呼称を用いるのは、この視点においてマイナスだと考えています。

162地下に眠るM:2007/12/23(日) 22:44:44 ID:J4MyD2WQ
社会生物学論争史1を読了。
「神は妄想である」は今日発送したというメールが届きましたにゃ。
予約してあったグールドの「神と科学は共存できるか」を昨日図書館で借りて参りましたにゃ。

正月はこのあたりをゆくーりと読むつもり。

で、社会生物学論争史1を読んで、なんとなく思ったことなんだけど
ドーキンスの基本モチーフのひとつに「ニンゲンは遺伝子支配に対抗できる」ちゅうのがありますよにゃ。
もしかしたら、ドーキンスの執拗な宗教批判のベースには、この「遺伝子支配への対抗」というものがあるのではにゃーかという気がしたのですにゃ。このモチーフが宗教批判の形をとった場合、非常に激烈なものになっていくのは理解できる。それは、単なる「外部」批判に留まることができにゃーものだからだ。

まあとにかく読んでみますにゃ。
(ほかに読みたい本も正月にはあったんだけどにゃー・・・・。自業自得にゃんが)

163AH1:2007/12/26(水) 12:34:06 ID:fKqeZx4M
すいません、ここだけレスさせてください。

>>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?
>なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。

強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。あくまで、ダークグリーンのいかつい車が大音量でドラ声を響かせながら、迷彩服のアンチャンを乗せて来るからではないですか?
つまり、「宗教だから遠慮する」のではなく、はっきりと暴力による威嚇があるから二の足を踏むのでしょう。
私はあんな連中は素朴な神道を汚しているとしか思えませんが、面と向かってそう言えば取り囲まれて殴られそうだから言ったことはありません。私がヘタレである事は確かだとしても、これは「宗教に遠慮している」ことになるでしょうか?
私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。

164地下に眠るM:2007/12/28(金) 23:42:17 ID:SQkurglE
「神は妄想である」を読み始めたとこ。
ここまでヒデエ本だとは予想してなかったにゃ。
明白な事実誤認(ことによると捏造)や決めつけを根拠にした厨房論法が目立つ。

これを書いたのは本当にあのドーキンスなの?

読まずに厨房呼ばわりしていたけど、思っていたよりよっぽどヒデエ。
数ページめくるごとに「馬鹿か、こいつ」と呟きながら読んでおりますにゃ。

うん。これがまかりとおるのなら、創造科学に同情しちゃうね。

165後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:21:15 ID:yW.XqGsE
>>132:chochonmageさん
>言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。

もちろんそうです。誰もが一律に同じ責任を負えと言っているわけではありません。ただ、誰か直接の責任者を見つけてきてそれを追及し、自分は無関係(むしろ「悪」を追及している自分は「正義」の側の人間である)というのは違うのではないか──ということです。
オウム事件のとき、多くの教員は(特に理科教員は)自分の教え子にオウム信者がいたわけでもないのに「自分が教えてきたことはなんだったのだろう。自分は何をしなければならなかった・今後しなければならないのだろう、一体何ができるのだろう」と激しく自問しました。それは私には人として自然な感情に思えます。そういう感情が湧かない人を「間違っている」とは言いません。でも、事実の問題として、多くの教員はそういう気持ちを持ったのです。
私は、ではなぜ「宗教」はそういった気持ちから自由なのだろう──ということが不思議なのです。その気持ちが、>>102の4番目の「たとえば」には込められているわけです。

>>133:AH1さん
>「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.

ですから、それは何度も何度も書いているように(>>6>>17>>48>>50>>128)、当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。

なんというか、AH1さんは人間というものに対してあまりに悲観的というか侮蔑的に過ぎる気がします。>>130に書いたように、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といったことは、実はさんざん研究・検討されてきているのです。分かってきたのは、人間の本性的・本能的な感情の傾向なんて、いつどこで生まれ育っても大して変わらない──ということです。
AH1さんは、「惚れた女なら相手の気持ちなんて考えずに力ずくでとことん犯して孕ませろ」という価値観をもった文化が醸成される可能性を本気で危惧しますか。逆に「たとえ理由なくぶん殴られても、殴った相手を決して責めてはならない」という価値観が支配的な文化が存在しうると考えますか。「異邦人の女ならいくら泣き叫ぼうが犯しても良い」という価値観と「相手が誰であれそこまで非人間的な扱いをすべきでない」という価値観の2つを提示された人間は、前者の価値観に好感を持ったり支持したりすることもあると主張しますか。
私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(>>49)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。

>>134:AH1さん
>一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.

おそらく多くの人間はそう感じるんです。まさにここで皆さんが証明してくれているように、自分のモノとは違う「正しさ」を押しつけてくる(私のような)モノに対する嫌悪感は、人間の自然な感情だと思うんです。私の主張の正当性の根拠はまさにそこにあるわけです。

>>133:AH1さん
>第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.

それは存じております。その点ではすでに合意できていると思っていましたが。ただし、何度も繰り返しているように、「宗教」に超自然的なコト・モノを信じさせる教義なり傾向なりがある限り、この点での批判は避けられないと思います。

166後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:24:45 ID:yW.XqGsE
>>133:AH1さん
>また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.

そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。

>>147:AH1さん
>恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。

AH1さんのこのコメントが誰に向けられているのか分かりませんが、私はここでずっとそのことだけを主張し続けているのであり、「宗教」はそれを妨げるものだと非難しているのです。
なお、AH1さんの>>147での他の論点については、まず、私の>>127の主張に対するAH1さんの見解をうかがった上で考えたいと思います。

>>150:AH1さん
>ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?

それは非難されるべきことなのですか。
各々のカギ括弧内の内容は私の主張とは大きくかけ離れており、その点で異論はありますが、それはこの論点とは無関係だと思うので無視します。
さて、もし弾圧を行わずに宗教包囲網が作り上げられたのだとしたら、AH1さんはそれはなぜだと思われますか。洗脳ですか。たしかに、私は、>>50で「古代ギリシアのデマゴーグたちやソフィストたちからも学ぶべきことが多い」と書きましたが……。
AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。

>>151:AH1さん
>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。

少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
を覚えていらっしゃるでしょうか。もし私が、吉村医院の問題点を指摘して、それでも「一人ひとりの信者たちを弾圧するつもりはない」と本心で言ったとします。でも、「もしも私の主張が多くの人に共感され受け入れられるものだとしたら、吉村医院(や、そのような価値観)は次第に衰退し、消えていくかも知れない」と考えるとしたら、そう考えてしまう私に、AH1さんは不安を感じますか。

167後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:27:40 ID:yW.XqGsE
>>133:AH1さん
>つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.

AH1さんがそう思うのは尊重します。でも私は「拝むだけでは願いはかなわないし奇蹟はおきないということは分かってるよね。自分にできることはすべてして、それでもまだ足りなくて不安で、だから拝んでるんだよね」と言ってあげられる人を否定すべきではないと思います。少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。
さらに言えば、そうやって正面から受験勉強に立ち向かわないで、祈りやおなじないに逃げた人たちのことを、これから受験を迎える生徒たちに批判的に話すようなことは実際にしてきました。批判というのは、直接批判対象となっている当人に向けてという気持ちも大事ですが、それ以上に、その批判対象と同じ陥穽にはまりうる潜在的可能性をもった人たちのためにすべきであると、私は思っています。

>>135:次郎さん
>で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。

ドーキンスの主張が(そして私の主張も)そんな単純なものでないことは明らかです。たとえば、少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
ですが、もしも、吉村医院が妊婦を一切転送しないとすれば、グールドは吉村医院を批判できるのでしょうか。吉村医院を非難することも不快感を表明することも、その根拠をどこに見出すことができるのか、私には分かりません。
私は、吉村医院の当事者に向かって直接非難する(ような無駄な)ことはしませんが、吉村医院の価値観(正しさ)を批判の対象にすべきでないという見解には大いに疑問を持ちます。もちろん批判や議論の結果、私の価値観が共感を得られずに「吉村医院の価値観(正しさ)を受容する社会であるべし」という世論が形成されるかも知れません。それでも、互いにより望ましい価値観を模索したり、自分の望ましいと思う価値観が社会通念になるよう努力したりする余地は認められるべきだと思うのです。皆さんの見解の多くは、そのような行為を拒否・否定するもののように私には感じられるのです。
この件(吉村医院の件ではありません)について別の場所で自分の見解を述べたのもあるので参考までに(↓)。
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-10
このブログはコメントに直接リンクができないようなのですけど、コメント欄の「田部勝也」が私です。このエントリとコメント欄には(少なくとも私のコメントまでは)斜め読みでも必ず目を通していただけると幸いです。この論点における私の主張のポイントがあると思っています。

>>135:次郎さん
>でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。

私はこの点について冷静で公正な判断を下す自信がないのでぜひ皆さんに聞いてみたいのですけど、>>129で問題提起したように、本当にドーキンスの非難は不当に「宗教」を腐したものなのでしょうか。私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。その非難や価値観が、多くの人・社会から共感を得られるか嫌悪されるかは、また別の話です。
もしも、この書におけるドーキンスの行為が「不当に他の価値観を腐し」たものだとするのならば、私にはどんな正当な批判活動もできそうにありません。

168後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:34:18 ID:yW.XqGsE
>>108:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

たとえば、上で書いたように、オウム事件は、通常、学校教員のせいだとはみなされていません。しかし、社会の構成員である以上、オウム事件を許した社会的土壌の形成には、どんなに小さくとも何らかの寄与はしているはずであり、多くの教員はその点を悩んだわけです。いわゆる「ニセ科学」の蔓延に警鐘を鳴らしている人たちの多くも、個々のニセ科学の直接の害悪を追及しているだけでなく、ニセ科学が「蔓延してしまう」ような社会的土壌が、ニセ科学の蔓延だけでなく、他の(一見すると無関係にも思えるようなものも含め)社会的害悪のはびこる温床になっているのではないか──ということに注目しているわけです。
私は、特定の「宗教」が直接的に社会の害悪となるケースをもって、それを「宗教」一般に拡大解釈しているわけではないことを強調したいと思います。そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。

その他、NANさんが>>108>>109に書かれたことについては、すでに私なりの回答は十分していると思うので、1点だけ……。

>>108:NANさん
>つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。

ここがそもそもの誤解だと思うのですけど、NANさんは、今現在の「無宗教者」と「宗教者」だけを考慮すれば済むような世界に住んでいるわけではないと思うのです。私は「宗教者をどうにかしたい」とはほとんど思いません(それはこれまでの私の発言から明らかだと思うのですけど)。「(まだ産まれてきていない人々も含めて)これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。

>>121>>122のNANさんのコメントについては、さんざん言い尽くされてきたことですが、よく肝に銘じておきたいと思います。>>121でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』は、すべてに目を通すのにはとても長い時間が必要になりそうですが、興味深く読ませていただいています。

>>138:NANさん
>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。

おっしゃる通りかも知れません。この点に関しては、私のコメントは撤回します。ただ、今私がしているこの議論において、私の論拠だけでなく、批判対象の対する感情的気遣いや批判対象を扼殺する危惧などの点から批判を受けていることについては、未だ納得しがたいものがあります。

>>138:NANさん
>あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。

この点について反論はありません。個人的には宗教法人制度自体に疑問を感じています。そして、ここでの議論の論点とは離れますが、一般に国家に対する批判は、その政権を選んだ国民に対する批判と等価であるという指摘には全面的に同意します。

>>138:NANさん
>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。

私は感じるのです。そのことに納得・共感していただけないのは仕方ありませんが、それは私の批判を非難する論拠にならないのは、NANさんも十分ご承知でしょう。

>>139:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

>>142でカクレクマノミさんも指摘していますが、私の批判対象は「宗教擁護者」ではありません。「宗教」です。「宗教」自体が反論することは期待できないので、「宗教」の言い分を代弁する者として「宗教」擁護者と書きました。>>108でNANさんが「一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?」と書かれたので、以後その点に配慮して注意深く書き分けているつもりです。

169後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:45:27 ID:yW.XqGsE
訂正です。
上記>>168から2箇所あります。

>>108:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

は、実際には、>>121からの引用です。正しくは、

>>121:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

同じく、上記>>168からもう1点。

>>139:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

は、実際には、>>138からの引用です。正しくは、

>>138:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

以上、謝罪し訂正します。申し訳ありませんでした。

170後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:47:01 ID:yW.XqGsE
>>139:NANさん
>要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。

私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。正直に言えば、先生に叱られた子供が「あの子もやってるし、あの子はもっと悪いのに、なんでボクだけ……」と拗ねるのと、どう違うのか説明して欲しいと思っています。私が「宗教」以外のものを批判していないと思っているわけではないでしょうし……。>>145の「(前略)もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます」などにも同様の疑問を多々感じます。

>>139:NANさん
>もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。

そういう点はたしかにあるでしょう。しかし、私の批判している点は、もっと人間の本性的な感情や思考傾向に根ざした部分にあります。>>91>>105は読んで頂いていると思いますが。

>>140:NANさん
>「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w

NANさんたちがそういう自戒をしたのは、あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。
特に、NANさんは「そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです(>>139)」「だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する(>>149)」といった主張を繰り返しているので、私の>>102の疑問に関する答えとしては説得力を持ちえませんし、むしろ、「宗教」から自由な人のほうが、より人として自然な矜持なり美学なり理性なり感情なりに基づいた判断ができるように思う──という私の見解を補強する例にさえ感じられます。

>>144:NANさん
>もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?

NANさんのご批判は論理的にもっともかと思いますが、一方、不安を感じる点に関して疑念を払拭してくれない(批判に答えてくれない)人たちと一緒の社会に暮らしていくのは、心情的に納得しかねるものがあります。

>>146:NANさん
>(前略)これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。

まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。

171後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:55:22 ID:yW.XqGsE
>>146:NANさん
>しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?

端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。

「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求める態度がどれほど危険かは、ここで私の間違いを指摘されている皆様には異論はないかと思います。それは、>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論でほぼ尽くされていると私は考えています。
一方、私が>>16などで何度も指摘してきたように、「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。余談ですが、「ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか(>>161:リリスさん)」の答えははっきりしていて、「“重要な問い”への仏教や儒教の答え」について、その正当性を超自然的なモノ・人智を越えたモノに拠っていることを、ドーキンスは示せなかったからです。

「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のない社会、むしろそれが奨励される社会は、そうでない社会に比べて、一般にどういう傾向を有しうるでしょうか。どういうものが生じうる社会的土壌の形成に寄与するでしょうか。
私は、「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求めるような社会と同様の、「超自然的なモノ・人智を越えたモノ」を「科学」に置き換えただけで、まったく似た傾向を有するような社会になっていくのではないかと、何度も何度も指摘し続けてきたわけです。正しさの根拠が、超自然的なモノ・人智を越えたモノである以上、正しさと現実との齟齬(いくら祈っても願いが叶わないなど)が生じうるだけ、なお好ましくない社会と考えることもできるかも知れません。

NANさんは「科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います(>>146)」と述べてます。科学的方法論を浸透させる上で最大の障害は何でしょうか。私はもう20年近く「ニセ科学」について考えてきました(当時は「ニセ科学」なんて言葉はなかったですけど)。「ニセ科学」の蔓延が、科学的方法論を浸透させる上で障害となることには異論はないでしょう。では、「ニセ科学」の蔓延が、なぜ、どのようにして、科学的方法論を浸透させる上で障害となるのでしょうか。最近、poohさんのブログの『心に棲むもの』というエントリ(↓)
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-12-27-1
のコメント欄を読みました。偏見に凝り固まった私には、正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のないような社会における社会的心性の話としても読める気がしたのですけど、いかがでしょうか。

いずれにせよ、改めてここでの議論を何度か通読してみて、「宗教」一般についての私の主張は誰の共感も得られるようなものでなく、その論拠も多くの人にとってまったく説得力をもたないということは、さすがの私でも、かなりはっきりしました。
これまでの「宗教」一般についての私の主張は、すべて取り下げさせて頂きたく思います。もちろん、「宗教」一般についての私のあまりの無知と見解の底の浅さを深く自戒しなければならないという気持ちを強くしました。皆さんの議論や>>121でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』も含め、自分の認識を意識して修正していくよう努めていきたいと思います。

これまでの「宗教」一般についての私の主張はすべて取り下げますが、私がそれらについて書いてきたことへの批判や、そこから派生したより有意義で建設的な議論は、ぜひとも続けて頂きたく願っています。自分の認識の修正に役立てたいと思っていますし、私の何が間違っていたのか、本当はどのような議論が必要だったのかといったことが、今後閲覧する人たちに分かりやすいかたちで提示されることは意味のないことではないと考えますので(今回の一連の投稿はその材料となるべく、自分の無知と偏見──だけど自分自身で論破できない部分を特にさらけ出したつもりです)。

172NAN:2008/01/07(月) 11:25:49 ID:???
年をまたいでしまったし、書くべき文章が大量なので少し散文気味になることをご容赦。

>>166
>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。


どんな理由に基づく行為であれ、正当性や不当性を帯びたものであれ、批判するのも非難するのも自由ですよ。無論、まったく不当に復讐されることだってあるかも知れない。それがイヤだ、と(同じように)主張することはできるけれど、批判・非難される可能性を下げることは少しもできないだろうなぁ。

>>167
>私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。

もちろんそれは「正当な批判行為である」と私も思いますよ。ただし、「キリスト教に偏っていることはたしかですが」とご自分で書いておられるように、それだけで「宗教一般に対する批判」としては落第でしょう。

>>168
>そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。

仮にそうであるなら、後悔と懺悔さんの文章はあまりにまわりくどく、あなたが指摘する問題点に少しも届いていないように見えてしまいます。つまり私が述べたいことは、そんなことを議論するのであれば、そもそも「宗教一般」を批判対象にする必要性すらなく、主題とすべきはニンゲンが持つ「盲信性」に端を発し、原理主義や教条主義について批判し、その解明を行えば良いのではないでしょうか。

>>これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。

「社会的害悪」になりうる潜在的可能性をもったすべての人々をどうにかしたい、という主張でさえ、私は賛同しにくい人格なので、これが宗教者となると、まったく無理な世界ですね。(しかし、そういう論調を否定はしません)


>>私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。

説得力がないからです。十分な根拠を提示して「なるほど宗教一般にはそういう問題がある」という共通認識が得られるのなら、議論の方向は違うものになったでしょう。宗教批判者としてのドーキンスにさっぱり信用がなく、さらにその著作をベースにした二次議論であれば、さらにコンセンサスが得られなくなるのは当然のことでしょう。
私は「宗教批判をすべきではない」などとまったく思いません。後悔と懺悔さんの行う「宗教一般批判」が的外れである、と述べてきただけです。

>>あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。

どうとでも云える話でしたね。失礼しました。
ただし、私は「人としての矜持なり美学なり理性なり感情なり」を得るにあたり、多くの宗教的観念や思想に影響を受けています。答えは白と黒だけではないことを、最も重視すべきでしょうね。

173NAN:2008/01/07(月) 11:26:30 ID:???
>>まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。


ドーキンスは「悪魔に仕える牧師」の中で「牧師の言い分を”真面目に”聞く必要がどこにあるのか?」と書いているのです。それに対して、なぜ”真面目に”聞くことさえNGなのだろう?と私は述べています。私はエロCGモデラーだったりベジェ絵描きだったりギャンブルチラシ屋だったりインチキコラムニストだったりする顔を持っていて、時に進化論支持者というプラカードを掲げてネット議論に参加したりします。私がどんな顔をしていようと、皆さん真面目に話しを聞いてくれます。少なくとも「牧師の話など聞けるか!」とはなりません。ドーキンスは似たような主張をしつこくくり返し、さっぱり共感の持てない私としては、該当するページの部分は常に飛ばし読みされることになりました。

>>端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。

ぜんぜん違いますよ。ドーキンスは「宇宙創成の物理的仕組み」について友人に説明を求めたのです。これは「たとえばなし」の一種ですから、ドーキンスの友人は天文学者のはずなのにさっぱり頼りにならなくて、質問を向けられたとたんに「牧師に尋ねたほうがいい、科学では到底答えられないから」と述べた、と「演出されている」のです。(さらにその友人の態度に立腹するドーキンスの様子はまったくバカっぽい)

宇宙創成の物理的仕組みを説明するにあたり、牧師だろうがシェフだろうがマクドナルドのカウンターの中でほとんど笑わないお姉さんだろうが、適切さにおいて差はないでしょう。でも同時に、牧師だって聖書だけを読んでいるのではないだろうし、シェフは包丁を研ぐばかりではなく、マクドナルドのお姉さんは大学に戻ると理論物理学を専攻しているかも知れない。いや、そんなものを専攻していてもいなくても、大人だったら「話くらい真面目に聞けよオラ!」と思われるのは当然でしょう。

>>「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。

それは宗教の「限られた一面」に過ぎません。もしもそれが「宗教一般の傾向」である、と本当に考えているのなら、そこからスタートする議論が破綻してしまうのは当然のことであろう、と私は予測します。
すでに後悔と懺悔さんは「一連の宗教批判」について、主張を取り下げておられるようですが、私としてはその「取り下げ」も少々釈然としません。なぜ長年お考えになってきたであろう議論を、これくらいの軋轢で取り下げてしまうのだろう?と私には思えるです。

以後、少し包括的に続けさせていただきます。

174AH1:2008/01/07(月) 15:01:13 ID:fKqeZx4M
>>165, >>166, >>167
後悔と懺悔さん
まず、ネットの存在しない所に引きこもっていましたので遅くなりました。
全部答えられるかどうかわからないですがやってみましょう。ただし、答えをまとめてしまうかもしれませんので御容赦ください。

>当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。

まあ、そうするしかないでしょうね。

>簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。

宗教対科学に限らず、常に、誰もがそう思っているだろうと思います。

>私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(>>49)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。

申し訳ないのですが、あなたが熱く語れば語るほど、「正しさを独占しようとする傾向はなんと普遍的なものか」としか思えません。
そして、前の投稿にも書いていますが、一体だれが、「メリケンの馬鹿クリ」のような存在に遠慮しろなどと主張しているのでしょうか?私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。

>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。

ならばなぜ掲示板にお書きになったのですか。あなたが意見を述べる自由があるのと同じく、私にも意見を述べる自由があるのではないですか。

>AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。

例えが違います。この例であれば、奴隷解放運動を行う人が「奴隷推進論者を奴隷にせよ」と言えばどうですか。

>少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。

地下猫氏の投稿を引用して、有害さの程度の問題であろう、と述べました。

175AH1:2008/01/07(月) 15:12:40 ID:fKqeZx4M
ちょいと訂正。
奴隷の例えも「有害さの程度」と考える方が実体に即してますかね。
有害さをどのように計るのか、も、これまた大騒ぎだと思うけれども。

そして、まとめ。後悔と懺悔さんの御意見に対する私の意見は以下のように集約されるでしょう。
「恐らく人間にとって有害であると思われるものを批判するのはもちろん自由である。
また教条主義・排他性などは人類の陥りがちな悪として常に自戒すべきである。
宗教は(その宗教にとって)正しき事を述べるものであるがゆえに、「信者にとってのみの正しさそのもの」
であり、その点で正しさを独占するものに他ならない。しかしながら、宗教のもつ有害性を、一部の極端な例だけによって一般化するのは問題がある。」

すなわち、「メリケンの馬鹿クリ」相手の局地戦闘ルールを一般化しすぎじゃないのか、
それってキリスト教が自らの神を唯一の神と信じ込むのと同様の違和感を感じるんだけど。
というようなことです。

176NAN:2008/01/08(火) 02:07:53 ID:???
後悔と懺悔さんの問題提起に対し、私がこのように反応している理由と動機について、少し書いておきたいと思います。(この掲示板に問題提起したのは地下猫氏なわけだが…)

宗教一般について包括的な批判を行うこと…実は私もそこに興味がないわけではありません。また、くり返し述べているように、「メリケンのバカクリ」に厳しい批判を行うのは当然だ、と思っているし、カルト宗教の嘘っぱちや底の浅さ、原理主義に基づく暴力を非難しないというのは、とても恥ずかしいことだ、と思います。それでは単に、私は後悔と懺悔さんの主張する「一部宗教に対する批判の一般化」について、そこだけを批判しているのでしょうか。一連の議論はそこに終始しますが、私の個人的な動機はもっと別の部分にあるようだ、と思えるのです。

>>102において『様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか』と、後悔と懺悔さんは述べています。ここで云う宗教とは、かなり包括的なものであるように私は捉えます。また、先の投稿(>>170)で示されるような、これから宗教者となるかも知れないひとびとに対する危惧や警鐘そのものが無意味であるとは、当然、私も思いません。

それではなぜ、宗教「一般」に対する批判を私がなかなかできずにいるのだろうか?そう考えるとき、私は「その先にあるモノ」を想起せずにいられないのだろう、という推論に辿り着くのです。
私は(もちろん自分を含めて)ニンゲンに対してさほど期待をしていません。理性とやらの確かさも、信用に値しない脆いものだ、としか思っていません。それはたとえば「軍事的抑止力」などに代表される、独善的で威圧的な「正しさの押し付け」をもってしか、ひと時の平和さえ維持できないヒトの浅はかさに対して、とうの昔に絶望しきっているからなのだろう、と思っています。つまり、百歩譲ってドーキンスや後悔と懺悔さんの主張を認めたとき、それもまた「正しさの押し付け」として広まり、歪められ、必ず差別的なムーブメントに繋がるだろう、と予測しているからです。(実際、ドーキンスは『知識人』に対して決起を要請している。非知識人はどうなるのだろう?)

あるいはこんな予測も私はしています。仮に後悔と懺悔さんが述べるような「自戒」をひとびとが行い、実践していったのなら、なるほど現在はびこる宗教的問題は解決していくでしょう。しかしそれこそ仏陀やその他の開祖が試みた「救い」なのではないのか?それはつまり現代という世の中におけるとても宗教的な行為ではないのだろうか、仮にそうであるのならば、救いの「線引き」はどこでなされるのだろうか、どこかで線引きを行うような救いが、果たして私に許容できるだろうか?などと考え始めてしまい、やはり容認できないものに見えてしまうのです。

宗教に対してなにか積極的なアプローチを行うのだとしたら、もしそれが革新的で、強い説得力を持ち、本当に世界を変えるほど力のあるものであれば、それは必ず宗教的な色合いを帯びたものにならざるを得ないのではないか?私はそう思います。

177chochonmage:2008/01/14(月) 04:54:07 ID:vUxNW.gI
年末からドタバタと忙しく、すっかり間があいてしまいました。
レスをくださったNANさん、大変失礼いたしました。
何度か書き込もうとも思ったのですが、どうにもうまく考えがまとまらず苦しんでもおりました。

AH1様
横レスで失礼します。
>私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。

「おバカ撲滅主義」は私の>>14の書き込みから取られたものかと勝手に想像いたしますが、「おバカ撲滅主義(=科学万能主義)」と取られる可能性はあるなぁと思ってはいました。
が、>>19で書きましたように、私のいう「おバカなこと」とは「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」のことであり、
NANさんご指摘のような「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」にとって極めて便利な「ツールになりうるものの」ことを意味させたつもりでした。
そういった意味で、私はそういう「便利なツール」が無くなるといいな、もしくはたとえ無くならなかったとしても、「連中がツールをツールとして使っていやがるな」と、使われている人たちがちゃんと認識できるような
極力刷り込みされる機会が少ない社会がくればいいな(つまりツールとして無効になればいいな)、と、こちらでの各種ご意見を拝読した今でも思っています。

で、その便利なツールのひとつとしての宗教(ひとまとめにするなとか、ワケのわからない理屈とか考え方じゃないとか言われそうですが、ちょっとここでは勘弁)が、特に911以降は、連日新聞等で大きく報道されていることもあり、使われまくってるように私には思えるのです。
(あとは「愛国心」なる言葉とか。もちろん「連中」が使う意味でですが。)

といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

レスが前後しますが:

>強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。

皇室の話は「宗教への遠慮」の例としてあげたのではありませんでした。NANさんのおっしゃっていた「宗教批判を躊躇わせない社会が実現している」
に対して米国の例をあげ、(NANさんは恐らく日本社会を想定してらっしゃったと思うのですが)米国の「信仰」(キリスト教に限りません)に対する空気
(タブー感とでもいいましょうか)が日本の皇室に対するそれに似ているなぁとあげたものですが、読み返して見るとちょっとポイントをはずしていたようです。
今思えば、NANさんの発言を「日本では何に対しても自由にモノが言える」と誤読していたようです。「対宗教」限定だったのですね。

>私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。

ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。

178chochonmage:2008/01/14(月) 04:58:17 ID:vUxNW.gI
そもそも宗教とは何者なのでしょう。「一般化」が難しく、無理があるのは承知で私の疑問を書いて見たく思います。
雑な議論かも知れませんが、お付き合いいただけたら幸いです。

以下はWikiの定義なのですが:

*********引用ここから*********

宗教(しゅうきょう)は一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、
信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)・信者の形成する社会などを表す。

*********引用ここまで*********

まぁ、「一般的」にはこのあたりじゃないかと思うのです。仏教についてはお釈迦さんのオリジナルは「哲学」や「思想」(信仰を含まない)
に近いものだったように思われるのですが、お釈迦さんの死後、「解釈」とやらでヒンドゥー教の神様やら混ぜ込んじゃって以来、上記定義にあてはまる
「宗教」になっちゃったように思うのです。

>>NANさん、AH1さん

NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

以下、文章にうまくまとめるのが私には難しいので箇条書きにさせていただきます。

1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。
2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。
3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。
以下猫さんご紹介の「自由神学」についてのWikiの記述です。

*********引用ここから*********

* 一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。
この段階に達すると、聖書と基本信条に示される三位一体の神を信じる、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱する。異端神学というより、その宗教性そのものが根本から問われる。改革派の保守的神学者メイチェンは、自由主義神学(リベラリズム)はキリスト教では無いと断言した。

*********引用ここまで*********

4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。
5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。
6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)
続きます。

179chochonmage:2008/01/14(月) 04:59:53 ID:vUxNW.gI
続きです。

7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。
8.だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。
9.「イエス」は「神の子」だか「神そのもの」だかだそうだが、私には他の幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称「神その人」、「神の子」たちとの区別がつかない。有名かどうかの違いはあるけど。
10.「ギリシャ神話」、「日本神話」その他世界中に存在する厖大な数の「神話」と特に「アブラハムの宗教」の聖典の主な違いは登場する神なり神々なりがニンゲンにああせい、こうせい、あるいは、ああするな、こうするなと言うか言わないかの違いしかないのではないか。
11.結局宗教はニンゲンの作り上げたフィクションに分類されるものではないのか。
12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。
13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。

以上、バカがバカなりに真剣に考えたことです。どうか笑っておつきあいくださいませ。

180NAN:2008/01/14(月) 14:32:53 ID:???
>正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

ん?感覚的に分かっていらっしゃるならそれで十分ではないですか?表の掲示板ではないですが、ヒトによる区分など恣意的なものに過ぎません。こうして区分を「きちんと」しようとすると、それが新たな逐語主義や原理を招いてしまいませんか?…と、一応「タテマエ」を述べておきますw

さて、ぶっちゃけお話しますと「バカ」の対義語が果たして(この場合)「お利口」なのか?ですね。結論を急がず、もう少し書きます。

>1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。

違います。別にどんな主義に見えようと、信仰(町内会の会合に出ることは”正しい”という信仰でももなんでも良い)を正当性の道具に使い他者を迫害したり威圧する傾向を持つ人格を指しています。

>2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。

どの原理を選ぶのか?という恣意性の問題です。他者に暴力を及ぼし支配し威圧することの正当性の根拠を原理に求める態度が「バカ」なのです。基本的には統率された集団行動(たとえば軍隊の規律)における盲目的な戒律を「まんべんなく平等に」誰彼構わず行使する人格ではないでしょうか。(つぅかそれは教条主義だな)

>3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。

何度も申し上げているように、信仰はこの際関係ありません。無論それは「私の主張の範囲において」という限定ですが。
たとえば親が子を「教育する」という場面においてでさえ、そこには盲目的な服従がたびたび求められます。このとき、服従の正当性を強化する目的でカミサマやゴセンゾサマや先代シャチョーやらが登場するのです。

>4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。

それはまったくの誤認ではないでしょうか。口伝を逐語解釈などしようがありませんし、民俗信仰の大半は経典さえありません。教義が存在しない信仰を逐語解釈しようがありませんね。

>5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。

布教(統治)の際に生じる「利権獲得」をスムーズに行うためのシステム作りです。たとえば著作権協会が行っているシステム、MLM(マルチレベルマーケティング=マルチ商法)もそうだろうし、映画のコマーシャルでよく見られる「総制作費○億!」みたいなのも「権威づけ」という意味からは同様のものです。「ナニカ」を得たり興じるために対価を支払え、というごく自然に見える行為にはすべて解釈があります。

>6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)

この辺は残念ながら破綻しているように見受けられます。それは4)の破綻を引きずっているからですが、結論先にありきで前段を組み立ててしまいませんでしたか?警察官や官吏の教条主義は一見社会秩序を維持するために必要なものに見えます。しかし指導者が侵略的独裁者だった場合はどうなるでしょう?

181NAN:2008/01/14(月) 14:33:24 ID:???
>7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。

ん?それも宗教の「有名ではあるけれどごく少ない例外」ですよ。しかもです、重要なのは彼らに根拠を与え正当性を冠したのは民衆である、という点です。民衆には「統治されたがる傾向もある」ということは、決して忘れてはいけません。もちろん、私たちにもそれはあるのです。

>8〜9. だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。

区別する必要、ないでしょw。だって彼らはみんな「ニンゲン」ですから。ニンゲンの口から出る言葉は人語に過ぎません。

>12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。

論理を重んじるあまり、枠にハマった結論を急ぎすぎてませんかねぇ。無論、論理とか辻褄は大事です。私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。
どんな批判対象であれ、あてずっぽうで的外れな批判が再批判されてしまうのは当然のことです。それは「宗教を批判するな」という強要ではありません。

>13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。

(少なくとも)私は「宗教を批判することはナンセンスである」とは云っていません。ドーキンスをはじめ、chochonmageさんのそれも(論理で片付く問題じゃないものに論理を根拠に批判することが)「的外れでナンセンスである」と述べているのです。
ちなみに宗教の根拠薄弱性を論理的に証明することも「極めて困難である」と私は思います。それはたとえばこの掲示板に集まる皆さんのように、論理的整合性を読み取ることができて、科学知識にさえ通じている「グループのさらに一部」にしか通用しないものでしょう。またそれは「知識人」という非常に醜く不恰好で独善的な「差別」を生むことにしかならないように私は思います。

なぜなら私自身が、とても醜く独善的で、狡猾でさえあり、差別を平気で行う人間だからです。このような傾向は程度の差こそあれ、必ず他の人格にも共通しているであろうし、本当の危機的状況が我が身に襲い掛かったとき、今こうして維持しているような平穏さを保つことができる自信などまったくありません。

先にも述べた気がしますが、いわゆる「宗教者(すでになにがしかの信仰を持つ信者や預言者や団体)」を個別に批判することは簡単です。説得力も容易く獲得できます。それでは、こういうケースをどう批判し、根拠の薄弱性を指摘しましょうか?以下、書きます。

182NAN:2008/01/14(月) 14:35:40 ID:???
『今まさに沈没しようとしている船があります。生存者は5人。全員がひどく衰弱し、怪我をし、動くのもやっとの状態です。ある者は精神的限界を超え、ある者は体力が尽きようとしています。しかし、なんとか誰かが水没したエンジンルームに入り込み、ポンプを作動させなければ船は速やかに沈没してしまいます。生存者の全員に、これといった信仰はありません。あるとしたら、家族を愛していたり、仕事を愛していたり、我が家に帰りたいという思いがあるだけです。そうこうしているうちに、一人が持病の発作を起こしました。発作に呼応して、もう一人がパニックを起こし、ひどく暴力的な傾向が見えてきました。このとき、生存者の中で最も社会的にはみ出しモノで、普段はギャンブルばかりしている不良中年が、本当は自らの借金を返すのが面倒になった、という理由でエンジンルームに入ることを決意します。不良中年は適当に機関をぶっ叩いただけでしたが、奇跡的にポンプは復活し船は水平を保つことができました。数時間後、やっと救助された生き残りは不良中年の死体を発見します。それぞれの我が家に生還することができた生存者たちは、互いが妙な絆で結ばれていることにその後気付きます。それは身を挺して自分たちを救ってくれた(かのように見えた)不良中年に対する感謝の念でした。彼らは不良中年がどんな人物だったか、機会があれば集まり話しました。どんなことを話していたとか、どんな顔だったとかそういう話です。中にはまったくの作り話もありましたが、全員がパニック状態だったので分かりませんでした。そのうち誰かが「彼はラベンダーの花が好きだと云っていた」と云い出しました。それはまったくの妄想でしたが、生存者たちはその話をとても気に入ってしまい、互いの貯金を出し合ってラベンダー畑を作ることになりました。そこには墓碑がありました。碑銘にはこう書かれていました。「自らを犠牲にして我らの命を救ったエンジン技術者に捧ぐ」それはもう、まったく事実と違っていたけれど生存者たちの間で不良中年は信仰と化していて、前科モノで無職で住所不定のギャンブラーが彼らを救ったという事実が受け容れ難かったのです。彼らは「救い主」をカリスマ化していました。また、そうしていくことが互いの親密度を深め、なにかとても善いことをしている気分になり、仕事や生活に張り合いが出て、それまでの毎日と今がまったく違う貴重で大事なものであると思えるようになったのです。やがて、生存者の一人で本当はとても暴力的な男が不良中年とラベンダー畑について「ノンフィクション小説」を書き、これがなぜかベストセラーになります。莫大な印税を得た暴力的な男は、この印税を生存者グループの共通資産とし、さらに腎臓病の持病を持つ生存者の医療費として一部を大学病院に寄付し、記念財団を設立します。ノンフィクション小説はほとんどがフィクションでしたが読者の感動を呼び、ファンとなった読者たちが生存者を訪れたり、激励をくれるようになりました。

183NAN:2008/01/14(月) 14:36:32 ID:???
そのうち読者たちの誰かがラベンダーを育てるようになり、それは徐々に広まっていきました。これに目をつけた広告代理店が暴力的で浮気ばかりしているけれど文章だけはまともに書ける生存者に話を持ちかけ、不良中年とラベンダーをモチーフにした映画の制作をはじめます。映画はもはやいいかげんな小説とさえかけ離れた、ほとんどアクションヒーローものといって差し支えないエンターテイメントでしたがウケました。暴力的な男はこの収入で不良中年が最後に住んでいたとされているボロアパートの土地を買い取り、そこに寺院めいたビルを建てました。すると、小説の読者や映画を見たファンがそこに集まるようになり、いつしか彼らはまるで教団信者のように振舞うようになり、献身的にラベンダーを育てては売り歩くようになりました。彼らは支配的だったり威圧的だったり独善的だったりしませんでした。単に誰かと損得なく働いたり、汗を流し苦楽を共にするという絆を求めていたのです。彼らは家庭内暴力に苦しめられたり、いじめっ子だったりいじめられっ子だったり、体に機能障害があったり、要するに社会から差別的な扱いを受けてきた経験を持っていました。彼らは生存者たちが最初に作ったラベンダー畑を聖地とし、そこで育った苗を丹念に増やしては各地にラベンダー畑を増やし、暴力的な映画作家の言葉を盲目的に信じ、絆を深めていく気分になり、なにか災害があると一目散にそこへ駆けつけボランティア活動に励んだりしました。しかし、彼らは本当は、暴力的な男が少しもノンフィクション小説を書いていないことや、映画や物語が作り話であることを知っていました。実はそんなこともどうでも良くて、彼らが欲しがっていたのは「そこにいる理由」だけだったのです。彼らは税金や保険料を払いましたが、家から離れ親がつけた名前を捨て、浮世離れした行動を繰り返しました。そのうち、家族の誰かが暴力的な映画作家やその他の生存者たちを非難したり、時には警察に被害届を出したりしましたが、信者たちは自発的に行動している成人ばかりだったので家族の訴えは通りませんでした。しかも彼らは他人に危害を及ぼしたり霊感商法的に搾取をしたり布教活動みたいなことも一切しませんでした。家族はそれぞれの理由で生存者たちとその取り巻きを憎みましたが、社会はラベンダー教を歓迎しました。なぜならマスコミと政府与党が彼らを好意的に扱い、利害の一致があったからです。暴力的な性格の映画作家はやがてタレント化し、朝のワイドショーでコメンテーターを務めたり、世相を討論する番組の論客としてテレビに露出することが増え、名前も法人も教義もない教団は社会現象にさえなっていったのです。』

184NAN:2008/01/14(月) 14:37:00 ID:???
さて、調子に乗って長い物語を作ってしまいましたが(笑)、こういう話は現実にあり得ることだし、存在しているだろうとさえ私は思います。
この物語に出てくる登場人物たちは、全員が嘘つきで全員が善意的で、全員が盲信を絆に生活を営んでいます。彼らを外部から論理的に批判することはいくらでも可能ですが、それは「宗教」が必要とされる根拠を補強したり逆に貶めたりする結果を生めるでしょうか。信仰は、機会さえあればどこからでも生まれ、どのようにも育ちます。信仰というのは、恐らくニンゲンが根源的に持っている不安や恐怖を緩和してくれるものなのではないか?というのが私の考えです。私が私の妻を特定して擁護することだって、実は信仰の一種ではないのか?これらをすべて「ひとまとめにして」宗教批判することなどできるでしょうか?少なくとも、私の能力ではできそうにありません。

情報伝達という視点から、chochonmageさんはじめここで宗教批判を試みた皆さんは、それがまるでマスコミによる情報捏造を暴露する週刊誌の記事(どっちにしてもマスコミ)であるかのように、論理的に教祖が嘘っぱちであることや教義の脆弱性を指摘しようとしているように見受けられますが、宗教を受け容れるヒトと云うのは、宗教を受け容れるだけの「とても強い理由」があるのだろう、と私は考えています。そしてまさに、この部分に対して、論理などまったく無効である、と私は思うのです。

百歩譲って、宗教と宗教を取り巻く社会に対して論理的な批判を試みるとするなら、アメクリのバカやカルトなテロリストを糾弾するのとはまったく異なる、相当に社会の深層をえぐった、ひいては自分自身がダブスタにならないよう物凄く配慮をした言説を説かなければならないでしょう。宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。そしてそれらは、私としてはあまり好きじゃない言葉ですが「格差」などにたとえば代表されるだろう、と考えています。ではこの格差を無くした均等な社会などというものを追い求めたら、ジンルイとやらは一体何をしてきたのだろう?そういうところに私ははまり込んでしまいます。

宗教は、ジンルイの抱える大きな矛盾である、と私も思います。であるなら…私はいっそ「ジンルイの性質そのものを批判する」ことにはいくらでも同意できるし、賛同できるんですがねぇw

185AH1:2008/01/15(火) 13:22:50 ID:fKqeZx4M
>chochonmageさん
>といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

失礼しました、元の仰っていた意味とはずれてしまっていたようです。
ただ、私としては(今回のコンテクストの、またこのウェブサイトの中で)宗教と対比される事が多いがゆえに科学主義を付け足すようにあげさせて頂きました。
というのは、ちょっと飛躍や妄想が過ぎるかもしれませんが、「人間は理性によって世界を正しく認識できる筈であり、理性を通さない(=思考停止にいたる)いかなるものも価値が低い」という考えは、それ自体正しいかどうかは別として、強力な啓蒙主義であり且つ科学主義の一種であろうと考えるからです。
実際問題として「理性や善意や自由ってのは結構なもので、無視しちゃいけないよ」「現代社会においてまあ一番使えるツールの一つだろうね」という点はもちろん同意しますが。

>ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。

同意します。あれはムラ社会という秩序を保つための強制力ということでしょう。個人的な経験による部分もありますが、ムラ八分は大嫌いです。

>NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

明確な定義はありません。しいて言えば、NANさんとほとんど同じになってしまいますが、
「お前バカじゃないのか」「そりゃいくらなんでもひどいだろ」という事をやっちゃうのが馬鹿**ですね。
「メリケンの馬鹿クリ」とは私の語感では、「アメリカの原理主義的キリスト教団体のように、自らの宗教を絶対の原理と信じて、他者にとっては不当な、あるいは横暴な、時に危険な行為を行う相手」をさします。
つまり、宗教とは非常に広い範囲を指すものとして使っているが、その中には明確に「馬鹿」「テロリスト」としか呼びようのない集団や行為も存在する、ということです。

186e10go:2008/01/15(火) 20:40:07 ID:5/V6R9W6
ドーキンスの宗教批判は全く知らないので、それについて論じる事はできませんが、宗教批判を論じるなら「イエスの方舟」事件を知っておいた方がいいと思います。
この事件の、マスコミや警察の対応と、その後の行動が、オウム真理教の事件に影響していると思いますから。

「イエスの方舟」事件は1970年代終り頃に発生しましたが、マスコミ(*)は「イエスの方舟」バッシングを行ない、教祖の千石氏を非難するキャンペーンを張りました。
この時の状況は、オウム真理教事件の批判並みに激しかったと思います。
しかし、実際は、事件性のないもので、信者の親族が誤解してマスコミに訴えたのがきっかけです。
マスコミ(*)が煽り立てる様な報道を行ない、そのマスコミ(*)に煽られて警察は犯罪者でない人を逮捕する寸前までいきました。

*、1社のマスコミが異なる対応をした。千石氏と信者を密かに匿い、そのため、匿った報道関係者が警察から逮捕されそうになった。(この当時、このマスコミによる千石氏の単独インタビューのスクープが衝撃的だった)
ttp://yabusaka.moo.jp/hakobune.htm

事実が世間に明るみに出て、マスコミと警察はその反省からそれ以後の一時期、新興宗教の扱いに及び腰になりました。
「イエスの方舟」と「松本サリン事件」以前のオウム真理教では、マスコミの対応は真逆のものでした。
それがオウム真理教の一連の事件発生に間接的に繋がったと思います。

「イエスの方舟」事件をリアルタイムで経験した人は、宗教批判にためらいを感じる人がいるのではないでしょうか。
しかし、オウム真理教事件の二の舞も困ります。
宗教批判を否定するつもりはありませんが、「イエスの方舟」事件を知っているだけに、間違ったあるいは行き過ぎた宗教批判をしないように心がけたいと思います。

流れを止めるような発言ですみません。

187ちょちょんまげ:2008/01/16(水) 16:35:27 ID:vUxNW.gI
皆さんこんばんは。ラッシャーきむ、じゃなくて旧chochonmageです。気分転換のためハンドル名をひらがなにしてみました。
気分転換ついでにNANさんのまねっこでお話を作ってみました。

「おとうさん、なにやってるんですか。なんかまた変な宗教にはまっちゃってるんですか。」
「変なとはなんじゃ。お前は人の信仰をバカにするのか。」
「いや、その、別に信仰をバカにするってわけじゃないんですけどね。なんか不穏な話を聞いたもんですから。」
「不穏な話なぞありはせんぞ。」
「不穏じゃないですか、充分。なんかお父さんのはまってる宗教の教祖に全財産投げ出すとか。」
「投げだすわけじゃない。寄付するだけだ。しかも条件付き。」
「大体なんなんですか、その宗教ってのは。なんかついこの前まで「たまごは一日、一個まで!!」とか分けわかんないこと言ってたけどその宗教ですか。」
「あれはもうやめじゃ。だいたい、最近教祖がすっかり顔を出さんしな。じゃが、今度のは本物じゃ。すごいぞ。」
「一体なんなんですか。」
「メリケンさんという神様じゃ。」
「メリケンさん?それって、大阪の通天閣にある?」
「それはビリケンさんじゃ。」
「で、そのメリケンさんってのはどんな神様なんですか。」
「全てナンバーワンで、全て正しく、一番強い神様なんじゃ。そして悪を見ればかならず介入して懲らしめてくれるという、実に頼りがいのある神様なのじゃが、一方、子供と犬は絶対に殺さんという慈悲深い神様でもあるんじゃ。」
「なんかハリウッド映画のヒーローみたいな神様だな。どんな教義なんすか、いったい。」
「わしも全貌を把握してるわけではないのじゃが、例えばぐろーばりずむとかじゃな。具体的には、非人間的なめーとる法を廃止して、より人間的なやーど・ぽんど法や温度は華氏に世界中をまとめよとかの
お告げが教祖に与えられたのじゃ。ふぃーとはだいたいの足の長さ、風邪引いて熱がでたら100度。どーじゃ、実に人間的じゃろ。」
「そんなことしたら、世界中大混乱ですよ。」
「神のお告げじゃぞ。お前は人の信仰にケチをつけるのか。」
「いや、だから別にケチつけてるわけじゃないんですけどね。そんでその教祖ってのはなにもんですか。」
「ジョージ・藪様というえらーいお方じゃ。」
「大体予想のついた名前だな。」
「藪様語録にこーいうのがある。『降参せよ。さもなくば我々がする!』 どーじゃ、イエス様の『右頬を打たれたら』にも匹敵する尊い教えじゃろうが。」
「なんか文法を間違えただけのような気もするけど。」
「お前は人の信仰にケチを」
「だから、つけませんってば。」
「こういうのもあるぞ。『私は人と魚が平和に共存できると信ずる。』 何という崇高なお言葉じゃ。」
「ん〜っ、なんかよくわかんないけど、崇高なんですかね。」
「崇高じゃ。」

188ちょちょんまげ:2008/01/16(水) 16:38:35 ID:vUxNW.gI
「ん、じゃぁ、まぁそれはいいとしてですね。その寄付するための条件ってのはなんなんですか。」
「奇跡を見せてくれるのが条件じゃ。わしも95にもなって世のためになることがしたいでな。真の奇跡を見せてくれるような教祖様には全財産寄付しても悔いは無い。」
「じゃぁ、この家とかもあげちゃうって話ですか。」
「わしの家じゃ。文句あるか」
「いやまぁ、それはそうなんですけどね。あのね、おとうさんは年のせいかちょっと正常な判断力を失ってるんですよ。でも家がなくなったらどうするんですか。」
「お前のところに転がり込む。心配するな」
「心配するなって、そんなムチャクチャな」
「ムチャクチャって、年老いた父親の面倒を子供が見るのは当たり前じゃろうが」
「いやまぁ、だから見ないて言ってるわけじゃないんですけど。」
「だからなんの心配もいらん」
「心配ですよ。で、奇跡ってどんなんですか。トリックかなんか見せられて納得させられちゃうだけじゃないんですか。」
「これはすごいぞ。聞いて腰を抜かすな。わしがこの皿を持って、教祖様の目の前で手を離す。するとなんと皿が見る見る下に落ちるんじゃという。そして落ちたら教祖様の奇跡成就じゃ。わしは財産を寄付するぞ。」
「わっ、腰がぬけた」
「抜けるじゃろ」
「抜けますよ、そりゃ。手を離したら落ちるのはあたりまえじゃないですか。奇跡でもなんでもないじゃないですよ。」
「なんでじゃ。奇跡じゃろうが」
「だって、あのですね。この世にはニュートンの法則ってのがあってですね、モノってのは引き合うんですよ。んで、地球ってのは皿に比べてすごいデッカイんで、皿が下に落っこちるです。っていうか、今ここにおとうさんと私が座ってるのだって、ニュートンさんが見つけた万有引力のおかげなんです。」
「で、その万有引力ってのは絶対なのか」
「ん〜、えーっと、あの、絶対じゃないんですけどね。いや、あの、わたしも最近聞きかじってやっとわかってきたんですけど、科学理論ってのは全て仮説で絶対って言っちゃいけないそうなんです。」
「教祖様は絶対落とすと言っておるぞ」
「いやだから、絶対じゃないんですけど、あの〜、なんちゅ〜か、あのつまりですね、絶対じゃないんですけど、ものすご〜く、高い確率なんですよ、モノが落ちるっていうのは。」
「ほれ見い。確率の話じゃろうが。」
「んっ〜とまぁ、そうなんですが、それでもですね、ほとんど絶対って言っていいぐらいなんですよ。」
「ほれ見い。ほとんどじゃろうが。教祖様は掛け値なしの100%だと言っておるぞ。ニュートンより確かじゃろが」
「だからぁ、そういう問題じゃないんですよね。皿ってのは落ちるもんなんです。万有引力があるんですから」
「科学主義」
「へ?」
「お前は科学主義者じゃ」
「いや、あの科学主義ってのはですね」
「お前は教祖様の奇跡に科学の狭い観点から文句をつけちょる。重大なNOMA違反じゃ。ふぉーくぼーるのNOMOじゃないぞ」
「NOMAって、なんでおとうさんがそんな余計なこと知ってるんですか。他のことじゃ半分ボケてるくせに」

で、これからどうなるんでせう。乞ご期待、って不評ならやめますけど。

189地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:01:13 ID:cizMQ0FI
「神は妄想である」はとっくに読了していたけど、こっちに書く字間がとれなかったにゃ。
特に気になったところをつっこんでおきますにゃ。

***********************
第1章
宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。この聖職者もおそらく、妖精の翼の正確な形と色について専門家を自称する「妖精学者」の意見に従ったことはないはずだ。P31
************************

まずアゴが外れたのがこの箇所。
妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか? 妖精のことについては、まともな者(つまり専門家に対する一定の敬意をもつという市民としての常識を備えた者)なら、妖精については妖精学者の意見に従うだろにゃ。僕はそうするぜ。
妖精に入れ込んじゃった人は、コナン・ドイルをはじめとして結構な数にのぼるらしいにゃ。日本では妖怪にあたるので、日本ならば水木しげる先生以下、妖精(妖怪)をまじめに研究している人はたーくさんいるにゃ。主に民俗学や人類学なんかでは、学会でとりあげられるネタでもあるにゃ。無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、妖精(妖怪)のことは妖精(妖怪)学者がよくわかっているというところは当然のことだにゃ。

ちゅうかさ、ドーキンスのこの論法は、すべての神話研究や民話研究についても「まっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と頭ごなしに否定する暴論であることは明らかなんでにゃーの? この論法は自然に実在するものや機構についてのガクモン以外のガクモンすべてを否定する論法なのではにゃーだろうか?

自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?
巻末のほうで、文化的産物に対する敬意は書かれているけれど、それがとってつけたもののように思われてならにゃー。

190地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:01:49 ID:cizMQ0FI
***********************
第2章
宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシア、ローマ、北欧神話の神々のような多神教を経て、ユダヤ教及びそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。P52

(引用者注;以下の記述は聖人のうけもつ分野や天使の位階についての記述に続くもの)私がカトリックの神話学から受ける印象として、悪趣味な俗悪さというものが必ずどこかにともなうが、主として感じるのは、カトリックの人々がそうした細部をつくりあげる際のあっけらかんとした無頓着さである。まさに厚顔無恥なでっちあげ方なのだ。P57

(引用者注;教皇ヨハネ・パウロ2世が暗殺者に狙撃されて一命をとりとめたときに「聖母の手が弾をそらせてくださった」と教皇がいったことをひきあいにだして)なぜ聖母は、弾が彼にまったく当たらないようにしなかったのだろうという疑問をもたざるをえない。P57

ウェヌス(ヴィーナス)はアフロディーテのもう一つの名にすぎなかったのか。それとも別の愛の女神だったのか? 槌を持つトールはオーディンの顕現なのか。それとも別の神だったのか。誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。こちらを無視するのかという非難を浴びたくはないから、多神教に目を向けてきただけで、このことでもう何も言うつもりはない。以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。P58
*************************
批判し、否定する対象について無知であることはしばしば問題が大きいということは、多くの人に賛同していただけるでしょうにゃ。先の投稿で、ドーキンスには人文科学を否定しているのではにゃーかと疑義を付したけれども、ドーキンスの人文科学(特に神話学)に対する無知とそこからくる侮蔑がよくわかるところを拾ってみましたにゃ。

まず、P52にある、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてのは、いつの時代の宗教史家がいったことなんだろ? 自然科学においても、ちょっと昔までは、白人が一番発達しているとかいう欧米白人中心主義が幅をきかせていたことはみにゃさまもご存知だろ? ドーキンスだって知らにゃーはずはにゃーだろう。宗教史などという分野が欧米白人中心主義から無縁でいられたはずもにゃーことも、誰だってわかるよね? 少なくとも20世紀中盤以降の宗教史において、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてものは相手にされてにゃーよ。
自分の批判する対象について100年前の欧米白人中心主義に汚染された知識をベースにする馬鹿がここにいるよ、と。

また、進化生物学の優れた啓蒙者であるドーキンスが、自分の専門分野でないとはいえ「発展過程」などという言葉を無思慮に使っていることには本当にがっかりしたにゃ。


教皇暗殺に関するところにゃんが、教皇にとっては、銃弾が当たり、そして助かったというところに深い意味を見いだしたのだということだろうにゃ。弾がまったく当たらなかったよりも、教皇にとっては意味があったということなんでにゃーのか? 体験とその解釈が、それぞれのニンゲンの内的な現実を形成しているということを理解しようともしていにゃーんだろう。

191地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:02:15 ID:cizMQ0FI
つづき

天使の位階を「厚顔無恥なでっちあげ」ってのもおそれいるよにゃー。ここでは紹介する余裕もにゃーし、そもそも僕にまとめる力量もにゃーのだが、天使の位階というのは土俗の神を取り入れて混淆しながら必然的に形成されていったものだにゃ。ある体系の形成過程を知ることなく「でっちあげ」呼ばわりするなんざ、夏の火に飛び込む虫のように第一掲示板に飛び込んでくる進化論否定馬鹿と何が違うんだ?

そこに関連して、さらに、多神教の神々についての「誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。」という態度。
多神教における神々の混淆とか変化とか分離とかいうのは、僕の知る限りもっとも面白いトピックのひとつにゃんな。文献や考古学的資料から神々を同定したりしていくのは、もっとも知的でスリリングな分野の一つだと思うにゃんよ。本も何冊も出ているし、専門の研究者もいるにゃ。しかし、ドーキンスにとっては「誰が気にするものか」
ドーキンスは、例えばAという甲虫とBという甲虫の関係、生態学的にはこういう違いがあり、形態的にはこういう違いがあり、地理的にはこうで、ゲノムはこうで、とかいう比較について「誰が気にするものか」という態度をもつ者が進化論を否定するようなことをいったらどうするのだろう?

それともやはり、「想像上の産物」の研究などは学問と呼ぶに値しにゃーと思ってるんだろうかにゃ?
だとすると、美術や音楽、文学の研究も学問と呼ぶに値しにゃーことになるよにゃ。そして、もし美術や音楽の研究を学問とドーキンスが考えているのなら、単に自分の好みで学問と呼ぶべきものとそうでにゃーものとを区別しているだけだにゃ。
ドーキンスは、「想像上の産物」の研究すべてを侮蔑し否定する科学主義者であるか
あるいは
自分の好みの分野だけを学問とみなす何も考えてにゃーダブスタのウルトラ馬鹿のどっちかでにゃーのか?

さらに、だにゃ
「以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。」だと?
多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。
どこかの進化論否定馬鹿が、進化論をまるで知らにゃーくせに
「以降、簡潔のために、ダーウィン進化論であろうとラマルキズムだろうと重力進化論だろうとウィルス進化論だろうと今西進化論であろうと、あらゆる進化論を単純に「ダーウィニズム」と呼ぶことにする」といったらドーキンスはどうするんだろう?

以上、ドーキンスは少なくとも神話学系の知について、どうしようもにゃー無知とそれに基づくあからさまな侮蔑があることは明らかだと思われますにゃ。この事実だけで、この本はまじめに取り上げるに値しにゃーだろう。
しかし、もうちょっと続けますにゃ。ドーキンスの論理的な誤謬についても突っ込んでおきたいにゃ。

192AH1:2008/01/17(木) 12:36:55 ID:fKqeZx4M
>ちょちょんまげさん
はっはあ! なるほど、こりゃ困ったオヤジです。
公平に見て薮教祖は単なる詐欺師である可能性が非常に高い・・そうでなくても他人の金を巻き上げるのはマズイんじゃね?と言えそうですが、「本人が大喜びで喜捨したがっている場合」についてはどうすべきでしょうねえ。
第三者であれば、私としては「好きにしな」と言うところですが、父親にされちゃったのは痛い所ですね。
まあ科学的には今の所「それって奇跡だか神の力だかの証拠には全くなってねーじゃん」と言うしかなさそうです。もう一つは「神たるものが現世の財産なんぞほしがるなよ」という所ですが、これも「教団のために使うだけだ」「我々信徒は自発的に喜捨しているのだ」と言われると困るところです。
・・というような事を考えていて、
「薮が本当に神だとしても、神が人格高潔である必然性はない」という事を思い出しました(清貧を頭に置き過ぎてました)。
神の力を振るいつつ、信徒には現世利益を約束してシェアを拡大し、現世の富をガッポリ手に入れる存在・・・ 最悪かも。

193地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:41:20 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ

奇跡には希少性が必要条件ではにゃーだろうか?

194カクレクマノミ:2008/01/17(木) 13:52:26 ID:nWqwz./A
>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。
たとえば、河童伝説はカワウソがモデルになっているのか否か、頭の皿が乾くと死ぬという発想はどこから出てきたか、というのは興味深い問いだと僕も思いますし、ドーキンスもそのような研究を否定はしないでしょう。むしろ、非科学的な考えの基盤を明らかにするものとして歓迎すらするのではないでしょうか。
しかし、河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

ドーキンスが否定している宗教研究は後者のようなものだと僕は理解しています。実際、ドーキンスは宗教の起源論に1章を費やしているわけですし。(たぶん地下猫さんにとっては不満足なものなんでしょうけども、少なくともドーキンスがそのような研究に意義を見出しているということを例証するには、その章の存在だけで十分です。)


>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。
たとえば、進化の機構論を論じるときにダーウィニズムとラマルキズムをひとまとめにしたらもちろん問題ですが、生物が世代を重ねるにつれて変化していくというアイデアの歴史について考察するときには、どちらも(種の不変論の対義語としての)進化論と呼んでしまってかまわないでしょう。逆に、「存在の連鎖」というアイデアについて考察したいときには、ラマルキズムは創造論と同じ陣営に入り、ダーウィニズムとは別物として扱わなければなりません。

多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

195NAN:2008/01/17(木) 16:12:42 ID:???
>河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

なんでナンセンスなの?さっぱり理解できん。
作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

>。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

名前: E-mail(省略可):
>河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

なんでナンセンスなの?さっぱり理解できん。
作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

>。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

なんだドーキンス批判はタブーだったのか(大笑。

196NAN:2008/01/17(木) 16:13:33 ID:???
む?失礼>>195にコピペミスがありました。

197カクレクマノミ:2008/01/17(木) 19:02:21 ID:nWqwz./A
>作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
>ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。
フィクションの設定考察がフィクションの設定考察として有意義で興味深いのは全面的に同意しますが、この世界のありようについての議論としては馬鹿げたナンセンスです。

>なんだドーキンス批判はタブーだったのか(大笑

なんだドーキンス擁護はタブーだったのか(爆笑

「ひとまとめにしちゃってるぞ」という指摘は、「ひとまとめにすることでどのような問題が生じているのか」が明らかにされない限り、批判にはなりません。
これを指摘するのが、どうしてタブー扱いすることになってしまうのか、僕にはまったくわかりません。

それとも、少しでもドーキンスに肯定的なことを書いたら最後、すべての宗教と多様な文化を弾圧し粛清するナチスでスターリンな独裁者で還元主義者で生物学的決定論者で極右でブルジョアジーで人種差別主義で西洋中心主義で科学原理主義で(以下、お好きな罵倒語をご自由に並べてください)ということになってしまうのでしょうか?w

198うに:2008/01/17(木) 21:34:18 ID:mgYBkPpk
>>194(カクレクマノミさん
>>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、
>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。

このツッコミは的外れじゃないでしょうか。
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエ
が元の文脈です。「Aについて知りたいなら、スタンスはともかくAに詳しい人・専門家に聞く」が、スタンスを問わずひとまとめにすることにはならないでしょう。
アンチにもビリーバーにもUFOの専門家っていると思いますよ。

199NAN:2008/01/18(金) 02:03:39 ID:???
>>197
>神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。

ドーキンスは「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と主張しているんでしょ。ここについて私は地下猫氏の>>189
「自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?」
に同意するわけ。

フォースが自然科学として実在するかどうか?それだって「バカげたナンセンス」とは云い切れないでしょ。仮にそれらが実在するのだとしたら、現実世界でどのように振舞うのだろう?という問いかけに対して、さまざまなSFX技術やCG技術が投入されて映像化がされてるんだけど、「その生理学的機序についての研究」が仮にあったらバカげたナンセンスなの?

今は懐かしくなっちまった「バーチャファイター2」というゲームがあるんだけど、このゲームのキャラにアキラってのがいて、こいつの技に「1/60秒のタイミングでシビアにキー入力しないと発生しない」ってのがあった。幻のワザってことでみんなが夢中になったんだけど、無論そんなワザは現実世界に存在しないし、それが自由に繰り出せたとしても現実世界にはなんの影響も(一見すると)ない。ところが当時のゲーム好きはこのワザを出そうと苦心して特訓したり、その他様々なワザが発明されたりそれらをサポートする書籍もたくさんあった。
同じくゲーム「鉄拳」に出てくるキャラ、マーシャル・ロウのモデルは故ブルース・リーで、流派もリーが興したジークンドーなんだけど、この流派はリーが武道としての強さ以外に映画向けの見栄えの良さも追求したもので、現実の格闘家がそれを習得してリングで披露したりしていた。もともとが空想の産物であろうと、それをきちんと研究したり、時には現実世界に表現される「現象」として我々に影響を及ぼす「知の連携」は確かに存在するんだよね。

論点はそれが「フィクションかどうか?」ぢゃないでしょう。ある行為が、自然科学としての実在性に基づくかどうかを基準に「行為としてのナンセンスさ」を論じるのは科学至上主義に間違いない、と私は思うけどね。

>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

無論、「ひとまとめにしている」と指摘するだけで問題を指摘したことにはならないよね。ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。ところがキミは問題を再びメタレベルに戻している。それはいったいどういう理由なんだい?というのが罵倒に値するのですよ。

仮に万が一、ドーキンスが自然科学以外の知の体系について十分な尊敬と認知を行っているのだとしても、そうしたスタンスとは「真っ向から対立する主張」を繰り返している「ように見える」だけで、件の本が「読むに値しないくだらないバカ本」だってことは十分分かる。ドーキンスの真意について「苦しい解釈」をしなけりゃならないってことがそれを例証しているよね。
ある議論が論理的に正であるか誤であるかを論じるのは極めて簡単なことですよ。しかし「なんらかの知」がフィクションであるかノンフィクションであるか(実在するか妄想であるか)の境界線は極めて曖昧であり、その存在および影響について「馬鹿げたナンセンス」だとか「かかずりあってる暇はない」ってのは単に好み・嗜好の問題だよね。

200カクレクマノミ:2008/01/18(金) 03:23:34 ID:nWqwz./A
案の定、一言でもドーキンスを擁護するとフルボッコだなあw
やっぱりドーキンス擁護はタブーなのかな。

妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

「妖精伝承において、妖精には羽があるとされることがある」という言明は、明らかに意味のあるものです。しかし、「妖精に『実際に』羽がある」とは、いったい何を意味する言明なのでしょうか?
僕には全くわかりません。

>ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。

地下猫さんの投稿を読む限りでは、「違うからだめ」としか僕には読み取れません(この点は僕の読解力不足かもしれないので、もしそうなら教えてください)。

201NAN:2008/01/18(金) 03:59:09 ID:???
■ある議論が論理として正しいか誤っているか、を転じて『良いか・悪いか』を論じること。

なんだか結局ここに終始してしまう気がしてきました。自称宗教家が良く使う「真理」という言葉について、私は論理的な「正解」という意味以上の価値を自分の中で持たせないようにしています。ここになにか知識があり、それが「真理」であったとして、それが自身の行為の正当性を補強してくれる、と考えることは大変危険だ、と評価しているからです。

実際に私は、いくつもの矛盾や欺瞞(あるいは誤謬)とめぐり合ってきました。そして、その対処に苦慮をし、満足な結果が得られたと思ったことは、正直云ってありません。
あるひとは、「間違いは悪いことだ」と信じ込んでいました。これは「マチガイ」という日本語の多義性から来る問題と、論理的な誤りの過大評価に基づくものとの合成であったことは明確でした。しかしそれをいくら”彼”に説明しても、論理的誤=悪、という固定観念を取り払う説得ができたとは、私には思えませんでした。さらに悪いことに、私が指摘する「間違いは直せば良いだけで、別に悪いことではない」という主張が理解できないことが、二重に彼のマチガイを指摘してしまったことになり、却って彼を傷つけたかも知れません。それはたとえば「学校のテストで低い点をとることは悪いことである」と、くり返しくり返し刷り込まれてきたことの結果なのだろう、と私は思います。

宗教や信仰について、それらに興味はあるけれど宗教の危険性や欺瞞性を知り、なんらかの包括的な批判を行うべきであることに賛同するけれどその方法論について明確な指針を持てない私(あるいは、私に似たスタンスのひとたち)にとって、少しでも問題の単純化が行えるのだとしたら、たとえばこういうことなのかも知れません。

1:主張の論理的誤について、それを指摘されたり知っているのに認めない態度
2:主張の論理的正誤に基づいて、その人格的評価判断を行う態度
3:不可知である事象について、それを可知の論理であると主張し、なおかつその正しさと行為の正当性を結びつけて主張する態度

上記3点について、私は(たとえばこの掲示板に於いて)良く知っています。また、1と2については注意深く運用すべきであり、場合によってはダブルスタンダードを引き起こし兼ねないポイントであるだろう、とも思います。さらに、3については、要するに「神や死後の世界」という不可知領域から得られたとされる「知」に基づいて、教義の正当性や「聖らかさ」を主張する行為について「考える機会」を与えてくれるだろう、と思います。

それでは、このような論点はどう批評されるべきでしょうか。
4:「知」の実存性に基づいた価値判断
いわゆる科学主義はこれに類するだろう、と思います。その主張がフィクション(想像の産物)であるならば、すなわち無価値(もしくは価値が著しく低い)である、という主張です。この主張は、自然科学の範疇における創造科学に対してでさえ、慎重にならざるを得ないだろう、と私は思っています。創造科学の論理的誤りを指摘するのは簡単だけれども、その価値判断までが論理的正誤によって判断されるのかどうか?という問題です。多くの創造科学論者に対して、私は1に挙げた「論理的誤を認めようとしない態度」に基づいて侮蔑や罵倒を行います。ところが、論理的に誤りであるからと云って、それだけが「悪いモノ、ダメなもの」であることの証明になるのか?について、私はまったく同意できません。

自身の犯す過ちや誤謬についてであれば、これらを考え、過ちを認めて訂正していくことはそれほど難しくありません。しかし、他者のそれについて「なにかを指摘すること」までは一方的に行えるのですが、それが果たして相手(対象者)の「考える機会」となり得ているのかどうか?について、私はさっぱり自信が持てません。また、この点についてあまり深く傾倒すると、他者に対する過干渉にさえなり兼ねないでしょう。

この論点を突き詰めていくと、最終的に辿り着くのはヒトが持つ「根源的自由への言及」なのではないか、と私は思います。「自由という権利」はあくまで律法の中で行使されるものですが、根源的な自由とは、法や倫理とはまったく無関係に行える「すべての可能性」を指しています。ヒトは気分や興味だけで簡単に他者の生命を奪ったりその他の暴力を行使できる、恐ろしく危険なイキモノです。それらを抑制し得るものとは、云うまでもなく「知」であるだろう、と私は思いますが、決して万能ではなく、時には限りなく無力でさえあります。それでは、倫理を守る機会を与えてくれるものとはなんであるのか?もしかしたらそれも盲信の一種ではないのか?そう問われるとき、私には「違う」と結論できる根拠も自信もないのです。

202AH1:2008/01/18(金) 13:34:16 ID:fKqeZx4M
ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。
例えその人がカッパビリーバーだったとしても、古今の「目撃記録」「伝承」なんぞに詳しいだろうから。
ビリーバーさんなら「カッパの系統学」「カッパの生態学」なんぞを独自に展開してくれそうですが、
その辺は聞き流す(笑

別にビリーバーさんでなくても文化人類学・民俗学的に調べている人がいれば十分である・・
むしろそういう人の方が「イッちゃってない」から助かる・・
ということは、言えるかもしれませんが。

203NAN:2008/01/18(金) 21:16:50 ID:???
いや、あのね…ちょっとちょっと待ってね。

1:「想像上の産物であることが確定的である事象」について、それを学問として研究することは、すなわち「バカげたナンセンス(無価値で意味のないこと)」である。

上記を「自然科学の一分野として」と云うなら、そりゃぁ私は同意しますよ?でも学問ってのはなにも自然科学だけじゃないでしょ?ってそれだけのことじゃないのか?カクレクマノミさんの云う「この世界のありよう」ってのは、自然科学の中にすべて含まれなければならないってことかい?ってのが私の疑義なんだよね。定量的・測定可能・実証可能なことだけで「この世界」は成り立たないし、それはたとえば「芸術性」とか「現象学」みたいな分野を侮蔑しかねない主張じゃないのかな。

2:「想像上の産物について、それらが実存するという言明」には意味がない。

ドラッグでラリって絵を描くヤツとか作曲するヤツは多いよね。倫理的にそれがどうかはともかく、そいつらにとっての「事実」をオーディエンスは共有できるわけでしょ。意味ってなに?価値ってなに?ってことだよね。そんなもん「意味があると主張するヤツには間違いなく意味がある」んだよ。これを論理で否定することなんかできるわけないじゃんか!ちなみに貨幣の価値なんてこれと同じだぜ?あんなもんニンゲンが作った最強の「想像上の産物」じゃんか。

204カクレクマノミ:2008/01/19(土) 05:31:39 ID:nWqwz./A
質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?
(「意味があるかないか」じゃなくて「何を意味するか」)

答えてください。

205NAN:2008/01/19(土) 11:30:35 ID:???
>質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?

その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

206ちょちょんまげ:2008/01/19(土) 15:19:31 ID:pnH8DlR.
AH1さんがサラッと書かれた「イッちゃってない」はけっこう重要なポイントのように思えるんだよなぁ。
うまく言えるかるかどうかわからないのですが:

フィクション創作者が作品の世界観の構築や、登場させるフォースなどの小道具の設定に命をかけるのは、あくまでその作品を自分の満足のいくものにするため、ひいてはそれを持って読者なり、観衆なりに楽しんでもらったり、何かを伝えたりするためだと思うんです。(あと自分の楽しみ、ってのは大いにあるでしょうね。)
でも、そこには「この作品はフィクションである」旨の認識が存在すると思うのです。(つまりイッちゃってない。イッちゃったような状態になった方がいい作品が生まれるとか、ってのはまた別の話だと思います。)
それに比べて、例えば「水からの伝言」の提唱者は、フィクションだとも言っていないし、科学だとも言っていないようですが、この人が「水の結晶」や「水が言葉や音楽に反応すること」の「専門家」であるとか認められるのでしょうか。
この人の場合は、おそらく金儲けやらの目的があるでしょうから多分に「確信犯」だと思うのですが、もしマジだとしたら「イッちゃってる」のではないでしょうか。
私はこの人に「水の結晶」について尋ねてみたいとは思いません。変なバイアスかかってそうだし。私よりは「水の結晶」について詳しいことは確実でしょうが。

蛇足ながら、「イッちゃってる」ことが必ずしも「悪いこと」だとは申しておりません。

NANさんに伺いたいのですが、

ある作曲家の音楽をほとんど信仰するがごとく愛している男がいたとして、その男が、その作曲家の作品群は他の作曲家のどの作品よりも
価値が高いことを「論理的」に証明することに命をかけ、ガクモン的に研究し、そして彼なりに証明できたと確信し大論文を書いたとしてください。

この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

207NAN:2008/01/19(土) 23:55:25 ID:???
う〜む…こぉいう「口語の領域の話」をきちんと書くってのは面倒臭いんだけど(苦笑)、行きがかり上これは私の責任らしいので書きます。
といわけでちょちょんまげさん。

>この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

オンガクの価値はさまざまな側面を持ちますよ。
1:意識・情動分野に明確に働きかける認知可能な質的な感動(無論、好悪のベクトルがあります)
2:楽譜、CDなどのメディアの売上(オンガク出版)枚数や量的な金額
3:楽譜(スコア)としての合理性や整合性、音楽理論的な革新性や斬新性についての質的な価値
4:その楽曲の演奏に対する観客動員数や二次演奏に関する量的な評価

ほかにもあるかも知れませんが、簡潔に述べるとこんなところでしょうか。
このうち「量的な分野」においてその楽曲が確かに数値を出しているのであれば、その論文は少なくともニンゲン社会というシステムの中で根拠を得ていることになります。しかし世の中には売上や知名度では今ひとつでも、特定分野のファン層(しかもギョーカイの一流とか呼ばれる層)にウケるオンガクなどもあり、そうした事例を根拠に「ガクモンとしてイチバンを証明すること」は難しいと思います。(ていうかオンガクとかは私にとってイチバン!ていう主張だけでそれを否定できる反論はなにもないんだけどね)
これは「オンガクの価値は論理的に証明可能かどうか?」について、できないこともない、という私の回答である、と捉えてください。

しかし、これは比喩が悪いだけで、ちょちょんまげさんの挙げた前半のくだりは的確な指摘だと思います。
疑似科学に基づいた詐欺的(に見える)商売について、私は決してそれを「認める」ことはしないでしょう。しかし、問題は「私が認めるかどうか?」ではないのです。そのような主張や商品を価値あるもの、重要なもの、大事なものとして認めるヒトは数多く存在し、中には他の分野では間違えようのない「科学の専門家」までがそれらに傾倒したり支持していることが問題なのでしょう。ただそれは「大文字ナンがへし折ったストラトキャスターのネック」に100万円払うヒトがいたとして、価値としてどう違うのでしょう。私たちは疑似科学やとんでも商売を批判することに使命感もしくはなんらかの興味を持っているわけですが、それらを「喜んで購入したり傾倒する自由」もヒトにはあり、それを否定することなんかできるわけがない、というのが私の主張です。

比喩をずらずら並べていくとなにがなにの主張に対してのメタファだったのか分からなくなるので、もともとの「妖精」について書きます。
私が「妖精を実際に見た、容姿はこんなであり、羽はこういう風に生えていた」と主張し、絵を描きました。絵は具象ですから明確な視覚情報を第三者と共有できますが、それを検証する方法はありません。するとちょちょんまげさんは「絵は分かったけれど、この実物はどこにいるんだ?」と問います。しかし私は「あなたに証拠を提出することはできないけれど、確かに私は妖精を見たのだ」と主張するでしょう。

この問答は「自然科学のテーブル」に於いて、私の完全なる敗北と云えるでしょう。あるいは、裁判をやっても負けるでしょう。
しかし、それが「計測可能な世界」において夢であれ幻であれ錯覚であれ、確かに私が認識するところの「現実世界」に於いて妖精との対面を体験し、記憶したのであれば、それをどんな方法で否定できるのでしょう?あらゆる科学的根拠を提示してでさえ、それは「正しさの要求・押し付け・強要」にしかならないのではないのでしょうか。また、そうした主張を科学者が科学的方法論に基づいていくら反証したのだとしても、私の主張に「真実」を見出してしまったり、そこまでいかなくとも「なんらかの信憑性」を得てしまう第三者は数多くいるでしょう。つまりそれが「ニンゲン社会である」ということなのだ、と私は思います。

自然科学だとか科学的方法論で否定できるモノは、この世界においてごくわずかです。このスレッドにおいて重要なテーマとして掲げられた「重要な問い」に、科学はほとんどなにも答えられないことを皆さん承知でしたよね。私の配偶者がそのひとである理由を論理的に実証することなどできるでしょうか。

208カクレクマノミ:2008/01/20(日) 04:27:49 ID:nWqwz./A
>その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

「とって」という言葉の意味が良くわかりませんが、ある人物の精神的状態についての言明であると理解してよろしいですか?

209名無しさん:2008/01/20(日) 11:09:36 ID:QpQGFxc6
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか?(189 地下猫氏)
>ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。(202 AH1氏)

それはそうでしょうね。私もそうすると思います。あくまで空想上の「妖精学」、「カッパ学」として。水木シゲルに期待するのも、その域をでないでしょう。
ドーキンスもそう言った「………学」まで否定したり、攻撃しているものではないと思いますよ。

しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し、皿の水が乾くと死ぬメカニズムを「科学的に」証明し、その「事実」を国語の民話としてでなく理科の教科書に掲載することを要求し、カッパの棲息環境を守る為に河川の改修や護岸工事に反対し(川をコンクリートで固めることの是非について、ここでは置いておくとして)、その工事の責任者を殺害したり工事事務所に放火したとしたら………、

アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

神の実在を主張し、そのなせる業や奇跡を証明しようとし、創造論を教科書に掲載させることを求め、少なくとも進化論と併記させようとし、一部の(でも結構な数の)家庭では子供に学校教育を受けさせることを拒否して自宅で親が「教育」し、人工中絶に反対して医院を焼いたり医師を殺害したり。

ドーキンスが批判しているのは、こう言った「神の実在性とその実際の弊害」に対してだと思います。
神の実在を信じるか信じないかは個人の自由だとして、ドーキンスが強調しているのは「宗教に対する過剰な敬意」への批判であり、その政治的な利用、弊害でしょう。特にその弊害が顕著なアメリカを主に念頭に置いて。

「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。」31ページに有るこのフレーズは、アインシュタインの神に付いての態度を吟味する過程で述べられているものですが、わざわざ「学問分野」に傍点が付いています。
私は、神の実在を前提とし、神を通して世界を解釈する、そう言う宗教教義を、「科学的な学問分野」として認める訳にはゆかないと言う、無神論者としてのドーキンスの意思表示として読みましたが。 

「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

無心論者である私には、一つひとつのフレーズは別として、ドーキンスの主張は全体として全く違和感を感じません。宗教の起源やその進化にも、淘汰の理論を強く持ち込んで解釈しようとする点などについては、些か辟易するところも有りましたが。
NOMAに関しても、若し科学が神の実在を示唆するような知見を発見したとして、宗教の側で「それは教導権が違うから」との理由で無視することは絶対無い筈だ、とのドーキンスの主張は痛く納得できるものです。

「神は妄想である」ほど感情的でなく、論理的でシンプルな論調としては「数学者の無神論」の方が抵抗が無いかも知れません。
ttp://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%F4%B3%D8%BC%D4%A4%CE%CC%B5%BF%C0%CF%C0

210:2008/01/20(日) 11:11:25 ID:QpQGFxc6
No-209 の「名無し」は雄です。失礼しました。
続きです。

私は、宗教・神とはフォイエルバッハが喝破したように、「現実世界の裏返しが、観念に反映したもの」だと思っています。
病弱な人が神に祈るのは健康な体でしょうし、貧困で一家心中する人が行こうと願う天国は、お金の心配の無い世界でしょう。

現実世界に精神的な基盤を持つ宗教を、現実世界と切り離して幾ら非難しても宗教をなくすことは出来ないし、思想・信条の自由は守られるべきだとは思います。
同時に同じ理由で無心論者の主張・立場も、無条件で擁護されるべきでしょう。
その辺の基準が特にアメリカなどでは、宗教に過剰な敬意が払われすぎていると、ドーキンスは言っているのでしょうね。

私は宗教に関して、現実の一番の問題は、宗教の政治利用、政教一致だと思っています。
日本でも靖国の問題や、某巨大教団と政党の関係など、多いに議論になるべきだと思っています。
政教分離と言っても現実にイスラム国家などでは大変だ、と言うことは重々承知していますが。

政治利用と言う点で、一神教と多神教では事情が随分異なるんじゃないか、今回「神は妄想である」などを読んでそのことを自分なりに気が付かされました。

一神教の神(或いは教祖様、先生など)は、天国でもその教団内でも権力を一手に握っている訳ですが、地上の為政者がその権威付けに宗教を利用する場合でも、その方が都合が良いのではないかと思う訳です。
日本が宗教的に非常に雑多であり、律儀な信仰者からすれば誠に節度の無いバチ当たりの国民性なのは、仏教にしろ神教にしろ、日本の宗教がおそらく多神教のせいではないかと思っています。

仏教の教祖は本来お釈迦様と言うことだと私は考えますが、日本の寺院で釈迦如来を本尊としているところがどの程度有るだろうか?
多分観音様を本尊としているところが一番多いように、私には感じますが、弥勒菩薩であったり、日光菩薩であったり月光菩薩であったり、或いは地蔵様であったりと。
大仏様もそもそも大きいというだけで何の仏様なのか、私には分かりません。

神教も同じことで、必ずしも天照大神だけが幅を利かせている訳ではなく、様々な神様が、それも古事記などを読む限りでは人間界との境界が非常に曖昧なままおわします。その点ではギリシャ神話と共通性を感じています。
「常陸国風土記」の中で、マタチという人間が、開墾作業を邪魔するヤツの神(蛇)を追い払って、社に封じ込めたという寓話が出て来ますが、こう言ったバチ当たりな話は、一神教では到底考えられないことでしょうね。

多神教においては宗教的な権力が分散している訳で、地上の為政者が権威付けに利用しようとしてもなかなか難しかったのではないか。
逆に地上の権力者によって、特定の「神・仏」に宗教的権威付けがされ難かったのではないかと思っているところです。

392年、ローマ皇帝テオドシウスが、それまで迫害していたキリスト教を国教化したのも、神聖ローマ帝国として自分の権威付けに利用できると踏んだのだろうし、その後の歴史の中で、天上・地上、合い携えて権威の高め合いをして来たのだろうと思います。

宗教的にルーズな国民性で本当に良かったと、私個人は思っているところです。

211NAN:2008/01/20(日) 12:58:28 ID:???
>しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し〜

カッパ学者であろうと民意に基づいたことになっているバカ市長が公約した予算消化(天下り先土建屋の売上になる)のための護岸工事であろうと、おかしな事業を批判したり非難することは当たり前でしょう。「なんらかの正当性・権威性」を根拠にありがたくない善意を押し付けること、それがエスカレートして暴力行為に及ぶことが非難されるべきなのは明確です。しかしそれが「○○学に傾倒しているせいだ」となった場合、その一般化が果たして妥当なものであるか否かは別個の問題として議論すべきです。

>アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

もちろん、そのとおりです。上記の文脈を否定したことはありません。
しかしそうすると、もっともっと広範囲に行われている威力行為に「営利拡大のために」という正当化を行った、様々な企業による乱開発や環境破壊、マイナスイオンをうたい文句にした数々の欺瞞商品が存在しますが、これは「自由経済」を批判すべきでしょうか?「国家・法の名のもとに」行われる暴力行為なんてのも数限りなくありますね。

私が一貫して主張しているのは、批判対象があまりに広範囲である場合、その範囲をもっと限定したり特定したりするという「礼儀」をわきまえないと、必要なもの、大事にすべきものまでが攻撃対象で(たとえ本意であろうとなかろうと)あるかのように見える、だから「メリケンのバカクリ」とか「○○教団」のような対象の特定をするべきだ、ということです。また、アメリカ社会が極度にクリスチャンに遠慮する社会であるなら、アメリカ社会の問題としてそれを扱いなさいよ、ということです。同じく創価学会と公明党だって名指しで批判できる根性のある(癒着のない)メディアがないのが問題なだけで、宗教というガイネンの問題ではないでしょう。

>「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

ワケの分からない一般化の事例として、我が国には「3ない運動」というのがありました。それは暴走族が社会現象と化した70年代、オートバイを諸悪の根源として一般化し、「乗らない、買わない、免許を取らない」という、さっぱり意味不明なヒステリーを正当化したものでした。(エレキギターなんてのも悪者にされたしね)

おかげで何が起きたか?隠れてバイクに乗るヤツが増え、暴走族は凶暴化し、日本のモータリゼーションはまったく寸断され、無免許でバイクに乗るからたかが一時停止も守れないせいで起きる事故が増えたりしたわけです。

つぅかね、戦争時の人殺しに代表される「平時にはあり得ないことの正当化」を行うすべての事象は批判の対象となり得るわけです。でもそれらをきちんと吟味するのが「面倒臭い」ので、とりあえず宗教でも批判しておこう、だってオレあいつらのせいで色々迷惑蒙ったし、くらいのメッセージしかドーキンスからは受け取れないのです。

212AH1:2008/01/22(火) 17:05:51 ID:fKqeZx4M
カッパ学と「イッちゃってる」について.前提となる私の認識としては「カッパは動物図鑑に出ている生き物のように,客観的かつ確実な記録があるわけではない」ことを前提にしています.もし「いや,俺は見たのだ」と主張される例があったとしても,それは「論文にできない程度の不確かな目撃情報」でしょう.つまり,「カブトガニの専門家」「ティラノサウルス・レックスの専門家」というような,対象をじかに研究した結果を持っている専門家はいない,と考えます.
さて,その上でカッパの色について知りたければ,そのような目撃情報(古いものであれば伝承)を集めるしかないでしょう.
情報の信憑性については,個別に判断するしかないと思います.「イッちゃってない」学者が有り難いのは,「これは**の見間違いかもね」「こうだと言われてるけど,どうかなあ」「これはこの時代のこういう文化的背景に影響されてるね」といった,否定的・客観的な情報を必ず紹介してくれるだろうという点でしょう.
対極に位置する人の場合,見間違い・勘違い・幻覚・妄信などを客観的に排除する努力をしていないかもしれません.全ての情報を出してくれればまだ良いが,恣意的な基準で勝手に取捨選択されている恐れもあります.ここに本人の妄想まで入ってるともはや利用不能.「**カッパは生命であるとの認識が大切です**」などと言いはじめた日には・・・(笑
カッパの実在を信じており,かつ使える情報を提供してくれる人は非常に少ないかもしれませんが,私としては「未知動物学」のようなものを想定しています.例えばネッシーについての目撃情報を全て集めて,その上で実在を真剣に考慮しつつ検討しているような人です.見間違い・イタズラ・伝説などなどがある事を知った上で,なお,いつか客観的な証拠が見つかる事を信じて,現在ある情報から科学的な考察を組み立てるという作業は不可能ではありません(情報不足ゆえに行き詰まると思いますが).
自称「進化の専門家」にもウィルス進化論,クラス進化論,重力進化論,新今西などが含まれている,ということでしょうか.

まあ,ここでドーキンスが言っているのは「そういうのはカッパ学じゃない,民俗学とでも言ってくれ」という意味であり,「カッパ学などと言い出した時点でイッちゃってる」というニュアンスを含めていると思います.しかし,もしそうなら,「カッパは存在しないんだからカッパ学なんてあるわけない,専門家なんているわけないだろ」というのもちょっとフライングじゃね?と思いますね.まあ,売り言葉に買い言葉的なノリはあると思いますけれど.

213ちょちょんまげ:2008/01/23(水) 04:34:17 ID:vUxNW.gI
「イッちゃってる」のケーススタディ

ケース1.錬金術の場合

(錬金術の歴史、手法等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「で、私の結論なんですけど、いままでは術師の術前の身のお清めの方法に問題があった、という結論に達しました。正しいお清めの方法はですね、まず風呂桶いっぱいの処女の生き血を」

ケース2.妖精の場合

(妖精の歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「え?それで妖精は実際に存在するのですかって?そりゃしますとも。実際、一週間前に近所の幼稚園で2匹ばかり捕獲してきたところです。お見せしましょうか。これはニンゲンの幼児じゃないかって?何を言ってるんですか、あなたには背中の大きな美しい羽が見えないんですか?」

ケース3.カッパの場合

(カッパの歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)

「え?それでカッパは実際に存在するのですかって?いや、あまり大きな声じゃ言えないんですけどね。実は宇宙人なのです。うるとらせぶんに出てきたテペト星人とかうるとらまんえーすの超獣キングカッパーなどは、それと気づいた人たちが人々にこっそりと教えようと」
(ごめん!あんまり面白くない)

ケース4.水からの伝言の場合

(「水伝」にはまってる人。一定方向に強い思想傾向を持つ。最初からあまり拝聴する価値ナシ。)
「で、だれが美しいことばか汚い言葉か決めるかですって。そりゃ、実験者が美しい心を持ち、美しい言葉だたと思っていれば水もわかってくれるんですよ。例えば「日本人」。実に美しい結晶となります。ですが、「○○人」この結晶の醜さを見てやってください。」

で、おぢさんには上記の人たちと「宗教者」の区別があまりつかないのレス。

214NAN:2008/01/23(水) 17:38:48 ID:???
「イッちゃってる」のケーススタディ:NAN編

ケース1.金融・証券マンの場合

(通貨の歴史、自由経済システムの発達、金融機構について講釈する。あまり興味がない)
「で、私の結論としてはですね、御社にこの金融商品をお奨めしたいのです。正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。このプランであればかなりの確率で御社に役立てると思うのです」

ケース2.とある会社員の場合

(ほとんど一人で営業のすべてを取り仕切る取締役部長に呼び出される。カリスマだが人格は最低だ)
「あ〜、キミ来月からブラジル行ってくれる?そう、ブラジル。新種のコーヒーがえらく期待できるから権利を全部引っ張ってきて欲しいんよ。え?考えさせてくれ?あ〜、残念だねぇ、ボクのお願いが聞けないなんてねぇ」

ケース3.いかにもエロいカップルの場合

(想像に任せる!)
「で、お前たちってさ、何回イっちゃうとイイわけ?へぇ、アイシテル感じがしてシアワセなの?で、そのシアワセって何回イっちゃうと感じるの?つまりお前たちのシアワセってイっちゃった回数で決まるのね?う〜ん、なにがシアワセかどうかなんてオレにもさっぱり分からないけどね」

ケース4.英雄の場合

(間もなく任務が始まる。でも大丈夫、この上陸作戦にはアノヒトが参加しているのだから)
「彼こそ英雄さ。あの不利な局地戦をひっくり返し、完璧なまでに敵を殲滅したのだから」

で、おぢさんは上記の人たちは全員狂っていると思うのです。
と、それだけでは「んなもん相対的に過ぎんよ」と述べただけなので、もう少し書きます。

215NAN:2008/01/23(水) 17:39:11 ID:???
「信じる」こととは、言い換えると「呑み込むこと」だったり「その味に慣れること」でもあるのではないか?と私は思います。子供がさんざん発するあの「なんで?」を、私たちは年を経るごとに忘れ、「なんで?」をしないことがまるで大人であるかのように錯覚させられ、モノを買うことがシアワセであると思い込んだり、ビールの味を覚えたり、雑誌やテレビで紹介されることに名誉を感じたり、社会の一員であることが当たり前であると慣れてしまうのではないでしょうか。

このスレッドで皆さんの挙げる「宗教者」というプラカードを観察して見ると、その対象は「私たちとなにが違うのだろうか?」と思わざるを得ません。なぜなら、なにかを盲信していたり、自分に対する疑義を見失っているという点で、あらゆるジンルイはおんなじことをしているだけだ、と思うからです。また、これは根拠なく感じることですが「なぜ宗教者に対する見直しはしないのだろう?」とも思います。創造科学論者とか原理主義者とか教条主義に基づく威圧者だとか、「そんなの宗教者と云えるのか?」というダメダメなケースだけを取捨選択している、ということです。

「(一般に云う)仏教」ではなく、「釈迦(ブッダ)の言葉」として伝わるものの中には「信仰を捨てろ」とか「形而上学的領域の断定を知識として認めない」など、非常に合理的かつ科学的である教えが数多くあります。そうでなくても、世界宗教の原点には「偶像の拒否」など、皆さんが「宗教者のステレオタイプとしているモノ」とは、両極で対立するものが数多くあります。それら変化は各宗派が世俗化しスノッブと化し「ポピュラリズムという正当性」を身に付けていく過程において起きるのですが、まったく同じミーム論的現象が私たちの周りにはいくらでもあります。

このような視点に立って、私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。ところがまるで「宗教者というのはこういうおかしなヤツらで悪いことを平気で行う」という視点に立った批判しか見えて来ない。自分たちも十分狂っているのにそれはないんじゃないか?というのが私の主張なのですが、なかなかかみ合いませんね(笑。

「なぜ夕食の買い物をスーパーでするの?」
「どうして毎日仕事に行くの?」
「なぜ私の家族はこのひとたちなの?」
「私はどうやって生きていけばいいの?」

世間一般に云う「普通のひと」は、上記のような疑問を滅多に持たないでしょう。しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。私は間違っているかも知れませんが、もし私の主張が正しいのであれば、批判すべきは宗教でしょうか、それとも宗教の名を語った詐欺師でしょうか?こういうことをきちんと考えることは「不当な宗教の擁護や遠慮」なのでしょうか?私にはそうは思えません。むしろ当然行うべき配慮である、と強く思います。

216diamonds8888x:2008/01/23(水) 21:34:08 ID:4jx.OKmA
 213番ちょちょんまげさんの挙げた例と214番NANさんの挙げた例では違いがあります。213番の例は全て世界の認識についてです。214番の例は全て何らかの行動指針です。行動指針は「こういう行動を選択すれば未来はこうなる」という予測ですから、結果的には正しいことも正しくないこともあり得ます。またどういう行動指針を取るかはまさに当人の価値観と戦略に基づくもので、完全に客観的なものではあり得ません。神頼みもサイコロ振りもありです。また信じる者は救われることも多い世界です。Qチャンみたいに。
 よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。ケース1の場合だと「正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。」というのは一般論としては間違っていません。当の証券マンの進める資産運用方法がうまくいくかどうかは別の話ですが。また絶対に正しい投資というものを誰かが知っているかどうかも別の話ですが。


蛇足) Qチャンて高橋尚子のことだよ。もう忘れている人も多いかも知れないから。

217:2008/01/23(水) 23:07:38 ID:QpQGFxc6
NANさんから、私が言及していない問題にまで踏み込ん問題提起を頂きました。

例えば自称カッパ学者と「バカ市長の公約した予算消化」「おかしな事業」との関係。
或いは、「アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていること」と、「営利拡大の為と正当化をされた企業による乱開発」「マイナスイオンなどの欺瞞商品」「国の名のもとに行われる暴力行為」との関係。等など。

私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。
ドーキンスが、一部の急進的原理主義者による産科医院放火や、医師の殺害を批判することと、一般的に悪徳医師が批判されるべきだと言うことを混同していないのと同じように。

なお………、
>>神やその御業を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。
>???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

この辺は言葉のアヤです。……が、誤解が有りましたら訂正しておきます。
→ 「神やその御業を空想物語として『学問』する分には、ドーキンスも特に文句も無かったでしょう。」


私もドーキンスに格別に入れ込んで、「神は妄想だ」を読んだ訳では有りません。
「神は妄想である」にしても「数学者の無神論」にしても、ドーキンスやパウロスが、「神の不在証明」をどのように展開してくれるか、主にそちらに興味が有ってのことです。なかなか難しいんですよね「無いもの」を「無い」と証明するってのは。

私は「無い」と言う無神論の立場で議論に参加していますが、同じ無神論者でも内容が一様でないことは、グールドに対するドーキンスの激しい論調を見ても改めて思い知らされるところです。

と言うことで「NOMA」ですが………、NOMAに関して、私は多いに懐疑的です。

先ず第一に、

この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出しできる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

明日の渋谷の風向きを特定するだけでも、その計算には膨大なパラメータが必要で、今後も不可能かも知れません。しかしそれはあくまでも技術的な制約であり、原理的なものでは無いでしょう(量子論的制約はこの後述べます)。

人の心の問題も同じことだと私には思えるんですよね。自然現象に比べてさえ桁違いのパラメータ(環境や個々人の生まれ、育ち、脳内の状況、人と人との関係等など、etc・エトセトラ)が有って、今後どれ程コンピュータが進化してもその解明は不可能かも知れないが、それは原理的なものではないだろう、って思いが先ず一つ有ります。

全てに渡っての解明には未だ遠く及ばないからといって、それで科学が関与出来ないとは言えないし、現実に心の問題についての科学知見も相当に蓄積されていると思っています。
少なくとも若し何らかの解明が出来るとして、それは宗教でなく、社会科学や心理学、動物行動学、人間行動学、脳科学などを含めた、科学全般が担う筈だという確信が私には有ります。当然進化の理論も含めてです。

「どう生きるべきか」についても、人間の歴史や社会の構造など、人文諸科学がベースになる筈です。地球環境の変化が、人間の生き方や考え方に影響を与えない筈は無いだろうし、「より良く生きる」為に、科学技術や医学の進歩が無関係である訳が無いでしょう。

若し私が「どう生きるべきか」を他人に聞くとしたら、現実の世界から超越した神でなく、自然・社会と日常的に切り結んでいる、現実の生の人間に聞くでしょうね。その人は毎日「科学」している訳ですから。


次に若し探求の結果、原理的にもその解明は不可能だという結論が出たとしたら、その結論とメカニズムも又、多分科学自身の手によって解明される筈で、宗教から引導を渡されるものではないと思っています。自然科学ではそうでしたから。

量子論によって、自然は確率的にしか記述できないという結論が出たとして、それは科学自身の手によるものです。
「無からの宇宙創成とそれ以前」「観測地平とその向こう」「ブラックホールの内側」等など、全て事情は同じことでしょう。
科学によって得られたその知見の上に立って「だから科学には限界があって、その先は神のみぞ知る」などと宗教の側から教導権の説教をされても、私には説得力をまるで感じません。

218:2008/01/23(水) 23:08:42 ID:QpQGFxc6
……と、ここまで書いてきて「NOMAって不可知論、それも(天真爛漫な)ヒューム型不可知論じゃないか」と思うに至りました。
急遽グールド著の「神は科学と両立できるか(原著=Rocks of Ages)」に当たってみました。冒頭の『前口上』16ページに「私は、T・H・ハクスリーが用いた、賢明な意味においての不可知論者である。」と言う告白が有り、又しばしば「ユダヤ人の不可知論者」と自認していたらしい。むべなるかな、と思った次第です。
うーん、グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが。


第二

私が思うに、天上と地上をキチンと区分けすることが出来れば、確かに神と科学の領分が重複することも無いし、NOMA原理も問題なく成り立つんでしょうね。

しかし残念ながら、神(?)もその使徒も、実際には全て地上におわします。有神論者は否定するでしょうが無神論者である私はそう断言し、話しを進めます。
「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、教義と信者の頭の中にしか存在しません。

科学の側は特に天上の世界を必要としません。この現実の世界そのものの中に、存在と連関の有り様を探求する営為です。

そう言う意味でNOMAなどと言ってみても、所詮片手落ちにならざるを得ないと私は思う訳です。科学にとって神のお慈悲を必要とすることは何も無いが、神にとって科学への依存・浸透を免れることは1日たりとも出来ないでしょう。

そう言う舞台裏がバレバレであるにもかかわらず、何でわざわざ科学の側からNOMAなどと、現実世界から超越しているかのごとく神にお墨付きを与えるグールドを、ドーキンスは、「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている(86P)」と見えたんでしょうね。

言葉のきつさは兎も角として、私もNOMAには、現実からかけ離れた神への「過剰な敬意」美化が含まれると思います。
カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

「重複することの無い教導権」なるものも、単にグールドの頭の中で(議論として)アレコレ想定されている分には特に弊害は無いかも知れませんが、実際に地上の世界に引き下ろして具体的に適用されたとき、(>>213;ちょちょんまげさん)の錬金術や妖精やカッパのような、現実の弊害が表面化するのではないでしょうか。

一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

「重複しない」とは、言葉を変えれば「立ち入るな」と言うことであり「口出し無用」と言うことです。
彼ら(或いは宗教一般)を行政権力で押さえつけることには、思想・信条の自由からも慎重でなければならないと私も思います。しかし彼らの言い分を科学の立場から理論的に批判し、理性ベースで一般国民の頭の中から非科学的妄想を駆逐することは必要でしょう。
その批判を手控えさせ或いは傍観させることに、若し「重複することの無い教導権」的躊躇が働いたとしたら、NOMAの罪は大きいと思います。

マスコミが「霊媒師」なるものの提灯持ちをし、心霊写真だの水子霊だのと騒ぐのはひとえに、雑誌の売上や視聴率の為でしょう。
しかしそう言う非科学的で愚にも付かないことを、女性誌や公共放送が垂れ流すことを躊躇させない要因として、或いは批判されたときの言い訳として、若しNOMA的心理が背景に有るとしたら、それも大きな罪です。
そして私にはそう言うことが絶対にないとは言えない様な気がします。


NANさんがNo-215の最後で仰っているように、全体的には良心的な宗教者が圧倒的なのだと思います。宗教的良心に基づく平和運動、人権擁護運動などに献身されている人も多いでしょう。
宗教は現実の世界にその精神的基盤を持っている訳ですから(私はそう考えています)、世界観の違いは違いとして、一致する行動で連帯すれば良いのだと思っているところです。

219地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:12:36 ID:9YM1mm7M
おそくなっておりますにゃー(ぺこり

>>194  カクレクマノミ

>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。

現象学的には同じですにゃ。以下はウィキの「現象学」の記述より引用
>フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。

とまあ、衒学的に誤魔化しているように思われてもなんなので以下のカクレクマノミの記述を具体的に批判すると

>>200
>妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
>僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?
すると、学問的に価値があるか否かという判断基準は、その学者の信念や世界観に依存するということになるんだけど、カクレクマノミは本当にそういうことをいいたいの? 論文の査読って思想チェックなの?
そもそも、「ビリーバー」の著述やら発言は、「民俗学」にとって無意味なの? 「里の古老(=ビリーバー)」を抜きにして民俗学が成り立つの? あるいは、「ビリーバー」は民俗学者になれにゃーの? どんな信念や世界観をもっていようが、そのガクモンにおける方法論を踏襲している研究は当該ガクモンの研究として成り立つと僕は思っていたんだけど、違うのかにゃ?

これは、ちょちょんまげ とか AH1 にも聞いておきたいところなんだけど、「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

研究者の信念や世界観とその業績を直接的にリンクする発想は、本来は馬鹿宗教の側の発想なのではにゃーのかね?
まあ、科学主義はひとつの「イズム」なので、科学主義の立場においては、研究者の世界観とそのガクモン業績はリンクすることになるだろうにゃ。

自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ。特に 雄 の病状がヒデエ。

220地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:13:04 ID:9YM1mm7M
つづき
>>194

>>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

>定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。

あのさー
「神は妄想である」において、ドーキンスは一神教を否定しているだけでなく、超越的な思考すべてを否定しているだろ?
つまり、多神教の神々も否定しているわけだよにゃ。

まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね? 宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ? 百年前の宗教史の馬鹿言説を引っ張り出す馬鹿、多神教の神々について「一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない」と無知に開き直る破廉恥野郎が、一神教と多神教をいっしょくたにして批判しているんだぜ?
繰り返し聞くけど、批判対象について明らかに無知であり関心もないと開き直るってのは、批判者としてそもそもどうよ?


ドーキンスの論理的な間違いとか捏造を晒そうと思ってたけど(僕の読んだかぎりでは、グールドに少なくとも捏造はない。また、宗教や人文科学についての明らかな無知や侮蔑はみられなかった)、その前にこんなアタリマエのことをいわなきゃならにゃーとはね。

221地下に眠るM:2008/01/24(木) 03:01:13 ID:9YM1mm7M
ちょっとつれづれと

橋本治が「宗教なんかこわくない!」という著書で
仏教を英語でBuddismとよび、イスラム教をIslamismと呼ぶことは、マルクス主義をMarxismと呼ぶことと同じ。つまり、宗教とはイデオロギーなのだ、といっておりますにゃ。

うんうん
確かに儒教はConfucianismだしにゃ。道教はTaoismで神道はShintoismですにゃ。シャーマニズムとかアニミズムもよく知られた用語にゃんね。
ただし、キリスト教はChristianityにゃんな。まあ、自分たちだけはイデオロギーではない、という態度が逆にイデオロギーであることを証明しているようなものにゃんね。

で、このあとは僕の思いつきなんだけど
ニーチェは「事実などない。あるのは解釈だけだ」といっておりますにゃ。
この言明は基本的には正しいと思うのですにゃ。個々のニンゲンにとっては、事実そのものがあるわけではなく、それぞれの体験があるのであり、体験とは何らかの解釈がなされて意味付けされているものですからにゃ。(意味付けのない体験は記憶されない)
そして、イデオロギーというのはその「解釈」あるいは「意味」を共有する社会集団といえるのではにゃーかな。そして、各々のイデオロギー間についてはそれぞれ対等だとするのが正しい文化相対主義ですよにゃ。
で、宗教とはイデオロギーであり「イズム」のひとつなんだと考えれば、当然ながら無宗教とか無神論もひとつのイデオロギーであり「イズム」であるといえるわけですにゃ。この意味で、無神論と宗教は対等ですにゃ。どっちも世界観にゃんからね。

イスラムを殺しまくるブッシュと、宗教撲滅を望むドーキンスはよく似ているわけだにゃ。


ところで自然科学ちゅうものをニーチェの言明に即して考えてみると、自然科学とはことによると「解釈」以前の「事実」を外化して共有するシステムなのではにゃーだろうか?
カントによると「物自体」は不可知だよにゃ。当然ながら、「事実そのもの」もニンゲンには本来ならば不可知といえますにゃ。しかし、事実の一部を抽象化して記述する方法論を徹底することによって、体験し解釈される前の事実そのものの一部を外在化することが可能になったのではにゃーかと。この外在化された事実の一部のことを「データ」と呼ぶわけにゃんね。

自然科学の方法論によって人類にとって初めて事実の共有が可能になったのかもしれにゃーですね。それまでは、解釈の共有以外はなかったのかもしれにゃー。

222カクレクマノミ:2008/01/24(木) 04:05:04 ID:nWqwz./A
>つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?

すみません、人を単位にして書いてしまったのが、誤解のもととなったようです。
ここで単位にすべきは、人ではなくて個々の言明です。

ここでは、「妖精は存在しない」「魚は存在する」というのを前提として話をします。
「魚には鰭がある」「魚には消化管がない」というのは、明らかに学問的に意味のある主張です。なぜなら、これらの主張は現実の存在と対応しているからです(もちろん、後者は間違った主張ですが)。

では、「妖精には羽がある」と主張したとき、いったいそれは現実世界の何を表しているのでしょう?
(「多くの伝承などにおいて」という枕詞が省略されている場合もあるでしょうが、ここではそうでない場合を考えます。)
妖精はいません。いないものに、羽があったりなかったりするというのは、いったいどういうことでしょうか?存在しないのだから、当然羽を持ってはいないし、持っていなくもないはずです。
(もちろん、民俗学などのデータとして、「このように主張する人がいる」というのは学問的に意義があります。)

妖精はいないにもかかわらず、妖精には本当に羽があるのかないのか議論するのは、はたして学問的行為と呼べるのかどうか、僕は非常に疑問だと思います。

妖精の代わりに空飛ぶスパゲッティモンスター、羽の代わりにミートボールを考えてもらってもかまいません。
スパゲッティモンスターはミートボールを持っているのかどうか議論するのに学問として意味があるとは思えません*。

ドーキンスの考えでは、ほぼ間違いなく神は存在しません(この点に関する異論もあるかもしれませんが、ドーキンスの議論を追いかけるために、仮に受け入れてください)。
では、神学などの分野で、神がどんな性質を持っているかどうか議論するのは、いったい何について議論しているのでしょうか?


>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

>宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ?

そのあたりの問題についてドーキンスの議論はかなり雑だというのは同感です。
ただし僕の能力不足で、その雑さが具体的にどのような齟齬を発生させているのか、指摘することができません。
具体的な問題があるのでしたら、ぜひ教えてください(皮肉でなく)。

ただ、多神教について(あるいはキリスト教以外の宗教について)、ドーキンスは概論としては批判しているにも関わらず、各論としてはろくに取り扱っていないというのは確かだと思います。そしてそのことはかなり問題だというのもまた確かでしょう。
キリスト教以外の宗教について考えるときには、ドーキンスの議論をそのまま使ってしまうのは危険です。(参考になる点は多々あると思いますが)

この点についてドーキンスを弁護するとしたら、多様な宗教をすべて議論し尽くすのは事実上不可能だということが言えます(リストアップだけで「神は妄想である」よりも分厚い本が必要になるでしょうし、必要な労力も現実的な量ではないでしょう。グールドだって、ほとんどキリスト教のことしか書いていないし)
でも、それならば宗教全般を射程に入れているかのように書くのは風呂敷を広げすぎだ、という批判は当たっていると思います。彼は、具体的な議論の対象はキリスト教に限られているということを、もっと強調すべきだったと思います。

223ちょちょんまげ:2008/01/24(木) 15:38:29 ID:vUxNW.gI
>>猫さん

>つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?

おっしゃるとおりだと思います。

ただ、私の上記書き込みの「錬金術」の場合で言うと、彼が錬金術の歴史や科学史における意義、術者の興味深い人間像等について語っている時「ある種の信念を強固に抱いている」かどうかは、事実に即している限り全く問題であるとは思いません。むしろ情熱的でおもしろいかも。
しかし、彼が「具体的に鉄を金に変える方法(錬金術的に)」について語りだしたとしたら、その話を真面目に聞くことに意味があるのかどうかは私には疑問です。

224AH1:2008/01/24(木) 16:49:40 ID:fKqeZx4M
>地下猫氏 

>「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

当然,同意します.最初からそのつもりで書いています.古今のカッパだか妖精だかの情報に精通しており,しかも実在すると信じてる人は存在し得ます.
ちょちょんまげ氏の書いている「ここまでは拝聴する価値あり」と同様と言ってよいかと考えます.

とりいそぎ

225:2008/01/24(木) 17:06:49 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏

地下猫氏と私の間に明らかな見解の違いが有ることは重々承知しています。それでいいのだと思っています。
例えば、私はニーチェは最悪の哲学の一種だと思っていて、どうもこれだけで地下猫氏からすれば病気に見えるかも知れません。
カントについても、その汲むべき内容が多い中で、地下猫氏が話しに出された「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いていると言う認識です。

しかしこれらは私の見解であって、神の実在性云々と同じく、ここで哲学に関して果てしない議論をしようとは思いません。
私の『科学主義』について「病状」を批判されるのも一向に構いません。

ただ一点、事実誤認が有りますので指摘させてもらいます。

>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>特に 雄 の病状がヒデエ。

骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。
と言うより………、ホントに読んでますか?

私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。
カッパを空想上の生き物として、例えば民俗学の範疇で研究すること、そしてそう言う観念がどう言う実在的背景の元で生じて伝播したのか(おそらく深い淵で水遊びする子供達を戒める為じゃないかな?とか)を研究することは多いに意義が有るだろうと思っています。

ただカッパを実在するものとして、自然科学の対象に研究するとしたら、それは違うだろうと言うことです。
カッパの皮膚の色は何色か?、若し緑色だったとしたらそれはキュウリを食っている為か?などと言う「研究成果」は、酒の席でのヨタ話としては受けるかも知れませんが、生物学の研究対象にはならないだろうし、すべきでないと言っているに過ぎません。

神そのものは空想上の産物だが、その精神的基盤は現実世界にあると思っている私は、宗教を研究することで現実社会を理解する、一つの手掛かりになるとも思っています。
聖書など教義の内容を、現実のものとして研究したり、押し付けることは問題だと言っているだけです。
古事記を国語でなく、歴史の教科書に載せようとしたり、創造論を生物進化の理論と並べて生物学の教科書に載せようとしたり、まっ、同じことですな。

ただ実在するかしないか、これもモノ(例えば神)によって見解が激しく異なることも承知しています。この点でも繰り返し「無神論の立場で」と、自分の立ち位置をハッキリさせた上で議論に参加させて貰っています。

なお、私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。時に自然を拷問(実験)に掛けて無理やり真理を白状させるようなこともしながらね。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
悪しからず。

226AH1:2008/01/24(木) 18:33:22 ID:fKqeZx4M
そもそも「妖精の羽の色」を何故知りたいと思ったのだろう?
妖精は実在し,その色が知りたいと思ったの?
伝承の中で何色とされていたのか知りたかったの?
絵を描くのにそれらしく見える色が知りたかったの?

そもそも,そんな事を本気で問う所からして間違っちょる,というレトリックかしらん?

227ka:2008/01/25(金) 00:33:00 ID:fopTCrCQ
>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
よろしければソースください

228NAN:2008/01/25(金) 00:57:54 ID:???
>>216:diamonds8888xさん
>>よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。

はい、それが「通常の常識」だろう、と私も思います。冷静に指摘していただいている通り、「狂っているかどうか即断できない」という、それらが狂気である可能性を認めていただければ十分です。

>>217:雄さん
>>私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。

「宗教」という「あまりに乱暴なひとまとめ」を支持しているでしょう?よって、私も「弊害が出るであろう一般化」でお答えしたんだけど、分からないかな?

>>カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

カッパや妖精は比喩でしょう。
「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
これらが問題とならない「機会」は、それらの「解釈」が自然科学として私たちが既に確立している知識に照らし合わせたとき、著しく現実である可能性が低いと判断された場合に限られるはずです。たとえば創造科学にしたところで、既存の論者の述べる説明があまりに幼稚であることから簡単にバカ扱いできるけれど、まったく新しい、少なくとも論理の筋道だけは通った創造科学の解釈が出てこないとは限らない。そういう言明に対してできることがあるとしたら、断定を行う前に検証する、検証できたにしても「確度の判定」ができるのみであり、絶対否定や肯定なんかできないってのが冷静な態度じゃないのかな。

なお、オッカムの剃刀で普段は切り落とされている領域にある、あってもなくても項として結果に影響を与えないパラメータとしての神については、どんな方法でも否定できない。これは私が「自分は無神論者である」とまったく思わない最大の理由です。

>>一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

永遠リフレインの世界になってきたな(苦笑。
何度でも云うけれど、そういう欺瞞的商行為に無批判であるべきはずがない。ところが、その主旨がが「超越的存在を前提としているから」だとか「宗教的だから」と云うようでは、私たちが「通常の常識」だと思い込んでいるすべての事象(つまり、私たちの生活している文化や文明のすべて)でさえ、それらは「すべて妄想であり狂気の共有ではないのか?」という再反論に晒されることになり、これに確かな証拠を提示して反証することは極めて難しいので、個別の嘘だけを指摘するべきだ、と申し上げているわけです。

自然科学で云う「実在」と、広範囲な学問(あるいは知識全体)で云う実在とではかなり隔たりがあるはずです。あるいは隔たりがなくてはならない。人間の脳は基本的に夢と現実の区別ができない。よって(地下猫氏が指摘するように)外的に知を確保・検証するための方法論として自然科学という道具があるのだけれど、ある個人の体験を自然科学の範疇で事実ではないと実証できるからと云って「現実ではなく空想や妄想、錯覚である」と切り捨てる態度は、批判されるべき科学主義と呼んで差し支えないでしょう。

229NAN:2008/01/25(金) 01:30:12 ID:???
ついでに「妖精議論」について。
>>222などに散見されるけれど、妖精はいない、という証明は自然科学的実在性でしか世界を認識しようとしない「主義」にもとづくものではないでしょうか?しかし私は、先の発言(いや、今までずっと一貫して主張していることだけど)にあるように、誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは「事実なのだろう」と考えます。それが他者にも体験可能、あるいは実測したり検証することが可能な「科学的実在」であるかどうかはその次のステップであろう、と考えます。

これはたとえば「痛い」という知覚にも同じことが云えるのではないか?と私は思います。私のような体中傷だらけの後遺症患いだと往々にしてあることですが、私が感じる「痛い」という知覚は計測不可能です。医師によって、あるいは計器によって、それを「痛覚レベル」として検証したり確認したりすることが極めて難しいので、触診したり薬液をつけたりその他の方法で「患部にアクセス」することによってなんとなく確かめるしか方法がないようです。結局のところ「これくらい痛そうな反応を示すのでよほど悪いのだろう」という、極めて不明瞭な判定しかできないのが現状のようです。(この点については、もっと確度の高い方法があるのかも知れませんが、私の経験の範囲ではこんな雰囲気でした)

このような「症状」を抱える私が各所の医院を訪ねると、その対処は千差万別です。「痛い」という私の主観的主張に基づいて適格な治療指針を探ろうとする医師もいたし、はなから「この損傷でそんなに痛いはずがない」という態度で診察に臨むような医師もいました。極端な話、治療も間違いない、検査の結果も傷みなど出るはずがない、よってこの患者(私)の痛いという主張は一種のヒステリーだろう、みたいな診断さえ「食らった」ことがあります。

しかし、患者の側からすれば確かに痛いのであり、それで困っているからわざわざ病院に出向き、長い診察待ちを経てやっと医師と邂逅しているのです。同様にして、極めて現実的であるけれど、極めて「我々が現実として認識するこの世界」とはかけ離れた「あっちの世界」を確かな現実であると主張するひともいます。彼らは通常、精神障害のあるひと、と診断されるでしょうが、彼らの言明は「空想の産物、妄想、錯覚であるので学問的意味などない」と捨てるべきでしょうか。(同様の指摘は「カールセーガン科学と悪霊を語る」がずっと詳しいし、丁寧だと思います)

「妖精はいない」という言明は「不可知であるはずのモノに対する断定」ではないだろうか?私はそう思うのです。無論、これまでのジンルイの経験において、妖精の存在は実証されていない。また、今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

230:2008/01/26(土) 11:39:55 ID:QpQGFxc6
RE kaさん
>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

NANさんからもNo-228で、
>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。
カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂かけばばあ、等など、際限が有りません。

NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。


人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

231:2008/01/26(土) 11:41:40 ID:QpQGFxc6
続きます
「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。

○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。

人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。

流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢なら無かったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

232:2008/01/26(土) 11:42:09 ID:QpQGFxc6
唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。

この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

233地下に眠るM:2008/01/26(土) 13:38:41 ID:z58pW4fo
ドーキンスの著書の批判的読解はもちろん続けるとして、参加者のみにゃさまに質問。
(ちゅうか、以下の質問はドーキンスの誤謬に直接に関連している)

1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?

3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?


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