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聖イエス会姫路教会、主の十字架アンテオケ教会

1名無しの聖歌隊さん:2018/02/09(金) 01:26:21
聖イエス会姫路教会、主の十字架アンテオケ教会
聖イエス会姫路教会
http://www.eonet.ne.jp/~seiiesukaihimeji/
http://www.eonet.ne.jp/~seiiesukaihimeji/page004.html
http://www.eonet.ne.jp/~seiiesukaihimeji/page008.html

主の十字架クリスチャンセンター東京アンテオケ教会
http://tokyo.antioch.jp/

2名無しの聖歌隊さん:2018/02/09(金) 17:25:54
聖イエス会 創立者 聖書解釈
イザヤ43・13 文語訳
今より【われは主なり】わが手より救ひいだし得るものなし われ行はば誰かとどむることを得んや
 「わたしは神である、今より後もわたしは主である」ここでは実に力強く、
アニー フーがくりかえし宣言されている。このアニー フー宣言は、約束
されていたイスラエルの救いと全的回復を実現・成就する神であり、救い主
であるとの宣言にほかならない。過去の歴史において、イスラエルをエジプト
より解放したアニー フーなる神であられる。さらに終末時代において、全世界
に離散している選民を救済するために全能力を発動する、永遠に
変わりないアニー フーであるとの宣言である。全能の主ご自身が宣言し立ちあがられ、
み業を遂行される時、だれがそれをとどめることができるであろうか。

3名無しの聖歌隊さん:2018/02/09(金) 19:54:19
聖イエス会名古屋教会・岐阜教会・聖霊教会(能登地方)・姫路教会・尾道教会 参考教材・資料
聖イエス会資料集(1976年当時)より そのまま引用
イエスの御名(みな)
「わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名…」
「イエスの名が…この人を強くした。」(使徒行伝3・6、16)
【神は御名】
 紀元前2000年頃、イスラエル民族の父祖アブラハムに、神は「我は全能の神なり」との御名(御名)によって、ご自身をあらわされました(創世記17・1)。紀元前1300年頃、エジプトで奴隷となっていたイスラエル民族を救い出し、約束の地に導くために、神はモーセをお選びになり、神の山ホレブ(シナイ山)で、「我は有りて有る者なり」との御名によってモーセと出会われました(出エジプト記3・14)。この御名は、「我は主なり」との御名、「ヤーウェ(エホバ)」、あるいは、「アニー・フー(我はそれなり)」の語源ともなるもので、神の永遠性、唯一絶対性をみごとに啓示しています。
 このように、天地万物の造り主であり、ただ一人の、霊なる神には、神としての本質を啓示する、まことに神にふさわしい名があるのです。
 日本にも、「名は体をあらわす」ということわざがありますが、「神の御名」こそ、神の実体そのものなのです。イスラエルの宗教的な人たちは、「神の名をみだりに口にしてはいけない」との十戒の戒め(出エジプト記20・7)に従って、現在もなお、「ヤーウェ」、「主(アドナイ)」という言葉を、目では確かにそう読みながらも、「ハシェーム(御名)」と発音します。これは、「神」はすなわち「御名」である、「御名」こそ「神ご自身」であるとの信仰のあらわれにほかなりません。
 考えてみれば、アブラハムが選民の父祖、信仰の父となりえたのも、又、神が彼とすばらしい祝福の契約を結ばれたのも、その根本的な要因は、彼の「御名との出会い」にあったのです。「我は全能の神なり」との御名が、彼の内に臨んだ時、その御名が彼を全く新しく造り変え、そしてすべての契約を実現する力、保障として、御名は力強く彼の内に生き働き続けました。
 モーセの場合もそうでした。口の重い、小心なモーセを、イスラエルの解放者、偉大な立法者とし、又、彼に多くの奇跡を行わせて、40年にわたる困難な砂漠の旅を終えさせたのは、彼の内に宿られた「御名」でありました。
 御名は、単なる概念や、抽象的なことばではなく、実に生ける神の人格そのものであり、ダイナミックな力です。人間の内に宿り、人間を新創造し、その人を通して、偉大なことを実現する、生ける神ご自身なのです。人は御名によって、神との出会いを経験し、神を体験的に知るのです。

4名無しの聖歌隊さん:2018/02/09(金) 20:14:06
イエスの名
 使徒行伝第3章の物語りは、大変有名ですが、今、わたしたちが注目しなければならないのは、ペテロの次の言葉です。
 「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」
 「イエス・キリストの名」というとき、それは、人間イエス・キリスト以上のものを示しています。「イエス」とは、彼の人間としての名であり、「神は救い」との意味です。「キリスト」とは、ギリシャ語で「救い主」(へブル語では、メシヤ)を意味し、彼の身分と職務をあらわす称号です。しかし、どちらもイエスの超越的な真の神としての本質を啓示するものではありません。
 では、イエス・キリストの本質を啓示する「御名」は何でしょう?イエスは、ご自身を何と名のられたのでしょうか?
 荒れ狂う嵐のガリラヤ湖でのできごとを思い起こしましょう。波を踏みしめ、弟子たちの舟に近づかれたイエスは、自然界を支配し、ただ一人、海の波を踏まれる王(ヨブ9・8)として、「恐れることはない、わたしは有る」と、ご自身を啓示されました(ヨハネ6・20)。
それは、まさしくモーセに啓示された御名であり、イエス・キリストこそモーセに現れた神が人間の姿をとって来られたお方であることの主張なのです。同じ神の御名を、イエスはいく度も、自分の名として宣言しておられます(ヨハネ4・26、8・24、28、13・19、18・5、マルコ14・62他)。
 ペテロが宣言した「イエス・キリストの名」とは、「私は有る」と主張された、イエス・キリストの神的本質のことであったのです。
 たしかに、イエス・キリストは、このできごとより2ヵ月程前に、十字架にかけられて死にました。というよりも、ユダヤ人たちが、「イエスは人間の分際で、自分を神と主張した」という、まさにその理由で、彼を死刑に定めてしまったのでした(ヨハネ5・18、19・7、他)。それは又、イエスご自身の側から言えば、自分がその本質において神ご自身であるという、この主張に命をかけられたと言うこともできるのです(マルコ14・62)。


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