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聖イエス会待望教会、主の十字架クリスチャンセンター

3名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 17:31:19
聖イエス会聖職者 参考資料・教材
聖イエス会資料集・プリント集・書物よりそのまま引用(古い分)
「ほほえみ」の秘訣は?
質問 病気の中でも、逆境の中でも、いつもほほえみ、明るく穏やかな方がおられました。
その方が、クリスチャンであることを知りました。その秘訣は何でしょうか?
お答えします
 ものごとが順調に進んでいるときに、明るく振る舞うことは易しいことです。けれども、悲しいことやつらいことに出会うとき、わたしたちは人が変わってしまったように暗くなってしまいます。なぜでしょうか。それは自分の中に、喜びの原因となるものを持っていないからです。悲しいことやつらいことの中でも、しおれることなく明るさを保ち続け、さらに周囲の人に喜びを分かち合うためには、心の中に大きな太陽のような光源を必要としますね。

《喜びの手紙》
 新約聖書のなかに「喜びの書簡」と呼ばれている手紙があります。パウロというキリストの使徒がピリピという町に住むクリスチャンに宛てて書いた手紙です。わずか四章からなる短い文書ですが、「喜び」とか「喜ぶ」という言葉が十六回も出てきます。この手紙は、彼が迫害を受け、ローマで牢獄につながれていたときに書かれたものです。それを思うとき、「喜び」という言葉が繰り返し出てくることに、驚きを禁じ得ないのです。
 一体、パウロのどこから「喜び」がわき上がってくるのでしょうか。外面的には何の希望も見いだすことのできない状況でした。また、彼自身の家柄や経験から出たものでもありません。それは彼の心の中に宿られ、彼の新しい人生の基となった、「いのちなるキリスト」にほかなりません。パウロはこのキリストに、自分の生も死もすべてを委ねたのです。パウロは神の愛に満たされていました。それで、自然に彼の中から喜びがあふれ出たのです。こうしてローマ皇帝の親衛隊の間にも、キリストの福音は広まっていったのでした。

《ほほえみの聖徒》
 聖書のみ言葉に「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5・16)とありますがYさんも、苦しみの中で喜びを輝かせたひとりでした。女学生時代に脊髄カリエスで大喀血をし、七十八本のカンフル注射によって、どうにか命をとりとめました。その時「神は愛なり」との神の“御名”が心の中からわき上がり、喜びと平安を感じました。それから三十年、ベッドから離れることのできない生活の中で、訪れる人に笑顔で接することを心に決めて、実行されたのです。彼女の周りには、いろいろな人が訪れ、心の悩みを打ち明けていきました。彼女の笑顔によってキリストに導かれた人は、百名を下らないと言われています。こうして、彼女のベッドから喜びの輪が広がっていったのです。
 起伏のある人生の旅路において、喜んでばかりいられないというようなこともあるでしょうし、許せない人もあるでしょう。そして、思いわずらうこともあります。その中で喜びの人となる秘訣はYさんのように、「神は愛なり」の“御名”によって、キリストを心の中に宿すことです。心の中に宿られたキリストは、「喜びの原動力」です。さらに、困難に直面し、思い悩む時には、すべてを益に変えて下さる神に祈ることです。そして、どんな時にも「ほほえみ」を忘れないこと。これが「喜びの人」となる秘訣です。
 最後に、聖書の言葉をプレゼントしましょう。
 「あなたがたは、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、……いのちの言葉を堅く持って、……星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ人への手紙2・15)
以上 聖イエス会資料集・プリント集・書物よりそのまま引用(古い分)

4名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:12:33
聖イエス会聖職者 参考資料・教材
聖イエス会資料集・プリント集、書物(古い分)よりそのまま引用
霊父宣教の50年 ローマ、エルサレムまで
 信州有明時代(聖イエス会誕生)
執筆者:大槻霊母様
《花嫁の装い ……姉》
 一九四四年(昭和十九年)十二月二日、隣組の人々に見送られ、数々の思い出を残して信州に向け高浜を出発いたしました。…(五年生)のクラスの子供達が担任の先生に引率されて、線路の沿道に整列して見えなくなるまで手を振って見送ってくれましたのが印象に残っております。…三年生、…一年生、…三歳でございました。
 その日夕方福井着、メソジスト教会牧師に迎えられ、その教会に着きました。翌日の聖日礼拝は、主人が御用をいたしましたが、その日、初めて、なつかしい……姉にお会いすることができました。
 「我は命のパンなり」と、……師と同じ御名によって聖霊を拝領された……姉のお顔は聖なる雰囲気が漂い、マリヤ様にお出会いしたような心地がして、エリサベツのように聖霊の躍動を覚えました。マリヤ様が受胎告知をお受けになられた直後、ユダの町に洗者ヨハネの母エリサベツを訪問されあいさつをされるや、エリサベツの胎内の子がおどり、彼女は聖霊に満たされ叫んで言いました。「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」(ルカ1・42〜45)と、私も共に心からの祝福を送りました。
 「私は本当に、地上におりますのか、天上におりますのか、わからないのでございますよ。洗濯をしておりましても、まるで湯気の中でむされているように神様の愛のみが私を包んでおります。私の心も主を思うことのみでいっぱいでございます」と、満ちたりたお顔でおっしゃいましたが、まことに…姉の霊魂は清澄な水晶のように輝いてキリストを反映しておられ、すでに主のお望み通りの花嫁の装いが全備されているように思われました。
《荒涼…安曇野の冬》
 福井教会で二日間、幸いな時を過ごし、四日福井を出発、途中、長野と穂高で一泊。六日の朝穂高の信者さんのお家の二階の窓を明けた途端、白凱たるアルプスの山々が眼前にそびえ立ち、その迫力に思わず「あっ!」と叫び、はじめて見る雄大な光景に圧倒されました。その日、穂高から大糸南線にてあずみ追分にて下車、徒歩にて三十分ほどで南安曇郡有明村土場に着きました。そこは見渡す限り荒涼たる枯れ野でございました。(現、穂高町有明区立足)
 はるか彼方にそびえ立つ北アルプスの偉容は壮大であり、また神秘的でありましたが、その裾野に広がる高原の村、安曇野の冬は、私どもにとってはなんと荒涼としたきびしい風景

5名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:13:19
だったことでしょう。生きとし生けるものすべてが息をひそめて活動を停止しているかの心地がいたしました。田も畑も凍てついて、丹波や、高浜の農村風景とは全くイメージを異にしていました。青いものは何も見当たらず、雑草すらも枯れ切っていました。このあたりは冬の間、畑に野菜をおいておくことはできず、全部取り入れ、当座のものだけ少しだしておき、他は全部室に入れて貯蔵しておくのだということでございました。冬の長いこの地方では、春になると農家でも野菜が不足するとのことで、そう簡単に他人に分けることはいたしません。「もう一か月早く来れば何とかなったのに」と、言われました。農村で生活して野菜を入手できないとは大きな誤算でありました。
《有明黙想庵》
 お借りした家は、屋根はトタン葺きでしたが、三百年も昔の家だとのことで、長年手を入れていない、荒れ放題の家でございました。家の前と裏に、きれいな小川が音を立てて流れていましたのは大きな喜びでございました。近所の家々の屋根は、へぎ板で葺いている家が多く、手ごろの石がいくつも載せてあるのに驚きました。
 一人住まいの家主のおばあさんは、お体が弱く、冬の間は穂高の親戚の家にて過ごし、春になれば帰って来られるとのことでした。主人はこの家を「有明黙想庵」と名付け、細い木切れに書き入口の柱にかけました。道路に近い土蔵の壁にも「黙想庵」と記しました。
《わが助けは……》
 土場は有明村の北のはずれで、北安曇郡との境のまことにさびしい寒村でございました。村役場も配給所もお店屋も、すべて村の中央にありまして往復二里(八キロ)ほどございました。
 このような所で、この冬どうして暮らしていくのだろうかと、相談するいとまもなく、主人は一日おいて八日には再び関西方面の聖会に出かけて行きました。「行ってくるよ」と手をあげて出て行く後ろ姿を見送りながら涙もでませんでした。荒野にほうり出された感じがいたし、ただ唖然としておりました。
 三人の子供は有明国民学校に転校いたしました。学校は信濃富士といわれている有明山の麓にございました(現在は移転して残っていません)。
 北アルプスを背景にそびえ立つ有明山の容姿はまことに美しく創造者の御手の業をたたえずにはおられませんでした。
「われ山にむかいて目をあぐ。
わが助けは、いずこより来たるや。
わが助けは、天地(あめつち)を造りたまえる
エホバより来たる」
(詩篇121・1〜2、文語訳)
 全能者に対する信仰が油然とわき上がり、喜びにみたされました。
 「望みて喜び、患難(なやみ)にたえ、祈りをつねにせよ。」(ローマ12・12文語訳)このみ言葉は、私の信仰生活のモットーでございます。

6名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:13:53
 見えぬ者を見ているかのように信じて忍びとおしたモーセや、世々の聖徒の信仰にならって全能者にすべてをゆだね、信頼していこうと、決意を新たにいたしました(へブル12・27参照)。
《帰ってこない……》
 有明山を目当てに、子供を連れてはじめて学校にまいりました時は、目の前に山が見えているのに、行けども行けどもなかなか学校にたどりつけません。往復二里(八キロ)のこのさびしい野道を通学することは、幼い子供達にはきびしすぎると思いましたが、「村の子供達も通っていることだから、慣れれば大丈夫よ」とはげましながら元気に歩きました。
 子供をそれぞれ担任の先生に託して私は先に帰りましたが、その日の夕暮れになっても……だけ帰ってまいりません。近所の子供達にたずねてもだれも知らないと申しますので、大騒ぎとなりました。学校に問い合わせても、子供は一人も残っていないとのことです。あたりが全く暗くなってから連絡がありました。こちらの土場とは全然方向の違う所に土場という部落があり、そこの子供達に連れられて行ったところが、わが家が見つからず途方にくれて、そこでも大騒ぎとなり、再び学校まで連れて行かれ、幸い担任の先生が宿直だったので、自転車に乗せて送りとどけて下さいました。このあたりは非常に視野の広い高原でありますが、林もあり、細い道がたくさんあって、どこからでも有明山が同じ姿で見えるので迷いやすく、ある時、迷子になった児童が凍死したとのことでございました。
《燃料「流れ木」》
 信州で生活するには、満州と同じように、まず何よりも燃料を確保しなければ生きて行けないことがわかりました。朝目を覚ましますと、夜具のえり元がかちかちに凍っていました。はく息が凍るのです。また、朝起きたてに台所の鉄の火箸を持ったとたん、くっついてはなれなかったり、家の中の水がめの水が凍るなどいろいろのことを経験いたしました。ある日、囲炉裏端で、どこで焚き木を買えばよいのか、ふと思案にくれていました時、「薪いらないかね!」と声がして、一人の老人が、手ごろに割った薪を二束売りに来てくれました時は涙が出るほどうれしく、感謝いたしました。また、家主のおばあさんがご自分が少々蓄えておられた炭を、こたつ用に使ってもよいと、おっしゃって下さり、本当に助かりました。このあたりの農家は持ち山のある人は少なくて、薪を売るようなことはしないそうです。一体、この村の人々の燃料は何なのか不思議に思っていましたが、その疑問の解ける日がきました。農家の周囲の軒下に白っぽい材木がうず高く積みあげてあります。これは「流れ木」というのだと教えられました。このあたりでは貴重な燃料であります。
 昭和二十年の初夏のころ、大雨が降り続き豪雨となり、大洪水となりました。大河は氾濫し、有明高原一帯が大海のようになりました。その時、アルプスから怒涛のように流れて来る濁流と共に無数の大木がものすごい勢いで流れてまいります。雨が小やみになるのを見計らって村中総出でこの流れ木を拾うのです。男も女も、物々しい出で立ちで、太い縄をしっかりと腰に結びつけ、長い鳶口を持って出かけます。くじをひいて、それぞれの縄張りを決めて、仕事にかかりますが、勇敢な男の人は、大きな流れ木に飛び乗り、岸から綱で引き

7名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:14:25
寄せてもらっていますが、大きな叫び声をあげて、鳶口を上手に使って必死で大木を引き寄せている光景は、それはまことに命がけの仕事でおそろしくさえ思いました。遠方から眺めている私共の近づける場所ではございませんでした。寒い国に住む人々の生きることのきびしさを目のあたり見ました。家主のおばあさんは「私の家は男手がないから私が大木に飛び乗ったものですよ」と言っておられました。ようやく洪水がおさまり、縄張りが解除されると、私共はその残りの落ちこぼれを拾いに行きました。
 長い間山中で切り倒されて埋もれていた木は皮が剥がれ堅い部分だけ残り白骨のようになっています。よく乾かして使いますと、火力が強くてよく燃えます。まことに貴重な燃料でございました。天気のよい日には子供達と共にリュックを背負って、大河の上流の松林の中の河原に拾いに行きました。
 さて主人の留守中、いろいろのことを経験し、主に守られて無事に過ごすことができましたが、十五日に帰宅いたしました主人の顔を見てほっといたしました。
 十二月二十五日、信州ではじめて迎えたクリスマス。非常時にふさわしく、二十五、二十六の二日間、黙想会をいたしました。近在の人々も泊まりがけで集まってこられ、きびしい昭和十九年の最後をしめくくるにふさわしい幸いな黙想会でございました。そして主人は年末まで近在のクリスマス集会に出かけて行きました。
《新年有名黙想会》
 いつ終結するかわからない戦争の泥沼の中で昭和二十年を迎えました。
 「今より、我は主なり」との標語を与えられ、一月一日から三日まで、新年黙想会が行われ、穂高の人々や、近在からの泊まり客もあり、戦時中のこととて真剣でございました。御名によって永遠の命を得しめるというこの福音の流れを、日本の屋根といわれる信州から日本全土に押し流していこうという意気込みで有明黙想庵がつくられたのですから、しばしば黙想会が行われましたが、格別夏は多数参加され霊的香り豊かな集会でございました。新年有明黙想会が終わるや、主人は五日からの平塚聖会に出かけて行きました。
《助け合いの日々》
 信州での最初の冬は、不用意だったために、野菜の不足で顔がむくんだり、きびしい寒さのため冷え込んで…は腰が立たなくなって、一週間ほど寝込んだり、またキリスト教に対する偏見から、迫害を受けたり、子供にとっては大きな試練がしばしばございましたが、わが家では主人は留守がちながら、みんなで助けあい楽しい日々を送りました。聖書物語や聖人伝が唯一の読み物で、聖人達のお話をしたり、讃美歌を歌い、お祈りし、遊戯や紙芝居をして遊んだり、時には臼ひきの手伝い、また遠い道を配給物を取りに行ったり、だれも不平を言わず、仲よく過ごすことができました。
「野に咲く百合は骨折らず
つむがずとても育つなり
空の小鳥は種まかず
倉はもたねど糧に飽く

8名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:14:58
まず神の国を求めよ
さすれば恵みはいやまさん」
粗末な食卓の前で、声高らかに歌いお祈りしていただきました。近所の人々が「種もまかず、骨も折らずだってよう!」と、嘲笑したものです。
 待ちに待った春が訪れ、草が萌え出しましたころ、家主のおばあさんが穂高から帰って来られ、「さあ奥さん、野菜の種をまきましょう。芋の苗も植えましょう」といろいろ教えて下さいました。五月になると、桃も桜もまたいろいろの花が一斉に咲きだし、安曇野の姿は全く変貌いたしました。信州の自然界のすばらしさを見ました。神様はまことに公平であられ、きびしい冬を過ごした人々には他の地方の人にはわからない歓喜をお与えになります。子供達と共に野草をつみ、高原の松林で松かさや松葉を拾い、河原に流れ木を拾いに行きました。
 しかし一方では、戦争は日本を廃墟へと追い込んでいきました。

《……姉の最後》
 昭和二十年三月、大空襲で大東京は焦土と化し、続いて小都市に至るまで、爆撃を受け、都会は安全な所がなくなりました。主人はその中を求めに応じてどこまでも出て行きました。家を出て行く時は、天に指をさして、「次は天国で会いましょう」と別れました。
 五月十七日から二十日までペンテコステ聖会が福井で開かれ、続いて、山陽、中国、神戸、西宮等で聖会をいたし一か月ぶりで帰ってまいりました時は、西宮での集会中大空襲に会ったとのことで、無事に帰ることができて感謝いたしました。その帰途もう一度福井に立ち寄り、聖会(六月十一日から十三日まで)をいたしましたそうですが、それが……姉との地上での最後の出会いとなりました。
 七月十九日、福井が大空襲を受けたことが報じられました。またたく間に焦土と化し、惨憺たる光景であるとのことでした。数日後、福井教会の牧師が血相を変えて報告にいらして下さいました。それは……姉一家九名が、焼死されたとの報でした。一瞬、耳を疑いましたが、主人が「どのような最後でしたか」と伺いますと、「それはまことに英雄的な死です。防空壕の中で、猛火に包まれ、全員正座して手を合わせて死んでおられました」とおっしゃった瞬間、霊の目を天に向けた私は、頭上で…姉の霊魂が羽ばたくのを強く感じ、しばし心をうばわれてしまいました。そして私どもが尊敬いたしておりました満州時代の恩師、……
先生のお顔と…姉のお顔が重なり、殉教者が加えられたことを示して下さいました。「きょうなんじは、我とともにパラダイスにあるべし」(ルカ23・43、文語訳)と仰せられて、死の間際の悪人に天国を約束された主イエス様と同じように、まだ全き救いを得ていない、御主人、姉上、お子様達八人を抱きかかえて、とりなしつつ、天に連れて行かれたその燃える愛。
「愛は死のように強く……
最もはげしい炎です。

9名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:15:30
愛は大水も消すことができない、
洪水もおぼれさせることができない。」(雅歌8・6〜7)
 聖書のお言葉は……姉において、実証されました。一番幼いお子さんだけがお母さんの膝にもたれておられ、他の方は全員正座したまま、手を合わせ、従容として召されておられるお姿を見た人々は思わず手を合わせ「この人々は普通の人ではない。この人達は救われている人だ」と叫んだと言われています。実際、防空壕の中から歌声さえきこえてきたと、近所の方が証言しておられたとのことでございます。
 死に勝つ命、すべての人々にこの命を得させるために、…姉の霊魂は主とともに大空に羽ばたき、地の果てまでも駆け巡り、残り少ない恵みの時、救いの日を無駄にしてはならないと、警告を発しておられる心地がいたします。
《敗戦…》
 軍隊が駐留していた有明小学校に爆弾が投下されました。児童がまだ学校にいたので大騒ぎとなりましたが、幸いに爆弾はそれましたが近くの畑に働いていた人と川端で洗濯をしていた人が即死するという出来事が起こりました。田舎も安全ではなくなりました。ある日、信者の方が、「先生、この戦争どうなるのでしょうか。日本は一体いつまで戦争を続けるのでしょうか」とお聞きになったことがございました。「日本はドイツと同盟を結んでいるから危ないですよ」と、主人は一言答えていました。
 昭和二十年八月十五日、重大ニュースがあるといわれるので近所のラジオを聞きに行きました。それは、戦争終結を宣言される、天皇のおことばでございました。ラジオの前に正座して、ただ涙があふれるばかりでございました。しかしその時、神様の経綸の時の到来を痛切に感じました。「主よ、私どもは何をなすべきでしょうか」と心の中で祈りました。主人は飯田、山吹訪問中でございました。
 昭和六年から戦争という泥沼にのめり込んで以来十五年(十五年戦争と申します)、ようやく戦争が終わったと、いうことに関してはだれしも、ほっとしたことでしょう。しかし、十五年間の侵略戦争によって、何を得たのでしょうか。大日本帝国は崩壊し廃墟と化し、日本史始まって以来、初めての敗北を見ました。次々と有能な人々の戦死が報道されましたが、私どもの知人では、……兄(…牧師の父上)が南方で戦病死されたことが一番先に知らされました。急に火が消えたような心地がいたし、涙が滂沱と流れ、とどめることができませんでした。聡明な明るい好青年でいらっしゃいました。私の従兄妹達も戦死。そして私の弟も沖縄の激戦地で戦死。沖縄戦終結直前の六月二十二日であったとのことでございます。
青春のいのちはげしく燃えつきて
往きし健児らまたとかえらず
(言泉)
かえらじと言葉のこして往きし君
安らかに眠れさい果ての地に
(言泉、沖縄にて詠む)

10名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:16:09
かえらじと言葉のこして往きし子
は故郷に帰りぬ軽き箱にて
(霊母様??)
汝が帰り待ちつつ祖母もみまかり
ぬ戦終りてよろこび居しに
(霊母様??)
 敗戦! 張りつめていた弓がぷっつりと切れたように虚脱状態に落ち込んだ日本は、それ以来数年間混乱状態が続きました。物資の統制がなくなりますと、いよいよ生活は困難になりました。
 兵士の復員が開始され鉄道は混乱し、毎日毎日鈴なりの列車が走りました。入口の鉄棒にしがみついている人、上半身を窓に突っ込み、下半身は窓の外にぶらさがっている人々を乗せて汽車は走っていました。
 主人の伝道旅行もいよいよ命がけでございました。戦時中の姿のままでリュックを背負っての旅行が続けられました。留守を守る私の生活もなかなか忙しく、農繁期には臨時託児所の手伝いや、村有林の木の供出には村の人々と共に松の生木の大きなたばを三束ほど背負わせてもらって役場まで届けるのですが、足がもつれてなかなか先に進まず苦労いたしました。私にとっては重労働でございました。よくも背中の骨が折れなかったものだと、今思い出してもぞっといたします。そして、その木は一本も私共の手には入りませんでした。
 主人が在宅中は必ずどこからともなく、よく来客がございましたが、泊まり込んでなかなか帰らない方もございました。…兄が神戸から洗濯ものを入れた大風呂敷をかついで来られ大河で洗濯されたのもこのころでございますが、九月のはじめの黙想会に出席して帰って行かれました。主人の留守中は私が穂高の家庭集会に出かけてまいりました。栄光教会の……先生は、この穂高のグループの一員でございました。
 十二月二十五日、クリスマス有明聖会を最後にこの年のすべての集会を終え、かくて日本の歴史を変えた、敗戦の年、戦争永久放棄を誓った年、絶対忘れてはならない昭和二十年は過ぎて行きました。
以上 聖イエス会資料集・プリント集、書物(古い分)よりそのまま引用

11名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:16:42
聖イエス会聖職者 参考資料・教材
聖イエス会資料集・プリント集、書物(古い分)よりそのまま引用
◆聖イエス会誕生◆
 「我は全能の神なり」との標語の下に昭和二十一年を迎えました。そして一月五日、聖イエス会が創立されました。それは平塚新年聖会の最中でございました。
 「かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。おのが民をその罪より救い給う故なり。」
(マタイ1・21、文語訳)

 聖イエス会、この名の中に聖イエス会の使命が凝縮されています。
「わがしもべヤコブのために、
わたしの選んだイスラエルのために、
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたがたわたしを知らなくても、
わたしはあなたに名を与えた。
わたしは主である。」
(イザヤ45・4〜5)
 主は御名によって命を得させるこの福音を伝えるために、一つの群れを起こされました。しかも末の世に立てられたイスラエルの救い手なるクロスとして、重大使命を託されたことを悟りました。
 聖イエス会! 廃墟と化した焦土の中から、小さな若芽が萌え出ました。それはユダヤのベツレヘムの馬小屋の中にて呱々の声をあげられたイエス様にも似ております。
 「エッサイの株から一つの芽が出、
 その根から一つの若枝が生えて実を結び、
 その上に主の霊がとどまる。」
(イザヤ11・1〜2)
 当時のユダヤは、ローマの支配下にあって苦しみ、あえぎ、民衆は救い主を待ち望んでいました。その時、人知れず最も低いところにお生まれになられたイエス様。命の水の一滴もない人生に、命の水のわき出ずる源泉がお生まれになった。一人の女性マリヤの「成れかし」によって――。
 「神よ、我なんじの御意を行わんとて来たる。」(へブル10・7、文語訳)
 御子の御降誕の目的のすべてを理解されたマリヤはその重大使命達成のために、その御生涯をささげつくし、御子とともに十字架の道を歩まれました。
 「主よ、時がまいりました。満州で啓示されし重大使命を果たすために、この小さき群れが産声をあげました。私もマリヤにならって、この使命達成のために、すべてをおささげいたします。私の献身をお受け取り下さい」と祈りました。

12名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:17:16
 神のご経綸に参与する群れ、聖書の預言の一つ一つを成就するために選びを受けたこの群れが、御主の御期待に答え奉ることができますよう、祈りつつ今日に至りました。聖イエス会! 私はこよなく聖イエスを愛してまいりました。今より後も命の限り愛してまいります。

《会服、機関誌、会歌……》
 聖イエス会創立とともに着手しなければならないことが山程ございました。教会は神との出会いの場所ゆえ、神の御臨在なされるにふさわしい聖なる雰囲気を醸しだす礼拝堂でなければならない。また神に仕える聖職者は、聖なる雰囲気を持たねばならないゆえ、それにふさわしい会服を作らねばならないと、主人は毎日そのデザインに苦心いたしました。服装によって心の持ち方まで変わるものです。
 男子はローマンカラーに伝道者チョッキ、またはジレーをつける。あの昔の大工さんや火消しの着ていた胸当てのようなものでは困るから、ピンタックをつけて上品に仕様。むずかしかったのは女子の会服でございました。主人は長年、中国で生活いたしましたので中国の女性服の胸元のきりっと引き締まった感じが気に入っておりましたので、自分で図を書き衿の幅や胸元の形をいろいろと工夫いたしておりました。また、日赤の看護婦さんの制服のピンタックにヒントを得て前身頃にピンタックを入れること。ちょうどそのころ、わが家に滞在中の洋裁のできる方に試作していただき、私に着せて見て、あれやこれやと詮議して、まずこれでよかろうというわけで、私の母の形見の紋付きの黒ちりめんの羽織をつぶしてでき上がりましたのが現在の女子聖職者の会服でございます。三十八年を経た今日でもなお、ニュールックとお思いになりませんか、いかがでございましょうか?
 次は機関誌を「言」と名付け、伝道新聞を「葡萄樹」と名付けました。また、会歌を作りました。そして次には神学校を作らなければならないと言いだしました。「へぇ!」と、私はこれにはびっくりいたしました。何事も、あんたはだまって追(つ)いてきなさい、という生き方に馴れていた私も、ちょっと不安になり、四十歳になったばかりの伝道以外に何の経験もない人が神学校を作るとは、ちょっと無謀な気がいたしまして、「お父さん大丈夫ですか」と、申しますと、「大丈夫だよ。この福音は、ローマ、エルサレム、地のはてまでも伝えなければならない。僕一人では不可能である。今のうちに若い伝道者を養成しておかなければ間に合わないよ」と、確信をもって申しましたので、私はその言葉を信じました。そして神学校建設のため、持てるすべてをささげようと覚悟を定めました。
《…は父の故郷へ……》
 さて、戦争が終わったからと申しましても、キリスト教に対する偏見がなくなるものではなく、負けたことがこちらの責任でもあるかのように、スパイだの何だのと言われて、子供達にとっては毎日学校へ行くことが恐怖で、いろいろといいきかせて、お祈りし、やっと学校へ送り出したあと、ほっとしてどうか無事に帰って来ることができるようにと、祈りました。しかし、これ以上有明小学校へ通学させることは無理でありかわいそうだと思いました

13名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:17:54
ので、穂高の知人のお骨折りによって、穂高小学校に…を転校させました。有明小学校の先生は、何も知らなかったと驚いておられました。
 四月から――は――高等女学校に入学し、――は穂高小学校に入学いたしました。そこで――はどうするかということになり、――はとても一人で有明小学校へは不安で行けませんので、白道路のおじいちゃんの所へ行きたいと言いだしました。中国から帰りました時しばらくお世話になり、また高浜時代は時々連れて行き、かわいがってもらいましたので、それが一番よい方法だと主人は申します。白道路の、主人の実家の人達も快く承諾してくれましたが、私は決心がつきかね、少々迷いました。――は人なつこい性格で、順応性もございましたので、大丈夫だと主人は申しましたが、小学校三年生で、八歳になったばかりの幼い子を、引き受けて下さる人々にも迷惑をかけるでしょうし、家族と別れて暮らした経験もございませんので、手ばなしで喜ぶわけにはいきません。本人はそんなことはもうおかまいなく、「おじいちゃんとこへ行く」とはしゃいでおります。他にも方法もございませんので、すべてをおゆだねいたしました。
 四月十九日、平塚にて、聖イエス会発会式がございますので、その時平塚まで連れて行き、物部から出席される先生に連れて行っていただくことになりました。
 出発の前日、家族だけの送別会をいたしました。お祈りし、歌をうたい、お遊戯やおどりをして、最後に、当時よく歌われた疎開の歌の替え歌を作り
「……は父の故郷(ふるさと)へ、
遠い山家(やまが)のふるさとへ
みんなと別れていきました」といっしょに歌って、みんなで泣きました。
物部の学校は、白道路(現在、綾部市)から相当遠く、教会も物部にございましたが、日曜には必ず教会学校に行くように、白道路の父達にもこれだけはよくよくお願いいたしましたので、休まず教会学校へは行かせてもらいました。朝早くお弁当を作ってもらって一人で遠い教会へ行きました。主人が聖会にまいりました時は一緒に教会に泊めていただきました。久しぶりにお父さんに出会うと、うれしいのと、はずかしいのといろいろの思いが入りまじって、かくれて泣いたと、申しておりました。
《御幸村に神学校》
 五月中ごろから六月中ごろまで、関西、山陽、中国方面の聖会を終え一か月ぶりで帰ってまいりました主人が、「いよいよ神学校建設が決定した。福山市外の御幸村に土地が与えられた」と上機嫌で申しました。御幸村中津原の――姉(当時五十三歳)が御自分所有の最上の土地を神学校のためささげて下さったのでございます。
 世界に最初の原爆が投下された広島県から、愛の爆弾、本当の原始福音、御名の命の福音が、日本全国――ついにはエルサレムにまで伝えられるというビジョンはいよいよ現実となって活動は開始されることになりました。九月に上棟式を終えて信州に帰ってまいりました主人は、「御幸村の田圃の中に空高く十字架が掲げられた時は、泣けて泣けて涙をとどめることができなかった」と申しておりました。

14名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 20:18:30
 八月五日から十八日まで、有明黙想会が行われました。この時は、信州の人々はもちろんのこと、関東、北陸方面からも多数参加されました。――先生との出会いもこの時からでございます。ルツ記の霊解を中心とした、霊的かおり豊かな黙想会でございました。あのころは食糧難時代でございましたので、食事のやりくりには苦労をいたしましたが、近所の農家に頼み込んで、かぼちゃをたくさん買い込み、大きな鍋にあふれるばかりに煮込み、最高のご馳走だと、喜んでいただきました。この聖会の時八名の受洗者がございましたが、一緒に暮らしていた家主のおばあさんも受洗されました。この方は、若くして夫と死別し非常に苦労されたようでしたが、お体も弱く、近所の人との交際もあまりなく、人間不信に落ち入っておられましたが、本当に頼りになるお方、主イエス様を見いだい喜んでおられました。
 御幸修道学院完成とともに私どもは、再び新しい任地に向かって旅立つことになりました。
 二か年間の信州での生活は、まことにきびしいものでございましたが、それにも増して神様のいつくしみは深く、いかなる困難の中にあっても、信頼して余りあるたしかな存在であられる神の現存の中に生きることの喜びを味わい、どんな境遇の中にあっても足ることを学び、ピリピ人への手紙第四章十一節から十三節のお言葉の真実性を体験いたしました。そしてパウロとともに、「私たちは私たちのいっさいの苦悩の中で、慰めに満たされ、喜びにあふれているのです」と、お証させていただく次第でございます。

《信州を発つ》
 昭和二十一年五月二十二日、宗教法人設立登記を完了し、聖イエス会は法的に一教団として誕生いたしました。
 「キリスト者はキリストのごとく教会は使徒行伝のごとく」との標語のもとに無から発足いたしました。
 十一月二十二日には東京中央教会(ソフィア教会の前身)の献堂式が挙行せられ、主の栄光を拝し、首都に、永遠の生命なる活けるキリストを、御名によって内住せしめる福音の第一声が放たれました。
 十二月十五日、私共はいよいよ信州を発つことになりました。
 前夜から降りだした雪は、いよいよはげしく降り続き、豪雪となり、五歳の――の腰まで埋まる程のだれの足跡もついていない雪原の中を、それぞれリュックサックを背負い、子供達も必死になって言葉もなく、黙々として遠いあずみ追分けの駅に向かって急ぎました。
 主の御跡に続く我々の生涯はつねにきびしいものであることを心に深く銘記しつつ進みました。
 穂高で下車し、その日は駅前の信者さんの家で一泊し、翌朝早く出発いたしました。長女は女学校の期末試験を終えるまで、そのお宅にお世話になることになり、――と――を連れて、四名、山陽に向かいました。


後期――私は戦時中の出来事を長々と書きましたが、戦後幾年かを経て、シベリヤに、五十七万五千人の日本人が捕虜になり、五万五千人が餓死したという事実を知った時、私どもの体験した困難、苦労は、ものの数ではないと、肝に銘じて悟りました。

以上聖イエス会資料集・プリント集、書物(古い分)よりそのまま引用


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