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聖イエス会奈良スミルナ教会、主の十字架クリスチャンセンター

14名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 21:17:40
ので、穂高の知人のお骨折りによって、穂高小学校に…を転校させました。有明小学校の先生は、何も知らなかったと驚いておられました。
 四月から――は――高等女学校に入学し、――は穂高小学校に入学いたしました。そこで――はどうするかということになり、――はとても一人で有明小学校へは不安で行けませんので、白道路のおじいちゃんの所へ行きたいと言いだしました。中国から帰りました時しばらくお世話になり、また高浜時代は時々連れて行き、かわいがってもらいましたので、それが一番よい方法だと主人は申します。白道路の、主人の実家の人達も快く承諾してくれましたが、私は決心がつきかね、少々迷いました。――は人なつこい性格で、順応性もございましたので、大丈夫だと主人は申しましたが、小学校三年生で、八歳になったばかりの幼い子を、引き受けて下さる人々にも迷惑をかけるでしょうし、家族と別れて暮らした経験もございませんので、手ばなしで喜ぶわけにはいきません。本人はそんなことはもうおかまいなく、「おじいちゃんとこへ行く」とはしゃいでおります。他にも方法もございませんので、すべてをおゆだねいたしました。
 四月十九日、平塚にて、聖イエス会発会式がございますので、その時平塚まで連れて行き、物部から出席される先生に連れて行っていただくことになりました。
 出発の前日、家族だけの送別会をいたしました。お祈りし、歌をうたい、お遊戯やおどりをして、最後に、当時よく歌われた疎開の歌の替え歌を作り
「……は父の故郷(ふるさと)へ、
遠い山家(やまが)のふるさとへ
みんなと別れていきました」といっしょに歌って、みんなで泣きました。
物部の学校は、白道路(現在、綾部市)から相当遠く、教会も物部にございましたが、日曜には必ず教会学校に行くように、白道路の父達にもこれだけはよくよくお願いいたしましたので、休まず教会学校へは行かせてもらいました。朝早くお弁当を作ってもらって一人で遠い教会へ行きました。主人が聖会にまいりました時は一緒に教会に泊めていただきました。久しぶりにお父さんに出会うと、うれしいのと、はずかしいのといろいろの思いが入りまじって、かくれて泣いたと、申しておりました。
《御幸村に神学校》
 五月中ごろから六月中ごろまで、関西、山陽、中国方面の聖会を終え一か月ぶりで帰ってまいりました主人が、「いよいよ神学校建設が決定した。福山市外の御幸村に土地が与えられた」と上機嫌で申しました。御幸村中津原の――姉(当時五十三歳)が御自分所有の最上の土地を神学校のためささげて下さったのでございます。
 世界に最初の原爆が投下された広島県から、愛の爆弾、本当の原始福音、御名の命の福音が、日本全国――ついにはエルサレムにまで伝えられるというビジョンはいよいよ現実となって活動は開始されることになりました。九月に上棟式を終えて信州に帰ってまいりました主人は、「御幸村の田圃の中に空高く十字架が掲げられた時は、泣けて泣けて涙をとどめることができなかった」と申しておりました。

15名無しの伝道さん:2018/03/04(日) 21:18:20
 八月五日から十八日まで、有明黙想会が行われました。この時は、信州の人々はもちろんのこと、関東、北陸方面からも多数参加されました。――先生との出会いもこの時からでございます。ルツ記の霊解を中心とした、霊的かおり豊かな黙想会でございました。あのころは食糧難時代でございましたので、食事のやりくりには苦労をいたしましたが、近所の農家に頼み込んで、かぼちゃをたくさん買い込み、大きな鍋にあふれるばかりに煮込み、最高のご馳走だと、喜んでいただきました。この聖会の時八名の受洗者がございましたが、一緒に暮らしていた家主のおばあさんも受洗されました。この方は、若くして夫と死別し非常に苦労されたようでしたが、お体も弱く、近所の人との交際もあまりなく、人間不信に落ち入っておられましたが、本当に頼りになるお方、主イエス様を見いだい喜んでおられました。
 御幸修道学院完成とともに私どもは、再び新しい任地に向かって旅立つことになりました。
 二か年間の信州での生活は、まことにきびしいものでございましたが、それにも増して神様のいつくしみは深く、いかなる困難の中にあっても、信頼して余りあるたしかな存在であられる神の現存の中に生きることの喜びを味わい、どんな境遇の中にあっても足ることを学び、ピリピ人への手紙第四章十一節から十三節のお言葉の真実性を体験いたしました。そしてパウロとともに、「私たちは私たちのいっさいの苦悩の中で、慰めに満たされ、喜びにあふれているのです」と、お証させていただく次第でございます。

《信州を発つ》
 昭和二十一年五月二十二日、宗教法人設立登記を完了し、聖イエス会は法的に一教団として誕生いたしました。
 「キリスト者はキリストのごとく教会は使徒行伝のごとく」との標語のもとに無から発足いたしました。
 十一月二十二日には東京中央教会(ソフィア教会の前身)の献堂式が挙行せられ、主の栄光を拝し、首都に、永遠の生命なる活けるキリストを、御名によって内住せしめる福音の第一声が放たれました。
 十二月十五日、私共はいよいよ信州を発つことになりました。
 前夜から降りだした雪は、いよいよはげしく降り続き、豪雪となり、五歳の――の腰まで埋まる程のだれの足跡もついていない雪原の中を、それぞれリュックサックを背負い、子供達も必死になって言葉もなく、黙々として遠いあずみ追分けの駅に向かって急ぎました。
 主の御跡に続く我々の生涯はつねにきびしいものであることを心に深く銘記しつつ進みました。
 穂高で下車し、その日は駅前の信者さんの家で一泊し、翌朝早く出発いたしました。長女は女学校の期末試験を終えるまで、そのお宅にお世話になることになり、――と――を連れて、四名、山陽に向かいました。


後期――私は戦時中の出来事を長々と書きましたが、戦後幾年かを経て、シベリヤに、五十七万五千人の日本人が捕虜になり、五万五千人が餓死したという事実を知った時、私どもの体験した困難、苦労は、ものの数ではないと、肝に銘じて悟りました。

以上 聖イエス会資料集・プリント集、書物(古い分)よりそのまま引用


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