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ヨーロッパの軍隊

440モノホン:2012/05/20(日) 07:01:35
陸軍
第88師団(峯木十一郎中将) - 編制定員は20,388人
配属部隊:第351〜第353特設警備大隊、第301〜第306・第308特設警備中隊、第301〜第303特設警備工兵隊
宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊 - 西能登呂。15cmカノン砲4門。
配属部隊:第307特設警備中隊
豊原地区連隊区司令部(柳勇少将) - 対ソ開戦後は第88師団指揮下に編入。
豊原地区第1〜第9特設警備隊 - 計3628人を防衛招集。
海軍
北東航空隊樺太地区隊(久堀通義大尉) - 敷香基地、大泊基地。地上要員のみ。
大湊防備隊の一部 - 主に基地防空部隊。うち敷香に12.7cm連装高角砲3基、20mm連装機銃5基[6]。
宗谷防備隊の一部 - 砕氷艦「大泊」「千歳丸」、宗谷防備衛所、西能登呂防備衛所。
豊原海軍武官府 - 武官:黒木剛一少将[7]。
国境警察隊 - 重機関銃8丁、軽機関銃10丁、小銃141丁。
航空部隊
陸軍第1飛行師団 - 在北海道。稼働航空機44機。
民兵・自警組織
国民義勇戦闘隊 - 樺太鉄道連合義勇戦闘隊ほか、職場や地域ごとに編成。
その他 - 樺太庁管轄の防空監視隊(20歳前後の女性を主力)

舞鶴鎮守府(司令長官:田結穣中将)
舞鶴鎮守府護衛部隊 - 第105戦隊(駆逐艦「響」、海防艦6隻(うち3隻欠))、第31海防隊(海防艦7隻)
第51戦隊 - 訓練中の新造海防艦。
大湊警備府(司令長官:宇垣完爾中将)
津軽防備部隊 - 大湊防備隊、駆逐艦「柳」、同「橘」、海防艦若干ほか。
宗谷防備部隊 - 宗谷防備隊、第104戦隊(海防艦6隻)ほか。
第903海軍航空隊
第901海軍航空隊(海上護衛総司令部直率)
輸送船30

戦闘序列 [編集]関東軍総司令官 山田乙三 大将(14期)

第一方面軍:司令官 喜多誠一 大将(19期)
第3軍
第5軍
直轄部隊
第三方面軍:司令官 後宮淳 大将(17期)
第30軍
第44軍
直轄部隊
第4軍
第34軍
関東軍航空部隊
戦闘飛行部隊
教育飛行部隊(独立第101教育飛行団)
陸軍士官学校満州派遣隊
兵員約70万(詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明)、火砲約1,000門(歩兵砲・山砲などすべてを含む)、戦車約200両、航空機約350機(うち戦闘機は65機。練習機なども含む)

第五方面軍 樋口季一郎 中将

南樺太
第88師団:司令官 峯木十一郎 中将
千島列島
第91師団:司令官 堤不夾貴 中将
駐蒙軍

441:2012/05/26(土) 21:57:10
山本五十六大将
はい,いよいよミッドウェー海戦七〇年を忌するまで僅かとなりました。
今回は最近トップクラスに上り詰めたZETMANより,すてきな著名人を呼び寄せました。
ZETMANより神崎 人さん,天城 高雅さん,天城 小葉さん,天城 光鎧さんに来ていただきました。

はい皆さんどうぞよろしくお願いします。
(一同のお辞儀の声)

ではいろいろと質問が軍令部や市民より届いていますのでいくつかにお答え下さい。
(一同の承諾の声)

442:2012/05/26(土) 22:34:16
質問1
天城光鎧さんにこの様な意見が出ています。
『天城光鎧さんは千日デパート火災の現場に居合わせていたそうですが本当ですか?』
これについては実際いろいろと言われていますが,N・E・Tプロジェクト起動になにをしていたのでしょうか?

天城光鎧談
はい,そうですね。この時私はN・E・Tプロジェクトを設立させて間もない頃でした。あの頃はまだ公衆電話や駐留米軍とのいざこざが極々当たり前でしたからね。
その際に偶々大坂で人員募集をしていたんですよ。その時昼間に千日デパートに作業の合間に暇つぶしのために行ったんです。勿論火災が起きるのはその数時間後でしたからまだ火の手はありません。
デパートの中にキャバレーがあったんですが,その時添乗員と知り合いましてね。その後明日もまた来ますといって別れたんですよ。
それから私たちNETプロジェクト・・・・いや,この時はまだプロジェクトという言葉はありません。NET評議会といいましょうか・・・・。
すると,夜に当時はまだ珍しかったホテルに泊まっていたんです。すると,突然当たりが騒がしくなりましてね。急にデパートの方向に夜10時過ぎだというのに大勢の野次馬が走っていったんです。
その中にはまだ中川圭一が赴任してくる前の荒くれ者だった両津勘吉さんやまだ中学生の衛宮切嗣さんもいました。更に消防車が何十台も走っていきましてね。
我々もその方向に行ったら今日昼間に行った千日デパートがまさに炎上していまして周辺から無数の手が助けを求めていましたよ。その内ですが発狂した従業員が次々と煙に巻かれていきました。
その時,「ドサッ・ドサッ・ドサッ」と何かが落ちる音がしたんです。その時私の隣で切嗣さんの様子を見ていたアイリスフィール・フォン・アインツベルンさん・・・・この頃は小学生だったんですが急に何かを指したんです。
あちこちで悲鳴が聞こえました。そこら一帯には無数の肉片や人肉が散乱していて上から落ちてきた従業員やキャバレーの人々の無惨な姿でしたよ,両津勘吉さんはその中で当時の大阪府警の面々や戸塚さんを総動員して死体の回収作業をしていました。
私も一度死体の解剖をしたことがありますので戸塚さんから応援を要求されました。私もいそいで人肉や臓器などを回収しましたよ。ふとその中に半分契れた顔がありましたがよくよく思えば今日昼間に会ったキャバレーの添乗員でした。
この時,両津勘吉さんは大阪府警が相変わらず入れ墨をして人々から敬遠されていることをしばいてきてほしいと警視庁から要求され来ていたそうですが後から本田速人さんも追いついてきましたよ・・・・・。
それから三日三晩,周辺は立ち入り禁止のロープが張られ火災も収まりました。なんでも建築基準法を無視した構造で非常階段や防火扉が手抜きだったとか・・・・。また切嗣さんはこの件を知るが否や中学生という立場を無視してデパートの管理責任者を付け狙っていたとか・・・・。
後から聞いたんですが昔千日あたりにあった刑場で処分された人とこの火災で死んだ者の数が一致するんです。彼らに呼ばれたんでしょうか?特に凄惨だったのは一酸化中毒死より落下して死んだ人が遥に多かったそうです。
それから何年か経った後,デパートの後にプランタンなんばが出来たんですがね。その頃はもうN・E・Tプロジェクトも成り立ち態勢が整ってきたころです。そこで買い物をしている時にふと誰かに呼び止められたんです。
恐る恐る振り向くとそこにはあの時無惨にも四散したキャバレーの添乗員があの昼にみた時と同じように微笑んで立っていました。部下には霊感があるものがいましてね。その時彼は「あそこに焼けた靴を履いた男がいる!」・「影にこちらに後ろを向けて立っているボロボロの人がいる」とかいろいろ話すんです。
もちろん私にだけそのキャバレーの添乗員が見えたんです。襲うわけでも恨むわけでもなく「私を集めてくれてありがとう。」とだけ行ってトボトボと歩いて行きます。それ以来プランタンなんばからビックカメラに変化するまで何度も訪れましたよ。
その際に上から焼け爛れた顔が覗いていたりボロボロの店員が彷徨っている光景を見ていますが,彼らは死んだことに気付かずデパートからビックカメラに変わった今でも営業を続けているのでしょうか。両津勘吉も今でもあそこにいく都度手を合わせています。
今は偶にしかいきませんが見れる日と見られない日があるようですね。これが私の変わった人生の一部だったりします。

443名無しさん:2013/06/29(土) 22:46:06
e^-5

444名無しさん:2013/06/29(土) 22:46:39
e^-


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