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無差別級

1 闇夜の鮟鱇★ :2003/11/27(木) 17:34 HOST:122.net061211188.t-com.ne.jp
このスレッドは『万有サロン』という名にふさわしく、
あらゆる意見を語り会う為の場にしたいと思います。
もしよろしければ、私のサイトへの疑問や感想もここにお書き下さい 。

84 闇夜の鮟鱇★ :2011/07/13(水) 09:36:35 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(1/4)

そろそろ夏休みということで、今回は少し高級な話をしようと思います。
もっとも、いつも話していることだって結構、高級な話なんですが、
その辺のことは、もうお分かりの方は既にお分かりですよね。(^^;)
さて、例の『ごきげんよう』の番組で小堺一機が、
宇宙の外側の話をしていたのは、確か二年前の夏頃でしたかね。

書こう書こうと思っている内に色々とゴタゴタが続いて、
とうとう、こんなに遅くなってしまいました。
その時『宇宙が丸い形をしている』とか言う話題に関して、
『ならその外側には何があるんだろう』と疑問を呈していた分けですね。
で、今回のテーマは、その場合、真の問題は何かということなんです。

その場合、何が問題かというと、本当の問題は宇宙の構造にではなく、
『そういう疑問を出す脳味噌』の方にあるんですね。(^^;)
今では既に使い古されて、手垢のついた言葉になりましたが、実は、
『パラダイムの転換』ということが、この問題の核心にある分けなんです。
別の言い方をすると『そういう疑問を出す脳味噌では、未だに、
パラダイムの転換が済んでいない』ということになります。


で、問題の出発点は『空間が歪んでいるという状況を理解することが、
我々の脳味噌では、大変に困難である』ということにあります。
でも、それは素人に限らず、専門家にしても全く同じことなんですね。
つまり、物理学者にしても数学者にしても、そうした状況を、
数学的な類推に頼って理解しているに過ぎません。

例えば平面にコンパスで半径rの円を描くと、その面積が、
πr^2になるということは、最近は中学位で知ってますかね。
(ここで『r^2』と書いたのは、rの二乗という意味です。)
そこで今、仮にサッカーボールの表面に円を描くとどうなるでしょうか。
その場合の面積がπr^2よりも小さいことは、
サッカーボールを作る工場の工員なら体験的に知っているでしょうね。
というのも、ボールを丸める過程では余った皮を切り捨てるからです。

さて、そこで次の問題として、馬の鞍の上に円を描く場合はどうでしょうか。
これまた、馬の鞍を作る工場の従業員なら自明でしょうけど、
あの形にするには、平面の皮に少し皮を継ぎ足す必要があるわけですね。
実際は、皮を継ぎ足す代りに、周囲の革を叩いて引き延ばす、
なんていう作業をやっているかもしれませんが……。


という分けで、サッカーボールのように歪んだ面では、
円の面積が平面よりも小さくなり、馬の鞍のように歪んだ面では、
円の面積が逆に平面よりも大きくなることが分かったと思います。
そこで次は、同じことを空間についても考える分けです。
今度は、空間の中にrという直径を持つ球体を作り、その体積を考えます。

そして仮に、空間も歪むことがあると仮定すると、少なくとも数学的には、
ここでもボール型に歪んだ空間と、馬の鞍型に歪んだ空間があり得ます。
その時、rという直径の球体の体積は、平らな空間と比較した場合、
ボール型の空間はより小さく、馬の鞍型の空間はより大きくなります。
問題は、我々が住んでいる実際の宇宙空間がどうなっているかなんですが、
少なくとも原理的には、これも数学的な類推から結論を導くことが出来ます。

具体的には『仮に宇宙の星が空間に一様に分布していると仮定し、
直近の空間でその密度を求めたら、ある半径の中にある星の数を数えて、
その空間の体積を推計する』という手続きを踏むと、我々の宇宙空間が、
実際、どういう歪み方をしているかが分かることになります。
なら、我々の住んでいる実際の宇宙がどうなのかという点に関しては、
まだ最終結論は出ていなかったと思います。

85 闇夜の鮟鱇★ :2011/07/13(水) 09:38:38 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(2/4)

で、良くSFなどでは『仮にボール型の宇宙であった場合に、
同じ方向にどこまでもどこまでも真っ直ぐに進んで行くと、
いつかは元の場所に帰ってくるはずだ』なんていう話をする分けですね。
それは、たとえばサッカーボールのような二次元の面上を、
蟻が同じ方向に歩いて行くと、いつかは必ず元に戻ってくる、
ということの類推で考えれば良い分けです。

さて、そこで問題は最初に戻る分けですが、
仮に我々の宇宙が、ボール型に歪んでいたとして、
『そのボールの外には何があるんだ』という疑問が、
何故生じるかということなんですね。

それは結局、我々の感覚に深く刷り込まれた認識の仕方が問題なわけで、
『宇宙が丸い形をしている』という話を聞いた時に、
自動的に『平らな空間の中に丸い宇宙をおいて考える』
ということをしているわけですね。


つまり、平らな空間というものが実在するという無言の前提に立ってしか、
我々はものごとを考えられなくなっている、ということなんですね。
それは結局、我々が生まれてから今までに経験した空間というものが、
ほぼ完全に平らな空間だからなんですね。

ところが、宇宙というものをその巨大なスケールにおいて観察する時は、
もはや、その常識が通用せず、歪んだ空間を考える必要が生まれます。
しかし、我々は歪んだ空間を直感的に体験する機会がないから、
空間はいつでも平らなものだ、と思い込んでしまっている分けです。

でも、仮に我々の住む宇宙が歪んでいるということが事実であるなら、
もはや『平らな空間の中にボールのような宇宙を置いて考える』
ということ自体、意味がないことなんですね。
問題は、全ての存在を平らな空間の中に置いて考えようとする、
旧式な脳味噌にある分けです。


つまり、単に我々の住む宇宙が歪んだ空間なのであって、
それ以上でもそれ以下でもないというか……
宇宙と言う存在が歪んでいる以上、
その外に何があるか、と問うことは無意味なんです。

平らな空間というものは、確かに数学的にはあり得ますが、
現実にはどこにも存在しないのだということ、
よって『我々の住む宇宙の外』という概念は無意味である、
ということを理解する必要が有ります。
それが分かって始めて、我々の脳は近代物理学の世界を理解し、
パラダイムの転換を果たした、と言えることになる分けです。

(因みに、今持ち出した『数学的な平らな空間』というものは、
三次元の歪んだ宇宙をその中に置いて考える以上、
正確には四次元以上の空間を想定する必要があります。
この辺も、我々の脳味噌の直感では理解しがたいことですよね。)

86 闇夜の鮟鱇★ :2011/07/13(水) 09:40:54 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(3/4)

実をいうと、そういう旧式な脳味噌を持っていて、
間違った考え方をする人は、一般の素人だけでなく、
偉い哲学者にもいる(いた)分けですね。
例えば、カントという哲学者は『純粋理性批判』という書物の中で、
空間というものを『先験的存在』と考えました。

つまり、彼の場合は、神の存在を信じて疑いませんから、
経験に先立って神が存在すると考える分けです。
それと同じレベルで『真っ直ぐに広がる空間』がある、
と主張する分けですが、そういう脳味噌で考えると、
当然『丸い宇宙の外側には何があるんだ』ということになりますね。

その点『我々の経験の外には何もないのだ』ということを、
イギリスの経験主義哲学では主張する分けですが、
私もそれが正しいと思います。
その意味で、平らな空間という概念にしても、
『我々がオギャアと生まれて以降、経験した全ての事象』
から生み出される仮の認識に過ぎないと言えます。


似たようなことで言うと、数学においては、
『1たす1が何故2になるのか』という問題がありますね。
これは経験に先立つ普遍的真理なんでしょうか!?
私は、これまた生まれて以来の経験の総体から生み出される、
経験則の一つに過ぎないと思います。

例えば、小学校の先生が生徒に算数を教える場合、
『林檎がここに一つあり、隣にもう一つある、
この一つとあの一つを合わせると二つの林檎になる、
だから1たす1は2だ』という教え方をしますよね。
結局、それが全てなんですね。

そうした経験を何度となく繰り返し、
膨大な記憶がわれわれの中に蓄積される中で、
『1たす1は2である』という確信が、
われわれの頭の中に生まれてくる分けです。


これは実は『数学は自然科学であるか否か』
という哲学上の大問題とも関係する分けですが、
少なくとも私の立場では『数学は間違いなく、
自然科学の一部である』ということになります。

数学が自然科学ではないと主張する人は、
結局『1たす1が2である』ということを、
経験に先立つ絶対的な真理とみなすわけですから、
カントと同じ先験主義の過ちを犯すことになりますね。
因みに『真っ直ぐに広がる空間が、
経験に先立つ宇宙のあり様である』という主張は、
歪んだ宇宙という観測的事実によって、具体的に否定されます。

例えば、ブラックホールの回りでは空間が歪むので、
星の光がレンズを通すように曲がって届くという話は、
最近のニュースではもうお馴染みですよね。
それに対し『1+1=2が経験に先立つ真理である』
という主張を否定する場合、それなら、
『1+1=2でない世界』があり得るのか、
という疑問が生じると思います。

87 闇夜の鮟鱇★ :2011/07/13(水) 09:43:00 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(4/4)

その場合、一番考え易いのは、固体が存在しない世界ですかね。
液体と気体だけからなる世界では、一つ二つと数えること自体、
余り意味がなくなるでしょうからね。
無論、一滴二滴と数えることは出来ますが、その場合、
『一滴たす一滴は一滴』ということになりますよね。(^^;)

つまり、1+1=2という公理的な認識自体が実は、
固体のようなものが存在する世界での経験から導かれた、
一つの経験則であるということになると思います。

ところで最近、見た映画に『メトロポリス』というのがありましたが、
これは戦前のドイツ映画で、無声映画の傑作とされる作品でした。
私には、それほど大騒ぎするほどの代物とも思えなかったんですが、
実は、監督のフリッツ・ラングというのが改宗ユダヤ人だそうですから、
それで、例のユダヤびいきがあるのかもしれませんね。


ただ、この映画で私がひとつ気になったのは、
『頭と手をつなぐものは心でなければならない』という表現でした。
実は、これはこの映画の中心テーマに他ならなくて、
頭としての資本家と、手としての労働者の和解を描く物語は、
ヒットラーの受けも良かったそうです。

まあ単純に考えれば、そのテーマの意味する所は、
感覚的には、我々にも何となく分かりますよね。
つまり『資本家と労働者が対話を通じて相互理解する』
ということを『頭と手を心でつなぐ』と表現したんでしょうね。

その場合『資本家は頭、労働者は手』という単純化も、
少し引っ掛かりますが、それはともかく、我々日本人からすると、
頭・手・心という三分法が何とも不可解な感じがした分けです。
まあ、近代では日本人も肉体と精神という二分法には慣れたので、
頭(精神)と手(肉体)を対置する発想は無理なく受け入れられると思います。


でも、頭と心を対置して考えるという発想はどうなんでしょうか。
頭を理性、心を感情と言い換えれば、少しは分かり易いですが、
理性と感情は脳の二つの機能ではあっても、頭と心を、
二つの実体と見なす発想は、日本人には余り馴染みがないでしょうね。

つまり、我々の常識では脳の働きとして理性と感情の二面がある分けで、
理性(頭)と感情(心)を独立した別個の存在として把握するのは、
かなり無理があるように見えます。
実はこの映画の脚本家が、フリッツ・ラングの妻であるドイツ人なので、
ここにはドイツ的な発想が濃厚に反映されているのかもしれません。

つまり、頭・手・心という三分法がドイツ的な形而上学であるというか、
その辺の形而上学的な理解の仕方が、いかにもドイツ的という感じですね。
ヨーロッパでは、大陸の合理主義と英国の経験主義という分け方をしますが、
東洋でも大陸の中国が合理主義で、島国の日本は経験主義という二分法が、
大体は当てはまるような気がします。
この辺にはやはり、地形的な影響があるのかもしれませんね。


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