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上代の興門流について

8川蝉:2004/11/23(火) 10:49
史志高さん今日は。

>この辺の根拠となる文献を教えて頂けたら幸いです。

「日蓮宗事典」には具体的な文献資料を挙げられていません。

平楽寺書店刊・執行海秀教授の「日蓮宗教学史」に、文書資料を挙げていませんが、

「室町時代に於ける興門の大勢は・・大石寺は重須本門寺との間に伝統の正潤を争い、日郷門徒の保田妙本寺とは、戒壇の坊地問題でその係争は文明年間に及んだ。
大石寺日有は文明年間、大石寺根本道場、重須隠居説を主張したが、これに対し、重須日浄は保田日安と結んで抗した。
而してあその余塵は大石寺日鎮の代に重須の本門寺号問題となって、重須の日国と争ったのである。
一方、重須は西山との間に本門寺伝統論を争ったが、西山は石山と結び、その確執は天正年間に及んだ。」(136頁)

と記しています。

9史志高:2004/12/19(日) 14:44
レスありがとうございました。いろいろと勉強になります。わからないことだらけで恥ずかしい限りです。
 管理人さん、また他の方々にも御教示願いたいのですが、大石寺六世日時について、どのような人なのか、もし宜しければ資料や伝説その他諸々教えて下さい。

10直人:2004/12/20(月) 06:01
史志高さん、こんにちは。

 日時師の事蹟・伝承は不詳な部分が多いのが現実です。その昔(昭和30年代後半)、大石寺
の教学部が『三大秘法抄』『本因妙抄』の写本に日時本があるという発表をしたようですが、これ
に対して元大石寺僧侶の研究者(興風談所)から否定的見解が出されています。(『興風』14、
『興風叢書』6)
 また、大石寺においては日道師以後、日有師に至る迄の間の歴代の学説については今日の
史料からは直接的に窺がえません。後代の伝承によって類推するほかない、というのが現実で
しょうか。

11史志高:2004/12/20(月) 09:52
直人さんありがとうございます。
日時師について、御影の返還の訴状や、その他にも各末寺の信徒にあたえた曼荼羅本尊が残っているぐらいかと思うのですが、そこからなにか見えてくるものがあるとおもうのです。
例えば、大石寺は道郷72年の係争と言われる「東坊地問題」に端を発し、その後日有師まで疲弊していたという話ですが、日時師の垣間見える動向からはそうでもないのではと思えるのです。
非常に漠然とした意見ですが、いかがでしょうか?

12直人:2004/12/22(水) 06:31
史志高さん、こんにちは。

 今日の日時師の事蹟から「何かが見えてくる」とする何かとはは史志高さんが研鑚して見出して
下さい。史志高さんとは別の観点になりますが、大抵は日有師に至って教学基盤ができる、とする
ようですが私は日時師の時代、ある程度の教学基盤はできていたであろうと考えています。ただ、
日時師の学説を伝える直接の文献が現存しない以上、後代の伝承から推考するしかないというわ
けです。

13名無し:2010/06/17(木) 19:21:44
 日蓮大聖人様は諸宗は無得道・堕地獄の根源、南妙法蓮華経のみ成仏の法なりと折伏され国家権力による死刑を受けられました。 熱原の法華講衆は平左衛門から法華経を捨てて念仏を唱えよとの脅しに屈する事なく自らの命に代えて「南無妙法蓮華経」と唱え答えに替えました。日霑上人は明治政府から身延に合併しろとの命令に身延が大きいから身延に入れという命令例え道端に餓死する事があっても断じて断わると、規模の大小ではなく、法が正しいか間違っているかで判断しなさいと、命を賭けて明治政府に訴えました。全て国家権力に対しての日蓮大聖人様及び弟子の起こした行動です邪宗を絶対認めない姿勢が伺えます しかし戦時中の大石寺は軍の圧力に屈して邪宗の神札を受取り境内に神棚を祭ってしまいました。その現罰で法主は寺の火災で焼死しました、その後も、援交や強姦などて゛僧侶の逮捕者がでたり遺骨問題で寺側が完全敗訴など罰は続きます。

14ななす:2010/07/05(月) 20:31:58
いつも大変お世話になっております

15常修院二番弟子:2014/09/13(土) 12:44:39
エイチティティピー://zyoushuin2.web.fc2.com
↗︎↗︎
こちらで、本門戒壇の大御本尊が正しい事を確認しましょう。


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