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門下・門流史関係
103
:
問法第三
:2009/07/05(日) 08:44:04
日蓮は釈尊を文上と文底で同一の呼称で呼ぶので意味が混同して文意が分かりませんでした。真意を汲むには口伝は必要だと思います。
104
:
明星
:2013/03/10(日) 02:50:28
碩学の皆様に安土宗論についてお尋ねします。
安土宗論については、日蓮宗が信長の策略に嵌められたということで
日蓮宗側では決着が付いているようですが、それは日蓮宗側のウソであるという知識人が多いようです。
このことについては如何でしょうか?
↓のように資料を呈示しながら日蓮宗側の負けを言い立てている人もいますし、
http://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10628409246.html
また、井沢元彦氏なども安土宗論は日蓮宗側の完敗と言っています。
これについて、どのように皆さんはお考えでしょうか?
105
:
川蝉
:2013/03/11(月) 09:22:26
明星さんへ、その一。
安土宗論の資料を所有していないので、資料を検討しての私の見解は現在の所、述べられません。
「日本仏教全書97」に、日蓮宗日淵の「安土宗論実録」・「信長公記」・日蓮宗日著の「安土問答」の三が収録されているそうです。法蔵館の「仏教大辞典によると、「前半は日著仮託の偽書、後半も後世の編集である」としています。
明星さん紹介のブログの見解が、如何なる資料を基に論述しているか解りませんが、かなり一方的な理解の様ですね。
「日蓮宗が武力戦闘集団で有った」旨を語って居ますが、その前に日蓮宗の教線拡大(武力戦闘力に依る勢力隆盛ではありません)を危惧した比叡山の僧兵による「天文法難」が起こり、そのご幾年かは、日蓮宗寺院は京都から追放され、その後、漸く京都布教を許されたので、日蓮宗の布教が再び盛んになり教線拡大著しく成った時点で起きたのが安土宗論です。
「日蓮宗事典」に、日蓮宗の一般的な安土宗論観が説明してあるので、ご参考に以下、紹介します。
●天正七年(一五七九)五月、織田信長の命による日蓮宗と浄土宗との安土宗論の結果、日蓮宗側が蒙むった法難をいう。安土宗論の発端は次のようにいわれる。普伝日門は信長の膝下の安土城下にきて猛烈な折伏伝道を行い、これによってまず土地の有力者大脇伝介、建部紹智は日門の熱心な帰依者となり、かくして、毎日一〇〇人、二〇〇人という改宗者を生じたという。あたかも天正七年五月中旬頃、関東より浄土宗の霊誉玉念という長老が安土城下にきて説法していた。そこへこの大脇伝介、建部紹智の二人が説法の座で疑義を問うたのに対し、玉念は「仏法の深義は若輩の汝らに話してもわからぬ、汝らのたのむ宗門の僧を出せ」といって、七日の法談を一一日間にのばしたことより端を発し、宗論へと進む。しかし本宗論の背景には信長の仏教弾圧政策があり、また浄土宗と信長の計画によって周到に準備されていた。浄土宗の僧聖誉貞安はかねてから信長の寵を得、新しく出入を許されていた人物であったが、安土における日蓮宗の急速な発展をみて痛憤し、これを信長に訴え、信長にとってもまた、かねてから各所に展開された日蓮宗徒の烈しい折伏伝道は、一個の強力な社会勢力として、天下統一を企図する信長にとって無視できぬ存在であった。信長はたえず自身の制覇の障害となるものを除したという。例えば比叡山の焼打ちや石山本願寺との対立などにみられる仏教弾圧政策があり、それ故信長は、これを機に浄土宗との宗論を命じ、日蓮宗の弾圧にのりだしたものといえる。
106
:
川蝉
:2013/03/11(月) 09:24:18
明星さんへ、その二。
さて日蓮宗側では宗論を行う法則五ヵ条を作り、公正を期せられんことを上申したが、勿論これが取上げられるわけはなく黙殺され、いよいよ五月二七日安土城下の浄厳院で両宗は対決。日蓮宗側より頂妙寺日緩・妙覚寺老僧常光院日諦・寂光寺久遠院日淵・法音院(記録者)の四人、浄土宗側では阪東長老哀愍寺霊誉玉念・長老西光寺聖誉貞安・遍照寺信誉洞庫・一心院助念(記録者)の四人、判者には南禅寺長老鉄叟景秀・伴僧稷西堂・因果居士・法相宗の仙覚坊、信長の名代として織田七兵衛尉信澄、奉行・長谷川竹秀一・菅谷九右衛門・堀久太郎が列席し行われた。因果居士自記の『安土宗論』によると、因果居士は景秀が耳遠く聞こえぬので(時に八四歳)、自ら判者を買って出た。そして信長の依頼をうけて浄土宗側に不利な時は「内証あるによって批判せず」と記るし、また問答中にもたびたび浄土宗側に助言し援助するに及んでいる。本宗論の情景を日淵の『安土問答実録』によって再現してみると、法華宗側の傍聴者はみな場外に追い出され、浄土宗側のものは内陣にかくれ、局にひそみ「椽・芝の上まで奉行衆の人数みなみな法華宗の方を取巻き長道具にて、二、三千程もあるかと見えたり、雑人は幾千・万という数をしらず候き。法華宗のてい、かごの中の鳥と見えたり」という物々しさの中で進められた。そして一問一答をとげながら浄土宗はたびたび因果居士の助言のもとに危機を脱したが、そのうちに貞安は「四十余年未顕真実の文を以て破せば、方座第四の妙の一字を捨つるか」と、「方座第四の妙」という経論釈疏にない名目を言いだしてきた。法華宗側では初めて聞く名目にまごついたが、数番の問答で貞安は「汝知らずや法華の妙よ」と答えたので日淵は直ちに応酬し「汝愚癡なり、法華宗に対して法華の妙を捨つるかと問ふ歟、法華宗は法華の妙より立って其外の余法を悉く皆捨つ、汝、言はうずる事なきによって戯言(たわごと)を申すか」と答えた。このとき浄土宗暫く無言、赤面したという。日淵そこで奉行に対し「聞し召されよ、申つめて候」、すると玉念は「此妙、彼妙、妙義殊なることなし、妙は何れも同じ物よ」と、法華経を説く前に説いた諸経(爾前の経)と法華の妙とは同じであるという天台一家の円体無殊論をだした。このような円体同一の議論は法華宗では論じつくされた初歩の教義であり、議論が詭弁より一応の学問論となったから、日諦は物の響きに応ずるが如く「但以帯方便、不帯方便為異はいかに」と問うた。「ただ方便を帯すると、方便を帯せざるを以て異となす、爾前の経は帯方便の麁妙、法華は不帯方便の純妙、妙の名同じけれど義は天地の各別である、この義如何」と責められて玉念は無言、そこで日淵は奉行衆に「浄土両人共につめて候」と「問答の法なれば袈裟を給はらうずる」といったとき、玉念、つと立ち上るや「勝ったり、勝ったり」と二声叫ぶ。これを合図に周囲の人数どっと鬨の声をあげて殺到し、日緩らの袈裟をとり、打つ、なぐる、蹴るの狼藉を加え、日緩らをしばりあげ、場外にあって様子如何とうかがっていた法華宗徒二、三〇〇人を召しとらえ投獄した。信長は知らせを受けて直ちにかけつけ、日緩らをさんざんにはずかしめ、玉念・貞安にむかい「今日の法論近頃手柄で候、前々方々にて法論ありて種々の沙汰は聞いたれども、今度のように手柄なこととは知らなんで候、ここで果てた(この安土で決着した)事なる程に天下日本国かくれあるまじ」とほめたたえたと伝えている。
こうして宗論は日蓮宗の負けと決せられた。そして信長は普伝日門・大脇伝介を拷問してそのあげく斬り、建部紹智を堺に捕えて殺した。また日諦・日緩・日淵の三人を安土の正覚院に拘禁し、日蓮宗が負けたこと、今後他宗に対して一切法論をせぬこと、日蓮宗を立て置かれて忝けないとの、京都諸本寺連署の起請文を信長に提出しなければならなかった。このようにこの宗論は純粋な教義の争いでなく、信長の計画的日蓮宗弾圧であったといえよう。かくて日蓮宗の態度に変化が生ずる。長老指導者たちによって、従来の強硬な折伏的弘教方法を柔軟な摂受的方法に切換え、おだやかな布教態度、教義づけが行われるようになるのである。しかし、これは信長あるいは秀吉の強力な近世政権を直接に身に感ずる京都を中心とする地域の大勢で、関東ないし中国方面では、この恥辱によって更に折伏的態度を堅持し各地に伝道し、京都にあっても、長老たちの態度に批判的な関東系教学を奉ずるものは、摂受主義の流れの中で毅然とした折伏的態度をもち続けていた。《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『日蓮とその弟子』》(松村寿巌)
107
:
川蝉
:2013/03/11(月) 09:31:27
「明星さんへ、その一」の訂正です。
投稿「その一」の四行目を{法蔵館の「仏教大辞典によると、「安土問答の前半は日著仮託の偽書、後半も後世の編集である」としています。}と訂正して下さい
108
:
明星
:2013/03/13(水) 20:16:56
川蝉様、
さっそく、安土宗論に関する詳しい資料を教えて頂き有り難うございます。
日蓮宗を批判する人達は、安土宗論によって日蓮宗が詫び証文を書き、
それ以降折伏を行わなくなったのだから、日蓮宗の負けであると一方的に断じますね。
しかし、このたび教えていただいた資料によれば、これは信長の政権確立を
肌で感じていた京都周辺の話であり、関東ないし中国方面ではさらに折伏の
態度を強めていったとなりますと、これは話が違ってきます。
また個人的な感想としては、信長の政策(世俗権力による天下統一)からしてどう考えても
日蓮宗の折伏をそのまま放置するとは考えられませんので、やはり安土宗論には
なんらかの思惑があったものと推察されます。
安土宗論について今後とも自分なりに調べていきたいと思います。
今回はご丁寧に有り難うございました。
109
:
伝六
:2013/03/18(月) 15:50:00
安土宗論について考えるには田中智学著「安土法難論」を読むといいと思います。師子王全集論叢篇に収録されています。その一端を紹介しますと、信長の行動のあとをみると、キリスト教を保護して仏教の勢力を一掃しようという政策があった。比叡山は焼き討ちにあって女子供までみな殺しにあった。本願寺もほろぼそうとした。法華宗は戦争をしないから、法華宗得意の宗論で、問答を強制して負け証文を書かせて勢いをなくしてしまう。そういうながれの中の安土宗論です。キリスト教をなぜ保護したかというと、己の政策に利用しようとした。あさはかだが大きな思いつきがあった。歴史的キリスト教が侵略の手先になったということは今日では公論と思います。信長も後にはそのことに気がついたらしい。今も昔も信長の英雄的なところに眩惑されて、彼の殺人鬼的な面など暗部を剔抉する人はほとんどいないと思います。そういう点からも安土法難論は参考にするとよいと思います。
110
:
明星
:2013/04/15(月) 00:39:15
>>109
伝六様、
御返事が遅くなりまして申し訳ありません。
ご丁寧に有り難うございます。
やはり安土宗論の背景には信長の政治的戦略がありますよね。
仏教勢力を快く思わない信長が、法華宗の折伏を放置しておくはずがありません。
田中智学先生の「安土法難論」、機会があったら是非拝読したいと思います。
有り難うございました。
111
:
法華系新宗教マニア
:2022/02/05(土) 13:46:59
ツイッターで、
「えっ、霊友会って延身山系なの、
新宗教みんなざっくり日蓮正宗系だと思っていた」
とのコメントを頂いたので書いてみた。
日蓮宗系諸教団の系統分類
――身延系、正宗系、法華宗系――
https://imadegawa.exblog.jp/32566899/
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