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大東亜戦争(太平洋戦争)の真実

1凡人:2011/11/06(日) 15:51:51
戦争の風化や元日本兵の美化や伝説化が見られるなかで歴史の真実に迫る。

107凡人:2017/08/09(水) 00:26:50 ID:rz9OMYFw0
【ペリリュー島 忘れられた戦場を訪ねて】
(上)今も残る高崎歩兵連隊激戦の爪痕
2017.8.8 07:03 産経

 先の大戦で日本軍約1万人が玉砕したパラオ諸島ペリリュー島。「3日あれば占領できる」と豪語した米軍を、高崎歩兵連隊などの日本軍は4分の1の兵力で73日間にわたってくぎ付けにした。米軍の死傷率も史上最も高く、そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため「忘れられた戦場」と呼ばれる。生々しい痕跡が島の至るところに残り、激戦を今に伝えている。

 6月18日、コロール島からボートで1時間、世界遺産の美しい島々を縫うようにしてペリリュー島に到着した。焼けつくような日差しの下、参加者とともに慰霊を行った。慰霊の旅は戦後70年の節目となる平成27年4月9日、天皇、皇后両陛下が慰霊されたことで注目を集め、戦跡を訪ねる日本人が増えているという。

 昭和19年9月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場だった。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、この島を放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは「東洋一」といわれた飛行場の争奪戦であった。

 ガダルカナル上陸以来、栄光と精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊第1海兵師団2万8千人が上陸を開始したのは、9月15日早朝だった。南北9キロ、東西3キロのペリリュー島を、ルパータス少将は「こんな小さな島は3日もあれば占領できる」と豪語し、2個師団約4万人の海兵、陸軍部隊をつぎ込んだ。

 迎え撃つのは、日本陸軍高崎歩兵第15連隊(連隊長・飯田義栄少佐)1842人、水戸歩兵第2連隊(連隊長・中川州男大佐)3488人を中心とする守備隊9838人。中川大佐は、隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化し、上陸が予想される南部には最精鋭の千明(ちぎら)武久大尉率いる高崎歩兵第15連隊第3大隊750人を配置した。

 千明大尉は片品村に生まれ、旧制沼田中学から昭和10年に陸軍士官学校56期生として入校した。士官学校時代、天覧試合にも出場した剣道の達人で、当時、28歳だった。

 米軍上陸前、日本軍は3日間にわたるすさまじい砲爆撃にさらされ、ジャングルは消え、がれきの山となった。だが「西浜」と呼ばれた南部海岸から上陸を始めた米軍に向け、日本軍が一斉に砲射撃を浴びせる。

 千明大隊も猛攻撃を加え上陸部隊を混乱させる。米軍上陸後は「アンパン」と呼ばれる地雷を抱き、敵戦車下に潜り込み自爆する戦法を千明大隊が繰り返し、米軍を恐怖のどん底に陥れた。しかし、9月16日未明、千明大尉が指揮中に敵銃弾を受け、戦死。指揮官を失った後も反撃を続けたが、18日までに750人が玉砕した。群馬県出身者を中心とする全員が20歳前半の現役兵だった。

 玉砕は必至とみていた中川大佐は、事前に内地にこう連絡していた。

 --通信断絶の顧慮大となるをもって最後の電報は左記の如く致したく承知相成(あいなり)たし

 一 軍旗を完全に処し奉(たてまつ)れり

 二 機秘密書類は異●なく処理せり

 右の場合、サクラを連送するにつき報告相成たし

 今回の慰霊ではペリリュー島北部の北波止場から上陸し、海軍航空司令部跡に向かった。現在はジャングルに覆われているが、当時は滑走路を一望できた。頑丈なコンクリート造りで、地下には待避壕もある。しかし天井には無残な穴が開き、壁には無数の銃痕が残り、米軍の砲爆撃の苛烈さを物語っている。 (将口泰浩=作家)
                   ◇
 【将口泰浩氏と行く トラック諸島慰霊の旅】連合艦隊泊地だったトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)を訪ねるツアーを開催。

 将口氏はトラック諸島に渡り、「冒険ダン吉」のモデルにもなった森小弁の生涯を描いた「ダン吉」を産経新聞で連載した。

 平成29年9月24日(日)=成田からチュークへ▽2日〜5日目=チューク巡訪▽6日目=成田へ。旅行代金は1人39万6000円。問い合わせは「JTBコーポレートセールス 霞が関第六事業部営業1課」(〒100-6051 東京都千代田区霞が関3の2の5 霞が関ビルディング12階)(電)03・6737・9361、FAX03・6737・9365

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108凡人:2017/08/27(日) 08:21:43 ID:N3gutJNg0
今の世の中、この情報化社会で、左翼もそうだが、右翼も馬鹿じゃなくちゃなれないと凡人は思う。
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あの戦争に「負けたけど勝ったんだ論」の罪深さ
古谷経衡 | 文筆家/著述家2017/ 8/15(火) 8:48

「敗戦の日」に靖国神社に翻る日章旗(2017年の写真ではありません)(写真:ロイター/アフロ)

◆「負けたけど勝ったんだ論」とは何か
 8月15日。72年目の敗戦の日である。戦後の右派、保守派を「支える」あの戦争に対する戦争観の主流に「負けたけど勝ったんだ論」というのがある。これは私が勝手に名付けたものだが、要するにこの「論」とは次のようなものだ。

「太平洋戦争(右派は大東亜戦争と呼ぶ)は、軍事的にはアメリカに敗北した。が、アジア解放という戦争大義は正しいものであり、実際に戦後、欧米の植民地であったアジア各国の独立の切っ掛けを作ったのは日本だったのである。よって日本は戦争には敗れたが、結果的には戦争目的を達成したのだから、これは戦争に勝利したと同じなのである」

 というものである。繰り返すように私はこれを「負けたけど勝ったんだ論」と呼ぶ。この理屈は、90年代後半に大ベストセラーになった小林よしのり氏の『戦争論』にも通底して色濃く反映され、その後のネット右翼の世界観にも大きな影響を与えているものだ。

◆日本は敗戦国ではない??
「アジア解放の戦争大義は正しく、結果として戦後それが達成されたのだから、日本は負けたけど勝ったのだ」というのは、完膚なきまでにアメリカに叩きのめされた戦後の日本人にとって、なるほど自尊心をくすぐる得心のいくものだったといえ、心の防御装置として機能したことは評価できる。

 だが時代が進むと、この「負けたけど勝ったんだ論」は、現在、保守論壇のみならずそれを妄信するネット右翼の中に、あの戦争への「普遍的評価」として、前述のように様々な媒体を通じて定着している。

 しかし、この敗北を認めぬ「屁理屈」ともいうべきこの手前勝手な理屈こそ、最も罪深い戦争観である。「負けたけど勝ったんだ論」の世界観の中では、日本は敗戦国ではないということになる。だからあの戦争への反省も行われないどころか、あの戦争での日本軍の行いは手放しで肯定、美化される。

◆「敗戦国」の帳消し
 そして結果として勝ったのだから、軍事的な勝者の存在も希釈化される。つまり、勝者としてのアメリカの存在を希釈化し、まるで自分たちと同等の存在として考える素地が生まれる。

 所謂「親米保守」と呼ばれる戦後の右派、保守派が、片方で「あの戦争におけるアジア解放の大義は正しかった(対米決戦の正当性)」と言いながら、片方では「日米同盟の強力な紐帯」と叫ぶ根底には、この「負けたけど勝ったんだ論」が浸透しているのだ。

 なにしろこの理屈では日本は勝ったのだから、戦勝国アメリカと気分的には同等である。勝ったのだから、敗戦の屈辱という感情も、原爆や大空襲によるアメリカへの報復感情というのも薄れる。

「負けたけど勝ったんだ論」は、日本の軍事的敗北を希釈化する一方で、戦勝国アメリカの圧倒的存在感、勝者としての振る舞いをも希釈化させる。なにせ「負けたけど勝った」のだから、あの戦争を反省する必要も無いし、アメリカへの敵愾心というものも必要以上に持つ必要はない。「親米保守」にとって、「負けたけど勝ったんだ論」ほど便利な世界観はないのだ。
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109凡人:2017/08/27(日) 08:22:32 ID:N3gutJNg0
◆「負けたけど勝ったんだ論」のウソ
 あの戦争を始めるにあたり、日本が「アジア解放」「東亜新秩序建設」「大東亜共栄圏」のスローガンを戦争大義に掲げたことは事実である。そして真珠湾と時を同じくして開始された「南方作戦」により、英仏蘭の植民地であった東南アジアに日本軍が侵攻すると、現地住民から「解放軍」として歓迎された事実があることもまた事実である。

 ところが、すべての戦争には戦争大義の美名が存在するのと同じように、「アジア解放」の掛け声も、また美辞麗句に過ぎなかった。1934年、アメリカ議会は米西戦争(1898年)でスペインから割譲したフィリピンを1946年に独立させることを約した。

 そこへ日本軍がだしぬけに1941年の対米開戦とともにやってきたのだから、フィリピンの独立はご破算となる。日本軍政の不手際も目立ち、フィリピンの対日感情はあの戦争中、アジアの中で最も悪化した。日本軍が来る前に、フィリピンの独立はアメリカ議会によって承認されていた。こうした「負けたけど勝ったんだ論」に都合の悪い事実は無視される。

◆「アジア解放」のお寒い実態
 確かに日本は、南方作戦によって占領した米英仏蘭の植民地を独立させた。ビルマ、フィリピン、仏領インドシナを次々に独立させ書類上の「アジア解放」を演出して見せたが、実際には傀儡政権であった。そして肝心の蘭印(現インドネシア)の独立は、敗戦に至る最後まで検討こそされ、ついぞ行われなかった。

 ビルマやフィリピンは独立させたのに、なぜ蘭印(インドネシア)は独立させなかったのか。政府・大本営は、パレンバン、バリクパパン等の良質の油田やボーキサイトなどの天然資源が豊富な蘭印は、最後まで軍による直轄地とした。これは、「アジア解放」の掛け声が美辞麗句に過ぎなかったことを意味する。

 重要資源を産出する蘭印は、日本の戦争遂行上、直轄地とする必要があったためである。蘭印から産出され資源を日本に海上輸送し、工業力を増強する。そうして増強させた工業力を軍需に投入し、対米持久戦を展開させる。これが、政府・大本営の目的だったのだから、蘭印を独立させることなど無理な相談であった。こうした「負けたけど勝ったんだ論」に都合の悪い事実は常に無視される。

◆「アジア解放」に都合の悪い事実は黙殺
 戦後、アジアの植民地が次々と宗主国から独立したが、そこにあの戦争における日本の戦争大義が関与した、という要素はゼロではないものの、無理筋である。確かに、インドネシア独立戦争には残留日本兵が協力した。ベトナム、ビルマにもその部分はある。

 しかし、それならば日本軍が一切侵攻していない中東やアフリカ諸国が、なぜ次々と英仏等から独立したのか、説明することはできない。植民地独立は、世界史的潮流であり、日本の戦争大義が正しかったからではない。

 アルジェリアはフランスに併合されたが、戦後独立戦争を戦い独立を勝ち取った。アンゴラはポルトガルに抗してアンゴラ独立戦争を展開し勝利した。

「大英帝国の至宝」インドにおける独立運動は、言わずもがなM・ガンジーによる無血抵抗運動から始まった。ガンジーとその支持者によるイギリスインド支配の象徴・製塩専売への抵抗は、日本軍の「アジア解放」のはるか前、1930年から始まる。「アジア解放」の胎動は、日本が来るよりも早く、アジアの人々の手によって開始されていたのだ。
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110凡人:2017/08/27(日) 08:23:50 ID:N3gutJNg0
◆都合が悪くなるとトンデモ陰謀論に逃避
 そして「負けたけど勝ったんだ論」を信奉する人々は、同じアジア人の中国に対する満州事変以降の行動に対しての矛盾について、途端に寡黙になる。「アジア解放」の大義を正しいものとしているのに、同じアジア人である中国への攻撃については、当然矛盾になるから沈黙する。

 片方で「アジア解放」を叫びつつ、片方で中国大陸で無思慮な戦線拡大を続けていた事実は、どう考えても「負けたけど勝ったんだ論」の世界観には都合が悪い。

 よってここで登場するのが、「日中戦争はコミンテルンの陰謀で、日本は被害者である。日中戦争は侵略ではない」というトンデモ歴史観である。「負けたけど勝ったんだ論」を支持するネット右翼に、この陰謀論は大変都合がよいので支持されている(詳細は拙記事”アパホテル問題の核心〜保守に蔓延する陰謀史観〜”を参照のこと2017年1月24日付)。

◆「負けたけど勝ったんだ論」から生まれるもの〜「敗戦責任」の不問〜
 「負けたけど勝ったんだ論」は、あの戦争の歴史的事実を遮蔽し、都合の悪い事実を黙殺し、良い部分のみを取得する歴史修正主義の一種である。

 「負けたけど勝ったんだ論」から生まれるものは、あの戦争への無反省、無批判と、盲目的肯定と賞賛である。アメリカの戦争が正しかったというつもりは一切ないが、少なくとも日本が掲げた「アジア解放」は美辞麗句に過ぎず、戦後における植民地独立の源泉が「アジア解放」とか「大東亜共栄圏」にある、というご都合主義からは、なぜあの戦争で日本が敗北したのか、なぜ勝てなかったのか、という「敗戦責任」への考察は生まれない。

 岡本喜八監督が1967年に映画化した『日本のいちばん長い日』。ポツダム宣言受諾決定を受けて、陸軍大臣・阿南惟幾が割腹する直前に、部下に述べる決別の台詞。

「生き残った人々が、二度とこのような惨めな日(8月15日)を迎えないような日本に、何としてでもそのような日本に再建してもらいたい」

出典:岡本喜八監督・映画『日本のいちばん長い日』(カッコ内筆者)

 「負けたけど勝ったんだ論」は、8月15日を日本が戦争に敗北した日という厳然たる事実を忘却せしめ、この日が日本人にとって「屈辱の日」「惨めな日」であるという感覚をも忘却せしめ、至って「あの戦争は正しかったのだ」という、先の戦争から何も学ばない、何の反省もない、先の戦争の美化・賞賛だけで「なぜ負けたのか」の失敗の本質を追求しない歴史観を増殖させている。

「二度と悲劇は繰り返しません」とか「戦争は絶対によくない」というのは結構なことだが、静かに跋扈する「負けたけど勝ったんだ論」を何とかしないと、二度・三度の間違いは繰り返されるのではないか。

古谷経衡 文筆家/著述家
1982年北海道札幌市生まれ。著述家。NPO法人江映理事長。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部卒。TOKYO FM「タイムライン」隔週火曜レギュラー他、テレビ出演など。主な著書に『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『草食系のための対米自立論』(小学館)、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか 戦後70年幻想論』(イースト・プレス)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)、『クールジャパンの嘘』(総和社)等多数。
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111凡人:2017/09/03(日) 05:04:32 ID:N3gutJNg0
「日本兵は強く戦い、忍耐深く、戦い方が非常に紳士的だった」。日本のマスコミはよく親日外国人の意見を報道や掲載し、日本のよさや素晴らしさを日本国内にいる日本人向けに喧伝することをよくやる。日本人のイメージを悪くする反日意見は取り上げてもとても稀であることは知っている。産経新聞のこの記事はその代表。ジャーナリズムを標榜する一流新聞ではなくて、購読者数を増やすことが目的の商業新聞であることには間違いない。とくに旧日本兵に対して「戦い方が非常に紳士的だった」なんて考えている外国人がどれだけいるか疑わしい。それは*ハワイの奇襲(本当なら騙し打ち)攻撃をひとつとっても、大多数が反対する見解を示すだろうと予想されるからだ。最近観たハリウッド映画『Hacksaw Ridge』(2016)ではアメリカ兵が戦場での日本兵を指して"sneaky"と言っているし、戦闘場面では白旗を振って穴から出てくる日本兵の小グループが、それを見て近寄ってくるアメリカ兵たちに向かって手榴弾を投げつける場面があるが、とても紳士的とは思えないのである。その向かってくる手榴弾を他のアメリカ兵の命を救うために蹴飛ばしたが、その爆発で自分が怪我をしてしまうのが、その映画の主役。それで彼のHacksaw Ridgeでの救助する役が終り、映画も終る。これはハリウッドが生み出した嘘か。この映画は真実に基づくとある。笑。*Takeo Iguchi, a professor of law and international relations at International Christian University in Tokyo, discovered documents that pointed to a vigorous debate inside the government over how, and indeed whether, to notify Washington of Japan's intention to break off negotiations and start a war, including a December 7 entry in the war diary saying, "our deceptive diplomacy is steadily proceeding toward success." Of this, Iguchi said, "The diary shows that the army and navy did not want to give any proper declaration of war, or indeed prior notice even of the termination of negotiations ... and they clearly prevailed. 英語のWikiと違って、日本語のWikiにはかなり日本に都合よく美化した戦争物語が書かれていることに凡人は気付く。真実を語る教育的な世界的運動のWikiのはずだが、すでに日本のWikiは日本の学校教科書化していることにはとても残念である。
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【戦後72年】
「日本兵は強く、紳士的だった」 寄せ書き日の丸返還の93歳元米兵ストロンボさんの“日本愛”に称賛・感動
2017.9.2 17:00 産経

 長年の苦悩を背負い続けた元米兵は、約束を果たした安堵(あんど)からか、慈愛に満ちた表情に変わっていた。米西部モンタナ州に住む元海兵隊員、マービン・ストロンボさん(93)。「必ず家族の元に返す」。先の大戦の戦地サイパン島で、日本兵の遺体から日章旗(寄せ書き日の丸)を持ち帰り、73年の時を経て初来日し、願いをかなえた。遺骨や遺灰もなかった遺族は、帰ってきた日章旗を「宝」と呼び、むせび泣いた。「73年後の奇跡」のニュースへの反響も大きい。(社会部 天野健作)(※8月21日にアップされた記事を再掲載しています)

◆狙撃兵として激戦地へ
 精悍(せいかん)な顔付きとピンと伸びた背筋。来日直後の記者会見で見せたストロンボさんのかくしゃくたる姿は、かの戦地を駆け巡った雰囲気を醸し出していた。

 「多くの人が殺され、そして命を落とした。非常に悲惨な光景だった」。ストロンボさんは戦時中、海兵隊の狙撃兵として、サイパン、テニアン、タラワという激戦地で戦った。

 1944年7月ごろ、サイパンに上陸してしばらく歩いていると大砲があるのを目にした。興味を持ってじっと眺めていると自分の隊から離れてしまった。すぐに追いかけようとしたが、気がつくと日本陣営の前線に立っていた。

 足元には刀を持った日本兵の遺体が眠っているかのように横たわっていた。遺体には傷がなく迫撃砲にやられたと察知した。胸元にはきれいに畳まれた旗。

 「この旗が非常に重要な大切なものだと見て取れた。だから持って帰るのは罪悪感があった。しかし、もし私が持って帰らなければ、永遠に戦地で失われてしまう。いつかどうにかしてこの旗を家族の元に戻すからと約束した」

 旗は、自宅のキャビネットのガラス戸の中に飾って大事に保管した。自宅を訪れる客の目に触れるようになっていた。子供たちも喜んで一緒に写真撮影したりしていたという。
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112凡人:2017/09/03(日) 05:07:18 ID:N3gutJNg0
 ストロンボさんは今年3月、旧日本兵の遺品の返還に取り組む「OBON(オボン)ソサエティ」に相談した。日章旗には「武運長久(ぶうんちょうきゅう=出征した兵士の無事がいつまでも続くこと)」と大書され、約180人の署名があった。その中の42人が「安江」姓だった。神社の宮司の協力もあり、旗の持ち主は、安江姓が多い岐阜県東白川村の安江定男さん=享年(25)=だと分かった。旗に署名した6人がいまだ健在だということも明らかになった。

◆「兄のにおいがする」
 「長い間、待っていました」。8月15日、東白川村でストロンボさんを出迎えた安江さんの弟、辰也さん(89)はそう切り出した。

 互いの兄弟姉妹や近況に触れながら、「若いときのあなたもハンサムだったでしょう」と辰也さんが向けると、ストロンボさんも「そうだろうね」と冗談を言い合うほどすぐに打ち解けた。辰也さんはふいに「私は兄に代わってあなたに話をしているようだ」と漏らした。

 日章旗の返還は感動的な場面だった。ストロンボさんから直接受け取った辰也さんは旗に何度も顔を埋めながら、涙をにじませて「兄のにおいがする」と話した。

 辰也さんは「この旗に、定男の『武運長久』を願いながら記名頂いた180人の皆様の『しっかりやってこいよ』『きっと帰ってくるんだぞ』という気持ちの真心が通じて、帰ってくることができたと思っている」と話した。

 辰也さんによると、兄の安江さんとは日本を離れる前日、面会した。短い時間で終了5分前というときに、兄は声を潜めて「南の離れた島にいく。生きて帰れそうもないが、お前たち3人(兄弟姉妹)で力を合わせて、両親のことを頼んだぞ」と話したのが最後だったという。

 辰也さんはストロンボさんにこう声をかけた。「いまあなたの国と日本は世界に冠たる友好国になっている。旗をうちの宝にして、大切に長く長く伝えていきたいと思っている」

◆読者からの手紙
 このニュースには称賛の声が相次いだ。

 ネットでは「93歳を国賓で迎えろ」「互いに命をかけたものでしか分からない世界」などと好意的な意見が並ぶ。「戦争したことのない韓国がアレなんだもんな」と、何度も過去を持ち出し日本に対し“歴史戦”を挑む韓国を揶揄(やゆ)する意見もあった。

 《(記事を)読むと胸がいっぱいに。日章旗は無形英霊と思います。心からストロンボさまのご苦労と平和の友情に感動して感謝します》

 東京都練馬区の徳永光さん(59)は産経新聞にこのような手紙を寄せた。

 手紙は《慈愛和平の心境は大切です》とした上で、《長年の約束を守ってお疲れさま》とするストロンボさんへのはがきも託した。

 約束を果たし、帰国直前に取材に応じたストロンボさんは17日、「ようやく旗を返すことができてすばらしい気持ち。正しいことができたのだと感じた。少しも後悔することはない」と言い切った。

 そして「戦争中は敵同士だったが、戦時中でも私は日本兵に対して一定の敬意を持っていた。日本兵は強く戦い、忍耐深く、戦い方が非常に紳士的だった」と語った。

 旗の橋渡しをしたオボンソサエティの共同代表、敬子・ジークさん(49)=米オレゴン州在住=は「こんなに奇跡的なことは最初で最後かも。退役軍人で健在な人もいるが、来日されるまでの方はいないでしょう」と話していた。

 寄せ書き日の丸 先の大戦では出征にあたり、家族や知人らが武運長久を祈って日章旗に署名やメッセージを寄せ書きし、多くの日本の将兵は受け取った日章旗を肌身離さず身に着けて戦地へ赴いた。一方、連合軍の将兵らは戦火に倒れた日本の将兵が持っていた日章旗を戦利品として入手。故郷へ持ち帰った。その後、日章旗の返還を希望する旧将兵やその遺族が出てくる一方、近年は国内外のインターネットオークションで売買されるケースも増加、問題となっている。
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113凡人:2018/08/18(土) 03:04:57 ID:9F476DDg0
本当の日本史とは?日本の精神論とは?その片鱗だけだが、重要なポイントは捕えていて面白い記事である。学生には教えない、また教科書には載らないもう一つの日本の歴史。「志願」と「命令」の言葉の使い分けは慰安婦問題にも言及されてよいだろう。日本史の美化に余念のない右翼主義・似非教育者たち。隠ぺいとねつ造。そこには真理のかけらの一つも何もない。右翼というバカ者たち。それに染まる教職員が集う高崎経済大学というブラック大学、凡人の目には高校、の体質とレベルの限界がよく見えて面白いではないか。
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鴻上尚史が受けた衝撃… 特攻帰還者を幽閉した「振武寮」の驚愕の内幕とは?〈dot.〉
2018/8/15(水) 7:00配信 AERA dot.

写真=1944年10月。三重県・明野教導飛行師団にて。ラッキーセブン隊の一員で、陸軍初の特攻隊「丹心隊」の一員に選ばれた佐々田眞三郎少尉(左)と談笑する大貫少尉

 太平洋戦争末期に、特攻帰還者を幽閉する「振武寮」という施設があった。そこでは上官が帰還兵を殴打し、怒声を浴びせ、再び生きて戻ることは許されない、と思わせる精神教育が行われた。2009年に出版された『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』は、元特攻隊員が知られざる内幕を明かした、驚愕のノンフィクションだ。

 鴻上尚史さんのベストセラー『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』は、実はこの『特攻隊振武寮』からヒントを得て書かれたのだという。鴻上さんが本書から受けた衝撃とは?

*  *  *
『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』という本を書きました。9回出撃して、9回生還した陸軍一回目の特攻隊員、佐々木友次さんに関する本でした。

 じつは、佐々木さんという存在を教えてくれたのが、この『特攻隊振武寮』でした。

 この本の中の「ところで佐々木だが、その出撃はトータルで8度に及び、周囲が死に追い立てるのをあざ笑うかの如く、ことごとく生還している」という文章に衝撃を受けた所から、僕の佐々木友次さんに対する旅は始まったのです。ですから、この本を読んでいなければ、『不死身の特攻兵』も生まれませんでした。佐々木さんの存在を教えて下さった著者の渡辺考さんには、感謝しかありません。

 2009年に出版されたこの本を手に取ったのは、特攻に出撃し、帰ってきた隊員を軟禁する『振武寮』という理不尽そのものの存在に衝撃を受けたからです。

 僕は子供の頃から、特攻隊に特に関心がありました。理解したいのにできない、という理由が大きかったと思います。どうしてそんな戦術を取らなければいけなかったのか。なぜ、終戦まで続いたのか。本当に「微笑みながら突入」したのか。分からないこと、知りたいことは山ほどありました。

 特攻関係の本はとてもたくさん出版されています。僕と同じように「特攻とはなんだったのか?」ということを知りたい人が多いのだと思います。

 多すぎてどれを読めばいいのか迷うほどですが、『振武寮』の存在は特攻の理不尽さを別な角度から照射したものだと思います。

 もう一人の著者の大貫健一郎さんが大貫妙子さんのお父様だったことで、この本はより身近な存在になりました。大貫妙子さんとは、テレビの仕事で何度か共演しました。ライブにも行きました。大貫健一郎さんの体験が、より切実なものとして僕に迫りました。

 今回、文庫化にあたり再読してみると、9回生還した佐々木友次さんと、大貫さんの発言や行動、気持ちに似た部分が多いことに気付きました。

「死ぬことが運命ならば、生き残ることも運命ではなかろうか――」

 この本の冒頭の大貫さんの言葉です。これは、佐々木さんの「(生きて帰って来れたのは)寿命としか考えられない」という言葉に対応すると思います。

 人は自分を超えた圧倒的に大きなものに翻弄された時には、時代とか運命とか寿命とかを考えるようになるのではないか。そう思わなければ、多くの仲間が死んで、自分が生きていることに説明がつかない。あまりにも小さな偶然や出来事が、死と生を簡単に分けるという残酷な現実を知れば知るほど、無力感に抗えなくなる。そういうことかもしれません。

 操縦士であることの感想も似ています。
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114凡人:2018/08/18(土) 03:09:04 ID:9F476DDg0
 激しい訓練や屈辱的な扱いを受けても、辞める奴は一人もいなかった。「大空をかけめぐる爽快感は他の何物にも代えがたく、戦闘機を自由自在に操縦できるようになったときは、ああ男に生まれてよかったと思いました」と大貫さんは書きました。

 佐々木さんは言います。「なにせ、空へ浮かんでれば何でもいいんでね」「戦場に行くのが恐ろしいとかあんまり思ったことないですよ。飛んでいればいいんです」

 お二人とも、本当に空を飛ぶことが好きなんだなと感じます。そして、空に上がれば、どんなに激しい軍隊のいじめも階級的重圧からも解放される。

 パイロットは技術職であり、プライドを持つ存在だったのだと分かります。

 そんな人達にある日、体当たりの命令が来る。その時の反応も似ています。

 大貫さんは書きます。

「みな一様に青ざめた。冗談じゃない、そんなことできるわけないじゃないか。俺たちは戦闘機乗りを志願したわけで、戦わないで突っこんでいくなんてとんでもない」

 佐々木さんもまた「いや話にならんですよ。動揺して」と僕に語りました。1カ月の間に何人もの殉職者を出しながら、死に物狂いで急降下爆撃の訓練を続けているパイロット達に、突然、体当たりの命令を出す。それは、彼らの技術の否定であり、プライドの否定であり、存在そのものの否定でした。

 大貫さんと佐々木さんの違いは、所属した部隊の隊長が喪服に倣って黒マフラーをつけたか、「我々は爆弾を落とす。体当たりはしない」と宣言するかでした。

 また、大貫さんは一応、「志願」の形になっています。ほとんど、暗黙の空気としての「命令」ですが、形としては一応、「志願」です。戦後、指導部が強弁し続けた内実のない「志願」です。

 佐々木さんの場合、はっきりとした「命令」でした。

 飛行時間は佐々木さんの方が何倍か多いようです。結果、佐々木さんは実戦での急降下爆撃の難しさを経験します。そして大貫さんは、特攻が指導部が思っているほど簡単なことではないと気付きます。

 爆弾を落としても当たりにくいから、直接体当たりしようというのは、「航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ」と、佐々木さんの上官、岩本隊長は言い放ちました。

 作戦の理不尽さに怒り、呆れたのは二人とも同じです。

 自国の島に不時着した場合でも、飛行機を燃やし、自決せよという命令を本気で言うことの理不尽さと愚かしさ。

 生還するたびに、佐々木さんが浴びた「次は必ず死んでこい!」「どんな船でもいいから体当たりしろ!」という命令の理不尽さや愚かしさと同じです。

 命令した上官が「最後の1機で必ず私はおまえたちの後を追う」と言いながら、戦後も生き延びたのも、お二人とも同じです。

 大貫さんにこの言葉を言った司令官は95歳まで、佐々木さんの司令官は68歳まで生きました。

 特攻に出発する時に、充分な掩護も戦果確認もなかったのも同じです。「精神一到すれば何事か成らざらん」という精神論で大貫さんは押し切られましたが、佐々木さんもたった1機での特攻を求められました。

 大貫さんと佐々木さんが同じだと書いていますが、じつは、多くの特攻隊員はみんな同じだったということです。佐々木さんの方が1944年の11月から12月、大貫さんは1945年の4月ですから、状況は大貫さんの方が悪化していますが、ごく初期を除けば、特攻の実際は悪化しながらも、とても似ているのです。

 掩護機や戦果確認機を出す余裕はどんどんなくなり、出せたとしてもほんの数機、百機単位で波状攻撃して来るアメリカ軍機にはなんの意味もない編成でした。

 そして、後半、『振武寮』に入れられる大貫さんと、9回も特攻を繰り返しフィリピンの山奥に逃げ込む佐々木さんの運命ははっきりと分かれます。

『振武寮』の倉澤清忠少佐の存在は凄まじいの一言です。戦後、復讐を恐れて80歳まで拳銃を持っていたという記述には唸りました。本人が自分のしたことの意味を知り、どんなに怯えていたのか分かります。

 同時に、インタビューのあけすけな語りに、これまた唸ります。「12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ」を始めとした発言に衝撃を受けます。

 この本は、大貫さんの「特攻隊員に選ばれて、不時着するまで」と「『振武寮』に入れられた顛末とそこでの生活」、そして、もう一人の著者、渡辺考さんの丁寧な「特攻隊の歴史と実態」の3つの大切な部分によって構成されています。
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115凡人:2018/08/18(土) 03:11:25 ID:9F476DDg0
 大貫さんは、「私は自分が特攻であるということは、周囲の親しい者を除いては誰にも語りませんでした」と書かれています。

 じつは、佐々木さんもずっと語ってきませんでした。若い頃に一度、長いインタビューに答えた以外は、話して欲しいという依頼をずっと断ってきたのです。

 けれど、ある時期、それはたぶん自分の寿命としての人生を意識し始めた時に、自分の歴史を語り始めました。

 大貫さんは2012年に、佐々木さんは2015年にお亡くなりになりました。よくぞ言葉を残してくれたと思います。

 大貫さんや佐々木さんの言葉をしっかりと受け止め、未来の人達に渡すことが、今を生きる日本人の責任のような気が僕はしています。(文/作家、演出家・鴻上尚史)
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116凡人:2019/07/13(土) 17:45:34 ID:/8TRzhd60
中曽根康弘元首相と従軍慰安婦問題
2018年8月の記事。
http://rapt-neo.com/?p=28575

朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。

「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。

中曽根元首相は自分の”手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

まず、”手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の”手記”のほうがデタラメということになってしまう。

だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。

第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。

同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
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117凡人:2019/07/13(土) 17:48:10 ID:/8TRzhd60
本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。

すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる

主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。

バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

そして2つの地図を見比べてみると、”ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。

そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。

つまり、中曽根首相がこうした”強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。

一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

----------------(転載ここまで)

このように、「中曽根康弘」は戦時中に「慰安婦」を集めて「慰安所」を作り、それを自慢げに記録に残したりするような人物なのです。
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