したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

英語版Japan's Zombie Politicsの出版について

1藤原肇:2006/08/13(日) 14:59:46
目の肥えた読者に違和感を与えた『小泉純一郎と日本の病理』は、一部の人が指摘していたように編集段階で大幅に手を加えられ、ほぼ三割に相当する記述が削られていて、読みやすくなったらしいとはいえ、ある意味で鬼子的な本になってしまいました。それが『あとがき』に油絵を日本画にしたと言う形で、読者に対しての私流のメッセージになり、やるせない思いを間接的に表現したものです。
マンガをコミックスと幾ら言い換えても、マンガはマンガだけのものに過ぎませんが、大学生がマンガに熱中する日本の知的水準では、鳥羽僧正に起源を持つ日本画としてのマンガのレベルに、日本では出版の対象が矮小化されてしまい、それによってベストセラーが誕生するのです。
失明寸前の苦労をしたものが日本化して定着し、それが私の著作だとされたのではたまらないので、国際基準に合わせたものに書き改めるべく、日本語版の出版と同時に改作にとりかかりました。
そして、世界の読者に読まれる日のことを考え、苦手だが英文で書きあらためた物にすべく、どうにか努力した成果が実り本になりました。途中で目の手術をしなければならなくなり、医者からは失明するからと言う理由で、執筆を禁止されたがどうせ死ぬ身だから、目よりも名誉の方が大切だと言い張り、どうにか書き改めて出版を実現しました。そして、題名も「 Japan’s Zombie Politics」という普遍性を持たせ、小泉などと言う稀代のペテン師の名前を表題から追放し、日本全体の病理の問題を扱う診断書の形で、再生したものを世界の読者を対象にして、送り出したことをここに報告します。
内容的には日本語版に較べて、少なくとも百倍は良くなったと確信しており、自分の言葉と思想を取り戻せたと思います。詳しいことはおいおい報告していきますが、これが私の人生の総決算になると考え、日本が忌まわしい全体主義に回帰し、太史人として故国が世界の鼻つまみ国家にならないために、私に出来る社会への恩返しの一環として、現代史の総括をなし得たという気分です。
世界の大学図書館や有力都市の図書館などに、既に寄贈する仕事が着実に進んでいるので、日本の現代史についての基礎資料になって、多くの人に日本が直面している危険な風潮と、ペテン政治の実態理解に貢献すると思い、それが還暦を過ぎた私の遺書代わりになると考えています。

2丸岡健一:2006/08/15(火) 17:15:29
Amazon.comなどで調べても見当たりません。この英語版はどうやって手に入れたらいいのでしょうか。

3サムライ:2006/08/16(水) 06:55:10
丸岡さん、以下のような"Japan's Zombie Politics"の紹介がありましたのでお知らせ致します。

Hajime Fujiwara's Japanese book "Koizumi's Zombie Politics" (Kozumi Junichiro to Nippon no Byori) is now in its fifth printing. You will easily find it via the Amazon.co.jp link on the right. Dr. Fujiwara has now translated the book to English and adapted it to the post-Koizumi era. "Japan's Zombie Politics" has just been printed. Contact IMC if you would like to be one of the first to have this controversial book. This book is not yet on Amazon and not yet at any retailer in Japan but should be within a few weeks.
http://imcbook.net/controversy/controversy.htm

幸運なことに、私は同書を知人を介して入手しており現在通読中です。本スレッドの冒頭で藤原博士が「内容的には日本語版に較べて、少なくとも百倍は良くなった」と書いておられますが、未だ同書に全て目を通しているわけではないものの、現時点で通読した範囲においては正にその通りと思いつつ同書を読み進めています。

ただ、翻訳者の端くれの一人として、同書を日本語に訳せと言われたら躊躇するかもしれませんね。(殊に、日本語版の『小泉純一郎と日本の病理』に書かれていなかった箇所)


サムライ拝

4ヒロイエ:2006/08/16(水) 10:38:29
参考までに

http://imcbook.net/address.htm

6明智秀康:2006/08/16(水) 15:18:42
アメリカの書店の日本関係の書棚で撮影された、「Japan's Zombie Politics」のディスプレイの写真ですが、色は違うが題名が四角で囲まれていて、奇しくも「賢く生きる」の表紙と似た感じですね。。

http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/pic/JZP01.JPG

背後の壁には英語版、日本語版、朝鮮語版の表紙が見え、Japan's best seller is now available for world readers というキャッチフレーズが読めます。

7よみました:2006/08/16(水) 16:04:16
英語版を、米国を初め日本以外の世界中の大学の政治学部等に送って、
Contemporary / Modern Japanese Politics のサブテキストとして
採用すべきです。日本以外、というのは、日本の幼稚な学生には、日本語すら
難しいのに、英語ではおそらく全く歯が立たないと予想するからです。
しかし中には読みこなせる学生も居るかな。この本を頑張って読んで自分の
ものにすれば、世界に通じる形で日本の現代政治について語れるのでは
ないでしょうか。
でも、今までの学術的な本とは趣が違うので、いわゆるジャパン・ハンドラー達から
は、公式には黙殺されるだろうな、と思います。

8ナニワのだるま:2006/08/16(水) 18:00:32
明智さんが紹介された写真付きの本のカバーを見て少し驚きました。私は5月の末から6月下旬にかけて休暇を取って中東・アフリカ方面を旅をしていましたが途中経由の為、韓国のインチョン(仁川)国際空港の本屋に入るとこの本が割と目立つ所に置かれていました。

棚に背表紙が見える形で一冊ではなく、表紙が見える形で数冊ほど積まれて販売されていました。たまたま書店内をぶらついている時に私の周辺視野にビビッと感じたものですから一応本を手にしてみたものの中身が朝鮮語で書かれていた為、その時は藤原博士の本だとは結びつきませんでした。今にして思えば偶然ではありましたが5月の末ごろに既に国際線のフロア内の書店に藤原博士の本を置くという事から韓国の人々の国際政治に関する問題意識の高さを認識した次第です。

「平成幕末のダイアグノシス」の中にアメリカ・カリフォルニア州、台湾、韓国の新聞には藤原さんのコメント記事が掲載されるという箇所があったのを記憶していますが最近の日本の新聞には全くといっていいほど掲載されない、知識人や評論家が黙殺することも手伝い、日本語という同じ母国語を共有しているのに大半の国民は地球儀をもとにした外からの良識ある視点を遮断され、「知らぬは日本人ばかりなり」という現象は公益を損なうこの国の情報鎖国を証明しているかのようにも伺えます。光文社ペーパーバックスの勇断で「KZP」が出版されて以降、潜在的には大きく浸透したと思われますが。・・

9中野美恵子:2006/08/16(水) 22:09:20
「小泉純一郎と日本の病理」を読んだときのショックは猛烈でした。こんな首相になる資格も能力もない政治家を首相にして、日本はどうかしているのに誰も指摘していないのに、それを堂々と指摘した本にめぐり合えたのは、凄いことだと痛感しただけでなく恐ろしくなりました。
それだのに、この本以上の内容の本は未だに見かけません。日本人は考えることを止めてしまったのでしょうか。そんな思いでいるときに、「小泉純一郎と日本の病理」の百倍以上も凄い本が英語で出たと知り、呆然としています。
私は英語が苦手なので、光文社が増刷りするときに、英文を訳した改訂版を出してもらいたいと希望します。

11Jappaneggeyupyup:2006/08/17(木) 05:20:24
Hi!
I started to read the new book and I must say it is one of the most interesting, exciting books I have read so far about modern Japanese politics. I think that this book should be read by all those who would like to find out where Japan has come from and where it is going. Dr. Fujiwara, although a trained geologist by profession, is utlizing an effective approach through which he was able to diagnose today's Japan and its ills. The Japanese version, which has the name of the politician as part of its title, I thought it was focussing a bit too much on the person himself. I understand that this was probably also necessary in order to appela to the masses and sboost sales. Luckily Dr. Fujiwara has taken the right step to take the politician's name away from his world edition, which I find was the right thing to do. However, after having just about finished reading Chapter 1, I have come to appreciate or, understand the significnace of this politician and the need to understand the current Japanese
political, economical and social demise in the context of the family history of this man.
For those who have found about the book and are wondering whether to read it or not, I would like to refer to the last few lines at the end of the chapter:
"The history of the Koizumi family’s three generations mirrors the rise and fall of Japan. In the Meiji period, when modern Japan was being built, the first generation made his way into politics. Throughout the failed military invasion of Asia and the reconstruction of the country during the Showa period, the second generation climbed the political ranks. And now, after the burst of the casino economy’s bubble and during Japan’s slide towards death in the Heisei period, the third generation is prime minister. The three generations of the Koizumi family constitute a tumultuous trilogy. And with this third episode starring Junichiro, my conclusion is that the true identity of the man who calls himself the destroyer of the LDP is the destroyer of Japan."

Well, I must say that sadly, the current state of things are that Japan "has been destroyed" and what we see today are its final shadows cast on the horizon just before a settling sun. Sad indeed - however, given the low level of Japanese public, it is, I guess, inevitable.

12Jappaneggeyupyup:2006/08/17(木) 05:34:02
By the way, since now there are Korean and World editions of the book available on the bookshleves, the hosts or administrators of this blog could open up or extend this forum to a wider, more international / global audience and community.

14竹内茂雄:2006/08/17(木) 11:22:57
5の英語版の入手の仕方に関して<個人が露出するのはいかがなものか。石井議員の刺殺や加藤代議士宅の放火のように、白色テロの時代は始まっていると思う。丸善や紀伊国屋のような洋書を扱う書店に、中継を頼むようにしたほうが良いのではないか。

15ライデンの男:2006/08/18(金) 15:13:24
遠く離れたヨーロッパから日本を眺めた印象としては、今年の8月15日の小泉首相の靖国神社参拝騒動に見る限り、日本の社会とメディアは興奮に支配され、まるで発狂しているような異常さに支配されてい.ると見えた。国を挙げて興奮に包まれ熱に浮かされた光景は、65年前の真珠湾を奇襲した日のとき以来ではないかと思う。小泉純一郎という変人首相の衝動的な行為によって、平和国家を志向してきた戦後の日本の歴史は、捻じ曲げられて書き改められてしまったといえる。だからロンドンのThe Timesの8月17日づけの社説は、
Japan’s rewriting of history is callous and contemptible.とかいていた。Callousは皮膚にタコができて感覚がマヒした状態だから、分別がつかないと訳すより歴史感覚がなくなったと訳すべきだし、contemptibleは文字通り卑劣ということだから、日本の歴史の書き改めという捏造行為は邪道で卑劣だと決め付けられたに等しい。
http://www.timesonline.co.uk/article/0,,542-2314776.html
歴史や憲法は保守主義にとって最も大事な大典であり、一介の権力者の気紛れで書き直すことはできないものだが、日本人の歴史感覚ではいとも簡単に歴史を歪曲し歪曲してしまうし、それが日本の歴史の歪みの原因を作っている。しかもである。それを文部省や宣伝省の下僚がやるのではなく首相がやって恥じない所に、日本という国の後進性を世界の識者は読み取っているはずだが、そういった状況が進行しているときに、藤原さんが日本語版とは大幅に内容が異なるという、英語版を世界の読者に贈ったというのは意味深長ではないかと思うのである。

16桃太郎:2006/08/18(金) 22:09:30
http://japanzombiep.dokyun.jp/archive/l-247138.html


こんなブログができてます。

17大久保剛一:2006/08/19(土) 23:09:18
終戦記念日における靖国神社参拝の狂態といえる熱狂について、12月8日の真珠湾奇襲の日の興奮と同じだと指摘した15の意見は、目からうろこだった。こんな意見を言える人は国内には少なく、ヨーロッパからの意見として流石という感じだ。破滅のボタンを押してのに気づかず、熱狂で迎えた右翼と軍国主義者、それに追従したメディアと国民、日本人は65年前と同じことを繰り返している。それに気づく人も少ない。

18明智秀康:2006/08/20(日) 00:53:27
Incbook/のサイトに次のような広告が出ており、JZPは紀伊国屋に注文すれば手に入ります。
JAPAN'S ZOMBIE POLITICS: A Tragedy in Four Parts Do you get the feeling that Japan has lost its way, that the politicians are more interested in themselves than in the people? Author and critic Hajime Fujiwara has just published an English edition of his controversial "Koizumi's Zombie Politics". Fittingly this book is made available in August during the Obon season, and when P.M. Koizumi is about to be replaced by another from Liberal Democratic Party. Contact IMC if this book interests you. We will put a link here as soon as the book becomes available in Tokyo. The book may now be ordered via Kinokuniya.

19サムライ:2006/08/20(日) 05:33:28
17の大久保さんが仰せの「日本人は65年前と同じことを繰り返している」という日本の現状を憂い、日本のとるべき道を死の間際に日本への遺言として残した、時期首相になるであろう阿部晋三氏の叔父である西村正雄氏の記事が、昨日の東京新聞に載っていましたのでスキャンして以下にアップします。東京新聞が西村氏にインタビューしたのは死の数日前、7月28日でした。
http://www.nextftp.com/tamailab/photo/pic/060819_nishimura.jpg

政治評論家の森田実氏も西村氏追悼の記事を載せています。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02818.HTML

それにしても、小泉純一郎の2006年8月15日の靖国神社参拝に50%もの国民が賛意を示しているとは世も末です。

20Angel:2006/08/23(水) 06:08:07
Following is a leaflet of JZP.

Japan’s Zombie Politics
――― A Tragedy in Four Parts
Hajime Fujiwara

Product Details
- Hardcover: 328 pages
- Publisher: Creation Culture Co., Ltd.
- Language: English Edition
- Published date: 1st edition in 2006
- ISBN: 978 957-9567-78-7
- Product Dimensions: 15 X 21 cm
- List Price: US$ 24.95

Spotlight Reviews
Though Japan still has the world’s number-two economy, the Rising Sun is setting because of political incompetence and corruption. Japanese politics today is controlled by zombies.
The Liberal Democratic Party, which did whatever it wanted in its fifty year monopoly on Japanese politics, was in its last throes at the end of the twentieth century. But with the inauguration of Prime Minster Koizumi Junichiro and his zombie cohorts in 2001, this party has come back from the dead. Since then, a darkness reminiscent of Walpurgis Night has crept over Japan. Japan’s national debt has reached nearly a trillion dollars while zombies have simultaneously protected vested interests and failed to make necessary reforms. Zombies have also misled the Japanese people about their shady pasts.
It would be bad enough if Koizumi was an isolated case. Unfortunately, he is just one of modern Japan’s many zombie politicians. Koizumi, whose own family parallels the rise and fall of modern Japan, is copy cat of the ultra-nationalistic Kishi administration (1957-1960). Under Koizumi and his likely zombie successors, Japan is showing ominous signs of neo-fascism.
This book reads like a novel. But it is far more interesting. It is a not only a true documentary but also the first full behind-the-scenes story of modern Japan’s political circles. No journalist to date has written this hidden story of Japan’s political secrets.
It is difficult to understand and diagnose modern Japan’s maladies. We need a broad viewpoint of civilization from a bystander’s vantage point along with Dr. Fujiwara’s psychological, pathological, and historical insights.
About the author
Born in Tokyo, Hajime (Jim) Fujiwara received a Doctorate in Structural Geology from France’s University of Grenoble. After multinational oil corporation experiences around the world, he founded several U.S. oil companies. He now resides in Palm Springs, California.
Dr Fujiwara is an internationally renowned political commentator, with expertise interpreting the power of economy and civilization. He is also a frequent contributor to many important journals in Japan and is the author of more than forty books on subjects including international oil politics, global political economy, the structure of the universe, and civilization history. Many of his books were awarded best sellers in politics category.

Contents
- Introduction-A Nation of Zombie
- Part I. from the Cellar to the Witch’s kitchen
Chap.1-A String of Three Generations
Chap.2- Hidden History
- Part II. Evening at Forest and Cavern
Chap.3- The Koizumi Cabinet
Chap.4- A Chronicle of Zombies
- Part III. Walpurgis night
Chap.5- Pariah Capitalism
Chap.6- Reform with Sanctuary
Chap.7- Drunken Diplomacy
- Part IV. A Dismal Day at the Dungeon
Chap.8- Japan Nothing

- Afterthoughts
Translator’s note
About the author

Display picture at US book store:
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/pic/JZP01.JPG

Creation Cultural Co. Ltd.
1F, 19 Lane 106, Sec. 1, Ta-An Rd. Taipei, Taiwan.
Tel; (886) 2―2711-5678
E- mail ; eva@createclub.com or service@createclub.com

21藤原肇:2006/08/23(水) 10:54:45
敗戦記念日にあった狂気の小泉による靖国神社参拝は、軽率なマスコミが熱狂して騒ぎ立てたので、それに国民が巻き込まれてしまった。ライデンに住むらしい人が指摘したように、正気を失って感情を高ぶらせた状況は、65年前の真珠湾奇襲の日に似ており、狂気の再現だという分析は実に見事である。
そうした類推はハイポロジーの真髄であり、脱藩道場のメンバーならば考えて当然だし、次にそれを発展させることが必要だ。
真珠湾攻撃に続く南方制圧の作戦において、マレー沖でレパルスとプリンス・オブ・ウェールスを撃沈したり、シンガポールやパレンパンの制圧などが続き、「初めの勝ちはウソっ勝ち」に陶酔した日本人は、そこで戦争をやめることを考えずに、勝ち続けると妄想したのが亡国の始まりにした。
だから、小泉の腰巾着で無能な安倍があとを継げば、それがミッドウェーになると私は予想して、そのシュミレーションにハイポロジーを活用している。

22吉田春雄:2006/08/23(水) 22:17:04
安倍が小泉の後継者になることがミッドウェーに相当するという指摘は、誰も指摘していない斬新なアイデアなので衝撃的でした。
そこでこの推論には何が秘められているかを考えて、「インテリジェンス戦争」のミットゥエーに関しての暗号解読の所を読み、132頁に謎を解く鍵を発見したと確信しました。
「ミッドウェーを指すAF」という記述がそれです。大日本帝国を滅亡に導いたAFに相当するのが、ハイポロジー思考ではJapan's Zombie Politicsになるのではないか。
そうなるとJapan's Zombie Politicsは歴史に残る決定的な意味を持つ本として、日本の歴史に位置づけられるような存在なのではないか。これは正しい推論なのか。
そんなことを考えると恐ろしくて身震いがしてきます。それは私の読みすぎかどうかについて、他の人はどうかんがえますか。

23教育パパ:2006/08/23(水) 23:36:21
海外逃亡とか箔をつけるために外国に留学した代議士の息子たちが、単位を取れなかったりコミック雑誌ばかり読んでいたが、そうした世襲議員ばかりが政界で出世している今の日本。
この国の政治は品質不良の五流人材によって握られて、漂流状態だと論証しているこの本は、確かに日本の秘密の核心をついているから、それを世界に知られたことは致命傷だろう。

24フリードマン:2006/08/24(木) 00:34:26
AFは戦時国家の秘密の秘密が凝縮されていた。その点で絶対に読まれてはいけない最高機密であり、それが暗号になった意味深長な記号である。小泉にしても後継呼ばわりをされている安倍や麻生にしても代議士の子供だが、七光り族のダメ人間に属している男たちだし、こんな顔ぶれが政治の舵を取っていることが、Japan's Zombie Politics には英語で克明に書いてあるはずだ。(まだ日本語版しか読んでないので申し訳ない)
この本は英語で書かれている。そのことによって日本語で書かれたものと大違いで、外に知られてはいけない国家機密が全世界に伝わってしまうわけだから、「悪事千里を走る」という情報効果の威力は絶大だと思われる。小泉時代に続く日本の政界において、指導者と呼ぶに値する人間がいなくて、小泉と同じアホな政治家しかいないと知られることで、国民がそれを許しているということから、日本全体が世界から笑いものになりかねないということだ。
話はそこで暗号問題に変わることになるわけだが、AFは英語式に発音すればアフである。それはAFOのOがないものであるし、音響学的に見てAFOはAHOの類縁であり、アフォという響きはアベにもアソウにも似ている。だから、日本の運命はAHOに支配原理が移って阿呆の時代になり、このコドダマ(言霊)に支配されると解釈できそうである。

25朝香隆彦:2006/08/25(金) 00:53:48
次の後継者と目される安倍がミッドウェーになるということは、日本版NSCの
新設の提唱に現れているように、あの悪名高き「大本営発表」の本格的稼動を
意味しており、国内のあらゆる場面で監視体制が敷かれることは必定と考える。

もっとも、それに先立つ形で、街中、道路、駅ホーム、デパートやスーパー
その他の建造物、更には個人住宅にまで張り巡らされた防犯システムという
名の大監視網が、河川を横切る送電線へのクレーン船の接触事故によって、
一瞬のうちに首都圏大規模停電に至ったことから、安全安心とは誰のための
どこを向いたシステムであるかということが既に一目瞭然となっている。

また、この国の政治が品質不良の五流人材で構成されているならば、嘗ての
(カッコ付きだが)一流と言われたはずの経済も、自動車、ファンヒーター、
湯沸かし器、少し遡れば、乳製品などの品質不良の発覚に見られたように、
未だ五流とまでは言わないまでも、実は相当以前から三流または四流程度の
品質の人材がトップ層であったことを気が付いたはずではないだろうか。

そういう意味で「Japan's Zombie Politics」は直接「Politics」に関わる
物の怪のみが「Zombie」を示しているのでは無いことが良く理解できます。

26随徳寺:2006/08/25(金) 01:18:44
東京の八重洲ブックセンター本店8Fの洋書売場にて"Japan's Zombie
Politics"の取り扱いが開始されましたのでお知らせいたします。

八重洲ブックセンター本店 8F洋書売場 
電話(直通):03−3281−3606
メールアドレス:foreign-books@yaesu-books.co.jp
営業時間
平日(月〜土、祝日): 10:00〜21:00 日曜:10:00〜20:00

27橋本昭一:2006/09/07(木) 17:54:04
[Japan's Zombie Politics}の入手がやっと実現した。
Amazon.comでは$54.95と出ていたが、八重洲ブックセンターで\3000円ほどで購入できた。
日本のほうが外国より安いのは驚きだが、本の奥付けにはUS$24.95と書いてある。
アメリカではプレミアムがついているという事か。不思議な感じだ。
これから読むが、日本語版との違いに関して興味深々だ。

28hirosi:2006/09/07(木) 19:42:16
紀伊国屋書店で昨日入手。本体価格3493円。アマゾンの価格は、単純ミスでしょう。章立ては日本語版と同一。

29一色直正:2006/09/09(土) 17:47:07
[宇宙巡礼]の[論文]を開くとBooksがある。そこにある[[Japan's Zombie Politics]]によって英語版の[Introduction, Contents, Afterthoughts]を読むことが出来て、英語版と日本語版の比較が可能になる。
一見するとPart 1-4,の大見出しや Chapter 1-8,の見出しは同じだから、Hiromiさんが言う章立ては日本語版と同じだと思える。だが 特にAfterthoughtsを丹念に読み比べてみたら、枠組みは似ていても論旨が全く違っているのだ。
最後にあるGarcianの引用の意味を吟味すると、著者の考え方が日本語版の結論全く異なっていると分かり、そこに藤原さんが[JZP]と[KZP]に関して、「少なくとも百倍はよくなった」と断言している、秘密を解く鍵のヒントを発見したように思った。

30島津久良:2006/09/09(土) 22:23:24
三省堂書店神田本店の5F洋書売場にて「Japan's Zombie Politics」の
取り扱いが開始されましたので、ご案内申し上げます。

三省堂書店神田本店 5F洋書売場
東京都千代田区神田神保町1-1
TEL(直通):03-3293-8119
E-Mail:knd_fbook@mail.books-sanseido.co.jp
営業時間:10:00〜20:00

31品川文雄:2006/09/10(日) 19:53:13
「財界にっぽん」十月号の「時事評論」の連載記事に、元日経アメリカ社長の大原進氏が「さらば小泉政権」と題して、Japan's Zombie Politicsを読んでの印象に基づく、コメンタリーを書いておられます。

32野田隼人:2006/09/11(月) 08:38:14
鋭い分析をいつも示している埼玉県川越市の行政調査新聞であるが、一昨日の記事には失望した。
・秋篠宮妃紀子様に親王ご誕生!
http://www.gyouseinews.com/domestic/sep2006/001.html

同記事は最後の方で「安倍晋三の肝が据わりさえすれば、米国の力を借りて日本を米国から独立させることも考えられる。新たな未来戦略を安倍普三新政権に期待したいところだ」などと能天気なことを書いているが、藤原博士の『Japan's Zombie Politics』を読めば安倍政権になると日本がどうなるか分かるのだし、英語が苦手な人でもブログ「きっこの日記」を定期的に追っていけば安倍の正体が正確に掴めるはずだ。

ただ、日本版9・11事件が勃発する可能性については同感である。

33村山貴子:2006/09/12(火) 14:14:09
一色さんが論文の「Book」だと指摘したおかげで、英語版を読んでいなくてもヒントを探せると考え、前書き、目次,後書きを比べて見たのです。そしたら日本語版の「KZP」と英語版の「JZP」の違いとして、これだという目印に気がつきました。それはJapan’s Zombie Politics には「悲劇の四部作」という副題がついていて、目次にもゲーテの「ファウスト」の筋立てと共通した構成であり、ここに秘密を解くヒントがあると思いました。
確かに「ワルプルギスの夜」という言葉は両書にあるが、日本語版には「ファウスト」の面影は薄く、英語版の構成が「ファウスト」を髣髴とさせる所に、問題が潜んでいるような予感が強くします。三割も削られたと言う発言があるし、藤原さんの本には隠喩や換喩が多く、行間配置のズレや相似象の使用による謎かけが、意地悪な遊びとして良くあるので、それを解くことが必要かも知れません。
このレスの初めで英語版に関して、「少なくとも百倍」という発言がありますが、なぜ144倍や169倍ではないのかと考えました。そうして、これは「百人一首の魔方陣」に関係しているし、そこで10 X10に関しての議論をしたことが、ワルプルギスの夜と結びつくように思いました。そうなると「魔女の九九」も大変重要になるわけで、かつてその議論で賑わったことを思い出して、一時間以上も「魔女の九九」を探したが見つかりません。
どのスレッドにあったか覚えている人がいたら、怠け者の悪い癖で恐縮ですが、教えてもらえたら嬉しいのですがよろしいでしょうか。

34秋月悠人:2006/09/13(水) 00:18:43
村山様

関連するテーマも考慮しますと複数のスレッドにて議論がされておりましたが、
過去ログ倉庫に「ファウスト」の件も含めた以下のスレッドがございますので、
お知らせ致します。

■「魔女の九九」について考える
http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/storage/1097517188.html

35村山貴子:2006/09/26(火) 11:21:09
秋月様ありがとう御座います。陰様でじっくりと読み直して考えるのに役に立ちました。
藤原さんがこの欄の#1に「Japan’s Zombie Politics」について書き込み、「KZP」より少なくとも百倍よくなったと言っていたのを読み、これも魔方陣に関係した表現だと閃きました。それは百が十の二乗だという事のほかに、それまで「百人一首の魔方陣」の議論があり、百人一首は十の自乗の魔方陣だったからです。しかも、Japan’s Zombie Politicsの副題にはA Tragedy of Four Partsと書いてあり、四も二の自乗の冪数だっただけでなく、構成が「ファウスト」に相似形だったのです。その上に以前「魔女の九九」の議論があったことは、九の九自乗の魔方陣を論じた事を意味し、何か冪数が隠されているような感じが強烈です。
太田さんの「百人一首の魔方陣」を熟読したら、藤原公任の「三十六歌仙」の事とそこから二十五首を選んだとあり、六の自乗と五の自乗が出てきました。お蔭で「百人一首」や「三十六歌仙」関係の本を読み直せて、二十五歌仙が百人一首の四十九までに現れ、定家は俊成の四十九歳のときに授かった子供だと知りました。藤原定家が数学の天才だっただけでなく、暇を活用して謎解きを楽しむ名人だったとしたら、フイボナッチ数列の本を書いている以上は、藤原肇さんも何か仕組んだだろうと考え、A Tragedy of Four Partsに秘密が封じ込まれていると見当をつけたわけです。

36秋月悠人:2006/09/26(火) 22:45:25
村山様。こちらこそ大変貴重な投稿を頂きまして、誠に有難う御座います。
これで、九九の魔方陣(九の自乗)の話に始まり、十の自乗、二の自乗、
六の自乗、五の自乗ときて、七の自乗の四十九の話にも至ったことから、
折角なので、未熟ながらも三と四と八について推測したいと思います。
三の自乗が九星を示し、八の自乗が六十四卦にあたるとすれば、あとは
四の自乗になりますが、魔女の九九のスレッドにて触れられておりました、
「藤原定家の孫の為相が冷泉家の始祖」をヒントに少し頭を働かせますと、
定家の子の為家が、側室の阿仏尼との子の為相を溺愛して、後々の相続
問題に発展し、この時に阿仏尼が記した紀行日記が「十六夜日記」である
ことから、四の自乗の十六と考えるのはやや飛躍しておりますでしょうか。

37秋月悠人:2006/09/26(火) 23:57:17
先の私の投稿は一見するとこのスレッドの趣旨とは全く異なるように思われますが、
それは確かに言葉足らずの尻切れトンボの文章のままで終わらせてしまったためで
あると思いましたことから、少し追記させて頂けますと、藤原為家の嫡流が為氏で
二条家(二条派)となって後に大覚寺統と結びつき、庶流の為教は京極家(京極派)
となって持明院統と結びついたものの、両方共に南北朝時代の頃までには断絶して、
周知の通り、為相の冷泉家のみが現在に至るまで残っておりますが、この冷泉家も
上冷泉家と下冷泉家があり、明治時代になってから下冷泉家が時の天皇に従う形で
東京に移り、上冷泉家が京都の留守居役として残ったことが現在の冷泉家の本流と
なっていることに関係しているならば、これは大変興味深いところです。
このように当時の上つ方に連なる方々の歴史を表層から簡単にとらえてみましたが、
似たようなアプローチで「A Tragedy of Four Parts」から何を読み取ることが
出来るか挑戦してみることも楽しい試みではないでしょうか。

38村山貴子:2006/10/11(水) 14:32:59
秋月さんの「十六夜日記」の謎解きが余りにも見事だったので、ちょっと呆然として考えを進めるのが苦しくなり、そのために時間が経過してしまいました。それに易経の六十四卦が八の自乗と言うのもお見事です。私はむしろ副題と目次に注目していたので、『十六夜日記』には全く気づきませんでした。
目次で悲劇の四部作とあったことと、ゲーテの「ファウスト」は二部から出来ており、その第一部が四部に分割されていたので、存在していない第二部がもしあったとしたら、合計で八部になるのだがと考えて、それをどうしたら十六に結び付けられるかと首をひねっていたときに、『十六夜日記』という指摘を見てショックを味わったのでした。

39藤原肇:2006/10/26(木) 03:28:54
悲劇という副題を持つ「ファウスト」を読んだ人ならば、丸天井のあるゴシック風の狭い部屋の中で、ファウストが嘆息している冒頭の場面は、何としても印象的なので覚えているはずだ。
本当はドイツ語の原文が最も適当だと思うし、日本語訳に関しては実にたくさんのものがあるので、とりあえずはドラクロワの挿絵がついていて、私が愛読しているCollector’s Editionから英訳を引用しておく。
Faust:
I’ve studied all Philosophy,
Medicine, Jurisprudence too,
Also, to my grief, Theology;
Yet here I stand, poor fool! What more
Not one whit wiser than before!
I’m Master, Doctor, and I’ve found
For ten long years, that I chose
I’ve led my students by the nose,
First up, then down, then all around,
To see that nothing can be known!
………続く

40藤原肇:2006/11/20(月) 11:43:03
シュペングラーはミュンヘン大学やベルリン大学で数学や自然学を学び、高等学校で数学教師をしていたので博識だったが、歴史学者ではないのにこの本の冒頭において、「歴史を前もって定めようという試みのなされたのは、本書が始めてである」と凄いことを言っている。彼はゲーテの形態論に魅せられて研究したので、「緒論」に「死んだ形態を認識する方法は数学的法則である。生きた形態を理解する方法は類推である。この方法によって世界の両極性と周期性とが区別される」と書いたのを読んで、地質学をやり45年の地球の歴史を扱う歴史学徒の私は反発した。
そして、死んだとか生きたというのは時間の関数に過ぎず、当時は線形だけで非線形の概念がなかったので、彼は人間のレベルから捉えたのだろうと思った。形態学には極大や極小の意味で極はあっても、それは周期性の部分だからメビウスの輪で収まると思い、トーラスの平面投影のホロコスミックス図を考えた。
このシュペングラーが書いた『西洋の没落』の主題のひとつに、「アポロン的、ファウスト的」な自然認識というのがある。これはゲーテと共にニーチェに強い影響を受けた彼が、ニーチェが『悲劇の誕生』で大いに論じた、「アポロン的とディオニソス的」という対比を展開したものと予想していい。だが、ゲーテ、ニーチェ、シュペングラーは森の住民のゲルマンであり、アルプスの彼方のレモン花咲く世界を体感しても、それは憧れを通じて成長を満喫するのは可能だが、そこで一生の完結はできないはずである。
もし、ゲルマンの子孫が晩年を地中海方面で過ごすと、ヴェネッチィアで死んだヴァグナーやトリノで狂死したニーチェが示すとおりで、宇宙からの紫外線は精神に有害なのだ。だから、賢明なゲーテはイタリア旅行を早く済ませて、最後は愛すべきワイマールで光を希求して亡くなり、至って幸福な生涯の最後を迎えている。
ということは光が支配するアルプスの南に対して、闇の中に光も存在する北欧の世界は異質であり、地中海地方なら光り輝くホメロスやペトラルカを生むが、北欧では最高のゲーテでさえ悲劇として展開した、ファウストに見られるように闇の中を探り、最後の光芒に救いを求めることになるのだ。だから、アルプスの北や日本にはアポロン的なものはなく、この風土には最初から半分しか存在していないのであり、最も良いケースでもファウスト的なもので、悪ければその鏡像が必要になるというのが、「JZP」を書く出発点での私の構図になった。

41村山貴子:2006/11/23(木) 15:29:04
ファウスト的なものの両側にアポロン的とディオニソス的なものがあり、「JZP」が四部から成り立っているので、このファウストに鏡像を組み込めば実と虚が生まれます。
そうするとたちまち8から16にとなるので、ファウストという一人の主人公による一つの作品が、2,4,8,16という形になりますし、これは2の冪数で零乗、一乗、二乗、三乗、四乗と続いて行きます。
鏡像というヒントはとても役に立ちまして、数学的に「十六夜日記」に肉薄できたようです。鏡像という貴重なヒントを有難うございます。

42藤原肇:2006/12/04(月) 05:59:02
過去の追想や回顧談が始まると老化現象だと言うが、私も68歳でれっきとした老境に達しているし、夏目漱石が19歳で亡くなったことを思えば、すでに随分と長生きできたものだと思う。また、本欄に関係したことで大事な経験を伝えたいので、一種の回顧談としてここに記録を残しておきたい。留学生時代に素晴らしい環境にめぐり合い、友人たちと一緒によくマンデス=フランスさんのアパルトマンを訪れ、ぶどう酒を味わいながら回顧談を聞いたことについては、『オリンピアン幻想』か他の本に書いたと思う。
そして、政治や外交の裏話をしてもらって多くを学んだが、「本や雑誌に書いてある歴史の話と実際の歴史は違っている」と言う話を聞いて、その時に我が意を得たりと感じた私は生意気にも、「本は書いてあることよりも行間を読むことです」というような発言をした。まだ若かった私は老政治家から諭されるようにして、「君はまだ若いからそう思って当然だ。だが、行間よりも著者の頭の中を読む方が遥かに大切で、それが真実への道だとそのうち分かるだろう」と言われてハッとしたことがある。不惑の歳を過ぎてからはこの諌めが身にしみて、読書は著者の立場で読むように努めてきた、
豊かな社会体験や猛烈な読書の蓄積によって、著者の頭の中を読む読者が育つのであけば、そういう読者に向けて書かれた本があるし、それが『ファウスト』ではないかと痛感した。その意味では作品を書いたときを回顧してくれた、エッカーマンの『ゲーテとの対話』の中のゲーテの発言は貴重で、それを思いながら「JZP」の骨組みと全景について、悲劇のゲッシュタルトを構成したという次第である。

43藤原肇:2006/12/04(月) 06:17:33
目が悪いせいで漱石を19歳で亡ならせてしまったが、49歳の間違いで申し訳ない限りであり、『山月記』の中島敦は何と33歳で生涯を終えている。

44ひろもと:2006/12/04(月) 08:15:35
私なども漱石は50代で逝去したものだとしばらく思い込んでいたものだ。漱石の名を知らない人には、出会ったことがない。
愛読者を自認する人にも案外そう思っている人が多い。数え年では50歳なのだから、漠然とそう思うのかもしれない。
仙台の東北大学・片平キャンパスの南、広瀬河畔に漱石の弟子の一人「三太郎の日記」で知られる阿部次郎の記念館がひっそりと建っている。
今は訪れる人もまれだそうだ。一日そこを訪れ、漱石の手紙(」巻紙の)などを見てきた。
館には若い物静かな女性が案内役として居たので、わたしは、「初めて漱石の手紙を見ましたが、筆も達者なんですね。何歳ころの手紙なんでしょうかね?」
と聞いてみた。「昔の方は達筆ですよね。50代初めのものではないでしょうか。」という返事が返ってきた。
私は、訂正しようかどうか一瞬迷ったが、やめにした。この若き案内者は暇なので、わたしをチョットからかったのかもしれない。
添う思うことにして・・・。真相はどうだったのだろうか?皆さんも、来仙の折にはどうぞ。広瀬河畔の風で心身とも爽快になることは、保証します。

45ひろもと:2006/12/04(月) 08:27:32
前の投稿に、すこし補足を。
「漱石の名を知らない人には、出会ったことがない」と書きましたが、私は仙台で
タクシーの乗務員をしており、お客さんとは(特に、常連の方)よく、最近の読書の話を
することが多いのです。その「阿部次郎記念館」のことも、いままで、知っている方はいませんでしたね。
「三太郎」というと、おでんやさんを思い出す紳士然とした方がほとんどです。

46藤原肇:2006/12/05(火) 11:03:31
怪我の功名で漱石を夭折させたためにこの欄が談論風になり、暫くは皆さんの自由な議論にゆだねることにします。また、「著者の頭の中を読む」ということを書きましたが、それは読者が頭の中でやることであり、別の言い方をすれば、自分の五感と体験を組み合わせて考えるという、精神と魂の共同作業をすることです。
著者がこんなことを書き込んだらえげつないでしょうが、JZPを読んだあるジャパノロジストの話によると、「この本は日本の現代史の深層を知る上で、今までに存在したことのないタイプの本だから、そのうち教養課程の授業でテキストに使われるだけでなく、日本の政治の将来の予言書でもある」というお褒めを頂、とても嬉しいと思う経験を味わいました。
日本ではまだ読了した人も非常に少ないと見えて、反響や書評は登場していない状態ですが、欧米では読んで意見をE−mailしてくれる人もあり、英語が苦手なフランス派の私が苦労したとはいえ、世界語(コンピュータ語)にしておいて良かったと感じています。
そうなると後世の世代の中からこの本をテーマにして、卒論を書く若者が出てくるかもしれないし、そんなことをほのめかした人まで現れ、私の死後に役立つメモを残す責任を感じましたが、果たしてこれは自意識過剰な世迷いごとでしょうか。
その意味ではこのスレッドは貴重な資料になり、議論を深めることは後世への遺産になるでしょう。同時に「JZP」の誕生にまつわるサイドストリートして、どういう形で英語の本として世界に送り出されたかに関し、もっと日常的なこともメモする必要がありそうです。
そこで後世の読者の参考資料のメモとして、別の[Japan's Zombie Politics誕生へのストリー]というスレッドを作り、そこへゆっくりと書き込もうと思いついたので、それをパラレルに使って行くことにしようと思います。

47藤原肇:2006/12/07(木) 11:08:09
「アポロン型」と「ファウスト型」について議論するために、それを論じたシュペングラーの話に戻る。
『虚妄からの脱出』の第六章の「日本の教育制度とプロシア精神の亡霊」に書いたが、1872(明治5)年の学制はフランスの制度を手本にして、人口600人を基準に大中小の三段階の学区を作った。そして、210の小学区を1中学区として、32の中学区を1大学区としたのであり、それぞれの学区ごとに作った学校に対し、小学、中学、大学という名前を与えたのだった。だから、小学、中学、大学は学区の広さと順序を示したが、それぞれ自己完結のシステムと考えて、その間にどれが偉いかという序列はなかった。だから、その後に各師団の所在地に高等学校を作った時に、教養を身につけるその学校に高等と名づけたのは、英米のカレッジ、フランスのリセー、ドイツのギムナジウムに由来する、リベラル・アートとしての全人教育の意味を与えた。
ヨーロッパでは大学教官は専門職であり、専門知識があれば誰でもなれるが、高校教師は教養全般の国家試験があるし、教師として最も尊敬を払われてきた。だが、日本では上下の支配関係が大中小に及び、大学教師のほうが高校の教師よりも偉いとされ、大学教師より大学院教師よりも偉いと誤解して、最近では大学教授が大学院教授の肩書きをひけらかし、実に見苦しい肩書き主義が蔓延している。だが、本当に優れた幅広い教養を持つ教官として、リセーやギムナジウムの教師が存在しているのであり、シュペングラーもギムナジウムの教師だったのである。

48龍雲永平:2006/12/09(土) 10:38:28
42に関しての印象。
若き日の道元が留学僧として宋に渡って寧波の港についた時の話だ。船に訪れた阿育王寺の老僧に向かって道元が「只管打坐でなく作務をする気持ちが分かりません」と言ったところ、老僧は「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せず」と呵呵大笑した。この話は道元が帰国して15年後の追想談として知られているが、青年留学生とマンデス・フランス氏の話は似たような雰囲気を味合わせてくれる。

49藤原肇:2006/12/21(木) 00:17:55
シュペングラーが強くゲーテとニィチェの影響を受けており、二人のドイツの偉大な思想家の考えを下敷きにしていたことは有名だ。特にゲーテの形態論の影響はすさまじいもので、形として捉えられるものに関しての過度の重視は、シュペングラーが同じようにドイツの知識人だっただけに、折角のパターン認識による比較類推(ハイポロジック)な手法が、ドイツ観念主義によって毒されているという感じがする。
私も博物学をやった関係でゲーテの形態学に強い関心を持ち、若い頃からその着眼点の良さを評価して来たが、シュペングラーはあくまでもドイツ型の知識人で、ヨーロッパ人だったゲーテとはだいぶ違っているという感じがする。
だから、ニィチェの考えた「アポロン型とディオニソス型」を変形して、ディオニソスに代えてゲーテを持ってきたのは、「贔屓の引き倒し」として矮小化になってしまい、それがどうもおかしいという批判になってしまうのである。

50藤原肇:2006/12/21(木) 14:28:00
藤井尚治先生がよく強調していたことだが、1900年前後はサイエンスにおいて画期的な時期で、重要な学説や理論がぞくぞくと登場した。プランクの量子学説を始めラドフォードやボアーの原子モデルとか、アインシュタインの相対性理論の土台となった、マッハの認識論もこの頃に確立している。レントゲンによるX線の実用化やキューリー夫人の放射能もそうだが、ドフリーズの突然変異やメンデルの法則の再発見とか、フロイトの深層意識についての仮説も登場して、医学や心理学の分野に新しい観点が育った時期でもあった。
だから、そういった時代の流れの中で新しい自然観を学んだので、シュペングラーは数学を専門にしたギムナジウムの教師として、新時代の子供として力学と形態学に取り付かれた。これらは19世紀後半のサイエンスを席巻した、シュペングラーにとってヘルムホルツの運動についての新仮説の応用は、ゲーテの形態学の持つ螺旋運動が動態として変化するという意味で、力学の魅力と結びつく上での秘密の根源だった。そして、第一次大戦が終わったときに出版したのが「西洋の没落」で、その中で彼は「ファウスト的なものは無限界空間の動力学であり、アポロン的な理論は静かな瞑想である」と論じたのだった。

51藤原肇:2006/12/23(土) 08:19:29
シュペングラーは現象や形態として捉えられるものを観察して、そこに見られる運動と結ぶ力学関係に注目したのだが、ドイツ人らしく目に見えるものを見て耳に聞こえるものだけを聞き、地中海文明人のように見えないものを見たりはしない。
それは今の時点に生きる故にわれわれは批判できるが、彼にはフィボナッチ数列の持つ法則性に気づかなかった。だから、彼は有限の枠の中に閉じ込められた人間の次元で考え、大自然を貫いている天と地を司る法則として、アポロンの領域に属すフィボナッチ数列の本質に気づかず、アポロン的なものを「静的」と規定してしまったのではないか。
それは彼が現代物理学における根本表象として取り上げたものに、「偏光、浮動するイオン、気体理論における飛び来たり追突するガス分子、磁気の場、電流、電波・・・」などがあり、これらは形態や数値として捉えられるものだが、それをファウスト的な象徴だと書いていることから、彼の発想の限界が読み取れると思う。
その点で彼の枠組みはニーチェに比べて遥かに劣り、「アポロン的とファウスト的」はニーチェの沸く組のサブシステムとして、「アポロン型とディオニソス型」の境界にいて中庸の人がゲーテで、「ファウスト」はアポロンとディオニソスの間を揺れ動くドラマだと、整理し直したらいいのではないかと思った。これでシュペングラーは卒業して終わりにする。

52津和野 貴志:2006/12/23(土) 13:06:47
#42に関連して。わかったぞ。“ECKERMANN GESPRAECHE MIT GOETHE”(エッカーマン『ゲーテとの対話』 1861年6月6日(月)だ。これが鍵になっている気がする。皆で読むべし。

53津和野 貴志:2006/12/23(土) 13:15:16
ごめん。1831年の間違い。許して。この日の日記の書き出しはこうだ。
Goethe zeigte mir heute den bisher noch fehlenden Anfang des funften Aktes von >Faust<.
今日ゲーテは私に、今まで無かった(未完成だった)第五幕を見せてくれた。
(中略)
Der Faust, wie er im funften Akt erscheint, sagte Goethe ferner, soll nach meiner Intention gerade hundert Jahre alt sein, und ich bin nicht gewiss, ob es nicht etwa gut ware, dieses irgendwo ausdrucklich zu bemerken.
“第五幕に登場するファウストはね”ゲーテは続けて言った。“私の意図では、丁度100歳であるべきなんだよ。でもね、このことをどこかにはっきりと明記すべきかどうかについて、迷っているだ。”

54津和野 貴志:2006/12/23(土) 13:20:28
よめた。昔、とんでも自称オイルマンが『2039年の真実』という俗記本を出したが、JZPには、『2038年の真実』があるんだな、おそらく。

55津和野 貴志:2006/12/23(土) 19:56:01
何の反応もないな。続けて つついて みよう。
#53のはじめに続けて。Ich las bis zu der Stelle, wo die Hutte von Philemon und Baucis verbrannt ist, und Faust in der Nacht,
auf dem Balkon seines Palastes stehend, den Rauch riecht, den ein leiser Wind ihm zuwehet.
私(エッカーマン)は、ほのかな風が運んだPhilemon と Baucis の小屋の焼け落ちた硝煙の臭いを、屋敷のバルコニーに立って嗅ぐファウストがあった、という箇所まで読み進んだ。
(下手な訳ですみません。正式な日本語訳で読んでください)。

56藤原肇:2007/04/20(金) 15:02:10
久しくご無沙汰してしまいました。ゾンビ本を書いたことにより目を傷めてしまい、昨年の春に第一回の目の手術をしてから合計で四度の手術を行って、この3月23日に四度目のものが終わりました。お陰で天眼鏡なしで老眼鏡で本が読めるようになり、医者からコンピュータのスクリーンを短時間なら、サングラス使用で見ていいとの許可が出たので書き込みました。
ご縁のあった丸山真男さんや森嶋通夫誰さんも晩年は失明しており、私も多読なので心配しましたが失明はまぬかれ、これからも本は読めそうで有難いことです。これからは参考資料として遺すために、とりあえずはJZPが出るまでの経過について、ボチボチ書き綴ることから始めてみます。
また、コンピュータの使えなかった過去半年を費やして、世界の大学図書館にJZPを寄贈するために、贈呈シールを貼って宛名書きをおこない、これまで米国の大学400校世界の大学120校に発送し、あと100校あまり世界に向けて送れば目的を果たし、肩の力をぬけるという段階になっています。ということで、JZPを次の世代に引き渡す作業は一段落しかけています。

57藤原肇:2007/04/26(木) 06:08:51
誰も正面から小泉のゾンビ政治を批判しなかったので、一年を費やして『小泉純一郎と日本の病理』として出版になった本は、最初は『狂乱政治の解体新書』という題だった。だが編集長がいまどきの人間には難しすぎると言ったので、『狂乱政治と日本の病理』という題に改めて編集を進めたのに、土壇場で私の知らないうちにさらに改められて、最終的にはあんな題で世に出てしまったというのが裏話。
というのは、出版の二、三週間前にロスの旭屋書店に行って店長と話をしたときに、「藤原さん、今度は小泉首相についての本を出すそうですね」と言われ、「どうして小泉なんて知っているのですか」と聞いたら、『小泉純一郎と日本の病理』という題の本で出版案内が来ています、ということだったので驚いて出版社に問い合わせをしたら、「営業の希望で題を売れるように変更させてもらいました」との返事である。
そこで「そんな嫌らしい題の本は出したくない」という著者と、「もう印刷の手配もしたし大手書店に重点配本で手を打っている」という出版社の間でスッタモンダがあったが、既に取次ぎや書店に手配済みということで、仕方なく著者が折れることで本が出ることになった。

58藤原肇:2007/05/17(木) 10:06:12
自分の本が出たという感じがしなかったのに、出版から一週間で増刷りになったのは、多くの読者に読ませるという出版社の目論見が当たり、ベストセラーの一角にランクされたからだろう。
また、多くの読者を獲得した理由としては、小泉のインチキ政治を正面から批判した本として、第一号だったという名誉せいかもしれない。そのせいで陰湿な出版妨害によって、本が手に入らなくなるという噂が流れたし、多くの人から危険だから日本に近づかないようにというメッセージが届いたので、恒例の秋の訪日は中止せざるを得なくなった。
国策逮捕という言葉がメディア上に氾濫したし、読者の一人に成田空港の通関を出たところで、検察官に包囲されて拘束されたまま、未決で三年も小菅の拘置所に収監され、人生を狂わせられた人から体験談も聞いていた。また、鹿砦社の松岡社長も名誉毀損容疑で逮捕され、半年間も接見禁止で拘束された上に、神戸地裁は懲役一年二ヶ月の判決を下している。日本はすでに強権国家として言論に対して、徹底的な弾圧を下すファシスト体制が根を張り、思想や言論の自由は踏みにじられている。
それを鋭敏に感じとった読者たちの忠告は有難く、中には体制の中枢近くの人もいるので、恒例の訪日は暫く中断するこちにしたのであるが、植草教授の冤罪からして日本の現状は、まともでないことは誰の目にも明らかなのに、それを押しとどめる市民の声は実にか細い状態が寂しい。

59細川孝雄:2007/05/17(木) 22:48:33
『小泉純一郎と日本の病理』には情報が満載されていた。その内容の多さは驚くべきものであり、資料として第一級のものとして使えると思った。それだけにベストセラーになったこの本に対して、書評が全くかかれなかったというのは驚くべきことであり、それだけこの本が抹殺の対象になった点では、歴史的な存在価値を持っていたという証拠になる。
この本が新聞や雑誌から黙殺されて書評も紹介も無かった理由は、第六章の後半に創価学会のことが総括的に書かれており、それがメディアへの圧力の原因になったと考える。これだけ創価学会の正体について抉り出した本は、藤原弘達の『創価学会を切る』以来の画期的なことで、沈黙が続いた世界に風穴が開いた感じだった。出版妨害の代わりに書評の活字化の抑圧が、行われていたに相違ないと考えるのは正しいだろう。

60藤原肇:2007/05/20(日) 13:50:05
『小泉純一郎と日本の病理』が世に出る前のことだが、ロスの書店に行ったときにそこでアルバイトをしていた、日本語を喋るアメリカ人の青年と知り合った。日本語を上手に喋るのでどこで日本語を学んだのかと聞くと、留学生として北海道大学に一年行ったとの話だった。二度目かに会ったときに「どんな本を読んでいるか」と聞いたら、「丸山真男先生のホンが好きです」と答えたのでいささか驚いた。
最近の日本の大学生は丸山先生の名前も知らないのに、『政治思想史』がとても興味深いと言われて、アメリカ人の口からそれを聴いたので感激した。それから親しく言葉を交わすようになり、丸山先生についての話をしたりしていた時に、ちょうと『小泉・・・』が・・・出来上がって届いたので一冊プレゼントした。それがスコット・ウィルバーとの出会いであり、彼はその後に「Japan’s Zombie Politics」の英訳を手伝ってくれることになる。

61藤原肇:2007/05/23(水) 14:10:14
次に会ったときに「本はどうだった」と感想を聞いたら、「藤原さんの本は難しい。丸山先生の本とは違った意味で難解です。まるでヨーロッパの18世紀のスタイルだから、未だ読み終わっていないけれども、今度会うときまでに読み上げて意見を言います」との返事で、これは面白い捉え方をする読者だなと思った。
拙著の読者の多くは私の本は意味論にこだわり過ぎ、それが原因で分かりにくいと言われて、特に売り上げを目指す大手出版社の編集長にそういう人が多いから、私の本は小さな出版社で出ることが多いのだ。
そこで「この本は日本の政治の病理学として書いたのだが、診断や背景としての文明史に相当するものは、難しすぎて誰も興味がないと編集長が三割も削ったので、診断抜きのカルテみたいな本になってしまった」と嘆いたら、「それで思想の流れが悪い箇所が生まれてしまい、ぼくなんかによく理解できないところがある理由が分かりました」と言う。

62広田武雄:2007/05/23(水) 20:44:01
「小泉純一郎と日本の病理」はそんなに難しいとは思わなかった。ただ、英語の説明があったことで読みづらいと感じただけで、藤原さんの本を読みなれているわれわれにとっては、文体の流れが淀んでいたという感じが強かったように思う。
意味論にこだわる著者が少ないだけに、言葉の意味することを正確に理解するためにも、こだわってもらった方が嬉しい読者もいるのです。

63藤原肇:2007/05/25(金) 05:32:29

広田さんが意味論の価値と重要性について評価し、それへのこだわりを支持してくれたのは嬉しい。とりあえず先に進むことにして、再びスコット君の読後感から文体の問題に戻って話を進める。
スコットの「KZP」についての読後感を聞いて、外国人の読者として中々の読み手だと感じたのは、ヨーロッパ的という指摘があったからだ。世の中には求心型と遠心型の二種類の思考形態があり、日本は求心型でドンドン集約して行くので、縮み思考の日本文化と言われているのに対して、ヨーロッパ型は遠心的で背景に向かい拡散する。
それが特徴的なのがアナール派の思考であり、最近の日本でも愛好者が増えたフェルナン・ブローデルも、イタリアのルネッサンス文化の伝統を継承して、背景の中でテーマにフォーカスを当てて立体化させることで、パースペクティブ(遠近法)を文体の中に生かす発想をする。
それが無残に崩れたのが「KZP」だったのであり、日本の読者向けに背景の広がりを削ったので国内市場では売れたが、ルネッサンスが生んだ油絵の画法に代わって、絵巻物に近い日本画の印象が出ていたことは「あとがき」で触れた通りだ。
ヨーロッパと日本の洗練された文体の構造は、遠心と求心という対極にある螺旋構造をしており、その中間に位置しているのがアメリカ型で、渦巻きをしないでストレートなものである。そして、分かりやすくするために文体も細切れで短く、関係代名詞はつとめて使わないようにしている。
だから、科学論文や新聞記事などの記録文にはいいが、思想や芸術的な表現として味わいが薄くなるために、英語に翻訳した途端に原文の含蓄が消えてしまう。そこに昭和文学や平成文学の質の低さの原因があり、明治文学や大正文学に比べて底が浅いだけでなく、ストリーを流れとして読むエンターテーメントとして、文学や論文のマンガ化の問題が生まれてくるのだ。
アメリカの会社で仕事をして痛感したのは、簡明な分かりやすさが文章の簡潔さにあり、論旨における論理性や奥行きの深さではなく、それに慣れるまでに発想法の転換の訓練をさせられた。それは最近の日本の純文学が変質して、新聞記事に似た通俗文学化したのに見るように、現代化による修辞学の衰退と関係している。そのことはゲーテが『詩と真実』において問題提起しているが、この問題をいかに乗り越えるかを痛感させられた。

64ヒロイエ:2007/05/28(月) 12:32:16
何もできない状態が続いておりますが、ひとつ。
「小泉純一郎と日本の病理」が、ごまかされたのは
横書きだったことです。
藤原さんの本は、すべて縦書きで編集されておりました。

藤原さんの本を横書きにしてHPに出ておりますが、あれは
段落等を忠実に再現しており、参考にできませんが
巷にある、HPの長い文を、一度縦書きに置き換えてみれば
いかに、横書きがおかしな文が文として成立するかを示してくれると思います。

65藤原肇:2007/05/30(水) 14:30:25
63において「世の中には求心型と遠心型の二種類の思考形態があり、日本は求心型でドンドン集約して行くので、縮み思考の日本文化と言われているのに対して、ヨーロッパ型は遠心的で背景に向かい拡散する。」と書いた。
そして、求心型でドンドン集約していく思考形式を用いながら、反転させて大宇宙を底に濃縮させる志向の代表が、日本列島における文化形式を現しているものに、超古代における「カタカムナ」と王朝時代から戦国時代にかけての「和歌」の世界だと思う。
和歌に関しては感性と結ぶ世界という印象が強いが、藤原定家による十次元の魔方陣の世界があり、これは数理的な利の世界に属しているから、和歌に関しては「回文と魔方陣との相関関係」に場を移して、議論を復活させるのが良いのではないかと考える。

66サムライ:2007/07/05(木) 15:34:19
本スレッドでも名前の出た植草教授に関するニュースです。本来であれば、今年の5月ごろに出版されるはずだった植草先生の新刊本が、ついに出版される模様です。以下は、ベンジャミン・フルフォード氏のブログからです。

*********************************************************
延期になっていた植草一秀先生の本の出版予定の最新情報です。出版は7月末予定です。
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2007/07/post-6.html

題名は『知られざる真実−勾留地にて−』
株式会社イプシロン出版企画


構成

プロローグ    想像力
第一章 偽装(小泉政権の経済金融政策を抉る)
第二章 炎(半生記)
第三章 不撓不屈(望ましい社会のあり方と生きがい論)
エピロローグ
巻末資料     真相(事件の概要)

67尾崎清之輔:2007/11/22(木) 23:47:29
MITとかINSEADなどのような米国や欧州の超一流校に置いてある『Japan's Zombie Politics』が、ジャパノロジストや、それを目指す者などに対する最良のテキストとして存在していることは、いくらJapan's Zombie Politicsの体現者達が国内での粉飾に力を注いでも、外から見ればまるで無意味なことであり、故国の惨状が却って明白に浮かび出てしまうのではないかと危惧しております。

ところで、『Japan's Zombie Politics』の副題に関して、ちょうど1年前に「魔方陣」や「魔女の九九」などをベースに活発な議論が行われていたと思いますが、No.41あたりの村山さんのコメントにあった『鏡像というヒント』から『数学的に「十六夜日記」に肉薄できた』ところで一旦とまってしまいましたので、誠に稚拙ではございますが、その続きを別の観点から私なりの解釈で行いたいと思います。

少し前に他のスレッドで述べさせて頂きましたように、『Japan's Zombie Politics』の副題『A Tragedy in Four Parts』は、今から15年ほど前の藤原さんの著書『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)で診断された日本の病理現象を構成する4種類の要素のことを示していると考えておりますが、『Japan's Zombie Politics』の副題から再考察を行いましたところ、正式な副題は『A Tragedy in Four Parts』であり、「魔方陣」や「魔女の九九」などの議論が行われていた頃の「Tragedy of …」では無かったことに気が付きました。

その「Tragedy of …」で思い起こされるのは、『Tragedy of X』や『Tragedy of Y』等にはじまる、米国の有名な推理作家「エラリー・クィーン」の悲劇四部作(一部のみタイトルが「Tragedy of …」ではない)がございますが、これらの作品群が出版された時は「エラリー・クィーン」ではなく「バーナビー・ロス」という別名で発表されており、ここに「表と裏」、「実と虚」、の関係性が垣間見られると考えます。
また、これら四部作は1932〜1933年に出版されていることから、いみじくもワイマール共和制の末期と一致しており、悲劇という意味で不思議な因縁を感じさせます。

更に、四部作の主人公『ドルリー・レーン』をキーワードに推考を重ねますと、英国最古の劇場として現存している『ドルリー・レーン劇場(王立劇場)』から、劇場の歴史や形式などに視点を移し変えることで、プロセニアム・アーチ(額縁劇場)と呼ばれる、現在私どもが目にする劇場の殆どを占めている、聴覚型主体(演技者と観客の全員が一つになることを目指した世界観)から視覚型主体(演技側の権力誇示や全体的なスペクタル性を重視する世界観)のタイプへ変貌を遂げたことによって、観客に対して多大な効果や影響が与えられたことにも気が付きますが、それは視覚的なスペクタクルを楽しむ、現代のエンターテインメント空間へとシフトしていることにも繋がり、これは裏が表になった中曽根内閣時代の「劇場型国家」という個人キャラクターが突出しつつも集団性を持つ傾向のあった呼び名から、「小泉劇場」と呼ばれた、場末のチンドン屋的な個人劇場という時代にまで至っております。

そして、悲劇四部作の『ドルリー・レーン』は、元はシェイクスピア劇の俳優で聾者の年老いた探偵、という設定で、常に難解な事件に関わりつつも、老いて耳が不自由になっている彼の得られる情報は全て眼からということになりますが、その眼を通じて得られた断片的な情報を、自らの頭の中で整理、分析、判断、統合して事件解決へ導く手法を取っていることは、正しく情報(インテリジェンス)戦争の意味に通ずる何かを感じ取ることができるのではないでしょうか。

最後に、主人公の『ドルリー・レーン』が元はシェイクスピア劇の俳優ということから、シェイクスピアの四大悲劇(ハムレット、オセロ、リア王、マクベス)にも辿り着けるので、この欧州の古典演劇をメタファーとして『Japan's Zombie Politics』を捉え直すことができるのではないかと思っている所存です。

68藤原肇:2007/11/23(金) 15:25:18
尾崎さんの炯眼と洞察力に満ちた書き込みは、まさに素晴らしいの一語に尽きる感じであり、「JZP」の副題に使った悲劇性に対して、著者も考えていなかった暗黙知のレベルまで考察してもらえ、著者冥利に尽きるという思いがひとしおである。
エラリー・クイーンの『Tragedy of X』や『Tragedy of Y』は中学時代に愛読したが、それが悲劇四部作だとは知らなかったので、おかげで賢くなれたことを感謝したいと思う。
また、これら四部作が1932年から〜1933年にかけて出版され、それがナチスによる天下取りと重なっていることからして、いみじくもワイマール共和制の末期と一致しており、悲劇という意味で不思議な因縁を感じる点で、何と凄い天の采配かと痛感させられる。
しかも、ゲーテが「ファウスト」の仕上げをした時期は、独裁者のナポレオンの君臨と自滅に重なり、第一部の完成が1806年で第二部が1831年だったが、第二部は封印されてゲーテの生前中には読み得なかった。
戦争屋のナポレオンは「若きウェルテルの悩み」と「孫子」を愛読したが、孫子の「戦わずして勝つ」の粋に達していなかった点で、リーダーとしては二流の人物だったから、私が尊敬するタレイランの好意を受けることがなく没落してしまった。
だが、今時の単細胞の戦争屋よりははるかにまともであり、「ブリュメールの18日」のクーデタを誘発した総裁府の混乱に比べても、今の日本の政治が猿芝居だと痛感せざるを得ない。
さて、長らく書き込まなかったのは「ファウスト」の第二部に相当する、私にとって最後の本であり遺書に相当するものの完成に取り組み、やっとのことで脱稿にこぎつけたとはいえ、悲劇の中に救いの光を見出せるように、推敲を目指しているために今後も暫く書き込めないと思う。だが、尾崎さんのリーダーシップに協和しながら、皆さんで「宇宙巡礼」を盛り上げていって欲しいし、適塾の精神が蘇ってくるものと大いに期待している。

69尾崎清之輔:2007/11/25(日) 01:20:23
藤原さん。このたびは誠に過分なる評価のお言葉を頂きまして、大変有り難く、心より御礼申し上げます。

私は、現代の悲劇性に対して暗黙知のレベルの考察に至ったなどという大層な事ではなく、単に『A Tragedy in Four Parts』という副題から『存在していない第二部』について思いを巡らせた結果、先述の解釈へと至ったに過ぎません。
『JZP』をファウストに見立てて、これが第一部であるとするならば、いずれ第二部への言及が為されるものと考え、それに対して藤原さんのこと、予め何か仕組んでいることは間違いないのではと思い、副題にその秘密が封じ込まれているならば、それは何かという考察をさせて頂いた次第です。

尚、今回の解釈を公開させて頂くにあたっては、少々時間を掛けてしまったかなと自省しております。
その理由は、1年ほど前に閃いたある種の勘に対して、実は恥ずかしながらエラリー・クィーンの悲劇四部作を読んでいなかったことから、その後、本屋で幾度か立ち読み(=スキャン)して、私なりに骨子を掴んで思ったところをキーワード的に書き留めておく必要があったことによるからです。
もし購入していたら、私のこと、おそらく精読することなく、多くの他書と同様に未だ本棚で眠ったままになっていた可能性が大きかったでしょう。

また、今回の解釈を文章として再構築して公開するに至っては、直接的な因果関係は無いものの、他のスレッドで若干述べました「資質の高さ」を感じ取ることのできた方の影響が大きいと考えており、ここで感謝の意を表したいと思います。
ちなみに、このあたりについては複雑系の世界に繋がることになりますが、これはいずれ別のスレッドで行いたいと考えております。

ところで、ゲーテが「ファウスト」を仕上げるにあたっては、同じドイツ古典主義の代表者であり、また彼の盟友であったシラーの影響も大きいと言われておりますが、このシラーの詩(歓喜の歌=Ode an die Freude)に多大なる影響を受けたのが、ベートーヴェンの交響曲第九番の第四章(合唱)であり、ファウストの第二部に影響を受けたのがマーラーの交響曲第八番(通称:千人の交響曲=Symphonie der Tausend)ということになりますが、この交響曲がウィーン最後の時代を飾った名曲であったが如く、JZPの第二部にも大きな期待を抱いております。
そして、この第二部が出てくるまで、皆様と共に、これまでの博士の書籍群をベースにして、現代社会の抱える悲劇という暗闇から、新しい時代創りに向けた救いの光芒を見出せるよう、より多くの方々との共創によって、個々人の活動が、それぞれの地域や社会から、国家を超えて世界レベルへと普遍的な展開が為されていくよう、盛り上げていきたいと思います。

71朝香隆彦:2007/12/11(火) 01:33:41
『デリバティブバブル崩壊後の新世界秩序』のスレッドにおける小生のNo.17でのコメントが、どちらかと言えばこちらのスレッドで論じるテーマに近いとも思ったことから、その続きをこちらで行なわせて頂きます。

その最大の理由が、山根さんが「KZP」を一読した感想の中に明らかに表層からしか捉えることの出来ない愚かさを感じ取ったためであり、山根さんの生業からすると、貸借表など目に見える存在を通して、その裏側や背景の理解と認識に至ることが本当のプロフェッショナルであると考える意味では、いずれは原書である「JZP」に辿りつく事への期待度を込めておきたいという意図があるからです。

従いまして、近日中に山根氏へのブログの当該記事に対しては、この場で披露させて頂く今回の記事を含めて、小生の私見を投稿の形で申し上げるつもりであり、既に日曜のうちに叩き台を用意して、後は推敲を重ねるだけですが、その前に予めこの場をお借りして、まだ草稿レベルではございますが、その骨子をご紹介させて頂きます。

山根さんのブログの記事を幾つか拝読させて頂きましたところ、この方の限界を感じることとして、決められた枠組みの範囲内における課題に対しては、最良の解決法(ソリューション)を提供できる素養を持っている、いわゆる優秀なテクノクラート型タイプの人間であることを理解しましたが、それは端的には広義の「技術者」ということにもなり、いみじくもポランニーが「科学は観察の拡張、技術は制作の拡張、数学は理解の拡張」と看破したように、この技術の上位次元に科学があることは、ホロコスミクス図の本質を理解している方々には明らかなことであり、その科学ということについても、古典物理学であるニュートン物理学のレベルから、それを包含したアインシュタインの相対性理論を経て、既に相対性理論の部分化にも挑んでいる藤原博士の次元からすると、未だ技術の次元に留まっている山根氏のレベルがどの程度かは、わざわざ悲しむまでも無く、単なる明確な現実として捉えたら良いのではないかと考える次第です。

また、藤原博士が相対性理論の部分化に挑む過程においては、おそらくロジャー・ペンローズの相対論と量子論の融合的な理論であるツイスター理論にも、一時期、立ち寄ったと考えられることについても、博士のホロコスミックス図や太極図を見る人が見れば一目瞭然ではないかとも考えます。

さて、山根さんが公認会計士という独立独歩の生業という敬服に値する生き方を歩みつつも、二十世紀の(主に)政治経済社会を席捲したテクノクラート型の発想から抜け出ることのできない蛸壺的な思想体系が垣間見られることは、彼の寄って立つところからして致し方ないのかもしれませんが、それでも生きた経済の断片化である、企業経営における貸借表というスタティックな存在を通して、その裏側や背景を洞察するくらいは、彼のような一流の洞察力を持つプロフェッショナルであれば朝飯前でしょうから、いずれはニュートンの古典物理学的な発想を超えることも可能ではないかと考えており、これまでの経験則から得られた内容の話や自らの閉じたネットワークから得られた話のみでなく、更に冴えた目を持って頂くために、自立型・自律型の生き方とそれに応じた行動を自らの枠組みを超えた形で積極的に起こして頂くことで、古典物理学を部分化したアインショタインの相対性理論の部分化へ挑んでいる藤原博士の重要性への認識にも繋がると考えておりますので、そこへ行き着くまでにはまだまだ相当の時間と訓練が必要であるとは痛切に感じますものの、せめて「ラプラスの悪魔」くらいは乗り越えて頂けることを切に願って止みません。

72朝香隆彦:2007/12/11(火) 23:35:34
山根氏がどのような経緯を経て、このたびのような蛸壺的な発想に陥ったのかは窺い知れませんが、小生の拙文を投稿させて頂くまでの間、昨夜の拙稿の続きを兼ねて、この2年間の山根氏の記事における変遷もしくは変節ぶりをご覧下さい。


◆冤罪を創る人々vol.87(2005-11-08):中段からはじまる「文明論的クリティーク、藤原肇さん」の部分
http://ma-bank.com/item/430


◆裏口上場3(2007-11-27)
http://ma-bank.com/item/770


これは、山根さんご自身の過去か何かに絡んだ個人的な事情があってそうなってしまったのか、それとも2005年秋の時点では、

◆ズバリと明快に切り込んでいく筆法には眼を瞠る思いがしました。右顧左眄(うこさべん)するジャーナリストがひしめいている日本にあって、藤原さんはユニークな文明論を基軸にすえて日本と世界の現状を分析し、将来の姿を展望し、その上敢然としてタブーに挑んでいく気鋭のジャーナリストであり、クリティークであると拝察しました。文明論的クリティークとでも言えるでしょうか。

という高い評価をされつつも、その直後に自ら分析したと仰せの1点のみ取り上げて、この書籍の全体性を司る「日本の病理診断」の意味するところと、「次世代に向けた教養創り」については、全く目を向けていなかったことから、主目標と間接目標の違いを正しく認識することが全く出来なかった(≒思いも寄らなかった)と考えており、先のご指摘は単なる揚げ足取りと思われたことで、『それぞれが相当以上に難しいもので、私の能力では簡単に理解できるものではありませんでした。』という発言に垣間見られる、自らの枠組みを乗り越えられなかった者からくる一種の嘆きが伝わってくるようで、それが今や逆立ちした考え方にまで至ってしまったのならば、文字通り「残念です」とは思いつつも、現時点ではその程度の次元に過ぎなかったということでしょうか。

73菩提樹:2007/12/12(水) 01:30:05
朝香さん、
2年で、山根氏が180度の転換をした理由は、官憲かマスコミからの圧力か、または詐欺師のA氏と共著したことに失望したためなのでしょうか?
9冊のうち所有していない3冊があり、判断がつきません。A氏は、何方でしょうか?

74東山:2007/12/13(木) 12:51:50
「教科書では学べない超経済学」が取り上げられているので、対談相手の落合氏がA氏であると予想できる。
落合氏は野村證券法人事業部で名を売ったやり手の証券マンであり、カブ屋としてかなりの手腕を発揮したらしいから、それを会計士としていかがわしいと考えたに違いない。
飛ばしで知られた野村はあくどいことをやった証券会社で、その中心が法人事業部だったから、やり手のカブ屋時代にあくどいこともやったのだろう。浅香さんが言う蛸壺発想の大衆版としては、「群盲象を撫ぜる」ということわざがある。
群盲象を撫でる」という話はよく知られているが、粗筋は次のようなことである。
盲人たちが象を触った後で意見を述べたが、「ある者は足を、ある者は鼻に触り、ある者は尻尾に触った後で、「壁のようだ」、「樽のようだ」、「紐のようだ」という感想を述べたという。
部分だけで本当の全体像のことが分からずに、自分の狭い知識を主張することを指摘することを示すが、山根さんは像の知りに触って異臭を嗅ぎ取り、「便所の臭いがする」と言ったのだと理解したら良い。

75東山:2007/12/13(木) 12:57:20
像の知りは誤植で、「象のシリ」に訂正。

76朝香隆彦:2007/12/16(日) 23:31:56
東山さん仰せの『群盲象を撫でる』(大般涅槃経では『衆盲象を評す』とも呼ばれる)というご指摘は、先の小生のダラダラとした草稿レベルの拙文とは異なり、たった一言で「部分と全体像との関係性」、つまりラチオを言い表していると思われたことから、誠に正鵠を射た一文であるとともに、山根さんが部分だけで全体像への認識(≒物事の本質を見抜く)については全く思い寄ることなく、自らの枠組みの範囲に終始した狭い知識を主張することに対して、「頂門の一撃」を加えられたと感じました。

従いまして、山根さんの2年ほどの間に訪れた変節ぶり、及びそれに伴う過日のご発言(投稿内容)には、物事の本質を見抜けずに不毛な議論へ終始したと考えており、東山さん仰せの通り、山根さんは象の尻に触って異臭を嗅ぎ取り、「便所の臭いがする」と言ったと理解することにより、先にご紹介した小生の拙文レベルの草稿を推敲して2倍ほど長さの文章にはさせて頂いたものの、わざわざこの文章をそのままそっくりと山根さんのブログへ投稿する必然性や重要性を感じなくなってしまいました。

『象の尻に触って異臭を嗅ぎ取った』程度で全体を述べてしまう愚考に対して、正面切って異論を述べることで、下手をするとミイラ取りがミイラになってしまいかねないような愚かな道へ陥ることを避けるためにも、むしろ、先の東山さんのご指摘になる『群盲象を撫でる』という一文を利用させて頂き、簡潔で凝縮した文面にまとめ直して投稿することで、その文章が持つ背景はもちろんのこと、山根さんが今いる次元から乗り越えることを自身に気付いて頂き、このたびの件で「残念です」と見切り付けてしまいかねない一部読者の方々に対しても、今後より広い観点から見詰め直して期待を抱けるような投稿へ改める必要性を感じております。

よって、今回の件については再考した上で投稿するよう改めたいと考えます。

77朝香隆彦:2007/12/17(月) 23:28:32
下記内容を山根さんのブログへ投稿させて頂きました。
どうやら認証後に掲載されるようで、果たして反映されているかどうか不明ですが、そのあたりは山根さんご自身の器量が決めることと思っております。




このたびの山根さんの当該記事を拝読させて頂いたところ、2年ほど前に書かれた、ご自身のある記事を思い起こさざるを得ませんでした。

◆冤罪を創る人々vol.87(2005-11-08):中段あたりからはじまる記事
http://ma-bank.com/item/430

この2年間で、山根さんにどのような心の変遷や変節があったのか、愚生には窺い知れませんが、これぞ、まさしく『群盲象を撫でる』と思った次第であり、部分だけで全体像への認識、つまり物事の本質を見抜くことについて思い寄ることなく、自らの枠組みの範囲に終始した狭い知識の主張に終始されたことにつきましては、不思議でなりません。
また、ご指摘された書籍(新刊)の全体性を司る「日本の病理診断」の意味するところと、「次世代に向けた教養創り」については、全く目を向けていなかったと思われたことから、主目標と間接目標の違いを正しく認識することも出来なかったと考えており、2年前の記事に書かれてあった、『それぞれが相当以上に難しいもので、私の能力では簡単に理解できるものではありませんでした』という発言に垣間見られる、自らの枠組みを乗り越えられなかった者からくる一種の嘆きが伝わってくるようで、その劣等感が今や逆立ちした発想にまで至ってしまったのならば、生きた経済の断片化である、企業経営における貸借表というスタティックな存在を通して、その裏側や背景を、一流の洞察力をもって分析されてこられた山根さんのこれからに期待していた者の一人としては、「残念です」と申し上げておきますが、いずれ「ラプラスの悪魔」くらいは乗り越えて頂けることを切に願って止みません。

78尾崎清之輔:2007/12/25(火) 23:47:31
先日の投稿において、『Japan's Zombie Politics』が、MITやINSEAD等のような米国及び欧州の超一流校に置いてあることで、ジャパノロジストとそれを目指す者に対する最良のテキストとして存在していることを述べましたが、今や研究者向けのテキストのみならず、実際の外交の現場で事務方にあたられている、複数の在外公館または日本駐在の公館(いずれも欧米や欧州とは限らない諸国)のメンバー間でも読まれ始めているようで、直接または知人を通じて既にフィードバックも頂き始めており、それらのコメントを一言で集約しますと、現在の日本を分析する上での最良の書籍として、非常に興味深く、また示唆的な内容が盛り沢山である、といった内容でした。
おかげさまで、近日中に追加で数冊ほど彼らのもとへ届くことになると思います。

これらの方々は申し上げるまでも無く、日本国内のタコ壺的な発想の方々とは違って、内外に独自のネットワークを築いていらっしゃる方々が多いため、原著である「JZP」の本論の意味するところを読みぬくことは間違いないでしょうから、今後この著を通じて新たなネットワーク創りとフィードバックが為されていくのであれば、私としては、世界に向けたメッセージ発信のお手伝いの末端に携わることが少しでもできたということになり、そうなれば誠に幸甚の至りであるとともに、彼らのこれからにも期待したいと思っております。

79藤原肇:2008/07/10(木) 14:19:52
Japan’s Zombie Politicsが出版になってから二年が過ぎたが、アマゾンに仲介した業者がプレミアムをつけて定価の二倍にしたので、多くの人に迷惑をかけたことを心苦しく思っている次第である。そんな高い値段だのにアマゾンで買ってくれた人が、数少ないが書評を書いてくれるので参考にしている。
最近・・・The book reads like a Tolstoy novel with so the introduction of many characters that cause much confusion to an English-reading audience due to the multitude of unfamiliar Japanese names・・・という書評の書き込みがあったのを読み、自分で考えたことのない日本的な状況について思い当たり、日本という国の持つ名前の特殊性に気がついた。
たとえば藤原の家計の筋に当たる苗字として、伊藤Ito、江藤Eto、加藤Kato、工藤Kudo、後藤Goto、佐藤Sato、須藤Sudo、名藤Nato、武藤Muto、などがあって、外国人ならば判別に苦しむだろうと痛感している。そういえばJapan’s Zombie Politicsには人名がたくさん登場するから、それだけで混乱するのは当然だと思う。
私も若い頃にロシアの小説を読んだときに、ニコライ・アレクサンドロビッチ・ベルーソフというような名前が覚えられず、誰が誰かさっぱり分からなくなって読むのを放棄したことがある。それでもトルストイは貴族の肩書きがついていたので混乱は少なかったが、ドフトエフスキーの登場人物は農民や商人が多かったのでお手上げだった。
Japan’s Zombie Politicsがトルストイの作品の印象を与えたのなら、未だ読みやすさの点で救いがあったと考えて、慰めの気分になっていいのだろうか。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板