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最近読んで印象的だった本

1藤原肇:2005/05/03(火) 03:32:41
「戦後日本の十大名著とは」のスレッドが低迷しているのは、十大名著を選ぶのが難しいという理由の他に、自分が読んで良かったと思う本に触れたいという気持が、このスレッドでは十分に生かしきれないことが関係し、それが阻害要因になっているという感じがします。
最近(過去でもいい)読んだ本で印象深く感じ、仲間と分かち合いたいという気分になった本があれば、この欄を使って議論したらいかがでしょうか。
言い出しっぺの私が先ず書き込むことにして、陣内秀信さんの「イタリア小さなまちの底力」(講談社)を読み、毎年のようにイタリアには行っているのに、見落としたものが余りにも多いと気づかされ、この夏はイタリアにまた行きたいという気持になりました。

97千々松 健:2010/02/07(日) 22:05:40
「かたち」の謎解き物語 ―日本文化を●▲■で読む―宮崎興二著
宮崎氏は四半世紀前に「プラトンと五重塔」という本で刺激を受けたことのある建築工芸家です。
「天地人」は伏義・女媧・神農に通じ、伏義と女媧はコンパス(規=き)と定規(矩=く=さしがね)の象徴であるという、神農はそれらを道具にして形づくられたものになろう。
左右という漢字も「左」という字は手に定規を持って直線と直角を描いている形であり、「右」という字は手にコンパスで円を描いている形であるという。(口はくちであって丸である)
そして、左右をカサネた「尋」と言う字は左右の内部の工と口が含まれていて、ヨはコンパスであり、寸は定規であることが見て取れ、「神を尋ねる」という意味になるという。

 私は「尋ねる」が甲骨文字に一番多く残された文字の「貞く」(きく)に関係し、その派生語が「兆」であるので、亀甲占いが左右のどちらに裂け目が現れるかを見て判断した様子を窺い知ることが出来ると思う。また「貞く」(きく)は「規矩」(キク)と同音であるのは偶然ではなかろう。
さらに、●▲■を図形との関係で考察すると、伏義はコンパスであるから●すなわち天であり、女媧は定規であるから■すなわち地であり、神農は円と四角の中間的な存在として多角形(八角形が代表とされる)がイメージされる。それは三角形の集合体として把握されるので▲すなわち人になるのではないかと思う。

98藤原肇:2010/03/22(月) 06:41:36
アメリカへの旅を前にして準備のために、一日を誰にも会わずに使うつもりだったが、読み出した本があまりに興味深かったので、何もしないで夜中まで読んでしまった。その本はパリに住む竹下節子の「レオナルド・ダ。ゥ゛ィンチ伝説の虚実」(中央公論)であり、読み進むに従い藤井先生との対談を思い出し、こんな不思議な照応関係がありうるかと不思議な感慨に包まれた。
実は『間脳幻想』に続く対談の第二段として、『秘密の生理と秘密結社の文明史』とでも題した、本を作ろうと編集作業したことがあり、先生との対談のテープを書き起こして、最初の章を一週間かけてワープロに打ち込んでいた。第一章はピラミットの建設の設計についてで、フィボナッチ数列を使った計算を繰り返し、画期的な議論をまとめたと満足したのに、ワープロのボタンを押し間違えたせいで、データがすべて消えて失われてしまった。
失った第一章に費やした努力が大きかったので、虚脱状態に陥って仕事は永久に放棄されてしまい、藤井先生との十年間の対話によって、数冊は出来るはずの対談の企画は挫折したままだ。実に惜しいと公開し続けたが、ピラミッドの設計の計算をやり直すことは、とても再挑戦する気になれないほどで、あの頃が能力と気力で私の絶頂だったのだろう。
竹下さんの本は『ダヴィンチ・コード』批判をベースにして、フィレンツェにおけるネオプラトニズムを軸に、レオナルドや秘密結社の歴史を論じているが、われわれの対談は秘密を持つ人間の心理が、脳内ホルモンと堂関係しているかを土台にして、秘密結社の歴史について論じたように記憶する。それにしてもボタンの押し違いでデータを失い、ショックで企画を放棄したことが惜しまれ、竹下さんの本で輪郭の一部を思い出せたのはうれしい。
人生の巡り会わせとは実に不思議であり、藤井先生との友宜を懐かしく偲ぶ私大である。

99藤原肇:2010/03/22(月) 07:50:00
98は思いつくままに書き綴ったために、誤字だらけで読みづらものになつてしまつたが、読んだ本で突然のように藤井先生の思い出がが蘇ったのは、今の瞬間が春分の日でお彼岸の仲日であり、故人の霊が訪れたということがあるのかも知れない。そういえば書き込みをしている今の瞬間に太陽が真東から昇り、昔の人の自然暦の精神と対面できる意味で、春分の日の日の出を迎えることは素晴らしい体験になった。
先週の週末は読者の一人で川崎市の矢向に天然温泉を掘り当て、縄文天然温泉志楽の湯の持ち主に招待され、素晴らしい湯質の温泉に一泊してきただけでなく、翌日は八ヶ岳の裾野の茅野市に彼が持つ、野天風呂を楽しむために案内されて一泊してきた。そこは尖石の泉といって縄文中期の遺跡があり、日本最古の神社のひとつの諏訪神社を含めて、そこから藤原家の産土神の鹿島神宮は真東に位置し、春分の日は東西軸を決定付ける瞬間でもあるる
しかも、出雲族の霊山である奈良の三輪山の真東には、国譲りの後で支配者になった天孫族が伊勢神宮を作り、三輪山の真北には日枝神社のある比叡山がある。そして、日枝神社の真東には久能山が位置しており、徳川家康は江戸の真北に日光の東照宮を建てている。
最近は平野貞夫さんと連続して対談をしているが、坂本竜馬は北辰一刀流の免許皆伝であり、その背後には北極星による妙見信仰があつて、日本の大掃除への動機が生きているのだが、果たして平成無血革命の行方はどうなるのだろうか。そんなことを春分の日の太陽を見て思ったが、藤井先生と『間脳幻想』を共著にもてたことは幸せであり、この書き込みが99で次は00で再生を意味し、これまた奇妙なめぐり合わせになったのも面白い。


100松本英樹:2010/03/22(月) 10:06:12
<幻のピラミッド設計図>
私が黄金分割ピラミッドの設計図を纏めることが出来たキッカケは「間脳幻想」
であることは間違いないのですが、もしも藤原博士が原稿の消去という事故がなく、
無事に出版されていたならば、黄金分割ピラミッド初号基は藤原博士の手で完成されて
いただろうと思います。是非この目で見てみたかったです。誠に残念なことです。

ピラミッド設計を考察してゆく過程では色々と不思議な体験が起こるようですね。
藤原博士の原稿消去事件はいつ頃の出来事でしょうか? 
ちなみに1996年〜1998年にかけて「ピラミッドとフィボナッチ数列」を関連
付けて考察していた人たちが日本でも幾人かいたことが後で判りました。
(インターネットは便利なツールですね)私もその内の一人でしたが・・
世界中だといかほどか。これは共時性の出来事ではないかと思っています。
黄金分割ピラミッド模型を組み立ててゆく過程を写真に残しましたが、
それらの写真の中に不思議な光の玉が写ることもありました。
また考えが煮詰まり、思考停止に陥ったとき、「後押ししてくれる存在」を
意識したこともあります。そういう時、新しいヒラメキが起きるのです。

あれやこれやの出来事から「黄金のピラミッド」は、あの世とこの世を橋渡し
する存在ではないかと妄想するに至りました。摩訶般若「波羅蜜多」ピラミッド

2010年3月 春分の日〜彼岸にかけて

101S.N.生:2010/06/13(日) 16:48:45
アルビン・トフラー夫妻が書いた「富の未来」を読んで感じたのは、「ヒュチャ―・ショック」で彗星のようにデビューしたトフラーの思想が、「第三の波」によって具体的な姿を世界に示したのであり、この本はその完結編に相当しているという点がまず第一だ。
しかも、農業革命、産業革命、情報革命という三大革命によって、それを節にして文明が大きく変わったのであり、われわれが遭遇しているこの時代が、前代未聞の大変な内容を持つ文明だから、それにふさわしい心構えが必要とする点で、一連の藤原著作の文明論と重なり合っている。
だが、これからの時代をわれわれが生き抜く上で、何に対して注意を払うべきかという点で、時間と空間に対しての適応性の重要性の指摘は共通だが、第三の要素として考えられているものが、トフラー説では「情報」であるのに対して、藤原理論では「知恵」とか「慧智」になっているために、意外なほどのずれがあるという感じがする。
それはhttp://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/paper/mtk/mtk.htm において、藤原さんは産業社会の動態分析を試みており、農業革命による労働集約型の社会の活力減は食料だから、エネルギーとしてはカロリー単位と規定した。次に産業革命による技術集約方の社会の活力源は石油や電力だから、キロ・ワットやギガ・カロリーが単位だとして、石油などの熱源に注目して理論を進めている。更に情報革命の活力源は情報そのものであり、ビットとかギガ・バイトの高速で動く情報量が、知識集約型の社会を決定付けるとして、リニア型と螺旋型の発展の相の違いを論じている。
そうなると知識集約型の社会を決定付けるのは、知識の量ではなくて質に関わっているから、当然のことで選択され洗練された情報として、インテリジェンスが決め手になっている以上は、その精緻としての知恵や慧智が主人公になるとする。
ここを出発点にして価値評価の分岐が始まり、トフラーが論じる形に顕れる富に対して、そんなものは場の理論からして幻影に過ぎず、それにこだわったことで誤りが始まってしまい、賎民資本主義に迷い込んだのではと疑問を提示した、藤原理論を支えている基盤があるのではないか。これが「富の未来」を読んで感じたことである。

102藤原肇:2011/02/27(日) 08:36:01
気休めのつもりで伊藤敦夫の『永田町「悪魔の辞典」』を読んだが、本人が「あとがき」で「ビアスの域に達するには、まだまだ時間がかかりそうだ」と書いているように、美術館の名画の前でーにキャンバスを立てて模写し、本物に肉薄を試みる努力はなかなかである。日本にもアンブローズ・ビアスの観察眼に憧憬の気持ちを抱き、悪政の支配した魔窟に生きたのに病魔に感染されず、70に近づいた段階でこれだけの達観を得た人がいたことに感心した。だが、永田町が舞台だのに人物の実名が削られ、誰のことかは行間でも読み取れないほど、綺麗さっぱりと化粧が施されており、それが出版実現の理由だと読み取れた。
副島隆彦とその弟子たちによる『悪魔の用語辞典』は、ビアスの皮相な観察眼と語り口に啓発されて出来たとはいえ、知識を寄せ集めた卒論的な肩にやけに力の籠った本だったが、それに較べてこの『永田町「悪魔の辞典」』は五代目の古今亭志ん生の芸に似て、軽い語り口の奥に洞察と知恵が潜んでいる感じで、腹の底から笑いがこみ上げる思いが何度かした。おそらく、長年にわたり魔窟の空気の中で息を殺して生きていたので、プラトンの洞窟の影絵を見続けて仕掛けの秘密を知り抜くに至った体験が、これだけの心の余裕を生んだのに違いない。その代償は亡国政治として国民が尻拭いをさせられるにいたっているが・・。
その事実を著者自身がが「永田町は結局、政界という魔窟に住み、政局に生きる者たちの世界」と指摘しているので明らかだが、魔窟に棲みついているのがゾンビであり、これは「Japan’s Zombie Politics」のパロディー版だとの印象を持った。
それにしても、流石に政界の裏表に精通している人だけあって、日本の政党は『雨傘政党』だとの表現は言い得て妙であり、最近の日本では集会や会議が居酒屋での「飲み会」になり果て、政党は公金を使った「飲み会」の別名だと理解できたし、ウィットという点ではなかなかのでき具合になっていた。著者の筆法はユーモアよりもエスプリに属し、著者の政治生活を通じての転変が、あのタレイランの若き前半の足跡に似ていたがゆえに、この境地に達したのだろうという印象を持った。
ということは、日本の祭りごとには天岩戸の前の乱痴気騒ぎ以来の伝統が、永田町や各都道府県の県庁所在地に岩戸がある仕掛けになり、ザンビアやコンゴ以下の部族政治の文化が日本国中に蔓延しているから、文化勲章や文化の日が国民の祝日になった意味が分かる。日の丸の白と赤の色彩は混ぜるとピンクになり、メコンの伝える悲劇の水音の響きによれば、日本版の清和会内閣から菅内閣に続くソフトなクメール・ルージュは、亡国のネオコン政治の色合いと売国路線の実態が、実は桜色だったと納得した次第である。

103藤原肇:2011/10/13(木) 21:30:59
「まえがき」を読んだ段階で既視感(デジャビュ)に捉えられたのは、この『原子炉時限爆弾』と題した本の初版出版日が、311地震(中曽根大震災)の六か月前だったからだ。実は私の処女出版の『石油危機と日本の運命』も、1973年秋の石油ショックの六か月前に出版されていた。しかも、私の本の記事は1971年の『文芸春秋』に活字になった記事や、72年に『日経』の「経済教室」に何回も出た記事があったのに、十社以上断られて最後にサイマル出版会から出ている
文芸春秋社は「石油危機が来るなんていい加減な話は、雑誌ならまあ良いが単行本として出すなんて、無責任なことは出来ない」断ったし、日経は「日本の財界人は石油の重要性を知っているから、頑張ってエネルギー政策を重要視しろと書くなら良いが、藤原さんは日本の財界人人は石油の重要性に無知だと書くから、うちからは出すわけにいかない」と断った。
その時に日経の外報部の大原記者が、自分は『セブンシスターズ』などの翻訳を出しているから、出版社を知っているので探してあげようといって、サイマルに話を持って行ってくれた。そして、初版3000部をハードカバーで刷ったが、最初の六か月では1000部も売れなかったが、六カ月後に予測が当たってベストセラーになり、数万部ほど読者を獲得したのだった。似たようなことは広瀬隆さんの本でも起きたようで、初版の六カ月後に出た私の入手したものは六刷りということになっていて、40年前に私が体験したのと同じことが起きたようである。

104藤原肇:2011/10/13(木) 22:57:53
広瀬さんは「まえがき」で「ここ十数年ほど、原発の大事故の確率はどんどん高まっているが、逆に、大事故がどれほどおそろしい惨事であるかについて解説する報道がバッタリ途絶えて、ほとんどの人が知らないため、原発事故を化学工場の事故と同程度に考える人が増えて来たことは、あたかも羅針盤なしで航海に出ているような状態で、気が気ではない」と書いている。私も本が出まで十社以上断られ時間が過ぎて行くので、気が気ではなかったのを思い出す。
石油ショックで日本中が混乱しトイレットペーパーの買い占めなどが起きた後で、通産大臣だった中曽根が『海図のない航海』と題した本を出し、英雄気取りで諸葛孔明になったつもりで「出師の表」を引用していたので、この男の無責任さと愚劣さを嘆息したものだが、実は中曽根は核武装のために原発作りを推進していたのだ。そして30年後に中曽根大震災を発生させ、日本を放射線汚染で地獄列島にしてしまったのである。
 広瀬さんは「核戦争の危険性を警告する名画は『猿の惑星』や『博士の異常な愛情』」など数えきれないほど制作されたが、原発事故を描いたドラマは、これまで史上この作品一本だけである」といって、「チャイナ・シンドローム」の悪夢について取り上げている。そして、「その放射能放出のために、州都の貼りスパークはパニックに陥って、母親たちが乳飲み子を抱いて逃げまどい、原発周辺では次々と目を疑うような植物の不気味な異常や、住民の白血病、癌の大量発生が起こって、それを州政府とアメリカ政府が今日まで隠し続けて来た」と書くが、まさにこの状況は県知事や日本政府の態度とそっくりだ。しかも、最近のことだが招かれて鹿児島の飯山一郎さんを訪れて目撃したが、連日のように子供を抱えた母親や多くの家族が放射能を恐れて、鹿児島まで逃げて来ていたのを目撃してしまった。
 それに加えて「闇に葬られた秘密報告書」のところには、「日本政府は、大量の死者が出るという、あまりにおそろしい被害が予測されたために、国家ぐるみでその報告書を葬ったのである。・・・その秘密の作業の中心にいたのが、東海村の原子炉導入に奔走した白洲次郎であった」と指摘し、図面の矢印の範囲について農業ができない地域だとして、「日本全土で農業ができないのだから、日本人が日本列島に住めないと考えてよいだろう」と書く。だが、「この事故の条件は、出力16.6万キロワットの東海発電所で大事故が発生し、わずか2%の放射能が放出された場合を想定して、日本全土が壊滅する、という結論であった」と書いてあるのを読み、福島原発の事故より遥かに小さいので愕然とさせられたのだった。半径1000kmの範囲に日本列島はスッポリ入ってしまうのだから、次の慎太郎大震災の破壊力は絶望的だということになる。

105千々松 健:2011/10/16(日) 22:57:17
>103
1973年10月13日は小生の結婚記念日ですが、その頃にトイレットペーパー騒ぎがありました。その半年以上前から石油危機の警鐘を鳴らしていた藤原博士のことを当時は失礼ながら存じませんでした。「原発炉時限爆弾」の本が出されて半年後にフクシマ第一原発事故が発生していることとカサネると不思議な時間差を感じますね。この2011年10月13日には書店で東日本大震災関連の本を一堂に会して展示している中に広瀬氏の本も見ていたので、まさにシンクロニティです。

106山中:2011/10/17(月) 12:06:22
「予言者は故郷に受け入れられず」と昔から言います。それは大衆は目先のことや利益になることにしか関心がなく、嫌なことは無視したがるせいです。
その点で広瀬さんや藤原さんの洞察力が受け入れられないのは当然であり、空きめくらの前で危機を予告してもわからないわけでしょう。

107亀山信夫:2011/10/21(金) 16:31:07
藤原さん、貴重な広瀬隆の著書『原子炉時限爆弾』の御紹介ありがとうございました。特に、目を引いたのが白洲次郎に関する記述でした。

*****************
それに加えて「闇に葬られた秘密報告書」のところには、「日本政府は、大量の死者が出るという、あまりにおそろしい被害が予測されたために、国家ぐるみでその報告書を葬ったのである。・・・その秘密の作業の中心にいたのが、東海村の原子炉導入に奔走した白洲次郎であった」
******************

ご存じのとおり、白洲には四分の一だかのユダヤの血が流れており、かつ吉田茂との結びつきが深いことから、バックは英国であることが容易に読み取れます。

同時に、皇室インナーサークルの栗原茂氏と、『月刊日本』の論説委員・山浦嘉久氏からも、今日でも白洲の流れを組む某組織の存在を教えて戴いています。この組織は相当の影響力を今の日本に及ぼしているとのことです。

ネット界では未だに電通云々というテーマが主流ですが、上場を機に既に電通には昔日の勢いはなく、上記の新しい勢力が日本に台頭しているのに注意すべきなのでしょう。このあたりは、明日都内で山浦氏に会いますので、忘れなかったら色々と情報を引き出してきたいと思います。


ところで話は変わって、106の山中とさんとやら、「大衆は目先のことや利益になることにしか関心がなく、嫌なことは無視したがるせいです」と偉そうに書いているが、それが本当だとしても、余りにも同胞である日本の庶民をバカにした書き方だと思わないのかい? 貴殿は自分のことを何様のつもりだと思っているのか…、と聞きたい気がするなぁ。

108T.N.:2011/10/22(土) 13:48:35
 白洲次郎は数年前ブームになり、いろいろな本が出版され、NHKドラマにもなりました。どういうところが
持ち上げる人間を決めるのかわかれば、面白いでしょうね。

109家頁百薬:2011/10/23(日) 00:34:14
思うに、ひとつには、日本国憲法の改正を目論む勢力、が あると思いますね。

110asa:2011/10/23(日) 22:58:11
誠に恐れ入りますが、自分は敢えて偉そうなことは言うつもりはありませんし、
自分と異なる意見や投稿内容に対して何ら批判するつもりはございません。
下記のご投稿内容については、決して間違っているものとは言えないと思いますが、
「余りにも同胞である日本の庶民をバカにした書き方」だとは決して思っておりません。
逆に、余りにも同胞である日本の庶民をバカにしたと感じられる神経そのものも、
異常では無いかとさえ感じてしまうところもあるのですが。
だが、人それぞれ感じ方というものに根本的に異なるところもありますので、どう
どう感じるのかは、個人の勝手だと思いますので、気にする必要は何処にも
無いし、何ら相手にする必要もありませんので、どうか気になさることは、
お互いに気にする必要は無いのでは無いでしょうか。

「大衆は目先のことや利益になることにしか関心がなく、嫌なことは無視したがるせいです」

111藤原肇:2012/10/17(水) 21:50:59
鶴岡真弓の書いた「黄金と生命」を読み終えて、思わず「ううん・・」と感嘆のうなり声を発してしまったが、これだけの内容の本を仕上げる日本人がいたと知り、心から嬉しいという幸福感に包まれたと白状したい。この本はヨーロッパの読者に向けて書かれたといって良く、もしもヨーロッパの言葉にでも訳されて、選ばれた良質の読者に読まれたらいいと思った。
最近の日本についての評判は地に堕ちており、余りにもお粗末な人間が政治を弄び、世界から嘲笑と顰蹙を買っている日本は、日本人と名乗るのが恥ずかしいほどで、未熟で愚劣な連中に弄繰り回されて情けない限りだ。そういった日本の悲しい現状に対して、本書は世界スタンダードをクリヤーする水準のもので、ケルト文化を足掛かりに文明史に取り組み、ユーラシア大陸の次元で歴史の英知対決しただけあり、これだけの該博な人物がいたのかと日本人が再評価されそうで、大いに名誉を回復し得るのではないかと思った。
錬金術の歴史と信用について扱った本書は、シンボルとしての光り輝く黄金と信用を論じ、時間差を操る魔術がが生み出す価値のずれが、経済的な価値の虚像を描き出すシステムとして、芸術家らしい時間の遠近法として分り易く見せてくれる。
本書を読み終えた記念に巻末に読後感として、私は熱気に包まれて次の文章を書きつけた。
日本人のイマジネーションの欠如のために
天の溶鉱炉の産物で太陽の黄金である
プルトニウムを地上に持ち込もうと試み
金儲けのためのマネーとして金メッキを施し
欲張り爺が死の灰を地上にまき散らした

112千々松 健:2012/10/18(木) 22:09:53
>94 2010/01/05(火)の投稿を想起する機会を得たので、今の時点にて編集し直します。

「論理哲学論考」の冒頭でウィトゲンシュタインは
①「成立している事態の全体が世界である」
②「対象の配列が事態を構成する」と簡単に言ってのけています。

それを「21世紀マンダラ」モデルに置き換えれば
①は「神聖方陣」で
②は「ラセンモデル」と言えるでしょう。

①は陰陽で成立している現象(論)としての世界であり、
②の対象とは実体(論)としてのフィボナッチ数列で、
対象の配列とはFLKM系列の4つの数の流れ(配列)に相当します。
FLKM系列が自己増殖するように構成されたプログラムソフトの本質(論)です。

また、①が結果で②が原因であるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、①と②が揃って宇宙の秩序(陰陽太極図・ト―ラス)が現わされている訳です。

そして「山中4因子=iPS細胞を生み出す特定の4つの遺伝子」の発見も、この「逆序」に関係していると考えられます。

113千々松 健:2012/10/22(月) 18:24:26
鶴岡真弓さんの「黄金と生命」の本が届いたので早速見開くと、挿絵や写真のアナログ情報は全て左側のページに印刷されていました。これは左脳と右脳の情報処理の特徴が活かされていると思いました。これが第一の好印象です。
次に、目次から数分で読み飛ばした限りの第二印象ですが、ユーラシア大陸の極東(日本)と極西(アイルランド)に位置する二つの時空を超えた文化人類学を日本女性が博学をもって展開しているようにも読めるコトです。
先日のNHKで松任谷由実が彼女とケルト文化を紹介する番組が放映されたばかりでしたから、より興味が湧きます。秋の夜長にじっくりと読んでみようと思います。

114NHK:2012/10/25(木) 09:39:25
ジョン・パーキンスが何度も試みて最終的に出版した、苦渋に満ちた「エコノミック・ヒットマン」は回顧録であると共に、理想の共和国が搾取の帝国に変貌した米国への告発録であり、全世界に向けた良心の呵責に基づく懺悔録だ。
LA INTERNATIONALという経済誌の2002年の1月号に掲載された、「落合信彦 オイルマン伝説の終焉」と題した記事は、鹿砦社から上梓された奥菜秀次の『捏造ジャーナリスト落合信彦』に収録され、多くの読者に注目された記事である。
第三回目のこの記事の前に二つ記事があり、それを読めばペテン師の落合が日産10万バーレルを掘り当てたという、エクアドルの油田開発のホラ話の時期が、エコノミック・ヒットマンの物語に重なっている。そして、略奪と侵略の蛮行だったことにも気づかず、この鉄面皮の小説家は自慢話の形ででっち上げ、英雄行為として自慢して得意になっている。
しかも、嘘とでっち上げで落合の小説に多くの日本人が騙され、落合の石油ホラ話や外人部隊伝説の影響で、若い青年が外人部隊に志願して人生を誤り、エネルギー政策の失政に加担したことは、小説家の虚言の影響力の恐ろしさを示す。
だが、落合信彦はチンピラ作家に過ぎないし、化けの皮が剥がれていている今でも、日本のメディアから追放されないで虚言を吐き続けているのは、メディアがコーポレートクラシーの一部だからだ。落合はパーキンスに較べれば能力は一万分の一以下で、単なる作家で口から出まかせ専門だが、日本中に詐欺師が蔓延するきっかけを作り、ミニヒットマンだから書評に取り上げてみた。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-1818.html#more
だが、エコノミック・ヒットマンは途上国を騙して、絶望的な人たちから搾取することで、野蛮な資源簒奪をして儲けることを狙う、コーポレートクラシーの実践者であり、現代版の奴隷商人として富を築く吸血鬼だが、三文小説家とは桁違いの犯罪者でもある。
http://www.youtube.com/watch?v=17mE5fPQjt0
しかも、パーキンスは過去の犯罪行為を懺悔しているが、日本のエコノミック・ヒットマンとして財をなし、神話で虚名を飾り立てた経済界の頭目たちは、松下幸之助、稲盛和夫、竹中平蔵、宮内義彦、孫正義を始めとした、株券というニセガネを操る闇紳士が、国富を食い荒らす売国行為をしたのに、誰一人として懺悔せず告発もされていない。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3cc41bdedcb0edf0b982b93e305d65cc
その後に現れるのがジャッカルのはずだが、小泉純一郎、菅直人、野田桂彦、前原誠司などは、ネオコンに飼いならされたポチ公で、残飯あさりのハイエナに過ぎない。

115千々松 健:2012/10/25(木) 20:46:10
新井満氏の「自由訳・老子」を読んだ。
2箇所を引用します。

『万物は一つの例外もなく
時の流れと共に変化する
変化した末に亡び
さらに変化した末に再生する
いいかね
こらが万物を産んだ
天と地のはたらきなのだ
したがって万物とは一つ残らず
存在即ちモノに於ても
現象即ちコトに於ても
相対と変化の力にさらされることになる』p92

『この宇宙を
くまなくとうとうと流れつづけている
いのちの巨大な運動体
宇宙大河を...
それが道(Dao)の実相さ
(中略)
天と地と万物の
生と死と再生をつかさどり
あまねく変化させながら
宇宙の果てまで流れていっては
また流れもどってくる
メビウスの帯のように循環し
永遠に流れつづけているのだよ
ゆったりとおおらかにね
これが、道(Dao)さ』p13-15

116千々松 健:2013/01/18(金) 23:42:46
同世代の篠原資明氏が最近書いた「空海と日本思想」のように、プラトンの基本系<美・イデア政治>と空海の基本系<風雅・成仏・政治>をカサネて思考するならば、我田引水になりますが、その先は<●▲■の流儀>に帰着せざるをえないことが良く理解されるでしょう。
例えば、美(●)・真(▲)・善(■)であり、Want・Plan・Actionであり、父・聖霊・子であり、様々に変奏ないし、変容されているコトが見て取れるのです。それは分野を越えて展開されて、まさに重重帝網の如くになるのです。

65歳の誕生日に合わせて下記を更新いたしましたので、ご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/field.pdf

117千々松 健:2013/01/31(木) 18:14:17
大日経にある「三句の法門」すなわち『菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす』を引用して、空海は「一切の教義、この三句に過ぎず」「三句を束ねて、以って一つの吽字と為す」と言っているという(吽字義)。(篠原資明著「空海と日本思想」岩波新書 P82を参照)

この三句を三密に置き換えて考えてみると、1)意密、2)口密、3)身密となり、例のWant-Plan-Actionの三拍子にカサネられるから「●▲■の三拍子でワルツは踊ろう!」に繋がると考えた訳です。
そして、美を欲し(ウォント)、真を探り(プラン)、善を行う(アクション)と考えられるので、まさにプラトンのイデア論と空海の真言密教とは相似象になるのです。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/field31.pdf (再度の更新版)

それにしても、阿吽の呼吸の「吽」の文字一つに凝縮する発想は三位一体のそれを超えるものですね。

118千々松 健:2013/02/03(日) 22:51:34
「吽」の文字一つに凝縮する発想をした空海に触れたところで、以前、藤原肇博士が「世の中には求心型と遠心型の二種類の思考形態があり、日本は求心型でドンドン集約して行くので、縮み思考の日本文化と言われている・・・」の一文を思い起こしました。
また、口と心と行と三つ揃ったまことを命(ミコト)と言うし、生きて行くための命(ミコト)の智慧が「生命知」ならば、生命知は「三句の法門」であり、「●▲■の流儀」であり、日本古来のフトマニ図の中央にある「アウワ」であります。更にイメージ動力学を働かせれば、レオナルド・ダ・ヴィンチがジョコンダ(モナリザ)に描き込んだコトでもあったのです。
それに、博士の三部作「間脳幻想」「宇宙巡礼」「生命知の殿堂」は三つ揃ったミコトに相当するかもしれませんね。
また、釈迦が亡くなる際に若い弟子たちに遺したコトバであるパーリ語の「ヴャヤ ダンマー サンカーラー」(漢字で示せば「生・法・行」)が思いだされます。

119千々松 健:2013/02/04(月) 16:37:13
先日、生命学者の福岡伸一氏が西田哲学を訪ねるNHKの番組に登場していた。「動的平衡」論で生命知を研究している福岡氏にとって、西田哲学は新鮮かつ有用であったに違いない。
「生命は多と一との矛盾的自己同一」と云う西田の考えは、清水博氏の「二重生命の循環」にもカサネられると思う。
一筆書きの円相図「○」を好んで描いて万象をイメージしていた様子がうかがえた。

120千々松 健:2013/02/04(月) 16:42:34
>94および>112に書いたことを以下のように再度修正させていただきます。

哲学者のウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の冒頭で
①「成立している事態の全体が世界である」
②「対象の配列が事態を構成する」と言っています。

これを「21世紀マンダラ」モデルに置き換えれば
①は胎蔵界曼陀羅に似た「ラセンモデル」で
②は金剛界曼陀羅に似た「神聖方陣」と申せましょう。

①は陰陽を含むラセンで成立している現象論的な世界(万象)であり
②の対象とは実体論としてのフィボナッチ数列と循環する4つの数の流れ(配列)に相当し、このFLKM系列が自己増殖するように構成されたプログラムソフトの本質(論)に当たると考えたのです。
①が結果で②が原因であるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、①と②が揃って宇宙の秩序(陰陽太極図・ト―ラス)が現わされている訳です。

121千々松 健:2013/02/04(月) 20:49:29
西田幾多郎が太平洋戦争の終戦二ヶ月前に稲村ケ崎の自宅で亡くなった際に、鈴木大拙が傍にいて号泣したという話を、今でも残っているその部屋を案内した西田の孫が語っていた。金沢が同郷で同級でもあり、晩年には同じく鎌倉を棲みかにしていた二人の仲を想う。
そして、鈴木大拙と言えば仙突の「○△□」に触れなくてはならない。

「生命知の殿堂」インテルメッツオ40<仙突の宇宙図>
http://blogs.yahoo.co.jp/mochy2156/51000731.html
出光美術館にある仙突の作品「○△□」について、「・・・出光佐三が仙突を海外に紹介した際、この作品の意味について議論したということが伝えられている。その際、出光が提案したのが『宇宙』を表わした作品としての解釈である。出光と親交のあった仏教学者の鈴木大拙はこれを受けて、自著の中で『The Univers』として紹介し、以降、海外では広大な宇宙を示した作品であるとして知られている」と解説されていた。

それにつけても「●▲■の流儀」は古今東西に普遍的な智慧であると考えられますね。

122千々松 健:2013/02/06(水) 12:21:39
「順序+逆序=秩序」の宇宙が現わされている「陰陽太極図・ト―ラス」について補足します。
原子モデルで有名な物理学者のニールス・ボーアは陰陽「太極図」を引用して、「Contraria sunt complementa」(対立するものは、相補的である)と述べています。
相対する歯車がある時、片方が右回りする時には、もう片方は左回りしますが、この二つの歯車は旨く噛み合えば回り、力が伝えられるが、外れたならば伝わらないことになります。

ボーアのタイチズはこちらから
http://blog.daum.net/gomildo/13624551 2008年

日本人によるアート化はこちらから
CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA / 第5回ジャパンアートスカラシップ 1997年
http://video.the-search.jp/0/video/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97/PaD6k-xoDgI.html

123藤原肇:2013/05/12(日) 11:31:53
この小説の存在を知ったのは5~6年前であり、「ミトコンドリアと生きる」という新書を読み、そこで著者が処女作について触れており、ミトコンドリアを主人公に小説を書くとは、面白いアイディアだと感じたものだった。そのまま久しく本と出合う機会がなく、何年か後に「生命知の殿堂」を纏めた時に、書架からこの本を見つけて再読し、いつかこの小説を読もうと思い数年が経った。そして最近だが古本屋でこの本に出会い、読み始めたら驚きの連続を体験したので、その読後感を記録しておきたい。
これだけ高度な専門知識を取り込んだのに、読者を引き込む書き方をする能力が、瞠目に値すると思わずにはいられなくなり、それをまず冒頭に記しておくと共に、こんな本を書いてくれたことを著者に感謝したい。私にはとても出来ないことに挑み、私の時間を節約する仕事を果たし、読むチャンスを与えて貰ったたことが嬉しい。いい本との出会いというものは、こんな印象を持つことだが、それが古典ではなく小説だったのが、思いかけない収穫だと感じた次第である。
ミトコンドリアの世界は地の最先端に属し、解説すること自体が一筋縄でないが、著者はそれを簡単に乗り越えている。30年前の私自身もそんな努力をして、不可能だとあきらめた体験があり、その後は解説は読者側に任せることで、私は問題提起と良いヒントを見つけ、それを記録することに専念してきた。そして、ドロマイトからマグネシウムを抽出して、それを未来のエネルギー源に繋ぎ、媒体としての水について考えた。その過程でシリカの問題が登場し、生命との関連で興味深いテーマと出合い、その問題を対談としてまとめて「フナイ」の二月号に発表した。
そんな時に「パラサイト・イブ」を読み、大いに啓発されてやって見る気になり、本当は珪素の問題の対談を続け、テーマを集約するのが当然だのに、その流れを私の独断で大幅に変更した。そして、急遽テーマとスタイルを数学の世界に移し、プラトン結晶の問題をフェルマーの最終定理と結びつけ、プラトンの師傅はソクラテスではなく、ピタゴラスとツアラストラだという、長年抱いてきた考えを公表してしまった。
こんなやり方は不用意だが、世の哲学者たちに対して、挑戦してみる気になったからだ。こんな気分にさせてくれたという意味で、「パラサイト・イブ」は衝撃的な本として、私の晩年にダイナマイトを投げ込んだテロリストの役目を果たしたのである。

124千々松 健:2013/05/12(日) 13:48:47
今日は「母の日」だから、ミトコンドリアの話題は大変相応しいですね。
真核生物の細胞を宿主として、好気性のαプロテオバクテリアなどがそこに入りこみ、そこで「ミトコンドリア」に為ったと考えられているという。
また、不思議なコトに、核DNAとは違ってミトコンドリアDNAは母系遺伝しかしないというから、そこに「母性の起源」(ミトコンドリア・イヴ)を観るようです。

125千々松 健:2013/05/14(火) 21:07:12
シュタ―ナ―の「遺された黒板絵」について『一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。』と松岡正剛は千夜千冊の第33夜に書いている。そこで、パウル・クレーの記述に飛んで見ると、新たな知見が得られました。
「無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまうのだ。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ」。
我々の細胞内におけるミトコンドリアの共生(寄生?)を考える時、まさに清水博先生の「二重生命の与贈循環」論にカサネられるのです。
また「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」というクレーの日記に残されたメッセージも、芸術を広くとらえて科学、技術、哲学、数学などをも含めて考えるならば、より納得できそうです。
そして「芸術は長し、されど人生は短し」のヒポクラテスの言葉が想起されるのです。さらに、クレーの「スペーシャル・オーガニズム」論は、宇宙も人間も○△□でイメージされる3つの要素が融合されて一体不可分であると思考するコトにも通じるでしょう。
そして、空海が「吽」一文字で表わした内容は○△□の一体化に他ならないので、言葉=声は響きであるのでしょう。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/DFW.html

126千々松 健:2013/05/16(木) 12:48:11
<ヒトの遺伝子情報に観る数の不思議と21世紀マンダラの関連性を探る>
ヒトゲノムには核ゲノムとミトコンドリアゲノムがあり、核ゲノムは24種の線状DNAに分かれて染色体を形成しています。ミトコンドリアDNAは16569塩基対の環状DNAとして存在している。そして、DNAにはATGCの4種類の塩基があり、AとT、GとCが組み合わさる二重らせん構造を持つという。

さて、単なる数の遊びであるかもしれませんが、以下は持論との関連を述べます。
核ゲノムの24種とDNAの4つの塩基については、フィボナッチ数列を(mod 9)で処理し、さらに多次元化して現れる24項目で循環する数の流れが4種類(FLKM系列と命名)在るコトに繋がるでしょう。【 HMn≡FLKMchain(mod 9) 】
また、今話題のミトコンドリアDNAでは16569塩基対の数に注目です。9を法とする剰余演算では16569は0になります。【 16596≡0(mod 9) 】
さらに19569=263*9*7 で7が登場しますが、これも「ミトコンドリア・イブ」には7人の娘たちが居たはずであるという説に繋がるかも知れませんね。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/21st%20Century%20Mandala.pdf

追記:季刊誌の「kotoba」最新(11)号に「現代人は、ミトコンドリア・イブにつながっている」という対談が載っています。それに依れば、小生は縄文系と思ってきたが、どうも弥生人系に相当するらしい!(酒を飲むと顔がすぐ赤くなる体質なので)

127千々松 健:2013/05/16(木) 16:10:26
ラファエロの描いた「アテナイの学堂」にはアレクサンドリア学派のヒュパティアが白衣の女性科学者として描かれています。ユークリッド原論の編集者として有名な彼女の父であるテオンはここにはどうも登場していないようです。年相応に見える近くの人物はピタゴラスと見られているからです。
この「アテナイの学堂」を改めて観察すると、アーチ構図が特徴であり、中央に四重に描かれているのが判ります。(四重らせん構造への考察は省略)
また、若きラファエロはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」を同時代に模写していた訳ですが、それは現在残されているルーブルの本物のモナリザ以上に意義があると思います。特に全体の構図に於いてです。
それは生と死と再生を一枚の絵にしたモノとして観る場合に尚更ですね。
そして、中央の女性象が「ミトコンドリア・イブ」に見えてくるのは私だけでしょうか? ダ・ヴィンチはもちろんですが、例のナポレオンもそう考えていたに違いないでしょう。ゲーテが「ファウスト」のラストで描こうとしたのも、このコト(母性回帰?)ではなかったでしょうか。
千々松さん、チョットチョットと言われそうですが、藤原肇博士が「パラサイト・イブ」に衝撃を得られたコトに図らずも共振してしまった次第です。

128千々松 健:2013/05/16(木) 22:08:29
昨日入手した季刊誌の「kotoba」最新(11)号には福岡伸一さんがマップラバーからマップヘイターへ自身を変化させた話も出ていて大変面白い。彼は細胞と細胞の関係を研究する過程で、「全体性を気にしないでマップヘイターとして細胞は行動しながら、全体としてはうまく調和がとれる。なるほど、生命とはこのようにできているのか、と気づいた私は、生物学者であるかたわら「動的平衡」をキーワードに本を書くようになりました。」と告白している。
たとえ遺伝子の全体地図ができたにしても、生命のあり方は解明できないと気づいた福岡伸一は単なる分子生物学者を超えた存在となったようです。
それにしても4年前に「21世紀マンダラ」を手渡す機会があったのですが、その中に生命のあり方に関するヒントが隠されているコトを彼が少しでも気づいてくれることを今は願っています。

129千々松 健:2013/06/11(火) 11:39:29
<3.11から3×9=27ヶ月目に当たり>
古くて新しい「日本のオペレーション・システム(OS)」を今こそ認識すべきです。
古来のフトマニと陰陽を統合したカタチで表わされる「21世紀マンダラ」モデルに注目しましょう!
そこにはフィボナッチ数列を包含するフトマニ数列群とそれが生み出す神聖比例や陰陽道の太極図にみる左右の渦巻きバランスとひふみ算による全ての数の有限化が見てとれるからです。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/21st%20Century%20Mandala.pdf

「世界を変えた17の方程式」という最新書でイアン・スチュアートは≪これからは無限から有限へと方程式のアルゴリズムは方向転換されるだろう≫と展望していますから、純粋数学者達もそろそろ気が付いてきたのではないでしょうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO55991070Y3A600C1MZC001/

130千々松 健:2013/06/20(木) 13:42:26
イアン・スチュアートは「世界を変えた17の方程式」p401の中で、『未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ』と述べていますが、これは無限連続から有限離散への数学の方向転換を促しているものです。
この離散数学は有限的で離散的な構造を扱う数学で、無限と連続で象徴される従来の数学とは大いに違い、コンピュータ・サイエンスの発展に伴い、その重要性は認識されているが、旧来の学校数学はそれに充分に対応していないというのが現状のようです。
更に、整数のカタチを取っていると言うことの意味ですが、例えば、12÷9の計算を考えてみましょう。これを1.33333...と小数点を含めて表現する場合が無限連続の数学で、商1余り3と整数だけで表現するのが有限離散の数学と言えます。そして、モジュラー計算(合同算術)では、12≡3(mod 9)と簡潔に表わせるコトになります。
大事なコトですが、これは「フトマニ数列群の出番である」と言っているのに等しいのです。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
この方程式は、神聖比例を生じるフィボナッチ数列の一般論として位置づけられるフトマニ数列(FMn)のアルゴリズムを示していて、9を法とする剰余算では整数のみによる循環(FLKMの4系列)で表わせるという合同式です。

思えば『神の数学』守護者さんからヒントを頂いてすでに6年が経ちますが、『日本古来のDNAの為せる業』がやっと『未来を変える方程式』として成就したという想いがいたします。
日本古来のフトマニに秘められた「二つを足して、次に正しく置く」というアルゴリズムとひふみ算術およびカバラ算術に共通する(mod 9)の復活が同時になされるべき時が遂に到来したのです。

131千々松 健:2013/06/21(金) 21:07:31
【FMn≡FLKMchain(mod 9)】という『未来を変える方程式』は「フィボナッチ数列や律動とラチオについて」「フィボナッチ数列の殿堂への夢」「モノとコトあるいはカタチとコトバ」等のレスに共通したアイデンティティです。
また、30年前のニューサイエンスの高揚がオカルト化の嵐の中で消滅したコトを反省して、あくまでも数学的な論理思考のコトバを持ったカタチで提示される「生命知の殿堂」のアーキタイプとしての方程式にも当たります。そして、それは全てのアーキテクチャへと繋がって行くのです。

132千々松 健:2013/06/24(月) 13:04:05
【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
:『黄金比(神聖比例)を生じるフィボナッチ数列(フトマニ数列群)は、法を9とするモジュラー算術で観察すると、24項目で循環する4つの数の流れ=FLKM系列を持っている』

「デュラックスピノル」についてはDNAの4重らせん構造をテーマにした時に触れていて、相対性理論と量子論の融合に寄与したポール・ディラックが示した4つのスピノルとFLKM系列の関係性について直観で述べていました。
また、『物理学には数学的な美が重要である』(ディラック)と『神は整数を作られた。それ以外は人間が作ったものである』(クロネッカー)をカサネてみる時、『万物は流転する』(ヘラクレイトス)、『万物は数である』(ピタゴラス)と古代ギリシア人が考えていたことは、改めて納得せざるを得ません。

133千々松 健:2013/06/25(火) 21:15:11
面白いことに、フトマニ数列群で0項を10、第1項を12にすると第9項目に618、第10項目に1000、第11項目に1618、第12項目に2618が現れる。これらは千単位で見れば、φ、1、Φ、Φ^2の近似値に相当する。隣り合わせの数の比が黄金比になるコトの整数レベルでの実例である。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/FutomaniJ.pdf
スタートの10と12は2で割れば5と6の関係になるので、これは動植物に係る5という数と鉱物に係る6という数のコラボレーションにより生じる神聖比例数と言えようか?
フィボナッチ数列の一般式と位置づけて良いフトマニ数列群のアルゴリズムは「二つを足して次の間に置く」です。(パソコン上でエクセルなどの表計算なら、一つだけ計算式を作れば、後は簡単にコピーで済みます)
「世界を変えた17の方程式」でイアン・ステュアートが言う「未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ」とカサネて考えるならば、自ずとその意味が明らかになるコトでしょう。

134千々松 健:2013/06/26(水) 15:20:12
『世界をその最も奥深くで統べているものが、何であるかを認識し、一切の作用の力と種子とを目で観る』という行動をゲーテはファウストに課していた訳ですが、アートが芸術と科学・技術の両方を含めていた良き時代の「宇宙巡礼」でありました。
現代に生きるファウスト的人間といえる博士の「宇宙巡礼」は21世紀に入り、その数理的な裏付けが為されたのです。
武谷三段階論的に言えば、現象論:ト―ラス、実体論:Φとフィボナッチ数列、に対して最後の本質論は何かというコトですが、それはFLKM系列に関係すると考えられます。
下記の数式は、計算のレシピとも言えるアルゴリズムを示す合同式です。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】
Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】
Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】
Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】
24項目で循環するフィボナッチ(F)系列が基本となっていて、リュカ(L)系列はF系列を2倍したもので、ケン(K)系列は3倍したもの、ミチコ(M)系列は4倍したものに該当します。もちろん(mod 9)で処理します。また、0を起点にして観察すると、各項目は足し算することでも一致します。F+L=Kは例えば第6項目ではF8+L7=15、1+5=K6となり、F+K=Mは同じくF8+K6=14、1+4=M5となります。1倍と2倍を足したら3倍になり、1倍と3倍を足すと4倍になる理屈です。
では更に広げて、2倍と3倍を足したら5倍になる数列は考慮しなくていいのでしょうか?
それを仮にP系列としましょう。
Pchain:【0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4,0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5】が考えられます。
しかし、これはMchainを後半からスタートさせた系列に一致するのです。9-5=4だからです。
9-6=3、9-7=2、9-8=1以下省略で、法を9とする限りはFLKMの4つの系列に集約されてしまうのです。
まあ、何と有限で幽玄な世界が現れるのでしょう!

135千々松 健:2013/06/27(木) 22:39:23
『あ、わかった! 世界の見え方があざやかに変わる発想』という帯コピー文のある「思考の補助線」(ちくま新書)茂木健一郎著という本を5年前に読んでいるのですが、そこから2ヶ所引用させてもらいます。
p34『ゲーテの「ファウスト」にいう「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない、両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。(中略)何時間かけて考えても解けなかった幾何学の問題が、たった一本の補助線を引くだけで見通しがつき、一挙に解決に向かうように、何らかの新しい視点を得る努力をしてみたい。』
p207『ある方法論に従ってさえいれば、収集するデータの有効性や理論の普遍性が担保される。天才でなければ成功しないというような実験には科学としての意味はない。どんな平凡な人間でも、性格の悪い人でも、善意に満ちた人も、あるプロトコルに従って操作さえすれば、同じ結果が出る。これが、科学という知的営為の偉大なる大前提である。』

このところ話題にしている【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】が、その意味での“一本の補助線”になることを願っています。

136千々松 健:2013/07/04(木) 23:35:49
数学の基礎演算は、加法・減法・乗法・除法の他にモジュラー演算(計算)を加えた「五則演算」とすべきことを強調しておきたい。
ライプニッツは行列式や二進法を考え着いただけではなく、法を9とするモジュラー計算(mod 9)の特徴にも気づいていたという。行列式は日本の関孝和が若干先行していたが、その後の行列数学や量子力学に繋がって行く基礎となったし、二進法は言うまでもなくコンピュータの開発に繋がりました。

それでは、モジュラー計算(mod 9)の特徴は一体何の役に立つというのでしょうか?

137千々松 健:2013/07/05(金) 21:12:15
アンドリュー・ワイルズ氏は1990年代に
【楕円曲線のゼータ関数は、全てモジュラー形式である】
という谷山-志村予想を証明することによって、
【nが3以上のとき X^n+Y^n=Z^nをみたすX,Y,Zは正の整数解をもたない】
というフェルマーの最終定理を360年目にして証明することができたという。

ところで、2010.2.1 百人一首と魔方陣 >95 で書いた覚えがあります。
>4)ゼータ関数 ζ(S)=π^s / N では、Sが偶数のときNはmod9では全てが0となる。例えばζ(6)=π^6 /945  N=945、N≡0(mod 9)

複素平面でのモジュラー形式(関数)は難解なのでパスするとしても、時計算とも言われるモジュラー計算(算術)の方は理解がし易いです。従って、単純にはモジュラー計算が必要となるのがモジュラー形式の世界であると考えれば良いと言うことになるのでしょう。

*その辺を文系にも理解しやすいように解説している下記のサイトがありました。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/8931/index3.html#・フェルマーの最終定理とスープに浮かぶドーナッツの似非科学

138千々松 健:2013/07/07(日) 15:31:45
カレンダーでは1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と奇数のぞろ目が好まれていて、今日は7月7日の七夕です。次は重陽の節句の9月9日ですが、9は陰陽で言う陽(奇数)の極に当たる訳です。この9という数は、古今東西、秘数として扱われて来ていたのは確かです。
【時計算、剰余算、合同算術、モジュラー計算、モジュラー算術】その呼び方は多種にわたりますが、特に9に注目したモジュラー算術に当たるのが、古代日本では「ひふみ算」であり、古代ユダヤでは「カバラ算」であったのです。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) :If you look at the modular arithmetic that the law 9, Futomani sequence caused a divine proportion becomes a flow of four numbers circulating in the 24 term.(Ken Chijimatsu 2013.summer Japan)】
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/21st.Century.Mandala.pdf

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) :神聖比例(黄金比=Φ)を生じるフトマニ数列群=FMn(フィボナッチ数列はその特殊例)は、法を9とするモジュラー算術(mod 9)で観察すると、24項で循環する4つの数の流れ(FLKM系列)になる】
これは<世界を変えた17の方程式>にはない<未来を変える合同式のアルゴリズム>として、通時性かつ共時性の故にいずれ認知されることでしょう。
・・・宇宙巡礼に相応しい七夕の日に祈念を込めて・・・

139千々松 健:2013/07/07(日) 16:39:31
整理のために、二つの式を比較しておきましょう。
 Fn≡Fchain(mod 9)・・・・1) 
 FMn≡FLKMchain(mod 9)・・2) 

1)はフィボナッチ数列でFn:0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89、、、
Fn+2=Fn+Fn+1で 初項=0、第二項=1の場合。
Fnを、それぞれの項を9で割った余りに置き換えると
【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】という
24項で循環するフィボナッチ系列=Fchainが出現する。
ガウスの合同式記号を使って示すとFn≡Fchain(mod 9)となる。

2)はフトマニ数列群で FMn:初項=任意数、第二項=任意数の場合。
あらゆる数列の項を9で割った余りに置き換えるると
Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】
Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】
Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】
Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】
4つの流れ、すなわちFLKMchainという24で循環する系列に集約される。

1)は特殊論で、2)の方が一般論とみて良いと考えますが、
2008年の段階で特殊論を見つけて、その後、一般論に発展して来たのです。
「二つを足して次の間に置く」という単純なフトマニのアルゴリズムが
神聖比例「Φ」を生じさせる事実には、ただ驚愕するのみです。
初期に『ひふみフィボナッチ数列』と呼んでいた頃が懐かしく思われます。

140千々松 健:2013/07/08(月) 16:34:14
竹下節子著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」中央公論新社p115からの引用です。
『キリスト教カバラの成立とは、キリスト教が独自のカバラ的手法を発明したことではない。カバラが「神の言語」の正当な翻訳道具になることを証明するというやり方だ。ルネサンスの科学は、神の創った宇宙の自然現象の因果関係を理解しようとした。宇宙は神の言語で書かれている。それを理解するには神の言語を解く必要があり、神の言語とは他ならぬ「創世記」が語られているヘブライ語であろう。そのヘブライ語を神の言語として解くのがカバラであるとしたら、カバラは一種の神智学であり、真の神学でもある。(中略)カバラを使って神のプログラム言語を調べればその秘密は解ける。』

私はカバラに関しては「カバラ算術」にしか知識と興味を持たないが、それが、現代数学の(mod 9)を意味しているコト、さらに日本伝統の古神道の「ひふみ算術」とも共通しているコトを認識するに至り、神の言葉=プログラム言語=数学=アルゴリズムについて考えると、万物は数で生じているという認識に立ち至り、やがて【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】を提示するコトが出来たと言う訳です。
さて、この式にピッタリな名称は何でしょうか?

141千々松 健:2013/07/10(水) 23:25:55
イアン・スチュアート著「もっとも美しい対称性」日経BP社p13からの引用です。
『空間、時間、物質が取りうる構造はその対称性によって決まるが、その中でも最も重要なもののいくつかは代数学における特別な構造に関係しているらしい。時空がこのような性質を持つようになったのは数学が特別な形を少数しか認めなかったからかもしれない。そうだとすれば、数学に目を向けるのは意味があることになる。』

この文章は大変意味深いと思います。
先ずは宇宙巡礼的には対称性を「回文」と相似象にしても良いと思われることです。
そして“代数学における特別な構造”とは「動態幾何学」や対称性を扱うのに優れているモジュラー算術に関係してくる訳ですし、“数学が特別な形を少数しか認めなかった”からは黄金比を生じるフィボナッツ数列(広くはフトマニ数列群)がイメージされるのです。
この「もっとも美しい対称性」は2008年以前の著作ですが、
英国の第一級の数学者は【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】の出現を予知していたのかもしれませんね。

142千々松 健:2013/07/12(金) 21:58:22
「黄金比はすべてを美しくするか」を書いたマリオ・リヴィオがその後に出した「神は数学者か? 万能な数学について」の言葉を借用するならば、『数学の持つ不条理な有効性』は神の仕業に他ならないと思う。
そして、数学という道具を『発明』したのは人間でしょうが、元来は神が数学者であり、人間は単にそのいくつかを『発見』したに過ぎないと考えてみたい。そして「動態幾何学」などの非ユークリッドの世界になっても、そのコトは微動ともしないと考えています。

その意味では、今般の【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】は古くて新しい『発見』と言えましょうか?
元々が神の数学の持ち物(道具)に、私たち人間が名称を付けるのは大変おこがましいのですが、
例えば【生命知の神聖比例アルゴリズム】(The Divine proportional algorithm of cosmic wisdom)は如何でしょうか?

143千々松 健:2013/07/13(土) 21:11:35
今日から盆の入り、燈明の火には松の木を使うのですが、松ぼっくりは火がつき易いので昔は重宝されたそうです。そして、火はそれを拝したゾロアスター教に繋がります。
さて、広島に本社のある自動車会社の【MAZDA】の名称は創始者の松田姓から来ている訳ですが、偶然にもゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーのマズダーと同じなので、世界進出にも適しているのです。
MAZDAの中央のZの文字を90度回転させてNにして読むとMANDA になり、それにLAを付けると【MANDALA】(曼陀羅)になるのはとても不思議なコトです。こんな言葉の遊びにも、何か深い意味つながりがあるのかもしれませんね。またMANDAのMを180度回転させたら、WANDAになり、同じ発音ですがAをOに替えるとWONDAになり、コーヒー缶の銘柄になってしまいます。
アルファベッド26大文字の中で回転して他の文字に化けるのは、結局のところ、ZとN、WとMしかないのです。

14496169:2013/09/25(水) 12:57:08
この種のタイプの本はとても分かり易いし、日本人として知っておく必要がある、基礎教養に属す多くの知識を含んでいるので、多くの人が自分の意見を表明している。現にアマゾンの書評欄を開けば、船瀬さんの「日本の真相」は5つ星が19で4つ星が6,あり、安部さんの「知れば恐怖で食べられない」は5つ星が155で4つ星が44もあるから、私がここで改めて読後感を披歴する必要もないと思う。
それだけでなく、内容的にも多くの読者を獲得し得るし、解説のスタイルも体験に基づき、具体性に富むので中学生でも良く分かる。「あらゆる立派な職業から締め出された、クズによって統治されている日本」と違い、欧米の先進国では政治家にまともな人材がいて、国政に真面目に取り組む人が多いから、放射能汚染や食品添加物に対しての危惧は、テーマとして緊急かつ普遍性を秘めるので、メディアも真剣な態度で取り組む対象になっている。
だから、一億人の日本人にとって緊急課題だが、日本では生命に対しての大犯罪であり、ガイアへの加害者でもある福島原発に対して、全く無責任な状態が罷り通っている。こうしたお国柄と時代性への反発の気持ちで、私の細やかな罪滅ぼしの連帯意識として、この二冊の著者への敬意の表明するために、これらの本を出版社に注文して取り寄せ、「宇宙巡礼」の書店に寄託したいと考えた。
また、それは数日後に発行される「フナイ」十月号に、「強権政治の病理とメディアの堕落」と題した、本澤二郎さんとの対談が出る記念でもある。この記事のゲラに朱を入れながら思ったのは、将基面さんの最近著の「ヨーロッパ政治思想史の誕生」の中に、「・・・いかなる嘘や中傷、迫害が加えられようとも、疑似教皇(暴君のことを指す)を信じ、ひいきし、さらにはそれを弁護する群衆がどんなに大きなものであろうとも、彼の誤謬を攻撃し論駁することを私に断念させることは、いつ何時たりともあり得ない。私に手とペンと羊皮紙、そしてインクがある限り」と言う、ウィリアムのオッカムの言葉を味わい、やはり往時には勇気ある人がいたものだと感銘したからである。
かねがね「書籍購入のご案内」のA,B,Cのそれぞれに、貴重な資料の「平成幕末のダイアグノシス」が含まれ、ABC全セットを欲しい人に不親切だと感じて来た。だから、B-7には船瀬さんの本で置き換えることで、C-2には安部さんの著書で置き換えて再編集して、書店の活性化を管理人にお願いしたい。

14596169:2013/09/27(金) 08:29:26
144)の記事に関して将基面さんから、次のようなメッセージが届いているので公開します。
彼はヘルシンキ大学の客員教授わ始めアカデミーの世界で活躍しているだけでなく、オタゴ大学准教授と共に副学部長の学務まで担当して、壮年期にふさわしい活躍をしているようです。
安部や麻生のネオナチについて論じた発言をしたら、将基面さんが最低で卑劣な蓑田胸喜などについて、扱い始めたと知りシンクロニシティに驚きました。
また、私が報告した144番はフィボナッチ数列の鍵数で、故首藤さんにカットをして欲しいと依頼したら、これは神の数らしく式が作れないと言われ、114面体にした思い出もある数で奇遇でした。
<貼り付け>
拙著に言及くださり、恐縮に存じます。目を通していただき大変うれしく存じます。
現在は中世ヨーロッパ政治思想史の他に、日本政治思想、特に1930年代の思想的対立緊張に関心があり、
矢内原忠雄(特に矢内原事件)の研究から派生して蓑田胸喜を中心とするウルトラナショナリズムに見られる日本的政治思惟の特性を探っております。
ご健勝を祈念しつつ、

146藤原:2013/10/31(木) 23:29:05
夜の十時半に第七巻の「あとがき」読み終え、これから所感の書き込みを開始するが、あと一時間余りで Jack –o’ – Lanternの灯が消え、新年を迎え記念すべき年と日が終わる。
脳と目を酷使する長いが愉悦に満ちた旅路であり、マゼラン海峡と嵐の岬(喜望峰)を通過した旅を終え、ようやく母港にたどりついた感じで、七十五歳の誕生日に最後の頁を閉じることが出来た。
古代ケルト人が収穫を祝うハロウインの夜に、読了を完成するかどうかを危惧しただけでなく、最後に出会う精神の汚染を回避して、第七巻十章のジェンダー/コミックに属す可なりの本は、一瞥だけで通過しようと決断した。
それだと画龍点睛を欠くという気もしたが、知る必要がない情報も存在するし、品性と節度を保って生きて行く上で、知らない方が良い領域は禁断の地として、近づかないのが賢明だと判断した。
おぞましさが支配している空間は、そこをすっ飛ばして通り過ごし、目や頭脳をごみ溜め代わりにしないのが、精神衛生における防疫措置でもある。そうした例外的な十数冊ほどの本を除いては、じっくり観察し読み込んだので、見聞録として心の中の書庫に収蔵できた。
半世紀にわたる遍歴人生において、年に数度だけ客人の形で訪れ、その間に劣化と荒廃が進む故国に対しは、彼方に広がる異界としての設定で、浦島の逆玉手箱効果の相似象を観察した。
千冊に近い選ばれた本の渉猟で得たのは、若き日の留学の時に学んだ教訓や体験を積んだ過程で、見過ごしたものや分からずに終わった、盲点を埋める作業をおそらく果したことになる。
京都生まれの呉服商の息子の松岡さんは、江戸っ子で医療機械商の息子の私に較べ、面白いような共通面と異質面があって、若い頃にフランス語の世界に遊んだし、数学や博物学に強い関心を持っており、彼は国内に留まり私は日本を脱藩した。
ところが、彼は高校時代に上京して九段高校に転入し、私は東叡山にある上野高校に進み、共に後藤新平が作った旧制市立中学の環境で、詰襟でなく背広で青春を過ごし、官途につかず「野ごころ」の維持を図って来た。
生涯をかけて百一連環の帝網に挑み、松岡さんは編集の奥義を窮めたことで、彼は『千夜千冊』の千人斬りの偉業を果たし、私はその返り血でアムリタを賞味した。
私がえにしを結んだ愛着を持つ本のリストの中に、彼が触れなかった本と著者があって、重ならない世界があるのも興味深いが、そのうち思いがけない幸運に恵まれ、セイロン島あたりで出会いをもち、発見と再会の縁起を持つ楽しみがある。

147藤原:2013/10/31(木) 23:41:22
(NGの文字があると撥ねられたので、直した後半を以下に続けようと何度も試みたが、書き込み不能なので小刻みに書き込み、残りの部分は明日にやり直します)
知情意が構成する三角ダイアグラムを作り、その流体力学の位相の階位の頂点に、洗練度における名人と芸術性における鉄人、それと論理性における達人を置く。
そうすると、『千夜千冊』を作り上げた松岡正剛の作品は、シェヘラザード築いた夜の偉業と並び、叡智と編集術で組み上げた「花伝書」で、日本が誇るマエストロの逸品になる。
半世紀を費やした世界巡礼の草枕の果てに、生まれ故郷における憩いの場で、千夜の夢を一年半という時間枠の中で見終わって、安堵の気持ちに包まれている境地は、何という恵まれた心の寛ぎになることか。

148藤原:2013/10/31(木) 23:54:50
(残りの部分ですが、未だ受け付けられないので細切れ状態です)
母親が亡くなった直後にあった述懐が、『岳人』の1994年9月号の誌上で活字になり、それが『山岳誌』の追悼号に収録され、遺言で日本全国の高校図書室の書架に並んだが、それは山頂に積む憩いのケルンだった。
そこには青年期のゲーテが山小屋の壁板に、「 総ての頂きに憩いあり(ドイツ語の書き込み省略しました)」と刻み込んだ、若い頃に残した書き込みの文章に対面した、82歳の老詩人の感激が伝って来る感じがして、人生の来し方を振り返った一瞬である。
また、「冥土の旅の一里塚」として積むケルン代わりに、賑やかな英語の誕生日の歌ではなく、フランツ・リストの「流離の人の夜の歌」を味わい、これから暫し熟睡を楽しむことにする。
http://kunstlied.blog23.fc2.com/blog-category-54.html
2013年10月31日の11時を過ぎた大晦日の夜に。

149藤原:2013/11/01(金) 00:09:21
そこに青年期のゲーテ・・・
の前に貼りつけたURLがNGになった原因らしく、それを取り除いたら書き込みが出来ました、
何だか奇妙ですが全文を再現するために、URLを改めて貼り付けておこうとしたが、再び撥ねられたので貼り付けを諦めます。
「宇宙巡礼」の「記事」にある、『岳人』の1994年9月号の記事を参照ください。
意味が不明のトラブルのために、二日がかりの書き込みになってしまいました。申し訳ありませんが、一応これが最近読んだ本の感想です。

150藤原:2013/11/01(金) 00:30:24
取り上げた本についての説明不足で、分かりずらくて失礼しました。
千冊の本が束になっていて、著者は松岡正剛で題名は「千夜千冊であり、」内容は次のようなものです。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B%E5%8D%83%E5%A4%9C%E5%8D%83%E5%86%8A-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E6%AD%A3%E5%89%9B/dp/4763006428/ref=sr_1_19?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1383232967&amp;sr=1-19&amp;keywords=%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B

151千々松 健:2013/11/01(金) 00:38:24
ハロウィーンに誕生日を迎えられた藤原肇博士が松岡正剛氏の「千夜千冊」全7巻を読破されたことを知り、デュアルの祝福を贈りたいと思います。(祝^2)

【言霊と数霊の出会い】
カタカムナ研究者の宇野多美恵さんの命日が10月22日でしたが、丁度7年後に当たる10月23日午前に、関西のある人物からメールを頂き、まことに不思議な縁を感じざるを得ませんでした。
早速に、東京丸の内にてお話したのですが、それは、まるでコトダマとカズダマの出会いでした。
今回の収穫の一つ:
22-77の組み合わせが特徴的なリュカ数列(コトダマ的にはルカ数列の方が適しているようです)の一般公式から11-88の組み合わせが特徴的なフィボナッチ数列も出現するという意味では、ルカ数列の方が核になるのかもしれないと思うこの頃です。

152中村:2013/11/02(土) 09:26:54
75才といえばナントカ高齢者に数えられる年で、普通なら神経痛とかアルツハイマーになったりして、生命のエネルギーが低下する年齢です。
そんな年になってもこれだけのチャレンジをして、こんな薀蓄に富んだ文章を書けるとゆうことは素晴らしいです。
本当に素晴らしい誕生日おめでとうございます。これからも元気にご活躍されて、指導して下さるようにと、心から期待しています。

153千々松 健:2013/11/07(木) 14:26:05
引越しの準備で本棚を整理していたら、「私のゲーテ」小塩節著が目についたので付箋の箇所を読み返した。
ファウストについて P65-66『神の行為であり神の意志であるロゴスを、この自分の力で認識せんがための行動である。【世界をそのもっとも奥深くで統べているものがなんであるかを認識し、いっさいの作用の力と種子とを目で観る】そのための行動なのである。(中略)原子物理学者や遺伝子工学の先端をゆく現代の自然科学者は、みなファウストの嘆きを身にしみて知っているはずだ。』

154藤原肇:2014/03/25(火) 07:03:34
 [単にマネージメントがあるのではなく、そこには常にイメージメントがはばたいている]という結論は、俯瞰して全体的に物事の本質を見抜き、関係性を読み取って物語りを編集するのが、リーダーシップであるという意味で、「イメージとマネージ」と題した本書は素晴らしい内容に満ちている。
また、「リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針」という副題も、日本人として異例に属す指導性を持ち、それを実践し活躍した平尾誠二という関西人がが、如何に稀有の人材であるかを克明に証明していく。
だから、人材枯渇と不毛な支配者たちの洪水という、実に情けない日本の現状にあるせいで、慚愧の気分に包まれて思いを馳せていた時に、この本に出会った幸運を痛感させたのである。それにしても全く不思議な因縁であり、ラグビーという英国人が作ったスポーツの世界とはいえ、他人事とは思えない印象をこの本は私に与えたといえる。
 彼が同志社大や神戸製鋼のチームを率いて、実践で積み上げてきたゲームの指導能力は、明治時代からの日本の戦争の歴史と較べても、あるいは、明治から現在に至る日本の政治においてさえ、彼に匹敵するビジョンと統率力を持つリーダーは、見つけるのが困難なのではないかという気持ちになった。だから、その感慨は実に印象深いものになった。
 同じラグビーをやっても裏口と誤魔化しが専門で、ワセダの学生時代に売春防止法の現行犯でつかまり、密室の闇取引で首相になった森喜朗が、東京オリンピックの最高責任者に納まるような、退廃と堕落した日本のスポーツ界を見れば、亡国に至っている日本の現状の意味が納得出来る。
暴力団の政治舎弟で国粋的なタカ派の清和会が、森から安倍に至るまでの愚劣な支配者として、日本の政治を愚弄し続けたこの時代は、裏の世界の人間が表社会を陵辱することで、日本の運命が大幅に狂い果てた時期でもあった。
 それにしても、日本の各分野の実践現場には、平尾のような優れたビジョンと指導力を持ち、着実に堅実な実績を積み重ねていたのに、なぜ日本の現状は支離滅裂な衆愚主義が支配し、亡国への道を盲目的に驀進したのだろうか。
それは小学校の生徒にも劣る国語力や劣悪な判断力しか持ち合わせない、安倍晋三のごとき低脳な権力者を始め、支離滅裂な態度で政治を食い物にして恥ることもなく、したい放題をして来た橋下のようなごろつきが、大手を振って罷り通る狂った時代の産物だった。
しかも、日本の未来をめちゃくちゃにしているのに、日本人は屠殺場に率いられていく牛のように群れをなし、反抗する気概もないのかと不思議でならない時代でもあった。
それにしてもである。この対談こそは二十世紀の日本に生まれた、最高のダイアログだという嬉しい読後感を持ち、久し振りに読書の快感を満喫したのである。

155千々松 健:2014/03/25(火) 16:40:23
>153 つづき
これは要するに『 Want(神の意志)、Plan(神の論理=ロゴス)、Action(神の行為)を三位一体的に理解しようと努力するコト』になろうかと思います。

武谷三男の三段階論すなわち「人間の認識は現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階の三段階を経て発展する」
 1)現象論的段階- 現象をありのままに記述する段階
 2)実体論的段階-- 対象の構造を研究する段階
 3)本質論的段階--- 対象がどのような相互作用の下に、どのような運動法則に従っているのかを明らかにする段階
「自然がこのような立体的な構造をもっており、それを人間の認識がつぎつぎと皮をはいで行くのでこのような発展が得られる。すなわち歴史的発展と論理的構造の一致である。」
京都大学の素粒子論研究グループの方法論の基礎には、この武谷三段階論という新しい弁証法が在ったといわれている。

そこで私は、■を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、●を本質論的段階にてイメージし、三位一体的な立体構造の全体をマネジメントして行くのが重要であろうと思い着き、2012年秋ごろ松岡正剛氏に手渡した1枚が、パワーポイント用に作成した「未来を変える方程式」というPDFの最終16枚目のシートでした。
注)検索エンジンが進化してPDFファイル内のキーワードでもグーグルが、すぐに見つけてくれるようになったのは嬉しいですね。
その例としても「本質を抉る思考のヒント」にて一度検索してみてください。「病理を抉る」ほどにはヒットしないかもしれませんが、、、
2014.3.25

156千々松 健:2014/03/25(火) 21:30:36
>155『■を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、●を本質論的段階にてイメージし』は明らかに間違ってしまいました。
もつろん『●を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、■を本質論的段階にてイメージし』が正しいのでした。
ことのついでに、
 1)ステロタイプ:●:現象論
 2)プロトタイプ:▲:実体論
 3)アーキタイプ:■:本質論
とイメージして、三位一体的に立体構造全体を扱い、1.2.3の順序に3.2.1の逆序も加味した秩序の総体をマネジメントするコトが肝要となりましょう。
また、このようなイメージは三種の神器にもつながり、鏡:■、剣:▲、勾玉:●となります。(断面のカタチから見る)

157千々松 健:2014/03/25(火) 22:08:52
三種の神器は現在では三ヶ所に別々に在るようです。
八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に、八尺瓊勾玉は八咫鏡の形代および草薙剣の形代とともに皇居吹上御所の「剣璽の間」に安置されているといいます。
アーキタイプの■のイメージになる「八咫鏡」が本質であり、最重要であるコトがこのようなことからも解かりますね。

明日3月26日には20年ぶりに皇居の剣璽が伊勢にて鏡とめぐり合う事になるようです。

158藤原肇:2014/03/26(水) 13:14:43
155で千々松さんが松岡さんに触れているのを読み、154の私の記事の最後の行に関して、それにしてもである以下を次のように書き改めて補いたい。

それにしてもである。過去30年間の私は専ら対談を試みてきたが、対話は同じレベルの人の出会いが決め手であり、
その点で型破りのスポーツマンの平尾誠二を相手に、対等であることに疑いの余地のないレベルで、編集の達人の松岡正剛が存分に語り合っているのを知ることになった。
そして、この対談こそは二十世紀の日本に生まれた、最高のダイアログだという嬉しい読後感を持ち、久し振りに読書の快感を満喫したのである。

159千々松 健:2014/03/27(木) 22:18:57
平尾誠二氏は山中伸弥氏と神戸新聞で新春対談をされていました。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201312/0006608321.shtml

2月23日に秩父宮ラグビー場で開催されたラグビー日本選手権2回戦の神戸製鋼対ヤマハ発動機の試合を天皇皇后両陛下が観戦され、森喜朗さんがラグビー協会トップとして同席していたようです。
そして、神戸製鋼ラグビー部のGM兼総監督として平尾氏は場内で采配を振り、大逆転の勝利を飾っています。

さて、初めはSTAP細胞の小保方さんにエールを送っていた山中氏なのですが、今後はiPS細胞対STAP細胞の対戦(対談)は不成立のようですね。

160千々松 健:2014/03/28(金) 23:53:55
三段階論の現象論、実体論、本質論に関連して
日本古来の伝えに『その言は数にあり、数の道は理を含み、理は玄を有て在り』というのがあるそうです。
そこで、ふと私なりに次のように解釈したいと思うのでした。
「神のコトバは数(神が示す図=カズ)にあり、数の道である『神聖方陣』には道理(黄金比を生じるフィボナッチ数列)が含まれていて、その本質は『FMn≡FLKMchain(mod9)』に在る」
ここ数年来公開して参りました<21世紀マンダラモデル>と<未来を変える方程式>は日本文化の遺伝子ともいえるHUTOMANI=フトマニを宿しています。
2014.3.28

161千々松 健:2014/03/31(月) 22:08:41
ヒフミシンジ(日月神示)・イシモクシロク(五十黙示録)・フソウ(扶桑)の巻に登場する数字群にヒントを貰い、
フィボナッチ数列を72倍した数列を考えました。
 Fn: 0,1,1,2,3,5,8,13,21、
72Fn: 0,72,72,144,216,360,576,936,1512、
この中には、0項目を抜かすと三番目に144、四番目に216、五番目に360が現れます。
天が3ならば天の数は144で、地が4ならば地の数は216で、(並んだ二つを足して次に置くというフトマニのアルゴリズムから)5番目が360になるわけです。
そこで、1番目と2番目を改めて確認すると、72と72です。2^3×3^2=8×9=72 ですから扶桑(2と3)だけで表されていることになります。
この72Fnの数列を「ひふみ算」すなわち(mod 9)で処理すると、全てが0となります。
そこで「未来を変える方程式」の【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は、初項と第二項を任意としていますが、<9の倍数は除く>という但し書きが必要になるということが確認できました。

また、伊勢神宮の「八咫鏡」は「天の中の元」です。すべての本質がその鏡にうつるのであれば、その鏡面対称性は「神の数式」にも欠かせないのです。
そして『神聖比例(黄金比=Φ≒1.618)を生じるフトマニ数列群(フィボナッチ数列はその特殊例)は、法を9とするモジュラー算術 (mod 9)で処理すると、全てが24項で循環する4つの数の流れであるFLKM系列のいずれかになる』ことを示す
【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は「日出る時は来にけり」の一つのアカシかも知れません。
2014.3.31

162千々松 健:2014/04/01(火) 22:56:16
日月神示・五十黙示録・扶桑の巻に関しての続き
そこに「イセにはモノ言うイシがある」と書かれているのですが、それに私は大変な興味を持ちました。

数の読み方でヒフミヨイムナヤコトが1,2,3,4,5,6,7,8,9,10の古来の読み方ですから、イは5で、セは世界ということにして、イセは5に関係するコト全ての意味になると思われるのです。
イセが伊勢神宮で5に関係すると考えると、√5を含む黄金比すなわちΦ=(√5+1)/2につながり、フィボナッチ数列へ更には「フトマニ数列群」に繋がりました。
そして、イシは1と4で、それら二つを足すと5になりますから、
1+4=5のミチコ数列が想起されます。
 Mn:1,4,5,9,14,23,37,60、 ミチコ数列
ついでに
 Fn:0,1,1,2,3,5,8,13,21、 フィボナッチ数列
Ln:1,3,4,7,11,18,29,47、 ルカ数列
 kn:0,3,3,6,9,15,24,39,63、ケン数列
以上の4つの数列が重要で、それらを(mod 9)=ヒフミ算で観察して出現するのが24項目で循環する「FLKM系列」と呼ぶ4つの数の流れでした。
黄金比を生じる数列群は(mod 9)=ヒフミ算で観察すればこの4つの数の流れのどれかに該当します。(但し、9の倍数が並ばない限り)
http://8w1hflkm.jp/21st.Century.MandalaJ.pdf

163藤原肇:2014/10/31(金) 10:24:46
阿片謀略と岸信介・安倍晋三の亡国相似象の関連資料一瞥
本日を期して私は喜寿へのあと一歩を迎えました。これまで安倍内閣の暴政を告発するために、岸と安倍晋三の亡国コネクションに関して、本にまとめようと資料集めをしてきたが、それは若い世代に任せることに決め、200p余りのデータベースは贈呈しました。
その過程で読んだ本についてのメモは、次のような読後感にある通りで、参考にする上での案内として誕生日記念に公開します。

「続・現代史資料12」――基礎資料、データベースとして最重要

「日中アヘン戦争」――通史。全体像を掴むのに最適。

「昭和陸軍阿片謀略の大罪」――佐藤肇さんが霞山会人脈や旧軍人から取材し、外交文書や防衛大の資料を検討して、まとめたデータを岩瀬君が整理した。背景や人脈が精査されており、歴史資料としては第一級だし、国士の佐藤さんの洞察は鋭く、権力を悪用した支配層の犯罪への糾弾は厳しい。
将来のある時点で岩瀬君あたりが、天保銭はもとより岸信介について詳しく調べ、田布施人脈における安倍並びに佐藤家との関連で、長州人脈の満州と朝鮮のアヘンとの関連をまとめれば、貴重な日本現代史としての書き直しになる。
そのためには落合秘史を掘り下げ、吉園周蔵と上原勇作並びに甘粕正彦のトライアングルを洗い直し、杉山茂丸や後藤新平など安場人脈が、明治から昭和に何をしたかを解明すれは、それでビンゴに至るはずである。

「阿片王」――佐野君らしい取材による略史としての読み物。里見とアヘンに関し満ゴロと上海玉については傍線の部分に、データベース的な記述があって便利だが、図の強調で地がない欠陥が目立つ。P329に興亜院において愛知揆一、大平正芳などとアヘンの関係の記述あり。これは拙著にかつてより詳しく書いたはずだが、どの本だったか失念。また、渋沢の民俗学研究所や西北研究所などの研究員が、その後に京大の人類学者グループの母体になっており、それが思いがけない発見だった。

「甘粕正彦・乱心の広野」――甘粕のアヘン情報の概要だが、彼の満州と上海ものを通じて、里見に比べて甘粕の悪辣さが分かる。普通の小説より調査の努力は認めるが、佐野君らしい資料に基づくストリー展開は、歴史より小説的面白さが濃厚。
だが、2・26や盧溝橋事件の記述もないし、上海事変にも触れていないので、大陸が舞台になっているのに、演劇の舞台のドラマに似て、歴史的な展望の迫力に欠ける。

「日本の阿片戦略」――アヘン取引は悪質と思っていたら、英国のアヘン貿易はダーティだが合法的であり、1912年のハーグ阿片条約発足からして、日本のアヘン取引はダーティで非合法とあり、日本のトップは確信犯だと認識を改めた。
また、けし栽培のなかった朝鮮で日本の二倍のけし栽培を行い、朝鮮人に密売してアヘン吸飲者を大量に作ったという政治犯罪の存在。慰安婦問題だけで騒ぐ韓国政府は、近視眼で安倍に類したバカではないか。また、日本政府は証拠隠滅に全力を傾けたようだ。

「謀略の昭和裏面』――岸信介とCIAコネクション程度。

164千々松 健:2014/10/31(金) 23:31:03
<藤原肇博士の誕生日=ハロウィーンを祝して>
ヘーゲル自筆の書き込み本を神田の古本屋で寄川条路教授が見つけられた。
http://mainichi.jp/select/news/20141022k0000m040094000c.html
それはヘーゲルのデビュー作である「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」1801年初版本に、自書の書評の一部を写し書きしたもので、
『純粋に絶対的なものは、絶対的に一つのものであり、同時に全体的なものでなければならない』などと書かれているという。
さて、興味はその書評内容そのものにあります。
ヘーゲルの正反合の弁証法に影響された武谷三男の三段階論に倣っている「●▲■の三段階論」の舞台で考えることになります。
http://8w1hflkm.jp/123universE77.pdf
『純粋に絶対的なもの』とは▲の本質であり論理であり数学的には「Φ」で示されるものです。
『絶対的に一つのものであり』とは■の実体であり原因であり数学的には「Fn^2」で示されるものです。詳しくは「FMn≡FLKMchain(mod 9)」
『同時に全体的なものでなければならない』とは●の現象であり結果であり数学的には「トーラス体」で示されるものです。
これは正に知的直観という「ピストル」で、突如として脳内の中心を射られたような気分でした。
2014.10.31

165藤原肇:2014/11/06(木) 10:41:13
163)に関して、ファイルが未整理のせいで、こんな断片が見つかりました。
関心を持つ人は少ないだろうが、参考として追加しておきます。

「謀略の昭和裏面史』――小百科として非常に便利な本で、阿片や謀略機関について網羅されており、チェックするには手軽であるが、岸信介とCIAコネクションは、物足りない感じがするが、目配りの程度は抜群に属す。この本から入れば、昭和の時代の隠された歴史について、全体像を簡便に把握できる。参考文献のリストからして、著者の目配りが行き届いており、詳細にこだわらないところが優れている。

「東条英機と阿片の闇」――東条とアヘンに関して見るべき情報はなく、題名に偽りありの本。こんな男に首相をやらせた不甲斐なさは、指導性の意味が理解できず、人気と成り行き任せしかしない、
日本人の愚劣さの証拠である。それは森以来から安倍に至る清和会人脈に支配され、暴政で愚劣さが証明済みの安倍に、独裁権力を与え続けている相似象を見れば良く分かることであり、小心者が大言壮語をして強がる点では安倍晋三と東条は共通だが、安倍はもっと劣悪というしかない。

「満州裏史」――大した内容の本ではなく、岸に対しての批判が甘い。ただし、20章以下に参考になるヒントあり。P325に古海が戦後に大谷重工業の副社長になった記述あり。
満州で岸の部下としてアヘンを担当した古海が、星製薬のモルヒネを扱ったことの関係のヒント。
慧光塾の大谷と安晋会とのコネクション関係が、とのように統一教会と結びつくかは山岡俊介君の仕事か。p449には東条がアヘンで作った数十億円の裏金を動かし、それを東条の妻が扱ったという「細川日記」の引用あり。

「回想・古海忠之」――チェックのこと。岸とつながるキイマン。

166ヒロイエ:2014/11/16(日) 21:31:26
だから、星新一が星製薬を大谷に売却し、その跡地にTOCが
あるわけですか。

167一目山随徳寺:2014/12/18(木) 01:45:16

最近 集英社インターナショナルから出版された 矢部宏治氏による下記書籍の人気が
高く、各方面で紹介されています。 話題の本としてご紹介致します。

『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』
矢部宏治・著 集英社インターナショナル
公式サイト
http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3236

Web 立ち読み用 PDF
http://www.shueisha-int.co.jp/pdfdata/0236/nihonhanaze.pdf



関連記事 等

Yahoo!ニュース - 日本を支配する“憲法より上の法”の正体とは? (週プレNEWS)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141104-00038278-playboyz-soc


「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」で話題の矢部宏治が鳩山友紀夫と
“日本の真の支配者”を語った!- |週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]

【前編】
http://wpb.shueisha.co.jp/2014/12/15/40591/
【後編】
http://wpb.shueisha.co.jp/2014/12/16/40674/


「「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 」著者・矢部宏治氏インタビュー:岩上安身氏」 
http://sun.ap.teacup.com/souun/15535.html

168千々松 健:2014/12/19(金) 16:11:09
8年程前にWEB上で運命の出会いがあった神の数学「守護者」こと佐藤敏夫氏のサイトから以下引用させていただきます。
【「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。】

ここからは、私の解釈です。(過去の修正も込めています)
『万物の法則を学ぶには、先ず現象をもたらす言(コトバ)は数(神が示す図=カズ)にあることを知るべきです。そして、その数の道は『フィボナッチ数列ヒフミ九九算表=神聖方陣』という実体はFMn≡FLKMchain(mod 9)というアルゴリズムを含みます。さらに、その本質は理すなわち「φ:1:Φ」という黄金比率に在るのです。』
『従って、全てのものは、黄金比率という論理から発し、フトマニ数列群に秘された四つの数の流れが理由となって、陰陽の二重螺旋構造体のトーラスとして現れる結果といえるのです。』
以上が、この8年間で集大成したものです。
<21世紀マンダラモデル><未来を変える方程式><●▲■の三段階論>は日本文化の遺伝子を色濃く宿していると考えています。
http://www.8w1hflkm.jp/
2014.12.19

169千々松 健:2014/12/22(月) 21:19:21
『たとえ死の陰の指す嘆きの谷を行くときも、生かされている命に感謝するならば、心の奥底から湧き上がる何かが生きる力を与えてくれる。
そして、その魂を人間の言葉に表現して行こうとすれば、それがやがて「志」となるに違いない。』

今回は残念な結果になった小保方晴子さんの「STAP細胞」も、未知なる現象である限り、その実体と本質が探求されなければなりません。
また、コペルニクス的転換という意味を踏まえれば、科学者は既知なるものから未知なるものを説明するのではなく、未知なるものから既知なるものを説明することの方がより重要でしょう。

<●▲■の三段階論>に立てば、現象●・実体■・本質▲がイメージされますし、拡大した因果律では、三角=論理、四角=原因、丸=結果ですから、本質かつ論理は黄金比(黄金比率・黄金分割)に関係するコトとなるはずです。
従って『STAP現象が起こる最適条件すなわち必要十分条件は、この「φ:1:Φ」のロジックの中に在ると予想されます。』
2014.12.21

170千々松 健:2014/12/27(土) 22:02:06
言霊と数霊に更に音霊を加えるのが良さそうです。音は波長の長さにより音階が決まります。ピタゴラス音階には黄金比が関与しています。
また、波長すなわち周波数により(限られた領域において)粒子が振動されて様々な幾何学模様が出来ることが知られています。
水の結晶は言葉によって様々に変容するという事実を江本勝氏が発見しているのは驚きです。
しかも、水は言葉(音)によって好ましい響きに対しては綺麗な氷の結晶となり、嫌な響きに対しては崩れた結晶となるという不思議な現象も実験されています。
このコトは、望ましい周波数が即ち、望ましい数霊であり、望ましい言霊でもあるということの証明のように思われるのです。
人体の細胞も殆んどが水ですから、言霊・数霊・音霊に因って色々に反応するコトがあるに違いないのです。
生命のシステムが正常に機能するためには、それらの魂が望ましい波長であるコトが大切になるという訳です。
従って、話題の「万能細胞」にしても、そういった要素が加味されるべきでしょう。
また、弱酸性のペーハー数値だけではなく、その際に入る乳酸菌や各種の雑菌も含めて、最適な条件を探求するコトが寛容です。
いずれにしても「初期化現象」は、数学で言えば「逆行列」が成立する最適条件が必須となるコトに類比されるのです。
2014.12.27

171千々松 健:2014/12/29(月) 15:40:18
江戸時代の思想家である安藤昌益の「三回」について再考する機会を得ました。
12月22日の読売新聞、時事・思想の欄で農の行方・安藤昌益「米粒の神聖性が問う」と題して末木文美士教授(日文研)が書いていたからです。
『昌益によれば、この世界は始めも終わりもない自然の運動である。その運動は通(上から下への垂直運動・横(水平運動)・逆(下から上への垂直運動)からなる。』

この5月にも触れましたが「●▲■の三段階論」はその「通気・横気・逆気」に類比されるのです。
すなわち▲から■へが通気、■から●へが横気、●から▲へが逆気の流れです。本質(論理)から実体(理由)へ、実体から現象(結果)へ、そして現象から本質へという運動になる訳です。
「廻りて巡り、とわに続く」イメージになりますね。
『逆により穀物が生ずる』となれば米粒こそが本質(論理)となるのですから、神聖比例(黄金比)が登場するコトになります。
偶然にも「米粒の神聖性が問う」のタイトルは当たっていたのかもしれませんね。
http://www.8w1hflkm.jp/123universJ77.pdf
2014.12.29

172藤原肇:2015/01/22(木) 12:17:17
「方丈記私記」(堀田善衛)を読む

弁慶と牛若丸の話を始め、義経を保護した平泉の藤原氏の滅亡とか、平家と源氏の争いや壇ノ浦の合戦に関してのイメージが、平安末期から鎌倉時代について、何となく歴史の断片として頭の隅に貼り付いていた。
また、西行法師、源実朝、法然、親鸞などの名前の後に、「千載集」「新古今」などの和歌の世界と共に、藤原定家や後鳥羽上皇が登場した時代の面影もある。後鳥羽が二桁の后や女官だけでなく、遊女や白拍子を相手にして、博打や猟色に明け暮れただけでなく、摂政を相手に男色にふけり、荒淫荒亡を尽くしたことは知識としては知っていた。
しかも、連日のように放火や地震が起き、堀田善衛のペンに従えば、「学徒群起、僧兵狼藉、群盗横行、飢餓悪疫、地震、洪水、大風、降雹、大火」で、「天変しきりに呈すといえども、法令敢えて改めず」が続いて行く。そして、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず、ありとしある人は皆浮き雲の思いをなす」という「方丈記」の冒頭の言葉は、地震や噴火の予兆に怯える日本の現状に重なり、まさに不吉な相似象ではないかと思う。
しかも、治外法権の外国軍基地を放置した中で、原発の放射能が国土を包み、戦争体制に猛進する暴政が横行し、人権を護る憲法が機能しないまま、狂人に限りなく近い男が首相として、したい放題をする日本の現状を遠望する私の目は、鴨長明の視線と同じ波動が網膜で揺れる。
それにしても、未だ大飢饉による人民の苦難は始まっていないが、既に食糧の汚染は進行し、鴨長明のいう「物狂いの世、是非を論ずるに足らず」である。高校の時のテキストが初見だったが、日仏学院時代に緑色の表紙の本で仏訳に接したが、その時から半世紀ぶりだが、久しぶりに読んだ「方丈記」のガイドブックとして、堀田善衛が体験した敗戦直前の日本と共に、今と鎌倉初期の末世現象を結ぶ「悪夢の浮橋」は、「驕れるもの久しからず」の黒い虹を架け渡してくれたのである。

173千々松 健:2015/01/27(火) 15:24:59
先日の大学入試センター試験の化学基礎で「物質の三態」問題が出ていましたので、早速に参考にしました。
まず、氷(固体)は昇華して水蒸気(気体)になり、水蒸気は凝縮して水(液体)になり、水は凝固して氷(固体)に戻るという水の三態をイメージします。
それに、帰納と演繹とアブダクションを加味しました。
http://8w1hflkm.jp/123univers.pdf
「物質の三態」を●固体、■液体、▲気体と位置づければ、●から▲へは昇華に類比されます。
この●現象から▲本質へと直接に向かうラインを逆行列的推理(Invertible abduction)と呼びたいと思います。
昇華は逆のラインにも使用されていますが、一度、●と▲との関係に「逆行列」が成立したならば、後は自由に行き来ができると言う様に考えるのは面白いと思いませんか?
●>■>▲のルートは帰納、その逆のルートが演繹です。

更に、般若心経の繰り返しと逆読ませの妙を次のように解釈するのも面白いと思います。
「色不異空 空不異色」=「いろとそらの段階」=演繹と帰納のレベル
「色即是空 空即是色」=「くうとしきの段階」=逆行列的推理のレベル
すると「空哲学=禅」は、この●から▲へのルートを観つけることを意味していたとも思えるのです。

固体の強固に結合した粒子の関係性が一気に解かれて、気体になってからは単独の粒子はバラバラに動けるようになる如くです。
ちなみに、液体の粒子は互いに引き合いながら動いていますが、演繹や帰納のルートでのみ現われることになります。
また「STAP細胞」も要するに固体から気体へ昇華するルート探しといえるのではないでしょうか。
2015.1.27

174千々松 健:2015/01/28(水) 22:55:00
>2012/02/08(水) 21:00:47 一部再掲から
プラトンの教義であるイデア論:『地球上のモノはすべて、永遠なる理想的原型つまりイデアのコピーにすぎない』および『イデアというのは、数そのもの、図そのもの、形そのものでもあった。「大」とか「小」というときの大ということ、それ自体がイデアなのである。イデアは抽象そのものであって、また同時に具体そのものなのだ。』

その「永遠なる理想的原型つまりイデア」こそは、藤原肇博士の「ステロタイプ・プロトタイプ・アーキタイプ」の三層構造における「アーキタイプ」に相当するものと考えました。
その頃の私は、イデア論の具体的なイメージとして、リュカ数列を黄金比で現わした一般式の【 Ln=Φ^n +(‐φ)^n 】を考えていました。

しかし「超三段階論」の公表時点では「永遠なる理想的原型つまりイデア」は「黄金比」そのものであると確信をいたしました。
本質をロゴス即ち論理と理解すれば、ギリシャ語のロゴスの語源の示す「三つの数の関係ないしは比」は「φ:1:Φ」に違いなく、この中の一番大きい数のΦ=黄金比≒1.618こそが「大」に一致するのです。
まさに、ユーレイカ! ですね。
2015.1.28

175千々松 健:2015/02/01(日) 21:49:08
「超三段階論」の最新版をWEB上に公開しました。2015.1.18の日付が入っているものです。
http://8w1hflkm.jp/123universJE.pdf
これは宇宙を含めて天然自然を「生命智の場」として図象する試みの一つです。
▲はプラトンの「イデア」で、■はライプニッツの「モナド」で、●は色即是空の「色」に相似像です。
そして、▲>■>●のルートが演繹で、●>■>▲のルートが帰納で、●>▲のルートが逆行列的推論になりますが、仏教的な悟りあるいは正覚が、この●>▲のルートの成就に該当するようです。
また、釈迦が最後に弟子に語った『ワヤダムマーサンカーラ』が何を意味するかを考えるとき、現象と結果の●、実体と原因の■、本質と論理の▲の三つを関連させた「縁起の場」で考えること、即ちこの●▲■の超三段階論がイメージされるのです。
サンは三でカーラは神の場と読むと尚更です。
また「三種の神器」については以前から述べてきましたが、それぞれの断面で見ると、草薙の剣は▲、八咫鏡は■、勾玉は●に相当するでしょう。
旨くはいえませんが「剣で黄金分割をしてモノコトを分析し、鏡で自らの姿を映す如くに鏡面対称としての実体を認識し、結果的に現われる諸現象を理解するコト」と考えたりするのは飛躍しすぎでしょうか?

初めての方は驚くことばかりでしょうが、実はこの「超三段階論」は第三シートに相当するもので、「21世紀マンダラモデル」の第一シートと「未来を変える方程式」の第二シートが理解されるならば、より深く納得されることでしょう。
しかし、実のところ、ここ数年の間には、▲と■とは本質と実体が入れ替わった時期もありました。その点はご了承願います。
http://8w1hflkm.jp/
2015.2.1

176千々松 健:2015/03/04(水) 21:52:55
「出現する未来」原題「Presence」の中で、ピーター・センゲはゲーテを引用して「U理論」を説明しようと試みている箇所があります。p136
「これはまさにゲーテが言う『全体は部分に現われ』、『具体的で個別のもの』を通して、『その奥にあるパターンが立ち現われる』ということじゃないだろうか」
このゲーテの表現をそのまま借りて、私は「超三段階論」を説明できると考えたのです。
まず全体を現象●として把握します。全体は部分に現われ、その部分は具体的で個別のものとしての実体■になります。その実体を通して、その奥にあるパターン即ち本質▲が立ち現れるのです。(帰納ルート)
逆に辿れば、本質▲の黄金比という論理パターンがあって、その実体■のフィボナッチ数列の二乗が形成する原因を通して、現象●のトーラスという結果全体が生まれるのです。(演繹ルート)
このような二つの認識ルートを行き来するうちに、●から▲へ、あるいは▲から●へ直接的に結ぶルートに気がついたならば、それが「悟りとか正覚」になるのでしょう。
また「物質の三態」にな倣えば、固体●から気体▲へ(気体から固体へ)の昇華ルートが開発されたと呼べるでしょう。
量子力学にはなくてはならない行列数学の用語を使用するならば、それは「逆行列的推論(インヴァーティブル・アブダクション)」と呼ぶに相応しいと考えます。
大げさではなく、量子力学の父と呼ばれるハイゼンベルクの「部分と全体」や「全体性と内蔵秩序」でボームの云いたかったことは、今ではこのように三つの基本図形と関係性の中で、易しい代数と幾何を使って説明が付くのです。
http://8w1hflkm.jp/123universJE.pdf
http://8w1hflkm.jp/21st.Century.Mandala1206.pdf
2015.3.4

177藤原肇:2015/09/25(金) 10:38:06
水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読んだ。
第一章や第二章を読んでいた段階では、素晴らしい理論の展開に感嘆して、流石に漱石の未完の作品の「明暗」を展開して「続・明暗」を書き、日本の男のレベルでは真似のできない仕事をした人だけあって、大した才能を発揮していると感銘を受け呆然とした。
英語嫌いでアメリカでの留学時代はフランス文学を専攻し、米国の大学で優れた学生を相手にして教えただけあり、水村さんの見識と国際感覚は絶大であり、これだけの女性を持つ日本は大したものだと嬉しくなった。これは五つ星でなく七つ星を付けたいと思った。
特にパリで行われた日本の近代文学に関してのシンポジウムで、彼女が「二つの時間」について行ったスピーチは、こんなことを世界に向かって普遍語で言える日本人は、加藤周一さんくらいしかいないだろうと感じて、凄い女性が光の都に登場したと思った。
そして、この「日本語が亡びるとき」という挑発的な本一冊だけでも、十数冊の膨大なローマ帝国について書いたイタリア在住の日本女性の本より、はるかに優れていると感動したほどだった。
人生のほとんどを海外遍歴で過ごしただけでなく、若かった十代に日本の文学に熱中しただけあって、水村さんの筆法は唸らせる叡智を含み、格調高い日本語の表現力は、まともな日本語も喋れない男たちが首相になる国の現状からしても、掃き溜めの鶴の爽やかさがあった。
だが、文学を論じていた間は黄金の輝きを持っていたのに、小説一般や言語論に話題が拡散するにつれて、普遍言語議論やコンピュータ言語になった途端に、黄金の下に真鍮が見えるようになり、第六章や第七章に読み進めるに従って、傍線を引く箇所が減ってしまったので、本当は5つ星なのだが涙を呑んで4星にした。私が余白に書き込んだコメントを参考までに書いてみると、「水村さんは、Ilove only you.とI only love you.を翻訳できるコンピュータのソフトを人間が作れるとお考えですか」ということだ。あるいは、「見渡せば、山もと霞む水瀬川、夕べは秋となに思いけん」というような歌を訳すソフトなどは、人間の脳の外には存在しえないのではないか。この辺までの部分はアマゾンの書評に投稿して置いたが、以下はつれずれに書き加えてみる。

178藤原肇:2015/09/25(金) 10:44:23
177の後半部が長すぎると撥ねられたので続きを以下に記す。
著者は言語(Language)の問題を一般化して、普遍語(Universal)、現地語(Local)、国語(National)の三種に分けて、英語を普遍語として論じているが、それは文学者特有の思い込みに過ぎないもので、問題の立て方がおかしくないか。文学や小説などの言語としてのLa Langueを論じるつもりであるならば、文語(Litteraire)、一般語(Popuraire)、俗語(Vulgaire)を使うべきであり、その時に英語は一般語の範疇に入る。論文や散文ならある程度いい加減でも良いが、哲学や宗教では英語は語彙が不足し、詩のレベルでの翻訳は困難になるからだ。しかも、数学レベルならプロトコールを作れても、幾何学にはとても利用し得ないのは、超無限には人間は挑み得ないのであり、社会科学や文化系の人には分り難いだろうが、幾何学がMetalanguageだからである。
コンピュータなどで英語が君臨し蔓延しているが、英語がLingua francaになり得ないことは、ハンバーグとポテトチップがfoodsのレベルで広まっていても、それで料理の問題を論じられないように、普及と普遍は取り違え得ないのである。しかも、これだけ文学に精通している著者だのに、トリックスターについて偏狭な捉え方をしているのを見て、いささか驚きの印象を持たざるを得なかったが、文科系の発想の限界がそこにあり、勇み足をすると足を踏み外すことになる。
それに、日本人は劣等感を持つので称賛しているが、ドナルド・キーンやサイデン・ステッカー程度の英訳で「源氏物語」や「芭蕉七部集」を読むよりは、選ばれた日本の優れた女子高校生の感受性に従った方が、はるかにまともだし、幸田露伴の考察や堀田善衛の「方丈記私記」を読むに限ると私には思える。戦争の時に暗号解読や防諜に駆り出されて、リニア発想で訓練された翻訳家たちには、カービリニアの世界の理解が難しい上に、ネイティブの感受性にはかなわないし、翻訳はあくまでも近似的なものであり、本物に接近したものに過ぎないからである。
また、後になって丸山真男と加藤周一の「翻訳と日本の近代」を読んだら、普遍語について論じた部分があったが、幾ら英語が君臨しても彼らは英語を普遍言語として扱っていないし、「文学は一種の私事」とか「今言をもって古言を解してはいけない」と薀蓄のある発言をしていたので安心した。しかも、釈迦を始め孔子やキリストにしても、最も重要な発言は著書などになっておらず、弟子や第三者が書いたものの行間を読むだけでなく、書いてないことを読み抜くところに決め手になっているのである。
だから、書かれたことや喋られたことは抜け殻であり、国語で書かれた文学などは幻影の一つで、大自然が物語るストリーの偉大さを知る者にとっては、テレビや日本のメディアの汚い日本語のせいで、日本語は既に死んでいると見切りをつけている。それは国会での討論の愚劣さからして明白だし、日本の文学作品のレベルのお粗末さは芥川賞を見れば明白であり、小説類は題字を見るだけでも目を濯ぎたくなるほどである。
しかも、喜寿を迎えようとしているのに、何が日本語の規範かが見当もつかず、「私は人間である」が主語と述語で構成されている、膠着語の日本語の文体だと思っているのに、「私は 人間である」という最近の文章を読むにつけ、何がまともな日本語か私には見当がつかないのである。

179藤原肇:2015/09/25(金) 13:38:54
20年以上も昔の話になるが、1994年1月号の「ニューリーダー」の誌上で、小室直樹博士と「意味論オンチが日本を亡ぼす」と題した対談を行った。憶えている人がいるかどうか分らないが、その時に以下のような議論を行った。
藤原:小室さんとお会いして対談するのは久しぶりで、今から十数年前に、『脱ニッポン型思考のすすめ』を出したとき以来ですね。
小室:あの頃は「脱ニッポン」なんて言うと異端者扱いだったが、今ではそういう本が続々ベストセラーになっている。最近は日本の方がおかしくなって潰れかけているが、それにしても、あの頃から今までこの国はよくもったものだ(笑)・・・・
藤原:特にここで強調しなければならないのは、潰れかけている原因が“セマンティックス(意味論)”にあり、日本人に意味論が分かっていないことだ。われわれは共にヨーロッパ派に属する日本人だとも言えるが、小室さんはやはりドイツ派で、著書の中にガイスト(精神)どかゲミュート(情緒)なんて単語が続々と使われている。ぼくはフランス派でドイツ語は口に合わないから、あんな野蛮な言葉は誰が喋るものかと思っている。だから、あなたの本を読むたびに鳥肌を立てている(笑)・・・・
小室:ドイツ語はバーバリアン(野蛮人)の言葉だという劣等感は、ドイツ人自身が抱いているんだ(笑)。
藤原:こんな話がある。フランス王が「私は神様と対話するときにはスペイン語で、人間と話すときはフランス語を操り、馬と喋るときはドイツ語を使う。犬と喋るときには英語で、若い娘にはイタリア語で話しかける」と言ったとか。ぼくはアメリカ人に「どうして英語で著書を書かないのか」と聞かれたらこの話を引用して、「犬に使う言葉で書くのは気がすすまないし、フランス語だと日本語の五倍も時間がかかり、アメリカの美徳の能率に反する」と答えると丁解する。要するに、アメリカ人は理路整然とした話なら納得するんだが、日本人は腹芸でやるし気分が先に立つ。だから、日本人は最も親密なはずのアメリカ人のみならず、世界中ともコミュニケーションができないでいる。
小室:コミュニケーションが成立していないことにさえ気がついていない。・・・・

この発言をした直後に小室さんの顔がこわばり、一分以上も横を向いて口を開かずに、不機嫌に沈黙していたことが今になると懐かしい。あの頃の私は表現が未熟だったので、あんな言い方をしてしまったが、今なら自分の言葉として「私は神様と対話する時にはスペイン語で、淑女にはイタリア語で話しかけ、マドモアゼルと話す場合はフランス語を操る。また、犬と喋るときはドイツ語を使うし、コンピュータを相手にするときには英語を利用する」と言っているだろうと思う。
夏目漱石、水村美苗、藤原肇の三人は。英語が嫌いな三角関係の日本人で、そのくせ漱石は英語が嫌で府立一中から二松学舎で漢学をやって、それからロンドンに留学して英文学者になっている。また、水村さんは米国でフランス文学を専攻しただけでなく20年以上も住んでいるし、私は高校で英語を忌避したのに、フランスではTEロレンスを読むために英文学科に入学して、アメリカに30年以上も住んだつむじ曲がりであり、言うならば英語嫌いの三羽烏みたいな日本人に属している。だから、英語の帝国主義的な君臨に対しては、それとなく反発を感じてしまうのだが、江戸っ子の私と漱石を置き去りにして、水村さんが英語を普遍語だと持ち上げたために、私は言わずもがなの発言をしてしまったのであった。これも秋の夜長の「徒然草」であろうか。

180藤原肇:2015/10/31(土) 09:49:16

ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』を読むと、ケルト族の生態にまつわることが沢山出てくるし、あれだけの名将の彼が悪戦苦戦した模様が、克明に記録されていて実に楽しい。
また、ケルト族に関しては鶴岡真弓さんの『黄金の生命』が素晴らしい内容を持つので、それに触れたいが自分で密かに楽しむのがこの本の真骨頂だから、ヨーロッパ文化の基盤はケルトにあることを指摘するだけで、読後感に関しては差し控えることにしたい。
そして、今日はハロウィーンの日であり、これはケルトの収穫祭の風習の名残で、クリスマスと同じでそれをキリスト教が簒奪して、諸聖人の日(All Hallows eve)が訛ったというが、北欧人の新年の前夜の大晦日でもある。
この大晦日は子供たちが大好きであり、Jack-0-Lanternに蝋燭をともして祝うが、海外生活を半世紀も体験した私にとっては、毎年のように私の誕生日を子供たちが可愛い声を張り上げて祝ってくれたので,嬉しい思い出が山のようにある。
しかも、大晦日から新年への境界線の意味論は、ツアラストラの巻物を読むまでもなく、善悪、白黒,陰陽、日月、正負、明暗などの特異点であり、これはトーラスで言えば空の中心でもある。

そして、私のホロコスミックス理論で空の英訳を若気の至りでというか、出来合いの言葉を使いNothingnessと書いてしまったが、本当はKuunessという言葉を使いたかったと告白したい。
だが、Kuunessなどと書くと空の説明が必要になるので、解説が大嫌いな私にとっては面倒なことになるので、お粗末だし嫌悪している直訳英語を使ってしまったのである。
それでも、私の『般若心経』の理解では色は人間の世界であり、あの盤石と信じられて来た数学の世界でさえ、公理と公準に従って天下不動と信じられてきたのに、非ユークリッド幾何学の登場で数学的な不確実性が支配し始めた。
そうなると、空は色に表しえない逆や対偶を含めた総てを意味しているので、この百年にも一兆年にも一度しかない記念すべき喜寿の日を期して、ギリシア語で何が来るかは知らないが、フランス語的に表記すればKououté になるので、そのコンピュータ言語としてKuunessという用語をお披露目したいと考えるのである。

181千々松 健:2015/11/02(月) 22:47:08
博士の喜寿を祝うと同時に「空=Kuuness」の命名に寄せて

空=Kuuness「クウネス」をカタカムナ思念で読み解くと【引き寄せる 生まれ出る 充電される 一方向へ進む】となります。参考:吉野信子「カタカムナ 言霊の超法則」徳間書店
●を色、▲を空と考えて「色即是空」を●から逆行列的推論で▲を直観するルートとみるならば、帰納法的ルート・演繹法的ルート上には■が実体として必要で、それを「色不異空・空不異色」
と述べたのです。
そのように考えるに至った例の●▲■の超三段階論から、更に動態幾何学を駆使してイメージを働かせるならば次のようなことが見えてくるに違いありません。
0次元:先ず、創造の主すなわち御柱を真上から観ると点となるので「0次元」と呼び、空とします。 【クウネス】
1次元:次に、その御柱を真横から見て、神聖比例に分割して行きます。φ:1:Φ 【ロゴス】
2次元:次に、神聖比例そのものを数値として認識し、行と列に置き二次平面に展開させます。対角線には二乗数が観られます。【レゲイン】
3次元:次に、二次平面に展開されたものを、(mod 9)で処理して、縦横を繋げれば、循環するドーナツ状が出現する。【トーラス】
また、クウネスをカタカムナ思念の数で計算すると11+19+46+29=108の数となります。それは除夜の鐘に撞く108ですし、9×12=108でもあります。
『全ての者が0次元に引き寄せられて、神聖比例が生まれ出て、縦横に充電されて、対角線上を一方向きに進む。
しかし、決して拡散して消え去るのではなく、メビウスの輪の如く終わりも始めも無く螺旋を描いて循環し、バランスして観える』
と考察すれば、この『Kuuness』そのものが博士の考えておられる『生命智』と言えるのではないでしょうか。
2015.11.3

182藤原肇:2015/11/03(火) 16:14:26
 空(Kuu)をフランス語風の発音に改めKououと書くと、語感としては鳥のカッコウ(Coucou)に似てしまい、奇妙で落ち着きの悪い言葉になり、KとCを足して二で割り、キメラで名詞を作るとKououté という変な言葉が生まれる。カッコウ(Coucou)は英語だとKuckooでスペイン語ではCucoで、この言葉はオノマトペで郭公という鳥の鳴き声から来ている。
同時にKuckoo頭がおかしい意味する俗語だが、それ以下の卑語としては頭がくるくるパーを表し、アメリカではKuckoo’s nestは精神病院を表す。だから、アカデミー賞をとった映画のOne Flew over the Cuckoo‘s nestには、痛烈な皮肉とメタファーがこめられ、精神分裂病は今では統合失調症と変名しているが、意識と無意識が同一時空に混在する症状を指している。
これからは連想ゲームになるが,その延長上に書かれた本にKuckoo’s Eggという本もあり、これはコンピュータのセキュリティを扱い、ハッカーを追い詰めるストリーだ。それにしても、コンピュータが未だ普及していない頃だったが、ハッカー問題をだけも知らない時代に、元ハッカーの手による警世の書として出たこの本には、信じられないことが沢山書いてあった。
セキュリティの問題は暗号解読と密着していて、それは素数が重要な役割を演じるが、それに関心を持ったのはカナダ時代で、『暗号解読』という本はその後に書き直して『暗号戦争の時代』という本になっている。
「宇宙の多次元構造の図」を最初に公表したのは、1984年に出した『無謀な挑戦』であり、その時に宇宙の上に宇宙システムを置き、素粒子の下にコスミック素子を置いたことで、それがホロコスミックスという私の宇宙概念の誕生を生んだ。それまでの宇宙論は宇宙から微小な素粒子で終わっていたが、宇宙は宇宙システムのサブシステムだという理解がある。
また、この宇宙システムの導入によって、その彼方にある仏教思想の空と結びつくことが出き、それがメビウスの輪で無に繋がり,道教が好む無が特異点という宇宙観として完成し、複素数空間で構成される概念図になった。
そんな模式図を著書に書いたために、いろんな声が「藤原はKuckooだ」と言ったらしいが、私はそれをCoucoutéと聞き流して、Kououté のことを言っているのだから,暫くの間は無のNothingnessにして置こうと考えて、二十世紀はCrazyな世紀だと諦めていた。
だが、誰か若い人が二十世紀が終わるまでに、アインシュタインの相対性理論に対して、その欠陥を指摘して欲しいと待っていたが、誰もそれをしてくれなかったので仕方なく、ホロコスミックスとしてまとめて国際環境大学の紀要に寄稿したら、二十世紀の最後の年にそれが活字になった。また、台湾に招かれて行った講演の原稿が、『生命知の殿堂』の中に収録されたのだが、残念ながらその図はKuunessではなくて、昔の Emptinessのままだったので、ここに喜寿を期し改めてKuunessに直すことを記録しておくことにした。

183千々松 健:2015/11/03(火) 22:46:51
11月3日の文化の日は、11を1+1=2と見ると、1,1,2,3となり、1,1,2,3,5,8,13,21、のフィボナッチ数列が思い浮かびます。
勿論、1月12日、11月2日、11月23日などの日の方が、そのものの並びで適当ではないかと思われるでしょう。
しかし、ひふみ算で11を1+1=2と計算するところが重要で、『二つを統合して次に置け』という大宇宙の法則であるフトマニのアルゴリズムを読み取ることに意味があるのです。

かつて『アレクサンドリア』というスペイン映画でテオン(ユークリドの原論を編纂した学者で、映画の主人公ヒュパティアの父)が、ある問題を出して『226の場合は4である』とサラット答えている場面があり、ずっと気になっていました。
それはまさに、2+2は4である。2,2,4,6,10,16、と言うフィボナッチ数列の倍数を考えなさいという意味でもあった訳です。
日本文化に相応しいということで、11月3日は「ふとまに数列の日」としたいと思います。
2015.11.3 文化の日に因んで

184藤原肇:2015/11/04(水) 00:52:44
ダブルLucky7の喜寿を迎える日の前後は、滅茶苦茶に忙しい状態で過ごしたために、#180では空の英訳をEmptinessと書くべきなのにNothingnessと書いてしまい、#182では自分の著書名を間違えており、『インテリジェンス戦争の時代』とすべきところを『暗号戦争の時代』と書いたのは、ことによるとアルツハイマーが始まったかと疑いたくなるほどだ。
でも、一年半前に日本で襲われて殺されかけたとはいえ、それにしても良く生き延びて、ここまで来たのは目出度いと感謝すべきかも知れない。
実は76歳の最後の日のランチを一緒にした人は、カンボジア人の優秀な青年であり、翌日が私の誕生日だと言ったら手を打って、シャヌーク元国王と同じ日だと言われ、奇妙な一致だと不思議な気になった。彼は九州大学で経済学を学んでから名古屋大学で修士を終え、現在はプノンペンの三井物産のマネジャーをしているが、彼に日本の経済学者で誰を尊敬するかと聞いたら岩井克人さんの名前が出た。
そこで思うことがあって彼に『虚妄からの脱出』をプレゼントしたかったのに、残念なことに手元に本がなくて渡せなかったが、これは30年間のアメリカ生活において、私の知的贈り物として名刺代わりに手渡してきた秘密の本であった。
この本は私と藤井先生との出会いの縁結びの神様だし、漢方や易の本を専門に出していた東明社が社会の漢方薬として、読書界に送り出して貰った記念すべき本であり、後半のページには英文記事が二編収録されている。
一人で社長兼編集長兼雑用掛だった吉田社長のお蔭で、その後十冊余りの拙著が東明社から生まれたが、この英文記事がついた『虚妄からの脱出』は世界で出会った多くの人はもちろん、特にテキサスを中心に石油ビジネスを経営するオイルマンたちに手渡している。
そのお蔭でテキサスで石油開発をした最初の日本人として、私の人生の夢の実現の陰の力になったのだった。今ではアマゾンでも古書として見つけるのが難しいが、日本文の記事は1976年に経済誌の『国際経済』が連載したもので、何でも好きなことを好きな長さで書いて欲しいと言われて,意気を感じて執筆した若書きの作品だった。
だから、ハーバードにいたライシャワー名誉教授からは、「藤原さんが言いたい放題に近い発言をしている背景に、山師精神があった秘密が分かった」と言われたし、石油開発の弁証法と題した記事で、医療制度と石油開発の相似象を論じた記事があったことが縁になり、藤井先生が20冊買って下さった縁で銀座内科を訪れた時の顛末が、私の本の中では天頂に等しい『間脳幻想』誕生の契機になった状況について「まえがき」として興奮した記録が残っている。
『虚妄からの脱出』になって誕生したこの本は、かなり大胆な発言で構成されていたので出版に難航し、時事通信で出た『日本丸は沈没する』に続いて出たら順当のはずだったが、それが実現出来なかった。そこで『日本不沈の条件』の「あとがき」に、「この本の前に一書があるのだが、事情でこちらが先に出た」と書いたところ、それを読んだ吉田さんから原稿を読ませて欲しいと手紙が届いた。そこで送ったところ「出したい」という返事が届き、どんな本を出している出版社化と問い合わせたら、「漢方薬の本を出しているが、人間ではなく社会の漢方薬として出したい」という返事だった。
1970年代というのはこんな時代であり、今のように売れる本しか出版されない腐った時代と違い,あの頃の日本には未だ出版精神が生きていた。
そんなこともあり、本当は『虚妄からの脱出』をプレゼントしたかったが、手元にないので参考資料として「宇宙巡礼」のサイトの「論文」でオリジナルが読める、ORGANIZATIONAL STRUCTURE OF THE OIL INDUSTRYと題した記事のコピーをカンボジアの青年にプレゼントしたのだった。なぜか。

185藤原肇:2015/11/04(水) 21:18:02
これはなぜかという問いに対してのヒントで、アマゾンにおける掲載された書評です。

5つ星のうち5.0
起業家よりも企業家になる人に推薦したい名著だが画龍点睛もある

岩井克人先生の『会社はこれからどうなるか』という本は、資本主義経済の発展史への目配りがあり、商業資本主義から産業資本主義を経て、ポスト資本主義について丁寧に論じている。
そして、現在が産業資本主義からポストの時代に移行し、その中で法人としての会社の役割と機能について論じ、会社は誰のものかについて分かりやすく解説している。
しかも、米国流の株主主権論の卓越に対して、それはデファクトにしても標準にならないと論証し、ヒトとモノの違いを近代の人権宣言と結び、法人の持つ意義について誰にでも分かるように説明している。流石は学校の先生である。
青色申告という日本的な税制のせいで、誰でも会社の法人を登記して社長になり、公私混同が横行している日本では、岩井先生が解きほぐした法人の意味について、再認識した方がいいと考えるので、日本でビジネスしている人に私はこの本を読むように勧めてきた。
だから、その点で本書に五つ星を提供したい。
また、ずいぶん昔の話だがソ連が崩壊した直後に、日本が誇る思想家の柄谷行人さんと対談を行い、確か『終わりなき世界』という本の中で鮮やかな論陣を張り健闘していたので、岩井さんは信用できる学者だと確信したからである。
私はアメリカに30年プロフェショナルとして住み、1980年代の10年間はベンチャービジネスを経営し、企業家としての体験を持っているので、信任(Fiduciary)と契約(Contract)の違いに基づく、経営者の倫理と責任感の問題の議論と共に、コア・コンピタンスについての論調が最も卓絶しており、多くの日本の優れた人に参考になるはずだと感じた。
ネオコン政治の影響で弱肉強食の金儲け主義が蔓延し,日本人もその潮流に乗って押し流され、会社乗っ取りやIPO(上場)が流行して、経済活動が拝金主義に毒されている。
こうした時代性の中で、本書には起業家は登場しても企業家が登場せず、ビル・ゲーツを始めホリエモンやエンロンが論じられ、シューペンターやドラッカーが存在を称賛した企業家への言及がないので、私の五つ星にはマイナスがついている。
なぜならば、日本ではアメリカ流の成功者としてソフトバンクの孫正義やオリックスの宮内社長が、新時代の成功者として脚光を浴びている。だが、彼らは起業家であっても企業家ではなく、限りなく詐欺ビジネスに近い点では、ホリエモンの仲間に過ぎないからである。
また、これは文中の引用だから黙認すべきだろうが、岩井先生ともあろう人が産業構造を論じるに際して、222pで一次産業や二次産業という静的で幼稚な,70年ほど前にクラーク教授が作った時代遅れの用語を使い、それに対して修正も提案していないのを見て惜しいことだと思った。
卓越した「不均衡動態理論」を展開した冴えた頭脳の持ち主ならば、産業構造の根幹に触れるこの産業の定義こそ、先ず、改めてから議論に取り組むべきではないかと思ったからである。

186藤原肇:2015/11/07(土) 10:32:20
前掲のような経済問題の核心に触れる書評を書き、経済活動と密着する人生を歩み出したのは、半世紀近い昔の留学生時代だったので、古い話だがその頃の体験について振り返って見たい。私がフランスに留学したのは1960年代で、その頃の日本は池田内閣の経済振興政策で活気づき、戦後からの脱却に全力を傾けていたが、外貨準備は乏しくて資金の欠乏に悩み、いかに外貨を稼ぐかが大問題だった。
だから、海外渡航は制限されていたために、観光旅行はご法度で制限されていて、外貨の持ち出しは一人$500ドルであり、腹巻に一万円札を忍ばせて持ち出す状態だったが、円が外貨に交換できるのは香港とスイスだけだった。
時間を遡って当時の横浜を思い出すと、ソ連の客船「オルジョニキッゼ号」に乗り、デッキから別れのテープを投げ、見送りに人に来た家族や友人に、出発の挨拶を送っていた姿がある。当時の日本は未だ貧しかったので、外国に出るのには厳しい制限があって、持ち出せる外貨は500ドルだし、私も腹巻に十枚くらい聖徳太子の札を忍ばせていたと思う。。
しかも、航空運賃は非常に高かったので、最も安くヨーロッパに行くには、横浜から船でウラジオストックに行き、そこからシベリア鉄道に乗って、二日がかりでナホトカに行ってから、飛行機でモスクワ空港まで飛ぶ。そして、二日かかりでドイツのケルンまで行き、乗り換えてスイスのバーゼルに出て、再び乗り換えてジュネーブ経由で、目的地のグルノーブルにたどり着く。
これが24歳の私がたどった旅程であり、グルノーブルに着いた翌日には、フランス山岳会グルノーブル支部を訪れて、会員に登録を済ませていたように、学生になるより山に登ることが本命だった。
それに、フランス語は中学生の頃からの独学でやり、発音が汚いので高校では英語を忌避し、大学入試もフランス語だった上に、大学授業には出ないで外国語は免除で、フランス語には自信があったのに、知っていることを教授が言えば分かっても、未知のことは全く理解できなくて困った。
だから、修士課程の頃の私は数時間の睡眠という、厳しい授業環境のために時間が乏しく、好みの文学書を読む時間もなかった。
だが、博士課程になった時には時間的余裕が生まれ、最初に何回か通訳の仕事をした後で、資源問題について三井物産のコンサルタントになり、ヨーロッパやアフリカで資源開発に関して、多くの興味深い仕事を体験した。
当時の日本のエネルギー問題は、石炭から石油への転換期であり、独仏の石炭掘削の最新技術の導入のために、多くの日本の炭鉱が視察に来たり、ダム建設やトンネル掘削の新技術を求めていたし、アフリカの鉱産資源を求めていた。

187藤原肇:2015/11/08(日) 11:04:49

特に石炭の炭田の現地視察の場所は、独仏国境の丘陵地帯を始め、オーストリア東部からウクライナにかけて、谷や丘陵が連なる奇妙な地帯であり、興味深いことに昔から激戦があった戦場地帯だった。なぜならば、日露戦争の203高地や桶狭間のように、丘や狭間は戦闘上の要地であるし、そこには要塞が作られていた。
そうした場所を幾度か何か所も訪れているうちに、戦争の歴史が生き生きと再現して、歩兵や騎兵の配置について見当がつき始め、自分が指揮官ならこんな配陣だと考え、自然に兵用地誌のカンが育つようになり、地政学への関心と向学心が生まれた。
そして、戦争の多くが土地と資源の奪い合いであり、その主役が王様と貴族であり、敵兵を捕虜にして奴隷にすることが、古代の支配者のビジネスだったと理解した。
しかも、アダム・スミスは分業の重要性を強調して、工場制の産業と労働を観察し、英国の経済社会と富について論じたが、地域格差を使う商業活動について、重商主義の時代を紹介した程度で、専ら資金を投下して工場を作り、大きな富の蓄積を『国富論』に書いている。また、オランダから英国に両親が移り住んだ、
ユダヤ人であるリカドーの経済学は、労働価値説の比較優位説であり、これは労働集約の産業が主体で、エネルギー源は食料だったから、貿易による取引に注目したものだった。
当時の英国は労働者を奴隷扱いしていて、子供まで一日12時間労働でこき使い、賃金は食べるのに精いっぱいであり、悲惨な社会が君臨していたことは、ディッケンズの小説が活写している通りだ。
だから、「穀物条例」が政治問題になったし、ナポレオンの大陸封鎖が行われたのだし、産業革命が大陸諸国に波及して、1848年の一連の革命が起きたのは、食糧問題が最大の懸案だったからだ。
ユダヤ人のマルクスは大英図書館を使い、資料を読み漁って『資本論』の草稿を書き、搾取や疎外の克服のために必要な、階級闘争の戦術論をまとめている。
だが、被支配階級にとって最大の課題は、搾取による労働者の貧困の問題があったし、それが階級闘争と結びついたにしても、そこに問題の総てを集約してしまった。
だから、搾取されたプロレタリアの救済に、千年王国の実現を夢見たのだが、奴隷貿易の問題を含めなかったのは、彼らがユダヤ人として出身基盤の歴史からして、奴隷ビジネスをしていた過去には、触れたくなかったのは当然の心理だったし、至って当然の帰結だったのである。
そんなことに気付くようになったのは、ヨーロッパを一歩離れて地中海を越え、アフリカの世界に足を踏み込んで、そこに残された歴史の足跡を知り、歴史とはこんなものだと理解できたお蔭だった。

188千々松 健:2015/11/08(日) 22:00:46
<一部に重複するところがありますが、ご了承願います>
空=Kuunessをカタカムナ思念で読み解けば【引き寄せる 生まれ出る 充電される 一方向へ進む】となります。
『全ての物事が一度、引き寄せられて(0次元)、次に黄金分割され神聖比例が生まれ出て(1次元)、99算表の如く縦横に展開、充電されて(2次元)、マトリックスの対角線上を一方向へ突き進み増殖するが、
法を9とするモジュラー算術により、メビウスの輪の如く終わりも始めもなく、陰陽太極図のような二重螺旋を描いて循環するトーラスとなる(3次元)。』
ここまでが Kuuness「クウネス」をカタカムナを活用して拡大解釈したものです。

次元に関して言えば、これらに時間を加えて5次元世界といえます。(0次元もカウントします)
そして、コンパクト化される6次元を加えると超ひも理論やM理論で云う11次元世界に相当するでしょう。
そのコンパクト化される6次元を説明するためのヒントは『オイラーの合同式の定理』のなかに在ります。
【 n^6≡1(mod 9)】 但し nは3の倍数でないとき、nが3,6,9の場合は右辺は全て0となる。
3の倍数ではない整数の6乗数は、9を法とするモジュラー算術(9に特別の意味を持たせた、ひふみ算・カバラ算に同じ)では、全てが1となる。
このように考察を進めれば、藤原肇博士の『Kuuness』は万物理論になり、アインシュタインを凌駕して、まさに「神の数学」に出会うことになるのです。
2015.11.8

189藤原肇:2015/11/10(火) 10:13:34
一方でアフリカや中東の資源開発では、サハラ砂漠の南縁地域で仕事をし、そこに象牙海岸や奴隷海岸などがあり、奴隷や象牙が商品として価値を持ち、そこに古い経済活動の足跡を発見して、奴隷貿易で蓄積した富を使い、産業革命の資金の蓄積の実態に気付いた。
しかも、形の上で奴隷取引は王様の利権で、特許で行う仕事の現場責任者として、汚れ役をしたのは下層階級の異教徒として、ユダヤ人が引き受けていたことが分かり出した。この事実は重要な隠し事になり、経済学では触れてはいけないタブーだから、オランダから英国に移住したユダヤ人で、経済学の元祖のリカードを筆頭にして、ユダヤ人の経済学者は恥を封印したのである。
アフリカでの体験で学んだこととして、ここは未だ植民地主義と帝国主義が、厳然として生き残っている世界であり、後になってフォーサイスが描いた、『戦争の犬』が動き回っていたし、情報作戦と諜報工作が猛威を振るい、安心も油断もできない場所だと痛感した。
私が体験したアッパーボルタでは、銅や金を採掘している会社が、金をアマルガムにして偽って持ち出し、ヨーロッパで精錬して金を分離し、滅茶苦茶な収奪をしているのを探知した。しかも、現地政府には金に関して微量と報告し、十数パーセントのアマルガンから金を抜き取り、その差額を丸儲けしていたのだ。
また、セシル・ローズの植民政策で明らかだが、英国の帝国主義はアフリカを食い荒らし、ナイジェリアでは石油利権の収奪で、ビアフラ戦争が炸裂しようとしていた。
しかも、日本の会社のコンソリチウムを作り、鉱山開発をしようと乗り出すのを感知して、米英資本がそれを乗っ取ろうと狙い、CIA絡みのクーデター工作が進み、命あっての物種だ考えて逃げ、こんな世界は自分に不似合だと思った。
日本には単独で海外進出する会社は、当時の実力では存在しなかったので、いつもコンソリチュームを作って進出したから、いろんな会社との仕事を経験した。私は岩登りをやるから総て体験だと考えて、炭田の切羽や急峻なダムの現場でも、喜んでそこに行って現地調査を買って出たが、ネクタイを締めた商社マンには、そんな汚れ役を好む人はいないから、危険地帯ほど私の担当分野になった。
だから、ハードウエアの買い付けの段階になると、資源問題のプロの私がいたので、三菱系でも住友系の会社でも、機械設備ヤノウハウの購入に際して、総て三井物産から買う傾向があった。その後になって系列という言葉が流行り、それが日本経済の強みだと言われたが、私の目にはそれは逆の表面現象で、商社マンにプロが存在しないために、実力ではなく仲間のよしみに頼るに過ぎず、他人を信用できない甘えの構造だと思った。
しかも、傍観者としての視線で眺めると、優秀な商社マンほど転職を考え、チャンスを掴みたいと苦労していたから、日本の会社で仕事をする気はなかった。だから、後になり学位を取って就職の段階で、主任だとか部長並みの給料とか、いろんな面白い内容の提案があったが、カネや地位のために仕事をやる気はなく、世界で未だ武者修行が必要だと考えて、当時のベストセラーで小田実が書いた、『何でも見てやろう』を手本に使うことに決め、何でもしてやろうと荒野を目指した。
また、サハラ砂漠の魅力に取りつかれたこともあり、「星の王子様」の世界に魅惑され、そうなると中東は次に迎える舞台になるし、地中海世界の東側に位置するので、ギリシアやトルコの古代遺跡もあるから、それほど遠い世界とは思えない。

190藤原肇:2015/11/11(水) 11:23:23

高校生の頃に白水社のクセジュ文庫に親しみ、この言葉がモンテーニュの発言で、私は何を知っているかの問いかけだから、彼の『随想録』に挑んで見たのだが、悪戦苦闘しても全く理解できなかった。だが、その中にプルタコスの『英雄伝』から、数多くの引用があったので日本語で読んだが、これまた理解が不可能に近かった。
それを思い出してフランス語で読んだら、予想外にスラスラト頭に入って、お蔭でプルタコスの『英雄伝』が読めてしまった。
ある意味で『英雄伝』は小説に近いし、暇つぶしになるタイプの本だが、ギリシァとローマを比較した分析があるために、同じ奴隷制度を持つ社会でも、質的に全く違っていたことを教えている。ローマよりもギリシアがはるかに優れ、ローマの知識人の言語はギリシア語で、ギリシァには哲学や幾何学があるし、彫刻や建築も段違いだと確認できて、ローマよりギリシアに学ぶべきだと思った。
しかも、同じ帝国でも英国よりローマの方が、はるかに優れていたのは明白だし、同じローマでも民主制の方が帝制より、ギリシアの政体を手本にしていたので、はるかにマシだという理解に達して、それまでの歴史感覚の大掃除が出きた。それなら哲理や幾何はギリシアに学び、戦争と植民政策はローマだと考え、古代遺跡の分布は地中海沿岸だから、その辺で仕事をしようと作戦を立てた。
ニースから60キロほど北に位置した、地中海から遠くない丘陵地帯が、私の地質調査の仕事場になって、そこに四年間もテントを張り、地質構造の解明のために明け暮れた。カステランヌの町は白亜の石灰岩に囲まれ、香水の産地のグラスの町から30kmで、カンヌから北西40kmに位置しており、実に混沌とした地質学的には穴場だった。
そこで得た不思議な生活体験によって、私の人生は大きく変化したのだが、それは実に奇妙で興味深い内容であり、半ば夢とウツツの混淆したものだった。その内容の紹介は神秘体験に似ていて、まともに語るには勇気が要るので、日を改めて物語ることにしたいと思っているが、その機会は遠くないはずである。
おりしも当時は情報革命が始まり、テレビの普及と宇宙開発の余波で、人工衛星が上空を飛び回り出して、地上の国境が持つ意味が低下し、地中海世界が中庭のように感じられ、ブロデールの『地中海』が生まれかけていた。そうなると私が得意にする世界で、アルプスからヒマラヤにかけて、今から6000万年から1億年前に、ティーティス海(古地中海)が広がり、その沿岸に恐竜が生息していたし、海にはアンモン貝が繁殖していた時代になる。
子供の頃から活字少年だったので、捕り物帳や探偵小説が大好きであり、小学生時代に謎解きに熱心だったし、色んな物を集めるのに熱中して、切手や古銭の蒐集に夢中だった。
また、東京の上野に住んでいたお蔭で、科学博物館の学生会員になって、週末には博物館の趣味の会に出席し、化石や鉱物標本に触っていたから、アンモン貝はたくさん集めていた。
そうしたことが縁になっていたので、中東での仕事では海洋民族のフェニキア人は、カルタゴやリバシリと呼ばれ,船隊やキャラバンを組んで通商する。だが、相手が強ければ商取引をするのであるが、弱いと山賊や海賊になり略奪して、それが古代経済だという理解に到った。
その極限状態が遊牧民であり、ユーラシア大陸の中心に拠点を築いた、匈奴やスキタイまた蒙古人たちは、定住民を襲って略奪するか朝貢を求め、支配して来た生態が理解でき、その観点で見ると万里の長城の建設が持つ、歴史の意味合いの納得が行った。
こうした現場調査で得た歴史感覚を元に、大学の図書館で歴史書を読んでみると、書いてある表の歴史を知ることより、何が書いてないかを探ることの方が、断然と面白いということが分かり始め、それが識ることの意味だと理解できた。

191藤原肇:2015/11/12(木) 11:19:14
こんな体験を積み重ねると同時に、岩登りに熱中していたことが役に立ち、バランス感覚があることの利点を生かし、1967年のプレオリンピックの時には、日本のリュージュ・チームの一員になり、オリンピック選手の体験をしてみた。
大部分の人はオリンピックを会場やテレビで見て、明るい会場で選手たちが競い合う、スポーツの祭典だと思い込んでいる。
だが、私が味わった選手としての体験は、朝の四時ころで零下20度くらいの時に、20Kgの木ゾリを背中に背負い、100mの標高差のある出発点まで行き、汗で全身がずぶ濡れだのに、順番が来るのを一時間以上も待ち、外気は氷点下20度の寒さだから、全身がコチコチになってしまい、これは奴隷と同じだと実感した。
奴隷貿易の秘密を知った以上は、自分が奴隷の境遇を再現してみて、こんな人生は耐えられないと思ったが、傍観者にはその苦痛は理解できない。
しかも、私は日本チームの対外窓口に位置し、各国チームの監督や保護者と会い、親しく付き合って分かったことは、彼らの多くが欧州の貴族であり、オリンピックの陰にいる支配者たちとして、王侯貴族の世界があると知って驚いた。
秘密は守られて秘密の価値があるし、それを漏らせば相手にされず、死ぬまで守るのが秘密だが、喜寿を迎えてそれも不必要になったから、ヒントの一部だけだが示しておく。
私の場合は次元の枠を飛び出し、別の世界に移るチャンスを掴んだのは、リヒテンシュタインのチームと同じホテルに滞在し、各国チームの代表と付き合い、選手として以外の活動をしたお蔭だ。そうしたら、ある日リヒテンシュタインの名誉監督が、選手を激励するためにチームを訪問し、それが皇太子だったことが始まりだった。どういう具合か仲良くなったら、仲間の集まりに来ないかと誘われ、幸運だと言うしかないことだが、とてつもない大発見に繋がった。
この段階で私は札幌市の代表を依頼され、オリンピック準備に関与していたし、ヨーロッパの裏の歴史が分かりかけており、先ずは奴隷の選手役から自分を解放して、自由の尊さを身に染みて味わっていた。そういったことの経過については、「Mountains of Dreams」にヒントを書いておいたが、その後半に当たるエピソードは、1968年のグルノーブル冬季五輪大会である。
オリンピックの主催者は自治体の市であり、国家権力には一切関係がないのは、ヨーロッパ歴史が王権と貴族の争いで、その延長上にクーベルタン男爵が、オリンピック精神を錦の御旗に掲げて、オリンピックを復活させたのだった。1648年のウェストファーリア条約によって、国際法的に国民国家が誕生し、アメリカ独立とフランス革命で、大統領制の国民国家が動き出した。
第一次大戦で主要王制が地下に潜り、貴族との秘密の連合体を構成して、いわゆる国体モナルキー体制に化け、大統領や議会制度を中心にしたものが、政体立憲体制として出現した。これは支配の二重構造であり、歴史家はハプスブルグが二重帝国というが、実は聖と俗の二重構造だけでなく,ポランニの経済人類学が明らかにした、江戸と大坂やワシントンとNYのように、政と経の二重構造は有機の世界では、実に当然な支配の原理でもあった。

192藤原肇:2015/11/13(金) 12:13:22
遊牧騎馬民族の匈奴やスキタイは、ジンギスカンのモンゴルも同じで、定住せずに夏と冬の別荘を持つシステムであり、専門用語で双分制と呼ぶようだが、二重都市を作るという性格を持っていた。町の作り方も非対称構造であり、山の手と下町にその刻印が残るが、これも遊牧民の名残らしい。その一例をポランニの弟子の栗本慎一郎は、ブタとペストの例や博多と福岡の町づくりで、見事に実証してみせたのである。
『光の都市闇の都市』は示唆に富む本で、合計で四度か五度読み返したと記憶する。
良い本は何度も繰り返し味わうものだが、一度読んだのは眺めた程度であり、二度以上は少なくとも読んだ本でなければ、読んだとは言えないという発想は、留学時代に指導教官から叩き込まれたものだ。人を介して会いたいと連絡してきて、私の読者だと名乗るような人がいるので、どの本を何度読んだかと尋ねてみると、ほとんどが一度だという返事が圧倒的だった。
そこで少なくとも三度は読んで、何について論じたいか理解してから、その上で連絡して欲しいと言えば、私は唐変木だと言うことになって、煩わせられることはなくなっていた。世の中にはそういう個性がいるし、私の本は三度読むことによって、異なるレベルのメッセージにと、到達するように構成しているつもりだし、十度も読んだとなると別の次元に属す、膜宇宙が織り込まれているのである。
だから、珪水さんのように『間脳幻想』に関し、百度近く読んだ人の前では、「出藍の誉れ」の譬えが教えているように、著者の私の方が学ぶことが多くなったりする。
自然の多層構造は複雑であり、目に見える現象界は部分に過ぎず、複素数空間の三次元投影だから、内が外で外が内になるトーラスが、入り子構造になっているだけだ。そんなことは自然を観察することで、数学的に理解できるのであり、無機の極限である宇宙の構造は、二つの焦点を持つ卵形のトーラスだし、宇宙は複素数空間で成り立っている。
善悪、白黒,陰陽、日月、正負、明暗などは、一見すると二項対立のように見えるので、ヨーロッパ系の思想家たちは、古代メソポタミアやペルシャを支配した、ミトラ教やゾロアスター経の影響により、対立概念として理解しているが、実は複素数空間の表面的な理解に過ぎない。
文明の基底として古層を作るシュメール人と、古代巨石文明を残した人について、きちんとした学問が成立していないので、未知のことが余りにも多いようだが、それは21世紀の学問の課題になっている。

193藤原肇:2015/11/16(月) 12:49:54
ここで学生時代の奇妙な体験として、一種の悟りに似た感覚になった前史に、小学生の頃の思い出の影響があるので、その紹介から始めることにする。小学校の下級生だった頃の記憶に、1 + 1 = 2 の数式が納得できず、先生から叱られて反発したことがある。
砂糖 1 リットルに水 1リットル加えても、それが 2リットルにならないと抗議して、先生に詰まらないことを言うなと叱られた。例外の発見が好きだった私は、色んな光景の中に適合しそうなものを探し、狼一匹と子羊一匹を一緒にしたら、一日後に狼が子羊を食べてしまえば、1 + 1 = 2にならないと思い当たり、その主張もダメだと否定された。
私のロジックは無残に拒絶され、仕方なく1 + 1 = 2の式を受け入れて覚えたが、爽やかな気分にはなれなかった。
似たような経験は高校時代にもあり、ニュートンの万有引力の法則は二体問題としては有効であっても、三体問題には役に立たないと考え、ニュートンは間違っていると言って、物理の教師から変人呼ばわりされた。それが大きなトラウマになって、物理嫌いの高校生が誕生し、教科書より自然を相手にしたので、それが博物学への道に繋がった。
しかも、大学を卒業する時にもトラブルで、悪夢に似た経験が私にはあって、 日本の大学で書いた卒業論文は、優れたとして自然博物館から、奨学金を受けるほどの内容だった、だが、学界の権威者に刃向った形になり、物議を生みだすものとして扱われてしまったが、それはある大学の有名教授が博士論文を書いた、同じ地域において地質調査をしたものだった。
ところが、その博士論文は恩賜賞を受賞しており、日本の学界では良く知られたもだったので、こんな卒論を書いたせいで反逆者扱いになった。
山登りが得意だった私としては、沢では胸まで水に濡れて遡行し、崖をよじ登って山の中を歩き回ったので、自然を丹念に観察した結論としては、大教授の博士論文が逆立ちしているもので、見えやすい道路沿いの調査だったから、不完全を招いたと結論になっていた。
だから、この仕事は日本の学界においては、避けるべきタイプのものに属し、特に天皇が評価して授けた賞に対して、結果としてケチをつけたと見なされてしまい、重大な反逆行為だとされてしまった。
それに加えて、私は新種の化石を発見したので、それを学術雑誌に投稿したら、新発見として活字になったのは良いが、私が地質学会の会員ではなく、投稿資格がないことが発覚してしまい、譴責処分の扱いを受けてしまった。私が犯したこの二つの逸脱的な行為は、封建的な日本のアカデミーにおいては、絶対に容認されるものではなく、未来は閉ざされたに等しかったのである。
しかも、東京オリンピックの主催者として、都知事になろうとした東竜太郎という東大医学部の教授が、ニセ証紙を使い不正選挙で都知事になったので、江戸っ子としての私はこんなインチキ選挙に反発した。そこで親父の乗用車のトランクの背に、「不正選挙をした男を都知事として認めない」という看板を付け、それを付けて都内を運転したために、親父は警察から徹底的な嫌がらせを受けた。
そのことは『オリンピアン幻想』の中に記録が残っているが、こんな汚れた国にいるのは不愉快だから、脱藩しようと覚悟を決めて日本を出たことが関係していた。これも若き日の反逆精神の結果かも知れないが、納得いかないことは受け入れたくなかったのである。

194藤原肇:2015/11/18(水) 13:27:57

こんな悪夢に似たことの積み重ねで、フランスで新天地を開いていた私は、1 + 1 = 2にならない例の再来として、素晴らしい体験を味わったが、それはフランスに留学して三年目の夏で、この時は覚然としたものであり、生涯を貫く貴重な経験として記憶に定着した。 そこは地中海に近い海岸アルプスであり、ニースやカンヌの北50キロほどに連なる、白い石灰岩が東西方向に延びて、南面は崖を作り北面に向け、緩やかな斜面を作る牧歌的な台地だった。
また、変幻自在の気象条件に支配されて、石灰岩台地の午後の前半は快適で、軽い昼寝を存分に楽しめる高原でもある。三日に一度くらいの頻度だったが、光と影を織りなす饗宴の果てに、夕刻近くになめと夕立が襲って来た。しかも、時には激しい雷雨を伴うのに、石灰岩地帯には雨宿りする場所もなく、大きな温度差が発生している中で、激しい雨に濡れ続けなければならなくなる。
東西に40Kmで南北に20Kmの幅を持ち、その中にほぼ10位の村が散在しており、放牧と小規模の農場があるような地区が、私が地質調査を行った場所であった。村はずれの小高い場所の隅に、農民から許可を得て黄色いテントを張って、夏になるとそこに住んで昼間は調査し、夜はテントで寝る生活を私は4年ほど続けた。

何とも不思議な巡り合わせだったが、地中海に近い石灰岩台地の上で、午睡から目覚めた時に味わった体験は、宇宙観を変えるほど凄まじい衝撃を伴うものであり、それが今の私の自然観を構成した。 その時に味わった衝撃的な体験は、ある意味では他愛のないものだが、野生のラヴェンダーの香りに包まれ、午睡からの目覚めの茫洋として気分で、天空を見上げ無限に思いを馳せた。
仰向けに寝転がっていた私は、幾つかの浮雲が漂っているのを見上げて、こんな雲を林芙美子は自分の人生を託し、自伝小説に『浮雲』の題をつけたのかと思った。大空の南半分は抜けるような青空で、残りの半分の北側は入道雲が広がり、積乱雲と青空の中間部に私は位置し、漂っている浮雲を見上げていたのだ。
そんなことを思って大空を見上げ、漂い移る浮雲の下面が灰色だと感じ、それを何となく眺めているうちに、いつの間にか意識が消えていた。そして、ふと目覚めて再び空を見上げると、大きな雲が一つとその周辺に、五つほどの綿雲が漂っていたので、1足す5だから6だと数えていた。
だが、それも瞬間的な目覚めだったらしく、再び眠りの中に落ち込んでしまい、次に目覚めて空を見上げた時には、小さな綿雲は一つに固まって浮雲になり、前にあった大きな浮雲と並び、二つの浮雲が大空に漂っていた。「1+5=6」だったのに「1+1=2」になったという、そんな考えが一瞬だが頭の中を横切り、再び私は眠りの中に落ち込んだ。
次に微睡から目覚めた時の私は、目をこすって大空を見上げ、以前は離れて漂っていた二つの雲が、目の前で一つになっていたのを見て、「1 + 1 =1」だという閃きに貫かれており、これは大自然の教えだと感じた。だが、それもつかの間の出来事に過ぎず、自然には不合理があると感じたが、そのまま再び眠りに落ち込んでしまった。
暫くするとひんやりとした大粒の雨が、パラパラという感じで落ちて来て、顔で感じた冷たさで目覚めた私は、呆然と空を見上げると雲は姿を消しており、僅かな時間のうちに何万という雨粒で、全身がすっかりずぶ濡れになっていた。
これは「1 + 1 =0」どころの騒ぎではなく、ゼロになった雲から雨粒が吹き出し、何万どころか何億もの雨と霧に変化して、今度は水流になって流れ下っていた。

195千々松 健:2015/11/18(水) 22:44:54
スイス高原のハイジの如くに、寝転んで空を眺めていた若き藤原肇博士が、浮雲の数で不思議なイメージを伝えてくださいましたコトに感謝いたします。
1+1=2からは 1,1,2,3,5,8,13,21,34はフィボナッチ数列が生まれ、mod 9で一桁化すると、1,1、8,8のぞろ目が特徴のフィボナッチ(F)系列になります。
1+5=6からは 1,5,6,11,17,28,45,73,118,191、は???数列ですが、同様に一桁化すると、1,5,6,2,8,1,0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,(1,5,6、)24で循環するF系列になります。
従って、1+5=6と1+1=2のフトマニ数列群は【FMn≡FLKMchain(mod 9)】のなかではFchainで共通です。
1+1=1からは 『創造の主すなわち御柱を真上から観ると点となるので「0次元」と呼び、空とします』と述べたように、点の上に点を加えても一つの点に過ぎないということが判ります。
更に、1+1=0は難解でしたが【e^iπ=-1】のオイラー等式から、1+(-e^iπ)=0をイメージすれば、1+1=0、1+0=1、0+1=1、1+1=2、1+2=3、2+3=5、となりやはりF系列になるのです。

神聖比例やフィボナッチ数列の大切さを教示して下さったハイジ、いやハイムに乾杯!
見上げる「そら」と空哲学の「くう」は共に「空」ですが、藤原肇博士の『Kuuness』は真に万物理論です。
2015.11.18

196藤原肇:2015/11/19(木) 09:46:56
この水が示す不思議な層の変化は、どういう次第だか分らなかったが、多次元の階層構造として私を急襲して、脳裏を包んで広がるイメージが、不思議な世界にと私を誘導していた。それは宇宙の彼方の上位相まで登り、宇宙を宇宙システムの側から見れば、宇宙はサブシステムだという考えだった。
数刻の昼寝の後で顔にひんやりと感じて、見開いて空を見上げ直した私の目に、重なった雲の塊りの変異を見て、私は宇宙について悟ったと意識した。 暫くは断続的な降り方だったが、そのうち驟雨という印象を伴い、30秒か数分ほど雨が降り続いて、私の全身は水浸しになった。
だが、あっという間に雨脚が消え去ってしまい、再び午後の太陽が燦々と輝き、私はキツネに抓まれた感じだった。おそらく全体で20分か25分の間に、昼寝からずぶ濡れまでの出来事が、私の周辺で起きたに違いないし、奇妙な体験の刷り込みになっていた。
二つの浮雲が重なって一つになり、それが雲散霧消して雨粒化し、最初は数滴だった雨が豪雨になって、無限に近い雨粒を誕生させ、暫くすると雨は止んで晴れ上がった中で、日没前の夕日が燦然と照り輝く。これは至って見慣れた自然の営みであり、地球の大気内での水の循環が、私の周辺で起きたことに過ぎず、何の変哲もない自然現象だのに、目覚めを通じた覚醒作用と言えた。
この体験を通じて強く感じたことは、空が空虚ではなく充実であり、何でも総てが存在しているだけでなく、宇宙システムの彼方に「空」が見え、その一部として末端に自分がいるのを眺め、目から鱗が落ちた印象を伴っていた。 その時に閃いた「空」のイメージは、仏教の究極思想の「空」の実態が、それまで考えた何もないのではなく、総てが満ち満ちた状態のことであり、裏返しに似た実に奇妙な感覚だった。
それまでの「空」についての理解は、私が座禅や禅問答を通じて学び取った、本質の不在や幻影の感覚と結びつき、夢や幻に似た捉え所のないものだったが、この日の体験で総てが逆転したのである。

総てのものは実体を持たなかったし、「空」は生じも減じもしない上に、他によってのみ存在する縁起で、相依に基づく関係性である。だから、高校生の頃から形容に陶酔して、「空即是色、色即是空」を暗唱し、表現の魅力の虜になっていた感覚が、私にとっての「空」のイメージだった。 ところが、この日に見取った「空」の感じは、空っぽではなく満ち満ちており、何かが無限に詰まった実体で、予想を超えた充実感を伴い、表と裏が逆転した実に奇妙な印象を与えた。
それまで「空」は煩悩を消し去り、空白に白光が照らす悟りの境地で、それを般若と呼ぶと信じ込み、五感を超越する境地を考えていた。だが、純白ではなく満ちているのであれば、「色即是空」でなく「色即是色」であるし、「空即是空」であるのも空観だから、これがKuunessになると分った。
この不思議な違和感は衝撃的であり、「空」が幻影や虚像などではないし、何もないという「無」とも違い、「無」の対極に位置すると同時に、「無」ではないが「有」も超えて、無限の彼方に「空」が広がると思った。満ちているのになぜ「空」と呼んで、それを虚しいものと思うのは、どうしても受け入れることが困難に思え、何か対案がないかと思索して、思案の末にたどり着いたのが、生噛りではあるがギリシア哲学の世界で、ピタゴラスが秘密にした秘数の世界だった。


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