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最近読んで印象的だった本

1藤原肇:2005/05/03(火) 03:32:41
「戦後日本の十大名著とは」のスレッドが低迷しているのは、十大名著を選ぶのが難しいという理由の他に、自分が読んで良かったと思う本に触れたいという気持が、このスレッドでは十分に生かしきれないことが関係し、それが阻害要因になっているという感じがします。
最近(過去でもいい)読んだ本で印象深く感じ、仲間と分かち合いたいという気分になった本があれば、この欄を使って議論したらいかがでしょうか。
言い出しっぺの私が先ず書き込むことにして、陣内秀信さんの「イタリア小さなまちの底力」(講談社)を読み、毎年のようにイタリアには行っているのに、見落としたものが余りにも多いと気づかされ、この夏はイタリアにまた行きたいという気持になりました。

131千々松 健:2013/06/21(金) 21:07:31
【FMn≡FLKMchain(mod 9)】という『未来を変える方程式』は「フィボナッチ数列や律動とラチオについて」「フィボナッチ数列の殿堂への夢」「モノとコトあるいはカタチとコトバ」等のレスに共通したアイデンティティです。
また、30年前のニューサイエンスの高揚がオカルト化の嵐の中で消滅したコトを反省して、あくまでも数学的な論理思考のコトバを持ったカタチで提示される「生命知の殿堂」のアーキタイプとしての方程式にも当たります。そして、それは全てのアーキテクチャへと繋がって行くのです。

132千々松 健:2013/06/24(月) 13:04:05
【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
:『黄金比(神聖比例)を生じるフィボナッチ数列(フトマニ数列群)は、法を9とするモジュラー算術で観察すると、24項目で循環する4つの数の流れ=FLKM系列を持っている』

「デュラックスピノル」についてはDNAの4重らせん構造をテーマにした時に触れていて、相対性理論と量子論の融合に寄与したポール・ディラックが示した4つのスピノルとFLKM系列の関係性について直観で述べていました。
また、『物理学には数学的な美が重要である』(ディラック)と『神は整数を作られた。それ以外は人間が作ったものである』(クロネッカー)をカサネてみる時、『万物は流転する』(ヘラクレイトス)、『万物は数である』(ピタゴラス)と古代ギリシア人が考えていたことは、改めて納得せざるを得ません。

133千々松 健:2013/06/25(火) 21:15:11
面白いことに、フトマニ数列群で0項を10、第1項を12にすると第9項目に618、第10項目に1000、第11項目に1618、第12項目に2618が現れる。これらは千単位で見れば、φ、1、Φ、Φ^2の近似値に相当する。隣り合わせの数の比が黄金比になるコトの整数レベルでの実例である。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/FutomaniJ.pdf
スタートの10と12は2で割れば5と6の関係になるので、これは動植物に係る5という数と鉱物に係る6という数のコラボレーションにより生じる神聖比例数と言えようか?
フィボナッチ数列の一般式と位置づけて良いフトマニ数列群のアルゴリズムは「二つを足して次の間に置く」です。(パソコン上でエクセルなどの表計算なら、一つだけ計算式を作れば、後は簡単にコピーで済みます)
「世界を変えた17の方程式」でイアン・ステュアートが言う「未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ」とカサネて考えるならば、自ずとその意味が明らかになるコトでしょう。

134千々松 健:2013/06/26(水) 15:20:12
『世界をその最も奥深くで統べているものが、何であるかを認識し、一切の作用の力と種子とを目で観る』という行動をゲーテはファウストに課していた訳ですが、アートが芸術と科学・技術の両方を含めていた良き時代の「宇宙巡礼」でありました。
現代に生きるファウスト的人間といえる博士の「宇宙巡礼」は21世紀に入り、その数理的な裏付けが為されたのです。
武谷三段階論的に言えば、現象論:ト―ラス、実体論:Φとフィボナッチ数列、に対して最後の本質論は何かというコトですが、それはFLKM系列に関係すると考えられます。
下記の数式は、計算のレシピとも言えるアルゴリズムを示す合同式です。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】
Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】
Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】
Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】
24項目で循環するフィボナッチ(F)系列が基本となっていて、リュカ(L)系列はF系列を2倍したもので、ケン(K)系列は3倍したもの、ミチコ(M)系列は4倍したものに該当します。もちろん(mod 9)で処理します。また、0を起点にして観察すると、各項目は足し算することでも一致します。F+L=Kは例えば第6項目ではF8+L7=15、1+5=K6となり、F+K=Mは同じくF8+K6=14、1+4=M5となります。1倍と2倍を足したら3倍になり、1倍と3倍を足すと4倍になる理屈です。
では更に広げて、2倍と3倍を足したら5倍になる数列は考慮しなくていいのでしょうか?
それを仮にP系列としましょう。
Pchain:【0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4,0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5】が考えられます。
しかし、これはMchainを後半からスタートさせた系列に一致するのです。9-5=4だからです。
9-6=3、9-7=2、9-8=1以下省略で、法を9とする限りはFLKMの4つの系列に集約されてしまうのです。
まあ、何と有限で幽玄な世界が現れるのでしょう!

135千々松 健:2013/06/27(木) 22:39:23
『あ、わかった! 世界の見え方があざやかに変わる発想』という帯コピー文のある「思考の補助線」(ちくま新書)茂木健一郎著という本を5年前に読んでいるのですが、そこから2ヶ所引用させてもらいます。
p34『ゲーテの「ファウスト」にいう「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない、両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。(中略)何時間かけて考えても解けなかった幾何学の問題が、たった一本の補助線を引くだけで見通しがつき、一挙に解決に向かうように、何らかの新しい視点を得る努力をしてみたい。』
p207『ある方法論に従ってさえいれば、収集するデータの有効性や理論の普遍性が担保される。天才でなければ成功しないというような実験には科学としての意味はない。どんな平凡な人間でも、性格の悪い人でも、善意に満ちた人も、あるプロトコルに従って操作さえすれば、同じ結果が出る。これが、科学という知的営為の偉大なる大前提である。』

このところ話題にしている【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】が、その意味での“一本の補助線”になることを願っています。

136千々松 健:2013/07/04(木) 23:35:49
数学の基礎演算は、加法・減法・乗法・除法の他にモジュラー演算(計算)を加えた「五則演算」とすべきことを強調しておきたい。
ライプニッツは行列式や二進法を考え着いただけではなく、法を9とするモジュラー計算(mod 9)の特徴にも気づいていたという。行列式は日本の関孝和が若干先行していたが、その後の行列数学や量子力学に繋がって行く基礎となったし、二進法は言うまでもなくコンピュータの開発に繋がりました。

それでは、モジュラー計算(mod 9)の特徴は一体何の役に立つというのでしょうか?

137千々松 健:2013/07/05(金) 21:12:15
アンドリュー・ワイルズ氏は1990年代に
【楕円曲線のゼータ関数は、全てモジュラー形式である】
という谷山-志村予想を証明することによって、
【nが3以上のとき X^n+Y^n=Z^nをみたすX,Y,Zは正の整数解をもたない】
というフェルマーの最終定理を360年目にして証明することができたという。

ところで、2010.2.1 百人一首と魔方陣 >95 で書いた覚えがあります。
>4)ゼータ関数 ζ(S)=π^s / N では、Sが偶数のときNはmod9では全てが0となる。例えばζ(6)=π^6 /945  N=945、N≡0(mod 9)

複素平面でのモジュラー形式(関数)は難解なのでパスするとしても、時計算とも言われるモジュラー計算(算術)の方は理解がし易いです。従って、単純にはモジュラー計算が必要となるのがモジュラー形式の世界であると考えれば良いと言うことになるのでしょう。

*その辺を文系にも理解しやすいように解説している下記のサイトがありました。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/8931/index3.html#・フェルマーの最終定理とスープに浮かぶドーナッツの似非科学

138千々松 健:2013/07/07(日) 15:31:45
カレンダーでは1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と奇数のぞろ目が好まれていて、今日は7月7日の七夕です。次は重陽の節句の9月9日ですが、9は陰陽で言う陽(奇数)の極に当たる訳です。この9という数は、古今東西、秘数として扱われて来ていたのは確かです。
【時計算、剰余算、合同算術、モジュラー計算、モジュラー算術】その呼び方は多種にわたりますが、特に9に注目したモジュラー算術に当たるのが、古代日本では「ひふみ算」であり、古代ユダヤでは「カバラ算」であったのです。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) :If you look at the modular arithmetic that the law 9, Futomani sequence caused a divine proportion becomes a flow of four numbers circulating in the 24 term.(Ken Chijimatsu 2013.summer Japan)】
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/21st.Century.Mandala.pdf

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) :神聖比例(黄金比=Φ)を生じるフトマニ数列群=FMn(フィボナッチ数列はその特殊例)は、法を9とするモジュラー算術(mod 9)で観察すると、24項で循環する4つの数の流れ(FLKM系列)になる】
これは<世界を変えた17の方程式>にはない<未来を変える合同式のアルゴリズム>として、通時性かつ共時性の故にいずれ認知されることでしょう。
・・・宇宙巡礼に相応しい七夕の日に祈念を込めて・・・

139千々松 健:2013/07/07(日) 16:39:31
整理のために、二つの式を比較しておきましょう。
 Fn≡Fchain(mod 9)・・・・1) 
 FMn≡FLKMchain(mod 9)・・2) 

1)はフィボナッチ数列でFn:0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89、、、
Fn+2=Fn+Fn+1で 初項=0、第二項=1の場合。
Fnを、それぞれの項を9で割った余りに置き換えると
【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】という
24項で循環するフィボナッチ系列=Fchainが出現する。
ガウスの合同式記号を使って示すとFn≡Fchain(mod 9)となる。

2)はフトマニ数列群で FMn:初項=任意数、第二項=任意数の場合。
あらゆる数列の項を9で割った余りに置き換えるると
Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】
Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】
Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】
Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】
4つの流れ、すなわちFLKMchainという24で循環する系列に集約される。

1)は特殊論で、2)の方が一般論とみて良いと考えますが、
2008年の段階で特殊論を見つけて、その後、一般論に発展して来たのです。
「二つを足して次の間に置く」という単純なフトマニのアルゴリズムが
神聖比例「Φ」を生じさせる事実には、ただ驚愕するのみです。
初期に『ひふみフィボナッチ数列』と呼んでいた頃が懐かしく思われます。

140千々松 健:2013/07/08(月) 16:34:14
竹下節子著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」中央公論新社p115からの引用です。
『キリスト教カバラの成立とは、キリスト教が独自のカバラ的手法を発明したことではない。カバラが「神の言語」の正当な翻訳道具になることを証明するというやり方だ。ルネサンスの科学は、神の創った宇宙の自然現象の因果関係を理解しようとした。宇宙は神の言語で書かれている。それを理解するには神の言語を解く必要があり、神の言語とは他ならぬ「創世記」が語られているヘブライ語であろう。そのヘブライ語を神の言語として解くのがカバラであるとしたら、カバラは一種の神智学であり、真の神学でもある。(中略)カバラを使って神のプログラム言語を調べればその秘密は解ける。』

私はカバラに関しては「カバラ算術」にしか知識と興味を持たないが、それが、現代数学の(mod 9)を意味しているコト、さらに日本伝統の古神道の「ひふみ算術」とも共通しているコトを認識するに至り、神の言葉=プログラム言語=数学=アルゴリズムについて考えると、万物は数で生じているという認識に立ち至り、やがて【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】を提示するコトが出来たと言う訳です。
さて、この式にピッタリな名称は何でしょうか?

141千々松 健:2013/07/10(水) 23:25:55
イアン・スチュアート著「もっとも美しい対称性」日経BP社p13からの引用です。
『空間、時間、物質が取りうる構造はその対称性によって決まるが、その中でも最も重要なもののいくつかは代数学における特別な構造に関係しているらしい。時空がこのような性質を持つようになったのは数学が特別な形を少数しか認めなかったからかもしれない。そうだとすれば、数学に目を向けるのは意味があることになる。』

この文章は大変意味深いと思います。
先ずは宇宙巡礼的には対称性を「回文」と相似象にしても良いと思われることです。
そして“代数学における特別な構造”とは「動態幾何学」や対称性を扱うのに優れているモジュラー算術に関係してくる訳ですし、“数学が特別な形を少数しか認めなかった”からは黄金比を生じるフィボナッツ数列(広くはフトマニ数列群)がイメージされるのです。
この「もっとも美しい対称性」は2008年以前の著作ですが、
英国の第一級の数学者は【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】の出現を予知していたのかもしれませんね。

142千々松 健:2013/07/12(金) 21:58:22
「黄金比はすべてを美しくするか」を書いたマリオ・リヴィオがその後に出した「神は数学者か? 万能な数学について」の言葉を借用するならば、『数学の持つ不条理な有効性』は神の仕業に他ならないと思う。
そして、数学という道具を『発明』したのは人間でしょうが、元来は神が数学者であり、人間は単にそのいくつかを『発見』したに過ぎないと考えてみたい。そして「動態幾何学」などの非ユークリッドの世界になっても、そのコトは微動ともしないと考えています。

その意味では、今般の【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】は古くて新しい『発見』と言えましょうか?
元々が神の数学の持ち物(道具)に、私たち人間が名称を付けるのは大変おこがましいのですが、
例えば【生命知の神聖比例アルゴリズム】(The Divine proportional algorithm of cosmic wisdom)は如何でしょうか?

143千々松 健:2013/07/13(土) 21:11:35
今日から盆の入り、燈明の火には松の木を使うのですが、松ぼっくりは火がつき易いので昔は重宝されたそうです。そして、火はそれを拝したゾロアスター教に繋がります。
さて、広島に本社のある自動車会社の【MAZDA】の名称は創始者の松田姓から来ている訳ですが、偶然にもゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーのマズダーと同じなので、世界進出にも適しているのです。
MAZDAの中央のZの文字を90度回転させてNにして読むとMANDA になり、それにLAを付けると【MANDALA】(曼陀羅)になるのはとても不思議なコトです。こんな言葉の遊びにも、何か深い意味つながりがあるのかもしれませんね。またMANDAのMを180度回転させたら、WANDAになり、同じ発音ですがAをOに替えるとWONDAになり、コーヒー缶の銘柄になってしまいます。
アルファベッド26大文字の中で回転して他の文字に化けるのは、結局のところ、ZとN、WとMしかないのです。

14496169:2013/09/25(水) 12:57:08
この種のタイプの本はとても分かり易いし、日本人として知っておく必要がある、基礎教養に属す多くの知識を含んでいるので、多くの人が自分の意見を表明している。現にアマゾンの書評欄を開けば、船瀬さんの「日本の真相」は5つ星が19で4つ星が6,あり、安部さんの「知れば恐怖で食べられない」は5つ星が155で4つ星が44もあるから、私がここで改めて読後感を披歴する必要もないと思う。
それだけでなく、内容的にも多くの読者を獲得し得るし、解説のスタイルも体験に基づき、具体性に富むので中学生でも良く分かる。「あらゆる立派な職業から締め出された、クズによって統治されている日本」と違い、欧米の先進国では政治家にまともな人材がいて、国政に真面目に取り組む人が多いから、放射能汚染や食品添加物に対しての危惧は、テーマとして緊急かつ普遍性を秘めるので、メディアも真剣な態度で取り組む対象になっている。
だから、一億人の日本人にとって緊急課題だが、日本では生命に対しての大犯罪であり、ガイアへの加害者でもある福島原発に対して、全く無責任な状態が罷り通っている。こうしたお国柄と時代性への反発の気持ちで、私の細やかな罪滅ぼしの連帯意識として、この二冊の著者への敬意の表明するために、これらの本を出版社に注文して取り寄せ、「宇宙巡礼」の書店に寄託したいと考えた。
また、それは数日後に発行される「フナイ」十月号に、「強権政治の病理とメディアの堕落」と題した、本澤二郎さんとの対談が出る記念でもある。この記事のゲラに朱を入れながら思ったのは、将基面さんの最近著の「ヨーロッパ政治思想史の誕生」の中に、「・・・いかなる嘘や中傷、迫害が加えられようとも、疑似教皇(暴君のことを指す)を信じ、ひいきし、さらにはそれを弁護する群衆がどんなに大きなものであろうとも、彼の誤謬を攻撃し論駁することを私に断念させることは、いつ何時たりともあり得ない。私に手とペンと羊皮紙、そしてインクがある限り」と言う、ウィリアムのオッカムの言葉を味わい、やはり往時には勇気ある人がいたものだと感銘したからである。
かねがね「書籍購入のご案内」のA,B,Cのそれぞれに、貴重な資料の「平成幕末のダイアグノシス」が含まれ、ABC全セットを欲しい人に不親切だと感じて来た。だから、B-7には船瀬さんの本で置き換えることで、C-2には安部さんの著書で置き換えて再編集して、書店の活性化を管理人にお願いしたい。

14596169:2013/09/27(金) 08:29:26
144)の記事に関して将基面さんから、次のようなメッセージが届いているので公開します。
彼はヘルシンキ大学の客員教授わ始めアカデミーの世界で活躍しているだけでなく、オタゴ大学准教授と共に副学部長の学務まで担当して、壮年期にふさわしい活躍をしているようです。
安部や麻生のネオナチについて論じた発言をしたら、将基面さんが最低で卑劣な蓑田胸喜などについて、扱い始めたと知りシンクロニシティに驚きました。
また、私が報告した144番はフィボナッチ数列の鍵数で、故首藤さんにカットをして欲しいと依頼したら、これは神の数らしく式が作れないと言われ、114面体にした思い出もある数で奇遇でした。
<貼り付け>
拙著に言及くださり、恐縮に存じます。目を通していただき大変うれしく存じます。
現在は中世ヨーロッパ政治思想史の他に、日本政治思想、特に1930年代の思想的対立緊張に関心があり、
矢内原忠雄(特に矢内原事件)の研究から派生して蓑田胸喜を中心とするウルトラナショナリズムに見られる日本的政治思惟の特性を探っております。
ご健勝を祈念しつつ、

146藤原:2013/10/31(木) 23:29:05
夜の十時半に第七巻の「あとがき」読み終え、これから所感の書き込みを開始するが、あと一時間余りで Jack –o’ – Lanternの灯が消え、新年を迎え記念すべき年と日が終わる。
脳と目を酷使する長いが愉悦に満ちた旅路であり、マゼラン海峡と嵐の岬(喜望峰)を通過した旅を終え、ようやく母港にたどりついた感じで、七十五歳の誕生日に最後の頁を閉じることが出来た。
古代ケルト人が収穫を祝うハロウインの夜に、読了を完成するかどうかを危惧しただけでなく、最後に出会う精神の汚染を回避して、第七巻十章のジェンダー/コミックに属す可なりの本は、一瞥だけで通過しようと決断した。
それだと画龍点睛を欠くという気もしたが、知る必要がない情報も存在するし、品性と節度を保って生きて行く上で、知らない方が良い領域は禁断の地として、近づかないのが賢明だと判断した。
おぞましさが支配している空間は、そこをすっ飛ばして通り過ごし、目や頭脳をごみ溜め代わりにしないのが、精神衛生における防疫措置でもある。そうした例外的な十数冊ほどの本を除いては、じっくり観察し読み込んだので、見聞録として心の中の書庫に収蔵できた。
半世紀にわたる遍歴人生において、年に数度だけ客人の形で訪れ、その間に劣化と荒廃が進む故国に対しは、彼方に広がる異界としての設定で、浦島の逆玉手箱効果の相似象を観察した。
千冊に近い選ばれた本の渉猟で得たのは、若き日の留学の時に学んだ教訓や体験を積んだ過程で、見過ごしたものや分からずに終わった、盲点を埋める作業をおそらく果したことになる。
京都生まれの呉服商の息子の松岡さんは、江戸っ子で医療機械商の息子の私に較べ、面白いような共通面と異質面があって、若い頃にフランス語の世界に遊んだし、数学や博物学に強い関心を持っており、彼は国内に留まり私は日本を脱藩した。
ところが、彼は高校時代に上京して九段高校に転入し、私は東叡山にある上野高校に進み、共に後藤新平が作った旧制市立中学の環境で、詰襟でなく背広で青春を過ごし、官途につかず「野ごころ」の維持を図って来た。
生涯をかけて百一連環の帝網に挑み、松岡さんは編集の奥義を窮めたことで、彼は『千夜千冊』の千人斬りの偉業を果たし、私はその返り血でアムリタを賞味した。
私がえにしを結んだ愛着を持つ本のリストの中に、彼が触れなかった本と著者があって、重ならない世界があるのも興味深いが、そのうち思いがけない幸運に恵まれ、セイロン島あたりで出会いをもち、発見と再会の縁起を持つ楽しみがある。

147藤原:2013/10/31(木) 23:41:22
(NGの文字があると撥ねられたので、直した後半を以下に続けようと何度も試みたが、書き込み不能なので小刻みに書き込み、残りの部分は明日にやり直します)
知情意が構成する三角ダイアグラムを作り、その流体力学の位相の階位の頂点に、洗練度における名人と芸術性における鉄人、それと論理性における達人を置く。
そうすると、『千夜千冊』を作り上げた松岡正剛の作品は、シェヘラザード築いた夜の偉業と並び、叡智と編集術で組み上げた「花伝書」で、日本が誇るマエストロの逸品になる。
半世紀を費やした世界巡礼の草枕の果てに、生まれ故郷における憩いの場で、千夜の夢を一年半という時間枠の中で見終わって、安堵の気持ちに包まれている境地は、何という恵まれた心の寛ぎになることか。

148藤原:2013/10/31(木) 23:54:50
(残りの部分ですが、未だ受け付けられないので細切れ状態です)
母親が亡くなった直後にあった述懐が、『岳人』の1994年9月号の誌上で活字になり、それが『山岳誌』の追悼号に収録され、遺言で日本全国の高校図書室の書架に並んだが、それは山頂に積む憩いのケルンだった。
そこには青年期のゲーテが山小屋の壁板に、「 総ての頂きに憩いあり(ドイツ語の書き込み省略しました)」と刻み込んだ、若い頃に残した書き込みの文章に対面した、82歳の老詩人の感激が伝って来る感じがして、人生の来し方を振り返った一瞬である。
また、「冥土の旅の一里塚」として積むケルン代わりに、賑やかな英語の誕生日の歌ではなく、フランツ・リストの「流離の人の夜の歌」を味わい、これから暫し熟睡を楽しむことにする。
http://kunstlied.blog23.fc2.com/blog-category-54.html
2013年10月31日の11時を過ぎた大晦日の夜に。

149藤原:2013/11/01(金) 00:09:21
そこに青年期のゲーテ・・・
の前に貼りつけたURLがNGになった原因らしく、それを取り除いたら書き込みが出来ました、
何だか奇妙ですが全文を再現するために、URLを改めて貼り付けておこうとしたが、再び撥ねられたので貼り付けを諦めます。
「宇宙巡礼」の「記事」にある、『岳人』の1994年9月号の記事を参照ください。
意味が不明のトラブルのために、二日がかりの書き込みになってしまいました。申し訳ありませんが、一応これが最近読んだ本の感想です。

150藤原:2013/11/01(金) 00:30:24
取り上げた本についての説明不足で、分かりずらくて失礼しました。
千冊の本が束になっていて、著者は松岡正剛で題名は「千夜千冊であり、」内容は次のようなものです。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B%E5%8D%83%E5%A4%9C%E5%8D%83%E5%86%8A-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E6%AD%A3%E5%89%9B/dp/4763006428/ref=sr_1_19?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1383232967&amp;sr=1-19&amp;keywords=%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B

151千々松 健:2013/11/01(金) 00:38:24
ハロウィーンに誕生日を迎えられた藤原肇博士が松岡正剛氏の「千夜千冊」全7巻を読破されたことを知り、デュアルの祝福を贈りたいと思います。(祝^2)

【言霊と数霊の出会い】
カタカムナ研究者の宇野多美恵さんの命日が10月22日でしたが、丁度7年後に当たる10月23日午前に、関西のある人物からメールを頂き、まことに不思議な縁を感じざるを得ませんでした。
早速に、東京丸の内にてお話したのですが、それは、まるでコトダマとカズダマの出会いでした。
今回の収穫の一つ:
22-77の組み合わせが特徴的なリュカ数列(コトダマ的にはルカ数列の方が適しているようです)の一般公式から11-88の組み合わせが特徴的なフィボナッチ数列も出現するという意味では、ルカ数列の方が核になるのかもしれないと思うこの頃です。

152中村:2013/11/02(土) 09:26:54
75才といえばナントカ高齢者に数えられる年で、普通なら神経痛とかアルツハイマーになったりして、生命のエネルギーが低下する年齢です。
そんな年になってもこれだけのチャレンジをして、こんな薀蓄に富んだ文章を書けるとゆうことは素晴らしいです。
本当に素晴らしい誕生日おめでとうございます。これからも元気にご活躍されて、指導して下さるようにと、心から期待しています。

153千々松 健:2013/11/07(木) 14:26:05
引越しの準備で本棚を整理していたら、「私のゲーテ」小塩節著が目についたので付箋の箇所を読み返した。
ファウストについて P65-66『神の行為であり神の意志であるロゴスを、この自分の力で認識せんがための行動である。【世界をそのもっとも奥深くで統べているものがなんであるかを認識し、いっさいの作用の力と種子とを目で観る】そのための行動なのである。(中略)原子物理学者や遺伝子工学の先端をゆく現代の自然科学者は、みなファウストの嘆きを身にしみて知っているはずだ。』

154藤原肇:2014/03/25(火) 07:03:34
 [単にマネージメントがあるのではなく、そこには常にイメージメントがはばたいている]という結論は、俯瞰して全体的に物事の本質を見抜き、関係性を読み取って物語りを編集するのが、リーダーシップであるという意味で、「イメージとマネージ」と題した本書は素晴らしい内容に満ちている。
また、「リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針」という副題も、日本人として異例に属す指導性を持ち、それを実践し活躍した平尾誠二という関西人がが、如何に稀有の人材であるかを克明に証明していく。
だから、人材枯渇と不毛な支配者たちの洪水という、実に情けない日本の現状にあるせいで、慚愧の気分に包まれて思いを馳せていた時に、この本に出会った幸運を痛感させたのである。それにしても全く不思議な因縁であり、ラグビーという英国人が作ったスポーツの世界とはいえ、他人事とは思えない印象をこの本は私に与えたといえる。
 彼が同志社大や神戸製鋼のチームを率いて、実践で積み上げてきたゲームの指導能力は、明治時代からの日本の戦争の歴史と較べても、あるいは、明治から現在に至る日本の政治においてさえ、彼に匹敵するビジョンと統率力を持つリーダーは、見つけるのが困難なのではないかという気持ちになった。だから、その感慨は実に印象深いものになった。
 同じラグビーをやっても裏口と誤魔化しが専門で、ワセダの学生時代に売春防止法の現行犯でつかまり、密室の闇取引で首相になった森喜朗が、東京オリンピックの最高責任者に納まるような、退廃と堕落した日本のスポーツ界を見れば、亡国に至っている日本の現状の意味が納得出来る。
暴力団の政治舎弟で国粋的なタカ派の清和会が、森から安倍に至るまでの愚劣な支配者として、日本の政治を愚弄し続けたこの時代は、裏の世界の人間が表社会を陵辱することで、日本の運命が大幅に狂い果てた時期でもあった。
 それにしても、日本の各分野の実践現場には、平尾のような優れたビジョンと指導力を持ち、着実に堅実な実績を積み重ねていたのに、なぜ日本の現状は支離滅裂な衆愚主義が支配し、亡国への道を盲目的に驀進したのだろうか。
それは小学校の生徒にも劣る国語力や劣悪な判断力しか持ち合わせない、安倍晋三のごとき低脳な権力者を始め、支離滅裂な態度で政治を食い物にして恥ることもなく、したい放題をして来た橋下のようなごろつきが、大手を振って罷り通る狂った時代の産物だった。
しかも、日本の未来をめちゃくちゃにしているのに、日本人は屠殺場に率いられていく牛のように群れをなし、反抗する気概もないのかと不思議でならない時代でもあった。
それにしてもである。この対談こそは二十世紀の日本に生まれた、最高のダイアログだという嬉しい読後感を持ち、久し振りに読書の快感を満喫したのである。

155千々松 健:2014/03/25(火) 16:40:23
>153 つづき
これは要するに『 Want(神の意志)、Plan(神の論理=ロゴス)、Action(神の行為)を三位一体的に理解しようと努力するコト』になろうかと思います。

武谷三男の三段階論すなわち「人間の認識は現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階の三段階を経て発展する」
 1)現象論的段階- 現象をありのままに記述する段階
 2)実体論的段階-- 対象の構造を研究する段階
 3)本質論的段階--- 対象がどのような相互作用の下に、どのような運動法則に従っているのかを明らかにする段階
「自然がこのような立体的な構造をもっており、それを人間の認識がつぎつぎと皮をはいで行くのでこのような発展が得られる。すなわち歴史的発展と論理的構造の一致である。」
京都大学の素粒子論研究グループの方法論の基礎には、この武谷三段階論という新しい弁証法が在ったといわれている。

そこで私は、■を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、●を本質論的段階にてイメージし、三位一体的な立体構造の全体をマネジメントして行くのが重要であろうと思い着き、2012年秋ごろ松岡正剛氏に手渡した1枚が、パワーポイント用に作成した「未来を変える方程式」というPDFの最終16枚目のシートでした。
注)検索エンジンが進化してPDFファイル内のキーワードでもグーグルが、すぐに見つけてくれるようになったのは嬉しいですね。
その例としても「本質を抉る思考のヒント」にて一度検索してみてください。「病理を抉る」ほどにはヒットしないかもしれませんが、、、
2014.3.25

156千々松 健:2014/03/25(火) 21:30:36
>155『■を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、●を本質論的段階にてイメージし』は明らかに間違ってしまいました。
もつろん『●を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、■を本質論的段階にてイメージし』が正しいのでした。
ことのついでに、
 1)ステロタイプ:●:現象論
 2)プロトタイプ:▲:実体論
 3)アーキタイプ:■:本質論
とイメージして、三位一体的に立体構造全体を扱い、1.2.3の順序に3.2.1の逆序も加味した秩序の総体をマネジメントするコトが肝要となりましょう。
また、このようなイメージは三種の神器にもつながり、鏡:■、剣:▲、勾玉:●となります。(断面のカタチから見る)

157千々松 健:2014/03/25(火) 22:08:52
三種の神器は現在では三ヶ所に別々に在るようです。
八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に、八尺瓊勾玉は八咫鏡の形代および草薙剣の形代とともに皇居吹上御所の「剣璽の間」に安置されているといいます。
アーキタイプの■のイメージになる「八咫鏡」が本質であり、最重要であるコトがこのようなことからも解かりますね。

明日3月26日には20年ぶりに皇居の剣璽が伊勢にて鏡とめぐり合う事になるようです。

158藤原肇:2014/03/26(水) 13:14:43
155で千々松さんが松岡さんに触れているのを読み、154の私の記事の最後の行に関して、それにしてもである以下を次のように書き改めて補いたい。

それにしてもである。過去30年間の私は専ら対談を試みてきたが、対話は同じレベルの人の出会いが決め手であり、
その点で型破りのスポーツマンの平尾誠二を相手に、対等であることに疑いの余地のないレベルで、編集の達人の松岡正剛が存分に語り合っているのを知ることになった。
そして、この対談こそは二十世紀の日本に生まれた、最高のダイアログだという嬉しい読後感を持ち、久し振りに読書の快感を満喫したのである。

159千々松 健:2014/03/27(木) 22:18:57
平尾誠二氏は山中伸弥氏と神戸新聞で新春対談をされていました。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201312/0006608321.shtml

2月23日に秩父宮ラグビー場で開催されたラグビー日本選手権2回戦の神戸製鋼対ヤマハ発動機の試合を天皇皇后両陛下が観戦され、森喜朗さんがラグビー協会トップとして同席していたようです。
そして、神戸製鋼ラグビー部のGM兼総監督として平尾氏は場内で采配を振り、大逆転の勝利を飾っています。

さて、初めはSTAP細胞の小保方さんにエールを送っていた山中氏なのですが、今後はiPS細胞対STAP細胞の対戦(対談)は不成立のようですね。

160千々松 健:2014/03/28(金) 23:53:55
三段階論の現象論、実体論、本質論に関連して
日本古来の伝えに『その言は数にあり、数の道は理を含み、理は玄を有て在り』というのがあるそうです。
そこで、ふと私なりに次のように解釈したいと思うのでした。
「神のコトバは数(神が示す図=カズ)にあり、数の道である『神聖方陣』には道理(黄金比を生じるフィボナッチ数列)が含まれていて、その本質は『FMn≡FLKMchain(mod9)』に在る」
ここ数年来公開して参りました<21世紀マンダラモデル>と<未来を変える方程式>は日本文化の遺伝子ともいえるHUTOMANI=フトマニを宿しています。
2014.3.28

161千々松 健:2014/03/31(月) 22:08:41
ヒフミシンジ(日月神示)・イシモクシロク(五十黙示録)・フソウ(扶桑)の巻に登場する数字群にヒントを貰い、
フィボナッチ数列を72倍した数列を考えました。
 Fn: 0,1,1,2,3,5,8,13,21、
72Fn: 0,72,72,144,216,360,576,936,1512、
この中には、0項目を抜かすと三番目に144、四番目に216、五番目に360が現れます。
天が3ならば天の数は144で、地が4ならば地の数は216で、(並んだ二つを足して次に置くというフトマニのアルゴリズムから)5番目が360になるわけです。
そこで、1番目と2番目を改めて確認すると、72と72です。2^3×3^2=8×9=72 ですから扶桑(2と3)だけで表されていることになります。
この72Fnの数列を「ひふみ算」すなわち(mod 9)で処理すると、全てが0となります。
そこで「未来を変える方程式」の【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は、初項と第二項を任意としていますが、<9の倍数は除く>という但し書きが必要になるということが確認できました。

また、伊勢神宮の「八咫鏡」は「天の中の元」です。すべての本質がその鏡にうつるのであれば、その鏡面対称性は「神の数式」にも欠かせないのです。
そして『神聖比例(黄金比=Φ≒1.618)を生じるフトマニ数列群(フィボナッチ数列はその特殊例)は、法を9とするモジュラー算術 (mod 9)で処理すると、全てが24項で循環する4つの数の流れであるFLKM系列のいずれかになる』ことを示す
【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は「日出る時は来にけり」の一つのアカシかも知れません。
2014.3.31

162千々松 健:2014/04/01(火) 22:56:16
日月神示・五十黙示録・扶桑の巻に関しての続き
そこに「イセにはモノ言うイシがある」と書かれているのですが、それに私は大変な興味を持ちました。

数の読み方でヒフミヨイムナヤコトが1,2,3,4,5,6,7,8,9,10の古来の読み方ですから、イは5で、セは世界ということにして、イセは5に関係するコト全ての意味になると思われるのです。
イセが伊勢神宮で5に関係すると考えると、√5を含む黄金比すなわちΦ=(√5+1)/2につながり、フィボナッチ数列へ更には「フトマニ数列群」に繋がりました。
そして、イシは1と4で、それら二つを足すと5になりますから、
1+4=5のミチコ数列が想起されます。
 Mn:1,4,5,9,14,23,37,60、 ミチコ数列
ついでに
 Fn:0,1,1,2,3,5,8,13,21、 フィボナッチ数列
Ln:1,3,4,7,11,18,29,47、 ルカ数列
 kn:0,3,3,6,9,15,24,39,63、ケン数列
以上の4つの数列が重要で、それらを(mod 9)=ヒフミ算で観察して出現するのが24項目で循環する「FLKM系列」と呼ぶ4つの数の流れでした。
黄金比を生じる数列群は(mod 9)=ヒフミ算で観察すればこの4つの数の流れのどれかに該当します。(但し、9の倍数が並ばない限り)
http://8w1hflkm.jp/21st.Century.MandalaJ.pdf

163藤原肇:2014/10/31(金) 10:24:46
阿片謀略と岸信介・安倍晋三の亡国相似象の関連資料一瞥
本日を期して私は喜寿へのあと一歩を迎えました。これまで安倍内閣の暴政を告発するために、岸と安倍晋三の亡国コネクションに関して、本にまとめようと資料集めをしてきたが、それは若い世代に任せることに決め、200p余りのデータベースは贈呈しました。
その過程で読んだ本についてのメモは、次のような読後感にある通りで、参考にする上での案内として誕生日記念に公開します。

「続・現代史資料12」――基礎資料、データベースとして最重要

「日中アヘン戦争」――通史。全体像を掴むのに最適。

「昭和陸軍阿片謀略の大罪」――佐藤肇さんが霞山会人脈や旧軍人から取材し、外交文書や防衛大の資料を検討して、まとめたデータを岩瀬君が整理した。背景や人脈が精査されており、歴史資料としては第一級だし、国士の佐藤さんの洞察は鋭く、権力を悪用した支配層の犯罪への糾弾は厳しい。
将来のある時点で岩瀬君あたりが、天保銭はもとより岸信介について詳しく調べ、田布施人脈における安倍並びに佐藤家との関連で、長州人脈の満州と朝鮮のアヘンとの関連をまとめれば、貴重な日本現代史としての書き直しになる。
そのためには落合秘史を掘り下げ、吉園周蔵と上原勇作並びに甘粕正彦のトライアングルを洗い直し、杉山茂丸や後藤新平など安場人脈が、明治から昭和に何をしたかを解明すれは、それでビンゴに至るはずである。

「阿片王」――佐野君らしい取材による略史としての読み物。里見とアヘンに関し満ゴロと上海玉については傍線の部分に、データベース的な記述があって便利だが、図の強調で地がない欠陥が目立つ。P329に興亜院において愛知揆一、大平正芳などとアヘンの関係の記述あり。これは拙著にかつてより詳しく書いたはずだが、どの本だったか失念。また、渋沢の民俗学研究所や西北研究所などの研究員が、その後に京大の人類学者グループの母体になっており、それが思いがけない発見だった。

「甘粕正彦・乱心の広野」――甘粕のアヘン情報の概要だが、彼の満州と上海ものを通じて、里見に比べて甘粕の悪辣さが分かる。普通の小説より調査の努力は認めるが、佐野君らしい資料に基づくストリー展開は、歴史より小説的面白さが濃厚。
だが、2・26や盧溝橋事件の記述もないし、上海事変にも触れていないので、大陸が舞台になっているのに、演劇の舞台のドラマに似て、歴史的な展望の迫力に欠ける。

「日本の阿片戦略」――アヘン取引は悪質と思っていたら、英国のアヘン貿易はダーティだが合法的であり、1912年のハーグ阿片条約発足からして、日本のアヘン取引はダーティで非合法とあり、日本のトップは確信犯だと認識を改めた。
また、けし栽培のなかった朝鮮で日本の二倍のけし栽培を行い、朝鮮人に密売してアヘン吸飲者を大量に作ったという政治犯罪の存在。慰安婦問題だけで騒ぐ韓国政府は、近視眼で安倍に類したバカではないか。また、日本政府は証拠隠滅に全力を傾けたようだ。

「謀略の昭和裏面』――岸信介とCIAコネクション程度。

164千々松 健:2014/10/31(金) 23:31:03
<藤原肇博士の誕生日=ハロウィーンを祝して>
ヘーゲル自筆の書き込み本を神田の古本屋で寄川条路教授が見つけられた。
http://mainichi.jp/select/news/20141022k0000m040094000c.html
それはヘーゲルのデビュー作である「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」1801年初版本に、自書の書評の一部を写し書きしたもので、
『純粋に絶対的なものは、絶対的に一つのものであり、同時に全体的なものでなければならない』などと書かれているという。
さて、興味はその書評内容そのものにあります。
ヘーゲルの正反合の弁証法に影響された武谷三男の三段階論に倣っている「●▲■の三段階論」の舞台で考えることになります。
http://8w1hflkm.jp/123universE77.pdf
『純粋に絶対的なもの』とは▲の本質であり論理であり数学的には「Φ」で示されるものです。
『絶対的に一つのものであり』とは■の実体であり原因であり数学的には「Fn^2」で示されるものです。詳しくは「FMn≡FLKMchain(mod 9)」
『同時に全体的なものでなければならない』とは●の現象であり結果であり数学的には「トーラス体」で示されるものです。
これは正に知的直観という「ピストル」で、突如として脳内の中心を射られたような気分でした。
2014.10.31

165藤原肇:2014/11/06(木) 10:41:13
163)に関して、ファイルが未整理のせいで、こんな断片が見つかりました。
関心を持つ人は少ないだろうが、参考として追加しておきます。

「謀略の昭和裏面史』――小百科として非常に便利な本で、阿片や謀略機関について網羅されており、チェックするには手軽であるが、岸信介とCIAコネクションは、物足りない感じがするが、目配りの程度は抜群に属す。この本から入れば、昭和の時代の隠された歴史について、全体像を簡便に把握できる。参考文献のリストからして、著者の目配りが行き届いており、詳細にこだわらないところが優れている。

「東条英機と阿片の闇」――東条とアヘンに関して見るべき情報はなく、題名に偽りありの本。こんな男に首相をやらせた不甲斐なさは、指導性の意味が理解できず、人気と成り行き任せしかしない、
日本人の愚劣さの証拠である。それは森以来から安倍に至る清和会人脈に支配され、暴政で愚劣さが証明済みの安倍に、独裁権力を与え続けている相似象を見れば良く分かることであり、小心者が大言壮語をして強がる点では安倍晋三と東条は共通だが、安倍はもっと劣悪というしかない。

「満州裏史」――大した内容の本ではなく、岸に対しての批判が甘い。ただし、20章以下に参考になるヒントあり。P325に古海が戦後に大谷重工業の副社長になった記述あり。
満州で岸の部下としてアヘンを担当した古海が、星製薬のモルヒネを扱ったことの関係のヒント。
慧光塾の大谷と安晋会とのコネクション関係が、とのように統一教会と結びつくかは山岡俊介君の仕事か。p449には東条がアヘンで作った数十億円の裏金を動かし、それを東条の妻が扱ったという「細川日記」の引用あり。

「回想・古海忠之」――チェックのこと。岸とつながるキイマン。

166ヒロイエ:2014/11/16(日) 21:31:26
だから、星新一が星製薬を大谷に売却し、その跡地にTOCが
あるわけですか。

167一目山随徳寺:2014/12/18(木) 01:45:16

最近 集英社インターナショナルから出版された 矢部宏治氏による下記書籍の人気が
高く、各方面で紹介されています。 話題の本としてご紹介致します。

『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』
矢部宏治・著 集英社インターナショナル
公式サイト
http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3236

Web 立ち読み用 PDF
http://www.shueisha-int.co.jp/pdfdata/0236/nihonhanaze.pdf



関連記事 等

Yahoo!ニュース - 日本を支配する“憲法より上の法”の正体とは? (週プレNEWS)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141104-00038278-playboyz-soc


「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」で話題の矢部宏治が鳩山友紀夫と
“日本の真の支配者”を語った!- |週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]

【前編】
http://wpb.shueisha.co.jp/2014/12/15/40591/
【後編】
http://wpb.shueisha.co.jp/2014/12/16/40674/


「「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 」著者・矢部宏治氏インタビュー:岩上安身氏」 
http://sun.ap.teacup.com/souun/15535.html

168千々松 健:2014/12/19(金) 16:11:09
8年程前にWEB上で運命の出会いがあった神の数学「守護者」こと佐藤敏夫氏のサイトから以下引用させていただきます。
【「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。】

ここからは、私の解釈です。(過去の修正も込めています)
『万物の法則を学ぶには、先ず現象をもたらす言(コトバ)は数(神が示す図=カズ)にあることを知るべきです。そして、その数の道は『フィボナッチ数列ヒフミ九九算表=神聖方陣』という実体はFMn≡FLKMchain(mod 9)というアルゴリズムを含みます。さらに、その本質は理すなわち「φ:1:Φ」という黄金比率に在るのです。』
『従って、全てのものは、黄金比率という論理から発し、フトマニ数列群に秘された四つの数の流れが理由となって、陰陽の二重螺旋構造体のトーラスとして現れる結果といえるのです。』
以上が、この8年間で集大成したものです。
<21世紀マンダラモデル><未来を変える方程式><●▲■の三段階論>は日本文化の遺伝子を色濃く宿していると考えています。
http://www.8w1hflkm.jp/
2014.12.19

169千々松 健:2014/12/22(月) 21:19:21
『たとえ死の陰の指す嘆きの谷を行くときも、生かされている命に感謝するならば、心の奥底から湧き上がる何かが生きる力を与えてくれる。
そして、その魂を人間の言葉に表現して行こうとすれば、それがやがて「志」となるに違いない。』

今回は残念な結果になった小保方晴子さんの「STAP細胞」も、未知なる現象である限り、その実体と本質が探求されなければなりません。
また、コペルニクス的転換という意味を踏まえれば、科学者は既知なるものから未知なるものを説明するのではなく、未知なるものから既知なるものを説明することの方がより重要でしょう。

<●▲■の三段階論>に立てば、現象●・実体■・本質▲がイメージされますし、拡大した因果律では、三角=論理、四角=原因、丸=結果ですから、本質かつ論理は黄金比(黄金比率・黄金分割)に関係するコトとなるはずです。
従って『STAP現象が起こる最適条件すなわち必要十分条件は、この「φ:1:Φ」のロジックの中に在ると予想されます。』
2014.12.21

170千々松 健:2014/12/27(土) 22:02:06
言霊と数霊に更に音霊を加えるのが良さそうです。音は波長の長さにより音階が決まります。ピタゴラス音階には黄金比が関与しています。
また、波長すなわち周波数により(限られた領域において)粒子が振動されて様々な幾何学模様が出来ることが知られています。
水の結晶は言葉によって様々に変容するという事実を江本勝氏が発見しているのは驚きです。
しかも、水は言葉(音)によって好ましい響きに対しては綺麗な氷の結晶となり、嫌な響きに対しては崩れた結晶となるという不思議な現象も実験されています。
このコトは、望ましい周波数が即ち、望ましい数霊であり、望ましい言霊でもあるということの証明のように思われるのです。
人体の細胞も殆んどが水ですから、言霊・数霊・音霊に因って色々に反応するコトがあるに違いないのです。
生命のシステムが正常に機能するためには、それらの魂が望ましい波長であるコトが大切になるという訳です。
従って、話題の「万能細胞」にしても、そういった要素が加味されるべきでしょう。
また、弱酸性のペーハー数値だけではなく、その際に入る乳酸菌や各種の雑菌も含めて、最適な条件を探求するコトが寛容です。
いずれにしても「初期化現象」は、数学で言えば「逆行列」が成立する最適条件が必須となるコトに類比されるのです。
2014.12.27

171千々松 健:2014/12/29(月) 15:40:18
江戸時代の思想家である安藤昌益の「三回」について再考する機会を得ました。
12月22日の読売新聞、時事・思想の欄で農の行方・安藤昌益「米粒の神聖性が問う」と題して末木文美士教授(日文研)が書いていたからです。
『昌益によれば、この世界は始めも終わりもない自然の運動である。その運動は通(上から下への垂直運動・横(水平運動)・逆(下から上への垂直運動)からなる。』

この5月にも触れましたが「●▲■の三段階論」はその「通気・横気・逆気」に類比されるのです。
すなわち▲から■へが通気、■から●へが横気、●から▲へが逆気の流れです。本質(論理)から実体(理由)へ、実体から現象(結果)へ、そして現象から本質へという運動になる訳です。
「廻りて巡り、とわに続く」イメージになりますね。
『逆により穀物が生ずる』となれば米粒こそが本質(論理)となるのですから、神聖比例(黄金比)が登場するコトになります。
偶然にも「米粒の神聖性が問う」のタイトルは当たっていたのかもしれませんね。
http://www.8w1hflkm.jp/123universJ77.pdf
2014.12.29

172藤原肇:2015/01/22(木) 12:17:17
「方丈記私記」(堀田善衛)を読む

弁慶と牛若丸の話を始め、義経を保護した平泉の藤原氏の滅亡とか、平家と源氏の争いや壇ノ浦の合戦に関してのイメージが、平安末期から鎌倉時代について、何となく歴史の断片として頭の隅に貼り付いていた。
また、西行法師、源実朝、法然、親鸞などの名前の後に、「千載集」「新古今」などの和歌の世界と共に、藤原定家や後鳥羽上皇が登場した時代の面影もある。後鳥羽が二桁の后や女官だけでなく、遊女や白拍子を相手にして、博打や猟色に明け暮れただけでなく、摂政を相手に男色にふけり、荒淫荒亡を尽くしたことは知識としては知っていた。
しかも、連日のように放火や地震が起き、堀田善衛のペンに従えば、「学徒群起、僧兵狼藉、群盗横行、飢餓悪疫、地震、洪水、大風、降雹、大火」で、「天変しきりに呈すといえども、法令敢えて改めず」が続いて行く。そして、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず、ありとしある人は皆浮き雲の思いをなす」という「方丈記」の冒頭の言葉は、地震や噴火の予兆に怯える日本の現状に重なり、まさに不吉な相似象ではないかと思う。
しかも、治外法権の外国軍基地を放置した中で、原発の放射能が国土を包み、戦争体制に猛進する暴政が横行し、人権を護る憲法が機能しないまま、狂人に限りなく近い男が首相として、したい放題をする日本の現状を遠望する私の目は、鴨長明の視線と同じ波動が網膜で揺れる。
それにしても、未だ大飢饉による人民の苦難は始まっていないが、既に食糧の汚染は進行し、鴨長明のいう「物狂いの世、是非を論ずるに足らず」である。高校の時のテキストが初見だったが、日仏学院時代に緑色の表紙の本で仏訳に接したが、その時から半世紀ぶりだが、久しぶりに読んだ「方丈記」のガイドブックとして、堀田善衛が体験した敗戦直前の日本と共に、今と鎌倉初期の末世現象を結ぶ「悪夢の浮橋」は、「驕れるもの久しからず」の黒い虹を架け渡してくれたのである。

173千々松 健:2015/01/27(火) 15:24:59
先日の大学入試センター試験の化学基礎で「物質の三態」問題が出ていましたので、早速に参考にしました。
まず、氷(固体)は昇華して水蒸気(気体)になり、水蒸気は凝縮して水(液体)になり、水は凝固して氷(固体)に戻るという水の三態をイメージします。
それに、帰納と演繹とアブダクションを加味しました。
http://8w1hflkm.jp/123univers.pdf
「物質の三態」を●固体、■液体、▲気体と位置づければ、●から▲へは昇華に類比されます。
この●現象から▲本質へと直接に向かうラインを逆行列的推理(Invertible abduction)と呼びたいと思います。
昇華は逆のラインにも使用されていますが、一度、●と▲との関係に「逆行列」が成立したならば、後は自由に行き来ができると言う様に考えるのは面白いと思いませんか?
●>■>▲のルートは帰納、その逆のルートが演繹です。

更に、般若心経の繰り返しと逆読ませの妙を次のように解釈するのも面白いと思います。
「色不異空 空不異色」=「いろとそらの段階」=演繹と帰納のレベル
「色即是空 空即是色」=「くうとしきの段階」=逆行列的推理のレベル
すると「空哲学=禅」は、この●から▲へのルートを観つけることを意味していたとも思えるのです。

固体の強固に結合した粒子の関係性が一気に解かれて、気体になってからは単独の粒子はバラバラに動けるようになる如くです。
ちなみに、液体の粒子は互いに引き合いながら動いていますが、演繹や帰納のルートでのみ現われることになります。
また「STAP細胞」も要するに固体から気体へ昇華するルート探しといえるのではないでしょうか。
2015.1.27

174千々松 健:2015/01/28(水) 22:55:00
>2012/02/08(水) 21:00:47 一部再掲から
プラトンの教義であるイデア論:『地球上のモノはすべて、永遠なる理想的原型つまりイデアのコピーにすぎない』および『イデアというのは、数そのもの、図そのもの、形そのものでもあった。「大」とか「小」というときの大ということ、それ自体がイデアなのである。イデアは抽象そのものであって、また同時に具体そのものなのだ。』

その「永遠なる理想的原型つまりイデア」こそは、藤原肇博士の「ステロタイプ・プロトタイプ・アーキタイプ」の三層構造における「アーキタイプ」に相当するものと考えました。
その頃の私は、イデア論の具体的なイメージとして、リュカ数列を黄金比で現わした一般式の【 Ln=Φ^n +(‐φ)^n 】を考えていました。

しかし「超三段階論」の公表時点では「永遠なる理想的原型つまりイデア」は「黄金比」そのものであると確信をいたしました。
本質をロゴス即ち論理と理解すれば、ギリシャ語のロゴスの語源の示す「三つの数の関係ないしは比」は「φ:1:Φ」に違いなく、この中の一番大きい数のΦ=黄金比≒1.618こそが「大」に一致するのです。
まさに、ユーレイカ! ですね。
2015.1.28

175千々松 健:2015/02/01(日) 21:49:08
「超三段階論」の最新版をWEB上に公開しました。2015.1.18の日付が入っているものです。
http://8w1hflkm.jp/123universJE.pdf
これは宇宙を含めて天然自然を「生命智の場」として図象する試みの一つです。
▲はプラトンの「イデア」で、■はライプニッツの「モナド」で、●は色即是空の「色」に相似像です。
そして、▲>■>●のルートが演繹で、●>■>▲のルートが帰納で、●>▲のルートが逆行列的推論になりますが、仏教的な悟りあるいは正覚が、この●>▲のルートの成就に該当するようです。
また、釈迦が最後に弟子に語った『ワヤダムマーサンカーラ』が何を意味するかを考えるとき、現象と結果の●、実体と原因の■、本質と論理の▲の三つを関連させた「縁起の場」で考えること、即ちこの●▲■の超三段階論がイメージされるのです。
サンは三でカーラは神の場と読むと尚更です。
また「三種の神器」については以前から述べてきましたが、それぞれの断面で見ると、草薙の剣は▲、八咫鏡は■、勾玉は●に相当するでしょう。
旨くはいえませんが「剣で黄金分割をしてモノコトを分析し、鏡で自らの姿を映す如くに鏡面対称としての実体を認識し、結果的に現われる諸現象を理解するコト」と考えたりするのは飛躍しすぎでしょうか?

初めての方は驚くことばかりでしょうが、実はこの「超三段階論」は第三シートに相当するもので、「21世紀マンダラモデル」の第一シートと「未来を変える方程式」の第二シートが理解されるならば、より深く納得されることでしょう。
しかし、実のところ、ここ数年の間には、▲と■とは本質と実体が入れ替わった時期もありました。その点はご了承願います。
http://8w1hflkm.jp/
2015.2.1

176千々松 健:2015/03/04(水) 21:52:55
「出現する未来」原題「Presence」の中で、ピーター・センゲはゲーテを引用して「U理論」を説明しようと試みている箇所があります。p136
「これはまさにゲーテが言う『全体は部分に現われ』、『具体的で個別のもの』を通して、『その奥にあるパターンが立ち現われる』ということじゃないだろうか」
このゲーテの表現をそのまま借りて、私は「超三段階論」を説明できると考えたのです。
まず全体を現象●として把握します。全体は部分に現われ、その部分は具体的で個別のものとしての実体■になります。その実体を通して、その奥にあるパターン即ち本質▲が立ち現れるのです。(帰納ルート)
逆に辿れば、本質▲の黄金比という論理パターンがあって、その実体■のフィボナッチ数列の二乗が形成する原因を通して、現象●のトーラスという結果全体が生まれるのです。(演繹ルート)
このような二つの認識ルートを行き来するうちに、●から▲へ、あるいは▲から●へ直接的に結ぶルートに気がついたならば、それが「悟りとか正覚」になるのでしょう。
また「物質の三態」にな倣えば、固体●から気体▲へ(気体から固体へ)の昇華ルートが開発されたと呼べるでしょう。
量子力学にはなくてはならない行列数学の用語を使用するならば、それは「逆行列的推論(インヴァーティブル・アブダクション)」と呼ぶに相応しいと考えます。
大げさではなく、量子力学の父と呼ばれるハイゼンベルクの「部分と全体」や「全体性と内蔵秩序」でボームの云いたかったことは、今ではこのように三つの基本図形と関係性の中で、易しい代数と幾何を使って説明が付くのです。
http://8w1hflkm.jp/123universJE.pdf
http://8w1hflkm.jp/21st.Century.Mandala1206.pdf
2015.3.4

177藤原肇:2015/09/25(金) 10:38:06
水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読んだ。
第一章や第二章を読んでいた段階では、素晴らしい理論の展開に感嘆して、流石に漱石の未完の作品の「明暗」を展開して「続・明暗」を書き、日本の男のレベルでは真似のできない仕事をした人だけあって、大した才能を発揮していると感銘を受け呆然とした。
英語嫌いでアメリカでの留学時代はフランス文学を専攻し、米国の大学で優れた学生を相手にして教えただけあり、水村さんの見識と国際感覚は絶大であり、これだけの女性を持つ日本は大したものだと嬉しくなった。これは五つ星でなく七つ星を付けたいと思った。
特にパリで行われた日本の近代文学に関してのシンポジウムで、彼女が「二つの時間」について行ったスピーチは、こんなことを世界に向かって普遍語で言える日本人は、加藤周一さんくらいしかいないだろうと感じて、凄い女性が光の都に登場したと思った。
そして、この「日本語が亡びるとき」という挑発的な本一冊だけでも、十数冊の膨大なローマ帝国について書いたイタリア在住の日本女性の本より、はるかに優れていると感動したほどだった。
人生のほとんどを海外遍歴で過ごしただけでなく、若かった十代に日本の文学に熱中しただけあって、水村さんの筆法は唸らせる叡智を含み、格調高い日本語の表現力は、まともな日本語も喋れない男たちが首相になる国の現状からしても、掃き溜めの鶴の爽やかさがあった。
だが、文学を論じていた間は黄金の輝きを持っていたのに、小説一般や言語論に話題が拡散するにつれて、普遍言語議論やコンピュータ言語になった途端に、黄金の下に真鍮が見えるようになり、第六章や第七章に読み進めるに従って、傍線を引く箇所が減ってしまったので、本当は5つ星なのだが涙を呑んで4星にした。私が余白に書き込んだコメントを参考までに書いてみると、「水村さんは、Ilove only you.とI only love you.を翻訳できるコンピュータのソフトを人間が作れるとお考えですか」ということだ。あるいは、「見渡せば、山もと霞む水瀬川、夕べは秋となに思いけん」というような歌を訳すソフトなどは、人間の脳の外には存在しえないのではないか。この辺までの部分はアマゾンの書評に投稿して置いたが、以下はつれずれに書き加えてみる。

178藤原肇:2015/09/25(金) 10:44:23
177の後半部が長すぎると撥ねられたので続きを以下に記す。
著者は言語(Language)の問題を一般化して、普遍語(Universal)、現地語(Local)、国語(National)の三種に分けて、英語を普遍語として論じているが、それは文学者特有の思い込みに過ぎないもので、問題の立て方がおかしくないか。文学や小説などの言語としてのLa Langueを論じるつもりであるならば、文語(Litteraire)、一般語(Popuraire)、俗語(Vulgaire)を使うべきであり、その時に英語は一般語の範疇に入る。論文や散文ならある程度いい加減でも良いが、哲学や宗教では英語は語彙が不足し、詩のレベルでの翻訳は困難になるからだ。しかも、数学レベルならプロトコールを作れても、幾何学にはとても利用し得ないのは、超無限には人間は挑み得ないのであり、社会科学や文化系の人には分り難いだろうが、幾何学がMetalanguageだからである。
コンピュータなどで英語が君臨し蔓延しているが、英語がLingua francaになり得ないことは、ハンバーグとポテトチップがfoodsのレベルで広まっていても、それで料理の問題を論じられないように、普及と普遍は取り違え得ないのである。しかも、これだけ文学に精通している著者だのに、トリックスターについて偏狭な捉え方をしているのを見て、いささか驚きの印象を持たざるを得なかったが、文科系の発想の限界がそこにあり、勇み足をすると足を踏み外すことになる。
それに、日本人は劣等感を持つので称賛しているが、ドナルド・キーンやサイデン・ステッカー程度の英訳で「源氏物語」や「芭蕉七部集」を読むよりは、選ばれた日本の優れた女子高校生の感受性に従った方が、はるかにまともだし、幸田露伴の考察や堀田善衛の「方丈記私記」を読むに限ると私には思える。戦争の時に暗号解読や防諜に駆り出されて、リニア発想で訓練された翻訳家たちには、カービリニアの世界の理解が難しい上に、ネイティブの感受性にはかなわないし、翻訳はあくまでも近似的なものであり、本物に接近したものに過ぎないからである。
また、後になって丸山真男と加藤周一の「翻訳と日本の近代」を読んだら、普遍語について論じた部分があったが、幾ら英語が君臨しても彼らは英語を普遍言語として扱っていないし、「文学は一種の私事」とか「今言をもって古言を解してはいけない」と薀蓄のある発言をしていたので安心した。しかも、釈迦を始め孔子やキリストにしても、最も重要な発言は著書などになっておらず、弟子や第三者が書いたものの行間を読むだけでなく、書いてないことを読み抜くところに決め手になっているのである。
だから、書かれたことや喋られたことは抜け殻であり、国語で書かれた文学などは幻影の一つで、大自然が物語るストリーの偉大さを知る者にとっては、テレビや日本のメディアの汚い日本語のせいで、日本語は既に死んでいると見切りをつけている。それは国会での討論の愚劣さからして明白だし、日本の文学作品のレベルのお粗末さは芥川賞を見れば明白であり、小説類は題字を見るだけでも目を濯ぎたくなるほどである。
しかも、喜寿を迎えようとしているのに、何が日本語の規範かが見当もつかず、「私は人間である」が主語と述語で構成されている、膠着語の日本語の文体だと思っているのに、「私は 人間である」という最近の文章を読むにつけ、何がまともな日本語か私には見当がつかないのである。

179藤原肇:2015/09/25(金) 13:38:54
20年以上も昔の話になるが、1994年1月号の「ニューリーダー」の誌上で、小室直樹博士と「意味論オンチが日本を亡ぼす」と題した対談を行った。憶えている人がいるかどうか分らないが、その時に以下のような議論を行った。
藤原:小室さんとお会いして対談するのは久しぶりで、今から十数年前に、『脱ニッポン型思考のすすめ』を出したとき以来ですね。
小室:あの頃は「脱ニッポン」なんて言うと異端者扱いだったが、今ではそういう本が続々ベストセラーになっている。最近は日本の方がおかしくなって潰れかけているが、それにしても、あの頃から今までこの国はよくもったものだ(笑)・・・・
藤原:特にここで強調しなければならないのは、潰れかけている原因が“セマンティックス(意味論)”にあり、日本人に意味論が分かっていないことだ。われわれは共にヨーロッパ派に属する日本人だとも言えるが、小室さんはやはりドイツ派で、著書の中にガイスト(精神)どかゲミュート(情緒)なんて単語が続々と使われている。ぼくはフランス派でドイツ語は口に合わないから、あんな野蛮な言葉は誰が喋るものかと思っている。だから、あなたの本を読むたびに鳥肌を立てている(笑)・・・・
小室:ドイツ語はバーバリアン(野蛮人)の言葉だという劣等感は、ドイツ人自身が抱いているんだ(笑)。
藤原:こんな話がある。フランス王が「私は神様と対話するときにはスペイン語で、人間と話すときはフランス語を操り、馬と喋るときはドイツ語を使う。犬と喋るときには英語で、若い娘にはイタリア語で話しかける」と言ったとか。ぼくはアメリカ人に「どうして英語で著書を書かないのか」と聞かれたらこの話を引用して、「犬に使う言葉で書くのは気がすすまないし、フランス語だと日本語の五倍も時間がかかり、アメリカの美徳の能率に反する」と答えると丁解する。要するに、アメリカ人は理路整然とした話なら納得するんだが、日本人は腹芸でやるし気分が先に立つ。だから、日本人は最も親密なはずのアメリカ人のみならず、世界中ともコミュニケーションができないでいる。
小室:コミュニケーションが成立していないことにさえ気がついていない。・・・・

この発言をした直後に小室さんの顔がこわばり、一分以上も横を向いて口を開かずに、不機嫌に沈黙していたことが今になると懐かしい。あの頃の私は表現が未熟だったので、あんな言い方をしてしまったが、今なら自分の言葉として「私は神様と対話する時にはスペイン語で、淑女にはイタリア語で話しかけ、マドモアゼルと話す場合はフランス語を操る。また、犬と喋るときはドイツ語を使うし、コンピュータを相手にするときには英語を利用する」と言っているだろうと思う。
夏目漱石、水村美苗、藤原肇の三人は。英語が嫌いな三角関係の日本人で、そのくせ漱石は英語が嫌で府立一中から二松学舎で漢学をやって、それからロンドンに留学して英文学者になっている。また、水村さんは米国でフランス文学を専攻しただけでなく20年以上も住んでいるし、私は高校で英語を忌避したのに、フランスではTEロレンスを読むために英文学科に入学して、アメリカに30年以上も住んだつむじ曲がりであり、言うならば英語嫌いの三羽烏みたいな日本人に属している。だから、英語の帝国主義的な君臨に対しては、それとなく反発を感じてしまうのだが、江戸っ子の私と漱石を置き去りにして、水村さんが英語を普遍語だと持ち上げたために、私は言わずもがなの発言をしてしまったのであった。これも秋の夜長の「徒然草」であろうか。

180藤原肇:2015/10/31(土) 09:49:16

ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』を読むと、ケルト族の生態にまつわることが沢山出てくるし、あれだけの名将の彼が悪戦苦戦した模様が、克明に記録されていて実に楽しい。
また、ケルト族に関しては鶴岡真弓さんの『黄金の生命』が素晴らしい内容を持つので、それに触れたいが自分で密かに楽しむのがこの本の真骨頂だから、ヨーロッパ文化の基盤はケルトにあることを指摘するだけで、読後感に関しては差し控えることにしたい。
そして、今日はハロウィーンの日であり、これはケルトの収穫祭の風習の名残で、クリスマスと同じでそれをキリスト教が簒奪して、諸聖人の日(All Hallows eve)が訛ったというが、北欧人の新年の前夜の大晦日でもある。
この大晦日は子供たちが大好きであり、Jack-0-Lanternに蝋燭をともして祝うが、海外生活を半世紀も体験した私にとっては、毎年のように私の誕生日を子供たちが可愛い声を張り上げて祝ってくれたので,嬉しい思い出が山のようにある。
しかも、大晦日から新年への境界線の意味論は、ツアラストラの巻物を読むまでもなく、善悪、白黒,陰陽、日月、正負、明暗などの特異点であり、これはトーラスで言えば空の中心でもある。

そして、私のホロコスミックス理論で空の英訳を若気の至りでというか、出来合いの言葉を使いNothingnessと書いてしまったが、本当はKuunessという言葉を使いたかったと告白したい。
だが、Kuunessなどと書くと空の説明が必要になるので、解説が大嫌いな私にとっては面倒なことになるので、お粗末だし嫌悪している直訳英語を使ってしまったのである。
それでも、私の『般若心経』の理解では色は人間の世界であり、あの盤石と信じられて来た数学の世界でさえ、公理と公準に従って天下不動と信じられてきたのに、非ユークリッド幾何学の登場で数学的な不確実性が支配し始めた。
そうなると、空は色に表しえない逆や対偶を含めた総てを意味しているので、この百年にも一兆年にも一度しかない記念すべき喜寿の日を期して、ギリシア語で何が来るかは知らないが、フランス語的に表記すればKououté になるので、そのコンピュータ言語としてKuunessという用語をお披露目したいと考えるのである。

181千々松 健:2015/11/02(月) 22:47:08
博士の喜寿を祝うと同時に「空=Kuuness」の命名に寄せて

空=Kuuness「クウネス」をカタカムナ思念で読み解くと【引き寄せる 生まれ出る 充電される 一方向へ進む】となります。参考:吉野信子「カタカムナ 言霊の超法則」徳間書店
●を色、▲を空と考えて「色即是空」を●から逆行列的推論で▲を直観するルートとみるならば、帰納法的ルート・演繹法的ルート上には■が実体として必要で、それを「色不異空・空不異色」
と述べたのです。
そのように考えるに至った例の●▲■の超三段階論から、更に動態幾何学を駆使してイメージを働かせるならば次のようなことが見えてくるに違いありません。
0次元:先ず、創造の主すなわち御柱を真上から観ると点となるので「0次元」と呼び、空とします。 【クウネス】
1次元:次に、その御柱を真横から見て、神聖比例に分割して行きます。φ:1:Φ 【ロゴス】
2次元:次に、神聖比例そのものを数値として認識し、行と列に置き二次平面に展開させます。対角線には二乗数が観られます。【レゲイン】
3次元:次に、二次平面に展開されたものを、(mod 9)で処理して、縦横を繋げれば、循環するドーナツ状が出現する。【トーラス】
また、クウネスをカタカムナ思念の数で計算すると11+19+46+29=108の数となります。それは除夜の鐘に撞く108ですし、9×12=108でもあります。
『全ての者が0次元に引き寄せられて、神聖比例が生まれ出て、縦横に充電されて、対角線上を一方向きに進む。
しかし、決して拡散して消え去るのではなく、メビウスの輪の如く終わりも始めも無く螺旋を描いて循環し、バランスして観える』
と考察すれば、この『Kuuness』そのものが博士の考えておられる『生命智』と言えるのではないでしょうか。
2015.11.3

182藤原肇:2015/11/03(火) 16:14:26
 空(Kuu)をフランス語風の発音に改めKououと書くと、語感としては鳥のカッコウ(Coucou)に似てしまい、奇妙で落ち着きの悪い言葉になり、KとCを足して二で割り、キメラで名詞を作るとKououté という変な言葉が生まれる。カッコウ(Coucou)は英語だとKuckooでスペイン語ではCucoで、この言葉はオノマトペで郭公という鳥の鳴き声から来ている。
同時にKuckoo頭がおかしい意味する俗語だが、それ以下の卑語としては頭がくるくるパーを表し、アメリカではKuckoo’s nestは精神病院を表す。だから、アカデミー賞をとった映画のOne Flew over the Cuckoo‘s nestには、痛烈な皮肉とメタファーがこめられ、精神分裂病は今では統合失調症と変名しているが、意識と無意識が同一時空に混在する症状を指している。
これからは連想ゲームになるが,その延長上に書かれた本にKuckoo’s Eggという本もあり、これはコンピュータのセキュリティを扱い、ハッカーを追い詰めるストリーだ。それにしても、コンピュータが未だ普及していない頃だったが、ハッカー問題をだけも知らない時代に、元ハッカーの手による警世の書として出たこの本には、信じられないことが沢山書いてあった。
セキュリティの問題は暗号解読と密着していて、それは素数が重要な役割を演じるが、それに関心を持ったのはカナダ時代で、『暗号解読』という本はその後に書き直して『暗号戦争の時代』という本になっている。
「宇宙の多次元構造の図」を最初に公表したのは、1984年に出した『無謀な挑戦』であり、その時に宇宙の上に宇宙システムを置き、素粒子の下にコスミック素子を置いたことで、それがホロコスミックスという私の宇宙概念の誕生を生んだ。それまでの宇宙論は宇宙から微小な素粒子で終わっていたが、宇宙は宇宙システムのサブシステムだという理解がある。
また、この宇宙システムの導入によって、その彼方にある仏教思想の空と結びつくことが出き、それがメビウスの輪で無に繋がり,道教が好む無が特異点という宇宙観として完成し、複素数空間で構成される概念図になった。
そんな模式図を著書に書いたために、いろんな声が「藤原はKuckooだ」と言ったらしいが、私はそれをCoucoutéと聞き流して、Kououté のことを言っているのだから,暫くの間は無のNothingnessにして置こうと考えて、二十世紀はCrazyな世紀だと諦めていた。
だが、誰か若い人が二十世紀が終わるまでに、アインシュタインの相対性理論に対して、その欠陥を指摘して欲しいと待っていたが、誰もそれをしてくれなかったので仕方なく、ホロコスミックスとしてまとめて国際環境大学の紀要に寄稿したら、二十世紀の最後の年にそれが活字になった。また、台湾に招かれて行った講演の原稿が、『生命知の殿堂』の中に収録されたのだが、残念ながらその図はKuunessではなくて、昔の Emptinessのままだったので、ここに喜寿を期し改めてKuunessに直すことを記録しておくことにした。

183千々松 健:2015/11/03(火) 22:46:51
11月3日の文化の日は、11を1+1=2と見ると、1,1,2,3となり、1,1,2,3,5,8,13,21、のフィボナッチ数列が思い浮かびます。
勿論、1月12日、11月2日、11月23日などの日の方が、そのものの並びで適当ではないかと思われるでしょう。
しかし、ひふみ算で11を1+1=2と計算するところが重要で、『二つを統合して次に置け』という大宇宙の法則であるフトマニのアルゴリズムを読み取ることに意味があるのです。

かつて『アレクサンドリア』というスペイン映画でテオン(ユークリドの原論を編纂した学者で、映画の主人公ヒュパティアの父)が、ある問題を出して『226の場合は4である』とサラット答えている場面があり、ずっと気になっていました。
それはまさに、2+2は4である。2,2,4,6,10,16、と言うフィボナッチ数列の倍数を考えなさいという意味でもあった訳です。
日本文化に相応しいということで、11月3日は「ふとまに数列の日」としたいと思います。
2015.11.3 文化の日に因んで

184藤原肇:2015/11/04(水) 00:52:44
ダブルLucky7の喜寿を迎える日の前後は、滅茶苦茶に忙しい状態で過ごしたために、#180では空の英訳をEmptinessと書くべきなのにNothingnessと書いてしまい、#182では自分の著書名を間違えており、『インテリジェンス戦争の時代』とすべきところを『暗号戦争の時代』と書いたのは、ことによるとアルツハイマーが始まったかと疑いたくなるほどだ。
でも、一年半前に日本で襲われて殺されかけたとはいえ、それにしても良く生き延びて、ここまで来たのは目出度いと感謝すべきかも知れない。
実は76歳の最後の日のランチを一緒にした人は、カンボジア人の優秀な青年であり、翌日が私の誕生日だと言ったら手を打って、シャヌーク元国王と同じ日だと言われ、奇妙な一致だと不思議な気になった。彼は九州大学で経済学を学んでから名古屋大学で修士を終え、現在はプノンペンの三井物産のマネジャーをしているが、彼に日本の経済学者で誰を尊敬するかと聞いたら岩井克人さんの名前が出た。
そこで思うことがあって彼に『虚妄からの脱出』をプレゼントしたかったのに、残念なことに手元に本がなくて渡せなかったが、これは30年間のアメリカ生活において、私の知的贈り物として名刺代わりに手渡してきた秘密の本であった。
この本は私と藤井先生との出会いの縁結びの神様だし、漢方や易の本を専門に出していた東明社が社会の漢方薬として、読書界に送り出して貰った記念すべき本であり、後半のページには英文記事が二編収録されている。
一人で社長兼編集長兼雑用掛だった吉田社長のお蔭で、その後十冊余りの拙著が東明社から生まれたが、この英文記事がついた『虚妄からの脱出』は世界で出会った多くの人はもちろん、特にテキサスを中心に石油ビジネスを経営するオイルマンたちに手渡している。
そのお蔭でテキサスで石油開発をした最初の日本人として、私の人生の夢の実現の陰の力になったのだった。今ではアマゾンでも古書として見つけるのが難しいが、日本文の記事は1976年に経済誌の『国際経済』が連載したもので、何でも好きなことを好きな長さで書いて欲しいと言われて,意気を感じて執筆した若書きの作品だった。
だから、ハーバードにいたライシャワー名誉教授からは、「藤原さんが言いたい放題に近い発言をしている背景に、山師精神があった秘密が分かった」と言われたし、石油開発の弁証法と題した記事で、医療制度と石油開発の相似象を論じた記事があったことが縁になり、藤井先生が20冊買って下さった縁で銀座内科を訪れた時の顛末が、私の本の中では天頂に等しい『間脳幻想』誕生の契機になった状況について「まえがき」として興奮した記録が残っている。
『虚妄からの脱出』になって誕生したこの本は、かなり大胆な発言で構成されていたので出版に難航し、時事通信で出た『日本丸は沈没する』に続いて出たら順当のはずだったが、それが実現出来なかった。そこで『日本不沈の条件』の「あとがき」に、「この本の前に一書があるのだが、事情でこちらが先に出た」と書いたところ、それを読んだ吉田さんから原稿を読ませて欲しいと手紙が届いた。そこで送ったところ「出したい」という返事が届き、どんな本を出している出版社化と問い合わせたら、「漢方薬の本を出しているが、人間ではなく社会の漢方薬として出したい」という返事だった。
1970年代というのはこんな時代であり、今のように売れる本しか出版されない腐った時代と違い,あの頃の日本には未だ出版精神が生きていた。
そんなこともあり、本当は『虚妄からの脱出』をプレゼントしたかったが、手元にないので参考資料として「宇宙巡礼」のサイトの「論文」でオリジナルが読める、ORGANIZATIONAL STRUCTURE OF THE OIL INDUSTRYと題した記事のコピーをカンボジアの青年にプレゼントしたのだった。なぜか。

185藤原肇:2015/11/04(水) 21:18:02
これはなぜかという問いに対してのヒントで、アマゾンにおける掲載された書評です。

5つ星のうち5.0
起業家よりも企業家になる人に推薦したい名著だが画龍点睛もある

岩井克人先生の『会社はこれからどうなるか』という本は、資本主義経済の発展史への目配りがあり、商業資本主義から産業資本主義を経て、ポスト資本主義について丁寧に論じている。
そして、現在が産業資本主義からポストの時代に移行し、その中で法人としての会社の役割と機能について論じ、会社は誰のものかについて分かりやすく解説している。
しかも、米国流の株主主権論の卓越に対して、それはデファクトにしても標準にならないと論証し、ヒトとモノの違いを近代の人権宣言と結び、法人の持つ意義について誰にでも分かるように説明している。流石は学校の先生である。
青色申告という日本的な税制のせいで、誰でも会社の法人を登記して社長になり、公私混同が横行している日本では、岩井先生が解きほぐした法人の意味について、再認識した方がいいと考えるので、日本でビジネスしている人に私はこの本を読むように勧めてきた。
だから、その点で本書に五つ星を提供したい。
また、ずいぶん昔の話だがソ連が崩壊した直後に、日本が誇る思想家の柄谷行人さんと対談を行い、確か『終わりなき世界』という本の中で鮮やかな論陣を張り健闘していたので、岩井さんは信用できる学者だと確信したからである。
私はアメリカに30年プロフェショナルとして住み、1980年代の10年間はベンチャービジネスを経営し、企業家としての体験を持っているので、信任(Fiduciary)と契約(Contract)の違いに基づく、経営者の倫理と責任感の問題の議論と共に、コア・コンピタンスについての論調が最も卓絶しており、多くの日本の優れた人に参考になるはずだと感じた。
ネオコン政治の影響で弱肉強食の金儲け主義が蔓延し,日本人もその潮流に乗って押し流され、会社乗っ取りやIPO(上場)が流行して、経済活動が拝金主義に毒されている。
こうした時代性の中で、本書には起業家は登場しても企業家が登場せず、ビル・ゲーツを始めホリエモンやエンロンが論じられ、シューペンターやドラッカーが存在を称賛した企業家への言及がないので、私の五つ星にはマイナスがついている。
なぜならば、日本ではアメリカ流の成功者としてソフトバンクの孫正義やオリックスの宮内社長が、新時代の成功者として脚光を浴びている。だが、彼らは起業家であっても企業家ではなく、限りなく詐欺ビジネスに近い点では、ホリエモンの仲間に過ぎないからである。
また、これは文中の引用だから黙認すべきだろうが、岩井先生ともあろう人が産業構造を論じるに際して、222pで一次産業や二次産業という静的で幼稚な,70年ほど前にクラーク教授が作った時代遅れの用語を使い、それに対して修正も提案していないのを見て惜しいことだと思った。
卓越した「不均衡動態理論」を展開した冴えた頭脳の持ち主ならば、産業構造の根幹に触れるこの産業の定義こそ、先ず、改めてから議論に取り組むべきではないかと思ったからである。

186藤原肇:2015/11/07(土) 10:32:20
前掲のような経済問題の核心に触れる書評を書き、経済活動と密着する人生を歩み出したのは、半世紀近い昔の留学生時代だったので、古い話だがその頃の体験について振り返って見たい。私がフランスに留学したのは1960年代で、その頃の日本は池田内閣の経済振興政策で活気づき、戦後からの脱却に全力を傾けていたが、外貨準備は乏しくて資金の欠乏に悩み、いかに外貨を稼ぐかが大問題だった。
だから、海外渡航は制限されていたために、観光旅行はご法度で制限されていて、外貨の持ち出しは一人$500ドルであり、腹巻に一万円札を忍ばせて持ち出す状態だったが、円が外貨に交換できるのは香港とスイスだけだった。
時間を遡って当時の横浜を思い出すと、ソ連の客船「オルジョニキッゼ号」に乗り、デッキから別れのテープを投げ、見送りに人に来た家族や友人に、出発の挨拶を送っていた姿がある。当時の日本は未だ貧しかったので、外国に出るのには厳しい制限があって、持ち出せる外貨は500ドルだし、私も腹巻に十枚くらい聖徳太子の札を忍ばせていたと思う。。
しかも、航空運賃は非常に高かったので、最も安くヨーロッパに行くには、横浜から船でウラジオストックに行き、そこからシベリア鉄道に乗って、二日がかりでナホトカに行ってから、飛行機でモスクワ空港まで飛ぶ。そして、二日かかりでドイツのケルンまで行き、乗り換えてスイスのバーゼルに出て、再び乗り換えてジュネーブ経由で、目的地のグルノーブルにたどり着く。
これが24歳の私がたどった旅程であり、グルノーブルに着いた翌日には、フランス山岳会グルノーブル支部を訪れて、会員に登録を済ませていたように、学生になるより山に登ることが本命だった。
それに、フランス語は中学生の頃からの独学でやり、発音が汚いので高校では英語を忌避し、大学入試もフランス語だった上に、大学授業には出ないで外国語は免除で、フランス語には自信があったのに、知っていることを教授が言えば分かっても、未知のことは全く理解できなくて困った。
だから、修士課程の頃の私は数時間の睡眠という、厳しい授業環境のために時間が乏しく、好みの文学書を読む時間もなかった。
だが、博士課程になった時には時間的余裕が生まれ、最初に何回か通訳の仕事をした後で、資源問題について三井物産のコンサルタントになり、ヨーロッパやアフリカで資源開発に関して、多くの興味深い仕事を体験した。
当時の日本のエネルギー問題は、石炭から石油への転換期であり、独仏の石炭掘削の最新技術の導入のために、多くの日本の炭鉱が視察に来たり、ダム建設やトンネル掘削の新技術を求めていたし、アフリカの鉱産資源を求めていた。

187藤原肇:2015/11/08(日) 11:04:49

特に石炭の炭田の現地視察の場所は、独仏国境の丘陵地帯を始め、オーストリア東部からウクライナにかけて、谷や丘陵が連なる奇妙な地帯であり、興味深いことに昔から激戦があった戦場地帯だった。なぜならば、日露戦争の203高地や桶狭間のように、丘や狭間は戦闘上の要地であるし、そこには要塞が作られていた。
そうした場所を幾度か何か所も訪れているうちに、戦争の歴史が生き生きと再現して、歩兵や騎兵の配置について見当がつき始め、自分が指揮官ならこんな配陣だと考え、自然に兵用地誌のカンが育つようになり、地政学への関心と向学心が生まれた。
そして、戦争の多くが土地と資源の奪い合いであり、その主役が王様と貴族であり、敵兵を捕虜にして奴隷にすることが、古代の支配者のビジネスだったと理解した。
しかも、アダム・スミスは分業の重要性を強調して、工場制の産業と労働を観察し、英国の経済社会と富について論じたが、地域格差を使う商業活動について、重商主義の時代を紹介した程度で、専ら資金を投下して工場を作り、大きな富の蓄積を『国富論』に書いている。また、オランダから英国に両親が移り住んだ、
ユダヤ人であるリカドーの経済学は、労働価値説の比較優位説であり、これは労働集約の産業が主体で、エネルギー源は食料だったから、貿易による取引に注目したものだった。
当時の英国は労働者を奴隷扱いしていて、子供まで一日12時間労働でこき使い、賃金は食べるのに精いっぱいであり、悲惨な社会が君臨していたことは、ディッケンズの小説が活写している通りだ。
だから、「穀物条例」が政治問題になったし、ナポレオンの大陸封鎖が行われたのだし、産業革命が大陸諸国に波及して、1848年の一連の革命が起きたのは、食糧問題が最大の懸案だったからだ。
ユダヤ人のマルクスは大英図書館を使い、資料を読み漁って『資本論』の草稿を書き、搾取や疎外の克服のために必要な、階級闘争の戦術論をまとめている。
だが、被支配階級にとって最大の課題は、搾取による労働者の貧困の問題があったし、それが階級闘争と結びついたにしても、そこに問題の総てを集約してしまった。
だから、搾取されたプロレタリアの救済に、千年王国の実現を夢見たのだが、奴隷貿易の問題を含めなかったのは、彼らがユダヤ人として出身基盤の歴史からして、奴隷ビジネスをしていた過去には、触れたくなかったのは当然の心理だったし、至って当然の帰結だったのである。
そんなことに気付くようになったのは、ヨーロッパを一歩離れて地中海を越え、アフリカの世界に足を踏み込んで、そこに残された歴史の足跡を知り、歴史とはこんなものだと理解できたお蔭だった。

188千々松 健:2015/11/08(日) 22:00:46
<一部に重複するところがありますが、ご了承願います>
空=Kuunessをカタカムナ思念で読み解けば【引き寄せる 生まれ出る 充電される 一方向へ進む】となります。
『全ての物事が一度、引き寄せられて(0次元)、次に黄金分割され神聖比例が生まれ出て(1次元)、99算表の如く縦横に展開、充電されて(2次元)、マトリックスの対角線上を一方向へ突き進み増殖するが、
法を9とするモジュラー算術により、メビウスの輪の如く終わりも始めもなく、陰陽太極図のような二重螺旋を描いて循環するトーラスとなる(3次元)。』
ここまでが Kuuness「クウネス」をカタカムナを活用して拡大解釈したものです。

次元に関して言えば、これらに時間を加えて5次元世界といえます。(0次元もカウントします)
そして、コンパクト化される6次元を加えると超ひも理論やM理論で云う11次元世界に相当するでしょう。
そのコンパクト化される6次元を説明するためのヒントは『オイラーの合同式の定理』のなかに在ります。
【 n^6≡1(mod 9)】 但し nは3の倍数でないとき、nが3,6,9の場合は右辺は全て0となる。
3の倍数ではない整数の6乗数は、9を法とするモジュラー算術(9に特別の意味を持たせた、ひふみ算・カバラ算に同じ)では、全てが1となる。
このように考察を進めれば、藤原肇博士の『Kuuness』は万物理論になり、アインシュタインを凌駕して、まさに「神の数学」に出会うことになるのです。
2015.11.8

189藤原肇:2015/11/10(火) 10:13:34
一方でアフリカや中東の資源開発では、サハラ砂漠の南縁地域で仕事をし、そこに象牙海岸や奴隷海岸などがあり、奴隷や象牙が商品として価値を持ち、そこに古い経済活動の足跡を発見して、奴隷貿易で蓄積した富を使い、産業革命の資金の蓄積の実態に気付いた。
しかも、形の上で奴隷取引は王様の利権で、特許で行う仕事の現場責任者として、汚れ役をしたのは下層階級の異教徒として、ユダヤ人が引き受けていたことが分かり出した。この事実は重要な隠し事になり、経済学では触れてはいけないタブーだから、オランダから英国に移住したユダヤ人で、経済学の元祖のリカードを筆頭にして、ユダヤ人の経済学者は恥を封印したのである。
アフリカでの体験で学んだこととして、ここは未だ植民地主義と帝国主義が、厳然として生き残っている世界であり、後になってフォーサイスが描いた、『戦争の犬』が動き回っていたし、情報作戦と諜報工作が猛威を振るい、安心も油断もできない場所だと痛感した。
私が体験したアッパーボルタでは、銅や金を採掘している会社が、金をアマルガムにして偽って持ち出し、ヨーロッパで精錬して金を分離し、滅茶苦茶な収奪をしているのを探知した。しかも、現地政府には金に関して微量と報告し、十数パーセントのアマルガンから金を抜き取り、その差額を丸儲けしていたのだ。
また、セシル・ローズの植民政策で明らかだが、英国の帝国主義はアフリカを食い荒らし、ナイジェリアでは石油利権の収奪で、ビアフラ戦争が炸裂しようとしていた。
しかも、日本の会社のコンソリチウムを作り、鉱山開発をしようと乗り出すのを感知して、米英資本がそれを乗っ取ろうと狙い、CIA絡みのクーデター工作が進み、命あっての物種だ考えて逃げ、こんな世界は自分に不似合だと思った。
日本には単独で海外進出する会社は、当時の実力では存在しなかったので、いつもコンソリチュームを作って進出したから、いろんな会社との仕事を経験した。私は岩登りをやるから総て体験だと考えて、炭田の切羽や急峻なダムの現場でも、喜んでそこに行って現地調査を買って出たが、ネクタイを締めた商社マンには、そんな汚れ役を好む人はいないから、危険地帯ほど私の担当分野になった。
だから、ハードウエアの買い付けの段階になると、資源問題のプロの私がいたので、三菱系でも住友系の会社でも、機械設備ヤノウハウの購入に際して、総て三井物産から買う傾向があった。その後になって系列という言葉が流行り、それが日本経済の強みだと言われたが、私の目にはそれは逆の表面現象で、商社マンにプロが存在しないために、実力ではなく仲間のよしみに頼るに過ぎず、他人を信用できない甘えの構造だと思った。
しかも、傍観者としての視線で眺めると、優秀な商社マンほど転職を考え、チャンスを掴みたいと苦労していたから、日本の会社で仕事をする気はなかった。だから、後になり学位を取って就職の段階で、主任だとか部長並みの給料とか、いろんな面白い内容の提案があったが、カネや地位のために仕事をやる気はなく、世界で未だ武者修行が必要だと考えて、当時のベストセラーで小田実が書いた、『何でも見てやろう』を手本に使うことに決め、何でもしてやろうと荒野を目指した。
また、サハラ砂漠の魅力に取りつかれたこともあり、「星の王子様」の世界に魅惑され、そうなると中東は次に迎える舞台になるし、地中海世界の東側に位置するので、ギリシアやトルコの古代遺跡もあるから、それほど遠い世界とは思えない。

190藤原肇:2015/11/11(水) 11:23:23

高校生の頃に白水社のクセジュ文庫に親しみ、この言葉がモンテーニュの発言で、私は何を知っているかの問いかけだから、彼の『随想録』に挑んで見たのだが、悪戦苦闘しても全く理解できなかった。だが、その中にプルタコスの『英雄伝』から、数多くの引用があったので日本語で読んだが、これまた理解が不可能に近かった。
それを思い出してフランス語で読んだら、予想外にスラスラト頭に入って、お蔭でプルタコスの『英雄伝』が読めてしまった。
ある意味で『英雄伝』は小説に近いし、暇つぶしになるタイプの本だが、ギリシァとローマを比較した分析があるために、同じ奴隷制度を持つ社会でも、質的に全く違っていたことを教えている。ローマよりもギリシアがはるかに優れ、ローマの知識人の言語はギリシア語で、ギリシァには哲学や幾何学があるし、彫刻や建築も段違いだと確認できて、ローマよりギリシアに学ぶべきだと思った。
しかも、同じ帝国でも英国よりローマの方が、はるかに優れていたのは明白だし、同じローマでも民主制の方が帝制より、ギリシアの政体を手本にしていたので、はるかにマシだという理解に達して、それまでの歴史感覚の大掃除が出きた。それなら哲理や幾何はギリシアに学び、戦争と植民政策はローマだと考え、古代遺跡の分布は地中海沿岸だから、その辺で仕事をしようと作戦を立てた。
ニースから60キロほど北に位置した、地中海から遠くない丘陵地帯が、私の地質調査の仕事場になって、そこに四年間もテントを張り、地質構造の解明のために明け暮れた。カステランヌの町は白亜の石灰岩に囲まれ、香水の産地のグラスの町から30kmで、カンヌから北西40kmに位置しており、実に混沌とした地質学的には穴場だった。
そこで得た不思議な生活体験によって、私の人生は大きく変化したのだが、それは実に奇妙で興味深い内容であり、半ば夢とウツツの混淆したものだった。その内容の紹介は神秘体験に似ていて、まともに語るには勇気が要るので、日を改めて物語ることにしたいと思っているが、その機会は遠くないはずである。
おりしも当時は情報革命が始まり、テレビの普及と宇宙開発の余波で、人工衛星が上空を飛び回り出して、地上の国境が持つ意味が低下し、地中海世界が中庭のように感じられ、ブロデールの『地中海』が生まれかけていた。そうなると私が得意にする世界で、アルプスからヒマラヤにかけて、今から6000万年から1億年前に、ティーティス海(古地中海)が広がり、その沿岸に恐竜が生息していたし、海にはアンモン貝が繁殖していた時代になる。
子供の頃から活字少年だったので、捕り物帳や探偵小説が大好きであり、小学生時代に謎解きに熱心だったし、色んな物を集めるのに熱中して、切手や古銭の蒐集に夢中だった。
また、東京の上野に住んでいたお蔭で、科学博物館の学生会員になって、週末には博物館の趣味の会に出席し、化石や鉱物標本に触っていたから、アンモン貝はたくさん集めていた。
そうしたことが縁になっていたので、中東での仕事では海洋民族のフェニキア人は、カルタゴやリバシリと呼ばれ,船隊やキャラバンを組んで通商する。だが、相手が強ければ商取引をするのであるが、弱いと山賊や海賊になり略奪して、それが古代経済だという理解に到った。
その極限状態が遊牧民であり、ユーラシア大陸の中心に拠点を築いた、匈奴やスキタイまた蒙古人たちは、定住民を襲って略奪するか朝貢を求め、支配して来た生態が理解でき、その観点で見ると万里の長城の建設が持つ、歴史の意味合いの納得が行った。
こうした現場調査で得た歴史感覚を元に、大学の図書館で歴史書を読んでみると、書いてある表の歴史を知ることより、何が書いてないかを探ることの方が、断然と面白いということが分かり始め、それが識ることの意味だと理解できた。

191藤原肇:2015/11/12(木) 11:19:14
こんな体験を積み重ねると同時に、岩登りに熱中していたことが役に立ち、バランス感覚があることの利点を生かし、1967年のプレオリンピックの時には、日本のリュージュ・チームの一員になり、オリンピック選手の体験をしてみた。
大部分の人はオリンピックを会場やテレビで見て、明るい会場で選手たちが競い合う、スポーツの祭典だと思い込んでいる。
だが、私が味わった選手としての体験は、朝の四時ころで零下20度くらいの時に、20Kgの木ゾリを背中に背負い、100mの標高差のある出発点まで行き、汗で全身がずぶ濡れだのに、順番が来るのを一時間以上も待ち、外気は氷点下20度の寒さだから、全身がコチコチになってしまい、これは奴隷と同じだと実感した。
奴隷貿易の秘密を知った以上は、自分が奴隷の境遇を再現してみて、こんな人生は耐えられないと思ったが、傍観者にはその苦痛は理解できない。
しかも、私は日本チームの対外窓口に位置し、各国チームの監督や保護者と会い、親しく付き合って分かったことは、彼らの多くが欧州の貴族であり、オリンピックの陰にいる支配者たちとして、王侯貴族の世界があると知って驚いた。
秘密は守られて秘密の価値があるし、それを漏らせば相手にされず、死ぬまで守るのが秘密だが、喜寿を迎えてそれも不必要になったから、ヒントの一部だけだが示しておく。
私の場合は次元の枠を飛び出し、別の世界に移るチャンスを掴んだのは、リヒテンシュタインのチームと同じホテルに滞在し、各国チームの代表と付き合い、選手として以外の活動をしたお蔭だ。そうしたら、ある日リヒテンシュタインの名誉監督が、選手を激励するためにチームを訪問し、それが皇太子だったことが始まりだった。どういう具合か仲良くなったら、仲間の集まりに来ないかと誘われ、幸運だと言うしかないことだが、とてつもない大発見に繋がった。
この段階で私は札幌市の代表を依頼され、オリンピック準備に関与していたし、ヨーロッパの裏の歴史が分かりかけており、先ずは奴隷の選手役から自分を解放して、自由の尊さを身に染みて味わっていた。そういったことの経過については、「Mountains of Dreams」にヒントを書いておいたが、その後半に当たるエピソードは、1968年のグルノーブル冬季五輪大会である。
オリンピックの主催者は自治体の市であり、国家権力には一切関係がないのは、ヨーロッパ歴史が王権と貴族の争いで、その延長上にクーベルタン男爵が、オリンピック精神を錦の御旗に掲げて、オリンピックを復活させたのだった。1648年のウェストファーリア条約によって、国際法的に国民国家が誕生し、アメリカ独立とフランス革命で、大統領制の国民国家が動き出した。
第一次大戦で主要王制が地下に潜り、貴族との秘密の連合体を構成して、いわゆる国体モナルキー体制に化け、大統領や議会制度を中心にしたものが、政体立憲体制として出現した。これは支配の二重構造であり、歴史家はハプスブルグが二重帝国というが、実は聖と俗の二重構造だけでなく,ポランニの経済人類学が明らかにした、江戸と大坂やワシントンとNYのように、政と経の二重構造は有機の世界では、実に当然な支配の原理でもあった。

192藤原肇:2015/11/13(金) 12:13:22
遊牧騎馬民族の匈奴やスキタイは、ジンギスカンのモンゴルも同じで、定住せずに夏と冬の別荘を持つシステムであり、専門用語で双分制と呼ぶようだが、二重都市を作るという性格を持っていた。町の作り方も非対称構造であり、山の手と下町にその刻印が残るが、これも遊牧民の名残らしい。その一例をポランニの弟子の栗本慎一郎は、ブタとペストの例や博多と福岡の町づくりで、見事に実証してみせたのである。
『光の都市闇の都市』は示唆に富む本で、合計で四度か五度読み返したと記憶する。
良い本は何度も繰り返し味わうものだが、一度読んだのは眺めた程度であり、二度以上は少なくとも読んだ本でなければ、読んだとは言えないという発想は、留学時代に指導教官から叩き込まれたものだ。人を介して会いたいと連絡してきて、私の読者だと名乗るような人がいるので、どの本を何度読んだかと尋ねてみると、ほとんどが一度だという返事が圧倒的だった。
そこで少なくとも三度は読んで、何について論じたいか理解してから、その上で連絡して欲しいと言えば、私は唐変木だと言うことになって、煩わせられることはなくなっていた。世の中にはそういう個性がいるし、私の本は三度読むことによって、異なるレベルのメッセージにと、到達するように構成しているつもりだし、十度も読んだとなると別の次元に属す、膜宇宙が織り込まれているのである。
だから、珪水さんのように『間脳幻想』に関し、百度近く読んだ人の前では、「出藍の誉れ」の譬えが教えているように、著者の私の方が学ぶことが多くなったりする。
自然の多層構造は複雑であり、目に見える現象界は部分に過ぎず、複素数空間の三次元投影だから、内が外で外が内になるトーラスが、入り子構造になっているだけだ。そんなことは自然を観察することで、数学的に理解できるのであり、無機の極限である宇宙の構造は、二つの焦点を持つ卵形のトーラスだし、宇宙は複素数空間で成り立っている。
善悪、白黒,陰陽、日月、正負、明暗などは、一見すると二項対立のように見えるので、ヨーロッパ系の思想家たちは、古代メソポタミアやペルシャを支配した、ミトラ教やゾロアスター経の影響により、対立概念として理解しているが、実は複素数空間の表面的な理解に過ぎない。
文明の基底として古層を作るシュメール人と、古代巨石文明を残した人について、きちんとした学問が成立していないので、未知のことが余りにも多いようだが、それは21世紀の学問の課題になっている。

193藤原肇:2015/11/16(月) 12:49:54
ここで学生時代の奇妙な体験として、一種の悟りに似た感覚になった前史に、小学生の頃の思い出の影響があるので、その紹介から始めることにする。小学校の下級生だった頃の記憶に、1 + 1 = 2 の数式が納得できず、先生から叱られて反発したことがある。
砂糖 1 リットルに水 1リットル加えても、それが 2リットルにならないと抗議して、先生に詰まらないことを言うなと叱られた。例外の発見が好きだった私は、色んな光景の中に適合しそうなものを探し、狼一匹と子羊一匹を一緒にしたら、一日後に狼が子羊を食べてしまえば、1 + 1 = 2にならないと思い当たり、その主張もダメだと否定された。
私のロジックは無残に拒絶され、仕方なく1 + 1 = 2の式を受け入れて覚えたが、爽やかな気分にはなれなかった。
似たような経験は高校時代にもあり、ニュートンの万有引力の法則は二体問題としては有効であっても、三体問題には役に立たないと考え、ニュートンは間違っていると言って、物理の教師から変人呼ばわりされた。それが大きなトラウマになって、物理嫌いの高校生が誕生し、教科書より自然を相手にしたので、それが博物学への道に繋がった。
しかも、大学を卒業する時にもトラブルで、悪夢に似た経験が私にはあって、 日本の大学で書いた卒業論文は、優れたとして自然博物館から、奨学金を受けるほどの内容だった、だが、学界の権威者に刃向った形になり、物議を生みだすものとして扱われてしまったが、それはある大学の有名教授が博士論文を書いた、同じ地域において地質調査をしたものだった。
ところが、その博士論文は恩賜賞を受賞しており、日本の学界では良く知られたもだったので、こんな卒論を書いたせいで反逆者扱いになった。
山登りが得意だった私としては、沢では胸まで水に濡れて遡行し、崖をよじ登って山の中を歩き回ったので、自然を丹念に観察した結論としては、大教授の博士論文が逆立ちしているもので、見えやすい道路沿いの調査だったから、不完全を招いたと結論になっていた。
だから、この仕事は日本の学界においては、避けるべきタイプのものに属し、特に天皇が評価して授けた賞に対して、結果としてケチをつけたと見なされてしまい、重大な反逆行為だとされてしまった。
それに加えて、私は新種の化石を発見したので、それを学術雑誌に投稿したら、新発見として活字になったのは良いが、私が地質学会の会員ではなく、投稿資格がないことが発覚してしまい、譴責処分の扱いを受けてしまった。私が犯したこの二つの逸脱的な行為は、封建的な日本のアカデミーにおいては、絶対に容認されるものではなく、未来は閉ざされたに等しかったのである。
しかも、東京オリンピックの主催者として、都知事になろうとした東竜太郎という東大医学部の教授が、ニセ証紙を使い不正選挙で都知事になったので、江戸っ子としての私はこんなインチキ選挙に反発した。そこで親父の乗用車のトランクの背に、「不正選挙をした男を都知事として認めない」という看板を付け、それを付けて都内を運転したために、親父は警察から徹底的な嫌がらせを受けた。
そのことは『オリンピアン幻想』の中に記録が残っているが、こんな汚れた国にいるのは不愉快だから、脱藩しようと覚悟を決めて日本を出たことが関係していた。これも若き日の反逆精神の結果かも知れないが、納得いかないことは受け入れたくなかったのである。

194藤原肇:2015/11/18(水) 13:27:57

こんな悪夢に似たことの積み重ねで、フランスで新天地を開いていた私は、1 + 1 = 2にならない例の再来として、素晴らしい体験を味わったが、それはフランスに留学して三年目の夏で、この時は覚然としたものであり、生涯を貫く貴重な経験として記憶に定着した。 そこは地中海に近い海岸アルプスであり、ニースやカンヌの北50キロほどに連なる、白い石灰岩が東西方向に延びて、南面は崖を作り北面に向け、緩やかな斜面を作る牧歌的な台地だった。
また、変幻自在の気象条件に支配されて、石灰岩台地の午後の前半は快適で、軽い昼寝を存分に楽しめる高原でもある。三日に一度くらいの頻度だったが、光と影を織りなす饗宴の果てに、夕刻近くになめと夕立が襲って来た。しかも、時には激しい雷雨を伴うのに、石灰岩地帯には雨宿りする場所もなく、大きな温度差が発生している中で、激しい雨に濡れ続けなければならなくなる。
東西に40Kmで南北に20Kmの幅を持ち、その中にほぼ10位の村が散在しており、放牧と小規模の農場があるような地区が、私が地質調査を行った場所であった。村はずれの小高い場所の隅に、農民から許可を得て黄色いテントを張って、夏になるとそこに住んで昼間は調査し、夜はテントで寝る生活を私は4年ほど続けた。

何とも不思議な巡り合わせだったが、地中海に近い石灰岩台地の上で、午睡から目覚めた時に味わった体験は、宇宙観を変えるほど凄まじい衝撃を伴うものであり、それが今の私の自然観を構成した。 その時に味わった衝撃的な体験は、ある意味では他愛のないものだが、野生のラヴェンダーの香りに包まれ、午睡からの目覚めの茫洋として気分で、天空を見上げ無限に思いを馳せた。
仰向けに寝転がっていた私は、幾つかの浮雲が漂っているのを見上げて、こんな雲を林芙美子は自分の人生を託し、自伝小説に『浮雲』の題をつけたのかと思った。大空の南半分は抜けるような青空で、残りの半分の北側は入道雲が広がり、積乱雲と青空の中間部に私は位置し、漂っている浮雲を見上げていたのだ。
そんなことを思って大空を見上げ、漂い移る浮雲の下面が灰色だと感じ、それを何となく眺めているうちに、いつの間にか意識が消えていた。そして、ふと目覚めて再び空を見上げると、大きな雲が一つとその周辺に、五つほどの綿雲が漂っていたので、1足す5だから6だと数えていた。
だが、それも瞬間的な目覚めだったらしく、再び眠りの中に落ち込んでしまい、次に目覚めて空を見上げた時には、小さな綿雲は一つに固まって浮雲になり、前にあった大きな浮雲と並び、二つの浮雲が大空に漂っていた。「1+5=6」だったのに「1+1=2」になったという、そんな考えが一瞬だが頭の中を横切り、再び私は眠りの中に落ち込んだ。
次に微睡から目覚めた時の私は、目をこすって大空を見上げ、以前は離れて漂っていた二つの雲が、目の前で一つになっていたのを見て、「1 + 1 =1」だという閃きに貫かれており、これは大自然の教えだと感じた。だが、それもつかの間の出来事に過ぎず、自然には不合理があると感じたが、そのまま再び眠りに落ち込んでしまった。
暫くするとひんやりとした大粒の雨が、パラパラという感じで落ちて来て、顔で感じた冷たさで目覚めた私は、呆然と空を見上げると雲は姿を消しており、僅かな時間のうちに何万という雨粒で、全身がすっかりずぶ濡れになっていた。
これは「1 + 1 =0」どころの騒ぎではなく、ゼロになった雲から雨粒が吹き出し、何万どころか何億もの雨と霧に変化して、今度は水流になって流れ下っていた。

195千々松 健:2015/11/18(水) 22:44:54
スイス高原のハイジの如くに、寝転んで空を眺めていた若き藤原肇博士が、浮雲の数で不思議なイメージを伝えてくださいましたコトに感謝いたします。
1+1=2からは 1,1,2,3,5,8,13,21,34はフィボナッチ数列が生まれ、mod 9で一桁化すると、1,1、8,8のぞろ目が特徴のフィボナッチ(F)系列になります。
1+5=6からは 1,5,6,11,17,28,45,73,118,191、は???数列ですが、同様に一桁化すると、1,5,6,2,8,1,0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,(1,5,6、)24で循環するF系列になります。
従って、1+5=6と1+1=2のフトマニ数列群は【FMn≡FLKMchain(mod 9)】のなかではFchainで共通です。
1+1=1からは 『創造の主すなわち御柱を真上から観ると点となるので「0次元」と呼び、空とします』と述べたように、点の上に点を加えても一つの点に過ぎないということが判ります。
更に、1+1=0は難解でしたが【e^iπ=-1】のオイラー等式から、1+(-e^iπ)=0をイメージすれば、1+1=0、1+0=1、0+1=1、1+1=2、1+2=3、2+3=5、となりやはりF系列になるのです。

神聖比例やフィボナッチ数列の大切さを教示して下さったハイジ、いやハイムに乾杯!
見上げる「そら」と空哲学の「くう」は共に「空」ですが、藤原肇博士の『Kuuness』は真に万物理論です。
2015.11.18

196藤原肇:2015/11/19(木) 09:46:56
この水が示す不思議な層の変化は、どういう次第だか分らなかったが、多次元の階層構造として私を急襲して、脳裏を包んで広がるイメージが、不思議な世界にと私を誘導していた。それは宇宙の彼方の上位相まで登り、宇宙を宇宙システムの側から見れば、宇宙はサブシステムだという考えだった。
数刻の昼寝の後で顔にひんやりと感じて、見開いて空を見上げ直した私の目に、重なった雲の塊りの変異を見て、私は宇宙について悟ったと意識した。 暫くは断続的な降り方だったが、そのうち驟雨という印象を伴い、30秒か数分ほど雨が降り続いて、私の全身は水浸しになった。
だが、あっという間に雨脚が消え去ってしまい、再び午後の太陽が燦々と輝き、私はキツネに抓まれた感じだった。おそらく全体で20分か25分の間に、昼寝からずぶ濡れまでの出来事が、私の周辺で起きたに違いないし、奇妙な体験の刷り込みになっていた。
二つの浮雲が重なって一つになり、それが雲散霧消して雨粒化し、最初は数滴だった雨が豪雨になって、無限に近い雨粒を誕生させ、暫くすると雨は止んで晴れ上がった中で、日没前の夕日が燦然と照り輝く。これは至って見慣れた自然の営みであり、地球の大気内での水の循環が、私の周辺で起きたことに過ぎず、何の変哲もない自然現象だのに、目覚めを通じた覚醒作用と言えた。
この体験を通じて強く感じたことは、空が空虚ではなく充実であり、何でも総てが存在しているだけでなく、宇宙システムの彼方に「空」が見え、その一部として末端に自分がいるのを眺め、目から鱗が落ちた印象を伴っていた。 その時に閃いた「空」のイメージは、仏教の究極思想の「空」の実態が、それまで考えた何もないのではなく、総てが満ち満ちた状態のことであり、裏返しに似た実に奇妙な感覚だった。
それまでの「空」についての理解は、私が座禅や禅問答を通じて学び取った、本質の不在や幻影の感覚と結びつき、夢や幻に似た捉え所のないものだったが、この日の体験で総てが逆転したのである。

総てのものは実体を持たなかったし、「空」は生じも減じもしない上に、他によってのみ存在する縁起で、相依に基づく関係性である。だから、高校生の頃から形容に陶酔して、「空即是色、色即是空」を暗唱し、表現の魅力の虜になっていた感覚が、私にとっての「空」のイメージだった。 ところが、この日に見取った「空」の感じは、空っぽではなく満ち満ちており、何かが無限に詰まった実体で、予想を超えた充実感を伴い、表と裏が逆転した実に奇妙な印象を与えた。
それまで「空」は煩悩を消し去り、空白に白光が照らす悟りの境地で、それを般若と呼ぶと信じ込み、五感を超越する境地を考えていた。だが、純白ではなく満ちているのであれば、「色即是空」でなく「色即是色」であるし、「空即是空」であるのも空観だから、これがKuunessになると分った。
この不思議な違和感は衝撃的であり、「空」が幻影や虚像などではないし、何もないという「無」とも違い、「無」の対極に位置すると同時に、「無」ではないが「有」も超えて、無限の彼方に「空」が広がると思った。満ちているのになぜ「空」と呼んで、それを虚しいものと思うのは、どうしても受け入れることが困難に思え、何か対案がないかと思索して、思案の末にたどり着いたのが、生噛りではあるがギリシア哲学の世界で、ピタゴラスが秘密にした秘数の世界だった。

197千々松 健:2015/11/20(金) 00:07:02
『良い音楽に親しむことによって、人間の魂は浄化されるが、それは音楽が均整のとれた音階に基づいており、調和と対称性が魂を安定させる』と2500年前にピタゴラスが言い残していると「間脳幻想」に藤原肇博士は書かれています。
また、F.カプラは「タオ自然学」の中で『「華厳経」の中心テーマは、すべての物質・事象の統一性と相互関係性である。この考え方は、東洋の世界観の本質そのものであるのみならず、現代物理学によって明らかにされつつある世界観の基本的諸要素の一つでもある。』と述べています。
そのカプラ自身は鈴木大拙に大きな影響を受けていたようです。何と「タオ自然学」は工作舎から出ていた本で松岡正剛が編集していました。(ここまでは、2008年に書き込みしたものを再編集したものです)

その書き込みからもう7年が経過しました。調和と対称性、華厳経や空海の重々帝網、南方熊楠の南方マンダラ、鈴木大拙が仙厓の●▲■書をThe Universeと名づけていたことなどを総合して観ると、この秋「真善美と神聖数理学」として提示した古くて新しきコトの意義が見えてくるかも知れません。
『色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』を●▲■の超三段階論で説けば、前半は「いろとそら」で、後半は「しきとくう」と読み、前半は帰納法と、演繹法のレベルで、後半は逆行列的推論ないしは量子力学的直観レベルである。
そのレベルでは「空」は決して虚しかったり、無などとは遠く、全てを貫いて満ち満ちて存在している神聖比例という実質であるのです。そして、神聖比例が動詞化してフィボナッチ数列や、その二次元化から「神聖方陣」(フィボナッチ数列ひふみ九九算表)が実在となり、その陰陽調和と対称性から、更にはトーラスが実現するという流れなのです。
それらを全て包含したものが、藤原肇博士の『Kuuness』に相当するのではないかと考えるに至りました。
http://8w1hflkm.jp/123univers_02.jpg
2015.11.19

198藤原肇:2015/11/20(金) 10:48:58
ユーラシア大陸の主人公は遊牧民であり、彼らは官僚主義と無関係だったから、文字は必要ないので持たなかったし、歴史としての記録は残さなかったが、定着して農耕で富を蓄積するのではなく、移動して交換か略奪を営みにしていた。
だから、略奪や泥棒を含む経済理論がなければ、互酬(Reciprocity)や贈り物経済として、ポトラッチ(Potlatch)や略奪(Plunder)が、経済活動としては理解ができない。
古代奴隷制度はその一環だったのだし、王様や貴族のビジネスは戦争で、土地や生物は富と通貨の役割を演じており、その延長に戦争や奴隷制があった。だが、それを総体として歴史を書きづらいから、部分にばらして断片化して誤魔化し、歴史は戦争史として記録したのだが、経済はそれを政治や歴史に任せ、経済の問題からは排除して来たのだった。
また、嫌なことを黙殺しただけでなく、水や空気を始め扱いが難しいものは、外部経済として無視することで、経済活動を現象学の枠に入れて、いかにも科学らしい偽装を施し、経済学としての体裁を作っていた。
それを実感したのは学位を取ってから、水に関してのシンクタンクに潜り込んだら、運命の女神の奇妙な気紛れのお蔭で、サウジアラビアの国土改造計画として、水を掘る大事業の中に組み込まれ、遊牧民の世界を体験したのだった。
そして、アラブやトルコの遊牧民たちの生活基盤に、移動と結んだ交易と略奪があり、それが植民地主義の時代に制圧されたが、帝国主義の終焉の中で復活を遂げ、中東支配の原動力として働き、二十世紀を石油の世紀にしたし、中東を世界の火薬庫にしていたのだった。
1968年のサウジはファイサル国王が君臨し、未だ石油大国になる前の状態で、国王は多数の遊牧民を持っていたが、季節によってイラクやイエメンに、砂漠を横切って移動してしまうのから、国民が欲しいと希望していた。
遊牧民を定着させるには水が必要で、昔からオアシスの存在が決め手である。国土改造計画を引き受けていたので、アラビア半島を八つの地域に分割して、オアシスや水利工事などを推進した結果、首都のリャドから400Kmほど北西で、素晴らしい飲料水を発見したのが事の始まりだった。
世界最大口径の56インチのパイプラインを建設し、首都の水の確保を提案したのに対して、あれだけの名君のファイサル国王が、「われわれにはアラーがついている。
そんな遠くからではなく町の地下から水を出せ」と言った以上は、会社としてアラーを信じる王様に楯突くことは出来なかった。
会社としてはそれから後はビジネスであり、地質学的には帯水層がないのは分っていても、町の近くで井戸を掘らざるを得なかった。
ビジネスのためには科学的な理性は無視されるし、金儲けが主体になるのが植民地主義だから、三年間も井戸を幾ら掘っても飲料水はなく、出るのは温泉や汚染水ばかりだった。

そして、いよいよ行き詰まりに近くなった段階で、日本人の私が現場主任として送り込まれて、苦境に陥った仕事の尻拭い役をしたのに、脇が甘かった私は事の重要性に未だ気づかないでいた。
そして、目の前で起きた人間のパターン変化で、やっとここも植民地政策の舞台だと,遅ればせながら気づいて当惑したのだった。
気が付かなかったのは私だけであり、私と親しく付き合ったヨーロッパ人にとっては、日本人がフランスの組織で働いており、豊かなアフリカ体験を持ちサウジで仕事をすることが、意味を持たないわけがないと考えたに違いない。

199藤原肇:2015/11/21(土) 08:44:21
当時のサウジは未だ鎖国状態だったので、誰でも安易に入国は出来なかったが、私は会社の持つ信用と実力に庇護されて、この奇妙な砂漠の王国に踏み入った。私の身元引受人は農業大臣をやるプリンスで、入国と同時にパスポートを彼が預かったために、私の一存では出国できない状態になった。だから、私が何か不都合とされる状況になった時には、彼が全責任を取るのは当然にしても、逃げ出せなくなったという意味では、私は人質になっているのに等しかった。
毎週金曜には町の時計の広場において、泥棒の手を切断する処刑とか、姦通の罪人を掘った穴の中に入れ、首だけを出して石を投げ、殺すようなことが行われており、過去の時代に迷い込んだようで、異人体験を通じて文化ショックを味わった。また、サウジ人が誇ってやるような仕事は、役人になるか運転手役の二種類だけであり、手仕事は奴隷のものとされて、出稼ぎの外国人が従事していた。また、「目には目、歯には歯」に従い、車を運転してサウジ人を撥ねた時には、同じ車で撥ねられる刑が下されるので、運転はしないようにとの注意を受けた。
会社は私に家を一軒と自動車を二台、一台はプジョウの乗用車で、もう一台はトヨタのランドクルザーだが、それに運転手を二人つけてくれ、食事は勝手にやるようにと、無制限の経費の使用を認めてくれた。その意味では19世紀の植民地において、支配者たちが得たのと似た待遇を受け、彼らが味わったことの追体験したことで、古い英仏型の植民地支配の実態を知り、こんなことだったのかと納得したのだった、
首都のリャドは未だ作りかけの状態で、近代的なホテルは町に二軒あり、空港前のサファリ・ホテルが主役を演じ、町の中心のインターコンチネンタルは,内部改装のために休業中で閉まっていた。だから、朝昼晩の三度の食事は空港まで走り、サハラ・ホテルの食堂で取ったが、宴会場では時々だが閣議があって、大臣が集まるようなことがあった。そのせいでこのホテルは首都において,最も要人が集まる場所だったし、ロビーは外国人が良く顔を出していた。
そのうち幾人かと親しくなり、一緒のテーブルで食事をする仲間として、意見の交換や議論をしたが、これは欧州では当然の社交術に属している。文明開化と共に日本人は欧米人の真似をして、アジア諸国に出掛けて植民政策を試み、抑圧と侵略の歴史を刻印として残した。また、アフリカでは日本の商社活動の一環として、一足遅れの資源開発に従事したことで、私自身が欧米人の利害と張り合った挙句に、彼らの持つ情報と諜報の威力に圧倒され、足を洗ってまともな科学者の道を路線に選び、水のシンクタンクで人生を踏み出していた。
そして、派遣されたサウジでの国土改造計画で、英国人の銀行マネジャー、ドイツ人の大学教授やイタリア人の技術者などが、一緒に食事をする親しい仲間になり、和気藹々とした雰囲気を味わいながら、異郷での生活を快適に満喫していた。時にはプリンスの駱駝牧場を訪れ、別の時には砂漠にジープで乗りだして、絢爛豪華な日没の饗宴を楽しんだりした。

しかも、近くの国の王族や土侯が訪れ、何十人もの親族や従卒が付き添い、大量のお供まで連れてきた時には、ホテルの泊り客は追い出され、町の中の木賃宿に群れを成して移動する。そして、ホテルの玄関は厳めしい近衛兵が、客の出入りをチェックするし、「郷に入れば郷に従う」のが礼儀で、砂漠の掟は礼節に関してとても厳格である。
それを見て幕末の「生麦事件」を思い出し、近衛兵は軽機関銃を持つので、切り捨て御免ならぬ射殺される事態が、わが身に起きないよう最初は配慮した。だが、慣れとは恐ろしいものであり、そのうちそんな心配はしなくなっていて、過去の遺風が支配するこの国に、すっかり馴染んだのも不思議だが、ここはアフリカよりも安全に思えた。

200藤原肇:2015/11/22(日) 08:27:44
こんな生活パターンがある日とつぜん変り、私の周辺で起きた急激な変化によって、弛緩していた私の頭は強い衝撃を受けた。いつもは一緒のテーブルを囲んでいたのに、戦争勃発という断片的な情報と共に、そんな噂で各人が別々の行動をお越したのを目撃して、私は強烈な違和感に襲撃された。後で調べたら八月も末に近かったが、ヨーロッパで戦争が始まったという噂が流れ、その後の一日は情報が全く途絶し、何が何だかさっぱり分らなくなった。それはソ連軍の戦車がチェコスロバキアに雪崩れ込み、いわゆる「プラハの春」の炎が燃え上がり、ヨーロッパが騒然とした事件だった。
しかも、ソ連軍とワルシャワ機構軍がプラハを占領して、戦争らしいという噂が流れた途端に、私の周辺に集まっていた紳士たちが、普通とは違ったパターンで動いたので、彼らが情報関係者だという理解になった。そして、親しく付き合っていた友人たちの多くが、民間人のカバーの下にサウジで仕事をし、諜報関係者だという事実に私が気づいて、迂闊だったことを思い知ったのである。彼らも私を仲間に属す人間と考えて、サウジに来ているのだと判断して接近し、私の動きを観察していたに違いなかった。何しろ、日本人がフランスの会社で仕事をし、サウジで資源問題を担当しているとなれば、奇妙な男だと思われても当然だのに、私はそうした疑念に対して余りにも鈍感だった。
そうなると私が働いている現地事務所が、どんな役割を果たしているかが気になり、フランス系の組織であることに、私の疑問の推察が広がり出した。リャド事務所のマネジャーは頭が良く、家族住まいでこの町に四年滞在し、現地の事情に関して予想以上に精通していた。ブドウから葡萄酒を密造していた彼は、時には家庭料理に招いてくれたが、ある日の会話で徴兵の話をした時に、彼がかつて海軍にいた話を物語っていた。また、十日に一度はフランスから飛んで来て、現地での指揮を執っている副社長は、英語がペラペラで辣腕だったので、過去を聞いたら海軍士官だとのことだった。
どこの国でも共通な人的性格の特徴は、情報関係で辣腕の人材の多くが、世界を知る海軍出身者だという点であり、これは誰でもが知る常識的なことだ。それはメカや言葉に強いだけでなく、技術指向の上にスマートだから、情報収集には最適な人材であり、例外的な日本人で大学を出たての私を除いて、皆がその筋と繋がったプロに違いなかった。
そうなるとここに長居は無用だが、パスポートがないので人質同然だし、どうやって脱出するかについて考え、市場や砂漠を無闇に歩きまわった。アラブ世界特有の市場に陣取る商店は、間口が3m程度の小さな店構えだが、商品を山のように積んだ店の奥には、決まったように大きな金庫があり、その中には何百万円の札束が山積みだった。しかも、そのほとんどがシリア人かレバノン商人で、その上にはエジプト人やトルコ人が、顔役として君臨するパターンがあった。商人や職人のほとんどが外部の者で、外から来た者が市場でカネと結びつき、国内で支配している人間関係の主役は、奢りと恩の貸し借りが主役であり、まるで江戸時代や明治のころの日本の風習に似た、互酬や手土産の世界が支配していた。
気前の良さと面倒見の良さが評価され、家族や親戚関係の中に招き入れられたので、たちまちのうちに知り合いが増えて、私には皆が同じようにしか見えないのに、相手は私を至って簡単に識別するし、日本人ということで皆が煩いほど近づいて来た。しかも、私が独断で温泉を汲み出すことを着想し、小さな人造の池を砂漠に作ったところ、町の人が集まって溜まり場になった。それはテレビでアメリカの急流の場面を見て、水の持つ迫力に感動したことから、私は水を汲みだす小型ポンプを取り付け、水を汲みだしたら数日後に出現した小さな池だった。それが農業大臣に歓迎されただけでなく、この池の話がファイサル国王にまで伝えられ、もっと池を作れと激励される始末で、気まぐれがビジネスに結びついた。
会社にとっては新しい商売の種になり、飲み水を生産できない不始末よりも、小さな思い付きが手柄になって、私は会社にとって貢献したことになる。そんな偶然の「怪我の功名」もあって、私が水を掘る男だと知り尊敬されたので、得意な気分に支配された状態にいた。なにしろ、どこに行っても歓待された理由は、コカコーラ1本の値段で石油が20本分も買え、水の値段が石油の20倍以上もしており、ここでは水が価値の根源だったからである。

201藤原肇:2015/11/23(月) 08:23:10
そんな状況が関係していたこともあり、私は石油の重要性をすっかり忘れ、石油は幾らでも安く変えるし、無限に存在するものだと思い込み、自分が扱う水の価値ばかりを考えていた。そんな私の頭に冷水を浴びせたのが、サファリ・ホテルの食堂で知り合った、大臣になって数年後のザキ・ヤマニだった。私より五年くらい年上だった彼は、未だ30代後半で人付き合いが良く、長いアメリカでの留学生活で開放的だし、物静かで礼儀を知るベドウィンだ。親しくなった関係で訪ねて来いといわれ、石油鉱山省(ペトロミン)に彼の部屋を訪ねた時に、エジプト人の顧問を紹介されて、私が掘る水はサウジでは貴重だが、石油の方が世界全体で価値が大きく、将来性があるから石油に移れば、日本人の私にとって面白いことが、いろんな形で出来るとスカウトされた。
しかも、かつてザキが関係した仕事の中に、コカコーラでの体験があったが、そんな仕事より石油がはるかに面白く、私に向いているのだとおだてられ、その時に初めて石油の重要性に気がついた。
だが、地球のストレスの構造地質を専攻し、層位学をベースに学位を取っていたが、私には石油地質学の基礎素養がなく、石油地質は理学よりも工学に近くいし、アメリカ人が開拓した分野であった。だから、そう簡単に移ろうとしてもそう簡単ではないのは、内科医としての訓練を受けた医者が、外科医としての仕事に取り組もうとしても、別の種類の訓練が必要なように、専門が違うと分らない分野に関しては無力で、万能というわけには行かなくなる。また、戦争で言えばサウジは戦闘を行う現場であり、私としては兵用地誌の修業をした上で、三宅坂の参謀本部で作戦や戦略を立て、指揮をするのが最適の人生コースになる。そうなると修行のためには大西洋を横断し、アメリカに渡る必要がある上に、石油会社で基礎訓練をきちんと受けて、オイルマンになる体験が必要である。
こんなことを連日のように思い悩んでいても、サウジから脱出することが出来ないままに、人質状態が続いている限りでは、私には次のステップへの突破口が開かない。
そんな時に閃いたのが「アラビアのロレンス」で、フランス留学の直前に見たこの映画は、巨大なスクリーンに砂漠の映像が、実に印象深い形で描き出されていた。その舞台はサウジの砂漠だったし、現に私はそこに閉じ込められていて、中東における植民地主義の歴史が、現に目の前で影響を及ぼしており、サウジの政治状況は当時と大差がない。また、博士論文の仕事に必要だったので、私は無税措置で英国製の車を買い、二年後に税金を払う状況に直面し、自動車の売却法に頭を悩ませていた。トルコなら高く売れるという情報が、私にとって魅力的に思われたために、三週間ほどの自動車旅行を試み、ユーゴ経由でギリシアを通ってトルコに入り、ベルガマからイズミールまで行った。
だが、誰もフランスで登録した車を買う人はなく、再びフランスに舞い戻った経験から、中東についての土地感は持ち合わせ、ロレンスの足跡は理解したつもりでいた。この映画のシーンの美しさだけでなく、渡仏前の私を大きく魅惑したので、中野好夫の『アラビアのロレンス』は、暗誦するほど繰り返し読み込んでいた。英国とフランスは中東で覇権を争っており、そこにドイツとロシアが手を伸ばし、青年トルコ党が台頭した第一次大戦前の歴史に、一時の私は熱中したものだった。だから、東京の母にこの岩波新書の発送を頼み、スイスとフランスにいる友人に、T・E・ロレンスに関しての著書と、中東の政治史について書いた本を買い集め、大至急リャドに送って欲しいと依頼して、本が届くとそれを熟読して作戦を立てた。

202千々松 健:2015/11/23(月) 23:32:31
本日11月23日は勤労感謝の日です。元はといえば新嘗祭という五穀豊穣に感謝する日でした。
また、私的には11月3日と共にフィボナッチ数列の日または「フトマニの日」です。
それを記念して「真善美と神聖数理学」-黄金比ふとまにアルゴリズム-を24枚のpdfで公開しました。

特に23枚目は最新のものです。Φの累乗数列はリュカ(ルカ)数列に近似し、その二次平面化をmod 9処理するとやはり神聖方陣が出現し、
FLKMの四つの系列が観られます。フィボナッチ数列以外のあらゆるフトマニ数列群で二次平面が出来るということになります。
ただし、フィボナッチ数列を3倍したK系列の二次平面は全て0となります。
この0は「空」ですが、9に満ちて溢れていて、丁度余りが無いと言う意味です。藤原肇博士の『Kuuness』に相当するものかも知れません。
http://8w1hflkm.jp/1123Cosmos1.pdf
*博士の「第二 山岳誌」に割り込むカタチで済みません。
2015.11.23

203藤原肇:2015/11/24(火) 09:37:19
サウジアラビアからの脱出を目的にして、大急ぎで取り組んだ中東の政治史だが、そこで「サイクス・ピコ協定」や「バルフォア宣言」など、英国の三枚舌外交の実態につい知ったことで、自分が置かれた立場が良く分った。しかも、T・E・ロレンスが落胆し激高した、シリアとアルメニアはフランスの手で、メソポタミアは英軍が軍政を敷く、現在に至る中東の分割案の弊害が、いかに尾を引いているかが納得できたし、これが使えそうだと思い当たった。
そこで、フランス語版のT・E・ロレンスの本を使い、マネジャーに意味の説明を求めて、それを何度か繰り返しているうちに、相手は私の読書に関心を持ち始めた。そこで、フランスと英国の関心が中東の権益にあり、私がそれに気づいているのだと仄めかして、それとなく警鐘のメッセージを送った。それを露骨に表せば命が危ないのは当然だし、そんなケースは本で読んでいたので、ボタンを掛け違えないように慎重にやり、心理作戦を着実に推し進めた結果、ある日マネジャーから呼び出された。
そして、「これは明後日の航空券と君のパスポートだ。フランスに帰って会社に行くように」と申し渡された。そのプロセスは実に紳士的だったのであり、私への配慮が鄭重さに満ちていたのは、困難だった入社の時に市長を始めとして、オリンピック関係で知り合った貴族たちが、私の推薦者として後押しをしてくれ、上層部で話がついていたお蔭だった。
僅か三か月の興味深い体験だったが、私のサウジ脱出の試みは無事に成功し、ベイルートで一泊してジュネーブに飛び、汽車でグルノーブルに着いて、それまで考えもしなかったのに、翌朝に会社で辞職の手続きをした。それはジュネーブからの汽車の旅において、間違って一等車に乗ったことにより、尾行されていたことが分ったからだ。
だが、それをその場で気づかないまま、グルノーブルのホテルで真夜中に気付き、思わずぞっとして苦い思いを噛みしめ、急遽そんな決断までしてしまった。

204藤原肇:2015/11/24(火) 10:06:18
フランスに戻ってからの数週間は、余りにも目まぐるしい変化が続き、何がどういう順序で起きたかについて、記憶がはっきりしない状態が続いた。おりしも秋の新学期が始まっており、三か月間の給料はスイスの銀行に、会社が払い込んで手つかずだったし、一年は楽に暮らせる蓄積が出来ていたから、私はT・E・ロレンスの『智慧の七本柱』を読むために、文学部の英文学科に学士入学することにして、リハビを兼ねて世界情勢を研究することにした。
また、私のフランスへの帰還の実現に合わせるように、日本から新妻が駆けつけて来た時には、市長が市役所で結婚式をしてくれ、彼女がコンセルバトワールに入ったので、フランス語の通訳として付いて行き、ソルフェージュを一緒に学んだりして、目の回るような多忙な日が続いた。しかも、英文学科のクラスは30人の生徒だったが、そのうち28人は女学生であり、そこに満ちた女性ホルモンと新婚生活で、サウジの社会と全く様変わりだった。
何しろ、サウジでの三か月間に見た女性の顔は、事務所の秘書のレバノン女性を除き、僅か一人か二人だったことからしても、男ばかりだったサウジに較べると、確かにフランスは女性が元気いっぱいで、眩いほどに照り輝いている世界だった。
日本の会社がコンゴで鉱山を開くので、仕事をしないかという話を始め、資源に関連した仕事の提案があったが、サウジで知った石油の価値に較べ、魅力としては格段劣っているように思え、転じるなら石油以外にはなかった。何しろ、二十世紀は石油の世紀だったし、地上最大のビジネスが石油であり、第一次大戦も第二次世界大戦においても、石油が戦争の行方を決定づけたし、それに従って船舶や航空機が発達した上に、政治と経済を動かしたことが分り、この世界は挑戦に値すると確信が固まった。
そうなると石油会社に潜り込んで、その実力の持つ秘密を探り出す必要があるが、今の実力では次の選択を間違えれば、ボタンのはめ間違いになる恐れがあり、水から油への転向はそう簡単ではない。
先ずは身近な人に相談することで、指導教授のアドバイスを受けたら、フランスで石油地質での王道として、パリの高等石油研究学院があり、そこの教授を紹介するから会って来いという。急遽マルメゾンにある石油学院に行き、どうすべきかのアドバイスを受け、石油井戸の掘削現場での仕事が、最も手っ取り早いことが分ったので、即断即決で人生航路を切り替えた。
しかも、教授の推薦で臨時雇いの形で現場に直行し、ピレネー山脈の裾野での天然ガスを掘る、フランスの会社で働くことを決め、単身でスペイン国境に向かったが、これが結婚から五週間目の出来事で、三週間の仕事で一週間が休みだった。
石油の掘削現場は12時間勤務であり、厳冬の現場の仕事は大変だったが、二か月の体験で仕事の要領をマスターした。そこはルルドの聖泉に近かったので、何度も現地を訪れて水について調べ、地質との関係を検討していたら、英国の石油会社(BP)の米国の子会社が、北米最大の油田を発見したので、アラスカは大ブームだという話を耳にした。
そうなると急いでアメリカに渡って、石油開発に取り組まない限りは、バスに乗り遅れるという気持ちになり、フランスを立ち去ることを考えた。だが、アメリカに関しての知識は乏しいし、実務経験の不足は目に余るほどで、どうしようかと考えている最中に、折から大陸棚での石油開発が始まり、その話題が新聞種になって報道された。その瞬間に閃いたのが新体験として、大陸棚での石油開発の経験を財産にして、アメリカに渡ることを思い付き、下請け会社に潜り込めば良いと思い当たった。
かつて読んだ伝記のエピソードの中に、ピヨートル皇帝は変名で使節団に参加し、オランダの造船所で職工として働き、若き日の鮎川義介が渡米した時には、見習い工として製鉄所に潜り込み、技術を学んだという話が思い浮かんだ。彼らが試みた苦労に較べてみたら、私の過去の経験は恵まれ過ぎていて、とても苦労と呼ぶに値しないが、思い切って下請け会社に出掛けて行き、肩書を偽って仕事を手に入れた。お蔭でアドリア海と北海でのプラットホームで、海洋開発の実務体験を身に付け、イタリアのアジップとオランダのシェルの現場で、仕事をした実績が経歴に加わった。

205藤原肇:2015/11/25(水) 07:45:40
ツキに恵まれた時は面白いもので、北米に行きたいと思っていた時に、母校の地質研究所から耳寄りな話が届き、カナダのケベック政府の役人が、地質のプロを探しスカウトに来たという。その頃はケベックの独立が取り沙汰され、ドゴール大統領がそれを煽ったので、フランス語圏のケベック政府は、フランス系の人材の確保に力を入れ、資源関係の仕事をする人間に対し、賓客として特別な待遇を用意しているという。
私の国籍は日本人であるが、フランスで学位を取った人間への待遇は、フランス人と同じになるから、応募すれば絶対にチャンスだと皆が言う。そこで応募したら特別なビサが出て、何時でも好きな時に好みの方法で、カナダに来てくださいと言われた。そこでチャンスを捕まえようと考えた私は、もっとフランスに住みたいという妻を説得し、スイスでトヨタの新車を無税で買ってから、大西洋航路の客船でモントリオールに渡り、そこで一か月ほど住み心地を試した。
だが、ケベック州の主体は鉱業であり、石油開発の中心はカルガリーだから、西部のアルバータ州に行かないと、石油開発の仕事に従事できない。そこで朝から晩までの運転を五日し続けて、やっとロッキー山脈の裾野に着き、カルガリーの町に落ち着いたというのに、私としてはアラスカに心が逸やった。また、日本の丸善石油からの推薦があって、パートナーのユニオン石油に行き、副社長に面会してアラスカ行を頼んだら、カナダで暫く働いて北極方面を知り、その後で決めた方が良いと説得されたので、ユニオン石油で働くことになった。
私の担当はフロンチア方面であり、北極圏の北米大陸とシベリアだから、そのために人工衛星の写真解析に加え、北極海の多島群島の現地調査が、新しい守備範囲ということになり、それは地球の二割も占める地域であった。その上にプルドホ・ベイの石油を運び出し、潜水艦タンカーで東部海岸に持って行く、そんな計画まで担当させられたので、アメリカ流の物量作戦の巨大なスケールに、思わず目を見張らされたのだった。

206藤原肇:2015/11/26(木) 11:49:15
この段階では全く意識していなかったが、大西洋を横断して北米大陸に渡り、カナダから世界を展望できたことは、運命の女神による導きにしても、幸運の一語に尽きる選択になっていた。
なぜならば、19世紀から20世紀にかけては、文明の動きに二つの潮流があり、源流はメソポタミアやギリシアでも、ヨーロッパから大西洋を越えると、ブリタニカからアメリカーナに、覇権の流れがあった歴史が記録されている。
しかも、一つはハプスブルグの二重帝国が、ブタペストとウィーンを経由して、パリからロンドンを抜けてから、アメリカに至るソフトパワーの大動脈だ。
その脇をロシアからプラハを経て、パリやロンドンを経由する流れと共に、地中海のベニスからミラノを通り、パリ経由でロはドンを経由で大西洋を横断し、アメリカに至る流れも存在する。
ウィーンやプラハは大陸的で寒いから、シカゴに向けて流れがちだが、ベニスやパリはロンドンと共に、海洋パワーの伝統を持つので、国際的なニューヨークを目指して進み、港町にたどりついて定着する流れがある。
この傾向はユダヤ人の移動ルートに適応出来て、アシュケナジ系は寒いシカゴと整合的だし、セフファラダム系はニューヨークで、国際派として活躍する傾向が見られた。
しかも、カナダは英国の王党派の砦だし、コモンウエルスの正統メンバーとして、同じ自由でもリベラルを好むし、アメリカの自由はフリーダムであると、カナダに住んだことで私は理解した。
しかも、日本人の99%は太平洋を渡って、アメリカの土を踏んでいるが、私は例外的に大西洋を船に乗って横切り、アメリカに行く前にカナダで生活し、十年も住む人生が舞い込む僥倖に恵まれ、「急がば回れ」の実現を果たせた。
また、当時の世界情勢は冷戦時代だったから、アメリカはソ連を仮想敵国としており、包囲網を作って対決路線を推進していたので、カナダからシベリアを観察したから、衛星写真の解析をするというメリットは、地質的にカナダとシベリアは地続きだし、地の利の面で理想的な場所であった。

207藤原肇:2015/11/27(金) 09:57:07
【休憩室 2】
シカゴ大学の役割とノーベル経済学賞のペテン性
://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/newleader100501.htm
藤井先生からシカゴ大学の医学部には、ドーパミンとセロトニンの研究に関して、世界一の先生がいると教わったので、聴講生になり薫陶を受けたいと思っていた。そんな時に娘が高校生になるので、彼女をフランスから呼び寄せて、アメリカの高校で教育してから、私の代わりにシカゴ大学に入れ、その先生の弟子にしたら好いと思いついた。
医学部などに行けと言えば、若い娘は反発するに決まっているから、一年の時は人間関係を知るために、心理学を中心に勉強させて、二年になったら生命を知る上で、生理学を学ばせるように指導した。そしたら、ストレスで円形脱毛症になり、髪の毛が大量に抜け始めたので、一年ほどカリフォルニア大学に国内留学して、リラックスさせることにした。
そして、四年の時に再びシカゴ大に戻って、薬学をメージャーで卒業したら、医学部の研究室に受け入れられ、その先生の助手に採用された。私にしたらシカゴ大学はある狙いに基づき、ロックフェラーが百年前に作って、米国の帝国主義の砦の大学であるようだし、保守思想の総本山であるから、連中が何をどのように教えているかを知り、その行動を観察するために、娘の父兄として接近する限りは、私の研究対象として問題はない。
そう考えて観察した結論としては、ハプスブルグの流れとして、シカゴ学派があることが分り、それをデトロイトの総領事をやり、オベリン大学に留学体験を持ち、米国の中西部にも精通していたので、天木大使との議論をして纏めたものが、この対談になったのである。ワシントンの政治がネオコンによって壟断され、911事件のプロットを契機にした、
その後のイラク戦争への米軍の全面突入は、ニューヨークのトロッキストがシカゴで仕上げをして、ワシントンでシオニストと組み、世界制覇に乗り出した構図の形で、私には鋭く捉える上で役に立った。

208藤原肇:2015/11/28(土) 13:37:55
日本人のアメリカ合衆国のイメージは、東海岸と西海岸の都会が中心で、時にはウエスターン映画が登場するが、米国の中西部に関しての情報が欠け、共和主義については空白状態に等しい。だが、米国の産油地帯は中西部であり、最初の油田が西バージニア州に位置した、タイタスビルだったことからして、その後はカンサスからオクラホマを抜け、テキサスに至って油田が並んでいる。その北の延長がカナダのアルバータ州で、カルガリーはテキサスの飛び地になり、米国系の石油開発会社が進出し、500社近くも事務所を構えていた。
だから、カルガリーは小型ヒューストンとして、町の作りや住人の気質はテキサス風で、カウボーイのスタイルになっていた。だから、カナダでの生活は疑似体験として、米国に住むのと大差がない上に、米国はカナダ企業を隠れ蓑に使い、英国の影響が強い中東に進出し、英国の利権の横取りのために動いていた。しかも、カナダから世界の動きを展望すると、日本の政府がやっている資源政策が、箱庭趣味の利権漁りに見えて、財界資源派と呼ばれる財界人が、デタラメのし放題であることが良く分ったし、そのおぞましさが丸見えであった。
そこで『石油は日本のアキレス腱」と題して、石油危機の襲来を警告する記事を書き、1970年の春に『文芸春秋』に寄稿したが、半年たっても何の音沙汰がないままだった。だが、正月過ぎに編集次長からの手紙が届き、「貴方はレポート用紙に文字を書き並べ、原稿の書き方を知らないようだが、ほとんどの人は原稿用紙に清書しており、読んで貰えるように送ってくる。だから、本来なら屑籠に直行するタイプだが、題名が面白かったので読んでみたら、大切なことが指摘してあると思ったので、捨てないで保存しておいた。だが、石油は買い手市場で幾らでも買えるし、世界には溢れている状態なので、誰も石油危機が来るなどとは思わない。
しかも、どこの馬の骨か分らない藤原青年が、石油危機を叫んでも黙殺されるし、わが誌の信用にも関わることもあり、財界人に石油の重要性を訴えて貰い、その後に出すので待って欲しい」と書いてあった。確かに私は無名の馬の骨だし、信用されないのは当然だと思い、当てにしないで仕事に忙殺されていた。すると、暫くして新日鉄の藤井丙午副社長が、石油の重要性を強調した記事を書き、その数か月後に私の記事が、1971年6月号に活字になって出た。
それが私のメディア初登場であり、その翌年にもう一本記事が出たし、『日経新聞』の「経済教室」にも、何回か執筆した記事を集めて、出版を試みたが十社以上も断らた。文芸春秋社は「雑誌だから石油危機を扱えるが、そんな無責任な内容の本は、単行本としては出せません」と言われ、日本経済新聞社は「藤原さんは財界人を褒めないし、官僚の政策への批判が強烈だから、わが社で出す本には適していない」との返事だった。また、これは私の判断ミスのせいだが、文芸春秋社を訪問した時に、田中健五という編集者に紹介され、彼が新聞記者と対談してくれと言うので、外交問題や資源開発に関して喋った。
だが、馬の骨的な存在の私の発言は、単なる情報の提供という形の扱いで、相手の名前の記事の中に使われたり、ペンネームの形の匿名記事として利用されたりで、ダシに利用されたことが後で発覚した。その一例が石油に関連したストリーで、ニクソンの中国訪問の手土産になるのが、石油掘削のリグだという話を喋り、その録音が記事として出た後になって、副社長から昼食に招かれた時のことだ。
その記事はテープからのお起しで、筆者名は私も知らないペンネームだったが、副社長が「君が日本で何を書こうと自由だが、石油に関してのことを書く時には、前もって内容について英訳し、会社の許可を得るようにして欲しい」と言われた。そこで日本にある米国の機関の手で、日本国内の情報がチェックされて、ワシントンに報告されていると分った。そうなると、米国の会社で働いていること自体が、監視の対象になっている以上は、居心地が悪いと感じて転職を決意し、ヨーロッパ系の石油会社に移った。それくらい石油政治の世界は厄介なものであり、資源にまつわる利害関係のせいで、戦争が起きたり紛争の種になるし、クーデタで国が消えたりするのである。

209藤原肇:2015/11/30(月) 09:13:30
その頃の私は非常に好奇心に満ち、時間的な余裕にも恵まれたので、過去の経験を総括して置こうと考えて、留学体験を小説化して纏め始め、全体で十巻のうち三巻まで書き進んでいた。四十五年前に筆を折った理由は、知識ばかりで知恵がないとダメで、作品としてはゲーテやモンテーニュのように、知恵がつかないといけないと思ったからだ。また、40年前に「文学界」の編集長時代の西永達夫さんが、忙しいのに一年がかりで読んでくれ、「これは日本版の”坊ちゃん”の長編だが、”戦争と平和”のように理屈が矢鱈に多く、日本には読者がいないよ。それに文体が古臭いし濃厚だから、これを編集できる編集者が今の日本にはいない」と言われた代物だった。
北海とアドリア海での仕事では、『戦争と平和』と『アンナカレニーナ』の他に、T・E・ロレンスの『砂漠の叛乱』も読み上げ、執筆熱に浮かされて多産だったので、この頃は暇に任せてどんどん書いた。だから、小説の中でオリンピック体験の部分を抽出し、『真夏の冬季オリンピック』と題して、札幌大会の前に本にしたいと考え、ある出版社でゲラ作りにまで進んだ。ところが、英語版の「まえがき」に書いておいたが、本としては1972年の札幌大会の前に、出版が決まってゲラまで出来たけれど、大会直前に出版が中止になっている。本の中で札幌大会について論じている箇所に、選手たちがストライキを起こすとか、テロリストの攻撃の可能性に触れており、最後の段階でそれが影響してしまった。
また、オリンピックが曲がり角だと論じ、将来の問題点を指摘してあったから、出版直前に出版社の社長が読んで、危機感を抱き出版中止ということになった。テロ事件で天皇家の誰かが傷でも負い、傷害事件にでも巻き込まれたら、倒産しても謝り切れないという理由だった。実際に、札幌では何事もなく無事だったが、夏のミュンヘン大会において、選手がテロに襲われてしまい、予告が実現したのは残念だが、出版中止の本はお蔵入りのまま、30年後の長野での冬季大会の時になって、やっと活字になったがこれは処女作だった。
このように初期の頃の私の本は、遠慮しないで単刀直入に核心に触れ、隠すべき真実にも触れていたるために、出版がとても困難なことが多くて、『石油危機と日本の運命』は十社以上も断られている。そこで、読者の一人の英文日経の編集長が、何冊も本を翻訳している関係で、知っている出版社に持ち込んでくれ、初めての単行本がハードカバーになり、サイマルから初版3000部で出て、大手の新聞でも書評が掲載された。だが、出版が1973年4月だったせいもあり、「著者は日本経済の実力を知らない」とか、「被害妄想的だ」という論評が多く、最初の半年の間に千部も読まれなかった。
しかし、六か月後の十月に中東戦争が起きたので、石油ショックの中でベストセラーになり、十万部近く売れたのだから、呆れた話だと痛感したものだった。売るために本を書いたわけではなく、サウジで知り合ったヤマニの発想力と、カナダから眺めた世界情勢に基づいて、準備が必要だと警鐘を鳴らしたのに、ことが起きないと誰も見向きしないのだ。しかも、石油は武器として使えば威力が絶大で、事件が紛糾したら衝撃的だから。パニックを起こさないようにと指摘したら、私は「狼少年」のように扱われてしまった。そして、大騒ぎする不逞の輩の扱いを受け、日本の政治家や官僚に嫌われて、T・E・ロレンスの悲哀が良く分った。
それでも、悪い話ばかりではなくて、外報部関係の多くの新聞記者たちが手配し、記者クラブでの講演を企画して、東京に招いてくれる機会が増えたお蔭で、多くの人と知り合うことが出来た。特に時事通信とサンケイが積極的であり、背後に財界や政府筋が控えるので、エネルギー問題を論じる私を使えると考えて、発言の場を積極的に提供してくれた。だが、そんな手口は北米では日常茶飯事で、利用される形で相手を逆利用して、情報を取るのが頭脳ゲームの醍醐味だし、国際舞台の主役はオイルマンであり、石油産業にはそのノウハウが蓄積するが、日本人はその点で脇が甘かったのである。

210藤原肇:2015/12/01(火) 11:53:12
米国に30年以上も住んでいた私は、日本に来ると読者や知人が集まって、一種のサロンとして利用できたし、仕事場にも使えた便利さもあり、頻繁に有楽町の電気ビルのを訪れたが、そこには日本外国特派員協会のクラブがあった。
世界各地に特派員のクラブがあり、日本でも県庁や大都市に記者クラブがあるが、日本の記者クラブは閉鎖集団で、強い排他的性格を持っているが、日本外国特派員協会(FCCJ)はオープンだし、会員による自主的な組織であった。
日本人の会員の多くは特派員経験者で、外国の組織で鍛えられた人には、優れた記者精神に富んだベテランも多く、問題意識も鋭く話題が豊富だった。だが、それ以上に興味深い人材としては、外国の組織に一時的に所属して、実力で仕事をしているフリーランス記者で、彼らは真剣勝負で生きており、サラリーマン記者とは幾味も異なっていた。
だから、有楽町駅前の「電気ビル」最上階には、「外国人記者クラブ」という愛称で呼ばれ、発足のとき以来65年の歴史と伝統を誇り、外国からの要人や時の人の記者会見で知られた、日本外国特派員協会のクラブを愛用した私は、訪日の度にここを訪れていた。
20階にはレストランと会議室が整っており、19階には図書室と事務局があって、日本に派遣された外国の報道機関の記者を中心に、自主的な運営をして盛況であった。
しかし、一見して盛況に見えるこの重要な組織が、数々の問題を抱えて危機に瀕している背景には、組織自体の混迷と日本の地盤沈下がある。現在のレギュラー会員はほぼ500名というが、純然とした外国人特派員は150人前後に減り、外国で3年以上の特派員をした者は、日本人も正会員になれる規約のせいで、300人ちかい日本人が正会員になっている。
だが、その多くは若い頃に特派員を経験し、現在は幹部として自分で会費を払わずに、社用族として接待に使う正会員に属す。しかも、社交のためにレストランやバーを利用し、相互利用の特典を最大限に活用できる上に、北米やアジア諸国のクラブ施設と、レシプロシティの特典で利用する程度であり、積極的に組織活動に参加しない会員である。
しかも、特派員クラブ(FCCJ)を財政的に支えているのは、投票権のない2000人余りの準会員であり、その多くが接待用にレストランを使い、社交の場として利用している日本人だ。準会員にとっては至って便利で、銀座から五分の距離の社交の場として、利用価値が高い快適なクラブだが、特派員として取材のために訪日する記者にとっては、自分たちの仕事場が俗化の印象も強い。
こんなことでは日本の現状に愛想を尽かし、東京から逃げ出す記者が増えても当然だが、それに加えて経済ポテンシアルが落ちて、情報的な魅力の衰退が進んでいるために、日本への関心が加速度的に薄れている。国際舞台における日本衰退の原因は、十数年も続いた自公体制によって、支離滅裂なゾンビ政治が続いたためだ。その結果、ジャパン・パッシングからナッシングになって、日本は世界から取り残されただけでなく、日本の存在価値まで大暴落している。
日本の政治的な状況が余りにもお粗末で、排他的で閉鎖性の強い記者クラブ制のために、公正な形で取材活動が出来ないのと、取材するに値する情報がないことが、外国メディアの日本撤退の理由だ。日本のニュースは大陸からの取材で済ませ、「ワシントンポスト」や「LA タイムス」が東京支局を縮小した。中には東京事務所を閉鎖して、上海や北京に事務所を移したから、優秀な特派員が続々と日本から立ち去っており、寂しい思いに支配されたのだった。

211藤原肇:2015/12/02(水) 10:18:31
かつては東京特派員を体験した後で、香港支局長や北京支局次長になったり、本社に戻り編集局長や国際部長になる記者や、中には編集長どころか社長になる人もいた。東京で特派員として取材することが、名誉だと考えられていた時代があり、誇りに瞳を輝かせていた記者と、議論し合うのが楽しかった時代は、プラザ合意で日本の実力が剥げ、皆が落胆し始めた頃までだった。
中曽根がレーガンに手玉に取られ、ネオコンの狙いに操られて、国鉄や電電公社の民営化の名のもとに、国有財産の私物化を推進し、売国行為が顕在化したことにより、ヤクザ政治とカジノ経済が激化し、日本の没落は著しく進んだ。そうした状況を観察した私は、それを『平成幕末のダイアグノシス』にまとめ、出版を試みたが困難だったのは、日本の裏社会を再定義したからだ。
それまで考えられていた裏社会は、暴力団、同和団体、半島人脈だったが、それにホモ人脈を加えた理由は、リクルート事件の発覚であり、政界と財界がそれに毒され、その象徴が中曽根政権だった。経済がバブルによって膨張し、スキャンダルの発覚が続き、最初のうちは特派員も興奮していたが、世界史にはバブルの発生は幾つもあり、そのうち中曽根や竹下の手口がバレて、彼らがうんざり顔になって行き、もっと増しな場所を求めて移って行った。
「船が沈む前に鼠は逃げる」と言うが、優秀な特派員ほど逃げ足は速いので、東京に目ぼしい記者がいなくなると、バブル崩壊後の世紀末現象が始まって、失われた十年二十年が続いたのである。
だから、最近は東京がドサ廻りで修業の場になり、やり甲斐のある場所で挑戦するために、優れた記者の多くは東京から去って、駆け出しの人材がその穴を塞いでいる。文部省のALT(外国語指導助手)プログラムで訪日し、日本語が喋れる程度の外国人たちが、パートタイムで特派員の仕事を引き受け、現地採用の記者として低レベルの日本記事を書く。あるいは、ソウルや上海駐在の記者たちが書いた、取材抜きの浅薄な記事が溢れ、世界に報道され始めている。
しかも、日本人による情報発信が劣悪なために、アジアでの日本の存在感は希薄になり、情報時代だのに日本の現状は鎖国状態に近い。
パートタイムで雇われた記者として、慣れない最初は未熟な記事を書き、眉を顰められることがあっても、経験を積みカン所を理解し、良い記事を書く人物が育ってくれれば、それなりに得難い成果になる。だが、そのためには彼らと親しく付き合い、話を聞き議論の相手をする、経験を積み見識を持つ人が、日本人のホスト役として必要だが、それが出来る日本の記者が激減している。
なぜならば、日本の社会が包容力を失い、各人が管理体制の中に埋没し、広く胸を広げる余裕がなくなり、自由人として客人を迎えて、相手をする余裕を喪失しており、若い世代を育てる心が消え、日本人が自分の問題で忙殺されている。われわれが得た留学体験でも、家庭に招いて食事を共にして、議論をして共に学び合うことにより、その国の文化の隠れた部分を学び、相手を理解する機会の提供を受けている。
だが、新聞記者の多くが団地に住み、お客を自宅に招く条件が失われており、せいぜい外で食事を共にして、そのレベルでの交際しか出来ずに、それも社用族の形での接待で、真の交友には程遠かったりする。
外国の特派員の声として聞くのは、日本のテレビの質の低さで、バラエティものに象徴されているように、日本的な痴呆番組が嘲笑されている。「井の中の蛙」の日本に較べて、中国人やロシア人が作る英語番組を始め、アルジャーラやインドのテレビ番組さえが、はるかに日本を凌駕しているので愕然とする。
首相をやった男がコミックスしか読まず、知的な会話が出来ない上に、脳の歪みまでが顔面に表れているのに、それに気づこうとしない愚鈍さ。しかも、自分の言葉で発言できないまま、役人が書いた文章を棒読みし、日本語として支離滅裂な発言が、国会の議論で横行している現実。
北京製の映画がハリウッド作品を凌駕し、世界の注目を集めている時代に、日本人はアニメをジャパネスクと名付け、浮世絵の復活であると信じて、カラオケを日本文化の振興だと思い込む。だが、それは世相に現れた風俗現象で、サブカルチャーに過ぎないのに、それを文化だと思い込んでいる。
かつては訓練された一流ジャーナリストの手で、優れた日本発の情報が世界に流れたのに、そんな状態は過去の夢になり果て、生き様が日毎に劣化しているのである。

212藤原肇:2015/12/03(木) 10:13:10
FCCJでは日本の他の記者クラブのように、所属する記者クラブの担当記者が司会をして、安全な記者会見を試みるのとは違い、全方位の角度から自由に質問するので、権力者に危険な場所だと見なされている。田中首相が金脈問題の質問で立ち往生し、その後それが失脚に至る契機になったので、用心した中曽根首相はここを鬼門と考え、FCCJからの記者会見の招待を拒み続けて、遂に来訪しなかった話は有名である。
国賓や外国の要人が訪日した時には、多くの場合にFCCJで記者会見を行い、有楽町の「新聞通り1番地発」のニュースが、かつては世界に発信されたものだ。だが、最近では閉鎖的な日比谷の「日本記者クラブ」で、記者会見が行われるケースが増えており、外務省までが法人格を取り沙汰するほど、FCCJの相対的な地盤沈下が目立っている。
バブルの崩壊以来の失った20年のために、不況に陥った日本経済は低迷しており、多くの企業が生産設備を海外に移して、日本の空洞化が進んでしまったのと、自公体制による暴政支配の悪影響のせいで、魅力ある人材の枯渇が顕在化した。だから、FCCJで講演する財界や政界のトップの人物が、自己紹介まで同時通訳で済ますほど、支配層の鎖国精神が酷い状況が続いたので、北京やソウルに主導権を奪われて、東京の持つ情報力は低下してしまった。
世界に向けての情報発信基地としてのFCCJは、江戸時代の長崎の出島に相当しているし、受信以上に発信の役割は重要である。しかも、鎖国から文明開化に向けて「世界に開く窓」が、出島から横浜や東京へと移ったのに、現在では横浜や東京がソウルや北京になり、東京のFCCJが今以上に衰退し続ければ、日本の未来は「夜明け前」の薄明続きになる。
かつて私が台湾に住んでいた頃だが、私の日本の取材基地はFCCJなので、訪日の度にここを拠点にしたが、ここが抱えていた組織的な悩みは、幹部による運転資金の濫用であった。幹部の使い込みが財政破綻を招いたのに、それまで奇妙にも汚職を放置されて、財務の担当者が三選される椿事が続いた。有志による幹部の追放の動きがあったが、折角の変革の試みも「画竜点睛」を欠き、日本的な珍現象を黙示できなかった。
それは財務問題を専門家に任せて、経済問題担当という肩書きに従い、経済誌の記者を監査役に再選していた。この日本人の雑誌記者を調べたら、彼は経済誌の古手ではあるが、クラブには寄生だけで貢献せず、監査役に適していないと分かり、その交代が不可欠でだと私には思えた。だが、老化が著しい日本人正会員の多くは、汚職を放置し続けた監査責任を問わずに、外人記者は決算書が読めないと考え、経済誌の記者が日本人だという理由で、こんな人物に投票し続けていた。
こんな非常識が罷り通ったのは、外国特派員の組織で外国人が少数派になり、組織活動には余り熱心に参加しないが、投票数で日本人が決定権を握ったせいだ。
だが、内部の人間による大掃除は、知り合い同士だからいろんな利害が絡み、やりづらいという幹部の話を聞いて、オブザーバーの私は側面から協力した。当時の私は『さらば暴政』を書いて、未だ元気に満ち溢れていたし、自公政権の解体に先行する形で、資金管理とクラブの掃除を支援した。そして、投票によって古い執行部が追放されて、モンズルール・ハク会長による新執行部が誕生し、有楽町の「新聞通り1番地」に改革が実現した。
ハク会長はバングラデッシュ出身だが、モスクワ国立大学を卒業しており、国連を始めBBCやNHKの仕事をこなし、記者として卓越した国際経験を持つ。しかも、私の「Japan‘s Zombie Politics」の読者でもあり、お役に立てば恩返しになるので、それとなく協力したことが役に立ち、2009年夏の選挙結果が誕生した。だが、外国の特派員は出入りが激しい上に、日本人記者の多くは老齢化し、元気の良い若手は至って少ないために、折角の組織の運営が悪戦苦闘で、見ていて歯がゆい思いがするのは、ホストの日本側の対応力が弱かった。

213sky:2015/12/04(金) 02:00:28
「報道の自由」ランキングが61位にまで下がったという、マスコミの腐敗を伝える
記事があります。
藤原氏の警告と通ずるタイムリーな内容ですのでご覧ください。

http://dorian.en-grey.com/

214藤原肇:2015/12/04(金) 10:39:55
もう、取材の第一線から引退しているので、参考までに手の内を公開できるが、私の取材源は外国人特派員協会(FCCJ)だった。当時は優秀な特派員が東京に集まり、鋭い感覚で熱心に取材活動を展開し、東京発の良い情報を発信していた。彼らの大半が特派員の肩書はカバーであり、訓練された情報関係者として、東京を舞台に取材活動を展開していた。アフリカや中東での体験で、情報関係者とは付き合い慣れ、一度でも議論し合うことによって、相手の人間の全体像くらいは、ほぼ正確に捉えられたので、付き合う対象として最高だった。
彼らは一流メディアを代表し、取材する能力においても優れていたから、日本のエスタブリッシュメントを相手に、権力機構の中枢に食い込めたし、彼らは肩書を活用するだけで、至って簡単に秘密を探り出した。だから、大臣でも財界人でも取材して、誰にこういう問題をインタビューの時に、この点を引き出せとアドバイスするだけで、彼らはそれを十分にやり遂げた。それだけのインテリジェンス力を持ち、背後に組織力も控えているから、次の機会に会ってそれを引き出せば、彼らの能力は自分の力として使える。
この関係は古典的な互酬の理論に属し、クリストファー・マーロウの時代から、頭脳ゲームとして活用されているが、応用範囲が余りにも広いので、『花伝書』と同じで「秘すれば花」の世界に属す。しかも、自分でものを書くに際しては、知っていることの二割五分以内に留め、幾層かに多層構造を振り分けておけば、数度の読解ではそのレベル止まりで、「読書百遍・其義自見」を知って、通俗的なコンピュータ言語に書き直すならば、「Repeated reading makes the meaning clear」ということになる。
1970年代末から80年代前半は、問題意識も鋭い時期だったし、最も生産性が高かったせいで、多くの著書や対談が誕生しており、私の執筆活動の転換期でもあった。前半期は他人の発言の引用を始め、数字の記述が多かった理由は、日本の編集者がそれを好むために、引用が多いほど歓迎された。だから、外国の新聞記事や有力者の発言を組み込み、権威づけすれば活字になった。だが、私の判断をそのまま書いた時は、「そんな話は初耳だが、誰かが言っていますか」と言われ、そこに権威の名前を付け足さないと、ボツになる傾向が目立った。
数字の場合は詳細なほど好まれて、あの人は良く知っていると評価され、それが執筆能力になったが、この手口を活用するのが役人や学者で、実力のなさと権威づけだった。それを強く意識したのは、堺屋太一と対談した時で、彼は対談した後で編集者に、「ゲラはいつ出来ますか」と聞いており、活字になった記事を読んだら、細かいことや数字が並んでいた。私は62,5%の代わりに「およそ半分」を使い、572億円とは言わず500億程度と表現して、数字や厳密さにはこだわらない。
なぜなら、数字は条件が変われば変化するし、結果より条件の方が肝要であり、数字の丸暗記は無意味だから、数字を並べる人は記憶に属すので、本質を捉えていないのだと、体験的に理解できもようになっていた。そうした末梢主義を乗り越えて、本質をきちんと捉える訓練により、全体像を掴みだす営みから、大芸術が育っていることは、欧米の美術館に行けば一目瞭然だ。細かいことには丁寧に配慮するのだが、大枠ではいい加減だというのが、詐欺師が使う常套手段であり、私は数字を使いまくる人間は、信用しない習慣を身に付けていた。
明治の文明開化の時代から、日本人は外国から文明を取り込み、その模倣に明け暮れた習慣に基づいて、外国の権威に対してひれ伏す。それに反発したのが幕臣たちで、彼らはジャーナリズムに籍を置き、明治政府の追従路線を批判し、目覚ましい言論活動を展開しているが、福地源一郎や黒岩涙香を始め、「明六社」の同人にその姿がある。一流の記者も同じことであり、大局的に捉える目を持つので、各論より総論を好むために、よく咀嚼しで自分の文体にし、自分の発言として編集する力を持ち、引用などはしない記事を書く。
独立した個人である意味は、自分の頭で考えて判断を行い、他人の権威を借りないことだし、外部に依存や支配をされずに、総て自分の責任で行動することにある。だから、そういう記者だけを相手にして、意見を交換している限りにおいては、世界の一流メディアの記事の中に、栄養素や熱源として活用され、自分の意見が生きてくるのだし、その方が自分で執筆するよりも、はるかに効果的であることが分かった。しかも、訓練された一流の記者たちは、同じやり方を政治家や記者に対して使い、相手に影響を与えることにより、頭脳ゲームを楽しんでいることが、見抜けるようになったのである。

215藤原肇:2015/12/08(火) 13:43:51
四日間ほどの短い息抜きの旅だったが、アンコールワット遺跡として知られる、シェムリアップの町に滞在して、大地のエネルギーを取り込んで来た。何といっても私にとって最高の遺跡は、アンコールトムの四面仏の石像群で、須弥山(メール山)の観世音菩薩が聳え立つ、バイヨンの持つエネルギーの渦は、不老長生への案内役である。このバイヨン寺院の建設は12世紀末で、ジャヤ・ヴァルマン七世によると言われ、この地に立って世界史に思いを馳せると、ジンギスカンがモンゴル帝国を築き、歴史が世界的な広がりの中で、東洋と西洋が一体化し統一した時代だと分かる。ユーラシア大陸とインド洋を制圧して、空前絶後のモンゴル大帝国が君臨し、交通網と金融システムを築き上げた点では、近代の原型は既にここに痕跡がある。
中国史が強調してきた宋や明の歴史さえが、いかに局地的な地方政権に過ぎず、日本の鎌倉から室町の歴史が周辺的なもので、大航海時代と呼ばれるものでも、モンゴル帝国の残像の中から生まれ、モンゴル史の波紋だと感じられて、人類史を見る目から鱗が落ちてしまう。その予感は幸田露伴の『運命』を読んだ時に、明の歴史のインチキ振りを予感したが、文字で書かれた歴史の持ついかがわしさは、藤原不比等が仕上げた『日本書紀』を始め、文部省の歴史教科書を見るだけで、誰の目にも一目瞭然になることだ。
数年前に四川省から雲南にかけて、チベットの周辺を歩いてみたが、そこはタイ族とチベット族の生活圏であり、大理までモンゴル族の影響が及び、その支配力の大きさに驚いたものだった。だが、インド洋がアラブ人とインド人の手で、貿易圏として発達していただけでなく、彼らの多くがモンゴル帝国の庇護で、商業活動を営んでいたことを知り、モンゴル文明の持つ圧倒的な力に、今さらながら目を見張ることになった。それを最も明瞭に示しているのは、われわれが元の「染め付け」と呼んで、その白とブルーの鮮やかさを称賛する白磁で、白磁のカオリナイトは中国にあり、紺色のコバルトはペルシアだけが産出し、それを組み合わせた景徳鎮の官窯は、世界が憧れる白磁の大生産地であった。
だから、モンゴルが作った「海のシルクロード」は、大量の貿易商品として白磁を運搬したが、それはイスタンブールのトッカプ宮殿に、素晴らしいコレクションとして保存されており、その前で呆然とした思い出がある。何しろ、直径が1mもある「染め付け」の大皿が、十数枚も並んでいるのは壮観であり、船で運んだのは疑いもないことだのに、説明にはラクダで運んだとあったので、「シルクロード病』の名残を強く感じたものだった。
カンボジアの古名であるクメールが、シュメールに由来していることや、沖縄の久米島にもその流れが届いており、南回りの海洋民の渡航ルートが、北回りの日本海経由で渡来した、草原の騎馬民族が日本列島で出会い、そこに船と馬が南北の形でポラリティを作り、日本史に小宇宙を刻印している。
それにしても文化における南北の違いは、地球上におけるエネルギー格差で、植生から始まり気候や環境の違いが、人間の生態や歴史に違いを生み、地上に多様性をもたらせる原因になっている。私の体験では地中海型と北海型で、パリやロンドンは私の好みには合わないために、論じることが至って少ないのが、還暦を過ぎてからは寒いところはご免蒙って、温かい南国についつい向かってしまう。しかも、地球は自転するのでコリオの力が働き、分力と合力のためにズレが生じ、南と北の対立に歪みが発生すると共に、裏と表の捻じれ現象と逆転があり、それが波と渦流で歴史を面白くしている。
そのような人類史の波動現象が、カンボジアのバイヨンから遠望できるのは、実に壮大で素晴らしい景観であり、観世音大菩薩から受けた掲示でるにしても、ここがカイラス山だから見えてしまう。数年前にインドを訪れブッタガヤに行った時に、出合ったチベット人が教えてくれた、カイラス山の話に啓発されて読んだが、久しぶりの河口慧海の『チベット旅行記』は、山歩きをやる私が感心する行動力で、明治には凄い日本人がいたと痛感したのだった。

216藤原肇:2015/12/09(水) 12:31:28
インドネシアは東南アジアにおいて、最大のムスレム人口を持つ国だが、サルタンが君臨する土侯国が誕生したのは、1161年にスマトラ島東海岸であり、ペルシアとインド商人の支援に基づいていた。もちろん、それ以前のインド洋は交易で栄え、季節風を利用したフェニキア人や、アラブやインドの商人たちの手で、香料を始め食料や繊維の取引が行われていた
。更にそれは、マホメットによる布教活動の影響で、ダマスカスに成立したウマイヤ王朝に続き、750年にバクダットに誕生して500年も栄えた、アッパス王朝の商人たちの手により、バスラやホルムスの港を拠点に使い、イスラム帝国の勢力圏が発展している。「シンドバットの冒険」はその代表で、インドの香辛料やセイロン島の宝石などが、アラブやインド商人が扱う商品として、中東世界に大量にもたらされていた。
また、「思いがけない発見」を意味している、セレンディピティと言う言葉の由来が、セイロン島のジャイヤ王の息子による、冒険旅行の成果だった点からしても、インドとペルシアを緊密に結ぶ、セイロン島の存在を物語っている。
更に、モンゴルが元帝国を築き上げてから後は、インド洋は海における幹線航路になり、続いてポルトガルを先頭にした船乗りが、インド洋と大西洋を結んだことで、スペインとオランダに続いて、英国がアジアに商圏の拡大を試みた。そして、植民地主義がアジアの収奪を開始し、最悪の事態が英国の東インド会社であり、インドに対しての徹底的な収奪と,老いた清国を相手にしたアヘン戦争だった。
この時期の日本は鎖国体制を敷いており、長崎の出島を唯一の貿易の窓口にした形で、オランダと清国を相手に交易を行い、専ら国内の自給自足の経済を確立したが、アヘン戦争と黒船ショックで開国したのだった。
だが、幕末と文明開化による開国は、西欧の技術文明の取入れとして、ハードウエア中心主義であったために、制度としての文明の輸入が主体で、自らのソフトの確立の面で多くの問題を抱えていた。それは翻訳文化の持つ欠陥であり、西周や中江兆民を始め明六社の同人の手で、抽象的な概念と用語を作ったが、言葉としての単語は誕生していたとはいえ、学問としての意味論を見落としていた。
結果としての成果に目を奪われてしまい、技術の取り込みに熱中したので、注目や観察までは実行したが、推論の重要性を見逃したために、物や事の背後の精神を軽視した。だから、日本人のわれわれに欠けているのが、意味論の重要性についての理解で、類似性を発見し確認することに、価値の根源があることを見落とした。そのせいで、日本語として議論は行われても、概念の定義づけを軽視するために、各人の思い込みの披瀝で終わってしまい、正確な理解と納得の不在が支配しているが、それに気づく人が至って少ないのである。

217藤原肇:2015/12/10(木) 11:40:04
それを痛感させられたのは留学時代であり、「君の言っていることが通じないのは、意味論が出来ていないからだ」と指摘され、その意味さえ私は理解できなかった。意味論など当時の日本で聞いたことがないし、誰も論じていなかったために、そんなことを言われた私は大いに当惑した。意味論は世の中の総てが記号であり、各人がそれを解釈して意味を作り出し、コミュニケーションの土台を構築して、正確な相互理解を生み出す営みを指す。#179)のところでも紹介しているが、1994年1月号の「ニューリーダー」の誌上で、「意味論オンチが日本を亡ぼす」と題した対談を行い、小室直樹博士とこの問題について議論して、主として契約について喋っている。それにしても、渡仏した1960年代の半ばの段階では、私は意味論などということに関して、全くの白紙状態で意味論も記号論も、聞いたことがない話題のものだった。
だから、その重要性について気付かなかったので、いろんな国の人たちと議論して、意味論の実体が分かるに至るまでには、悪戦苦闘の連続が続いただけでなく、勉強のやり直しの必要性を感じざるを得なかったし、それが「日本脱藩」の出発点になった。ギリシア語やラテン語を学ぶことは、古典を読むためだけではなく、意味論に通じて知識人になるし、そのために文語をマスターすることで、普遍言語に通じることであった。だから、ロマンス語が長い歴史を通じて、最も鍛錬された言語になったのは、古典として残った本の蓄積のお蔭であり、その点で商人言葉である英語は、便利でも表現力に乏しいために、普遍言語としての資質で劣っていた。しかも、英語で文法と称しているものは、システムとは呼べない代物で、英国人でも理解が難しい上に、音韻学的に汚い子音が多くて、言語学的にも洗練の度合いが低い。また、優雅さにおいて劣っているので、波動理論から見てノイズが多いから、功利主義的な価値が強いだけで、普遍的な美や調和とは縁遠い言葉だった。
だから、このシリーズの冒頭部において、水村さんが英語を普遍語であると論じ、英語が未来を制すはずだという発言に、私は謹んで異議を申し立てたのである。
英文学者として英語を使いまくる名人で、『英語と英国と英国人』を書いた吉田健一は、「英語には文法がないに等しく、絶対に覚えられない言語である。だから、日本人が英語を読める、書けると思っているのは、英語を知らないからだ。だから、そういう英語を英文法をやったり、文章法を暗記してマスターしたところで、何の役にも立たない」と断言している。中学生の頃に独学でフランス語を開始し、アテネフランセでフランス人から直接学んで、直感的に英語の整合性のなさを感じて、高校の英語の授業を拒否した私は、学生仲間や教師から変人扱いされたが、英語に言葉としての普遍性と魅力を感じなくなった。これはカトリックが普遍を主張することで、免罪符の販売で荒稼ぎいていた、貪欲な拝金主義に対して異議を唱えた、あのルターの狂気に似ていても、徳性の面で許されて良いのではないか。別にプロテスタントを支持するのではなく、上に立つべき資質において劣るのに、取りつきやすさや便利さで人気があり、俗悪なものが我が物顔でふるまい、したい放題をやれる状況に対して、異議をさしはさむのは間違っていない。
アメリカ流の民主主義に慣れ親しみ、多数決が正しいように洗脳されているが、多数は衆愚に結びつき易いもので、少数意見に真理があることが多いのを思うならば、多数が正しいなどというのは、デマゴギーに等しいというべきである。ケインズが言った美人投票と同じで、得票数が多いことは評価を反映せず、信任とは無関係であることは、議員の選挙の結果が証明している。平等の投票権があっても平等ではなく、宣伝で幾らでも人気は操作できるし、たとえ監視下で自由投票が行われていても、計測の段階で不正の介入があるし、コンピュータのプログラムを操るだけで、選挙結果など幾らでも変えられることは、ブッシュや安倍が実行している事実でもある。統計で嘘をつくのが経済学であり、その上に乗った政治が世界を支配し、昔から「嘘、大嘘、統計」というように、数字の魔術が世界を支配してきた。だから、デファクト・スタンダードと言うことで、出来損ないのコンピュータ言語だのに、マイクロソフトを使ってしまったために、ビル・ゲーツの詐欺商法に付き合い、莫大な損害を被ってしまった私としては、数字万能主義には強い嫌悪を感じる。
また、アメリカの建国精神には敬意を表したいが、200年後の現在における拝金主義や、粗野で自己本位の米国流の帝国主義には、どうにも共感しえないと思うのである、また、幼稚で浮薄な『文明の衝突』がもてはやされ、こんな雑駁な世界観が支配する国が、一極構造の頂点に立っている現状に対して、何とも情けないと思っているのである。

218千々松 健:2015/12/10(木) 22:15:24
西洋近代文明の導入に当たり、藤原肇博士が指摘されたことに注目したい。『西周や中江兆民を始め「明六社」の同人の手で、抽象的な概念と用語を作ったが、言葉としての単語は誕生していたとはいえ、学問としての「意味論」を見落としていた。
結果としての成果に目を奪われてしまい、技術の取り込みに熱中したので、注目や観察までは実行したが、推論の重要性を見逃したために、物や事の背後の精神を軽視した。
だから、日本人のわれわれに欠けているのが、意味論の重要性についての理解で、類似性を発見し確認することに、価値の根源があることを見落とした。』
『意味論は世の中の総てが記号であり、各人がそれを解釈して意味を作り出し、コミュニケーションの土台を構築して、正確な相互理解を生み出す営みを指す。』>216,217

三実と言われる<実質・実在・実現>の意味は「●▲■の超三段階論」に通じています。
そして「真善美の神聖数理学」や「ニュートリノ&トリニティ」などは、そのような「意味論」を修練するための思考ツールとなると思っています。
http://8w1hflkm.jp/EMT123.jpg
<梶田隆章さんのノーベル物理学賞授賞に寄せて、ニュートリノ振動と意味論>
2015.12.10

219藤原肇:2015/12/11(金) 11:24:21
私の本は考えるために書いてあり、通読では表面の浅いレベルとして、メッセージが届くように工夫してあるから、解説は努めてしないようにしてきた。解説や判断は自分で行うものであり、その時に頭を使えば思考力がつき、脳の活性化が始まるから、分からないと分かることが、モンテーニュの言う「クセジュ」だし、ソクラテスの言う「無知の知」でもある。留学した経験で仕込まれたことは、自分の頭で考えろと言うことと共に、何でも疑ってかかる態度が、いかに重要かという点だった。本を読んでも本文に書いてあることよりも、註に問題解決のヒントが隠れていて、行間を読むことの一つに註への注目がある。
しかも、註を本文の中に分散させてしまい、ジグゾウパズルに仕立てることの楽しさは、本を書く者にとっての悦楽になっている。私は何かを発見することの喜びを求めて、読者としての謎解きに挑んだし、それは個人としての趣味の問題に属すので、読者としては謎解きが醍醐味だ。だから、著者としては誰かが謎解きを終わるまでの間は、謎は謎のままにして置くのが礼儀で、秘密は明かさないのが古代から続く、人間の知恵ではないかと思っている。
自分の頭で考えるのが好きな人には、余計な解説はない方が親切で、なぜと疑問を持つことを中心にしたために、拙著は売れない書籍の筆頭だったから、編集者たちからはいつもお小言を貰っていた。「テーマはぴったりで面白いから、分かりやすく説明を加えてもらえれば、何倍もこの本は売れるのですが、それをお願い出来ないでしょうか」とは、本が出る前に良く言われたことだが、それをやったら読者に失礼だと思い、せいぜい協力したのは註をつけることで、註にヒントを潜ますことが楽しみだった。
当時は田中首相と中曽根通産相の二人が、エネルギー問題の責任者だったので、この二人の責任について追及しているうちに、金脈事件で田中角栄が辞職する事態になり、そのトバッチリがカナダまで来た。本がベストセラーになって読まれた影響で、ロンドンやニューヨークから連絡が届き、出張で来ているが会えるなら、帰りにカナダに立ち寄るという電話が、日本の新聞記者たちから良く掛った。
その中の一人に朝日の青木記者がいて、「田中が怒っているから、日本には帰るな」というので、「なぜだ」と質問をしたら「立花隆に書かせたのは藤原で、立花は藤原さんの二年後輩であり、上野高校の出身だと恨んでいる」という。私が特派員クラブで得た情報では、立花は福田派から流れた情報で、田中金脈についての記事を書き、それを特派員協会での記者会見の時に、『L・A・タイムス』の支局長が口火を切った。しかも、支局長は中曽根のホモダチで知られ、私も一度食事をしたことがあるが、東京を根城にした悪徳記者であり、支局長を首になっても東京を離れず、中曽根の平和研究所に拾われて、胡散臭い仕事を続けている男だった。
アメリカ人の情報関係は数が多いが、質的にはヨーロッパ系の人物に較べて、はるかに劣るのは一目瞭然だし、米国で活躍しているヨーロッパ人は、ヨーロッパだと二流に属す頭脳の持ち主で、その代表がキッシンジャーやブレジンスキーだった。こういう質の悪いヨーロッパ系が、ワシントンの政治を巧妙に動かしており、それが親イスラエルや反ソとして、米国の世界政策を引きずりまわしているのに、日本人は脇が甘く盲目状態だった。彼らが日本の政治家がいかに愚劣で、日本が「ひ弱な花」であるかについて、侮蔑的にみているかについては、彼らの著書を読めば一目瞭然である。
別の機会に書く時があるだろうが、彼らもサイマルから著書を出しているし、私も処女作を始め三冊ほど出し、「サイマル仲間」に連なっていた関係もあって、本意に属すその種の情報を組み立てれば、ジグゾウ・パズルを組み立てる楽しみを味わえた。

220藤原肇:2015/12/12(土) 12:02:42
こんな状況の中で思い出す話として、半世紀前のカナダで知り合った人に、レバノン生まれの技術者がいたが、親しく交際していろんな議論していたら、イブン・ハルドゥーンと言う思想家は凄いから、彼の本を読んでみろと言われた。そんな名前は聞いたことがなかったので、図書館に行って調べたら何冊か著作があり、彼の本は結構読まれているらしく、借り出して一読し驚いてしまった。600年も前に書かれているのに、ヘーゲルやマルクスよりも大きな視野で、文明や国家機構について考察し、社会学や政治学の面においても、モンテスキュやマキャベルリを越え、現在の学問水準を上回っており、こんなことがあり得るかと思った。
そういえば12世紀の段階で、中東を訪れた数学者のフィボナッチは、彼の素晴らしい数列を導入したし、14世紀には複式簿記が使われており、ジェノバの商人は繁栄を極めているので、中東はヨーロッパの教師役だった。
この本が縁でカルガリー大学に行き、歴史や社会学の先生に会ったら、ケンブリッジの講師が留学しており、彼と親しくなり付き合ってお蔭で、素晴らしい観点を大いに学んだ。彼の名前は思い出せないが、流石に英国人らしい見方をして、イブン・ハルドゥーンの文明と歴史観は、マキャベルリやトインビー以上で、比類のない凄い思想家だという。当時の私はトインビーを尊敬し、彼の『歴史の研究』を圧縮版で読み、凄い歴史家だと圧倒されていたのに、英国人がトインビーの歴史観より、アラブ人を高く評価してたのに驚いてしまった。
彼がヘーゲルやマルクス以上で、流石に中世のアラブ世界には、凄い思想家がいると目を見張ったが、半世紀も過ぎた今の時点では、ハルドゥーンが英国のベーコンとロックを足し、フランスのモンテスキュを含め、ヨーロッパ近代の思想家を束にしても、それを超えるという印象を持つ。特に砂漠と都市の環境の違いによって、人間の思想と性格が大きく変わり、環境としての場が持つ影響力に従い、『良禽は木を選ぶ』のであるし、彼の人生がそれだったと学んだ。だから、私はアメリカで生活をした時には、砂漠の町のパームスプリングスに、30年も住むという生活をしたのだった。
また、王朝や国家と言う組織体は、三代で生成から衰退を体現して、60年や120年が周期だという説は、コンドラチェフに先行するものだ。それにしても、折角サウジで社会人として、人生を歩み出したというのに、僅か三か月で脱出してしまった軽率さに対し、いささかの反省をしたものである。
だが、カナダ体験は別の意味で価値を生み、多様な文化的な背景を持つ人に、次々と出会うチャンスに恵まれた。ソ連の油田経験を持つ技術者で、アフリカに派遣中に亡命して、カナダに来たロシア人が部下になったり、優れたコモンウェルスの人材が、親友になる出会いに恵まれたのだ。また、カナダには英国系の人が多いので、古本屋で掘り出し物を見つけ出して、大喜びする機会にも恵まれ、私は1927年にジョナサン・ケープ社から出た、『砂漠の反乱』の初版本を掘りだし、T・E・ロレンスを偲んで快感を味わった。
また、南米の遺跡を訪れた時には、無銭旅行中の日本の若者が、自転車でアフリカや南米を横断し、元気にやっているのに出会い、一緒に食事したり温泉に入ったりした。だから、外国体験はとても貴重であり、留学でも移民でも構わないし、欧米の若者がやる無銭旅行でも、若い時に旅に出ることは素晴らしい。
私自身もフランス留学時代に、通りすがりの日本人の旅行者が、小田実の『何でも見てやろう』を置いて行き、それに啓発された思い出があった。そこで、80年代の初めの頃だったが、『日本脱藩のすすめ』を出したところ、日本から50人近くの若者が、私の会社を訪ねて来たが、それはアメリカ時代の話だから、機会を改めて紹介することにする。

221藤原肇:2015/12/13(日) 12:07:10
1970年代から80年代にかけて、東京はある意味で情報があったから、年に数度の頻度でも訪れるだけで、情報の断片が色々と集まったし、優秀なトップ屋たちが元気に活躍していた。日本人の国士も健在であり、正義感に基づいて活躍していたから、田中金脈が起きる前までは、頻繁に東京を訪れて人脈を作ったので、この頃は毎年二冊くらい本を出し、人生で最も生産的な時代だった。
カルガリーで出会った日本人では、元外交官の早川聖さんの存在が、何にも増して貴重な情報源だったから、毎週のように自宅に招いて一緒に食事をし、彼の体験談を大量にテープに録音して、それを元に何冊も本として出した。
なぜならば、彼は横浜出身の貿易商の息子で、父親は生糸と茶の輸出で財をなし、神奈川新聞の創業メンバーの一人だが、吉田茂の養父の吉田健三とは同じで仲間あり、山下公園に近い屋敷が隣り合わせだった。吉田健三はマセソン商会の番頭から、独立して実業家になって財産を作り、養子の吉田茂を外交官にしているが、早川さんも外交官になってから裏方に回って、外務省がブラックチェンバーを開設した時に、その責任者として暗号解読を指揮した。
また、戦後は横浜の終戦事務局に出向し、鈴木九万公使の下で実務を担当して、東条英機が自殺未遂で収容された時には、天皇の見舞いの果物篭を野戦病院に届け、その後は神奈川県に入って調整官を担当してから、ジェトロに入り海外支局長を歴任していた。彼は外交の裏道を生きた人であり、その体験はとても貴重だったので、彼の人生体験を吸い取るために数年を費やし、私としては大いに学ぶものがあった。
その成果は『インテリジェンス戦争の時代』であり、それを出した山手書房新社の社長は、外交官の曽根益の秘書官だったし、ある資料を出版したいと考えて、経営難の山手書房を買ったのだった。
山手書房は宗教評論家の高瀬が、人生論の本を出すために作って、そのうち『日本をダメにしたナントカ』で当たり、何百冊も本を出すに至った出版社で、早川さん絡みの拙著も二冊ほど出ていた。ある時この出版社の編集者から、敗戦時の秘話を本にしたいと手紙が届き、ちょうど早川さんと暗号について、対談した記事があったので送ったところ、対談は売れないので書き下ろすという。そこで任せたら『暗号解読』という本が出来たが、文体は稚拙で内容も杜撰に属す、恥ずかしいような本が出来上がってしまった。
山手書房を買った新社長が、数百もある版権付の本を調べたら、数冊だけ再販の価値を持つ本があり、その中に『暗号解読』が入っていたので、再販する形で出したいという。だが、私としては出来損ないの本だから、書き直しをしたいと提案して受け入れられ、それが『インテリジェンス戦争の時代』になった。彼が出したかったの『第二次世界大戦終戦史録』で、外務省が敗戦時に持っていた資料を集めて、百部だけ謄写版で印刷したが、後で回収して廃棄処分にしたものだった
。だが、一冊だけ外交官の曽根益が隠匿し、それを秘書官に退職金代わりに渡したことから、私の本の出版の話にも結び付き、拙著に続いて出たのが『昭和陸軍“阿片謀略”の大罪』だった。その辺の経過はどこか忘れたが、書いた記憶があるので省略することにして、この本はアヘン問題に関しては、みすず書房の『続・現代史資料(12)』と並んで、日本最高の基礎資料に属す力作である。また、その著者の藤瀬一哉の謎解きを敢えてすると、共に私の熱烈な読者で友人でもある、佐藤肇と岩瀬達哉の合名だったのである。

222藤原肇:2015/12/14(月) 12:57:29
都知事をやった猪瀬直樹の本は、現場取材の多くが岩瀬の仕事で、そのことは『アメリカから日本の本を読む』の中にある、猪瀬の本の書評を読むだけで、一目瞭然になるように書いてあるが、それを読み解いた人は未だいない。多くの人から「藤原さんは猪瀬直樹のことを評価し、珍しいほど褒めていますね」と言われたが、私は「この人は一度しか読んでいないな」と思い、否定も肯定もせずに微笑んだので、その謎解きをここでして置くことにする。
たとえば「・・・ハルバースタムが完成したニュー・ジャーナリズムの新しいアプローチは、個人主義の国アメリカに似合わしいスタイルを持つが、チームワークで能率をあげる日本流のやり方も、なかなかの成果をもたらす。そのことは多面性に富む内容からも十分結論でき、巻末に協力者として顔をのぞかせている取材スタッフに対して、忍耐強い裏取り作業の労をねぎらいたいと思う。
本来ならば、口をつぐんだまま幽界に旅立ってしまうはずの、賀陽宮家の田中執事とか禁裏に詳しい天皇側近、あるいは、歴史の目撃者たちの証言を、手遅れにならない時点で収録し活字化した功績のかなりの部分は、取材チームのメンパーたちの努力に基いているはずだからである。・・・」を読めば分かるはずだが、取材をチームを組んだスタツフが行い、著者を名乗る猪瀬直樹はそれを書き屋としてまとめ、著者として本を出しただけというのが評者の立場だ。
だから、真の著者は取材スタツフであるから、私は猪瀬とは言わずに著者として褒めた。しかも、猪瀬の名前を使ったのは次の二か所だけで、「猪瀬さんこそ現代における天皇制の語り部だ、と思わずには居られなかった」と「それは『ミカドの肖像』を書いた猪瀬さんにしか扱えない問題だろうし、・・・」だけだ。猪瀬は天皇の語り部であるし、『ミカドの肖像』を書いただけで、取材には無関係な「書き屋」に過ぎないと、私は言外で主張したつもりである。
また、『ミカドの肖像』の本文をいくら読んでも、「賀陽宮家の田中執事」の名前や、「禁裏に詳しい天皇側近」のことは書いてない。これは著者を名乗る猪瀬に対して、こちらは取材源まで知っているが、猪瀬は知らないだろうという、突き付けたメッセージになっており、これはヨーロッパ風の「褒め殺し」の手法である。
しかも、取材スタッフの中心人物が、他ならぬ岩瀬達哉だと知り抜いた上で、私は注意深く「著者」と言う言葉を使い、彼の下積みとして取材した努力を労っている。ここまで手の内を明かせば、ものを書くのには大変な配慮が要るし、簡単な仕事ではないということが、嫌と言うほど良く分かるはずだ。
それは藤原定家が『百人一首』を作った時に、後世の人が謎を解くことを期待し、十次元の魔方陣を組み立てて、『百人一首の魔方陣』を組み上げ、それを人生の醍醐味にしたように、それが物を創ろうとする人間には、最高の報酬だと分かるのである。それにしても、書評の本は日本では出ないらしく、無名の著者の書評本としては、文芸春秋社としては最初のものだったが、この本には出版になってからの話として、嫌なエピソードが絡み付いたのである。

223藤原肇:2015/12/15(火) 11:10:22
『アメリカから日本の本を読む』の草稿は、『文学界』の西永編集長が読んでくれ、無名の人の書評の本は売れないから、うちでは出さない慣例になっているが、知っている出版社に相談しようと言って、総て失敗してお蔵入りになっていた。数年後に別の編集者が出版部長になった時に、草稿を見せたら彼が編集してくれて、本になったというエピソードつきのものだった。この本は出版の直前に社内報に出て、それを見た社長の田中健五が激高し、「うちから藤原の本を出すとは怪しからん」と怒鳴り、担当部長を窓際族に左遷した歴史を持つ。しかも、配本後に本が戻ってきた段階で、コンピュータで品切れと表記して、誰も購入できないように工作したが、絶版にしたら出版妨害で大騒ぎになるから、文芸春秋社に行けば買えるという、実に苦心惨憺な妨害が行われていた。田中健五は川島広守の子分だったし、内調の使い走りをしたことで出世しており、社長に上り詰めた汚れた経歴について、『インテリジェンス戦争の時代』の中に書いたので、田中社長にとっては私のペンが、如何に目の敵かを知り尽くしていた。
『文芸春秋』を私物化して食い荒らし、極右の「日本会議」の機関誌に作り変えた、田中健五の正体と悪辣さについて、それを知っている日本人は至って少なく、日本自体の亡国化の原因になっている。それを記録した『インテリジェンス戦争の時代』も絶版で、証拠の記事も根絶やし状態だから、参考までにその記事の復活を試みて置く。
「・・・1970年代初期の『文芸春秋』に寄稿していた頃に、『諸君』の田中編集長に紹介されて執筆を頼まれたが、書く気がないと断ると取材協力を頼まれ、レコーダーの前で二時間くらいだが、喋ったものが活字になり、商社マンの裏話という変名記事に、仕立てられたことがある。その頃の私はウブで日本の事情に未だ疎くて、日本文化会議のことなど知らなかったので、ジャーナリストと在外公館の裏話を話し合うように頼まれ、一時間ほど喋ると屋山という御用記者の名前で記事になったが、その時に『諸君』がでっち上げや、謀略好みの雑誌であるという印象を持った。暫くして『諸君』から『文芸春秋』に移った田中編集長は、私の記事をかなりの変更や大修正して掲載したが、ある記者の記事などは六割が、私のボツになった原稿で出来ていた。このような滅茶苦茶が続いたので、江戸っ子の私が絶交を言い渡したら、『残念です』と言う短文の手紙が届いたものである。歴史の証言を集めるのが私の長年の道楽だから、老人や読者を訪ねては、昔話を聞き歩いている。
あるとき引退した警察庁のトップとの会話で、文芸春秋の田中編集長と喧嘩して絶交したと言ったら、こんなことがあると教えてくれた話がある。プロ野球の川島広守コミッショナーは、内調の室長や内閣官房副長官を歴任したが、60年アンポの後にユーゴの一等書記官から戻り、『俺がアンポ騒動の時に日本にいたら、岸首相が辞めるようなぶざまな警備はしなかった』と悔しがっていた。そして、大使館に出向以外は東京を離れずに、警視庁と警察庁の往復で公安を担当したが、警察庁時代の川島警備局長は、何か問題が起きると『田中を呼べ、田中に来いと言え』と怒鳴り、そこに駆けつけるのが取材記者時代の田中健五だった。こうして内調ルートで編集者として出世し、『諸君』の編集長にも就任したのだから、田中編集長が頻繁に交際した影響で、清水幾太郎が転向した理由も分ったが、「われわれ警察のOBは三田中と呼んで、田中清玄、田中角栄、田中健五の戦後派トリオは、闇のキングお国のために役立った点で、それなりに功績残したと評価しています。
かつては保守派のサロン誌だった『文芸春秋』は、政府の広報記事や内調ルートのネタが多いし、国民の宣撫工作用に役立っていますよ・・・」と内務官僚のOBが苦笑していたのが印象深い。それにしても、日本ではこの種の悪徳行為が放置され、それを告発する習慣がないので、犯罪的な過ちと失敗か積み重なり、責任追及が行われないできたために、似たような失敗が繰り返されている。政治の歴史はその博覧会に似ており、いつか来た道の繰り返しだが、日本人がやった戦争の歴史も、悲惨なものだったのに美化されてしまい、その実情は国民に伝わっていない。

224藤原肇:2015/12/16(水) 13:16:47
その一例に日露戦争の時のケースがあって、軍医総監になっている森林太郎は、脚気を伝染病だと思い込んで麦飯を中止して、兵隊に白米の食事を食べさせたために,戦死の何倍も脚気で兵隊が死ぬ悲劇が起きた。そのことをミトコンドリアと免疫の専門家で、脚気に詳しい西原博士と議論して、鴎外の医者としての無責任さを教えられ、愕然とした経験を味ったことがある。
西原先生はミトコンドリアの研究者であり、免疫学の論文で学位を取っているし、重力進化論のパイオニアとして、多くの著書を持つ口腔外科医である。しかも、東大医学部の研究室に講師で入ったが、昇進なしで定年の時も講師で退官し、反骨を貫いた野武士的な医者である。彼はダーヴィンの進化論を批判し、系統発生と個体発生の観点に基づいて、「用不用の説」を支持しており、ラマルクやヘッケルの進化説の方が、より優れていると考えている点で、私も支持する理論の持主だ。
しかも、彼は目に見えないエネルギーに注目して、重力に進化の原動力があると考えており、私の判断によると西原進化論は、日本で最もノーベル医学・生理学賞に近く、もっと評価されて然るべき臨床医の一人でもある。
私が西原理論を高く評価している理由は、現在の問題と考えるに当たり、「現在は過去を解く鍵」と言うライエルの斎一説と、系統発生を論じたヘッケル説を組み合わせ、問題を原点に立ち戻って考察するからだ。大部分の学者は現象だけを見て、いろいろなことを発言している時代にあって、限られた人は根源に立ち戻り、隠れているものまで見通すが、それは数理発想が出来るからで、逆や対偶を自由自在に使いこなし、多次元的な捉え方をしているために、柔軟で開放系の思考力を持つ。
そうした思想家は今の日本に少なくなり、ざっと見ても加藤周一を始め、中村雄二郎や柄谷行人など、意味論や数理発想に習熟した人で、その多くが世界を舞台に活躍し、大衆を相手にした日本のメディアには、登場することはほとんどない。日本では有名であることによって、偉大であるという錯覚が支配し、森鴎外などを高く評価しがちだが、私の身近な関係者を見渡しただけでも、鴎外よりはるかに優れた人間だが、西周の存在と功績を知る人は少ない。
個人的な事柄で恐縮に思うが、祖先の出身地が津和野であり、幕末期の出来事になるとはいえ、その具体例として実話を紹介したい。
津和野で生まれた西周と森林太郎は、親戚関係にあったらしいが、この二人が私の祖父を媒体にして結びつき、それでこんなことを知るに至った。しかも、森林太郎と私の祖父は一緒に藩校に行き、子供の頃に喧嘩相手だったそうで、その話は【休憩室3】で西原先生との対談に、記録として歴史の証言が残っている。西原克成博士と脚気のことについて、対談して雑誌に発表した話の背景に、御一新の頃の津和野の話か関係しているので、脱線してそのことについて触れて置く。

225藤原肇:2015/12/17(木) 11:35:54
私の母方の祖先は島根県の津和野出身で、廃藩置県の時までは馬回りをやり、津和野の町の中心に屋敷があったし、墓石が30以上も並ぶ墓地には,永明寺の境内の飛び地に一軒分もある、広い区画の土地を占有していた。祖父の吉田謙助はガキ大将だったそうで、五歳の頃から百人一首を取って歩き、母の話では「小倉山の謙ちゃん」と呼ばれ、わがままな気性の男だったという。短期間だが藩校の「養老館」に通い、その時に二歳上の森金之助も一緒で、御殿医の息子のひ弱な森に対して、年下のくせに謙助は弱い者苛めをしたが、森は両親と共に上京してしまった。廃刀令と廃藩置県の実施の影響によって、家禄と刀を失ったショックだろうが、謙介はその後は仕事をしないで、体制から外れアウトサイダーになった。
そして、鳥竿を持って山野を歩き回り、自分で竹を削って鳥籠を作って、鶯をモチで取って歩く一生を過ごしたらしい。また、津和野には中学校がなかったので、屋敷を活版印刷機と交換して、中学校があった浜田に引っ越しをすると、子供たちを中学と女学校に入れた。津和野の町の中心にある造り酒屋に行き、古橋という店の老女に会って、30年以上も前にインタビューしたが、確かにそこは昔の吉田家だった。
それよりも重要なことは郊外に家があったので、西周が町中の吉田家に下宿し、藩校に通っていた証拠が残っており、吉田家には西先生の机と呼ばれた、書見台に近い杉の文机がある。その机の裏面には丸文字が墨で書いてあり、「読書百遍而義自見」という漢文で、郷土館の学芸員が西周の筆跡だと鑑定した。そんなことから、中学生の頃に西周の『百一連環』を読み、ライデン大学への留学にも憧れたことは、私が子供だった頃の原体験でした。文学少年だった私は漱石と鴎外が好きであり、子供の頃から繰り返して読んでいて、西先生の文机のことも影響していたから、「読書百遍」という言葉に敬意を表したので、二人の作品を読み抜いたつもりでいた。
ところが、森鴎外や日露戦争について議論し、西原先生から医者の立場から脚気の話になり、森林太郎の無責任さを教えられて、森鴎外の作品を読み抜くという意味では、自分の眼光がいかに弱かったかを痛感した。それは西先生の机に「読書百遍而義自見」とあり、何遍も繰り返して読み返すうちに、「眼光紙背を徹す」という言葉通り、相手の頭の中まで読み抜くはずだが、私にはそれが出来ていなかったと分かって、情けない思いに支配されたし、言行一致の難しさを思い知らされたのだった。
これは克服できない私の問題だが、同時に今の日本人に共通した欠陥であり、寺子屋時代の江戸時代には、「読書百遍」が支配的だったので、その弊害は少なかった感じがする。明治になって一般教育が普及し、学校と軍隊が教育の施設として義務化され、そこで学ぶのが通り一遍になり、文部省の役人が推進した国民教育によって、考えるより覚えたり感じることが、最優先されたからかも知れない。特に歴史教育がその典型で、日本史は世界史から分離され、日本史も古代史や王朝史が中心になって、日本人の歴史感覚は完全に歪み、歴史を変化の相で捉えられなくなった。
しかも、私の個人的な体験からしても、日本史は幕末までで終わりであり、近代化や工業化の断片としては、中学の社会科の中で教わったが、高校の日本史は幕末で時間切れだから、日清戦争や日露戦争はおろか、帝国主義について学んだ記憶は皆無である。だから、世界史の中における日露戦争が、どんな意味を持っていたかについて、思いめぐらす訓練はないままに、それを小説や映画の世界を通じ、物語として接してだけであるから、思考するのではなく感じる歴史だった。

226藤原肇:2015/12/18(金) 09:54:09
日露戦争は大国ロシアを相手にして、小国だった日本が軍事的に勝ったということで、世界中がこの戦争を知っているし、司馬遼太郎の『坂の上の雲』のストリーによって、日本人が好む誇り高い戦争である。ただ、誇りには二つのレベルがあり、感覚的に満足をして誇りを持つものと、考えて客観的な評価に基づいて、誇りを自覚するレベルのものが存在しているし、その間に大きな格差がある。前項の225)の最後のところに、[思考するのではなく感じる]と書いたが、思考と感覚が分離した形でなく、感じたことを理性で思想化することで、ホモサピエンスとして自立するのだ。一般的には感情移入するのは簡単であるし、理知的な理解はより困難だが、実はこの二つを分離しないで、共時的に体全体で受け止めるように、頭と心の調整をすることである。だが、その辺がウエットな日本の環境条件と、それを巧妙に使う権力によって、日本人は簡単に洗脳されており、理知より感情による支配のせいで、総括をしない状態が続いて来た。
それにしても、戦死者の数倍の脚気による病死者を出し、その責任が放置されているという意味で、餓死者が戦死者の数倍もあった、太平洋戦争の無責任体制の原点に、日露戦争の脚気の問題は位置していた。また、日露戦争の時の脚気での兵士の死亡は、森鴎外という軍医の責任者が、間違った理論を思い込んで強引に主張し、何万人もの兵隊を殺しているというのに、本人は出世して軍医総監になった。しかも、本業とかけ離れた文筆の世界において、文豪という虚名の仮面を冠ることにより、本業で犯した巨悪の犯罪行為が、糾弾されずに罷り通っているために、同じような犯罪が至る所で繰り返されている。太平洋戦争はそのお花畑で、餓死者が戦死者よりも圧倒的に多い例は、ガダルカナル、インパール、ニューギニア、フィリッピン、ボルネオ、アッツ作戦など、数えきれないほどたくさんあるし、レイテ島では餓死者の肉を食べた記録が、大岡昇平が小説の中に書いてある。
インパール作戦などは補給のことを全く考えずに、ジャングルの中を進軍して全滅し、日本兵の白骨街道だと言われたほどだ。野砲をバラして兵隊が担いで山を越し、牛はジャングルなど越えられないのに、牛を連れて行ってその牛を食べて行軍する、支離滅裂な「ジンギスカン作戦」をやった。だが、司令官の牟田口は全く責任を取らず、俺は悪くないと戦後も言い続けて、責任を兵隊側に押し付けた破廉恥漢だ。軍隊は合法的な国家の暴力組織だから、間違った命令や決断を下しても、命令での行動として責任は追求されず、犯罪行為の責任は全く追及されていない。同じことが福島の原発事故でも繰り返され、東京電力や監督官庁の誰一人として、検察に起訴されることがなかったが、放射性の汚染で福島の子供たちは、これから放射能障害のために病気になり、長期間にわたり苦しむことになる。
私よりも放射能問題について詳しい、有能な日本人が幾らでもいるので、福島の問題に関しては彼らに任せたい。だが、森鴎外は津和野絡みの縁があるし、日露戦争の時の脚気による犯罪行為は、太平洋戦争の餓死問題と共に、地震国の日本に原子力発電所を大量に作り、日本列島を地獄にした犯行の発端だから、以下に西原博士との対談を【休憩室 3】として収録し、歴史の証言として次の世代に残すことにした。

227藤原肇:2015/12/19(土) 14:25:07
【休憩室 3】
森鴎外として明治の文壇に名を留め、漱石と並んで高踏派と呼ばれた鴎外は、軍医としての森林太郎というヤブ医者が、軍医総監として最高の地位を得るまでに、彼の医学的に誤った思い込みにより、何万という陸軍兵士が脚気で,死体累々という悲惨で残酷な歴史が残っている。それを論じたのが以下の対談だが、その記録は『鴎外最大の悲劇』が論証しているし、ミトコンドリアの専門家の西原博士が、この対談の中で検証していることでもある。この対談の脚気についての話の中に、森の上司の石黒忠悳と海軍の高木兼寛が登場し、海軍の名医の高木兼寛に関しては、『高木兼寛伝』や『白い航路』などで、その人柄や功績について分かるが、その辺の歴史を私は丹念に追ってみた。そうしたら、致命的だった陸軍と海軍の対立の原因を始め、医学界における東大閥と慶応閥という、日本を狂わせた派閥争いだけでなく、オランダ語から英語への転換政策によって、蘭学を捨てて功利的な英語に切り替えた、「適々斎塾」出身の福沢諭吉の人生が、森林太郎の人生と二重写しになった。ドイツかぶれの森林太郎に対して、英国かぶれの福沢諭吉の二人の明治人が、いかに日本の運命を狂わせており、未だに英雄視されている状況については、福沢が持ち込んだ脱亜論と功利主義の面で、大いに吟味する必要がありそうだ。
話を鴎外と石黒の問題に戻すと、森林太郎は年齢を二歳偽ることで、12歳で東京医学校予科に入学しているが、19歳で卒業して陸軍省の軍医になり、ベルリンに渡ってドイツ医学の実習を体験して、出世街道を踏み出すことになる。彼の上司には辣腕の石黒忠悳がいて、彼は幕府が下谷の和泉橋に作った、緒方洪庵が初代頭取の医学所で学び、そこの教官として学生を指導したが、この医学所を東京医学校にした上で、新設の帝国大学の医学部として、発展させる計画の責任者だった石黒は、西欧人の医師を教官に必要としていた。だが、長崎で医学や西洋知識を教えたシーボルトは、スパイ容疑事件後に日本を去り、その後任のポンベ軍医少佐は善意の無償行為で、シーボルトの後継役を果たしたが、英国はカネ儲けや兵器の販売で忙しくて、日本の人材教育には冷淡だった。そんな時に大阪医学校で教えていた、オランダ人のボードゥィン医師が、横浜から帰国するので東京に立ち寄り、オランダ語の達者な石黒と会った時に、石黒に上野の東叡山に案内され、寛永寺の境内を取り払って整地して、大学と病院施設を作る計画を聞き、とんでもないと反対して次のように言ったという。「世界の大都会で自然の庭園がない所では、総て人工により樹木を植えて、新たに庭園を設計さえしている。
ところが、この幽遠で比類のない古い樹木のある、またと得難い景勝地を潰して、折角の美観を生み出す大木を切るのは、無謀もはなはだしい愚行だ」と批判した。それを聞いた石黒はもっともだと考え、候補地を不忍池の西方に位置する、本郷台の加賀藩邸の場所に変え,そこに出来たのが東京帝国大学で、森林太郎はそこで医学を学び、官吏として出世街道を突き進んだのだった。
こうして、東叡山には上野公園が作られて、自然と文化の中心として憩いの場になり、緑地の少ない東京で都民にとって、寛ぎの空間として緑地帯を生み出し、それが明治に生きた人からの贈り物になった。ところが、こうした先人の遺産や暖かい配慮を忘れ、利権がらみの東京オリンピックのために、青山の緑地地帯と神宮の森を潰して、醜悪な神宮競技場を作ろうとする、愚劣で野卑な計画が進行している。もしも、それを止める力を持ち合わせないで、市民を無視した暴政を放置すれば、東京は亡国日本と共に自滅の道をたどり、地獄に墜ちる運命に呻吟するという、悲惨な事態に甘んじるだけということになる。
〝明治の大文豪〟森鴎外の隠された真実
「日本最悪の医者」としてその犯罪を裁く

228藤原肇:2015/12/22(火) 17:08:56
『インテリジェンス戦争の時代』が出た時には、タイミングが良かった関係もあって、興味深いことを目撃する機会に恵まれた。この本はベルリンの壁が崩れてから、一年ほど後1991年に出版になったが、その辺のことはどこかに書いたので、記事が見つかれば有難いと考えて探したけれど、「過去のログ」で発見出来なかった。東欧圏の鉄のカーテンが崩れて、アメリカの宿敵だったソ連の共産主義に代わり、バブルで膨れた日本の経済力が、米国の狙う攻撃対象になったために、CIAの工作対象が軍事謀略から、日本の経済攪乱に移った時でもあった。
記憶が定かでないので確かではないが、CIAが政策の転換を決めた論文を出し、その中に『Conplehensive Intelligence』という言葉があり、これは何か変だと思っていたら、東京でその会議が開かれるという。しかも、その準備委員長が私の読者の一人で、ある商社の部長クラスの男だったから、用心するようにと警告したのだが、どうもアメリカの狙いが感じられた。日本が誇るテクノロジーの秘密が、アメリカが使う国際組織を通じて、抜き取られてしまう恐れが濃厚だのに、善良な日本の高級技術者たちは、国際という耳さわりの良い声に魅惑され、そこに取り込まれようとしていた。
なにしろ、米国からは航空機会社の副社長や大学教授が来て、上海からは戦略研究所長が参加し、ロシアやフランスからは参謀本部系統に属す、軍関係者が出席するという話だ。
しかも、基調講演をするルンド大学のディディエ教授は、諜報関係では知られた人物であり、ルンド大学の情報学部は対ソ諜報の拠点として、スウェーデンに作られた組織だから、この会議は情報関係者の集会に等しかった。日本側の組織の自称責任者が、私の読者で商社マンだった関係もあり、日本人で情報を論じる能力を持ち、世界から来るその道のプロを相手にして、渡り合える人をパネルの中に入れ、相手に付け込まれない体制を整えることが、絶対に必要だとアドバイスしてみた。
だが、日本には内調や公安調査庁とか、自衛隊にしか専門家は存在しないし、情報では商社が最先端だと自惚れ、全くお話にならない状態であり、最後には私に出てくれと頼んだので、仕方なく偵察のために東京を訪れることにした。
この会議の後援者の顔ぶれの中に、在東京米国商業会議所が参加し、案の定というかCIAの元職員たちも混じり、コンサルタントや技術者の肩書で、動き回っている様子が如実に観察でき、日本人の脇の甘さが良く分かった。一つの共同体の中に入っていると、その中の伝統的な見方に慣れて、習慣に従って物事を判断してしまうために、第三者の客観的な視点から眺め、無限の側から有限を捉えられなくなる。そう考えて私は外部世界に立ち、外から日本を観察していたのに、焦りの気持ちがあったせいだろうが、米国も日本も異郷とは見ないで、知的な交通で単独者たり獲なかったようである。
だから、当時の私は想像能力が未熟だったので、米国のネオコンの野望を感知する上で、十分な全体図を捉えきれない状態にあり、国務省の「年次要望教書」が出ていて、日本の解体政策が推進されていたのに、それを正しく見抜く才覚を持っていなかった。それについて詳細を知ったのは、関岡英之の『拒否できない日本』を読んで、その実態を理解した後であるが、それは十年以上も過ぎた2004年であり、21世紀になってからの話だったのである。

229市川昌人:2015/12/23(水) 06:42:48
ご健在であられることお慶び申し上げます。現在古事記の暗号に辿りつきました

230藤原肇:2015/12/29(火) 15:14:40
2015年もいよいよ暮れて行き、秒読みの段階になって来たので、私的な話になってしまい恐縮に思うが、この欄の表題が「最近読んで印象的だった本」だから、表題に則したことを書いておきたい。大晦日までに仕上げたいと思い、ここ数日の時間の全部を振り向けたのは、二冊の本を並行して読み進め、ある意味で読書三昧をしていたのだが、やっとこの試みが完了したから、その喜びについて報告する。また、大晦日が近づいてくるにつれ、残り少なくなったページを感じて、名残惜しいような気持ちに支配され、あと何日で終わりかと思い、寂しい気分に包まれた読書は、久しぶりに味わう充実したものだった。それと言うのは、堀田善衛の『ミッシェル城館の人』第三と、モンテーニュの『エッセー』の第三巻を同時に読み、それがやっと完了したのだった。
『エッセー』の第三巻にはb)とc)の註があり、これまで何回か『エッセー』を読んだが、c)の註に注意して読んだことはなかったので、今回はそこに焦点して読むことにした。しかも、夏ごろに堀田善衛の『ラ・ロシュフーコ―侯爵伝説』を読み、これがコードブックだと気が付き、モンテーニュの暗号が解けると思った。日仏における相似象を捉えるには、『明月記』と『方丈記』を『随想録』に重ね、モンテーニュが文字にしなかったことが、何かという謎解きができるはずだと、思いついたということでもある。
その前に気になったのは、どこかに書いたのに記憶がないので、調べて見たらこの欄の172)で発見したのだが、今年の始めに私が読んだ本として、堀田善衛の『定家明月記私抄』があり、その読後感を次のように書いていた。
「・・・弁慶と牛若丸の話を始め、義経を保護した平泉の藤原氏の滅亡とか、平家と源氏の争いや壇ノ浦の合戦に関してのイメージが、平安末期から鎌倉時代について、何となく歴史の断片として頭の隅に貼り付いていた。また、西行法師、源実朝、法然、親鸞などの名前の後に、『千載集』『新古今』などの和歌の世界と共に、藤原定家や後鳥羽上皇が登場した時代の面影もある。後鳥羽が二桁の后や女官だけでなく、遊女や白拍子を相手にして、博打や猟色に明け暮れただけでなく、摂政を相手に男色にふけり、荒淫荒亡を尽くしたことは知識としては知っていた。しかも、連日のように放火や地震が起き、堀田善衛のペンに従えば、『学徒群起、僧兵狼藉、群盗横行、飢餓悪疫、地震、洪水、大風、降雹、大火』で,『天変しきりに呈すといえども、法令敢えて改めず』が続いて行く。そして、『古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず、ありとしある人は皆浮き雲の思いをなす』という『方丈記』の冒頭の言葉は、地震や噴火の予兆に怯える日本の現状に重なり、まさに不吉な相似象ではないかと思う。・・・」
堀田善衛の『定家明月記私抄』と『定家明月記私抄続編』を読んだ後で、更に『方丈記私記』を読んで、これらの本が同時期に書かれていて、この狂乱の時代が今と同じだと感じた。相次ぐ地震や原発の爆発が起き、小泉や安倍のような戯け男たちが、暴政の限りを尽くしているのに、庶民はその深刻さに気が付くこともなく、地獄を極楽と錯覚したままでいる。そうしたこの世の地獄が起きている時に、そうした環境から一歩離れて、日本の古典の『方丈記』や百人一首が作られた。だが、後世の人は古典を読むだけで、歴史の真の姿を見ようとせず、鏡像が狂気の古典の方を見て、その裏に潜んでいるものを忘れるは、不思議なことだと痛感したのである。


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