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最近読んで印象的だった本

1藤原肇:2005/05/03(火) 03:32:41
「戦後日本の十大名著とは」のスレッドが低迷しているのは、十大名著を選ぶのが難しいという理由の他に、自分が読んで良かったと思う本に触れたいという気持が、このスレッドでは十分に生かしきれないことが関係し、それが阻害要因になっているという感じがします。
最近(過去でもいい)読んだ本で印象深く感じ、仲間と分かち合いたいという気分になった本があれば、この欄を使って議論したらいかがでしょうか。
言い出しっぺの私が先ず書き込むことにして、陣内秀信さんの「イタリア小さなまちの底力」(講談社)を読み、毎年のようにイタリアには行っているのに、見落としたものが余りにも多いと気づかされ、この夏はイタリアにまた行きたいという気持になりました。

2海原並彦:2005/05/03(火) 09:59:06
戦後日本にこだわらないということですと、感想を分かち合いたい名著は結構出て参ります。
藤原博士、貴重なご提起をありがとうございます。

先日、帰郷した折に、少年時代に読んだ、ソ連の歴史家イリーンとセガールによる『人間の歴史』(岩波書店)を20年ぶりに再読しました。
この本は函に「小学5、6年生以上」とあり、少年少女向けの本のような印象がありますが、語り口は平易なものの内容は相当に高度です。
(この本は、現在40代くらいの方がティーンエイジャーだった頃は、学校の推薦図書のような形で誰もが書名を知っている本だったのではないでしょうか。ところが現在の感覚では、大人向けだとしても結構骨のある本といわれてしまうかもしれません。活字文化の衰退を感じます)
正直言って、10代の初めに読んだ時はよく分からないところが多かったのですが、今読んでみると非常な名著だな、という感慨を味わいつつページを繰りました。
主にヨーロッパの歴史が中心ですが、ロシアというある意味ヨーロッパの周辺部の作家であることもプラスに働いているのでしょう、バランス感覚の優れた鳥瞰的な視点で、壮大な人類史のうねりを描き出す試みが行われています。

またこの本は、単に歴史的な出来事を物語るだけにとどまらず、人類の思想史ともなっており。特にヘラクレイトス、タレス、アナクシメネス、アナクシマンドロスなど、ソクラテス以前の哲学者達に関する記述が出色だと感じました(ちなみに、ソクラテスについては批判的です)。こちらも唯物論が標榜された共産圏の作家であることがプラスに働いているように思えます。

イリーン氏はおそらく、近代、もしくは現代に至るまでの人類史を構想していたのでしょうが、逝去によりルネサンスの手前までとなっているのが非常に残念です。

ともあれ、ビジネスマンの間では、戦国や幕末の人物伝や歴史小説が依然として人気がありますが、グローバル化の中、こうした人類史をひもとくことも非常に役立つのではないでしょうか。

また本書からは、以前の脱藩総会で話題に出た「ソフトな形で進行する奴隷化」についても多く示唆を受けるところがあったのですが、こちらはまた別のスレッドで寄せてみたいと思います。

3小田麻実:2005/05/03(火) 15:09:48
藤原さんが陣内秀信氏の著書をご紹介くださったおかげで、私も本棚にある氏の
2冊の著書の存在を思い出しました。
陣内秀信著「ヴェネツィア 水上の迷宮都市」(共に講談社現代新書)
そして「南イタリアへ!地中海都市と文化の旅」
5〜6年ほど前に初めてヴェネチアを訪れる直前に知人から贈られたので
この本を持って読み進めつつ滞在できたのは幸運でした。
イスラムの迷宮都市についても実地研究を進めている著者自身、この水の都に
2度にわたり在住した経験を持っているようです。
水上都市としての側面、イスラム的要素を感じさせる迷宮都市としての側面、
交易都市としての側面、から街の機能の細部(市場、広場、劇場、祝祭、流行など)
を五感で捉えています。
ガイドブックの類は常に俯瞰図で街を眺めますが、陣内氏の著作では
位相的に臨場感を持って都市の魅力を伝えてくれます。
イタリアには小さくても舞台装置として大変魅力的な都市がたくさんあり
最初にハードを築きあとからソフト面を充実というのではなくて、ハード・ソフトの
微妙なバランスを保ち発展してきたように感じます。
陣内氏はイタリアが専門だから著書はないだろうがウィーンやパリも同様に捉えて
彷徨ってみたらいろんな発見があるだろうと思います。

5藤原肇:2005/11/08(火) 11:37:18
読者の渡辺さんの葬儀の後で憂いを和らげるために、数日の小さな旅行をして帰宅してからの五日間は、届いていた二冊の本に引き込まれてしまい、食事を忘れるほどの思いで頁をめくり瞑目して思索を楽しんだ。一冊目の本は『近代市民社会論』(今日の話題社)であり、これは中村勝己教授が慶応大学経済学部で、四年生を相手に行った一年分の授業の講義録である。ライプチヒ大学を母型にハーバード大学を手本にして作った、慶応大学理財科の伝統を守り続けた中村先生が、マックス・ヴェーバーの仕事を下敷きにしながら、学問とは何かについて薀蓄を傾けたもので、ヨーロッパ式の学びの雰囲気を満喫できる内容だ。
二冊目は『近代市民社会論(大学院編)』という本で、これは先生が退官する前の大学院で一年間行ったゼミ的授業の語り下ろしであり、『丸山政男講義録』より遥かに整理されていて、学問の真髄に接することができる名著である。私は一週間足らずの読書三昧によって、大学の学部と大学院の数年間を体験できたと感じ、生きていることの喜びをかみ締めることが出来た。それは『KZP』の中でエピソードを紹介した、ケット・ドゥ・ヴァリー教授の書いた『Leaders, Fools and Impostors』(iUniverse, Inc) を読み、INSEAD(欧州経営大学院)に行かずして学んだ満足感と同じ、実に充足した気持ちになった時の再元だった。
私の体験を皆さんに分かち合いたいと考え、これらの本をプレゼント本に加えたいと希望するが、ゾンビ政治が支配する日本の経済はガダガタで、中村先生の珠玉といえるこれらの本を出す出版社が無く、先生はこれを自費出版されたのだと、私にこの本を送ってくれた将基面さんから知らされている。そこで何十冊かを頒けて頂け得ないかと、中村先生に連絡を取っているところであり、もし、入手が実現したら『KZP』の出版祝を兼ねて、プレゼント本の中に加えることにしたいので、それが実現することを百日一日の思いで待ち望んでいる。
自費出版あるいはそれに近い形で出た本は、図書館にもないという悲しい問題が現実にあり、それを私は『賢者のネジ』で体験している。『賢者のネジ』の場合は百冊買ってくださった人が五人もいたし、寄贈キャンペーンに協力してくれた人がそれぞれのやり方で、図書館に寄贈して下さって私は感激した。そこで、もしも中村先生の本が難しすぎると感じた場合には、近所や母校の図書館に寄贈していただければ、日本人が誇る名著を次の世代に伝えられるし、それが真に価値あるソフトの蓄積だと思う次第である。

6藤原肇:2005/12/11(日) 04:34:29
『近代市民社会論』(今日の話題社)が亀山さんのところに届き、プレゼント本の中に加えることが出来て嬉しい限りです。これは中村勝己教授が慶応大学法学部で、四年生を相手に行った一年分の授業の講義録であり、学問とはこういうことかと感じる名著です。
ただ、『近代市民社会論(大学院編)』もプレゼント本にしたかったのだが、在庫はなく増刷りする予定も無いから悪しからず、という返事を中村先生から頂き入手できなかったので、この本を持つどこか良い図書館を探し当ててください。
中村先生の二冊の名著を『KZP』と共に、全世界の日本語学科を持つ大学の図書館に寄贈するつもりだったが、大学院向けが無くても残りの二冊のコンビということで、本が到着したら発送したいと待っている状況です。

7相良武雄:2005/12/15(木) 22:47:09
 中村先生の存在さえ、在学中に知らなかったことは反省せねばなりません。
当時の勉強不足を恥じるばかりです。中村先生のこの本は、東京の公立図書館では
4箇所にしかありません。それも学部用のものだけのようで、慶応の図書館には両方六手いるようですが
借りられないでしょう。

 さて、久しぶりに分厚い本を読みました。ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、
マオ 誰も知らなかった毛沢東 です。ただ、1回しか目をとおしていませんが、面白い記述が
ありました。

引用すると



 張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、
ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、
実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン
(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の
仕業に見せかけたものだという ということです。

これが事実なら、歴史が変わる可能性があります。あの一連のどたばた
劇はなんだったのか。この事件の処理に関する発言以降、昭和天皇が
明確な意見をしなくなったという話。なぜ、河本をとりあえず罰したのか。
疑問が生まれます。これは、日本人に向けた問いかけではないでしょうか。

 しかし、歴史の真実(これは事実化は別)が、外国からしか、生まれず、本当の
歴史とは何かを感じた次第でした。

8海原並彦:2006/06/11(日) 22:52:22
ご無沙汰しておりました。
海原です。
久々の投稿ですが、また参加させて下さい。

現在『セロトニン欠乏脳』(有田秀穂著 NHK生活人新書)という本を興味深く読んでいます。

3年位前の脱藩道場で、藤原博士が薬学の専門家であるお嬢さんからの情報として、セロトニンを高めるには、朝日を浴びて、バナナ(トリプトファンを含むため)を食べるとよい、と話されているのを覚えている方もいらっしゃると思います。

本書は、セロトニンを高める方法として、日光、食事(納豆やバナナなどのトリプトファン含有の食物と、良質なデンプン質)に加え、「リズム運動」の効用について詳述しています。

特にリズム運動については、呼吸法を通じて日本古来の座禅や武術との関連も含めて解説されています。
「上虚下実」や「弓は力でなく呼吸で引く」といった意味がようやく論理を通して理解できてきた思いです。

古人は歴史を通じて座禅、武術、各種芸能から手仕事、日常の作法まで「極意」を培って来たわけですが、悲しいかな、現在の我々は同じ日本人でありながらもはやその言葉を理解できなくなっています。ミッシングリングがあるわけですが、本書はその間をつないでくれる貴重な書籍だと思います。

10海原並彦:2006/07/05(水) 23:06:51
今東光『毒舌日本史』(文春文庫)
京都の街が神社や寺でひしめきあっていることからも分かるように、日本の歴史に神道や仏教など宗教の果たして来た役割は計り知れないものがあるわけですが、近代的な歴史学では、宗教側からの影響についてはあまり触れられていないのが現状です。
本書は天台宗権大僧正・今東光和尚が、いわば宗教側からのインサイダーの視点・情報をもとに日本歴史を解説した歴史書といえると思います。
語り口は与太話を交えた雑談風ですが、実は相当の加筆・整理を行った上で刊行されていることがうかがえます。
注も非常に充実しています。
今和尚は、テンプラ学生として旧制一高、東京帝大に学び、作家を経て32歳から本格的に比叡山で修行に入るという経歴の持ち主です。顕教・密教に通じ、易学の大家でもあったということですが、日本において1200年に及ぶ歴史を持つ天台教学の奥深さの片鱗がうかがえます。

明治以後の国家神道による政治の堕落は、明治初期の神仏分離令に始まるといえるかもしれません。
なにしろ、神道から仏教が切り離されたということは、ギリシャ→ガンダーラ→大乗仏教と受け継がれて来た論理学という道具を神道が失ったということですから。
「神の数学」守護者様のスレッドとも関係するのではないかと思うのですが、一実神道、葛城神道、物部神道といった、神道各派について触れてあります。

11英語道無段:2006/07/29(土) 18:22:25
『黒田清 記者魂は死なず(有須和也著 河出書房新社刊)』
現存していたら、いまの日本の現状をどう評しているのかと思いつつ、何度も読み返しています。
『アメリカから日本の本を読む』でとりあげられた『警官汚職』を手にしてから、同時に独立した大谷昭宏氏とともに、黒田氏の著書はほとんど読みました。
読売新聞大阪本社社会部長を8年勤め、「軍団」と評される活躍ぶりを知ったのは彼らの独立後。独立後『窓友新聞』発行とともにフリーでの活動は、皆さんがご存知でしょう。
特定政党を支持せざるを得なかった晩年、癌と共存しようと試みつつ2000年7月
死去。氏の著書はamazon等で入手可能です。
牧歌的ともいえた昭和20年代後半の新聞社生活をへて、事件の最前線で記事を
書きつづけ、プレーヤーであろうとした氏とそれを許さなかった組織の対立の結果が氏の独立というのは日本メディアの限界であると思うのは、当方の穿った偏見でしょうか。
靖国参拝を支持する新聞社の記者の連載が黒田氏の存在を再びクローズアップさせる件は、社の蘇生の可能性を垣間見るとともに、皆さんにとって少しく
驚嘆に値するかもしれないと独り言しています。
皆さんの選書には及びませんが投稿した次第です。

12江戸川:2006/08/16(水) 13:17:13
『マネー なぜ人はおカネに魅入られるのか』ベルナルド・リエター(ダイヤモンド社2001)
著者はヨーロッパ統合通貨ECUの設計と実施の責任者の一人だった方で、ユングの元型心理学(影、グレート・マザーなど)から
お金の集団心理を解明しています。
これまでタブーとされてきた、性とお金の深層意識の解明は、これからの人類の将来にむけても急務であると思います。
神話の分析における元型心理学派と構造主義派の交流・対話などは行なわれているのでしょうか?
レヴィ=ストロースはユングを批判していたようですが、どちらも源流の一つにゲーテ形態学があるようです。
日本では構造主義派の北沢方邦氏の著作『古事記の宇宙論』(平凡社新書)などもお薦めです。
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4478210365/sr=1-1/qid=1155701150/ref=sr_1_1/503-9731291-5417511?ie=UTF8&s=books

『ユーラシアの神秘思想』(岡田明憲 学習研究社2005)
古代ローマの密儀やイスラム教のスーフィズム、ユダヤ教のカバラや仏教の密教といったさまざまな神秘思想は、決して個々に生まれ、発展したのではなく、
「人類の原思想」とも呼ぶべき、ひとつの起源から発していたことが詳述されています。
こういった分野の錯綜した全体像を整理するうえで、大変参考になりました。
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4054018351/ref=sr_11_1/503-9731291-5417511?ie=UTF8

13一色直正:2006/09/05(火) 14:18:41
「英語版Japan’s Zombie Politics出版について」のResの21)の所で、藤原さんがハイポロジーについて強調したのに誘発されたので、ハイポロジーという言葉と密着した本である、山田さんの「虚構と瞑想からの超発想」を引っ張り出しました。
副題には「ハイポロジックスの時代」とあるので、ハイポロジーの原点に相当すると読み直したところ、素晴らしい内容であることを改めて感じました。そこでこの本で論じられているものは、非常に興味赤いものが多いと思うので、新しいレスを建ててそこで議論したいと考え、皆さんとハイポロジックすに関しての意見を交換したいと希望します。
ただ「虚構と瞑想の超発想」を持っている人は多いと思いますが、絶版のこの本はかつて「宇宙巡礼」の「書店」で買うことが出来たのに、目下のところ「書店」は一時閉鎖されているので、持っていない人が買えなくて残念です。

14藤原肇:2007/05/21(月) 00:27:19
その頃は目の劣化で医者からコンピュータの使用を禁じられ、そのせいでタイムリーに報告できなくて残念に思うが、数ヶ月前に珪水さんから電話連絡があり、宇野多美恵さんが軽井沢の別荘で火事に遭遇して、焼死されるという不幸な事故があったと知らされた。
宇野さんのお宅に上京した珪水さんと一緒に伺い、ゲーテについて三時間近く彼女と議論したのは、数年前のことだったのが懐かしく偲ばれる。
80歳を過ぎた彼女が身振り手振りを交えて、熱心にファウスト論を展開するのを見て感動した。そして、彼女の作品である『ゲーテの「ファウスト』と<カタカムナ>』を帰米して何度も読み、これはすごい本だという印象を読むたびに強めたのだった。
その時点で書き込みをしなかったのは、未だ完全に読みぬいたという気持ちにならなかったからだが、この「相似象」の特集号は『ファウスト』についての本の中で、白眉といえるものであることは疑いの余地がない。惜しい人を日本人は失ってしまったと思うと共に、謹んで冥福を祈ると共に追悼言葉にしたい。

15西條謙太郎:2007/07/17(火) 04:15:25
反転―闇社会の守護神と呼ばれて  田中森一(著)(幻冬社) 

著者は、「割り屋」(被疑者を自白に追い込むプロ)として鳴らした
叩き上げの元「辣腕特捜検事」であり、バブル最中に「ヤメ検(弁
護士)」に転身後、瞬く間に「闇社会の守護神」と呼ばれるまでに
なり、やがて検察にターゲットとしてマークされ、一年にわたる長期
拘留の後、許永中と連座して詐欺事件で実刑判決に沈められた人物。

本書は、長年にわたり著者が直接身近に見てきた「表と裏の
社会が一体となってことを運ぶ現場の数々」、そして、政・官・財・
闇社会が織りなす鵺のような世界の実態のすさまじさが赤裸々に
明かされているという意味で、昭和・平成期の貴重な歴史・社会資料
となろう。
そして精神・心理分析の格好のテキストとしても使用できよう。

16野田隼人:2007/07/17(火) 10:07:09
光文社から出た『ロシア闇の戦争』(アレクサンドル・リトヴィネンコ、他著)に、ロシアに関心を持つ人たちの注目が集まっているようです。同書はロシアで発禁になった本であり、腰巻に以下のように書かれています。
***************************************
本書は、1999年9月、ロシア全土を震撼させた連続アパート爆破事件の真相を追求した衝撃のノンフィクションである。事件後、「チェチェン人のテロリスト」撲滅をスローガンに第二次チェチェン戦争が始められた。その過程で当時ほとんど無名だったプーチンは大統領へと昇りつめていく。その裏で何が起きていたのか……。
***************************************

以下は東京新聞の記事です。ご参考まで

2007年7月17日 朝刊

 【ロンドン=岡安大助】ロシア連邦保安局(FSB)のリトビネンコ元中佐毒殺事件で、英国のミリバンド外相は十六日、容疑者と特定した旧ソ連国家保安委員会(KGB)の元将校ルゴボイ氏の身柄引き渡しに応じないロシア側への対抗措置として、英国に駐在するロシア人外交官四人を追放すると発表した。

 同事件で英国に亡命中のロシア政商、ベレゾフキー氏の黒幕説を主張しているロシア政府が、今回の措置に反発するのは確実で、両国の関係悪化は決定的となりそうだ。

 ミリバンド外相は下院で「決して好ましい事態ではないが、ほかに選択肢がない」と述べ、憲法上の理由からルゴボイ氏の引き渡しを拒否するロシアを批判した。英BBC放送によると、四人の外交官は情報活動を担当していたという。

 ルゴボイ氏は、リトビネンコ氏が体調を崩す直前の昨年十一月一日、ロンドンのホテルで同氏と面会。毒物として使われた放射性物質ポロニウム210に自ら汚染されていた上、立ち回り先からもポロニウムが検出されたため、英検察当局は今年五月にルゴボイ氏を殺人罪で起訴する方針を決定。外交ルートを通じてロシアに身柄を引き渡すよう求めていた。

17尾崎清之輔:2007/10/29(月) 00:11:39
『アナログという生き方』藤井尚治(著)(竹村出版)

最近読んで印象に残った本ではなく、出版から既に10年以上が経過したが、時折読み返したくなる書籍の一つである。
藤原ブッククラスターの方々やこの掲示板を訪れる方々の多くがご存知の通り、今は亡き藤井博士はストレス学の泰斗であり、二十世紀における碩学の一人であった。
『ストレス学者として、モダン・ディフィカルテーズ(Modern Difficulties=現代を特徴づける困難な問題)にたいへん興味をもって』おられた藤井博士は、

★アナログという生き方は、学歴や肩書、財産といった他人と比較して相対的に決まってくるデジタルな価値に重きを置くのではなく、「好き」とか「楽しい」とか「うれしい」といった主観を大切にする生き方である。人間はしょせん主観でしか生きられない。世に言う客観は、その主観のバランスを保つためのもの。

という内容の序文から始まり、読み手に勇気と希望そして清々しさを与えてくれるような多くの印象的な文章が散りばめられた、書き下ろしの力作である。
この一冊のみでも、嘗て「藤井先生を保存する会」が何故存在したか、その理由が良く分かる。

★他人と比較しないで済む絶対的な価値をもっている人はやはり強い。これは「こうだからこうだ」というロジック(論理)の世界には決して存在し得ない。「アナログ」とはアンチ・ロジックを意味している。論理を超越した絶対的なものに人生の価値を置くことが、アナログという生き方である。もう少しわかりやすく言えば、”大切なもの”をもっている人と言い換えてもいい。

★私たちはいつも他人のことを近似値でしか理解していない。その近似値の上に立って、他人のことを好きだとか嫌いと言っている。私たちは言語で思考しているから、実は自分のことも近似値でしか理解していない。ヨガや禅で瞑想するのは言語という「知」を離れて、本当の自分=真実に出会うためである。本当の自分の中には他人(との関係)が宿っており、自分を深く知ることができれば、その程度に応じて他人のことも深く理解できるようになるのである。

また、コンピューターが人間社会に及ぼす影響について、その情報量の増加に対して個々人の内部反応を、

★混信、誤信、不信や適応能力の挫折といった、機械的なミス・コミュニケーションは当然予想されることであるが、人体独自の抵抗のかたちの拒絶反応、つまり、自主的な”受信”の放棄が生まれたらどうなるか。萌芽はすでに現れているようである。

と冴えた目で捉えているが、これは藤井博士ご自身の過去の著書からの引用であり、その著書『医者とコンピューター』(東明社刊)は何と昭和46年に出版されている。
この時代に30年以上も後の世界をここまで完全に予測しきった書物は他には見当たらない、といっても過言ではないと思う。

★形而上で計算した「自己実現」は人間のエゴが作り出したものだから、早晩壊れてしまうだろう。ライフプランニングという言葉もおこがましい。そこには人間が自分で人生を決めていくことができるという傲慢さが見え隠れする。「人生をいかに生きるか」なんてことに、本当は人間は答えられないのである。その場その場で人生は変わってくるし、すべては神様が決めていると考えたほうがうまく行く場合も多い。

★運があるのは、捉われやこだわりから解放されている時。それもいつまで続くか、わからないのが人生なのである。ただし、運は呼び込むことができる。心身のバランスをとって勘を働かせればいい。欲望を捨てて相手のことを考えればいい。完璧にできなくとも、そう心掛けているだけで、そのうち何とかなる。

★「勘」と「運」。目に見えないものを大事にするのが、アナログという生き方だ。

そして著者も言及している通り、アナログという生き方の根幹を以下4つにまとめている。

★人生のできごとを大局観で見て、考えること。些細なことは気にせず、何が大事か、考えてみることだ。自ずとやることが観えてくる。

★一生新手である。新しいことは面白いし、面白いことでないと、一生懸命やることはできない。新手はいつも少数意見だから、発揮するのは力がいる。

★他人から信頼されること。ここではセリエの愛他的利己主義が役立つ。「自分の楽しみ」と「他人に役立とう」という2つの観点で生きることだ。

★知と情のバランスをとること。知に傾けば冷たい人間になるし、情に溺れれば面倒な事態を引き起こす。中庸という生き方ができれば、一番である。

そして最後に、この一文をもって締めくくられている。

★人生、そんなに深刻なものではないから、楽しんだ奴が勝ちに決まっている。

18尾崎清之輔:2007/10/31(水) 00:46:13
個人的な話で恐縮ですが、前にも書き込みましたように、私の場合は多読性で且つ同時に数冊読み進めるケースが多く一冊読破するのに多少時間を必要とするため、今や拙宅は一種のライブラリーと化しております。
レンタルスペースや古書店などを利用してそれなりに整理したものの、それ以上増え続けているのが現状ですが、稀に似たようなテーマで同時数冊進める場合はあっという間に読了できるケースもございます。
今年になって読んだ本に河野司さん(二・二六事件の決起将校の一人であった河野寿大尉の実兄)の書籍群があり、河野司さん自身が仏心会の代表であったため、二・二六で散った将校のご遺族会の運営はもとより、
著作活動にも精力的にこなされておりましたが、そのような中で印象的な一冊をご紹介したいと思います。

●『私の二・二六事件』河野司(著)河出書房新社

この中には三島由紀夫氏との出会いを記した「三島由紀夫と二・二六事件」なる章があり、元は互いに面識が無かったものの、『憂国』と『英霊の声』の発表が切っ掛けとなり、河野さんから三島に宛てた手紙で互いが知り合うことになりました。
二人が実際に会うことになるのはその数ヶ月後のことでしたが、その際、二・二六事件後の河野大尉の自決までの経緯や『憂国』の件など数時間に渡って様々なお話が為されたようですが、以下の文章が最も目に留まった点でした。
(引用部分★)

★対談はすでに時余に及んでいた。ふと、三島氏は「二・二六の挫折の原因は何でしょう」と私の意見を求めた。私はややためらいつつも、「30年に亙る私の探求の結果は、口にすることは憚るものがありますが、最終的には天皇との関係の解明につきると思います」と答えた。
ふうと呼吸をのんだようだった。三島氏は「やはりあなたもそうですか」と、静かに椅子を立って、「河野さん。席を変えましょう」と、私を促した。

(中略)

この部屋での会談の内容は、事件と天皇の問題に終始した。細かいやりとりの経過は、今では記憶にさだかでないが、要は事件突発後の現象の推移をいくら解明しても、どうしても解けない謎が残る。つきつめればそれは天皇の問題に帰する、と三島氏と私の見解は同じであった。


さて、以上の引用箇所を見て、笠原和夫さんの『昭和の劇』を思い出されてピンとこられた方々は多いのではないでしょうか。

19野田隼人:2007/11/18(日) 17:40:26
No.18にて河野司氏の『私の二・二六事件』をご紹介いただき有り難うございました。早速取り寄せて一読しました。特に河野司氏の弟・河野寿大尉が切腹する下りは壮絶であり、このような生き方を貫いた日本人もいたのだと、しばし呆然としたほどでした。そして、河野氏が三島由紀夫と初対面を果たし、天皇についての二人のやり取りを読みながら、私も笠原和夫氏の『昭和の劇』を思い出さずにはいられませんでした。

20島田欽一:2007/12/17(月) 08:23:49
工学社で出している山本寛氏の著した『【仮説】巨大地震は水素核融合で起きる!』に目を通しました。この時期に同書を読む気になったきっかけは、政治・経済関連のメールマガジン【国際評論家小野寺光一の政治経済の真実 】の最近の記事を読んだからです。

同書に目を通しながら目から鱗が落ちる思いをしたのは、今まではプレート・テクトニクスによって地震が引き起こされるものとばかり私は思っていましたが、同書を読了後は考えを改めなければならなりました。では、筆者の山本氏は何が原因で地震が起きると主張しているのかと言えば、「地震は原子状水素の核融合で起きる」という説を打ち出しています。詳細は同書に譲るとして、メールマガジン【国際評論家小野寺光一の政治経済の真実 】の小野寺氏が、スマトラ沖地震は竪琴によるものと主張しており、恰も山本氏の書籍が小野寺氏の説を裏付けているような書き方をしていますが、流石に山本氏は一流の技術者だけあって以下のようにキチンと否定しています。この点、小野寺氏の勇み足でしょうか。

「地震兵器使用説」は「スマトラ沖地震」のエネルギーが1メガトン級の水爆1000個ぶんにも相当するといわれており、これだけのエネルギーを作り、それをある特定の地域に送り込むことは現在の人類の技術では不可能と考える(p.189-190)

その他、石油の無機生成説をここ数年目にしており、私も今では石油の無機生成説を信じるようになりましたが、山本寛氏も以下のように書いていました。


筆者は「地下水由来の無機生成説」を提唱する。
つまり、地下の水の分解によって生成された「原子状の水素」の近くに「炭素」があれば「メタン」になり、「メタン」の重合が繰り返されれば「石油」になる。
もし「水素原子」による「核融合」が起きて「ヘリウム」が生成されれば、それは「天然ガス」の一部となる。(p.174)

もし、地震=プレート・テクトニクスを今でも信じておられる方がおりましたら、一読をお勧めします。

ところで、同書を読み進めていると小牧久時博士の名前が出ているのを懐かしく目にしましたこと御報告しておきます。

21藤原肇:2007/12/29(土) 09:02:25
ここ数日にわたってとても印象深く読んだ本として、小山堯志著の『英国流リーダーの育て方』(星雲社)がある。おそらく私が読んだ教育に関しての本の中で、最も具体的で優れた内容だと思った。これは十年以上前に『テーミス』に連載された記事であり、もし25年前にこんな本に出会っていたらと思い、誰もこういう本を当時書いていなかったので、読むチャンスがなく知らなかったことがくやまれた。
それと共に、これを読んで自分が娘に施した教育のチャンスが、ことによると最善のオプションではなかったというか、こういう世界もあったのかということに気づいた。それにしても、せっかくヨーロッパで中学まで勉強させたのに、娘を高校からアメリカに来させて私立のプレップスクールで学ばせてから、優れているといわれたシカゴ大学に学ばせたが、より良いオプションが英国にあったと知って愕然とした思いに駆られた。
この議論はこの本を読み終わった段階で別のスレッドに議論を移したほうが良いと思うが、候補としては「教養と場つくり」「気養育の原点を考える」『日英比較』などがあると思う。

22尾崎清之輔:2007/12/29(土) 13:03:12
藤原博士からご紹介のあった小山堯志(著)『英国流リーダーの作り方』(星雲社)を早速発注しました。
残り在庫数が少ないようなので、ご興味ある方はお早目に取り寄せられたほうが宜しいかと思います。
尚、年末年始のため少々時間がかかりそうですが、私も手元に届き次第、精読させて頂きます。

23藤原肇:2007/12/29(土) 16:08:17
21)と22)は『日英比較』のスレッドで議論を続けましょう。
この本の案内はアマゾンに次のように書いてあります。
内容(「MARC」データベースより)
イギリスの指導者を育成する学校として知られるパブリック・スクールの伝統校のひとつに、息子を学ばせた父親がその経験を語る。
プレップ・スクールからケンブリッジ大学まで、体験に基づき、教育のあり方についても述べる。

24亀山信夫:2008/06/09(月) 08:52:21
脱藩道場の初期のメンバーの人たちの中に、脱藩道場総会に出席したことがあり、本掲示板の前身であるクローズドなメーリングリストにも参加していた畔蒜泰助さんを覚えている人はいませんか。私は畔蒜さんに一度お会いしたきりだと思いますが、当時の畔蒜さんは藤井厳喜氏が主宰していた研究所の所員としてモスクワに駐在していました。総会出席者のなかでも、一段と鋭いインテリジェンスを発揮される方だなという印象が今でも強く残っています。その畔蒜さんが処女本を出していることを、昨日偶然に知りました。
『「今のロシア」がわかる本』(三笠書房 )

同書の存在は大分前から知っていたのですが、題名が凡庸なのと三笠書房の知的生きかた文庫の一冊ということで通り過ぎてしまい、肝心な著者名には目が行きませんでした。発行日を見ると、今年の3月19日となっています。

アマゾンにも以下のように同書の書評が載っていました。

***************************************************
佐藤優の鮮烈なデビューで、われわれはインテリジェンスの世界の存在とその面白さを知った。インテリジェンスに携わる人々の資質や人間性、それらが織りなす国益のぶつかり合いを佐藤優の数々の労作が教えてくれている。本書は、こうした情報・諜報の個別、具体的な積み重ねが、実際の国際政治の中でどうダイナミックに応用され、巨大な構想として結実していくかをまさに目から鱗が落ちるように、クリアーに提示してくれる。特にまったく表面化したことはないが、米露とネオコンが、中東・東ヨーロッパのリンケージ戦略という隠されたルールにより戦っていること、そして最後に辿り着く英ロンドンの深い闇の問題など、「今のロシア」を通して「今の世界」がわかる興味の尽きない一書である。著者畔蒜泰助氏は、従来の旧米ソ冷戦思考に呪縛されていたわが国のロシア研究界には異質の、プーチン時代の新ロシアを十分に理解する気鋭の論者であり、佐藤優・インテリジェンスファンには必読の魅力あり!
***************************************************

25藤原肇:2008/08/01(金) 13:50:54
小川洋子さんが著した「博士の愛した数式」(新潮文庫)は知的好奇心を満たす本として、高校時代の数学で習った記憶のない「友愛数」や「完全数」という興味深い数字が次々と登場したおかげで、最初に「フィボナッチ数列」に出会ったときに似た興奮を覚えた。
当然のことで「オイラーの公式」も登場していたし、「フェルマーの最終定理」も出てきてなつかしかったが、この数ヶ月にわたって千々松さんが「思考道」で頭の体操に案内してくれ、数学的な思考に慣れていたお陰もありスムーズにこの本を読み進むことが出来た。
それにしても190ページにあった「・・・分類の基準はただ一つ。サイズのみで、見た目にはすっきりしたのは間違いないが、長年に亘り見慣れてきた混沌の中の隠れた秩序は、すっかり破壊されていた」という記述が、女性によって書かれていたことにショックを受けた。
私の読みかけの本を家族の誰かが整頓したことによって、私の情報システムが完全に破壊された人生になり、そのたびに本は整理してはいけないと文句を言った過去の体験が、この隠れた秩序という言葉に封印されていたからであり、私はこれを男の世界だとすっかり思い込んでいたことに気がついた。、

26千々松 健:2008/08/03(日) 07:48:55
>25 本棚の本の整理に関して混沌と秩序の対比は面白いですね。
同じく小川洋子著の「博士の愛した数式」に「1−1=0」が出てきて、ゼロの数学的意味も文学的に表現されていました。
ゼロの持つべき三要素として
 1)しるしとしてのゼロ (ものさしのスタートの目盛)
 2)数字としてのゼロ (空位を示す 百一:101、千:1000)
 3)数としてのゼロ (1−1=0)
以上の全ての要素が備わったゼロの発見はインドにおいて行われたというのが定説です。
その点については数学者でかつ文学者でもある藤原正彦氏の良きアドバイスがあったようです。
以前、ドゥニ・ゲージの「数の歴史」藤原正彦監訳にも他の地域や文明においても零の概念が在ったはずだが、現代から見てゼロの定義がしっかりなされているのはインドであるとの説明がなされていて納得したことが有りました。

27千々松 健:2008/08/08(金) 10:49:57
「もし、神様の手帖を1ページだけ覗けるとしたら、どうしてもこれだけは神様に聞きたいという謎はございますか?」
作家の小川洋子が「世にも美しい数学入門」で対談相手の藤原正彦に質問しています。
それに応えて藤原氏は四つも謎を挙げていますが、中でも「ゴールドバッハの問題=6以上の偶数はすべて二つの素数の和で表せる」には興味が持たれます。
それはまた「全ての自然数は四つの平方根の和として表わされる」というラグランジュの定理を思い出させます。
>26に紹介したドュニ・ゲジが最新作「ゼロの迷宮」を8月に出すようです。やはりインドはすごいという結論になると思われますが、
特に仏教哲学との関連がどのように説かれるかに私は興味を持っています。

28村山:2008/08/15(金) 14:16:12
「ファウスト」についてのこのテーマは実に興味深いので、「最近読んだ本」に場を移して論じたらいいと思い、勝手ながらここに貼り付けてみましたのでよろしく。
89 名前:千々松 健 投稿日: 2008/08/15(金) 11:02:49
>83のフォローおよび>88のつづきとして
 この夏、相似象の特集号 ゲーテの「ファウスト」と<カタカナム>を入手して読む機会を得ました。
動機は「魔女の九九」に触れているかどうかでした。しかし残念ながら、この中では扱われていませんでした。
 
 未だすべて読み込めていないのですが、富永半次郎氏がドイツ語から丁寧に日本語に訳したゲーテ ファウスト第二部のラスト12103行から12111行までを引用させていただきます。

【 神秘の合唱 】
『ものみなのうつろふからに
さなからに色とりどりにうつるなる。
かけてしも思はぬことの
ここに起き
ことはにも筆にもた堪えぬこと
ここになる。
とこおとめおとめさしすとなよよかに
われらひかれてをとこさひすも。』


90 名前:藤原肇 投稿日: 2008/08/15(金) 13:40:27
今から四年前の2004年11月4日に珪水さんと一緒に、神泉の宇野多美恵さんのお宅を訪問して、四時間くらい「ファウスト」について論じ合ったが、宇野さんの洞察と叡智に満ちた思想に感嘆した思い出がある。そのときに『ゲーテの「ファウスト」と<カタカナムナ>』を入手し、記念にサインしてもらったので日づけが分かるし、それ以来愛読して何度も繰り返して読んできたが、未だ読破したという感じには至っていない。それほど内容が豊かな素晴らしい名著であるが、「ゲーテがフンボルトに宛てた手紙」の中で触れていることに、「意識と意識でないものとは、あたかも経と緯とのような関係になる」と言っており、布地としての作品の柄として出現するのが言葉である。言葉の選択に生涯をかけた詩人としてのゲーテは、「とにもかくにも一度、詩人にナってみろ、そのように詩が言っている」と書き、ある不可思議な精神的転換について指摘したのだった。
それにつけても興味深いのは神秘の合唱についてで、相良守峰は岩波文庫で「永遠なる女性は、われらを引きて昇らしむ」と訳し、高橋健二は「永遠の女性が、われらを引き上げていく」得しているのに対して、池内紀は「くおんのおんなが、われらをみちびく」と平仮名だけで書く。富永半次郎の訳は千々松さんが引用したように「とこおとめおとめさしすとなよよかに われらひかれてをとこさひすも」だが、私は断続的な朱線の形で「とこおとめ、おとめさひすと、なよよかに、われらひかれて、をとこさひすも」七五調に区切ってあり、人さまざまな好みの違う訳し方が面白いと思った。

29千々松 健:2008/08/22(金) 11:35:45
>28 村山様のご配慮に感謝します。
 さて「般若心経を解く」たま出版1982年において藤倉啓次郎氏は
≪「般若経」のなかで、智慧は「諸仏の母」と述べられている。この意味はいかなるものであろうか。それは、子供が母より生まれるように、仏の正覚は智慧により生ずるという意味である。≫というエドワード・コンゼ博士の見解を紹介しておられた。P61
ファウストの最後の一節の詩=言葉をどのように解釈するかは一人びとりの経験等により異なると思うが、私は仏教のターラー崇拝(彼岸へ渡らせる助けをする女救世主)と永遠の女性とをダブらせて考えてみると、何か共時性が感じられて面白いと思いました。

 また、藤倉氏によれば「サンスクリット語では否定語がnaであるが、これは「無」の意味もあるが、「非」あるいは「不」の意味もある。」(われわれが目にする玄奘訳の)「この段(*)では多数の要素を「無」の字で否定しているが、私は「無」ではなく「非」の方が妥当と思う。弁証法では、AとBが対立していると、Aに非ずBに非ずと否定するのが普通だからである。「無」としたのでは対立感が薄くなる。(中略)「空」は決して「無」ではない。」
*この段を藤倉説に合わせて訳し「無」を「非」に変換したものを次に示します。
『是故空中非色 非受想行識 非眼耳鼻舌身意 非色声香味触法 非眼界 乃至非意識界 非無明 亦非無明尽 乃至非老死 亦非老死尽 非苦集滅道 非智亦非得』
このように否定語を「無・非・不」の三つに解すれば、般若心経もよりポジティブな内容に転換するであろう。少なくとも養老先生の言う「無思想の思想」にはならないはずである。
 ご参考、下記にて新改訳の般若心経がご覧いただけます。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/muniarazu.html

30藤原肇:2008/09/22(月) 02:58:55
アメリカの議会図書館館長を歴任したダニエル・ブアスティンは、壮大なスケールで文明の中で貢献した人間を主人公にして、これまで「大発見」や「アメリカ人」という人間の歴史を書き込み、該博な知識と鋭い洞察によって知る人ぞ知る、二十世紀が誇る叡智の塊のような人である。
老眼で視力が衰え読書力が低下した私に、膨大な上下二巻の「創造者たち」(集英社)を読みぬけるかと心配だったが、これを読まずに人生を終えるのは情けないと思い、浩瀚なこの本に挑んだことは正解だったと痛感した。
(上)は文明の歴史の発展過程についての総括に相当しており、聖人たちが輩出した2500年前から中世にかけて、広いパースペクティブで展望した人類の歴史は、ヨーロッパの高校生たちの持つ歴史観と重なり、この本に高校生として出合えなかった自分の青年時代が、何か大切なものに出会えなかったような感慨が残った。
それにしても、(下)は近代を築き上げた人たちと個人的にめぐり合い、彼らの人間としての熱気と生き様に接したことで、近代の主人公たちの人間性を具体的に知ることが出来て、自分が幾倍も豊かになったと実感できて嬉しい。
褒めたいことや引用したい文章は幾らでもあるが、特に親切だと思ったのは「参考文献」の記事であり、それ自体が米国の議会図書館に何年も張り付いて読むときに、読者が味わう満足感を満たすように構成されていて、マルクスが大英図書館に通いつめた動機に共通した、知的好奇心を満足させる画期的なものだと思った。視力が衰えたのを補って余りある近来に稀な読み終わるのが惜しかった本である。

31ヒロイエ:2008/09/29(月) 08:17:25
詳しくは書く時間がありませんが


http://facta.co.jp/article/200810052.html

が出たようです。

32サムライ:2008/10/27(月) 08:21:08
昨夜、『邪馬台國論争 終結宣言』という本を読みました。一読後、己れの歴史観を既婚邸から再構築しなければならないと思うに至りました。拙ブログに読後感を書きましたので、一読いただければ幸いです。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2008/10/post-68d9.html

サムライ拝

33千々松 健:2008/10/31(金) 23:15:04
「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著 青木薫訳を斜め読みしました。
「万物は数なり」といったピタゴラスの定理に始まり、フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズのドラマチックな物語が難しい数式を使わずにドキュメンタリー形式で展開されていました。

その中で、次の二点が印象的でした。
1)modを「〜を法とする算術」または「時計算術」と呼んでいて、5を法とする算術の例が出ていたこと。
このうちmod9を日本では古くから「ひふみ算(術)」と言っていたわけです。

2)ワイルズの証明は、谷山=志村予想(すべての楕円方程式はモジュラー形式に関連づけられる)を証明することと同じ意味をもっていたこと。

そして「フィボナッチ数列と律動やラティオについて」のレスで展開中の「神聖方陣に見られる四つの流れ」に関して言えば、すべてのフィボナッチ数列がその四つの流れに関連付けられることが証明できれば良いという予想がついたことです。
そして、数論的には「系列」ということばを使用した方が適切なようなので、先に仮決めした「神聖F数列」は単に「F系列」に読み直したいと思います。
従って、今後は四つの流れを「フィボナッチ(F)系列」「リュカ(L)系列」「ケン(K)系列」「ミチコ(M)系列」と呼ぶことにします。
2008年のハロウィンの日

34藤原肇:2008/11/01(土) 04:46:23
「間脳幻想」の中では289ページでフィボナッチとルカ数しか示しえませんでしたが、千々松さんのお陰で四つの数列の存在を知らされ、それがハロウィーンの日であったというめぐり合わせは、この日に古希を迎えた私にとって最大の贈り物を得た感じです。
どうも有り難う御座います。

35千々松 健:2008/11/02(日) 16:14:07
奇しくも、藤原先生の誕生日祝いが出来て大変うれしいです。

もちろん「mod」記号はモジュラーから来ていたのです。モジュラー形式とは「法」=modに他ならなかったのです。私としては今回初めて知りえて、恥ずかしながら驚いているところです。

「フェルマーの最終定理」からの引用です。文庫本 P278
「数学広しといえども、モジュラー形式ほど奇妙で不思議なものはめずらしい。モジュラー形式は、もっとも難解な数学的対象の一つなのである。しかしその一方で、20世紀の数論研究者マルティン・アイヒラーは、これを五つの基礎演算の一つに数えている。すなわち、数学の基礎演算は、加法、減法、乗法、除法、そしてモジュラー形式の五つだというのだ。たいていの数学者は、はじめの四つの演算ならば自由に操られるのだろうが、五つめの演算に対しては、いまだに多少の戸惑いを感じているのではないだろうか。モジュラー形式は、恐ろしく対称性が高いという重要な特徴を持っている。 中略・・・モジュラー形式にとてつもなく高い対称性を与えているのは、四次元空間(双曲空間)なのである。」

モジュラーの世界と楕円の世界を統一しようとしたのが谷山豊と志村五郎であったということも何かの縁であろう。日本人には上古代人の「ひふみ算」すなわち現代の数論で言うところの「mod9」の算術が秘められているのであろうか?
日本古来の智慧によって、フェルマーの最終定理も300年の時を経て証明されたわけである。

36千々松 健:2008/11/24(月) 11:25:53
日経サイエンスの連載が日経ビジネス人文庫になった「茂木健一郎 科学のクオリア」は若者の理科離れ傾向を少しは解消するために役立つと思われます。
その中で、小川洋子さんとの対談「数学する脳、文学する脳」が面白いです。
小川さんいわく p43-44
『脳の中の映像を言葉に移し替える』とか、『人類が誕生してからずっと遺伝子の上に刻み込まれているんだけど、かつて誰も言葉にしなかった記憶があって、それを見つけるために、掘り起こすために小説を書こうとしている。』

茂木さんいわく p48
『ゲーデルの不完全性定理によれば、もしもある論理体系が数論を含むほど豊かな公理体系だとすると、その中で正しいことはわかるんだけど、証明も否定もできない定理が出てくる。それはすごく大問題で、科学は整然とした論理的な世界だけで済まなくなくて、根底に矛盾というか、穴が開いていることがわかってしまった。その後にわれわれは矛盾を爆弾のように抱えて生きている。これは小説にも通ずると思うのですが、逆にそういう矛盾があるから、われわれも結晶的な世界で止まっていることなく、生命として動き続けているのかも知れません。小川さんの小説は、そういう「裂け目」をとらえているのではないでしょうか。』

この二人の対談から私は
六角形がイメージされる「結晶」と五角形がイメージされる「生命」、あるいは無生物と生物の関係がもしかすると遺伝子の何処かに隠されている、いや、既に刻印されているという幻想を抱いてしまいました。

37千々松 健:2008/11/29(土) 16:36:02
長らく本棚の奥にしまったままにしていた「華厳経をよむ」木村清孝著を読む

「小が大であり、一つがすべてである」
すべての物事・事象の統一性と相互関連性を「一」と「多」の一致に見ようとしているのが華厳経の中心テーマであり、哲学者の廣松渉氏も「実体主義」から「関係主義」へ、あるいは「物的世界像」から「事的世界像」への転換を主張されているが、それは仏教での「縁起的な存在感・世界観」に通じる。
>>華厳の教えは現代ではフラクタルやホロニックな考え方に至り、清水博先生の「意味を創出する関係科学=場の関係子論」であり、先端的宇宙物理の世界観にも入り込んでいる。もちろん「21世紀マンダラ」もその延長線に在ると思われる。

「うそも方便?」
「手立てが重要なことは、技術の習得でも、教育の場合でも同じでしょう。手立て抜きで何かを身につけ、また人に対して身につけさせるということはありえません。このことを私たちは改めて考えてみたいものです。」P129
>>真実の世界へと導く正しい手立てを「方便」というそうだが、私は「うそも方便」という言い方しか知らなかったので、本来の「方便」を次世代へ旨く伝えていかなければならないとつくづく思わされた。

38藤原肇:2008/12/23(火) 17:34:06
82才のレフ・トルストイが住みなれた家を出て、小さな鉄道の駅において肺炎で人生を終えた物語は、「リア王」と並んで漂泊する老人の悲劇の晩年として知られているが、ありきたりの家出ではなくて出家ではないかと長らく感じて、似たような境涯に至った自分について思い巡らせていた時に、この『トルストイ家の箱舟』という本にめぐり合わせたのは、実に幸運だったという読後感を持った。
しかも、晩年の老作家の秘書としてトルストイの身近に接した、モスクワ大学で哲学をやりトルストイの研究に手を染めたブルガーコフ青年の観察は、『ゲーテとの対話』のエッカーマンほどの深さはないが、非常に優れた記録を残すものとして興味深い手記であり、いろいろと考えさせられるものを含んでいると言える。
しかも、著者のふみ子・デイヴィスさんの実に素晴らしい表現の文体は、日本の文学界に君臨する女流作家たちの売文的な文章とは違い、凛々しいというか格調高いリズムで貫かれていて実に爽やかな記述だと思った。このトルストイに憧憬と敬愛の念が支配していた大正リベラリズムの時代が遠くなり、荒廃した売文記事が文学の名を騙る現代の不毛さを痛感させられた。

39遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:02:25
「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない」
アレックス・カーは断言した。
日本に35年間住んできたカー氏は、かつて彼が愛し、今なお多くのジャパノロジストがノスタルジックに執着しつづけている“美しき奇跡の国、日本"の惨状に警鐘を鳴らさざるを得ないと言う。

世界でも有数の美しい自然環境。アジアで最も豊かな文化遣産。先進国でも屈指の優秀な教育制度や高度なテクノロジー。工業分野の成長は各国の賞賛を浴び、その過程で得た利益で、ひょっとすれば世界で最も裕福な国となったかもしれなかった日本。だが今、この国は悲惨なほど落ち込んでしまっている。

目的もなく進められる土木工事の狂乱。周りの環境と二一ズに無関係に建てられる建造物。歴史や方程式を暗記させるだけで、独自の創造力や分析力を育てない教育。配当を払わない株式市場。誰も責任を取らない政治・行政のシステム。

バブル崩壊後の見渡すかぎりの惨状が、この国の経済・文化がすでに座礁してしまっていることを物語っていると、手厳しい。

カー氏は昨年、前著「美しき日本の残像」の完結編ともいえる“Dogs and Demons''(邦訳は今年4月刊の「犬と鬼」)を米国で発表。あまりにも日本の暗い面を冷酷なまでに露出したことで、米国内でかなりの波紋を引き起こした。とくに日本好きの米国人ジャパノロジストは、その内容に同意しなかった。

「ぼくは12歳のときから日本に住んでいたので、冷静に日本を観察できた。大人になってから日本が好きになる人は改宗した信者と同じで異常に熱心だ。彼らほ日本を一種の理想社会と信じたいのだ」

だが、日本在住35年のカー氏が直視するのは、多くのジャパノロジストがあえて目をそむける現実だ。その視線には、この国が失ってしまったものへの哀惜と、破壊した者に対する怒りがないまぜになっている。「日本は蛍光灯、プラスチック、看板、コンクリート、ビニールだらけの工業モードになってしまった。美しい山河をコンクリートで固めたばかリでなく、この国にあった文化・伝統を台無しにしてしまっている」

リゾートひとつとっても、超一流と胸を張るホテルといえばそこらじゅう大理石でピカピカ。ヘルス・スパも真っ白の廊下に白衣の女性がいてまるでクリニック。本当の賛沢はそんなものではない、と斬り捨てる。

「工業モードの勝利によって、かつてはワビ・サビを愛でた日本人の感覚が麻痛してしまし、本当の楽しみ方を忘れていると思う。国民の何もかも犠牲にして、生産業(製造業)だけを重視してきたこの国の“強国貧民"政策のツケです」

40遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:10:24
その根本にあるのは、日本の教育のあり方だと指摘する。

「元厚生官僚の故・宮本政於氏が、日本の教育が真にめざしているのは「教育」ではなく「去勢」だと言ったが、これは正鵠を射ている。これも工業モードなんですね。分析的思考をできなくするように教育する。自分で考える方法を教えない。企業戦士を作るための骨抜き制度です」

こうした教育が、排他的な派閥を形成する要因になっていると言う。

「日本人が派閥を作るのは、外部の人とまともに競争しなくてもいいようにするためだ。そのための仕組みを上手に作り、外部の人が入らないようにする。たとえば、外国人が野心を抱いて日本にやってきても企業の中枢には入れてもらえない。起業しようとしても障壁があまリにも多い。外国人の教授を3年で母国に帰すという制度も、結局まともに競争させない上手な仕組みなんです」外国人の天才や文化人が日本にいてこそ、日本のロ一カルな文化が発達する。そういう人たちが野心を抱いて日本に住めるようにならないかぎり、日本はますます衰退する、と熱っぼく語る。

「日本の国土はたしかに狭いが、日本人の心はもっと狭いことに気づかなければならないと思う。個人の自由を束縛し、外国の新鮮な空気を取り込もうとしないシステムそのものが問題なのです。鈴木宗男の問題にしても、彼だけが悪いのではない。ウォルフレン(オランダ人ジャーナリスト)は「日本で起きるこういうスキャンダルほ、誰かが異常に取り過ぎたとか、ある線を超えたときにスキャンダルになり、その人だけが非難されるが、システムそのものほ依然として残る」と言ったが、その通りです」

日本ははたして変わり得るのだろうか。カー氏は悲観的だ。



41遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:15:25
「まず、小泉首相が提唱する構造改革は、おそらくここで止まるでしょう。小泉首相は、ゴルバチョフと似ている。ゴルビーはもともと共産党員でやってきたので、共産党の崩壊は許さなかった。改革もその直前で止まった。そこで彼の役割は終わり、エリツィンに代わってようやく改革が進んだ。小泉も同じです。代々自民党でやってきた彼は、自民党の崩壊は許さない。これ以上改革しようとすると自民党が崩壊してしまう」

国民も本当の危機感をまだ持っていないと言う。

「1950年代、60年代の日本人はアメリカに追いつこうと必死に勉強し、汗水流して働いて生活水準を上げようとした。しかし、80年代に入ってから、日本人は自分たちの夢はすでに実現したと錯覚してしまった。その時点で“まあまあ"という精神がしっかり根を下ろし、中途半端の沼地に少しずつ沈んでいった。みんな危機と呼んでいるけれど、まだ本当にその危機を感じていないと思う」

このままだと中途半端なまま、日本はこの危機から抜け出せない、と危慎するのだ。

「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない。ただ日本人にはロ一ンもあるが貯蓄もある。まだ、どうにかなると思っているんです。目覚めないでしょうね」

かつて日本はアメリカ人にとって魅カ的な国だったと言う。しかし今は、アメリカ人が日本に住んでも2〜3年で出て行ってしまう。それほど日本は魅カを失ったと、彼は嘆く。

カー氏自身、生活の拠点を、35年間暮らしてきた日本からバンコクに移した。外資ぱかりか文化人の日本離れも急速に進んでいるのだ。カー氏の警鐘を真撃に受け止めたい。



「元厚生官僚の故・宮本政於氏が、日本の教育が真にめざしているのは「教育」ではなく「去勢」だと言ったが、これは正鵠を射ている。これも工業モードなんですね。分析的思考をできなくするように教育する。自分で考える方法を教えない。企業戦士を作るための骨抜き制度です」

こうした教育が、排他的な派閥を形成する要因になっていると言う。

「日本人が派閥を作るのは、外部の人とまともに競争しなくてもいいようにするためだ。そのための仕組みを上手に作り、外部の人が入らないようにする。たとえば、外国人が野心を抱いて日本にやってきても企業の中枢には入れてもらえない。起業しようとしても障壁があまリにも多い。外国人の教授を3年で母国に帰すという制度も、結局まともに競争させない上手な仕組みなんです」外国人の天才や文化人が日本にいてこそ、日本のロ一カルな文化が発達する。そういう人たちが野心を抱いて日本に住めるようにならないかぎり、日本はますます衰退する、と熱っぼく語る。

「日本の国土はたしかに狭いが、日本人の心はもっと狭いことに気づかなければならないと思う。個人の自由を束縛し、外国の新鮮な空気を取り込もうとしないシステムそのものが問題なのです。鈴木宗男の問題にしても、彼だけが悪いのではない。ウォルフレン(オランダ人ジャーナリスト)は「日本で起きるこういうスキャンダルほ、誰かが異常に取り過ぎたとか、ある線を超えたときにスキャンダルになり、その人だけが非難されるが、システムそのものほ依然として残る」と言ったが、その通りです」

日本ははたして変わり得るのだろうか。カー氏は悲観的だ。

「まず、小泉首相が提唱する構造改革は、おそらくここで止まるでしょう。小泉首相は、ゴルバチョフと似ている。ゴルビーはもともと共産党員でやってきたので、共産党の崩壊は許さなかった。改革もその直前で止まった。そこで彼の役割は終わり、エリツィンに代わってようやく改革が進んだ。小泉も同じです。代々自民党でやってきた彼は、自民党の崩壊は許さない。これ以上改革しようとすると自民党が崩壊してしまう」

国民も本当の危機感をまだ持っていないと言う。

42遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:20:27

「1950年代、60年代の日本人はアメリカに追いつこうと必死に勉強し、汗水流して働いて生活水準を上げようとした。しかし、80年代に入ってから、日本人は自分たちの夢はすでに実現したと錯覚してしまった。その時点で“まあまあ"という精神がしっかり根を下ろし、中途半端の沼地に少しずつ沈んでいった。みんな危機と呼んでいるけれど、まだ本当にその危機を感じていないと思う」

このままだと中途半端なまま、日本はこの危機から抜け出せない、と危慎するのだ。

「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない。ただ日本人にはロ一ンもあるが貯蓄もある。まだ、どうにかなると思っているんです。目覚めないでしょうね」

かつて日本はアメリカ人にとって魅カ的な国だったと言う。しかし今は、アメリカ人が日本に住んでも2〜3年で出て行ってしまう。それほど日本は魅カを失ったと、彼は嘆く。

カー氏自身、生活の拠点を、35年間暮らしてきた日本からバンコクに移した。外資ぱかりか文化人の日本離れも急速に進んでいるのだ。カー氏の警鐘を真撃に受け止めたい。

アレックス・カー/1952年アメリカ生まれ。
東洋文化研究家。12歳の時、海軍の弁護士だった父に連れられ初来日。横浜に2年間住んだ後に帰国。エール大学で日本学を専攻する。19歳のときヒッチハイクで日本一周の旅を敢行。その時出会った徳島県祖谷(いや)の茅葺き屋根の家 に魅かれ、慶應義塾大学に通いながら、古い家屋を修復する。『美しき日本の残像』(朝日文庫)で新潮学芸賞受賞。最新刊は現代日本の暗部を暴く『犬と鬼』(講談社・4月刊)

43遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:30:05
以上は 大野さんのHPから。
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/alexkerr.htm

44千々松 健:2009/02/26(木) 22:09:01
>28 ゲーテ ファウスト「神秘の合唱」再考、「フィボナッチ数列の殿堂」への夢 >65〜とも関連します。

この場合の「合唱」こそは Harmony の意味であると思います。
「ものみなの うつろうからに さながらに」と富永老師が575調に訳されている ゲーテの詩のGleichinis(グライヒニス)を更に踏み込んで「相似象」と訳して『すべて、過ぎ行くものは相似象である』と宇野さんは説明しています。
・・・ゲーテの「ファウスト」と<カタカムナ> p214
ゲーテは同時代に生きたルターによる聖書のドイツ語翻訳には異論を持ち、特に三位一体に関連しては手厳しいようでした。結論的には父と子と聖霊の三位は一体すなわち「合同:Unity」ではなく「調和:Harmony」であると言いたかったのでしょう。
ファウストの第二部の最後に、そして、ゲーテ自身の人生のラストソングにそれを歌い上げているのですから。
ゲーテの言葉に『最高の幸福の瞬間にも極度の逆境の瞬間にも、われわれは芸術家を必要とする。』とあるように、芸術家を歌や和歌と置き換えれば納得されます。
本日『介護百人一首』というのがNHKの番組で紹介されていましたが、逆境の中での歌こそ心を和やかにしてくれます。

45千々松 健:2009/02/27(金) 09:59:55
「和歌」は倭の歌、輪の歌、琶の歌、把の歌と展開すると、、、巳が出現し蛇や龍や注連縄がイメージされて、最後には「ウロボロス」に行き着きそうです。
また「ココロを和やかにしてくれる歌」が和歌でもあったのです。生も死も、喜劇も悲劇も、和魂(ニギミタマ)も荒魂(アラミタマ)も、すべてを超えて、なごやかに平和に、やがては涅槃に入るのです。
この「ネハン」のことばの響きは何処かで聞いた響きに似ています。そうです「ソラニモロケセ ユヱヌオヲ ハエツイネホン カタカムナ」の「ハエツイネホン」の最後の部分「ネホン」は「ネハン=涅槃」に違いないと思いました。
ネハンとネホンからニホン・にほん・日本になったかどうかは定かでは有りませんが、有り得そうですね。
松岡正剛氏の「方法日本」について少し勉強しなくてはならないと思います。

46千々松 健:2009/02/27(金) 21:13:16
手元に「NHK人間講座2004年6月〜7月 おもかげの国 うつろいの国 松岡正剛」がある。その頃、「日本文化の特徴は余白にある」と考えていた時期であったから、それに関してのみの興味で、半分も聞いていなかったことを反省して、再度目を通した。
日本の「編集文化」を考えるという副題で、解説には「多様にして一途」といわれる日本文化。その各場面には、アワセ、カサネ、キソイ、ソロエという、独特の編集方法が強く働いている。「おもかげ」と「うつろい」をキーワードに日本文化の特徴をみる。」とあった。

何のことはない「アワセ、カサネ、キソイ、ソロエ」は和紙という伝統文化から生まれた折り紙に関してのことばであるし、おもかげはイメージであり、うつろいは動態幾何学であるから、両方を合わせれば「さながらに」=相似象に他ならないことに気が付かされた。
また、司馬遼太郎の晩年作「この国のかたち」の中で、真水(マミズ)や若水(ワカミズ)に触れていて、古神道的なものに興味を持っていたことが判り、それなりに納得できた。

47千々松 健:2009/03/02(月) 15:20:00
>29についての補足です
ネット上で“非苦集滅道”を検索したところ「浄土生無生論」というが見つかりました。
その「初一 真法界門」の中間辺りに下記の経文が見つかりました。
『 非心非空。非地水火風。非眼耳鼻舌身意。非色聲香味觸法。非眼界乃至非意識界。非無明乃至非老死。非無明盡乃至非老死盡。非苦集滅道。非智非得。非檀那乃至非般剌若。非怛答阿羯。非阿羅訶。非三藐三菩。非常樂我淨。』  

般若心経のある箇所にほぼカサネアワセられることは直ぐに分かります。我々が通常として目にする般若心経は「非」がすべて「無」になっているわけですが、本来の内容からしてみて、どちらがぴったりするかをキソイますと、やはり「非」の方に軍配が上がると思います。
サンスクリット語の「Na」の否定形は「無・不・非」の三種類に使い分けて翻訳するべきと書きましたが、漢文の世界でも実は別のところでは正しく「非」を使用して翻訳されていたことが判るのです。
今回はネット検索の有効性を目の当たりにすることができました。これを他山の石として、後生大事にしている「般若心経」は新たにソロエ直すことにいたしましょう。

48千々松 健:2009/04/12(日) 09:56:12
「生物と無生物のあいだ」で知られる分子生物学者の福岡伸一が、ソトコトという雑誌でロハスの思考を広めた木楽舎から「動的平衡」という本を出した。
最後の三センテンスを引用させてもらいます。P251後半

『自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目、そして私たちの住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。 私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは、人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。 渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。そのように考えるとき、私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。』

「森羅万象を記述する言葉」すなわち「始めに言霊ありき」は、ことだまの響きから「玉」に通じていて、ラセンのカタチとなるのでしょう。

49千々松 健:2009/04/20(月) 22:39:26
西堀栄三郎の「創造力」−自然と技術の視点から−より以下の3点を引用します。

『人間が自然と一体となることによって、人間のなし得る範囲も驚くほど拡大される。さらにいえば、自然への探検は、あくまでその対象を慎重なまでによく知り、親しみをもったうえで、勇気をもってするものでなくてはならない。私は山登りを通じてそのことを学んだのである。』P31

『労働には「働く」という活動性と「考える」という創造性と「喜ばれる」という社会性の三つの要素があり、これらが互いに影響し合い、相互に作用し合ってうまく循環したとき仕事は楽しくなり、・・・この三つの要素がうまく循環したときに、・・・人を動かし、社会をも動かしていくのである。』P160

『南極で一年間生活していたとき、私はいろんなことを考えさせられた。宇宙には化学や物理だけでは説明できない何ものかがあるのではないだろうか――。「心」のほかに「気」というものが確かに存在しているように思われた。東洋思想にはそういうものを認める寛大さがあるが、やがてはそれを含んだ科学や技術が生まれるのではないかと思う。』P301

50千々松 健:2009/05/19(火) 10:16:12
>48 補足
福岡伸一教授が「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」または、「循環的で永続的なシステムである」し、「渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ」と最新の「動的平衡」で述べているとおり、
これからの生命科学には、“静的な構造論から動的な流れ論へ”の視点が重要となってくるはずである。
我田引水と言われるかも知れませんが、21世紀マンダラの「神聖方陣」は静的な構造を、もう一方の「螺旋モデル」の方は動的な流れを示唆しているものと考えています。

51藤原肇:2009/08/09(日) 11:28:46
平凡社新書の「幸田家のしつけ」を楽しく読み、幸田露伴と文の間の親子関係の機微について、多くのことを学び取ることができ豊かになったと思ったが、実に残念だと感じたことが一つあった。
それはこの本を「さらば、暴政」を書く前に読まなかったので、大事な視点について見過ごしていたと気づいたからだ。
それは安倍の「美しい日本」を批判するに際して、もしも、「生気の乏しい器量よしより、不器量でもいきいきとしているほうが人相よしだ」という一節に気づいていたら、同じ形容詞を使うにしても、「美しい」は天与の性質であるのに対して、「生き生き」は生命体の心構えと共に、努力の結果を反映したものである以上は、個人や共同体などの組織体をまとめ、それを統合する政治の用語として、意味論的にもより高度で説得力があるのに、それが安倍には分かっていないと批判が出来た。
ところが、そこまで論旨を展開できなかったのは、まだ私の発想が幸田家のしつけの水準に至らず、せっかくの機会を前に未熟だったと気づき、とても残念だったと言う気分に包まれたのである。

52プロジェクトラーニング:2009/08/09(日) 19:43:00
藤原さんのコメントがヒントになり、私は、お盆に読みかえしている「ねずみ花火」(向田邦子『父の詫び状』に収録 文春文庫)という短い話をみてみました。向田邦子という人は意味論に通じていたと思います(見事なほどに)。彼女の話は、現在の不意の出来事が過去の記憶を動かすという構図となっています。「思い出というのはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足元で小さく火を吹き上げ、思いもかけないところへ飛んでいって爆(ば)せ、人をびっくりさせる」過去の記憶というのは、今の出来事(すぐれた観察を通して得た見かた)が契機となって、当人によって絶え間なく作り直されていると言えそうです。向田邦子は意味論をあやつる職人だと思いました。なるほど、こういう風に言葉に向き合えばよいのかと多く学ぶものがありました。向田邦子は1981年8月22日台湾上空での飛行機の爆発事故にあっています。そのことを思うと、藤原さんが意味論の真価を知らせるために、そちら(台湾)から日本に届けて下さったように感じております。

53T.N.:2009/08/09(日) 22:08:27
 藤原氏の指摘は、「美しい」という言葉を「国」との結びつきでより高い価値(次元)を持つ「生き生き」
という言葉に置き換えることにより、相手が意図せず示している本質(自らは新しい価値を創造できず、受け
継いだものを金科玉条とする世襲政治家)を浮び上がらせるという、面白い事例になっていると思います(そ
ういえば麻生首相著「とてつもない日本」も、同じような言葉の組合せです)。「生き生き」というのはオバ
マ米大統領の"Yes, we can."に近いでしょうか。
 最近、藤原氏の影響で読み始めたクリストファー・ウッド著「バブル・エコノミー」にある
”景気後退とは、過剰生産に伴って余儀なく引き起こされる経済活動の縮小のことである。一方、不況は過剰
設備投資が原因になっている。景気後退においては主な不均衡は在庫となって現れるが、不況ではそれが設備
とその生産能力に影響が出てくる。在庫は急速な調整が可能だが、過剰な設備とその生産能力を吸収するには
何年も必要とする。”
といった文章を読むと、やはり用語を正確に捉えて使っている人間は違うという印象を持ちます(あいまいな
表現に終始する日銀や政府の景気観測発表と比べて)。

54プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 06:14:07
藤原さんの例と、T.N.さんのコメントを読んで、私は意味論の実利をつかみたいので、自分のフィールドであるビジネスで考えてみました。近江商人の商売の十訓の一つに、「店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何」というのがあります。例えば、『ヤマダ電機の品格』 立石泰則 講談社 という書籍(どこからどう読んでもヤマダ電機批判)がありますが、立石さんに聞いた訳ではないので、どうなのか分かりませんが、この表題には、「ヤマダ電機が意図せず示している本質(たくさん店がある。店は都心の一等地だ。けれど店には品がない。)を浮び上がらせる」ことをしていると解釈できるのではないでしょうか。※もし宇宙巡礼にヤマダ電機関係者がおられたら、これは上述著書が存在しており、世間がそういう目で見ていることもあるという例を示したのみで、ヤマダ電機を意図的に誹謗中傷しているのではないので、そのことご了解下さい。

55一色:2009/08/10(月) 08:16:07
自分では美しいと思って刺青をしている男や厚化粧している女が目立つが、自分が美しいと勝手に思い込んでいるだけのことが多く、それは決して品性があるわけではないし、生き生きしているものに匹敵するわけではない。
確かに形容詞の使い方一つを見ても、美しいという見せ掛けの美辞麗句を使って粉飾することで、国民をたぶらかそうとした安倍の言語能力の幼稚さは明らかで、それに気づかずに騙されて人気を盛り上げた国民も、愚かなマスコミと共に見る目か狂っていたと思う。
安倍よりもさらにお粗末な麻生の言語能力によって、国民が言葉の持つ重要性について気づいたというのは、言葉の乱れている時代とはいえ実に皮肉だったということになる。

56プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 09:55:35
言葉が乱れているときに国民が言葉の持つ重要性に気づいただけではまだ不充分。意味論に通じ使えるようになって実利とする必要があります。そのためには意味論の、スキルとして静的にも動的にもその原理を、もっと広く国民に広めないといけません。私はビジネスパーソンが意味論に通じたら日本経済総体でみると凄い力になると思います。ジャーナリズムの世界でも、別スレッドでヒロイエさんが紹介して下った山岡俊彦さん主催するアクセスジャーナルをみると、飼い犬(pet dog)と対して野良犬(stray dog)があり、弱い者いじめに対する「強い者いじめ」という素晴らしい“らしさ”が浮かび上がっています。もっと言葉を編集して私たち“らしさ”を出し合いましょう。きっとそれが藤原さんにも喜んでいただけることだと思います。

57プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 10:40:38
そういえばこのスレッドは「最近読んで印象的だった本」だったと気づき、意味論はひとまず置いて、藤原さんが幸田露伴を持ちだされたので、私不肖にも生涯初めてとなる『五重塔』(明治25年)を其一から其三十五まで、めっちゃ読みにくい文体でしたが、これって音読するといいかもとも思い、読了しました。幸田露伴が言っているのは、職人には、社会との関係を遮断してでも仕事へと突入する超越的とも言える瞬間、それに続く純な仕事への集中の大事がある、ということではないでしょうか。私が、総理大臣にむかって言うことではないかもしれないけれど、麻生太郎さんに『五重塔』を読んでもらって所感を述べてもらいたいです。辞書をひかないと読めないので漢字を知るにも都合がよいと思います。

58村山貴子:2009/08/10(月) 23:57:04
マンガしか読めずまともに漢字も読めない男が、たとえ自民党の総裁として首相になっているからといって、麻生太郎などに「五重塔」を読んでもらおうと思うのは、発想としてお粗末過ぎるので唖然とするばかりです。
それは著者の幸田露伴翁に失礼であるだけでなく、われわれ露伴の読者に対して無礼であるし、カラスに白鳥の舞を踊れというようなものであり、話題が脱線しているだけでなく議論が混乱している感じがします。

59山村貴男:2009/08/11(火) 00:20:56
村山貴子氏の投稿58に乾杯。

60プロジェクトラーニング:2009/08/11(火) 05:48:49
山村貴男さんは「村山貴子氏の投稿58に」乾杯なんてしてないで、「最近読んで印象的だった本」スレッドで感じたことを述べているだけなのに、意味の通らぬコメントをする村山貴子さんを少しは疑問に思ったらいかがでしょうか。「それは著者の幸田露伴翁に失礼であるだけでなく、われわれ露伴の読者に対して無礼であるし」とありますが、『五重塔』は読者を選ぶのか? そもそも村山貴子さんは、幸田露伴翁と露伴の読者の何なのか? 国民が総理大臣に『五重塔』を読んでほしいと願ったら幸田露伴は失礼だというのか? ですが不肖にも生涯はじめて『五重塔』を読んだ私ですから、そもそも麻生太郎さん云々の前に、お前にごときに『五重塔』を読まれたらたまったものじゃないと言われたような気持ちとなり悲しいですが、宇宙巡礼に学ぶ者として反省し再読し理解に努めます。私にはじみちにそうするしか術がないないので、村山貴子さん、幸田露伴にお詳しいのならぜひご教示下さい。また人のコメントにケチつけてないで、あなたの所感も述べてみて下さい。

61千々松 健:2009/08/11(火) 08:45:22
疑問詞構文の8W1Hの中でも、最近はWhoseが重要になって来ていると考えています。Why,What,How to,ないしは論理思考をいくらしても、最後は味方や良き理解者を得ることが大切になるようです。それが「Whose」の意味になります。お互い良き理解者でありたいと願っております。
「それはヨカ、バッテンこう考えたらもっとヨカ」というように、今後とも提示版を「生き生きと」したいものです。
ところで、よく向田さんの小説をもとにしたテレビドラマを真夏に観ていたのですが、今年は無いのでしょうか?

62プロジェクトラーニング:2009/08/11(火) 10:35:27
千々松さん、向田邦子の「母の贈物」(『きんぎょの夢』に所収 文春文庫)という作品はお読みになっていますか。TBSで9月14日に放映されます。向田邦子に久世光彦がいたように「Whose」は大切です。藤原節で言えば、「結論的に言うと、実力のバランス関係で相手よりも強ければ、ポテンシャルの差で吸い取れるのが情報であり、価値ある情報は相手の側が持ってくるし、知的に追い詰めて本音を叩き出すためにも、信頼される立場を確保することが肝心である。」(『インテリジェンス戦争の時代』P28)の指摘に学び直しました。ご指摘ありがとうございます。

63プロジェクトラーニング:2009/08/11(火) 18:41:06
村山貴子さんに半畳を入れられて、まったく嫌な気分で今日が明けたが、そして自分の投稿後に「人のコメントにけちをつけるな。つけるのなら価値をつけなさい。」と結んでおけばよかったと臍をかんだ。けれど千々松さんに脚下照顧と諭されたおかけで、気分を取り直しこの貴重な盆休みの間に読んでおこうと思っていたジョン・デューイ『民主主義と教育』 松野安男訳 岩波文庫 の読書にとりかかりました。第一章にこのようなフレーズがあります。「通信を受けることは、拡大され変化させられた経験を得ることである。人は他人が考えたり感じたりしたことを共に考えたり感じたりする。そしてその限りにおいて、多かれ少なかれ、その人自身の態度は修正される。そして通信を送る側の人もまたもとのままではいない。」(上巻P17)宇宙巡礼の掲示板の大事がいいわらわされているようで、皆さんと共有したくなりました。

64千々松 健:2009/08/12(水) 11:32:15
プロジェクトラーニングさん有難うございました。今年も向田ドラマを観ようと思います。

「失敗学」の創始者といえる畑村洋太郎氏の書かれた「みる わかる 伝える」は図もたくさんあって理解しやすい。
絵と言葉すなわち「カタチとコトバ」の相乗効果を改めて認識した思いでした。
工学系の出身で創造設計原理の研究をされていると聞くが、次の3点で印象に残った。
第1点目:「見ない、考えない、歩かない」の3ナイではなく、「現地、現物、現人」の3現を通じてのみ真実がわかる。 
第2点目:「順演算と逆演算の関係を、左手系と右手系の関係に置き換えて説明している。両手を合わせることで抜けのない検討ができる。
第3点目:正しいやり方をそのまま書く「陽」と、やってはいけないことをやるとどうなるか、やるべきことをやらないとどうなるかを書く「陰」の両方の知識を持つことで、立体的な見方ができるようになる。

 そして、極めつきは「真の科学的理解とは、要素の摘出と構造化を通じて目の前のものや現象の状態を正確に知り、現象の因果関係を正しく理解することである。」p65
これは要するに「意味論」に通ずるに違いないと思うのだが、更に畑中氏は続けて「だから、真の科学的理解をしている人は、新しく何かを作り出す創造もできるし、周囲の状況の変化によって現象が大きく変わったときにも、それにきちんと対処できるのだ。」

65プロジェクトラーニング:2009/08/12(水) 16:53:46
千々松さんのコメントにヒントを受け、私は、E.S.フォーガン『技術屋の心眼』を一読してみました。著者は、工学設計の過程を詳細に検討し、近代の科学技術の進歩にもかかわらず、設計の過程においては、数式や計算といった解析的なやり方だけでなく、直観や言葉には表せない思考といったものが重要な働きをしていることを例証しています。図像的な思考というのでしょうか、心眼とは、直観的なイメージを現実のイメージに変換する能力・センスであり、それを養うには、眼を通して入ってくるものをはじめ、耳、鼻はもとより、手触りや重みを感じる筋肉の感覚まで、様々な感覚的情報を集積し相互に関連づける経験であり、人はこれを通して物を本質的に知るとあります。意味論を考えるうえで示唆があるのは、ジェームス・J・ギブソンがいうところの事物が我々に行動を促すアフォードをしているところにあるかもしれません。経営学では、この例は有名なのですが、デザイナーの深澤直人さんは、傘立てのデザインを頼まれて、普通の人は造形物を考えるところを(たとえば、陶器仕様にするか金属仕様にするかとか、四角にするか丸にするかといった具合に)、玄関の壁に沿って床に一本の線を引いて、それに少し窪みを入れたそうです。傘の先をその窪みに置いて、柄を壁に立てるという人の行動をアフォードするデザインです。畑村洋太郎さんの見識に加えて上記も参考にしていただけると「もっとヨカ」です。

66プロジェクトラーニング:2009/08/12(水) 18:16:35
本ではないですが、三夜連続のNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」はとても興味深かったです。大日本帝国海軍・軍令部の実態がここまで明かされたのは初めてではないでしょうか。海軍反省会なるものが11年間も続き400時間にわたって軍令部のメンバーが記憶を紡ぎだしたのですから、これは凄い事実です。まさしく対話によって歴史が編集されたと言えましょう。ときの軍令部総長が、陸軍のクーデータを恐れ、海軍が先手をとって(今ならまだ勝てる可能性があると)開戦になし崩し的に動いていったという証言は生々しかったです。東京裁判では、戦争指導者として文官1人、陸軍関係者6人が絞首刑となりましたが、海軍関係者の被告は終身刑でその後釈放されています。この際にも、水面下で海軍トップの裁判対策を組織的に行っていたという証言でした。これでは海軍あって日本の国家なしではありませんか。300万余人もの日本人の命を奪うという結果を招いたことに対して、いま現在を生きる我々は、人と組織が持つ問題に対して歴史からの示唆をもっと深く知らなければならないと感じました。

67千々松 健:2009/08/12(水) 18:48:27
飛鳥時代以前には日本へ道教が伝わっていたのですから、飛鳥時代にイランからゾロアスター教が伝わっていたのではないかという松本清張の仮説(小説「火の回路」)は興味が持たれます。
逆に日本がルーツかも知れないという逆序の発想も必要で、順序と逆序の両方の視点から考古学は見て行かねばならないと思われます。少なくともそれを受け入れる「何らかの素地」が無くてはならないわけですから。
ただし、逆はあり得ないという証拠が一つでも見つけられれば、それは氷解されるという理屈になります。

 さて、小室氏の意味論は数学的な証明論のようではないかと思われ、「形式論理」や「詭弁の論理」で「ためにするインチキ」や「ウソ」に誘導され、まんまとそれに引っ掛かるのが「意味オンチ」になるのでしょう。一度、冷静になって、絵に描いて集合論で確かめることが必要だといっているのではないかと推察します。
そして、「必要十分条件」が満たされて、初めて正しいと見なければならないということなのでしょう。
歴史から学んだり地質学を学んだりは、まさに逆序の発想が大切になるのですね。

68T.N.:2009/10/10(土) 22:48:21
 「やっぱりあぶない、投資信託」、「やっぱりあぶない、個人向け国債」。どちらも今年の6月4日に亡くなっ
た水沢渓氏の著書です(享年73)。共に110頁ぐらいの薄い本なのですが、単なる投資指南本に止まらず、歴
史的・世界的視点で経済の解説を行っています。これほどコンパクトに纏め、なおかつ説得力を持ち、わかりやす
い本というのはちょっとありません。
 「投資信託」の方は2006年末の出版。ニューヨーク株も東証株価も危険水域に入っていると警告しています。
わずか半年後に、サブプライムローン問題による株価暴落が起き始めました。「国債」の方は2007年夏の出版。
第5章の近未来シミュレーションには、日本国債のデフォルトと、総選挙で与党が議席を半減させる敗北が記されて
います。日本国債のデフォルトこそまだですが、見事な予言書です。

69藤原肇:2009/11/05(木) 00:23:04
日本問題を専門にしたり日本についての仕事をする外国人で、、文科系や政治問題を扱う人の圧倒的な多数が、たいていの場合に奥さんが日本人女性であることは、私の数十年の海外生活で確認したことである。
日本でも財界や政界あるいはジャーナリズムの世界において、目覚しい活躍をしている人のほとんどの場合が、夫人のほうが人間的に優れていたのも事実である。
ということは、連れ合いが優れていない男はうだつが上がらないか、奥さんが悪かったので離婚し再婚していないケースが多い。特にアメリカのジャパノロジストにおいては、奥さんの考えを英訳して成功している人や、奥さんの指導が実って日本の専門家として大成している人が圧倒的である。
日本びいきのオーストリー系のアメリカ人として知られ、日本でもフアンの多いマネージメントの発明家である、ピーター。ドラッカー博士の場合も同じである。ドラッカー博士の方が家柄としてはより上流水球であり、ウィーンでのつき会った人が凄かったことは、『傍観者の冒険』を読めば明らかだ。
しかし、ドイツ生まれの夫人のドリスが書いた自伝である、「あなたにめぐり会うまで」を読むことによって、ドラッカー博士が素晴らしい妻に恵まれ、そのお陰で大成したことがよく分かるだけでなく、第二次世界大戦に至るまでのドイツの社会が、こんな興味深い社会構造と文化を持っていたと明白になった。
ただし、この本は絶版であり入手困難だから見つけるのは大変で、私は出版社が持っていた最後の一冊を社長からもらい、こんな有難いことはないと思った次第である。

70プロジェクトラーニング:2009/11/05(木) 05:36:05
藤原肇さんの記事を読んだ後に思いついたのは小泉八雲です。パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)であり、一般的に知られているラフカディオは彼のミドルネームです。1890年40歳で来日、翌年に島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられた後、日本人の妻と結婚(やはり奥さんが日本社会への良き道先案内人だったようです)、帰化して三男一女の子をもうけ、1904年54歳の若さで狭心症により当時の東京の自宅(牛込)で亡くなっています。最近読んで印象的だった本として『神国日本』を推します。またハーン研究書として『神々の猿』 ベンチョン・ユーは優れています。いずれも読み進めているうちにハーンに「おまえはそれでも日本人か」と詰問されているような気になります。なにゆえハーンはこれほどまでに日本を知り通し得たのでしょうか。

71田中治:2009/11/05(木) 12:10:25
昨晩、夕食後の寛ぎの時間に、久しぶりにテレビに電源をいれるとアメリカのウェルズリーカレッジを舞台にした映画「モナリザ・スマイル」を放映していたので鑑賞した。映画のシナリオは1954年前後の設定であり、その頃のアメリカの上流階級の子女の精神構造に思いや想像をめぐらせながら、男と女についても考えさせられていた。今朝になり、藤原さんの投稿を読んで、すぐに思いついたのは犬養道子著の「男と女」である。
古今東西の歴史や文化さらには文明の中で、男と女はいかに存在し機能してきたか、また「自然」から「雄雌」を見る視点をもち、ホモ・サピエンスとはなにかについて考察されている点でも、単なる知識を越えて深く考えさせられる名著であるとおもう。この本が出版されたのは1970年代であり、“ウーマンリブ”が声高に叫ばれた時代背景も無視はできないが、内容はきわめて普遍的なテーマがほとんで、人間なら誰にとっても無視できないテーマでもある点で一読の価値はあると思う。

また映画のタイトルにモナリザとあり、実際に映画のなかでレオナルド・ダヴィンチのモナリザの絵が登場するので、千々松さんが別スレッドでフランスのシャンボール城にある二重螺旋階段について触れられていたことを思い出した。わたしもここを訪れたことがあり、ダヴィンチが設計したとされるこの螺旋階段を登って屋上に出て、そこからの眺めを満喫したことを思い出した。

シャンボール城は地上から眺めたり、内部を歩き回っているときよりも空から俯瞰してはじめてその凄さを実感できるタイプの城であり、航空写真を見ると、四角形や円形や三角形が随所に配置され、その中を二重螺旋が階段の形をとって、天地を貫く構造になっている。ひたすら天や東に志向する神の家としてのゴシック教会やファサードが特徴的なイタリア・ルネッサンス様式の建築物とは一線を画した当時としてはある意味実験的な城なのではないかと感じた。屋上から眺めたときにまず目に入ったのは、意外なことに水路であり、おそらくロワール川から引いたものだと思うが、これもダヴィンチの水道計画を採用して作られたらしい。

72田中治:2009/11/05(木) 12:11:13
ロワール川流域に建つ数々の古城のひとつにアンボワーズ城があり、ダヴィンチを庇護したフランソワ1世はこの城に居たらしい。このアンボワーズ城からすぐ近くにクロ=リュセというこじんまりした城館があり、ダヴィンチは晩年この城館に滞在し世を去っているが、今でも多くの観光客が世界中から訪れていてダヴィンチの世界的な人気を再認識した。城館の内部はもちろん興味深いのだが、もっとも感銘を受けたのは、城館に属す広い敷地の庭のそこかしこに、ダヴィンチの発明した戦車や建造物の模型、絵画などが置かれ、訪れた人が自然のなかを自由に散策しながらレオナルドの作品を鑑賞し、それぞれが思いを馳せることができるような仕組みになっている。わたしが訪れたのが盛夏だったこともあり、燦燦と降り注ぐ陽光が豊かに茂った木々の葉の緑に映え美しく、心地よいそよ風とともにダヴィンチの作品を自然のなかで鑑賞した。以前、ダヴィンチが生まれたとされるヴィンチ村にも滞在したことがあるが、トスカーナの豊かな田園風景が広がる美しい自然の風景を思い出し、レオナルド・ダヴィンチは自然から生まれ自然に帰していったことを痛烈に実感した瞬間でもあった。クロ=リュセでのこの粋な展示は、ダヴィンチがフランスにとって客人だったものの、彼を受けいれたことの栄誉を500年経ってなお、このような形で表し、万人にシェアしているのだろうというフランスの気概のようなものさえ感じた。

イタリアではレオナルド・ダヴィンチというとまっさきに絵画が思い浮かぶが、フランスでの彼はひたすら幾何学・建築・水の研究・都市計画の研究をしていたようであり、ここでの研究の成果はそのまま、その後のフランスの発展の大きな源のひとつになっているように思える。

話が随分脱線したが、男と女なる視点からダヴィンチを眺めると、彼は生涯妻を娶らなかったし、どの地においても女にそれほどの関心を示していないのは明らかで、彼が肉体的に両性具有だったとする説もあるようだが、いずれにしろこのルネッサンスの巨人は、自己の内部において女的なるもの・男的なるもの、つまり両性を同時に内包し、機能させ、足りない点について他者から補完してもらう必要がなかったのかもしれない。

映画「モナリザ・スマイル」はジュリア・ロバーツが主演の、全体としていささか味わいに欠けるハリウッド映画だとは思ったが、モナリザの微笑の中に含まれる普遍的なテーマを久しぶりに思い出し、いささかパッチワーク的な内容だが、犬養道子著「男と女」を再読しながら、思いつくまま投稿させていただいた次第である。

73千々松 健:2009/11/06(金) 17:08:02
田中さん シャンボール城とレオナルド・ダ・ビンチのレスありがとうございます。
先週、フランスの思想家レビストロース氏が100歳で亡くなった。「男と女」の関係を人類学者として構造的に探求されていたと聞く。
AからBに変換することに対して、BからAに逆変換することも同様に「可逆的な変換」であるとした。と橋爪大三郎氏は悼みの記事で書かれていたが、
そらはまさに「順序+逆序=秩序」を意味していたのであると思われる。

74田中治:2009/11/06(金) 21:00:41
千々松さん、シャンボール城の構造についてフィボナッチ数列の観点から繋げていただきましてありがとうございます。また構造主義の巨人レヴィ=ストロースの男と女の人類学的構造論は是非読んでみたいものです。シャンボール城ですが、365本の塔には私自身気づいていませんでした。ご指摘感謝いたします。また千々松さんの○△□のお話と繋がって、わたしの頭ではついていくのが大変ですが、大変興味深く読ませていただいております。シャンボール城は城そのものの構造には大変興味をそそられるのですが、「場の選択」が正しかったのかどうかについては、私もまだよくわかりません。
話は少し変わりますが、イタリアのプーリア州にカステルデルモンテという古城があります。この城は8角形ですが実際に訪れた際、コンパスで方角を測ってみましたら、八角形と8方位は完全に一致しておりました。また冬至や夏至時の太陽の位置・月の位置を計算して作られたとスタッフの方が話されていました。実際、冬至や夏至の日にここで天文観測することもあるそうです。(行ってみたいものですね!)この城は13世紀の神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ2世が築城したとされる城だから、フリードリッヒ2世に庇護されたフィボナッチはここを訪れたか、実際に設計に携わった可能性すらあるのではないかとかねてより思っておりますがいかがでしょうか。私などと違って、千々松さんが実際にご覧になれば、相当な発見があるだろうと推測いたします。

75千々松 健:2009/11/07(土) 08:05:25
田中さんのイタリアの「カステルデルモンテ」のご紹介ありがとうございます。
お陰様で、新たなイメージが湧きそうです。今はやりの「検証」に多少時間がかかりそうですので、取り敢えずは下記のコラムをご覧ください。
「ゼロと紙の旅は道連れ」
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/zerotokami.html

76我星(マイ・スター=Meister):2009/11/07(土) 11:09:55
前回の欧州出張中に偶然立ち寄った本屋で VITRUVIIの『DE ARCHITECTURA LIBRI DECEM』(建築十全)のラテン語 ドイツ語対訳本を入手することができた。VITRUV自身についてはあまり知られていないが、ローマ皇帝AUGUSTUSに仕えたVITRUVは、この本を皇帝に捧げており、その格調高い導入部分は、2000年の時空を超えて現代において読者に新鮮な感動と喜びを伝えるものである。この本は紀元前33年から22年ごろにかけて書かれたと思われるが、以来古代ヨーロッパ社会における建築に関する古典的名著として、幾多の建築家、建築従事者、知識人、聖職者に(密かに)読み継がれてきたことは、引用のされかたからも窺い知れる。先に話題になっているダビンチが25歳ごろにはこの本の印刷版がイタリアで出ており、ダビンチの死後ではあるが、その後ローマにおいて1542年にはVITRUVの研究と彼の著作の忠実な再興を目的としたACCADEMIA DELLA VIRTUが結成された。

77我星(マイ・スター=Meister):2009/11/07(土) 11:10:36
前回の欧州出張中に偶然立ち寄った本屋で VITRUVIIの『DE ARCHITECTURA LIBRI DECEM』(建築十全)のラテン語 ドイツ語対訳本を入手することができた。VITRUV自身についてはあまり知られていないが、ローマ皇帝AUGUSTUSに仕えたVITRUVは、この本を皇帝に捧げており、その格調高い導入部分は、2000年の時空を超えて現代において読者に新鮮な感動と喜びを伝えるものである。この本は紀元前33年から22年ごろにかけて書かれたと思われるが、以来古代ヨーロッパ社会における建築に関する古典的名著として、幾多の建築家、建築従事者、知識人、聖職者に(密かに)読み継がれてきたことは、引用のされかたからも窺い知れる。先に話題になっているダビンチが25歳ごろにはこの本の印刷版がイタリアで出ており、ダビンチの死後ではあるが、その後ローマにおいて1542年にはVITRUVの研究と彼の著作の忠実な再興を目的としたACCADEMIA DELLA VIRTUが結成された。

78我星(マイ・スター=Meister):2009/11/07(土) 11:23:39
キリスト教以前の本に接することで、本当に清々しい気分になる。私はラテン語をスラスラとは解さず、意味はドイツ語対訳を通じて理解しているが、二ページ見開きで左にラテン語、右にドイツ語の対訳という形式になっており、ドイツ語で対訳を読んだ後に、ラテン語にも目を通すようにしている。ラテン語を静かにつぶやきながら復唱することで、頭の中が洗われる、清々しい気持ちになり、数年前に南イタリアのサレルノにある古代ギリシャ遺跡PAESTUMの神殿の面影が、頭の中に蘇るのである。そして、欧州を旅し、行く先々で接し目にする物を言わぬ石造建築に、古代から脈々と伝えられる叡智の具体的表出を感じ、えもいわれぬ畏怖と親しみを感じる次第である。

79我星:2009/11/07(土) 23:12:18
Architecti est scientia pluribus disciplinis et variis eruditionibus ornata, cuius iudicio probantur omnia quae ab ceteris artibus perficiuntur opera. Ea nascitur ex fabrica et raciocinatione. Fabrica est quae manibus perficitur e materia, cuiuscumque generis opus est. Ratiocinatio autem est, quae res fabricatas sollertiae ac rationis pro portione demonstrare atque explicare potest.

80我星:2009/11/07(土) 23:21:58
勝手な意訳 
建築に従事するものに必要なのは実際の作業を通じた熟練の腕、技能、肉体的作業(FABRICA)と、知識、精神的作業(RATIOCINATIO)である。

81千々松 健:2009/11/08(日) 22:23:35
>79「 rationis proportione demonstrare 」
我星さんが引用文された最後の行の部分は注目に値すると思われます。
「ラティオ」とは自動車の名前にありますがレシオ、比率、律動の意味ですから、
超意訳になるかもしれませんが「比率としての割合を実証している」「神聖なる比例を表出している」
となると思います。無論「Divina Proportione」は神聖比例と訳され、近代は「黄金比」と呼ばれています。
良く知られているように黄金比はフィボナッチ数列に関係してきます。1,1,2,3,5,8,13,21,34,54,88,144、、、
現代建築家のル・コルビジェはそれを3倍にした数列を「モジュロール」と呼んで使用していました。彼のデザインは素晴らしいのですが、3倍の数値のみに意味を持たせようとしたので、残念ながら後継者がいなかったようです。
フィボナッチ数列の考えの基本にある古代の「フトマニ」の思考からすれば、実は初項と第二項にどんな数を持ってきても、大項目で隣同志の比率を計算すれば、すべて黄金比になることは前に述べたように事実ですので、もっとオープンに構えるべきだったと思われます。

82千々松 健:2009/11/09(月) 10:56:14
>81 済みません訂正です。
「律動」は「リズム」のことであって、ラティオの訳としては正しくないのでした。
ただし、フィボナッチ数列とそこからも生まれ出る神聖比例の黄金分割は広い意味での「宇宙的リズム」として認識してよいのではないかと思うのです。
「音」も「光」もこの「宇宙的リズム」の中に在ると考えて良いのです。そして、それは時空の中では「螺旋」として表出されるのです。

83千々松 健:2009/11/09(月) 12:02:30
>74、75のつづき
今回、神聖ローマ皇帝のフェデリコ(フリードリッヒ)2世について知り得たことですが、彼はイスラム教とキリスト教とユダヤ教等の混在したシチリア島で教育を受けたおかげで、9ヶ国語を操るほどの国際人であり、鷹狩り好きで、カステルデルモンテを建てたようです。科学と数学を好み、ピサのレオナルドと呼ばれたフィボナッチを良く宮廷に招いていたようです。またナポリ大学の創設者でもあり、南イタリアの文化風土を築いた人物のようです。
『また「8」という数字は、風位と宇宙的均衡を示し、イスラム世界においては、天国を寓意する数字だそうです。フェデリコ2世は、幼少の頃から天文学や数学に特に強い関心を示していただけあって、数字のもつ意味に強いこだわりがあったということを聞くと、何やら深い意味がありそうですが、今となっては全て推測するだけしか出来ません。真東を向いた玄関の縦横の長さは、五芒の星に基づく黄金北によっていて、これはルネッサンスの先駆けと言えるそうです。また、5つずつある暖炉と雨水溜は、「火」と「水」を表しているそうです。建物の影は、春分と秋分の正午になると、中庭の縁までを満たすようになっています。また夏至の時には、中庭のちょうど真ん中の天空に、中世の北極星ヴェガが現れるのです。合理的な知識人でありながら、占星術や予言を畏怖していたフェデリコ2世は、この城の設計に当たって、スコットランド人の天文学者を招いたと言われています。』
フィボナッチ自身がどこまで設計に関与したかは探れませんでしたが、「スコットランド人の天文学者」が関係していたとすればケルト文化の影響も当然入っていたと思われます。やはり建物内には左回りの螺旋階段があるそうです。
それにしても、イタリアの「二人のレオナルド」には興味が湧きますね。

84さげ:2009/11/09(月) 23:03:37
暴政が支配する日本に救いはあるか(1)
のリンクがおかしいです

85西條 謙太郎:2009/11/14(土) 02:09:22

我星さんや田中さんのように、「ウィトルウィウスの建築十書」をラテン語
・ドイツ語対訳で読んだり、数多くの古城を実際に訪れたりして、ヨーロッ
パでの幅広い見聞と考察の経験をもとに、古典や建築を通じて叡智を探ると
いうことは、まさにルネッサンスの教養人と同じ体験をされているというこ
とで、たいへんすばらしいことだと思います。

グローバル社会の現代において、非ヨーロッパ世界の人々にも、ヨーロッパ
、ギリシャ・ローマおよびそれ以前からの叡智の伝統の存在を伝え、それら
の叡智へのアクセスの道しるべを置いておくことは全体のバランスを取るう
えで重要なことだと思います。

なお「ウィトルウィウスの建築十書」に関してご参考情報を
下記しておきます。

http://www.tohata.co.jp/memorial/pdf/tohatakenzo.pdf
http://blog.u1architects.com/?eid=568994
http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/152101.html

86千々松 健:2009/11/14(土) 19:57:04
>85 西條さんの情報に感謝します。
ローマ皇帝アウグストュスに仕えたマルクス・ウィトルウィウス・ポリオがBC1世紀に書いた「建築について」は欧州最初の建築論書であるという。「ウィトルウィウス建築十書」として1521年にイタリア語に訳されたものが現存していた。
ダ・ヴィンチの人体図のルーツを見て、一つの疑問点が解消された。大枠としての正方形の中に内接する円があり、さらにその円に内接する正方形があり、その中で両手と両足を大きく開いた男性裸体が描かれていた。図形的な中心はヘソや陰部ではなく丹田に位置しているように見える。
鉄棒で逆上がりをした時の支点も丹田に来るようだし、丹田呼吸法も考えると興味深い。
いずれにしても、元々は円と四角が内・外接していたものがあったという事実を確認できて嬉しい。
実際の建築においてこそ、●▲■の幾何学と黄金比に代表される代数学が美しく融合しているのではないかと感じられる。

87松本英樹:2009/11/24(火) 11:16:46
ダ・ヴィンチがウィトルウィウス(ビットルビウス)の人間正方体図を参考に
したとした場合、彼は人体バランス(1:√2)の比率を否定した。
その時、この人体図に2つの違和感を感じたのではないだろうか?

①図は緊張した体勢(引っ張られた姿勢)で、腕の長さが異常に長い。
②人体の中心点は、ただ1点でいいのだろうか。(静態と動態)を含めるべき
人体バランス比率は、大枠□、内接●、内接□で構成される(1:√2)より、
(1:Φ)の比率が、より自然体バランスに近いと見抜いたのだろう。
黄金比が判るヒントとして□と○を合わせたともいえるかもしれない。

解剖学上、果たして丹田なる存在が理解されていたかどうか解りませんが、
陰陽を考慮すると、人体が回転し、背中を見せる図になるが、そこに「生命の樹」
が浮き出てくるかもしれませね。

88松本英樹:2009/11/26(木) 06:10:48
>87
(1:√2)の比率を否定した、という表現は強すぎました。
(1:9√2/10)の方がより実態に近いと感じた、というニュアンスです。
日本人は日常的にこの比率の中で生活しています。
畳の部屋で(大の字)に寝転がるだけですが(笑)

「最近読んで印象的だった本」という表題とかけ離れますが、最初にこの人間
正方体図に出会ったのが「間脳幻想」P279.1990年代初頭。この図は
大変インパクトがあり、後に、正方形の対角線から黄金数を導く図法、直角三角形
の転がし運動に繋がります。□△○の併せ技です(笑)

89千々松 健:2009/11/26(木) 12:55:37
○△□の文明論。
木の文化と石の文化の建築における差異を考察すると面白い幾何学が学べます。
自然の木から角柱を切り出すには√2の比率が大切となり、それは1.414の白銀比が生じます。
岩壁から石は直方体に先ずは切り出され、そこから円柱なり球体を更に切り出す時には(1+√5)/2すなわちラージファイ=Φが関係してきますので、
当然に黄金比が生じます。
 すると、木の文化からは白銀比が生まれて、石の文化からは黄金比が生まれる運命にあったのです。
ウィトルウィウスの述べていた「建築に従事するものに必要なのは実際の作業を通じた熟練の腕、技能・・」(我星さんの訳)
の意味するところは、黄金比に通じることさらに言えば、フィボナッチ数列を操れることになるのではないかと思わされました。

90千々松 健:2009/11/30(月) 12:17:05
ウィトルウィウス(Vitruvius)やレオナルド・ダ・ビンチが●▲■を人体図を使って考察していますが、一体何を見つけようとしていたのでしょうか?
その点について、既に誰かがどこかで述べているやもしれませんが、もしもあれば是非とも検証しなければならない興味深いテーマです。
さて、台湾の張錦春さんがご自身の鉄棒回転運動によりにより「動態幾何学」の心髄を示されていることに大きなヒントを頂戴したおかげで、
●▲■の基本図形の各種比率が整数や黄金比や円周率に依っている事実と、白銀比は円に対して内接する正方形と外接する正方形との間に登場することが理解されました。
本来は「フィボナッチ数列の殿堂への夢」のレスに適した内容かもしれませんが、ダ・ビンチゆかりのシャンボール城とフィボナッチゆかりのカステルデルモンテ城の建築設計美からの一連の繋がりから
ここに致します。
 ご参考までに
レオナルド・ダ・ビンチとウィトルウィウスの人体図
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/pythagoras/VV.html
ダ・ビンチ・コードと●▲■の秘密
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/pythagoras/PP.html

91藤原肇:2009/12/01(火) 00:53:22
カンボジアへの旅に持ってきた『持丸長者』に取り付かれてしまい、アンコールワットの遺跡が後回しになるほど熱中して、「幕末維新篇」と「国家狂乱篇」の二冊を四日かけて読了しました。凄い情報量であり、目下のところ頭がくらくらしています。
私が広瀬さんの本と出会いを持ったのは「クラウゼヴィッツの暗号」であり、これは中国各地の大学を歴訪した旅の時に、飛行機の中で読んで面白いと思った本でした。
そして、北京大学の図書館に案内された記念として、各地の大学にプレゼントするために持って行った、出て間もない『アメリカ人、ロシア人、中国人とつきあう法』と一緒に、毛沢東が働いたという北京大学図書館に寄贈したものでした。
そのときに北京大学図書館長から訪問記念として、古い活字で印刷した『離騒』と『楚辞』を貰って来ましたが、確か田中角栄も周恩来から貰ったように記憶しています。
それにしても、私よりも若い世代の広瀬さんが大いに成長して、『持丸長者』のような手間隙だけでなく、重厚なリサーチが必要な本を造ってくれたことは、実に嬉しいと思わずにはいられません。
今回のカンボジア旅行の最大の成果は、日本を動かした怪物たちとの出会いでした。

92T.N.:2009/12/02(水) 23:49:14
 「持丸長者」は未読ですが、新聞にかなり大きな広告が出ているのを見たことがあります。おそらくそこそこ
売れたのでしょう。広瀬氏と藤原氏の視点には共通するところが少なくないと思いますが、一方が割と大きく取
り上げられるのに、もう一方は存在自体が危険視され、書評すら出ません。藤原氏の本にあって、広瀬氏の本に
ないのは何か、読み比べてそんなことを考えるのも、面白いかもしれません。

93千々松 健:2009/12/11(金) 21:57:35
本日、偶然に「経世済民の新時代」をブックオフにて入手しました。
1994年712号タケヤマ・レポートの再録である「大不況を動態幾何学で読む」は特に圧巻でした。
フィボナッチ数列の秘める自然の発展法則をF(ファイ/藤原)座標とガウス座標(複素数空間)を使用して、信用と実物経済の関係がもたらす社会循環モデルを落合氏と構築されていました。要するに静態的から動態的均衡理論へと新しい次元で思考することの必要性が説かれています。
帝王学には昔から幾何学が必要で、21世紀は動態幾何学に移行しなければいけないというわけです。陰陽太極図は人間に理解しやすいように平面投影しているが、本当は蚊取り線香に似た対数螺旋なのでした。
「メタサイエンスの時代の訪れとアジアの世紀」では藤原博士がUSAを去り、これからの未来あるアジアへ移動された意味が理解できます。

要修正点:p117 「これは用紙のA、B判や葉書の縦横の比率で、美学でいういわゆる黄金分割というヤツですな・・・。」(落合氏の反応)は修正が必要です。実はA,B判は1:√2の白銀比の方です。また葉書も多少違います。普通の「名刺」の比率は1:1.618で黄金比になっています。
ただし、A判とB判との関係には実は黄金比が隠れているのでしたね。

94千々松 健:2010/01/05(火) 14:43:41
「論理哲学論考」の冒頭でウィトゲンシュタインは①「成立している事態の全体が世界である」②「対象の配列が事態を構成する」と簡単に言ってのけている。
私的には、この二つは「21世紀マンダラ」としての「神聖方陣」が①で「ラセンモデル」が②に相応すると考えることで納得した。
①は陰陽で成立している形態としての世界であり。②はFLKM系列の4つの数の流れ(配列)により自己増殖するように構成されたプログラムソフトである。
また、①が結果で②が原因であるとも言えるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、②と①が揃って世界の秩序(陰陽太極図)が表わされていると言えるかもしれない。
松岡氏の千夜千冊に出ていた「ウィトゲンシュタインとカタルトシメス」は良く言い得て妙である。

95千々松 健:2010/01/12(火) 10:10:03
1月11日 首相動静
『午前11時43分、東京・丸の内の丸の内オアゾ着。同ビル内の書店「丸善丸の内本店」で本を購入。松井孝治官房副長官、編集工学者の松岡正剛氏が同行。午後0時50分、同所発。同52分、東京・丸の内の丸ノ内ホテル着。同ホテル内の日本料理店「椿壽」で松井、松岡両氏らと昼食。
午後1時40分、「椿壽」を出て、同41分から同3時39分まで丸ノ内ホテル内の客室で松井副長官、松岡氏と懇談。同41分、同ホテル発。』
(時事通信より一部引用)
注目の「松丸本舗」には寄らなかったようですが、松岡正剛さんとの会話はどのようなものであったか興味が持たれます。いずれ、「編集工学的」に公表してもらえるでしょうが期待しています。
また朝日新聞の首相動静欄では『「暴走する資本主義」(ロバート・ライシュ著)、「レヴィ=ストロース講義」(クロード・レヴィ=ストロース著)、「日本辺境論」(内田樹著)など28冊を購入。』とありました。
それら28冊の中には「さらば暴政」も含まれていたのでしょうか。既に購入済みであってほしいものですね。

96千々松 健:2010/01/18(月) 20:18:02
1)「ぼくとガモフと遺伝子情報」という本の中で書かれていたことですが、DNAの二重螺旋構造で有名になったJ.D.ワトソンは、ガモフから手紙を貰っていて、その中でDNAがAGCTの4つの塩基を持っていることと遺伝子の働きにまつわる謎を解くのに数理論的アプローチが役立つ可能性を示唆されていたようです。
また、他の個所ではタンパク質は全て3Nアミノ酸(9,9,21,30,39,126、及びタバコモザイクウィルスの場合は135)の数から構成されているという個所にも出会いました。構成数は3の倍数であり、mod9では0又は3になることになります。
昨年、新型インフルエンザの理論的な組み合わせはN9H16で144種類が予想されるということを知り、その時にも1+4+4=9で、mod9上では0となることを認識したのですが、本日の本との出会いで全てのタンパク質がそうであることになれば、ガモフの手紙の意味するところは重大であった訳です。それに対してワトソンはガモフを避けていたきらいが感じられます。きっと、二重構造を映したX線写真をある英国の研究機関から不当に入手していたことをとやかく言われたくはなかったからでしょう。

2)「したがって、非を退けて是のみを求め 混沌を退けて秩序のみを求めるのは 天地の理をわきまえず 万物の情にうとい人間のすることだ」荘子秋水篇第17
これはエリッヒ・ヤンツが「自己組織化する宇宙」の冒頭で、―自己組織化パラダイムの触媒者イリヤ・プリコジーヌに捧げた―引用文です。
ニューサイエンスの盛んな80年代に先端物理学者が東洋の考え方にヒントを見出そうとしていた証拠の一つですが、とても含蓄が有りますね。


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