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社会と同性愛 支配階級と同性愛もしくは小児性愛

1zebla:2010/02/12(金) 15:22:29
今ではまるで少数派のごとく異端視される同性愛だが
少なくとも日本社会において男同士の契りは珍しくなかったらしい。
武将と小姓、公家や僧侶と稚児、薩摩の男色文化、
それに支配階級による少年性交があったとかなかったとか。
ちょっとそういうことについて話してみるスレ。

20<古代>:2010/02/19(金) 23:28:07
ただし病死した小竹祝も後追い自殺した天野祝も性別については触れられていない
(服装について書かれていないので断定できない)し、
「阿豆那比之罪」に関しても、
“男色説のほかに、別々の社に属した神官だったことが問題だったという説、
また自然現象をも罪と言ったことから単に日蝕のことではないかという説があります。”
http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-208.html
と疑念が呈されている。
学術的には、阿豆那比之罪はなんの罪かはっきりしていない、
というのがスタンダードな姿勢のようです。

21zebla:2010/02/19(金) 23:45:17
そういや今の祭りでもお稚児さん=神 だな

22<古代>:2010/02/20(土) 18:54:53
結局、男色ということでは
道祖王に関する記述が本邦初のはっきりした記述になるのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Wikipedia“道祖王(ふなどおう)”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%8E%8B より
「天平勝寶8歳(756年)5月、聖武太上天皇は死に臨んで遺詔として
 道祖王を皇太子に立てた。しかし、翌天平勝寶9歳(757年)3月、
 孝謙天皇の命令で皇太子を廃された。
 同歳4月、後任の皇太子に大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた際、孝謙は勅して、
 道祖は、

 先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなした、
 先帝への服喪の礼を失している、」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(上記の原文をご存じの方あればご教示宜しく願います)

23<古代>:2010/02/20(土) 18:58:00
万葉集の中で、その編者大伴家持には交遊(男子)相手への恋歌がある(多い)
ということが、あちこちのサイト(例えば「万葉集 同性愛」とか「家持 男色」で検索。)
や、本(例えば「武士道の考察」の目次「大伴一族には同性への恋情を歌った歌が非常に多い」
http://www.jimbunshoin.co.jp/mybooks/ISBN4-409-54073-4.htm
や、白州正子「両性具有の美」(p47以下)など、あまた言われていますが、
古い和歌は解釈が複数可能で難しく微妙な感じ。

24zebla:2010/02/20(土) 19:09:03
時代的にいうと、ここでいったん天皇〜公卿系統の男色記述は
院政期まで表にあらわれなくなり、僧の男色が勃興します。
歴史的に見ると日本の男色は

僧 − 天皇・公家 − 武士 

の三つの系統で展開していく感じです。

25<古代>:2010/02/20(土) 19:29:39
>>22 追記
皇太子である道祖王を廃太子するに当たって、
「侍童と姦淫をなした」ことが問題ではなく
「喪中であるにもかかわらず」というのが問題視されていることからも
男色自体はまったく倫理的に問題なかったことの証左となります。

26zebla:2010/02/27(土) 07:57:30
>>22 >上記の原文
自己解決。
http://www.j-texts.com/jodai/shoku20.html 
[続日本紀 巻第廿〈起天平宝字元年正月、尽二年七月。〉より]
--------------------------------------------
「《天平宝字元年(七五七)三月丁丑【廿九】》○丁丑。
 皇太子道祖王。身居諒闇。志在淫縦。雖加教勅。曾無改悔。於是。勅召群臣。
 以示先帝遺詔。因問廃不之事。右大臣已下同奏云。不敢乖違顧命之旨。
 是日。廃皇太子、以王帰第。

《天平宝字元年(七五七)四月辛巳【戊寅朔四】》(略)
 立道祖王。昇為皇太子。
 而王諒闇未終。陵草未乾。私通侍童。無恭先帝。居喪之礼。」
---------------------------------------------

最後の一行が該当部分にあたります。
「先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなした、
 先帝への服喪の礼を失している、」

「諒闇(りょうあん)」は、天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
「陵草未乾」はよくわかりませんが、
「陵(先帝の墓)の草もまだ乾かぬうちに」「まだ何日も経ってないのに」
 というような意味でしょうか?
「私通侍童」 疑いの余地なくそのものズバリ、です。
    【私通】(名)スル。夫婦でない男女がひそかに肉体関係をもつこと。密通。
    【侍童/侍僮】貴人のそばに仕える少年。小姓。

重要なことは、これらは、そこらの物語や日記のうわさ話というレベルではなく、
れっきとした勅撰(天皇の命によって編まれた)公式の史書である「続日本紀」に
堂々と「私通侍童」という文字が載っている、ということです。

もう一度確認しておくと、
「私通侍童」自体はまったく責められていません。
諒闇が未だ終わってもいないのに、喪中に淫らなことをするのは
先帝に対する敬いの心がなく、けしからん。と書いています。
少なくとも、その当時すでに、天皇周辺の上流では
少年愛は普通のことだったという背景がはっきり伺えます。

27<古代>:2010/02/27(土) 08:06:19
ちなみに
天平宝字元年は西暦では757年、奈良時代です。
大伴家持が『万葉集』を編纂する2年前です。


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