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社会と同性愛 支配階級と同性愛もしくは小児性愛

17zebla:2010/02/19(金) 22:37:09
−−薩摩郷中(ごじゅう)関連−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三品彰英 『薩摩の兵児二才制度』(「三品彰英論文集」第6巻(絶版)所収)
 PDFで閲覧可能
http://tdl.libra.titech.ac.jp/z3950/gakuipdf/1706514/170651403.pdf#search='
 三品彰英論文集『新羅花郎の研究』 第6巻   
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%93%81%E5%BD%B0%E8%8B%B1%E8%AB%96%E6%96%87%E9%9B%86%E3%80%88%E7%AC%AC6%E5%B7%BB%E3%80%89%E6%96%B0%E7%BE%85%E8%8A%B1%E9%83%8E%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-1974%E5%B9%B4-%E4%B8%89%E5%93%81-%E5%BD%B0%E8%8B%B1/dp/B000J9DCIO
郷中制度の元となる南隼人の青少年教育制度に影響したかもしれない新羅の花郎(かろう,ファラン)
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/books/yamato.htm
『三国史記』や『三国遺事』にも登場するらしい。
http://www.amazon.co.jp/review/R1FQEU8XV9O539
  
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996 ¥820
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫) 中古¥290〜
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%9C%82%E8%B5%B7%E2%80%95%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E3%83%BB%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%BE%E5%B4%8E-%E5%A3%AB%E9%83%8E/dp/4309402585/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1266525511&sr=1-1
池波正太郎「西郷隆盛」(角川文庫)  ¥500
http://www.amazon.co.jp/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B1%A0%E6%B3%A2-%E6%AD%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4041323304
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)¥1100
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E8%A6%8B%E8%81%9E%E5%8F%B2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%94%9F%E6%96%B9-%E6%95%8F%E9%83%8E/dp/4122045738 
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002 ¥1890
http://www.amazon.co.jp/%E8%96%A9%E6%91%A9%E7%A7%98%E8%A9%B1-%E4%BA%94%E4%BB%A3-%E5%A4%8F%E5%A4%AB/dp/4931376649/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1266524849&sr=1-1

18<古代>:2010/02/19(金) 22:59:56
以下http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/books/yamato.htmより
「」は『図説日本の歴史2神話の世界』(集英社、昭和49年発行)よりの
サイト管理者による引用。“”内はサイト管理者の文

「ヤマトタケルはクマソを討ちとる時に女装するが、それはクマソたちをあざむくための
単なる変装ではない。
その女装というのは普通の女性の衣服ではなくて、
巫女(ふじょ)ヤマトヒメの御衣(みそ)・御裳(みも)である。
この巫女の衣服を身にまとった小碓命(ヤマトタケル)は、
ちょうどシベリアの男子シャーマンが巫儀を行なう際に女装するように、
女装による司霊者的な呪力を身につけてクマソの酒宴の場に臨んだのである。
巫衣と司霊者(シャーマン)の機能は、実は不可分なものである。」
「今ひとつ、少年戦士が女装する例をあげておこう。六世紀頃の新羅(朝鮮南部)では
「花郎(かろう)の徒」と呼ばれる青年戦士団があった。
彼らは貴族の十四、五歳の少年を美しく化粧し、女装をさせて「花郎」と呼び、
戦士団の中心として奉戴していた。青年たちはこうした集団生活のうちに戦友的友情を深め、
平時には社会奉仕にはげみ、また聖地を巡拝し、祭礼の時には歌舞を行なった。
そして戦争になると「花郎」を先頭に立てて先陣を争って勇敢に戦ったのである。
(略)
その性能からいうと、彼は司霊者あるいは神霊のよりまし(神の使者、あるいは憑依者)である。」

“また、この集会の中では男色も行なわれました。
男色の起源は、僧侶などの特殊な男子だけの組織にあるのというではなく、
社会組織は本来男子組織しかなかったことにあるようなのです。”

「このような新羅の花郎の習俗は、隣国の、しかも古い時代の話であるが、
これとよく似た習俗が近代まで、わが国にも残存していた。
それは旧薩摩藩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織である。
兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、
それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。
この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。
(略)またイギリスでポーイ・スカウトが創設されたときにも、兵児二才制度が参考にされたともいわれている。」
「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、
この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」

ーーーーーーーーーーー以上、引用終わり

つまり、古代の稚児(的なもの)は、
巫女と同じように神がかった存在であり、これと性的に結びつくことは
神の力を得ることと同義であったのではないか、ということだろうか。

19<古代>:2010/02/19(金) 23:27:34
「衆道の日本における最初の記録について、日本書紀に

『神功皇后摂政元年に昼が闇のようになり、これが何日間も続いた。
 皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が、
 神官の小竹祝が病死したことを悲しんだ天野祝が追死し、
 両人を合葬した「阿豆那比(アヅナビ)之罪」のなせる業であるという。
 そのため墓を開き、両者を別々の棺に納めて埋葬するとただちに日が照りだした』

との記述があり、ある説は
この「阿豆那比之罪」こそが男色について述べた日本最古の記述であるとする。
また「続日本記」には、天武天皇の第七王子である道祖王が
聖武天皇の喪中に侍児と男色行為にふけって廃太子とされた記述が見える。」
              ( >>14 wiki「衆道」より)

「『本朝男色孝』の著者によれば、これが(*『日本書紀』の阿豆那比之罪)
 日本での男色の正史に現れる始めとされている。

「(現代語訳) 皇后は紀伊国においでになって、(中略)
 更に小竹宮(和歌山県御坊市小竹)に移られた。
 このときちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。
 時の人は「常夜(とこや)行く」といったそうだ。
 皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、「この変事は何のせいだろう」と。
 一人の翁がいうのに、
 「聞くところでは、このような変事を阿豆那比の罪というそうです」と。
 「どういうわけか」と問われると答えて、
 「二の社の祝者(はふり)を一緒に葬ってあるからでしょうか」という。
 それで村人に問わせると、ある人がいうのに、
 「小竹の祝と、天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、
 天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。
 どうして死後穴を同じくすることが避けられようか』といい、
 屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか」と。
 墓を開いてみると本当だった。ひつぎを改めてそれぞれ別のところへ埋めた。
 すると日の光が輝いて、昼と夜の区別ができた。」
(講談社学術文庫『日本書紀』上 p.196)
(http://www.spacelan.ne.jp/~yosimo/u-essay/ghistory.html)

20<古代>:2010/02/19(金) 23:28:07
ただし病死した小竹祝も後追い自殺した天野祝も性別については触れられていない
(服装について書かれていないので断定できない)し、
「阿豆那比之罪」に関しても、
“男色説のほかに、別々の社に属した神官だったことが問題だったという説、
また自然現象をも罪と言ったことから単に日蝕のことではないかという説があります。”
http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-208.html
と疑念が呈されている。
学術的には、阿豆那比之罪はなんの罪かはっきりしていない、
というのがスタンダードな姿勢のようです。

21zebla:2010/02/19(金) 23:45:17
そういや今の祭りでもお稚児さん=神 だな

22<古代>:2010/02/20(土) 18:54:53
結局、男色ということでは
道祖王に関する記述が本邦初のはっきりした記述になるのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Wikipedia“道祖王(ふなどおう)”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%8E%8B より
「天平勝寶8歳(756年)5月、聖武太上天皇は死に臨んで遺詔として
 道祖王を皇太子に立てた。しかし、翌天平勝寶9歳(757年)3月、
 孝謙天皇の命令で皇太子を廃された。
 同歳4月、後任の皇太子に大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた際、孝謙は勅して、
 道祖は、

 先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなした、
 先帝への服喪の礼を失している、」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(上記の原文をご存じの方あればご教示宜しく願います)

23<古代>:2010/02/20(土) 18:58:00
万葉集の中で、その編者大伴家持には交遊(男子)相手への恋歌がある(多い)
ということが、あちこちのサイト(例えば「万葉集 同性愛」とか「家持 男色」で検索。)
や、本(例えば「武士道の考察」の目次「大伴一族には同性への恋情を歌った歌が非常に多い」
http://www.jimbunshoin.co.jp/mybooks/ISBN4-409-54073-4.htm
や、白州正子「両性具有の美」(p47以下)など、あまた言われていますが、
古い和歌は解釈が複数可能で難しく微妙な感じ。

24zebla:2010/02/20(土) 19:09:03
時代的にいうと、ここでいったん天皇〜公卿系統の男色記述は
院政期まで表にあらわれなくなり、僧の男色が勃興します。
歴史的に見ると日本の男色は

僧 − 天皇・公家 − 武士 

の三つの系統で展開していく感じです。

25<古代>:2010/02/20(土) 19:29:39
>>22 追記
皇太子である道祖王を廃太子するに当たって、
「侍童と姦淫をなした」ことが問題ではなく
「喪中であるにもかかわらず」というのが問題視されていることからも
男色自体はまったく倫理的に問題なかったことの証左となります。

26zebla:2010/02/27(土) 07:57:30
>>22 >上記の原文
自己解決。
http://www.j-texts.com/jodai/shoku20.html 
[続日本紀 巻第廿〈起天平宝字元年正月、尽二年七月。〉より]
--------------------------------------------
「《天平宝字元年(七五七)三月丁丑【廿九】》○丁丑。
 皇太子道祖王。身居諒闇。志在淫縦。雖加教勅。曾無改悔。於是。勅召群臣。
 以示先帝遺詔。因問廃不之事。右大臣已下同奏云。不敢乖違顧命之旨。
 是日。廃皇太子、以王帰第。

《天平宝字元年(七五七)四月辛巳【戊寅朔四】》(略)
 立道祖王。昇為皇太子。
 而王諒闇未終。陵草未乾。私通侍童。無恭先帝。居喪之礼。」
---------------------------------------------

最後の一行が該当部分にあたります。
「先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなした、
 先帝への服喪の礼を失している、」

「諒闇(りょうあん)」は、天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
「陵草未乾」はよくわかりませんが、
「陵(先帝の墓)の草もまだ乾かぬうちに」「まだ何日も経ってないのに」
 というような意味でしょうか?
「私通侍童」 疑いの余地なくそのものズバリ、です。
    【私通】(名)スル。夫婦でない男女がひそかに肉体関係をもつこと。密通。
    【侍童/侍僮】貴人のそばに仕える少年。小姓。

重要なことは、これらは、そこらの物語や日記のうわさ話というレベルではなく、
れっきとした勅撰(天皇の命によって編まれた)公式の史書である「続日本紀」に
堂々と「私通侍童」という文字が載っている、ということです。

もう一度確認しておくと、
「私通侍童」自体はまったく責められていません。
諒闇が未だ終わってもいないのに、喪中に淫らなことをするのは
先帝に対する敬いの心がなく、けしからん。と書いています。
少なくとも、その当時すでに、天皇周辺の上流では
少年愛は普通のことだったという背景がはっきり伺えます。

27<古代>:2010/02/27(土) 08:06:19
ちなみに
天平宝字元年は西暦では757年、奈良時代です。
大伴家持が『万葉集』を編纂する2年前です。


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