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【分館】 参考資料スレ

49シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 11:03:01
(*前レス最終文)
  ≪外的世界の現実 を示すものは、
  ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、その性格なのです≫) 

【反省、その結果】――

 だれにとってもこの関係があきらかになることはほとんど絶対ありません。
 行動が推論から生じることはめったにないからです。

 もっと正確にいえば、
 ≪おなじ人間がその推論を行動に移すことは稀なのです≫
          (頭を働かせるのは技師であり、働くのは労働者です)
 
 カントは≪芸術≫を、≪自然と精神のあいだの奇跡的な一致≫と定義しました。
   音楽の一節が精神にのみ属する何かではないと気づかせるのは、
   各瞬間ごとに意外さがあるからです。

 ≪人間の偉大さが存在する≫とすれば、
 それはただ現実を確実に意識しているときだけです。
 各人のなかの、ことば と 現実をもたらしてくれる行動 とのあいだの
 この関係をあきらかにしようとしないのは、ひじょうに残念なことだと言わなければなりません。


 こうして私たちは、≪科学上の問題≫と≪倫理上の問題≫とを
 いっぺんに解決してしまったことになります。つまり、

≪悪意のある人には、自分自身の行動を
 ことばでいいあらわすことができないということです≫

≪悪≫は、体系的なことば と 行動 との関係 のなかにあります。
 知的な徳は、
 ことばを体系的に使い、うまく運ぼうとして
 けっしてことばを抑制したりしないことのなかにあるのです。


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                                      (*引用終了)

50シモーヌ・ヴェイユ:実在と想像:2015/03/20(金) 11:49:07
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』 訳:渡辺義愛 [シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅲ](p120-121)

「知覚のなかの実在的なもの、そして知覚と夢を区別するもの、それは必然性である。
 洞窟のなかにとどまって、眼を閉じたまま旅行を想像する人びとと、
 実際に旅行する人びととの差異。
 精神的な領域にも実在的な部分と想像的な部分とがあり、そこでも”必然性”が区別の役割を果たす。
 単なる苦しみだけでは区別の役目は果たせない。なぜなら想像上の苦しみもあるからである。」

「精神の領域でどうして実在的なものと想像上のものを区別したらよいか?」

「謙遜は、精神的な進歩のうちで、想像上の進歩にすぎない部分を取り除くことを目的としている。
 実際よりはるかに自分の進歩がおくれていると思いこんでも、なにも不都合なことはない。
 ,,,実際よりすすんでいると思いこむのはすこぶる不都合である。そのとき、
 外部からの評価がききめを発揮するからだ。」

「実在的なものを見きわめる一つの基準。
 それはかたくてざらざらしていることである。
 そこい見いだされるのはよろこびであって、楽しみではない。楽しいものは夢の世界に属している。」


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