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【分館】 参考資料スレ

1zebla:2009/09/25(金) 19:00:20
 ◆各スレッドでの話題に関連した参考資料などを貼るスレッドです◆

―参考資料に関する感想・雑談・議論をここで行うことも可です。ただし
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※なお、現在(2009年9月)管理人氏は、
『・定期的に監察することが難しい・削除依頼に気づきにくい
 (管理人宛のメールは常にスパムメールに紛れている。
 メールアドレス変更してもおそらく日を待たず同じ状況となる)』
という状態にあるため、
問題箇所の削除の必要が生じた場合には、できれば、メールではなく、
スレッド上で削除依頼、もしくは削除の必要性、を表明するようお願いします。

45シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:41:52
(B)≪私たちに方法体系をもたらすことができるのは、ことばだけです。
    それというのも まさにことばが現実とは無縁なものだからです。≫

  じっさいのところ、私たちは世界のなかにあって、欲求に従わなくてはなりません 

 たとえば、私たちはあるかぎられたキロ数のものしか持ちあげられません。
 それ以上の重さはすべて同一の名目-『重すぎる』 のもとに
 私たちには無縁のものになるため、私たちにとってどれも同じものになってしまいます。

   反対に私たちは、どんな大きいキログラムのものについても、
   欲求するままに語ることができます。
   キログラム、ということばは、どんな重さも持っていないからです。

 ≪ことばは、私たちに、 私たちの欲求とはまったく無縁な関係を設定することを
  可能にしてくれます≫                、、、、                      
 
語はお金もかからず、重さもなく、私たちは語を用いて、
  ≪完全に私たちの自由になるひとつの関係≫を 打ちたてることができるのです。 


  ここで、≪客観的なものとして、ひとつの必然性として 私たちにあらわされるのが
        私たちだけに依拠しているにすぎない秩序 である≫ 

          という逆説に注目してください。
 
   世界は私たちに数をまったく提供してはくれません。
   数という系は、完全に私たちのつくりあげたものです。
    たとえば嵐のとき世界は私たちに 砂粒を一粒・二粒・三粒と提供してくれるわけではありません。
    1+1=2 という必然性と、2キロの重さのものが頭上に落ちてくる必然性とのあいだには、
いかなる関係もありません。

  そこで、次のことが言えます。  

    (1) ≪ことばはあらゆる方法体系にとって唯一の源泉である≫

    (2) ≪ことばだけが、私たちが客観的と呼んでいる必然性なるものをもたらす≫

          その必然性が、
         私たちの欲求や身分や感情や状況などから
         独立している という意味で、客観的なのです
            
    この二つのことはたがいに相関関係にあります。 
方法体系がなければ客観的必然性もなく、
    客観的必然性がなければ方法体系もないからです。

(C) ≪しかしながら、ただ”語”のみに限定すれば、秩序と必然性は消え去ります。≫

46シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:44:27

   たとえば、幾何学でひとつの面に一本の線を書きくわえる場合を考えてください。
   ことばにかぎっていえば「百歩」を言おうとして「一歩」からはじめる必要はありません。    
   つまり、≪ことばのもつ力は、ことばとほかの事物との関係のなかに見いだされます≫

   ≪行動≫が≪現実≫をもたらすのです。

    こうして私たちにとって、≪現実≫というまったく新しい概念が登場するわけです。

  行動がことばのあとからやってきて自身をことばに従わせるとき、
  行動はそれまでなかった≪何か≫をもたらすことになります。

  百歩と≪言う≫ことと百歩≪歩く≫こととのあいだには、ひとつの差異があります。
  ことばと比較した場合、
  行動が内包するこうした「プラス」を否定しさることは不可能です。

  あるいはむしろ、
  そこにあるのは「プラス」ではなく、まったく違う何かだと言うべきかもしれません。
  それが 現実 なのです。 ことばをどれほどとおくまで押し進めていっても、
  けっしてことばによって現実を発見することはありません。

  そこで、外的世界の 現実にかかわる問題は、簡単にこうまとめられるでしょう。

  ≪百歩歩くのが、百歩と言う、のとはべつの事柄である、という単純な事実こそ、
    私たちに現実を証明してくれるものにほかならない。≫

  ≪意外さ≫とは、体系的なことばのなかには含まれていなかったもののことです。

47シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:52:35
  事物が私たちにとって打ちかちがたい障害となってあらわれるとき、
 私たちはそれらの事物のなかに悪意ある力を見るような気がします。

  冷静さを失わせるような破局にぶつかると、私たちはよく
 「夢をみてるんじゃないか?」とつぶやきます。

かりにいま、
 石の塊をまえにした人間たちがむやみに動きわらるのをやめて、
体系的に考えだし 梃子(てこ)の使用を思いついたとすると、
すべてが変化します。

 梃子(てこ)は、
 対象を分割することなしに対象の重さを分割する手段 だといえます。

 そのとき石はそれまでの悪意をすべて失ってしまいます。
 どんな重さも力に抗しきれるものではありません。

 たとえば、私たちの50キロの力と300キロの重さとのあいだに
 ひとつの≪関係≫を打ちたてるだけで充分なのです。

 、、、、
このような発想は、
 世界にある悪意にみちた力のすべてを抑えつけてくれます。    

 私たちが働きかけ 自分たちの痕跡を世界に残すであろう、 そのような関係が
つねに存在するのです。

 分解することさえできるなら、いかに小さな力であっても、
 どのような大きな力にでも打ちかつことができます。
 つまり、
 石にやみくもに飛びかかり、魔術のようなやり方で石に打ちかとうと希う人と、
 てこを探しにいく人のあいだには 本質的な差異があるのです。

 情念は、第1の態度をとるようにしむけ、
 第2の態度をとるためには、英雄的な努力が必要とされる 
 ということに注意しましょう。
 ≪労働≫はたえずこの種の≪努力≫を要求します。


 石にやみくもに飛びかかっていくとき、悪夢のなかにでもいるような気がするものですが、
 ≪体系的なことばにのっとった行動≫は
 夢とはいかなる関係もありません。

 しかし、
 いま石についてお話ししたことのなかには
 ≪意外さ≫が何もないのですから、
現実的なものもなにもありません。
 

 科学や≪推論≫においては、
 自分のとりあつかう問題のなかに ≪自分のもちこんだものしか≫(仮説)残りません。

 けれども、行動のなかに自分のもちこんだものしかない とすると、
そこには障害がなかったことになり、行動もないことになりましょう。

48シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 10:56:47
 私が自分に課題をたてたときと
行動をなしとげたときとのあいだには、
 さまざまな偶然のできごとが起こるものです。

≪現実は そうしたことをとおして定義されます。 
 現実は当初の課題のなかには含まれていません。
 現実とは、体系的な方法をもってしても予知しえないもののことです≫


 
  現実はなぜこのように、
 いわば否定的にしかあらわれえないのでしょうか?

 ≪「私」の痕跡≫が ≪方法体系≫であって、
それは 私たち以外のところからくるわけではありません。

 私たちが現実に≪存在≫しはじめるのは、
 私たちが≪方法的体系≫を≪現実において≫行使する瞬間  にほかなりません。

  方法体系を
象徴 にたいしてしか行使しないとき、
  私たちは遊びのようなものにとどまるのにすぎません。

 体系的行動においては、私たち自身が行動します。
 方法的体系を見いだしのが私たち自身だからです。
 
 ≪意外さ≫が姿をあらわすからこそ 私たちは現実において行動するのです。

いかなる現実もけっして証明することはできません。
 ≪現実は証明すべきもの ではなく、確認すべきものです。≫

  現実は、まさに証拠となるものが不充分であるがゆえに  確証されなければなりません。

  ≪外的世界の現実 を示すものは、
  ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、 その性格なのです≫

49シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫):2014/06/12(木) 11:03:01
(*前レス最終文)
  ≪外的世界の現実 を示すものは、
  ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、その性格なのです≫) 

【反省、その結果】――

 だれにとってもこの関係があきらかになることはほとんど絶対ありません。
 行動が推論から生じることはめったにないからです。

 もっと正確にいえば、
 ≪おなじ人間がその推論を行動に移すことは稀なのです≫
          (頭を働かせるのは技師であり、働くのは労働者です)
 
 カントは≪芸術≫を、≪自然と精神のあいだの奇跡的な一致≫と定義しました。
   音楽の一節が精神にのみ属する何かではないと気づかせるのは、
   各瞬間ごとに意外さがあるからです。

 ≪人間の偉大さが存在する≫とすれば、
 それはただ現実を確実に意識しているときだけです。
 各人のなかの、ことば と 現実をもたらしてくれる行動 とのあいだの
 この関係をあきらかにしようとしないのは、ひじょうに残念なことだと言わなければなりません。


 こうして私たちは、≪科学上の問題≫と≪倫理上の問題≫とを
 いっぺんに解決してしまったことになります。つまり、

≪悪意のある人には、自分自身の行動を
 ことばでいいあらわすことができないということです≫

≪悪≫は、体系的なことば と 行動 との関係 のなかにあります。
 知的な徳は、
 ことばを体系的に使い、うまく運ぼうとして
 けっしてことばを抑制したりしないことのなかにあるのです。


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                                      (*引用終了)

50シモーヌ・ヴェイユ:実在と想像:2015/03/20(金) 11:49:07
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』 訳:渡辺義愛 [シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅲ](p120-121)

「知覚のなかの実在的なもの、そして知覚と夢を区別するもの、それは必然性である。
 洞窟のなかにとどまって、眼を閉じたまま旅行を想像する人びとと、
 実際に旅行する人びととの差異。
 精神的な領域にも実在的な部分と想像的な部分とがあり、そこでも”必然性”が区別の役割を果たす。
 単なる苦しみだけでは区別の役目は果たせない。なぜなら想像上の苦しみもあるからである。」

「精神の領域でどうして実在的なものと想像上のものを区別したらよいか?」

「謙遜は、精神的な進歩のうちで、想像上の進歩にすぎない部分を取り除くことを目的としている。
 実際よりはるかに自分の進歩がおくれていると思いこんでも、なにも不都合なことはない。
 ,,,実際よりすすんでいると思いこむのはすこぶる不都合である。そのとき、
 外部からの評価がききめを発揮するからだ。」

「実在的なものを見きわめる一つの基準。
 それはかたくてざらざらしていることである。
 そこい見いだされるのはよろこびであって、楽しみではない。楽しいものは夢の世界に属している。」


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