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【分館】 参考資料スレ
38
:
旧約聖書 申命記
:2013/02/11(月) 22:03:33
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2470/1088350818/912
関連
(宗教の苛烈さ 皆殺し)
持ってる聖書は明治訳だが、同じ訳がネットにあった。
ネット検索で見たところ、口語訳聖書は所々表現を弱めているように思われる。
(新共同訳では強い語調は復活しているようだ。
http://bbbible.com/bbb/bbbde072.html..htm
#de7.1-5)
(サイトにはふりがながないので手持ちの聖書から適当に補遺)
http://bible.salterrae.net/meiji/html/
文語訳舊約聖書(1953年版)(明治訳)
----------------------------------------------------------------------------
『申命記』
第3章
3:1斯(かく)てわれら身をめぐらしてバシヤンの路に上り行けるに
バシヤンの王オグその民をことごとく率ゐ出てエデレイに戰はんとせり
3:2時にヱホバわれに言たまひけらく
彼を懼(おそ)るるなかれ 我 かれと その一切の民 とその地とを汝の手に付さん
汝、かのヘシボンに住たるアモリ人の王シホンになせし如く彼に爲(なす)べしと
3:3我らの神ヱホバ すなはちバシヤンの王オグとその一切の民を我らの手に付したまひしかば
我ら之(これ)を撃ころして一人をも遺さざりき
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3:4その時に我ら これが邑々(まちまち)をことごとく取(れ)り (略)
3:6我らは ヘシボンの王シホンになせし如く 之を滅し
その一切の邑(まち)の男女および兒童をことごとく滅せり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3:7惟(ただ)その一切の家畜と
その邑々よりの掠取物(ぶんどりもの)とは これを獲(え)て われらの物となせり
第7章
7:1-2 汝の神ヱホバ 汝が往(ゆき)て獲(う)べきところの地に汝を導きいり
多の國々の民 ヘテ人ギルガシ人アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブス人など
汝よりも數多くして 力ある七の民を 汝の前より逐はらひたまはん時
すなはち汝の神ヱホバ
かれらを汝に付(わた)して 汝にこれを撃せたまはん時は
汝かれらをことごとく滅すべし
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
彼らと何の契約をもなすべからず 彼らを憫むべからず
7:3 また彼らと婚姻をなすべからず 汝の女子(むすめ)を彼の男子(むすこ)に與(あた)ふべからず
彼の女子(むすめ)を汝の男子(むすこ)に娶るべからず
7:4 其(そ)は 彼ら汝の男子を惑はして 我を離れしめ
之をして 他の神々に事へしむるありて
ヱホバこれがために 汝らにむかひて怒(いかり)を發し
俄然(にわか)に汝を滅したまふにいたるべければなり
7:5 汝らは反(かへっ)て斯(かく)かれらに行ふべし
即ち かれらの壇を毀(こぼ)ち その偶像を打擢(うちくだ)き
そのアシラ像を斫(きり)たふし 火をもてその雕像を焚(やく)べし
7:9 汝知(しる)べし
汝の神ヱホバは神にましまし 眞實の神にましまして
之を愛し その誡命を守る者には 契約を保ち恩惠(めぐみ)をほどこして千代(せんだい)にいたり
7:10 また之を惡む者には覿面(てきめん)にその報(むくい)をなして これを滅ぼしたまふ
ヱホバは己を惡む者には 緩(ゆるやか)ならず 覿面にこれに報いたまふなり
7:18 汝かれらを懼るるなかれ 汝の神ヱホバがパロとエジプトに爲たまひしところの事を善く憶えよ (略)
7:19 汝の神ヱホバまた 汝が懼るる一切の民に爲たまふべし
7:20 即ち 汝の神ヱホバ 黄蜂(くまばち)を彼らの中に遣(おく)りて
終(つい)に 彼らの遺(のこ)れる者と 汝の面を避て匿れたる者とを滅したまはん (略)
7:23 汝の神ヱホバ かれらを汝に付(わた)し 大にこれを惶(おそ)れ慄(おのの)かしめて
終に これを滅し盡(つく)し
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7:24 彼らの王等を 汝の手に付したまはん
汝かれらの名を天が下より削るべし
汝には當ることを得る者なくして 汝つひに 之を滅ぼし盡すに至らん
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7:25 汝かれらの神の雕像を火にて焚(やく)べし
39
:
旧約聖書 申命記 (つづき)
:2013/02/11(月) 22:04:58
------------------------------------------------------------------------
(9章、12章、にも同様の記述が散見される。
ただ20章では、全滅相手の細分化が加わる。
3章では「男女および兒童をことごとく滅せり 。
惟(ただ)その一切の家畜とその邑々よりの掠取物(ぶんどりもの)とは
これを獲(え)て われらの物となせり」 となっていたのが
20章では「掠取物(ぶんどりもの)」に女性が加えられる。
ただしそれは、エホバが与えると約束した国々に属してない町の征服に限られる。)
------------------------------------------------------------------------------
第20章
20:1 汝その敵と戰はんとて出るに當り馬と車を見また汝よりも數多き民を見るもこれに懼るる勿れ
(以下、エホバのついた神軍であることの鼓舞- 略)
20:10 汝ある邑(まち)に進みゆきて之を攻んとする時は 先(まづ)これに平穩(おだやか)に降ることを勸(すす)むべし
20:11 その邑もし平穩に降らんと答へて その門を汝に開かば
其處なる民をして都(すべ)て汝に貢(みつぎ)を納(いれ)しめ 汝に事(つか)へしむべし
20:12 其(それ)もし平穩に汝に降ることを肯(がへ)んぜずして
汝と戰かはんとせば汝これを攻(せむ)べし
20:13 而(しか)して汝の神ヱホバ これを 汝の手に付(わた)したまふに至らば
刃をもてその中の男を盡(ことごと)く撃殺(うちころ)すべし
20:14 惟(ただ)その婦女嬰孩家畜(をんなこどもかちく)および
凡(すべ)てその邑(まち)の中にて 汝が奪ひ獲たる物は
盡く己(おのれ)に取(とる)べし
抑(そもそも) 汝が その敵より奪ひ獲たる物は 汝の神ヱホバの 汝に賜ふ者なれば
汝これをもて樂(たのし)むべし
20:15 汝を離るることの遠き邑々 すなはち是等(これら)の國々(くにぐに)に屬せざるところの邑々には
凡(すべ)てかくのごとく行なふべし
20:16 但し
汝の神ヱホバの 汝に與へて ?業となさしめたまふこの國々の邑々においては
呼吸する者を一人も生し存べからず
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
20:17 即ちヘテ人 アモリ人 カナン人 ペリジ人 ヒビ人 ヱブス人などは
汝かならずこれを滅ぼし盡して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし
20:18 斯(かく)するは
彼らがその神々にむかひて行ふところの憎むべき事を 汝らに繁へて 之を倣(なら)ひおこなはしめ
汝らをして 汝らの神ヱホバに罪を獲(え)せしむる事のなからんためなり
40
:
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:2013/10/24(木) 20:52:21
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41
:
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:2013/10/25(金) 15:11:41
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42
:
ティンバーランドジッパーの靴
:2013/10/28(月) 17:25:37
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43
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 10:30:09
*引用を始める前に。
「ヴェーユの哲学講義」は、正確にはシモーヌ・ヴェーユ自身の著作ではない。
(ヴェーユは生前、本を一冊も出版してない)
ヴェーユが若き哲学教師として、ロアンヌ女子高等中学で授業をしていた時
その授業を受けた女生徒のとっていたノートだ。
(序文によると、ヴェーユは一貫して、点数や成績順位をつけることを拒否していたそうだ)
ノートの中身は生徒の感性で変わってくる。
けれど、この女生徒(アンヌ・レーノー)はとても真面目な生徒だったに違いなく
ヴェーユが黒板に書いた表と、その例として(おそらく口頭で)あげたものを
可能な限り一生懸命ノートに取っている。ヴェーユ自身による正規の文章ではないが
当時のヴェーユの哲学的な思考のエッセンスは捉えられていると思う。
『哲学講義』ノートは、ヴェーユが34歳の若さで死んだ後、
元女生徒自身の手で出版された。
この哲学講義をしていた時、ヴェーユは24歳-25歳だった。
44
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 10:36:43
-------------------------------------------------------------------------
『ヴェーユの哲学講義』 シモーヌ・ヴェーユ(ちくま学芸文庫) p094〜
(省略=”、、、、” 改行・行変え=引用者の恣意)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
≪私たちに行動をもたらす関係と ことばをもたらす関係とを 比較しましょう≫
(A)≪私たちに行動をもたらす関係は、私たちの欲求に従属しています。≫
たとえば、、、、私たちが牛をまえにして逃げ出すとき、
私たちに関係のあるのは牛の角だけです。
私たちは自分の欲求にたいしては何の力も持ちえません。
『秩序が決定されていない』からです。
塩の一粒はまったく何の役にもたちません。私たちに役にたつのはひとつかみの塩なのです。
滑車を使って10キロの重さのものを引きあげるには10キロ以上の重さが必要です。 、、、、
「量は質に変化する」と、ヘーゲルは申しました。 、、、、
≪欲求はつねに全体にかかわります。≫
身体それ自体、死骸をもたらすことなくしては解剖することのできぬ、
ひとつの全体にほかなりません。
≪欲求はいきあたりばったりに継起します≫
したがって、ただ注意だけが、
私たちの何もなしえない秩序のうえに関係を設定するわけですから、
偶然にもとづくひとつの秩序しかないことになります。つまり
≪秩序そのものは、まったく存在しないのです≫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
45
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 10:41:52
(B)≪私たちに方法体系をもたらすことができるのは、ことばだけです。
それというのも まさにことばが現実とは無縁なものだからです。≫
じっさいのところ、私たちは世界のなかにあって、欲求に従わなくてはなりません
たとえば、私たちはあるかぎられたキロ数のものしか持ちあげられません。
それ以上の重さはすべて同一の名目-『重すぎる』 のもとに
私たちには無縁のものになるため、私たちにとってどれも同じものになってしまいます。
反対に私たちは、どんな大きいキログラムのものについても、
欲求するままに語ることができます。
キログラム、ということばは、どんな重さも持っていないからです。
≪ことばは、私たちに、 私たちの欲求とはまったく無縁な関係を設定することを
可能にしてくれます≫ 、、、、
語はお金もかからず、重さもなく、私たちは語を用いて、
≪完全に私たちの自由になるひとつの関係≫を 打ちたてることができるのです。
ここで、≪客観的なものとして、ひとつの必然性として 私たちにあらわされるのが
私たちだけに依拠しているにすぎない秩序 である≫
という逆説に注目してください。
世界は私たちに数をまったく提供してはくれません。
数という系は、完全に私たちのつくりあげたものです。
たとえば嵐のとき世界は私たちに 砂粒を一粒・二粒・三粒と提供してくれるわけではありません。
1+1=2 という必然性と、2キロの重さのものが頭上に落ちてくる必然性とのあいだには、
いかなる関係もありません。
そこで、次のことが言えます。
(1) ≪ことばはあらゆる方法体系にとって唯一の源泉である≫
(2) ≪ことばだけが、私たちが客観的と呼んでいる必然性なるものをもたらす≫
その必然性が、
私たちの欲求や身分や感情や状況などから
独立している という意味で、客観的なのです
この二つのことはたがいに相関関係にあります。
方法体系がなければ客観的必然性もなく、
客観的必然性がなければ方法体系もないからです。
(C) ≪しかしながら、ただ”語”のみに限定すれば、秩序と必然性は消え去ります。≫
46
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 10:44:27
たとえば、幾何学でひとつの面に一本の線を書きくわえる場合を考えてください。
ことばにかぎっていえば「百歩」を言おうとして「一歩」からはじめる必要はありません。
つまり、≪ことばのもつ力は、ことばとほかの事物との関係のなかに見いだされます≫
≪行動≫が≪現実≫をもたらすのです。
こうして私たちにとって、≪現実≫というまったく新しい概念が登場するわけです。
行動がことばのあとからやってきて自身をことばに従わせるとき、
行動はそれまでなかった≪何か≫をもたらすことになります。
百歩と≪言う≫ことと百歩≪歩く≫こととのあいだには、ひとつの差異があります。
ことばと比較した場合、
行動が内包するこうした「プラス」を否定しさることは不可能です。
あるいはむしろ、
そこにあるのは「プラス」ではなく、まったく違う何かだと言うべきかもしれません。
それが 現実 なのです。 ことばをどれほどとおくまで押し進めていっても、
けっしてことばによって現実を発見することはありません。
そこで、外的世界の 現実にかかわる問題は、簡単にこうまとめられるでしょう。
≪百歩歩くのが、百歩と言う、のとはべつの事柄である、という単純な事実こそ、
私たちに現実を証明してくれるものにほかならない。≫
≪意外さ≫とは、体系的なことばのなかには含まれていなかったもののことです。
47
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 10:52:35
事物が私たちにとって打ちかちがたい障害となってあらわれるとき、
私たちはそれらの事物のなかに悪意ある力を見るような気がします。
冷静さを失わせるような破局にぶつかると、私たちはよく
「夢をみてるんじゃないか?」とつぶやきます。
かりにいま、
石の塊をまえにした人間たちがむやみに動きわらるのをやめて、
体系的に考えだし 梃子(てこ)の使用を思いついたとすると、
すべてが変化します。
梃子(てこ)は、
対象を分割することなしに対象の重さを分割する手段 だといえます。
そのとき石はそれまでの悪意をすべて失ってしまいます。
どんな重さも力に抗しきれるものではありません。
たとえば、私たちの50キロの力と300キロの重さとのあいだに
ひとつの≪関係≫を打ちたてるだけで充分なのです。
、、、、
このような発想は、
世界にある悪意にみちた力のすべてを抑えつけてくれます。
私たちが働きかけ 自分たちの痕跡を世界に残すであろう、 そのような関係が
つねに存在するのです。
分解することさえできるなら、いかに小さな力であっても、
どのような大きな力にでも打ちかつことができます。
つまり、
石にやみくもに飛びかかり、魔術のようなやり方で石に打ちかとうと希う人と、
てこを探しにいく人のあいだには 本質的な差異があるのです。
情念は、第1の態度をとるようにしむけ、
第2の態度をとるためには、英雄的な努力が必要とされる
ということに注意しましょう。
≪労働≫はたえずこの種の≪努力≫を要求します。
石にやみくもに飛びかかっていくとき、悪夢のなかにでもいるような気がするものですが、
≪体系的なことばにのっとった行動≫は
夢とはいかなる関係もありません。
しかし、
いま石についてお話ししたことのなかには
≪意外さ≫が何もないのですから、
現実的なものもなにもありません。
科学や≪推論≫においては、
自分のとりあつかう問題のなかに ≪自分のもちこんだものしか≫(仮説)残りません。
けれども、行動のなかに自分のもちこんだものしかない とすると、
そこには障害がなかったことになり、行動もないことになりましょう。
48
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 10:56:47
私が自分に課題をたてたときと
行動をなしとげたときとのあいだには、
さまざまな偶然のできごとが起こるものです。
≪現実は そうしたことをとおして定義されます。
現実は当初の課題のなかには含まれていません。
現実とは、体系的な方法をもってしても予知しえないもののことです≫
現実はなぜこのように、
いわば否定的にしかあらわれえないのでしょうか?
≪「私」の痕跡≫が ≪方法体系≫であって、
それは 私たち以外のところからくるわけではありません。
私たちが現実に≪存在≫しはじめるのは、
私たちが≪方法的体系≫を≪現実において≫行使する瞬間 にほかなりません。
方法体系を
象徴 にたいしてしか行使しないとき、
私たちは遊びのようなものにとどまるのにすぎません。
体系的行動においては、私たち自身が行動します。
方法的体系を見いだしのが私たち自身だからです。
≪意外さ≫が姿をあらわすからこそ 私たちは現実において行動するのです。
いかなる現実もけっして証明することはできません。
≪現実は証明すべきもの ではなく、確認すべきものです。≫
現実は、まさに証拠となるものが不充分であるがゆえに 確証されなければなりません。
≪外的世界の現実 を示すものは、
ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、 その性格なのです≫
49
:
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)
:2014/06/12(木) 11:03:01
(*前レス最終文)
≪外的世界の現実 を示すものは、
ことばの持つ不可欠であると同時に、不充分な、その性格なのです≫)
【反省、その結果】――
だれにとってもこの関係があきらかになることはほとんど絶対ありません。
行動が推論から生じることはめったにないからです。
もっと正確にいえば、
≪おなじ人間がその推論を行動に移すことは稀なのです≫
(頭を働かせるのは技師であり、働くのは労働者です)
カントは≪芸術≫を、≪自然と精神のあいだの奇跡的な一致≫と定義しました。
音楽の一節が精神にのみ属する何かではないと気づかせるのは、
各瞬間ごとに意外さがあるからです。
≪人間の偉大さが存在する≫とすれば、
それはただ現実を確実に意識しているときだけです。
各人のなかの、ことば と 現実をもたらしてくれる行動 とのあいだの
この関係をあきらかにしようとしないのは、ひじょうに残念なことだと言わなければなりません。
こうして私たちは、≪科学上の問題≫と≪倫理上の問題≫とを
いっぺんに解決してしまったことになります。つまり、
≪悪意のある人には、自分自身の行動を
ことばでいいあらわすことができないということです≫
≪悪≫は、体系的なことば と 行動 との関係 のなかにあります。
知的な徳は、
ことばを体系的に使い、うまく運ぼうとして
けっしてことばを抑制したりしないことのなかにあるのです。
----------------------------------------------------------------------
(*引用終了)
50
:
シモーヌ・ヴェイユ:実在と想像
:2015/03/20(金) 11:49:07
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』 訳:渡辺義愛 [シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅲ](p120-121)
「知覚のなかの実在的なもの、そして知覚と夢を区別するもの、それは必然性である。
洞窟のなかにとどまって、眼を閉じたまま旅行を想像する人びとと、
実際に旅行する人びととの差異。
精神的な領域にも実在的な部分と想像的な部分とがあり、そこでも”必然性”が区別の役割を果たす。
単なる苦しみだけでは区別の役目は果たせない。なぜなら想像上の苦しみもあるからである。」
「精神の領域でどうして実在的なものと想像上のものを区別したらよいか?」
「謙遜は、精神的な進歩のうちで、想像上の進歩にすぎない部分を取り除くことを目的としている。
実際よりはるかに自分の進歩がおくれていると思いこんでも、なにも不都合なことはない。
,,,実際よりすすんでいると思いこむのはすこぶる不都合である。そのとき、
外部からの評価がききめを発揮するからだ。」
「実在的なものを見きわめる一つの基準。
それはかたくてざらざらしていることである。
そこい見いだされるのはよろこびであって、楽しみではない。楽しいものは夢の世界に属している。」
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