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<長文・連投> HYPER 雑談スレッド II <通な議論>

1extright:2004/06/28(月) 00:40
★★★ 必 読 「この掲示板利用にあたって/管理人」 ★★★
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2470&KEY=1040148566

ここは雑談スレでは敬遠されがちな 長文、連投 OKスレになりました。
何処かのスレで気になった一文について詳しく聞いてみたい時、ひとこと申し述べたい時、
更に議論に発展しそうな話題にと、幅広くご活用ください。

[ご注意]
 ・古参者にとっては、新ネタ旧ネタ繰り返しが延々となされる様に感じるでしょうが、
  そこにこそ新たな発見もあるかもしれないという、柔軟な考え方で進みましょう。
  うっかりさんが現れても叩きはやめましょう。
  何故そういう考え方に至ったのかを聞き、理解しあう事が大切です。
  言葉とは何のためにあるのか、今一度ロイのスタンスを学びましょう。

※ご利用前に
 ・一度は全てのスレに目を通し、これまでの雰囲気を掴んでおきましょう。
※コテハン推奨
 ・これは議論へと発展した場合にどれが誰のレスなのかを判別し、混乱を防ぐ為です。
 ・また、板の「検索機能」によって過去の意見を参照する際にも便利です。

736N:2010/09/13(月) 19:16:47
ふむ。。
畏れていたとおり、とりとめのない文章になってしまったな。。

737N:2010/09/13(月) 19:22:05

泣く、と、怒る、ばかりにこだわっていたが、
やはり 笑う が抜けているのは重大な欠陥だ。

笑う とはなんだ。

筋肉をゆるめる、ということは、
野生生物にとっては不必要なことなのかもしれない。
猫より犬の方が悦びを素直にあらわすのは、
人間との共生の歴史の産物なのだろうかね。

738N:2010/09/13(月) 19:28:28
やはり、とりとめのない文章になってしまう。

出直してくる。

またここにくるのがいつになるかわからんが
(明日かもしれんし数年後かもしれん。
ここはdat落ちがないからすこし油断させてもらいたい。
しかし、名無しはけっこう経済にこだわっているようだ。
経済はもっとも俺の苦手な分野だ。主張や考えがあるならきちんと展開してみてほしい)

では。 丿

739タター:2010/09/15(水) 04:44:15
や、悪かった。マイペース厳守中に無粋な真似をしたな>N

>むしろ、疑問の前に「立ち止まり続ける」という感じだ。
>立ちすくみ続ける、のほうが近いかもしれない。

立ち続けるあんたの裡にはどんな色合いの風が吹いているのだろうか。

たまにはよそ見をしたり、反対方向に歩いてみるのもいいかもしれんよ。
天啓のように閃く「なにか」が落ちてくるためには。

740N:2010/09/15(水) 18:58:30
風か    風・・・

たぶんそういうものは吹いてないんだな
考えるというのは、俺にとっておそらく
切実な脱出口に近かったんだと思う。

圧迫的な精神的監獄というものがあるとするならば、
外が見えない岩盤の牢屋の中で唯ひとつの“自由”、
与えられたのではなく自分で発見した“自由”、それが
考える、ということだったのかもしれない。
情緒を断ち切るために。助けてくれと叫ぶ代わりに。
(そのへんは、まったく異なる環境・条件だったロイも同じだったんじゃないか
 と想像している。ひょっとしたら、そこに惹かれたのかもしれない。
 もちろんこれは俺の一方的で勝手な思い込みにすぎない)

もっと前進的で向日的な解決策というものはあったかもしれない。
しかし今回想しても他の選択肢というものがまるで思い浮かばない。
たとえば助けてくれと叫ぶこと、そんなことははなから思いつきの外だったし、
そういう手があるとその時、誰かが俺にアドバイスしたとしても
まったくできなかったろう。畏れとか気後れとか勇気の欠如とかではなく
単純に“できなかった” と思う。
(今のことを問われていることは理解しているが、
 俺にとって“考える”ということは少年期に深く根ざしているので
 どうしてもその時のことに傾くのだ)

しかしこれは、タターのいう
“風”というのを俺がうまく感受できてないだけかもしれないな。

たぶんそれは資質の違い、つまり脳の生育歴の違いだ。
そういう異なる角度があるからこそタターとの対話は面白い、ともいえる。

741N:2010/09/15(水) 19:29:38
こどもや少年や少女にとって、救いは切実だ。

そして、それぞれがそれぞれの資質(つまり脳の生育環境と生育歴)に沿って
救いの方法をそれぞれにあみ出すものだ。

それは遊びだったり、読書や空想であったり、時には暴力だったりするかもしれない。
時にはそれは“病気”であったりする場合もあることもアドラーという心理学本で知った。
あるいは、クスリであったり、性行為であったり、そして思想であったりする場合もあるわけだ。

そういえば最近ずっとプルーストを読んでいて、
彼の場合、それは散歩道でサンザシを眺めることだったらしい。
http://herbstopic.com/?p=225&lang=ja


(またとりとめもなくなるがプルーストは面白い。
 いままで喰わず嫌いで読まなかったがこれほど面白いとは思ってなかった。
いづれkusamuraあたりで山ほどある彼の箴言をいくらかでも紹介できればと思っている。
文庫で13冊もあるからとうてい全部は無理だw
ちなみに彼は半分ユダヤの同性愛者だ。フーコーといいプルーストといい、
あるいは本邦の折口信夫といい、もっと遡れば、ソクラテス・プラトンなど優れた思索家に
同性愛者が多いのにはなにか理由があるはずだ)

ふむ。。
何を言いたかったか、忘れてしまったw 
でも、まぁせっかく画像まで検索したことだしこれも投稿しておこう。

742N:2010/09/15(水) 19:44:54
どうやら電池切れのようだ。。

>>739を読んで、もっと色んなことが思い浮かんでは
ちりぢりに乱れ、今はそれを拾い直して、枝葉を刈り取り、
ひとつの文脈に統一する気力がないのだ。悪いが。

断片的に記録しておくと。
風景詩人としてのタターとロイの違い、というのも思い浮かんだりした。
歩く詩人としてのロイ、と、道ばたなり神社の境内だったりで休憩しながら
風や空気を味わうタターの、詩的資質の違いと
にも関わらず風景詩人であることの共通性。 
(まぁ、これも、そこまでで途切れた思考のひとつとして書いておこう)

あぁ、そうだ。
呼びかけは嬉しかったのだ。忘れ去られて放置されるよりはるかにいい。
(以前はそれでも平気だったんだがね…)
これがリアルだとうっとうしくてたまらないのに
掲示板という不思議な距離では逆にありがたかったりする。面白いものだ。
ただこちらからは、以前のように、
日にちをおかずに反応する、ということができない、
それだけ承知しておいてもらえれば助かる。無粋はおおいにけっこう。
では。

743タター:2010/09/16(木) 04:58:45
>>740
ふむ。そう言えば俺は「ものを考える」ことがあまりないかもしれん。
「考える」に一番近い俺の状態は――妙な表現に聞こえるだろうが――自分がどんどん拡散していく、希薄になっていく感覚の裡にある。
どんどんどんどん自分を薄め、表層の意識を離れていって、自分の身体が何を考えているかを探る。自分が何を感じ、何を望んでいるのかを、客体のように自分の中に発見する。
そして充分に自分を離れた時、Nの言う「なにか」がふわりと出現する。
俺の「考える」は「自分を離れる」ことと一体になっている。

>>740 で感じたのは、そんな俺のやり方とは真逆の方向性だ。
中心に「自分」がある。固く、強固に身を縮めて。
「自分ではない何か」に取り巻かれた自分が、武器のように「思考」を握りしめている。
そこに存在するのは強烈な求心力と意志だ。それらは「自我」という言葉で一つにまとめても良いのかもしれない。

とても不思議で、とても面白い。自分とは全く違う方向性だ。
だがNの思考世界でも中心に向かってぐんぐんぐんぐん収斂させて、最後はやはり「なにか」が「落ちてくる」のだという。
最終的に出現するもの(の感覚)は極めて似通っているのに、そこに至るまでのベクトルが真逆に見える。

もしかしたら、あんたの風は「裡」ではなく「外」に吹いているのかもしれんな。

744タター:2010/09/16(木) 05:11:45
>>742
速やかな反応を求めるつもりは全くないよ。安心してくれw
誰もが皆、それぞれのペースで。

口を開くも良し。
沈黙するも良し。

ただ、あんたが「タターの言葉を時に聞きたくなるのだ」と言ったように
俺もNの言葉を聞きたくなる時がある。それだけだ。

ああ。「言葉」というより「息づかい」なのかもしれんな。
思考の息づかいなんだ。聞きたくなるのは。

あんたの思考がだいぶ核心(それが何かは俺にはわからないけれど)に近づいている気がするよ。
順調に、しんどそうだ。

745N:2010/09/16(木) 18:11:57
>>744
それは助かる。 >速やかな反応を求めるつもりは全くないよ

>>743やリョウがブログで書いてたこと(支配されてる方が幸せだったかもしれない)
は、最近いろいろ漠然と考えてたこととクロスする部分があって
なにか言いたい気分になるのだが、うまく消化して話せる気がしない。
時間(と、気力)が必要だ。
今日はAさんとこで全力を尽くしたので電池が切れたw

746タター:2010/09/17(金) 03:42:25
存分に時間を取って、たっぷりの充電を。

十分な休息と体力の回復は、叢踏破のためのもっとも強力な援軍だよ。
肉体の充実なくして気力の湧出はないからね。

747AR:2010/09/19(日) 23:19:58
俺(たち)も今息切れ中なんで回想スレで力尽きた。
このスレは>>734までしか読んでない。後日よむ。

で、あえて>>734に。

どうしても消したくてたまらんレスができたら連絡してこい。
最近“ひいき”を覚えた俺様が消しといてやるからw


まあ、ここを消してくれ、と示すことじたいの難易度が高いだろうけどな。
何も聞かずに消してやると約束しとこう。
問題は連絡がいつつくか俺側の理由でさっぱり定かでないということだがw

・・・意味のない空約束かもしれん思いつつ
書いてて自分の中に意味を見出した俺がいる。

ほとんど力にならない空虚な約束かもしれんが
意識の上で、「消すことが可能」 とすることが
あんたらの(N一人に限ってない)『言葉』を引き出す道に
わずかなりと繋がればと思っている。





そしてね
俺はもしかしたら
ほんの少しくらいは人間に近づけただろうか。
不可能だと思い続けたそれに
少し近づけてる気がした。

748AR:2010/09/19(日) 23:20:45
支離滅裂だな。

749タター:2010/09/20(月) 05:18:17
>>747
あんたがそう感じたなら、そうなんだろう。
こういうもんは自分の中の感覚が一番確かだから>人間

近づきたい、近づきたい、と思い続けて
いつか、ふと、自分が「そう」であったことに気づく……
などという幸せな物語のエンディングを夢想してみたよw

生きてることは難儀で、めんどくさくて、そのくせ割と楽しい。
そんな風に思う今日この頃だ。

750N:2010/09/21(火) 20:53:36
>>747
お気遣いありがたく心に留めておく。
たしかに、自分でさらりと削除するのと、
人に頼んで削除してもらう事の間には少々壁を感じるが。


>自分の中に意味を見出した

関係あるかどうか判らんが、
最近少々胸にきた言葉で、
仏教の人生の四大目標というのがある。

「財産artha、恋愛kama、解脱moksa、」それから
「善行、もしくは正義dharma(ダルマ)」

ダルマの語訳は実際には色々ありうるそうだが、
この訳者は上の四大目標として他のものとならんだ場合の「ダルマ」は
「“正義”ないし“善行”道徳“”義務“などの意味である」としている。
俺は「善行」として捉えてみたい(他のはややこしいからw)。
つまり、財産も、恋愛も、解脱も得られなかった失敗人生でも
「善行」を行う可能性くらいは残されてるつうことになる。

それは多少、気持ちの慰めになる。

751A ◆CPjaa6Nup6:2010/10/27(水) 07:13:23
「もしもリアルパンクロッカーが仏門に入ったら」架神 恭介
おすすめしておく。
 大笑いしてしまった。
作者は完全パンクマニュアルの作者
あの大ヒットの「もしドラ」の完全パクリぱくり方がハンパ無い
が、面白い。

752N:2010/10/28(木) 18:20:40
うむ。 さっぱりワカランw つか、チト高い。図書館にリクエストしてみるか
そういや、昔、岡野玲子の漫画で
ロックかパンクやってる若坊主の話があったな

最近おもしろかったのは、ドグラマグラの夢野久作のエッセイ
近世快人伝
http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2140_23920.html
明治〜戦前のパンクな博多人、玄洋社の頭山満や奈良原到の話。
名前と履歴くらいは知っていたが、
だいたい夢野久作自身が、右翼の杉山茂丸の息子だから
ナマナマしく壮士とか国士とか大陸浪人とかの気分が内側から伝わってくる。
こういったむちゃな博多右翼、壮士を育んだのが
高場乱子なる怪女子の塾だったことも初めて知った。
しかしホントに面白いのは、政治と無縁な庶民、仁三郎の破天荒なパンクぶり
(A4紙に60%印刷で29枚くらい)

753N:2010/10/28(木) 18:45:30
「類的他者」 という言葉を思いついた。
すっ、と浮かんだので、もしかしたら意識から消えた既出概念なのかもしれないが
自分でははっきりしない。ググった限りではそんな言葉はない。

身近な他者 と違い、遠い他者・非具体的な他者だが
なにがしか「類的」な近接感(あるいは共感)を覚える他者のことだ。
たとえば、
美術館に類的他者の絵を観に行く。という風に使う。
絵に興味のない人間にとっては
それらの絵の作者も類的他者ではなく
たんなる遠い他者に過ぎないかもしれないが
それでも、表現を受けとめる姿勢があれば
類的他者の表現がそこにある、と感じたりするかもしれない。

むろん身近に類的他者がいてもいいわけだが、
一定の年齢のときは、むしろ遠い他人のほうが身近に感じることが多い。
吉本隆明はそういう時期に家族や身近な知人より遠くの人間
(芸能人でも作家でもスポーツマンでもなんでもいいわけだが)
に、より惹かれることを「遠隔作用」と呼んだ。
そこからブーメランのように、戻ってきて
身近に類的他者を見いだすかどうかはその人間の人生曲線による。

しかしまぁ類的他者がいるなら、
そう思えない他者もなにかネーミングした方が
対比がくっきりするんだがどうもうまく思いつかないのであった。

−以上、本日の電池切れ寸前メモ−

754N  -メモ-:2010/10/31(日) 15:51:49
無縁他者。

具体的他者。    

類的他者。

755N:2010/12/14(火) 06:59:42
朝倉泉事件
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/9776/izumi/i_jiken.html

756N:2010/12/14(火) 07:41:25
朝倉ノートで圧巻なのは、
その未熟なエリート論(ドストエフスキーの「罪と罰」を思い起こさないでもないが)より
祖母に関する詳細で克明な記述だと思う。

ここに見られる息苦しさは、血脈や家族の問題というより
「間合いゼロ」の息苦しさにみえる。

睡眠時間も含めて、日常のあらゆる場面において干渉してくる
間合いゼロの関係は、特に精神的自立を指向する思春期には
特に息苦しいものだということは、ある程度普遍性がある。
(ただ、そこから殺人へ至る内面的な経過は、このノートでも
それほどよくは判らなかった、という感想ももつ)

彼の場合は祖母だったが、それは同じ空間で寝起きを常に共にする相手であれば
例えば夫婦であっても、間合いゼロの息苦しさに至る可能性はあるだろうが、
夫婦の場合、間合いゼロは、たとえばセックスによって逆に間合いを作ることが可能になる。
この場合の間合いは、人間同士の間合いゼロが、
性行為の「男と女」という距離をつくることで解消されるのではないだろうか。

血脈の場合そういう距離を作ることができないことで
家族の間合いゼロの息苦しさに、距離をつくることが困難になる。

朝倉の場合、この距離を作ろうとしたのが「エリート=自分、愚劣な大衆=祖母」
という枠組みだったのかもしれない。

757N:2010/12/14(火) 07:46:49
かなり推敲の必要な文章だな、、不調な時にムリして書くとこうなる、、

758N:2010/12/14(火) 19:01:22
もともと、プラトンあたりからニーチェに至るまで
エリート優越・大衆侮蔑思想はある
だが、実際に権力の座にいるものは大衆の命運を両肩に担うわけで
大衆侮蔑なんてのんびりしたことは言っていられない。
ヒットラーでさえ、ドイツ国民ドイツ大衆(民族)の命運に対する強い使命感をもっていた
十七条憲法でも、本当のエリート(天皇関係者)は
豪族官僚たちに対して、「もっと民の都合を考えよ」と説教している。
大衆侮蔑論は無責任な知識人(大学教授)、小官僚あたりの戯れ言にすぎない。

エリートを白人、大衆を黒人、というふうに置き換えれば
そのまま、プアーホワイトの差別意識とたいして変わらん。
あるいは、エリートをゲルマン民族、大衆をトルコ移民と置き換えれば
ネオナチの下層階級の若者の考えと同一になる。
まして、エリート家庭に育った16歳の朝倉少年はまったく大衆というものを知らない。
たとえば 「受験戦争反対」を唱えていたのは大衆ではなく
進歩的知識人と呼ばれたものたちだ。
彼は、勝手に頭の中で作り上げた大衆、という幻影を相手にしているにすぎない。
リアリティがまったくない。足のない幽霊相手に力んでいるだけだ。

ドストエフスキーの罪と罰では、
ラスコリニコフがエリートは法を超越する権利がある、として
金貸しの老婆を殺害する。
ドストエフスキーの父親は末端の地主階級で
自分の土地の住民に殺されている。だから、ドストエフスキーには
大衆侮蔑思想を書く理由をもっていたが、
様々な苦労を重ねてドストエフスキーはロシア大衆主義というべき思想にたどり着き
(これは初期のドストエフスキーが関わっていた左翼運動とは異なる)
罪と罰の最後で、ラスコリニコフはロシアの大地に接吻し懺悔する。
もちろん、
16歳の小秀才坊やにそんな深みを求めることは無理な話だけどね。
どうせ偽善としか受け取れないだろう。平凡な生活者の種々の苦労が見えてないのだから。

759N:2010/12/14(火) 19:15:27
にも関わらず、これらのノートに一種の迫真性があるとすれば
それは、真剣に思い詰めて書かれているからだ。

760N:2010/12/14(火) 19:27:58
この「真剣さ」がどこに向かうか、というテーマは自分的に興味深い。
朝倉から離れ、一般論として「真剣さ」というものを考える。

「真剣さ」の対象に、年代的な指向というものがあるのではないか。
きっちり詰めて考え抜けたわけではないが

一般的には

学童期 真剣さは「遊び」に向かう

思春期 真剣さは「内面」に向かう
      あるいは真剣さは「性」に向かう

社会期 真剣さは「仕事」に向かう
      この場合、
     「家族」は仕事に対する真剣度に反比例して等閑視される場合が多い

老人期 一概にはいえないが、死を意識した時
      真剣さは「生」そのものの検討に向かう ある意味思春期に戻る

女性の場合 真剣さが「恋愛」に向かうことも多いようにみえる
      この場合時期はあまり問わない気がする
      それらは個人の発達史より、類の生命史から来るものに思える

761N:2010/12/14(火) 19:33:15
上記はあくまでおおざっぱな一般論で
個別的にはいろいろありうるだろう、と思う
「趣味」に向かったり「思想」や「運動」に向かったり
いろいろありうるだろう。

要は、真剣さがどこに注がれているか、という視点は
自分的に新発見だったという話。

762N:2010/12/19(日) 15:08:57
朝倉の祖母の場合
亭主は書斎に閉じこもりきり、娘は脚本書きで忙しい
家で自分の存在を確認できる相手は孫だけという状況
真剣度の向かう相手は、泉しかなかった

直接関係ないが、三島由紀夫も祖母によって母から切り離され育った
太宰治も母親の記憶はほとんどなく「津軽」では乳母を探し求めて出会う
ふたりとも東大に行き、ふたりとも自殺した

朝倉泉のばあい、自殺衝動が、殺人衝動と連動してるのかもしれない
自殺は 自分の命に価値を認められなくなることで
他者の命にも価値を感じられなくなる

763N:2010/12/19(日) 15:21:45
【子どもについて】

○子どもは目の前のものしか見ない。

目の前のもの(こと)だけが、その時々の世界そのものとなる
その背後にあるものはまだ見えない
アンパンマンは目の前に出現するものであるから
子どもにとっては実在だ

その背後の作者・梁瀬について想像することはまだできないし
その漫画・アニメの現前の奥を見るということもまだできない

○子どもの記憶
フロイトによると小児は、たいてい5歳以前の記憶を失う
これを「小児健忘症」と言っている

目の前にあるもの対し、それにどう反応するかが全てだとすれば
子どもがあるものを認識するのは、そのもの(人)と直接かかわったときに
どうだったか、楽しかったのか、怖かったのか、気詰まりだったのか、
記憶は、かつてのそれが目の前にいた時の感情と結びつく
それは、エサを与えるベルを聞くと涎を垂らすというパブロフの犬の記憶と似ている
条件反射というやつだ

脳がまだ未完成で発達中(いいかえればどんどん作り替えられている)の子どもは
記憶より条件反射のほうが脳の仕組みに残っていくのかもしれない

764N:2010/12/21(火) 19:22:10
【言葉と沈黙】

今年の正月にもNHK教育で再放送が行われた吉本隆明の講演を
自分なりに要約すると

「言葉において、伝達は二次的、三次的であり、
 言葉の本質に於いては、
 自分の内部の沈黙に形を与えることが第一義である」

と理解した。
このような言葉に関する理解は、アカデミックな言語論には
(俺の知ってる範囲では)ほとんど類例がないと思われ
アカデミーからは無視されているが言葉の本質に関する重要な認識だと思える。

(ここから先は、俺個人の敷衍になる)

伝達より、自分の沈黙に形を与えることのほうが、まず言葉の本義だとすれば
(自分の実感からそれは正しいと思っているが)
うまく人に伝達できない人は、
それだけ内部にある沈黙の量が多いのだ。

その多量の沈黙がどうような経緯で貯め込まれたかは置くとして
それに形を与えることに真剣度が集中し
伝達は二の次三の次になるのは、当然だ。

吉本流に言葉の本義を、まず「沈黙に形を与える」ことにおくなら
そうなる。

765N:2010/12/27(月) 18:56:59
>>751
ようやく図書館にリクエストしてたのが届いた、と先週連絡が来た。
ずいぶん時間がかかるんだな。

あの複雑な仏教の種々の党派を粘り強く整理してるなと感じた。
巻末を見ると相当量の解説本を読破してるようで
確かに仏教というのは、直接原典に当たっても、わかりにくい箇所が多く
解説本を読むという作業をサボってる俺には「あぁそういう前後の事情があったのか」
と参考になったところも多かった。

ただ悟りに関する「全体ドカーン」という表現には微妙に違和感がある。
「全体ドピュン」とか「全体じゅわん」とか程度じゃないだろうか。

言葉が「分けることだ」という認識は俺も同じ認識だが
その元になる「全体ドカーン」のイメージが少し俺は違う。
俺の知ってる「全体ドカーン」は
移植医療の本で読んだある先天的全盲者の話からきてる。

ある先天的な全盲者が、移植手術(確か骨を使うのだが記憶があやふやなので確言はできない)
を受けた。
手術後数日して、いよいよ目を覆っていた包帯を取り目を開けたとたん
その全盲者は悲鳴をあげ、目を閉じた。
一気に強大な白い光の固まりが全盲者を襲い
その恐怖からその全盲者は二度と眼を開こうとしなかったそうだ。

ものが「分けられていない」状態の「全体ドカーン」は
その全盲者を襲った光のかたまりのようなものだ。
(厳密には、悟りの「自分も他も一緒くた」とは異なるが)

他にも色々、違和感も含めて刺激はあったが、
とにかく
紹介してくれてありがとう、と書いておきたかっただけなので省略。

766N:2010/12/27(月) 19:00:12
[遠近法①] 

目の前への全力集中が時間軸に沿って
次々、印象を積み重ねていくという子どものあり方。

そこから、
それぞれバラバラに積み重ねられてきたできごとの奥に「なにかがある」
という気づきの始まるのが思春期。
「なにか」があるというところまでは気づいても、
具体的にそれが何かにということについては思い悩み考え悩みいらだつ
というのが思春期。

もっとも単純に考えれば
「敵と味方」という図式が最初にくる。
いやなものと気持ちいいものの区別は子ども時代の印象から直線的に
図式化しやすい。

(この項は、ぼちぼちと続く予定)

767N:2010/12/27(月) 19:16:37
>>765 追加   そういえば、主役の「まなぶ」というネーミングだが、
このweb漫画(オーシャンまなぶ)にインスパイアされてるんじゃないかとか勝手に思った。
http://t-taks.com/

768N:2010/12/29(水) 19:48:36
世界が沈黙しているのではない。
自分の中に沈黙がある。

769N:2010/12/29(水) 20:01:22
沈黙にどういう形を与えるかによって
世界の見え方が異なってくる。

言葉を馬鹿にしてはならない。

だが個人の言葉はいつも限定的であり不完全だ。
個人が世界を完全に理解することなどありえない。
そんな人間はいままで1人もいないかったし、これからもあらわれない。

世界の数百兆分の一でもわかればそいつは偉人だ。
だが、ひとつ正しいことを知っているからといって
そいつのいうことが全て正しいということにもならない。

言葉を馬鹿にしてはいけないが、言葉を畏れてもいけない。
形の与え直しは何度でもできる。
内省力さえあれば。

770A ◆CPjaa6Nup6:2011/01/04(火) 21:13:03
にゃあ

771HRK ◆l/an/smhrk:2011/01/08(土) 11:40:25
吉本隆明 ラジオ版 学問ノススメ
http://www.jfn.co.jp/susume/

772N:2011/01/13(木) 18:11:11
わん

773zebla:2011/01/14(金) 23:09:22
ばうばう

774N:2011/01/16(日) 15:12:49
松村邦洋かっ!w    

くっかどぅーるどぅー

775zebla:2011/01/19(水) 23:55:39
ぱおーーん

776N:2011/01/20(木) 19:31:58
ぶひー

777N:2011/01/25(火) 03:33:10
ほんの数時間寝て目をさましてしまったが
今とても気分がいい  いい夢をみたからだ
もういちど眠って覚めれば忘れてしまうかもしれない だから記しておこう

夢はこうだ      (*長くなったので分割)

778N:2011/01/25(火) 03:38:03
むかし「僕」と仲の良かった人物が ある人物の言葉に腹を立てていて
「僕」は彼と散歩をする 彼が
「もう、町の風景がつまらない」と言ったので「僕」は
さいきん自分が発見した風景論を話しをはじめる。

風景は成長期とともにある。
成長を終え、年齢が重なりだすにつれて、変わりゆく風景はもう自分と共にはなく
風景から疎外されてしまうから、齢をとるにつれ、町の風景ではなく、
自然のほうに心が慰められるようになる。

そんな話しをしながら、
ある路地を抜けると、鄙びたまちの一角に、
懐かしいのに新しいような、リニューアルした地蔵さんのような
新しい一角を発見する。

「へー」と思いながら
覗くともなく、そこに接近し、表の竹製の着物スタンドに掛けられた
麻の着物に目をくれながら角を曲がりかけると、
「うちは、名古屋大学の○○支店なんどす」
と、店の奥まった階段上にいる、
和服姿で落ち着いた感じの30代の女性が上からこちらに声をかけた。

彼女の言ってる意味はよく判らなかったが
「あぁ、そうなんですか」 と生返事し、
その麻布の着物の前にしゃがんで、すこし手を触れると
「あらあら、それは触ってもろては困ります」と
着物の女性から笑いのこもった声で釘をさされた。
そこは夢だから都合よく「僕」は表を触らず内側に手を入れて麻の手触りを味わっている。
「まぁ、内側やったらよろしおすけど」
と女性はニコニコしながら柔らかな目で
許してくれる。

そこで目が覚めた。

779N:2011/01/25(火) 03:52:39
ほんの数時間しか眠っていないのに
ゆったりした素晴らしい気分だった。

ゆったりと流れた楽しい時間の余韻がまだ残っている。

楽しいのは、消費ではない。
消費には一瞬の快楽しかない。
その麻の着物を買う気などさらさらなかった。

楽しかったのは、その店先でのゆったりとした会話とも言えない会話や
買う気もないのに麻布を触って、むこうもこの人は買わないと判っていながら
ゆったりと話しかける、目的のない時間、
最近覚えた経済用語で言えば、債務のない時間とでもいうような
ゆったりした時間の流れだった。

780N:2011/01/28(金) 23:02:35
一度寝て、目覚めたら、
ネハンは消えていた

考えてみれば、こういう状態は
以前は普通にあったかもしれない
好きな音楽を聴いているときとか

なんにせよ、記しておいてよかった。
なにも状況は変わっていなくても
心しだいでネハンは来ること を覚えておけるから

781A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/04(金) 06:53:36
>780
ネハン=涅槃?
nirvana

782N:2011/02/04(金) 18:29:06
そう。 ライトな感じで表記してみたw
四時間くらいしか続かなかったけどね。
悟りもネハンもそのくらいのライトさで考えていいんじゃないかと。

そういや曹洞宗の総長とか首つり自殺してるんだぜ
悟りもくそもねえや

783N:2011/02/04(金) 18:55:20
調べたら、臨済宗南禅寺の管長も首つりしてるし
同じく臨済宗で、名僧と言われた人の一番弟子も自殺してる。
なんだかなぁ。。

784A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/06(日) 08:32:19
祈りは自分の救いの為にある。
 と最近思った。

人の為に祈ってるが、祈る自分の救い
であるようだ

つれの家族である祈る人たちを見て思う。

785A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/06(日) 08:33:15
どの宗派でも宗教でもそれは同じかな
などと
乏しい経験だが思う。

786N:2011/02/09(水) 23:11:00
祈り不信者の俺だが(子供のとき「祈らされ」てはいたが)
その捉え方ならすこしは何か考えることができそうだ。

1)キリスト・イスラム・ユダヤ教の祈りでも、神道的な手合わせでも
祈りの心理的効用は「集中」「不安軽減」「静謐」といったところじゃないだろうか

2)それぞれに儀式めいた作法があって
それを行うことは、各個人が属している共同体(宗派)に
象徴的に参加することを意味しいているような気がする。

3)快癒祈願でも他者のための祈りでもいいが
祈りというのは、なにがしかの不安に対し、自分の力が及ばない
あるいは自分の力以上のなにかを必要としている、
と自身が感じていることを祈るのではないだろうか。
つまり形式的に参加しているだけではない場合、
その底に無力感・無能力感が、程度の差はあれ、潜んでいる気がする

4)個人の力量を越えた共同性の象徴(神でもいわしの頭でもなんでもいい)
に向かって祈ることで、共同性に象徴的に参加している、という意識が
不安感や無力感が軽減する。
祈りも呪いも、象徴的な共同性との共生意識をもたらすことで
精神の安定を求める行為なのかもしれない。

と、A’s照明をてがかりにすこし考えてみた。

787N:2011/02/09(水) 23:14:06
テニヲハのおかしい部分は、見てみないふりをするように

788A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/13(日) 08:54:03
>786
を! それだ、そんな感じだ。

789N:2011/02/16(水) 20:21:47
どんな感じだったっけ、と読み直してみた。だめだ!我慢できない!テニヲハ推敲する。。
(単なる自己マンだ。読み飛ばしてくれ)
----( 内容は>>786とおなじ。テニヲハ改良バージョン)-------------


1)キリスト・イスラム・ユダヤ教の祈りでも、神道的な手合わせでも
祈りの心理的効用は「集中」「不安軽減」「静謐・安定」といったところじゃないだろうか

2)それぞれに儀式めいた作法があって
それを行うことは、各個人が属している共同体(宗派)に
象徴的に参加することを意味しているような気がする。

3)快癒祈願でも他者のための祈りでもいいが
祈りというのは、なにかの不安に対し、自分の力が及ばない
あるいは自分の力以上のなにかを必要としている
と、自身が感じていることを祈るのではないだろうか。
その底には無力感・無能力感が(程度の差はあれ)潜んでいる気がする

4)個人の力量を越えた解決力をもつ、と信仰される共同性の象徴
(神でも先祖でもいわしの頭でも岩でも樹でもなんでもいい)
を想定し、そこに向かって祈ることで、
共同性に象徴的に参加している、という意識が生じ
不安感や無力感が軽減する。
祈りも呪いも、象徴的な共同性との共生意識をもつことで
精神の安定を求める行為なのかもしれない。

--------------------------------------------------------

790zebla:2011/02/24(木) 09:27:31
そういえば、母親が仏壇(先祖の霊)に向かって家族の良いところを褒めたり感謝したりすると
家庭内の問題がよくなってくると唱えた学者さんもいたな。
神仏が助けてくれるというよりは、褒めたり感謝したりすることで意識改革をするという感じだったが。

791N:2011/02/24(木) 19:22:48
親が二人、その親にそれぞれ親が二人。
2の指数で増えていく。直径の先祖ってのは10代遡ると千と24人。
20代遡れば、なんと1000万人超になる。国家なみだ。
子供を50歳で産むと多少多いめに見積もっても
わずか1000年前にタイムマシンで行けば
直接のDNA先祖がそこには1000万人いることになる。
奇妙なことだが、さらに遡り続ければ簡単に
1億人を突破する。おそらく当時の世界人口を超えてる。
どうにも納得しがたい。 この計算はどこがおかしいのだろう。

さらに、さらに遡り続ければ、魚にまで戻り 魚のご先祖さまが登場なさる。
それはややほほえましい。

792N:2011/02/24(木) 19:25:43
一桁間違えた。 1000年前の先祖は100万人超だ

793N:2011/03/01(火) 18:10:55
世代数も一個ずれてるな。。 
すこし頭のましな状態の時だけ書き込んでるつもりなんだが。。
まぁねずみ算だから、100万が1000万になるのは
200万-400万-800万-1600万 とわずか4代しかかからん。

この遡りの人工爆発の謎を回避するには
近親婚のきわめて長い期間の持続、母親の出産死亡率の高さ
を想定することくらいしか思いつかん

でも直系の魚のご先祖はやはりどこかホッとする。

今日の昼は焼き魚を食った。親類かもしれん

794A ◆CPjaa6Nup6:2011/03/05(土) 20:54:07
>790
なんかいい。

795N:2011/03/23(水) 06:58:00
ツイッターを見てると、
なにか昨日あたりを潮目に、
日常性への復帰がはじまったような印象を受ける。
どこかまだちぐはぐな日常。

796N:2011/04/04(月) 19:19:09
そういや、あっちで「心は内臓だ」というのを無断転載していたのだ。
(すぐに腸がセンサー反応する男)
しかし、もうひとつ「心は記憶だ」という考えもある。
「心の起源」木下清一郎 中公新書 
中公新書には名著が多い。

無意識=内臓
意識=記憶 
としてしまえば図式的にはすっきりするが
すこし単純すぎるか。

797N:2011/04/04(月) 19:37:22
リョウへ。
「逝きし世の面影」渡辺京二 という本が面白い。
開国後に来た外国人(欧米)たちが、
日本人(おもに江戸時代の面影を残した庶民)に感嘆している文を
いろんな方面からまとめてる本だが、その7章「自由と身分」には
服従の自由というテーマに触れている箇所がある。

渡辺京二という人は、明治に「輸入」された近代欧米的感性に対し
それ以前に培われた日本人というオリジナリティという視点から
かなり深い考察を続けていた人だ。 

今回の震災をきっかけに、また図書館から借りてきて読み返していた。 
表面的には失われていた「古層」が噴き出てきた気がしたから。
今回の震災に対する日本人の反応についての
外国人の「賛美」がそのまま、開国後にやってきた外国人たちの反応と
一緒であったりする部分もあって、日本人(庶民)のDNAということについて
考えさせられたりした。 完全に変わってしまった部分もあるが。

ブログの読書録に書いてた赤松啓介が内側からのドキュメントだとすれば
こちらは、外から見た日本のドキュメント(賛美寄りw)だ。

798N:2011/04/04(月) 19:43:16
「恥じらい」は完全に「輸入思想」だw

799N:2011/04/04(月) 20:08:05
まったく変わらないのは役人(幕吏)の嘘つきぶり。
「彼らは地上における最大の嘘つき」(ハリス)

このDNAにも相当根深いものがあるようだ。
とにかくこの時期にこの本を読むと色々面白い。

800タター:2011/04/05(火) 04:24:13
>>797
>今回の震災をきっかけに、また図書館から借りてきて読み返していた。 
>表面的には失われていた「古層」が噴き出てきた気がしたから。

「古層」という言葉に「ああ、なるほど!」と手を打った。
漠然と感じていたものを的確に言葉にして貰った感覚だ。ありがとう。

ついでにずっと読みたかった『逝きし世の面影』を密林で注文したよw
これまたありがとうw

801N:2011/04/05(火) 17:52:28
この本は、どちらかというと「入り口」だな。
ここから先にいろんな方向が見える。
渡辺京二本来の仕事とはすこし趣きが違う(辛さ控えめw)。

ところで、密林、やはり震災の影響か、
支払い請求まではいつものスピードだが、
配送はかなり遅れてる模様だ。

802タター:2011/04/09(土) 04:08:30
震災の影響はすでに脱したらしい。
このレスを読んだ時にはもう到着していたよ>密林

仕事関係の資料を優先せにゃならんので
読めるのはしばらく後になりそうだ。

長文でも連投でも議論でもないレス、勘弁な。
たいした意味のないレスをこうやって書き込みたくなるのは
仙台の大きな余震が実はわりとショックだったからなのだろうな
……と自分では分析してるんだがw

803N:2011/04/11(月) 17:34:15
>>802
俺とこは、先月末に申し込んだのが、
やっと昨日ついた(支払って10日目)。コンビニ受け取りがまずかったのか。。
それとも東から西(かつて禿童が紅衛兵のように市中の民を密告して廻った町)への
通行が後回しにされているのか。

>長文でも連投でも議論でもないレス
もうな、そんなことどうでもいいんじゃないか?w
数人の住民しかいないという事も点呼ではっきりしたしw

余震というには大きすぎ、ほとんど本震と変わらんから
今度はそれに対する余震も必ずある。とあらかじめ思っておいた方がよい。
ただし、本震より大きな余震はない。エネルギーの放出は
必ず初発が一番大きい。そのエネルギー放出分だけ蓄えられた
エネルギーは減じられてるから。

804N:2011/04/11(月) 17:59:16
さてノイローゼというものは
特定の物理事象(音・光・揺れ・匂いといった五感に訴える現象)が
個体に繰り返し訪れることで、それらの五感が次第に
鋭敏・過敏に感受性が増感し、心理的に追いつめられるという状態だと
俺は理解している。

たまたま、こないだ風車発電に関するテレビ映像を見ていた。
すると現地(デンマークかどっか)の人間が、
「ほらあの音」と風車を指して言うのだが、インタビュアーには
ぜんぜん聞こえないという場面があった。
幻聴ではないのだ。彼らの知覚がそれほど鋭敏になっているのだ
いわゆる「低周波騒音」というやつだ。
これが長年続くと、幻聴すら発する。

たとえば、「揺れ」だと、それは
大きな地震から小さな地震、やがて、人には感じられない
1以下の地震すら感受しうるレベルに達する。と想定できる。
やがては、階下を人が走るわずかな揺れまで、
それに応じた小さなトラウマが発動する。
そこまでいけばノイローゼだ。
過ぎた事象は「なかったもの」、とむりやりにでも
空白化するか、大もとである物理事象から隔離されるほかない。

805N:2011/04/11(月) 18:03:10
あぁ、ちょうどテレビをつけたら、福島でまた6弱の揺れがあったようだ。

ところで地震酔いというのはかなりノイローゼの機構に似ているようだ。

----------------------------------------------------------
人間の脳幹には、後の体験に役立たせるために、
直前に体験した加速度などの情報を蓄える「速度蓄積機構」
というシステムがある。
震災時の衝撃や、相次ぐ余震の揺れは刺激が強く、
感覚が残りやすいため、「地震酔い」が起きるという。

 震災に伴う心理的なストレスにより、
感覚が敏感になっていることも要因の一つとみられる。
「感覚が敏感になると、心臓が動いているだけでも、
それを揺れと感じてしまうことがある。
生活環境が変わる季節でもあり、自律神経の働きの乱れも影響している」

 対処法として、大きく深呼吸をしたり、水を飲んだりすると落ち着くという。
------------------------------------------------------------
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20110407/491547

一種の防御反応だな。過剰防御になるとノイローゼってことかな。

806N:2011/04/11(月) 19:06:53
渡辺京二に誘(いざ)なわれ読み始めた石牟礼道子
(出世作「苦界浄土」は渡辺が編集していた熊本の同人誌に掲載されたもの)

「あやとりの記」(福音館文庫)は、ジャンルでいえば童話になるのだろうが
古層から掬い取られる宝石のような名作
(ただし最終章はなんとも不安と哀切を残し、感動的ではない。
 しかし、途中でなんども目の端によけいな水分が増量した)
3歳の女の子が主役。これに、村からも外れた位置にいながら
山・海の自然と交歓する古層の内実を見事に描き出している)

リトル・トリーを思い出した。こちらは5歳の少年が主人公。
どちらも、祖父・祖母との緊密な結びつきを仲介にして
自然との深い交歓にいたるイノセンスな魂が、そのまま
古層(根層・深層)へと結びつく世界を深く描いている。

807N:2011/04/11(月) 19:10:38
おそらくだが、宮崎駿はかなり
「あやかしの記」の影響を受けているのではないか。
実際に映像化したのは同じ書店でも「魔女の宅急便」の方だったが。

同じスタッフによる風景を使っても、
高畑勲は近代的な感性しかなく
古層的な感性が皆無なので、全然ひかり輝かない。

808タター:2011/04/12(火) 05:33:22
>>805
お言葉に甘えて、長文でも連投でも議論でも考察でもないレスをもうひとつw

「地震酔い」の説明を読んで真っ先に思い出したのが湖での釣りだ。
小さなボートに乗って夜明けから夕暮れまで釣り続けていると
納竿して2時間以上車を走らせた後でも、台所に立つと身体がゆらゆら揺れる。
釣りの場合、可笑しくはあるが不快な感覚ではない。

ちなみにその揺れが、釣りたての魚をつまみに旨いビールを飲んだせいでないことは言い添えておこうw

809N:2011/04/12(火) 22:22:19
たまたまツイッターに2ちゃんネタが紹介されてた。
地震に対する静岡県人の反応
http://blog.livedoor.jp/copipepa/archives/2749581.html

ようするに、揺れが怖いんじゃなく、家屋の倒壊が怖いのであるな。

>>808
いちおう、あくまでいちおう、その'言い添え'を信じておくw

810N:2011/04/27(水) 05:37:48
石牟礼道子の「苦界浄土」を読んでたら
水俣チッソの社長と東電の社長がところどころダブって見えた

811N:2011/04/30(土) 11:22:44
苦「海」浄土

812N:2011/07/28(木) 22:25:41
雑スレで自粛して削ったが、やはり無理してでも書いておこう。
なにかのきっかけになるかもしれない。

○個の時間は、各個の系列として流れる。
 個と、別の個たちの時間は平行してそれぞれに流れており
 このような不思議な空間で偶に交錯する。
 そしてまたそれぞれの個の系列を流れ続ける。

時間は止めることも溜めることもできない。
ただ、平行している個々の時間が、時たま直交し
個の記憶として貯蓄される。

○記憶もまた時間の一種であることには違いない。
 それは常に現在の中で「想起」され、
 想起されるたびに新たに記憶されなおす。
 木下清一郎によれば、記憶はつねに更新されるものだ。
 更新にはそれぞれに基準があり、その基準が変更されれば
 記憶の「意味」もまた変更され、記憶自体も更新される。

そのようにして、生命も物質も常に「現在」であるほかに
存在することはできない。

○子どもは、その中でも特に「現在進行形」だ。
 大人のように“記憶まみれ”ではないから。

そのことは、子どもの「単眼」性にも通じる。
複眼となった時、子どもはイノセンスを脱し、
浄土から、いや、楽園から追放される。
例の「知恵のりんご」というやつだ。

知恵とは複眼のことだ。
単眼や複眼ということばが伝わりにくいのなら
単視点、複合視点と言い換えてもいい。
知恵とは複合視点のことだ。

813N:2011/07/28(木) 22:31:06
それにしても、妙法蓮華教の涅槃も通俗西洋絵画の天国も
なんだか華美でバブリーだな。
表面的な美しかイメージできないんだろう。啓蒙主義ってやつは。

これが地獄になると、とたんに両方とも、
過剰なまでに想像力豊かに、かつ饒舌に語られるわけだが。

814N:2011/07/28(木) 22:38:46
複合視点というのもあまりいいネーミングじゃないな。
要するに、もうひとつ別の視点、ということだ。<知恵

815N:2011/07/30(土) 21:04:14
知恵→楽園追放。

816N:2011/07/30(土) 21:11:31
記憶というものは、必ず「事実」とは異なる。

事実というものは、常に複合的な時間の総体であるのに
記憶は単眼に切り取られた、その記憶者の遠近法の範囲内であるから。

さらに、想起のたびにそれは更新される。
更新される、というのは、その記憶の内容がうつろうということとは限らないが
たとえば、その記憶自体がスポットライトで照明されることによって
周辺部分がトリミングされてしまうというような事が含まれている。
そのような「純粋化」も含めての更新・変遷として記憶(エピソード記憶)はある。

817N:2011/07/30(土) 21:13:37
人格の多重性は、記憶の多重性と繋がっている。

818N:2011/09/16(金) 19:58:28
俺は自分が陥った二度目の鬱を、
自分個人の問題から来ると考えるより
この国の現在がもたらすものだと考えることにした。

そういう転換を図れるんじゃないかとある日ふと思った。
未だ強く主張できるほどの成功には至ってないが、
それもある程度は通る考えだと思えるような、そういう読書をせよと
心身が欲している。

誰かのせいではなく何かのせい、にすることは赦されるべきだ。
他に逃げ道がない人間には。

819N:2011/09/16(金) 20:34:10
そもそも、感情というのは、共同性との関係に起源がある、という見方も可能だ。
泣きも笑いも怒りも絶望も、そもそも共同体に向けられた心の発動だという見方。
つまり、心理学ではなく社会学の問題としての感情。

振り返ってみれば震災以後、
もっぱら「共同性」「共同体」(このふたつは違う)についての本を
中心的に読むようになっていることに最近気づいた。
震災の「記憶からの復旧」がマスメディアを主体に進んでいけばいくほど
どこかで、絶望が一瞬、この国の基調になった時の、
ある意味の「居心地の良さ」が減衰していく。極めて個人的な感じ方だが
絶望してるは俺ひとりじゃない、という雰囲気が、一瞬鬱を解消した。
資本主義に塗れたマスメディアに突如大量に登場した
ありふれた名も無きよるべない大衆の姿は、孤立した自分にとって
ひどく救いだったのは確かだ。彼らは、人を倫理的に指弾したり、
賢しらげにご高説をぶったり、才能をひけらかしたりしていなかった。
ただ、ひたすら自分の生活に集中してた。他人に構う余裕などもっていなかった。
再び、テレビが毎日同じような顔ぶれの「有名人」ばかりの世界に戻ってしまったことと
鬱の復活は関係があるように思えた。  

このレスにまとまりや落ちや積極的な主張と呼べるようなモノはないのだが
とにかく、噴き出しを見て、何か書かねばと書いている。
本当はもっと色んなことを整理できてから、書きたかったが、
おそらくは整理などできず、いつもの如く自分の中で完結し、
そのまま堰止め湖となってしまう予感に、破れ目を、堪った水の圧迫を穿つ小穴を、と。

820N:2011/09/16(金) 20:40:15
う〜、だめだな、どこかで俺自身が圧迫者に転化していきそうな。。

821N:2011/09/25(日) 20:59:41
人間というのは、自然性の中で誕生し、不自然に育ち、自然性として死ぬ。
自死は、自然性として死なず、不自然性のまま途切れるということなのかもしれない。
自然性としての自己生の帰結を知ることなく。

この考え方になにがしかの説得性があるとは、あまり思っちゃないが、
まあ、書いておく。

822N:2011/09/25(日) 21:24:05
3.11以後、ずっと考えているのは、「共同体」「共同性」についてだ。
被災した地域は、特に直接的な共同体性の強い地域、
つまり都市ではなかったことで、よりはっきり見えたものがある。

惣村的な直接共同体が、今も地域には深く根ざして存在し続けていること。
そういった第一次的共同体から見上げれば、
国家というのは共同体ではなく、メタ共同性であり、
つまるところ国家は直接的共同体ではありえないということ。
これを基本中の基本として共時的にも通時的にも眺め直してみるということ。

それとは別に、一次的な共同体、と、家族という最小の共同体
(子どもという「3人目」がいることで家族は共同体となる)との関係はどうなのか。
果たしてそれも「メタ」なのか。あるいはそこはメタでは解けない別の何かが働いているのか。

考えるべきことはたくさん、たくさんある。
少なくとも「自分の頭」で考えようとするならば。

823N (あるイメージ):2011/09/29(木) 20:03:53
我々の生を、例えば水中に漂っているとイメージしてみる。

不安が硬い壁のようになり、前方(未)来が塞がれると
人は壁に頭を打ち付けながら下向きに逆立する。

上下が正立していれば、入ってこない水が
どんどん鼻の穴から入り込んでくる。
実態は、上下が逆さになっただけなのに
まるで強い濁流に呑み込まれたような呼吸の困難さを覚える。

失神してしまえば、
沈んでいって水底にぶつかり、そこに横たわることになる。
身動きならなくなるが、代わりに、横向きの呼吸が現れる。

水底から見上げれば浮遊体は、必ず自分より上方にある。
自分は最下位の存在となるが、代わりに下からしか見えない視界 を得る。

上下逆さになって呼吸が苦しくなった時
わざわざ自分で自分の首を絞める必要はない。
自然に失神し、やがては水底に沈んで朽ち果てる自然の布置が訪れる。

浮遊しているものたちの知らない視座を、最後に得て。



(いろいろ考えている間に形成されていったイメージ)

あるいは底で静かに横たわっていれば(もがくのも自由だ)
知らない水流が、海底の砂をわずかに動かし、ぷかりと体は浮くかもしれない。

(敢えて、つけたすイメージ)

824N:2011/09/29(木) 20:08:12
この比喩的イメージ を書き込んでいるうちに
もうひとつの事が気になった。
水圧、だ。

海の表面近くと、海底近くでの水圧の違い。

おお、魚たちよ。深海魚たちよ。
そして地底で暮らす蟻たちよ。

もっとお前たちのことが知りたい。
俺はお前たちから学びたくなっている。

825N:2011/10/08(土) 06:29:59
「お利口ばっかりでも,たわけばっかりでもダメよね!」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jes2/NL/NL43_web.pdf
のP22〜23

常識や空気から外れた「たわけ」は
結果として母集団にとって有益だそうな。<蟻
「怠け者」も「働かないことそのものがコロニー
の存続にとって意味を持っている可能性」<カドフシアリ

わだばタワケになる

826N:2011/10/08(土) 06:45:07
怠け者にはもうなってるし

なんにせよ、アリとキリギリスのイソップ寓話は
ウソだな。ニーチェ流にいえば奴隷道徳だ。
“武士道”の異端「葉隠」も同じ。

827N:2011/10/10(月) 23:48:04
自己価値観を、共同体的なものに依って立脚させるのは
ひとつのポピュラーな在り方ではあるが、
俺は、生命論的な流れの中に、自己を位置づけるという
在り方も、もっとあっていい、と思う。

我々の身体には、数十億〜数億年の生命史が
宿っている。

828N:2011/10/24(月) 05:57:16
自殺衝動→殺人衝動は
生命に対する価値観の低下
で通底してる。

どこかが、あるいは何かが
硬直しているように思える。

どこか、あるいは何かを
具体的にさししめすほどの力量は
まだ持ち合わせていないが、
それが子どもに向かう場合は
明らかに、共同体からの疎外感が根底にあるように思える。
(宅間や宮崎。特に宅間)

829:2011/10/24(月) 05:59:05
※但し、殺人衝動→自殺衝動という連関は
必ずしも成り立たない。
生きるための殺害という動物の宿命が
もともとあるから。

830:2011/10/24(月) 06:17:58
「外部」から見ると、

子どもというのは
共同体への最も低い入り口
に見える。

子どもは親から共同体への移行を
始めたばかり、あるいはこれから始める初心者だから、
そう見える。

したがって、もっとも低い共同体へのハードルのように
外部者からは見える。
そのもっとも低い入り口(に見える)者に拒絶されると、
入り口を閉ざされたようシャッター感に駆られ、
絶望という硬直が起きる。
それが怒りに変わると、殺人衝動が発生するのではないか。

831:2011/10/24(月) 06:33:16
もちろんこれ(>830)は
特殊例(念頭にあるのは宅間)から
jじぶんなりにロジックだけを抽象化して
取りだしてみただけなので
まだまだ見落としや不足も多いだろうが、
こういう自分の頭で考えた基本線をもっていれば
様々なことを考えたり、他人の考察を聞く時にも
借り物や洗脳ではない判断レベルが
設定できるのではないだろうか。

大事なことは、他人の(むろん俺も含む)意見ではなく
直接事象なり情報(そこにある意図を見抜くことも必要だが)
を、「まず」自分で抽象化してみることだろう。

ただし情報には「誘導」を狙っているものが多い。
特に、語られていることではなく
語られなかったことに気をつける必要がある。

宅間が裁判長によって家族感情を口実に
口封じされたことは、罪深い。

832:2011/10/24(月) 06:45:04
なぜ、抽象化にこだわるのか。

情報に直接反応していると
自分で考えたり感じたりしているつもりでも
いつのまにか誘導どうりに考えさせられたり
感じさせられたりしている場合が多いからだ。

特に十代のころの自分を顧みてそう思う。

833:2011/10/24(月) 06:49:19
鬱に関しても、神経ホルモンなどの内因ばかりを
言うのは片手オチで
半分くらいは、情報群から発せられるメッセージに
原因があるのではないか、と最近考えている。

そうでなければ、ある国ではある時代に鬱が増え、
ある国では逆がある、ということの説明がつかない

834:2011/10/24(月) 06:51:55
むろんそれは「半分くらい」で
実際には、金があったり、フィジカルに健康が回復すれば
離脱する鬱も多いと思うが。

835:2011/10/24(月) 06:56:40
>>834 を抽象化すると「将来不安」
もっと抽象化すれば「不安」→「未来への切断感覚」
→「過去のみへの巡回」ということになる。


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