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【廃道・隧道】山さ行がねが応援スレ【冒険・探索】

1とはずがたり@元林道部会長:2007/09/30(日) 23:18:53

山さ行がねが
http://yamaiga.com/index2.html
ヨッキれんを応援しようヽ(`Д´)ノ
皆の実行したアホな冒険譚も求む。

380とはずがたり:2018/02/08(木) 21:23:01

すげえw

https://twitter.com/hydromi11/status/961370741236105216
オーリーエンタルのカレーェのMineko?
@hydromi11
フォローする @hydromi11をフォローします
その他
建設軌道って工事終了後に基本撤去されますが、保守が困難な場所にはそのまま残しておく場合もありますね。

富山はそれが多い。。。

381とはずがたり:2018/02/17(土) 22:26:03
https://twitter.com/memoru_troopers/status/964781337029656576
険酷隧?
@memoru_troopers
フォローする @memoru_troopersをフォローします
その他
富山県旧大山町に、明治時代に施工された隧道が残っている。
地元の同業者では、「大山の人車軌道隧道」と呼んでいる。
「ほぼ当時の状態」を保っており、とても貴重な隧道である。
行政の調査候補になった事もあるが、残念ながら現地調査に至らず。
#隧道 #人車軌道

382とはずがたり:2018/04/05(木) 18:53:16
40歳「廃道」に鉱脈を見出した男の快活な人生
「嫌」を極力排除し自分だけの道を突き進む
https://toyokeizai.net/articles/-/213949
古田 雄介 : フリーランスライター 2018年04月05日

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第30回。
<藪を突き抜けた勢いで、うっかりあと1歩踏み出していたら終わりだった。(略)なぜなら、右に見える路面には、それを支える地面がまるで存在しなかったから。宙ぶらりんなのだ。足を踏み込んだら突然板チョコのようにポッキリ割れて、あと100m残っている海岸までの落差を身に刻みつけながら、とても呆気なく人生の締め括りを迎えていたかも知れないのだ。……こういうことがあるから廃道は恐い。(東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道レポートより)>

使われなくなった道を踏破するオブローダー
使われなくなった道のことを廃道(obsolete road)という。その廃道を好んで探索する人はオブローダー(ob-roader)と呼ばれる。今回インタビューした平沼義之さん(40歳)は日本のオブローダーの第一人者として知られる人物だ。ハンドルネームは「ヨッキれん」。2000年から続く廃道探索レポートサイト「山さ行がねが」の読者にはこちらの名前のほうが通りはいいかもしれない。2018年1月に累計4000万アクセスを突破した老舗サイトだ。

図書館などで見つかる古地図などの情報を頼りに廃道や廃トンネル(廃隧道)を探し、トレッキングに近い装備で山や谷に分け入り、使われなくなった道を踏破する。現場の空気感が伝わる綿密なテキストと写真で読者に探索のスリルを味わわせる。このスタイルは20年近く変わらない。

およそ10年前、平沼さんは廃道探索のために秋田から上京してきた。その頃に別媒体でインタビューした時、「人生を廃道歩きにかけている」と話していた。そして現在。当時と同じアパートを拠点に廃道探索一本で生計を立てている。ニコニコと楽しそうに廃道巡りを語る様子はあの頃と同じで、やつれも屈託もない。

潤沢な資金があるのか、はたまた能天気なのか。違う。平沼さんは「ニッチな趣味で食べていく」という簡単にはいかない道で充足するための術を意識的に身に付けている。だから上京した頃のままなんだと、10年ぶり2度目のインタビューをさせてもらって気がついた。この術は、もしかしたらあらゆる職業に役立つものかもしれない。

平沼さんは1977年に千葉県松戸市に生まれたが、人生の記憶はまもなくして移った横浜市から始まる。サラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれた一人っ子。旅好きな両親の影響を強く受けて育った。

「両親は高級ホテルより民宿が好きで、土地ごとの自然に触れるような素朴な旅を好んでいました。観光というより、日常とは違う景色を楽しむという感じですね。間違いなく私の趣味のきっかけだったと思います」

小学生の頃から自転車が大好きで、暇があれば近所の鶴見川の河川敷を走ってばかりいた。親に怒られない時間までに戻れる距離を計算しながら、できるかぎり遠く、サイクリングロードを上流のほうへこぎまくる。なぜか海に向かう下流方面には一度も行かなかった。その頃から山へのあこがれがあったのかもしれない。が、嗜好が完全に開花したのは小学6年の途中で秋田県に引っ越してからだ。

秋田県での学校生活に楽しい思い出はない。言葉や雰囲気が異質な平沼さんはクラスで浮き、中学生の頃になると陰湿な嫌がらせを日常的に受けるようになった。「いちばんつらかった」と振り返るこの時期は、横浜ではひょうきんだった少年を引っ込み思案で根暗、人と付き合うのを怖がる性格に変えた。

「逃げた先が、山だったんだと思います」
心を解放する場所は学校ではなく山だった。秋田に引っ越したばかりの頃にできた2人の友達と自転車で近所の山々の林道を回る。「山さ行がねが(山に行こうぜ)」と集まり、季節のいいときは2週間に1度くらいのペースで荒れた道を探索した。

「林道は下枝を切ったり幹を伐採したりするときにしか使われないものが多くて、5年や10年放置されていることがよくあります。そういうあまり管理されていない道をマウンテンバイクで突破するっていうヒロイックな遊びにとりつかれたんですよね。俺たち最強のトリオだなって(笑)」

自分たちだけの道を突き進む楽しさは学校生活のストレスを癒やしてくれた。高校は地元で一番の進学校に入ったが、「勉強は好きだけど学校は嫌い」という状態が続き、出席日数不足で留年。卒業したあとはストレートで地元の秋田大学に進学したが、今度は学業に目的が感じられなくなり1年で中退してしまう。

383とはずがたり:2018/04/05(木) 18:53:26

「私は苦労するのが嫌で、逃げてばかりいました。学校でいじめられるのは嫌だ。大学に入ったらもう勉強も嫌だって。そうして逃げた先が、山だったんだと思います」

将来のことなんて考えたくないし、やりたい仕事も思い浮かばない。しかし、実家で暮らしながらも親の収入に頼る年齢でもないので、学生時代から続けているコンビニエンスストアのバイトだけは続けていた。後々フランチャイズ店の社員となり店長となったが、この仕事を一生続けていくビジョンは持てなかった。立場が変わるたびに激務になっていったが、学校に比べたら耐えられたから続けていたという程度のことだ。そして、たまったストレスをはき出すようにたまに山に行く生活。生産的なものは何もなかった。ホームページを立ち上げるまでは。

大学を中退してしばらく経った頃、家電量販店にはWindows 98SEパソコンが店頭に並び、インターネットでは個人サイトがはやっていた。以前からゲーム機でインターネットを見ていた平沼さんは、ある日たまたま旧道をテーマにした個人サイトを見つけて衝撃を受ける。

「生きていくための役にはまったく立たないような情報を発信している人がいるということにびっくりしました。インターネットって何て自由なんだろうって。ひょっとしたら私がやっているようなこと、自転車で荒れた林道を走破することも情報発信しようと思えばできるんだと気づけたのは大きかったですね」

くすぶっていたアウトプット欲が頭をもたげる
そこでくすぶっていたアウトプット欲が頭をもたげる。無料のホームページスペースにアカウントを作って、仲間たちとした林道探索を記録するサイトを立ち上げた。1日に多くて5人も訪れず、内容は「いたって自己満足」。しかし、サイト運営を通してHTMLの入力方法をマスターし、パソコンやデジカメもそろえることができた。その下地が2000年から現在につながる廃道探索サイト「山さ行がねが」を生む。

山好きの平沼さんが登山やワンダーフォーゲルの方向に進まなかったのは、それ以上に道が好きだったからだ。子どもの頃の家族旅行でも、目的地で自然を楽しむより、そこにクルマで向かう時間がいちばん楽しかったという。走行する道の振動やトンネルの照明、標識のある景色がどんどん向かってくるのが胸を躍らせた。

やがて探索仲間の嗜好が自転車からクルマへと移っていったことで、平沼さんは一人で探索するようになり、加速度的に熱中の度合いを高めていった。すでにメインの対象は林道から廃道に移っており、道の荒れ具合は増している。トンネルだったら途中で崩落していたり腰ほどの高さまで浸水していたりすることもあるし、崖を削って作った道は土砂崩れや落石で通行不能になっているものもある。体力をギリギリまで使ってそこを突破することに浸った。

「廃道には2段階の魅力があります。1つはその道自体の魅力。道として機能していた時期に多くの人に使われて日々変化してきた。そうした道を独り占めして堪能できる。そこに2つ目の魅力である、廃道になったあとの時間経過がプラスされる。道路上に藪があったり橋が崩落していたり。そこを走破する冒険的な楽しさも味わえることがあるんです。ひどい状態の道だけど、かつてはそこに往来があった。そういう重なりが面白いんですよね」

その魅力を本人目線でありのままに伝える記事はじわじわと評判を呼び、2004年頃には「山さ行がねが」は知る人ぞ知るニッチなサイトとしての地位を固めていた。

とはいえ、この道で食べていくという発想はまだなかった。当時はアフィリエイト(ネット広告掲載)収入もなく、暮らしはコンビニエンスストアの給料一本。毎月5万円を親に渡して、残りで十分生活できた。しかし、それも長くは続かない。

突き詰めてみたいという欲が出てきた
大学中退後も両親は寛容だったが、2003年に店長を辞めてフリーターになったときはさすがに実家の空気が張り詰めた。まもなくして地元の出版社から声をかけられ、バイトとしてデータ収集や本の整理をするようになったが、そこも2007年には退職してしまう。そのとき、平沼さんには内に秘めるものがあった。上京だ。

「勤めていた出版社は郷土史に強くて、いつかは廃道の本も出したいという思いがありました。正直ずっとやっていこうという気持ちもあったんですけど、その頃『山さ行がねが』の人気が高まっていて、そちらを突き詰めてみたいという欲が出てきたんですよね」

廃道を極めるなら、歴史的に道が多くて他地域へのアクセスもしやすい東京を拠点にすることは外せない。

384とはずがたり:2018/04/05(木) 18:53:36

この頃になると、廃道で食べていきたい気持ちは多少芽生えてはいたが、まだ現実的な手応えはなかった。2006年秋頃から廃道の同人誌を仲間と作ってネット販売するようになり、毎月数万円の収入になってはいたが、それだけで生活が成り立つイメージはどうにも湧いてこない。それでも上京に踏み切った背景には、コンビニエンスストア時代に貯めた貯金に手をつけていなかったことと、当時はパチスロで月に20万円くらい安定して勝っていたことがある。東京でも同じ調子でやれば何とかなると思った。貯金から200万円下ろし、その200万円が底をついたら実家に戻る。両親とはそう約束を交わして家を出た。

上京。東京の郊外に家賃3万2000円の物件を見つけて、以来現在までの根城としている。もともとおカネを使わない性格なので、家賃に水道光熱費や食費、廃道関連の費用を足して月15万円あれば暮らしていけると算段した。パチスロ生活で余裕で賄える、はずだった。その頃から勝ちにくい台が多くなり、秋田時代のような計算は成り立たず、早速虎の子の200万円を取り崩す生活に突入してしまう。

週1ペースで廃道を巡り、文献を調べながら日に4時間かけてレポートを書き上げる。探索した順番に手を付けるのではなく、興が乗ったものから記事化していくのが信条だ。空いた時間には昔ほどは勝てなくなったスロットを回しに出掛ける。そんな生活を1年近く続けていくうち、預金通帳の残高は80万円ほどになっていた。

そこで底を打ったのは幸運でしかなかったと振り返る。

「アフィリエイト広告を貼るようになって少しずつサイトから収入が得られるようになってきたことと、NHKから取材されたりしてメディアから取材してもらうことがちょくちょく出てきて。書籍のお仕事もいただけるようになったのが大きいですね」

同種のサイトの追随を許さなかったからこそ
スロットでの勝ちに頼れなくなってサイトの人気を収入にする方法を取り入れた時期と、水面下で蓄積していたサイトの評価が表に出てきた時期がうまく重なった。2000年代後半特有の、個性的な個人サイトの書籍化やメディア進出が目立った時代背景も無視できないだろう。廃道は個人サイトという新しいサブカルチャーの泉から汲み上げられた新コンテンツとして扱われた。2000年前半に興った「廃墟ブーム」や、鉄道趣味の1ジャンルとして長く定着している「廃線趣味」とはまったく別の文脈だ。

そこで平沼さんが第一人者とみなされたのは運ではない。7年以上もクオリティの高いレポートをコンスタントにアップし続けて、同種のサイトの追随を許さなかったからだ。大抵のサイトは画期的な切り口であっても1年と更新が続かない。発足時かそれ以上の密度と品質でコンテンツを生産し続けるのは、いつの時代でもほんのひと握りだ。

当初アフィリエイト収入は月に1万円いかない程度だったが、広告の品が売れて報酬が入るタイプだけでなく、広告クリックが直接報酬になるタイプも加えたら数段アップした。その頃アクセス数は1日7000近くに達し、数値の伸びは同人誌の売り上げにもつながった。廃道の魅力を知った新規読者はサイトから同人誌の存在を知って、バックナンバーもまとめ買いしてくれる。1部400円のPDFファイル。在庫リスクは一切ない。

ピーク時は400〜500人の購読者がいて、毎月発行するたびに仲間と割っても十分な収入になった。それに加えて、編集者と書籍の企画を膨らませたり、『廃道ナイト』(東京カルチャーカルチャー/2009年〜)などのイベントを主催したりするなど、積極的にコンテンツを育てていったことも見逃せない。人付き合いが嫌いなのは変わっていないが、廃道の魅力を伝えることに関してはモチベーションがいくらでも湧いてきたという。


『廃道探索 山さ行がねが』(筆者撮影)
2018年現在、サイトのアクセス数は1日9000〜1万程度。2012年頃から安定しており、基本的な生活費はアフィリエイト収入だけで賄えている。同人誌はすでにやめており、イベントも収支的にはプラスマイナスゼロなので計算に入らないが、書籍やDVDの監修・執筆のギャランティは大きな支えだ。撮影機材やGPSを新調したり中古車を購入したりするのは、そうした臨時収入がなければ難しかった。決して裕福ではないというが、完全に廃道だけで食べている状況になっている。そしてそれが10年弱続いている。

好きなことだけやってきました
平沼さんは語る。

「まじめさとか真剣さとかとは真逆な位置で、嫌なことから逃げて好きなことだけやってきました。今食べていけているのも、本当に運がいいというか恵まれているんだと思います」

385とはずがたり:2018/04/05(木) 18:54:07
>>382-385
それが謙遜でないところに生き方の極意がある。

平沼さんは、自分を「甘えていて、嫌なことに立ち向かえない人間」だとわかっているという。権威を伴う人間関係や仕事へのプレッシャー、不安やストレスなどなど……。そうした嫌なことを避けて生きていけるように、意識的に自らを導いているところがある。

人間関係が嫌だから学校を辞めたし、会社組織に属さない生き方を選んだ。同人誌も「おカネを払って読んでくれるプレッシャーと、一生懸命書いても最大500人にしか読んでもらえないこと」と折り合いが付けられなくなってやめた。将来への不安は「あったはず」だが、スロットで思うように勝てなくなってきた頃も押し潰されるような怖さは感じなかったという。それは自らが認めるように根が楽観主義者ということもあるだろうけれど、生き方が変化することが「嫌」ではないのが大きいように感じる。

「変化して当然ですし、変化に対して声を上げて食い止めるような気力もないですしね。そういうアンテナも張っていませんし。だから、たとえばアフィリエイトの仕組みが終了したらすごく悩むと思うんですけど、そのときはそのときで別の稼ぎ方を考えると思います。また同人誌をやるかもしれないし、別の方法かもしれない。今は私のサイトを好きだと言ってくださる読者がたくさんいてくれるので、そんな仲間と知恵を出し合って維持するように頑張ると思います」

変化に対して鷹揚な背景には、自らの価値を間断なく見つめる冷静さがある。自らを甘えた逃げる人間と評するのもそうだし、廃道レポートというコンテンツの評価分析にしてもそうだ。

「廃道探索には前述のような独特の魅力があって、私は今のところはすごく楽しい情報発信ができているという自負があるんですよ。代えが利かない魅力があれば、それをどうおカネに換えるかが変わってもどうにかなる。だから、将来稼げなくなるという心配もしてないです」

この代えが利かない魅力を維持するのは、自らが持つ廃道へのモチベーションしかない。


『国道??酷道!??日本の道路120万キロ大研究』(筆者撮影)
これまで廃道へのモチベーションが減衰したことはない。それは自然にそうなったわけではなく、周辺にまとわりついてくる「嫌」を意図的に取り除いてきたからだ。探索した順番ではなく気が向いた順にレポートを書くのものそうだし、プレッシャーや公開範囲の狭さを伴う同人誌をやめたのもそう。アフィリエイトという、記事に対する直接的な対価ではない手法を基本の収入源にしているのもそうだ。

モチベーションの敵になるようなものは極力排除する
読者の声も過度には追いかけない。「山さ行がねが」や公式ツイッターに届くコメントには目を通すが、それ以上を追うとネガティブな反応に気がめいったり、他の廃道サイトの情報が入って心がザワザワしたりするリスクが高まるから触れないままにしている。とにかくモチベーションの敵になるようなものは極力排除して、ストレスなく廃道に相対するように細心の注意を払っているわけだ。

「モチベーションが維持できなくなったら、何も生み出せなくなってしまいます。山にも行く気力がなくなって、モノも書けなくなる。そうしたら私は本当に食べていくすべがなくなります。私は常々廃道に行き続けて、燃料を補給し続けないといけないわけですよ。自分にも読者にも対価を与え続けないといけない」

この後何年も生きていくためには、将来への不安に目を向けず、今ある気力を全力で守る。矛盾しているようで矛盾していない。この徹底したモチベーションコントロールこそが、10年前と変わらない、平沼さんの屈託のなさの源なんだと思った。

平沼さんは80歳になっても廃道探索を続けたいという。

「廃道に行けなくなったら生活保護一直線ですしね。まともな社会人経験が数年間のコンビニエンスストアくらいしかない人間が、今さら別の道を選ぶことはできないですから(笑)」

386とはずがたり:2018/04/07(土) 20:53:29
r59,(主)富山庄川線はこれか?!
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E137.1.55.624N36.31.32.258/zoom/10/
http://yamaiga.com/road/usidake/main4.html

富山県道59号富山庄川線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%81%9359%E5%8F%B7%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%BA%84%E5%B7%9D%E7%B7%9A
この県道には現在不通区間があり、全線通しての通行は出来ない。かつて存在した富山市山田数納から南砺市利賀村栗当に至るルートは完全に廃道化し、その痕跡を徒歩でたどることすら難しい。利賀村栗当の終点側分岐にいたってはほとんどの地図に記載すらされておらず、常に車両通行止めの上すぐに道路そのものも獣道となり消滅する。またこの通行不能区間であるが、利賀村側に降りてくると何故か重複区間を待たずにこの分岐路で「ここまで」と表示されている。なおこの分岐路には富山の名水のひとつ「脇谷の水」がある。

富山県南砺市利賀村栗当
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92939-2501+%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%8D%97%E7%A0%BA%E5%B8%82%E5%88%A9%E8%B3%80%E6%9D%91%E6%A0%97%E5%BD%93/@36.5345768,137.0025414,14z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5ff82144cf14df8f:0xa8f0a2d04818514b!8m2!3d36.5340222!4d137.0256556

富山市山田数納
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92939-0000+%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%95%B0%E7%B4%8D/@36.5345768,137.0025414,14z/data=!4m5!3m4!1s0x5ff8219e49dd59df:0xd3f28e0f849caedc!8m2!3d36.5235687!4d137.0524916

【険道】富山県道59号(庄川側分岐)登ってみた【廃道】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7311464
草刈りはされるらしい。(地元のおじさんが一人でボランタリーに年1でw)

387とはずがたり:2018/04/08(日) 11:35:57

大千代港整備小史
http://yamaiga.com/road/oochiyo/main11.html#tuika
無駄だなぁ・・>制度として半自動的に進められた災害復旧事業によって、今回私も探索している【途中までの車道】や、【途中までの階段】などが作られたとみられる。

連絡船が460tになって接岸出来る日数は飛躍的に増えたんだろうか?トンネルぶち抜くのも必要だろうが揚物場を460t着岸可能にするのは難しいか。

388とはずがたり:2018/04/12(木) 16:43:52
青ヶ島
https://www.gnavi.co.jp/amex/aogashima/

389とはずがたり:2018/04/16(月) 23:34:53

粟巣野とか千垣とか富山地鉄結構いいかも(;´Д`)はあはあ

粟巣野駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E5%B7%A3%E9%87%8E%E9%A7%85

粟巣野駅(あわすのえき)は、かつて富山県上新川郡大山町(現:富山市)にあった富山地方鉄道立山線の廃駅である。かつては大阪駅から急行立山が乗り入れるなど、粟巣野スキー場への最寄駅として利用されていた[1][2][3]。

沿革
当駅は、当初富山県営鉄道の同線の終着駅として開業し、立山開発の基点として貨客集散の地となっていたが[1]、その後、1955年(昭和30年)7月1日に至って千寿ヶ原駅(現:立山駅)が開業し、ターミナル駅の役目を同駅に譲ることとなった[4]。以後は利用者数が激減し、もっぱら粟巣野スキー場の最寄駅として利用されていたが[1]、立山駅から同スキー場への道路が整備されると共にその役目も終り[1]、1981年(昭和56年)5月22日遂に廃止されるに至った[5]。



千垣駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%9E%A3%E9%A7%85

歴史
1923年(大正12年)4月20日 - 富山県営鉄道の終着駅として開業。
1937年(昭和12年)10月1日 - 粟巣野駅(現在廃駅)まで延伸開業、途中駅となる。
1942年(昭和17年)6月1日 - 千垣駅 - 粟巣野駅間が日本発送電に譲渡される。
1943年(昭和18年)1月1日 - 富山地方鉄道の駅となる。

https://twitter.com/hydromi11/status/985690166663700480
オーリーエンタルのカレーェのMineko
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有峰に鉱山があったのは有名な話(マニアのみ??)亀谷鉱山、笹津尾鉱山などなど。。。当時千垣駅に連結されていた和田発電所建設路と、鉱山搬出路があったと聞いたことがある・・・
この大規模なものは、和田發電所、小見発電所のコンクリート工場なのかな?それとも選鉱所なのかな??

390とはずがたり:2018/04/18(水) 16:50:17

http://www.yomiuri.co.jp/national/20180417-OYT1T50107.html
富士山5合目への県道、積もる土砂なお4m超
2018年04月18日 15時59分
崩れた路肩を復旧する作業員(小山町須走で)
崩れた路肩を復旧する作業員(小山町須走で)

 静岡県は17日、3月に発生した土石流の影響で、土砂で覆われている県道「ふじあざみライン」を報道陣に公開した。

 富士山の須走口5合目に向かう道路で、例年は大型連休前に冬季閉鎖が解除されるが、今年は5月中旬になる見通し。

 ふじあざみラインは片側1車線で、約1万6000立方メートルの土砂が423メートルにわたり道路を覆った。4月6日から復旧工事が始まり、6000〜7000立方メートルの土砂を撤去したが、道路上にはまだ約4メートル以上も土砂が積もる。また、2か所で道路の路肩が崩れ、元に戻す工事も必要だ。県沼津土木事務所は5月16日までの開通を目指している。

 例年、大型連休中にはふじあざみラインを通り、5合目にある人気の散策コース「小富士」などにハイキング客ら数千人が訪れる。このため、須走口の山小屋経営者で作る「須走口山内組合」の渡辺昇組合長は「観光客の安全確保が大前提だが、できるだけ早く復旧してほしい」と影響を心配する。

 地元の小山町も早期開通を願っている。5月16、17の両日には、「静岡デスティネーションキャンペーン」プレキャンペーンの一環で、旅行関係者による富士山周辺の視察ツアーが須走口5合目を訪れる予定となっている。町商工観光課は「町のPRに直結する。間に合ってほしい」としている。

2018年04月18日 15時59分

391とはずがたり:2018/04/27(金) 15:47:31
ど,どこだ!?(;´Д`)はあはあ

https://twitter.com/yokkiren/status/989739615236997120
ヨッキれん/平沼義之
?@yokkiren
フォロー中 @yokkirenさんをフォローしています
その他
うわぁー!

392とはずがたり:2018/05/04(金) 20:00:04
https://twitter.com/kendou774/status/992350946687500288
R774@まとめ屋
@kendou774
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その他
福島r247(片倉末続停車場線)。一見ピストン県道であるが、三森林道経由で通り抜けることができる。しかしながら末端部は2009年より通行止が継続しており、廃道化が進んでいる。この廃道区間(でも現役県道)の中にヘキサが立っているはずだ。雨の中を先へ進む。

393とはずがたり:2018/05/10(木) 10:32:34
2018年02月17日
奈良
和歌山
三重
これはすごい
酷道
マニアもビビる…キングオブ酷道「425号線」で見た日本の「原風景」
https://withnews.jp/article/f0180217001qq000000000000000G00110101qq000016786A?utm_source=yahoo&amp;utm_medium=referral&amp;utm_campaign=link_back&amp;utm_content=related

394とはずがたり:2018/05/13(日) 15:08:21

この辺かな?
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E132.43.18.375N35.17.59.681/zoom/8/

https://twitter.com/kendou774/status/995446054593048576
R774@まとめ屋
@kendou774

島根r162はこの辺りでは一番の険道だけど、危ない区間は短いので、県が否定するほど厳しい険道ではない。

島根県道162号大社立久恵線 険道区間
http://yukebawakarusa.blog88.fc2.com/blog-entry-17.html

県道162号大社立久恵(たいしゃたちくえ)線(以下r162)は島根県出雲市大社町から出雲市乙立町に至る県道である。
また、私の知る限り(多くは知らないが…)では島根県内一の険道にノミネートしたい。


立久恵と云えば一畑電気鉄道立久恵線であるがなかなか野心的な計画だったようだw
木次線よりこっちの方が良いし,もっと云えば国鉄大社線を引き継いで畑電大社線は廃止しても良かったんちゃうか。

一畑電気鉄道立久恵線https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%95%91%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E7%AB%8B%E4%B9%85%E6%81%B5%E7%B7%9Aであるが。

当初は陰陽連絡鉄道を目指して、大社宮島鉄道(つまり出雲大社〔出雲市〕と厳島神社〔廿日市市〕を結ぶという意味を転じて島根県と広島県を結ぶという意味を込めた)という壮大な社名をつけ、出雲 - 三次間91.7kmに鉄道を敷設する計画であった。三次を終点としたのは計画当時すでに芸備鉄道(現・芸備線)が広島から三次まで開通していたためで、それと結ぼうということである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%95%91%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E7%AB%8B%E4%B9%85%E6%81%B5%E7%B7%9A#/media/File:Ichibata_Electric_Railway_Linemap.svg

ところが昭和恐慌の影響と鉄道省による木次線の建設により陰陽連絡鉄道が完成されたことが原因で出雲今市(現:出雲市) - 出雲須佐間18.7kmを開業させたにとどまり、出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず、出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許は失効のやむなきに至った。このため、社名を出雲鉄道に改称した。なお根津は免許失効直前の1937年に社長を退任している。

戦後は出雲平野に鉄道路線を展開している一畑電気鉄道に吸収されるが、社名は「一畑電気鉄道」ながら電化されることはなく、一畑電気鉄道唯一の非電化路線として営業を続けていた。しかし、過疎化やモータリゼーションの進展で経営状況は芳しくなく、1964年(昭和39年)に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨で路盤が流失したことを契機に営業は中止され、そのまま廃線へと追い込まれていった。過疎化やモータリゼーションの進展が原因で復旧する必要がないと判断されるほど経営状態は悪化していたことが伺える。

395とはずがたり:2018/05/21(月) 13:16:50
国道229号線
白糸トンネル旧道
http://www.geocities.jp/tenku_kaihatsu/siraito01.html

396とはずがたり:2018/05/21(月) 14:49:53
白糸Tは此処。やまいがもレポしてくれるだろうか?
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.52.10.552N42.39.16.564/zoom/9/

397とはずがたり:2018/05/25(金) 10:48:32
冒険の共有は山行がにも通じるものがある。最近テレビ出たりしてるよっきだけど,もし迷走し始めたら一ファンとして止めなきゃいけないだろうな。今んとこ大丈夫そうだが。

森山 憲一
2018/05/23
“賛否両論の登山家”栗城史多さんとは何者だったのか
エベレストで死亡した登山家の実像
http://bunshun.jp/articles/-/7474

 登山家の栗城史多さんがエベレストで亡くなった。これを書いている5月22日現在では、死因などについての詳しい情報が入ってきていないので、事故についてはなにもわからない。現時点で言えることは、栗城さんが亡くなったことは間違いないようだということだけ。事故の詳しい状況は、おいおい明らかになっていくと思うので、その時点で、なんらかの論評はできるのだろう。

 栗城さんというのは、なにかと物議を醸してきた登山家だ。世界7大陸最高峰の無酸素単独登頂をめざして活動し、注目され始めたのは、2009年ごろ。6大陸の最高峰に登り、残るエベレストに挑戦を始めたころだ。このころから、彼を取り上げたテレビ番組が数多く放送され、著書はベストセラーになり、現役の登山家としては圧倒的な知名度を獲得していった。一方で、その登山の内容や発言には疑わしいものが目立つとして、激しいバッシングも受けていた。これほど評価の振れ幅が大きい登山家は、栗城さん以外にはちょっと記憶にない。

絶賛から否定まで、さまざまな評価
 評価は、絶賛から罵倒まで、本当にさまざまで、大ざっぱにいえば、一般社会からはおおむね好意的評価を受け、登山を知る人からは逆に否定的に見られていたことが多かったように思う。私は登山雑誌編集者およびライターであるが、肯定・否定いずれからも距離を置き、離れたところから静観してきた立場だ。

 なぜ静観してきたのかというと、わからなかったからである。栗城史多という登山家を、栗城史多という人物を、自分のなかでどう位置づけてよいのか、ずっとわからなかった。栗城さん本人を知る人に聞いても、評価はまさに真っぷたつ。世間的な評価だけでなく、一次証言としての評価もこれほどブレの大きい人は滅多におらず、ただただ、「よくわからない不思議な人」というイメージしか持てなかった。

栗城さんはなぜ難しいルートを選んだのか
 であるが、昨年、私は、自分のブログで、栗城さんに批判的な論調の文章を公開した(森山編集所「栗城史多という不思議」「栗城史多という不思議2」)。栗城さんは、昨年のこの時期にも、エベレストに挑戦しており、フェイスブックなどで随時報告されるその登山のようすを見て、「いくらなんでも、あまりにもむちゃくちゃだ」と、自分の明確な感想として初めて感じたからである。なにがむちゃくちゃだったのか。ひとつは、登山として。もうひとつは、栗城さんの掲げる「冒険の共有」として。

 まず、登山として。栗城さんは昨年、北壁というルートからエベレストに登頂しようとしていた。エベレストは現在、多くの人が登る大衆登山の場となったが、それはノーマルルートと呼ばれる、もっとも簡単な登路から登り、さらに、熟練のプロガイドがついてこその話。近年、最高齢登頂で話題になった三浦雄一郎さんや、日本人最年少登頂者となった南谷真鈴さんも、みなこの手法で登頂している。一方で栗城さんは、はるかに難しい北壁を登路に選び、ノーマルルートから登るほとんどの登山者が利用する酸素ボンベも使わず、しかもたったひとりで登るという。同じエベレストといえど、この両者は難易度において、「雲泥」という言葉では足りないほどの差がある。プロガイドと酸素ボンベ付きのノーマルルートが、普通の大学生でも達成可能な課題である一方、北壁の無酸素単独登頂は、世界中の強力登山家が腕を競ってきた長いエベレスト登山の歴史のなかで、まだだれも成し遂げていないのだ。

「そんな困難な課題だからこそ挑戦のしがいがあるのだ」という意見もあるかと思う。登山はもともと、未知未踏を切り拓くものであって、冒険を否定しては成り立たないものだ。私自身がそんな冒険の魅力に惹かれて登山を始めた人間であるから、人の挑戦は否定したくない。だが、そんな私から見ても、栗城さんの実力と、掲げる目標の乖離は、度を超しすぎていると感じた。栗城さんの登山の実力は、やってきたことを客観的に見れば、多くのノーマルルート登山者と同程度と思われる。その実力で、北壁を無酸素単独で登ろうとするのは、どう考えても自殺行為だ。「登山としてむちゃくちゃだ」と感じたのは、こういうことなのである。ここはとても重要なところなので、本当に理解していただきたいと思う。

398とはずがたり:2018/05/25(金) 10:49:28
栗城さんの価値は「冒険の共有」にこそあった
 もうひとつは「冒険の共有」として。栗城さんは、たんに山頂に立つだけでなく、その過程を中継などで見せることによって、見ている側にも冒険を追体験してもらうことに重きをおいていた。このことについて、「登山のショー化」などとして批判する人も多かったが、私個人はここに否定的感情は持っていない。むしろ、これまでの登山家ができなかったことを実現していると肯定的にとらえていたくらいだ。実際、エベレスト挑戦初期(2009年〜2012年)は、この試みは成功していたと思う。いわゆる登山記録としては、栗城さんの成し遂げてきたことは特に意味のあるものではないが、栗城史多という登山家に価値があるとすれば、ここにこそあったと思うのだ。

誰かが「暴走」を止めなければいけなかった
 ところが、2015年ごろから、この部分も中途半端になってきて、昨年2017年にいたっては、お粗末にすぎた。公開される映像はもともとわずかなうえに、本格的な登山活動に入ってからのものはほとんどなし。GPS発信器を携帯して、現在地をネット上でリアルタイムに表示するということも行なっていたが、発信が切れ切れのため、ときたま思い出したように表示されるだけで、ほとんど追体験ができない。フェイスブックなどでの情報発信も途切れ途切れで、ついにはそれもぱったり途絶え、どこでなにをしているのかがわからなくなった。発信が再開されたら、なんと北壁があるチベット側から、ネパール側に移動してきていて、西稜にルートを変えるという。聞いたことのないような行き当たりばったり。そして西稜への再トライも、ごく低い標高で中止となって終わった。

 つまり、登山としても、冒険共有事業としても、やっていることがあまりにも支離滅裂で、アンコントロール状態にしか見えなかったのだ。登山に限らず、アンコントロールというのはもっとも危険な状態だ。どんなに難しく思える挑戦でも、本人が情熱と確信をもって取り組んでいるかぎり、他人がそれを止める権利はないし、情熱と確信があるかぎり、望みはゼロではない。しかしアンコントロールは違う。暴走をだれかが止めなければいけない。

 登山雑誌はそれまで、栗城さんについてはほぼ黙殺状態だった。そのことについて、当事者として引っかかりをずっと覚えていた私は、それを解消するためにもブログを書いた。家族や近しい人をのぞけば、暴走を止めるべき筆頭候補は登山界なのだろうし。すると、ブログを読んだ栗城さん本人から連絡があった。「森山さんは僕のことを誤解しています」と。栗城さんは、10年くらい前に一度会ったことがあるのだが、私は何を話したのか記憶がなく、栗城さんは私に会ったことを忘れていた。おたがいほとんど知らない間柄なので、それは誤解もあるかもしれない。ならば、詳しい話を聞かせてほしいと思い、栗城さんに会いに行った。

399とはずがたり:2018/05/25(金) 10:49:35
>>397-399
実際に会った栗城さん本人は……
 実際に会う栗城さん本人は、にこやかで腰が低く、批判をしたライターに対しても、普通に接してくれた。だが、話に聞いていたほどのストレートな明るさはなく、どこか陰のある感じが気になった。そして、話は最初から最後まで噛み合うことはなかった。北壁は難しすぎるという私の指摘について、栗城さんは「僕は登れると思っている」と答える。その根拠を聞くと、自分は血中酸素飽和度が人より高いという、あまり本質的でない理由を繰り返すだけだった。会話は終始そんな調子で、私は栗城さんに抱いていた謎が解けることはなく、栗城さんは栗城さんで、私の言うことに理解を示してくれるようなこともなく、おたがい収穫はなしに終わった。

 そんなかかわりを持ったこともあり、その後もときおり、栗城さんのフェイスブックをチェックしていた。栗城さんの活動から受けるアンコントロールな印象は、今年2018年のトライでも変わらず、それどころかさらにエスカレートしていた。情報発信は昨年以上に少なく、その一方で、目標ルートは、北壁より難しいとされる、エベレスト最難関の南西壁にまでグレードアップしていた。南西壁という言葉が出てきたときは、いよいよ混迷は極まったと感じた。

どこで歯車が狂ってしまったのだろうか
 昔の栗城さんは、こんなことはなかった。登山ルートも、ここ数年ほど、でたらめに困難なところを選ぶことはなく、冒険の共有についても、意欲的に、主体的に行なっているように見えた。テレビで放映される派手なパフォーマンスには、好き嫌いはあっただろうが、だれかの心を揺さぶるものは確実にあったはずだ。私は心は揺さぶられなかったクチだが、その行為に一定の価値は認めていたし、なにより、意欲をもってやっている以上、部外者が口を差し挟むことではないと思っていた。

 あるときから、栗城さんのなかで、どこか歯車が狂ってきていたのだと思う。最悪の結果になり、とにかく残念――という言葉もしっくりこない。残念というのは、近しい人であったりファンであったり、なんらかの思いを寄せていた人に使うべき言葉であって、2回しか会ったことがない人に対して、軽々しく口にするのは、かえって不誠実な気がする。現段階では、なんともいえず、虚しい、空虚な感情しか抱けない結果である。

400とはずがたり:2018/05/26(土) 21:41:47
https://twitter.com/kendou774/status/1000345770363502592
R774@まとめ屋
@kendou774

讃岐山脈の県道群は面白い。
本日のおしながき
坪尻駅
徳島r268
香川・徳島r4 謎の区間を調査
香川・徳島r7
香川r153
香川・徳島r106
徳島r252 謎の区間を調査
画像は坪尻駅メインストリート

4:59 - 2018年5月26日

https://twitter.com/kendou774/status/1000353022260592640
R774@まとめ屋
@kendou774

何気に坪尻駅のWikiを見ていたら『建設に際して、敷地を確保するため水を流すトンネルを掘削して川の流路を変えた上で川底を埋め立て、駅が設置された』とあるではないか。確かに地理院地図には疎水トンネル(?)が記載されている。水を流すためのトンネルを見たくなり、坪尻駅へと向かった。

5:28 - 2018年5月26日

401とはずがたり:2018/05/30(水) 20:04:27
登山スレってないよな。。

商業登山の闇、エベレスト登頂という「賞杯」に懸けるリスク
http://news.livedoor.com/article/detail/14756079/
2018年5月23日 14時34分 AFPBB News

【AFP=時事】エベレスト(Mount Everest)登頂は登山家にとって究極の「賞杯」だ。だが増加する経験の浅い登山家による世界最高峰への挑戦は、巨大なリスクを冒すものとなっている。

 今季の登山シーズンは、インドの航空機パイロット、米オハイオ出身の建築業者、インターネットメディア会社の元営業幹部らがエベレストのベースキャンプに待機し、8848メートルの世界最高峰を制覇する機会を狙っている。

 彼らが山頂までつかんで上るロープは同じであり、凍傷や雪崩、極度の疲労に直面する危険度も同じだ。だが、その特権のために支払う金額には大きな違いがある。

 エベレスト登山ツアー料金の最高価格は7万ドル(約770万円)前後で、こうしたツアーでは小チームを組み、顧客に登山能力の証明を義務付けている。

 一方、エベレスト登頂切符の料金を2万ドル(約220万円)にまで切り下げた安売りの登山会社は、経験のない登山者らさえ受け入れており、これに対し批判と警戒の声が上がっている。

 より安いツアー料金の登場によって、世界最高峰を制覇するという生涯の夢を試みる機会がこれまでよりも多くの人に開かれることになった。だが、無事に帰れない人の数も増えるだろうという厳しい予想もある。

■混雑する山腹

 1980年代には、ネパール政府はエベレストの登山ルート1本につき1チームだけに登山許可を与えていた。そのため各国の代表チームや、大手スポンサー付きの経験豊かな一握りの登山家しか足場を築けなかった。だがこの規制が1990年代に廃止されて以来、もうかるこの産業の分け前を求めて、登山会社が山腹に群がるようになった。

 今年、ネパール南側からは、料金を払った346人の登山者が挑戦する。2017年に許可が下りた史上最多の373人よりわずかに少ない。チベット側からの登山は180人が予定しており、当たり年となりそうだ。一方、昨年は登山者のうち、6人が死亡している。

 ニュージーランドを拠点とする旅行会社アドベンチャー・コンサルタント(Adventure Consultants)のオーナーで、エベレストの登山ガイド歴27年のギー・コッター(Guy Cotter)氏は、新たな登山者の多くは経験不足だと警告する。

「今や人々はインターネットで登山旅行を最安値で購入できる。だが一部の業者は、経験に関する基準を持っていない。(そうした業者の顧客である)彼らは登山家ではない。エベレストに登ったという勲章が欲しいだけだ。賞杯が欲しいだけなのだ」(コッター氏)

402とはずがたり:2018/05/30(水) 20:04:51
>>401
■「登った」と「登山家だ」は違う

 商業登山の幕開け以来、エベレストでは料金を払って登山をする人々をめぐる懸念に悩まされている。

 多くの人が転換点だったと語る1996年には、エベレスト山頂から下山中に8人が死亡した。その中には極度の高所での経験があまりない人もいた。その年に登山ガイドを務めたロブ・ホール(Rob Hall)氏は「十分な決意があれば、どんな愚か者でもこの山は登れる。だが登山の成功とは、生きて下山することなのだ」と語ったと伝えられている。

 だが、この96年のシーズン中に共に死亡したホール氏とガイドとして彼のライバルだったスコット・フィッシャー(Scott Fischer)氏が、エベレスト登頂を目指す顧客の投資を重視しすぎたとの批判の声もある。

 エベレストで長年営業している多くの登山業者は、登山者と業者の経験不足は死亡事故の増加につながると警告する。

 1994年からエベレスト登山を手掛けているツアー会社、ヒマラヤン・エクスペリエンス(Himalayan Experience)のオーナーのラッセル・ブライス(Russell Brice)氏は「業者が熟練するまで、エベレストでの死亡事故は増えると予想している」と語り、一部の登山者の姿勢も非難した。「登頂熱は本当の病だ。皆ただ先へ進む。感覚がまひし『たかがつま先だ』となってしまう」と述べて同氏は凍傷で手指を失う危険性にも言及した。

 今シーズン、初の最高峰登頂を目指すインド人パイロットのサンディープ・マンスカニ(Sandeep Mansukhani)氏が選んだ登山会社は、ネパールを拠点とするアジアン・トレッキング(Asian Trekking)で料金は約3万ドル(約330万円)だ。

 マンスカニ氏は「始めたばかりの人、初めて試みようとする人にとっては、よし、やってみようか、だ。誰かがやらなきゃならないし、誰にでもチャンスは与えられるべきだ」と語る。

 だが、昨年、払った料金2万ドル(約220万円)を諦めて途中で引き返すことを拒否した登山者とガイドを救助したエベレスト・ガイド、アン・ツェリン・ラマ(Ang Tshering Lama)氏は、登山者のエゴを非難する。「人は『私は登った』と言う。だが『私は登山家だ』とは言えない」とラマ氏。「この山を登るには、登山家でなければならないのだ」
【翻訳編集】AFPBB News

405とはずがたり:2018/06/19(火) 23:02:42
https://twitter.com/kendou774/status/1005563728597696517
R774@まとめ屋
?
奈良r228分岐(とは註:R425出合橋https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.4.15.188N34.5.14.514/zoom/8/の様だ。)。コーナーポストが1個だけ置かれている。これは何を意味しているのか?

奈良r228を1.5kmほど走ると東ノ川小中学校が現れる。荒らされて酷い有様だ。コンクリート作りのため、朽ち果てて倒壊することもできず、今後もこの醜体を晒して続けていく。そう考えると、朽ち果てて倒壊する建物は幸せなのかもしれない。

奈良r228沿いにある唯一の集落であった宮ノ平集落。地図に残る廃集落だが、東の川簡易郵便局があったことで知名度は高い。かつてはそれなりの規模の集落だったが、住人はいなくなり、簡易郵便局も2005年に廃止されてしまった。今では、この辺り一帯が無人地帯になってしまった。

奈良r228は嫌になるほど落石が多かったが、道路自身はしっかりしていた。周囲に真新しい機器が設置してあったりするので、林業やダム管理の方に利用されているようだ。落石除去に疲れ果てた頃、赤い吊橋が見えてきた(とは註:この吊り橋https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.5.1.723N34.7.38.125/zoom/10/のようだ)。

やっぱりか。。。路盤が完全に流されてしまっている(とは註:先程の吊り橋の先から此所https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.5.12.022N34.7.47.393/zoom/10/の手前の間らしい)。奈良r228が崩れていることは他の方の情報で知っていた。行けないと分かっていても、自分の目で確かめるまでは、『もしかすると行けるんじゃないか?』と思ってしまう。

奈良r228の崩壊地点なら薬師堂方向を眺める(とは註:以下で見るように吊り橋迄が県道であって此処が吊り橋と木組谷の間なら結果的に県道では無い筈である)。そこには、土砂に覆い尽くされた荒涼とした景色が広がっていた。上流方向の橋も消えてしまっていた。ほんと、自然の前では人工物なんて全くの無力だ。もう薬師堂に辿り着くことはできないのか?

この奈良r228だけど、県道を示すものは何ひとつない。本当に県道なのか?奈良県道路管理課に聞いてみた。
A.県道指定、供用されています。道路台帳に記載があります。

そしてもう一つの大きな問題。奈良r228の末端はどこか?ということだ。地理院地図は薬師堂まで県道色になっているが、これは誤りだろう(とは註:何故そう思えたのかは不明)。県道指定は、吊橋付近までのようだ。しかも、OSMでは吊橋まで県道になっている。果たして、この吊橋は県道なのか?

奈良県土木部の話では、この吊橋までは道路台帳があるとのことだ。吊橋の名前は大杖橋という。でも、正直信じられなかった。本当にこんな吊橋が県道なのか?そんな疑問を解決してくれる資料(リンク参照)があった。そして、それは確信へと変わった。http://www.pref.nara.jp/secure/39173/taisyoukyouryou3.pdf

奈良r228末端の謎にいよいよ終止符を打つ時がきた。風もないのに揺れる恐怖のグレーチング吊橋。この吊橋は奈良県道228号(東川河合線)であった。周辺は全くの無人地帯で、しかも橋を渡った先には何もない。それでもここには県道が通る。

406とはずがたり:2018/06/19(火) 23:02:58
>>405-406

https://twitter.com/harunonichinich/status/1008668008422649856
ハルニチ
@harunonichinich
6月18日

吉野土木事務所の管内図(ちょっと古いんですが…)では、県道は吊り橋を渡るようです。(とは註:吊り橋を渡って今度は対岸をくねってこの辺https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.4.23.730N34.7.5.307/zoom/9/(★)から谷を渡ってこの辺の林道に通じるhttps://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.3.19.580N34.8.22.118/zoom/9/様だ。★部分へは対岸から直接渡れば無駄に湖岸遠回りしなくて済んだのにねえ。。で,計画ではその林道は使わずこの辺の尾根伝いhttps://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.1.22.563N34.7.44.676/zoom/9/に山を降り,現道の随分起点近くに繋がる模様。現道の終点からは何と大台ヶ原方面へ延伸の野心的プランだ。アホらしいが本気なんだろう・・。)

最後にwiki。ヘキサもない盲腸県道だが将来的にはr228迄繋がるってことのようだ。r228側に開通区間が無いので分断県道的な扱いすらされてないようだ。

奈良県道228号東川河合線
https://ja.wikipedia.org/wiki/奈良県道228号東川河合線
概要
出合橋で国道425号から分岐し、東ノ川地区を大台ヶ原山麓へ北進する。終点は上北山村中心部の国道169号河合交差点(とは註:多分此処https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.0.15.502N34.7.54.389/zoom/9/だ。)だが、荒谷および荒谷峠付近は車両通行不能区間となっている。

奈良県道226号大台河合線
https://ja.wikipedia.org/wiki/奈良県道226号大台河合線
概要
大台ヶ原山から国道169号へ下る道路であるが、実際には起点から小処温泉までは徒歩ですら辿ることが困難な、分断県道である。このため、小処温泉と上北山村中心部を結ぶアクセス道路として機能している。2007年(平成19年)1月30日に同村西原の国道169号で大規模な土砂崩れが発生し、通行止めになった際、迂回路として利用された。

奈良県道228号 東川河合線
http://kendougt.web.fc2.com/Nara-228.html
走行日 2003,6,29

県道 東川河合線(上北山村)
http://geocities.jp/nocty_bypass/douro/7_kansai/r228.html
[ 2008/12 撮影 ]

407とはずがたり:2018/06/19(火) 23:08:43
>>406
>2007年(平成19年)1月30日に同村西原の国道169号で大規模な土砂崩れが発生し、通行止めになった際、迂回路として利用された。
どんな経路やろ??

ここしか見付からないけどこんな所迂回路にしたのか!?
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.1.28.478N34.11.37.557/zoom/9/

408とはずがたり:2018/06/19(火) 23:10:44
>>407
これか。

■県道228号線に続いて行ってきました。
広域基幹林道 サンギリ線
http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-34.html?sp

林道サンギリ線は
国道425号線と国道169号線をショートカットする山岳舗装林道です。

落石は当然ありますが、全線舗装路で路面が良いので普通車での通行も問題ありません。

409とはずがたり:2018/06/28(木) 22:16:38
千代の近くの三遠南信道の建設中の橋が映ってる♪

【飯田線】特急より有能?超快適な幻の臨時快速をご存知ですか・・・?
視聴回数 36,148 回
ttps://youtube.com/watch?v=JGMEHUL-pf0

飯田線旧線 旧第一久頭合隧道 前編
公開日 2009.8.24
ttp://yamaiga.com/rail/iida_misakubo/main.html

飯田線旧線 向皆外隧道 前編
ttp://yamaiga.com/rail/iida_mukagaito/main.html

下山ダッシュ
ttp://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

410とはずがたり:2018/07/01(日) 17:51:01
ココラノ通信>>249>>251>>252
掛川>>52>>76>>157>>236>>354
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1187487997/183

「ここらを知る旅」ココラノ通信
http://d.hatena.ne.jp/cocora/comment/20100516/1274015106
2010-05-16
とにかく、隧道巡り
隧道, つぶやき

15日夜、
「上西郷の素掘り隧道(岩谷隧道)」
「吉岡の4つの素掘り隧道」
「大日隋道」 - なぜか、昔から椅子が置かれています。

そして16日。
また、「ぬかるみ」に、はまりましたwww。
まず、手始めに、前日の夜に訪れた
「上西郷の素掘り隧道(岩谷隧道)」

「小笠山隧道」 - 小笠池のトンネルではありません。

「西大谷隧道」 - 静岡県道251号線にあります。

「仁丸隧道」 - 「県道409号大須賀掛川停車場線」沿いにある「西大谷池」の少し北側に「県道249号線」を繋ぐ「山道」があるのですが、その道中にあります。

「大谷隧道」 - 旧:大須賀町の某養鶏場の近くにあります。

「大城隧道」 - 県道249号線と高天神を繋ぐ山道にあります。

「佐栗谷隧道」 - 県道37号線の旧道にあります。近くに廃隧道があるらしいですね。(調査忘れorz)

「西之谷隧道」 - 菊川東平尾の池の近くにあります。

「巌井寺隧道」 - 県道38号線沿いにあります。

「風吹隧道」 - 県道249号線の旧道にひっそりとあります。ここで「ぬかるみ」に、はまった。

「小笠池の3つの隧道」 - 心霊トンネルで有名なところですね。

「上西郷の素掘り隧道」と「風吹隧道」は後日、調査結果を書きます。

411とはずがたり:2018/07/01(日) 20:39:43
わざとらしい演出と場所をあからさまには明かさないやり方がいらっとするカピバラ一家だが山梨大月の山奥。
迷ってない癖に迷った迷った連呼うぜえ。

【裏名所#8】山奥でロープウェイの不法投棄を発見。 旧道 酷道 カピバラ一家
https://youtube.com/watch?v=W2Fwj8fjniI&amp;feature=youtu.be


此処通行止め(新道はグーグルが来た時未だ開通前。旧道が通行止め中)
https://www.google.co.jp/maps/@35.7205961,138.9410664,3a,75y,21.69h,109.47t/data=!3m9!1e1!3m7!1sBtt8ar9ZY1ZteCkMbCxYlg!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i24

此処も通行止め
https://www.google.co.jp/maps/@35.7098982,138.9405098,3a,75y,163.86h,97.03t/data=!3m9!1e1!3m7!1sPvMiCksErtG-LZKTZb9sbw!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i24

此処も通行止め(グーグルの時も通行止めのようだ)
https://www.google.co.jp/maps/@35.7100291,138.939815,3a,75y,273.89h,104.11t/data=!3m10!1e1!3m8!1sJ9fgKeJbo-jqxydBxfavPg!2e0!6s%2F%2Fgeo2.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DJ9fgKeJbo-jqxydBxfavPg%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D359.965%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i24

此処も通行止め
https://www.google.co.jp/maps/@35.7034506,138.9499821,3a,75y,16.52h,100.02t/data=!3m10!1e1!3m8!1sq1wbBwpAzCBxcUUaJjuEYw!2e0!6s%2F%2Fgeo2.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3Dq1wbBwpAzCBxcUUaJjuEYw%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D224.77533%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i56

412とはずがたり:2018/07/01(日) 21:47:59
この線の様だ。一番最初に視聴したカピバラ一家がこれ。
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.22.6.714N35.45.8.635/zoom/9/
その羽村側。神明緑道となってる
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.19.27.270N35.45.1.673/zoom/10/
白眉はこの閉鎖トンネルか?
https://www.google.co.jp/maps/@35.7619046,139.3972889,3a,75y,80h,90t/data=!3m10!1e1!3m8!1sAF1QipMqCpjhpO95dSYckpq_Qso-0qM-3a0_uYM5lnsp!2e10!3e11!7i3840!8i1920!9m2!1b1!2i56
狭山湖側の入口は此処みたい。
https://www.google.co.jp/maps/@35.7694176,139.4042256,3a,75y,176.13h,109.47t/data=!3m9!1e1!3m7!1sdzSnyIuOExhYcZr5B66Nbg!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i56

【裏名所#7】緊急離脱。森の中の5連続トンネルに潜入してみた。 カピバラ一家 廃墟廃道酷道探索
https://youtube.com/watch?v=FidT9453pcs

怖いトンネルあります 〜武蔵村山 野山北公園自転車道〜
http://hassy1111.at.webry.info/201109/article_11.html

実はこの野山北公園自転車道は、昭和の初めに、現在の狭山湖の
建設のための砂利の運搬のために敷設された約13キロの軽便鉄道
の跡を利用しています・・・
(と、すると現在、鉄道の無い市として有名な武蔵村山市にもかつて鉄道が
あったという事なのですね・・・)

この鉄道は羽村堰(多摩川)から狭山湖まで引かれ「羽村-山口線」と
呼ばれていたそうです。
しかし、記録によると使用されていたのはわずか数年という命の短い鉄道だった
ようです・・・

だから、あまり地元のヒトも知らないのですよね・・・?

その廃線跡が「自転車専用道」として生まれ変わったという事のようです・・


しかし、始点の羽村側から見ると中間にあたる部分が横田基地で完全に
分断されている為、西側が唐突に自転車道が始まっています・・・
更に終点の狭山湖側も最後の部分(トンネル)が閉鎖され、完走できない
構造になってしまっているのです・・・
(別のサイクリング道に連絡はしていますが・・・)

413とはずがたり:2018/07/01(日) 21:59:19
山掴トンネル
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E6%8E%B4%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB&amp;oq=%E5%B1%B1%E6%8E%B4%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB&amp;aqs=chrome..69i57j0l5.4719j0j7&amp;sourceid=chrome&amp;ie=UTF-8

414とはずがたり:2018/07/04(水) 12:49:23
片倉ダム。忘れてたけど元清澄山の森林鉄道跡http://yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main1.htmlの近くだった。

これが廃仮設橋か?
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E140.4.53.071N35.11.45.759/zoom/9/
で,この水没地点はこの辺か?
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E140.4.9.667N35.11.46.723/zoom/9/

千葉県道24号線 「片倉ダムに消える道 2」
https://ameblo.jp/hi-road/entry-11189905616.html

【裏名所#12】ポニョに会える廃道★ 木々に覆われた不思議な道!千葉県廃道 隧道 何だコレミステリー
https://youtube.com/watch?v=LbaFP2tM_rY&amp;t=12s

415とはずがたり:2018/07/04(水) 20:39:07
>>405-406
吉野管内図がどっか行っちゃうのを防ぐ為だけにとりま纏めておいた。

上北山村の盲腸県道2題
r228及びr226
http://tohazugatali.iza-yoi.net/NARA/YOSHINO/kamikitayama00.html

416とはずがたり:2018/07/04(水) 20:40:42
>>407-408

サンギリ林道はこっちのようだ。
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E136.2.26.986N34.6.3.547/zoom/9/

417とはずがたり:2018/07/07(土) 19:46:19
上武鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/上武鉄道

上武鉄道(じょうぶてつどう)は、埼玉県児玉郡神川町の丹荘駅と西武化学前駅の間を結ぶ鉄道路線(日丹線)を運営していた鉄道事業者である。1986年(昭和61年)に鉄道路線を廃止し、以後も群馬県高崎市倉賀野に本拠を置く通運会社として存続していたが、1998年(平成10年)に解散公告を行い事業を停止している[1]。

歴史
もとは、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に、日本ニッケル株式会社[2]が群馬県多野郡にあった多野鉱山、ニッケル精錬所と神流川を隔てた埼玉県児玉郡にあった若泉製鋼所の専用鉄道[3]として敷設した鉄道である。戦後、軍需物資の輸送に頼っていた鉄道の維持が困難になっていたことと、沿線自治体の要望により1947年(昭和22年)5月に地方鉄道に転換し、旅客営業を開始したもので、運営は日本ニッケル鉄道部(通称日本ニッケル鉄道と呼ばれた)が行った。1960年(昭和35年)に日本ニッケルの鉄鋼部が朝日化学肥料に譲渡され、西武化学工業(現・朝日工業)が発足したことにともない、日本ニッケルの一組織であった鉄道部が独立し、1962年(昭和37年)に上武鉄道となった。

1943年(昭和18年)11月には、軍需物資であるクロム鉱石などの輸送を目的とし、終点付近から分岐して、若泉村渡瀬(わたるせ)にいたる2.3kmの延長計画が立てられたものの、資材の調達ができず、翌年断念された。戦後は、地方鉄道転換とともに延長を申請し、1946年9月に免許が下付されたが、今回も資金の目途が立たず、1966年(昭和41年)に免許は失効した。

地方鉄道転換後は、途中に停留所(駅)が増設されたが、1日の利用客は10人を割り込む状況で、実態は専用鉄道同然であった。1972年(昭和47年)12月いっぱいで旅客営業を廃止し、貨物専業となったが、沿線住民からは特に反対はなかったという。その後、貨物輸送は積替えの必要のないトラック輸送に切り替わり、1986年12月に廃止された。

2017/09/28 10:02:19
半世紀前の幻のような光景--上武鉄道日丹線廃線跡の旅
https://news.mynavi.jp/article/20170928-jyoubu/
森川孝郎

廃線探索 上武鉄道(丹荘-西武化学前)(歩鉄の達人)
http://hotetu.net/haisen/Kanto/080923jyoubutetudou.html

418とはずがたり:2018/07/07(土) 19:50:11
力作だなあ。俺が生まれた頃の鉄道ピクトリアルの記事らしい。千住貨物が現役だったようだ。

中川浩一の東武鉄道史(首都圏の鉄道史6)
(東武鉄道の系譜 鉄道ピクトリアル増刊 1972/3)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/nakagawa/toobu.htm

419とはずがたり:2018/07/10(火) 01:43:17
かつての「日本一長い滑り台」 老朽化で休止1年 修理めど立たず 群馬・赤城南麓のローラー滑り台
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180709-00010000-jomo-l10
7/9(月) 6:04配信 上毛新聞
かつての「日本一長い滑り台」 老朽化で休止1年 修理めど立たず 群馬・赤城南麓のローラー滑り台
休止したままの滑り台
 1990年7月に完成し、「日本一長い滑り台」として話題になった前橋市富士見町の「SUBARUふれあいの森 赤城」の木製ローラー滑り台が昨年6月以降、休止したままになっている。老朽化が進み、利用者がけがをする危険があるとして設置者の群馬県が休止を決めて約1年。修理費用は多額になるとみられ、再開のめどは立っていない。豊かな自然の中で子どもが楽しめる遊具だけに、再開を望む声が上がっている。

◎木材にゆがみやひび 予算確保見通せず
 県や、公園を管理する県森林組合連合会によると、滑り台のローラーや支えに使用される木材は年々、ゆがみやひび割れが進行した。修理しながら利用していたが、修復が必要な箇所が増え、県は昨年6月、休止に踏み切った。

 県緑化推進課は修理をどのように進めるかや、予算確保は見通しが立っていないと説明する。

 滑り台は赤城山南麓の観光の目玉として89年8月に着工した。全長380メートルで、当時県は「日本一長い滑り台」とアピール。開始初年度には約19万人を動員した。近年も大型連休や夏休みには家族連れでにぎわい、多い日には1日で100人以上の利用があったという。

 公園を管理する「SUBARUふれあいの森あかぎ木の家」の職員は「滑り台について問い合わせがあるが、休止中だと伝えると残念がる。復活を期待する声に応えられるといいが」と複雑な様子。以前、子どもたちとキャンプで森を訪れ、滑り台で遊んだという富士見幼稚園(同市富士見町)の柳晋園長は「皆が楽しそうに滑っていたのを覚えている。再開すればまた楽しみたい」と期待を込めた。

420とはずがたり:2018/07/11(水) 00:05:40
興浜線,高千穂線と高森線や越美線と同じぐらい開通させて欲しかった路線である。まあ開通しても三江線以上に悲惨な現状であっただろうが。。
個人的には南稚内─浜頓別─興部─紋別─中湧別─遠軽は欲しいなあ。。

【名/迷列車の旅】北海道編12 興浜線 あれほど待ったのに・・・。
視聴回数 59,169 回
https://youtube.com/watch?v=2DiAccwBuIg

421とはずがたり:2018/07/11(水) 00:46:05

旧太子駅跡地復元プロジェクト「つなげ未来へのレール」 〜戦後日本の復興を支えた旧太子駅の復元〜
https://furusato-tax.jp/gcf/117

群馬県中之条町に残る旧太子駅・旧太子線跡地

昭和20年1月、太平洋戦争末期、国内鉄鉱石需要の増産に伴い群馬鉄山(現チャツボミゴケ公園)で採掘された鉄鉱石を積み込んだ貨物専用汽車がここ旧太子駅から初出荷として旧日本鋼管川崎製鉄所へ向け出発しました。


旧太子駅は現在のJR吾妻線が昭和20年(1945年)に長野原線として開通した際、長野原(現:長野原草津口)駅から太子駅までが群馬鉄山の鉄鉱石運搬の専用線として開業し、昭和27年(1952年)に国鉄に移管されました。
群馬鉄山は戦後、外国産鉄鉱石の輸入が再開されてもしばらくの間、露天掘りによる採掘が続けられ、日本の復興に貢献しましたが、昭和41年3月閉山を迎えました。
旧太子線は昭和29年より客車の乗り入れが開始されましたが、長野原線の電化、嬬恋線の新設等時代の流れと共に、昭和45年9月に営業廃止、昭和47年3月に廃線となりました。


現在、ホッパの基礎(コンクリート建造物)や車止めが残され、線路の跡地は生活道路として利用されています。 中之条町では平成25年より旧太子駅の復元事業を開始しました。旧太子駅を中核として、中之条町六合地区の関連施設を仮称「中之条町六合地区産業遺産群」とし、戦中戦後にかけての遺産群を適切に保全し、後世に継承して参ります。

422とはずがたり:2018/07/11(水) 21:53:36
廃物件なんで此処にも転載

2555 名前:とはずがたり[] 投稿日:2018/07/11(水) 21:02:18
野内>>2276-2277は昔から気になる駅である。一度現地を訪問した事もある。

個人的に大好きなLPGの出荷があった筈であるのに晩年の専用線一覧にそれらしい記載がないのである。特に日通商事の。

昭和32年にはスタンバック・昭和石油と日本鉱業(共石の母体)の専用線があるがうろ覚えだけどこれはLPG線とは別か?

それは兎も角,日本鉱業と同和鉱業の専用線もS32年版には顕れるが,山行がに拠ると上北鉱山からは野内駅に索道が通じていて資材を輸送してたそうである。

上北鉱山を調べて見ると日本鉱業系であるから日本鉱業がこの上北鉱山の出荷専用線だった様だ。
銅と硫化鉄を出荷してたのであろう。

田代隧道
http://yamaiga.com/tunnel/kamikita/main1.html

上北鉱山
https://ja.wikipedia.org/wiki/上北鉱山

上北鉱山(かみきたこうざん)は、青森県上北郡七戸町(旧天間林村)字南天間舘で操業していた日本鉱業(後にJXホールディングス等を経てJXTGホールディングス)経営の鉱山。1940年(昭和15年)に操業開始。銅と硫化鉄を産出し、最盛期には1ヶ月に2万トンの鉱石を処理したが、鉱石の枯渇により1973年(昭和48年)6月に閉山した。

2556 名前:とはずがたり[] 投稿日:2018/07/11(水) 21:53:07
>>2555
引き続いて野内駅特集。
なんと石灰石が採れたらしい。

しかも駅が移転してもうてる様だ。。嗚呼

調べて見ると興味深い論文も見付かった。
同和鉱業野内採石所ふぁあって小坂迄石灰石を運んでいたそうな。
精練所の溶剤として利用したそうな。今は外部から調達かな?
昭和11年〜18年の採掘量は年間38,000t〜40,000tとの事。にぬけんよ,年間4万トンってどうよ?野内迄は索道架設して輸送したそうな。
昭和34年迄石灰石の採掘を続けたが多量の貯鉱を残したまま休山したそうな。復活しなぁ〜い。

それ以外にも磁鉄鉱等あったが規模も小さいし休山も早めだったようだ。

野内駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/野内駅
歴史
かつての旧駅舎(地図、地上駅)時代は、付近の石油タンクからの石油、山からの石灰石を運ぶため、貨物の取扱量が多かった。また、石灰石や遠く上北鉱山からの鉱石をこの駅に送るために、索道(ロープウェイ)が通じていた。鉱石を積み込む施設は現存するが線路は撤去され、隧道も閉鎖されている。


青森県立郷土館研究紀要 第35号,9-14
青森市東岳における鉱山史
島口 天
http://pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2011-0414-1412.pdf

423とはずがたり:2018/07/14(土) 20:58:13

名松が,基い名称が謎だった南勝線。
関金温泉の北にあって恐らくその後関金町に合併された(→調べたら矢送村・南谷村・山守村が合併してS28(1953)関金町になったようだ。関金って地名は何所から来たんだ?)町の様だ。

更にwikiに拠ると倉吉(打吹)〜関金がS16(1941)開通で,関金〜山守がS33(1958)開通だ。
棒線でやる気の無い感じの延伸区間であった。

関金駅が南谷村にあって関金〜山守も南勝線なら理解出来るんじゃが。。

鳥取県東伯郡南谷村 (31B0050042) | 歴史的行政区域データセットβ版
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/31B0050042.html

南勝線
https://ja.wikipedia.org/wiki/南勝線

南勝線(なんしょうせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)が中国勝山駅と倉吉駅の間に計画していた鉄道路線(未成線)のうち、中国勝山 - 山守間の建設路線名称である。

概要
改正鉄道敷設法別表第89号に掲げられた「岡山縣勝山ヨリ鳥取県倉吉ニ至ル鐵道」として建設が進められた。倉吉 - 山守間は倉吉線として開業したものの、平行する道路を走る自家用車やバスに勝てず、山守 - 中国勝山間は起工式こそ開催されたものの用地買収や工事が行われることのないまま1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行や1981年(昭和56年)の国鉄倉吉線の特定地方交通線第一次廃止対象路線指定、及び1985年(昭和60年)の同線廃線により建設放棄となり、日の目を見ることはなかった。

歴史
1974年(昭和49年)5月9日 - 岡山県真庭郡勝山町(現:真庭市)で起工式が開催される。

備考
南勝線という路線名称の由来は、鳥取県東伯郡南谷村(なんこくむら。現:倉吉市)と岡山県真庭郡勝山町を結ぶことによる。

424とはずがたり:2018/07/14(土) 21:03:26
>>423
関金温泉で有名で駅も関金だから町名も関金にしたかと思ったがそうではないらしい。

一旦関金村が出来てその後市町村合併で矢送村になって自治体名として一旦消えてて昭和の大合併で復活したのかな?その際に駅名や温泉名で有名になってたからかも知れないけど。

関金町
https://ja.wikipedia.org/wiki/関金町

関金町(せきがねちょう)は鳥取県中央の東伯郡に存在した町である。

2005年(平成17年)3月22日に倉吉市と合併し、倉吉市関金町となった[1]。

町名は関金温泉に因んだ。なお、関金の地名は1877年(明治10年)に金谷村・湯関宿が合併した際に成立した合成地名である[2]。


鳥取県東伯郡矢送村 (31B0050046) | 歴史的行政区域データセットβ版
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/31B0050046.html

鳥取県東伯郡山守村 (31B0050018) | 歴史的行政区域データセットβ版
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/31B0050018.html

425とはずがたり:2018/07/20(金) 21:24:09
深沢橋五月橋
関電がダム湖に沈む村の為に作ったらしい。

418BP迄新五月橋作って接続してやりゃあいい。r352とr353が1本に繋がって良い。
カネの事考えれば200年後でも早いがw

岐阜県道352号線 3/4   TEAM酷道010 蹴りセロー
http://geocities.jp/teamkokudo/kokudo/gifu352densetu/densetu-3.htm

トラックが渡れる橋!それが旧日吉、潮南両村の住民の悲願であったのだ。
しかし関西電力による補償は、将来の車両通行に希望を持たせた五月橋の建造までで、
瑞浪、八百津両方の取付道路の建設までは拒否したのである。(千賀東重著 湖底に沈む村より)

岐阜県加茂郡潮南村
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/21B0060018.html

岐阜県土岐郡日吉村
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/21B0160019.html

忘れてたけど自分のコンテンツだと五月橋掛け替えの計画は有る様だ。此処から潮見の聚落迄延ばしてr353と繋げよと思わなくも無い(財政的には断乎拒否。)が,其処は林道https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E137.14.24.375N35.27.26.486/zoom/8/で結ばれて良しとするのであろうか?

道路族
http://tohazugatali.iza-yoi.net/TOKAI/GIFU/R418/maruyamaBP00.html

丸山バイパス
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1156427416/1728-1729

426とはずがたり:2018/07/20(金) 22:06:47
新丸山ダム、酷道418号
https://japonyol.net/editor/article/shin-maruyama-dam-and-route-418.html
2015-09-15 chizuz?, updated: 2015-09-15
岐阜県可児郡御嵩町と同県加茂郡八百津町にまたがる丸山ダムは、1955年(昭和30年)木曽川水系木曾川に完成した重力式コンクリートダム。洪水調節、農地防災や発電を目的としている。
1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風では十分な洪水調節機能を果たしたが、1983年(昭和58年)9月の台風10号では上流域に降った集中豪雨で木曽川は過去最悪の洪水となり、丸山ダムでは制御不能となって下流の美濃加茂市は浸水し大きな害を被った。

このダムの機能を増強するため、かさ上げによる再開発事業が行われる。新しく建設されるのが「新丸山ダム」で、既設の丸山ダムの下流側47.5mの地点に既設の丸山ダムを20.2mかさ上げするとのこと。
常時満水位は186.30m、サーチャージ水位が205.30mという仕様なので、標高200mでトレースしてみたのが次のマップ。紫色の線は、国道418号。

427とはずがたり:2018/07/20(金) 22:06:57
1901 名前:とはずがたり[] 投稿日:2018/07/20(金) 22:02:44
二股トンネルを調べてたんだけど。
ゆーちゅーばーさんどもどいつもこいつも動画盛り上げる為にわざと怖くする要素入れてくるから唾吐きかけたくなるけど。

《廃墟紀行》 #37 『朝鮮トンネル』
https://youtube.com/watch?v=_kQx0Hqnykc

ラピスってなんやねんとイラッとするけどこの辺が真面目にレポしてるとは云えるかも。図とかしっかりしてるしね。

国道418号線-二股トンネル廃道】
http://usa-nekosando.pupu.jp/miti_418huta.html
【国道418号線-二股トンネル廃道 周辺図】
http://usa-nekosando.pupu.jp/miti_418huta-map.html

そもそも二股トンネル開通は戦後だし朝鮮トンネルとか云うのも既に煽り臭い。

併し恵那側はしっかり封鎖されてるのに八百津側は入り放題なんか!?!?

428とはずがたり:2018/08/12(日) 18:00:45
1907 名前:とはずがたり[] 投稿日:2018/08/12(日) 17:55:01
国道256号線
ROUTE256
http://3koku.uroneko.com/nr256_01.htm
起点:岐阜県岐阜市→終点:長野県下伊那郡上村(239.6km)

●概況

 R256は岐阜県岐阜市を起点とする、美濃地方〜南信州を横断する3ケタ国道。複雑なルートを辿りながら、途中でいくつかの峠を越えて長野県上村を結んでいる。ルートも複雑だが、経歴もややこしい。

 長野県飯田市と長野県上村の間には小川路峠と言うかつての秋葉街道の難所の峠が在るのだが、バイク・車での通行は不可能。それゆえR256は、飯田市と上村の間が分断されている『分断国道』となっている。この区間は別にR474矢筈TNがあるので将来この区間が繋がる可能性は少ない。当分『分断国道』のままだろう。

●沿革

 R256のルートは少し複雑で、岐阜市から一旦北上して郡上八幡に向かい、その後クネクネした経路をたどりながら東に向かい長野県に入ってR19(中山道)と合流。清内路峠を越えてR153(三州街道)に合流した後、長野県飯田市へ向かい、さらにかつての秋葉街道に沿って長野県下伊那郡上村に至っている。長野県飯田市と上村の間にある小川路峠はバイク・車での通行は不可能となっている『分断国道』である。

 ルートも複雑だが、経歴も複雑な国道である。R256は、元々は長野県飯田市(起点)と岐阜県中津川市(終点)を結ぶ国道として1963年(昭38年)4月に誕生した。その後、1975年(昭50年)4月に起点が長野県茅野市に変更され、長野県茅野市〜岐阜県中津川市間の信州(長野県)縦断国道となった。この時、長野県下伊那郡上村と飯田市の間は秋葉街道に沿って設定されたR152とルートが重複していた。

 R152は、1953年(昭28年)5月に長野県飯田市を起点として静岡県浜松市を結ぶ国道として誕生している。1975年の改訂時は端点区間が重複区間になった以外に変化はなかった。

 ルートはこのままかと思われたが、1993年(平5年)4月にルートの変更が行われた。このときの変更は大がかりで、R152とR256には以下のような変更がなされた。

(1)長野県茅野市〜長野県下伊那郡上村の間をR152に移管し、R256は長野県下伊那郡上村で打ち切り。
(2)R152は起点を長野県上田市に変更し、長野県上田市(起点)〜静岡県浜松市(終点)間の国道とした。これにともない、R152・R256重複区間であった長野県飯田市〜長野県下伊那郡上村間をR256に移管。同区間はR256単独国道区間に変更。
(3)長野県山口村から岐阜県坂下町〜岐阜県加子母村〜岐阜県金山町〜岐阜県郡上郡八幡町〜岐阜県板取村経由で岐阜県岐阜市までR256の区間を延長。岐阜県中津川市を経由しなくなった。
(4)起点を岐阜県岐阜市に、終点を長野県下伊那郡上村に変更。

 (1)〜(4)の大規模なルート変更が行われ、現在の形になったのである。

道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間
http://yamaiga.com/road/r256_kami/main.html
標高1494m、全長20kmもの険しい峠道であった、未だに自動車の通えぬ小川路峠。
ついに「山行が」も、全国有数の酷道である小川路峠に挑むのか! そんな風に期待して下さった向きもあるかも知れないが、今回は「表題」のものが主役であり、小川路峠越えは(探索は済んでいるが)別の機会に譲りたい。
今回紹介したいのは、小川路峠の東側の麓にあたる、飯田市上村の国道風景である。

ここに掲載した2枚の地図は、国土地理院が作成している『地理院地図』(左)と、昭文社が作成した『スーパーマップルデジタル ver.18』(右)で見る、飯田市上村の国道256号終点付近だ。
いずれも最新の内容だが、国道と県道の塗り分けに大きな違いがあることに気付く。

果たしてどちらが正しいのか?

実は、どちらも正しくない。

私が以前、“とある関係者”から見せてもらった地図(残念ながら掲載はできない)には、この部分の国道と県道の詳細なルートが描かれていた。

国道256号の終点から約2kmは、県道251号と並行する別のルートを通っている。
地理院地図にも市販の道路地図にも全く描かれていない道だが、道路法に定められた供用開始の手続きを経た、法的に有効な国道256号の現道がここにある。
http://yamaiga.com/road/r256_kami/map_3.gif

1908 名前:とはずがたり[] 投稿日:2018/08/12(日) 18:00:09
>1907
グーグルマップやけに正確じゃねえか!
https://www.google.co.jp/maps/@35.3893797,137.9678209,17z

429とはずがたり:2018/08/12(日) 18:13:51
この廃道,これhttps://www.google.co.jp/maps/@35.3992116,137.9661736,18zか?256を建設しようとしてたんちゃうやろねえ??

国道256号線 長野県 小川路峠偵察
2011年11月28日(月) 07時44分00秒
https://ameblo.jp/hi-road/entry-11086149338.html

帰ろーと思った視線の先に、草に隠れたガードレールがチラッと見えた。

おやこっちの道はなんだ?ちょっと行ってみよう。

そしたら、
あわわー廃だ〜!

岩が・・ガードレールにめり込んでるぜ。
右にはコケも生えてない積み石があるし。

急遽靴を履き替え手袋をもってリュックを背負い探索開始。

しかしあまり進まないうちにガードレールが途切れる。

崩れ落ちたのか何なのか、向こうに道は続いているのか?

崩れた斜面を少し登り先をうかがう。
じっと動かずに双眼鏡とカメラの望遠を使って1分ほど、この道の先と、つづら折れていたら続くであろう斜面上側を観察。

動かずに観察していたのは、この斜面危険。
足元が崩れる崩れる。
踏み出すために足を上げると、軸足の下の石が流れる。
ガードレールがあるから滑り落ちても痛いか痛くないかは別として、そこで止まれそうだが、ガードレールが途切れた先で滑れば、もうちょっと下走る県道の法面まで何もさえぎるものがない。
撤退したほうが無難だ。

430とはずがたり:2018/08/24(金) 13:50:44
日田と久留米って云ふ今の久大本線が軽便で結ばれてたのか。なかなか野心的だな〜。

「筑後軌道」の遺構が出現 鉄道ファンの話題に 九州豪雨で水位低下
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/377794/
2017年09月28日 15時57分

 大正〜昭和初期に福岡県久留米市と大分県日田市を結んだ軽便鉄道「筑後軌道」の遺構が、日田市の夜明ダム上流の筑後川左岸(福岡県うきは市)に姿を現し、鉄道ファンの話題になっている。普段はダム湖に沈んでいるが、九州豪雨に伴う放流で水位が下がり出現した。10月には再び水没するため、地元では記録保存に向けた動きが出ている。

 遺構は軌道敷の石積み。日田市史などによると、筑後軌道は1916(大正5)年、同市豆田まで開通。豆田の他、市内の隈や石井などに駅が置かれ、小型蒸気機関車が久留米まで約45キロを3時間余りで結んだ。

 日田地方の産物を送り出す主要輸送手段だったが、旧国鉄久大線の延伸に伴い1928(昭和3)年に廃止された。54(昭和29)年のダム完成後に遺構は水没したが、今年7月5日の豪雨後、ダムゲートを開放したため水位は普段より最大約10メートル低下。普段は見えない遺構がダムの上流約1キロにわたって姿を現した。

 地元の愛好者団体「筑後軌道調査会」の桑野洋輔事務局長(74)=同市銭渕町=によると、これまでも短期間、遺構の一部が見えることはあったが、これほど長期間、遺構全体が見られるのはダム完成後初めて。

 特に夜明地区の県日田夜明艇庫の対岸には、整然と積まれた高さ4〜5メートルの石積みが、ほとんど傷みなく連なる。桑野さんは「水の中で守られていたのだろう。よくぞここまできれいに残ってくれた」と感慨深げだ。

 銘木商を営み当時の舟運事情に詳しい佐藤重利さん(83)=同市中ノ島町=らによると、この近くには駅があって夜明地区の人々は渡し船で駅まで往来したという。石積み沿いには急流を避けるため造られた舟の通り道も残る。多くの人と物が行き交った往事のにぎわいがしのばれる。佐藤さんは「日田の一時期を支えた宝であり、産業遺産として再検証すべきだ」と訴える。

 ダムを管理する九州電力によると、豪雨で損壊したダム管理所などの修復工事が終わる10月中旬には水位は元に戻り、遺構は再び姿を消す。

 市民の声を受けて、地元のケーブルテレビ局「KCVコミュニケーションズ」は遺構の全景をドローンで空撮。桑野さんや佐藤さんら関係者の話をまとめた番組を制作中だ。同社の川浪鋭司放送部長は「長く後世に伝えたい地域の貴重な記録です」と話している。

この記事は2017年09月28日付で、内容は当時のものです。

431とはずがたり:2018/08/24(金) 14:12:21
時系列を無視してるかも知れないけど西鉄と合併して国鉄に対抗してたら面白かったのにw

筑後軌道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E5%BE%8C%E8%BB%8C%E9%81%93

概要
久留米-日田間を鉄道で結ぶ計画は1899年(明治32年)に西洲鉄道(久留米-豆田間28哩24鎖、資本金250万円)[注釈 1][2]の計画があったが不況により停滞していた。このため見切りをつけた発起人達は建設費の廉価な馬車鉄道に方針を変更した。1901年(明治34年)10月18日出願し、1902年(明治35年)5月10日に特許状が下付された。浮羽郡、三井郡の素封家たちにより会社を設立[3]。商号は吉井馬車鉄道としたが、筑後馬車鉄道に改められ[4]1903年(明治36年)10月吉井町 - 田主丸間が開業しその後徐々に延長し豆田まで開通したのは1916年(大正5年)のことであった。

当初は県道上に馬車軌道を敷設しただけの簡素なものだったが、後に石油発動車(焼玉エンジン動力の小型石油機関車、通称「駒吉機関車」)を使用した軽便鉄道に変わった。1911年(明治44年)の時点で同社は、この小型機関車を47両も保有するようになっており、鉄道の内燃動力化の先駆例と言えるが、わずか5 - 7馬力ほどの低出力で客車1両を牽引できるに過ぎず、騒音が激しい上に故障も多く、使いにくい車両であったという。そのため小型の蒸気機関車に置き換えられ、廃止時では2両をのこすのみとなった。

その後、蒸気機関車によるばい煙その他の理由により、大正時代には、起点となる久留米側の一部区間が電化され、路面電車になっている。そのため久留米における軌道が敷かれていた道の呼称も、「馬鉄通り」から「電車通り」へと変化した。

1928年(昭和3年)に鉄道省によって並行して久大本線が敷設されたため、補償[注釈 2]を受ける形で廃線となり、1929(昭和4年)に会社解散となった。

なお会社は軌道線の廃止後、西久大運送(現・西久大運輸倉庫)という貨物運送会社、連絡自動車[注釈 3]というバス会社とに分割されたが、連絡自動車は後に西日本鉄道へ統合された。

432とはずがたり:2018/08/28(火) 17:46:24
俺も越えてみてえ。。

秋葉街道小川路峠越え
http://space.geocities.jp/circo7774/ogawaji.htm

433とはずがたり:2018/08/28(火) 21:18:56
バススレや県道スレよりこっちやなw

https://twitter.com/kendou774/status/1034407856907288578
R774@まとめ屋
@kendou774

これ、和歌山r25(御坊中津線)に迷い込んだっぽい。

高速バス、迂回路間違え山道へ 崖っぷち1キロ恐怖の夜
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000069-asahi-soci
8/28(火) 18:42配信 朝日新聞デジタル

 和歌山と大阪を結ぶ西日本ジェイアールバス(大阪市)運行の高速バスが26日夜、渋滞を迂回(うかい)するため和歌山県内で高速道路を降りたところ、道を間違えて狭い山道に入り込み、立ち往生していたことがわかった。乗客38人は同社が手配したタクシーなどで運んだ。けが人はなかった。

 同社によると、同県白浜町を午後6時過ぎに出て、午後10時ごろ大阪駅JR高速バスターミナル到着予定の高速バス。阪和自動車道を走行中の26日午後7時50分ごろ、バスの50代の運転手から「渋滞しているので、迂回指示を」と同社の営業所に連絡があった。

 指示を受け、バスは御坊南インターチェンジ(IC)を降りて迂回路の県道に入ったが、運転手は途中で道を間違え山道へ。道幅は車が1台やっと通れるほどしかなく、道路脇は崖。同社によると、バスは車体をガードレールや岩などにこすり、ミラーを破損しながら走行を続けたという。

 結局、誤った道を約1キロ走行し、同県日高川町内で動けなくなった。

朝日新聞社

【関連記事】

434とはずがたり:2018/09/01(土) 13:33:21
>>386

牛岳車道 第5回
http://yamaiga.com/road/usidake/main5.html
そしてもうひとつ、
気付かぬうちに私の手許を離れていった道がある。

なんか、前回の最後にひょっこり出て来た感のある「県道59号富山庄川線」である。

この道は、スタート直後(終点だが)からいきなり「自動車交通不能区間」という香ばしい道だが、当初左の図のようなルートを想定していた。

だが、帰宅後に改めて「道路台帳」を見てみると、実は牛岳車道とはほとんど重複しないルートであったことが分かった。
眼力不足を悔いるより無いが、現地ではこの「破線の道」に気付かなかった。
探していなかったから気付けなかったと思いたいが、果たしてそんな道があったかどうか?
…この件については、平成22年内に決着を付けたいと思っている。
等高線の登り方を見る限り、間違いなく「登山道“険”道」かと思われるが、主要地方道として路線指定はされているので気になって仕方ない。


富山県道59号富山庄川線
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%81%9359%E5%8F%B7%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%BA%84%E5%B7%9D%E7%B7%9A

概要
富山県道59号富山庄川線は、他の道路との接続がある区間は車両2台分がすれ違って通行できるほどの十分な道幅があり、通行する分には何も問題がない。しかし、他の道路を避けるようにしてしばらくずっと59号を通行し続けていると、やがて周囲に民家がなくなり、道幅がどんどん狭くなってくる。そして、若土橋を通過してからは段々と路面に砂利や植物が多くみられるようになり、ここからはどんどん険道としての片鱗を見せていく。途中からは車両が1台分しか通れないほどの道幅になり、しばらくここを進行した後に通行止めの看板と「ここまで」と書かれている標識に突き当たる。しかしこの先にはまだ国道471号との重複があることが判明しているため、この標識は間違いなく嘘である。59号の本領はこの通行止め地点の先にある。ただ、この先は廃村跡を川に向かって下るルートとなっており、車両で通行することは非常に困難を極める上、これを無理に車両で通行した人間は皆、山田川に落ちてどこかへ消えて行ってしまった。多くの通行者は車から降りて、歩いて通行している。また、あなたもそうすべきである。

あまりにも酷い道路であるため、現在は多くの地図に載っていない。10年前のカーナビ地図等には59号の路線は全て収録されているが、これに従って通行しようとした人間は皆、山田川に落ち、やがてはどこかへ消えてしまったため、信憑性は皆無である。また、地元の人間によると当時収録されていた59号の位置すら間違っていたらしく、当時これに従って通行しようとした人間も皆山田川に落ちてどこかへ消えてしまったことが分かる。

もはや国道471号、国道472号と同様、道として機能しておらず、通行する際の過酷さはその両者を遥かに上回る。また、途中から登山道のようになっており、やがては土砂や植物に紛れて路面すら見えなくなってしまうため、どこに繋がっているのかは未だに不明である。富山県知事もこの件に関して口を開くことはなかった。

廃村跡を通る59号を通行している間は、全体が錆びて何が書いてあったかすら一切知ることが出来ないような看板が途中に置いてあるほか、途中で発見される小屋には、「とうさん かあさん そっとしておいてくれ」と書いてある謎のプレートが付けられており、この廃村には多くの謎が今だ残っていることが分かっている。

また、もはやここは県道ではないのではないかと疑う者もいるが、標識は全て錆びて判読不能になってはいるものの、路面は舗装されており、周囲にもそれらしいものはないことから辛うじて59号を通行していることが判断できる。しかし、途中で舗装された路面は消滅しており、そこには藪ばかりがとにかく茂っている。ここからはどこが道なのかすら判別がつきづらくなり、急勾配の中で斜面にへばりついて藪のなかを泳ぎながら進まなければならない。さらにその先は土砂崩れ状態になっており、通行においてより困難を極める状況となっている。また、この土砂崩れは相当ぬかるんでいるらしく、ここで足を滑らせた人間は最終的には山田川に落ちてどこかへ消えてしまったそうである。土砂崩れになっている場所を越えるとそこはまた舗装路になっているため、まだ59号であるということが分かる。更に進行していくとやがて山田川に辿り着くが、この先がどうなっているかは不明。

435とはずがたり:2018/09/01(土) 14:03:09
>>386>>434:r59富山庄川線

[車載動画2018-08-05]富山県道59号富山庄川線「末端区間」
https://www.youtube.com/watch?v=E2dX6E8Bb5Y

この辺迄
https://www.google.co.jp/maps/@36.5335093,137.0582808,3a,75y,292.63h,74.99t/data=!3m6!1e1!3m4!1s2XBD7ACXiZW_N9NnrAdQwQ!2e0!7i13312!8i6656

>>264:r54福光上平線
r54不通区間

刀根ダム脇
https://www.google.co.jp/maps/@36.4624835,136.8032014,3a,75y,214.5h,80.01t/data=!3m6!1e1!3m4!1sOp5oUnZTrx7V0CM8-GsSpQ!2e0!7i13312!8i6656

ブナオ峠
https://www.google.co.jp/maps/@36.3726455,136.8236953,3a,75y,279.1h,85.62t/data=!3m9!1e1!3m7!1sCj0QgAw4e7Gl9_ZvGuVX9g!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i18

436とはずがたり:2018/09/01(土) 14:42:43
r139
五僧峠前後約4.2kmの区間は県道に指定されてないそうな

今はこんな手前で通行止め。
https://www.google.co.jp/maps/@35.2390065,136.3145035,3a,75y,128.99h,81.16t/data=!3m6!1e1!3m4!1sFMGJ7QWN8-tiRng_Wvv__g!2e0!7i13312!8i6656

三重県側はグーグルがサボってるw
https://www.google.co.jp/maps/@35.2394536,136.4130282,3a,75y,314.09h,85.44t/data=!3m9!1e1!3m7!1ssEC9VIJIabROq-V1yl6bWg!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i20

【険道★ / 廃村ツアー】岐阜県道・滋賀県道139号 上石津多賀線 part 1【杉坂峠・杉集落】
https://www.youtube.com/watch?v=006hawJKPvo
r17分岐〜杉聚落

【険道★ / 廃村ツアー】岐阜県道・滋賀県道139号 上石津多賀線 part 2【保月集落】
https://www.youtube.com/watch?v=lgt5yJIeCQI
杉聚落〜保月聚落〜滋賀県側県道指定区間末端

滋賀県道139号線上石津多賀線
http://www.za.ztv.ne.jp/yanae/sugisakatouge.html
滋賀県側県道指定区間末端〜(r17←)林道権現谷線(→R306)〜林道時山多賀線[H22](五僧聚落・五僧峠)〜時山→

437とはずがたり:2018/09/05(水) 08:41:43

どうやらこの交叉点で川辺大橋へ向かうべき所を県道を直進してしまったようだ。
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E135.13.11.438N33.55.9.819/zoom/8/
此処。道なりは橋の方にライン引き替えてるのにヘキサにやられたようだ。
https://www.google.co.jp/maps/@33.9226613,135.2172274,3a,75y,356.16h,75.29t/data=!3m6!1e1!3m4!1s2a42a17-WhGge99CP--37Q!2e0!7i13312!8i6656

高速バスが誤って山道に…道幅1台分、立ち往生
2018年08月29日 16時47分
https://www.yomiuri.co.jp/national/20180829-OYT1T50041.html?from=yartcl_outbrain1

 和歌山から大阪へ向かっていた西日本ジェイアールバス(大阪市)の高速バスが、和歌山県内で渋滞を避けるために高速道路を降りた後、迂回うかい路を間違えて山道に入り、立ち往生していたことがわかった。同社は乗客38人をタクシーで自宅へ送り届けるなどした。

 同社によると、高速バスは26日午後6時頃、和歌山県白浜町を出発し、大阪駅には午後10時頃に到着する予定だった。阪和自動車道を走行中の午後7時50分頃、男性運転手(50)が「渋滞を迂回したい」と営業所に連絡。営業所の指示を受け、和歌山県御坊市の御坊南インターチェンジ(IC)で降り、県道を走行して約6キロ北の川辺ICへ向かったが、途中で高速道と反対の東へ向かう山道へ入った。

 道路は車1台ほどの幅しかなく、左手はすぐ崖になっていた。バスはガードレールやカーブミラーなどに接触し、前部のミラーも破損しながら約1キロ走行し、進めなくなった。乗客から停車を求めたり、不安を訴えたりする声が上がったという。バスはその後、警察の誘導で山道を抜け出した。

(ここまで446文字 / 残り68文字)
2018年08月29日 16時47分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

438とはずがたり:2018/09/07(金) 10:06:40

R774@まとめ屋氏もR256来た!しかも道路台帳付♪

https://twitter.com/kendou774/status/1037670834196762625
R774@まとめ屋
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その他
『山さ行がねが氏』が探索されていた飯田市上村のR256。このR256上に存在する清水集落。一体どんな集落なのだろうか?R256はこの集落のどこを横切っているのだろうか?そんな疑問を解決するために清水集落へと向かった。

439とはずがたり:2018/09/07(金) 21:37:32

https://twitter.com/kendou774/status/1037326605712941056
R774@まとめ屋
?@kendou774
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その他
長野県南信濃村(飯田市)平畑集落。遠山川の深い谷間、下栗の里の対岸に位置するこの集落。地理院地図にはこの集落に至る道はない。しかし、衛星写真では吊橋があるように見える。この集落に行くことはできるのだろうか?集落はまだ生きているのだろうか?ご存知の方、ご教示いただけないでしょうか。


6:08 - 2018年9月5日

440とはずがたり:2018/09/09(日) 20:05:13
https://twitter.com/kendou774/status/1038743400055369728
R774@まとめ屋
@kendou774
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その他
清水集落のR256について、山行が氏は『土地の取得が最小で済む最短の径路で結んでしまった』と推測されている。要は『道は無いけど国道にしました』ということだろう。しかし天下の国道のルートはそんな適当なものなのか?謎を解くために飯田建設事務所の道路台帳で調べると。。。適当やんけ! #酷道




3:58 - 2018年9月9日

441とはずがたり:2018/09/10(月) 19:58:56
山梨県道35号旧道・雛鶴隧道
https://blogs.yahoo.co.jp/armata_2015ru/40215139.html

地図から消えた県道を歩く!焼身事件の痕跡も! 【裏名所#22】 廃道廃墟酷道オブローダー 神回
https://www.youtube.com/watch?v=LV7T1uvIlKY

442とはずがたり:2018/09/10(月) 20:24:48
地図から消えた日本の村5選!その衝撃の理由とは…!?都市伝説ではない…!
https://www.youtube.com/watch?v=3pnnZu6hPto

横倉 勝山市 雪崩 19人
峰 奥多摩町 林業 14戸
盛松(さかりまつ) 熊野古道 100人 海 昭和初期 集団移住
廃村八丁 京都市 明治初期〜1961年 御留山 1933年大雪 1941年廃村
八丈小島 1969年 最盛期数百人

443とはずがたり:2018/09/18(火) 23:39:08

こんな計画があったなんて♪根岸線の前身やねえ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E5%8D%97%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93

本鉄道(湘南電鉄)の日ノ出町駅付近 - 井土ヶ谷駅付近の敷設にあたっては、それ以前に計画され中止された、鉄道省の京浜線予定線の敷地が転用されている。この予定線は、桜木町駅から、大岡川沿いを走り、井土ヶ谷から現在の東戸塚方面に抜ける中距離電車が計画されていたもので、現在も桜木町駅より路地に挟まれた複線分の敷地が続き、日ノ出町駅付近で京浜急行電鉄の高架線が合流するのが確認できる。この予定線は1926年(大正15年)4月に廃止となり、湘南電気鉄道が廃線跡を譲り受けた。

444とはずがたり:2018/09/29(土) 22:50:33
地図から消えた村 祟り恐れ、住民ら毎年墓参り/兵庫・篠山市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180927-00010000-tanba-l28
9/27(木) 11:00配信 丹波新聞

 兵庫県の内陸部にある篠山市に、江戸時代にこつぜんと地図から姿を消した村がある。近隣住民は今も村民の墓を大切に守り、毎年、秋分の日に手厚くまつっているが、墓参りのおこりは、「祟りを恐れて」のことだった。消え去った村「夙(しゅく)」に迫る。

夙村の人々との香典のやりとりを記した香典帳を手にする御前さん。「しく」「夙」の字が見てとれる。

通婚差別も香典やり取り、ゆるやかに交流
 夙村があったのは、現在の味間南(約160戸)の中。村のあった場所は、現在、植林されたスギやヒノキが林立する森になっているが、その山中には屋敷跡とみられる台地が点在し、1カ所に集められた墓石や石仏など約30基が鎮座している。

 夙村の研究をしている住職、酒井勝彦さん(74)=同市古市=によると、1687年(貞享4)の日付がある「篠山領地誌」に夙の記述が登場する。大辞泉によると、夙とは、「江戸時代、畿内多く居住し、賤民(せんみん)視された人々」とある。

 「夙村の人々は、通婚の差別は受けていたようだが、疎外されていたわけではなく、味間南とはゆるやかな交流があった」と酒井さん。その証拠に味間南の旧家、御前昇さん(85)が保有する御前家の江戸時代の香典帳から、夙の人々と香典をやり取りしていた記述が見つかっている。

地図から消えた村 祟り恐れ、住民ら毎年墓参り/兵庫・篠山市
夙村の跡。80戸を形成した時期もあったとされる。現在はスギやヒノキの植林に覆われている

柿渋師集団の村か
 嘉永4―5年(1851―52年)に書かれた「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村ノモノ」の記述がある。

 柿渋は、未熟な青い柿の実を砕いて絞り、その汁を発酵・熟成させて作る赤褐色の液体。防腐・防水効果や、補強、医薬品、紙布の染料など、当時は多くの利用があったとされる。

 酒井さんは、「夙の人々は柿渋を製造する職人集団で、柿を求めて各地をめぐる出稼ぎの人々だったのでは」と話す。

疫病蔓延? 80戸が7年で7戸に
 一時期、80戸を誇る大きな村を形成していた夙村だが、嘉永年間(1848―55年)のわずか7年の間に7戸にまで戸数を減らし、さらにその後、全戸がなくなったという記述が1884年(明治17)に編さんされた「兵庫県多紀郡地誌」にある。

 「わずか7年間という短期間で7戸にまで減ったのは疫病が流行ったからでは」と酒井さんは推測。自寺の過去帳から葬儀件数を割り出したところ、同時期の件数が平年の4・4倍にも跳ね上がっており、近隣のほかの寺においても高い値を示している事実から、「村の9割近くがあっという間になくなってしまうということは、やはり流行り病が原因と考えてしまう」と話す。

大火相次ぎ、明治期から供養
 その後、明治中期から後期にかけて味間南で火災が続いた。あまりに相次ぐ大火に、当時の村人たちはその原因を「消滅した夙の人たちの霊を放置しているからだ」とうわさした。

 そこで村人たちは、夙の村跡の掃除をしたり、夙の氏神であった加茂神社の御神体を味間南の岩上神社に、仏像(阿弥陀如来坐像)を同集落の地蔵堂にそれぞれまつるなどした(1908年)。

 さらに、山中に散在していた夙の人々の墓石を1カ所に集め、毎年、秋の彼岸には地元の住職を迎えて供養をするようになった。以来、大きな火事は起こっていないという。

 今年も住民約30人が村の跡が残る集落東部の井根山のふもとへと向かい、墓掃除を行った後、墓前にシキミや線香などをそなえ、森の中に読経を響かせた。

 今年も無事に墓参りを終えた味間南自治会長の男性(67)は、「事の始まりはたたりを恐れてのことだったかもしれない。しかし現在は、かつての隣人の墓があるというのに何もしないのは忍びない、という気持ちでまつっています」といい、「もうすでに我々の世代では夙について詳しいことはわからない状況になっているが、そういう村が実在したという歴史を、この墓を守りながら後世に伝えていかなくては」と話している。

445とはずがたり:2018/09/30(日) 18:46:09

高校の分校ですら廃校といわれても6世帯11人ではねえ

人口統計ラボ
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=36&amp;city=36468&amp;id=57
徳島県美馬郡つるぎ町一宇
面積: 12,664,370 ㎡
人口総数: 11 人 世帯総数: 6 世帯

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高校(分校)ですら閉校になってしまう一宇の村。町中に人影は皆無で、宛らゴーストタウンのようだ。でも、こんな光景はここだけではない。残念ながら、全国各地で見られるようになってしまった。


19:28 - 2018年9月29日

徳島県道260号中野木屋平線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E9%81%93260%E5%8F%B7%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%9C%A8%E5%B1%8B%E5%B9%B3%E7%B7%9A
徳島県道260号中野木屋平線(とくしまけんどう260ごう なかのこやだいらせん)は、徳島県美馬郡つるぎ町から美馬市に至る県道である。国道438号を繋ぐ県道である。県道としては途中区間で指定が途切れているが、その間は林道経由で通りぬけ可能(一部ダート区間あり)。

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E134.5.56.438N33.54.16.806/zoom/8/

グーグルのストビュー工事中箇所除いて殆ど通り抜けてるw

https://www.google.co.jp/maps/@33.9094166,134.1205972,3a,75y,18.77h,81.34t/data=!3m10!1e1!3m8!1slIkAyn4N9MSVJPrBGg0NiA!2e0!6s%2F%2Fgeo0.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DlIkAyn4N9MSVJPrBGg0NiA%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D179.5629%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i64

446とはずがたり:2018/09/30(日) 22:04:58

https://twitter.com/kendou774/status/1046268280191639553
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十家集落については、住人であった下家さんの奥さんに話を聞いた。『十家は高齢化が進み、通院等、交通の不便さ故に、住人が山を降りていった。以前は畑仕事で通っていた。しかし、猪、鹿等に畑を荒らされて割りに合わなくなったので、今では殆ど行っていない。』とおっしゃられていた。

22:19 - 2018年9月29日

モノレールでしか行けない“天空の里”があった!徳島県の秘境・十家集落
https://matome.naver.jp/odai/2140869580206501701

標高800mある「つるぎ町十家(といえ)集落」では住民専用の”モノレール”が麓の県道とを結んでいる。

出典
02:徳島県つるぎ町 住民専用の不思議な乗り物があるらしい|四国なぞ解き行脚

モノレールの全長1.2kmで、乗車時間は30分ほど。最大積載量は1トン。勾配35度から40度という急斜面をゆっくりと上ってゆく。

出典
02:徳島県つるぎ町 住民専用の不思議な乗り物があるらしい|四国なぞ解き行脚

モノレールを利用する人のほとんどは、かつての住人で、麓にも家を持っている人たち。昼間、十家にやってきて、畑や山の世話を行っている。

出典
02:徳島県つるぎ町 住民専用の不思議な乗り物があるらしい|四国なぞ解き行脚

ピーク時には33世帯約160人が暮らした集落も、現在は2世帯3人になった。
高齢化が進む集落にとって、プロパンガスや荷物の運搬、通院など自宅横に通じるモノレールはなくてはならない存在。

出典
みかん山のモノレール - MSN産経フォト

昭和61年、国が十家集落に「住民専用のモノレール」を設置した。急しゅんな山の頂にあるため、車が通れる道路を作ることができなかった。モノレールができるまでは、住民たちは1時間以上かけて、麓と集落を歩いて行き来するしかなかった。

出典
02:徳島県つるぎ町 住民専用の不思議な乗り物があるらしい|四国なぞ解き行脚

かつて、この一帯は、葉たばこの栽培で栄えていた。十家集落にも、昭和30年代には、30軒以上の家族が暮らしていた。しかし、年々人口は減り続け、常駐する家族は現在、一軒だけになってしまった。

出典
02:徳島県つるぎ町 住民専用の不思議な乗り物があるらしい|四国なぞ解き行脚

つるぎ町「旧一宇村」の限界集落の現状と展望
―大野集落でのインタビュー調査から―
地理班(徳島地理学会)
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/57/177-188.pdf

ここ,何もないw
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92779-4100+%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%BE%8E%E9%A6%AC%E9%83%A1%E3%81%A4%E3%82%8B%E3%81%8E%E7%94%BA%E4%B8%80%E5%AE%87%E5%8D%81%E5%AE%B6/@33.9470009,134.0554488,17z/data=!4m5!3m4!1s0x35523452636c45d5:0x8f48e534cbec8ee6!8m2!3d33.9470035!4d134.0576376

おお,航空写真にするとなんかある!
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92779-4100+%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%BE%8E%E9%A6%AC%E9%83%A1%E3%81%A4%E3%82%8B%E3%81%8E%E7%94%BA%E4%B8%80%E5%AE%87%E5%8D%81%E5%AE%B6/@33.9470009,134.0554488,1670m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x35523452636c45d5:0x8f48e534cbec8ee6!8m2!3d33.9470035!4d134.0576376

447とはずがたり:2018/10/08(月) 12:36:50
よごれんさんに初いいね貰えたw

次はチャーハン食いに行かねばww

448とはずがたり:2018/10/14(日) 15:04:24

何が良いかってその気宇壮大な名前だよな。

2018年10月20日
RM ライブラリー231 北陸鉄道金名線
https://www.neko.co.jp/magazine/rm-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC231

北陸鉄道金名線は石川県南部山間部の白山下駅から、手取川の流れに沿って加賀一の宮駅までを結んだ鉄道です。1926(大正15)年の開業当初は金名鉄道と称しましたが、この鉄道名は「金沢」と「名古屋」から一文字ずつとった大変壮大なものでした。戦時中には石川県内の多くの私鉄が統合されて北陸鉄道が設立され、金名線もその一員となりました。特に金名線は、線路が接続する石川線、能美線とともに、「石川総線」と称されたこともありました。
能美線と同じく自動車の普及による利用者とともに昭和40年代には朝夕のみの運行となりました。1984(昭和59)年には運転を休止、以後列車が運行されることなく、1987(昭和62)年に全線が廃止されました。

449とはずがたり:2018/10/15(月) 19:36:36
どこだ?何を運んだんだ?彦根って事は住友セメ辺りの石灰石か?

場所は此処だ。
https://www.google.co.jp/maps/@35.2675779,136.2788757,808m/data=!3m1!1e3

セメントで合ってたみたいだ。1959年操業開始1970年頃閉山と短命だったようだ。
http://yamabiko.ciao.jp/05_torek/t25znn/25zn_nodayama2009/25zn_nodayama2009.html

1933年工場開設,1996年工場閉鎖。歩鉄さんのレポ。専用線は1988年廃止だそうな。
鉱山開発前から操業してたし,採掘中より閉山後の方が長く工場を操業してたんだな。
基本どっかから石持ってくるビジネスモデルか。住友と合併する前は小野田系だった事もあったようだが流石に東藤原から索道で運んだりはしてないよねえw
http://www.hotetu.net/haisen/Kansai/110604sumitomooosakahikone.html

https://twitter.com/roadexplorer/status/1050433511612604416
えぬ
@roadexplorer
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高速道路:鉄道:並行して走る東海道新幹線と名神高速道路の同じ位置を、それぞれ謎の構造物が覆っている。ここには、かつて鉱石を運搬する索道が通っていて、その落下物防護用に作られたもの。今は索道は撤去されてしまっているが、その防護用構造物だけが残されている。滋賀県彦根市

10:10 - 2018年10月11日

450とはずがたり:2018/10/21(日) 19:22:58

昭和36年 赤信号
https://www.youtube.com/watch?v=VUvEmCfwRew
昭和33年 あの道、この道
https://www.youtube.com/watch?v=ECjgyLt7AbY&amp;feature=youtu.be

451とはずがたり:2018/10/21(日) 19:23:21

https://twitter.com/kendou774/status/1052547495056658433
R774@まとめ屋

静岡r389(水窪森線)は見どころ沢山の非常に楽しい険道だ。これ一本あれば丸一日は楽しめる。地形は険しいが、道自体はそれほど酷い道ではない。以前はその険しさ故に、夜間は通行止めだったが、今はどうなったのだろう?

6:10 - 2018年10月17日

452とはずがたり:2018/10/23(火) 22:53:47

伝説の一本杉峠のr218(茨城県道大塚真壁線)だが県道として県報に記載されているので県道として認定されてるし管内図にも載ってるので歴とした県道だけど道路台帳には載ってないそうな。
https://twitter.com/kendou774/status/1054697266798194690

今話題の茨城r218(大塚真壁線)の一本杉峠。県報では供用開始となっているが、道路台帳がないという謎な区間であった。このような中途半端な状態で県道と認識してもいいのだろうか?そんな謎をもうちょっとだけ調べてみることにした。


未整備故に道路台帳が作られないというのも些か疑問が残る。例えば熊本県の道路台帳作成事務提要には『(交通不能区間)全幅2.5m 未満の区間は図面を作成しない』とあったりするので、茨城県にもそのような制約があったのかもしれない。

453とはずがたり:2018/10/26(金) 11:30:18
知らん間に赤岩駅事実上廃止されてたようだ。

赤岩駅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B2%A9%E9%A7%85

1990年(平成2年)3月10日 - 山形新幹線の運行にあたり標準軌化工事を行う。スイッチバックを廃止。現在地に移転。
2012年(平成24年)12月1日 - この日から2013年(平成25年)3月25日まで全列車通過[4]。以降も毎年この期間は全列車通過となる。
2016年(平成28年)
12月1日 - この日より2016年度の冬季休業に入る[2]。
12月16日 - 同日付プレスリリースで2017年3月のダイヤ改正より「通年通過駅」となる旨が発表される[1]。
2017年(平成29年)3月4日 - 同日のダイヤ改正で「通年通過駅」となり、営業休止。停車列車が正式に消滅[1][2]。

454とはずがたり:2018/11/01(木) 13:57:43
150 自分:とはずがたり[] 投稿日:2018/11/01(木) 13:57:28

https://twitter.com/Harita_arayshi/status/1013722168251674625
治田 洗礫
@Harita_arayshi
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その他
テキサス大学のコレクションにある米軍25万分1地図は1955年頃の編集。羽幌炭鉱鉄道、天塩鉄道、留萌鉄道も描かれているが…
http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/japan/txu-oclc-6900707-nk54-2.jpg

2:52 - 2018年7月2日

https://twitter.com/AKAIWA8095D/status/1057856406949261312
いたや@北炭会
@AKAIWA8095D
フォロー中 @AKAIWA8095Dさんをフォローしています
その他
これは1955年では無く1965年以降1970年末までの地図じゃないだろうか…。羽幌炭鉱鉄道専用線(国鉄非営業線)の三毛別まで延びたのって1965年やで

21:46 - 2018年10月31日

455とはずがたり:2018/11/04(日) 18:01:03
木曽山脈に残る奇跡の廃村「大平宿」で楽しむ古民家宿泊
https://www.travel.co.jp/guide/article/21248/
更新日:2016/09/09 16:38

https://twitter.com/kooooona/status/1058544740788928513
こな
? @kooooona

適当に走ってたらいつのまにか電波が無くなってて、そのまま更に行ったらタイムスリップしたような場所に出たのでさすがに引き返してきた

人っ子一人居なかったのでビビりまくってましたが、太平宿というかつての宿場町だったところのようですね。泊まれるところもあるようなので今度じっくりいってみたいです?

19:21 - 2018年11月2日

456とはずがたり:2018/11/12(月) 08:53:42
日本 25万分の一 札幌 1950年代だったかな? テキサス大所蔵
http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/japan/txu-oclc-6900707-nk54-2.jpg

457とはずがたり:2018/11/12(月) 08:54:27
ここから行ける

http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/japan/

458とはずがたり:2018/11/16(金) 12:48:47
“まぼろし”返上? 1カ月半続く水に驚き 矢板・おしらじの滝
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181116-00010001-soon-l09
11/16(金) 8:00配信 下野新聞SOON
“まぼろし”返上? 1カ月半続く水に驚き 矢板・おしらじの滝
1カ月半にわたって水が流れている「おしらじの滝」
 めったに水が流れず“まぼろしの滝”と言われる栃木県矢板市下伊佐野の「おしらじの滝」に、約1カ月半の間、水が流れ続けている。異例の事態で、15日も少量の水が流れた。関係者は「まぼろしと言えない状況」と驚いている。

【動画】静寂の中、滝つぼに落ちる水の音が響く「おしらじの滝」

 滝は高さ15メートルほど。条件がそろうと青く輝く滝つぼは神秘的で、最近人気が高まっている。大雨の後ですら水がないこともあるが、台風24号が過ぎた10月1日に大量の水が流れ落ち、その後も流れ続けている。

 滝近くの山の駅たかはら山口保行(やまぐちやすゆき)館長(56)は「本来は年間で十数日しか見られないのに」と困惑気味。一時的な水脈の変化の可能性を指摘し「水量は減っている。来春にはまた『まぼろし』に戻る」とみる。

 15日に友人と訪れた宇都宮市インターパーク2丁目、会社員岡野竜治(おかのりゅうじ)さん(42)は「流れていないと思っていた」と想定外の光景を喜んでいた。

 駐車場から滝までは未舗装の山道。12月1日からは冬期通行止めになる。


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