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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

828中嶋康博:2021/12/23(木) 15:33:59
『感泣亭秋報』16号
『感泣亭秋報』16号

 今年も『感泣亭秋報』の寄贈に与りました。
 詩人小山正孝の顕彰を主目的に、令息の正見氏が主宰編集する年報雑誌です。
 周辺にあった抒情詩人達の研究にも開放されて早や16年。渝ることのない、むしろページ数を更新して充実度を増す誌面には驚かされるばかりです。

 このたびは小山正孝の初期拾遺詩を集めた『未刊十四行詩集(潮流社 2005)』に未収録のソネットが新たに発見されたことを受け、全22篇が公開されてゐます。渡邊啓史氏による一篇一篇への詳しい解説に、この草稿が詩人の詩業全体から意味するところの考察を付して、大きな「特集?」になってゐます。
 手帖の筆跡は内容からみても二つに分れてをり、冒頭の日付(1956.6.9)に近接して第2詩集『逃げ水(1955年)』、第3詩集『愛し合う男女(1957年)』が刊行されてゐます。
 興味深いのは、前半6篇が、遠く弘前高等学校時代の思ひ出を描いたもので、『未刊十四行詩集』の「?ノート(1954.12.25)」との関係を感じさせる“四季派色”の強い作品であるにも拘らず、詩集には採られず、対して濃密な愛情が描かれた残り後半の16篇から多くが、推敲を経て翌年の第3詩集『愛し合う男女』に収録されてゐることです。
 つまり草稿は単に詩集制作途中の副産物といふにとどまらず、ソネット形式には拘りつつも“四季派色”すなはち立原道造の影響からの脱却を模索してゐた詩人の、当時の方向性を読み取ることもできるのではないか。――渡邊啓史氏は「?ノート」の作品群と、この手帖前半の6篇とを合せて編まれただらう、刊行に至らなかった「弘前時代を回顧する青春詩集」について構想されてゐます。
 けだし卓見といふべく、大人の愛憎より若者の恋愛が描かれた詩を好む私は、かつて公表された『未刊十四行詩集』においても、故・坂口昌明先生が推された「?ノート」に目を瞠りましたが、そしてこの手帖でもとりわけ前半の弘前詩篇に清楚な出来栄えを認めるが故に、渡邊氏と同じく「幻の詩集」を思ひ描いてしまったことです。「抑制された語り口」で「風景を通して内面を」表現する“四季派色”の強い作品を一篇、引いてみます。

 小山正孝の新発見ソネット詩稿より

  【その2】
日の光の中を 私は坂道を しづかに
牛のやうに しづかに くだつて行つた
垣の緑のあひだを 汗を流しながら
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた

ハーデイの小説の中を私は生きてゐるのか
老人のやうに しづかに 歩いて行つた
目に涙をうかべながら 垣の緑のあひだを
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた

青い空が 日の光が おどつてゐるやうだ
あの少年の日に 私がのぼつて 食べてみた
あの桜んぼはなくなつて 桜の木はなくなつて

赤い実が葉かげにゆれてゐたことも
枝にまたがつて 実を食べたことも
私は思ひ出の中 坂道を しづかに くだつて行つた


 雑誌『四季』によって育った第2世代の詩人たちが、戦後現代詩の「抒情否定」の詩流に向き合ひ変貌していった事情については、続く「特集?:四季派の周辺」においても、鈴木正樹氏が「堀内幸枝の作品世界」のなかで明らかにしてをられます。
 戦前戦中の閉ぢた政治フレームの下、箱庭のやうな環境で醸成された抒情世界を、戦後もそのまま持ち続けることの難しさ、いな、堀内幸枝のやうな詩人にあってはもはや不可能であったことを、あからさまに指摘しないまでも、惨落に喘ぐ抒情の様子を追ひ続けた一文のやうに思ひました。
 山梨の片田舎で育った彼女ですが、戦時中は同人誌『中部文学(山梨)』の野沢一ら地元詩人たちや、『まほろば』で籍を同じくした山川弘至を始めとする日本浪曼派系の同人たちと交流を持ったといひます。親から結婚を強いられることなく、そして理解者船越章が所属する『コギト』の圏内から、所謂マドンナ詩人として詩集『村のアルバム』を戦時中に刊行してゐたら…、もしくはデビューが戦後であったにせよ最初の詩集として問うてゐたら、その後どんな道行きになったことでしょうか。
 純粋な抒情を持してゐた女性詩人には、日塔貞子のやうに夭折してしまったひとがあり、山本沖子のやうに30年詩が書けなくなってしまったひとがあり、また堀内幸枝のやうに伝統からは退いて現代詩に塗れたひとが居ったことを、戦後の抒情詩を思ふ際にはいつも想起します。
 小山正孝は、さういふ意味では彼女達と同じく戦争で身を汚すことを免れた上で、男性として詩人の出発時にすでに恋愛のうちにエロスを見据えてをり、それを手掛かりにして立原道造の影響から(ソネット形式だけをしばらく受け継ぎ)不完全変態を繰り返した後、やがて箱庭の意義も新たに抒情を韜晦する独自の制作姿勢を身につけて、現代詩詩人として立つことを得たひとであったやうにも思ひます。

 さうして恋愛とエロスとを切り分け得なかった、ロマンチック気質を同じくする生涯の親友が山崎剛太郎といふことになりましょうが、今号は3月に103歳で長逝された山崎先生と、翌4月に病に斃れた若杉美智子さんに対する哀悼をこめた特集が続いてゐます。
 正見氏は主宰者として、別に後記「感泣亭アーカイヴズ便り」のなかで心のこもった追悼文を寄せてをられますが、「特集?、?」といふ形で呼ぶのを憚ったことにも思ひやりを感じました。

 山崎剛太郎先生の追悼文は、佐伯誠さんの一文に感じ入りました。私も震へる筆蹟に奥様が解読を添へて送って下さった先生からのお手紙を大切にしてをります。かつて草した一文を再び手向けます。

 そして若杉美智子さんの「雑誌「未成年」とその同人たち(再録)」は、彼女の個人誌『風の音』で18回にも亘った長期連載の一括再録ですが、兼ねがね通覧したいと思ってゐた文献でした。これが今『秋報』における、もう一つの大きな目玉となってゐます。
 立原道造、杉浦明平、猪野謙二をはじめ、寺田透、田中一三、江頭彦造、國友則房ら、一高卒東大生の文学有志による同人誌『未成年』9冊(昭和10‐12年)について、その歩みを一号ずつ、回想・書翰等の周辺資料を駆使して同人達の動向と発行当時の影響とを一緒に書き留めてゆかうとした「詳細な解題」ですが、不日誌面が復刻されることがあれば、本文43ページに上るこれら解説に、蓜島亘氏による「附記」13ページを合せて副読資料として欠かせないものとなりましょう。
 立原道造といふより、杉浦明平に長年私淑された若杉さんについては、『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を翻刻・編集された晩年の業績にはなむけする別所興一氏の文章がこの後に二本続きます。うち後者は私も寄贈を忝くした左翼系の文学同人誌『遊民』12号(2015年)掲載の再録ですが、郷里で永年明平氏の身近にあって直接指導も受けたひとならではの、日記から看取された率直な「杉浦明平観」が述べられてゐます。
 すなはち彼の女性観においては、年甲斐もない純情さや、美女にうつつをぬかすといった「育ちの良さ」を「中途半端」と指摘し、伴侶を選択する際にその女性の背後人脈を天秤にかけ、作家信条が脅かされることのない方を妻に選んだことについて「随分エゴイスティックな結婚観」とまで呼んでゐます。
 一方、戦時体制に対しては容赦ない批判が綴られてゐるこの日記。日本浪曼派に対する憤りを死んだ親友の立原道造に向けて叩きつけ、その浪曼派の総帥保田與重郎が排したアララギ派についても、戦争讃美が満ちるやうになったと絶望し、遂には官憲の取り締まりに怯える小心翼翼たる自分自身に鋒先が向かふといった内容です。
 ここにも小山正孝同様に兵役や徴用に就くことを免れ得た男性知識人が隠し持つに至った、「何もできないけれど目をそらさず最後まで見届けてやる」との臥薪嘗胆の気概を認めることができましょう。戦後、彼が最初に出版した文集『暗い夜の記念に』の中でなされた文学者への告発は、軍部に対する憎悪をそのまま感情に任せて移しただけの悪罵にすぎませんでしたが、「生来ロマンチストであるゆえに、リアリストの限界を知り、リアリストと身をなしたがゆえに、ロマンチストの欠陥を体験している」、ハイネのやうな心性を宿した彼の文学の出発点を考察する際には、称揚するにせよ批判するにせよ今後この日記が合せ読まれることが必須となるやうに思ひました。
 『杉浦明平 暗夜日記1941-45』については、かつて拙サイトでも述べてゐますが、明平先生は晩年になっても岩波文庫の『立原道造詩集』解説のなかで、四季派詩人たちが愛した信州の地元の人たちのことを、やはり感情先行で「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と罵倒してゐて、(さういへば立原道造も渥美半島に咲き乱れる百合をユウスゲと較べてガッカリしてたのを思ひ出しました)、大笑ひしたのですが、さういふ他愛無い私見の放言、イデオローグには到底なり得ぬ反骨の真面目について、機会があれば更に知りたく思ってをります。

 他にも気になったのは、青木由弥子氏が、独文学者で哲学者の恩師、加藤泰義氏の遺した2冊の詩集について語った一文。
 加藤泰義…? 未知の人かと思ったら、詩を書いてゐた20代、覚束ない理解で読んでゐた『ハイデガーとヘルダーリン(芸立出版1985)』や、訳書『シュペングラー:ドイツ精神の光と闇(コクターネク著:新潮社1972)』といった本が、加藤氏によるものであったと知りました。
 当時、さかんにドイツロマン派界隈の訳書を漁って、ドイツ語文脈圏の詩的感触、或ひは形而上学から香る詩的氛囲気に親しんでゐたことを思ひ出しましたが、ギリシア神話が出される条りにはヘルダーリンが想起されるものの、詩人として紡がれた優しい言葉遣ひには「特集?:四季派の周辺」に収められた理由が首肯されました。
 哲学者として実存と向き合ひ考察をこととする人が、詩人として生を語る際には、時の詩壇・詩流などとは関係なく、純粋な抒情が斯様に啓かれ、自然に紡がれるものなのかもしれません。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。以下に目次を掲げます。有難うございました。


『感泣亭秋報』16号 2021.11.13 感泣亭アーカイヴズ刊行 244p 1,000円

詩 小山正孝「一瞬」4p

特集? 未発表十四行詩草稿22篇
 未発表十四行詩草稿22篇 本文とノオト 小山正孝6-42p
                   内面の現実(※解題と考察) 渡邊啓史 43-77p

特集? 四季派の周辺
 塚山勇三の詩 生涯を一つの長篇詩のように 益子昇 78-87p
 「詩集舵輪」について 小山正孝 88p
 堀内幸枝の作品世界 鈴木正樹 89-102p
 加藤泰義の「小さな詩論」 詩で生を思うということ 青木由弥子 103-110p

ある日の山崎剛太郎
 美しい集い 山崎剛太郎氏に感謝 水島靖子 111-113p
 恐るべき人とdangerous boy 宮田直哉 114-118p
 楽しみと日々 山崎剛太郎さんのプルースト 佐伯誠 119-123p
 残照を仰ぐ 山崎剛太郎氏の片鱗にふれて 北岡淳子 124-126p
 アラカルト(a la carte)「薔薇物語から薔薇の晩鐘まで」観劇記 善元幸夫 127-131p

若杉美智子の机
 雑誌「未成年」とその同人たち(再録) 若杉美智子 132-179p
 付記 若杉美智子「雑誌「未成年」とその同人たち」によせて 蓜島亘 180-192p
 若杉美智子さんの杉浦明平研究をめぐって 別所興一 193-196p
 『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を読む 別所興一 197-204p

回想の畠中哲夫 三好達治と萩原葉子さん。そして父のこと2 畠中晶子 205-206p

世にも不思議な本当の話 高畠弥生 207-211p

うらみ葛の葉 または葉裏の白く翻る時 渡邊啓史 212-222p

詩 中原むいは/里中智沙/柯撰以 223-227p

私の好きな小山正孝
 若き日の愛の記憶――『雪つぶて』を読む 服部剛 228-230p

濁点、ルビ、さまざまのこと 渡邊俊夫 231-234p

信濃追分便り(終) 布川鴇 235p
常子抄 絲りつ 236-237p
鑑賞旅行覚書6 オルガン 武田ミモザ 238p
《十三月感集》 3他生の欠片 柯撰以 239-240p

感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 241-244p

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829中嶋康博:2021/12/31(金) 16:45:03
今年の収穫書籍・雑誌より
今年の収穫書籍・雑誌より一部を御報告。(刊行日順)


『勢陽風雅』雪巌道人編 (伊勢地方の漢詩アンソロジー)宝暦8年 土地の名に『〇〇風雅』と名を付ける地方詞華集の濫觴でしょうか。


『勢海珠璣』家里松嶹編(同上趣旨の後継アンソロジー)嘉永6年 扉の「無能有味?(齋)」なる庵号に編者の性格が偲ばれます。



銭田立斎(金沢)『立斎遺稿』上巻 天保12年 金沢の富商詩人。大窪詩仏を歓待する詩が数篇あり『北遊詩草』にも彼に謝する五律を載す。


 仲冬旬四日邀詩佛先生于艸堂

人事すべて縁の有らざるなし。尋常相遇ふ亦た天に関す。何ぞ図らん詩伯の千里を侵し、来りて吾曹と一筵を共にせんとは。

聊か素心を竭くして野蔌を供し、更に新醸を斟みて溪鮮を煮る。斯の如き良會の得難きを知る。況んや復た交遊の暮年に在るをや。


『増補書状便覧』弘化2年 手を掛けて修繕した本はとにかく可愛い!
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上田聴秋『月瀬紀行』乾坤2冊 明治21年 昨年知った郷土ゆかりの文人


高島茂詩集『喜ばしき草木』大正13年 信州の自然詩人。国会図書館未所蔵。


服部つや遺稿詩集『天の乳』昭和4年 岐阜県詩集で未収集だった本。今後おそらく現れないかも。


稲森宗太郎遺稿歌集『水枕』昭和5年 大切ないただきもの。


『小熊秀雄詩集』昭和10年 伏字に附箋を張って書込み補充しました。


龍木煌詩集『門』昭和10年 限定150部 椎の木社版の詩集。買へる場面に遭ったら迷はず買ひたい。


大木惇夫『冬刻詩集』昭和13年 伝記を読んで親炙するやうになった詩人の限定100部限定豪華装釘本。


北園克衛詩集『火の菫』昭和14年 限定200部 ほしくても手が出なかった永年の探索本。函欠なれど意匠は扉にも採用されてゐて満足。


圓子哲雄主宰詩誌『朔』92冊 昭和47年〜 圓子さんの辱知を得る以前のバックナンバーを一括寄贈頂きました。


揖斐高編訳『江戸漢詩選』上下巻 令和3年 斯界第一人者の先生よりゆくりなくも御恵投に与り感激。


冨岡一成『江戸移住のすすめ』令和3年 盟友の新刊。病臥の間に現在も新著を執筆中の由、再起を祈りをります。


『谷崎昭男遺文』令和3年 保田與重郎・日本浪曼派の逸話満載。


小山正孝詩誌『感泣亭秋報』16号 令和3年 過去最高に充実した内容。

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830中嶋康博:2022/05/18(水) 22:53:56
丹羽嘉言『謝庵遺稿』
尾張の画家、丹羽嘉言:にわ-よしのぶ(1742-1786)の遺稿集『謝庵遺稿』 享和元年(1801年)序[刊] を手に入れました。
再刊本『福善斎画譜』 文化11年(1814年)序[刊]と共に、原本はすでにデジタル公開されてをります。

 わたしはどうしても小動物についての記述に目がゆきます。「蚊を憎む文を愛する説」といふ一文。(13-14丁)

 丁酉(安永6年1777)六月 曬書の次に、清少納言の枕書(枕草子)を披き「蚊を憎む一節」に至りて、其れ言簡にして意至れるを愛づ。
 早くに豹脚有りて、眉睫の間に翺翔するは、一に其の言の如し。
 當初の清氏、後の数百歳、蚊の人と興に有ること今日の如きなるを豫め知り、而して筆を下し斯文を成せり。
 予、今、斯文を玩し、而して後、數百年前、蚊の人を擾(煩わ)すこと今日と同じく、又た今より以後、數百千歳も、蚊の人と與に有ること一に今日の如く、而して斯文の終に亡ぜざるを知る也。
 李笠翁云ふ。「蚊の為物(物となり)や、體は極めて柔にして性は極めて勇、形は極めて微にして機は極めて詐。地を擇びて攻め、?に乘じて以て入る。昆蟲庶類の善く兵法を用ゆる者、蚊に過ぎたるは莫し」と。
 是の言、蚊のことを盡したるか。假し予をして蚊子に為らしめば、將に笠翁に於いて三舍を避けん(恐れ近づくまい)。
 古人の筆を弄するは、景を見ては情を生じ、場に逢ふては戲を作す。惱むべく憎むべきの蚊を以て、變じて笑ふべく愛すべきの文に做(な)し、既にして以て自ら娯しみ、又た我が後の人を娯ます。蚊子は微物と雖も、亦たともに斯文に力有るは、豈に憎む可けん哉。
 是に於て殘帙を理(おさ)め、蠹魚を撲ちて嗟嘆獨語す。蚊の既に我が臀の斑然たるに飽けるを知らずと。

丁酉六月 曬書之次 披清少納言枕書 至憎蚊一節 愛其言簡意至 早有豹脚 翺翔眉睫間 一如其言 當初清氏豫知後数百歳 有蚊與人如今日 而下筆成斯文 予今玩斯文 而後知數百年前 蚊之擾人同今日 又知自今以後數百千歳 有蚊與人 一如今日 而斯文之終不亡也 李笠翁云 蚊之為物也 體極柔而性極勇 形極微而機極詐 擇地而攻 乘?以入 昆蟲庶類之善用兵法者 莫過于蚊 是言盡蚊矣 假使予為蚊子 將避三舍於笠翁 古人弄筆 見景生情 逢場作戲 以可惱可憎之蚊 變做可笑可愛之文 既以自? 又?我後人 蚊子雖微物 亦與有力于斯文者 豈可憎哉 於是理殘帙 撲蠹魚嗟嘆獨語 不知蚊既飽 我臀斑然

また『福善斎画譜』においては第四帖。碩学森銑三翁もまたかういふ瑣末事を愛されたらしく、

「動物の方に「井邦高畫」とあるのが一面加はつてゐる。その猫と鼈との題辭に、謝庵のいふところがまた面白い。

 「余素不喜畫猫與鼈偶見二物皆如讐観余余惡其?之不雅又不喜復見二物一日讀聖師録始知猫之仁鼈之義可傳賞于後世而憶吾之相惡不過一時頑擧也夫人貴乎博愛物固不可貌相猫與鼈可憐哉於是移寫舊圖以補吾畫録而不雅者竟不雅」
(『森銑三著作集 第3巻 人物篇 3』中央公論社, 1973 p465-474 「丹羽謝庵」より)

 拙い訓読を添へて置きます。

「余、素と猫と鼈とを畫くを喜ばず。偶ま二物を見るに、皆な余を観ること讐(あだ)の如し。余、其の?の雅ならざるを惡み、又た復び二物を見るを喜ばず。一日、聖師録※を讀むに、始めて猫の仁、鼈の義を知る。後世に傳賞すべし。而して吾の相ひ惡むは一時の頑擧に過ぎざるを憶ふ也。夫れ人は物を博愛するより貴し。固より貌相の可ならざる、猫と鼈とは憐れむべき哉。是に於て舊圖を移寫し、以て吾が畫録を補ふ。而れども雅ならざる者は竟に雅ならざるなり。」

※図書館の蔵書を検索してみたところ、『聖師録』といふのは、どうやら彼自身の手で和刻した唐本のやうです。

清 王言原本・藤嘉言(丹羽謝庵)著『聖師録』 天明元年7月(1781)]跋[刊]
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB11610423
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA69280076

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0001003.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0001003_2.jpg

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