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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板
797
:
中嶋康博
:2019/11/17(日) 00:51:51
『感泣亭秋報』14号 特集「連帯としてのマチネ・ポエティク」 ほか
現在、『四季』に拠った詩人たちと、その周辺を主題にとりあげる唯一随一の研究誌とよんでよいと思ひますが、年刊『感泣亭秋報』14号が今年もつつがなく190ページの陣容で発行されました。
私も今年の夏に行はれた青森講演を前に、裨益を被った坂口昌明さんへ感謝の念をのべた通信文を寄稿。今号は亡くなった比留間一成氏の追悼号でもありますが、坂口さんについてふれられた寄稿者が、杜実夫人の連載の他にも複数あり、齋藤吉彦研究、真珠博物館への協力等、博覧強記ならではの、中央からは知られること少なかった生前の御活躍が紹介され、この雑誌、印刷所もなぜか弘前なんですが、講演会の余韻もあって私には津軽との縁しをうれしく感じる一冊となってゐます。
さてこのたびの特集は、三つあるのですが、まづは巻頭の「マチネ・ポエティク」、戦後抒情詩の実験的グループとして名高い彼らについて。
中心メンバーだった福永武彦、加藤周一、中村真一郎が、小山正孝にあてた書簡がみつかり、渡邊啓史氏によって24ページにわたり紹介されてゐます。その後につづく半田侑子氏の一文、戦前の加藤周一が遺した「青春ノート」をめぐる考察とともに、興味深く拝読中です。
四季派から咲いた徒花とも称される「マチネ・ポエティク」ですが、半田氏が加藤周一自らの説明によって要約した、その発生について、
「背景には一高時代に開かれた「万葉集」講読会があった。加藤、中村、白井、窪田らは「万葉集」を一言一句、正確に読もうとする経験ののちに、マラルメやヴァレリーなどの象徴詩を精読し、定型押韻詩の試みへと向かった」45p
といふところ、とりわけ、別のところで渡邊氏が引いてゐる中村真一郎の回想、
「その会では戦争批判は出ないけれども、戦争宣伝に対する一種の反対ということに雰囲気としてはなっていたと思うんです。どうして古典に向かったか。日本の軍国主義は一種のナショナリズムだから、無理しても日本文学を宣伝していた。そういうナショナリズムに対する反発もあったと思う。その反発には、フランス文学を読んで日本語の本は読まないというんじゃなくて、あなた方の日本文学の読みかたは、違っているんじゃないかということがあったと思いますね。」29p
といふ、古典との関係は意外にも感じられました。そして加藤周一が、「悪いことというか、愚かなことをしたというので有名です」35p
と自嘲して見せる「定型詩」ですが、みなが論ふ「マチネ・ポエティク」といふ概念が単に「定型詩」を指すにとどまらぬ、戦時中の文学の在り方として、広義な「青年詩人たちの集まり」として論じられて良いのだ、と渡邊氏が指摘してをられます。
すなはち『マチネ・ポエティク詩集』の序文には、作品はなくとも小山正孝や山崎剛太郎の名前が挙がってゐますが、敗戦をまたぐ戦中戦後の1940年代、世の中から距離を置いた堀辰雄を精神的支柱として仰いだ文学青年たちが、思想の動乱から超然と閉じて寄り集まり、持ち寄った高踏的な文芸創作物を朗読した会について、彼ら「仲間」たちの全体とその活動に対して冠せられるべき、亡き詩人立原道造が予定してゐた雑誌を念頭に置いたともいへる広義の「マチネ・ポエティク(『午前』の詩)」といふ概念があるといふこと。
謂はば「定型詩」は、その結果、実を結んだ「成果のひとつ」であった、といふことが述べられてゐるのです。
当時の堀辰雄を慕った若者たちのなかには、フランス象徴詩に理論的な根拠を討ねた若きインテリたちの他に、彼らにはまったく馴染むことのできなかった年少のカトリック詩人、野村英夫のやうな詩人もぽつんと孤立して隅に居りました。
結核のために学業を排し、世事にも疎く家の遺産を食いつぶして転地療養をしてゐた彼の様子について、加藤周一は当時を回想する著書『羊の歌』(岩波新書1968年)のなかで、軽侮の念を以て吐き捨ててをります。立原道造に対して知的な敬意を抱き、四季派ばりの詩を書きはじめた彼にとって、堀辰雄の腰巾着にしかみえない野村英夫は、自分とは対極の環境的・精神的な位置に立ってゐる、求めざるライバルであったといへるかもしれません。
そしてわれらが小山正孝ですが、戦争を忌避するリベラルな気質を同じくしながらも、しかもフランス象徴詩ではなく漢詩を素養にもつことによって、おそらくその他の俊英たちからは一目置かれる存在となり、また却ってそれがために作為的な押韻を諦めたかもしれない、さう私は思ってをります。
立原道造に兄事した彼は、『四季』の詩情を体現する不幸な野村英夫の理解者・盟友となり、のみならず中国文学の造詣を以て晩年の堀辰雄に信頼されるようになった、当時は戦争詩を量産中の田中克己とも、『四季』同人の後輩として親しく交はるやうになります。
押韻定型詩の詩学上では歩調を同じくすることを得ませんでしたが、謂はば戦争にコミットすることを避け得た数少ない詩人として、小山正孝はやはり「マチネ・ポエティク」の「仲間」の一人なのであって、小説家・批評家として文壇に巣立っていった彼らとも中立を保つ格好となった、めずらしい立ち位置にあった詩人であったことを銘記しておきたいと思ひます。
「マチネ・ポエティク」を定型詩運動と呼ぶのは、戦後刊行された理論書『文学的考察1946』とその成果といふべき『詩集』によってもたらされた衝撃によるものでした。堀辰雄は野村英夫の「砂糖菓子のように甘ったるい」詩の、未熟なりに素質の良さを庇護し、なほかつ物足りなさが年を重ねて消えてゆくことを愉しみにしてゐたと思ふのですが、戦時中に朗読会を開いてゐた時点では、「マチネ・ポエティク」にしても、精神的支柱だった堀辰雄の周りでわきあがった、戦争からは目をつぶった綿菓子のやうな営為だったかも知れません。当時、杉浦明平から酷評されたことを記してゐる加藤周一ですが、後年、多恵子氏を中村真一郎と囲んだ座談会では、野村英夫に対してさすがに言葉を慎んだ物言ひとなってゐます(『堀辰雄全集別巻2』月報1980.11)。
(前略)【堀多恵子】 中村さんも福永さんも、いろいろなこと知っていてよくお出来になるでしょ。野村さんがその場にあてはまらない言葉を使ったりまちがったりすると、二人でくすくす笑うわけ。それで彼は傷めつけられたという感じになることがずいぶんありましたね。
【中村】 だってね、中里恒子さんが堀さんのお宅を訪ねて来ると、野村君は「今、中里さんがずしずしといらっしゃいます」と言うんだ。(笑)「しずしず」をまちがえたんだけど。もっとも彼の詩は、そういう舌足らずのところが一種の魅力になっているんだが。
【加藤】 僕が最初に追分に来た時、もう野村さんはいたんだ。学生達は彼のことを「おかいこさん」と言ってたね。まゆの中に入っていて外に出ない、じっとかがんで入っているから。嘉門さんなんかは可愛がっていたな。井川さんは揶揄的だったけれども。シェストフなんかを読んでいる少年がいるというんで、大学生達は面白がっていましたね。
【堀多恵子】 主人は野村さんは何もわからないからと、かばっている感じで見ていたようです。福永さんとは、「四季」に詩を出すことをめぐってけんかしたみたい。
【中村】 「四季」の編集を野村君と小山正孝にやらせる号と、福永と僕やらせる号と一号ずつ分けて、ヴァラェティをもたせようとしたのね。そしたら野村、小山のやる号で福永の原稿を落とし、野村のが載ったので、けしからんと福永は激怒したんだ。
【堀多恵子】 野村さんが亡くなった時に、福永さんは「けんかして、それきりだった」とおっしゃってました。
【中村】 立原道造が死んで全集を出すというので野村君が実務に従事していた時に、立原の日記の中に自分の悪ロが書いてあるのを見つけて、野村君はショックをうけて編集を下りたですよね。それで、下りた直後に、野村君は僕の所に和解を申込んで来たんだ。それは立原の書いていることを見て、自分に欠点があるのに気づいて中村が怒ったのも無理はないと思ったわけ。だから戦争直後は僕の所にもしょっちゅう来るようになった。福永もそのうちに仲直りしょうと言ってたんですよ。
【堀多恵子】 そう、それがチャンスがなかったのか、そのままになっておしまいになったのね。
【中村】 で、遠藤周作君が野村君の所によく行ってたですね。野村君が死んだ時に彼の本を古本屋に売ったりして後始末までしている。僕が野村君に貸してた本まで古本屋に出ちゃったので、原田義人が目につく限り全部買い戻してくれたことがあったよ。(後略)
『羊の歌』はまた『田中克己日記』のなかでも、
「『羊の歌』よみ了り反駁の文かきたくなる。(1969.7.4)」と書かれてゐるんですが、果たしてどこの部分だったでしょう。
さて朗読を念頭に置いた定型詩としては、すでに佐藤一英らによる試みが戦争詩にからみとられる形で展開されてゐました。
やはり『羊の歌』のなかに記されてゐることですが、大学構内に招待されたヒトラーユーゲントを白眼視をもって迎えた彼が、『ナチスドイツ青年詩集』を訳出した佐藤一英に対して一顧だに与へる筈もありません。が、全く別の意図を以て抒情詩の不備を補おうとしたマチネ・ポエティクの押韻定型詩の試みに対して半田氏が、『聯』とおなじやうな意義を感じてをられるのは面白いと思ひました。
「加藤の九八年の「中村真一郎、白井健三郎、そして駒場」、そして九九年の座談会の発言を見みると、加藤はマチネ・ポエティクの試みを、不定全ではあったが、全くの失敗だとは捉えていない。「もし「マティネー・ポエティック」の運動に歴史的な意味があるとすれば」と加藤がいうとき、少なくとも加藤自身は、マチネ・ポエティクには歴史的な意味があると考えていただろう。」45p
三好達治が不満を漏らしたやうに、ポスト四季派といふべき『マチネ・ポエティク詩集』に盛られた詩情そのものの難解さは、一行一行を独立させようと腐心した、ポストモダニズムである『聯』詩と同様に変わるところがありません。
批判が、前衛派・守旧派の双方からあつまり、結局詩壇に降参宣言をした彼らは、散文の世界へとそれぞれ活動の場を移してゆきます。そして小山正孝は、マチネの3名の俊秀から散文の才能を惜しまれながらも、野村英夫の側に残り、それがよかったかどうかは措いて詩人として立原道造の影響と格闘する道に分け入ることとなるのです。
小山正孝と同じくマチネ・ポエティクの一人でいらした山崎剛太郎先生の長寿を寿ぎ、『マチネ・ポエティク詩集』刊行からしばらく経って、東大の後進である亀井俊介氏が渡米前に発表した「マチネ・ポエティクの詩人たち(1958年7月)」の一文を紹介して筆をおきます。
今回も分量が豊富ですべてを紹介しきれませんが、津村秀夫ご長女高畑弥生氏による「津村信夫の憶い出」は必読です。
最後に。 比留間一成氏とともに近藤晴彦氏の御冥福をお祈り申し上げます。
『感泣亭秋報』14号 2019.11.13 感位亭アーカイヴズ刊行 1,000円
詩 小山正孝「愛」4p
特集? 連帯としての「マチネ・ポエティク」
その頃の友人たちと僕――戦争前夜の詩的状況(再録) 小山正孝 6p
またマチネみたいなことをやらう――小山正孝宛、福永武彦、中村真一郎、加藤周一のはがき 渡邊啓史 10p
加藤周一「青春ノート」から見るマチネ・ポエティク 半田侑子 34p
何も隠されてはいない――福永武彦の永遠なる未完成小説 三坂 剛 46p
自負と逡巡――1946年の中村真一郎 渡邊啓史 55p
特集? 詩集「十二月感泣集」を読み直す
小山正孝の最後の詩集「十二月感泣集」を再読して 小笠原 眞 60p
小山正孝の〈永遠〉――二つの「池」を巡って 青木由弥子 64p
最後の和声が響く――小山正孝詩集「十二月感泣集」について 上手 宰 69p
特集? 比留間一成さんを偲ぶ
詩人と教師――比留間一成さんの歩んだ教育の道 高山利三郎 74p
比留間一成先生を偲んで 八木澤泰子 64p
詩人・教育者・陶芸家 比留間一成の「優し」と私 横澤茂夫 81p
「顕彰活動のあるべき姿とは 渡邊俊夫 108p
異国拾遣 回想の古都“ユエ”――悲しくも静かな王城(再録) 山崎剛太郎 123p
感泣亭通信
小山正孝が訳した中国現代詩(その二)――桃蓬子「荒村」 佐藤普美子 129p
津村信夫の憶い出 高畑弥生 131p
一戸謙三展 中嶋康博 134p
かやつり草 富永たか子 135p
詩人たちの面影を求めて 服部 剛 136p
父「畠中哲夫」のこと 畠中晶子 138p
小山正孝さんのこと 前田良和 139p
山崎剛太郎さんを撮る〜百一歳の山崎剛太郎さん自作の詩を朗読する〜 松岡みどり 141p
坂口昌明さんと真珠博物館 松月清郎 143p
感泣亭が結んだ糸――近藤晴彦先生を悼む 松木文子 145p
坂口さんの思い出 三上邦康 147p
梅雨明け 若杉美智子 148p
詩 山崎剛太郎(公園のベンチ)/中原むいは/里中智沙/大坂宏子/森永かず子/中村桃/柯撰以 150-165p
《私の好きな小山正孝》
愛を歌った時人の「切なさ」に心を惹かれる詩 萩原康吉 106p
常子抄 絲りつ 168p
坂口昌明の足跡を迫りて(4) 坂口杜実 170p
信濃追分便り2 布川 鴇 177p
〈十三月感泣集〉他生の欠片 柯撰以 178p
鑑賞旅行覚え書(4) 廻り舞台 武田ミモザ 180p
小山正孝の周辺(8) マチネ・ポエティク世代の文学観(1) 蓜島 亘 182p
感位亭アーカイヴズ便り 小山正見 187p
追伸
立原道造の会の運営につき苦言が呈された一文については、顕彰活動の当初から関られた人物からたうとう声が挙るまでになったのか、といふ感じで瞠目。拙サイトのトップページの検索窓に「P氏」の名前を入れると、昔の嫌な思ひ出が2件ヒットしてきますが、彼の文学を愛するほどの人ならば触れたくもないやうな話題について、敢えて書くことを決意された義憤のしのばれる一文でした。
これにより「P氏」の功績が消えてしまふ訳ではありませんが、組織を運営する際に求められる透明性──“「開く」ことの大切さ”を挙げて雑誌主宰者の正見様が、この一文を能く載せられたことと驚き感心してをります。
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798
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中嶋康博
:2019/12/02(月) 11:35:18
『敬子の詩集』
「詩歌療法」研究の権威である小山田隆明先生を通じまして、久しく病の床にあるといふ林敬子さんの詩集『敬子の詩集』をお送りいただきました。果たしてどのやうな詩集かと、身の引き締まる思いでページをめくってゆきました。病の身を見据え、全篇が死と対峙しているやうな緊迫した作品で埋められてゐるものを想像したのですが、現代詩の作品集であることがわかり、安堵しました。
現代詩が難しいのと言はれるのは、読者からの理解をことさらに求めない、偽りのないつぶやきを、ある意味、断絶をも厭はずに遠心的に投げかける姿にありましょう。言葉と言葉との衝突、あるいは一行一行の間隙に、火花を散らす面白さがあり、詩人として選択するセンスに、私は面白さと真摯さとを探すやうにしてゐます。
拝見した詩集に収められた作品のほとんどが、そのやうな姿をもって、私に跳躍する言葉と行間とを辿らせるものであり、フレーズの数々に著者の感受性の鋭さがみられます。
現代詩音痴を自認する私の感想などあてになりませんが、詩篇として素晴らしいと感じられたのは、終盤に至っての「真夜中」「生きている」「約束」の三篇でありました。そしてこれらが残酷にも病気を発症されてからの作品ばかりであることに驚かされてをります。
真夜中
家を抜けだす
ポケットには小銭入れ
ゆるい坂道 とおい終電車
青白い蛍光灯の照らす
黒いゴミ袋がひとつ
星空がきれいです
風はやや強く
街路樹がなみ打ちます
なんという木なのでしょう
まいにち会うのに名まえを知りません
自動販売機
冷たい缶ビール
あかりの消えた
軒先の犬が吠える
中央線をまたぐと
どこかで走りつづける
サイレンの音 (1998.8.23)
生きている
むくわれない積み重ねがある
きみがどんなに恋い焦がれ体当りで近づこうとしても
たどり着かない 手に入らない 選ばれない
ことや ものや 楽園がある
こんなに夢をみさせて
こんなにも力を奪ってゆく
物質や知識や情報や言葉のなか
知力も体力も能力も 努力さえ
むくわれない大地のうえ
きみは生きている (2000年頃)
約束
音もなく
とおり過ぎてゆく
誰もいないのに
何度もふり返る
待ち続けたのは
何であろうか
音もなく
過ぎてゆく
誰もいないのに
何度もふりかえる
足あとだらけの
約束
私がふみしめた道は
だれと約束したわけでもなく
君と私をへだてる (2007.7.16)
以降、長い闘病生活に入られ、現在に至るまで詩作からは遠ざかってゐるやうであり、けだし、のっぴきならないところで詩が発火したやうな気がいたします。そして「詩歌療法」といふ観点から申し上げるなら、かうして自己に向き合ひ、虚無を見据ゑて作品を仕上げてゆく求心的な努力といふのは、作品としての手ごたへを詩人にもたらすものであると同時に、どこまでも続くトンネルのやうな闘病生活にとってプラスになるものであるとは必ずしも言へなかったのかもしれません。
この一冊は従姉である光嶋康子さんが編集されたとのこと。これだけの詩を書く力量ある著者にとって、おそらくは意を尽くさぬであらうタイトルが物語ってゐるのは、詩集が刊行されたのが時宜を逸して遅すぎた気のすることです。清楚なイラストが添へられたのはなによりでした。
小山田先生よりのご縁をもちまして大切な詩集をお送りいただきましたこと、ここにても御礼を申し上げますとともに、切に敬子様のご健康ご自愛をお祈り申し上げます。
【追記】(2019.12.27)
光嶋康子さんから頂いたお手紙を読みました。慫慂の結果、お便りをもとに書きあらためて下さった「あとがき」を掲げます。本冊をお持ちの方、またお持ちでない方にも出版の経緯について一斑を知って頂けましたら幸甚です。
あとがき
私と従姉妹の敬子さんとは、かなり年齢も離れていますし、住んでいる地域も違いましたので、実際の交流が始まったのは、ちょうど4年前の同じ病気で亡くなった彼女の弟のお葬式が始まりでした。
私は敬子さんの父親の叔父とは、姪というより、少し年の離れた妹の扱いなので、頼みやすかったのでしょうか、お葬式のときの、車椅子の彼女の世話を頼まれました。そのときに、彼女から詩を作っていることを打ち明けられました。
同じ頃発病した弟を見送ることは、どれだけ辛いだろうか…と思い、何か慰めになることが出来ないだろうか、と考えました。そのとき、フッと小山田隆明先生が出版された「詩歌に救われた人びと」の本が彼女の慰めになるかもしれないと思い彼女に贈ったのです。
すると、彼女から9篇の詩が送られてきました。私自身、文学の素養は残念ながら全く持ち合わせていないため、内容については難しくて分からず、正直途方に暮れました。そこで、小山田先生に送られてきた詩を見ていただいたこところ、「優れた詩がいくつかあるから自費出版したら。」と勧めてくださったことが、自費出版へのキッカケとなりました。
9篇では詩集にならないので、最初は断念いたしましたが、叔父が、押し入れの奥から彼女の詩を見つけたので、最初は叔父が、近くのプリント会社で薄い詩集を作りました。
「敬子の詩集」という名前は、そのとき叔父がつけた題名です。
この詩集が出来て、小山田先生にお見せすると「イラストを入れてもう少し女性らしい装丁にすると素敵な詩集になりますが、出版社を紹介しましょうか?」と言っていただきました。確かに、灰色の装丁の詩集は少し淋しいような気がしました。叔父に掛け合い、イラストを描いて下さる方を探し、先生から色々なアドバイスや、出版社をご紹介頂き、出版出来ましたのが今回の詩集です。
イラストは猫を描いて欲しいとの敬子さんのリクエストが有り、彼女の今まで飼っていた猫を写真から描いてもらいました。猫の写真は彼女の亡くなった弟の部屋から見つかりました。そこには、猫と一緒に写っている小さい頃の弟の写真もありましたので、そのイラストを私の好きな詩「約束」に入れさせてもらいました。お姉さんの詩集の中で生きてもらいたいと願ったからです。
今回、出版に際しましては、小山田隆明先生を始め、イラストを描いて下さった安江聡子様、彼女を紹介してくれた友人の横井歩様には、本当にお世話になりました。心からお礼申し上げます。そして天国から出版を後押ししてくれたような敬子さんの弟俊宏さんにもお礼を言いたいと思います。
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光嶋康子
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799
:
中嶋康博
:2019/12/30(月) 15:31:39
『江戸風雅』20号
近世文学の専門雑誌『江戸風雅』20号が到着いたしました。
「『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について」と題して資料紹介の一文を載せて頂きました。
「江戸風雅の会」を主宰・監修される徳田武先生には、2013年の御著書、小原鉄心を中心に野村藤陰や菱田海鴎ら、江戸末大垣藩の文人の事迹を討尋した『小原鉄心と大垣維新史(勉誠出版)』といふ評伝本を読んで驚き、その喜びを直接お伝へすべく、公刊五年後でしたが年甲斐もなく“ファンレター”を認め、お見知り置きを頂いてをりました。
もとより専門外の自分は漢詩も読むだけ、それさへ全くの独学で「下手の横好き」が昔の和本を集めてゐるにすぎません。手許の『山陽詩抄』があらうことか後藤松陰の旧蔵本だったことを知り、その紹介文を書いて看て頂いたところ、訓読の御指摘かたがた「発表場所がなくて困ってゐるなら」と仰言り預って下さったのでした。私の職場は教員でなければ紀要に論文を発表することも叶ひません。
いかなるお導きか、先日『江戸風雅』バックナンバーの1〜6号を手に入れたところでした。はるかに嬉しい媒体の末席に名を連ねる光栄に、門外漢の飛び入りながら抃舞雀躍を隠せません。
目次を一覧、此度の一冊が江戸後期の美濃詩壇に篤い一冊となってゐることもうれしく、この正月にゆっくり繙きたいと思ひます。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
『江戸風雅』20号 26cm,210p 発行:江戸風雅の会
『江戸風雅』創刊の辞 1p
徳田 武 張斐と魏叔子―付 張斐年譜 3p
中嶋康博 『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について 35p
小財陽平 村瀬太乙の贋作考 53p
岩田恭 美濃における幕末・明治の七名僧〜風雅を胸に刻み時代を駆け抜けた禅宗僧侶たち〜 63p
鈴置拓也 林鶴梁年譜稿 86p
徳田 武 吉田松陰と佐久間象山 104p
陳鵬安 「精神病」、「「憑き」及び批判性の欠失――「黒衣教士」の重訳におけるモダンと伝統 139p
徳田武・神田正行 『金毘羅船利生纜』初編翻刻と影印 155p
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800
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中嶋康博
:2019/12/31(火) 00:21:56
2019年回顧
恒例となりました「今年の収穫」より10冊(点)を披露。
野澤一詩集『木葉童子詩経 復刻版』 平成30年
田中克己『詩集西康省』「道造匠舎」蔵書印入り 昭和13年
第三次『椎の木』復刻版 (全11巻・別冊1:コピー) 平成29年
『詩人・一戸謙三展』図録 令和元年
佐藤一英詩集『われを咎めよ』 昭和14年
『高木恭造詩文集』全3巻 昭和58年〜平成2年 (青森での嬉しいお土産)
『尾張に生きた詩人 佐藤一英展』図録 令和元年
梶浦正之『詩文学研究』1-6集 昭和12〜15年
赤田臥牛・赤田章斎父子の色紙 江戸後期
『江戸風雅』20号 令和元年
今年は生誕120年・没後40年を迎へて催された、二人の近代詩人(一戸謙三・佐藤一英)の企画展が、一番の思ひ出となりました。
一戸謙三については、令孫晃氏および青森県近代文学館の伊藤文一室長に励まされながら、夏に青森で催された「特別展 詩人・一戸謙三」の文学講座の任を、無事果たすことができました。
そして佐藤一英については、謙三の盟友であったことを講演でも話すため墓前報告に詣ったところ、たまたま居合はせた地元の方の導きで御遺族と知り合ふことを得、両詩人に所縁の貴重資料(書簡・写真・詩集)を電子公開できることとなり、翻刻や解題の執筆にいそしみました。
秋に一宮博物館で催された「佐藤一英展」に合せて、資料面のサポートをWeb上で(勝手に)させていただいたことは、自分の視野を開く喜びにもなりました。
さらに年末にかけて、以前入手した漢詩の新出資料(『山陽詩鈔』『木村寛齋遺稿』『河合東皐遺稿』)の発表に目途がつきました。
いづれも地元出身の後藤松陰にまつはるものでしたが、早速斯界の学術誌『江戸風雅』上での刊行の栄に浴したことは、昨日コメントで記した通りです。
生涯の思ひ出に残る、収穫多き年となりました令和御宇の元年。お世話になりました皆様にはあらためて御礼を申し上げます。
また棟方志功令孫、石井依子様より、すてきなカレンダーをお贈りいただきました。
石井様には南砺市立福光美術館での企画展「棟方志功の福光時代」が終了したのちも、引き続き志功の疎開先である富山に拠点をつくり、資料整理に当られる由。
御研鑽、御健筆をお祈りしまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
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中嶋康博
:2019/12/31(火) 09:30:23
よいお年を。
さて今年は台風災害に見舞はれた年でありました。うちも雨漏りに遭ひました(苦笑)。
シーボルト台風が来襲した文政11年(戊子1828年)、大晦日にあたって感慨を記した、当時31歳だった後藤松陰の詩を掲げます。
来年こそ良き年になりますやうに。
「歳暮戊子」 後藤松陰
昨日了鹹虀。今朝舂歳餻。
貧家亦随分。粗為迎春労。
今年知何年。四方災変数。
颶母鼓西溟。水妃燎北陸。
百里委灰燼。千人葬魚腹。
物価皆驟騰。豈唯菽与粟。
人情頗不安。況我桂玉酸。
猶勝罹溺焚。酒有且須醺。
已張不復弛。天意豈其然。
待彼載陽日。家々開笑顔。
「歳暮戊子」 後藤松陰
昨日、鹹虀(漬物)を了へ、今朝、歳餻(餅)を舂(うすづ)く。
貧家また分に随ひ、粗なれど春を迎へる為に労す。
今年、知んぬ何の年ぞ。四方に災変の数(しばしば)す。
颶母(台風)西溟に鼓し、水妃(洪水)北陸に燎す。
百里、灰燼に委ね、千人、魚腹に葬らる。
物価みな驟かに騰がる、あに唯に菽と粟のみならんや。
人情は頗る不安、況んや我が桂玉の酸(生活苦)をや。
猶ほ溺焚(洪水・火事)に罹るに勝るごとし。
酒有り、且(まさ)に須(すべか)らく醺(酔)ふべし。
すでに張れば復た弛(ゆるま)ず、天意あにそれ然らん(どうしてそうであらうか)。
彼の「載(すなは)ち陽(あたたか)き日(『詩経』豳風)」、家々笑顔を開くを待たん。
(あっ、シーボルト台風って「子年の大風」か!来年も気を引き締めて参りましょう。)
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802
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中嶋康博
:2020/02/12(水) 23:27:12
鯨書房の閉店
今日、出かけようとしたところ郵便受けに入ってゐた一枚の葉書。鯨書房の閉店(廃業)を記す一報でした。
2013年の年末に先代の名物店主山口省三さんが不慮の事故で亡くなられたあと、東京から帰郷した御子息が急遽家業を継ぐこととなり、慣れない仕事を母堂とおふたりで奮闘される様子を遠目より拝見、やうやく順調に回り始めたと思ってをりましたが、この1月10日、このたびはその二代目行人さんの急逝に遭ひ、半世紀近い店の歴史(HPには35年とありますが私が大学生の頃には開業してをられた筈)に突然幕が下ろされることとなった、との文面。
驚き隠せず、早速永らくご無沙汰してゐたお店に伺ひ、短い立ち話でしたが、お話を聞いて参りました。
図書館から退いた後は、私も仕事上で本の依頼をすることはもとより、自分の本の収集傾向も変はってしまひ、店主とお話を交はしながら探究書を依頼したり、店頭で漁書する愉しみといふものからも遠ざかってしまったので、貴重な店売り店舗が自宅のすぐ近くにあるにも拘らず、先代が亡くなられて以降、すっかり疎遠になってしまったのですが(一旦遠のくとなかなか再び敷居を跨げなくなる)、まだ齢40と伺った息子さんを亡くされた御母堂には(突然ご亭主を亡くされた時も同様でしたが)、おかけする言葉も無く、まだ心の整理がつかぬ御様子のお言葉に耳を傾けながら、こちらからも拙いお悔やみのご挨拶を返すしかすべがありませんでした。
謹んで御店主のご冥福をお祈り申し上げますとともに、岐阜市の古書店「鯨書房」(〒502-0071 岐阜県岐阜市長良191番地15 TEL 058-294-5578 FAX 058-294-8461 )の閉店(廃業)につきまして御報告いたします。
(許可をいただきましたので本日の店内の様子とともに掲げます。)
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803
:
中嶋康博
:2020/03/21(土) 22:08:16
京摂展墓の旅
週の始め、新型コロナ(「子年の大風邪」)騒ぎで人出が少なくなった京都に出向いて、長楽寺、永観堂、南禅寺、西福寺と東山界隈の古刹に漢詩人の墓参を敢行。さらに一泊して大阪の天徳寺へ、此度の資料紹介論文の発表に伴ひ、宿願となってをりました、後藤松陰先生の墓前報告に行って参りました。
長楽寺(頼山陽・牧百峰・藤井竹外ほか)、南禅寺(梁川星巌夫妻)は二度目でしたが、このたび御案内を頂いて参加した、墓地移転法要の行われた柏木如亭の塋域のある永観堂へは初参詣。おまけに法要に参加された篤志家の先生方のおかげで、西福寺の上田秋成の墓所にも立ち寄ることを得た次第。当夜はその“柏木如亭クラスタ”の皆様と、江戸時代漢詩人の濃いい話題にて歓談を尽し、田舎では経験できない愉しい想ひ出となりました。
しかしながら翌日訪れた大阪の天徳寺は、住職のお話によれば第二次大戦時の兵燹に遭った由、加之、さきの阪神大震災の際に台座から倒れたのでしょうか、碑石の表面が層ごと剥がれ落ちかけ、泯滅寸前なのに驚き、心傷んだことです。近い将来どうなることか、近世文学の研究者はこの現状を御存知でしょうか。写真および動画にて御覧頂きたく、こちらに報告いたします。
時節柄、人混みを警戒しつつの旅行となりました。お世話になりました皆様、寔にありがたうございました。
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804
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中嶋康博
:2020/04/15(水) 22:31:20
終日家居・外出自粛中に思ったこと
【その一】 「端本上等主義」について
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むかし、近代詩書を収集してゐたころ、古本通の先輩からよく
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「cogito(私は旧い古書仲間にはハンドルネームで呼ばれます)が買ふ本は、函やカバーの無い汚い本ばかりだねえ。」
?
と揶揄されたものですが、初版本であればそれでよく、もっと言へば、再版でも同じ装釘で安ければそれで満足でした。余った資金でまた別の本を買ひたい「並本上等主義」を奉じて、乏しいコレクションを増やしてきたのです。
それが近頃、収集の鋒先が和本の漢詩集に転じました。
漢詩集は戦前モダニズム詩集のやうに人気の高いジャンルとは言へません。ただ、この世界を充分に愉しむためには、予備知識、現在のわれわれには結構高いハードルが設けられてゐる為に愛好者が少ない。和本のみならず、掛軸なんかも漢詩を書いたものは絵画骨董の好事家から敬遠され、ヤフオクでは真贋不明の“お宝”が玉石混淆で売り叩かれてをります。
四季派の口語抒情と江戸漢詩の訓読抒情とは親和性が高いものらしく、私も中村真一郎や富士川英郎の著作によってこの世界に目を開かれます。そして和本を小脇に抱へて徘徊する老人になりたいものだ、なんぞとあこがれるやうになり、戦前口語詩から明治新体詩を素通りして、皆目見当もつかぬ江戸漢詩の世界へといざなはれてゆきました。ヤフオクや日本の古本屋サイトがなかった当時、新村堂古書店や藤園堂の目録、そして鯨書房の山口さんから折々「こんな本が入ったよ」と店頭で教へられつつ、江戸時代には漢詩のメッカだったといふ地元美濃詩壇を中心に、クタクタの和本詩集をぼつぼつと買ひ揃へていったのでした。
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明治発祥の洋装本に較べれば、和本の世界といふのはさらに50年100年と古い訳ですから、本が汚いのは当たり前で「極美本」なんてものは殆どありません。旧世代の読書人が消え、だれにも顧みられず長年蔵の中で眠ってゐたやうな本も多く、染みや虫喰ひなど普通で、書込みなんかは、ある方がむしろ価値が増す位です。洋装本で謂ふところの「函、カバー」にあたるものとしては、「袋」といふやつが一応はあって、これが残って付いてる本は状態もよいのですが、お目にかかることは珍しい。高価な稀少性を洋装本で例へるなら「アンカット本」の比でしょうか。函やカバーとは同列に扱ふべきものではない「めっけもの」の類ひであります。
さて、さうして漢詩集を集め始めて分かったのが、「上・下」「上・中・下」「一・二・三・四」と分冊されて刊行されることの多いこの和本の世界では、「揃ひ:そろひ」か「端本:はほん」か、これが決定的な古書価の違ひをもたらす評価となってゐることでした。つまり近代詩集ならば必ず拘るべき「初版本」、すなはち和本の「初刷り本」に関する情報が全くもって不明瞭で、目録にも詳しく記されてゐないことが多い。そもそも初刷りか後刷りか判定するための書誌的な指標が、浮世絵のやうな美術的価値を云々されてこなかった和本に対してはそんなにも気にされず、本ごとに差異が論じられることもなく、書誌学的に研究もされてこなかった。あくまでも中身が学術的に大切だった、といふことであります。だから一冊欠けてゐるだけで、使ひ物にならない資料として、まるで洋装本なら落丁本や函がない本のやうに半額以下になってしまふ訳です。
言はんとするところはもうお判りでしょう。私もこのごろは懐具合がさらに悪くなり、この分野でさへ欲しい本がなかなか買へなくなりました。それで思ったのが、この端本。
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考へてみれば、江戸時代の本は早稲田大学図書館や国文学研究資料館など、インターネット上に一次情報が公開されてゐるものも増へてきました。読むだけなら画像でよい。さうなると何を以て究極的な価値を古書にもとめるのか、結局は書かれた情報そのものではなく、原本がもつ感触・風合を和紙や刷り文字の上に確かめ、それを刊行し大切に読み継いでいった古への著者や読書人の想ひを肌身で感じたい、近代詩集と同様、さういふものへ落ち着いてゆくのではないか、情報化のさきにある古書としての価値は、やがて原質にのみやどる骨董価値へと収斂してゆくのではないか、と思ひ至るやうになりました。
?
さすれば、貧乏コレクターとして拘るべきところは「揃ひ」ではなく「刷り」にあり、といふことになります。この観点から渉猟し、安価な端本でも良い刷り状態の本をみつけてゆけば、まことにリーズナブルでハイブロウなスローライフが約束されるのではないでしょうか。かう思って『山陽詩鈔』を探し回ってゐたら、たまさかそれが後藤松陰の手澤本だった。そしてこの度は天保12年、最初に刊行された『星巌集』の甲〜丁集の端本8冊(『紅蘭小集』欠)をオークションで落札、さらに合本された天保8年刊行と思しき『星巌集』の丙集を註文しました。ずっとひっかかってゐた漢詩集の二大ベストセラーの収集を了へたところで、「端本上等主義」に転換したことを自ら標榜してみた次第であります。
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【その二】 国立国会図書館はデジタル化データを開放せよ。
?
新型コロナ禍のもと、各地の図書館が次々と休館に追ひ込まれてゐます。
その最中にあって、国立国会図書館は、所蔵する著作権切れが不明瞭となってゐる資料を、デジタル化の完了したものからすみやかに、インターネット公開するべきであると考へます。斯様の資料の閲覧・複写は図書館間で行はれる「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に限られてをり、かつ現在、コピーをとらうにも遠隔複写サービスの受付も休止してしまひました(2020年4月15日〜)。そもそも外出自粛を余儀なくされてゐる利用者は、供されたデジタル化資料を閲覧しに図書館にもゆけません(やってませんが)。
少なくとも戦前の著作物などは、全てオープンにしてよいのではないでしょうか。序跋、挿絵、装釘者の著作権(公衆送信権)も、書物の成立経緯を考へれば、著者に一任されて文句を垂れる御仁がありましょうか(あったらその時点でひっこめたらよろしい)。また著作権者の没年が不明とならば、一般からも情報源の申告をシステムとして設けるべきです。
とりわけ詩集などは古今、極く一部の職業詩人を除いて「自分の声を理解してくれる人になるべく多く読んでもらいたい」、そのやうな志を以て刊行されるものであります。銅臭の強い権益は全くそぐはない。そしてテキストが開示されることによって、先般にも述べました「原本がもつ原質にのみやどる骨董価値」が、コレクターのみならず古書店に対しても開示されるものと考へます。
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かつて駈け出しのコレクターの頃に、小寺謙吉の『現代日本詩書総覧』や、田村書店の『近代詩書在庫目録』などを紹介しながら、詩集収集の手引きみたいなコーナーをサイト上にupしてゐたことがありましたが、これは終日家居・外出自粛中に思ったこと、和本収集に関する提言と、国立国会図書館のデータ管理について、つれづれに記してみました。
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805
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中嶋康博
:2020/05/13(水) 21:17:45
【テキスト起こし】『明治百家文選』序
『明治百家文選』 隆文館, 明治39年(1906) 9月刊
序
不薄今人愛古人、清詞麗句必爲隣(※李白)。千秋の公論、実に此に在り。古今相及ばずとなす勿れ。孔子の聖、猶ほ且つ後生畏るべしといはずや。乃ち知る、かの徒らに故を悦んで、新に即く能はざるものは、眞に弱者、未だ與に語るに足らざるを。
これを刻下の世に見るに、諸種の文體、紛然雑出、互に其の長を競ひ、殆んど適従するところを知らざるが如しと雖も、融會貫通、渾然一となる、亦た必ず其日あるべく、而して、熙朝の文章、百代に傳ふべきもの、豈に遂に出でずして止まむや。その未だ然らざるは、氣運なほ熟せざるが故のみ。若し既往の事、果して来者を卜すべくむば、勢の赴くところ、断じて、此の如くあるべきこと、智者を待つて後に知らざるなり。
文を學ぶ、必ず先づ標的を定めざるべからず。その法たるや、今人、名あるものの中、わが性の最も近きを擇び、その得意の作、數篇を取り、文法の在るところに就いて縷陳して分析し、しかる後、心を潜めて誦讀し、久うして已まざれば、文氣自然に我が胸臆の間に浸潤し、筆端遂に窘束せず、操縦自在、はじめて能く堂に上るべし。ここに於て、更に其源に遡り、古今を兼綜し、観るところ愈よ廣く、且つ愈よ精に、悉く諸家の長所を併せ集めて之を大成すれば、やがて模倣より獨創を出し、遂に一家の特色を發揮するを得べく、その欲するところ、之に投じて意の如くならざるなきに至らむ。作文の秘訣、更に他法なし。而して、この特に今人を先として古人を後にするは、たとへば、高枝攀ぢ難く、低花折り易きの類、力を勞すること少く、得るところ多きが故のみ。
この書、収載するところ、現代名家の文、凡そ百篇。捜羅未だ至らず、或は碔砆(※珠に似た石)を珠玉となし、累を作者に及ぼすを恐るもの、時に之なき能はずと雖も、これを一概して、深思極構の作、初學これに熟せば、その自ら文を為(つく)る、古様の監鹹、時に入らざるの迂をなすことなく、聲響歩趨を模するの餘、善く法度に循ひ、幸に倒行逆施の弊に陥るなきに庶幾(ちか)からむか。
若し夫れ編纂その他に就いては、學弟河井君の咀華を勞すること最も多く、予は大體に於て指畫を與へしに過ぎず。これ其名を掲げ、特に謝意を表すると云爾(しかいふ)。
明治三十九年九月上澣 久保天随
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806
:
中嶋康博
:2020/05/16(土) 23:03:23
【テキスト起こし】松本健一著『犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任』
松本健一著『犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任』1997年 より
現在、香川大学図書館・神原文庫所蔵の広沢安住自筆「囚中八首衍義」が、国文学研究資料館サイトにてデジタル公開されてをり、この本を執筆当時、著者が拠ったと思はれる写本資料では「なかなか難解な文章だが」「意味がやや不明のところもあるが」と、解釈の滞ってゐた註に対して、より明確な訓読を施すことができるやうになってゐるので補足訂正を試みてみました。
「囚中八首衍義」第一の註(115p)の訓読
徳川右府(大納言(慶喜)復た右府を任ず)政柄を辞し、公(容保)亦た辞職す。(右府、人心騒擾して将に変を生ぜんとするを以て朝に白し、坂城(大阪城)に退く、公亦た之に従ふ)。藩に就き将に日(ひ)有らんとす。而して事情の迫切するを以て之を請うべからずの義有り、遂に伏水の役(伏見戦争)と為る。(右府命を受け上京、前列に邀へられ、[意](つひ:竟?)に発砲するに至る)。随ひて事敗れ以て今日に至る。豈に命に非ず哉。然れども人の尚ぶ所のものは義也、成敗する者は勢ひ也。而して勢に靡き義に背き、以て本を戕(そこな)ひ、宗を堙(うづ)むべけん哉。所謂大義親を滅するもの豈に其れ然らん乎。
昔者、我藩祖(二君に仕へた)馮道の事を以て時人を論ず。蓋し深意有りという。夫れ天朝は名義の存する所なり。倘令(たとい)右府、之を知らざらるとも、則ち安んぞ敝履を棄つる如く祖宗数百年の政柄を辞するを視んや。而して外には欺罔を以て誣(そし)り(徳川慶喜天朝を欺く等の語有り)、私には恭順を以て(慶喜公を)陥るる。(苟も恭順を勉むれば則ち社稷を保つべし云々と人をして伝播せしむる者少からず)。巧詐百変、実に人をして応接に遑(いとま)あらざらしむ。此れ乃ち人心の以て厭はざる所、而して成敗の以て分るる所なり。朝に臣僕為る者、夕には則ち相共に之を斃し、甚しきは之れ則ち其の賞を受けんとす。如何なる者、藩祖をして一たび之を視せ使むれば、其れ之を何とか謂はん哉。然らば則ち我が邸の荒蕪の此の状に至る者も、亦た数(運命)有りて然る耶(か)。余、敢へて酸嘆せざるなり。吁(ああ)。
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「囚中八首衍義」第四の註(126p)の訓読
此の後、徳川氏監察某(勝海舟か)、書を余に致し、吉之助(西郷)との会期を報ず。余直ちに之に赴けば(書は林三郎に因って来る。乃ち共に休之助を訪ふ)、則ち然らず。(監察誤聞して(休之助を)吉之助と為す)。
海江田武治(薩人。時に参謀たり。余、在京時の交友なり)、休之助をして語を余に致さしむるや、辞、懇得(懇篤)を致せり。之に因って、公(天公)に上す所の書、蓋し二十余の疎(上疏書簡)中、達し得たる者は、只だ此れ有る耳(のみ)ならん。更に休之助に託するに吉之助との(会見の)期を以てす。
余、必ず吉之助を期するは只だ此れ有り。此れ有りとは抑も又た説有り、曾つて(吉之助の)其の人と為りを観、立談にて能く断ぜり(蓋し武治は則ち恐らく未だ能はざる也)。余、薀蓄の至誠を発し、天理人情の極まる者を弁ぜんと欲せり。彼、苟くも(我が言に)従はば則ち生民の幸、之に過ぐる無く、従はざれども亦た以て我が義を伸ぶるに足る。是れ其の人を得るに非ざれば、以てロを開く可からず。故に屢(しばしば)之(会見要求)を要せし也。
古へより聖哲の士、尚ほ囹圄に苦しむ者多し。唯だ心を動かさざるを貴しと為す。余、初め総督営に在る時、胸間、常と異なる者有るに似たり。因るに、此に投ぜらる故(ゆゑ)歟と謂ふ。何ぞそれ是の如きや。自ら羞ぢ自ら嗟く。居ること半日、下泄中に長虫あるを視て、意、初めて解けり。(蓋し宿酔の致す所也。)然して之が為に心を動かすは、拙劣の甚だしき也。
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「囚中八首衍義」第六の註(135p)の訓読
坐隅、常に水を盛る(尿瓶?洗浄?)。(之を用ふ、故に時ならざれば置かず)。而して絶えて火気の入る無し、是を以て人の多くは湿気に中る。疥癬満身蟣虱(しらみ)衣に溢る。(義観、素衣を着し来る。のち虱の為に殆ど黒し。余亦た「開襟虱作群」の句あり。皆な然らざる者なし)毎朝一掃すれば虱の殻と疥癬と白、堆を作す耳(のみ)。且(しばら)く病疫者は常に絶えず、死す者は未だ必ずしも刑に就かざりし。
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「囚中八首衍義」第七の註(142p)の訓読
大名街に在る時、始めて兄の北越に戦死せるを聞く。(友人の郷より来れる者あり。私(ひそ)かに之を余に報ず)
鳴呼、殉難は義也。余毎(つね)に思ふ。一家に男子三人。(少(わか)き姓(やから)は僅かに十歳。其の数にあらざる也)而して一死以て君恩に酬ゆる者無く、かつ余の如きは一事をも成す能はず孑孑(げつげつ)として(ひとり)此に在り。実に羞かしき一家なり。此の報を得るに及んで、稍(やや)責を塞ぐを覚ゆ。
既にして(しばらくして)又思ふ。余の兄、勇敢にして気有り、かつ数奇にして志を得ず。毎(つね)に奮いて以て当に難衝に当らんと欲したるは、一旦夕の願に非ざる也。故に、その死必ず醜ならざる也。後に之を問ふに果して然り。(時に我が軍有利たりし故に頗る厚く葬らる)
然れども母の情に在りては果して如何。二子すでに失ふ。(城の陥ちる日に及んで独り幼稚なる者の往来を許し使命の致す一の某、土州の営に入り謂て曰く、官軍残忍と。土人其の故を問ふ。某曰く、聞く、広沢安任の如き、官軍は之を市に磔に執す、残忍に非ずやと。土人曰く、敢へて之を磔にするには非ず、唯だ首を刎ねし耳(のみ)と。是に於て人皆な余の死を信ず。流説紛々、自ら母の耳に入りしは知るべき也)
一孫亦た未だ何処に戦死しかを知らず。(初め越後に出で、のち庄内に転じ、今は高田に在り)老を扶け幼を提げて流離身を置く処無く、身は亦た如何為るやを知らず。(流離中、祖母病死。鳴呼、悲哉。)而して日に城中を望めば、黒煙簇々、砲声轟々たるのみ。
今年二月に及び、余出でて病を養ふ。始めて書を裁して母に贈る。母、之に報ゆるに曰く、巷説粉々、去歳三月某日を以て書して(わが)臨終と為す。豈科らんや、今日この書を視んとは。以て想ふべきなり。乃ち知る、余唯に母を夢みしのみにあらず、母また余を夢みしこと、其れ幾回ならん。
今、我が公幸ひに先祀を奉ずるを得たれば、則ち余等また闔家相見るを得て、共に夢中の事を語るは、其れ近きに在らん耶。実に意外の幸せ也。
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「囚中八首衍義」第八の註(145,146p)の訓読
鳴呼、彼も一時也。此も一時也。一藩滅びて赤土と為り、主従分散し、骨肉また相見る能はず。遂に天下の笑となる。蓋し亦た此を極度と為す。
今雲霧稍(やや)開け再び天日を拝するを得たれば、則ち極度また漸く(次第に)回(めぐ)らん。
是より日に新たなる者(『大学』)得べしと為すは庶幾(ちかから)ん哉。然らば則ち何ぞ以て此の恥を雪(すす)がん。生々世々(何世代にもわたって)雪がざるべからざるもの也。蓋し一世は変遷して測る可らずと雖も。唯だ天理の正に因て人事の極を尽す者、百世と雖も以て知るべき也(『論語』)。
夫れ天の大地球を視るや、安んぞ其の中に就き、而して人位等品と生別するの暇(いとま)あらんや。唯だ推功(献身)して本に報ゆるの義を以て、世襲世禄自ら形を為す。その弊の、人位等品に至っては亦た種を定む人ありと為す。人々自ら喩へざる也。
故に交際、愈よ広く、眼界愈よ大なるに至らば、則ち人位等品の説、自(おのづか)ら廃せざるを得ず。之を廃すれば則ち予に自主権を与えざるを得ず、而して人をして其の家産を自立せしむる也。(人の家産あるは猶ほ国産あるが如く、亦た天理なり)是を初頭下手の第一着眼となし、而して之を導くに科学を以てす。
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中嶋康博
:2020/05/25(月) 18:58:37
「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」拓本
さきに旧大垣藩の戸田葆堂が遺した明治期の日記を公開しましたが、彼が碑石の由来を添書きしたといふ拓本の掛軸が、ネットオークションに現れました。
同じものは日本国内の博物館ほかに所蔵があり、デジタル公開もされてゐますが、かつて豊臣秀吉が犯した愚行、朝鮮征伐に抗して戦った義勇兵の戦捷記念に建てられたといふ「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」の拓本です。
現物は明治時代に日本へ持ち去られた後、保管してゐた靖国神社から韓国政府を経て2006年、北朝鮮の現地に返還され、きな臭いニュースばかりの両国間の話題にも上った曰く付きの戦国時代の遺物。まさしく朝鮮民族にとっての国宝であり、拓本とはいへ落札の行方が興味深いですが、新しい持主のもとで大切にされることを願って已みません。
明治初期に大陸の詩人たちとの交流を大切にした戸田葆堂ですが、地元大垣から出征した日露戦役の兵士が持ち帰った拓本への添書きに、朝鮮半島侵攻の先鋒を務めた加藤清正を「鬼将軍」と称へる記述があるのは仕方ないでしよう。むしろ彼らを撃退した記念碑を、拓本にして「家宝」とするこだわりない心映えに、何かしら安堵するものを感じたことでした。
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【添書き】
文禄元季豊公征韓之役加藤清正公勇武抜群雷名振於内外當[旹:時]稱云鬼将軍戦酣而生擒該國王子二人即韓軍激昂
憤戦不已鬼将軍一時退此地移它云韓人勒此碑為記念今茲明治[卅:三十]七季日露開戦後備第二師團出征韓国於会寧城發見
此碑師團長三好将軍凱旋日遂持帰以奉献於帝室長存置于振[?:天]府吾大垣高屋町清水仙太郎亦従軍在該地獲石摺一本
帰則装而為記念之家宝 明治[卅]八年乙巳十二月除日 葆堂戸田[炗:光]
文禄元季(元年1593)、豊公(豊臣秀吉)征韓の役、加藤清正公は勇武抜群にして雷名は内外に振ひ、當時稱して鬼将軍と云はる。戦ひ酣(たけなは)にして該國の王子二人を生擒る。即ち韓軍激昂して憤戦已まず、鬼将軍一時此地に退き、他に移る。云(ここ)に韓人、此の碑を勒(刻)して記念と為せり。
今茲、明治三十七季(年)日露開戦。後備の第二師團、韓国に出征し会寧城に於いて此の碑を發見す。師團長三好将軍(※三好成行)、凱旋の日、遂に持ち帰り以て帝室に奉献し、長く振天府(振天府)に存置す。
吾が大垣高屋町の清水仙太郎また従軍して該地に在り、石摺一本を獲て帰れば則ち装して記念の家宝と為す。 明治三十八年乙巳十二月除日(晦日) 葆堂戸田光
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中嶋康博
:2020/06/08(月) 19:41:05
【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】リニューアル
【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】 リニューアル
【凡例】
岐阜県学芸史のバイブルである伊藤信氏編集の『濃飛文教史』1937。ここに現れる漢詩人データを『漢文學者總覽』に倣ってリスト化しました。
同時にその情報源について、墓碑、遺稿集はもちろん、当時の選詩集である
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『玉振集』1778、 『濃北風雅』1783、 『三野風雅』1821、 『聖代春唱』[1826]、 『洞簫余響』[1867]、
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に収録された情報と、照らし合せできるものは確認し、併せてこれまで詩史から漏れてゐた詩人データを追加しました。
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さらに以下の本を精査して『濃飛文教史』情報と重複しない新規情報がないかチェックしました。
日置弥三郎『岐阜市史 通詩編 近世』1981
岩田隆『東海の先賢群像 正続』1986-1987
笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』1969
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表題人名には「号」を採りました。
順序は始めに大まかな地方毎とし、その後さらに細かい地区、もしくは時代毎に、どちらを優先するかは適宜、詩人間のつながり(血縁や結社)を考へながら配置しました。
郷土漢詩人を調べる際のプラットフォームになってくれれば幸ひです。
?
(付記)
当時の版本は人名漢字が定まってをらず(例:「野・埜」、「塚・冢・束」等々)、また赤の他人に編集が委ねられた選詩集には誤記もみつかり、不備は追々訂正して参ります。
リンク先の各ページにおいて公開を試みた草書の解読・訓読テキストについても、御教示お待ち申し上げます。
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809
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中嶋康博
:2020/06/23(火) 12:34:02
『俳諧宗匠 花の本聴秋』
未知の上田千秋様より、明治大正期に俳壇の“宗匠”として一世を風靡した「花の本聴秋」の伝記本『俳諧宗匠 花の本聴秋』(文藝春秋企画出版2020.4)の御寄贈に与りました。さきに拙サイト内にて公開しました戸田葆堂の『芸窓日録』が参考文献として活用されてをり、日記中に頻繁に現れる「上田」なる人物がその人、上田肇:号聴秋であったことを御教示頂き、吃驚してをります。
上田聴秋(1852-1932)と戸田葆堂(1851-1908)とは同年輩、小原鉄心を伯父、祖父としてそれぞれ仰ぐ関係です。下図に示しました。
俳句界は御存知のやうに、明治になると正岡子規による革新運動、所謂「月並み俳句」への批判が起こります。その温床ともいふべき、お代を払ってお点を頂く「宗匠:そうしょう」の制度は、しかし批判を受けて収まるどころか、活版印刷が始まると、俳句を大衆に浸透させる方向でむしろ勢力を拡大してゆきました。
上田聴秋はその一人でしたが、他の宗匠とはことなり別に生計(副業)を持たず、二条家から拝領した称号「花の本:はなのもと十一世」といふお墨付きを盾にして、俳句だけで八十年の生涯を貫いた人です。
明治17年に興した俳句雑誌は生前587号にも達し、最盛期には門人三千人を誇ったといひますから、名声のみならず経済的にも大衆に支へられた最後の職業俳人と言へましょう。この本は、聴秋のひ孫である著者により、宗匠俳人上田聴秋の生涯と事迹とを詳細にたどり、考察を交へた唯一の研究書と呼んでよいかと思ひます。
本書中にふんだんに写真で紹介されてゐますが、芭蕉に倣ってパトロンのもとを「道のため、社のため」遊歴を重ねた南船北馬の半生、それが一面、蒲柳の質であった彼の健康法ともなり、各地の勝地には自句石碑が31基、揮毫石碑も15基が建てられました。
生前の彼は名声に囲まれてゐましたが、宗匠「花の本」の称号は、昭和七年の彼の死後、時代の流れを感じ取った後継者(娘婿でもあった十二世會澤秋邨1875-1941)による断絶が選択されます。戦後に訪れる、俳句そのものを否定する「第二藝術論」を待つまでもなく終焉することとなり、石碑の多くはいま顧みられることなく、苔蒸す現状も報告されてゐます。
そんな伊藤聴秋の俳句とは、いったいどんなものであったのでしょう。以下にすこし写してみます。
むかし龍が住みたる池や風かをる
長生きは山家に多し秋日和
明月や敵も味方も同じ秋
砕けても砕けてもあり水の月
美しく鯉はやせたり燕子花(かきつばた)
夜桜や篝(かがり)に春の裏表
降るだけは降りて五月の月夜かな
本書中に紹介されてゐる、月並み俳句の存在理由を示した研究者青木亮人氏の一文には、同じく、鷹揚・駘蕩なる内容・作者も多い戦前の抒情詩人を愛する私の心にもいささか訴へるものがありました。
「聴秋や梅室などの宗匠の作品は活字では平凡だが、暮らしの中で短冊や軸として接するといいしれの魅力を発する。聴秋たちの句は生活の平凡さを脅かさず、むしろ認めてくれるもので、だからこそ暮らしの中で魅力を放つのではないか。生活とは平凡であり、変わらぬ習慣とささやかな秩序に支えられた「月並」の別名に他ならないためだ。しかし、虚子や碧悟桐の句はこうはいかない。彼らの作品には常識を揺るがす何かが潜んでおり、だからこそ「文学」として優れていると見なせよう。しかし、「文学」は暮らしの中で常に必要とされるものだろうか。仕事に家事や雑事、家族との団らんや他の趣味などで一日の大半が終わる日々の中、従来の習慣や常識を揺るがす力強い「文学」は必ずしも必要でないことを、多くの「月並」短冊や軸と接することで初めて実感した。(265-266p)」青木亮人『その眼、俳人につき』より
そして彼自身の俳句に対する態度はこんなものでありました。
「俳句をどう作ったらよいか、という問いに対して、聴秋は、「まあやってごらんなさい、そのうちに解ってきますよ」と言い、「無理に作りたれば、不自然なり美に感じて出来たれば、自然なり。句は作るべきものにあらず。出来るものなり」とも答えている。(215p)」
「聴秋は作った句をいちいち書き留めておくようなことをしなかったようだ。あとから念入りに推敵する、といったこともめったにしなかったらしい。ぱっと出来れば、それでよし、あとは顧みない。俳句とはそういうものだと考えていたのだろう。句集を刊行するにあたって、弟子の手帳から句をかき集めたというのも、うなずける。(233p)」
はなむけの分に過ぎたる牡丹かな 紅葉
牡丹切る心に似たる別れかな 聴秋 (明治26年読売新聞、別宴の席で)
門人ではありませんでしたが、当代の人気小説家、尾崎紅葉や、当時は無名記者だった巌谷小波とも、俳諧を通じて交流は密でした。ただし批判の先鋒であり、現実を活写する「写生」をもって新しい文芸精神を掲げた正岡子規だけは別で、彼にとって「無学、無識、無才、無智、卑近、俗陋、平々凡々」と、口を極めて罵倒した月並み俳句の頂上に位置した彼らの作品は、煎じ詰めるところ
「宗匠派には遠回しに遠方から謎をかけると言うようにして面白がらせるところがある。それが理屈が入っているところである」(161p)
といふ文学的な立ち位置の違ひが物足りなさとして映り、我慢ならなかったもののやうです。対して聴秋はといふと、『帝国文学』(明治33年1月)誌上での対談で、
「「芭蕉翁は、格に入りて格を出ざる時は狭く、また格にいらざる時は邪路にはしる、格に入り格を出で、初めて自在を得べし」と言っているが、「子規ら」のいわゆる「新派といふ人々は初めより格に入らず邪路に陥って」いて、「師について学ぶといふことはない、みな初めから大先生です」。一方の、「正風、すなわち芭蕉派を称へている」人たちも、これまた、はなはだ弊風がある。概括していえば、芭蕉派一は「格に入りて格を出でず」、子規派は「初めより格に入らず」、両派ともこの道をきわめているとは言いがたい。」(148-149p)
と言ってゐる。そして「正岡子規その人を非難したり、その句を批判したりはしていない。あくまでも子規に連なる「新派」を対象として発言している。この姿勢はその後も変わっていない」といふ、個人への配慮もあったやうです。
確たる学歴を持たず、酒も茶も飲まず煙草も吸わず、現存の俳人に対する批判や悪口をしなかった人柄、「枯木のごとき老体ながら、銀髯を秋風に吹かせた十徳姿」(277p)の風貌を携へ、聴秋は北海道へは七度も足を運んでゐます。開拓地を訪れて拠金し、北辺で果てた会津藩の敗将の墓参に根室まで「密かに」行ったりもしてゐますが、ご存知のやうに彼が参加した戊辰戦争に於いて会津は大垣藩の敵軍でありました。
土地の親分から至れり尽くせりの接待を受け、観光客相手の呼び声に呼びこまれるままに招じられれば、「ご注文は」と訊かれて「休んでゆけというから坐ったまで」と嘯く「花の本聴秋」時代のエピソードも面白いですが、最も強烈なのは、さうした彼が俳人を志す以前、幕末から明治初年にかけて大垣藩士だった頃に見せてゐたサムライ少年、上田肇の面貌です。
すなはち伯父小原鉄心同席の場で、木戸孝允や後藤象二郎といった貴顕に臆せず議論を挑んだり、曲がったことが嫌ひで刃傷沙汰を起しかけたり、或ひは後先考へず路銀を乞食に寄付してしまひ、なんとかなるさと旅路を続けてなんとかなってしまふ顛末などなど。
のちの協賛者の錚々たる肩書を思ひ合せるに、その性情と立ち位置には何かしら典型的な明治の蒼莽、頭山満を髣髴させるやうなものがあり、若い頃から気骨と鷹揚とを併せ持つ“人物”だったことを証してゐるのが滅法面白い。「和歌」に比してパッションを載せづらい「俳句」ですが、斯様の人物がどうして俳諧一本で生きてゆくといふ世捨て人の道を選ぶに至ったのでしょう。
若草や大の字に寝て空をのむ
高鼾 年がこぬなら来ぬでよし
百万の富より春のきまま旅
冒頭にも記しましたが、俳誌『鴨東集』の創刊(明治十七年)編集にあたっては、先行して漢詩雑誌『鷃笑新誌』を出してゐた戸田葆堂から出版のノウハウ全般を学んだらしいなど、当時を記録した『芸窓日録』を通して、大垣人脈とのふんだんな交流も窺はれます(葆堂と同じく清国の詩人胡鉄梅とも親交があった由)。
「秩禄処分」が行はれた大垣藩に交付された国債運用のため、家老戸田鋭之助が頭取となって興された第百二十九銀行(大垣共立銀行前身)、彼もまたここからの借入金があったことなど、勉強になりました。
若年のエピソードについて、適宜端折って下記に抄出してみましたので、興味のある方は実際に本書を手にとってみてください。『論語』を俳句で解いていった試み(「論語俳解」)には驚かされましたが、遺された肖像からも、俳人といふより漢学者にみられるやうな遺臣の面影を感ずることが出来るやうであります。
ここにても厚くお礼申し上げます。
【若き日のエピソード】
30-32p
肇は、明治新政府の「参与」に就任した伯父の小原鉄心に連れられて、京都へ出た。「参与」とは、王政復古によって、明治政府に創設された最高政治機関、「三職」(総裁、議定、参与)の一つである。鉄心は慶応四年(一八六八)一月三日にこの職についた。
肇が木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎らと知り合ったのも、このころである。みな参与として新政府に仕えていた。肇は伯父に伴われて、しばしばこういう人たちとの会合の末席に列なることもあった。そんな折に、いつも奇抜な議論を口にするので、要人たちに可愛がられたという。
木戸孝允は、ある日、肇に「世の中は議論ばかりでは行かぬものだ」とたしなめて、「世の中は角力の外に角力あり勝負の外に勝ち負けはある」という一首を与えたという。
肇(聴秋)は後年、日出新聞の記者、黒田天外にこう語っている。
「維新の際、私の叔父、小原鉄心が朝廷に召し出されて参与になりましたから、私もそれにつられて京阪のあいだにおり、木戸公や大久保公などにも世話になりました。そのころはまだ十五、六で、ムチャクチャに議論が好きで、それで木戸公に戒められたことがございます。」(黒田譲『名家歴訪録』上編)(中略)
後藤象二郎は、肇をこう評したと伝えられる。「舞妓の踊りと肇さんの議論は、無為の天法、人間(じんかん)に落つ」。(『俳諧 鴨東新誌』より)
肇の議論好きは天性のものだ、と褒めたようにもとれるが、この少年の言うことは舞妓の踊りのように、たわいない、可愛いものだ、というほどの意味かもしれない。
39p
「箕作(みつくり)塾に松本荘一郎という塾生がいた。将来を嘱望された秀才であったが、家計が窮迫して学資の支給ができなくなり、学業を辞めて郷里へ帰ることになった。塾生に上田肇という大垣の藩士がいた。後に花の本聴秋と称して俳譜の宗匠となる人物である。彼は松本の才華を惜しみ、大垣藩に藩士として取り立てるよう推挙し、尽力した。松本は大垣藩士となり、藩から給付を受けて大学南校に進み、明治三年アメリカに留学して工学を学んだ。」(『西濃人物誌』より)
49-57p
肇は後年、大学南校での学業を諦めて東京を去ったときのことを回想している。その回想はいくつものエピソードを重ねたものだが、大学南校を去らねばならなかったことが、いかに残念であったか、その心の傷跡を暗に語っているように読み取れる。本人はそんなことはおくびにも出していないけれどもこれは『鴨東新誌』385号(大正5年1月1日)に掲載された。六十四歳のときの回想である。
実兄が幸に海外視察から帰朝したので、そのわけ(大学南校を中退して郷里に帰ること)を話して旅費をもらったが、船賃だけを残してめちゃめちゃに使ってしまった。
蒸気船というものに初めて乗り込んだが、赤(赤切符のことで三等船客の意)であるから、荷物と同居というありさまであった。やりきれないので、甲板に上がると、遠州灘の荒波は夢の間に過ぎ、伊勢湾の入り口で神崎という島が目の先にあらわれた。
「この船は二見の浦へ寄港しますから、伊勢大廟でも参詣したい方は上陸なさい」
と、船員がふれてきた。無一物では上陸ができず残念であるから、二等室へ行き、室の中央に立って、
「時に、諸君、四海兄弟ということはご承知でしょう。してみると、拙者は君らの弟である。その弟が無一物のために、伊勢大廟へ参詣ができぬから、上陸費わずか二分(今の五拾銭)だけ恩借にはあずかれぬでしょうか」
と、君父より下げたことのない首を下げて頼んでも、くつくつと笑って誰一人、取り合ってくれぬ。取り合ってくれる人がいないから、大いに立腹して、大声を発した。
「諸君はお見受け申すところ、衣服といい立派なる方であるが、男児たるものが首をさげ、お願い申してもお聞き入れないのは、よもや二分の金がないのでもなかろう。まったく温き涙や赤き血のない人だ。こんな腐った根性の人に、旅費を借りて大廟へ参拝したところで、神への不敬であるから、これまでのことは取り消します。」
船客のなかに骨のある人がいて、船長に余が不礼を訴えた。船長に叱られて、しほしほ三等室へ帰ろうとしていたときに、青年の男児があらわれて、
「君はまだ年がゆかぬから無頓着であるが、人を罵倒してはいけない。謝罪したまえ。失札ながら僕が二分だけ貸してあげるから」
と、こんこんと忠告されたので、その人の赤心に惑じて、乗客に謝罪し、大枚二分を借りた。
「君はなかなか面白い男だから、吾輩とともに二見で昼飯を食おう。来たまえ」というのでついて行った。二見の某楼に対座して、ご馳走になった。
「いったい君はどこの人だ?」とたずねたから、
「日本人だ」と答えた。
「なんというか」
「上田いうものだ」
「ふふん、それでは、神戸の箕作の塾にいたことがあるか」
「あるよ」
「快闊男児の評判の高い男は、君であったか」
「そういう君は、誰だ?」
「おれか、おれは新宮涼樹だ」 註)鯖江藩士。
「箕作の塾で才子の名を博し、色男然と気取っていた酒落ものは、君か?互いに逢わんとして逢わなんだが、今ここで邂逅したのは不思議だ。やはりお伊勢様の引き合わせでもあろう」
「上田君、きみはどうしてこの船に乗っていた?」
「おれは体を少し痛めたから、命あっての物種と、故郷へ帰って母の乳でも吸って、健強の体にして、必ず天下に名をなして見せる。一生貧乏は覚悟しているよ」
「上田は若いだけに馬鹿なことを言っているなあ、おれは箕作の塾にいて、文典や万国歴史くらいひねくっていても駄目だと悟って、学問はやめて横浜のフランスの商館へ入りこんで、金を作る稽古をしているのだ。世の中は金でなければ夜が明けぬよ。上田はいつもの壮語豪邁にも似ず、僕の二分の金に頭を下げたではないか。だから病気で学問を中止したのは、君の好機だ、逸すべからず、病が治りしだい横浜に来たまえ。また世話をしてあげるよ」
「新宮君は名誉も義理も捨てて、金銭の奴隷になるつもりか」
「もちろんだ、上田も白髪でも生える時代には、新宮が言ったことを思う時があるよ」
「おれもまた新宮に羨まれる時代があると信じている。ここで君と別れて三十年の後に互いに成功して会いましょう。君は黄金の人となれ、僕は天下の人となる」
と言って、大声で笑った。
新宮と別れて、伊勢の古市をさして歩を運んだ。その出で立ちは、頭にはボーイのかぶる帽子、破れ袴をはいて、羽織は脱ぎ、杖の先に飲みさしの葡萄酒の瓶をくくりつけ、この杖をかついで、
「児を産めば玉のごとくあるべし、妻を娶らば花のごとくあるべし、丈夫天下の志、四十いまだ家をなさず」
と、河野鉄兜の詩を声高に吟じつつ、ふらふらと歩いた。
尾上町まで行き着いたが、どの家でもみな断られて泊まるところがないので困った。裁判所(今の県庁)へ談判に行ったが、門は閉まっていて、小使が一人いるだけで何の役にも立たない。陽は西山に暮れ、塒を急ぐ鴉が羨ましいというありさまであった。
そこへ兵隊が隊列を組んでやって来たので、近寄って見れば、その隊長は可児春琳である。
註)大垣藩士(1847-1920)。戊辰戦争の鳥羽伏見の役では、実兄・小原忠辿(軍事奉行)の指揮下で戦い、北越や高岡では肇と戦場をともにした。
余を見て、「上田さんですか。お宿はどこです?」
と問われたから、事情を話すと、
「ともかく私の宅までいらっしゃい」
とのことで、行軍中の隊長と話をしながら、可児の宿まで行った。そのあと旅亭に案内してくれた。古市いちばんの割烹店で、朝吉楼(嘉永四年創業の麻吉楼のことか?)という大きな青楼であった。朝からご馳走が出るし、芸者は来るし、四絃(琵琶)の声は耳を聾するほどであった。ここに一両日、厄介になった。
山田を離れて少しばかり来たところに、年寄りの乞食が病気らしく路傍に寝て、幼き女の児が介抱している。見るに見かねて足をとめた。
「おい、乞食、きみは病気か。飯は食ったか?」
「昨日から何も食べていません」
「そうか、それは気の毒だ。あの女の児は何歳だ?」
「はい、あれは私の孫ですが、歳はようやく八つであります。行人の袖にすがり、少しのお恵みをいただいて、それで親子が食するようなわけです」
余は心に感じて、虎の子のように大事に持っていた二分金をそのまま乞食の親子にやって、
「君、これで飯を食いたまえ、薬も飲みたまえ」といえば、乞食の云うには、
「これは二分金です。この辛き世の中に一文のお銭さへなかなか下さらぬのに、二分というような大金を乞食が持っていては、盗みでもしたのではないかと、かえって人に疑われます。お恵み下されしお志はありがたく頂戴いたしますが、このお金はご返却いたします」
というので、付近でこまかい金と換えて、乞食に与えて別れた。
宮川という川に渡し船がある。何も気がつかずに船に乗って向こう岸に着いたが、二分しかない金を乞食にやってしまったので、船賃がない。恥ずかしかったが、船人にその訳を話して頼んだら、同情のある舟守で、
「おまさんは、まだ子供あがりでありながら、感心なことだ」
といって、無銭渡船をさしてくれた。
まだこの頃は、俳句のはの字も知らず、年はようやく十六歳と半分ばかりであった。
ここで「十六歳と半分」というのは、これが明治五年ごろの出来事だとすると、十九歳か二十歳の思い違いであろう。
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中嶋康博
:2020/08/26(水) 20:46:49
白取千夏雄『全身編集者』
白取千夏雄 著 『全身編集者』 おおかみ書房2017年刊
今回はマンガが話題なので現代仮名遣いで書きます。
いまやマンガ界では伝説となっている月刊漫画雑誌『ガロ』。その終焉に至るいきさつをめぐり、当時編集に携わった白取千夏雄氏が書きのこした「遺書」ともいうべき『全身編集者』を読了。一気に読み終えました。本屋に出回らない本ですが注文してよかった。★★★★★五つ星です。
わが記憶には今だ新しい1997年に起きた『ガロ』編集部の分裂事件。それをクーデターと呼んだらよいのか、刊行元の青林堂から、青林工藝社なる別会社が袂を分かち『ガロ』さながらの出版活動が始められたのは、当時話題にもなったニュースの情報から、その後「政治的」に舵を切った現経営陣との確執が原因だと思っていたのですが、それがそんな単純な話ではなかったという事実。初耳でした。
そしてもうひとつ。80年代の昔、地方の大学生だった私も購読していた『ガロ』誌上で、現代詩作家のような清新な雰囲気で再デビューを果たしたマンガ家、やまだ紫が著者白取氏の奥さんだったこと。ファンにはおなじみの事実なのでしょうが、当時いくぶん反発も感じていた彼女の作風の裏に、実は前夫のDVが深く横たわっていたなど、全く思いもよりませんでした。
後半には17歳年上となる、その妻への思いが綴られます。2005年、白取氏は自身に発覚した白血病により余命を宣告されるのですが、彼の入院を待つことなく2009年、妻であるやまだ紫が、脳溢血により先に斃れてしまいます。人気ブログだった当時のネット文章も引用されつつ、「お互いの苦痛を自分の苦痛と考え、まるでDNAのらせん構造のように絡み合って生きてきた(129p)」、という二人の、『ガロ』編集から退いた後にようやく許された、しかしさほど長くもない「余生」の交歓が切々と描かれます。
ところが物語はそれで終わらない。
彼女に対する万感の念ひをもって締めくくられると思いきや、この、本屋には並ぶことのない「遺書」が制作されるに至ったその後の経緯が、読者を放さず簡単にはセンチメンタルにしてくれない。すなわち1965年生まれ享年51で逝った著者本人と、彼から編集技術を直伝されたお弟子さん(本書の編集兼発行者:千葉啓司氏)との交流を描いた、いみじきラストスパートの二章に、どっと涙をもってゆかれました。『ガロ』休刊の原因を作った「3当事者」のうちの一方の視点、山中潤氏によるあとがきも、そうして決して蛇足ではない。
この一冊、日本のマンガ史を語る上での微妙な時代を語る「新しい古典」として、いずれ大きな出版社から文庫版になって広く読まれることになると思います。
トキワ荘の物語や朝ドラ「ゲゲゲの女房」が象徴するような、いわゆる高度経済成長期の大御所マンガ家の苦労話が詰まった60年代、そして迎えた70年代の漫画週刊誌の黄金期――。『ガロ』は御存知のように、そんな商業出版誌の表舞台とは関係がありませんでしたし、この本の舞台となったのは、さらにその後に続いた、バブルの80年代、マルチメディアの90年代という、サブカルチャーがどんどん尖っていった時代のことであり、紙媒体として草創期から生きながらえた『ガロ』の存在理由が、どのように経営上で模索されて行ったのか、舞台の内側から語られている点で特筆に値します。表現の実際は、エグ味の強い当時の作品群に直接あたって読んでもらえばいいでしょう。
この本には「作家を単なる商品として見ない」ことを、伝説の編集長である長井勝一氏からモットーに学んだ、生き証人にあっては最年少だった著者白取氏が、ある意味、先見の明がありすぎて、長井氏が興した伝説の出版社「青林堂」の引き継ぎに失敗し、伝説の冊子体『ガロ』を手放し、そこから育った尊敬する作家であり最愛の妻であるやまだ紫を、時を経ず看取ることとなった、まことにほろ苦い悔恨の記録が、本人目線からの嘘の無い遺書としてしたためられております。
かくいう私も、むかしマンガ家にあこがれ、(詩を書き始める前の話ですが)落書きを描きまくっていた時期があって、何を血迷ったか青林堂に直接原稿を持ち込んだことがあります。1985年頃だったでしょうか、当時の神田神保町、一階が倉庫様の建物の端から階段を上って二階のドアをノックして入ってゆくと、部屋の真ん中には大きなテーブルが据えてあり、編集長である長井勝一さんと、奥にもう一人、若い男性が座っていましたっけ。小柄で温厚そうな長井さんは原稿を一覧し、かすれ声で「こういう、ムードマンガを描きたいならもっと絵を練習しないと。」それから絵柄を見ながらなぐさめるように「描いたらうまくなるよ。」と仰言って下さいました。
しかしながらお会いしたのはそのとき限り。上京して一年後の自分の中では白取氏と同様、マンガ家には半ば見切りをつけ、その頃からもう詩ばかり読んでいましたから、却って引導を渡されたと踏ん切りがついたような気持ちになりました。
翌年、今度は書き始めた詩を田中克己先生のもとに送りつけることになるのですが、本書には、その頃の青林堂のことからが書き起こされていて、恥ずかしいやら懐かしいやら。当時のことがあれやこれやと思い出されてきましたが、あの若い人が、あるいは白取氏だったか、それとも別の方だったかと、トランクにしまい込んであるケント紙に描きなぐった落書きを引っ張り出してきては、蛇足ながら回想中です。
白取千夏雄『全身編集者』おおかみ書房,2017年刊行。177p, 21cm
現在3版、購入は「まんだらけ」による委託通販のみか。1500円+税+〒=1,870円
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中嶋康博
:2020/09/09(水) 16:12:31
『復刻版 パストラル詩社通信』
青森での講演から1年経ちましたが、詩人一戸謙三の伝記資料冊子10冊の刊行を果たしたお孫さんである晃氏よりは、あれ以降も引き続き、詩人に関する考察とフィールドワークを交へた「資料報告」を頂いてをります。本日は断続的に発行されてゐる『探珠 玲』別冊より、『復刻版 パストラル詩社通信』(2020.9.9 A4版13p)のご紹介。
大正時代、歌壇が主流だった弘前の文芸壇に、口語自由詩の新風を吹き入れる役割を果たした青森県初の詩社、パストラル詩社。
現在、全集本などにはよく、編集雑記などが刷られた数枚の紙片が「〇〇通信」なんていふ名で栞として挟み込まれてゐますが、大正9年の時点でこの「パストラル詩社通信」はその走りとでもいへましょうか。ただし購読者に対してでなく同人限定に向けた通信文の刷物なので「会報」といった方がいいかもしれません。
ただし面白いのは編集者の櫻庭芳露から一戸玲太郎への通信文が、そのままガリ版で刷られ、会員にも共有されるといふ趣向です。
そして編集方からの通信であるとともに、詩社の精神的支柱だった福士幸次郎をフィーチャーすることで、すなわち櫻庭・一戸の二人と、その先生とが実質的に運営していることを示す、パストラル詩社の性格をよくあらわした刷物であることに資料的な意義を感じます。
内容は編集者の櫻庭芳露から同人への連絡事項で主に占められてゐますが、申し上げたやうに毎号の巻頭、ネジ巻き役である東京在住の福士幸次郎から届いた「通信」、檄やら言ひ訳やらの手紙の文章が掲げられてをり、ことにも最初に同人全員に対して食らはした
「諸君の内から取り得るものは僅かしかない」
の一発目はガツンと効いてゐます。民謡・童謡を「詩」とは認めず、青年詩人に対していましめたところにも見識を感じます。中央では、お仲間世代である佐藤惣之助や西條八十が、かうした作詞で世俗的に売れはじめてをり、青森にも安易に手を付けたい誘惑にかられる若者がゐたことをこの文面は示してをり、たいへん興味深いです。
(我が郷土岐阜はその点、田舎の紅灯観光地ですから、青年詩人達がこぞって創作民謡にあてられてしまひ、親分として佐藤惣之助のことを、アンデパンダン詩社「詩の家」主宰者でなく民謡調の大家として奉戴する同人誌『詩魔』詩壇が形成され、自由詩が(芸術派もプロ派も)全く振るふことがありませんでしたから。)
ガリ版の文面写真が載ってゐますが、できれば各号の全体の形姿と共に、詳しい書誌も記されるとよかったです。
定期的に送って頂くA4に綴じられた「資料通信」を読みつつ、自身で継続中の日記翻刻作業も髣髴され、晃様の地道な営為のさまがしのばれます。資料を寄贈した先の弘前市郷土文学館でも、かうした営為をむだにせず、原画像と共に翻刻資料の公開を考へても面白いことかと思ったことです。
ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございます。
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中嶋康博
:2020/09/12(土) 22:01:46
新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』
青森の相馬明文様より、新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』をお送り頂きました。かつて拙詩集を寄贈させて頂いたお返しかと存じます。
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『感泣亭秋報』等で拝見してをりました、詩人小山正孝に関する諸文章が(翻刻資料とともに)収められ、他にもこれまで著者が太宰治と向き合ふ過程で知り合った文学者について、考察・思ひ出をまとめて一覧できる章立てがなされてゐます。
ともあれ本書前半の、著者の本領であるところの太宰文学研究に初めて接した私です。
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かつて、文学史(論)や作家研究に関する研究書で、「時代の子」というこの用語はよく見聞きした。 (中略) (※しかし太宰治という書き手は、)時代そのものを戦略として活用ないし利用した、それも効果的に、と言えるのではないか。たとえば全国を席巻した左翼・共産主義思想、労働側の階級闘争、青年層の自殺自死の季節など (中略) これらの事象・状況を、「時代に生きた」というような客体的な受け身の結果としてではなく、積極的に能動的に、文学表現に「言語の戦略行動」として取り入れた、というべきではないのか。(「序に代えて ──太宰治の戦略を考える」11〜12p)
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かう冒頭に述べられてゐる着眼点。肯へて「戦略」というキーワードを使用したところに、郷土の研究者ならではの妥協のなさを感じました。この「戦略」自体については、平成21年に青森県立近代文学館で行はれた講演原稿に沿って、大変分かりやすく、「句読点」「同語の繰り返し」「否定」「逆説」「告白体」といった具体例を挙げながら説明されてゐるのですが、私が感じた妥協のなさについては中盤に於いて極まり、
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私は、太宰が左翼思想に飛びついたのは、単に「えふりこき(※注:津軽弁で“ええ恰好しい”の謂)」だったからではなかったか、という噴飯ものの思い付きを少し長く打ち消せないでいる。つまり、後にこの作家の文学的内容となる共産主義とその離脱への入り口は、言ってみれば取るに足らぬこと──本心から社会正義としての必要性を感じたのではなく、周りに対してそう見せかけようとしたからではなかったのか。この思想は当時の〈非〉合法思想であって、後に全国規模で国家当局から大粛清を受けることになる社会の趨勢については、ここで触れるまでもないことである。官立弘前高等学校でも昭和10年ごろまでに学校当局により弾圧されていくことになる。しかし一方では時代の先端的一面があったはずで、「恰好」がよかったからでは、と思えてならない。(「えふりこき ──太宰治瞥見」95p)
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とまで突っ込み、語られてゐます。
太宰治は私にとって、詩に出会う前の大学時代に、『ガロ』のマンガと同列に読みふけった唯一の小説家でした。山岸外史による有名な評伝バイブル『人間太宰治』に詳しく書かれてゐますが、個人的にもっといやらしい言ひ方をするならば、「戦略」とは、彼の人となりについて評された「サービス精神」の表はれでもあったかな、とも思ったことでした。
当時むさぼり読んだ、今はあらかた忘れてしまった作品の中でも、「津軽」は別格として「乞食学生」「眉山」といったセンチメンタルな短篇に心打たれた記憶があり、なるほどよくよく思へば、私はただ彼の「戦略」の術中にはまってゐただけ、だったやうな気もしてをります。
とまれ愛読者だったといって何の論評ができるやうな知識も持ち合はせず、ここにては目次紹介しかできないことを恥づるばかりですが、著者もまた「眉山」がお好きであることを述べてをられるのを知って嬉しかったです。
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新刊のお慶びを申し上げますとともに、ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
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出版社: 能登印刷出版部 2020年7月24日発行。22cm, 281p \2,500
ISBN:978-4-89010-771-1
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中嶋康博
:2020/10/01(木) 09:41:48
「パストラル詩社の終焉」
一戸謙三御令孫の晃氏より、前回の「復刻版 パストラル詩社通信」に引き続いてA4版パンフレット、探珠「玲」別冊「一戸謙三の抒情詩 パストラル詩社の終焉」をお送り頂きました。
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今回は青森県最初の詩の結社パストラル詩社から発行された、10冊の同人アンソロジー(大正8年〜12年)に載せられた一戸謙三の初期の抒情詩を通覧します。合せて詩人の自意識を窺ふやうな、当時の興味深い出来事(事件?)が一緒に記されてゐます。
すなはち同人達の共通の師匠であった郷里の先輩詩人、福士幸次郎が、「パストラル第7集」に載せる詩篇を取捨選択するその現場に、たまたま田端の福士邸を訪れた謙三が立ち会ってゐるのですが、実力では盟主を任じてゐた自分の作が採り上げられず、代って事務方を仕切ってきた5歳年長の櫻庭芳露(さくらばほうろ)の「悔」が佳作として面前で激賞されたことであります。
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(※一週間程経って)「また福士さんを訪ねてゆくと、二階(※四畳半)で原稿を書いてあつたが、それを止めてパストラルの原稿を取り出し批評しながら見てゆく。○のついたのは今度の詩集に入れるもの、×のついたものは入れないものとして厳重にむしろ苛酷といふほどに批評してゆく。それだけ芸術に対して福士さんは妥協的態度を取らないのである。真先きに私の詩が、オリジナリテイがない、とやツつけられた。(※この後、原稿は散失してしまったと言う。)桜庭君も困つたものだ。熱心は芸術と違ふからなあ!しかしこの詩はいいぞ。おお、これア傑作だ、と「悔」(※といふ詩)を示して、これアいい、全くだ。二重丸にしてやれ。いや、いいぞ、も一つ丸をつけてやれ。しかしねえ、パストラル詩社の人たちみんなにこんな詩を作れと云ふのではないですよ。ねえ、めいめい自分には個性と云ふものがあるんですから。」「不断亭雑記(昭和36年より新聞連載)」No.524
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当時上京中だったのですが、謙三はこの第7集『五月の花』に載った作品に対する厳しい批評を、地元青森の一般新聞紙上で行ひます(画像参照)。そしてそれが因なのか、それまで櫻庭から一戸への通信文に擬へて福士幸次郎の言葉を伝へて来た「パストラル通信」も、(出てゐないのか、遺されてゐないのか)、当時のものが見当たらないのです。
厳しい批評は、嫉妬であるより謙三が盟主を自任してゐた詩社の責任者としての自責を他の同人にまで及ぼした現れでありましょう。師の言葉の“厳重にむしろ苛酷といふほど”をそのまま写したものであったかもしれません。しかし、そののち櫻庭氏が自分と入れ違ふやうに教師を辞して上京してしまひ、パストラル詩社も解散のやむなきに至ったことについては、謙三も彼なりに理由の一端を担ったのではないか。バツの悪い思ひもしたのではなかったか。櫻庭芳露は昭和3年に、福田正夫や白鳥省吾の序文を得て『櫻庭芳露第一詩集』を刊行し、新詩人としては少々遅いですが詩集の刊行を果たします。その際、やはり新聞紙上に謙三が書いた当時の回顧には、上京した後の櫻庭氏が、詩作の上では芸術派だった謙三とは全く肌合ひの異なる民衆詩派詩人として、都会生活のなかで変質をとげていったこととは関係なく、正当な人物評として表れてゐるやうであります。
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「その人(※櫻庭氏)の稟性はまことに誠実そして熱心である。」「あのパストラル詩社を経営した努力、それはわたしら郷土詩壇に今現在生きてあるものの誠に多としなければならぬところである。他日郷土詩史を書くものがあったならば必ずやパストラル詩社の名をまた櫻庭芳露氏の名を逸せぬことであろう。何故なら前者は郷土詩壇の草創の詩社であり、それを主宰し興隆せしめたのは後者であったからである。」昭和3年8月6日「東奥日報」「櫻庭芳露氏とパストラル詩社」
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ところがその後、謙三の方では郷里にあってモダニズム詩人への変態を遂げ、さらにそこからも脱却すべく欝々と模索・煩悶してゐた時期を迎へて、よほど心に余裕のなくなったものか、昭和8年の「日記」にこんなことが記されてゐることに、晃氏は首を傾げてをられます。
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8月6日「県教へ出す方言詩を直して書く。弘新(※弘前新聞)によって、新聞を東京に出す。万茶(※喫茶店)によると、成田君(※東奥義塾で今官一らと同級、画家志望)が来る。雑談して五時ころまでゐる。夜に、桜庭氏の歓迎座談会あり。逢って見たところで、大した話のあるわけでもなし、行きたくもないのだが、パストラル同人であって見れば義理である。」
9月8日「佐藤一英、福士さん(新聞)、高木恭造。桜庭先生からヘンなハガキ来る。黙殺す。」
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この日記の続きには、高祖保から激励のハガキを受けとり、かうも書いてゐることを以前紹介しました。
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11月14日「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」
「ヘンなハガキ」とは如何なる内容のものだったのか。座談会での様子、当時の作品への短評、あるひは未だ詩集のない詩人に対する慫慂であったかとも私は勘ぐってみます。そして焦りからの斯様のメモとなったのでありましょうか。
桜庭芳露といふ詩人は、職場では「非社交的」であり「ものごしがおだやかではあったが、どこか毅然としたものが」あって、「重々しい北国の人の魂」を東京生活のなかでも忘れることがなかった人であったやうです。(本田秋風嶺「青森を生きた人―桜庭芳露君のこと―」)
ふたたび戦後も随分経って、詩人が「不断亭雑記」の中でさきにあげた当時の顛末を余さず書いてゐるのは、気持の上ではわだかまりも貸し借りもなくなった彼が、事実を重んじ有りのままを書いたものであったのでしょう。送って頂いた冊子(探珠「玲」別冊)の今回、前回とに載せられた文章(画像)と、合せて補足する意味で当時のパストラル詩社のことを回顧した福士幸次郎の一文とを紹介しておきます。
福士幸次郎『櫻庭芳露第一詩集(地上楽園叢書第七編)』昭和3年大地舎刊行 序文より
(前略)『詩を見てくれ』といふ郷土の若い人々の声は、すぐオイソレとは引き受けられない破戒の道だつた。幾度も躊躇したあと、究極の心に基いた感情的承認で、引き受けられた仕事であつた。もし断ったら、わたしはまた故郷を失ふであらう。これは私には折角の与へられた機会に対し、芸術を失ふことよりも或る点辛いことであった。
承知の旨の返事を出すと、この若い人々は早速同人をあつめて、『パストラル詩社』といふ見事な名をつけ地方文壇に旗上げをし、その作つた詩を集めては、東京のわたしに送つて来た。わたしは之れを個々に熱読し、その個性がその儘に延びるやうにと、其の面白いと思はれた個所に、或は面白くないと思はれた個所に、細かい注意書を赤インキで書き入れ、殆ど一作毎に評をつけ、全体の作品に対する個人評を加へ、同人全体に総評を下し、かうしてパストラル同人に返送した。
この仕事には室生犀星、百田宗治君等が見て驚嘆したものだ。さうであらう。これだけの事をするのに完全に二昼夜も掛つた。そして同人はといふと未だその頃初歩で、先輩詩人への露骨な模倣時代であつて、民衆派一方のものあり、萩原朔太郎君張りあり、単なる童謡めいたもの等があつた。
わたしは或る時は持て余してふた月ほども原稿を抛つて置いた事もあった。だが、かういう間に同人は殖え、心境や技量は進み、同人集のパンフレット『田園の秋』『太陽と雪と』『芽ぐむ土』等が次ぎつぎに刊行され、パストラル詩社は地方に於ては文芸上の優勢な地位を作り、当時までここでも全盛だつた短歌歌人を圧倒した。
この活動の期間は凡そ大正十二年頃まで四五年間継続した。それは私にとつても愉快な仕事であつた。なぜといふに同人はこの間に各自、自分の心の上で延び、わたしも亦、これ等郷土詩人を通じて、故郷に立派に繋がつたのであつた。
わが桜庭芳露君は、実にこの中の一人であり、最初の社の代表者後藤健次君が出郷したので一戸玲太郎、安田聖一君等の助力のもとに、そのあとズッと社の統率、経営に当つて、地方詩壇に貢献した人であつた。この点わが郷土では同君は隠然、地方詩壇の草分けと見られ、同君の名を今に到つても慕ふものが多い。実際また同君のこの前述四五年間の貢献はすばらしかつた。同人集はこの間に九種も出た。それは地方の印刷なので活字こそ汚なかつたが、表紙はやはり同人の手になる色刷りの木版画で飾り、素朴な中にも可愛らしいパンフレットで、その時の事を知つたものは誰しも懐しがるに違ひない。わたしはこの点、或は不親切な先輩であつた事に成るかも知れぬが、中央詩壇当て込みの野心は同人諸君に厳に抑へてゐたので、中央には余程あとで自然に名を認められるやうになったが、事実地方に於ける気持のいい詩の運動で、そして其の努力には桜庭君に負ふ処が多かつた。
パストラル詩社の揺藍時代を経て、桜庭君はその後東京に出た。丁度大震災の年の初夏であつた。そして桜庭君はこの新生活で、地方ではまた見られない現代社会の広い波に漂ひ、サラリーマンの劇務のなかに今迄とは違つた精神の芽生えを経験し、新しい心境に彷徨し、都会生活の澱のなかに同情の深い詩材を探るやうになつた。そこには誠実な人の心から迸る怒りや、嘆きや、希望や、激励やが如何にも誠心こめて現れた。わたしの郷土の人は嘘はつけない。また空虚な技巧を娯しむやうな心ももつてゐない。この点桜庭君がここに進出して来たのは当然であつた。ただしこの時期には私は丁度桜庭君と入れかはりに故郷に行って生活し地方主義運動に着手したので、桜庭君についてはその後わたしの手を放れて独り見るみる変つてゆく心境を、ただ遠くから見まもつてゐる外なかつた。
それは悪い方向ではない。時にあぶないナと思った事もあるが、同君の誠実と努力とに充ちた心は、何かなし底のあるものを掴み、読者をして共鳴を起させる力あるものが現れて来た。わたしは桜庭君がたうとう見つけ出したこの独自性について、パストラル詩社最初の精神を壊しく想ひ出し、心からお祝ひするものである。桜庭君よ、その真つ直ぐな道をなほも開け。誠実は矢張り何時も芸術上で貴い光を放つものである。
昭和三年五月 世田ケ谷にて 福士幸次郎
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10月1日は弘前の詩人一戸謙三の祥月命日です。(1899年2月10日 - 1979年10月1日)
ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございます。
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中嶋康博
:2020/12/12(土) 21:06:13
『感泣亭秋報』15号 特集『未刊ソネット集』を読む
詩人小山正孝およびその周辺人脈を顕彰する目的で、毎年刊行されている『感泣亭秋報』も今年で15号。
後記にて編集・発行者である御子息の小山正見氏の語るところ、
「今号をもって感泣亭秋報の元々の使命は果たしたと思う。いつ終刊しても悔いはない。」
とございました。しかしながら、今号も充実した内容をもって過去ページ数を更新(227p)。結局、
「こうなると、面白くて簡単にやめられない気もする。今後の編集は、風の吹くまま気の向くままということになりそうだが、それはそれでいいのではないかとも思う。」
私も同感申し上げる次第です。
そして一通り既刊詩集を特輯してきた本誌ですが、このたび俎上に上がったのが、没後刊行された『未刊ソネット集』です。
各詩篇にタイトルもなく、発表されないまま篋底に蔵(しま)はれてゐた草稿を集めて一冊にしたものであるとはいふものの、これの編集に当った故坂口昌明先生が「編者識」において、
「私は(※その後に出た第二詩集の)『逃げ水』よりも愛すべき作品に、初めて何度となくお目にかかったという感慨で、長嘆息したものである。(『未刊ソネット集』436p)」
と喝破された通り、「またと還らない青春の記念碑として、明晳な意識のもとに書かれた(『未刊ソネット集』436p)」作品群です。
常子夫人に対するあからさまな愛のメッセージでもあるため発表が憚られたのでは、との臆測もなされてゐますが、第一詩集の『雪つぶて』と第二詩集『逃げ水』の間に介在する「ミッシングリンク」の意味合ひが濃いことを、いづれの評者も指摘してをられます。
かつ坂口先生が仰言ったやうに、愛の諸相に迷ひ込んでゆく、その後に書かれた第二・第三詩集よりも清純な作品が並んでをり、小山正孝を謂はば「四季派の詩人」としてのみ語らうとする際には、もし彼が『雪つぶて』を刊行したきりで夭折してゐたら、この内容といふのは、正に立原道造における『優しき歌』になぞらふべき意味を持った筈なのであります。
書き継がれたこれら抒情の純粋化を志向する作品群が、当時のまま「手付かずの状態」でみつかったことは、その後あたらしい歩みを始めた彼、「日本の敗戦を境にした《四季》的情の崩壊を体現するかのように傷だらけで生き抜いたすえ、独自の詩境に到達した(『未刊ソネット集』401p)」彼個人にとってはスキャンダルであったかもしれませんが、四季派の詩情が戦後たどった命運を、詳細に跡付けてゆく作業の上では、たいへん重要な発見だと私は思ってをります。
作品はみつかったノートごとに整理されてをり、処女地の雪原を思はせる余白の白い一冊から、みなさん思ひ思ひの佳篇を選んでゐますが、やはり坂口先生が「若かりし日の小山氏の本領ここにあり(『未刊ソネット集』443p)」と仰言ったやうに「Iノート」の諸篇の完成度が高い。
今回執筆の『詩と思想』編集委員の青木由弥子氏(※11月号特輯「四季派の遺伝子」は未読ですが、まさに気鋭の論客かと)が、何でも自由になり過ぎた戦後現代詩の在り得べき姿、その手綱のとり方として、加藤周一が小山正孝の第三詩集『愛し合ふ男女』に贈った言葉を引き、「一巻の詩集を、一つの主題を語る一箇の作品として、つくる」ことによる可能性を語ってゐますが、この「Iノート」に収められた12篇についてもそれが証せられないか、やはりこのノートに着目した渡邊啓史氏の丁寧な論考が、今号の秋報においても光彩を放ってをります。
私の好きな詩を4つほど上げます。
小雨が ひたひをぬらしてゐる
私は それをぬぐふ元気もない
しづくは 眉のあたりを 横に流れ
走る都内電車の窓のあたりもぬらしてゐる
お前も どこかの街を歩いてゐるのではないか
立ち止つて 飾り窓を のぞきこんでゐるのかもしれない
水たまりの中も 雨はぬらしてゐる
走る自動車の屋根は少し白く光つてすぎる
心のやり場に困つてしまつて
私はお前をうらんでゐる
西の空が明るくなり 雲が走りはじめた
お前のレインコートの雨のしづくが
一筋ひいて 落ちるやうに 私の手の中に
お前の心が 落ちこまないだらうか 100pノートDより
置き去りに されたやうな
氣持で すごした 午後
私はゆつくりと街を歩いた
商品を一つ一つ見て歩いた
お前に 何を送らうと思ひながら
腕輪 時計 首飾り…
眞珠は 圓みを帯びて
色々ににぶく光つてるた
廣い 野原に立つてゐる 一本の木
お前と いつしよに休んだ
その下の 石のベンチ
思ひ出の中のお前の姿勢をめぐつて やがて
不思議なことに 私は さうしたお前に
いろいろ値段などつけてみたりしはじめてゐた 108p ノートDより
窓から雪のふるのを見てゐると木の枝の上にとまるときに
ためらふやうにして枝にすひよせられて行く
カーテンをそつとしめながら 私は お前を抱きよせる
ガラス窓の向ふ側は寒い風が吹きはじめたにちがひない
お前も雪のつぶが枝にとまるところを見てゐたのか
ふりかへりながら美しい目で私に笑ひかけた
人生があのやうにしづかにすぎるならばと言つてゐるやうに
お前のからだの重みが私の兩腕に急にかかつて来た
檜の木の葉末からよろこびの叫びをあげて
キラキラ輝く朝日の光の中でとけて歌ふ歌はどんなだらうか
水たまりに落ちるあの雪の亡びの歌はどんなだらうか
お前に やさしく 出来るかぎりやさしく 私は心がける
私たちのすごしてきた生活のあひだに お前が
雪のやうに 重く 大切に はかなく 感じられてならないので 298pノートIより
お前に花束をさし出しながら言つてやれ
別れだよ これが 私の愛の最後の別れだよ
小さい蜂が花束から飛び出すだらう
ガラス窓の上に一寸とまるだらう
お前はびつくりして私の顔を見るだらう
さうね お別れしませう あなたを自由にしてあげませう
小さいゑくぼが出来るだらう
ほほの上を一すぢの涙が流れるだらう
あたたかいお前の指と私のつめたい指とが
花束の根もとの所でふれあふだらう
それでも 花束の重みはお前の腕に移るだらう
私は知つてゐる やはりはつきりと別れることが
涙を涙として流させること
美しい花を花として咲かせることだといふことを 312pノートIより
特集の二つ目は現今の立原道造をめぐる環境について。
前号では旧立原道造記念館の運営姿勢に筆誅を下した渡邊俊夫氏の一文が圧巻でしたが、今号も鈴木智子氏から「立原道造の会」について、これまでの経緯と向後の方針とについて説明がなされてゐます。
また立原道造をめぐる「研究」環境については、蓜島亘氏が、昨今顕著な新世代研究者の動向について、論文数のみを偏重する文教行政の現状に苦言を呈し、さらに筑摩書房版の新修『立原道造全集(2006-2010)』が、「立原個人の嗜好含め、日本の詩の流れ、立原の時代の文学・文化の周辺事情の理解に乏しい」編集委員によって監修されたことにさかのぼって疑義を突きつけてをります。
研究者個人に対する批判も名指しで、
「当時の文章を鏤めることで、立原をその時代の中に浸らせて、あたかも立原が彼らの意見を自分の意見としていたかのように論を展開している。必然性や論拠が示されず、(中略) そこに立原ではなく、中原中也がいてもいいし、他の一詩人がいてもいいのではないか。」87p
等々、各所で辛辣を極めてゐますが、もっともつまるところは、
「詩や小説は、そもそも研究を必要とする対象ではなく、娯しむ対象であり、一人一人の読者がそれぞれの読み方をすればいいものではないかと思われる。」90p
といふことであって、もしそれ以上の研究を学術的に試みるとするならば、戦前の日本を肌で知ることのない後世の研究者はもっと謙虚に資料に当るべきであり、そして国際基準に則ったルールを守って、文科省の指導に阿って本数に拘った浅薄な「研究」論文は書かないで頂きたい、さういふことなのだと思ひます。
前号の渡辺氏、そして今回の蓜島氏と、斯様な文章が載せられるところにも、口当たりの良いリベラルな批評がならぶ文芸誌とは一線を画した、この雑誌ならではの個性が存するやうに思ふのは、また私も癖の強い詩の愛好者だからなのかもしれません。
他には『雪つぶて』所載の詩篇「初秋」の解説を、鋭い読解力によって試みた鈴木正樹氏の一文「私の好きな小山正孝:過ぎ去っていく青春」。そして映画評論家「Q」のペンネームで名を馳せた津村秀夫を追悼して、愛娘の?畠弥生氏が書かれた長文の回顧譚を興味深く拝読しました。女優杉村春子の恋人だったことを知らなかった私は、弟である津村信夫の追悼文集にどうして彼女の名があるのか初めて合点がいったやうなうっかり者です。
この場にても寄贈のお礼申し上げます。ありがたうございました。
年刊『感泣亭秋報』15号 (2020年11月13日発行) A5版227p 定価1,000円 (送料とも) 発行:小山正見 oyamamasami@gmail.com
目次
詩 林檎に 小山正孝 4
特集? 『未刊ソネット集』を読む
愛は静謐である──『未刊ソネット集』を読む 永島靖子 6
十四行詩をやめたまへ 山本 掌 10
愛憎の迷路──十二の愛の十四行詩のために 渡邊啓史 15
『逃げ水』から『愛しあふ男女』へ 青木由弥子 41
小山正孝は日本最大のソネット詩人である 小笠原 眞 46
『未刊ソネット集』と思い出すこと 宮田直哉 50
愛の詩人が視た風景 服部 剛 55
新出資料 十一冊目の「ノート」について 渡邊啓史 60
特集? 立原道造をつなぐ
立原道造を偲ぶ会の思い出 秋山千代子 64
立原道造を偲ぶ会の思い出──ヒヤシンスセミナーのこと 後呂純英 67
立原道造の会の歩みとこれから 鈴木智子 70
立原道造研究序論 蓜島 亘 75
東アジアの抒情詩人──立原道造と尹東柱 益子 昇 94
回想の畠中哲夫
真実を求め続けた人、畠中哲夫さん 萩原康吉 101
三好達治と萩原葉子さん、そして父のこと 畠中晶子 106
同想の津村秀夫
わが愛するQ、父津村秀夫 高畠弥生 108
追悼 比留間一成
比留間一成アンソロジーを読んで 岩渕真智子 136
一条紫烟秋容満千里 または時人の矜恃 渡邊啓史 141
詩 大坂宏子・里中智沙・中原むいは・松木文子・柯撰以 174-185
《私の好きな小山正孝》 過ぎ去っていく青春 鈴木正樹 186
感泣亭通信
ファミリー・ヒストリー 若杉美智子 189
山崎剛太郎さんを撮る 堀田泰寛 191
マチネ・ポエティクとソワレ・ポエティク 深澤茂樹 196
実験小説「面影橋有情」 田浦淳子(渡邊俊夫) 199
信濃追分便り3初夏 布川 鴇 214
常子抄 絲 りつ 215
坂口昌明の足跡を辿りて5 坂口杜実 217
鑑賞旅行覚書5蛇 武田ミモザ 220
《十三月感泣集》2他生の欠片 柯撰以 221
感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 223
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中嶋康博
:2021/01/01(金) 21:02:20
謹賀新年
旧臘、子孫を名乗る方よりメールを頂いたのをきっかけに、美濃加納藩の儒者、長戸得齋の『得齋詩文鈔』の目次作りを始めたのですが、序跋の崩し字の御教示を賜った中国美術学院からの招聘教授および、その知友の岐阜市在住の中国の方々と、年末年始は御馳走と歓談とに明け暮れ、楽しい少人数の正月を過ごしをります。これまで自分を胃弱と思ったことはなかったのですが、さすがに食べ過ぎ飲みすぎ、休みの後半は養生したいと存じます(笑)。
昨年2020年のおもな収穫は
『江戸風雅』第7〜15号 9冊 平成25〜29年
『太平詩文』第1号〜69号 63冊 平成8〜28年
『星巌集』8冊 天保12年初版(『紅蘭小集』欠)
頼山陽「山水画」印刷掛軸(誤字の印が判らず難儀しました)
山川弘至詩集『ふるくに 特製版(檀一雄宛署名)』昭和18年
柴田天馬訳『聊斎志異』全10巻 昭和26〜27年
和仁市太郎詩集『石の獨語(孔版)』昭和14年
『詩集日本漢詩』16巻/全20巻中 昭和60〜平成2年
村瀬藤城「犬山敬道館」「養老泉」掛軸
後藤松陰「松菌」掛軸、書簡(岡田正造:伊丹酒蔵元)宛
といったところでした。
さて、年末に津軽の一戸晃様から、王父である詩人一戸謙三が、昭和10年に弘前新聞に連載してゐた「津輕えすぷり噺」といふ記事の翻刻の労作(A4 32p)をお送り頂きました。
「私が津軽方言詩集を刊行し始めたのは、地方主義の文学という立場であったが、その行動を津軽エスプリ運動と名づけた。そうして地方主義思想が如何にしてこの津軽地方に展開したかを一般に広めるため、弘前新聞紙上に昭和十年の一月から「津軽エスプリ噺」と題する閑談を連載し始めた。」「津軽方言詩の事」(『月間東奥』昭和15年)
といふ、全91回にもわたる回顧記事ですが、変転する自身の詩歴を整理しつつ、折々の節目ごとに過去を振り返る、いかにも律儀なこの詩人らしい文章であり、戦中戦後のバイアスのかかった思ひ出でなく、記憶も心情もまだ鮮明な、当時の発言であるところが貴重です。
また同じく津軽からは、詩人の藤田晴央様より新刊詩集『空の泉』(思潮社2020,21cm,93p)の御恵投にも与りました。私がいちばん気にいった作を一つ御紹介させて下さい。
ロッキングチェア
まだ二十代だったころの
おまえのアパートにあったロッキングチェア
六畳間に不似合いだった大きな椅子
ぜいたくを嫌ったおまえの
ただひとつの嫁入り道具となった椅子
東京から津軽へと
いくたびもの引越しをへて
今も我が家の居間にある
高い背もたれに
おまえのカーディガンがかかったままの
楢の木でつくられた
かたく丈夫な飴色の椅子
今
そこにすわる人はいない
西日をうけても
黒ずんだ肘掛はほのぐらく
そこにはただ
ゆったりとした沈黙がすわっている
沈黙が
手編みをしたり
本を読んだり
ときおり
庭をながめたりしている
沈黙とはだまっていることではない
沈黙とは
そこにあること
そこにいること
誰もいない椅子を
かすかにゆらすもの
そして津軽といへば、棟方志功の令孫、石井依子様より今年もすてきなカレンダーをお贈りいただきました。
東京のマンション改築に伴ひ、来春より富山県南砺市福光にある棟方志功記念館の館長としてしばらく拠点を移動されるとのことですが、時代も事情も異なるとはいへ、かつて当地に疎開された画伯が聞いたら、さぞかし満面の笑みを以て、当時のあれやこれやを愛孫に語り聞かせて下さったことでしょう。またそれを肌身で感じる三箇年となるやうにも思はれることです。
けだし富山は40年前の私にとっても、大学時代を過ごした思ひ出深い土地。福光は白川郷や五箇山の川筋ですから山国の醇風も期待されます。資料館には暖かくなってから、ぜひ伺ひたく楽しみです。
福光の隣の金沢からは、米村元紀様より『イミタチオ61号』も御寄贈いただいてをりますが、また別の機会に。みなさまには、ここにても御礼を申し上げます。
首都圏はいよいよ危険信号点滅とか。皆様には感染防止に留意の上、お体の御自愛、切にお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。
付記:カレンダーの表紙は毎年画伯の「書」が飾ります。今年は「拈華微笑」。
おもむきは大いに異としますが、富山時代のわが弱冠の面立ちと、ことし還暦を迎へます金柑頭とを、画伯おなじみの破顔一笑とならべてみました。先生為諒否。(再咲)
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:
中嶋康博
:2021/01/14(木) 23:46:46
田中克己先生の命日に
田中克己先生が亡くなって来年で30年になる。1992年の1月15日のことであった。
当時、私は上京して8年目。いつまで経っても正職員にはなれぬ下町風俗資料館での勤めに見切りをつけ、民間企業に転職したものの勤まらず。心の洗濯と称して初めての外国一人旅を決意して、ネパールくんだりをひと月余りかけて周り、帰ってきた後であった。すなはち失業中の身であり、しかし何をするでも無く、東京下町の下宿にひきこもり、三十を目前に将来の不安を漠然と抱へる無聊の日々を過ごしてゐた。思へば人生の節目において訪れる、一種、危機の季節にあったのかもしれない。
先生は年末に風邪をひかれた後、阿佐ヶ谷からはずいぶん遠い八王子の病院に入院されてゐた。その以前、半年以上前からだと思ふが、先生夫妻と同居されるやうになった長男御夫婦は、末期癌と宣告された悠紀子夫人の看病に付きっきりになってをられた。私はそれを知らなかったが、“詩人”の夫に振り回され、子供たちの為に生涯辛抱を続けて来られた夫人に、不治の病が発覚したことが哀れでならぬ令息夫婦にとって、母親との残された時間が何より大切であり、父親が風邪をひいたとて、かまふことができない状況にあったのだとは、後からお聞きした。
先生自身、自分が先に倒れるなど考へたこともなく、駅を挟んで河北病院までの見舞を日課として欠かすことがなかったらしい。しかしそれさへ夫人のストレスの種となってゐたといふに至っては致し方ない。初期の認知症もみられたのであらう、大事をとって一時の入院を勧められた先生は、病院の検査で、どこで感染したのか知れぬが、黄色ブドウ球菌による肺炎の診断を下された。
田中克己先生と出会ってそれまでの5年間、私は月に一度、電話をしてから御自宅をお訪ねしては、詩と関係ない四方山話に興じ、悠紀子夫人が作って下さる魚の煮つけ等の“おばあちゃんの手料理”を食べて帰るのが常となってゐた。核家族で育ち、上京してアパートの独り暮らしだったこともあり、帰途はいつも祖父母から慈愛を享けたやうな幸福感で満たされたが、斯様の事情も知らず、旅からの帰還報告に上がった11月17日が、お元気な先生夫妻と会った最後の機会となった(日記には「夫人憔悴」とだけ追記してある)。
そして翌月(12月4日)電話すると、先生が11月25日に入院されたことにつき、件の肺炎についてと共にあらましを伺った訳である。「治ったらまたね。」と、こじらせるとは思はれなかった令息夫人から電話口でお聞きすること、その後も二、三度に及んだか、結局見舞ふ機会をズルズルと逸してしまった。
先生そしてその後先生のあとを追ふやうに亡くなった悠紀子夫人からも、だから私は遺言らしい言葉を聞いてゐない。しかし少なくとも病状が革まる三日前までは、先生もまさか自分が亡くなるとは思ってゐなかったやうだ。あとでお聞きしたところによれば、病院では見舞に来た長女を見間違ひ、そのくせナースから自分も均しなみに「おじいちゃん」呼ばはりされることには、大変怒ってゐたといふことである。
そんなことで新年(1992年)を迎へ、悠紀子夫人の要望(許可)もありやうやく17日には初見舞をする約束をしたところで突然の、容態急変を報せる電話だった。愕いて病院に駆けつけたときにはすでに意識は朦朧。吸入器を当てられ、荒い息で苦しさうに呼吸を継いでゐる先生を、ベッドの脇で見守ることしかできなかった。あの痩せて細長い指が、信じられない程むくんでふくれあがってゐる。そして冷たいのだ。瞬きのなくなった瞳には湿ったガーゼが当てられてをり、取って呼びかけると眼差しを向けてくれたが、私と認めて下さったらうか。
その夜の1時24分に先生は亡くなった。
翌日、訃らせがあり、阿佐ヶ谷の自宅に走ったが、教会に留め置かれた遺体は、神様が護って下さるとのことで、その夜も、翌日の前夜祭も、寝ずの番は不要との事であった。
しかしながらこの時、私は教会に夫人の姿がなかったことが不審でならなかった。悠紀子夫人は自宅でテレビの真ん前に座ったまま、観るともなくじっと画面を見つめてをられた。これまでみたことのない、言葉を掛けるのが憚られるその横顔が忘れられない。亡骸をみるのがお辛いとのことだったが、そもそも先生の見舞には一度もゆかれなかったといふ。あれほど熱心に通ってをられた教会だが、本葬にも、結局出席はされなかったのである。
告別式は寒い一日であった。遺族以外、誰とも面識のないプー太郎であるが、詩人の弔問客の対応をしてほしいと、私も受付に立つことになった。しかし先生の交遊関係について『四季』『コギト』時代のことしか知らぬやうな文学青年であるし、記帳と香奠受取の手伝ひをさせてもらったものの、或は不審人物と思はれたかもしれぬ。もとより弔問は葬儀全般の世話に当たられた令息勤務先の官僚の方々が多かった。先生が成城大学を退職してからも五年が経ってゐたし、そして田中家のキリスト教徒は老夫婦だけであり、晩年の先生がもっとも懇意にしてをらた信者の皆さんも、高齢かつ夫人不在のため話す相手とてなく、漫然と教会の隅に寄り添ひ見守ってをられたのが何かしら哀れだった。
それでも私は、存じ上げてゐる詩人の名が書かれるたび、ハッとして面を上げ、詩名を存じ上げてゐることを申し上げると一様に驚かれる、その方々の心情を忖度したことである。長身痩躯の紳士、富岡鉄斎研究の一人者である小高根太郎さんが、
「とうとうコギトは僕ひとりになってしまったね。いつまでも年寄りが頑張ってちゃいかん。後進にゆづらなくては。」
と仰言り、なほ私が詩を書いてゐることを伝へると、
「詩はよした方がいい。あいつも私も気狂ひだった。詩をやると気狂ひになるよ。」
との一言を賜はったのが忘れられず、日記に記してある。
不明にも程があるが、『コギト』で活躍された旧ペンネーム“三浦常夫”先生に拙詩集をお送りしてゐなかった。これを聞いては送るのも憚られ、また漢詩の世界に目を啓かれる前の事とて、手紙もせずその時かぎりの挨拶に終ってしまったことを、今に遺憾に思ってゐる。
最晩年のある日、突然大阪にやってきた先生夫妻を最後にもてなされた福地邦樹さん、そして杉山平一先生も関西からその姿を現すことはなかった。
先生が訳された讃美歌を歌った。初めて聴いた。
御遺族に促されて私はそのあと焼き場までついてゆくことを得た。先生のニックネーム通りの、真白で喉仏がきれいに残ってゐた、お“骨”を、令孫と共に拾はせて頂いた――。
?
先生が亡くなって、それから丁度ひと月後の2月15日、形見分けに呼ばれた私は、先生の蔵書を数冊、それから戦争中、三好達治から貰ったといふ朝鮮土産の筆箱を頂いた。特に自分から所望した松下武雄の『山上療養館』を頂いて喜んだ私は、そのとき夫人が病院から自宅に移された意味もピンと来ず、ベッドの袂で手を握り、なにごとか語り合ってゐた堀多恵子さんの様子からも、何も察することができなかった鈍感ぶりであった。夫人は更にひと月後の、3月10日に亡くなった。二日前に河北病院まで駆けつけた時、初めて癌のことを伺ったが、先生の時と同様、もはや夫人にお詫びを申し上げることもできなかった。もし悠紀子夫人が御元気であったなら、私はおそらくその後も足しげく阿佐ヶ谷のお宅に通ったらう。さうしてこれまでは聞くことが叶わなかった田中先生の面白可笑しいエピソードの数々を(先生同席の場で話せることは既に幾つか聞いてゐたが)、根掘り葉掘り聞きだしに掛かったらうと思ふ。
しかし運命といふのは分からないもので、夫人が亡くなる直前のことであったが、私は年度末のその頃になって、たまたま足を運んだ岐阜県事務所に出されてゐた求人に導かれ、地元私立大学の職員として奉職、帰郷することが決まった。夫人の危篤を見舞った日、令息夫人より、労ひの言葉とともに多額の餞別と、さらに田中先生の遺品から腕時計を頂いたのだが、思へば天国の夫妻から、先の見えない上京生活に見切りをつけさせて、国の両親を安心させるべく、いみじき因縁を以て故郷に帰るやう引導を渡されたものではなかったか、とは、後になって学園理事長が田中先生の教へ子であると判って驚いたことである。
また近年になって長女の依子さんから、「こんなものがみつかりましたよ」と一通の封書が送られてきた。同封の便箋をみれば、先生が亡くなったあと、悠紀子夫人が先生の後輩詩人でいっとき岐阜の名士であられた岩崎昭弥さんにあてた私の就職を依頼する一文を認めた手紙の下書きであった。目を通した途端、私はみるみる涙が滲んでくるのを覚えた。
敗戦後の昭和二十年代、詩人としての田中克己は、国家圧力の下における詩史的な役割の荷を、もはや降ろしたかにみえた。当時のことを、それまで特段注意して見てこなかった私は、岩崎さんをはじめ、福地邦樹さん、高橋重臣さん等々、当時田中先生と詩的に私的に深いつながりを保ち、困窮の極にあった田中家と親しく交はった在阪時代の後輩の恩人の方々について、気に留めること尠く、先生の集成詩集を編集する際にも一切相談せず事を進めた。先生没後「田中克己全詩集を出しましょう」と手を挙げられないのを、ひとり勝手に恨んでゐたものか。
このときの職探しにせよ、失業報告をした時から、先生と夫人と口をそろへて「帰省して一度訪ねてみたらどうか」とお言葉を頂いてゐたにも拘らず、政治家のコネで就職が決まる事に気後れを感じ、保田與重郎全集が応接間の壁面にずらりと並んだ岩崎さんの邸宅にも、思ひ込んだバツの悪さから、一度しかお邪魔することができなかった。しかしながらその直後、運よくみつかった大学職員の口にせよ、思へば父の職業(お堅い県庁事務職)故に決まったのに違ひない。
私は自分が知らない時代の“詩人田中克己”のエピソードを聞いて回るフィールドワークのチャンスを、みすみす自分の偏狭な了見で何度も失ってゐる。小高根太郎先生に限らない。芳賀檀先生、小山正孝先生、そして上記の、後輩にあたる方々についても、訃報に接する度に臍を噛んで、もう取り返しがつかない。
?
茫々、実に三十年。とまれ今年還暦を迎へる私は、再びのお導きかどうか解からないが、咎なく閑職となった身を利用して、先生が遺した膨大な日記の翻刻を続けてゐる。丁度いま、先生が六十になった頃のノートを終へたところである。
人は誰も、いつか自分の命日となる日を知ることもなく、うかうかと過ごしてゐるが、ちなみに60年前の当時、すなはち1971年の1月15日前後のページを繰ってみれば、夫婦で新幹線に乗って名古屋の孫らに会ひ、その足で故郷の大阪に向かひ、教へ子の同窓会と披露宴とに出席してをられる。同じく60歳とはいへ、半世紀前の日本における親族・同窓・教へ子人脈の親密さ、冠婚喪祭の在り方、等々、つまり大人の社会人としての出来上り具合を日記から読みとるたびに、余りにも自分と異なることに驚かされてゐる。
さうしてさきにも書いたが、先生葬儀の日、記帳の名前を拝見しても誰か分からず、声をかけることが出来なかった方々のことを本日は考へる。この日記にもっと早く、できれば先生の生前に許しを得て目を通す機会があったなら、詩史的な役割の荷を降ろした後の、詩人としての田中克己の面白さを率直に伝へて下さる方々から、もっとお話を伺ふ機会もあったらうにと、残念に思ふのである。
今年の田中克己先生の忌日にあたっては、当時の「メモ兼・作詩ノート」を引っ張り出してきて、記憶の訂正も兼ねて備忘録となるやう少々長く書き綴ってみた。手を合はせ、現在の体たらくを天国の先生夫妻に御報告したい。(実は30年忌と思って書いてゐました。笑)
葬儀の当日、だれか始終パチパチ写真を撮ってた人が居たが、涙目で思ひ詰めたプー太郎の姿がしっかり収められてゐる。後日頂いたのを、どうせだから掲げて置く。(2021.01.15)
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:
中嶋康博
:2021/02/04(木) 20:52:27
『イミタチオ』61号
旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。
表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。
さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。
文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。
今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。
大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。
このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。
ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、最後までお付き合いする見届けてやる。
さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。
米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。
『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)
評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
2. 『蒙疆』――戦場への旅
3.朝鮮古代芸術への旅
4.おわりに
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中嶋康博
:2021/03/26(金) 17:18:10
山崎剛太郎先生
今月、詩人でフランス映画の字幕訳者で著名の山崎剛太郎先生が亡くなられたといふ。
親友だった詩人小山正孝の御子息正見様からは、いづれ詳細が入るのではないかと思ふが、103歳の御長寿ではあり、やすらかな旅立ちをお祈りするばかりである。
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先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。
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しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。
?
御存知マチネポエティク界隈の仲間達の一員にして、戦前抒情詩の気息を伝へる正真正銘最後の生き証人といふべき方を喪った。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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(写真は第2詩集『薔薇の柩』より)
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:
中嶋康博
:2021/04/05(月) 20:26:59
岩波文庫『江戸漢詩選』上・下巻
【書評】新刊BookReviewに、揖斐高先生の『江戸漢詩選』上・下巻の紹介文を書かせて頂きました。
https://shiki-cogito.net/book/edokanshisen.htm
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:
中嶋康博
:2021/04/12(月) 19:14:05
『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」
旧臘より気になってゐた雑誌の特集号をやうやく閲読、編集の指揮を執られた小川英晴氏の“立原道造愛”を核として初めて成った特集であることが端々に感じられる一冊でした。
執筆陣のなかでは、四季派の存在意義を現在最も説得力を以て語ることが出来る論客、國中治氏の一文が相変はらず鋭い一矢を放ってをります。
戦後“四季派批判”を担った現代詩詩人達にわだかまった「自分達の問題意識が一般読者ばかりか、よりによって若き表現者たちにさえ」共有されない苛立ちと焦躁について。
すなはち一言で云へば、いつまで経っても四季派の詩人の人気が衰へないことについて。
その根拠を、彼ら批判者達が始祖として仰いだ萩原朔太郎の
「野放図と言えるほどの先鋭大胆な詩的言語の開拓」
「詩の沃土は沃土にはちがいないが不安定極まりなく、そのままでは朔太郎にしか歩くことが出来ない狷介な荒蕪地」
を、他の誰でもない彼らが目の敵にした三好達治が均して、口語自由詩の表現を現在あるやうな実のあるものに定着させていったのではないか、といふ直球を投げ、
しかも戦争詩を書いた彼が精神的な耄碌に堕したとならば、どうして再びこんな作品が書けるのか、と戦後の作品「風の中に」を挙げて、これを
「『荒地』の詩群のなかに置かれたとしても読者に違和感を与えないだろう」
といふ見通しと共に述べる、話を逸らさぬ明快さ。
立論は当時の詩に現れる「鳥籠」を象徴的に解釈しつつ説明されてゆきますが、その自由の制限者でもあり得、安息の保護者でもあり得る「鳥籠」とは、私の四季派に関する持論の、口語自由詩に必要な制約(定型のフレームのみならず、箱庭世界の創造だったり、時代の圧力さへも含む)なんだらう、とも思ったことです。
そのほか、昨今の異常気象により自然現象としての四季の喪失から『四季』の存在意義を問うてゆく問題意識なんていふのは、特集の理由としては実に現代的で面白く思ったものの、そのことについて深く論及する文章がなかったことは残念でした。
何より目玉であるはずの「対談」ですが、ただ現代詩詩人として有名であるといふだけで、四季派の抒情を全く認めない荒川洋治氏を相手に呼ぶといふ人選には疑問を感じました。
また「鼎談」に於いても『四季』の詩人達に詳しい人が誰も参加しない会話に肩透かしを食らひました。
荒川氏は新刊『江戸漢詩選』のレビューも新聞に書いてをられますが(毎日2021.4.3)、四季派同様、本場中国の漢詩と異なり反権威・反体制を事としない江戸時代の漢詩について、氏のやうな詩人が好意的な書評を書かされること自体、笑止であるし(梗概と解説のはしりを抄して後は自己の読書歴に紐づけて述べ、穏当に「これで勘弁下さい」といふ感じ)、ジャーナリズムが認める伝統的な抒情詩人の空位を、それこそ自然現象としての四季の喪失と同じ次元で考へさせられてしまったことでした。
ただ立原道造も伊東静雄も田中冬二も認めぬ荒川氏が、地方生活者として里山の詩を綴る蔵原伸二郎や木下夕爾、そして一番外周に位置づけて杉山平一の三人を認めてゐる条り、また
「四季派を批判する戦後の人たちの詩も四季的な抒情に近い、というか、それ以上に甘ったるくて単純なものが多い」
と一刀両断するところだけは良かったです。地元の福井贔屓を平気でガンガン出してくるところも面白かった。
本誌を読ませて下さった青木由弥子氏には、新刊詩集『しのばず』があり、合せて拝読しました。
日ごろは敬遠してゐる現代詩ですが、久しぶりに快い抒情詩を堪能。小網恵子氏の『野のひかり』以来です。
繊細な語感の持ち主であること、殊にも五感をたくみに絡ませた暗喩を繰り出すセンス、抒情詩ではあるものの、新しい表現をめざして自覚的に詩を書いてをられることが伝はってきました。
特に前半に集められた詩篇には、四季派の抒情詩のカタルシス「抑制することに付随して噛みしめられる恢復感」を感じさせる言葉に満ちてゐて、四季派の遺伝子はかういふ所にこそ流れ続けて居るのではないかと思ったことです。
ここにても厚く御礼を申し上げます。
『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」
対談:荒川洋治×小川英晴/四季派の詩人たちを巡って
座談会:城戸朱理 竹山聖 小川英晴/四季派・現代詩への継承
エッセイ:國中治/「四季」派の遺伝子 〈鳥のいない鳥籠〉を巡るささやかな追跡
小島きみ子/立原道造のメルヘンについて 見えるものの向こう
布川鴇/「四季」と詩人たち 立原道造の叶えられなかった夢
岡田ユアン/子育ての中でめぐるうた
池田康/四季派についての覚書
鹿又夏実/野村英夫 「四季」の最後期をかざるカトリック詩人
総論:小川英晴 四季派の遺伝子 立原道造を中心にして
ほか
21cm,202p 詩と思想編集委員会発行(土曜美術社) \1300+税
青木由弥子詩集『しのばず』2020.10 土曜美術社 19.0×15.5cm 101p \2000+税 isbn:9784812025925
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:
中嶋康博
:2021/08/19(木) 18:06:20
八仙齋亀遊
いつも拝見してゐるdaily-sumus2の林哲夫様より、下鴨納涼古本まつりでこんな掘り出し物があったのであなたに、と古い短冊をお贈り頂きました。
御当地ものといふことで賜ったにも拘らず、当方狂俳のことは無知にて、さきに小原鉄心や戸田葆逸に係る人物として、俳句の宗匠だった花の本聴秋(上田肇)について知ったばかりです。
短冊裏に「岐阜細味庵亀遊先生筆」とあり、亀遊とは、さて如何なるひとにや。
ネット上で検索すると関連HP記事が一件のみヒットしました。「金華まちづくり協議会公式HP」:
https://gokinjyoai.org/group/kyouhai/1692/
また郷土の文人に関する基本文献『濃飛文教史(伊藤信:昭和12)』924p
そして『濃飛文化史(小木曽旭晃:昭和27)』、『岐阜市史通史編近代/文芸(平光善久:昭和56)』にも記述がありました。
これらを合はせると以下のやうになります。
【八仙齋亀遊】
岐阜市今町の製紙原料商、長屋亀八郎(1818-1893)。
性風流を好み、無欲恬淡、早く隠遁の志あり、金華山麓竹林中に草庵を結び、俗塵を避け専ら風流韻事に耽る。
作句弄巧、狂俳選者として知られ、また俳諧を能くし、指導親切のため多くの門人を抱え、推されて宗匠「八仙斎」の第一世となる。
明治26年10月21日76歳で病歿、 辞世に曰く、「きれ雲をあきあき風に冬の月」。墓は末広町の法圓寺。
門弟中の高足、渡邊浅次郎(金屋町の味噌溜商山城屋)、推されて第二世八仙斎一秀の文台を継承するも翌月、明治26年11月18日没、享年42。
以後、第三世巴童(平尾半三郎)、第四世秀雅、第五世右左、第六世松濤、第七世梅溪と、岐阜小学校校区から宗家を輩出。歌仙形式を取り入れた“岐阜調”と呼ばれる、狂俳としては格調を目指した一派を興し、現在も子孫のもとに石碑や古文書等が伝へられてゐる、由。
短冊に「細味庵」とあるのは、狂俳の始祖、三浦樗良(志摩の人)が安永2年、岐阜に滞在した折に指導した、鷺山生まれの桑原藤蔵(美江寺在住、文政6年4月12日没75)が宗匠として名乗った庵号の細味庵が、代々受け継がれて有名であったから、らしい。すなはち、
「狂俳の活動は、細味庵と、(※後発の)八仙斎の二宗家によって伝統が守られ、江戸時代を経て明治後期〜大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛を極めました。現在では、岐阜県を中心に50結社、約400名でその伝統が守り続けられています。」
との紹介がHPでなされてゐます。歴代細味庵は素性が分かってをり、亀遊を細味庵と書いたのは旧蔵者の誤謬のやうです。
さてHP記事にある「狂俳発祥の地」の石碑を、岐阜公園に訪ねて参りました。
確かにその右隣には「八仙斎亀遊翁之碑」が。
裏面の草書の碑文が磨滅して読み辛いのですが、こちらが古く、辛丑とあるのは明治34年(1901)。
まんなかの大きな「狂俳発祥の地」の建立は昭和47年で、左隣には東海樗流会なる狂俳団体による三浦樗良を顕彰する句碑(昭和55年)がありました。東海地方の雑俳史の権威だった小瀬渺美先生が御存命なら詳しいことがお聞きできた筈で残念です。
またお墓があるといふ法圓寺にも行きました。
山門をくぐったすぐのところ、「剣客加藤孝作翁之碑(直心影流)」の隣に「八仙斎亀遊」の墓碑はすぐにみつかりました。
ただ裏をみると、写真のやうに「終年七十六」はよいのですが、「明治乙巳十一月十八日 花屋善平建之」とあるのです。
乙巳なら明治26年ですが11月18日は『濃飛文教史』には、二世八仙斎の没年月日だと書いてあります。石碑の方が正しい筈ですよね。
しかし亀遊の命日が11月18日ならば、それよりひと月溯った10月21日といふ『濃飛文教史』の記述はいったい何の日でしょう。
亀遊の没年月日はやっぱり10月21日で、11月18日とは花屋善平さんがこの石碑を建立した日??ちょっとそれは…。
そもそも辞世句「きれ雲をあきあき 風に冬の月」ってどういふ意味なのでしょう。磨滅した石碑に再度あたりたいと思ひます。
そして、頂いたこの短冊にしても、はっきり書いてある最初の字から読めません(汗)。
狂俳(7.5 / 7.5)なのか、俳句(5.7.5)なのか、擦れ箇所は措いても、何のことを詠んでいるのかさへ判らないのです。わが解読力の不甲斐無さが悔しく、情なく、悲しい。
[祭・緑・絲][祈][是・春(す)][礼(れ)・能(の)]砂■■[頭]二同[章・筆] 亀遊(之繞欠損)」
無知を痛感してをりますが、その道の方々より教へを乞ひたく存じます。
林様よりは、以前にも『種邨親子筆』の写本をお贈り頂きましたが、読めるまで紹介をためらってゐると、いつのことになるやら分かりませんので、面目ないことながら途中報告かたがたこちらにても御礼を申し上げます。このたびはありがたうございました。
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:
中嶋康博
:2021/09/11(土) 21:27:18
稲森宗太郎『水枕』
「稀覯本の世界」管理人様より、三重県名張の夭折歌人、稲森宗太郎(1901年 - 1930年)の遺稿集『水枕』(昭和5年)を頂きました。
和歌にとんと疎い私ですが、季節ごとに目に触れる身近な自然に対する抒情は理解できます。
といふよりそれこそ我が本領とするところ。殊にも草花や虫たちに対する写生にたいへん感じ入りました。
気に入ったところを引き写してみます。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
牡丹雪ことに大きなるひとひらはしばらく消えず葉蘭の上に 11
伯耆三朝温泉にて
暁のいでゆの中に人あらずうすれし灯かげうつりてゐるかも 14
暁の湯浴みををへて春寒し人の起きねば独り坐りをり 14
柳の葉ちりこぼるなり庭檜葉の蜘蛛のいとにもひつかかりつつ 21
焼けくゆる秋刀魚の匂ひ、この夕の厨ゆすなり、さんま、さんま、嗅ぎつつもなつかしきかな、わだつみの潮のいろの、秋さるとむれ来し魚ぞ、油ぎる鱗の色の、さやかにも今は秋かも、くらひなむ秋刀魚。 23
八つ手の花咲ける門べに、豆腐買ふと立てるわが妹、藍さむき瀬戸の鉢にし、銅銭を添へていだしぬ、わが見てをれば。 24
けふの日の思はぬ入日わが部屋の電球の面にひそかにうつれる 27
たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる 27
新年をこもりをりて
元日のけふの大空、ほがらかに晴れわたりたり、がらす戸よ眺めてあるに、風船玉あかきが一つ、屋根の上にふとも浮き出づ、子が手よりのがれしならむ、ありなしの風にゆれつつ、庭松の梢をぬきて、向ひ家のあんてなをこえ、いや高く上りゆくかも、青き空の中。 37
わが弟東京見物にと来りしを、我れたまたま心たのしまぬことありておのづから疎うす。一日伴ひて上野の動物園に遊ぶ。
春さむき水のほとりを、静かにも歩みゐる鶴、清らなりや二羽の丹頂、むかひゐるに憂へは忘れ、ひとりしも遊べる我に、のまずやと莨すすめぬ、うら若き弟。 44
畳にしおきてながむる鉢の罌粟かそかにゆるる人のあゆむに 51
さみどりの鸚鵡のぬけ毛ほのかにも畳にうごく土用のまひるを 59
曇りつつむし暑きかも昼まけてみんみん蝉の遠く聞ゆる 59
こがね虫かさなりてをり朝露のおどろが中の赤ままの葉に 63
落葉せし楢の鞘を逃ぐる小雀(こがら)追ひかくる鵙と杉にかくれぬ 68
落葉をいつぱい詰めし炭俵を人かつぎゆく落葉こぼしつつ 70
秋の末に
鉢のままに庭にころがれる、一本の鶏頭、うちたたへし紅の色の、寂び寂びて目に沁むまでに深き秋かも。 71
病弱なる人をその郷里におきて、ひとり東京に住みつつ、
夜ふけて帰りし部屋に、寒やとて炭火おこせば、たきつけの紙の白灰、外套のままなる我に、まひてはかかる。 78
読みさしし机の本にさせる月ひとの坐りて読みゐる如し 88
塩せんべいかむにはりはり音のしてかたへさびしき夕ベにもあるか 88
春来る
出で来たり夕空見れば金星の光なまめく紫おびて 92
盲学校の門前を過ぐるに、盲目の童ら、校庭にボールを投げて遊ぶ
盲学校校庭に咲く八重桜子ら遊びをり深き明るみに 97
フットボール空に投げたり下の子らうつむきて待つ地に落つる音を 97
ぎんやんま翅光らして、椎の木の若葉にとまれば、松葉杖つける少年、もち竿を腋にはさみて、木のもとにしのび寄るなり、杖ひきつつも。 105
まかがやく空をかぎれる棟瓦蜂一つとべり触れつ離れつ 106
松葉牡丹咲きて照りたる砂の上に赤蟻の道切れてはつづく 107
ある時
自由をたたへたりし我れ諦めを尊しとせむこも亦誠なり 120
今の世の苦しき知らに肥えて笑ふ人に好かれじわが痩せ歌は 125
せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩せ歌は 125
龍を詠ず
青雲の垂り光りたる海の上ひろらに遊ぶ雄龍と雌龍 135
凧を聞く
戸をゆする風にきこゆる、凧のうなりよ。かきこもる我の心に、ひそみたるもののあるらし、空に誘はる。 137
濁りたるみどり堪へし川の面投げおとす雪をあやしく呑みぬ 142
車中にて
ほの明くる山の麓の一つ藁家人はめざめず白木蓮の花 147
道の上のわが影法師ほのかにも帽子かむれりこの春の夜を 149
井の頭公園にて
井の頭の池のおたまじやくし、かぐろくもむれて游げり。まろらなる頭そろへて、一群のより来と見るに、へろへろと尾をうち振りて、遠くしも迷ひ行く一つ、水ふかく沈み行きては、はろばろと浮き来る一つ、同じことくりかへしては、思ふことあらず遊ぶに、俄にもものうき心我をおそひ来ぬ。 151
郊外に移れる夜
煙草すひて起きゐる我にころころと蛙きこえきて夜の静かなり 154
静かにも蛙の声のきこえ来るこの部屋に我はふみよみぬべし 154
わが部屋に我のこもれば隣室に我が妻もまた昼寝してをり 157
一本の庭の青草そよげる見れば、生涯をなるにまかせて、まどはじ我は。 162
雑草にまじるどくだみきはやかにま白き花を空にむけたり 166
古へ人この素朴さを愛しけむ青葉に咲ける白き卯の花 167
花びらの俄に散りし机の上けし坊主一つこちら見てをり 168
庭潦に落ちきたる雨ぼんやりとのぞける我を瞬かしめぬ 170
庭潦渚に出でし一つ蟻道をかへてはまた歩みゆく 176
星空のすそに伸びたる夏草のかぐろく動く星をかすめて 178
土用の頃
雑草を出し蜆蝶光重きかみなり雲にやがてまぎれぬ 179
唐紙にとまれる馬追なきさしてあとをつづけず明るき部室に 185
灯をけして眠らむとすればさよ更けを蚊帳のべに来て鳴くも馬追 185
秋づきしま青き空にみんみん蝉鳴きすましたる声のよろしさ 186
野司(のづかさ)のいただきに立つ女の子きり髪みだし風に吹かるる 188
足のべにいなごとぶなりけふの日を妻と出で来て歩める野べに 200
土の上に吹き落されてまろき目を闇にひらきてありし芋虫 207
秋深き風のすさめる暁に盗汗をかきてわがめざめたり 208
暁の落葉ふまく風の音盗汗つめたく我はききをり 208
床の上に目ひらきて暁昏の空にすさめる風を思ひぬ 209
起き上りふらふらとゆく親犬に身ぶるひをして仔犬つきゆく 210
垣くぐり出でむとしては白き犬白ききんたまをあらはに見せぬ 211
肌ぬげるわが胸の上に聴診器しづかにうごき遊べる如し 212
聴診器胸にうけつつカーテンのひだにたまれる灯かげを見てをり 213
庭のべに身ぶるひをする犬の音ねつかれぬ我が床にきこゆる 223
木枯の吹ききわぐ中に雀十羽うちみだれては土よりまひ立つ 224
おとろへし身を養ひてあらむ我れ湧きくる思ひにまなこつぶりぬ 227
新しき机を買ひて
電燈の照りほのかなるわが机ひとり見つつも手に撫でにけり 249
することなくわがむかひゐる机の上蛾の一つ来て灯かげをみだす 250
尿せるわが鼻の先にぺつとりと碧とけむとして雨蛙ひとつ 251
原稿紙めくりてゆけばここにしも刻み煙草のこなのちらばる 264
秋の雨ふれる柿の木幹の叉にかたつむり這へり首さしのべて 266
庭のべのやせたる菊の清らにも白き蕾を我に向けたり 269
ひと茎を伸びたる紫苑わが庭の秋のふかきにとぼしらにに咲く 271
外套をまろらに着たる十人の女学生の来る道いっぱいに 277
8月31日、小沼逹死す、その家にて
苦しみて死ににきといふか庭の草青さに照るは今日の日影なり 279
雪つぶて胸にあてられし一人の子投ぐる忘れてよろこびをどる 291
暖き日、都筑に見舞はる
落椿もちたる友の、物言へぬわが枕べに、言葉なくいぢりてはゐる、くれなゐの花を。 295
初めてせる水枕を喜びて、十一日によめるもの(編者)
水枕うれしくもあるか耳の下に氷のかけら音たてて游ぐ 297
ゆたかなる水枕にし埋めをればわれの頭は冷たくすみぬ 297
枕べに白き小虫のまひ入りぬ外の面は春の夕べなるべし 300
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:
中嶋康博
:2021/09/19(日) 23:10:12
圓子哲雄氏の思ひ出
圓子哲雄様とはもう30年近く前のことになりますが、私が詩を書いて居た1992年の時分、杉山平一先生からの紹介ということで、圓子様主宰の詩誌『朔』の最新号(120号)を送って下さったのが御縁の始まりです。それを機に、田中克己先生の日記の翻刻を4回ばかり誌上で紹介させてもらひ、しばらくして再び同人に勧誘下さいました。
まことに申し訳ないことながら有難いお誘ひを断ってしまったのですが(当時のことについては『詩と詩想』10月号に寄稿した拙文を参照下さい)、1998年以後、『朔』の寄贈に与り、お送り頂くたび毎に、いつも便箋一枚いっぱいに認められた近況をはるばる八戸からお聞かせ頂いては、岐阜からも返信を長々と書き送るといふ手紙の上でのやりとりを、思へば2015年の夏、『朔』が179号を以て休刊するまでの間ずっと続けてきたことになります。
1971年の創刊このかた、『朔』は同人の作品発表の場のみならず、青森県が生んだ抒情詩人や、圓子様の詩情の拠り所にして自身のデビューを果たした『四季』にまつはる先達詩人の顕彰が(特輯号もしくは追悼号として)幾度となく組まれて来ました。
寄稿者として、圓子様と同郷で隠棲中だった先輩詩人、村次郎の人脈を活かし、彼がかつて同人だった詩誌『山の樹』(『四季』第2世代の衛星誌)の盟友達から惜しまぬ協力をとりつけることに成功し、単なる同人誌の域を越え、近代詩の研究者にもその名を知らしめるに至りました。
私は特輯された詩人のうち、とりわけ感銘した一戸謙三──郷里に籠って新詩型を模索し続けた抒情詩人(1899 ? 1979)について深く興味を寄せるやうになり、やがてその詩集をネット上で紹介しようと思ったことから、令孫晃氏の知遇を得ましたが、思へば圓子様との文通に発するものでした。
圓子様をめぐって最も思ひ出深いのは、私が田中克己に師事したのと同じく、圓子様が心酔されたその先輩詩人、村次郎について、手厚い追悼号を編集し(1998年137号)、以後「村次郎先生の思い出」を連載するとともに、長年にわたる聞き書きを『村次郎先生のお話』といふ2巻本にまとめられたことです(文学篇1999年、言語論・地名論・伝承芸能・植物相論2000年)。
編集にあたっては恐らく自分の詩集より心を砕かれたことと思ひますが、戦後、家業を継ぐため帰郷し、潔く作品の発表を絶ってしまった詩人が、心安い地元の後輩詩人を話し相手に、本にされることなど予定せず、折々に語った詩人論・文学論が「聞き書き」の形をとってそのまま活字にされてゐます。
所謂“炉辺の放談”であり、かつての朋友が次々に有名となっていった後も、皆から一目置かれ声を掛け続けられた存在だっただけに、ことさら身動きがとれなくなっていったのではないか──私が想像するさうした臆測を含め、編集後記を書いて詳しく事情を説明する責任が直弟子の圓子様にはあったとも思ふのですが、錚々たる文学者を一言で片づける態の「人物月旦」など(当たってる・当たってないかは別にしてとても面白いのですが※)、タイトルに「村次郎“先生”」とクレジットされた事と相俟って、誤解や反感を招くことはなかったかと、傍目ながら危惧したことです。
当時のお手紙には、
「(前略)年金生活者となってヤレヤレ、ホッとして、と思っていましたのに、今回の2冊の本を出したことによって、新しい本性を出した人間たちから矛を見せて取り囲まれました、が、今は何も怖くない。(後略)」2000年11月11日付書翰より
と認められてゐて、私は『朔』誌上に刊行を慶ぶ寄稿や書評が皆無で、雑誌の主宰者としてもさぞかし孤立感を深めてゐるだらうことを嘆き、一見平穏な編輯の仕上がりに、同人雑誌の存在意義を質したくなるやうな、もやもやした気持を抱いたことでした。
そして圓子様の斯様な尽力と姿勢こそが「聞き書き」といふ形式の読物を価値付けてゐることを返信に託し、その当時に連載されてゐた「村次郎先生の思い出」も、むしろ圓子様の自叙伝としてまとめ直したら、きっと素晴らしい本になるだらうことを力説したのですが、エピソード満載の回想録はたうとう纏められることはありませんでした。
2018年の夏、青森県近代文学館にて催された「一戸謙三展」に関り、青森まで公園に出向くことが決まった際、この機を逃しては、と数回お手紙を差し上げて御都合を伺ったのですが、代筆による御返事も頂けず、状況がつかめぬため電話も躊躇はれました。
見舞訪問ならば控えた方が良いと一戸晃さんよりお聞きして断念、講演翌日の日程を弘前に変更して、一戸謙三の墓参を遂げて帰還しましたが、30年来、手紙を通じてでありましたが、師事する先生の顕彰についてお互ひを励まし合ってきたものの、終に謦咳に接する機会を持たぬまま永別となったことを悔いてをります。
圓子哲雄(1930.11.20 - 2021.8.24)
受胎告知 ?
秋の山は急に深く色づいて
お前の瞳が不思議と明るくなって
振り返りながら僕に囁いた
一つの新しい木の実の話を
愛することを
生きることを
夢のように語りながら
お前は光り輝く瞳となって
不思識な啓示に打たれている僕を
やさしく包みはじめる
『受胎告知』1973 より
高飛込み
僕は僕から脱れようと
空高く羽博いていった
執拗に纏りついていた影は
あんなにも高く遠く
束の間の恍惚
影は急速な重力の前に項垂れ
水の中に起きた飛沫(さざなみ)は一瞬僕を消していた
プールの底にくっきりと映る影
僕は僕であるよりなかった
『受胎告知』1973 より
晩秋
庭を眺めていた父の影
今日も父の友達が死んだのだそうだ
一人二人 といなくなって
秋の陽はあまりに早く弱まって
枯木の陰に立つ父を影は忘れていた
『父の庭』1981 より
※ちなみに田中先生については、
「若い頃の作品は好い。晩年「四季」を再刊すると、二号まで出して挫折した(※11号までですよ)。誰も有力な人がついて行かなかったからだろう。中野清見の親しい友人だが、時々変な電話が来ると言っていた。」
と一言(笑)。
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中嶋康博
:2021/10/26(火) 09:14:47
『谷崎昭男遺文』
本日が発行日の『谷崎昭男遺文』(私家版,非売本)の寄贈に与りました。
ご出版のお慶びを申し上げます。紹介文はこちら。
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中嶋康博
:2021/11/12(金) 08:49:05
『菱』212号 特集 辻晉堂と詩歌
2021年11月07日の「日本海新聞」朝刊に紹介文を書きました。
社会とおなじく、特に地方では、新陳代謝のなくなった同人誌メディアが軒並み高齢化問題に直面しているときく。鳥取の老鋪詩誌『菱』も歴史が長く、これまで幾多の同人を追悼号で送ってきた。しかし一方で、ベテラン詩人でなくては遺せぬ資料価値豊富な詩史的文章に出会えるのはありがたい。現在編集を司る手皮小四郎(てび こしろう)には、幻のモダニズム詩人といわれた荘原照子の評伝の長きにわたる連載があり、単行本化が待たれている。今回212号「特集 辻晉堂と詩歌」にも鳥取出身の彫刻家、辻晉堂(つじ しんどう1910-1981)に関する発見と称してよい報告があり注目した。
抽象的な“陶彫”で有名な晉堂だが、力強い写実的彫刻が美術界で注目されたのは昭和8年。上京した彼が住んでいた、芸術家のたむろする界隈は当時「池袋モンパルナス」と呼ばれたが、そう名付けた詩人小熊秀雄との「相互不理解の上の奇妙な友情」(?)を、元県博物館学芸員の三谷巍(たかし)がまず紹介。ついで、モダニズムの後を受け、その地から独創的な定型詩の発信をはじめた佐藤一英のもとで、晉堂が詩人としても活動していたことを手皮が紹介している。
小熊秀雄とは馬が合わなかったようだが、同じく我の強い同郷の僧侶小川昇堂とは好かったらしい。文学好きな二人はともに一英が昭和13年に創刊した『聯』という詩誌に参加して、しばらく「四行頭韻詩」という「聯詩」の腕を競っている。本名汎吉(ひろきち)から晉堂に改名したのは、歌人画家早川幾忠の弟子だった昇堂の許で得度したからでは、と推測する手皮だが、晉堂・昇堂ふたりの妻が浜坂出身の姉妹であることまで突き止めている。そうした発見が、一年前に追悼号で送ったばかりの同人西崎昌の岳父だった北村盛義、彼と晉堂とが親友だったことに発しているというのもまた長命詩誌ゆえの縁しというべきか。
詩作品では足立悦男「正念場」の、「写実とは見たままではなく思ったままを描くことだ」「絶筆の薔薇に花の形はなかった 老画家に見えてゐたのは薔薇の命そのものであった」という、これも詩人画家だった中川一政の逸話を引いた一篇に心打たれた。(中嶋康博・詩文学サイト管理人)
写真は辻晉堂による佐藤一英像(遺族蔵)。
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中嶋康博
:2021/11/19(金) 21:11:49
棟方志功記念館
東京の自宅改築を機に拠点を一時富山県南砺市福光に移された石井頼子氏(棟方志功令孫)を、コロナ禍が収まりをみせた一日、車を飛ばして岐阜から一路北上。御挨拶にお訪ねしました。
南砺市福光は志功の疎開先といふのみならず、“世界のムナカタ”に雄飛する直前の七年間、謂はば“蛹の時期”を過ごした土地です。故郷青森でなく血縁のない富山に家族で引き移り、戦争が終はっても東京に帰らなかったのは、ひとへに画伯の藝術に心酔し、その人となりを慕った地元支援者の高誼ゆゑといっていいでしょう。
市では棟方志功本人のみならず、支援を惜しまなかった草莽の支持者との交流をふくめ、紹介と顕彰とに努めている様子が、小さいながらも誇り高い越中の町らしく、他所の棟方記念館との違ひとなって現れてゐるやうに感じられました。
頼子氏は、祖父が世話になった頃と人情そのままの福光から、呼ばれるままに、旧家跡に建つ記念館の隣家に引越して、近くの青少年センターの一画でお手伝ひ二人とともに、自宅に遺された150箱もの資料を東京から運び込み、その整理を、すなはちパソコンによるデータベース化に取り組んでをられました。
突然の推参にも拘らず懇切な対応にあづかり恐縮のいたり、御多忙中の作業を中断させて長々と話し込んでは反省もしきり。せっかく用意された御自身の弁当をよそにして近くの食堂に伴はれ、おでんを食べながら更に続けられたお話の数々は、予期せぬ発見に満ち楽しい記憶しか残ってをりません。
予期せぬ発見――実は詩人一戸謙三(一戸玲太郎)の詩歴に関する原稿を書きあぐんでゐた先月、令孫の晃氏から資料(個人誌『玲』のバックナンバー)を送られ、そこに「イヴァン・ゴルに倣って」といふ昭和3年の詩が抄されてをり、イメージチェンジを模索してゐた当時の作品を発見した(!)と喜んでゐたのですが、この日、頼子氏がいみじくもその戦前青森の稀覯同人誌『星座図』の現物を、それも件(くだん)のその一冊のみを、
「先日もこんな薄っぺらい雑誌が箱の中から見つかって、びっくりしたんですよ。」
と、ロッカーから出してこられた時には息を呑み、何かのお導きかと思ひました。
棟方志功にとっても資料の乏しいこの頃の挿画イラストについて、こちらからも折に触れ照会・連絡さしあげると約してセンターを後にしたのでした。
そののち見学した、移築保存されてゐる旧居(鯉雨画斎)では、トイレや押入れいっぱいに描かれた絵に驚き、枕屏風に寄書された著名人の間に牧野徑太郎(山川弘至の盟友詩人)の名を見つけて喜び、さらに光徳寺に立ち寄り 南砺市立福光美術館の作品群を拝観して帰還しました。
毎年すばらしいカレンダーをお送り頂いてゐる御礼だけでもと、残り少なくなった晩秋の晴れ間を見計らひ、ドライブがてらに思ひ立った北陸訪問でしたが、まことに思ひ出深い一日となりました。
段ボール150箱のデータベース化を、講演ほか各種活動をこなしながら再来年2023年4月までにまとめたいとのことでした。お手伝ひと三人で着々とお仕事を進められてゐる現場を覗くことができたのも貴重でしたが、(資料庫、および御一緒に撮って頂いた写真をアップします)、すでに身近な「よりこ様」として、私にも現在翻刻中の「田中克己日記」につき逐次思ひ出を伺ってゐる先師御長女の諏訪依子さんがみえ、ここにもうおひと方「よりこ様」の知遇を得て大変不思議な、有り難い気持ちにもなったことです。
重ねてお礼を申し上げますと共に、ご健勝ご活躍をお祈り申し上げます。ありがたうございました。
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中嶋康博
:2021/12/12(日) 21:34:37
田村書店 奥平晃一さん追悼
神田神保町の古書店、田村書店の奥平晃一さんが2021年11月26日に亡くなられました。80才だった由。古本先輩からの一報で知って驚きを隠せません。文学界隈の様々な人たちから、今後自身の思ひ出を交へた追悼コメントが次々にあがるのでありましょう。
かくいふ私も初めてお店を覗いたのが大学を卒業して上京した昭和の終りだから、思ひ出はかれこれ40年近く前までさかのぼります・・・。
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インターネットなんぞ無かったその昔、戦前に刊行された詩集を求めるためには、さうしてそもそも世の中にどんな詩集が出回ってゐるのか知るためには、古本屋が発行してゐる販売目録といふものがありはしましたが、それがいったいどんな詩集なのかはその本屋まで直接足を運ばなければ見ることができませんでした。図書館では読むことが出来ない本の話です。店が遠ければ、そして売れてしまへばそれも叶はないし、もとより買へもしない高価な本は、只みせてほしいと言ったところで「うちは図書館じゃないよ」と断られて当たり前の話でした。
だから上京して貧乏暮らしをしてゐた“陰キャ”詩人の若者にとって、目録販売をせず、背取りを事とする同業者を立入禁止にしてゐた田村書店は、足を運びさへすれば、有名無名に限らぬ戦前詩人の詩集の現物と出会ふことができる唯一の場所だったのです。
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古書目録が知見に役立つと書きましたが、田村書店は過去にただ一度だけ詩集の販売カタログ『近代詩書在庫目録』(1986刊行)を出してゐます。明治期からの近代詩集489冊を書影と共に総覧した古書目録は、伝説のコレクターと呼ばれた小寺謙吉氏が編集した『現代日本詩書綜覧』(1971刊行)といふ詩集図鑑とならんで、そのころ戦前期に刊行された詩集の書影・書誌を知るためのマストアイテムでした。
ことにも古書目録には身もふたもなく「価格」が明示されてゐます。そこに込められたシビアな価値判断──すなわち「内容」と「装釘」と「ネームバリュー」と「珍しさ」との四者を勘案して示された評価は、こと田村書店のこの古書目録に関して言ふならば、コレクターおよび古書店の間で永らく稀覯本詩集を収集する際の、指標として機能してゐたやうに思ひます(のちに2010年、扶桑書房が同分量の同種目録をカラーで刊行)。
今ながめると業界の相場も移り変はり、また「内容」については店舗独自の見識が反映されてゐるので、ジャンル単位で補正は必要かもしれません。バブル景気もはじけましたが、新たな富裕層出現により、そのころ台頭した次世代専門店によって吊り上がった稀覯詩集の古書価格は、現在も変化がないやうです。
ただ田村書店がすごいのは、店売りでは公刊されたこの自店目録とは異なる値付けがされてゐたことで、客の足元を見て無闇に高額にしたがる専門店を牽制するやうな、極力抑へられた値付けが当時からされてゐたことだったと思ひます。扶桑書房が現れるまで掘り出し物はここでしか見つからなかったし、抒情詩はともかく日本浪曼派など全く相手にしなかった奥平さんの値付けは、同じ界隈にある体制寄りの文学者を尊重する古書店の本棚をため息を以て眺め過ぎてゐた私をしばしば狂喜させたものでした。
それだけに在庫の回転は恐ろしく早く、店外に二足三文で並べられる筋の良い研究書・翻訳本の類ひはもとより、新しく入荷した稀覯詩集も古本屋としてはあり得ないスピードでどんどん売れてゆきます。一冊でも多く詩集と出会ふことを目的とする私のやうなコレクターにとって、覗くたびにワクワクする期待を味はへる本棚はここにしかなく、同時に、見逃したら二度と出会ふことのない一期一会の悔しさを何度となく舐めさせられた「鉄火場」でありました。一巡りして帰ってきたら売れてゐたのは度々のこと、「やっぱり買はう!」と靖国通りを横断してバイクに轢かれた苦い経験は古本仲間の間で笑ひ種になりました。
新たな本との出会ひが尽きないのは在庫の厚さゆゑですが、「売った本を再び買ひ入れる際には必ず六割を保証する」との奥平さんの公言は、ただいま払底してるからといって阿漕な値付けをする本屋とは異なり、(後年、業界全体が暴落に見舞はれるまで)値付けに対する絶対の自信と信用との証しでした。
しかしながら私が田村書店を近代文学の初版本を扱ふ最も真摯な店として慕った理由は、実は値段よりその対面販売の姿勢にあります。左様、ここを訪れたことのあるみなさんが一度は被ったと仰言る「洗礼」。すなはち「本を大切にしない人間や、本で稼いでゐる同業者はもとより、研究者にありがちの、たかが本屋風情と見下したビジネスライクの態度をとる客にも、うちの本は売りたくない」といふ、露骨なほどハッキリした奥平さんの古本屋哲学です。
実際、帳場の後ろの壁一面に敷き詰められた稀覯本に、断りもなくうっかり手を出さうとして叱責された「著者」があったといふのは、通ひ始めた当時すでに広がってゐた伝説でした。しかし商売以前のモットーだったこの姿勢は、私には、在庫に胡坐をかいた横柄な態度ではなく、「本を大切にする読者・研究者に、実際に本を手に取ってもらった上で買ってもらひたい」といふ良心の表れとして映ってゐました。
東京都心の古書の街、神田神保町で店を経営しながら、古書に対してだけでなくその嫁ぎ先にも慈愛を注ぐためには、斯様に堅固な武装が必要だったかと思はれてなりません。嫌な思ひをして去った人がある一方で、たとい上客でなくとも、私のやうな執念深い探索者には魅力ある古書世界への階梯が開かれたのだと云へるのです。
ここからは昔話です。
初めてやってきた人は店に入るなり、名物の番頭さんがグラシン紙の掛かった本の背をトントン叩き回るのをみて、先づ異様な殺気が漂ふのを察知する訳ですね。察知しない人が洗礼をうけます。細長い店内の一番奥、本が山積みにされた司令塔のやうな帳場から、来店する一見の客に向けて鋭い視線を送ってゐた奥平さんは当時40代。その一番恐ろしげだった頃に、田舎からポッと出て来た若者の私がやらかしたのは、
「この本まけてもらへませんか。」
と、ぶっきらぼうに本を差し出したことでした。帳場越しにジロリとにらまれて返された言葉はただ一言、「あんた、関西の人か」。これがキツかった。私の場合は怖い思ひ出ではなく、二の句を継げず、ただ恥ぢ入ってしまったことでした。
後の祭りですが、これ以後はもうもう畏れて話しかけることもできず、しかしその後も私は5時に仕事が引けると国電を乗り継ぎ、お茶の水から坂を駆け下りて店に駆け込む毎日。店内を縦に仕切った本棚の、詩集を固めて置いてある狭い通路にしゃがみ込み(分かる人は解かる。あそこに坐るのか)、新しく入った詩集を手許に抜いて買はうか買はまいか、閉店する6時半までの短い時間、巻頭から一篇づつ詩を読んでは見返しに貼られた値札をにらみつける日々を送りました。
古書との出会ひは正に一期一会の真剣勝負。とにかくその場で決めなくてはなりません。何度となく番頭さんに邪魔にされ、腋の下に汗をかきかき黙々と未知の詩人たちと対峙する実地を経験することで、少しは私の審美眼も養はれたでしょうか。
顔を覚えられて向ふから話しかけられるまで、決してこちらから話しかけはしなかったのは、恐ろしかったのもありますが、ひどく恥をかいた思ひをしたあと、一寸した意地も芽生えたからでした。当時の私は、自分には縁のなささうな寿司屋で黙ってサービスランチを食べてはさっさと帰ってゆく卑屈な流儀を心得てゐましたが、この田村書店でも通したわけです(笑)。
毎日毎日同じ時間にやって来ては同じ棚の本を見回って安い本ばかり漁ってさっさと帰ってゆく身なりの貧しいふしぎな青年に、奥平さんが会計時に声をかけてくれるまで、どれくらゐ時間が経ったのかは覚えてません。ですが、丁度そのころ田中克己先生のもとに出入りするやうになったので、よほど嬉しかったのでしょう、そのことを伝へると、田中克己が戦争中に『神軍』といふ詩集を出してゐる癇癪持ちで有名な老詩人であるとことを知ってゐる奥平さんは、なんとも奇特な若者だと言う顔をされました。そしてある日の夕方、私を呼び止めて帳場の下から差し出されたのは、なかなか見つからなかった田中先生の最初の詩集『詩集西康省』でした。題簽が剥がれてるからね、と破格値で売って下さった喜びは忘れられません。(こんな時にはいつもそばに奥様が立って一緒に微笑んでをられました。)
押し戴いて帰った私は、早速「子持ち枠」の題箋紙を作って先生の許に走り、タイトルを手書きして頂いて、世に唯一冊の『詩集西康省』を持ち得る幸せをかみしめたのは言ふまでもありません。
本の背をトントンやる番頭さんに「函の無いのがもっと安く出るよ」と言はれたのに待ちきれず、上京して初めてもらったボーナスを全額握りしめてショーケースの『黒衣聖母』を出して下さいと申し出た夕べのこと(少し経って半額以下で出ました。親不孝者でした)。仕入れたばかりの『生キタ詩人叢書(ボン書店)』4冊が帳場に広げられ、ひと声「6万円」と言はれて買へなかった夕べのこと。記憶に残ってゐるのは、情けない事も多いですが、いまはすべてが懐かしく思ひ出されます。
★
昔はそのやうに毎週、判で押したやうに通ひ続けてお世話になった古本屋さんでした。前述したやうに店売りしかしないため、帰郷してからは上京するごとに挨拶かたがたお店を覗くやうな感じになり、却って近況報告とともに短いお話もできるやうになりました。(一緒に写って頂いた唯一の写真は2003年のものです。)
在京中にはどうしても手が出ず「如何なる状態の本でもよいので」とお願ひしたのが入荷したとお知らせ頂き、とにかくいくらでも買ふつもりでおそるおそる電話して金額を聞き、飛び上がって喜び送ってもらった『春と修羅』が、最初で最後の大きな買ひ物。
そして最後に挨拶に伺ったのが前回の上京時でもう6年前のことになります。
自分の詩集を呈して帰らうとしたら、帳場にたむろするお得意とランチに行くとて一緒に連れ出され、初めて御馳走になりました。奥平さんから尋ねられるままに私が話す内輪の昔話を聞くうち、見知らぬその新しいお得意さんが、今は疎遠となったかつての常連のお歴々のことを、所謂ライバル視を以て邪揄ったので、そんなことはないですよ、それに後悔されてるみたいですよ云々と抗弁したのですが、奥平さんはそれを横で黙って聞き入りながら、いかにも懐かしさうな顔をされたのが忘れられない思ひ出となってしまった。辞去する際には「君、もういつまでもやってられないよ。」と応へられた笑顔が、当時すでに闘病中の御返事だったことを、このたび最初に訃音が報じられたブログを読んで知りました。
インターネットをされない奥平さんには、折々私のサイトを印刷して報告してくださる奇特な方があったやうですが(この場を借りて名前をお聞きしなかった方に厚く御礼申し上げます)、先月アップした、詩集との関はりを振り返った記事は読んで下さっただらうか。古本を安く売ってもらったばかりの、一方的な関係しか無かったものの、私の詩生活・古本人生にとってかけがへのない本屋であり、慕はしいと呼び得る唯一の店主でした。
これまで蒙った古書恩誼の数々とともに、茲に謹んでご冥福をお祈りいたします。 (2021.12.12)
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中嶋康博
:2021/12/23(木) 15:33:59
『感泣亭秋報』16号
『感泣亭秋報』16号
今年も『感泣亭秋報』の寄贈に与りました。
詩人小山正孝の顕彰を主目的に、令息の正見氏が主宰編集する年報雑誌です。
周辺にあった抒情詩人達の研究にも開放されて早や16年。渝ることのない、むしろページ数を更新して充実度を増す誌面には驚かされるばかりです。
このたびは小山正孝の初期拾遺詩を集めた『未刊十四行詩集(潮流社 2005)』に未収録のソネットが新たに発見されたことを受け、全22篇が公開されてゐます。渡邊啓史氏による一篇一篇への詳しい解説に、この草稿が詩人の詩業全体から意味するところの考察を付して、大きな「特集?」になってゐます。
手帖の筆跡は内容からみても二つに分れてをり、冒頭の日付(1956.6.9)に近接して第2詩集『逃げ水(1955年)』、第3詩集『愛し合う男女(1957年)』が刊行されてゐます。
興味深いのは、前半6篇が、遠く弘前高等学校時代の思ひ出を描いたもので、『未刊十四行詩集』の「?ノート(1954.12.25)」との関係を感じさせる“四季派色”の強い作品であるにも拘らず、詩集には採られず、対して濃密な愛情が描かれた残り後半の16篇から多くが、推敲を経て翌年の第3詩集『愛し合う男女』に収録されてゐることです。
つまり草稿は単に詩集制作途中の副産物といふにとどまらず、ソネット形式には拘りつつも“四季派色”すなはち立原道造の影響からの脱却を模索してゐた詩人の、当時の方向性を読み取ることもできるのではないか。――渡邊啓史氏は「?ノート」の作品群と、この手帖前半の6篇とを合せて編まれただらう、刊行に至らなかった「弘前時代を回顧する青春詩集」について構想されてゐます。
けだし卓見といふべく、大人の愛憎より若者の恋愛が描かれた詩を好む私は、かつて公表された『未刊十四行詩集』においても、故・坂口昌明先生が推された「?ノート」に目を瞠りましたが、そしてこの手帖でもとりわけ前半の弘前詩篇に清楚な出来栄えを認めるが故に、渡邊氏と同じく「幻の詩集」を思ひ描いてしまったことです。「抑制された語り口」で「風景を通して内面を」表現する“四季派色”の強い作品を一篇、引いてみます。
小山正孝の新発見ソネット詩稿より
【その2】
日の光の中を 私は坂道を しづかに
牛のやうに しづかに くだつて行つた
垣の緑のあひだを 汗を流しながら
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた
ハーデイの小説の中を私は生きてゐるのか
老人のやうに しづかに 歩いて行つた
目に涙をうかべながら 垣の緑のあひだを
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた
青い空が 日の光が おどつてゐるやうだ
あの少年の日に 私がのぼつて 食べてみた
あの桜んぼはなくなつて 桜の木はなくなつて
赤い実が葉かげにゆれてゐたことも
枝にまたがつて 実を食べたことも
私は思ひ出の中 坂道を しづかに くだつて行つた
雑誌『四季』によって育った第2世代の詩人たちが、戦後現代詩の「抒情否定」の詩流に向き合ひ変貌していった事情については、続く「特集?:四季派の周辺」においても、鈴木正樹氏が「堀内幸枝の作品世界」のなかで明らかにしてをられます。
戦前戦中の閉ぢた政治フレームの下、箱庭のやうな環境で醸成された抒情世界を、戦後もそのまま持ち続けることの難しさ、いな、堀内幸枝のやうな詩人にあってはもはや不可能であったことを、あからさまに指摘しないまでも、惨落に喘ぐ抒情の様子を追ひ続けた一文のやうに思ひました。
山梨の片田舎で育った彼女ですが、戦時中は同人誌『中部文学(山梨)』の野沢一ら地元詩人たちや、『まほろば』で籍を同じくした山川弘至を始めとする日本浪曼派系の同人たちと交流を持ったといひます。親から結婚を強いられることなく、そして理解者船越章が所属する『コギト』の圏内から、所謂マドンナ詩人として詩集『村のアルバム』を戦時中に刊行してゐたら…、もしくはデビューが戦後であったにせよ最初の詩集として問うてゐたら、その後どんな道行きになったことでしょうか。
純粋な抒情を持してゐた女性詩人には、日塔貞子のやうに夭折してしまったひとがあり、山本沖子のやうに30年詩が書けなくなってしまったひとがあり、また堀内幸枝のやうに伝統からは退いて現代詩に塗れたひとが居ったことを、戦後の抒情詩を思ふ際にはいつも想起します。
小山正孝は、さういふ意味では彼女達と同じく戦争で身を汚すことを免れた上で、男性として詩人の出発時にすでに恋愛のうちにエロスを見据えてをり、それを手掛かりにして立原道造の影響から(ソネット形式だけをしばらく受け継ぎ)不完全変態を繰り返した後、やがて箱庭の意義も新たに抒情を韜晦する独自の制作姿勢を身につけて、現代詩詩人として立つことを得たひとであったやうにも思ひます。
さうして恋愛とエロスとを切り分け得なかった、ロマンチック気質を同じくする生涯の親友が山崎剛太郎といふことになりましょうが、今号は3月に103歳で長逝された山崎先生と、翌4月に病に斃れた若杉美智子さんに対する哀悼をこめた特集が続いてゐます。
正見氏は主宰者として、別に後記「感泣亭アーカイヴズ便り」のなかで心のこもった追悼文を寄せてをられますが、「特集?、?」といふ形で呼ぶのを憚ったことにも思ひやりを感じました。
山崎剛太郎先生の追悼文は、佐伯誠さんの一文に感じ入りました。私も震へる筆蹟に奥様が解読を添へて送って下さった先生からのお手紙を大切にしてをります。かつて草した一文を再び手向けます。
そして若杉美智子さんの「雑誌「未成年」とその同人たち(再録)」は、彼女の個人誌『風の音』で18回にも亘った長期連載の一括再録ですが、兼ねがね通覧したいと思ってゐた文献でした。これが今『秋報』における、もう一つの大きな目玉となってゐます。
立原道造、杉浦明平、猪野謙二をはじめ、寺田透、田中一三、江頭彦造、國友則房ら、一高卒東大生の文学有志による同人誌『未成年』9冊(昭和10‐12年)について、その歩みを一号ずつ、回想・書翰等の周辺資料を駆使して同人達の動向と発行当時の影響とを一緒に書き留めてゆかうとした「詳細な解題」ですが、不日誌面が復刻されることがあれば、本文43ページに上るこれら解説に、蓜島亘氏による「附記」13ページを合せて副読資料として欠かせないものとなりましょう。
立原道造といふより、杉浦明平に長年私淑された若杉さんについては、『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を翻刻・編集された晩年の業績にはなむけする別所興一氏の文章がこの後に二本続きます。うち後者は私も寄贈を忝くした左翼系の文学同人誌『遊民』12号(2015年)掲載の再録ですが、郷里で永年明平氏の身近にあって直接指導も受けたひとならではの、日記から看取された率直な「杉浦明平観」が述べられてゐます。
すなはち彼の女性観においては、年甲斐もない純情さや、美女にうつつをぬかすといった「育ちの良さ」を「中途半端」と指摘し、伴侶を選択する際にその女性の背後人脈を天秤にかけ、作家信条が脅かされることのない方を妻に選んだことについて「随分エゴイスティックな結婚観」とまで呼んでゐます。
一方、戦時体制に対しては容赦ない批判が綴られてゐるこの日記。日本浪曼派に対する憤りを死んだ親友の立原道造に向けて叩きつけ、その浪曼派の総帥保田與重郎が排したアララギ派についても、戦争讃美が満ちるやうになったと絶望し、遂には官憲の取り締まりに怯える小心翼翼たる自分自身に鋒先が向かふといった内容です。
ここにも小山正孝同様に兵役や徴用に就くことを免れ得た男性知識人が隠し持つに至った、「何もできないけれど目をそらさず最後まで見届けてやる」との臥薪嘗胆の気概を認めることができましょう。戦後、彼が最初に出版した文集『暗い夜の記念に』の中でなされた文学者への告発は、軍部に対する憎悪をそのまま感情に任せて移しただけの悪罵にすぎませんでしたが、「生来ロマンチストであるゆえに、リアリストの限界を知り、リアリストと身をなしたがゆえに、ロマンチストの欠陥を体験している」、ハイネのやうな心性を宿した彼の文学の出発点を考察する際には、称揚するにせよ批判するにせよ今後この日記が合せ読まれることが必須となるやうに思ひました。
『杉浦明平 暗夜日記1941-45』については、かつて拙サイトでも述べてゐますが、明平先生は晩年になっても岩波文庫の『立原道造詩集』解説のなかで、四季派詩人たちが愛した信州の地元の人たちのことを、やはり感情先行で「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と罵倒してゐて、(さういへば立原道造も渥美半島に咲き乱れる百合をユウスゲと較べてガッカリしてたのを思ひ出しました)、大笑ひしたのですが、さういふ他愛無い私見の放言、イデオローグには到底なり得ぬ反骨の真面目について、機会があれば更に知りたく思ってをります。
他にも気になったのは、青木由弥子氏が、独文学者で哲学者の恩師、加藤泰義氏の遺した2冊の詩集について語った一文。
加藤泰義…? 未知の人かと思ったら、詩を書いてゐた20代、覚束ない理解で読んでゐた『ハイデガーとヘルダーリン(芸立出版1985)』や、訳書『シュペングラー:ドイツ精神の光と闇(コクターネク著:新潮社1972)』といった本が、加藤氏によるものであったと知りました。
当時、さかんにドイツロマン派界隈の訳書を漁って、ドイツ語文脈圏の詩的感触、或ひは形而上学から香る詩的氛囲気に親しんでゐたことを思ひ出しましたが、ギリシア神話が出される条りにはヘルダーリンが想起されるものの、詩人として紡がれた優しい言葉遣ひには「特集?:四季派の周辺」に収められた理由が首肯されました。
哲学者として実存と向き合ひ考察をこととする人が、詩人として生を語る際には、時の詩壇・詩流などとは関係なく、純粋な抒情が斯様に啓かれ、自然に紡がれるものなのかもしれません。
ここにても厚くお礼を申し上げます。以下に目次を掲げます。有難うございました。
『感泣亭秋報』16号 2021.11.13 感泣亭アーカイヴズ刊行 244p 1,000円
詩 小山正孝「一瞬」4p
特集? 未発表十四行詩草稿22篇
未発表十四行詩草稿22篇 本文とノオト 小山正孝6-42p
内面の現実(※解題と考察) 渡邊啓史 43-77p
特集? 四季派の周辺
塚山勇三の詩 生涯を一つの長篇詩のように 益子昇 78-87p
「詩集舵輪」について 小山正孝 88p
堀内幸枝の作品世界 鈴木正樹 89-102p
加藤泰義の「小さな詩論」 詩で生を思うということ 青木由弥子 103-110p
ある日の山崎剛太郎
美しい集い 山崎剛太郎氏に感謝 水島靖子 111-113p
恐るべき人とdangerous boy 宮田直哉 114-118p
楽しみと日々 山崎剛太郎さんのプルースト 佐伯誠 119-123p
残照を仰ぐ 山崎剛太郎氏の片鱗にふれて 北岡淳子 124-126p
アラカルト(a la carte)「薔薇物語から薔薇の晩鐘まで」観劇記 善元幸夫 127-131p
若杉美智子の机
雑誌「未成年」とその同人たち(再録) 若杉美智子 132-179p
付記 若杉美智子「雑誌「未成年」とその同人たち」によせて 蓜島亘 180-192p
若杉美智子さんの杉浦明平研究をめぐって 別所興一 193-196p
『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を読む 別所興一 197-204p
回想の畠中哲夫 三好達治と萩原葉子さん。そして父のこと2 畠中晶子 205-206p
世にも不思議な本当の話 高畠弥生 207-211p
うらみ葛の葉 または葉裏の白く翻る時 渡邊啓史 212-222p
詩 中原むいは/里中智沙/柯撰以 223-227p
私の好きな小山正孝
若き日の愛の記憶――『雪つぶて』を読む 服部剛 228-230p
濁点、ルビ、さまざまのこと 渡邊俊夫 231-234p
信濃追分便り(終) 布川鴇 235p
常子抄 絲りつ 236-237p
鑑賞旅行覚書6 オルガン 武田ミモザ 238p
《十三月感集》 3他生の欠片 柯撰以 239-240p
感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 241-244p
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中嶋康博
:2021/12/31(金) 16:45:03
今年の収穫書籍・雑誌より
今年の収穫書籍・雑誌より一部を御報告。(刊行日順)
『勢陽風雅』雪巌道人編 (伊勢地方の漢詩アンソロジー)宝暦8年 土地の名に『〇〇風雅』と名を付ける地方詞華集の濫觴でしょうか。
『勢海珠璣』家里松嶹編(同上趣旨の後継アンソロジー)嘉永6年 扉の「無能有味?(齋)」なる庵号に編者の性格が偲ばれます。
銭田立斎(金沢)『立斎遺稿』上巻 天保12年 金沢の富商詩人。大窪詩仏を歓待する詩が数篇あり『北遊詩草』にも彼に謝する五律を載す。
仲冬旬四日邀詩佛先生于艸堂
人事すべて縁の有らざるなし。尋常相遇ふ亦た天に関す。何ぞ図らん詩伯の千里を侵し、来りて吾曹と一筵を共にせんとは。
聊か素心を竭くして野蔌を供し、更に新醸を斟みて溪鮮を煮る。斯の如き良會の得難きを知る。況んや復た交遊の暮年に在るをや。
『増補書状便覧』弘化2年 手を掛けて修繕した本はとにかく可愛い!
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上田聴秋『月瀬紀行』乾坤2冊 明治21年 昨年知った郷土ゆかりの文人
高島茂詩集『喜ばしき草木』大正13年 信州の自然詩人。国会図書館未所蔵。
服部つや遺稿詩集『天の乳』昭和4年 岐阜県詩集で未収集だった本。今後おそらく現れないかも。
稲森宗太郎遺稿歌集『水枕』昭和5年 大切ないただきもの。
『小熊秀雄詩集』昭和10年 伏字に附箋を張って書込み補充しました。
龍木煌詩集『門』昭和10年 限定150部 椎の木社版の詩集。買へる場面に遭ったら迷はず買ひたい。
大木惇夫『冬刻詩集』昭和13年 伝記を読んで親炙するやうになった詩人の限定100部限定豪華装釘本。
北園克衛詩集『火の菫』昭和14年 限定200部 ほしくても手が出なかった永年の探索本。函欠なれど意匠は扉にも採用されてゐて満足。
圓子哲雄主宰詩誌『朔』92冊 昭和47年〜 圓子さんの辱知を得る以前のバックナンバーを一括寄贈頂きました。
揖斐高編訳『江戸漢詩選』上下巻 令和3年 斯界第一人者の先生よりゆくりなくも御恵投に与り感激。
冨岡一成『江戸移住のすすめ』令和3年 盟友の新刊。病臥の間に現在も新著を執筆中の由、再起を祈りをります。
『谷崎昭男遺文』令和3年 保田與重郎・日本浪曼派の逸話満載。
小山正孝詩誌『感泣亭秋報』16号 令和3年 過去最高に充実した内容。
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中嶋康博
:2022/05/18(水) 22:53:56
丹羽嘉言『謝庵遺稿』
尾張の画家、丹羽嘉言:にわ-よしのぶ(1742-1786)の遺稿集『謝庵遺稿』 享和元年(1801年)序[刊] を手に入れました。
再刊本『福善斎画譜』 文化11年(1814年)序[刊]と共に、原本はすでにデジタル公開されてをります。
わたしはどうしても小動物についての記述に目がゆきます。「蚊を憎む文を愛する説」といふ一文。(13-14丁)
丁酉(安永6年1777)六月 曬書の次に、清少納言の枕書(枕草子)を披き「蚊を憎む一節」に至りて、其れ言簡にして意至れるを愛づ。
早くに豹脚有りて、眉睫の間に翺翔するは、一に其の言の如し。
當初の清氏、後の数百歳、蚊の人と興に有ること今日の如きなるを豫め知り、而して筆を下し斯文を成せり。
予、今、斯文を玩し、而して後、數百年前、蚊の人を擾(煩わ)すこと今日と同じく、又た今より以後、數百千歳も、蚊の人と與に有ること一に今日の如く、而して斯文の終に亡ぜざるを知る也。
李笠翁云ふ。「蚊の為物(物となり)や、體は極めて柔にして性は極めて勇、形は極めて微にして機は極めて詐。地を擇びて攻め、?に乘じて以て入る。昆蟲庶類の善く兵法を用ゆる者、蚊に過ぎたるは莫し」と。
是の言、蚊のことを盡したるか。假し予をして蚊子に為らしめば、將に笠翁に於いて三舍を避けん(恐れ近づくまい)。
古人の筆を弄するは、景を見ては情を生じ、場に逢ふては戲を作す。惱むべく憎むべきの蚊を以て、變じて笑ふべく愛すべきの文に做(な)し、既にして以て自ら娯しみ、又た我が後の人を娯ます。蚊子は微物と雖も、亦たともに斯文に力有るは、豈に憎む可けん哉。
是に於て殘帙を理(おさ)め、蠹魚を撲ちて嗟嘆獨語す。蚊の既に我が臀の斑然たるに飽けるを知らずと。
丁酉六月 曬書之次 披清少納言枕書 至憎蚊一節 愛其言簡意至 早有豹脚 翺翔眉睫間 一如其言 當初清氏豫知後数百歳 有蚊與人如今日 而下筆成斯文 予今玩斯文 而後知數百年前 蚊之擾人同今日 又知自今以後數百千歳 有蚊與人 一如今日 而斯文之終不亡也 李笠翁云 蚊之為物也 體極柔而性極勇 形極微而機極詐 擇地而攻 乘?以入 昆蟲庶類之善用兵法者 莫過于蚊 是言盡蚊矣 假使予為蚊子 將避三舍於笠翁 古人弄筆 見景生情 逢場作戲 以可惱可憎之蚊 變做可笑可愛之文 既以自? 又?我後人 蚊子雖微物 亦與有力于斯文者 豈可憎哉 於是理殘帙 撲蠹魚嗟嘆獨語 不知蚊既飽 我臀斑然
また『福善斎画譜』においては第四帖。碩学森銑三翁もまたかういふ瑣末事を愛されたらしく、
「動物の方に「井邦高畫」とあるのが一面加はつてゐる。その猫と鼈との題辭に、謝庵のいふところがまた面白い。
「余素不喜畫猫與鼈偶見二物皆如讐観余余惡其?之不雅又不喜復見二物一日讀聖師録始知猫之仁鼈之義可傳賞于後世而憶吾之相惡不過一時頑擧也夫人貴乎博愛物固不可貌相猫與鼈可憐哉於是移寫舊圖以補吾畫録而不雅者竟不雅」
(『森銑三著作集 第3巻 人物篇 3』中央公論社, 1973 p465-474 「丹羽謝庵」より)
拙い訓読を添へて置きます。
「余、素と猫と鼈とを畫くを喜ばず。偶ま二物を見るに、皆な余を観ること讐(あだ)の如し。余、其の?の雅ならざるを惡み、又た復び二物を見るを喜ばず。一日、聖師録※を讀むに、始めて猫の仁、鼈の義を知る。後世に傳賞すべし。而して吾の相ひ惡むは一時の頑擧に過ぎざるを憶ふ也。夫れ人は物を博愛するより貴し。固より貌相の可ならざる、猫と鼈とは憐れむべき哉。是に於て舊圖を移寫し、以て吾が畫録を補ふ。而れども雅ならざる者は竟に雅ならざるなり。」
※図書館の蔵書を検索してみたところ、『聖師録』といふのは、どうやら彼自身の手で和刻した唐本のやうです。
清 王言原本・藤嘉言(丹羽謝庵)著『聖師録』 天明元年7月(1781)]跋[刊]
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB11610423
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA69280076
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0001003.jpg
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