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善とは何か
4
:
名無しさん
:2020/06/14(日) 22:15:02
ニコマコス倫理学で展開される善は、個人にとっての善である。
こにことはアリストテレスの倫理学の不完全性として批判されるところでもあるのだが
アリストテレスの倫理学は「政治学」への予備学としてニコマコス倫理学を書いている訳で、
個人としての善の究極目的が「幸福」であるならば、国家の善も同様に国民の幸福と考えていると思われる。
そして当然の流れとして人々を幸福にする政治体制は何なのかということの考察に入っていく。
5
:
名無しさん
:2020/06/14(日) 22:40:33
しかし、この場合は、個人の善の究極目的が幸福にあることと、国家の善をそれと一致させなくてはならない必然性が論証されてはいない。
確かに、我々は「善い」という言葉を「幸福」と関連させて考えている。
人を幸せにする物や人物を「善い」と言っている。
善い思考、善い行動とは「幸福をもたらすもの」である、ということには納得できる。
では善い国家とは「幸福をもたらす国家」の事であろう。
例えば、国家が金持ち減税すれば金持ちは「善い国家だ」というかもしれないが
貧困層からすれば「ろくでもない国家」となるかもしれない。
すると「客観的に善い国家」というものは存在しないという結論に至るだろう。
であれば、我々は、「普遍的に善いと言える国家」を目指さなくてはならないだろうか。
それは「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する国家」である。
人間として考えれば、「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する人間」を善い人間というだろう。
6
:
名無しさん
:2020/06/14(日) 22:45:34
しかも、そのような国家は「中庸」をわきまえている必要がある。
7
:
名無しさん
:2020/06/14(日) 22:47:52
もし国家が「悪しき国家」であった場合、個人はいかにするべきであろうか。
8
:
名無しさん
:2020/06/16(火) 05:52:03
善についての過去の理論家を上げると
プラトン、アリストテレス、釈迦、孔子、孟子、老荘、カント、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガー、西田幾多郎のような人々から言説を抽出することは可能である。
もし、善を現象学的に考察する場合、これらのだれが真実を説いているかとか真実に近いかと言う方向性は取らない。
しかし、彼らは皆、死者であるので、間主観性を意識するのは、生者とコミュニケーションを取る場合とは違ってテキストの読みこみを通した対話が必要になる。
我々は彼らの言説から善の様々な側面を意識することが出来るが、善の形相的還元と言う段階では、削ぎ落とされる情報も出てくると思う。
9
:
名無しさん
:2020/06/29(月) 19:04:14
善とは何か
アリストテレスは善の目的は幸福であると考えました。そして幸福であるためには物事の本質や中庸を見抜く知性を発揮して生きる事が必要であるとしました。
確かにいかなるピンチも知性によって相対化することが出きればそれを楽しむことすら出来るのではないかと思います。
一方、カントは善を社会正義の次元で捉えました。もし、自分の行動が普遍化したした場合自己矛盾が起きないかを善の基準としました。
ヘーゲルや西田は個人の幸福感や正義感よりも精神の次元での善を尊重することを重視しました。
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