したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

善とは何か

1名無しさん:2020/06/13(土) 20:19:56
我々は何をもって物事を善いとか悪いとか判断しているだろうか
例えば、ここにパソコンがあるとする。
善いとは①パソコンとしての機能を十分果たしていること②壊れにくいこと③デザインや色合いが美しいことなどを意味していると考えられる。
では、あの人は善い人だと言うとき、何をもって善いと言っているのだろうか?
①誠実さ②友誼に厚い③フランクさ④謙虚
物と人では善の条件が違う訳で、それは「その人を幸せにする性質」を我々が「善いもの」としているからではなかろうか。

2名無しさん:2020/06/13(土) 20:34:49
その意味ではアリストテレスの善の定義は今も有効であると思う。
アリストテレスは善の究極目的を「幸福」と考えた。
さらに幸福の本質を「徳の実現」と見なした。
徳の中でも最も重要な徳を知恵(ソフィア)とした。これはそのまま物事の本質を見抜く能力と言って良いだろう。
次に重要な能力を思量(プロネーシス)とした。
これは物事の適正な配分を考える能力である。
これらの能力が現実的生活の中で十分に発揮されているとき、我々は幸福な生を生きていると言える。

3名無しさん:2020/06/13(土) 21:04:12
次に悪について考察してみよう。
悪とは、「物や関係の無意識的ないし意識的な破壊の為の破壊」と定義できるかもしれない。
だとすると、善とは物や関係性の保存や創造を意味するだろうか?
或いは、悪は秩序の破壊、善は秩序の維持、創造、洗練にあるだろうか
先に私は、善を「智慧の活動そのもの」とするアリストテレスの定義に賛同した。
秩序を創造する根源が知恵だとすれば、矛盾とは言えないだろう。

4名無しさん:2020/06/14(日) 22:15:02
ニコマコス倫理学で展開される善は、個人にとっての善である。
こにことはアリストテレスの倫理学の不完全性として批判されるところでもあるのだが
アリストテレスの倫理学は「政治学」への予備学としてニコマコス倫理学を書いている訳で、
個人としての善の究極目的が「幸福」であるならば、国家の善も同様に国民の幸福と考えていると思われる。
そして当然の流れとして人々を幸福にする政治体制は何なのかということの考察に入っていく。

5名無しさん:2020/06/14(日) 22:40:33
しかし、この場合は、個人の善の究極目的が幸福にあることと、国家の善をそれと一致させなくてはならない必然性が論証されてはいない。
確かに、我々は「善い」という言葉を「幸福」と関連させて考えている。
人を幸せにする物や人物を「善い」と言っている。
善い思考、善い行動とは「幸福をもたらすもの」である、ということには納得できる。
では善い国家とは「幸福をもたらす国家」の事であろう。
例えば、国家が金持ち減税すれば金持ちは「善い国家だ」というかもしれないが
貧困層からすれば「ろくでもない国家」となるかもしれない。
すると「客観的に善い国家」というものは存在しないという結論に至るだろう。
であれば、我々は、「普遍的に善いと言える国家」を目指さなくてはならないだろうか。
それは「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する国家」である。
人間として考えれば、「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する人間」を善い人間というだろう。

6名無しさん:2020/06/14(日) 22:45:34
しかも、そのような国家は「中庸」をわきまえている必要がある。

7名無しさん:2020/06/14(日) 22:47:52
もし国家が「悪しき国家」であった場合、個人はいかにするべきであろうか。

8名無しさん:2020/06/16(火) 05:52:03
善についての過去の理論家を上げると
プラトン、アリストテレス、釈迦、孔子、孟子、老荘、カント、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガー、西田幾多郎のような人々から言説を抽出することは可能である。
もし、善を現象学的に考察する場合、これらのだれが真実を説いているかとか真実に近いかと言う方向性は取らない。
しかし、彼らは皆、死者であるので、間主観性を意識するのは、生者とコミュニケーションを取る場合とは違ってテキストの読みこみを通した対話が必要になる。
我々は彼らの言説から善の様々な側面を意識することが出来るが、善の形相的還元と言う段階では、削ぎ落とされる情報も出てくると思う。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板