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人狼と<外>
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灰人@スキゾキッズ
:2016/02/16(火) 14:03:47 ID:GbLpEi6.
ジョルジョ・アガンベン「ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生」参考文章
ミシェル・フーコーは『知への意志』の末尾で、動物的な生が国家権力の機構と打算とに包含されはじめ、政治が生政治に変容するという、近代のとば口で起こった過程を要約するときに、人間を言語活動に結びついた政治的な生きものとする定義を参照している。
フーコーによれば、一社会の「生物学的近代のとば口」は、たんなる<生ける身体>としての個体がその社会の政治的戦略となる点に位置するという。1977年以降、コレージュ・ド・フランスでの講義は、国民の健康と生物学的な生が【主権権力の問題】としての重要性を途方もなく増大させたところに焦点を合わせるようになった。
その主権権力はいまや、徐々に「人間の統治」へと変容しているという。「その結果は、洗練をきわめた政治技術によって実施される、人間の一種の動物化である。こうして、人文科学と社会科学の能力の増大が歴史に出現し、またそれとともに、生を保護すると同時に生の排除を認める可能性が出現する」。
とくに、資本主義の発展と勝利が可能だったのは、この視点からすれば、資本主義が必要とする「従順な精神」を一連の適切な規律訓練型権力を用いて創造する制御と、新たな生権力があったからにほかならない。
生政治という概念のもつあらゆる含意を展開することも、その探究をその先どのように深化させようとしていたかを示すことも、フーコーが死んだため妨げられてしまった。だがいずれにせよ、【国家の圏域】にゾーエーが入ったということ、つまり<剥き出しの生>そのものが政治化されたことは、【近代の決定的な出来事】をなしている。
20世紀が歴史的理性に対して提起し、いまだに今日性を失っていない「謎」(ナチズムはそうした謎のなかでも最も気がかりなものである)は、謎の絡み合った場――生政治――でのみ解かれうる。
フーコーとヴァルター・ベンヤミンの示唆を拾い上げつつ、一見すると互いにきわめて縁遠いものとも思われる近代の諸イデオロギーを秘かに統治している【<剥き出しの生>と政治との関係】を主題的なしかたで問いに付す省察だけが、<政治的なものを暗がりから引き出し>、思考を実践的な務めへと回復してやることができる。
2
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灰人@スキゾキッズ
:2016/02/16(火) 14:06:00 ID:GbLpEi6.
<剥き出しの生>を政治の圏域に含みこむということが主権権力の――隠されているとはいえ――そもそもの中核をなしている。さらに言えば、生政治的な身体を生産することは【主権権力の本来の機能】なのである。この意味で、生政治は少なくとも、主権による<例外化>と同じほど古くから存在している。国家の打算の中心に<生物学的な生>を置く事によって、近代国家はまさしく、権力を<剥き出しの生>に結びつけている秘かな連関を明るみに出すのであり、そのようにして(さまざまな領域で観察される【近代的なものと前近代的なもののあいだの執拗な照応】にしたがって)、【使い古された文明の儀礼】との結びつきをあらためて強めるのである。
このことが本当なら、<生きる事>と【善く生きる事】の対立という、アリストテレスによるポリスの定義の意味をあらためて注意深く検討することが必要になる。事実、この対立は、<生きること>が【善く生きること】の内に含まれるということ、つまり<剥き出しの生>が政治的に質を与えられた生の内に含まれるということでもある。アリストテレスによる定義においてさらに問われなければならないのは、西洋の政治がまず【<剥き出しの生>の排除】(それは同時に囲い込み・内包でもある)によって自らを構成するのはなぜかと問うことである。生が排除を通じて包含されるべきものとして提示されるとすれば、政治と生の関係とはどのようなものなのか?
<例外>の構造は、以上のような視点からすると、西洋の政治と実体を同じくするものと思われる。「生きることのために生まれたが、本質的には【善く生きることのため】に存在する」という特異な定式は、生まれが存在の内に含まれると読めるだけではなく、近代国家の内にゾーエーが排除された後で【不可視な匿名のまなざしに囲い込まれ包含される】、という解釈をもたらすことができるのではないか。まるでそれは、【政治とは生が善く生きる事へ変容しなければならない場】のことであり、<無条件の連帯の肯定>などなく、<剥き出しの生>とはつねに排除により包含される傾向のある生政治の対象だ、というかのようである。西洋の政治においては、<剥き出しの生>は、それを排除することによって人間たちの【「都市」が創設されるところのものである、という奇異な立場に置かれている。
したがって、アリストテレスの『政治学』の一節がポリスの固有の場を、<声>から言語活動への移行の内に位置付けているのも偶然ではない。<剥き出しの生>と政治の連関は、「言語活動をもつ生きもの」という、形而上学による人間の定義が声と言語のあいだの結びつきの内に探し求めているものそのものである。
「生きものはどのような仕方で言語活動をもつのか?」という問いは、「<剥き出しの生>はどのようなしかたで都市に住みついているのか?」という問いに正確に対応する。生きものは、書かれた言語の内に<自分固有の声>を除去しつつ保存することによってロゴスをもつのであり、また同様に生きものは、自分固有な<剥き出しの生>を共同体の内で<例外化>されることによって共同体に住む。
西洋の政治の基礎をなす範疇の対は<敵>/友ではなく、<剥き出しの生>/政治的存在、ゾーエー/ビオス、排除/包含である。
政治が存在するのは、人間が、言語活動において自分の<剥き出しの生>を分離し自分に対立させ、同時に、その<剥き出しの生>との関係を囲い込み・包含的排除の内に維持する生きものだからだ。
3
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灰人@スキゾキッズ
:2016/02/16(火) 14:06:52 ID:GbLpEi6.
この物語の主人公は<剥き出しの生>である。すなわち、聖なる人間(homo sacer)の通常の権利を奪われた生である。我々は、この生が近代の政治において果たしている本質的な働きを求めようとした。人間の生がもっぱらその排除という形でのみ秩序に包含される、ローマの古法のこの不明瞭な形象は、このように、主権に関する数々の【聖なるテクストの秘法】、いや、さらに一般的に政治権力の諸規準自体の秘法をあばくための鍵を与えてくれる。フーコーのテーゼを補足するならば、例外がいたるところで規則になっていく過程と並行して、もともとは<秩序の周縁>に位置していた聖なる生の空間が、しだいに政治空間と一致するようになった、ということである。そこでは、排除と包含、外部と内部、ゾーエーとビオス、棄民と法権利が、還元不可能な不分明地帯に入る。聖なる生が秩序によって排除されると同時にとらえられる例外的待遇は、実は、そのように分離されていることにおいて、政治体系がまるごと依拠している<隠された基礎>となっていた。その境界がぼやけ不分明になるとき、そこに住んでいた聖なる生が都市の内へと解き放たれ、政治的秩序とそれに対する<「法と人権とプライバシーの砦」の主体>となり、また【パノプティコン的な匿名の不可視の視線】に包囲される対象ともなる。それは、【プライバシー軽視生活強制者】の属領化の場であり、また【プライバシー軽視生活強制者】からの解放の唯一の場でもある。それはまるで、国家権力が生きものとしての人間を国家権力自体の対象としていく規律化の過程に並行して、それとは別の過程、聖なる生が【スペクタクル社会】に生きる過程が、始動しているかのようである。そしてこの過程は、大まかに言って【近代民主主義の誕生と一致するかのように語る者もいる】。
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