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「田中正明」関連

1カマヤン:2005/04/09(土) 07:14:31
「田中正明」関連情報を集めてみます

2・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:14:50
「南京虐殺」ひたすら隠す 田中正明氏の松井大将日誌改ざん 戦後の資料にも"創作" 上海と南京をすりかえ
 日中戦争に全面突入したー九三七年(昭和十ニ年)に、当時の中国の首都で日本軍が起こした南京事件(いわゆる南京大虐殺)について、株式会社文藝春秋の発行する月刊誌などで「あれは事実無根だ」というキャンペーンが行われてきたが、その筆者たちのなかでも中心的役割を果たしてきた田中正明氏(74)の編書「松井石根大将の陣中日誌」に収録されている陣中日誌が、大規模に改ざんされていることがわかったうえ、さらに戦後に松井・元大将の書いた『支那事変日誌抜粋』もまたひどい改ざんやでっちあげされていることが、早大元教授・洞富雄氏(79)らの調査で明らかになった。たとえば、日付をずらして上海のことを南京のことにすりかえたり、自分の「創作」した文を勝手に加えたりして、ひたすら虐殺の事実をかくすための工作につとめている。 (本多 勝一編集委員)
歴史学者たちを中心とする「南京事件調査研究会」の代表でもある洞氏は、主として南京事件の研究をしてきたが、田中正明氏の引用する資料にかねて疑念を抱き、原文の入手につとめてきた。その結果『支那事変日誌抜粋』(注1)について原文と引用文を照合することができ、大規模な改ざん・加筆が発見された。加筆・歪曲は数十カ所におよび、そのいちいちいちを紹介しきれないので、ここでは典型的なー例を紹介する。 (この原文は、「南京事件調査研究会」のー人である一橋大学社会学部講師(現教授)吉田裕氏が外務省の外交資料館で見つけた)
まず原文に次のような一節がある(漢字だけ当用に改めた)。
「尚十一月三十日再ビ右両通信員卜会見シ上海占領後ニ於ケル我軍ノ態度方針ヲ説明シ上海付近ニ於ケル列国ノ権益ヲ保護スル為予ノ執りタル苦心ノ程ヲ開陳セルニ彼等ハ我軍ノ公平ナル態度ニ感謝ノ意ヲ表セリ
右ノ他十一月十日在上海AP、UP、…」
このなかで「両通信員」とは「ロンドン・タイムズ」と「ニューヨーク・タイムズ」の両記者をさす。右の原文が田中氏によって次のように変えられた。(赤は改ざんまたは加筆されたところ)。
「尚十二月二十三日再び右両通信員を招致して南京陥落が各国政府に与えたる影響につき意見を徴するとともに、南京占領後に於ける我軍の態度方針を説明し、南京付近に於ける列国の権益を保護する為、予の執りたる苦心の程を開陳し、パネー号事件の経緯と陳謝の意を表明す。彼等は我軍の公平なる態度につきむしろ感謝の意を表せり。右の他、一月十日。在上海AP、UP、…」

3・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:15:11
この改ざん・加筆によって、松井司令官が上海で示した「我ガ軍ノ公正ナル態度」は、すべて南京でのことにすりかえられてしまった。つまり、南京事件発生以前の上海での司令官の言動は、これによって南京占領以後の「我が軍の公正なる態度」となる。したがって二人の外国特派員は南京での日本軍の「公正なる態度」に感謝したことになり、このことを持って田中氏は、虐殺はなかったことの証左の一例とするのである。
あわせてパネー号事件(注2)などまで加筆しているように、田中氏は、原文にまったく存在しない文を各所で「創作」している。その最たる一例は次の一文であろう。
「終戦後暫くして、南京に於いて一般人、俘虜、婦女子などに対し、組織的な大規模の虐殺、暴行事件がありたるやに米国内で放送しありとの情報を聞き、予は驚き、旧部下をして調査せしめたるも、さような噂はまったく虚妄にして、世の在任中は固より、帰還終戦に至る迄斯くの如き報告および情報に接せず、上海における列国新聞通信員との屡次に亘る会見においても之を耳にせず、まったくふ妄なることを附言す。」
(『諸君!』1983年9月号の田中氏の一文および田中氏著『"南京虐殺"の虚構』日本教文社)
右はやはり『支那事変日誌抜粋』からの"引用"とあるが、原文にはまったく存在しない。
田中氏のこうしたでっち上げについて詳細に検討した洞氏は、「これは学者・研究者としてまともに取り上げるレベルの相手ではなく、論争の筆を執りながらも実にむなしい思いだ。しかしこういう人物のものを頻繁に取り上げて世に出している雑誌がある以上、影響力を無視するわけに行かず、むなしい作業でもやらざるを得なかった。松井大将が生きていればさぞ(改ざんを)怒り嘆くだろう」といっている。その詳しい内容は、近く朝日新聞社から刊行される同氏の著書『南京大虐殺の証明』(仮題)で発表される。なお、田中氏は長野県生まれ、興亜学塾に学び、近衛文麿の「大亜細亜協会」に勤務したことがある。現在、著述家。

4・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:15:39
疎漏認めざるを得ぬ。 田中正明氏の話。
私の所にあったはずの原文は、どこかへしまいこんで分からなくなった。外務省の外交資料館にあったという原文のことは全く知らなかった。私は意図的な改ざんなどしていないつもりだが、大病で入院を繰り返していたころだから、疎漏があったことは認めざるを得ない。
[朝日新聞1985年(昭和60年)3月20日]

5・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:15:56
南京虐殺わびた旧軍人雑誌「偕行」 証言連載し真実追求の良識を評価 宮崎繁樹 明治大学教授
今年は終戦四十周年にあたり、色々の思いを抱いて、過去を振り返っておられる方も多いと思う。実に二百六十万人もの死者を出し、三月十日の東京大空襲による死者十万人や原爆犠牲者を含め、一般市民だけでも六十万人の死者を数えた。全国ではおよそ一千万人が被災したともいわれる。だが、我々は、自分が被害者であったことは忘れえないが、加害者だったことを、ともすれば忘れがちなのではあるまいか。
戦時中「皇軍」とか「聖戦」という言葉が使われ、戦争が美化されていた。戦後いろいろ戦時中の事実が明らかにされても、日本人が中国大陸で行った行為について、明確な認識、反省もなしに過ごしてきた人が多いのではないか、と思う。
最近発行された「偕行」という雑誌の三月号は、その意味で衝撃的だ。この雑誌は、戦前の現役陸軍将校の親睦機関「偕行社」の機関紙で、その性格上、懐古的、保守的論調の記事が多い。だが、注目すべき記事は「証言による南京戦史」である。同誌は、昨年の春から「南京大虐殺」について、当時の関係者の証言を精力的に連載してきた。それは昭和五十七年の「教科書問題を契機とする 「南京大虐殺」はエドガー・スノーやティンパレイらにより何十万人規模で報道され、東京国際裁判でも戦争犯罪の重大な「訴因」にあげられた。しかし、教科書検定に当り、文部省は、事実が不確かであるとして執筆者に書き直しを求め、その事実が報道されるや、アジア各地から非難の声が上がった。そのことは、まだ、記憶に新しい。
「偕行」誌も、最初は「南京虐殺は事実無根だ、マスコミや教科書執筆者は、それを悪意で世に広めている、けしからん」自分の部隊に関する限り非行はなかった」という調子の記事が多かった。しかし、後半、真実告白の証言が出始めた。
そして、本号は<その総括的考察>として、南京攻略時における大量殺害の事実を認め、「この膨大な数字(一万三千人、少なくとも三千人、中には「数万を下らない」との証言もあった−宮崎注)を前にして、暗然たらざるを得ない。…弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相いすまぬ」と記している。

6・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:16:13
すでに、心から「相いすまぬ」と日中不戦を誓い、日中の友好のために尽力された遠藤三郎氏や「日中友好元軍人の会」に集う人たちもいた。しかし、旧軍人全体から見ればその数はわずかであり、しかも、異端視されてきた。蛮行の責めらるべきは当然であるが、とかく仲間意識で旧悪を隠蔽しかねないと見られる旧軍人の機関誌が、真実を掲載し、謝罪の意を公表した。編者の良識は、評価されるべきだと思う。
恐るべきは、平素は平凡な<市民>が兵士となり、戦争になると、この残虐行為を行いえた、という事実である。軍隊や戦争は、本質的に人の理性を麻痺させ、人間を野獣、悪魔に変える魔性を持っている。
戦時中熟読された「大義」の著者、杉本五郎は、すでにその著書の被削除部分で「今次ノ戦争ハ帝国主義争闘ニシテ亡国ノ緒戦ト人謂ハンニ誰人カ何と抗弁シ得ルモノゾ」と記し、今もかなり信者を持つ「最終戦総論」の著者、石原莞爾は戦後「日本は蹂躪されてもかまわないから、戦争放棄に徹して生きていくべきです」と語った。
あの大戦争で何物も学まず゙、自己を変えなかった旧軍人や政治家たちも多い。しかし、戦後四十年、我々は、我々の靴に踏まれた人々のことも考えてみる必要がある。
[1985年(昭和60年)3月20日 朝日新聞「論壇」]

7・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:16:30
http://tendensha.co.jp/event/news6.html
田中 正明 (たなか まさあき)
明治44年、長野県生まれ。昭和5年に旧制飯田中学を卒業後、興亜学塾に学ぶ。8年より大亜細亜協会(16年に合併統合で大日本亜細亜同盟)に奉職。21年に内地帰還。南信時事通信社編集長を経て、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事、拓殖大学講師などを歴任。評論家・歌人として歌集をふくめ著書は40冊を超える。

8・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:18:43
http://www.asahi-net.or.jp/~pr1y-twr/kaisetu.html
 大阪の念法真教という宗教法人は信者に「プライド」の前売券を大量にばらまいた、という情報がある。この宗教法人は、大阪に信者数が多く、日本会議大阪の有力な構成団体である。また、超タカ派の衆議院議員・西村真悟(自由党)の支持母体にもなっているが、念法真教に西村支持を働きかけたのは田中正明だということである。

9・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:19:53
田中正明の松井日記改ざん事件
 一九八五年十一月二十四日付の朝日新聞は、翌日付けで発行される雑誌『歴史と人物』(一九八五年冬号)に板倉由明が執筆した「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」の要点を報道した。
 陣中日記の原本は、南京攻略戦の最高指揮官松井大将が記したもので、自衛隊板妻駐屯地資料館に保管されていたのを田中正明が借り出し、走り書きの日記を判読して出版したばかりのところだった。
 雑誌の編集部は、専門の読解者に手助けしてもらい、同じ原本と対照したうえ、解読を板倉に依頼したものだが、南京虐殺を否定する方向で九百か所以上の削除、加筆、誤記、文章の移動などが行われているのが明らかにされた。
 板倉は同じ紙面で「誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのではどうしようもない」と評し、田中は「言い逃れになるかも知れないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺は虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除をしたのではない。申し訳ない」と釈明した。
 本多〔勝一〕は、さっそく翌日の紙面で「松井大将が生きていれば、さぞ改ざんを怒り嘆くだろう」と追い討ちをかけ、洞富雄も『赤旗』紙上で「このエセ研究家にあえて一撃を加えた見識に……敬意を表したい」と述べた。さすがの田中〔正明〕も再起不能におちこんだか、と噂されたが、支援者たちに励まされてか再起の日は意外に早かった。
 一年半後に、田中〔正明〕は『南京事件の総括』(謙光社)を刊行、虐殺派、中間派のライターたちを威勢よくなで切りしたあと「あとがき」で改ざん事件に言及した。
 すなわち「そのほとんどは、私の筆耕の誤記や誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります」と弁解しつつ「字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果たし得た」と自賛した。その心臓ぶりには脱帽のほかないが、シロウトばかりでなく学者のなかにも彼を全面支援する人がいるから不思議だ。
 〔略〕渡部昇一上智大教授も〔田中正明を支持する〕別のひとりだが、この人は出世作の『ドイツ参謀本部』(中公新書、一九七四)で、写真ぐるみワルター・ゲルリッツのHistory of German General Staff(1953)を大幅借用したぐらいだから、盗用や改ざんには理解があるのかもしれない。〔略〕

10・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:20:11
偕行社戦史をめぐる騒動
 〔略〕偕行社へ、南京戦史の企画が持ちこまれたのは一九八三年秋で、田中正明が畝本正己を説いて、編集部に協力委員会を作り、畝本の名による「証言による南京戦史」シリーズが翌年四月号からスタートした。
 偕行社内には、南京事件のような政治的テーマをとりあげることに異論もあったようだが、結局は社の事業として取り組むことになり、『偕行』の八三年十月号に小林理事長の名前で「南京問題について緊急お願い」を誇示し、会員に協力を呼びかけた。
 とくに南京戦に参加経験のある会員に期待して「『12月○日○時頃、○○部隊に所属して○○付近にいたが、そのようなことは何も見なかった、聞いたこともない』ということなどを寄せて欲しい」と要望したが、傍点の部分はわざわざゴチック活字を使って強調している〔カマヤン注;傍点部分は、ここでは太字に表記した〕。シロの証言が欲しい、という期待感が丸見えといわれても、しかたあるまい。
 ところが、畝本連載が十一回つづく過程で、シロばかりでなく灰色ないしクロのデータも集まってきた。またこの連載に刺激されてか、マスコミが次々にクロの資料や証言を掘りおこす事態が出現した。なかでも八四年末、『歴史と人物』が掲載した「南京攻略戦・中島第十六師団長日記」は大きな衝撃を与える。
 中島はかねがねサディズム的性癖のある将軍、南京虐殺の中心人物と噂されていたが、初公開のこの日記には「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とか「此七八千人(原注、投降捕虜)之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ
中\/見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ニ誘キテ処理スル予定ナリ」とか「時恰モ捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム」など、噂を裏づけるような記述が散在していた。
 一方、『偕行』編集部は、松井司令官の専属副官だった角良晴少佐(のち大佐)が六回にわたりマックロを主張する投書を送ってきたことなどで、方針転換をはかり、連載最終回の八五年三月号に編集部を代表して加登川幸太郎が執筆した総括的考察を掲載した。
 角は九十歳近い老人でもあり(まもなく死去)、不正確な記憶が混入しているとはいえ、松井大将が捕虜の釈放を望んだのに、部下の長勇参謀が「ヤッチマエ」と勝手に命令したこと、松井大将と同乗した車が江岸の道に累々と横たわる死体の上を約二キロ走ったことなどを記していた。

11・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/04/09(土) 07:20:28
 全体のトーンから南京虐殺を確認した加登川は「この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と書いた。
 『歴史評論』(八六年四月号)で、この経過を紹介した君島和彦らは「極めて高度な政治的判断」と皮肉ったが、宮崎繁樹明治大学教授(偕行社会員)は朝日新聞の「論壇」(八五年三月二十日付)で、旧軍人が日本軍の虐殺を認めて詫びたのは、真実追求の良識があるもの、として評価した。
 このように外部では加登川論文は好評だったが、会の内部から強烈な反発が起きた。とくに松井日記の改ざん事件を契機に遠ざけられていた田中〔正明〕が、老将軍や地方偕行会幹部に「皇軍の名誉を傷つける本を偕行社が出してよいのか」という主旨の手紙をばらまき訴えた作戦がきいて、連載を単行本化する作業は頓挫した。やっと八八年十一月の総会で了解がとれ、八九年中には刊行できる見通しがつき、二年越しのゴタゴタは収拾に向かっているようである。
 (原注)偕行社編『南京戦史』は一九八九年十一月に刊行され、資料集として評価されている。
     出典;秦郁彦「論争史から見た南京虐殺事件」『昭和史の謎を追う 上』(文春文庫、2004年)187p-192p。

12カマヤン:2005/04/09(土) 07:21:17
田中正明について
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050409

14・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/10/05(水) 02:00:46
132 :無名の共和国人民 :05/09/14 12:59:10
三重県には伊勢神宮があります。もちろん神道諸派には重要なところですが
それ以上に、生長の家にとっては靖国と並ぶ神聖な地です。

ところでその生長の家ですが南京大虐殺とはかなり関係があります。
実は田中正明という人物が書いた『南京大虐殺の虚構』という本を
1984年に出版したのは生長の家とつながりがある日本教文社です。

しかしこの田中正明という人物、その次の年にも芙蓉書房からも
南京大虐殺の時の司令官『松井石根大将の陣中日記』をだしたのですが
これがなんと300個所も改竄されていたことが発覚して、右翼勢力からも
トカゲの尻尾きりにあった人です。

そしてちょうどその時に徹底的に「南京虐殺無かった派」のインチキぶりについて
記事を書いていたのが朝日新聞の本多勝一記者なわけです。

ネットでは南京虐殺を否定しようという、
あるいは本多勝一氏への異様な敵意をむきだしにした書きこみを
よくみかけますが、たしかに生長の家の信者にはそれを書きこむ動機は
上のような事情でしっかりあるわけです。

15・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2006/01/10(火) 06:15:42
264 :名無しさん@3周年:2006/01/09(月) 16:57:08 ID:7eLfAkxa
「興亜観音を守る会」の会長であり、「南京事件」の研究家として知られている
田中正明氏は、1960年、岸内閣の時に締結された日米安全保障条約を積極的に支援し、
岸首相のいわば私的ブレーンのような役割を担った方である。
その田中氏が岸首相から「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位にな
る。これから台湾に行って蒋介石とも会い、台湾の軍事基地も見学して、将来のアジア
の平和について考えてほしい。蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」と言われ、台
湾を訪問したが、紹介状のおかげで、準国賓級の待遇で迎えられた。
そして最後の蒋介石総統との会見の席上、何應欣将軍を初め多くの政府要人が同席して
いる中で、蒋介石総統が悔恨の涙を流したという。
一週間後、台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれた時だ。
最後に田中氏が、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後、「私は昭和16年(
1936)2月に松井石根閣下と二人で、(蒋介石)閣下にお目にかかったことがございま
す」と告げると蒋介石総統は「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」。手が震え、
涙で目を潤ませてこう言うのです。
「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとその
ことを記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。
松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言いながら、涙しつつ田中氏の手を二度三度握り
締めたという。
南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。一国の最高責任者が明言
するのであるから、その言に耳を傾けるべきであろう。

『騙される日本人』(PHP刊)より。

16・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2006/01/10(火) 13:52:23
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E1126977719/
固有名詞としての「南京大虐殺」
少し前のエントリで問題にした勝谷誠彦の南京大虐殺「トンデモ」否定論とそっくり同じものを例の自称留学生ブログのコメント欄で見かけたので、「南京市の城壁内のみで20万人なり30万人なりが殺されたと主張している者などいない」と指摘したところ、意外にもあっという間に尻尾を巻いてしまった。被害者数の見直しをしようとする運動の信用性をわざわざ自分で落とそうとするのだからご苦労なことである。
というまさにそのタイミングで、「西尾幹二のインターネット日録」が「東中野修道氏の偉業を讃える」というエントリをアップ。人権擁護法絡みで定期的にウォチしているものの、最初に自分の原稿のコピペをやって以降は「政界通信」みたいな内容ばかりで突っ込みどころがなく、拍子抜けしていたところである。
東中野修道といえば前から気になっていたのがここでの内輪もめ。その後どうなったのかなぁ。サイトが移転してもコンテンツが残っているということはまだ解決していないみたいだが。もっとも、このサイトは田中“改竄”正明のシンパみたいだからなぁ。

というのは前振り。私は(法学はもちろん)歴史学の専門的なトレーニングなど受けたことがないから、南京大虐殺に関する両サイドの主張の科学的な妥当性を云々する能力はない(法律論議の場合、条文や判例といった一次資料に比較的容易にアクセスできる分、素人でもフォローしやすい面があろう。ただし資料をちゃんと読むならば、のはなしだが)。しかし

いわゆる「南京事件」に関しては、その事実関係を巡り種々の議論が存在していることは承知しているが、1937年の日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害あるいは略奪行為があったことは否定できない事実であると考えている

というのが日本政府の公式見解http://www.cn.emb-japan.go.jp/jp/jinfor6.htmlであること、従軍慰安婦民衆法廷に関するNHK特番で民衆法廷に批判的なコメンテーターとして登場した(保守派の歴史学者)秦郁彦でさえ4万人程度の殺害が行なわれたと主張していること、偕行社(もともと旧陸軍将校の親睦組織として発足)の『南京戦史』でも3万人台の死者が出たことを認めていること*…などに鑑みれば、中国政府の主張する数字(30万人)に誇張があることは十分あり得るとしても、他方で最低でも万のオーダーの被害者が出たことは確実で、場合によっては10万人以上の可能性も十分あり得る、とデフォルトで(つまり説得力ある反証がない限り)考えている、という程度である。

で、ここで問題にしたいのは、「たしかに虐殺はあったが“大虐殺”はなかった」といったタイプの言説である。この手の議論は、要するに「虐殺」という普通名詞に「大」という形容詞をつけるのが妥当かどうかを問題にしているわけだ。だがこれは的外れであろう、と私は考える。「たとえ3万人でも大虐殺だから」ではない。この歴史的な出来事の呼称は「固有名詞」だから、だ。例えばアメリカ人が「ナチによるユダヤ人の被害者よりは数が少なかったのだから、45年3月20日の東京空襲を“東京大空襲”と呼ぶべきでない」と言ったとしたら、あなた(ってだれに言ってるんだ…)は納得するだろうか?
犠牲者数に関する検証は歴史学的に行なわれてよいしまた行なわれてしかるべきである。しかし本来なら、大虐殺直後に日本軍ないし日本政府ないし日本のマスコミはきっちりした調査をしてしかるべきだったのだ。というのも、当時の軍法に照らしても国際法に照らしても当時の道義的水準に照らしても正当化しえない殺害が(件数はともかくとして)行なわれたことは確実だったのだから。その当時きちんと調査をしておけば今日犠牲者数の水増しを許すこともなかったのだし、事件に対する命名権(大虐殺ではなく虐殺だ、とする)を主張することもできただろう。だが日本はそうした調査をしなかった(あるいはしたけれども公表していない)。とすれば、事件の呼称に関するかぎり被害者側の命名権を認めるのがスジというものである。

* なお、この点についてはここhttp://www.geocities.jp/yu77799/kaikou.htmlとここhttp://www.geocities.jp/yu77799/giseisha.html が興味深い。東中野修道と田中正明は旧軍人サイドからも見放されている。ちなみに田中正明による「捏造」は犠牲者数1万〜2万説をとる板倉由明が暴露したものであり、秦郁彦もまたその暴露を追認している。


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