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『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』

7・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2015/02/25(水) 22:51:05
無念 Name としあき 15/02/25(水)22:07:19 No.315954787 del +
出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子となった。
目鼻立ちは整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持つ美しい顔立ちと、愛嬌もあり活発な
性格で宮廷内の人々を魅了した。
1789年7月14日にフランス革命が勃発、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。
このときルイ=シャルルは6歳だった。
1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。
しかしルイ=シャルル本人は、革命まっただ中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも
かなわなず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった
恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の
痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。
以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。


… 無念 Name としあき 15/02/25(水)22:07:29 No.315954834 del +
7月3日、ルイ17世は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。
王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベールから後見人兼教育係として命令を
受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモンの元で過ごすことになった。
カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。やがて教育は
虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで
脅す有様であった。
また、シモンはルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。暴力は日常茶飯事となり、
番兵たちも虐待を見るのを嫌がったという
ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは
消え去った。この頃、スペイン外相とイギリス外相はタンプル塔のスパイから、売春婦に8歳の
ルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。


… 無念 Name としあき 15/02/25(水)22:07:53 No.315954923 del +
さらに、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。
ショーメットとエベールは2月1日、元は家族の食堂であった部屋にルイ17世を押し込んだ。
厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。
不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。
そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。
食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。
ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。
不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。
室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる
鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。


… 無念 Name としあき 15/02/25(水)22:08:04 No.315954975 del +
6月7日、ルイ17世は衰弱し、一時は意識を失う。間もなく、長いため息の後、全身の力が抜け、ルイ17世の短い生涯は終わりを告げた。
ルイ17世は生前に、母と叔母の死を知ることはなかった。独房に墨で書かれた「ママ、あのね…」という書きかけの言葉と
花の絵が残されたことや、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを
知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。


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