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【仏法と病気の関係性】 投稿者:大仏のグリグリのとこ様のまとめ

17太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:11:52

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52829
また、涅槃経には

「今世に悪業を成せば、来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、
〝仏・法・僧〟の三宝を供養することによって地獄には堕ちない。

そのかわりに現世にその報いを受けて〝頭と目と背の痛み〟となって現れる(通解)」

(御書一〇〇九頁)とも説かれています。

つまり、今世で正法誹謗の悪業を行えば来世に必ず地獄に堕ちるが、
それを悔い改め、反省してご本尊を信じ、広宣流布の実践に励んでいるなら、
地獄に堕ちるべき悪業の報いを現世で軽く受けることができるという意味です。

止観には

「もし重罪があっても、今世で軽く償う場合には悪業を消滅させるために病気になる」

と説かれています。

そしてそれが〝頭・目・肩・腰の痛み〟などの病気と現れ今世で罪業を消しているのです。

これらの経文や論釈は〝病苦〟という角度から、それを治す原理が明かされたものです。

だから

「信心しているのになぜ病気になるの、なぜすぐに治らないの」と

いちいち文句を言わずに、この病気で過去の償い(罪障消滅)をしているのだと思えば良いのです。

信心さえしっかりしていれば、嘆く必要はありません。

18太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:12:39

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52830
たとえ信心を一生懸命がんばっていたとしても、私たちは生身の人間なのですから、
当然、病気にだってなるし、身体の調子が悪くなる時だってあります。

信心しているのに何でこんな病気になったのだろうと疑問に思うこともあるし、
病気をしたら信心が無いみたいに思う人もいるかも知れません。

しかし、法華経には「少なく病み少なく脳む」とあります。

多少の病気や身体に痛みがあったとしても、そんなにイライラしないで

「ああ、この病気のおかげで私は地獄に堕ちずに済むわぁ。よかった♪」

「持病の頭痛やヘルニアは、きっと今世で悪いことをしたからだわ !
もう謗法は絶対しないように気をつけよう。よかった、原因がわかって♪」

「病気のおかげで自分を見つめることができてよかった、功徳だわぁ♪」

というぐらいのおおらかな気持ちで病気とうまく付き合っていったほうが価値的です。

病気の根本治療はやはり「謗法を犯さない」ことに尽きます。
そのために〝謗法とは何か〟〝悪とは何か〟を学ぶことは必要なことです。

しかし、それでもやっぱり凡夫ですから間違いを犯すことだってあります。

もしも病気になった場合は、悩んで落ち込むより、
そこに意義や価値を見出し、前を向いて人生を生きていくほうが得です。

また必ずそういう境涯になっていけるのが日蓮仏法の真骨頂なのです。

結局、苦しみの〝生老病死〟の人生を、喜びに満ち溢れた
〝常楽我浄〟の人生に転換していくのが信心する最大の目的なのです。

19太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:13:37

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52831
最後に戸田先生の〝業病〟に対する指導の抜粋を記して終わります。(※読みやすいように変換)

――いまの世間を見るに、医者ではどうしても治すことができない業病の多いのには驚く。
本人の嘆きはもちろんのこと、家族の嘆きは筆舌につくせない。かわいそうでならないのだ。

何とかして一日も早くこれを治してやりたいものと思わざるを得ない。
凡夫の身として医者も治せない業病をどうして治すことができようか。

深く憂い、深く悲しみ、そのご指南を大聖人に受ける以外にないことを知って、
御書を拝見するのに明々白々として、これが治療の方法を知ったのである。

それはご本尊を信じてこれを行ずる、すなわち〝信力・行力〟が〝法力・仏力〟となって、
人の力では及ばない大現象をそこに出現するのである。

過去世の業因によって起こったところのものは、もっとも難病中の難病である。

たとえば、小児マヒ、精神病、脳水症等である。
治し難き業病の最も重いのは、過去世の法華誹謗によることは明らかである。
また、業病は過去世の謗法によるものだけではなく、現世においても同じく言うのである。

「軽き有り重き有りて多少定まらず」(御書一〇一〇頁)と仰せの軽いものは、
今世の業因によるものである。

法華経こそ一切の病の良薬であり、変毒為薬の妙なるものである。
謗法は毒であり、これを治しうる法は良薬である。

業病の因たる謗法の毒を法華経の力によって良薬に変ずるのであるから、
これすなわち変毒為薬である。

「人の地に倒れてかえって地によりて起つ」(同頁)、すなわち法華経誹謗の業因あるものは、
法華経以外のものによって、治すことはできないことは明々白々である。

いま一例をひく。

小児マヒの子供をもった親があったとする。子供は御本尊を拝むことができない。
しかし、親は御本尊を信じ行ずることができる。

この親が大信力を起こして大御本尊を拝み、折伏を行ずるならば、その子供は治るのである。

しかし、その子供があまりにも業因が深くして終生その病気に悩まなければならない場合は、
その子供は生きることができないで早く死ぬのである。

なぜ死ぬのであろうか。

それは小児マヒの子供を持つ親には、そのような子供を持つ業因があるのである。

されば、信心することによって親の業因が消えたとするならば、
小児マヒの子供を持つ宿命がなくなったことになる。

そうなると、これに応じて子供は治るか、死ぬかのどちらかでなくてはならないのである。

付記していっておくが、金を持てない、家を持てない、というような貧乏な暮らしの宿命は、
身の業病ではないけれども、やはり業病の一種になる。

医者でも薬でも治らないゆえに、といえば冗談になるが、
だれ人の力をもってしても、どうすることもできない。

ゆえに、そういう人は大御本尊を信じ、信力・行力を励まなければならない――

(戸田城聖全集第一巻一四二頁)

おわり


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