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【仏法と病気の関係性】 投稿者:大仏のグリグリのとこ様のまとめ

15太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:10:23

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52827
たとえば、今までさんざん学会の悪口を言い、同志の悪口を言って、
好き勝手にしていた学会員やその子供が病気になると、

その人は組織の同志に向かって

「地区・支部で唱題会を設けて病気が治るように題目を送ってほしい、私も題目に挑戦します」と言う――。

それは別に悪いことではないし「病によりて道心はをこり候なり」(御書一四八〇頁)なのですから、
病気になったことによって今までの信心の態度を改め、新たに決意することは良いことです。

なにもわざわざ組織をあげて唱題会を開催しなくても、
それを聞いた同志は何も言わず一生懸命に題目を送ってくれます。

それが草創期から築きあげてきた学会の伝統であり同志愛です。

しかし、業病が出た場合は少し違います。

確かにご本尊に祈れば「罪として滅せざるはなし」なのですが、
なんでもかんでもご本尊に題目をあげれば、

過去世の罪が〝すぐに帳消し〟になるわけではありません。

盗んだ物や、危害を加えた人や物をそのままにしておいて、
ただ題目をあげて罪が消えるわけがありません。

盗んだものは元にもどし、危害を加えたら謝罪し、罪を償うのが道理です。

そうであるならば「病気を治してくれ」という祈りの前に、

まずは懺悔滅罪(ざんげめつざい)の祈りが先です。

過去の悪業や非礼をご本尊におわびし、心新たに自行化他の題目(本門の題目)を実践することです。

自行の題目も、化他行の題目も実践しないで病気になったから「治してくれ」と
同志やご本尊にすがるのは、ただの乞食信心であり、単なるゴロツキです。

そうではなく病気を機縁として、

仏法の偉大さを教えてくれた師匠と同志に報恩と感謝を捧げ、
日々の弘教拡大の実践をしていくことによって、

重罪が転じて軽く受けることができるのです。

これが転重軽受の原理であり、そうして初めて宿命転換ができるのです。

16太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:11:12

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52828
「魔」や「業」による病は、生命それ自体の問題であり、結局、
自らの強い信心によって「病魔」を打ち破っていくしかないのです。

大聖人は

「悪逆を犯した阿闍世王は、提婆達多や邪見の六師外道から
指導を受けていたので、仏には帰依しなかったのである。

ところがマカダ国に天変地夭が絶え間なく起こり、他国からは攻められて
事態は悪化していくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時滅びるかにみえたときに、

王もにわかに改心し、仏の前にきて懺悔したのでその罪は消えた(趣意)」

(御書九三一頁)と述べています。

「懺悔」とは一般的に
過去の罪を悔いてお詫びするという程度に使われていますが、
この言葉はもともと仏法用語からきたものです。

仏法でいう〝懺悔〟とは二つの意味があって、

一つは過去に犯した罪悪を悔い改めて、仏や菩薩、また師匠や衆人などに公開してその内容を述べるということ。
二つは「端坐して実相を思え」と仏典(観普賢菩薩行法経)にはあって〝実相を思う〟とは信力・行力にあたります。

つまり、阿闍世王の難病が治ったのは、過去の罪を悔い改め、
正法弘通に精進したからこそ、病気を完治し、さらに四十年も寿命を延ばすことができたのです。

大聖人は

「小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、
大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える(通解)」(御書九三〇頁)と断言しています。

病苦というものは、病気になった本人も、その家族や周りの人たちも辛く悲しいものにさせます。

辛く悲しいからこそ治したいのは当然として、

何のために治りたいのか、治してこれからの人生をどう生きていきたいのか、

それを考え、答えを見つけて、ご本尊に訴えていくことも大切なのではないでしようか。

17太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:11:52

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52829
また、涅槃経には

「今世に悪業を成せば、来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、
〝仏・法・僧〟の三宝を供養することによって地獄には堕ちない。

そのかわりに現世にその報いを受けて〝頭と目と背の痛み〟となって現れる(通解)」

(御書一〇〇九頁)とも説かれています。

つまり、今世で正法誹謗の悪業を行えば来世に必ず地獄に堕ちるが、
それを悔い改め、反省してご本尊を信じ、広宣流布の実践に励んでいるなら、
地獄に堕ちるべき悪業の報いを現世で軽く受けることができるという意味です。

止観には

「もし重罪があっても、今世で軽く償う場合には悪業を消滅させるために病気になる」

と説かれています。

そしてそれが〝頭・目・肩・腰の痛み〟などの病気と現れ今世で罪業を消しているのです。

これらの経文や論釈は〝病苦〟という角度から、それを治す原理が明かされたものです。

だから

「信心しているのになぜ病気になるの、なぜすぐに治らないの」と

いちいち文句を言わずに、この病気で過去の償い(罪障消滅)をしているのだと思えば良いのです。

信心さえしっかりしていれば、嘆く必要はありません。

18太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:12:39

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52830
たとえ信心を一生懸命がんばっていたとしても、私たちは生身の人間なのですから、
当然、病気にだってなるし、身体の調子が悪くなる時だってあります。

信心しているのに何でこんな病気になったのだろうと疑問に思うこともあるし、
病気をしたら信心が無いみたいに思う人もいるかも知れません。

しかし、法華経には「少なく病み少なく脳む」とあります。

多少の病気や身体に痛みがあったとしても、そんなにイライラしないで

「ああ、この病気のおかげで私は地獄に堕ちずに済むわぁ。よかった♪」

「持病の頭痛やヘルニアは、きっと今世で悪いことをしたからだわ !
もう謗法は絶対しないように気をつけよう。よかった、原因がわかって♪」

「病気のおかげで自分を見つめることができてよかった、功徳だわぁ♪」

というぐらいのおおらかな気持ちで病気とうまく付き合っていったほうが価値的です。

病気の根本治療はやはり「謗法を犯さない」ことに尽きます。
そのために〝謗法とは何か〟〝悪とは何か〟を学ぶことは必要なことです。

しかし、それでもやっぱり凡夫ですから間違いを犯すことだってあります。

もしも病気になった場合は、悩んで落ち込むより、
そこに意義や価値を見出し、前を向いて人生を生きていくほうが得です。

また必ずそういう境涯になっていけるのが日蓮仏法の真骨頂なのです。

結局、苦しみの〝生老病死〟の人生を、喜びに満ち溢れた
〝常楽我浄〟の人生に転換していくのが信心する最大の目的なのです。

19太ちゃん★:2016/07/28(木) 11:13:37

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52831
最後に戸田先生の〝業病〟に対する指導の抜粋を記して終わります。(※読みやすいように変換)

――いまの世間を見るに、医者ではどうしても治すことができない業病の多いのには驚く。
本人の嘆きはもちろんのこと、家族の嘆きは筆舌につくせない。かわいそうでならないのだ。

何とかして一日も早くこれを治してやりたいものと思わざるを得ない。
凡夫の身として医者も治せない業病をどうして治すことができようか。

深く憂い、深く悲しみ、そのご指南を大聖人に受ける以外にないことを知って、
御書を拝見するのに明々白々として、これが治療の方法を知ったのである。

それはご本尊を信じてこれを行ずる、すなわち〝信力・行力〟が〝法力・仏力〟となって、
人の力では及ばない大現象をそこに出現するのである。

過去世の業因によって起こったところのものは、もっとも難病中の難病である。

たとえば、小児マヒ、精神病、脳水症等である。
治し難き業病の最も重いのは、過去世の法華誹謗によることは明らかである。
また、業病は過去世の謗法によるものだけではなく、現世においても同じく言うのである。

「軽き有り重き有りて多少定まらず」(御書一〇一〇頁)と仰せの軽いものは、
今世の業因によるものである。

法華経こそ一切の病の良薬であり、変毒為薬の妙なるものである。
謗法は毒であり、これを治しうる法は良薬である。

業病の因たる謗法の毒を法華経の力によって良薬に変ずるのであるから、
これすなわち変毒為薬である。

「人の地に倒れてかえって地によりて起つ」(同頁)、すなわち法華経誹謗の業因あるものは、
法華経以外のものによって、治すことはできないことは明々白々である。

いま一例をひく。

小児マヒの子供をもった親があったとする。子供は御本尊を拝むことができない。
しかし、親は御本尊を信じ行ずることができる。

この親が大信力を起こして大御本尊を拝み、折伏を行ずるならば、その子供は治るのである。

しかし、その子供があまりにも業因が深くして終生その病気に悩まなければならない場合は、
その子供は生きることができないで早く死ぬのである。

なぜ死ぬのであろうか。

それは小児マヒの子供を持つ親には、そのような子供を持つ業因があるのである。

されば、信心することによって親の業因が消えたとするならば、
小児マヒの子供を持つ宿命がなくなったことになる。

そうなると、これに応じて子供は治るか、死ぬかのどちらかでなくてはならないのである。

付記していっておくが、金を持てない、家を持てない、というような貧乏な暮らしの宿命は、
身の業病ではないけれども、やはり業病の一種になる。

医者でも薬でも治らないゆえに、といえば冗談になるが、
だれ人の力をもってしても、どうすることもできない。

ゆえに、そういう人は大御本尊を信じ、信力・行力を励まなければならない――

(戸田城聖全集第一巻一四二頁)

おわり


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