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日蓮仏法広布史の功労者を讃える

1ほろほろ馬:2014/11/14(金) 09:49:03 ID:lopoH3Z.0
800年になんなんとする日蓮仏法広布史。その中で綺羅星の如く現れた功労者を讃えましょう。

2ほろほろ馬:2014/11/14(金) 09:49:54 ID:lopoH3Z.0
1、日印

日印(にちいん)

1264年 - 1329年1月20日(嘉暦3年12月20日)
幼名 摩訶一丸
生地 越後国寺泊(現、新潟県長岡市)
宗派 法華宗陣門流・日蓮宗六条門流
寺院 本成寺
師 日朗
弟子 日静、日順
廟 法久山妙蓮寺

日印(にちいん、文永元年(1264年) - 嘉暦3年12月20日(1329年1月20日))は、法華宗・日蓮宗の僧。北陸道の越後国寺泊(現在の新潟県長岡市)にて生誕。鎌倉殿中問答で全宗派を論破した。

鎌倉殿中問答
時は鎌倉時代、朝廷の帝は後醍醐天皇、幕府は征夷大将軍が宮将軍の守邦親王で執権が得宗家の北条高時である。幕府執権高時は既に亡き日蓮の弟子の日朗(六老僧)に幕府殿中にて諸宗との問答対決の命を下した。日朗は高齢のため代わりに門下の日印を討論に向かわせ、文保2年(1318年)12月30日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて、問答対決を行った。これがいわゆる「鎌倉殿中問答」(弟子の日静が記録に残す。)である。結果、日印が諸宗派をことごとく論破し、題目宗の布教を鎌倉幕府は許した。これに負ければ日蓮門下は取り潰しだったとされ、その勲は賞賛されるべきものだった。また、この問答の代表に選ばれたということは当時の日蓮門下のエースだった証拠でもある。

法脈

日印が8歳の文永8年(1271年)、佐渡ヶ島(佐渡国、現在の新潟県佐渡市)へ流される途上で越後国寺泊に来ていた日蓮に会ったことが有るという。そこで日蓮に摩訶一丸の名を授けられた。摩訶一丸が後に僧となり、正しい仏法を求めて日本の諸国を巡った時、既に日蓮は他界したと知った。そのため、日印は日蓮の弟子で六老僧の一人である日朗に師事した。そこで法華経の教えを極め、幕府殿中にて全宗派論破する程の学識を得た。

弟子
日静 ― 日印の問答を鎌倉殿中問答の題で執筆した。父は上杉頼重(藤原北家系で室町時代に関東管領などの大名を出す上杉氏2代目)で、母は足利氏の娘である。日静の弟子が日陣(法華宗陣門流の門祖)と日伝(日蓮宗六条門流)であり、ふたつの門流で日印の法脈は現在へ流れる。
日順 ― 本法寺(富山県富山市八尾町)を開く。

3ほろほろ馬:2014/11/14(金) 09:50:25 ID:lopoH3Z.0
日蓮門下全滅の危機を救った日印を育て上げた師・日朗を讃える。

日朗
1245年 - 1320年
号 筑後房
諡号 日朗菩薩(後光厳天皇より)
生地 下総国
没地 武蔵国
宗派 日蓮宗
寺院 池上本門寺
師 日蓮
弟子 日輪、日印、日像
廟 安国論寺、法性寺

日朗(にちろう、1245年5月5日(寛元3年4月8日) - 1320年3月1日(元応2年1月21日))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。
1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る。1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。


日朗上人について
日朗上人は寛元三(一二四五)年四月八日に、下総海上郡能手郷にうまれました。日昭上人の妹の夫で義弟にあたる、平賀二郎有国の子供です。日昭上人の甥にあたり幼名を吉祥麿といいました。伝承では父親の平賀有国が、建長六年(一二五四)の一〇月に、松葉ヶ谷に行き日蓮聖人と対面します。このとき日蓮聖人の人徳に感じ、一〇歳の吉祥丸を入門させます。(『本化別頭仏祖統紀』・『日蓮聖人遺文辞典』六四七頁)。(一二歳説だと建長八年になります)。さきに、建長四年に弟子となったという説をのべました。日朝上人が一〇月に名越に来られたということは、この一〇月には庵室が完成されていたということになります。そして、文応元年一六歳のときに得度し、筑後房と名のり字を大国としたとあります。(『本化別頭仏祖統紀』)。

日朗上人は日蓮聖人の直弟子になります。既成教団で受戒していない私度僧・自度僧にあたります。また、前述したように、日朗上人の異父(平賀忠治)弟に日像上人と日輪上人がいます。日蓮聖人の弟子のなかには天台僧に配属したり、もともと、天台僧の資格を持っていた弟子はそのままにしていたようです。大進阿闍梨は鎌倉に小堂を構えており、三位公は京都に遊学して公家の持仏堂などで講義をしています。また、官僧・遁世僧、白衣・黒衣という区別があります。(松尾剛次著『中世鎌倉の風景』八四頁)。

日蓮聖人に仕え給仕したことから「師孝第一」・「常隋給仕」の弟子と言われ、大国阿闍梨・正法院と尊称されています。日蓮聖人の滅後は春秋身延山に参詣したといいます。元応二(一三二〇)年一月二一日、七六歳にて示寂します。遺言により、松葉ヶ谷剃髪得度のところで荼毘し、猿畠に塔を建てています。墓塔のそばにあった松の枝が墓前にかかり、日朗上人を泣き慕うようであったことから、この松を堕涙松と呼んだといいます。

日朗上人が生きているあいだは、日蓮聖人が住まわれた松葉ヶ谷を取得できなかったといいます。この松葉ヶ谷の法華堂(草庵)は官命により壊され、その跡は灌漑の用地となったといいます。日朗上人の在世には再建できなかったのです。日像上人は日蓮聖人より、自分は古賢の教えにしたがって身延に隠棲しても、「つねに法を比企の霊場に揚げよ」と厳命していたことを心にかけていたといいます。同じ弟子の日印が名越に本勝寺を建てることが叶いました。つぎを継いだ日静は尊氏の伯父にあたり、この縁で京都六条に本国寺を建てることになります。本国寺に随身仏・安国論・赦免状が伝わる理由はここにあります。

その門下には多くの俊英がいます。なかでも肥後阿闍梨日像・治部公(大教阿闍梨)日輪・大法阿闍梨日善・大円阿闍梨日典(伝)・大前阿闍梨日範・摩訶一房日印・本乗坊日澄・妙音坊日行・越中阿闍梨朗慶の九人が有名です。これを朗門の九鳳・九老僧と称しました。日朗上人に縁がある寺院は、日蓮宗初期の比企谷の妙本寺(文応庚申の春、堂を築)、池上本門寺(文永甲戌冬)、平賀本土寺(建治丁丑)があります。ここから、日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖といわれます。のちに、弟子の日像の系統が四条門流となり、弟子の日印の系統が陣門流や六条門流となります。

4ほろほろ馬:2014/11/14(金) 09:51:12 ID:lopoH3Z.0
富木常忍(日常上人)

富木 常忍(とき つねのぶ/じょうにん、建保4年(1216年) - 永仁7年3月20日(1299年4月21日))は、鎌倉時代の下総国の豪族。日蓮の有力檀越。
下総国守護千葉氏の被官で、下総国八幡荘若宮に住んだ。1253年(建長5年)頃に日蓮の法華宗義に帰依し、以後日蓮門下の重鎮として「観心本尊鈔」をはじめ多くの著作や書状を日蓮から送られた。
日蓮の没後に出家して日常と号し、若宮の邸内にもうけた法華堂を法華寺に改め、師日蓮の遺文の収集につとめた。その後法華寺は本妙寺と合体して中山法華経寺へと発展し、
その門流は中山門流と称される日蓮宗の中でも有力教団に発展した。
なお、法華経寺に遺された日蓮の遺文の中には千葉氏関係の紙背文書が含まれている。これは、当時紙が貴重であったために日蓮が千葉氏の行政官人であった常忍より、
不要となった文書を譲り受けてその裏面に執筆したからであると推定されている。(ウィキペディアより)

富木常忍および中山法華経寺を現在まで維持し続けた方々の御功績は計り知れません。


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