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第二バチカン公会議

7カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:40:19
教会の外に救いなし

 他の宗教にしたがっている人でもある条件の下で救われ得る、ということは明らかなことです。どの条件の下かと言えば、彼らが打ち勝ちがたい誤謬のうちにいる場合です。もし彼らは自分の最善を尽くそうと努力しているなら天主様は助力の聖寵をお与えになるでしょう。もし彼らがこれらの聖寵に忠実でこれらの聖寵と共に働くなら、天主様は彼らに成聖の聖寵をついにはお与えになり、かくして彼らが救われるかも知れません。しかし彼らが救われるとしたら、それは常に個人としてです。たとえ彼らが他の諸宗教の中で救われるとしても、彼らは決して他の諸宗教によって救われるのではないのです。

 誤謬が真理の王国へと我々を導いてくれるのは不可能なのです。天主がこの地上に降臨され、托身され、我々のうちに現れ、一つの教会を創立し、それによって自分自身を継続させ、自分の身代わりである教会を立て田野です。これが彼の教会、彼の花嫁なのです。これらすべてをした天主が、自分の創立したのではない偽りの宗教によって誰かが救われ得るようにした、と言うのは不可能なことです。なぜなら主は自分のことについてこう言われたからです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを戸をらずに誰も父のもとには、行くことができない。」これはご自分の教会についても当てはめることができます。

 これらの偽りの宗教は天主によって創立されたのではなく、むしろ人間によって、そして非常にしばしば悪魔によって息吹を受けたものです。そうですからもしも万一、誰かがほかの宗教の一員としてあるいはほかの宗教に属していながらも救われ得るとしたら、この人は常に必ずカトリック教会によって、我らの主の十字架によって、主の犠牲とその祈りによって、救われるのです。ですからこの人はほかの宗教によって救われるのではなく、ほかの宗教にもかかわらず救われるのです。

 ですから、「キリストの霊(すなわち聖霊のこと)はこれらの教会と教団を『救いの手段として』使う」ということはほとんど異端的なのです。そして私はこの一文は公会議の文書の中で最悪のものの一つだと思っています。これは今日までの教会の教えに全く反しているからです。これは以前に教えられてきたこと、聖書の語ること、教会教父の教え、神学者や以前の公会議、以前の教皇たちがいつも言ってきたことに絶対的に反しているのです。完全に反対なのです。

8カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:42:20
宗教統一の集い

 一度、これらの宗教も何らかの意味がある、救いにとって重要な役割をもつと言うことが確立されると、後はカトリック信者もこれらの他の宗教と共に働くように、彼らとともに協力し、できれば彼らとともに祈るようにと招かれるわけです。これについては公会議が正確に述べています。

   「またそれら教団は…なお許された範囲内で、心を一つにして祈るために集まる。」(4)

 そしてその少し先にはこう言います。

   「ある特別な状況、たとえば「教会一致のために」公の行われる祈りや諸教会合同の会議において、カトリック信者が別れた兄弟とともに祈ることは、許されるばかりでなく、むしろ望ましいことである。このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段であり、カトリック信者と別れた兄弟とを今でも結び合わせているきずなを正しく表現するものである。「私の名によって2・3人が集まっているところに、わたしもいる」(マタイ18・20)。(8)

 これらの祈りについて私たちは何というべきでしょうか。第一に、他の宗教の信者の個人の祈りは、その人たちの内的な心のもちかた次第で、天主様にとって嘉(よみ)されうるものになりうる、と言っておかなければなりません。しかし他の宗教の祈りは、他の宗教として、天主様に決して嘉されることがありえないのです。なぜなら唯一の天と地の仲介者がおられるからです。実に我らの主は“semper vivens ad interpellandum pro nobis”:主イエズス・キリストは常に生きご自分の教会のためその選ばれたもののためにとりなしておられる、と聖パウロは言っています。(ヘブライ7:25)

 ですから他の宗教の祈りは、他の宗教として、実りのないものなのです。他の宗教の祈りは効果がなく、したがって信者がこのような別の宗教の共同の祈りの集会に参加するのは有害なのです。なぜ有害かというと、この祈りは無駄でかつ多くの混乱をもたらすからです。実際にこのことを続けて行くことによって数知れない弊害が出てくるでしょう。そしてそのことは結局すべての宗教を同じレベルにおくことになるのです。

 今日ではカトリックがプロテスタントの会食に参加しプロテスタントがカトリックの御聖体拝領を受けにくると言うのはよく見かけることになってしまいました。諸宗教の集いでカトリックの司祭がパンに対して聖変化の言葉を唱え、プロテスタントの牧師がワインに対して変化の言葉を唱えるというのをよく耳にします。このようなことが今行われるようになってしまったとしたら、その責任は公会議のこれらの文章にあります。

9カトリックの名無しさん:2014/11/12(水) 11:00:20
>はい、カトリック信者なら教会の教えに従うべきだと思います。違いますか?

教会の教えに従っていますよ。
今のカトリック教会も、信者に宣教をしなさい、と呼びかけています。
だから、俺は宣教をしただけです。信者が教会の教えに従うと、いけないのでしょうかね。

『第二バチカン公会議公文書全集』、pp.221-222

教会の使命は、キリストに対する信仰とキリストの恵みによって得られる人々の救いを目指すものである。したがって、教会とその全構成員の使徒職は、まず言葉と行いとを以ってキリストの福音を世に告げ、キリストの恩恵を与えることにある。〜信徒も「真理の協力者となるために」(3ヨハネ8)重大な役割を果たすべきである。特にこの点で信徒の使徒職と司牧の役職とが助け合わねばならない。

信徒には福音の宣教と聖化の使徒職を行う機会が無数にある。〜真の信徒は、言葉を以ってキリストを告げ知らせる機会を捜し求めるものである。それは、あるいは信じない者を信仰へ導き、あるいは信徒を教え固めていっそう熱心な信仰へと駆り立てるもので、「キリストの愛が我々に強く迫っている」(2コリント5・14)。全信徒の心に「もしも私が福音を宣べ伝えないなら、それは私にとって災いなことだ」(1コリント9・16)という使徒パウロの言葉が、響かねばならない。

現代は、種々の新しい問題が起こり、また大きな誤りが広まって、宗教、道徳は勿論、人間社会を根底から覆そうとしている。

10カトリックの名無しさん:2024/05/13(月) 11:22:12


★第二バチカン公会議 →>>1-10

11カトリックの名無しさん:2024/05/22(水) 14:07:00
>>1-10よりつづく
宗教法人 カトリック善き牧者の会 心のともしびホームページより

★第二バチカン公会議公文書-1 第一章:使徒職への信徒の召し出し
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/09/04.html
★第二バチカン公会議公文書-2 第二章:その到達すべき諸目的
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/10/02.html  
★第二バチカン公会議公文書-3 第三章:使徒職の種々の分野について
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/11/06.html
★第二バチカン公会議公文書-4 第四章:使徒職のさまざまなあり方について (使徒職の種々の方法)
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/11/20.html
★第二バチカン公会議公文書-5 第五章:守るべき秩序について
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/12/04.html
★第二バチカン公会議公文書-6 第六章:使徒職への養成について
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/12/18.html
★第二バチカン公会議公文書-7 終わりに
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/12/29.html


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