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第二バチカン公会議

5カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:37:17
第二バチカン公会議

 このような全体的な状況とこの幻想の中で、第二バチカン公会議が生まれたのです。私はこの公会議を、もし全教会史最大のものでなかったとしても、今世紀最大の憂慮すべきものと表現したいと思っています。そしてそのまず最初から公会議は確実に3つの巨大な罪を犯しました。

 第一の罪は、この公会議がカトリックのいかなる真理をも本当に定義づけず、同時に真理に対立している誤謬を排斥しなかったことです。

 この公会議の第二の罪は、公会議があいまいな観念、あいまいでどうにも取れる声明・命題を採用したことです。そのため命題のいくつかは絶対的にそれぞれ矛盾しあっています。後でその例をいくつか出します。

 公会議の第三の大罪は、それが異端に非常に近いいくつかの教義を確立したことです。

 では、今からこの公会議の5つの公文書を取り、私が今しました弾劾が本当であることが、実に公文書自体の内において明らかにしてみたいと思います。

私たちはですから、

エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)

教会憲章(Lumen Gentium)

キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate)

信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)

現代世界憲章(Gaudium et Spes)

を取り上げることにしましょう。

 この講和は皆さんにとって霊的・知的努力を大変要求するものだ、ということは私にもよく分かっているつもりです。この努力なくして異なる発展を理解することができません。しかしこれらの誤謬の根元を皆様に発表することがその為に必要だと考えています。なぜならこの誤謬の根源が、教会を公会議後のすべての乱用と衰退へと導いたからです。そして対には教会の完全なる破壊へと導いているからです。

6カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:39:29
1− エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)

 ではまず、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)に目を通しましょう。カトリック信者にとって、天主とイエズス・キリストとカトリック教会との間には分かち難く結ばれた一致があることは明らかです。実に、天主御父が御子を送り、御子は贖いのみ業のために人性を取り、この人となった天主御子が目に見える教会を創立し、自らはその教会の頭であられるのです。主は一つの教会を創造するのですが、我らの主は絶対で唯一であるため、我らの主は本当に天主、唯一の真の天主であるため、教会もやはりただひとつしかないのです。そしてこの教会の創立者かつ師である我らの主が絶対で唯一であるように、教会も絶対で唯一なのです。聖パウロはエフェゾ人への手紙の中でこう言っています。「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は一つで、すべてのものの父であり」(4:5)と。

 この教会は諸国の中の印なのです。教会は生ける天主の神殿なのであり、屠られた小羊の花嫁なのです。教会は天から地上に立ち降りた新しいエルサレムなのです。教会は本当にエンマヌエル、すなわち、天主我らとともにまします、なのです。そうです、人間性の中に天主の性がましますのです。教会は全く我らの主の神秘体、それゆえにこそ、教会は天主により立てられたもの、我らの主が天主であられ、主の言われることなさることすべてが天主のみ業であり、主の創立なさったものはすべて天主が創立なさったものなのです。

 したがって、教会はその生命、その生活において、その教えにおいて、その礼拝、その統治において、天主によって助けられているのです。ですから教会は、より良い社会世界を築くため、この世における進歩のため、より良い文化等などのためといえど、他宗教と身を交える使命をもらったことはありませんでした。教会の使命は主が昇天される直前に言われた言葉に表されています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、わたしが命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28:19、20)また、「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる。(マルコ16:15、16)

 ところが、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)は、わたしたちに教会に対する全く別の理解をさせてしまっています。この教令は教会の使命とその他の宗教との関係について全く別の見解を示しています。まず、この教令は「それぞれの教会」について語っているのですが、実はその表現自体が大変異端に近いのです。

 もちろん公会議以前にでさえ既に、それぞれの教会、という概念は存在していました。それぞれの教会、と言ったときに何を意味していたかというと、司教様とその聖職者の回りの地方のそれぞれの教会、と言うことを意味していたに過ぎないのです。例えば、パリの教会、ウェストミンスターの教会、ケルンの教会、ローマの教会、東京の教会等など、信者たちに取り囲まれた司教とその聖職者の事だったのです。しかし、カトリック教会以外の諸団体に「それぞれの教会」と複数形で使い、適応したことは一度もありませんでした。

7カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:40:19
教会の外に救いなし

 他の宗教にしたがっている人でもある条件の下で救われ得る、ということは明らかなことです。どの条件の下かと言えば、彼らが打ち勝ちがたい誤謬のうちにいる場合です。もし彼らは自分の最善を尽くそうと努力しているなら天主様は助力の聖寵をお与えになるでしょう。もし彼らがこれらの聖寵に忠実でこれらの聖寵と共に働くなら、天主様は彼らに成聖の聖寵をついにはお与えになり、かくして彼らが救われるかも知れません。しかし彼らが救われるとしたら、それは常に個人としてです。たとえ彼らが他の諸宗教の中で救われるとしても、彼らは決して他の諸宗教によって救われるのではないのです。

 誤謬が真理の王国へと我々を導いてくれるのは不可能なのです。天主がこの地上に降臨され、托身され、我々のうちに現れ、一つの教会を創立し、それによって自分自身を継続させ、自分の身代わりである教会を立て田野です。これが彼の教会、彼の花嫁なのです。これらすべてをした天主が、自分の創立したのではない偽りの宗教によって誰かが救われ得るようにした、と言うのは不可能なことです。なぜなら主は自分のことについてこう言われたからです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを戸をらずに誰も父のもとには、行くことができない。」これはご自分の教会についても当てはめることができます。

 これらの偽りの宗教は天主によって創立されたのではなく、むしろ人間によって、そして非常にしばしば悪魔によって息吹を受けたものです。そうですからもしも万一、誰かがほかの宗教の一員としてあるいはほかの宗教に属していながらも救われ得るとしたら、この人は常に必ずカトリック教会によって、我らの主の十字架によって、主の犠牲とその祈りによって、救われるのです。ですからこの人はほかの宗教によって救われるのではなく、ほかの宗教にもかかわらず救われるのです。

 ですから、「キリストの霊(すなわち聖霊のこと)はこれらの教会と教団を『救いの手段として』使う」ということはほとんど異端的なのです。そして私はこの一文は公会議の文書の中で最悪のものの一つだと思っています。これは今日までの教会の教えに全く反しているからです。これは以前に教えられてきたこと、聖書の語ること、教会教父の教え、神学者や以前の公会議、以前の教皇たちがいつも言ってきたことに絶対的に反しているのです。完全に反対なのです。

8カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:42:20
宗教統一の集い

 一度、これらの宗教も何らかの意味がある、救いにとって重要な役割をもつと言うことが確立されると、後はカトリック信者もこれらの他の宗教と共に働くように、彼らとともに協力し、できれば彼らとともに祈るようにと招かれるわけです。これについては公会議が正確に述べています。

   「またそれら教団は…なお許された範囲内で、心を一つにして祈るために集まる。」(4)

 そしてその少し先にはこう言います。

   「ある特別な状況、たとえば「教会一致のために」公の行われる祈りや諸教会合同の会議において、カトリック信者が別れた兄弟とともに祈ることは、許されるばかりでなく、むしろ望ましいことである。このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段であり、カトリック信者と別れた兄弟とを今でも結び合わせているきずなを正しく表現するものである。「私の名によって2・3人が集まっているところに、わたしもいる」(マタイ18・20)。(8)

 これらの祈りについて私たちは何というべきでしょうか。第一に、他の宗教の信者の個人の祈りは、その人たちの内的な心のもちかた次第で、天主様にとって嘉(よみ)されうるものになりうる、と言っておかなければなりません。しかし他の宗教の祈りは、他の宗教として、天主様に決して嘉されることがありえないのです。なぜなら唯一の天と地の仲介者がおられるからです。実に我らの主は“semper vivens ad interpellandum pro nobis”:主イエズス・キリストは常に生きご自分の教会のためその選ばれたもののためにとりなしておられる、と聖パウロは言っています。(ヘブライ7:25)

 ですから他の宗教の祈りは、他の宗教として、実りのないものなのです。他の宗教の祈りは効果がなく、したがって信者がこのような別の宗教の共同の祈りの集会に参加するのは有害なのです。なぜ有害かというと、この祈りは無駄でかつ多くの混乱をもたらすからです。実際にこのことを続けて行くことによって数知れない弊害が出てくるでしょう。そしてそのことは結局すべての宗教を同じレベルにおくことになるのです。

 今日ではカトリックがプロテスタントの会食に参加しプロテスタントがカトリックの御聖体拝領を受けにくると言うのはよく見かけることになってしまいました。諸宗教の集いでカトリックの司祭がパンに対して聖変化の言葉を唱え、プロテスタントの牧師がワインに対して変化の言葉を唱えるというのをよく耳にします。このようなことが今行われるようになってしまったとしたら、その責任は公会議のこれらの文章にあります。

9カトリックの名無しさん:2014/11/12(水) 11:00:20
>はい、カトリック信者なら教会の教えに従うべきだと思います。違いますか?

教会の教えに従っていますよ。
今のカトリック教会も、信者に宣教をしなさい、と呼びかけています。
だから、俺は宣教をしただけです。信者が教会の教えに従うと、いけないのでしょうかね。

『第二バチカン公会議公文書全集』、pp.221-222

教会の使命は、キリストに対する信仰とキリストの恵みによって得られる人々の救いを目指すものである。したがって、教会とその全構成員の使徒職は、まず言葉と行いとを以ってキリストの福音を世に告げ、キリストの恩恵を与えることにある。〜信徒も「真理の協力者となるために」(3ヨハネ8)重大な役割を果たすべきである。特にこの点で信徒の使徒職と司牧の役職とが助け合わねばならない。

信徒には福音の宣教と聖化の使徒職を行う機会が無数にある。〜真の信徒は、言葉を以ってキリストを告げ知らせる機会を捜し求めるものである。それは、あるいは信じない者を信仰へ導き、あるいは信徒を教え固めていっそう熱心な信仰へと駆り立てるもので、「キリストの愛が我々に強く迫っている」(2コリント5・14)。全信徒の心に「もしも私が福音を宣べ伝えないなら、それは私にとって災いなことだ」(1コリント9・16)という使徒パウロの言葉が、響かねばならない。

現代は、種々の新しい問題が起こり、また大きな誤りが広まって、宗教、道徳は勿論、人間社会を根底から覆そうとしている。

10カトリックの名無しさん:2024/05/13(月) 11:22:12


★第二バチカン公会議 →>>1-10

11カトリックの名無しさん:2024/05/22(水) 14:07:00
>>1-10よりつづく
宗教法人 カトリック善き牧者の会 心のともしびホームページより

★第二バチカン公会議公文書-1 第一章:使徒職への信徒の召し出し
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/09/04.html
★第二バチカン公会議公文書-2 第二章:その到達すべき諸目的
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/10/02.html  
★第二バチカン公会議公文書-3 第三章:使徒職の種々の分野について
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/11/06.html
★第二バチカン公会議公文書-4 第四章:使徒職のさまざまなあり方について (使徒職の種々の方法)
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/11/20.html
★第二バチカン公会議公文書-5 第五章:守るべき秩序について
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/12/04.html
★第二バチカン公会議公文書-6 第六章:使徒職への養成について
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/12/18.html
★第二バチカン公会議公文書-7 終わりに
 https://tomoshibi.or.jp/christian_history/2022/12/29.html


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