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預言

1カトリックの名無しさん:2014/10/15(水) 17:45:37
カトリックに関わる預言について、纏めるスレッドです。

2カトリックの名無しさん:2014/10/15(水) 17:45:47
ロシアの奉献はわれわれの地上的な諸々の関心より以上にわれわれの霊魂に関わりがあるのである。

それはそのように非常に多くの霊魂 --彼らはこの従順の行為を通じて以外には救われないであろう -- のために重要であるので、
神は何年も前に、もし彼らが天の女王のこの重要な要求の遂行を遅らせ続けるならば、
全キリスト教徒は言うに及ばず教皇および司教たちの厳しい懲罰があるであろうということを指摘なさったのである。

まったく憐れみ深い方であり、まったく正しい方であられる神は、
もし一つの非常に良い理由がなかったならば、
そのような大きな懲罰という脅威をつきつけることはなさらなかったであろう。

イエズスは、この荘厳な要求が与えられてちょうど2年後、
そして教皇ピオ十一世がそれを果たすことを拒否したわずか数ヶ月後、1931年8月に、シスター・ルチアにその懲罰を予告された:

「私に仕える者たちに、彼らが私の命令の遂行を遅らせていることにおいてフランス王の例に従っていること、
そして彼らがフランス王にならって不幸に陥るであろうということが彼らに与えられているということを知らせなさい。」

フランス王についての言及は
聖マルガリタ・マリアを通じて、
1689年6月17日に荘厳かつ公的な仕方で彼の国を聖心に奉献するようにと彼に与えられた要求のことを言っている。
王と彼の後継者たちは100年の間拒否した。
それで1789年6月17日に王はフランス革命 によって権力を奪われ、
そして4年後に彼はギロチンによって公的に処刑された。


三上教授のブログより引用

3カトリックの名無しさん:2015/09/01(火) 03:40:35
 聖母はシスター笹川に、第一のお言葉として「耳の不自由は苦しいですか。きっと直りますよ。忍耐してください。・・・人々の罪のために祈ってください。」と語られた。そのお言葉からも、神の摂理がうかがわれるように思われるのである。

 現代のわれわれは、こぞって、何を目標に生きているかといえば、ひたすらこの世の幸福、の一言につきるであろう。

 現世的楽しみに、生きる意義を見出しているごとくである。モットーは、レジャーと快適な生活であり、よく働くのはあとでより多く楽しむため、という考えが、良識のようにまかり通っている。肉体的には快楽追求、精神的には、一切の苦悩、憂慮追放が、至上目的のごとくである。もしそれを可能とする条件が与えられなければ、社会正義とか人権擁護などの旗をかかげて、人を相手どった闘争に熱をあげることも、当然のごとく考えるのである。現代社会のこのような大勢にまきこまれて生きている信徒としてのわたしたちも、宗教生活においてもはや、「神のために生きる」とか、「神の意志のあるところを求めて、償いの苦しみや犠牲を甘受する」などという心は、あまりもたなくなってきたようである。カトリックの信仰に拠って立ち、お恵みに支えられて生きる者、と自負していても、周囲の快楽主義の滔々たる流れにいささかもゆるがされず、何の影響も受けずにすますのは、たやすいことではない。

 多少の苦しみや困難を忍ぶにしても、それがやがて何らかの形でこの世の幸福をもって酬いられなければ、人々は納得できないようである。「苦あれば楽あり」の法則に適わない、とみるごとくである。

 そのような「常識」に反して、精神的不幸や肉体的不幸をひたすら神への奉仕と愛のささげものとして甘受し、聖旨のままに耐え忍ぶ、などということは、まさに宗教の吹き込む愚直なわざとしか思われないらしい。

 そういう立場からキリストの十字架をながめるならば、この贖罪の受難を愚弄した群衆の心理がよくわかる。
「あなたが救世主であるなら、十字架からおりて、自らを救え」
 現代の時流に応じた生活をしているわれわれでも、在る意味でこのように叫んでいるのではないだろうか。現世的欲求に目がくらんで、天の正義の要求は見えなくなり、神の真意をさぐることも忘れてしまっている求められる犠牲は厭い、与えられる病苦は力を尽くして避けている。今の平穏無事な幸福だけを願い、それをいつの間にか生き甲斐のように求めていれば、キリスト教のまことの意義からはおのずと遊離してしまうのである。

安田貞治神父『聖母マリア像の涙』pp.270-271

4カトリックの名無しさん:2015/09/01(火) 03:45:15
安田貞治神父『聖母マリア像の涙』pp.270-271

 聖母はシスター笹川に、第一のお言葉として「耳の不自由は苦しいですか。きっと直りますよ。忍耐してください。・・・人々の罪のために祈ってください。」と語られた。そのお言葉からも、神の摂理がうかがわれるように思われるのである。

 現代のわれわれは、こぞって、何を目標に生きているかといえば、ひたすらこの世の幸福、の一言につきるであろう。

 現世的楽しみに、生きる意義を見出しているごとくである。モットーは、レジャーと快適な生活であり、よく働くのはあとでより多く楽しむため、という考えが、良識のようにまかり通っている。肉体的には快楽追求、精神的には、一切の苦悩、憂慮追放が、至上目的のごとくである。もしそれを可能とする条件が与えられなければ、社会正義とか人権擁護などの旗をかかげて、人を相手どった闘争に熱をあげることも、当然のごとく考えるのである。現代社会のこのような大勢にまきこまれて生きている信徒としてのわたしたちも、宗教生活においてもはや、「神のために生きる」とか、「神の意志のあるところを求めて、償いの苦しみや犠牲を甘受する」などという心は、あまりもたなくなってきたようである。カトリックの信仰に拠って立ち、お恵みに支えられて生きる者、と自負していても、周囲の快楽主義の滔々たる流れにいささかもゆるがされず、何の影響も受けずにすますのは、たやすいことではない。

 多少の苦しみや困難を忍ぶにしても、それがやがて何らかの形でこの世の幸福をもって酬いられなければ、人々は納得できないようである。「苦あれば楽あり」の法則に適わない、とみるごとくである。

 そのような「常識」に反して、精神的不幸や肉体的不幸をひたすら神への奉仕と愛のささげものとして甘受し、聖旨のままに耐え忍ぶ、などということは、まさに宗教の吹き込む愚直なわざとしか思われないらしい。

 そういう立場からキリストの十字架をながめるならば、この贖罪の受難を愚弄した群衆の心理がよくわかる。
「あなたが救世主であるなら、十字架からおりて、自らを救え」
 現代の時流に応じた生活をしているわれわれでも、在る意味でこのように叫んでいるのではないだろうか。現世的欲求に目がくらんで、天の正義の要求は見えなくなり、神の真意をさぐることも忘れてしまっている。求められる犠牲は厭い、与えられる病苦は力を尽くして避けている。今の平穏無事な幸福だけを願い、それをいつの間にか生き甲斐のように求めていれば、キリスト教のまことの意義からはおのずと遊離してしまうのである。

5カトリックの名無しさん:2025/07/17(木) 06:51:47
>ぶたみてーな顔

6カトリックの名無しさん:2025/07/17(木) 06:52:17
>ぶたみてーな顔


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