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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★10
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前スレ
連投規制で書けなくなった人あつまれー ★9
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12252/1414916254/
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>>835
確かあれだったな、うろ覚えでいうと、シャマランの「サイン」はカタルシスに力点を置く見方ならば駄作だが……というような感じだったか。
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>>865
そのアリストテレスの定義が「浄化」なわけだが、その浄化をフィクションの中にあるものとして考えておるだろう
そこが間違い
演劇はフィクションでありながらそこにある事実でもあるが、小説の場合はそうはいかんだろう
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小笠原vs藤田が開戦か
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なんかわたしが誘導したようでどうしようなんて思っちゃうのは自意識過剰か
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/ ̄ ̄ ヽ,
喧嘩をやめゅてぇ〜♪ / 丶 / ',
ノ//, {゚} /¨`ヽ {゚} ,ミヽ
ふたりをとゅめてぇ〜♪ / く l ヽ._.イl , ゝ \
.ni 7 / /⌒ リ ヘ_/ノ ' ⌒\ \
l^l | | l ,/) (  ̄ ̄⌒ ⌒ ̄ _)
', U ! レ' / / ̄ ̄ ヽ, ` ̄ ̄`ヽ /´ ̄
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ヽっ{゚} /¨`ヽ {゚}, l^l.| | /)ノ |
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/ ィ-r--ノ ヘ_/ノ ', ノ / ∠_
,/ ヽ rニ | f\ ノ  ̄`丶.
丿' ヽ、 `ヽ l | ヽ__ノー─-- 、_ )
. !/ ヽ、 | | | / /
/ !jl |ノ ,' /
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>>869
演劇と小説ではまた作法が異なるということか。
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作法というか、実存を考えてないのがあれなんだよ
フェミニズムがいいところまで生きながら「性関係は存在しない」「女は存在しない」というラカン精神分析まで行きつけないゆえんなのであるが
サトアキのこの思考回路、カタルシスをフィクションの中だけに捉えているのが、同じ罠にハマっているわけだ
カタルシスとは妄想から覚めることであるが
ここでの妄想とはわれわれが思っている日常的な現実も含む妄想である
ゆえにそれから覚めることとは世界の破滅にもなるわけだが
妄想からさめた日常的な現実とは別の現実とは一体何か
これを仮にでも実存やら涅槃やらと定義しないと、空はいつまでたっても無自覚な、無意識なままとなる
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煩悩から逃れられない
カタルシスをフィクションの中だけで捉えている限り、浄化はされない
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サトアキの文章自体はカタルシス批判ではないが、
カタルシスを妄想から覚めて実存にいたることだとすると、カタルシスをフィクション=妄想の中だけとして捉えているのは、
わたしの言う意味でのカタルシス批判になる
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カタルシスの意味が劣化されるんだよな
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まあそんなことより小笠原vs藤田がどうなるのかワクテカである
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>>876
カタルシス批判というといい方がまずかったか、創作作品にカタルシスを求める読者(視聴者)を批判したと言えば近いだろうか。
「サイン」と言う映画はそういう種類の視聴者にとってみれば……。と。
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ttp://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-0b0c.html
佐藤亜紀と同じではないが、かなり影響を受けていると思われる仁木ちゃんのカタルシスに関する意見を張ろう。
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なんかカタルシスが受け取り手の情動的な起伏、メリハリみたいなもんとしてしか話されてないからすんごくどうでもいい
わたしの言うカタルシスは、それこそエメが自我理想としての女優を襲って、その女優が自分の人生をぱくっていたという妄想から覚めることだ。
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>>872
ジュウシマツ住職はやめれww
ツボに入るww
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まぐなのいう「拡散」とかがカタルシスだよ
わたしの言う意味での
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ある意味まさに住職である
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仏教として考えても、ダウンタウンの元ネタは、ギャグだけに収まらない示唆がある
歴代住職という偶像に並んでジュウシマツの顔があること
これはひとつの「師に逢うては師を殺し」である
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「サイン」に一般的な意味でのカタルシス(昇華みたいな意味)を感じた私としてはブツブツ……。
そのバットだー!
お母ちゃーん!! このことだったのねー!!
萩尾さんの話は、銀の三角とかバルバラ異界とかが解体してるなー。
それまでの世界が。
そのあとの世界もまああるわけだけど。
と独り言。
息子が装束で父親役ではなく父を襲う世界に変わったんだな。(バルバラ)
と考えている。
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>>885
うふふふふふふ
(あれ自動的にヤバイ。)
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>>874
>カタルシスとは妄想から覚めることである
これはちょっと意外ですな。↑で張った文章とかだと、現実世界での暴力=加害者だけの一方的暴力=現実の苦しみにはカタルシスは稀であると結論付けている。
つまり仁木的な見方だとカタルシスを得ること=ストレス解消=妄想に閉じこもること=合意の上での暴力、見せ物としての暴力=現実の暴力から目を背けること、という風に考えていると思われる。
俺が読んだ限りだと佐藤の見解とこれは近い。
だがミニハンからすると、カタルシスは妄想から覚めることという訳だ。この辺りはどうなるんだろうな。仁木の場合だとこれもフィクションとしてのカタルシスとして捉えてる感じか。
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>>888
そうじゃね
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演劇論ならたとえば黒テントとかがテント公演でラストに舞台の後ろのテントの部分開けて現実の風景を示したりするが、ああいうのがカタルシス
テントの中にある演劇空間という妄想が、テントが開け放たれることによって、現実(まあこれも妄想なんだが)によって破滅すること
コクーン歌舞伎でも「夏祭浪花鑑」で舞台奥の搬入口を開いたりしてたな
コクーンの搬入口ちっちゃいからあんまりカタルシスでもなかったけど
まあ勘九郎が大人になってもちびっこギャングだからできたことである
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なにか食べなくてはならねば。
>>886
自己レスだが、まあ妄想(お母ちゃんのいた幸せな日々)が壊れた世界から、お母ちゃんは正しかった世界への回復のお話かもしれないけどね。なんか灰色のやつが出てくる点でカオスではあるけど。
B級SFとかホラーとかって現実という妄想より、頭の中が現実化しちゃうほうの、妄想の恐怖に近い気はする。
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>>886
ネットでストラテジー感想検索してみると、ほんとにそう書いていたのか自身がなくなってきた。評者がちゃんと読めてないっぽいのが多いが。
だが少なくとも「サイン」が普通にカタルシスを求める読者の求めるものとは違うものを描いているという風には書いてたはずだ。
もう一回見直してみないとな。
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カタルシスを得ることとはストレスなんて次元ではなくトラウマそのものを受け入れることだよ
トラウマによって妄想の固着が生じるわけだが、それが妄想だと気付いてそれに覚めることによってトラウマそのものを受け入れることになる
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>>892
あ、まあごはん食べたらサトアキさんのを読んでみる。読まずなんちゃらやってるからな私よく。
(『サイン』が好きなのでどう捉えられているものか気になる点で読んでみる)
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まあ小説論のカタルシスはドラマツルギーの中に収まった卑小な概念とわたしは理解したのでいんじゃね
演劇論のカタルシスは精神分析概念のカタルシスとも通じるものだ
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>>883
ほおおおおお、そんなものなのか。もっと狭義のものという風に考えていた。
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妄想の固着から解放されるという意味では、な
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>>893
トラウマそのものを受け入れるってどんな感じのことなのかなー。
あと確かに小説の講座では(作法本なんかも)昇華のことをカタルシスと呼ぶことが多いので、演劇世界での舞台への投影が底を抜かれる感じとは根本的に違いそうだな。
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>>890
なるほど、という事はサトアキのよくいう「膜の一枚下にあるグロテスクな現実をチラリと覗かせる」ようなものこそ本来の意味でのカタルシスに近い訳か。
サトアキ自身はそれをカタルシスとは別な者のように捉えている節があるが。
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飯を食う。
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>>899
そだな
演劇論と精神分析論のカタルシスはそういうもの
小説はどうあがいても文字上の仮象にすぎないからそう考えちゃうんじゃね
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>>898
仏教で言えば一切皆苦かなあ
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解放っていうのがストレスからの解放だとか快感原則に基づいちゃうからそうなってるんじゃね
この仁木とかは不快からの解放としてしかカタルシスを考えてない
そもそもの快感原則から解放されるのがカタルシスである
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妄想が現実によって破壊浄化されることがカタルシスを考えたら、
どうあがいても現実と距離があってしまう文字だけの芸術である小説自体がカタルシスから縁遠いものだとなろう
それがいやだからカタルシスを妄想フィクションの中にだけ収めて考えてるんじゃね
それだと演劇論と精神分析のカタルシスとは異なる概念になるってだけ
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逆に言えば文字だけの芸術で「妄想の外部にある現実」を表現しようとするのがいいのであって
演劇が黒テントがしたようなテント開け放ちとか寺山の該当演劇とかは単純で幼稚な手法だとも言える
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街頭演劇な
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サトアキの言うカタルシスじゃ渡邊守章の言うカタルシスを理解できまい
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ちなみにルイ14世の宮殿で行われた大宴会においてはほとんどの演劇バレエは野外で行われた
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>>901
なるほどなあ。
映画はどうなんだ。演劇と小説の中間点にありそうな感じがするが。
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映画は妄想を壊す現実がスクリーンだったり光だったりするからなー
まあ余談的に言うと、寺山などは映画で客席にその俳優がいきなり出てきたりとかそういう映画を計画していたらしい、とだけ
実際にしたんだっけかな
あれだ、三上博史が主役の奴で
草迷宮か
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>>903
かなり狭義な解釈ではあるなあ。仁木の解釈するカタルシスはちゃっちい。
実際はカタルシスってそれほどの広い意味を持っていたとは初めて知ったもんだ。
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そういった意味ではドリフのオチで家が半壊するのなんかは「妄想の破壊」というセンでカタルシスなわけだよ
さらにドリフのいいところは実際にスタッフが死亡事故を起こしていることだ
まあだからこそ今のテレビであんな危なっかしい舞台装置作らなくなったんだろうけど
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>>904
サトアキの現実を見せたい、という主張と、小説は小説なのかで中だけで読めという主張ってよく考えれば矛盾するよな。
前者をタクティクス(戦術)と後者をストラテジー(戦略)と言う言葉で表現していたが。
前者はよりリアルタイムな物(つまり現実を描きたいということ)で、後者はポンペイの例を引き、そのリアルタイムな物が死に絶えた後に残る形で、それはなぞることが可能であるという主張だが。
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まあ小説などはすべて死後の世界を書くものではあるかもしれない
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すべてのシニフィアンは事後的なものって奴だ
でりだー
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ドリフとか大道具やってりゃわかるがあの客前でタッパが三間ぐらいある建屋をぶっ壊すのとかすんげーこええことなんだよ
そりゃ死亡事故も起こるわ、と
こんな感じで見るようになったらドリフがそこでやっている演劇はポンペイ市民がリアルタイムで死んでいった事態を見ていることになろう
バレエなんてのもそうだ
客が見えない舞台の奈落でダンサーからレイプ的なことされた女性スタッフがいると思ってみれば、
レイプ現場を見ていることになる
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少なくともあれだ、小説論の「フィクションの中における昇華」としてのカタルシスという概念は、精神分析のカタルシスという概念とは全く異なる意味になる
それなら、たとえば黒テントが物語のラストでテントを開け放ったりすることを示す演劇論のカタルシスの方が、精神分析のカタルシスという概念と通じる
たとえばエメが自我理想という妄想としての女優を襲って妄想がやんだのは、黒テントがテントを開けて自分たちが作った演劇空間という妄想を破壊することと同じようなことであろう
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まあ別にいいんじゃよ、小説論独自のカタルシスって意味で
わたしはそんなカタルシスなんてすんごくどうでもいいってだけで
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>>914
確かに生まれる前から死んでいるものが小説なのかも知れんな。
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受け取り手の情動の起伏だけなら、水商売女が客に対してやってることと同じであるわけだよ
そこに店が終わって昼までやってるスナックでメイク直しなんてしないで飲んでるホステスたちという現実を考えれば、
キャバにもカタルシスはある
化粧したキャバ嬢という妄想が壊される現実があるとすれば
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>>917
ああなるほど、俺自身も小説は小説の中で完結しているべきである論者だったから、ミニハンのよく書く、現実とフィクションを交差させるやり方に居心地の悪いものを感じていたが、
小説はある面では文字によって現実とは明確な隔離があるからではあったんだな。演劇とかやっていればそうもいかないのは納得出来た。
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つか演劇でも現実と空想が混同するものを好んでました
りぶれせん(変換めんどくせ)とかな
車谷長吉も小説は虚実混交しているものだとしている
だから私小説になっちゃうわけだけどな
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ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E5%9B%A3%E9%9B%A2%E9%A2%A8%E9%9C%8A%E8%88%B9
りぶれせん
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>ラストに大きな舞台崩しを行うのが特徴で
そうそう
ゴジラの本多劇場とか劇場と喧々諤々したらしいwww
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>ラストに大きな舞台崩しを行うのが特徴で
こういうのが演劇論のカタルシスなわけっすよ
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>>922
高橋克実が前所属してたのか。
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そそあのハゲの人
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>>922
なんかさあ、歴史と文学をやってると歴史好きは歴史は小説じゃないからそこから隔離せよという、
小説好きは小説は小説だから思想その他からは隔離せよという。
思想好きは歴史と小説を絡めるのも好き、思想と小説を絡めるのも好きだ。
それで歴史好きと小説好き、双方向から揚げ足を取られるという事がある。
「知の欺瞞」事件は理系からの壮大な揚げ足取りだったのかねえ。
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受け取り手の情動の起伏なんてどうでもいいんだよな
精神分析が好意も嫌悪も転移だとするのと同じで、その人の妄想の中のこと
わたしはなんども言うが、演劇は、舞台上にあるものではなく、観客一人ひとりの頭の中にある妄想としてある
だからこそ、その頭の中の妄想を壊すことが舞台崩しなどとして成立する
どうでもいいというより瑣末な問題なんだよ
精神分析において好意も嫌悪も転移であるのと同様に
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>>928
歴史と小説は同じものだと思ってるけどなあわたしは
事後的なシニフィアンだろ両方とも
一般的な歴史学はほぼ文献学なわけだし
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>>928
理系としてはソーカルの気持ちわかるわwww
あれだよ、理系とか客観性が大事なわけだが、理系学問の基礎学として考えられた現象学を学ぶと、客観の方が間接体験であり主観的なものだとなる
こういった思考の展開ができてない理系はわたしもそうだったので気持ちもわかる
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転回な
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科学哲学をしっかりやってる人ならソーカルの批判とかは「客観性という誤謬」によるものだとわかる
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演劇は何か後から録画とかで見ると、ちょっと気恥ずかしいのを覚えたりする。
りぶれせん動画でちょっと見たが、やはりリアルで見るのとはまったく違うのだろうな。
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>>931
客観性が主観的なのか、どういうことだろう。
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まあわたしは地方で育ってシティボーイズのラジカル・ガジベリビンバ・システムとかケラの劇団健康とかのビデオ見てはまったタイプなのだが
ああいうところは映像化も意識して作られてたような気もする
たとえばキャラメルボックスなどもいち早く公演の映像化をビジネスに組み込んでいたが、キャラメルは違和感あったもんな
なんだろう、ミュージックビデオとかでさー、ライブ映像を映したりすんじゃん
そんな延長で見てたのだね
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>>935
それこそなんだ人工言語の人が恋人を刺したとかって話で
客観的には「よくある話」だが、その恋人にしてみれば「よくある話」じゃないわけだ
このとき、客観的に「よくある話」と考えるのが間接体験
そうだろ、自分が刺したのでも刺されたわけでもない
この場合、刺した人や刺された人が、その傷害事件について語るのが、直接体験的なわけだ
こう考えると「よくある話」なんて考え方は直接それを体験したのではない人間の主観だとなろう
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ゆえに客観とは主観だとなる
客観とはつねに間接体験なんだよ
間接的にしか体験してないことだから、妄想なわけだろ
妄想なら主観になるよな
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ただし、こういったカタルシスを、「下品だ」とするのは間違いではない
下品でないことが妄想にすぎないのだから、カタルシスはなべて下品となる
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よって、カタルシスを下品だとするルソーは正しい
妄想が現実によって破壊されることは下品なことである
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品、品格というような観念が、一つの妄想なのであるよ
なので妄想を破壊するのがカタルシスと定義するのであれば、カタルシスは品格を破壊する
よって下品だとなる
きゅーいーでぃ
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そもそもさ
>合意の上での暴力、見せ物としての暴力
とか、小説とか読み手が読んでる時間とか主導できるわけだろ
演劇は見ている物語時間を受け取り手が操作できるわけではない
演劇の観客の方がつねに「現実の暴力」にさらされてるんだよ
またそれこそストロボ照明とか、映像でピカチュー事件で映像の点滅がてんかん発作を起こすなんて言われて自粛しているが
イベント演劇のでのストロボ演出はまったく規制されてない
観客にてんかん発作を起こさせる暴力的な演出について舞台芸術は規制されていないわけだ
さて、小説を読む受け取り手、映像を見る受け取り手、演劇を見る受け取り手、どれが一番「合意のない暴力」にさらされてるとなるかね
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ちなみにわたしが伊藤キムさんの公演が好きだったのはストロボを多用していたからでもある
またいわゆるクラブのような大音響で公演をする
実際伊藤さんは普通の劇場より渋谷オンエアイーストなどいわゆるライブ小屋で打つ事が多かった
これなんかもともとてんかん持ちであるわたしなんかかすれば、ものすごい暴力なわけだよ
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クラブイベントなどもやったことがあるが、ゼップとかでかい会場になるとアホみたいにでかいスピーカー持ってきやがるんだよ
でそんな仕事やってるスタッフに聴覚障害が生じたりしてるのな
そんな暴力のない世界で「現実としての暴力」を語るのが片腹いたいわ
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小説論は、そういった「合意のない暴力」にさらされてない芸術であるからこそ、カタルシスという「現実という暴力」でもある概念を誤読しているんじゃないかなあ
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ストロボとかほんと今じゃ小劇場でも常備してたりするしな
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ttps://www.youtube.com/watch?v=rG1ODYrFzCA
なつい
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ストロボ光った 出会ったあの夜 照れちゃうくらい
下品だから照れちゃうんだよ
ストロボ演出なんかもお手軽なカタルシス演出だが、それは下品だから、照れるのである
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ちなみに広瀬香美はデビューの時テレビに出て「声楽やってた人なんですよー」とか紹介されて歌ったら緊張してたのかボロボロだったのを覚えてる
黒歴史たのしー
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黒歴史なんかもカタルシスなんだよ
妄想が現実という暴力によって壊されること
黒くない歴史が、快感原則現実原則によって構築された妄想なだけ
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こういう舞台演劇と映像演劇の違いによるボロボロさって結構あるのだよな
西村雅彦さんとか「振り返れば奴がいる」とか今見たら「うわなに下手くそ」とか思うだろうよ
野田秀樹も実はゴーストバスターズの吹き替えで主役やったが今じゃどっこもその版放送してねえだろ
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黒歴史マスターと呼んでくれ
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精神分析において、クライエントは分析家を便器として夢に出てくることが多い
そういった意味で、分析家とは便器である
カタルシスとは排泄も意味する
わたしの考える演劇の本領とはカタルシスである
よって、劇場とは巨大な便器である
それらは下品なものなのである
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なんか11回くらい夢から醒める夢を見たんだがまだ夢の中で本当には起きられなくて困っていた。
腐りかけた窓を閉めてまわるとか、人ん家を自分家だと思ってたら知らない人がたくさん帰ってくるとか、いつもの足ひっぱる人とか悪夢のオムニバスだったお。
また時間を浪費した。
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カタルシスは妄想を破滅させる現実であるが、カタルシスの妄想化というのは確かにある
というかある見方をすればドラマツルギーなるものはすべてカタルシスの妄想化である
精神分析の言うオイディプスもカタルシスの妄想化である
ビルドゥングス・ロマンもカタルシスの妄想化である
その仁木とやらが批判しているカタルシスとはこういったカタルシスの妄想化であったりしよう
こういう風に捉えると、カタルシスから妄想が逃れられない様態も見えてくる
カタルシスを排除した妄想などありえない、となる
それがPTSDやヒステリーと呼ばれる症状だ
それがトラウマの回帰だったりする
健常な精神とはそれとは逆に、カタルシスが感じられる妄想をできなくなった人たちなわけだ
だからカタルシスが重要になる
自分たちが忘れてしまった解放を求める
しかしその解放は、PTSDやヒステリーやアスペと呼ばれる人たちからすれば、日常の地獄だったりする
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ジェットコースターみたいなもんだな。
ずっと乗ってはいらんない。
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すべての人にトラウマはあるとフロイトはした
それが原抑圧や原光景と呼ばれるものだ
しかし、健常な精神は、それを心の奥深くにしまいこんで、それを忘れてしまっている
それは、差し歯を入れた時、最初は違和感を感じるが、やがて違和感を感じなくなることと同じようなことだ
PTSDやヒステリーは、それが差し歯である違和感を忘れてしまえない人たちなわけだ
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トイレに行きたいのにトイレに行くたびに目が覚めてまだ夢の中で困ったわー。
カーテンも足元の光景も本物なのでまた薄目あいて寝てたのかな。
食べ物をしいれてこなきゃ。
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なので
>>782
これなんかがトラウマの回帰だったりするんだよ
こんな臨床的な読み方出来る人はラカン学者でもめったにいないが
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頭煮え煮え
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トラウマの回帰の兆候、か
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>>955
うーん、物語が書けない(物理的には書けるが書いたものを信じられない→やる気がなくなる)わけがわかるな。
それでいいのかどうか、そうでなくなれるのかはわからないが。
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たぶんな、カタルシスって昇華と翻訳されてるんだが、消化と無意識的に混同してると思うんだな、日本人は
というか小説界隈の人たちは
カタルシスとは語源的には排泄だ
消化とは異なる
排泄物である糞便や尿は自分の体の中に異物感があるものだろ
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>>959
事件のあとの(あー、前か)最初の身体症状の兆候が、なんか食道の左のほうが痛い(違和感、異物感ある)だったな。
食欲なくなるのも、飲み込む時の違和感が嫌になってくる時だな。
しかし何か食べないと多分明日の朝起きる体力が足りない。
卵ひとパック無駄にしたわーまだひと月だから固茹ですれば行けるかも。
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私さんの症状を知っていて、>>782で身構えられる人は良い臨床家
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そしてわたしは良い臨床家のマジックをネタばらしするマスクマジシャンあるいはナポレオンズである
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>>963
うん、うんこ出ないと具合悪いもん。
あと昇華も形が変わるんだよなー。戻らないと思う。なんだけど昇華さえ消化になってるな。
昇華って化学用語だっけ?
クーパー捜査官がノベライズで尿意我慢して快感感じてるのを思い出したがそれは私が読んだのかひとに言われたのか忘れた。
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