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2019/10/13(日)「差異と反復」第1章を読む

1横山信幸:2019/08/12(月) 21:45:06
○2019年10月13日(日)69回例会
テーマ:ドゥルーズ「差異と反復」第1章を読む
発表者:横山
ドゥルーズ「差異と反復」のとりあえず第1章だけについて、その読解に挑戦します。「差異」とは何かについて、アリストテレス・スコトゥス・スピノザ・ニーチェ・ライプニッツ・ヘーゲルの哲学との関連からその意図を探ってみたいと思います。
場所:浪速区民センター第4会議室

よろしくお願いします

2ウラサキ:2019/08/17(土) 08:40:46
横山さん、
大阪市立図書館には『差異と反復』の訳本が、
古いハードカバー版しか所蔵されていないようですが、
訳者は文庫版と同じ財津理さんですので、訳文に改訂はないでしょうか?

3横山信幸:2019/08/17(土) 10:09:03
ウラサキさん、
文庫本の最終ページに「本書は1992年、河出書房新社より単行本として刊行されました。」と書かれてあるだけです。
改訂に関することをふくめてそれ以上の説明書きが無いみたいですので、
おそらく文庫も単行本もその訳に大きな違いはないと思います

4横山信幸:2019/09/16(月) 15:34:39
「差異と反復」を読みます。
ですが、その読書基盤として古代から2世紀までの哲学の素養が必要なうえに、
その記述文章も読みにくく、さらに、その哲学自体が独特なものであるので、
僕の読解が、かなりの確率で的外れになると思います。
なので、プラトン、アリストテレス、スコトゥス、スピノザ、ニーチェ、ライプニッツ、ヘーゲル、ハイデガー、その他の哲学などを教えてもらいながら、その読みを検討し、できれば修正したいなあ。と思っています。

僕の読解の内容は
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/240.html
に挙げてます。そこから、本筋のところだけピックアップして発表したいと思っています。

5横山信幸:2019/09/16(月) 15:36:16
ミス訂正

2世紀 → 20世紀

6横山信幸:2019/09/27(金) 23:53:08
レジュメpdfを挙げておきます

ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/files/e3808ce5b7aee795b0e381a8e58f8de5bea9e3808de7acac1e7aba0e38292e8aaade38280e383ace382b8e383a5e383a1.pdf

7横山信幸:2019/10/07(月) 18:20:49
当日、台風が心配です

8横山信幸:2019/10/13(日) 17:48:07
参加の7名の皆さん、大感謝です。ありがとうございました。

訳のわからない話を僕だけが一人喋り続けるという地獄になるだろうと、かなりびびってました。でも、僕の理解不足、説明力不足を皆さんの色々な質問意見茶々で補ってくださったお陰で、いろいろな議論にもなり、想像してた地獄は少し回避できました。
かなり訳のわからない説明が続いたと思いますが、皆さんがそれに挫けないで読み解こうとしてくださり、質問し、意見をしてくださったことに『愛』を感じました。
ホントにありがたかったです。

『微分』について一番ぐちゃぐちゃになるだろうと思ってたのですが、これも助けてもらったお陰で、ちゃんとした議論になったかもしれません。嬉しかったです。

僕が面白がっているドゥルーズの『同一性によらない世界把握』の面白さを、十分に共感してもらうにはまだまだな、分かりにくく、そもそも理解不十分な発表のしかならなかったので、ちょっと反省し残念にも思ってるのですが、
でも、あの『差異と反復』をドゥルーズ素人同士ばかりでまがりなりにも議論にまで持っていけたという点では、大満足のところもあります。

ただ、この続きを発表するには、かなりの準備が必要だとも思い知りました。5年後くらいを目処にしなくちゃ無理かなぁと、今は感じています。

ありがとうございました

9横山信幸:2019/10/13(日) 19:02:13
あと「不可弁別者同一律」について、僕が山内さんの解釈を違うと言って
ややこしい話にしてしまいましたが、
よく考えると、
「同一でない2者には原理的内的に必ず違いが発見できる」というのは、
我々の言語は、同一でないものについて必ずその違いを語り得るものとして設定されるということ
だとも考えられるので、そんなに違うことを言ってるのではなかったのかもしれません。
すみません。ぼくの不理解のために無駄に話をややこしくしてしまったかもしれません。
でも、実際にそこにはややこしい問題がありそうにも思うので、じっくり考えてみたいと思います。

10横山信幸:2019/10/14(月) 21:53:36
ライプニッツの『モナド』について、

「差異と反復」文庫p139でドゥルーズは「完璧な基礎概念(モナド)」としてて、同じページの「個体の諸本質」という記述に訳者の財津は〔モナド〕と注を入れてるんです。それと例会で紹介したように、筒井康隆「モナドの領域」がモナドを「プログラム」としてたのを見て、「モナド」ってのは、スピノザのいう神みたいなものなんだって、思い込んでしたいました。
でも、ドゥルーズはそのようなものとしてモナドを捉えてたんだと思います

11やまうち:2019/11/14(木) 20:44:40
「差異と反復」第1章で、異他性という言葉が出てきて気になっていました。
岩波文庫田辺元哲学選1「種の論理と世界図式」p.223の注解(p.472)に
プラトンのソピステスからの引用として出てました。
「われわれが〈非有〉のことを語るとき、どうやらわれわれは〈有〉とは
反対のもののことを言っているのではなく、単にそれとは異なるもののことを
言っているだけのように思われる」
〈有〉=赤とんぼ、異他=青とんぼ、〈非有〉=赤とんぼでないもの
こんな感じでしょうか。

12横山信幸:2019/11/14(木) 23:06:11
やまうちさん、

「アリストテレスが差異を異別性あるいは異他性から区別したそのやり方だけでも、すでに私たちの手引きになる」(差異と反復文庫上p97)

これですね。
僕も、この異他性がどういう意味なのか全然分からないのですけど、
たしかに「青とんぼ」みたいなことなのかもしれません。
けれど、僕は、なんとなく、また別の解釈も夢想しています。

それは、その文のあとで

「種的差異は、したがって、すべての特異性と、差異のすべての転回にとっての、ひとつの普遍的概念(すなわちひとつの《イデア》)を表象することはけっしてなく、かえって、差異が概念一般と和解しているだけのひとつの特殊な契機を示しているにすぎない」(同)

という記述があるのですが、
これを見ると、ここで話題にされてるのは、やはり、特異性・個物性の普遍化に関するものであるように見えます。そうすると、その「異他性」というのは、「概念一般と和解しないような特異性」つまり「他者の個物性」みたいなものなのではないかという気がしています。
ただ、まったくなんの根拠もない読み方で全く自信がないです。実際のところどうなのでしょうかねぇ。

13横山信幸:2019/11/14(木) 23:10:27
あるいは、「特異性・個物性に関する話での他者性」みたいな感じかなぁ、
と思ってます

14横山信幸:2019/11/15(金) 11:29:34
その僕の妄想をもう少し説明させてもらいます。
ドゥルーズはこの本で、如何にして、経験としての差異を特異点であるような個物としたまま解釈可能なものにするのかということを、一貫して問うているように思います。

しかし、アリストテレスのやり方は、同一性に基づいて世界を解釈するものであり、世界が分析されるには先ず同一な者と非同一な者に弁別されたうえで概念化一般化されなければならないとするものなので、
アリストテレスにおける「特異点としての差異」は、(a)「概念一般と和解可能であるがそれゆえその特異性を失ってしまって、概念一般と和解しておるだけの特殊な契機としての内容」と(b)「特異性を持ち得るがそれゆえ概念一般と和解できない内容」との振り分けにおいて、必然的に、(b)だとされてしまう。
そこで(a)と(b)を振り分けてるのが「異他性」なのではないかと、僕は疑っています。つまり「個物の特異性を共有できないような他者性」なのじゃないかと。
そしてもっと言うと、それは「他者の私秘性」なのでないかとさえ考えたりもしてます。
というのは、そのような、同一性に基づいたタイプの世界モデルでは、他者における個物の特異性は常に「異他性」の向こう側にあるので、私の経験がそこに到達することがないと思われるからです。
またそのとき、アリストテレスの世界モデルにおいては、その異他性の向こう側において、私から到達不可能な「異他」の対象が「ある」とすることができるようになる、ように思われます。

なので、そこでは、「絶対に到達不可能な個物としてのクオリア」が存在可能となり、「絶対に他者から到達不可能な私の私的言語」が存在可能となるように思われます。
ところが、それゆえそのような「異他」な対象が存在可能であるがために、逆に、私の個物も、他者の個物も、「語り得ない」ものとしてしかあり得ない、ということになってしまうように思えてなりません。

しかし、それでは、ドゥルーズが求めているものは、何処まででも求められないものであることになる。だから、アリストテレスの同一性に基づく世界モデルは棄てて、そうではないような「反復」を考えなければならない、という話になっているように思われています。

かなり、激しく空想にぶっ飛んだ読みになってると思います。
でも、それほど、ずれてもいないのじゃないかって気もしています。

どう思われますか

15横山信幸:2019/11/15(金) 13:10:20
それで、そこから、ドゥルーズの問いにおいて、「ソピステス」の〈有〉〈非有〉の話を考えると、そのような、存在そのものについての問いでは、(同一性に基づく実在論的二値論のような)〈「Aである」����「notAである」〉の否定の関係でなく、それとはまた異なるような対立関係が求められるように思われます。
(僕は、それが、〈「Aだと言える」����not「Aだと言える」〉みたいな直観数学の非二値論理的な話に関係するんじゃないかと疑っています。)
田辺の本を読んでないので、それとの関係は全くわかりませんが、もしかすると、その辺りのことと関係しないでしょうか

16横山信幸:2019/11/15(金) 13:16:26
それで、そこから、ドゥルーズの問いにおいて、「ソピステス」の〈有〉〈非有〉の話を考えると、そのような、存在そのものについての問いでは、(同一性に基づく実在論的二値論のような)〈「Aである」←→「notAである」〉の否定の関係でなく、それとはまた異なるような対立関係が求められるように思われます。
(僕は、それが、〈「Aだと言える」←→not「Aだと言える」〉みたいな直観数学の非二値論理的な話に関係するんじゃないかと疑っています。)
田辺の本を読んでないので、それとの関係は全くわかりませんが、もしかすると、その辺りのことと関係しないでしょうか

17やまうち:2019/11/15(金) 22:33:27
横山さんの話と、順番は逆になりますが、
1.反復は、同一性とちがって、交換可能ではない。そこに生の意味がある。
2.同一性を使えないのだから、アリストテレス的な論理は展開できない。
3.そこで、差異を中心に論理を展開したい。
ということなのではないかと思います。
しかし、本質と偶有性のようなツールが使えないとすると、個物はともかく、
種などのカテゴリーをどうするのか、わからなくなる。
ここで他者を持ち出すと、客観性さえ否定されるような気がする。
ひょっとすると、差異を中心に持ってきたとき、カテゴリーのような普遍は、
動的なもの=運動になってしまうということかもしれません。

18やまうち:2019/11/15(金) 22:34:11
横山さんの話と、順番は逆になりますが、
1.反復は、同一性とちがって、交換可能ではない。そこに生の意味がある。
2.同一性を使えないのだから、アリストテレス的な論理は展開できない。
3.そこで、差異を中心に論理を展開したい。
ということなのではないかと思います。
しかし、本質と偶有性のようなツールが使えないとすると、個物はともかく、
種などのカテゴリーをどうするのか、わからなくなる。
ここで他者を持ち出すと、客観性さえ否定されるような気がする。
ひょっとすると、差異を中心に持ってきたとき、カテゴリーのような普遍は、
動的なもの=運動になってしまうということかもしれません。

19やまうち:2019/11/15(金) 22:43:11
田辺元の「種の論理」では、
個の否定が種となり、種の否定(個の否定の否定)が類となるとしています。
なので、イメージ的には
異他性=カテゴリー内の他(私とあなた)、否定=ちがうカテゴリー(私と日本人)
となる気がします。

20やまうち:2019/11/15(金) 22:53:54
あと、ライプニッツのモナドの話ですが、
1.ライプニッツは心身平行論をとった。
2.だから、原子であるモナドも表象/対象の平行状態である。
3.各モナドは表象としては異なるが、対象としては同じ。
というのはどうでしょうか。
池田晶子の口伝西洋哲学史を読んでたらそんな気がしました。

21横山信幸:2019/11/15(金) 23:19:36
やまうちさん、

反復は交換不可能・・・なるほど、です

22横山信幸:2019/11/16(土) 13:43:58
あと、モナドの話の、表象として異なるが対象として同じっていうの面白そうですね。
はっきりとその意味するところが分からなところがありますが、
いろいろと考えるためのヒントがありそうな気がします


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