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実在論の宗教性

1 横山 :2018/10/08(月) 09:57:16
2018/10/7例会で、実在論の基底は最後には無根拠の思い込みでしかなく、それは一般的な宗教と地続きのものでしかないという問いについてお聞きしました。これを「実在論の宗教性」という言い方で問いましたが、「宗教性」という言い方をすると問題がずれるなどするので不適切だと指摘を受けました。
でもやっぱりそこにこだわってしまうのですが、そこに新たな問いを提案したいと思います。

僕が問いたいのは、「世界の存在者を科学的に扱おうとする時には必ず仮説的な定義や公理を基礎とせざるを得ない」という認識の不安定性の問題(時間の記述は斉一性の仮定の上にしかできないという問題)に似ているのですが、微妙に違います。
その科学的な記述とは独立にそれに先だって「本当」の世界があると考えるような素朴な実在論は、世界記述を支える定義や公理に先立つような無根拠な前提や思い込みがあるはずで、それは一般的な宗教との共通点が多くあるのではないか、という問いです。

一般的な宗教との類似を問うものですので、やっぱりそれは「宗教性」として問うのが誤解が少ない言い方ではないかと思えるのです。

どうでしょうか。それって単に「無根拠性」でしかないものをややこしく考えてるだけなのでしょうか。どう思われますか。

67 横山 :2019/01/12(土) 11:22:40
(付け加え)

単に世界の実在をどこかにある何かに委ねるのも、この私が今生きているという現実こそが世界の源泉だとしてそれに委ねるというのも、どっちも大して変わらないのじゃないか、とか。

それなら、後者の方が得じゃないのか、とか。

そういうような実在論の問いかたもあり、それをするのに、言語論的な実在論の問いかたもあるのじゃないか、とか。

そして、その言語論的な実在論の問いかたの方が実は根源的な問いじゃないか、とか。

そういう感じです。

68 ムラタ :2019/01/12(土) 17:22:21
どなたか、>>66の横山さんの説明がわかる方はいますか?
10回以上読みましたが、何ひとつ理解できませんでした。
横山さんも説明に苦しんでおられるようなので、わかる方がいるなら助けてほしいです。

69 久保共生 :2019/01/12(土) 17:26:31
>>62
横山さん

>「行為についての言明において、発言者がその行為を行為として判別し得ないのであれば、その言明は行為について語ることはあり得ない」という点にかんする話だということで良いですか。

すいません、よく分からないです。或る言明が何らかの行為についての言明となるための条件みたいな話をされているのですか?
おそらくここでの議論の焦点は、「身体活動はそれが語られない限り行為ではないのか?」という点ではないでしょうか?
つまり、非言語的行為というのを認めるか否かという議論ではないのですか。

70 ムラタ :2019/01/12(土) 18:09:07
横山さんは僕が日本語や英語やスワヒリ語などだけが言語だとみなしていると思っていませんか?僕はそれ以外にも言語でありうることは当然理解しています。

たとえば、ある学校のクラス内で「背中をかく」という行為を「あなた」という意味だとクラスのみんなで決めることは可能でしょう。それから、「足を組む」という行為を格助詞の「が」という意味だとみんなで決めることも可能でしょう。最後に、「咳をする」という行為を「好き」という意味だとみんなで決めることも可能でしょう。手話なんかはこれに近いことをやってますね。これらの行為を僕は言語と受け入れることができます。

しかし、学校から家に帰って、ただ単に背中がかゆいから掻いただけなら、それは言語とはいえないでしょう。それは単なる生活行為です。言語であるためにはそれが現実の代理物であることが必要ですが、単に背中がかゆいから掻いただけなら、それは現実の何かを代理しているわけではなく、単なる現実的な行為にすぎません。それは言語ではなく、非言語的な現実的行為です。

71 横山 :2019/01/12(土) 18:54:25
ムラタさん、
そうですか。やはり、伝わりませんか。
僕の「言語観」はかなり偏ってるのでしょうね。
しかし、それでもその偏った言語観だからこそ考えられる思索がある、と思われます。
ただ自分でどこがずれてるのかよく分かってません。自分ではかなり真っ当な言語観をもってるつもりでいるので「ここが違います」と言えないで困っています。
それでも、少しずつでも説明させてもらいたいと思います。
ややこしい話に付き合わさせてしまって申し訳ないですがよろしくお願いします。

まず、僕が問題にしている「言語の問題」は、「いかに言語の原初の発動が可能になるのか」という問いと同レベルの言語の源泉的な問題です。
で、「『背中を掻く』という行為が『あなた』を意味する」という言語的な規則を某かの既存の言語規則に頼らずに言語規則として立ち上げ共有するにはどうしたらよいか、という点を問題にしたいと考えます。
そして、そのような言語の原初の立ち上がりを問うのは、「論考」の要素命題を立ち上げるにはどうするかという問いと同じものになると思ったので、「論考」の話をしたのだと思います(自分でもはっきりしてないところも多いので、申し訳ないのですが)。

そこで、世界にはまだ言語がなく何かの記述をする道具がまだ用意されてないという場を考えます。
犬と主人が暮らしているがそれを語る言葉がなかったとしましょう。そこで毎日毎日主人が帰ってくるたびに犬がしっぽを振り、帰って来てないときには降ってなかったとすると、「犬のしっぽ振り」は「主人が帰って来た」という世界の内容に対する一つの言語的像とすることができるかもしれません。ただし、そのような生活の上での繰返しのなかからそれを規則として立ち上げることは可能でしょうけれども、まだ言語成立以前という話でしたから、その定義をするのに他の言葉を利用するわけにはいきません。そこでそのような、確定した約束のないままに「それが某かの規約であることにしてしまう」という「なし崩し的な規則のでっち上げ」の行程が必要になってきます。

そして、そのように考えるとすべての言語はそのような「でっち上げ的な規則」の積み重ねでしかない、と考えることができます。

とりあえず、ここまでのところで今回はいったん説明を終わります。
どうでしょうか。まだ、ダメでしょうか。

72 横山 :2019/01/12(土) 19:03:52
>>69
久保さん、

「非言語的行為」を認めるかという問い方には、僕は、

①「言語化されない行動をなすことはあり得るか」という問いと、
②「ある行動について言語化しないままにそれを行動として認識することができるか」という問い、
の2つを感じてしまうのですが、それは僕ははっきり分けた方が良いだろうと思う、
と言いたかったのです。

そして、僕の問いは、それで言うと②の問いに近いものになるの思います。

73 ムラタ :2019/01/12(土) 19:58:42
>>72
横山さん

ちょっと待ってください。
また問題がズレてきてませんか?

>>48で僕が「明日も太陽が昇る」ことを皆は言語化せず非言語的に鵜呑みにして生活していると述べました。それに対し、横山さんは>>49で、非言語的に思い込んで生活するということは横山さんがが使っておられるかなり広い意味の「言語」では不可能になるとおっしゃいました。物事を認識する分析システムすべてが言語だと言って。
つまり、僕が言った「明日も太陽が昇る」ということを皆が言語化せず何となくぼんやりと鵜呑みにして生活しているのは「非言語的」行為なのでなく横山さんにいわせると「言語」に回収されてしまうということで、それはヘンじゃないかという話だったと思うのですが。

74 横山 :2019/01/12(土) 20:32:40
>>73
ムラタさん、

おっしゃるとおりかもしれません。僕が二つの意味の「言語」を混同して混乱させたかもしれません。




久保さん、
スミマセン。僕が混乱して返答したかもしれません。
ぼくの意図は>71のムラタさんへの返答から読み取ってもらって良いでしょうか。

75 横山 :2019/01/12(土) 20:54:01
>>61
久保さん、

いろいろうまく整理できず混乱したまま回答してしまい、ごめんどうに巻き込んでしまいました。スミマセン。
幾つかの混乱をキャンセルしてもう一度、
「自分が行動したことについて、自分で何をしたのか分からないという場面をどう考えるか」
に回答し直します。

自分の無意識的行動を分析するのに、

①「その行動を為した時点での自分」の言語的な認識がどうだったか、を考える、という視点と、
②「その行動について発言する時点での自分」の言語的な認識がどうなってるか、という視点とを、

分けて考えるとパラドックスにはならないのではないか。

ということが言いたかったのです。
これで、すこしは混乱が整理されてたら良いのですが。

76 横山 :2019/01/13(日) 11:37:19
僕の考えを説明することへのチャレンジを続けてみます。

実在と言語化の問題について。

主体と何一つ関与をしない物質というものの存在を考えてみる。実在するニュートリノというものも我々との相互作用は非常に小さいので地球でさえ貫通してしまうらしいけど、それでも微少の相互作用があるのでそれを検出しその存在を問うことには意味がある。しかし、その相互作用が何もないような存在というものはそれを検出することは原理的にあり得ない。だから、それが「本当はある」などと言ったところでそんな「本当」なんぞ、何の意味も持ち得ないのではないか。
そう考えると、あらゆる実在というものは主体との関係性の下でのみ有意味なものになり得るのではないか。

さらにそのような考察の下では、主体との関係性以外には如何なるものも前提されないことになり、あらゆるものはその関係性の後で構成可能なものとして存在することになる。同一律、矛盾律、排中律のような論理則や時間空間のような感性の対象でさえ、その関係性の後のものとすべきではないか。

さて、では、その主体とは如何なるものとすべきなのか。しかし、今の考察においては主体なるものの内実さえも某かの実在者として前提することはできない。
ならば、今こうしてここに問うている問い自体を出発とするのが、最も誠実なやり方なのではないか。それは「世界の存在とは何か」という問いを発したのきの、その言葉そのものをその問いのスタート地点だとすることである。
(ただしこれは、そうしなければならないという話ではなく、そうすることができるという話である。それでも、かなり誠実なやり方の一つであることは疑えないのではないか。)

そして、実在をそのように問うとするならば、実在は言語によって語られたものとしてのみ有意味なものであることになる。
言語によって分析されてない実在なんてものは、分析されてないのだから「無い」でさえない。何者でもないようなナンセンスでしかないはず。我々と一切の相互作用を持たないニュートリノが、かり「実在する」と定義されたとしても、そんなものは「ある」とも「無い」とも有意味に言うことができないような何者でもないナンセンスでしかないように。


という感じで、僕には、実在を問うにしてもそれは言語との問題から離れて問うことに意味を見出だすことができないと、そういう感じです。

77 横山 :2019/01/13(日) 13:45:41
>>76 で、「有意味な実在は言語の下でとらえられるべきこと」について、
>>71 で、「すべての言語が、慣習や感覚の癖などに基づいた分析でなければならないと同時に、やはりでっち上げ的な規則の積み上げたものでしかないこと」について、

というところについて、僕の考えをとりあえず説明させてもらいました。

最後にその二つから、「実在の宗教性」への懐疑をどう考えたかについて、説明してみます。

二つの考察を合わせると、
世界の実在を求めるには、「我々が世界に対して、どう行動しどう感覚するか、そしてそれをどう捉えたいとするか」を基盤にして分析することが、どうしても必要である、と結論されるように思われます。

しかし、一方で、
あらゆる規則は、どうやっても確定され得ない、はずである。それは、記述されたあらゆる物理法則は実在からずれてしまう可能性を排除することができない、という点で不確定であるだけでなく、
言語規則自体がずれてしまうかの失せを排除することができない、という不確定性もあり、その二つの点で、必然的に不確定なものでしかない。

ならば、分析が規則によるものでなければならないとすると、
「あらゆる実在を考察する際に、我々は、現前(厳然?)する世界に対して、存在論的な意味でも、言語論的な意味でも、不確定なチャレンジを図ることだけが、最大の実在である」ということを認めるべきようになると思われる。

その不確定なチャレンジに対して、
例えば、「一切を神の意思」という基盤をでっち上げるのか、
「過去と未来と現在が実在する」とする基盤をでっち上げるのか、
「過去と現在だけが実在だ」とする規則がでっち上げるのか、
「人間の知らない最終的な確定的物理法則がある」とする基盤をでっち上げるのか、
どのでっち上げについても、ここまで懐疑した上での対立なのであれば、それぞれが楽しいでっち上げに対して「自分の基盤」を論拠にして批判することしかできず、それゆえ、誰も有効な批判をすることができないのではないか。

その意味で、あらゆる実在は「でっち上げ」でしかなく、それは一般的に言われる宗教と五十歩百歩であろう、と。

そういう懐疑です。

できるだけ根源的な懐疑を果たそうとした結果、完全なニヒリズムの極のまで至った考察であるとも言えるとおもいますが、
我々が今生きていることを言語の根拠とし、実在の根拠とするとして、「生の哲学」をでっち上げるのであれば、それはそれで十分に意義深い実在世界を立ち上げることができるだろう、と感じています。

78 横山 :2019/01/13(日) 13:47:55
言語規則自体がずれてしまうかの失せ



言語規則自体がずれてしまう可能性

79 横山 :2019/01/13(日) 13:50:29
それぞれが楽しいでっち上げに対して



それぞれが他のでっち上げに対して


スミマセン。間違いいっぱいです。

80 ムラタ :2019/01/13(日) 14:18:23
横山さん
>>77

ほとんど理解できないのですが、結局の所、横山さんにとって、真に完全な意味で、あらゆることがでっちあげだということになるのでしょうか? でっちあげじゃないものなんて何もないということになるんでしょうか?

81 横山 :2019/01/13(日) 14:44:58
>>80
その通りだと思います

82 ムラタ :2019/01/13(日) 14:49:06
>>81
横山さん

では、いじわるなことを言います。
横山さんが今「すべてはでっちあげだ」とした論証もでっちあげだということになります。

83 横山 :2019/01/13(日) 14:53:58
>>82
とても面白い。嘘つきパラドクスみたいですね。「でっち上げ」でもパラドクスになるのでしょうか。

でもやっぱり、でっち上げでなければならないと思います。

84 横山 :2019/01/13(日) 15:08:46
僕の「すべての世界記述はでっち上げ」論は、ウィトゲンシュタインの『規則のパラドクス」を受け入れるなら、どうしても出てきてしまう反実在論的な懐疑の一つだと思います。
だから、「反実在論」は「実在論」をでっち上げだと批判する。
でも、その『規則のパラドクス」自体がでっち上げだとすることももちろん可能であるので、
そうすると「実在論」は「反実在論」こそがでっち上げだと批判するすることもできる。

だから、互いに互いをふんづけあってるとも言えるが、その構図自体は、やはり「反実在論」的なニヒリズムの状況の範疇だと見ることもできる。

そんな感じですかね。

85 横山 :2019/01/13(日) 15:33:53
だいぶん頑張って欠いたのですが、理解不能な文でしかないのですかねぇ。
力不足が不甲斐なくて残念でなりませんが仕方ないです。いったん諦めます。

86 横山 :2019/01/13(日) 15:34:48
欠いた



書いた

87 横山 :2019/01/13(日) 17:52:53
もう誰かに向けたメッセージではなく、独り言として呟かしてもらいます。

一神教的な神の存在は、無神論者からするとかなり馬鹿げた思い込みによる見えると思う。
けど、「目に見え聞こえるもの考えられるものすべてが神であって、それはもうそうなっていることから、これ以上論証のしようがないほど確実に明らかだ」という信仰者の言い分と、
「眼前にある湯呑みは、見えるし触れるし、実際にあるのだから、これ以上論証のしようがないほど確実に明らかだ」という実在論者の言い分は、
どっちが優勢とも言えないように思える。

というのが、結論としての感覚。

88 横山 :2019/01/13(日) 18:30:33
そのどっちが優勢かを考えるには、私が生きていく上でどっちが得かという自分勝手な指針で測るのが、最も有意味で有効なやり方に思える。
その意味で、生の哲学は大いに有用だと。

89 ウラサキ :2019/01/13(日) 19:43:38
あと、多数決ってのも大きな要素かと。

今の日本で有神論は明らかに少数派でしょうが、実在論は圧倒的多数派かと。
それゆえ、有神論は「宗教」、実在論は「常識」というレッテルが貼られているのだと思います。

90 ムラタ :2019/01/13(日) 19:44:45
>>87
その例って、前者が「考えられたことの明証性」で後者が「知覚の明証性」だと思うのですが。
存在性格が異なるのに同一レベルの明証性としていいものなんでしょうか?

91 久保共生 :2019/01/13(日) 20:25:58
じゃあせっかくなので僕も少しコメントを。

僕としては、メイヤスーみたいに世界の実在性を人間の生から切り離してそれ自体で扱うような考え方には、実はあまり興味が持てません。
相関主義を批判して、世界それ自体の実在を主張したところで、別にそれが間違っているとは思わないですが、正直「それがどうした」としか思わないです。
世界が実在することを証明しようとするような問題の立て方よりも、人間の生においてなぜ世界の実在性が要請されざるを得ないのか、というような問いの方に僕は魅力を感じます。
世界が実在するというのは暗黙の前提なのであって、おそらくこの前提なくしてはそもそも普通の生活を送ることすらままならないでしょう。
その意味で、世界の実在性は「でっち上げ」だと言ってもよいのですが、僕としては、それなくしては生きてゆくことができない類の前提だと主張したいです。

ちなみに、僕は前々から他者の心の問題を考えているんですが、この問題についても、問いの立て方は同じです。
すなわち、他者の心の存在を証明するような問題の立て方は不毛であり、人間の生においてなぜ他者の心の存在が要請されざるを得ないかを問うべきだと考えています。

92 久保共生 :2019/01/13(日) 20:29:16
わりと横山さんの考え方に近いかもしれません。
ただ言語の捉え方に関しては異論がありますが。

93 横山 :2019/01/13(日) 21:18:28
>>91
去年の僕のメイヤスー紹介はあまり上手くできなかったので、生の哲学から遠い人に見えたかもしれません。
しかし、僕は、メイヤスーの哲学が「相関主義を徹底していくことでその奥に相関主義を乗り越えた実在論があり得るものとできる」と考察したものだと理解しています。そのような生の哲学の一つとして読むことが可能なものだと思います。

94 横山 :2019/01/13(日) 21:20:34
>>90
まあ、僕に言わせてしまうと、何でもかんでも「でっち上げだ」ってことにしてしまうので。

95 久保共生 :2019/01/13(日) 21:22:46
>>93
そうなんですか。
それなら面白いかもしれません。

96 横山 :2019/01/13(日) 21:27:11
>>89
なぜ多数決なのでしょうか。

それは、他者の存在を私と同等のものと前提してるからではないでしょうか。

では、なぜ他者を私と同等のものとするとするのでしょうか。

それは、やはり、実在論的な立場に立つゆえ、か。
または、宗教的な立場に立つゆえ、か。
あるいは、僕の言うように、生の哲学の立場から考えるゆえ、か。
みたいに、さらに、振り分けられ得るものになりそうな気がします。

如何でしょうか。

97 横山 :2019/01/13(日) 21:28:20
>>95
ええ、ですから、久保さんには結構オススメの書だと思います。

98 ムラタ :2019/01/13(日) 21:36:33
>>94
なるほど。それならそのことに関して、もう僕は何も言えません。

ちなみに、僕は「すべてはでっちあげだ」という文は>>82でやったように自己言及のパラドックスという点でも問題があるし、またもうひとつ困難な問題を抱えていると考えているのですが、もう散々揚げ足とりして横山さんを困らせてしまったし、僕自身結構疲れたので、もうやめておくことにします。

これまでの議論で横山さんにはご迷惑をかけたかもしれません。どうぞご許しを。また機会があれば同好会に参加させて頂きたいと考えているので、そのときはよろしくおねがいします。

99 横山 :2019/01/13(日) 21:43:07
>>98
いえいえ、迷惑だなんてとんでもない。
ムラタさんからの指摘は、とても興味深く鋭く、自分自身でも問題を考えていくのに、たいへんありがたかったです。
まだ、十分に整理できていなくて、きちんとした表現ができるまでにはなってませんが、お陰で、これでも僕自身としてはかなり問題の整理が進みました。
ありがとうございました。
また、ぜひ同好会にもお越し下さい。今後ともよろしくお願いします。

100 横山 :2019/01/13(日) 21:48:41
最後のまとめ的な感じになると思うのですが、

世界とは、どんな風に理解しようとしても結局は「でっち上げ」でしかないようなものだ。なので、
人生がどんな人生も冒険でしかあり得ないのとまったく同じ意味で、
どんな世界も冒険の舞台としての世界でしかあり得ない。

というのが、現時点での僕の結論です。

101 ウラサキ :2019/01/14(月) 03:13:31
>>96
語の意味は、個人が決めるのではなく、共同体の合意(convention)
で決まるからです。

102 横山 :2019/01/14(月) 05:39:45
>>101
他者がなければ意味はあり得ないということですか

103 横山 :2019/01/14(月) 07:19:23
>>96
なぜ共同体との合意で決まるとされるのでしょうか。

それは、他者の存在を私と同等のものと前提してるからではないでしょうか。

では、なぜ他者を私と同等のものとするとするのでしょうか。

それは、やはり、実在論的な立場に立つゆえ、か。
または、宗教的な立場に立つゆえ、か。
あるいは、僕の言うように、生の哲学の立場から考えるゆえ、か。
みたいに、さらに、振り分けられ得るものになりそうな気がします。

如何でしょうか。

104 横山 :2019/01/14(月) 07:20:20
>>101
なぜ共同体との合意で決まるとされるのでしょうか。

それは、他者の存在を私と同等のものと前提してるからではないでしょうか。

では、なぜ他者を私と同等のものとするとするのでしょうか。

それは、やはり、実在論的な立場に立つゆえ、か。
または、宗教的な立場に立つゆえ、か。
あるいは、僕の言うように、生の哲学の立場から考えるゆえ、か。
みたいに、さらに、振り分けられ得るものになりそうな気がします。

如何でしょうか。

105 ウラサキ :2019/01/14(月) 08:06:13
>>102
言語の定義上、他者を必要とします。

ケンイチさんの言うとおり「私的言語は詩的言語」であり、
独自の意味付けで語を使用するのは、
一種の詩作ではないでしょうか。

「宗教」という語には日本語話者間において暗に合意されている用法があり、
「無根拠な前提」というのはその一部にしか過ぎないと思われます。

106 横山 :2019/01/14(月) 08:35:08
>>105
なるほど、
納得はできませんが。僕の考える私的言語批判とはだいぶん違いますが。ウラサキさんの考えはわかりました。

あと一つ、ウラサキさんが考えておられる「言語」の定義とは何か、教えてください。

107 横山 :2019/01/14(月) 08:37:20
>>105
「宗教」じゃなくって、例えば「宗教的」だったら良いですか。
それなら今後そうしますが。

108 横山 :2019/01/14(月) 08:47:38
「実在論の宗教的な思い込みによるでっち上げ性」

109 ウラサキ :2019/01/14(月) 09:39:46
>>106
「文法を持つコミュニケーションの手段」といったところでしょうか。

>>107
その言い方も宗教者を自認している方々には失礼に当たるのではないでしょうか。
単に「無根拠な思い込み」だけで十分だと思いますよ。

110 横山 :2019/01/14(月) 09:53:29
>>109
回答ありがとうございます。
わかりました。
そういう定義をするなら、ここでやってる僕の思索とは交わるところは無さそうですね。

111 横山 :2019/01/14(月) 10:28:42
あと、どうしても気になるので一つだけ。

ウィトの「私的言語批判」というのは、「それを使用する共同体を持たない言語は成立しない』ではなく、「原理的に他者に伝えようがないような言語的内容は自分でさえ理解することが不可能なので、言語として成立しない』だと僕は理解してます。

112 ウラサキ :2019/01/14(月) 11:44:52
>>111

ウィトの私的言語批判はよく分かりませんが、
私の言語観は「言語は社交の業である」というクワインのそれに基づいています。

113 横山 :2019/01/14(月) 11:50:15
>>112
回答ありがとうございます。
しかし、その言語観においても、僕がここで世界記述のシステムとしてとらえているのとはずいぶんと異なっていて、交わるところは少なそうですね。

114 横山 :2019/01/14(月) 12:17:35
僕がここで考えたいと思っている問題は、「世界の在り方について分析するシステムの言語を、その成立の起源の限界を考えることで、世界の在り方の限界について考察したい」ということです。
ですので、その言語観は、通常に既に成立しているものをもって定義されるような「言語観」とは異なっていて当然です。
そして、それゆえに、通常からずれているからということが、その誤りを指摘されることになるという風には思いにくいです。

115 名無しさん :2019/09/08(日) 04:24:04
地球に迷い込んで出られんようになっとるのが人間の魂なんや

116 夫正彦 :2019/09/14(土) 09:47:01
>115の名無しさん

もう少し、詳しくご主張を書き込んでいただければ幸いです。


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