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実在論の宗教性

1横山:2018/10/08(月) 09:57:16
2018/10/7例会で、実在論の基底は最後には無根拠の思い込みでしかなく、それは一般的な宗教と地続きのものでしかないという問いについてお聞きしました。これを「実在論の宗教性」という言い方で問いましたが、「宗教性」という言い方をすると問題がずれるなどするので不適切だと指摘を受けました。
でもやっぱりそこにこだわってしまうのですが、そこに新たな問いを提案したいと思います。

僕が問いたいのは、「世界の存在者を科学的に扱おうとする時には必ず仮説的な定義や公理を基礎とせざるを得ない」という認識の不安定性の問題(時間の記述は斉一性の仮定の上にしかできないという問題)に似ているのですが、微妙に違います。
その科学的な記述とは独立にそれに先だって「本当」の世界があると考えるような素朴な実在論は、世界記述を支える定義や公理に先立つような無根拠な前提や思い込みがあるはずで、それは一般的な宗教との共通点が多くあるのではないか、という問いです。

一般的な宗教との類似を問うものですので、やっぱりそれは「宗教性」として問うのが誤解が少ない言い方ではないかと思えるのです。

どうでしょうか。それって単に「無根拠性」でしかないものをややこしく考えてるだけなのでしょうか。どう思われますか。

11横山:2018/10/08(月) 21:18:45
それから、
過去未来の実在性についてをどう考えるかという問題の他に、現在の実在性をどう考えるかという問題もあると思います。
そして、現在についての問題に含まれるかもしれませんが、あなたや第三者や神にとっての表象と実在の関係の問題もあるかもしれません。

また、そういう色々な思索課題をきちんと分類分析することも、ここで考えるべきかなり重要な課題にも思えています。

もちろん過去と未来の対称性を考えることも、過去と未来のそれぞれの実在をどう考えるかについての重要な視点になると思います。

さて、その上で、僕も、過去と未来にはある程度の非対称はあると思いますが、ムラタさんが言われるほどのものとは捉えにくく思っています。
と言うのは、3分前の記憶はやはり記憶でしかなく、その記憶がいくらありありとしたものであろうと現に見えて触れられている対象とは違いがあるからです。また、それは、現在の眼前にある存在者の実在を問うよりも、さらに別の問い方ができるはずのものだと思えるからです。

なので、「現在と過去は言語化の必要ない」と一括りにする訳にはいかないように思えます。

さらに、その言語化が必要なのは未来や過去だけでないように思います。
現在眼前の表象に対してでも、その表象を元手にして実在を問うためには言語化の必要があるように思えるのです。

だから、実在をていねいに問おうとするなら、未来や過去や現在それぞれにおいての実在と、他者との関連においての実在と、神視点との関連においての実在を考えるべきなのかもしれないと思えています。そして、それぞれそのすべてに某かの宗教性が必須なのではないかという気がしています、

12横山:2018/10/08(月) 21:24:26
よく分からない。どう考えれば良いのか。それはホントに宗教性と呼ぶべき問題なのか。全然分からない。でもていねいに考えたい、という感じです。

13ムラタ:2018/10/08(月) 22:09:16
どうも僕には強い相関主義者の人たちは志向性を持つものだけを考えて、志向性を持たないものを切り捨ててしまっているという感じがするんです。
例を挙げれば、「想起」と「身体的記憶」というものの違いについてです。身体的記憶というのは、例えば自転車に乗ったりとか、コンサートで聴いた曲を口ずさむとかのことです。3分前に食べたカップ麺もそうですね。
想起は過去への志向性を持っていますが、身体的記憶はそれを持っていない。想起は過去に「ついて」という志向性を持ちますが、身体的記憶は過去そのものに触発された身体反応であって、過去に起因するのですが、過去を志向はしていない。
この非言語的な身体的記憶がなければ分節化された言語的な想起は成立しないはずです。
身体的記憶の有無という点で、やはり「3分前に食べたカップ麺」と「3分後に食べたカップ麺」には決定的な差が僕にはあるように思われます。

14横山:2018/10/08(月) 22:12:56
僕の問いは現時点で次のようにまとめられるかもしれません。

「現在・過去・未来における世界が無限の詳細をもつ対象として、そして、仮説ではなく事実としての対象として、また、私とあらゆる他者が共有できるような対象として、存在する、とするには、如何なる前提が必要か。それは宗教と共通点があるか」

15ムラタ:2018/10/08(月) 22:40:52
>>14
一応、その横山さんの問いに対する僕の答えを述べておきます。
整合性のチェックをどれだけ行ったとしても、横山さんが仰るようなそのような対象には到達不可能だと思います。そのような対象が存在するとしたら、それは形而上学であり宗教と共通だと思います。しかし、だからといって即自的存在がありえないという結論は導かれません。

どうでしょうか?

16横山:2018/10/08(月) 23:36:43
ありがとうございます、ぼくもその通りだと思います。
しかし、例えば、僕の問いの「あらゆる他者」とは何を指すものとして考えるべきか、それは神を含めるのか、だとしたら、そこに求められる宗教性の内容とはどんなものなのか、などなど。さらに深く考えられれば良いなと思っています。

これまで僕はあまり実在論に興味がなかったのですが、メイヤスーを契機に俄然興味がわきまして・・・。
実は、よく考えてみると、僕は心が実在しないとか物的対象と独立な精神的存在なんてものがあるわけないと考えていて、完全に唯物論者です。また、反実在論者であるがゆえに完全に心身の両立するとする立場としての実在論者です。そのような反実在論的なものではありますが、自分が実在論者だったのいうことを再認識しました。
それで今、実在論の宗教性というのは物凄くおもしろくあまりに謎だらけでとてつもなく広い荒野に見えています。
そこに、ていねいに食らいついてみると何か見つけられるかもしれないと考えている訳です。

17横山:2018/10/08(月) 23:44:53
つまり、実在論の宗教性の問いは、実在論批判のためのものではなく、実在論を結構真剣に肯定的前向きに捉えようとして問うているものなのです。

18ムラタ:2018/10/09(火) 01:04:18
どんな反実在論者も実は生活レベルではほとんど全員が実在論者ではないでしょうか。
生活レベルにおいては、唯一無二の実在というものがあることを信じている。
言語で理屈をこねはじめると反実在論になるんですよね。

19ムラタ:2018/10/09(火) 09:46:26
物自体を言語的に分節化された世界において見出そうとしてもそれは不可能だと思うんです。
そこには決定不全性がどうしても伴う。
だから、物自体を言語的に分節化された後の概念だと見なすならば、それは確かに不可能で、そんなものがあるとするならばそれは形而上学で宗教的な命題と変わりないと思われます。
横山さんもこのように考えておられるのではないでしょうか。
しかし、物自体を非言語的なものだと見るならば、いや、そう見るしか無いと思うのですが、それは別に否定されるものではないのではというのが僕の意見です。

20横山:2018/10/09(火) 15:04:26
はい、ムラタさんが言われるように、言語と世界との関係が、この問題の根幹になるように思います。

物自体についてもそうですし、直示的定義について、あるいはある記述をどう真偽付けるかについて、を実在と関係付けて問おうとするには、(クワインのホーリズム的な関係だけに注目するのではなく、)実在世界な、ある意味で形而上学的で超越的な対象との関係を考えざるを得ないことになる。

繰り返しになりますが、このときに、形而上学的で超越的だということを否定的には捉えないで、肯定的に捉えることが、我々が生きる世界を意味あるものにする条件になるのではないか。

実は人々が素朴に日常的に実在論を受け入れている背後には、そのようなある種の宗教的な条件を受け入れてしまっているという事実が隠れているのではないか。

分析哲学の多くは形而上学を排除して言語と世界との関係を模索しようとしてきたが、もしかすると、それが言葉の上だけでスベってしまってざらざらした実在世界の大地に届かなかったのは、その宗教性を排除してしまって実在世界と無関係な言語世界だけで闘っていたからなのではないか。
(いや、とは言っても、この最後はあまりにも突っ走りすぎ、言いすぎだろうとおもいますが。)

まあ、でもそんな感じで、「直示的定義」や「記述の真偽付け」についても、それが実在論と絡むための条件みたいなものを考えたいなぁと思っています。

21横山:2018/10/09(火) 15:08:52
もしかすると、言語外を言語分析しようとしてる、無茶苦茶で無理矛盾を通そうとしているだけなのかもしれませんが。

それでも、それを考えてみること自体は無駄ではないのじゃないかと。

22ムラタ:2018/10/12(金) 13:44:35

無根拠ということが話題になっていますが、物自体が無根拠であるということについて、ちょっと思うことをコメントさせてください。まさに物自体は無根拠であると思うのですが、その内実についてです。
物自体と現象の関係は物自体が原因で現象が結果というような因果関係ではありえず、物自体とは原因として特定されないものではないでしょうか。

例えば、車を運転しているとき急ブレーキをかけ、身体が前のめりになったとします。
その場合、身体が前のめりになったという結果の原因は急ブレーキをかけたことだと説明できます。
このように述べることは物事を因果のカテゴリーにおいて把握することですね。
それに対し、物自体と現象の関係は、物自体が原因で現象が結果という関係ではないと思うんです。
もしそれが因果のカテゴリーで語られたとき、それはすでに物自体ではなく語られたものになっている。
だから、物自体は原因として特定されてないものであるしかない。
物自体は、語られない自然としてしかありえず、そうでなくなったならそれは物自体としての存在身分を失ってしまう。
物自体はもはや原因をとして特定されないものでしょう。
だからカントが物自体を現象の「原因」と呼ぶのではなく「触発」と違う語を用いたのは正当であったように思われる。
物自体と現象は因果のカテゴリーではなく、それ以前のところにある。物自体はあるものの原因として「語られるものではない」。
それは特定されるものではなく、無根拠であるしかない。

(たぶん続きます)

23ムラタ:2018/10/12(金) 23:23:17
話は少々飛びますが、過去には二重性があるように思われます。
つまりそれは「語られる過去」(虚像としての過去)と「語らせる過去」(物自体としての過去)です。
「語られる過去」はわれわれによって語られる過去です。
例えば「こないだ僕の住む京都市に大きな地震が起きた」などですね。
それに対して、「語らせる過去」というのは、この場合、「わたしが地震で経験したあの感じ」とでもいうものです。
「感じ」など馬鹿なことを言うなと怒られそうですが、そう言うしか無い。
だってそれは言語的に分節される以前の、いわば「語られない自然」であるからです。
「語られなかった自然」そして「語らせる過去」がわれわれを触発して「語られる過去」を語る。
非言語的世界の経験、知識がわれわれを触発し言語的・分節化された世界を開く。

それに対し、未来にはそんな二重性はない。
未来は徹底的に「語られた未来」でしかない。
触発はいつでも過去からしか行われないからです。
「語らせる未来」はありえない。
というのも、一見未来、将来の思いから導かれたかのように見える言説も、必ず過去(自体)からの触発を受けて発言されるほかないからです。
未来は虚像としてしかありえない。
ここにおいて僕は過去と未来の非対称性を見ています。
(気が向いたら、まだ続きます。ご意見あれば歓迎します。スレ汚しだったらごめんなさい)

24横山:2018/10/13(土) 00:16:51
ムラタさん、
面白く読んでいます。続きも楽しみにしています。

でも、ちょっと本論から外れるかもしれないところで疑問があります。
それは、「物自体」が意味するところについてです。

>22 でムラタさんは「物自体はもはや原因をとして特定されない・・だからカントが物自体を現象の「原因」と呼ぶのではなく「触発」と違う語を用いたのは正当であったように思われる」と言われてます。ここで問われている「物自体」は現象や表象の(原因とも言えないような)それを触発する何かとして考えています。(僕が「物自体」という言葉から思うものはこちらの意味です。)この意味での「物自体」をここでは「物自体1」と仮称したいと思います。(もっと良い名があるのでしょうが、とりあえず)

一方、
>23 でムラタさんは、「語らせる過去(物自体としての過去)」と言い、それを「だってそれは言語的に分節される以前の、いわば「語られない自然」」とされています。ここでの「物自体」は現象や表象を触発する何かではなく、言語化される前の現象や表象そのもの、といったものを指しているように思えます。こちらの意味での「物自体」をここでは「物自体2」と仮称することにします。(永井均の本の中でもそのような意味合いでの「物自体」という語が使われていたことがあって、そういう意味もあるんだなあと不思議な気がしたことがありました。物自体という語には元からこの二つの意味が含まれているのでしょうか?)

さて、そうすると、僕には、ムラタさんが分類された過去の二つ「語らせる過去」と「語られる過去」が、さらに分類されて、三つの過去として想定できそうに思えます。

すなわち、
「物自体1によって現象や印象を触発されるものとしての、語らせる過去」と
「物自体2として言語化以前の現象や印象そのものとしての、語らせる過去」、
それから「我々によって言語化された、語られる過去」です。

少し気になったので、もしよろしければその辺りどう捉えていらっしゃるかを教えてください。

25ムラタ:2018/10/14(日) 10:57:56
横山さん

返信遅れて申し訳ありません。
物自体の二義性についてお答えします。
実際、この違いは些末な問題ではなく、自己の根拠を探る上で不可避な問題であるように思われます。
というのも、物自体2を採用するなら自己触発ですべてが完結するだけですし、一方の物自体1を採るならそれに加えて、自己とは全く独立した実在を認めることになるからです。
カントの純粋理性批判においても記述に混乱がみられるようですから、カントもここは迷っていたのではないでしょうか。

さて、物自体から現象へと触発することには2つの解釈(強い解釈と弱い解釈)が成り立ちます。
強い解釈が横山さんの言われる物自体1、弱い解釈が物自体2に対応すると思われます。


【物自体の弱い解釈(物自体2)】(物自体が非自発性のみを含意)
非自発的な触発によってわれわれに現象するという、この非自発性の段階は、僕ら自身の自発的な認識とは独立であるので、これを物自体と解釈する。つまり、この解釈は物自体の私との非自発的な場面だけを採用する立場です。


【物自体の強い解釈(物自体1)】(物自体が非自発性のみならず、わたしと数的に独立の実在性をも含意)
強い解釈は、Aの非自発性に加え、物自体が触発してくるのなら、触発してきた私とは全く数的に独立の実在を認めるという解釈です。



思うに、一般的に物自体で連想されるのは強い解釈の物自体のほうではないでしょうか。
横山さんが読まれた永井均などは、ちゃんと読んだことがないので間違っているかもしれませんが、いかにも弱い解釈のみ認めそうです。非自発的な触発の場面を<>など表現して。
しかし、わたしとしては強い解釈の物自体をなんとか論証はできないとしてもあぶり出したいともがいている感じです。
もっとも、強い解釈には困難な問題が山積であるように思われます。
わたしと数的に別な実在などからの影響などなくとも自動的に何かが起きるということでも何も問題がないように思われるし、それから、強い解釈は、物自体と現象は因果のカテゴリーではないといいながら因果のカテゴリーを適用しているのではないかという疑いもあります。

26横山:2018/10/14(日) 19:02:12
ムラタさんの物自体の捉え方がおおよそわかりました。回答ありがとうございます。

でも僕自身はまったく五里霧中にあって、どうにも分からないことだらけです。
ムラタさんは、現在と過去の存在については、ある程度はっきりと語り得ることが可能だけれども、未来については難しい、とされてますよね。
それについて、その通りだという気もするのですが、どうもモヤモヤしたものが心を濁してスッキリしないのです。

と言うのは、次の点で疑問があるからです。
現在時点で眼前にあるものが何者であるかということを問い理解を深めるためには、それが過去にどのようにして私と関係を持ち得て今後の未来に私とどのようにして関係するかを考えることが必要なように思われることです。
例えば、眼前に未開封のカップ麺がある。私がそれをカップ麺として理解するには、まずはそれをカップ麺だと認識することが必要です。さらに、過去に同様のものを作って食べた経験を現在的な現実の出来事として思い出せれば「カップ麺」とは何であるかの理解はさらに深まるでしょうし、眼前にあるそれを3分後に実際に現在の現実として食べることを想像することができれば、もっと深まるでしょう。
あるいは、それを私の体験としてだけじゃなく、妻や第三者が過去に食べたときや未来に食べるときのことでも、現在的現実の経験と同様にとらえられるとするなら、その理解はより深まるかもしれません。
さらにまた、その過去の出来事や未来の出来事を「強い解釈での物自体」としてのカップ麺の体験として捉えられるなら、さらに一層その理解を深いものにできそうな気がします。

しかし、過去や未来や他者や物自体を現在的現実としてとらえるなど、論理的に不可能な馬鹿げた話にも思えます。

そんな感じで、
今眼前に見えている世界をとらえるにも、実は宗教的な思い込みを積極的に肯定することは、無意味でないかもしれない。とか、
過去だけでなく未来が実在するとすることも有意義なことかもしれない。とか、
などという考えが頭のなかでぐるぐるしていて、それをどう考えたら良いか、悩ましく思っています。

そういう点でも、ムラタさんの未来と過去の非対称の話、興味深く拝見しています。

27ムラタ:2018/10/14(日) 23:30:38
横山さん

たびたび返信ありがとうございます。
僕の頭もだいぶ混乱しているのですが、横山さんへの返信を考えることが、少しは思考の整理に役立っているように思われます。

さて、なんとなく横山さんの問題意識が分かってきた気がします。
誤解だったら申し訳ないのですが、横山さんは、以下のように考えられていないでしょうか。
つまり、横山さんは、今この瞬間のわたしというものをまず措定しておいて、そこから意識の能動的な作用によって、物事を把握するという図式を採られていないでしょうか。
さらに言うと、現在のわたしの能動的な作用によって過去や未来というものを一応捉えることはできるが、それは言うまでもなく過去や未来の実在そのものではないものだから、つまりそれは虚像にすぎない、と考えておられるのではないでしょうか。

失礼ながら、もしそうなら、という仮定で話させていただきますが、僕はそれは別に間違っているというつもりはありませんが、人間存在の片面にすぎないと思っています。
人間は、もちろん能動的な存在でありますが、受動的な存在でもあるはずです。
というのも、能動的な認識とか以前に、僕らはまず身体を所有し、世界に突き動かされているという受動性を帯びていますよね。

「わたしは、よくわからない、とてつもなく大きな存在に突き動かされている。そしてそれがわたしの能動的志向性をもった行為の基礎である」
その存在がどんなものかははっきりと言うことはできませんが、それを「物自体」とか「語られない自然」などと呼んでいるわけです。もはや原因を探れず無根拠でしか無い存在です。とにかく私を触発して現象を起こさせるのですが、よくわからない存在者です。

さて、未来と過去の非対称性をこの投稿で表現した能動性・受動性という言葉で表現するなら、こういうことになります。
つまり、未来はわたしによって能動的に構成された未来であるしかないのですが、過去はわたしによって能動的に構成される過去であると同時に、わたしは過去から受動的に触発されるということです。後者の過去を僕は「過去自体」と呼び、前者の過去を「語られた過去」と呼んでいます。

28ムラタ:2018/10/14(日) 23:46:46
横山さんが「3分後の未来の存在は無根拠だ」と言うとき、それは「わたしによって能動的に構成された未来は無根拠だ」ということを意味されているのではないでしょうか。
この命題が真であることは、僕も全く同意見です。

ところで、「3分前の過去の存在は無根拠だ」と言う命題を考えてみましょう。
このとき、この命題で表現された「過去」がどのような意味を持っているかということで「無根拠」の意味も違ってくるでしょう。
過去が能動的に構成された虚像としての過去ならば「3分後の未来の存在は無根拠だ」という命題で述べられたときと等しい意味での無根拠ということになるでしょう。
しかしこの命題で表現された「過去」を物自体としての過去、つまり過去自体と採るならば、その無根拠性は物自体の無根拠性ということになると思います。

29ムラタ:2018/10/15(月) 00:06:10
過去と未来の相違について、簡単な説明を思いつきました。
僕らは、徹底的に過去にあったことから触発されるしかなく、未来(まだ無いこと)から触発されることは原理的にありえないという、まぁ、当然といえば当然のことです。

30ムラタ:2018/12/29(土) 22:23:01
別に横山さんに宛てているわけではなく、ほとんど自分のための備忘録なのですが、このスレの内容ともちょっと関連するので、書き残しておきます。

未来の実在の正当性という問題は、現在と過去との関係が整理されたあとで説明される副次的な問題なのではないでしょうか?

ヒュームの有名な帰納の問題を挙げます。
「太陽があす昇らないという命題は、それが昇るという肯定命題と同じく意味があり、矛盾もない」(ヒューム『人間知性研究』)


「明日も太陽が昇ることは確実か?」
と問われると、どうも僕には確実とはいえないように思われます。
というのも、常識的見地からは明日もなんとなく太陽が昇るように思われるのですが、その理由は過去に毎朝太陽が例外なく登ってきたからというだけのことで、よくよく考えると、そのことは明日確実に太陽が登ってくることをいささかでも保証するわけではないからです。


僕らには明日太陽が昇らない可能性とか、或いは明日は太陽の代わりにスイカが登ってくる可能性のような、原理的にあらゆる論理的可能性が開けているのですが、思考の癖とでもいうべき習慣によって未来を予想しているにすぎないのではないでしょうか。
宇宙の法則だって普遍的でなく、次の瞬間に崩壊したり変化したりする可能性だってあるように思います。例えば、万有引力の法則が突然消滅する、みたいなことが。


結局のところ、未来の出来事を、僕らは過去の経験を未来にあてはめて予想しているだけではないでしょうか。実在論の正当性などの実在の問題を考えるときに、未来についての実在を考えると、それは徹底的にフィクションだという感じがします。過去についてはその痕跡が認められるのですが、未来については本当に完全な意味で「無」です。


どうも僕には未来の予想とか未来への思いというは習慣や思考の癖といった過去に依拠しているように思われる。
なので、時間論の核心は、現在と過去との関係にあるのであって、未来はその関係が整理されたあとで説明されるものだという感じが強いのです。

31横山信幸:2019/01/02(水) 16:56:20
ムラタさんの書き込みとは多分あまり関連していない話になると思うのですが、
僕の今考えている所について書き込みます。

過去と未来の存在について、2つの視点で気になっています。
1つめは、過去の実在もそれほど確実ではなく、未来とさほど変わらないのではないか、という疑問です。
過去と未来の非対称というのは、熱力学的な意味ではあると思うのです。
それは、エントロピー増大則によって、マクロ的には非可逆的反応が物理的に実在し、それによって我々は過去の記憶を持つことができることはできるけれども、未来の記憶を持つことはできない、という「熱力学的時間の矢」と呼ばれるやつです。
でも、
それによって、現在過去だけが実在で、未来は非在だと結論付けてしまうのは、せっかちすぎるように思われます。
たとえば、「過去の記録や記憶があること」から「過去の実在」を導出するためには、結論を含めた前提は必要になるはずです。
つまり、「過去の記録や記憶があるなら過去が実在したと言える」ということにするなら「過去の記録や記憶があること」から「過去の実在」を導出できる、ってことになるだろうってことです。
しかし、その前提を組み込まないとしたら、やはり過去の実在は、未来の実在と程度差はあるかもしれませんが、何らかの懐疑の対象になると思われます。
「昨日何かをした記憶がある」と言っても、そこから「昨日何かをした記憶がある」は言えても「昨日何かをしたことは確実だ」とは、当然ながら言えないだろうということです。
その言えなさは未来について言えないのと、「熱力学的な意味」以上のものではないのではないか、という疑問です。

32横山信幸:2019/01/02(水) 17:08:32
さらに
また、別の視点で気になることがあります。どちらかというとこちらの方が大きな問題だと思います。
2つめの気になることは、
我々は未来を想定した言葉遣いをすることで、我々の生を肯定した世界を語ることができるのであって、それ無しに世界を語ろうとしても大した意味が無いのではないか、という疑問です。

たとえば、「バスチーユ攻略」という歴史上の出来事に対して、我々がそれをそう呼ぶとき、その出来事は過去のその時だけを取り出して語ることはもはや不可能で、〈その後未来にも毎年繰り返される「バスチーユ攻略記念祭」をすでにその意味の中に内在するようなものとしてあるとするような言葉づかい〉の中にあるものとして語る以外ないように思われます。
我々が我々の言葉を我々の生と切り離して使うことが不可能であるならば、過去を未来から切り離すことは不可能であるのではないか。
それならば、過去現在のみを実在とし未来を非在と性急に結論付けてしまっては、問題の中心的本質を逃がしてしまうのではないか、という疑問です。

今、そのあたりのことを、考えながら再度ドゥルーズに挑戦しているところです。

33横山信幸:2019/01/02(水) 17:28:41
うまく言えませんが、
『「明日太陽が昇る」ということを我々は知らない』と言えるなら、
『「今日太陽が昇った」も我々は知らない』と言うことも可能じゃないか。
『「今日太陽が昇った」と我々は知っている』が言えるとするなら、
『「明日太陽が昇る」と我々は知っている』と言うことも可能ではないか。
というところに思索を探る何かがあるのではないか、と。

34ムラタ:2019/01/03(木) 23:24:14
横山さん


いいかげんしつこいと怒られるかもしれませんが、やはり僕としては未来と過去の非対称性ということにこだわりたいのです。というのも、その違いを見出すことが「実在」を、語るのは不可能にせよ、あぶり出すためのひとつの契機になるように思われるからです。

おそらく横山さんも同意してくれるであろうことは、僕らはただ現在を生きるだけで、過去は現在における「もうない」で、未来は現在における「まだない」なのだ、ということです。ここまでは横山さんも僕も同じ思考過程を辿っていると思われます。

しかし、横山さんと違って僕は
「すでにない」(過去)
「まだない」(未来)
というふたつの「ない」の違いがどうしても同じ意味を持っているとは思われないのです。
このふたつの「ない」は外見は同じですが、その意味内容は全然別物でしょう。

いささか乱暴な説明かもしれませんが、
横山さんは数直線上の原点に現在を配置し、その左右に過去未来を置きますが、
僕は半直線の端点に現在を配置し、そこから過去が伸びているというイメージをしています。

例を挙げて説明します。
何か音楽を聴いているとしますね。
僕らは過ぎ去ったメロディーを「もうない」というありかたで、「ある」こととの否定的な関係において、具体的かつ端的に直観しているわけです。
それに対し、まだ鳴っていないメロディーは「まだない」というありかたで、「ある」ことの否定的な関係において、それを具体的かつ端的に直観しているでしょうか?
そうではないでしょう。
「まだない」音にはそんな具体的かつ端的な直観などありえない。確かに現在の心構えはあるのですが、それは「まだない」音の具体的かつ端的な直観とは完全に無縁であるはずです。その理由は極めて単純で、僕らはそれを経験していないからです。

僕はドゥルーズを立ち読みしたことすらないですし、真意を掴み損ねているのかもしれませんが(もしそうならすいません)、横山さんが挙げられていた例年行なわれるバスティーユ攻略記念祭の例も、それは単なる現在の心構えなのではないでしょうか。そのバスティーユ攻略記念祭の「まだない」の「ない」は、具体的かつ端的な直観を伴う過去の「もうない」の「ない」とは全然違うように思われます。

横山さんは「端的な具体的な直観」なるものが確かなことではない、と反論されるかもしれませんが、ここが横山さんと僕との決定的な分水嶺なのではないでしょうか。言語的・観念的な思考以前に、非言語的な生活場面こそ人間存在の端緒だということが僕の念頭にあります。

35横山:2019/01/04(金) 00:27:19
ムラタさん、
ムラタさんと僕の考えている所はそれほど異なることには思えないです。
ムラタさんの仰る過去と未来の非対称は厳然として(現前として?)あると思います。なので、全くムラタさんの話を否定しようとするものではありません。

ただ、次の点では僕はムラタさんとはやや違う興味を盛っているかもしれません。つまり、
もしかするとムラタさんは〈表象とか立ち現れとかといわれるようなものが「現在」に属するものである〉とする立場が優位で、〈表象なるものが「現在」にも「過去」にも「未来」にも元々属するものではなく、後付け的な形式としてそれが「現在」や「過去」や「未来」に当てはめられて解釈される〉とする立場に優先される、と考えておられるのではないかという点です。
そうだとすると、僕とは多少違うかもしれません。
僕には〈「現在」が「過去」や「未来」に優先する〉という捉え方が必ずしも優位だとしなくても良いと思われるからです。
〈現在でも過去でも未来でもないような世界自体としての何かの対象が先ず先に在って、その後で現在と過去と未来が互いに保管しあいながら世界を構築する〉というような世界モデルだってそれと同等以上の精度や内容を生むことができそうに思われるのです。そして、そのような世界モデルの方が豊かな世界を構築出来るのではないかと疑っているのです。

「バスチーユ」の話はそういう視点なのですが、どうでしょう。
これで伝わると良いのですが。

36横山:2019/01/04(金) 00:39:34
も少し付け加えます。

例えば、「私から1m先」という言葉について、その言葉の意味を過去の記憶だけから作り出すことは可能だと思います。過去に1mを計りとった記憶、1m先に手を伸ばすとは如何なることだったかという体験の記憶などを元にすればかなり有意義に、その言葉の意味を定めることが出来ると思います。
しかし、そこに、「この私の体が今から実際に1m先に手を伸ばすとはどういうことか」という意味が組み合わされなければ、その言葉には「生」が組み込まれることはなく、命のない言葉に過ぎないものになってしまうように、僕には思えてなりません。
だから、言葉を真に生きるもののための道具とするためには、未来の設定が不可欠だと思われるのです。

バスチーユの話で言いたかったのはそういう感じです。

37横山:2019/01/04(金) 00:44:27
>>35
間違ってました。

「興味を盛って」じゃなくて、
「興味をもって」です。


「保管しあって」じゃなくて、
「補完しあって」です。

38ムラタ:2019/01/04(金) 06:43:51
横山さん


とりあえず、僕の主張は置いといて、どうも分からないことが山積です。
いろいろ訊きたいことはあるのですが、話がバラバラになっては困るので一点だけ。
反論ではなく、単なる僕の疑問です。

以前>>9で横山さんはこんなことを書かれておりました。


>3分後や物自体が実在して、私が3分後のカップ麺を「本当に」食べるとするのでなければ、私が私の生を堪能することができないように思います。


以下これに対する、僕の素朴な実感なのですが、そんなふうに実在を意識的に信じなくても、生を堪能する(このことの意味はいまひとつ不明瞭ですが)ことはふつうに可能であるように思われます。実際のところ、腹が減ったからカップ麺を作った。食った。これだけのことなのでは?
何も馬鹿にしているわけではありません。
僕はこのことをきわめて重要視しているのですが、人間は意識主体である以前に動物や植物や石ころと同じように身体を持っていて、そして世界の中に、部屋の中にいるようにではなく、まさに世界の中に溶け込んで生活しているわけです。その生活は個体維持と種族維持に縛られています。もっとも、言語を持つ人間の場合は動物などと違い現実べったりでなく、可能世界が開けているという特殊性はありますが。しかしとにかく、個体維持のために、腹が減ったら死なないようにカップ麺を作って食べる。実際の僕がカップ麺を作り食べる際の感じはこれだけのことで、別に「実在を信じる」なんて大仰な意識作用は働いていない気がします。信じるとか信じないとかいう以前のところにいる。そんな感じなのです。別に実在を受け入れるなんて意識作用は働いておらず、ただ世界の中で生活しているだけなのではないでしょうか?

それとも、無意識レベルで3分後の実在を信じているということなのでしょうか?
しかし、無意識に信じるというのは矛盾した言葉の使用で、どうもナンセンスだという気がします。

39横山:2019/01/04(金) 09:21:52
>>38
ムラタさん、
どこまで質問への回答とすることができるかわかりませんが。

僕は、意識的か無意識的かというのはさほど重要な観点ではないと思っています。
例えば、「加算という言語的規則に対して、無限にその答えが一意的に決定できる」などという「解釈」を、足し算を習いたての小学生が意識しているわけはありません。しかし、大抵の子は、具体的な足し算計算問題が出された時にそれに対する某かの正答があるはずだという「思い込み」にしたがっていて、「或る数字を足し合わせると一つの答えがあるでしょうか」と問われると「はい」と答えると思われます。そして、その思い込みがあるからこそ、或る意味で足し算の計算問題は成立します。
同様に、どんな言語的規則にも或る意味で無意識的な根源的基盤が必要なのではないでしょうか。

「3分後のカップ麺の味が実在する」などと意識的に考えていなくても、それに関する思い込みはあって、「カップ麺を食べれば『本当』にその味が味わえるでしょうか」と問われれば「はい」と答える人がほとんどだと思われます。でも、逆に、もしその人が意識的に「3分後の味など実在せず、カップ麺の味を本当に味わえるかどうかという問いはナンセンスです」と答えるのであれば、「3分後の味」という言葉を、まさに味気ないものしか残されてないものしてしまうように思われます。

つまり、無意識的であっても言語規則が規則であるためには、「◯◯の場合はその規則がどう当てはまるのかが一意的に答えられる(「解なし」も含めて)」と前提されてなければならないのではないか、というのが僕の思いです。すべての規則は確定できないとする「ウィトのパラドクス」があるからこそ、逆に、それを規則として成立させるにはそこには某かの解答を定められるとうそぶく必要があるのじゃないかと思うのです。

そういう感じです。ムラタさんの質問への答えになってないかもしれないですが、とりあえず返答させていただきます。

40ムラタ:2019/01/04(金) 23:33:25
横山さん

ありがとうございます。
何となく理解できたような気がします。

人間は、あらゆる論理的可能性に開かれているわけですが、そこからありえさそうな可能性(死んだ可能性)を排除し、ありえそうな可能性(生きた可能性)を鵜呑みにして生活しているということでしょうか。そして、実在についてもそれがいえる、と。つまり、3分後の世界の実在はいかにもありえそうな可能性(生きた可能性)で、僕らはそれを鵜呑みにして生活していて、一方、3分後に世界が消滅しているということはありえなさそうな可能性(死んだ可能性)で、僕らはそのような可能性を排除して生活している、と。

このような意味ならば、納得できますし、僕がいっていることとも別に矛盾もないように思います。

ただ、そうならば気になるのは宗教性という言葉です。
このような生きた可能性の鵜呑みを宗教性というのなら、日常生活はすべて宗教性を帯びているということで、どうも違和感を覚えます。
宗教という言葉にはさまざまな意味があるでしょうが、宗教の一面として、ありえなさそうな可能性(死んだ可能性)をありえそうな可能性(生きた可能性)に転換し、それを鵜呑みにすることによって平安を得ようという側面があるように思われます。
それから、ある宗教Aを信じる者にとっては宗教Aの教義はまさに真理で生きた可能性なのでしょうが、宗教Aのを信じない者にとって宗教Aの教義は死んだ可能性になっています。
つまり、宗教には信者にしろ、信者でない者にしろ、ある程度、死んだ可能性が入り込んでいるのではないでしょうか。
一方で3分後の世界の実在については、そこに死んだ可能性は、哲学的思索を除いて、つまり普通の日常生活では一切入り込んでいないのではないでしょうか。

41ウラサキ:2019/01/05(土) 17:02:13
私も横山さんの「宗教性」という用語には違和感を感じます。

横山さんは「無根拠な前提」を「宗教(性)」と呼んでいるようですが、
ほとんどの人は「排中律」「自然の斉一性」「因果律」を無根拠に前提として生活していますので、
それを「宗教(性)」と呼ぶのはあまりに日常用語からかけ離れた大雑把過ぎる用語法ではないでしょうか?

「生きた可能性」と「死んだ可能性」の線引きは個人によりけりでしょうから、
「宗教(性)」の判断基準は結局、多数決って事になるのでは?
さらに、「宗教(性)」にはある程度の行動規範的な面が含まれているのではないでしょうか?

42横山:2019/01/05(土) 20:59:27
「宗教性」というネーミングがセンスに欠けてるのは、仕方ないので勘弁してください。
でも、そこで僕が考えたいと思ってるのは、次のような視点ですので、僕にとっては「宗教性」というネーミングは結構意味があるのです。すなわち、

〈あらゆる「存在」や「実在」や「世界」なんてものは確定不可能な言語的規則によって規定せざるを得ないもので、それによって規定しなかったら、それが有るとか無いとか絶対であるとか違うとかを判断することには意味がなくなってしまう。しかし、いかなる規則も、それを規則たらしめるためには、某かの無根拠な絶対的基盤を「冒険的に」(あるいは「とりあえず」あるいは「テキトーに」)でっち上げるしかない、はず。そう考えると、「過去がある」とか「現在がある」なんていうようなどう考えてもアプリオリに真だとしか考えられないような言明さえ、無根拠な基盤の上に乗ってるものに過ぎない。その意味で、そのような言明も、一般的な意味での「宗教」と五十歩百歩だと言えると思われる。〉

ってことです。ですので、「使用する言語規則が無根拠に基盤とするものの絶対性」などと言っても良いと思うのですが、「それが通常の宗教と絶対的断絶のないようなものでしかない」という意味も込めて、意図的に「宗教性」と言ってる訳です。

そういう意図ですので、ムラタさんの指摘からは、ちょっとずれたところに僕の興味があるのかもしれません。

どうでしょうか、これで伝われば良いのですが。どこか考え違いしてるのでしょうか。

43横山:2019/01/05(土) 21:05:30
ウラサキさん、

ほとんどの人が「排中律」や「斉一性」を「宗教」とは考えていないのだから「排中律」や「斉一性」を含むような基盤的概念の無根拠性を「宗教性」と呼ぶのは、適当ではない、というのは、よく分かりません。
僕は、その、通常は宗教とされていないような基盤的概念までを、宗教と変わらないような無根拠性の下にあることに問題を立てようとしてるわけですから、あえてそれを「宗教」と呼ぶところにこそ、問いの意味が明らかになるように思うのです。

44横山:2019/01/05(土) 21:27:56
ムラタさん、
ムラタさんの指摘が僕はよく分かってないのですが、多分違うところがあるような気がします。

僕が「宗教性」のネーミングの下に問おうとしてるのは、「生と死やその他の何かの有り方について、無根拠にその真偽を判定する」という、語られる世界の側についての懐疑だけでなく、それわ語る道具としての「言語」の側についても宗教的思い込みが紛れ込んでいることを懐疑できるのではないか、という点でもあります。

そこまで懐疑すると、世界はすべてでっち上げになってしまいそうな気もしますが、「語られる側と語る側」や「客体と主体」「対象と言語」「自由と決定」がそれぞれ互いに飲み込みあい食い込みあって、世界を成していて、一概にすべてがでっち上げだとしなくても良い道が開けているようにも思えるのです。
かなり、メタレベルの世界把握に関する懐疑になってくると思うのですが、何か思索可能な内容があるのではないかとも思えています。

45横山:2019/01/05(土) 21:54:33
どうも、伝わるような言い方が出来なくてもどかしいです。
つまり、(と言ってもすでに上で言ったことの繰返しになるかもしれませんが)

主観と客観という切り口の他に、「言語と内容」という切り口があると思うんです。
で、その「言語」と「内容」も、それぞれ独立なものではなく、関係しあって両方が一挙にでっち上げられるものに思えるんです。
だから、例えば、「過去の存在者」を有意味にする言語があってはじめて、「過去」の存在は可能になんのだけど、その言語も言語だけで勝手気ままにでっち上げたところで有意味できるものではなく、内容に支えられてはじめて意味あるものになる。そう考えると、「過去」を語るときに、「未来」が「ある」とする言語で語るのと「無い」とする言語で語るのでは、語られる「過去」はまるで違うものになる。

バスチーユの話で言いたかったのはそういう感じだったのですが、どうでしょうか。これで伝われば良いのですが。

46ムラタ:2019/01/05(土) 22:49:49
横山さん

確認させてください。
横山さんが問うているのは通常使用される意味での実在の無根拠性に加え、言語自体の無根拠性ということなのですか?
スレッドタイトルが「実在論の宗教性」ですし、当初は通常使用される意味の実在についての話をしているのだとばかり思っていましたが。例えば>>4では横山さんは

>僕がここで考えている「実在論」は、物自体が事実として実在しているとするような考え方です。
と明白に述べられているので。
僕が誤読していたのなら申し訳ないです。

また、宗教性と呼ぶべきか否かという問題は大した問題とは思われないし、僕はあまりこだわらないことにします。

それより>>42の < >で書かれているのは面白い懐疑なので、ちょっと考えてみます。

47横山信幸:2019/01/05(土) 23:31:52
ムラタさん、
すみません。以前の書き込みの内容をあまり覚えていないままつながりを深く考慮しないで
書き込んでしまったので、ずいぶん分かりにくく誤解させる書き方になっていたと思います。

僕の懐疑は、通常の意味での実在や存在の無根拠性だったのですけれども、
もともと僕が言語論的に問題を掘り下げようとしてしまう癖があるので、
ついつい言語自体の無根拠を疑うことにつながってしまいました。
しかし、それは僕の考えでは、問いを進めていくとつながらざるを得ない懐疑だと思っています。
なので、ご質問の回答は、僕の問いは「実在の無根拠性」でありそれは「実在を支える言語自体の無根拠性」である、です。

48ムラタ:2019/01/09(水) 07:11:15
横山さん


また的外れだとお叱りを受けるかもしれないですが、今僕が考えていることです。
間違ったところがあるなら教えてください。
>>47で横山さんが書かれたこと

>僕の問いは「実在の無根拠性」でありそれは「実在を支える言語自体の無根拠性」である。

についてですが、この2つは横山さんの仰る通りつながってはいるものの、やっぱり別の問題として扱うべきなのではないでしょうか?

1,明日も太陽が昇るという未来の実在に関する無根拠性
2,「明日も太陽が昇る」という言明(言語自体)に関する無根拠性
という2つの無根拠性があるわけですが、
1で問われている無根拠性は(普通の意味の)実在の無根拠性で
2で問われている無根拠性は言語(規則)自体の無根拠性です。

説明します。

思い込み(無根拠性)には以下の二種類があると思います。
【A:非言語的な思い込み】
【B:言語的な思い込み】

通常、皆が「明日も太陽が昇る」と思い込んで生活しているのは、【A:非言語的な思い込み】ですよね? すなわち、【B:言語的な思い込み】をせずに、つまり「明日も太陽が昇る」とわざわざ言明しないで、【A:非言語的な思い込み】をしているわけですよね?
もちろん、あとで言語的に振り返ることがなければ、「明日も太陽が昇る」と【A:非言語的に思い込んでいた】ことを発見できないわけで、つまり、実在を思い込んでいたことの発見は言語に依存しているわけですが、しかし、一次的な実在の思い込み自体は【A:非言語的な思い込み】であると思うのです。

さて、一般的に「実在の無根拠性」ということで問われる対象は、例えば「明日も太陽が登る」という、(今の例では未来の)実在の無根拠性、不確からしさであり、そのような「実在の無根拠性」を言語的に問うているわけであって、通常は、その際に使用される言語自体の無根拠性は問題にされていないはずです。

もちろん、言語自体の無根拠性を考えることは、それはそれで無意味なことではないでしょうが、一般的な実在の懐疑は言語の無根拠性を問題にはしないので、それは別に考えたらいいことのように思われます。

ちなみに、横山さんが>>42の< >で書かれたような言語(規則)自体の無根拠性・懐疑は、もし夢の懐疑<すべては夢だ>のような論理空間型の懐疑だと解するなら斥けられると考えます。しかし、横山さんが言語規則の無根拠性というときに一体どのようなことを考えておられるのか、僕が誤解している可能性もかなりありますし、今回の書き込みではそれはやめておこうと思います。

49横山:2019/01/09(水) 20:50:09
ムラタさん

反対の意見を挙げてくださるのはありがたいです。ご指摘は僕の問いにたいして、とても重要な強い問題立てだと思います。


「「実在の無根拠性」と「実在を支える言語自体の無根拠性」を、別の問題として扱うべき」というのは、ある意味ではそのとおりかもしれません。実際それらが別の問題として考えられることも可能ですし、それを別問題として考察することも意義深いと思います。

しかし、幾つかの気がかりのために僕自身はそれを別の問題として考えることに余り興味がわきません。
その気がかりというのは、次のような感じです。

一つは、
「(言語自体を問うことをしないような)実在の無根拠性」の問いは、その問い自体の前提を無いものとしたり不問としたりしてしまうとすると問いの答えはナンセンスなものになってしまうしかないように僕には思えます。
そしてまた、一方で、その問い自体の前提が絶対的なものとして「すでに無根拠にある」としてしまうと、そのといたいところが、そこですでに乗り越えられてしまうことになり、問い自体が失われてしまうように思われます。
例えば、上で、ムラタさんは過去と現在が実在して未来が実在しない世界モデルを挙げられましたが、もしその根拠が「すでにそーなってるから」という話にするのであれば、僕の問いはそこで雲散してしまいます。
そういう視点で、僕は「(言語自体を問うことをしないような)実在の無根拠性」の問いというのが、あまり興味深いものではないように思えています。

二つ目は、僕が言語というとき「言語」をかなり広範囲なものとしてとらえていることです。僕が「実在を支える言語自体の無根拠性」と言ったその「言語」とは、世界を理解したり構成したりするときの分析システムの全てを思っています。なので、「存在者」が「実在している」とするときの「前提」の根拠を問い続けると、それは必ずその分析システムの意味を問うことに繋がらざるを得ないように思われます。
例えば、「未来が実在しない」というモデルと「未来が実在する」というモデルが対立するときに、それはそれぞれのモデル設定の前提の意味や価値を問うことになると思われますが、その問いは、僕にはそのままその分析システムの意味や価値を問うものと一致することになり、さらに、そのシステムの無根拠性をどうとらえるかという問いに直結することになるように思われて仕方ありません。

そのような「言語」の捉え方をするとすると、

>【A:非言語的な思い込み】

というのはかなり限定的な意味しか持てない概念だと思います。そして、僕の言ってるその「言語」の意味を広げる捉え方をどんどん広げていくなら、「非言語的に思い込む」ということは不可能なものになるものではないかと思います。


>ちなみに、横山さんが>>42の< >で書かれたような言語(規則)自体の無根拠性・懐疑は、もし夢の懐疑<すべては夢だ>のような論理空間型の懐疑だと解するなら斥けられると考えます。

について、
その「規則自体の無根拠性」が「論理空間型の懐疑」か、という話にはとても興味がありますが、多分僕の話は「全ては夢」という懐疑ではないと思います。というのは、「規則自体への懐疑」は「全ては夢ではないか」という懐疑ではなく「全ては夢だというのはどんな意味を持ち得るのか」という懐疑だろうからです。

こんな感じで、回答になってるのかずいぶん不安ですが、どうでしょうか。少しは答えられているでしょうか。

50横山:2019/01/10(木) 08:29:54
上の僕の話、考えながら書いてるうちに、よく分からない書き方になってしまいました。

すべての言明が有意味になるためにはそれを意味付けるための「前提」がなければならず、「前提」を問い進めるためには、結局、言語システムの意味自体を考察せざるを得ないのではないか、

ということを言いたかったのです。

51ムラタ:2019/01/10(木) 17:17:54
横山さん


いろいろ聞きたいことや言いたいことはあるのですが、今回の書き込みの内容は「言語」の意味に限定しておくことにします。


>僕が言語というとき「言語」をかなり広範囲なものとしてとらえていることです。僕が「実在を支える言語自体の無根拠性」と言ったその「言語」とは、世界を理解したり構成したりするときの分析システムの全てを思っています。(略)そのような「言語」の捉え方をするとすると、【A:非言語的な思い込み】というのはかなり限定的な意味しか持てない概念だと思います。そして、僕の言ってるその「言語」の意味を広げる捉え方をどんどん広げていくなら、「非言語的に思い込む」ということは不可能なものになるものではないかと思います。


上の部分を読むに、僕がずっと「非言語」的経験と述べていたことは、横山さんの「言語」解釈では「言語」的経験になるのでは、という疑惑が出てきたのですが。僕は「言語」という言葉を特別な意味で使っているわけではなく、通常の意味から外れない範囲で使っているつもりです。

一言で言語の本質的特性を述べるなら、それは概念の利用だと思います。
例えば、道を歩いている最中に靴紐がほどけているのに気づき、「あ、靴紐がほどけている」と言えば、それは言語です。同じ言葉を心の中で語っても、それも言語と言っていいと思います。さらに、ヘンなことですが、その日の日記に「今日、僕は道を歩いていたら靴紐がほどけた」と記述してもそれは言語だと思います。しかし、無言で靴紐がほどけているのに気づき靴紐を結んでまたスタスタと歩きだしたのなら、それは言語ではありません。

また、激しい腹痛に襲われているとき、「痛い」と言うなら、概念のもとに痛みを知覚しているわけで、それは言語ですが、腹痛のイヌや生まれたての赤ん坊が「うー」と唸るのは概念を用いずただ現在の状態に苦しんでいるだけなので言語ではありません。

それから、言語を持たない動物や赤ちゃんも、獲物を見つけたり、ママを認識したりすることは可能です。動物が獲物を見つけたり、赤ちゃんがママを認識するのは、言語に依らない世界把握ということになると思います。もちろん、それは言語的な世界把握とは全然違った種類の世界認識でしょう。

以上が僕の「言語」という言葉の理解です。

僕らは相手が怒った顔をすると怒っていることが端的に分かります。赤信号から青信号に変わったことは端的に把握できます。しかしそれは言語ではありません。もしかすると、横山さんは、そういった概念によらない把握も言語に含めていないでしょうか?

52横山:2019/01/10(木) 22:05:28
ムラタさん、
すみません。僕の言葉づかいがどうもずいぶんと自分勝手で独りよがりなもので、伝わらない言い方をしてしまっているのが、混乱の一因だと思います。

指摘してくださってるように、僕の「言語」の捉え方は、概念化されたものだけに限らないで、もっと広い内容を考えています。
僕の思ってる「言語」は、ウィトゲンシュタインの「論考」が、某かの内容に対して真偽の2値の判断の組合せすることを「言語」だとしたのを、元にして考えたものです。僕の思いとしては、そのような「真理値の組合せ」をもっと一般化して「世界の内容であるところの某かの対象について、某かの対応によって2値的に分析できたときの、その2値の組合せ」、というところに原始の「言語」がある、
と考えられるのではないかと疑っています。

そのような、自分勝手な広い「言語観」で言うと、「犬がしっぽを振ったかどうか」などまでが言語に入ってしまうことになってしまうので、一般的に語られる「言語」という語とはぜんぜん別物になってしまうと思います。
しかし、「概念化されているかどうか」と「犬のしっぽ」との間の差も、実は、それほどはっきりした断絶は無いだろうと、僕には思われて仕方ないので、僕の感覚から言うと、「犬のしっぽ」も言語の中に含まれて当然みたいな感覚があって、つい、そのように言ってしまってました。

混乱させる書き方でした。すみません。

53横山:2019/01/11(金) 13:40:53
また別の話。あと、一つの大きな視点として、

〈自分が語っている世界記述の根源的基盤は必ず無根拠な思い込みにもとづいている〉ということを積極的に認められているかどうか、という視点があるとおもいます。
そして、その視点が宗教性に対立する最も大きなベクトルになるように思います。

54ムラタ:2019/01/11(金) 20:58:50
横山さん

謝る必要はありませんよ。僕は全く横山さんに怒っているわけではないですし。横山さんも怒らないでほしいと思います。問題はただ議論の上にのみ存します。

閑話休題、「言語」の意味をいまいちどはっきりさせておきたいと思います。

ウィトの言語解釈は僕の解釈と別段矛盾するものではないと思います。でも、横山さんの言語解釈は、失礼ながら、やっぱりヘンだと思います。だって、靴紐がほどけているのに気づいたのが言語というのは単純に意味不明です。「靴紐がほどけた」と言ったのが言語でしょう。

横山さんが言うウィトの言語解釈ってそんなのだったっけ?と『論考』を調べてみましたが、ウィトの言語解釈は僕の考えと別段矛盾するものではないように思われました。ウィトにとって言語とは現実の像の総体、すなわち現物の代替物なのですよね?

二・一二  像は現実に対する模型である。
四・〇〇一 命題の総体が言語である。
四・〇一  命題は現実の像である。


靴紐がほどけているのを見つけて「靴紐がほどけている」と言ったり書いたりするのなら、それは靴紐がほどけている現実を日本語という像で写し取ったので(ウィトにとって)言語ですが、単に靴紐がほどけているのに気づき、無言で結んでまたスタスタと歩いていったらただ現実的な行動をしただけで、現実の像などどこにも出てきていないから、それは(ウィトにとって)言語とはならないはずです。

確かにウィトにとって言語とは現物の代替物なので、一般的に言われる言語よりは広い概念ではありますが、僕が言う「非言語」も別に現物の代替物ではなく、単なる現実の行為なので、やはりウィトにとってもそれは「非言語」になると思います。

僕も誤解を与える書き方をしているのかもしれませんが、僕は改めて言うのも馬鹿らしいぐらい、きわめて平凡なことを言っているだけです。横山さんに難しく考えさせすぎているのかもしれません。

55横山:2019/01/11(金) 21:38:17
ムラタさん、
「論考」の言語論から僕がどういう思考をしたるか、のみについて。

「論考」を引き合いに出したのは、もちろんその像理論も関係あるのですが、僕の思いとしてはそれよりも、ウィトゲンシュタインが何をもって世界の像としたか、そのシステム自体の方に僕の関心の焦点があります。すなわち、
「6.真理関数一般は[p,ξ,N(ξ)]と書ける.これは命題の一般形式である.」
で、言っていた要素命題の真偽二値の組合せこそが言語の本質だとしている点です。
そしてぼくはそこから「世界を二値として判断するシステムがあればそのシステムの使用者はある意味で世界記述のための道具を持ち得る」とすることができると考えてということです。

例えば、
「A.ある時ある状況である犬がしっぽを振った」
「B.また別の時別の状況でその犬がしっぽを振らなかった」
という場面があったとき、
その犬は、ある意味で「世界を、『しっぽを振るような対象か否か』という二値として判断するシステムをもった」とすることもできるとすることは、可能なように思われます。
そして、そのようなある意味で無意識か意識的なの曖昧なところから、原初の言語は芽生えると考えるというような思索もあるのじゃないか。

という感じです。靴紐の話についても、そこにそれが世界を二値化する作用があるのなら、言語だとすることが可能だと思います。その作用がないなら言語ではできないと思います。

そんな感じです。

56横山:2019/01/11(金) 21:43:17
>>55

ムラタさん、

(すみません。あまりにタイプミスばかりなので、全文、再載します。)

「論考」の言語論から僕がどういう思考をしたか、のみについて。

「論考」を引き合いに出したのは、もちろんその像理論も関係あるのですが、僕の思いとしてはそれよりも、ウィトゲンシュタインが何をもって世界の像としたか、そのシステム自体の方に僕の関心の焦点があります。すなわち、
「6.真理関数一般は[p,ξ,N(ξ)]と書ける.これは命題の一般形式である.」
で、言っていた要素命題の真偽二値の組合せこそが言語の本質だとしている点です。
そしてぼくはそこから「世界を二値として判断するシステムがあればそのシステムの使用者はある意味で世界記述のための道具を持ち得る」とすることができると考えたということです。

例えば、
「A.ある時ある状況である犬がしっぽを振った」
「B.また別の時別の状況でその犬がしっぽを振らなかった」
という場面があったとき、
その犬は、ある意味で「世界を、『しっぽを振るような対象か否か』という二値として判断するシステムをもった」とすることもできるとすることは、可能なように思われます。
そして、そのようなある意味で無意識か意識的なの曖昧なところから、原初の言語は芽生えると考えるというような思索もあるのじゃないか。

靴紐の話についても、そこにそれが世界を二値化する作用があるのなら、言語だとすることが可能だと思いますが、その作用がないなら言語とはできないと思います。

そんな感じです。

57横山:2019/01/11(金) 21:47:06
>>53
〈自分の語る世界記述の根源的基盤は必ず無根拠な思い込みにもとづいている〉ということを積極的に認めるかどうか、その視点が宗教性に対立する最も大きなベクトルではないか。
そうだとするなら、通常の意味で宗教を批判している無神論者の方が宗教的だ、というような側面があるのじゃないか?

という問題

58久保共生:2019/01/11(金) 22:06:54
横から失礼します。
最近言語論とか意味論とかにちょっと嵌まっていて、お二人の議論がとても興味深く感じたので、少しコメントします。

ムラタさんの主張は、おおよそこういうことでしょうか?
靴ひもを結ぶという行為そのものと、その行為を「靴ひもを結ぶ」という言語として表すのとは、別の事がらではないか、ということでしょうか。
一方、横山さんにもお聞きします。
横山さんは、靴ひもを結ぶという行為は、「靴ひもを結ぶ」という言語によって真理値(真理条件かな?)を与えられない限り、行為として成立しない、とお考えなのでしょうか?

59久保共生:2019/01/11(金) 22:28:41
すいません、

>「靴ひもを結ぶ」という言語によって真理値(真理条件かな?)を与えられない限り、行為として成立しない

という表現は変かもしれません。

>「靴ひもを結ぶ」という言語によって分析されない限り、行為として成立しない

と訂正します。

60横山:2019/01/11(金) 22:31:16
>>58
久保さん、
ご質問歓迎します。

ぼくは、ある対象(ここでは「靴紐を結ぶという運動)が行為かどうか、という判断は幾つかのレベルの異なる条件を提出することができると思います。

一般的には、
「ある運動が行為であるためにはその活動主体の意図があるかどうか、によって、それが行為か否かが決められると思います。
しかし、
その弁別が可能となる前提条件として、
「その運動を何者かとして判断することができる」
ということが当然あると思います。その判断ができる主体が語る命題であればその命題は命題たることができますが、その判断が不可能な場面ではそれが命題であることはないと思われます。

そして、それゆえ、ぼくはある活動が行為かどうかということは、
ある意味ではその活動の特性だと言うこともできるとも思いますが、
別の意味では(更なる前提条件として)、発言者の特性だと言うこともできると思います。
それでもって、上でぼくが問題としてたのは、後者の意味で、「ある活動は、発言者の判断がなくては行為ではあり得ない」というものを考えて話をしたものです。そして、すべての世界記述はその解釈者ごとに異なる正答を持ち得るとしたものです。

これで回答になったでしょうか。

61久保共生:2019/01/11(金) 23:56:00
横山さん

行為が行為たりうるためには、単なる身体運動ではなく、その主体の「何某かをする」という言語的な判断が加わっていないとダメだということでしょうか。
この考え方には僕もそれなりに共感するのですが、しかし少し悩ましいと感じるところもあります。
我々は何かをするのに、「かくかくしかじかをしよう」といちいち言語化したりしないことの方が多いのではないでしょうか。
尤も周囲の人に、「何をしてるの?」と問われたら、「かくかくしかじかをしているんだ」と答えられるかもしれませんが。
ただ、これもやはり完全ではないように思います。
例えば、友人に「もしかして怒ってる?」と訊かれたとしたら、いかなる場面であっても「私は今怒っている」という文の真理値を判断できるでしょうか?

しばしば、自分でも自分の気持ちがよくわからないということがあります。(「怒ってるの?」と訊かれて、「どうなんだろう?」と思ったことがあります。)
しかも自分自身が為した行為にもかかわらず、その意図が自分でも分からず、「自分は一体何がしたいんだろう?」と思うことだってある。
こうした事象を横山さんはどのように解釈されるでしょうか。

62横山:2019/01/12(土) 00:40:25
>>61
久保さん、

その身体活動が意図的なものかどうかでそれが行為かどうかが分かれるのかという問題がよくありますが、今我々が話題にしているのはそれとはまったく別のレベルの問題の、「行為についての言明において、発言者がその行為を行為として判別し得ないのであれば、その言明は行為について語ることはあり得ない」という点にかんする話だということで良いですか。

「行為についての言明において、発言者がその行為を行為として判別し得ないのであれば、その言明は行為について語ることはあり得ない」というのは、僕には思われます当たり前すぎる話のように思えます。
そして、その問題と、その時に話題にされている身体活動が行為だとされるに値するものであるかどうかという問題は、全く別の問題であるように思えます。
自分でそれと意識してなくても「怒りをぶつけた行為だ」と判断される行動をとることはもちろんあり得るでしょう。しかし、その場合、「その身体活動は怒りであった」という発言者はその人本人にはなり得ない、ということになる、という話なのではないかと思われます。

どうでしょうか。問題を取り違えてしまったでしょうか。

63横山:2019/01/12(土) 00:44:35
>>62
>「僕には思われます当たり前すぎる話のように思えます。」

→「僕には当たり前すぎる話のように思えます。」

また間違えてました。

64横山:2019/01/12(土) 00:51:50
ある身体活動が「行為」とされるに値するものであるとできる人にとってはできるだろうし、できない人にとってはできない。(ここで、僕は別に相対主義を主張しているわけではなく、もっと当たり前な感じなことを思っているのですが、でも、そういう意味で、「すべての世界記述は解釈者ごとに異なる正答であることもあり得る」と言えるとも思えています。)

65ムラタ:2019/01/12(土) 09:35:34
>>58
久保君

横山さんとはだいぶ食い違いが生じているので来てくれて助かります。

僕に関しては、歩いてる際に靴紐がほどけているのを発見し、発言せず内語もせず靴紐を結んでまたスタスタと歩いて行ったのは単なる生活行為で、非言語的な行為であり、一方、「あ、靴紐がほどけている」と述べたものが言語だという主張です。

66横山:2019/01/12(土) 11:06:56
ちょっと長文になりますが、僕の関心について、説明をさせてもらいたいと思います。

僕が上で説明したような広義の「言語」の捉え方をするとき、つまり、世界を二値的に分析することこそが言語の本質だととらえて、例えば「犬がしっぽを振るかどうかという二値などによってでも対象としての世界を分析するシステムになり得る」などとすることができるようになるとするとすると、
その世界記述の規則を規則としてルールづけるためのシステム自体に、その記述の発言者の様々な行動の癖が関わり得ることになります。

犬がしっぽを振ることを犬が意識してなくても、その、振るか否かの行動の癖を用いて世界記述を組み立てる根拠とすることができるように、
あるいは、
我々が飴を舐めたらそこに何の意図がなくてもそこに甘さを感じるか否かの感覚の癖を用いて、その飴が甘いか否かを記述する根拠とできるように、
そして、それと同様に、
意識的な行動や感覚だけでなく無意識的な我々の行動や感覚の癖が世界記述の根拠となり得るだろうと考えられます。

そう考えると、例えば、我々が靴紐がほどけたら意識してなくても結んでしまうという行動の癖を持っているとすると、その癖も我々は世界記述の一つの根拠とすることができるようになると思われます。だから、その意味では、「無意識的に靴紐を結ぶということも、世界記述の一部になる」ということもできると思います。
ただし、それは、「靴紐がほどけていた」という世界記述を根拠付けるものとしての「無意識な靴紐を結び」だったわけであって、「無意識な靴紐を結び」がそのまま「無意識な靴紐を結ぶ行為をした」という世界記述になるわけではないものだと思います。

我々が言語を構成するときの大事な根拠として、無意識な活動を用いることもできるのだけど、当然ながらそれは、その無意識な活動が成立してたことが言語の根拠となる場合にのみ、その無意識的活動がある発言を構成する一部になる。だから、その無意識な活動はそれ自体それだけでは言語だと言える代物ではあり得ない、ってことだと思います。


さて、しかしそのように、発言者の意識的無意識的な活動を様々な発言の根拠とすることができるとするならば、様々な意識的な無意識的な活動の癖や感覚の癖が、世界記述の根拠となるだけでなく、
その発言者が世界をどのように解釈しているかという事実自体までが、また別の世界記述の根拠として関わってくることもあり得るはずです。
靴紐がほどけているときに靴紐を結んでしまう人と、靴紐を結ぶなどという知識も習慣もない人とでは、異なる根拠に基づいた言語しか語れない、ということになりそうです。
また、同様に、未来が実在するとして世界を解釈している人と、未来が実在しないとして世界を解釈している人とでは、やはり異なる根拠に基づいた言語を語ることになるということです。

最終的に僕が考えているのは、様々な言語の構成をその根拠を分析するところから考えていくことが、世界記述の形式に対する問いを問うだけでなく、その内容についてまで問うことに繋がるのではないか、ということです。
そして、その根拠とするものは必ずしも誰にとっても同一の確定した内容だとは言えず、それゆえ、いかなる世界記述も、某かの無意識的活動の癖や感覚の癖や無根拠な思い込みにしか支えられてない、のだろうということです。

僕はそこに、すでに僕が世界をそれ記述してしまうものとしてしまうものとして生きているから、世界はそーなってるという発言が事実になってしまうというような、自分の発言な根拠を自分に求めるようなある意味で「自己言及的なズルい」根拠付けを肯定的に捉えることになるのだろうと考えています。
結局、それは、無根拠に「だってそーなんだもん」ということになってしまうという点で、「宗教的」と言えるような側面があるものでしかない、と思えてならないのです。

うまく文が書けず、ずいぶんややこしい表現をしてしまってますが、僕が「実在論の宗教性」と名付けて問おうとしてるのはそういう感じのものです。

67横山:2019/01/12(土) 11:22:40
(付け加え)

単に世界の実在をどこかにある何かに委ねるのも、この私が今生きているという現実こそが世界の源泉だとしてそれに委ねるというのも、どっちも大して変わらないのじゃないか、とか。

それなら、後者の方が得じゃないのか、とか。

そういうような実在論の問いかたもあり、それをするのに、言語論的な実在論の問いかたもあるのじゃないか、とか。

そして、その言語論的な実在論の問いかたの方が実は根源的な問いじゃないか、とか。

そういう感じです。

68ムラタ:2019/01/12(土) 17:22:21
どなたか、>>66の横山さんの説明がわかる方はいますか?
10回以上読みましたが、何ひとつ理解できませんでした。
横山さんも説明に苦しんでおられるようなので、わかる方がいるなら助けてほしいです。

69久保共生:2019/01/12(土) 17:26:31
>>62
横山さん

>「行為についての言明において、発言者がその行為を行為として判別し得ないのであれば、その言明は行為について語ることはあり得ない」という点にかんする話だということで良いですか。

すいません、よく分からないです。或る言明が何らかの行為についての言明となるための条件みたいな話をされているのですか?
おそらくここでの議論の焦点は、「身体活動はそれが語られない限り行為ではないのか?」という点ではないでしょうか?
つまり、非言語的行為というのを認めるか否かという議論ではないのですか。

70ムラタ:2019/01/12(土) 18:09:07
横山さんは僕が日本語や英語やスワヒリ語などだけが言語だとみなしていると思っていませんか?僕はそれ以外にも言語でありうることは当然理解しています。

たとえば、ある学校のクラス内で「背中をかく」という行為を「あなた」という意味だとクラスのみんなで決めることは可能でしょう。それから、「足を組む」という行為を格助詞の「が」という意味だとみんなで決めることも可能でしょう。最後に、「咳をする」という行為を「好き」という意味だとみんなで決めることも可能でしょう。手話なんかはこれに近いことをやってますね。これらの行為を僕は言語と受け入れることができます。

しかし、学校から家に帰って、ただ単に背中がかゆいから掻いただけなら、それは言語とはいえないでしょう。それは単なる生活行為です。言語であるためにはそれが現実の代理物であることが必要ですが、単に背中がかゆいから掻いただけなら、それは現実の何かを代理しているわけではなく、単なる現実的な行為にすぎません。それは言語ではなく、非言語的な現実的行為です。

71横山:2019/01/12(土) 18:54:25
ムラタさん、
そうですか。やはり、伝わりませんか。
僕の「言語観」はかなり偏ってるのでしょうね。
しかし、それでもその偏った言語観だからこそ考えられる思索がある、と思われます。
ただ自分でどこがずれてるのかよく分かってません。自分ではかなり真っ当な言語観をもってるつもりでいるので「ここが違います」と言えないで困っています。
それでも、少しずつでも説明させてもらいたいと思います。
ややこしい話に付き合わさせてしまって申し訳ないですがよろしくお願いします。

まず、僕が問題にしている「言語の問題」は、「いかに言語の原初の発動が可能になるのか」という問いと同レベルの言語の源泉的な問題です。
で、「『背中を掻く』という行為が『あなた』を意味する」という言語的な規則を某かの既存の言語規則に頼らずに言語規則として立ち上げ共有するにはどうしたらよいか、という点を問題にしたいと考えます。
そして、そのような言語の原初の立ち上がりを問うのは、「論考」の要素命題を立ち上げるにはどうするかという問いと同じものになると思ったので、「論考」の話をしたのだと思います(自分でもはっきりしてないところも多いので、申し訳ないのですが)。

そこで、世界にはまだ言語がなく何かの記述をする道具がまだ用意されてないという場を考えます。
犬と主人が暮らしているがそれを語る言葉がなかったとしましょう。そこで毎日毎日主人が帰ってくるたびに犬がしっぽを振り、帰って来てないときには降ってなかったとすると、「犬のしっぽ振り」は「主人が帰って来た」という世界の内容に対する一つの言語的像とすることができるかもしれません。ただし、そのような生活の上での繰返しのなかからそれを規則として立ち上げることは可能でしょうけれども、まだ言語成立以前という話でしたから、その定義をするのに他の言葉を利用するわけにはいきません。そこでそのような、確定した約束のないままに「それが某かの規約であることにしてしまう」という「なし崩し的な規則のでっち上げ」の行程が必要になってきます。

そして、そのように考えるとすべての言語はそのような「でっち上げ的な規則」の積み重ねでしかない、と考えることができます。

とりあえず、ここまでのところで今回はいったん説明を終わります。
どうでしょうか。まだ、ダメでしょうか。

72横山:2019/01/12(土) 19:03:52
>>69
久保さん、

「非言語的行為」を認めるかという問い方には、僕は、

①「言語化されない行動をなすことはあり得るか」という問いと、
②「ある行動について言語化しないままにそれを行動として認識することができるか」という問い、
の2つを感じてしまうのですが、それは僕ははっきり分けた方が良いだろうと思う、
と言いたかったのです。

そして、僕の問いは、それで言うと②の問いに近いものになるの思います。

73ムラタ:2019/01/12(土) 19:58:42
>>72
横山さん

ちょっと待ってください。
また問題がズレてきてませんか?

>>48で僕が「明日も太陽が昇る」ことを皆は言語化せず非言語的に鵜呑みにして生活していると述べました。それに対し、横山さんは>>49で、非言語的に思い込んで生活するということは横山さんがが使っておられるかなり広い意味の「言語」では不可能になるとおっしゃいました。物事を認識する分析システムすべてが言語だと言って。
つまり、僕が言った「明日も太陽が昇る」ということを皆が言語化せず何となくぼんやりと鵜呑みにして生活しているのは「非言語的」行為なのでなく横山さんにいわせると「言語」に回収されてしまうということで、それはヘンじゃないかという話だったと思うのですが。

74横山:2019/01/12(土) 20:32:40
>>73
ムラタさん、

おっしゃるとおりかもしれません。僕が二つの意味の「言語」を混同して混乱させたかもしれません。




久保さん、
スミマセン。僕が混乱して返答したかもしれません。
ぼくの意図は>71のムラタさんへの返答から読み取ってもらって良いでしょうか。

75横山:2019/01/12(土) 20:54:01
>>61
久保さん、

いろいろうまく整理できず混乱したまま回答してしまい、ごめんどうに巻き込んでしまいました。スミマセン。
幾つかの混乱をキャンセルしてもう一度、
「自分が行動したことについて、自分で何をしたのか分からないという場面をどう考えるか」
に回答し直します。

自分の無意識的行動を分析するのに、

①「その行動を為した時点での自分」の言語的な認識がどうだったか、を考える、という視点と、
②「その行動について発言する時点での自分」の言語的な認識がどうなってるか、という視点とを、

分けて考えるとパラドックスにはならないのではないか。

ということが言いたかったのです。
これで、すこしは混乱が整理されてたら良いのですが。

76横山:2019/01/13(日) 11:37:19
僕の考えを説明することへのチャレンジを続けてみます。

実在と言語化の問題について。

主体と何一つ関与をしない物質というものの存在を考えてみる。実在するニュートリノというものも我々との相互作用は非常に小さいので地球でさえ貫通してしまうらしいけど、それでも微少の相互作用があるのでそれを検出しその存在を問うことには意味がある。しかし、その相互作用が何もないような存在というものはそれを検出することは原理的にあり得ない。だから、それが「本当はある」などと言ったところでそんな「本当」なんぞ、何の意味も持ち得ないのではないか。
そう考えると、あらゆる実在というものは主体との関係性の下でのみ有意味なものになり得るのではないか。

さらにそのような考察の下では、主体との関係性以外には如何なるものも前提されないことになり、あらゆるものはその関係性の後で構成可能なものとして存在することになる。同一律、矛盾律、排中律のような論理則や時間空間のような感性の対象でさえ、その関係性の後のものとすべきではないか。

さて、では、その主体とは如何なるものとすべきなのか。しかし、今の考察においては主体なるものの内実さえも某かの実在者として前提することはできない。
ならば、今こうしてここに問うている問い自体を出発とするのが、最も誠実なやり方なのではないか。それは「世界の存在とは何か」という問いを発したのきの、その言葉そのものをその問いのスタート地点だとすることである。
(ただしこれは、そうしなければならないという話ではなく、そうすることができるという話である。それでも、かなり誠実なやり方の一つであることは疑えないのではないか。)

そして、実在をそのように問うとするならば、実在は言語によって語られたものとしてのみ有意味なものであることになる。
言語によって分析されてない実在なんてものは、分析されてないのだから「無い」でさえない。何者でもないようなナンセンスでしかないはず。我々と一切の相互作用を持たないニュートリノが、かり「実在する」と定義されたとしても、そんなものは「ある」とも「無い」とも有意味に言うことができないような何者でもないナンセンスでしかないように。


という感じで、僕には、実在を問うにしてもそれは言語との問題から離れて問うことに意味を見出だすことができないと、そういう感じです。

77横山:2019/01/13(日) 13:45:41
>>76 で、「有意味な実在は言語の下でとらえられるべきこと」について、
>>71 で、「すべての言語が、慣習や感覚の癖などに基づいた分析でなければならないと同時に、やはりでっち上げ的な規則の積み上げたものでしかないこと」について、

というところについて、僕の考えをとりあえず説明させてもらいました。

最後にその二つから、「実在の宗教性」への懐疑をどう考えたかについて、説明してみます。

二つの考察を合わせると、
世界の実在を求めるには、「我々が世界に対して、どう行動しどう感覚するか、そしてそれをどう捉えたいとするか」を基盤にして分析することが、どうしても必要である、と結論されるように思われます。

しかし、一方で、
あらゆる規則は、どうやっても確定され得ない、はずである。それは、記述されたあらゆる物理法則は実在からずれてしまう可能性を排除することができない、という点で不確定であるだけでなく、
言語規則自体がずれてしまうかの失せを排除することができない、という不確定性もあり、その二つの点で、必然的に不確定なものでしかない。

ならば、分析が規則によるものでなければならないとすると、
「あらゆる実在を考察する際に、我々は、現前(厳然?)する世界に対して、存在論的な意味でも、言語論的な意味でも、不確定なチャレンジを図ることだけが、最大の実在である」ということを認めるべきようになると思われる。

その不確定なチャレンジに対して、
例えば、「一切を神の意思」という基盤をでっち上げるのか、
「過去と未来と現在が実在する」とする基盤をでっち上げるのか、
「過去と現在だけが実在だ」とする規則がでっち上げるのか、
「人間の知らない最終的な確定的物理法則がある」とする基盤をでっち上げるのか、
どのでっち上げについても、ここまで懐疑した上での対立なのであれば、それぞれが楽しいでっち上げに対して「自分の基盤」を論拠にして批判することしかできず、それゆえ、誰も有効な批判をすることができないのではないか。

その意味で、あらゆる実在は「でっち上げ」でしかなく、それは一般的に言われる宗教と五十歩百歩であろう、と。

そういう懐疑です。

できるだけ根源的な懐疑を果たそうとした結果、完全なニヒリズムの極のまで至った考察であるとも言えるとおもいますが、
我々が今生きていることを言語の根拠とし、実在の根拠とするとして、「生の哲学」をでっち上げるのであれば、それはそれで十分に意義深い実在世界を立ち上げることができるだろう、と感じています。

78横山:2019/01/13(日) 13:47:55
言語規則自体がずれてしまうかの失せ



言語規則自体がずれてしまう可能性

79横山:2019/01/13(日) 13:50:29
それぞれが楽しいでっち上げに対して



それぞれが他のでっち上げに対して


スミマセン。間違いいっぱいです。

80ムラタ:2019/01/13(日) 14:18:23
横山さん
>>77

ほとんど理解できないのですが、結局の所、横山さんにとって、真に完全な意味で、あらゆることがでっちあげだということになるのでしょうか? でっちあげじゃないものなんて何もないということになるんでしょうか?

81横山:2019/01/13(日) 14:44:58
>>80
その通りだと思います

82ムラタ:2019/01/13(日) 14:49:06
>>81
横山さん

では、いじわるなことを言います。
横山さんが今「すべてはでっちあげだ」とした論証もでっちあげだということになります。

83横山:2019/01/13(日) 14:53:58
>>82
とても面白い。嘘つきパラドクスみたいですね。「でっち上げ」でもパラドクスになるのでしょうか。

でもやっぱり、でっち上げでなければならないと思います。

84横山:2019/01/13(日) 15:08:46
僕の「すべての世界記述はでっち上げ」論は、ウィトゲンシュタインの『規則のパラドクス」を受け入れるなら、どうしても出てきてしまう反実在論的な懐疑の一つだと思います。
だから、「反実在論」は「実在論」をでっち上げだと批判する。
でも、その『規則のパラドクス」自体がでっち上げだとすることももちろん可能であるので、
そうすると「実在論」は「反実在論」こそがでっち上げだと批判するすることもできる。

だから、互いに互いをふんづけあってるとも言えるが、その構図自体は、やはり「反実在論」的なニヒリズムの状況の範疇だと見ることもできる。

そんな感じですかね。

85横山:2019/01/13(日) 15:33:53
だいぶん頑張って欠いたのですが、理解不能な文でしかないのですかねぇ。
力不足が不甲斐なくて残念でなりませんが仕方ないです。いったん諦めます。

86横山:2019/01/13(日) 15:34:48
欠いた



書いた

87横山:2019/01/13(日) 17:52:53
もう誰かに向けたメッセージではなく、独り言として呟かしてもらいます。

一神教的な神の存在は、無神論者からするとかなり馬鹿げた思い込みによる見えると思う。
けど、「目に見え聞こえるもの考えられるものすべてが神であって、それはもうそうなっていることから、これ以上論証のしようがないほど確実に明らかだ」という信仰者の言い分と、
「眼前にある湯呑みは、見えるし触れるし、実際にあるのだから、これ以上論証のしようがないほど確実に明らかだ」という実在論者の言い分は、
どっちが優勢とも言えないように思える。

というのが、結論としての感覚。

88横山:2019/01/13(日) 18:30:33
そのどっちが優勢かを考えるには、私が生きていく上でどっちが得かという自分勝手な指針で測るのが、最も有意味で有効なやり方に思える。
その意味で、生の哲学は大いに有用だと。

89ウラサキ:2019/01/13(日) 19:43:38
あと、多数決ってのも大きな要素かと。

今の日本で有神論は明らかに少数派でしょうが、実在論は圧倒的多数派かと。
それゆえ、有神論は「宗教」、実在論は「常識」というレッテルが貼られているのだと思います。

90ムラタ:2019/01/13(日) 19:44:45
>>87
その例って、前者が「考えられたことの明証性」で後者が「知覚の明証性」だと思うのですが。
存在性格が異なるのに同一レベルの明証性としていいものなんでしょうか?

91久保共生:2019/01/13(日) 20:25:58
じゃあせっかくなので僕も少しコメントを。

僕としては、メイヤスーみたいに世界の実在性を人間の生から切り離してそれ自体で扱うような考え方には、実はあまり興味が持てません。
相関主義を批判して、世界それ自体の実在を主張したところで、別にそれが間違っているとは思わないですが、正直「それがどうした」としか思わないです。
世界が実在することを証明しようとするような問題の立て方よりも、人間の生においてなぜ世界の実在性が要請されざるを得ないのか、というような問いの方に僕は魅力を感じます。
世界が実在するというのは暗黙の前提なのであって、おそらくこの前提なくしてはそもそも普通の生活を送ることすらままならないでしょう。
その意味で、世界の実在性は「でっち上げ」だと言ってもよいのですが、僕としては、それなくしては生きてゆくことができない類の前提だと主張したいです。

ちなみに、僕は前々から他者の心の問題を考えているんですが、この問題についても、問いの立て方は同じです。
すなわち、他者の心の存在を証明するような問題の立て方は不毛であり、人間の生においてなぜ他者の心の存在が要請されざるを得ないかを問うべきだと考えています。

92久保共生:2019/01/13(日) 20:29:16
わりと横山さんの考え方に近いかもしれません。
ただ言語の捉え方に関しては異論がありますが。

93横山:2019/01/13(日) 21:18:28
>>91
去年の僕のメイヤスー紹介はあまり上手くできなかったので、生の哲学から遠い人に見えたかもしれません。
しかし、僕は、メイヤスーの哲学が「相関主義を徹底していくことでその奥に相関主義を乗り越えた実在論があり得るものとできる」と考察したものだと理解しています。そのような生の哲学の一つとして読むことが可能なものだと思います。

94横山:2019/01/13(日) 21:20:34
>>90
まあ、僕に言わせてしまうと、何でもかんでも「でっち上げだ」ってことにしてしまうので。

95久保共生:2019/01/13(日) 21:22:46
>>93
そうなんですか。
それなら面白いかもしれません。

96横山:2019/01/13(日) 21:27:11
>>89
なぜ多数決なのでしょうか。

それは、他者の存在を私と同等のものと前提してるからではないでしょうか。

では、なぜ他者を私と同等のものとするとするのでしょうか。

それは、やはり、実在論的な立場に立つゆえ、か。
または、宗教的な立場に立つゆえ、か。
あるいは、僕の言うように、生の哲学の立場から考えるゆえ、か。
みたいに、さらに、振り分けられ得るものになりそうな気がします。

如何でしょうか。

97横山:2019/01/13(日) 21:28:20
>>95
ええ、ですから、久保さんには結構オススメの書だと思います。

98ムラタ:2019/01/13(日) 21:36:33
>>94
なるほど。それならそのことに関して、もう僕は何も言えません。

ちなみに、僕は「すべてはでっちあげだ」という文は>>82でやったように自己言及のパラドックスという点でも問題があるし、またもうひとつ困難な問題を抱えていると考えているのですが、もう散々揚げ足とりして横山さんを困らせてしまったし、僕自身結構疲れたので、もうやめておくことにします。

これまでの議論で横山さんにはご迷惑をかけたかもしれません。どうぞご許しを。また機会があれば同好会に参加させて頂きたいと考えているので、そのときはよろしくおねがいします。

99横山:2019/01/13(日) 21:43:07
>>98
いえいえ、迷惑だなんてとんでもない。
ムラタさんからの指摘は、とても興味深く鋭く、自分自身でも問題を考えていくのに、たいへんありがたかったです。
まだ、十分に整理できていなくて、きちんとした表現ができるまでにはなってませんが、お陰で、これでも僕自身としてはかなり問題の整理が進みました。
ありがとうございました。
また、ぜひ同好会にもお越し下さい。今後ともよろしくお願いします。

100横山:2019/01/13(日) 21:48:41
最後のまとめ的な感じになると思うのですが、

世界とは、どんな風に理解しようとしても結局は「でっち上げ」でしかないようなものだ。なので、
人生がどんな人生も冒険でしかあり得ないのとまったく同じ意味で、
どんな世界も冒険の舞台としての世界でしかあり得ない。

というのが、現時点での僕の結論です。

101ウラサキ:2019/01/14(月) 03:13:31
>>96
語の意味は、個人が決めるのではなく、共同体の合意(convention)
で決まるからです。

102横山:2019/01/14(月) 05:39:45
>>101
他者がなければ意味はあり得ないということですか

103横山:2019/01/14(月) 07:19:23
>>96
なぜ共同体との合意で決まるとされるのでしょうか。

それは、他者の存在を私と同等のものと前提してるからではないでしょうか。

では、なぜ他者を私と同等のものとするとするのでしょうか。

それは、やはり、実在論的な立場に立つゆえ、か。
または、宗教的な立場に立つゆえ、か。
あるいは、僕の言うように、生の哲学の立場から考えるゆえ、か。
みたいに、さらに、振り分けられ得るものになりそうな気がします。

如何でしょうか。

104横山:2019/01/14(月) 07:20:20
>>101
なぜ共同体との合意で決まるとされるのでしょうか。

それは、他者の存在を私と同等のものと前提してるからではないでしょうか。

では、なぜ他者を私と同等のものとするとするのでしょうか。

それは、やはり、実在論的な立場に立つゆえ、か。
または、宗教的な立場に立つゆえ、か。
あるいは、僕の言うように、生の哲学の立場から考えるゆえ、か。
みたいに、さらに、振り分けられ得るものになりそうな気がします。

如何でしょうか。

105ウラサキ:2019/01/14(月) 08:06:13
>>102
言語の定義上、他者を必要とします。

ケンイチさんの言うとおり「私的言語は詩的言語」であり、
独自の意味付けで語を使用するのは、
一種の詩作ではないでしょうか。

「宗教」という語には日本語話者間において暗に合意されている用法があり、
「無根拠な前提」というのはその一部にしか過ぎないと思われます。

106横山:2019/01/14(月) 08:35:08
>>105
なるほど、
納得はできませんが。僕の考える私的言語批判とはだいぶん違いますが。ウラサキさんの考えはわかりました。

あと一つ、ウラサキさんが考えておられる「言語」の定義とは何か、教えてください。

107横山:2019/01/14(月) 08:37:20
>>105
「宗教」じゃなくって、例えば「宗教的」だったら良いですか。
それなら今後そうしますが。

108横山:2019/01/14(月) 08:47:38
「実在論の宗教的な思い込みによるでっち上げ性」

109ウラサキ:2019/01/14(月) 09:39:46
>>106
「文法を持つコミュニケーションの手段」といったところでしょうか。

>>107
その言い方も宗教者を自認している方々には失礼に当たるのではないでしょうか。
単に「無根拠な思い込み」だけで十分だと思いますよ。

110横山:2019/01/14(月) 09:53:29
>>109
回答ありがとうございます。
わかりました。
そういう定義をするなら、ここでやってる僕の思索とは交わるところは無さそうですね。


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