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TK師との会話

1 TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

271 ラピ。 :2014/01/11(土) 11:21:30
☆TK師

>何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
>宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

はい。確実にそうです。
本当にそうだと思います。
そんなもん、知らなかったですから。

でも普通に生きていて、自分自身の疑問にぶつかり、
自然に実践していました。

私が小学生の時でした。

これが私の後悔しない生き方でした。
それをしただけ。
それがいわゆる「実践」となりました。

実践、小学生でもできたんですよ。

これから言えることは、
スピ系は一度捨てて、
人間らしく人間として
自分の「善」を拠り所に
精一杯日々を生きることです。

スピ系の理論を振りかざして
のらりくらり
きれいごとを並べるだけ。

その時は心地よいかもしれませんが、、、、。

そんな楽ちん路線を行く人に激流が起こるはずがありません。
(それでいいという人には何も言うことはありません)

でも、せっかく人間の世界に生まれてこれたのだから
このチャンスを逃さないほうがいいのではないでしょうか。

頭で考えるのではなく
しっかり自分らしく精一杯頑張ってください。

単にそれだけ。

スピ系の本を買わなくてもいい。
自分の「善」を信じて頑張るだけ。

今世で至れなくても
その経験が次の世でそれが生かせるはずです。

無駄なことはありません。

私は常に精一杯やりました。

本当に精一杯やってよかった。

必死になってがんばってよかった。

ほんとうによかったと
今思います。

本当にあきらめず
精一杯がんばってよかったです。

ほんとうによかったです。


TK師、本当にありがとうございます。

TK師のかつての実践の書き込みがなかったら
TK師の実践を知ることもなく、
私がTK師にコンタクトすることもなかったと思います。

272 ラピ。 :2014/01/11(土) 12:18:25
ちなみに、
人それぞれに道がありますので
私の方法そのものが適していない方もいるかもしれません。

でも、少なくとも、
今、自分の中にある問題に対して
それを誤魔化すのではなく
ちゃんと向き合い、よく考えれば
どの様な方も今の状況でできることがあります。

人それぞれの段階があります。

私の精一杯も、その都度
自分のその時の精一杯でした。

激流の実践に比べたら
小学校から始めた第一の実践は
とても甘いです。
(でも それすらもできない人もいますが)

でも、それでもその実践が必要だったのです。

だから、まずは今の自分の問題がいったい何なのかを知り、
それに対して
今、できることからやっていく。

それが大切だと思います。

どんな時も「自分の善」を信じてくださいね。

私も自分を信じてがんばりました。

273 TK :2014/01/12(日) 10:34:17
激流の実践、これを私は約1年間で渡り彼岸を成就した。

ラピ。さんの激流はもっと長かったと言う。

この差は、たまたまテキストとしたものの違いであったと言える。

私はここにも書いたが、新約聖書と釈迦の僅か2冊の仏典。

私はあえて最低限を心がけ、これだけになった。

理論的に分かっていてそのテキストを利用したわけではなかった。

私にとっての一番の取り組み課題は、「悪魔(サタン)」対策だったのだ。

私は悪魔と戦う手段を探して、このテキストを取り入れる事としたのだった。

日常実践、禅定にタパス(苦行)。

ラピ。さんとの激流期間の違いは、
たまたま取り入れたテキストの違いによる先達が残した手掛かりの違いと言える。

例えば私は激流の実践時、釈迦の経典をテキストにしていたので、
有る時は純粋に空間認識を利用する実践をしていた。

空間を認識し、その空間に自分の思考を含む感覚が浮かんでいる、
そのような実践法です。

これは、この空間認識を利用する事により、
肉体と空間との境界線を無効にする実践でした。

形のある世界を脱出する第一プロセスですね。

つまり、ラピ。さんの激流時の実践より、
私は釈迦の経典と言う先達の手掛かりをもとに進めた分だけ、
効果的に進む事が出来たと言えることでしょう。

今の私やラピ。さんには私がこの際に利用した空間認識すらありませんが。

誤認覚者の前には世界はおろか空間すらあるのですよ。

完璧にふざけた、あれは従者を引き連れたちんどん屋の世界ですね。

こんな者が覚者と言う事態、バカも休み休みです。

「対象」を超えるためには、まず最初に空間認識は消滅させなければならないのです。

私が一番面食らったものは、私はある時、
全ての次元を次々と上昇し突き進んでいき、最終的にある領域に突入した。

突入したと言う表現より、様々な次元を突き進んだその果てに、
最終的にこの宇宙を全て脱ぎ捨ててしまったと表現するとちょうどピッタリの表現だ。

帰還した後、この経験がなんだったのか、文献類を探したが見当たらない。

至高体験のあの光のチャラチャラみたいな世界は、それとは違うし、
なんでそんな究極でもないまがい物を人々はさも究極の至高のように表現したりしているのだろうと思いました。

私はそれまで、世界各地に存在する様々な教えの究極はみな、
同一の所を指していて、至れば自分もそれが分かると思っていたからです。

それはこの宇宙に存在する言葉では一切表す事は出来ないものなのだが、
あえて便宜上「ゼロ」と表現するのが一番近い表現だ。

旧約聖書の光と闇が分かれるより以前だ。

そこでは時間が無い、僅か0.1秒も100億年も皆一緒だ、今すらない。

これが釈迦の教えを取り入れた結果として明らかになった究極だ。

それは、そこに至るまでの過程としての否定語でしか表すことが出来ない。

下手すれば、生還すら出来ない。

私は一旦死んで生き返ったんだ。

私の場合はその後に、フリダヤ(心臓又は心)の解脱、
次いで今いるマインドの解脱が明らかになった。

新約聖書だけでは、マインドの解脱までしか明らかには出来なかったんだ。

確かにイエスの3年未満の活動期間で取り上げるような内容では無い。

274 ラピ。 :2014/01/12(日) 18:12:10
☆TK師

いつもありがとうございます!


私はすっごく長〜い激流でしたね。
激流では一瞬も気が抜けなくて命がけです。

激流だからちょっとでも気を抜いたら流されてしまう。
気を抜いたら溺れ死んでしまう、ということです。

他人事みたいですが、よくやりましたねぇ(笑)

しかしかなりの遠回りをしていました。


師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
大変貴重だと思われます。

しかし私にはそれは明らかになっていないので
それを想像すれば、誤解しかねません。

だから、そうなんだ、とそのまま受け止めておきます。
あとで、分かるかもですしね。

師匠、ありがとうございます!

しかし、経典ってほんと見事ですね。

275 名無しさん :2014/01/12(日) 19:04:29
>273、274
あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?

276 ラピ。 :2014/01/12(日) 20:48:25
☆273さん

次元なんてありませんよ。

277 TK :2014/01/12(日) 21:18:17
面白い。

名無し
>>273、274
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?


>師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
>大変貴重だと思われます。
>
>しかし私にはそれは明らかになっていないので
>それを想像すれば、誤解しかねません。

対照的だ、しかし、ラピ。さんは想像できないから安心ですよね。

278 ラピ。 :2014/01/12(日) 21:46:40
☆TK師

はい、妄想できません。

@(*・ω・*)ポッ


ちなみに そうでないことを想像しても
それは単なる妄想になってしまいますので
それよりは現実的にしっかり生きて
日々、精進されたほうがいいと思いますよ。

はい!

279 275 :2014/01/12(日) 22:17:31
>276-278
あの〜想像も何も、私達が住んでいるこの世界は「3次元」なんですが・・

とにかく、少なくとも、ここで軽く100回以上登場している「次元」という言葉
「次元上昇」「低次元」「高次元」「異次元」などは、もう利用しない方がいいと思いますよ
何も知らない人達に妙な誤解や妄想を生むだけだと思います

280 ラピ。 :2014/01/12(日) 22:34:09
☆275さん

想像とは
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?
これに関してのことですよ。

この疑問が浮かんだ、ということは
すでに想像(妄想)しているんです。

ちなみに何も知らない人達って誰ですか?
そして275さんは何か知っているのですか?

281 ラピ。 :2014/01/12(日) 22:38:47
276の私の書き込みは
275さんへのお返事でした。

訂正いたします。

@(*・ω・*)ポッ

282 TK :2014/01/12(日) 23:22:19
名無しってやっぱりバカだったんだ。

無視したほうが良いんじゃねーの。

うつると悪い。

表現の自由にまでちょっかい出してきた。

283 名無しさん :2014/01/12(日) 23:31:24
>281-282
実に面白いですねw

>この疑問が浮かんだ、ということは
>すでに想像(妄想)しているんです。

いえいえ、現実社会の常識的には異次元も人間の次元上昇もないんです
だから、逆にあなた方が想像(妄想)しているようにしか見えないんですよ

あなた方は、次元という言葉を誤用しているのではないでしょうか?
次元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E5%85%83

百歩譲ったアドバイスとして、「意識のレベル」とかいった表現に
置き換えてはいかがでしょうか?そうすれば、大袈裟さも胡散臭さも
半減する可能性はありますよ

284 名無しさん :2014/01/12(日) 23:37:35
>名無しってやっぱりバカだったんだ。
>無視したほうが良いんじゃねーの。

私にはバカを相手にいい気になっているバカにしか見えないのですが、
そんなあなたがバカは無視した方がいいって思うのであれば、それは
それでいいんじゃないですか?私は、どうでもいいですからw

285 TK :2014/01/12(日) 23:44:26
名無しが力んでら。

おもしれぇ。

286 名無しさん :2014/01/12(日) 23:56:28
>285
ファイナルアンサー?w

マジでおもしれぇww

287 TK :2014/01/13(月) 00:16:10
やっぱりこいつバカだ。

288 名無しさん :2014/01/13(月) 00:33:55
>やっぱりこいつバカだ。

やっぱりTKって奴はバカだ

実に面白いよ、あんた方ww

289 TK :2014/01/13(月) 00:46:08
やーめた。

遊んでやるのもくだびれた。

こいつはいつも遊ばれるために出てくるんだ。

290 ラピ。 :2014/01/13(月) 08:36:18
☆283さん

>いえいえ、現実社会の常識的には異次元も人間の次元上昇もないんです

そう思い、そうだと信じてるのなら
それでいいんじゃないですか?

この掲示板を見る必要もないですね。

なぜならあなたの中ではそれが真実だからです。
こちらの言葉なんて、必要ないでしょう。

どうぞそれらを信じて生きてください。

>百歩譲ったアドバイスとして、「意識のレベル」とかいった表現に
置き換えてはいかがでしょうか?

別に100歩譲らなくてもいいですよ。
単刀直入にどうぞ。
どんな表現がぴったりなんです?

「意識レベル」という言葉も
聞く人によっては十分胡散臭いですね。

ちなみにあなたが言われている「意識レベル」の
意識ってなんですか?

「私」という意識だったりしますか?

それともエゴ?

意識レベルってそのエゴのレベルですか?

291 TK :2014/01/13(月) 12:51:29
「裁いてはいけません」これは聖書にイエスの言葉として出てきますし、
ごちゃ混ぜスピ系や精神世界は意味も分からず、
教相判釈をしようとする知恵さえ働かせない、
とても科学の時代の人間とは思えない愚行に酔いしれて拾って喜んでます。

あなたは酔っ払いになりたいですか、それともしらふで居たいですか。

酔っ払いになりたければ、死ぬまでスピ系で酒を浴びていて下さい。

これは、「裁いてはいけません」この言葉だけで完結している内容ではありません。

実は「裁きなさい」と言う指示も含んだ言葉なのです。

全く反対の言葉ではないですか、と思う近視眼の人もいるでしょうか。

しかし、並べ方を工夫すると一つの言い回しに、
両方の意味が矛盾せずに使える言葉なのです。

この件については「裁いてはいけません」がこの件については絶対的に「裁きなさい」なのです。

「やってはなりません」の規制用語のみが出てきているから、
今の時代では紛らわしいのです。

反対に、「裁きなさい」でこの言葉が表された方が、
今の時代には理解される言葉になります。

私もこのような事を教えてくれる協会があったら、探究者当時もしかしたら、
通ったかもしれませんが、あるいは宗教学者とかいたらと思いますが、
まず聞いたことないですね、
みんなイエスの名前だけ掲げたニセ者がやっているのです。

宗教学者にしろ教会にしろみなニセ者がやっているのです。


マタイの福音書 5章38-39
>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

マタイの福音書 5章43-44
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。


この内容にはある一つの共通した線があるのです。

「以前はこの内容の実践を続けてきましたが、あなたがたについては今度は次に進みなさい。」


マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

「イエスは律法や預言者を廃棄、即ち、
今までのその人たちが教えてきた内容を駄目だとしてしまうのではなく、
さらに次の段階に進ませるための内容をあなたがたに授けに来たのです。」

(続きます)

292 TK :2014/01/13(月) 12:51:59
(続きです)

このように読むと、これを言われたマタイと言う人たちはそうなんだと、
全ての人がそうだと言っているわけではありません。

つまり、2段階の教えの内容の内のマタイたちは1段階目はクリアーできたんだよ、
次2段階目だよ、と言う内容なのです。

これ、私の一次実践と二次実践にそのままあてはまります。

スピ系にバカな人たちが沢山出た理由は、一次実践をクリアーできてもいない人が、
直接二次実践内容に手を出した、また、手を出せと命令した、この禁を犯した罪です。

これで、イエスの教えはまともに伝わるどころか、
世界中に多くの酔っ払いを算出する結果となりました。

これ私が覚者と認めるEO氏が説いていた、まずは、
人間としてのサバイバル能力が必要だ、
と説いた事にもイエスの教えが合致するのです。


TK師との会話 - 悟りや幸せへの道
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12104/1373075256/226

>このように正反対の教えですが、
>実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。
>
>悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
>サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
>これこそがまずは必要なのであると説いているのです。
>
>理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。
>
>チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。
>
>この実践こそ必要なのです。
>
>EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
>頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
>その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。
>
>私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。
>
>私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。
>
>何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
>物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。


ちなみに次が「裁きなさい」の実践内容です。

>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。


次が「裁いてはなりません」の実践内容に合致するものです。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

一見すると「裁きなさい」と「裁いてはなりません」
この二つは全く別の共通点の無い実践内容に思えるかもしれませんが、
実は一つの共通ラインに乗っています。

(続きます)

293 TK :2014/01/13(月) 12:52:29
(続きです)

この共通点は両方を「裁きなさい」と言う一つの言葉で表す事によって見えてきます。

その為に「裁いてはなりません」の実践内容を「裁きなさい」と言う表現を使って説明します。


>しかし、並べ方を工夫すると一つの言い回しに、両方の意味が矛盾せずに使える言葉なのです。
>
>この件については「裁いてはいけません」がこの件については絶対的に「裁きなさい」なのです。


「物質的な現象」について裁いてはなりません、
「自分の内面の悪魔(サタン)」を裁きなさい(悪魔又は煩悩と識別しなさい)、
と言う意味なのです。


マタイの福音書 15章11
>口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。

(自分の外から入る情報が汚れているのではなく、自分の中が汚れているのです。)

マタイの福音書 15章18-20
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。
>悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
>これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」


スッタニパータ439
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。


わかりましたか。

「裁いてはなりません」と言う言葉が独り歩きをしたおかげで、
本当のイエスの実践はほとんどの人が出来なかったので神の国へは至れませんでしたね。

「裁きなさい」と言う言葉で両方の第1次実践と第2次実践をくくれば、
共通ラインは見えてきます。

すなわち、第1次実践では物質的現象を裁きながら実践しなさい、
これがクリアーできた人は第2次実践として自分の内面を裁きなさい、
という事になります。

実は私がここで「裁いて大いに結構です」、このように説明したのは、
これが本当のイエスの教えだからです。

つまり、ニセ者は自分が至っていないので、受け売りしかできないと言う手段では、
こういう間違いを世の中にばら撒くという事をしでかすのですから、
ニセ者は止めて下さい。

あなたたちは罪を犯すだけなのです。

本当に世の中には至った私の眼で見ても、ニセ者はあっちにもこっちにも居ますが
驚くほどに至った人はいません。

聖書がこれだけ全国に普及しているにもかかわらずです。

つまり、本当の聖書が説ける人はいないのですから、
私の教えはさも珍しい類のものである事でしょう。

天然記念物と言った方が良いのか、私、ニセ者と違って本物ですから。

294 wai kei :2014/01/13(月) 15:14:25
TK師、素晴らしい教えを、有難うございます。

295 TK :2014/01/13(月) 22:39:47
wai keiさん

久々ですね。

ラピ。さんと言う人が成就したのです。

私が言うのもなんですが、奇蹟に等しいと思います。

言葉では表現できないくらいに尋常ではない事をしないと、成就できませんから。

うれしくて、私もまた、掲示板を少し汚してます。

296 wai kei :2014/01/14(火) 00:22:36
> wai keiさん

> 久々ですね。

ほんとうに、お久しぶりです。
その節は、大変お世話になりました。

貴方が私の前に現われてくれなかったら、
わたしは釈尊の真の教えに、出会うことが出来なかったでしょう。
そして、当時、密教の「ゾクチェン」に傾倒していた私に
「ゼロ」を教えて下さったのも貴方でした。
再び、ネットの世界で、こうしてお会いすることが出来て、
大変うれしく想っております。


> ラピ。さんと言う人が成就したのです。

はい、おめでとうございます。
とても、素晴らしいことだと思います。
mixiメールが、ラピさんから届いたときは、本当に驚きました。


> 私が言うのもなんですが、奇蹟に等しいと思います。
> 言葉では表現できないくらいに尋常ではない事をしないと、成就できませんから。

そうでしようね。
昔よりも現代の方が、遥かに難しくなっていますから。
私を含めて、「 酔っぱらい 」 のオンパレードですからね。
まさに「 百鬼夜行 」 の世界になってすますから。


> うれしくて、私もまた、掲示板を少し汚してます。

いえいえ、毒も薬も自在に使い分けて操るあなたの姿は、
それだけで、私を含めた、多くの人々の道しるべとなってます。
これからも、大いにご活躍下さるよう心よりお願い申し上げます。

私も、最後の「激流」に、これから足を踏み入れつつあります。
TK師が説いて下さった「ワクワクの実践」を、これから本格的に始めます。
これからも、どうぞよろしく、ご指導のほど、お願い申し上げます。

和井恵 拝

297 ラピ。 :2014/01/14(火) 07:48:16
みなさまおはようございます!
いかがお過ごしでしょうか?
@(*・ω・*)ポッ


☆TK師

いつもすばらしいお話をありがとうございます!


☆wai keiさん

先日はブログに拍手、ありがとうございます。

こうやってwai keiさんとTK師の会話を見れるのが
とてもうれしいです。

wai keiさんはこれからワクワクの実践を本格的に始められるのですね。
応援しています!



今日もよい日ですねぇ!

@(*・ω・*)ポッ

298 TK :2014/01/14(火) 23:44:26
wai keiさん

今考えると、二段階の実践の中の一段階目は重要でした。

全然苦しくなくて生きがいのある楽しめる実践ではありますが、
それでも意気込みは、自分の全人生をかけて挑むくらいの姿勢は必要です。

これは「理想」だけが全ての骨格ですから、
「自己犠牲」とか「人のため」とか「弱きを助ける」とか、
「平和」とか理想というものは色々なものがあります。

この自分の理想のために、全精力で臨んでいく、
このような姿勢で進んで行くのです。

宗教書は全く不要、実は内容的に害になります。

第一次実践は善を求める基本があれば、それだけで充分です。


大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)5・27

>スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。


聖書にしろ仏典にしろ、
人間から卒業する為の方法が主流に書かれているようなものですが、
人間としての幸せを追求できるものがそれをしようともしないで手を出すと、
現状のようになる訳です。

ヤゴが水の中での生活をしっかりしなければ、
やがて空に飛び立つこともできないように、
幼虫のままの生き方を全うする事をほっぽらかして、
飛び上がる方法ばかり研究しても、
結局いつまでたっても成長できず空に舞う事は出来ませんが、
それとは反対に幼虫としての生活をしっかり全うすれば、
時期が来れば羽で空を飛べるようになっているのです。

やがてすっかり成長することが出来れば、それ以上水の中で生きたくても、
生きることが出来なくなってくる、
その時にはテキストを利用して上に上る方法を学び空に羽ばたけます。

熟する前に、本来やるべき事を捨てて本見て空を飛ぼうとしても、無理ですね。

熟して空に出れば、今ままで水(エゴ)が無ければ動けないと思っていたのに、
水(エゴ)が無くても動けるんだ、何と快適なんだろうとなる訳です。

第1段階目の実践は重要であり、これをなおざりにした者が酔っ払いとなるのです。


大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)3・33

> アーナンダよ。これらの八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか?
>
>(内心において)〈物質的なもの〉という想いをいだいている者が(外において)〈物質的なもの〉を見る。
>これが第一の解脱である。


我々は精神体である前に、
物質としての人間が物質としての周囲に働きかける幸せの求め方というものがあったわけですね。

(続きます)

299 TK :2014/01/14(火) 23:45:14
(続きです)

私もラピ。さんもこのプロセスを踏んでました。

「現実的な行為」を主体とした実践です。

反対に「内面」に比重をかけたら元も子もありません。

ですから、不快が出たら、それを理想実現の原動力として、
行為で解決していくということで、ここで内面重視の感謝して喜んでとやったら、
その不快を受け入れてしまった分行為はもう不要なのです、
つまりこれが酔っ払いですよ。

まず、外を自分の理想で裁く実践もしない者が、自分の中を裁こうとしても、
そんなのうまく行くわけがない、これがバカの始まりです。

自分も物質、周りも物質、ここで物質同士の理想実現のための第一の戦場なのです。


居るんですね、不快も含む全てに感謝してとか、この手のものにかぶれて、
世界にそれを広めるんだ、この手の酔っ払い集団が。

誰しも見えない先を進んでいくのですから、
この人たちのように外れくじを引いてしまっても仕方がありませんが。

私は本当に、あの一時実践のままでずっと行けたら、
それでも良かったと思っています。

たぶんラピ。さんもそうだと思います。

所が、
ウルトラマンの前にどんな必殺技を駆使しようとも倒せない強大な敵怪獣ゼットン(理想を阻む最大の障害)が現れると、
さすがの無敵も無敵では無くなってしまう。

私もラピ。さんもそうプロセスなんですね。

お先真っ暗の崖っぷち、ここが、ようやく激流のスタートラインでした。

でも、ほんとに、あのままで行けたらそれはそれで私は幸せでしたので、
私はそれでも良かったです。

それくらいの生き方をしていて、心からの充実感も自信も、味わってましたから。

ま、再びあの時の幸せは、もうここに至ってしまうと逆立ちしても味わえませんが、
人間としての幸せは人間としての幸せで、それは良いものでした。

今は良いも悪いもありませんから。

人間としてそこまでの生き方が出来た人が、
場合によっては次に進むのだと思いました。

見えない先を進んでいく中でも、
私は引くクジ引くクジが運よくみな当たっていたみたいな恵まれたところがあったと思います。

ラピ。さんは1次実践○、2次実践△、3次実践×、4次実践○、
私の評価ではこんな感じでしょうか。

特に3次実践は、
2次で少し空いたところ(空っぽ)に変なものが入り込んでしまった魔境と言う所です。

失敗は成功の母と言いますから、それはそれで、
貴重な経験としてこれから接する人たちのために活かしていけると思います。

300 ラピ。 :2014/01/15(水) 08:50:23
みなさま、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>熟して空に出れば、今ままで水(エゴ)が無ければ動けないと思っていたのに、
>水(エゴ)が無くても動けるんだ、何と快適なんだろうとなる訳です。

まさしくそうです。
今とても快適です。嘘みたいです。

「エゴ」が消滅して初めて「エゴ」というものが何なのかが
わかりました。

その「エゴ」を本当の私だと思ってたのですが
それがある時突然消えた。

そしてこれは何?

となりました。

>ラピ。さんは1次実践○、2次実践△、3次実践×、4次実践○、
>私の評価ではこんな感じでしょうか。

まさしく私の第3の実践は×で使えないですね。

私は常に実践はしていました。
でもその実践の方向が正しくないと意味がない、ということですね。

かつてのブログはまさしく第3の実践のひとつです。
ちなみにそれがなければ、ブログを書いてませんでした、、、。

第2次は「エゴ」が消えるのが怖かった。
だから中途半端でした。だから△

第3はスピの実践。
私はこの時、人としてそれまでやっていなかったことを
やり遂げました。

十分やったので、その分時間はかかりましたが
手放せました。

十分やったからこそ、手放せたのですかね。

私の道のりは時間がかかってますが
それでもその都度、がんばりました。

それらは単にそれだけで私には問題ないのですが
でも、これから人にお伝えするものとしては
第3の実践はよくない。

そう今判断しています。

>特に3次実践は、
>2次で少し空いたところ(空っぽ)に変なものが入り込んでしまった魔境と言う所です。

そうですね。
第2の実践で一部、空っぽになりましたが
エゴは消滅できていなかったので
宙ぶらりん。

そこで一部からっぽのまま スピ系の知識を
何の困難もなくできていたわけです。

この「何の困難もなく」が問題で
まだあるエゴを消滅させるのに「激流」が必ず必要なのですが
そのころの私にとって激流は縁遠いものでした。

激流はスピ系やってる時では起こらなかったです。

まぁ、「幸せ〜」とかやっていたのだから
起こるはずないですかね(笑)

ということはスピ系、ずっとやってると
緩流に永遠に浸かっているだけ、という感じになりますかね。

地に足がついてない感じ、とも言えるかもしれません。。

だから師に出会ってスピをすべて手放し
一からやり直し。→激流

第2の実践の「一部空っぽ」が
すべて第4で「空っぽ」になったというわけです。

今、はっきり言えることは
スピ系やめて、
今の境地に至れてよかった、ということです。

TK師 ありがとうございます。

301 ゆうこ :2014/01/16(木) 19:25:03
TK様ラピ様 こんばんわ。

上記、拝読致しましたが
酔っ払いの定義について改めて確認させて頂いていいですか?

不快を理想実現の原動力として、
行為で解決していくべき所で、それをやらず
内面重視の対処をしてしまうと
行為がなくなり、物質同士のぶつかりのチャンス(激流)を逃すということでしょうか?

今までを振り返ってみて
「もうお手上げ」とか「死ぬか生きるか」という局面で
いわゆる「苦しいときの神頼み」や
精神修行のつもりで本を読んで考え方を変えたり
「感謝して喜んで」をやったりしてました。

何の力も(考えも)頼らず
自力のみで真正面から受け止めた事はなかったかもしれません・・・

全部自己責任と受け入れる事と
神様に頼ったり精神修行する事の違いがわかりませんでした。

少なくとも今回のお二人からのアドバイスのように
「一切の精神世界を断って自分の力(考え)だけで」
と意識したことはなかったです。

あくまでも
「自分が向上する途上で良かれと思って何かを参考にしたのだから、
それも自力本願のうち」
みたいな、曖昧な対処だったわけです。

今は自力での『結果主義生活』を送っていますが

これまで何度か経験したアレは、激流だったんでしょうか・・。
死ぬ程の辛さや頭が真っ白になったあの時に
神様に祈ったり感謝したら、
とても救われたような気持ちになって楽になったんですが

それは、
せっかくのチャンスを暖流として処理してしまったということなんでしょうか。

302 TK :2014/01/16(木) 19:59:41
ゆうこさん

>それは、
>せっかくのチャンスを暖流として処理してしまったということなんでしょうか。

そう言う事ですね。

つまり、あなたはその時に負けたのです。

過酷な現実からの逃避の一手段で他のものを掴んだだけです。

気持ちが弱くなり、逃げ場を探して掴んだものですね。

我々は崖っぷちに立ち、さらなる激流の中に身を投じ先に進みました。

我々はその追い詰められた時逃げ場を見つけよう等としたのではなく、
さらに命を落しても仕方がないような実践をしてましたから。

気持ちが負けなかったのです。

ラピ。さんも崖っぷちでは宗教とかスピ系とか精神世界ではなく、
さらなる能力開発にトライしたのですから、
あなたたち現状から逃げ腰になった人たちとは違うのです。

303 ラピ。 :2014/01/16(木) 21:45:32
☆ ゆうこさん

>神様に祈ったり感謝したら、
>とても救われたような気持ちになって楽になったんですが

救われたのだとしたら
ゆうこさんを救う存在があった、ということになりますね。

楽になった=自分を救う存在を求めてしまって激流終了
と言えます。

祈ることは「対象」の存在を認める行動となっていた
とも言えます。

対象がなければ祈れない。
祈る対象がなければ、何を何に祈ればいいのでしょうか?
対象がなければそれはできません。

別の言い方だとゆうこさんを救う存在=対象 と言えます。

救える対象があるから救えるのであり、
救ったり、救われたりは
対象が消滅したらできないのです。


だからそういう存在(神)すらも捨てて進まなければなりません。

でもゆうこさんがその激流を経験しているのなら
激流は並大抵の出来事ではないことをわかってらっしゃると思います。

だからそういう存在を捨てても突き進むということは
とても大変なこと。

何にも頼れないのだから 自己責任で進むしかありません。

TK師と同じく、私も命がけでした。

ちなみに、激流が起こった時、
本当につき進むのなら祈る暇はないんですね。

祈ってる間に流されてしまいます。

その時にある意志すべてを使って
激流に逆らって渡らなければならないのです。

304 TK :2014/01/16(木) 22:11:28
テレビのヒーローものが模範です。

テレビのヒーローは強大な敵が現れ負かされる事も時にはありますが、
その後やがて不死鳥のように再びよみがえりと言う筋書きです。゜

つまり負けたままではいない、真剣に倒す術を考え、
そして鍛錬を積み再び問題に不死鳥のように立ち向かう。

ヒーローが敵に負けて、その時の精神状態をごまかすすべとして、酒飲んだり、
やれスピ系だ、感謝して喜んで、こんなお話聞いても面白くもありませんし、
したくもありませんね。

こんなことやっていたら、そのうち誰か現れて、
主人公のほっぺたを平手打ちして「目を覚ませ」なに、逃げているんだ、
物語ならこのようになりますね。

こういう負け犬人生を歩んだ人がいたという事です。

ちなみに私が激流に飛び込む崖っぷちに立った時には、
私にはまだ足りないものがある、それが何か、
まずそれを何か掴まなければならない、
このように戦う姿勢の放棄はしませんでした、テレビのヒーロー的な進み方でしたよ。

今の、この苦しさから逃げるすべは、こんな負け犬な生き方は私はしませんでした。

305 ゆうこ :2014/01/17(金) 07:35:56
お返事ありがとうございますm(__)m

20代の頃、病気で激痛の日々
やけになって投薬を止めた頃に友人に連れられて初めて入った教会で
牧師が偶然、同じ病名の癒しを話しておられ
席についたあと、イエス様のような幻が近寄ってこられて
言葉でない言葉をかけられお腹も暖かくなって
後日、すっかり病理が消えていて医者を驚かせた経験をしました。
(当然、洗礼を受けましたが)

あの頃は、身体の痛み程度で
悩みといっても青いものでしたから、あれを激流とは言えないと思いますが

いとも簡単に、外の対象に見を委ねる経験の始まりだったかもしれません。

お手上げになった時は大いなる何かに丸投げして気を楽にする、という
無意識の思考回路を見直す機会を
今、頂いているので
これから起こる事に対して自力で勝てるよう
心身の精進、怠らずに今日もがんばってきます!

306 ゆうこ :2014/01/17(金) 19:14:34
>激流に飛び込む崖っぷちに立った時には、
私にはまだ足りないものがある、それが何か、
まずそれを何か掴まなければならない、
このように戦う姿勢

イエッサーです!(敬礼!)

(最近ほんとに、心身ともにフル稼働な感じで
それで風邪がうつらないかもしれません^^;)

採用の件で、何日も悩んで
以前なら、やっぱり「神頼み」的なスタンスが無意識に出たと思うんですが
今朝、TK様のヒーロー物語になぞらえた例えで考え直してみました。

現場が大変、という時に
「なるようになるさ」とか『引き寄せの法則』とか「神社に祈りに行く」
とか言う上司が居たら
もう、OH人事OH人事、引き寄せならぬ、どん引きですよねw

幸い、今の私は、そういうスタンスはとらずに
現実的にあの手この手を尽くしておりましたが
さきほど、以前勤務されていたベテランの方がヘルプできると返事をくれて
明日は皆に良い報告ができそうです。

結果はどうあれ、
ぽやぁ〜っとした『大いなるものに丸投げ姿勢』を
きっぱり捨てるよう意識することは
組織の中でも大事な姿勢だと改めて感じています。

ベテランさんに頼らざるを得ない日以外は
無休で、できる限りのカバーは続きますが
「逃げない」前提で動いていると、お客様にも楽しい笑顔で対応できるし
キャパの限界を試している途中の感じがしています。

てことは、まだ、キャパの端っこの、崖っぷちではないようです。

・・・がんばりますm(__)m

307 TK :2014/01/18(土) 08:38:09
ゆうこさん

>(最近ほんとに、心身ともにフル稼働な感じで
>それで風邪がうつらないかもしれません^^;)

一たび「理想」の向けて走り始めたら、忙しくなり、むしろ望むところになっていきます。

その「理想」が本当の意味で自分の生きている事実の甲斐になったという事です。

全身全霊を込めて、打ち込めると言う事です。

それが生きている事の幸せです。

308 TK :2014/01/22(水) 17:55:48
ラピ。さん

実践│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1758.html

これ少し内容が変ですよね。

>自分の理想に向かってできることが何かあるのに
>しないのはもったいないですよ。
>
>今できることを
>どんどんやっていくべきです。
>
>とことんやって
>やり尽くしたところが
>
>彼岸

彼岸の前に「崖っぷち」が来なければ、激流には入れません。

ラピ。さんは私に出会うことがなければ、残念ですがあのままずっと行ってました。

私に出会ったばかりのラピ。さんは、私の話に対して上から目線だし、
聞く姿勢は無いし、
その部分に関してはこの掲示板のゆうこさんの方ができてましたよ。

断言いたしますがスピ系ほど駄目な教えはありません。

感覚が麻痺して頭がボケたことを平安を得たと捉え違いしているような人たちが、
「彼岸」の訳が無い。

ラピ。さんの第三次実践は第二次実践で少し空いた穴に、
あなたの今までの経験や免疫の無い種類のエゴがはまり込んだ典型的な魔境状態でしたね。

今の所までくればともかく、あの第二次の中途半端状態は、
更に今の所まで進まない限りそのようになるのです。

ヒットした実践は、第二次でした。

スピ系を一生懸命やるのが理想ですは、私は死ぬまで酔っ払いです、と同じです。

いくら一生懸命にやっても、
やればやるほど酔っ払いになるだけと言う考えれば末恐ろしい実践が世の中には存在していて、
現実に右見ても左見ても悟った人が見当たらないその主な原因がこれですね。

309 ラピ。 :2014/01/22(水) 20:22:15
☆TK師

私の第2の実践がヒットしたのなら
そしてそれだけではなぜ至れなかったのかを
思い出していました。

その都度精一杯やっているので
忘れていることが多いのです。

まず、第2は自分を信じて
自分の限界に挑戦でした。

自分を信じていました。

それでは至れなかった。

第4の実践は何も信じることなく
ひたすら実践しました。

この時、私の気持ちは
「死んでも構わない」
これほどの決心でした。

それによって
うまく自分を捨てて実践することができたのですね。

そして実際「自分」は消滅しました。

ちなみにこの道は私の道であって
他の人にいいのかどうかは定かでありません。


師が引用された私の記事は
言葉が足りないですね。

やり尽くした、というのは
私の第2や第4の実践中でのことです。

だから激流が起こった後のことです。


私ってほんとダメダメでした。

すみませんでした。

310 TK :2014/01/22(水) 22:13:01
ラピ。さん

>まず、第2は自分を信じて
>自分の限界に挑戦でした。
>
>自分を信じていました。
>
>それでは至れなかった。
>
>第4の実践は何も信じることなく
>ひたすら実践しました。

激流段階の実践は、それ以前の理想段階の実践と、当然異なる部分が出てきます。

何も信じることが無かったのではなく、
導師である私を徹底的に信じてもらいました。

疑問を私にぶつける事すら禁止しましたね。

信じると疑うは相対の原理の上に成り立つ立派な激流突破のための実践法なのです。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。
>勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

スッタニパータ186
> [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、
>聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

スッタニパータ559
>わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
>もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

311 TK :2014/01/23(木) 07:17:09
ラピ。さん

ちなみに、ラピ。さんの第二次激流のスタートは、
第一次実践の自分が一心に信じてきた生き方が否定されたことにより、
何が何だか分からなくなったところからスタートを切っています。

これが激流に飛び込む前の崖っぷちに相当していました。

312 ラピ。 :2014/01/23(木) 08:40:36
みなさん、おはようございます。

☆TK師

私の最後の激流の流れですが
まず師の言葉によって私の中に葛藤が起こりました。

その葛藤が第2の実践の時と同じ状態であったのを思い出し
(ちなみにこの頃、その激流の様子をほとんど忘れていました)
第2の実践が激流を渡り、彼岸へ足を突っ込んだ出来事であったのなら
この葛藤が私の「道」であろう、と直感しました。

第2の時はとても怖かった。
自分が消えそうで怖かったのです。

だから自分にしがみついてしまい
「エゴ」が消滅しきれませんでした。

ただし、そこでの経験が私の経験となって
私は彼岸からそれを持って帰りました。

私の経験として残りました。

そして私は第4の実践の開始前、その経験により
この実践が激流を起こすものだと わかりました。

さて、ここで第2の激流を思い出しました。

言葉にしてしまえば軽く聞こえるかもしれませんが
第2の激流は本当に、本当に命を懸けるとはこのことで、
一秒たりとも気が抜けない
真剣勝負そのものでした。

その激流にまた飛び込むのです。

ただし、第2と第4の実践に大きな違いがありました。

まず第2の実践によって得たこと(=消滅したもの)があること。

(私はこの頃、第2の経験のおかげで
思考が起こらない、空っぽができるようになってました。
最後の激流の時、起こった思考は1日で3個くらいです。
ただし、私の特性でしょうか、
そういう思いすらも切り捨てることができていましたので
起こった思考も数秒です。
思考が起こったら、あるいは起こる前に即座に切り捨てることができました。
あとはひたすら実践のみ。)

そしてTK師の存在です。

TK師はあの激流を渡り終え、今生きている。

私はTK師の存在が私の道を保証してくれる気がしてなりませんでした。

TK師が渡った道を私も渡るのだ。

TK師のいるところに私も行くのだ、と思いました。

なにより、TK師の言っていることがわからないので
それがわかるようになりたかった、、、。
(これが一番の動機だったりする。(笑)

そして激流に飛び込みました。

師を信じることによって激流に飛び込めたのですね。

激流中は
「死んでも構わない。
ここでやめたら死ぬのも同じだ」という気持ちでした。

激流中は死ぬ決心ができていましたので
ひたすら実践しました。

「何があってもやめない」

という決心でした。

大げさに聞こえるかもですが本当にそうでした。

あとはなにも信じず、何も思わず
ひたすら実践を自分に命令し続け
実践し続けました。

(ちなみにこの時点で 
そう命令する自分が本当の自分だと思ってました。
ところがどっこい、でした(笑)

だから正直言って
本物の激流に飛び込むなんて私からはお勧めできません。

どうしようもなくなって飛び込まざるを得ない人が
自分の意志で飛び込むのです。

命を懸けなくても渡れる激流は偽物です。

なぜなら激流によって確実に「エゴ」が消滅するのです。
それほどのものなんです。

消滅する覚悟が必要です。

ちなみに本物の激流が起こること自体もまれかもしれません。


>第一次実践の自分が一心に信じてきた生き方が否定されたことにより、
>何が何だか分からなくなったところからスタートを切っています。

はい。
第1の実践の生き方が私のすべてだと思って
精一杯しました。

だからそれを否定されたことは
私自身の存在を否定されたのも同じでした、その時は。

そこから何を信じていいかわからなくなりました。
なにもわからなくなりました。

ここからですね。

@(*・ω・*)ポッ


激流を渡り終えたら彼岸です。

私は今はおかげさまでくつろいでおります。

TK師、ありがとうございます。

313 TK :2014/01/25(土) 10:52:42
人には善悪識別というものがあります。

もちろん解脱した我々にはこれはありません。

その個人において善と判断できることはやった方が良い事、
悪と判断したことはやるとまずい事と言う、
これが最も根源的な部分の理想の元なのですが、
解脱した者以外はどんな人間にもある訳で、
極悪犯罪人の死刑囚みたいな人であってもこれはあるのです。

つまり、悪と分かっていてやるから悪なのです。

法律に触れるような事であったとしても、善と言う判断の元の行為なら、
たとえ法で裁かれるような行為であったとしてもそれは善行なのです。

ここで善を拠り所とした理想とあえて話をしているわけで、
確かに理想と言うと外見的には未来を切り開く行為なのですが、実は、
この理想そのものが自らの過去に起こったものを原因として、
今その者の中に理想として結晶化しているものですから、
善を拠り所とした理想に取り組むという事は、
自らの過去に対して挑戦している事をそのまま意味しています。

例えば、私などは、
子供時代は談笑ひとつない家族同士がいがみ合っているようなドロドロした環境に生まれ虐げられながら生きてきて、
「対人恐怖症」とか、子供の頃から様々を経験してきています。

あれが悪いこれが悪い、理想の環境ではなかった、
私に言わせればですが、
そんなアマちゃんみたいなことを言っていても仕方がありません、
こんな虐げられ続けた子供時代を通ってきた私が解脱できて他の多くの者が解脱できないのですから、
みなさん大丈夫です。

私は家のドロドロしたカルマ全てと戦うつもりで解脱しましたら、
解脱と同時に家の中からあのドロドロとした雰囲気が一掃されすがすがしいものになりました。

自分の生きてきた環境に決してめげることは無い、
だったら捻じ曲げられ続けた私の子供時代はどう説明するのだという事になりますね。

例えば過去に虐待を経験した、例えば私などは善を拠り所とした理想として、
弱い者をかばおうと言うような理想の形になって私の中に結晶化しておりました。

子供時代に親に話を無視され寝たふりされ続けたり、
私のこのような経験も、弱い者の言葉を立場をしっかり保障する、
守って見せると言うような理想の形となって私自身の中に結晶化しておりました。

ですから、その者の理想をどこまででも追及すると、その中には、
その者の過去が全てあらわれていると言う原理です。

その意味で、みなさん、自分の善を拠り所とした理想というものに、
思いっきり取り組んでみて下さい。

私もそのプロセスを通って、解脱までたどり着けたのです。

今は善悪の彼岸に私はいます。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド
知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。


スッタニパータ715
>(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
>なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」




くれぐれも、解脱もしていないのに、善も悪も無いんだ、
このようなバカな酔っ払いにだけはならないで下さい、
死ぬまで酔っ払いのままでその人は人生を無駄に終わらせる事になります。


ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、
>──これが諸の仏の教えである。


まずは、為すべき事を為す前に、為し終えた段階の人のまねしたらお終いです。

宿題が終わってもいないのに、終わって楽々遊びまわっている人の真似をして、
「善も悪も無いんだ」そんな都合の良い話があるようにホラを吹くのがスピ系でしたね。

人々をたぶらかす、悪魔サタンですね。

314 ゆうこ :2014/01/25(土) 20:07:24
TK様







泣きました。




今、『家族や会社のために一生懸命やる事』を標榜しているのは
まさしく
今まで、自分が至らなかったために悔んでいる事に対する挑戦です。


仕事にかまけて長男との時間を失なった事。
離婚した事。
伴侶への思いやり。(前夫・現夫)
娘に障害を持たせた事。
親への感謝が薄かった事。
家業の手伝いが遅くなった事。
組織の中で足りないあれこれ。
気遣いの足りなさ。
お客様への奉仕。

>その者の理想をどこまででも追及すると、その中には、
その者の過去が全てあらわれていると言う原理です。

>理想そのものが自らの過去に起こったものを原因として、
今その者の中に理想として結晶化しているものですから、
善を拠り所とした理想に取り組むという事は、
自らの過去に対して挑戦している事をそのまま意味しています。





宿題はまだ終わっていません。

夏休みなんか夢見ず
一生かけて精進しますm(__)m

315 ラピ。 :2014/01/26(日) 10:28:46
☆ゆうこさん

ゆうこさんの清き道をこれからも応援しています。

精一杯生きていれば、
どんな人も必ずその道を歩いているのですね。

かつての私もそんなことを知らずも、精一杯がんばり、
その道を歩いてきました。

精一杯生きることは素晴らしいことですよね。

316 TK :2014/01/26(日) 14:13:15
ゆうこさん

>泣きました。

それはそうですよ。

今、ようやく青春ドラマを演じようと言うわけですから。

一体どこへ寄り道をしていたのやら。

317 ゆうこ :2014/01/26(日) 18:31:00
TK様

・・・^^;泣いたのは・・・

TK様の辿られた道を読んで泣いたのです・・

私なんかアマちゃんも甘ちゃん、激甘人生だと痛感しました。

だから、TK様の過去を読んで奮い立ったのです。
こんなもんでヘコたれてる場合やない、と。

一生かかっても卒業できないくらいの宿題抱えてんのに
就活してた自分のあほさがわかったのです。

そんなあほにも

>みなさん大丈夫です。

と、優しい言葉をかけてもらったので泣いたのです。

タイッティリーヤ・ウパニシャッドの引用は
正直、理解できませんでしたが
TK様のわかりやすい言葉に心がぎゅーっとしました。

>らぴたん
>精一杯生きることは素晴らしいことですよね

・・・おばちゃんはね、
「しらけ世代」とゆー青春時代を送った人間で
どっかに「一生懸命ダサイ」的な刷り込みが残ってたりして
そーゆーカケラを粉砕するのも、意識しなきゃいけないんですよ。

しらけ→バブル→バブル崩壊て、
ろくな青春じゃありませんでしたが^^;

>今、ようやく青春ドラマを演じようと

老体にムチ打って、
心身ともにフルスロットル(←どっかで聞いたなぁ)です(*`‥´*)=3
       ↑
   ・・・煩悩が少なくなってるのは『老い』のメリットですけどね!

・・昨日TK様に泣かされて目が腫れてた1日でしたが^^;
熱血青春時代、明日もがんばりますm(__)m

318 TK :2014/01/27(月) 01:02:45
ゆうこさん

>TK様の辿られた道を読んで泣いたのです・・

お涙ちょうだいのつもりではありませんでしたが。

私は子供の頃から自分の悩みとか人に相談する事は無いのです。

親に悩んだりしている素振りすら察しられないようにして平然としていました。

姉と比較されて私の方は常に親からバカ扱いされてましたし、
環境がそういうものでは無かったので、しかし、それが幸いして、
人を頼らず自分で考え抜く習性を獲得しました。

一番最悪なのは、
苦労も何もないよく金持ちのボンボンとか言われる人種だと思いますね。

子供の頃にドロ沼のような虐げられた環境におかれて苦労ができているほど、
良い経験できていると思いますよ。

苦労に感謝しなくてはね。

私は雰囲気で異次元言葉は豊富使い回すので、
言葉で私を見抜くのは困難かもしれません。

病弱で病院から小学校通ってたこともありましたが、あの時も実は楽しかった。

恵まれてますよ。

病気で苦しくても体育の授業は休みません、
弱みを人に見せない習性がありましたから、
表面平然とした顔を繕ってやり過ごしてましたので、
その無理から骨格異常が起きてました。

今は懐かしい当時のレクレーションです、子供心で、
いくら無理しても身体というものは耐えてくれるものなのだと信じていた部分がありました。

今考えると、
不思議な事に激流の実践を子供の頃にデモンストレーションしていたようなものでした。

それでも、第一次探求では、死んだ方が楽なのかもしれないし、
人類は滅亡するのが幸せになる方法なのかもしれないと真剣に考えていました。

そんな中で手に入れた生き方が善を拠り所にして理想で生きると言うものでしたので、
ここで紹介しているわけです。

319 ラピ。 :2014/01/27(月) 07:25:33
みなさん、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ


☆ゆうこたん

>「しらけ世代」とゆー青春時代を送った人間で
>どっかに「一生懸命ダサイ」的な刷り込みが残ってたりして

なるほどです。
どの時代にもそういう人はいるものです。
でも私からしたら そう人が「かわいそうだなぁ」って思います。

せっかく生きてこられたのにもったいないです。

今、このできるチャンスを逃してしまったら
次のチャンスも逃してしまう可能性大です。

今この世界に生きているということだけで
確実にチャンスを得ているのですから
それをいかさないともったいない。

私からしたら、しらけている人のほうがかっこ悪いです。

私は後悔だけはしたくなかったから、
「あの時、がんばっていれば、、、」という風にだけはなりたくなかったから、
どんな時も自分の決めたことを一生懸命しました。

ただ、ぼんやりとしらけて生きるなんて
かつての私ではそんな生き方 耐えられませんね(笑)

私は精一杯生きて本当によかったです。

精一杯生きることをしっかりしないと、
それを卒業することはできないです。

ゆうこたん、これからも応援しています!

@(*・ω・*)ポッ


あ、ちなみにですが しらけて生きるのも自由だと思います。

ただ、「私」はそういう生き方が「嫌だった」というだけです。
でもそのおかげで、今があります。

320 ラピ。 :2014/01/27(月) 07:47:17
☆TK 師

私も第一の実践開始が小学校の時でした。

誰かに言われたわけでもないけど
自分が幼いながらもそれまでに経験してきたことを元に
自分なりに考え 得た答えを精一杯実践しました。

この実践は私にとっては特別なものではなく
当然の流れだったと思います。

この「私」という人間であったなら、当然でした。

この「私」に生まれてよかったです。

TK師、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

321 TK :2014/01/29(水) 06:50:36
私はドロ沼の過去に拘るより、未来に進む、その方が好きです。

どうせ与えられたコマの中でしか動けない、しかし、
それでも精一杯やれば切り開けます。

悟ったところで、
行動面の出すパターンは今までの持ち駒の中の組み合わせでしかない。

過去の自分の泥沼にこだわるより、未来に、私はそのような歩み方をしました。

だから、自分の過去にバツ印を付けまくるスタンスは私は好みではありません。

確かにトラウマはありましたが、しかし、それは、
決して虐待された経験のない者の憶測するようなものではありません。

私は自分が虐げられた事より、
自分を虐げた者の真似をして私自身が幼い頃に弱い生き物などを虐めたことがずっと大人になってまで、
この時の罪悪感がトラウマとなって私の無意識下にまとわりついていました。

それは、
激流の実践時来る日も来る日も私の前に巨大な亡霊になっては現れて私を襲ってきました、
発狂すれすれとはこの事です。

私の理想は弱者を守り抜くと言うのは、
こういうものの結晶化した形だったのです。

ですから、善を拠り所とした理想の中には過去の全てが現れてきます、
それに思いっきり取り組めば、必ず開ける、そのように思います。

私は自分の生まれ生きたドロ沼環境など恨んだこともありません。

家は貧しく、こずかいも大してもらえませんでしたので、
他の者がアイスキャンディー買うのを指咥えて見てたら店の人がくれたとかありましたが、
唯一子供心ながら他の者がうらやましいと思ったことは、
他の者が母親と遊んでいるのを目にして、
私もあんな風に自分の母親に相手してもらいたかったと言う思いが子どもの時に確かにありました。

私が最初に恋愛をした時に、
なぜかこの「甘えたい」と言う気持ちがこみ上げてきて、
相手の女性に自分の中からおかしな気持ちがこみ上げてくるが、
自分でもなんだかよく分からないこれは一体何だろうとか言ってました。

相手の女性からもそういうものなんじゃないとか言われてましたけど、ですから、
いまだに私は人に甘えるのは下手です。

私の持ち駒の行動パターンの中に「人に甘える」と言うパターンが欠如しているのです。

ま、もっとも、人に甘えるより、自分の力で先を切り開く事の方が私にはあっています。

解脱にまでこぎつけたのも、この「末法の世」において人を頼らなかった点が幸いしたものです。

人を手掛かりに利用して成就出来たラピ。さんは、今の世にあっては凄く運が良かったのです。

人をたよって成就にこぎつける人は今の世では恐らく稀です。

至った眼で右見て左見て、この事実を知るというものです。

自らが苦悩する大元は親の行動パターンを無意識の内に収集してしまっている事に原因はあります、
しかし、私が想起で来た私の前世と照らしたら、
それはしてしかるべき必要な苦悩なのです。

みんな意味があるのです。

デタラメにドロ沼過去にバツ印を付ければ良いというものではありません。

過ぎた過去より、
その経験を有効に活かして善を拠り所とした理想で未来を構築する方が私は好きです。

322 ラピ。 :2014/01/30(木) 08:19:41
みなさま、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

私にも私の出力パターンがあります。

ただし、スピ系の実践の時に
パターンがちょっと変わりました。

第1、第2の実践の時は
どちらかというと私は黙々と実践する 静かな人でした。

でも第3のスピリチュアル実践の時は変わりたくて
一生懸命、自分の殻を破ることに専念しました。

その時なりの、「こうありたい」という理想の自分がありましたから
そうであるよう、がんばりました。

その時のパターンが今、生かされています。


私の激流は「私」との戦いでした。

TK師も書かれているように
激流は発狂すれすれの状態です。

だから激流と言います。命がけです。

「私」には「私」の命がかかっていますから
「私」はかなりの抵抗をしてきます。

「私」が悲鳴を上げても私は実践をやめませんでした。
私が「私」に負けるわけにはいかなかった。

「私」も自分が消滅したくないからかなりの抵抗を見せます。

それでも私はやめませんでした。

私と「エゴ」の真剣勝負でした。

ちなみに私の至れた理由のひとつに
本物に接することができた=師匠に出会うことができたこと
があると思います。

@(*・ω・*)ポッ

323 TK :2014/01/31(金) 07:07:17
ズラズラと書いてはきたが、人間忘れてはならないもう一つの重要な事がある。

それは、
今までの生きてきた中で悪い部分だけをさらけ出してはならないという事だ。

親は、親だから絶対に子供である自分に、飯を食べさせる義務があるとか、
面倒見る義務があるとか、私は子供であるから、
親が子供である自分の面倒を見るのは当然だ当たり前だと思っている人間は最低だ。

確かに親も人間だ、自分の思い通りにだけ動くなどと思ったら大間違いだ。

世間一般の常識に照らしたら評価でき出来ない部分もあれば評価できる部分もあるだろう、
これを両方合わせ持って人間であるという事を忘れてはならない。

つまり、必ず自分も恩を受けているというものだ。

私は受けた恩を横において、
悪い部分だけをああだこうだ言いまくる人間は1000回、
いや10000回地獄に落ちて生まれ変わって出直して来いと言う。

我々のテーマは、受けた善、受けた悪、それを無意識に吸収し、
その中で受けた善を伸ばし、悪を減らす、
これが人間としての理想的な進み方というものだ。

324 TK :2014/02/02(日) 09:31:20
ラピ。さんに、最初に出会ったころは聞く姿勢もないし、まだ、
ラピ。さんが激流の地獄に突き落とせかどうかも分からなかった。

実は激流の地獄に突き落とすには「聞く姿勢」は必要不可欠な要素の一つなのである。

4カ月が過ぎた頃、機は熟してきていた。

スッタニパータ
>(師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、
>この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、
>完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。
>四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、
>諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。
>しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」


それまでの私は、他所で激流実践の内容を解説はしても、これは、
普通の者が実践できるものではないと思っている所もあって、
どこか全貌を明かせずに公開していた部分があった。

しかし、この時ばかりは、
この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
その実践内容の全貌で踏み切った。

このような判断が私の中に起きたのは、私が至ってから初めての出来事だった。

進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

それは一種のチャネリング、
低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

それと精度の劣ったスピリチュアルだ。

汚染の発生源となっていたのである。

それと激流でできた空っぽの中に、
今まで免疫のない種類の世俗の汚染が容易に入り込んでしまっていたと言う点だ。

私も、EO氏の書籍で、この手の魔境の実例がある事は知っていたが、
実はラピ。さんが至るまでラピ。さんがそれと同じものだと気が付かなかった。

本物が係わる事で抜け出せる、
それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

だからこそ、本物なのであるが。

独力でこの状態から抜け出すことは至難の業だ。

お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

ラピ。さんは残りのあと一歩は僅か一日で、
第2次実践で終了の際に持ち帰っていた独自の経典(至るための方法)をヒントに激流の彼岸に渡る事に成功した。

元々激流の実践は精神の極限状態を発生させる特殊性から、
その時その時にオリジナルな技法が出現する可能性が極めて高い。

ちなみに、悟るための手段は、悟りとは求めたら得られない、だから、
「悟りを求めず他者の幸せのために自分を捨てて」、
これが無限ループを交わすための悟りに至るための真っ当なスタンスという事になるのだが、
ある言い回しと似てるだろ、
つまり大乗から「救済」と言う上から目線の言葉一つを除くとこの悟りに至るためのスタンスに早変わりすると言うわけだ。

折角の悟りに至るためのポイントを掴んだこの工夫された方法も、
この「救済」と言うゴミのおかげで単なるガラクタに色あせてしまう。

このように大乗もその一環から考案されたものと言えなくもない特性を持っている。

小乗にしがみ付く者もいるだろう、しかし、時代の変遷による大乗の流れは必然、
なぜなら、
今の組織化した社会は在家環境で悟りに至るための「激流」を発生させる事が可能だからだ。

悟りに至るためには「求めたら絶対的に得られない」、
自分を捨てる手段として他者の存在を利用する(相対の原理による利他)、
これが悟るためには最も効果的な方法である。

現代の在家環境、
こんなに優れた悟りに至るための環境的な特色を活かさない手は無い事になる。

325 ラピ。 :2014/02/02(日) 15:59:10
みなさま、こんにちは!@(*・ω・*)ポッ

TK師、いつもありがとうございます。

TK師にはじめてメールをしたのが昨年の1月14日でした。
そして私が至ったのが5月13日でした。

スッタニパータに書かれているように、偶然でしょうか?
どうなんだろう。
本当に4か月の出来事でした。


>本物が係わる事で抜け出せる、
>それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

>だからこそ、本物なのであるが。

まさしくそうだと思います。

私も至った今だから分かるのですが
私たちにないものがある人は
私たちにからしたら不自然なのでわかっちゃうんですね。

「おかしい」(例えば魔境である)と。

でもご本人はとっても真面目にそうであることを信じているので
指摘しても受け入れられないことが多々あります。

そしてそれはかつての私もそうでした。

はい、本当に聞く姿勢がなかったです、初めは。
師匠の言っていることのほうが変で
「この人、何言ってるんだろう?」というのが
初めのころの私の感想でした。(すみません(笑)

そして至り、掲示板を始めていろんな人と対話する中でそれは
「そういうことだったんだ」とわかりました。

師も言われているとおり、聞く姿勢は大切ですね。

私もそうでしたが
まだ至ってない時は師匠より自分のほうが正しいと思ってましたので
師から言われる言葉にかなり反抗していました。

でも、あまりにもそれが続くので
「まてよ?何かがおかしい。
私は何か違っているのではないか?」
という思いがよぎりました。

ここからやっと聞く姿勢ができてきました。

今まで私が正しいと思っていることを一度捨てて
師の言葉を信じてみよう、と決心しました。

実はTK師を「師匠」と呼び始めたのは実は
5月11日でした。(おそい!(笑)

この時、初めて「この方は師と呼べる人だ」と
私の中で確信しました。

私は一度も師を求めたことがありません。
そんな私が師と出会えるとは!

すごく不思議な気持ちになりました。

そして師との出会いに感謝しました。

そこから師の言葉のみを信じて進む決心をしました。
自分を信じることなく。

そして激流が起こったのをきっかけに
師すらも手放して一人で激流に勝手に飛び込みました。


>お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

懐かしいですね。ほんと何度も言われました。

そういわれるのが嫌で
「師と同じ状況になりたい!師の言っていることがわかるようになりたい!」
と思ったことを思い出します。


>心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

>本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

そうですね、そうだと思います。

ニセ物では無理でしょうね。
いろんな掲示板やブログを見ていたらわかるのですが
ニセ物では激流を起こすことはできないでしょうね。

ニセ物は激流を渡っていないので
人を激流に突き落とすことはできないでしょう。当たり前です。

ちなみに残りの一歩を踏ませるのは
至った誰もができるものではないかも、と思っています。

私は今はそれができるかどうか微妙です。
これからの流れに身を任せます。

でももし、そういう出会いがあったら
私も迷わず、激流に突き落とすかもしれませんが。


私は師匠のおかげで無事、至ることができました。

もし、本当にこの道を進みたいのなら
このチャンスを逃すべきではないと思います。

そしてどれだけ真剣であるかも大切なポイントになると思います。

326 ラピ。 :2014/02/02(日) 15:59:51
ちなみに私がまだ至ってないスピ系をしていたころ、
実はその時に感じていたことを書きます。

スピ系によって人は「願望を持たされている」ようです。

本当は求めてもいないものを「持たなければ損だ」と願望を持ち、
そしてその願望を実現するために
スピ系で言われていることを実践し続けている。

私は実は別に特に願望がなかったのですが
(この頃、空っぽが成就できていたから
そうだったのかもしれませんが。)
スピ系を見ていると「お金」や「愛」などの願望を
「持たなければならない」という感じを受けました。

だからスピ系をしていた私は
何かしらの願望を「持っていなくてはならなかった」。

スピ系には「求めることが必要だ!求めなくてはならない!」
という思想があったのではないかと思います。

私はもともと興味のなかった「相対世界での願望」をある意味持たされ
それに向かって頑張っていました。

変な言い方ですが
無理やり願望を持っていました。願望なんてないのに。(笑)

酔っぱらって信じるって、
自分の判断すらも麻痺させてしまうのです。

持ちたくもない願望を持たされて
本当に酔っ払いのように、言われるがままに進んでしまう。
そして私はそれを「実践」としていました。

でもそれは決して激流を起こすものではなかった。
だからダメなんですね、成就の道を歩きたい人にとっては。

(酔っ払いがいいのなら
それはそれで自由だとは思いますが。
でも永遠に酔っ払いでしょうけど、そのままなら。)

ちなみにこのスピ系の実践では 何度も言われていますが
相対世界を卒業することはできません。

求め続けて
永遠に求め続けて。

一つがかなったら次の願望。

束の間の喜びを得るけども
それも束の間。

そして叶わない願望もあるけど
さらにポジティブシンキングで進んでいく。

スピ系をしている人ならわかると思いますが
そこでは永遠に続く幸せなんてないのです。

だから束の間の幸せが終わったらすぐに次に向かってがんばる。

自分の「幸せでない感情」にふたをして幸せだけを求めて
ひたすら奴隷のように歩き続けるのです。
(奴隷という例えは厳しいでしょうか?
でもある意味、願望の奴隷となっているのです。
私はそうだったかもしれません)


>それは一種のチャネリング、
>低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

この私の状態は、至った師匠からしたら、
酔っ払い以外のなにものでもなかったでしょうね。

そして、かつての私のブログから、
その私の状態について違和感を感じていた人もいたかもしれません。

今の私にならわかります。
スピ系の酔っ払い。

偽物の平安に酔いしれて
師匠の言葉に反抗していた私。

「私はこんなに楽しいのに、(この「楽しい」は曲者です(笑)
この人は何を言っているのだ。
この状態がおかしいわけがない」

これはその頃気づかなかった私の本音でした。

でも至った今の私からすると、
かつての師匠とのやり取りは
「あ〜。私ってバカやなぁ、、」としか言いようがないものでした。

でも師匠はそんな私にもちゃんと対応してくれました。

ちなみに至ってない時は
師匠がちゃんと対応していてくださっていたにもかかわらず、
私はそれに気づかず、まともに聞けてませんでした。

ちなみにこの掲示板でも
師匠はきちんと皆さんに対応してくださっています、実は。
(そうだとわからない人もいるでしょうか?いそうです(笑)


もし、かつての私と同じような状態の人がいるなら
ちょっと立ち止まってみてください。

そしてこの掲示板に書き込んでみてください。

私たちからして、どう見えるかがわかります。

私たちは書き込んでくださった人のエゴがまるわかりですので。

あと、「至った」人も募集しています。
対話してみませんか?
スレッド「悟りに至った方たちとの対話」でお持ちしていますよ!

@(*・ω・*)ポッ

327 ラピ。 :2014/02/02(日) 22:07:29
>実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
>おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

この頃を思い出していました。

これから書くことは言葉に表すと
誤解を受けるかもしれませんが
例えを使いながら書いていきます。

だから「そうなんだ〜。ふぅ〜ん。」というくらいで読んでもらったら、と思います。

第2次の激流実践で「その頃の私にとっての限界」に至った後、
(実はまだまだ限界ではなかったのですが、その頃はそう思っていました。
まだ消滅したくなかったのかもしれない。)
私は人間に戻ることを決心し、
いろんな周りにいる人の様子から学びながら
人間に戻りました。

ま、この言い方も例えですが
実際、第2の実践で私は人間でなくなっていました。(笑)

普通ができなくなっていた。
普通がどういうことかわからなくなっていました。

でも第2の実践でぎりぎり(でもまだまだ)のところに行った後、
まだ残ってる意志で人間に戻る決意をしました。

戻る時は周りにいる人たちから学びました。

人の意識の場所はどのあたり、とか
人はどのように存在しているのかとか
人とはどういうものだとか
学びながら戻ってきました。

まっさらな赤ちゃんが人間を見て そこからある意味学び
人間になっていくのと同じような感じです。

その頃の私と 赤ちゃんの違っている点は
私は人間になる様子を「私」という意志のある状態で通ってきたということです。

この道も実は数年単位です。

激流を渡り終えたわけではなかったので
戻ってくる間中、激流の残骸があり とても大変でしたが。

でも意志を落としながらその意志が落ち着くところまで
戻ってきました。

意志を落としました。

ある意味、落としたのです。落ちたのです。

そして戻ってきた理由は覚えていますが
「まだ、私がやっていないことがあるからやってみたい」というものでした。

私は小さいころから実践づくしだったので
人として持つであろう願望があまりありませんでした。
(ちょっとはあったけど、実践優先でした)

それをきちんとしっかり味わってみたかった。

だから戻る決意をしました。

そして戻って来てそれまでやっていなかったことにいろいろ挑戦しましたが、
(前にも書いている通り、)
結局その願望を無理やり持って
それを叶えるためにスピ系で言われている
「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

ある意味、願望が叶ったときは幸せでした。
でもそれは相対的世界の幸せで
それに私は違和感を持っていました。

「絶対的幸せがいい!」って常に思っていました。

わたしが人間になって思ったことは
終わりのない願望を持ち続けるって
大変だなぁ、ってことでした。

もう、私はその世界からは卒業して
そこから解放されていますが、
「人」として生きることは大変なんだなぁって思いました。

328 ラピ。 :2014/02/02(日) 22:10:05
>それを叶えるためにスピ系で言われている
>「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

「こうすればとい」は
正しくは「こうすればいい」です。

@(*・ω・*)ポッ

329 TK :2014/02/03(月) 18:41:08
ピッタリ4カ月とは、ゴロが良かったですね。

成道記念は5月13日、これも5月12日の翌日なので覚えやすい。

>進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
>激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実はここはポイントの一つで利点でもあり難点でもありの部分でした。

うまく行き僅か1日で渡れましたが、
中途半端であれ曲がりなりにも以前の実践で至れている部分が災いして、
下手すると激流が起こし難く先に進む推進力が発生させられ無い可能性が無きにしも非ずでした。

それが次の判断の理由の一つ。

>しかし、この時ばかりは、
>この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
>その実践内容の全貌で踏み切った。

とにかく推進力(激流)が得られなければ、停滞するしかありません。

いよいよとなれば、タパスと言う切り札が無いわけではありませんでしたが、
そのカードは切らずに済みました。

確かに第2次実践は良く頑張りました。

ただ者ではありません、しかし、激流の実践とはそういうものなのですから、
軽はずみな気構えで踏み込める領域では無いのです。

この中途半端な成就でフローを手に入れたのです。

ちなみに、体が動かせなくなった、これ、
エセ覚者にどういうものか回答してもらって本物判定の審査基準の一つにしたらどうですかね。

どうも、この世界、公的資格制度みたいなものが無いと、
でたらめがあちこち出回っていて、既に収拾がつかずの状況ですから。

この件についてなら、日常生活に影響が出る内容についてですし、
私はそういうものには関心が無いんだ、では済ませられません。

私の書き込みを削除しまくりながら、必死に逃げたあのエセ、
信者ゴロゴロひきつれて、みんなで一緒に地獄ツアーも良いかもしれませんが、
あんなデタラメが、世も末です。

末法の世と言いますから、善意なら許される、
むしろあれがでたらめと知っている我々の方が責任があるようなものですね。

我々は善意すらありません。


君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。

どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。

自分を捨てないイコール保身ですから。

ベクトルが違っていたのです。

確かに、私に出会ったばかりの君に、
人のためと言う言葉を最初にぶつけた時の反応は、
全く持って自分のため以外ほとんど関心ありません的な反応でしたからね。

それが至れない原因でした、最後の恐怖心の正体が「保身(自分を大事にしたい)」なのですから。

その結果、個人的な部分の空っぽだけが成就して、すなわち、
EO氏の言う所の魔境がその空っぽの中に入り込んだ訳です。

私は「自分を捨てて」、これを君に成就させたわけです。

激流の実践は強烈なインパクトがあり印象強いものではありますが、
最近私が重要視しているのはむしろ、
激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ラピ。さんにしろ、
激流に飛び込む以外に無いところまで追いつめられたわけですね。

ここに立った者は否が応でも激流に進みますが、
この飛び込み台に立ってもいない者はやはり激流の実践内容に手を出す資格が無い。

このあたりは私もEO氏と同様の結論です。

資格が無い者は、
本当の意味での激流は作り出せないで形だけを真似した精度を落した緩流で、
やっている気分だけの酔っ払いになっていました。

相手にするだけ無駄と言うだけに済まず、害を及ぼす事になる事が、
今までの実験でほぼ確実であることが掴めています。

しかし、私にとっては激流の実践だけが全てではありません、
光の存在から教えられたその前の第1次実践も充分に幸せで私にとっては価値のあるものでした。

それが善を拠り所とした理想の実現です。

スピ系の実践が理想ですは単なる酔っ払いですが、
地に足つけた人間としての生き方を精一杯生きぬくという事です。

330 ラピ。 :2014/02/03(月) 21:26:48
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

師匠と出会ったころ、
私は激流というものがどんなものだったのかを忘れており、
激流とは縁の遠い日々を送っていました。

師匠のおかげで激流を思い出せたのです。
激流が起こったのです。

師匠、ほんとうにお見事でした。

本物でなければ私に激流を起こすことはできなかったでしょう。


>君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
>君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
>その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

そうですね!
今思い出すと私は第2の実践は「捨てる」どころか
「どんな苦境にあっても自分を捨てない」
というスタンスでした!

消えそうになる「自分」を保つよう
意志を使っていましたから。

その通りです!!!!



>その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。
>どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。
>自分を捨てないイコール保身ですから。
>ベクトルが違っていたのです。


そうですね。
第2実践の時はとても怖かったです。
消えそうになる自分を保つのをがんばっていましたが
それは恐怖と隣り合わせでした。
怖い感情が常に付きまとっていました。
でも怖くてもあきらめず実践し続けました。
私、しつこいのです。(笑)

そしてかなり自分を追い込みましたが
そのままでは自分を捨てることができなかった故に
超えられない壁がありました。

だからその時は至り切ることができませんでした。

でも第4の実践は 師のおかげで
いつの間にかその壁を飛び越えていました。

うんと、壁そのものが消滅したのです。

ちなみに師匠からいただいた
私を変えた言葉の一つは「下から」でした。

この言葉はすごいと思います。



>最近私が重要視しているのはむしろ、
>激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ほんと、そうですね。
まずはそこからですね。

だから私の激流の話なんて
「へぇ〜。そうなんだ」くらいにしていただいて、
皆様はしっかりと「今の自分」を生きていただきたいと思います。

どうぞ、真実の自分でいてください。

@(*・ω・*)ポッ

331 TK :2014/02/03(月) 22:13:08
>ほんと、そうですね。
>まずはそこからですね。

この界隈誤認覚者も含めて、右も左も次のような人ばかり見るのです。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


こうのように酔いしれて、
そうだと信じ込んでいる人たちばかりを沢山目にするのです。

だいたい、このようなことしてて至れると思いますか。

本人は彼岸か彼岸の近くにでもいるつもりなのでしょうが、
彼岸に上がるまでは、激流の中です。

激流が一番彼岸に近いのです。

私は理想時代から激流の彼岸に至るまで最初から最後まで戦いを捨てませんでした。

これは腑抜けと言うのか酔っぱらっているだけですね、
このようなことをしてても永遠に彼岸には行けずに単なる頭がボケた人のままで寿命が終えるだけです。

これでは、死ぬまで酔っ払いと言われてもしかたありません。

だから、公的資格制度でも作ってもらいたいと思うのです。

なぜなら、至る前の人はこのような人たちに惑わされます。

至った我々から見たら、とてもではないが、まともではない、
夢遊病者か亡霊かと呼ぶしかありませんが。

332 ラピ。 :2014/02/04(火) 00:53:19
師匠、酔っ払いの模範的な記事を引用してくださいましたね。(笑)

かつての私、、、。

「あ〜あ、、、」です。

みなさん、こんな記事をかつて書いてごめんなさい。
ここで訂正させていただきます。

この記事は全く的を得ていません。


ちなみにこの記事、
誤認覚者と同じようなことを書いているなぁ、、、。

このレベルにとどまると、どうしようもなくなっちゃうよ。
そんな人のなんと多いこと、、、。

そして私にもその可能性があったのね、、、。
(-_-;)


>今まで 「私」と思っていたものが
>無くなってしまうのれす。
>そして 真実の私 に気づきます。

この文、とってもへんてこりんです。

誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
そう表現しているのをよく見ます。

私もそう表現していたんですね。

すみません。

これはまったくの間違いです。
そしてかつての私はそうだと思い込んでいただけなんですね。

単なる妄想にひたっているだけですね、これは。

333 TK :2014/02/04(火) 07:07:32
>誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
>そう表現しているのをよく見ます。
>
>私もそう表現していたんですね。

そうですね、ですから、私に出会うより先にこちらの人に出会ってしまうと、
同類同士で変に話が合う分、一緒に世の中変えましょうとか言う事になって、
今は無かった可能性があると思います。

始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ベースになっているのは覚者の文献だと思います。

だから一番ベストはそれは違うんだと言う、判定する人の存在が必要なのですね。

公的資格制度でもあれば、多くの人たちの混乱は起きなくて済みます。

メンタルの修得の尺度を計る資格は人類にとっては必要なものですが、
なぜこうも、軽く見られているのか、これこそ現代科学の遅れの部分です。

人材を採用する企業も、重要な人間判定要素の一つになりますね。

現代の人類の行き詰まりの突破口はここだと思います。

ただ何々宗の僧侶の資格とかは何の目安にもなりません。

家によくお経読みに来る坊さんも、単なるしきたり上の存在ですから、
読経してもらってお礼を言って、その方々の生活の糧であるお布施を渡して、
その後はこちらがお話を聞かせてあげて終了、このようなものですからね。

他のサイトでは、このような誤認による覚者に付き従うもの多数いました。

我々から見たらこの人たちは永遠にさまよい続ける亡者の群れです。

虚しいですね、この人たちに未来は無い、
本来は現象を裁きながら実践しなさいとか、
不快な事に感謝などする必要ありませんとか、
こちらを歩ませなければならない人たちなのですから。

334 TK :2014/02/04(火) 19:15:54
これ、本当にすごいですね。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


悟る前のラピ。さんの文を読んで、
悟ってなくても悟ったと言う想いこみだけでこれだけ紛らわしいものが書けるのです。

我々が見ればこんなガセ、
私の書込み削除しまくったあの人物と全く同じ完全100パーセント酔っ払いだと分かりますが、
残念ながら一般の方々には例のサイト同様見分けがつくはずがあまりせん。

しかも、言っている本人も自分が至った覚者だと信じているのです。

これ、何を勘違いしいるのかも私には手に取るように分かります、
私の前ではみんな丸裸ですね、
この人には「無」と言う対象となる意識がしっかりとあって、
それが至った状態だと思い込んでいるのです。

>今この瞬間に溶け込んでると

これがこの「溶け込んでいる」と言う表現の根拠なのです。

これは至った我々とは全く別物です。

本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

このように、至った覚者の状態などを書いた物を読むと、
自分もそれと同じだと勝手に錯覚して思い込んで、
酔っぱらいのエセの覚者が一丁出来上がりとなるわけです。

簡単に人間と言うのは誤認が起きますから、
至った覚者の状態を書いてあるものなどできるだけ読まない事です。

エセに従う信者たちもいい加減に目を覚ましたらいいのにと思うのですが。

私はこの者たちとそれにつき従う者たちを、
風車が怪物に見えるドンキホーテと従者のサンチョと呼ぶのです。

至ってしまえば楽々ですが、至る前の人たちにとっては、
このようなトンでも勘違いの人たちが沢山いるので、
手探りで断崖絶壁を歩いているようなものです。

恐ろしや恐ろしや。

はやく、公的な認定制度が出来ることを切に望みます。

剣禅一致、すなわち技術の修得とメンタルの修得、この二つが一致して、
本当のその者の能力の尺度なのです。

現代の科学は、技術の修得の部分しか解明できてない劣ったものですから、
早くもう一つの方にメスを入れることが出来なければ、
「フロー(ゾーン)」と言う現象も解明できないし、この先社会はもっと悪い方に行きます。

現代の状態は、これみんな劣った科学がもたらした醜態というものですよ。

情けない。

335 ラピ。 :2014/02/04(火) 21:19:22
みなさま、こんばんは!

TK師、いつもありがとございます!


>これ、本当にすごいですね。

訳すると
「これ、本当に妄想すごいですね。」
になりますかね。


>>今この瞬間に溶け込んでると

今の私たちの状態ではあり得ない状況ですねぇ。



>始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ほんとそうなんです。

師の言葉を早くからちゃんと聞いていたら
間違っていたことが早くわかっていたかもしれませんが
初めのころは大まじめにそうであると信じていたのです。

だからちゃんと話を聞けていませんでした。

でもどうにか
自分の信じていたものを捨てることができてよかったです。


私の昔のブログに賛同できる方は
スピ系による被害を受けています。

私の昔のブログは偽の情報です。

昔の記事を削除してしまってもいいのですが
参考になると思い今は残しています。

かつての私の記事のような話が
全く参考にならないということの
参考になると思っています。

それに、昔のラピ。と今のラピ。の違いが
記事を比べたらわかると思います。

えらい違いです。次元が違いますから。(笑)

でも、将来 記事を削除するかもしれませんが
そうでないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

336 TK :2014/02/04(火) 22:26:02
>本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

無想と想に非ずは全くの別物ですからこれが悟りだなどと、
この界隈はかなり滑稽な状態です。

それにつき従う信者の群れ、あれもかなり悲しい。

私は独学ですが、何でまあ信者と言う人たちは、そろいもそろってエセの後を追う、
ああも悲しい定めにいるのでしょう。

あの人たちから見ると、こちらがエセに見えているでしょうから、
現実とはそんなものですよ。

337 TK :2014/02/07(金) 18:24:23
袋小路に追い込まれた者には私は激流の門を開くだろう。

私は人と寄り添う事を求めているような者に、
ここで寄り添う相手になるつもりはない。

理由は簡単だ、精神世界のテーマで寄り添う相手になるなど、真っ平御免だからだ。

同士をもとめるなら、精神世界以外のテーマでの同士を求めるべきだ。

酔っ払いの烏合の衆というのが、それだからだ。

これが世の中一番最悪のごちゃ混ぜグループ。

私は理想で生きる事を説くが、それは精神世界以外で実行するという事だ。

これをやらずして精神(内面)世界をテーマにたむろする人間など真っ平御免だ。

だから、当たり障りのない適当な理由を付けて、
はいさようならをしたケースは今までもあったかもしれない。

人のぬくもりを求める者もいるだろう、しかし、それは精神世界以外で求める事だ。

人が仲良く寄り添って、そういう理想の実現は精神世界に求めるものでは無い。

それを卒業した者が、次の段階として精神世界の「孤立」に入る。

私など理想時代は、まず、
寝る時以外は家になど居る事はほとんど無く
常に誰かと活動をしていて一人で居る事はほとんどなかった。

その後の、激流の実践時代は、理想時代とは打って変わって孤立に入った。

だから、この界隈狂ってるんだ、
精神(内面)世界を寄合のテーマに傷を舐めてくれる友を求めたり、
その者は精神世界では無くて違う所でそれをやってくれ。

精神世界は、理想の実践段階とは打って変わって、
世からの孤立が本質的なスタンスだ。

スッタニパータ
> そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、
>完全な戒律を受けた。それからまもなく、
>このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、
>怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、
>無上の清らかな行いの究極
>──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが
>──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。
>なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。



私はこのような中途半端な要素を少しでも感じた者に対しては、
まともに取り合わずに、
当たり障りのない適当な理由を付けてはいさようならとする事だろう。

心当たりの者がいたら、自らの内面を良く見てみろ、私の前では丸裸だ。

激流段階の者にとっては、
現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
他者を自分の実践対象として存分に利用し、
なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私やラピ。さんはその実践の成就者という事になる。

激流段階の者にとって、在家環境で日常生活のまま、孤立の立場の実践が可能なのだ。

338 ラピ。 :2014/02/07(金) 23:05:11
TK師、いつもありがとうございます。

>激流段階の者にとっては、
>現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
>他者を自分の実践対象として存分に利用し、
>なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
>このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私も似たような感じです。

例え家族がいても
私の実践の妨げにはなりませんでした。

妨げにしませんでした。

それが私のポリシーでした。

そして日常はちゃんと過ごしていました。


この掲示板に
もし、私自身の実践をそのまま書き込むなら
かなり厳しい内容になります。

実はここに私が書き込んだ内容はまだまだ甘いものです。

私がこれまでに書いた内容で逃げるくらいなら
まだまだですね。


私は自分が決めたことは決して曲げず
我が道を歩く人でした。

至る前、周りの人に
私の本性はばれていなかったかな、どうだろ。
本性の気配を感じても
たんなる気のせい、くらいに思われただけの程度かもしれません。

実践は自分自身のことであって
周りの人には関係なかったから
別に周りの人に厳しさを表現する必要はなかった。

自分に厳しくさえいればよかったから。

でもそうだったからこそ、表現していないつもりでも
微妙に気配は感じられたかもしれませんが。


至ってから かつての自分を思いだすと、
ほんと笑えるくらい真剣に
エゴ丸出しでエゴがとても強かった。

でもこんな自分でよかった。

こんな自分だからこそ しつこくあきらめることなく
自分の決めたことをやり遂げることができた。

みなさんはしっかり「自分」を生きて
「自分」を成長させてください。

まずはそこからのようです。

そこをしっかりやらないと扉は現れない。

@(*・ω・*)ポッ

339 TK :2014/02/08(土) 09:35:18
理想(物質)段階の実践と激流(内面)段階の実践では大きく異なる部分がある。

理想段階の実践では、同じ利他でも人への執着が根幹となる。

他者を大事にしたいとか、他者をいたわりたいとか、他者を守りたいとか、
このように、そのベースにあるのは人への執着となる。

これとは打って変わって、激流段階の実践では、
人に対する依存そのものを一切断ち切る実践段階に入る。

よって、釈迦の時代は先に進むために独り離れる実践が出てきたものであろう。

激流段階は妄想を駆使した実践となる。

美女を見たら汚らしいものだと思えとか、つまり、
このような妄想を駆使した特性が故に在家の人がいる環境でも、
人がいてもいない事に出来たりが可能となる。

例えば依存心を断ち切る実践の一つとしてラピ。さんの実践した下からとか、
激流の場合の利他とは、人を人と思わないのがベストと言える。

世俗感情は一切禁止だ。

一例としては全ては神である、この妄想を駆使する事で人への執着を断ち切る。

もともと我々の段階までくれば、
人が大勢いても誰もいない(何も無い無所有処)としか言いようが無いのだから、
人を人と認めない全てが神であると言う妄想も我々の所に至るための有効なプロセスと言える。


ヨーガ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

>バクティ・ヨーガ (Bhakti yoga)
>
>神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、
>その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、
>超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。
> 古典文学『マハーバーラタ』(Maha Bharata)にある有名なクルクシェートラの戦いで、
>クリシュナが勇者アルジュナに説いたとされる
>『バガヴァッド・ギーター』(The Bhagavad Gita=神の詩)は、
>バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っているため、
>ヴィシュヌ(ナラヤン)の転生として実在したとされるクリシュナが開祖とも言える。
>また、近代の大覚者ラーマクリシュナとシヴァーナンダ、
>現代のサッティヤーナンダは、
>現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いている。

(中略)

>新興宗教の中には、インド人の信頼できるグルの指導を受けずに、
>このヨーガを取り入れている団体が多いが、
>自らのエゴが消滅できていないことを理解できない団体運営者によって独自の解釈がされており、
>大変危険である。
>間違った「自称グル」(大抵そのグルのグルが誰であるか、
>公表できない)を師と仰ぐと、一生を棒に振ることにもなりかねないため、
>事前に十分調査をし、常に一般常識に照らし合わせることが重要とされる。


私が何度も繰り返しているが、
この実践法を初め激流段階の実践法はどれをとってもニセ者にこの指導をされたら、
妄想を駆使する部分が災いとして作用し、
単に頭がボケたことを平安と勘違いして「貴重な一生を無駄に生きる事が確定してしまう」ので、
くれぐも、ニセ者覚者には要注意すること。

このような危険と背中合わせの実践法を、
手当たり次第のごちゃ混ぜの精神世界知識の収集により、
まともな教相判釈もせずに取り扱えるものでは無いのだから、
自分が大事なら、ニセ者をニセ者と見ぬことだ。

(続きます)

340 TK :2014/02/08(土) 09:35:54
(続きです)

その一番の見抜き方は、
この者に付き従ってもいつまでも自らの中に「激流」が発生せず「緩流」しかおきない、
この状態の場合はその師はニセ者であると判断し速やかにはなれよ。

酔っ払いとして一生を棒に振る事になる。


さらに、これは物質としての実践、つまり、
「人への執着を拠り所とした理想段階の実践」を限界までやりぬいた者が進む道であり、
つまり、理想段階をやり抜いている者以外、ご法度という事だ。

私などは、激流の実践段階において、教会やキリスト教の集会に顔を出してみたが、
そこにはとても優しく親切で良い人たちしかいなかった。

ここに魅力を感じるかどうかだ、
人の温もりを欲している段階の者はここに引っかかる、
その者はこのような所に出入りしてはならない、
宗教色抜きにした理想段階の実践をもっとやらなければならない、実は私は、
それを精一杯やってこれ以上先に進めなくなったことによりここに参加したわけで、
その優しくて親切な人たちの集まりには、欠片も魅力を感じることは無かった、
このような者はもはや激流に進むしか手が無いのだ、
これが激流に進んで良い段階か悪い段階か否かの判定法だが、
私はこのような所には寄り道せず一人歩む事を選択した。

その時の私にはそのような親切で優しい人たちの集まりには、
全く欠片も魅力を感じなかった。

それをやり尽くしてこのようになった者以外は、
激流に踏み込んではならないものと心得ておけ。

人の温もりを求めて喜んでいる者たちに、
宗教や精神世界そのものがご法度なのだ、よく心得ておけ。

所がこの界隈、右見ても左見ても、
ニセ者とそれにつき従う酔っ払い集団しかいないのだ。

この界隈の狂った者と言うのは、世界を何とかするのだとか、
このように世界に執着するのは良いとして、不快な事にも全てに感謝せよとか、
そのための仲間とか、理想段階、激流段階ごちゃまぜの完全に狂っている。

このごちゃ混ぜの人たちは残念ながら、一生を無駄に終える人たちなのです。

同じ仏教は仏教でも正反対の実践が入り込むのですから、
仏教以外のどんな教えであっても、ただしい教相判釈は必要不可欠でありごちゃ混ぜは地獄行きです。

あなたは何でもかんでも手当たり次第取り入れてごちゃ混ぜをやっていませんか。

残念ながら公的資格制度はありませんが、エセでは無く、正しい師の元で学びましょう。

私はこのような話をする時には、今までに遭遇した現実の人物を題材に話をしています。

手当たり次第のごちゃ混ぜのエセ覚者がいたのです。

教相判釈に価値を認めていないようでした、と言うより、その者に出来るはずなどない。

だからこそ、その者から段階的な教相判釈の内容が飛び出すことは無い。

その捉え方は科学的な常識に照らしても欠点大ありですが。

まともな実践者に応じた段階的な教相判釈もなしに、何でもかんでも手あたりしだい精神世界知識を取り入れて、
それで害が無い訳が無いのです。

341 TK :2014/02/09(日) 13:17:37
私には経典知識は大して無い。

理由は簡単だ、経典学者(釈迦の語録研究家)になど成るつもりは無いからだ。

そもそも当たり前だが、
本家本元の釈迦は経典学者(釈迦の語録研究家)を育てたくて教えを説いたわけではない。

親の心子知らずと言って、思い違いをしている者もいるのかもしれない、
それを本末転倒と言う。

釈迦は100万の自分の言葉を暗記してくれる者より、
僅かの言葉を利用して至った者を輩出する事が本質だったはずだ。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」


私は私に足りないその何かわからないものを何とかしたかった、
だから膨大も無い釈迦の経典の中の極々一部だけしか利用しなかった。

あえて絞り合いに絞って、そうしたのだが、私にとってはそれで充分だった。

それでも、それがあると無いでは全く違っていた。

おかげでラピ。さんのように横道にそれることなく何倍も短期間で成就に至れた。

それよりも、100万の経典の文句を勉強して一つの解脱も得られない者の方が、
可哀そうだな。

これは自慢にはならない。

私は極々僅かな釈迦の言葉を手掛かりに至れた。

至った私にラピ。さんに、
釈迦の残した膨大も無い経典の中の極々一部で充分用が足りた。

1を聞けば10を悟ると言う。

100万を聞いても未だ1も悟れない者もいる。

才能のある無しは仕方がないとして、
至れない者にとって100万の経典文字の教えより1つの生の教えという事だ、これは真実だ。

もしラピ。さんが100万の経典を手に入れたとしても至れなかったかもしれない、
しかし、1つの生の教えは100万の経典を超える。

私を1つの生の教えとして利用できる者は、ラピ。さん同様に幸運と言えるのかもしれない。

正直経典だけではたとえ100万の経典を並べたとしても難しいだろうな。

私には武器として悪魔を見抜ける眼があったんだ。

342 TK :2014/02/11(火) 14:07:43
まず、釈迦は最高を表す言葉として、
「無」と言う言葉は使わないだろうと思います。

「非」あるいは「滅」です。


無我 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

>無我(むが、パーリ:anattā、サンスクリット:अनात्मन् anātman)は、
>仏教用語で、「我」に対する否定を表し、
>文字通りには「我ならざるもの」という意味である。
>「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。
>一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、
>どこにも我を見出すことはなく、
>必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので、
>非我と無我は同じことを指しており、
>非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる。


Wikipediaもかなりでたらめな説明です。

「非我」と「無我」と言う言葉がありますが、
これをごちゃ混ぜに同じ言葉として使い回している人がいます。

分かりもしないのに、無知なら無知ででたらめ言うより、
私知識があまり無いものでわかりませんの方が良いですね。

よくラピ。さんが我が有りませんと言いますが、改めて言えばこれが「無我」、
しかし、実はこれは釈迦の最高の境地ニルヴァーナではありません。

釈迦の最高の境地を表す言葉は「非我」なのです。

あるいは、「滅」でもいい。

どちらも、直接それを表す言葉では無く、
そこへのアプローチも含む間接的にそれを表す言葉だという事です。

非我と言うのは、
「ニルヴァーナは我ならざるもの」でも「ニルヴァーナは我ではない」でもありません。

これはでたらめ解釈です、嘘八百の大外れです。

Wikipediaというものはこのようなでたらめはっちょう、
結局信頼の出来ないもので、
この情報は参考以上に値するものにはなりえない価値のものです。

非我というのはニルヴァーナそのものを表す言葉ではありません。

確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。


ダンマパダ279
>「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
>ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


確かにそれは理論的には我が無い状態と言えそうですが、言えません。

我が無いと表現した段階でそれは、
我が無い「状態がある」と言っている事と同じになりますから。

それは、我で有るとも非ずともいかなる言葉に表す事も出来ない、これが真実です。

それは我に非ずでしたとか、それは無我でしたとか、
でたらめをさも正しい事のようにしてばら撒くのはやめてほしいですね。


ダンマパダ218
>ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、
>意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、
>(流れを上る者)とよばれる。


「ことばで説き得ないもの」これは実に良い表現、
だから資格が無い人が話したらウソがばら撒かれることになる、
さしずめWikipediaはその典型的な見本という事です。

(続きます)

343 TK :2014/02/11(火) 14:08:18
(続きです)

昔はある資格以上のものが結集を執り行った、当たり前ですね。

究極とは分からないものなのです。

分からないものに対して我が有るとか無いとか非ずとか、どちらも外れです、
分からないものはただ分からない、それだけです。

全ては我ならざるものである、すなわちそれは無我である。 ×

全ては我ならざるものである、その先は分かりません。 〇

これは一見するととてもナンセンスな表現なのですが、なぜなら、
分からないものが釈迦の究極の発見なのかと、これが無限ループの一つですから、
ここに引っかかると釈迦のように七転八倒することになります。

ボディー達磨は無限ループを交わす手段で「不立文字」と言う言い回しを使いましたね。

不立文字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97

>不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、
>文字や言葉による教義の伝達のほかに、
>体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。


何かを見つけようと言うベクトルではいつまでたっても辿り着くことが出来ません。

ですから、
探究者は見つけようとするベクトルを捨てなければ決して辿り着く事はありません。

なお、「非我」と言う言葉が存在する以上ここから明らかになる事は、
恐らく釈迦は最初にニルヴァーナを発見した時は「我」があったという事です。

右往左往していたのですから当たり前ですが、
「我」の推進力を利用して涅槃入りしたと思われます。

そこから、「非我」と言う言葉が生まれたはずです。

例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

釈迦はさらに、
ニルヴァーナを発見した後に滅想受定がそれよりも劣るものとして釈迦に発見された。

さらにそれよりも劣るものとして「無我」(常住)におちついた。

順序から行けばこのようになるものと思われますね。

これは、実は私のプロセスと同じですから、私も釈迦をテキストとした関係で、
意図せずにこのプロセスを辿りました。

ですから、「非」あるいは「滅」と「無」は別物ですから、
混同して使い回す事の無いようにして下さい。

例えばニルヴァーナとは異なりますが、滅想、非想、無想の順ですね。

無は表現した段階で「無い状態がある」と表現している言葉ですから、
釈迦の世界では最高より下の次元を表す言葉として使われていると思います。

つまり、最高の境地は状態を表す言葉で表す事は出来ない、
同時に至るまでのプロセスも表すような間接的表現として「非」あるいは「滅」と言う言葉で表されるのが適切です。

波梨経
>「スナカッタよ、無想有情の創造説がある。
> 彼らは、無想定を修めて、無想に陥っている。
> 無に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」
>
> 「徳が尽きた者は、無想天から落ちて行き、
> 天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
> 彼らは、苦しみを覚え、出家して無を思い出す。」


間違った解釈をさも本当ですみたいにやられている人は、
多くの人たちからニルヴァーナへのアプローチを閉ざしてしまう行為に繋がります。

話は変わりますが、私も久々に風邪をひいたようです。

土曜日、頭痛、喉痛し、日曜日 症状同じく 
月曜日 頭痛軽減し午前中で頭痛終了、午後カラオケしてたら何と声が出ない。
火曜日完璧声出ない、鼻が詰まる、痰が出る。

私は子供の頃から、病気の時も普通に動く習慣があるのです。

たまに風邪も良いですね、メンタルのメンテに活用できる、
体は病気になっても心は病気にはならないってね。

表面に苦痛を表す事無く人にそれを悟られることなくです。

しかし、声が出ないのは仕方ないですね。

風邪は楽しい。

習慣とは恐ろしいもの、染みついている。

344 ラピ。 :2014/02/11(火) 22:13:28
みなさま、こんばんは!

TK師、
よくなりますように。

声は出るようになりましたか?

はい、そうですよね。
やはり、至る前の習慣って至っても残っていますよね。


私も今の自分の状態をうまく言葉では表せず、
言葉になりません。
言葉に表そうとするならやはり「否定形」を使えば
なんとなく表せると思います。

「私がありません」
と言う「私」も消滅している、という感じです。


>確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
>最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。

はい。
言葉に表そうと思っても表せません。
何の言葉でも表せない。

いったい、なんなんだ、これは?

という状態です。


師匠が紹介されていたWikipediaにこう書かれていますね。

>「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではないと観察し、
>これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

この文、適切に表せていませんね。
「あらゆるものが我ではない」と観察できるということは
あらゆるものが存在していますから
「あらゆるものが我ではない」と観察する時点で
違いますね。

あと、智慧によって理解することはできません。
そもそも理解することではないからです。

この文はもっともらしく書かれていますが
これらを鵜呑みにしてしまうとちょっと違う方向に行ってしまいそうですね。



>例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
>この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

はい。「非在」ですね。

師匠、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

345 TK :2014/04/26(土) 09:07:47 ID:drNPBZVQ0
私はラピ。さんに出会ってしばらくは精神世界の人的だったと思う。

しかし、その前は精神世界の人的ではなかったし今もまたそのようになりつつある。

メンタルを出来上がらせたおかげで、
人と比べて劣等感を感じなければならないレベルの能力ではなくなった。

大まかに言えば「瞬間」というものを確実にものに出来たと言う点だ。

瞬間的な対応、瞬間的な反応、瞬間的な察し、あるがままの情報。

メンタルを改造した、そこから私の人生はまた新たなスタートを切っている。

もちろん精神世界などという、そのような辛気臭そうな気持ち悪そうなものは、
はいさようならのカラッとした人生だ。

釈迦もイエスもそのようなものはもう一切私には用が無い。

そのようなものを必要とした私にとっては幼児期に当たるような時代も過去にはあった。

精神世界など、
そんなつまらないものにいつまでもしがみついているちんけでバカな者達。

悟りに至るための実践は、カルマの先取りをする仕組みには出来ているが、
それでも悟ったからと言っても果たさなければならないカルマは残る。

阿羅漢となったアングリマーラやモッガラーナもカルマを背負っていたし、
私の想起できた前世と今の環境を照らしてみてもそれは分かる。


目連 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3

>舎利弗は「世尊第一の神通の弟子であるのに、
>なぜ神通を以って避けられずや」と問うと、
>「我が宿業極めて重く、我れ神の字に於いて尚憶ふと能わず、
>況(いわん)や通を発せんをや、我れ極めて疼痛を患う。
>来たって汝に辞して般涅槃を取る」といった。


悟って物事を処理できる能力は上がっても、
それがストレートに自らの境遇に反映してこない部分がある、
まるで環境の方が必死に変わるまいと頑張って抵抗しているようだ、
だからこそ人生は面白い。

まるでアングリマーラのようだ。

その部分は、メンタルのメンテ素材としてフィードバックし利用できるわけだが、
かと言って以前に味わった種類の苦悩がそこで発生することは無い。

そのような苦悩を発生する原理の生き方はしていないからだ。


央掘摩経より
>アングリマーラは、独り静かに精進をして、
> 梵行の究極の目的である、阿羅漢に到達した。
> 彼は、もはや、生まれ変わらないことを知った。
>
>ある日のこと、彼が、托鉢に回っていると、
> 昔の彼を知る人が、彼に石を投げ付けて来た。
> 彼の頭は血が流れて、彼の衣は裂けてしまった。
>
>それを見た、仏陀は、彼に、このように言った。
>
> 「アングリマーラよ、忍辱せよ、忍耐せよ。
> 以前、汝が為した罪が、今、返ったのである。
> 地獄で味わう苦悩を、現世で味わった過ぎない。」


さて、私は精神世界的な内容からは再び離脱する。

人生というものは自らの能力で切り開いていくと言うのが私の理論だ、
精神世界系の辛気臭い話はうざくて、そういう連中をかまうのも真っ平ごめんだ。

世の中の落ちこぼれの者たちはどうぞどうぞそのまま落ちこぼれていて下さい、
嫌になるまで、どうぞご自由に、
落ちこぼれる事の自由の権利はあなたたちに与えられた特権的自由だ。

そもそも精神世界のその「精神」と言う中核が無いこちらにしてみれば、
精神世界?何妄想こいているんだの世界です、
そのような与太話に私がお付き合いするつもりはありません。

落ちこぼれる事の自由を私はあなたたちに認める、
自由の女神がいてよかったですね。

精神世界、気持ち悪い。

一人の人物を輩出できたのは確かだが、
やがてそのうち私同様に変わっていくのかもしれない。

346 ラピ。 :2014/04/26(土) 11:56:55 ID:DaF3LKxc0
みなさまこんにちは!

TK師、書き込みありがとうございます。

おかげさまで私は至ることができ
大変穏やかに過ごしています。

本当にTK師のおかげです。

私は日常、表面上はいろいろな表現をしているように見えるかもしれませんが
何も起こっておりません。

だから苦悩しようがない。

いわゆる苦悩のシステムが消滅した、ということです。


これからのラピ。ですが はい、変わっていくでしょう。

変わるものがなく、変わっていくように見えるだけですが。

だから、これからラピ。が表現していく時に
それまでのラピ。を知っている方は違和感を感じるかもしれませんね。


思い出すのですが
私が初めて師にメールをしたとき
精神世界の人間である私への返事は大変そっけなかったです。(笑)

懐かしいです。

結局、自分が経験したから言うのですが
精神世界論にいては至れません。

精神世界の話なんて
まったく邪魔になるだけ。

頭でっかちでわかったふりをして生きていくのも自由ですが
それどまりになってしまう。

頭でっかちで満足してその気になっている人をたくさん見かけます。
(それで幸せだというのなら、それも自由ですが)

そうなるくらいなら精神世界論は必要ないと私もそう感じております。

あきらめなければ道は必ず開けます。

私がそうであったように。

347 TK :2014/04/27(日) 09:52:38 ID:drNPBZVQ0
大企業のような大組織になればなるほどに、
どこまで行っても上が居て下が居ての世界だ。

特定の人物からほとんど誤解のような理由から、
一方的に敵外視されそれをあかるさまな態度に現わされ、
それが業務の支障の一つになっているような事もある。

自分が誰しもに誇れるレベルの能力差を身に付けたところで、
それでも目に見える評価をしない上の立場の者の存在。

突然自分の前に業務遂行の障害となって立ちはだかる人物が出現したりもする。

アングリマーラやモッガラーナのように、悟っても、人から敵意の目を向けられる、
これが自らの宿したカルマというものだ。

確かにやられるだけの事を過去に自分もやったのだから、
その意味では甘んじてやりすごすべきものだ。

それでもスローペースではあるが環境は確実に変わっているし、
変わらざる得ない状況と言えるものだろう。

敵意を向けるものに敵意で返さない、
立ちはだかる障害と思われるものも甘んじてやりすごす、
時に孤立に追いやられたりもしたがその時は独り居を楽しむ。

それでも、悟っていれば堂々として居れるし、
人に誇れる能力差もありエネルギーにも満ちている。

私は悟っていなかったらこのような環境で、
カルマと苦悩の堂々巡りの泥沼のような日々を繰り返していたことだろう。

やはり、悟りは快適だ。

実は、これらは悟る前の実践段階で現れる種類の障害では無い、
これは悟った後に現れる種類の障害だ。

だからこそ、ここから先は身に付けた能力差で臨み解決していく必要がある。

まるでドラマの主人公のようだ。

楽しいものだ。

根底にあるものは「ゆとり」だ。

傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。

大いに結構、腕の見せ所というものだ。

だからこそ人生は面白いゲームだ。

348 ラピ。 :2014/04/27(日) 22:36:41 ID:KL1N1kb.0
私も至った後、とても快適に過ごしております。

悟る前は何かが私を邪魔しているようで
何をしてもそれを感じており
何をするのにもそれに打ち勝つ意志が必要だった。

言い方を変えれば、がんばることが必要だった。
「嫌だなぁ」と言う声を無視し続ける必要があった。
行動の前に「意志」が必要だった。

しかしそれが消滅したおかげで
邪魔するものがなくなりすごく楽です。

いわゆる「ありのまま」という状態です。

ただし、このありのまま
「私はありのままだ」という意味ではありません。

「私はありのままだ」と言うそれが消滅した状態です。


悟る前までは私は「私らしさ」というこだわりがあまりにも強かったため
あるパターンにはまっていました。

我(=エゴ)が強かったため(ほんと、ほんと強かったです)
なんでも自分の中で意志を通しすぎるところがありました。
(でも、そのおかげで実践をとことんできたのですが)

そしてそれによる出来事の影響下にばっちりおりました。

でもその頃はそれが当たり前だと思っていて、なにも見えておりませんでした。
はい、見えていませんでした。

しかし今は「見るものがなくて 見えてしまう」ので
今までのことがどういうことだったのかわかってしまうのです。

悟ってもそれまでのパターンが残っているので
悟る前のパターンで出来事が起こり
それによってそのパターンがどういうものなのかが見えてしまいます。

空っぽですからパターンがありのままに見えてしまうんですね。
からくりが見えてしまうのです。

カルマの名残があることはある意味、とてもありがたいことです。

名残がないならないで、それでもいいのですけどね。
どっちにしろ問題はありません。

こんなふうに過ごせるなんて 激流突入時には想像もできなかった。
(ちなみに正しく言えば想像する暇もなかったのですが)

なんだかおもしろいですね。

349 魔王 :2014/05/29(木) 08:24:57 ID:001mTVu60
>では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。



TKはなかなかの癖があるタイプとみた。

350 魔王 :2014/05/29(木) 08:26:27 ID:001mTVu60
>根底にあるものは「ゆとり」だ。
傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。
大いに結構、腕の見せ所というものだ。
だからこそ人生は面白いゲームだ。



神の遊戯的風貌のある人だなあ。

351 :2014/06/01(日) 15:51:45 ID:2OB2rbPY0
悟りは、言葉であらわせない。
「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。
では、われわれは悟れないかというとそうではない。
言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。
それです。

352 嵐山 :2014/06/01(日) 17:37:26 ID:njdwPOGQ0
いえいえ 悟りとは 梵我一如 である

353 ラピ。 :2014/06/01(日) 22:35:54 ID:o9R.myHw0
某さん

書き込みありがとうございます。

なるほどです。

>「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。

そうですね。そしてその真実といわれるものすらない状態がさとりです。

>言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。

のそのさらなるものがない状態がさとりです。

354 ラピ。 :2014/06/01(日) 22:37:27 ID:o9R.myHw0
嵐山さん

魔王さんのお友達ですか?

「梵我一如」って言葉、
私にとっては聞きなれない言葉です。

355 嵐山 :2014/06/02(月) 00:22:09 ID:njdwPOGQ0
ブラフマン とか アートマンとか 聞いた事ないですか?

356 ラピ。 :2014/06/02(月) 07:45:40 ID:srMrMveM0
嵐山さん

梵我一如、ブラフマン、アートマン
これらの言葉、検索してしまうレベルです。

「梵我一如」検索してもよくわからなかった、、、、。

もともと言葉にできないことですから
そういう言葉を知らなくても今に至れたのかな。

357 嵐山 :2014/06/02(月) 08:22:46 ID:njdwPOGQ0
ヒンドゥ的考え方で インドの三大天の一人 ブラフマー って神様がおります

この神様宇宙を想像した神様らしいのですが この神さまと同じものが

あらゆる物体に宿っている それがアートマンです

ブラフマー=アートマン これがヒンドゥの悟りらしいのですが

ちなみに ブラフマーは仏教の梵天様の事です

仏教でいう悟りは違いますのであしからず

358 嵐山 :2014/06/02(月) 08:33:31 ID:njdwPOGQ0
悟りについて で 書き込めばよかったですね
あちらに 移動します

359 ラピ。 :2014/06/02(月) 12:40:20 ID:TYoEs5Ls0
嵐山さん

>>357

わかりやすく教えていただきありがとうございます。

なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。

>>358

ありがとございます。
そちらでもよろしくです!
@(*・ω・*)ポッ

360 riri :2014/06/02(月) 19:55:53 ID:33MxHT3s0
何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

>梵我一如
私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>真実といわれるものすらない状態。言葉を発しない、言葉の元となる想念さえも
>ない沈黙のそのさらなるものがない状態。
とありましたが、これを読んで私のイメージに浮かんだのは死人でした・・
少なくとも、この現実社会で生きているリアルな人間に繋がるイメージは持てませんでした

思うのですが、私達一般人にとって、言葉で伝えるということはとても大切なことだと思います。
それがあるから人類は古代から現在まで発展することができたのではないでしょうか。
どう言葉にすればいいか分からないことや理解していない人に対してどうすれば分かりやすく
伝えることができるんだろうといったことは、一般人が一般社会の中で生きていくために避けては
通れないことだと思うんです。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

361 嵐山 :2014/06/02(月) 20:17:40 ID:njdwPOGQ0
仏教的に言うと「仏性があるか」 と書けばよいのでしょうか?

362 ラピ。 :2014/06/02(月) 21:52:13 ID:fhZcLxbQ0
>>360 riri さん

>何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

ようこそいらっしゃいました。
ちなみにごくごく一般人は、さとりなんて興味持ちませんよ。

現実の私の周りにさとりに興味を持つ人はほとんどいません。
普通に生活しています。

>>梵我一如
>私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
>私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>感じなのかもしれないなと・・

そう想像している時点で実は離れてしまっています。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
>ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

riri さんが「わかる」というとき
それは「想像できる」ということです。

梵我一如がわかりやすいとのことですが
それがわかった、というのはriri さんの理解の範囲内でのことです。

でももし、自分の想像以上の世界があるとき
それを想像できたり
わかったりすることができるでしょうか?

想像できる時点で想像内のものになりますので。
想像以上のことは想像できないはずです。

私がriri さんにさとりの定義を伝えてriri さんが納得したのなら
その納得したさとりはもうさとりではありません。

さとりは納得したりわかったりするものではないからです。

私がriri さんにどんなに伝えても
(今までもこの掲示板で何度も、そしてこの最近も伝えているんですが、、、。)
riri さんは勝手に自分で解釈してしまうでしょう。

「わからない」ことがさとりへの道です。
「わかった」といった時点でそうではなくなってしまう。

この答えもたぶん、riri さんは納得しないでしょうね。

riri さんは何を求めているのでしょうか?
悟ることを求めているのですか?
それとも知識として求めているか、興味本位?

riri さんが私の言葉から死人を想像したように
今のriri さんにはさとりの境地はあっていません。

まずは精一杯生きることをお勧めします。
死ぬことではなく生きることです。(これも例えの言葉ですよ)

さとる必要なんてないんです。

まずはしっかりと自分を生きた人が
そうせざる得ない状態になって初めて
さとりの道が開かれます。

わたしがそうであったように。

363 ラピ。 :2014/06/02(月) 21:56:30 ID:fhZcLxbQ0
>>361

嵐山さん

私は仏教はちょっとわかります。

TK師にいろいろ教えていただいたから。

「激流」って言葉知っていますか?
(私はTK師から聞くまで知らなかった、、、)
まさしく私はその言葉のとおり
激流を渡って彼岸にわたりました。

この「激流を渡って彼岸にわたる」という言葉
釈迦はうまく表現してるなぁなんて思います。

>「仏性があるか」

なんもないんです。
ほんとうになんも。

364 riri :2014/06/02(月) 22:01:41 ID:33MxHT3s0
ラピさん、ご回答ありがとうございました。

365 riri :2014/06/02(月) 22:50:58 ID:33MxHT3s0
質問させてください。

ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

366 ラピ。 :2014/06/03(火) 00:09:53 ID:ZDDtW07.0
ririさん

ご質問ありがとございます。
@(*・ω・*)ポッ

>ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
>増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

さとれば苦悩から解放されます。
とても楽に生きていけます。
そういう人が増える、ということですね。

>たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

まず、さとりは理解できないものです。
たださとってしまえばそれがどんな状態かわかります。

だからさとればいい。

ではどうしたらさとれるか。

ここです。

さとりの道は決して楽なものではありません。

釈迦の言う「激流」がさとる前に必要なのは私も経験しています。

激流とは言葉のとおり激流で
一瞬でも気を抜いたら流されてしまう。


>変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
>現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
>思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

誰でも簡単に普通にさとれる時がくるか?ということですかね。

それはないでしょうね。

さとりそのものが簡単ではないからです。

さとりはどんなことも極めて、さらにそれを超えることとも言えるかもしれません。
なんでも極めるためには努力が必要ですよね。

そしてその努力すらも越えることです。

さとりが何かによってもたらされることはありません。

「もたらされる」ということ自体が
さとりから離れてしまっているからです。

だから「自分」が実践するしかないです、どんな時も。

367 嵐山 :2014/06/03(火) 12:04:34 ID:njdwPOGQ0
ラピさん 彼岸などに渡れませんよ 激流など妄想です
仏がなければ仏教ではありません

368 ラピ。 :2014/06/03(火) 12:35:12 ID:4w9Dm3860
>>367 嵐山さん

彼岸も激流も例えの言葉であり、
もちろん彼岸なんてありません。

しかし激流は別の表現ができます。

私にとっては「葛藤」というものでした。

私が決めたこと実践するに当たって
その実践を「したくないな」と思うことがあったとき
その「したくない」思いも無視して実践する。

ここでかなり葛藤が生まれます。

「したくないよ〜」と言う自分に
「いや、やれ!」と命令して実践し続けるんです。

嫌がる自分を無視して実践し続けたら
なんと実践そのものが消えてしまいました。

嫌になるもの、そのものが消滅してしまったのでした。

なんじゃこりゃ?です。

>仏がなければ仏教ではありません

そうなんですね。
嵐山さんの言う仏ってなんですか?

369 嵐山 :2014/06/03(火) 19:15:04 ID:njdwPOGQ0
涅槃を彼岸と取り違えてないでしょうか?
ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
物質世界 六識では認識出来ない事もございます それが理解できるようになりましたら
仏様のお話をしましょう

370 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:16:27 ID:4w9Dm3860
>>273 あやふやさん

>低俗高尚さまざまに心に起こる願望を
>行動に移しあらわし続ける生き方というのは
>悟りに何か役立ちますか?

あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのあやふやさんの生き方は
スピリチュアル系から得たものですか?


>最近は自分が何を求めているのか全然わからないが
>ちょっと病気をしちゃったので病気に対処して動いてるだけのことが多い
>最近ようやく体を動かしやすくなってきたので今日は数時間歩けたのでとてもうれしい

少しずつ、よくなってきてよかったですね。


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